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ノスタルジア

/ノスタルジア

作者:稲荷 ?



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私が自分の生まれ故郷を訪れたのは気温が35度を超える猛暑日であった。
名物の桜や梅もとうに散っていて澄んだ青空に彩られながら深い緑が茂っている。
私がこの町を出てから10年余りが過ぎた。
当時は臆病なヨーギラスであった自分も今や体長が2mを超えるバンギラスへと進化していた。
しかし、幾ら私が変わったとしても私にはこの町になんら変化が無いように思えたのである。
それが愛しい故郷へ対する望郷の思いなのか。それとも、本当になんら発展も衰退も起こらなかっただけなのか。
結局は結論付けれないまま、このささやかなる違和感は蝉の啼く声と忌まわしいほどに照りつける太陽光によって掻き消されてしまった。
「暑いな...」
酷暑に顔を顰めつつ、私は古い記憶をたよりに自分の生まれ育った家へと足を進める。
家には誰もいない。
既に両親はこの澄み渡る様な天に召されているし、家の管理を任せていた知人も北陸の果てへと帰省しているからだ。
見送りも歓迎も無い虚しい帰郷であったが、世間知らずでろくな趣味も無い私はこの夏の休暇を有意義に過ごせる自信があるはずなかった。
結果として最も無難な帰郷という手段を講じた辺りも、自分が如何につまらないポケモンなのかを証明しているものである。
蝉の騒がしい公園を通り抜け、大きな用水路のある小さな路地を歩く。
ここも何も変わっていない。
確かに道路にあった凹みや錆び付いた一時停止の看板は綺麗なものと取り代わっているが、消えない落書きのされた壁や、企業誘致に失敗してぽっかりとあいた空き地などは一切の変化を遂げていない。
それが私にとって喜ぶべきなのか否か。
暫くそんな路地を歩いていると漸く赤い屋根の実家が見えて来た。
普段ならば知人が郵便配達物の処理や、家の掃除を行ってくれているのだが、先週末からいないために郵便ポストにはそれなりの物が溜まっている。
中身は暑中見舞いが数枚と大量の広告。
自分は遠く離れた施設で生活しているが、住所を変えていない為にこうして郵便物が送られて来る。
それをこの家の管理を引き受けた知人が選別して施設に送ってくれるというわけだ。
酷く手間のかかることであると他の人は口を揃えて言うが、自分は住所を変えるつもりは毛頭ない。
「これは....」
不意に、一枚の葉書が目に留まった。
華やかに彩られ、カラーの写真が張られた葉書。
『私たち結婚しました』と簡潔に述べられた見出しと手書きらしい文章も綴られている。
私は思わず身震いした。
なぜならば写真に写る彼女、すなわちウインディのレクサは自分が数十年も恋い焦がれた初恋の人物だからである。
その瞬間、私の周囲だけ蝉すらも啼かない静寂が訪れた気がした。
全くの無音。
私は心拍が早まるのを感じながら、相手と思われるゲッコウガの名前を確認する。
葉書にはご丁寧に名字まで書かれていたが基本不要なため読み飛ばす。
ダニエルと実に平凡な名前が刻まれていた。
幸せそうな笑みを浮かべこちらへ笑いかける2人の写真。
私はそっと葉書を自分の持っている鞄へしまい込み、その足でレクサの家へと向かった。
私が幼少期から恋い焦がれたという事は彼女は幼なじみである。
家も近所で引っ越しの類いの知らせは無いので未だそこに住んでいることは確かだ。
用水路に掛けられた頑丈な橋を渡り、古くさい石垣のある道を進む。
私はこの間、様々な感情が溢れては消えるを繰り返し、酷く動揺していた。
そして彼女の家の玄関前まで訪れた時に私は漸く我に帰ったのだ。
いや、それは我に帰ったのではない。
私は臆病だった。
彼女に対して結婚の祝辞を述べる様な勇気は無かったのである。
私は彼女の家をなるべく見ないように再び石垣の小道を進む。
苔に侵食され、木々がざわめく小道では蝉の声が周囲を支配していた。
特に意識もしていなかったのに、私は自然と足早となり、その懐古的情緒を楽しむ余地も無い。
「あの、レクサさんに何か御用でしたか?」
用水路前、頑丈な橋の上で私は一匹のゲッコウガに声を掛けられた。
間違いない。
レクサの結婚相手だ。
「あ、ああ、いえ....」
私は突然声を掛けられた事に加えて、彼女の結婚相手であるという事実に狼狽していたのだ。
思わず余計な事を口走る。
「えっと、レクサさんがご結婚されたようで」
私の冷静な思考とは別に右腕が鞄から葉書を取り出す。
するとゲッコウガのダニエルは合点がいったように深く頷くと、私へあの写真の様な笑顔を見せた。
「ああ!お話は伺っております。バンギラスのウォードさんですよね」
恐らくは彼女から聞いていたのだろう。
彼は私の名前を知っていた。
「ええ。ご存知でしたか」
「はい!レクサさんの友人と聞いております!」
他人行儀な振る舞いに私は内心微かに怒りを感じていた。
それは明らかなる羨望であり、彼に対する嫉視に近い。
「ええ、幼い頃からよく遊んでいましてね」
表面上は笑顔を作りながら私は彼を見据えた。
少なくとも暴力を振るう様なポケモンではないことが見受けられた。
平均かそれ以下くらいの体格で、全体的に痩せ目、長い特有のベロの血色も悪いとは思えない。
「それで....ダニエルさんはどのようなお仕事を?」
「自分は教員でしてね。高校の教師ですよ」
彼は笑顔で答える。
「そうですか..立派なご職業ですね」
「ウォードさんはなにをされてるのです?」
彼は少し不思議そうに尋ねた。
唐突に職業を聞いた私を少し不自然に思ったのかもしれない。
「なんと言えばいいのでしょうか...職業軍人みたいなものですかね」
するとダニエルは少し驚いた顔でこう言った。
「軍人さんですか!凄い立派なご職業ですね」
立派というほどのものでもないと思った。
第一、この国は過去100年に渡り戦争をしたことが無い。
もっと過去に遡ればあるとしても、それは侵略という前世代的なもので、その時の戦術は今では全く通用しないものとなっているのだ。
「いえ、自分は全くの無能ですよ。教員のほうが意義があるでしょう」
謙遜しつつ私は言う。
用水路の水の音が静寂が訪れるのを防ぎ続けていたお陰で私はなんとか喋ることが出来た。
私はこの男へと嫉妬を感じたが、醜い争いをここで起こすことなど、元来臆病な私に出来るわけなかった。
暫く彼とは他愛も無い世間話に興じ、1ヶ月余り後の結婚式に是非出席して欲しいと言われた。
果たしてレクサが私についてどれほどの事を語ったのかはしらないが、ダニエルは私が彼女に恋していたということを全く知らないようである。
「それでは...私はそろそろ」
私が会釈すると彼も笑顔でそれに応じる。
自分より遥かに出来た人なのだと私は知った。
再び用水路の道を進み家へと帰る。
自宅の鍵を開けると、家の中は幾分涼しいものだった。
「ただいま」
誰もいない部屋に私はそう言うと居間へと進み荷物を置く。
冷房は3年ほどまえに壊れてから替えていない。
テレビだけは辛うじて地デジ対応になっているが他の家電は、まるで時間が止まったままそこに鎮座し続けていた。
コンセントの抜けた冷蔵庫には何も入っていない。
水道代と電気代、ガス代は支払われていたからなんとか使える。
「とにかく何か買って来なきゃな」
小さい頃は非常食だとかおかしだとかが置かれていた大きな棚も、今は何も無く、死んだ両親の写真が飾られている。
真夏の中、押し入れにしまわれ続けていた扇風機を取り出し、電源を入れた。
からからと今にも壊れそうなそれは蒸された暑い空気を掻き回し、この空き家に数ヶ月ぶりの風を吹き込ませた。
雨戸を上げて、窓を開ける。
「.....」
窓からは先ほどの用水路の道と頑丈な橋。
そして彼女の家らしい屋根も見えた。
この町は本当に何も変わってなどいない。
住む人は大きく変わってしまったけれど、町の風景は一切の変化が無い。
進歩も無い。退化も無い。
まるで、これは幼いときの自分のようだ。
結局、自分は変化を恐れて彼女に思いを打ち明ける事無く家を出てたのであった。
「....後悔先に立たずか」
先人の諺に私は少し感心するとともにより一層激しくなる虚しさから逃れるため、私は財布を片手に家を出たのであった、






用水路の道をくだり、蝉が啼く公園を再び通り抜けると小さなコンビニに辿り着く。
24時間営業を告げるネオンは幼少期の時から見慣れたものであった。
自動ドアをくぐり抜けると途端に冷房の冷たい空気が私の前身を包み込む。
外が酷暑であったせいか、このコンビニの中はより一層寒い気がした。
「いらっしゃあせー!」
威勢の良い人間の若者が叫ぶ。
実際は心も入っていない形式的な挨拶であるのだが、そんなことはこの乾燥した都会ではよくあることなので、私は何も思わない。
「最近のコンビニは生鮮食品もあるんだな」
入り口付近に陳列された野菜を見て、私は少し夕飯のメニューについて思案した。
『地産地消!地域を応援キャンペーン』
そう掲げられた幟とともにこの市で取れる農産物が沢山並べられている。
鮮やかな色合いの夏野菜は先ほど入荷し立てなのかというほど瑞々しいものだった。
今晩は夏野菜カレーにしようか。
私はそのための材料を揃えてレジへと向かう。
すると、丁度そのタイミングで自動ドアから一匹のフライゴンが店へと入って来た。
フライゴンは私と目が合うなり、こちらを凝視する。
「ウォードか?」
低く、地鳴りの唸る様な特徴のある声。
間違いない。彼は私の級友であるリウーだ。
私は品物をレジに置きながら頷いた。
「おー!随分と立派になったな....」
彼は驚嘆の声を上げつつ、私の元へ歩み寄る。
「お前もフライゴンに進化したのか」
「ああ、この通りだぜ」
リウーは尻尾をばたつかせ、自分の身体を自慢するようにぐるっと一回転した。
無論、バンギラスとフライゴンでは体格差は歴然なのだが、そんな野暮なことは誰も突っ込まない。
私は会計を終わらせると品物を持って出口へと向かう。
「夕飯の支度しなきゃいけないから...」
一応、私は弁明をしてから彼に背を向けた。
何故、ここまで私が旧くからの友人を避けるのか。
私はきっと何かに怯えていたに違いない。
「ん?そうか。家庭的だな」
リウーは楽しげな笑みを浮かべながら私を見送る。
私の複雑な心境など、全く知らないのであろう。
自動ドアの扉が開く。
熱風が濁流のように流れ込もうと、私の身体の表面温度を一気に上げた。
「あ、そうだ。お前知ってるか?」
私は灼熱のアスファルトの駐車場に立ち止まり振り返る。
澄み渡る晴天は相変わらずだが、太陽はやや西へ傾いていた。
既に夕刻なのであろう。
「レクサが結婚するらしいぞ。ほら、覚えてるだろう?ガーディで、一緒の学校の.....」
「ああ、さっき葉書が来たばかりだよ」
自動ドアが閉まる。
リウーは何かを言いたげであったがそれも途絶え、周囲は蝉の鳴き喚く声と国道沿い特有の車の騒音によって満たされる。
私は何処か寂しい思いを感じながらも灼熱のアスファルトに視線を落としながら、例に寄って用水路の道を進む。
私はいつしか対人恐怖症にでも陥っていたのだろうか?
この故郷は私の心が最も安らぐべき場所であったはずなのに、今の私は旧友に遭遇するのを何処か恐れている気がする。
私は一応、軍属になれる程度の身であるから、他人に負い目等感じていない。
如何に自分が無知蒙昧であろうと、そんなことで劣等感を覚える様な自分ではないはずだ。
「.....」
斜陽が眩しい。
家へと辿り着き、忌々しい暑さから逃れるべく扇風機の前に座った。
何処かの家の風鈴が鳴り響き、窓からは涼しげな風が入る。
横目で家の掛け時計を見ると時刻は6時頃を指し示していた。
古い掛け時計ではあるが、これでも一分の狂いも無い正確な時計だ。
「.....暑い」
私は最早、特に思考する事さえ放棄して、夕暮れの町を見つめる事にした。
この町を訪れてから感じる変化の無さは夕暮れになったとしても同じで、私は暫く目を細めて黄昏れることにする。
無駄な時間が流れ、自身の腹も空腹を訴え始めた。
「飯でも作らなきゃな」
誰もいない部屋でそう呟くと、私は買って来た材料を調理し始めた。
幼少期の頃。自治会恒例のカレー作り大会によく参加したものだ。
あの時の私はまだ、力も無い小さなヨーギラスでしかなかった。
思い起こされるのは古い色褪せた記憶。
夏野菜を包丁で切る度に、私は急激に懐かしい感覚に囚われ、余りにも酷い寂寥に襲われる。
どうして、あの時の私はもっと自分を彼女にアピールしなかったのか。
どうして、あの時の私は彼女に何も告げず、そして逃げるように町を去ったのか。
戻りたかった。
軍属の訓練も過酷ではあったが、これほどまで精神的に悲しく、息苦しい思いは初めてであった。
一度、こんなにも感傷的気分になってしまえば、私の精神は脆くも過去の追憶に溺れて行く。
今は亡き家族との思い出や友人達と遊んだ記憶。
どれもが、私にとって大切なものであるはずなのに。
私はそれら一切を思い出す事を拒絶し続けていたのだ。
ぐつぐつとカレー特有の香りが漂い、私は何故か溢れる涙を拭った。
カレー自体はそれほど難しくもない料理である。
しかし、私にとって、このカレーを作っていた時間は酷く長いように思えた。
食器は幸いにしてあるので、それに適当にカレーを装う。
ご飯はコンビニで買って来てあるのでこちらも問題は無い。
いつしか太陽もその身体を半分ほど彼方の山へと沈めて、空は茜色に染まる。
「おーい!ウォード!居るか?」
リウーの声がした。
どうやら家まで訪れて来たようで、網戸越しにその姿を伺うと、ご丁寧に自分の分の夕飯まで持参しているのだ。
「おう、さっきぶりだな」
網戸越しの私に気づいたようで彼はまた手を振る。
「何しにきた?」
「いやあ、久々の再開だからな。一緒に飯でもどうよ」
彼の目にある赤いカプセルのようなものは同じ赤を打ち消してしまうから、この夕焼けは意外と致命的だ。
今の彼は全てのものを影の明暗だけで判断しているのだろう。
「...ああ、入っていいよ」
そんな彼を追い返すわけにもいかない。
私は玄関の鍵を開けて家へと入れた。
「お邪魔しますー!」
家の中までは夕焼けに侵食されてはいないため、彼の視界は幾分マシなはずだ。
「お、コンビニの時買ってた材料からカレーじゃないかと思ってたけど、予想的中だね!」
私には彼の気さくな振る舞いがどうも、私のこの陰鬱とした心を見透かしているようで苦手であった。
それにしても彼が持参していたのは人間によって製造されているポケモンフーズである。
比較的安価で大量生産され、栄養バランスも悪くは無い。
しかしながら味という面ではどうも本来の食事には劣ってしまう。
「カレー食べるか?」
数年ぶりの再開なのだ。
呼んでいないとはいえ、せっかく家まで来てもらって一人でカレーを黙々と食べるのも居心地が悪い。
彼はその言葉を待ってましたと言わんばかりに喜び、私とともにカレーを食べた。お互いの近況や、かつての友人達の消息、町の変化等を語る。
食事中に私語を発する事は軍部では固く禁じられていたために、私は食事中に会話することに奇妙な違和感を覚えていた。
「いやあ、不景気でね。俺の会社もかなりやばいんだよ」
いつの間にか私が買って来て呑もうと思っていたはずの缶ビールは空となり、4本ほど周囲に散乱している。
私はただの一度さえも口をつけていない。全てリウーが飲干してしまったのだ。
「いいよなぁ!軍属って!公務員でしょ!公務員!」
急に声を荒げてリウーが手を叩く。
「おい、酔ってるのか?しっかりしろよ」
「酔ってなんか無いよ。成人式の頃なんてこの二乗は呑んだからねぇ」
どうも彼の話し振りがおかしくなってきた。
「それにしても本当に、レクサちゃんは結婚すんだろ?」
「そうみたいだな」
私は先刻の葉書とダニエルというゲッコウガのことを頭に思い浮かべた。
実に腹立たしい事に思い浮かべられるダニエルの表情はこちらを嘲る様な笑みである。
私は密かな怒りとともに既に空になった缶ビールを流し台へと並べた。
「うああー!自分も結婚したいなぁ...相手いないかなぁ」
リウーは自分の頭を押さえ、悶えつつ家の床を転がる。
「まあまあ、良い雌だって星の数ほどいるんだからさ」
私の柄に会わない励ましに彼は横目で静かに答えた。
「星の数あったとこで、届かなきゃ意味ないの!」
「はぁ...」
溜め息をつきながら時計を見る。
時刻は既に10時とその半分ほどである。
日もすっかり暮れ、周囲は闇に呑まれていた。
外からは虫の音ばかりが聞こえ、すっかり気温は下がっているようだ。
「ああー...そろそろ帰るか」
私の目線を追ったのか、彼も時計をまじまじと見つめる。
「そうかい?なら送ってくよ」
「いや、いいよ。俺んち別に遠くもねえし」
酒に酔っているせいか、リウーは実に危なっかしい二足歩行を披露する。
フライゴンなんだから飛べばすぐに着くのだが、酒に酔った彼が飛んだところで電線に引っかかる事は目に見えている。
かといって歩いて行っても用水路に転落してしまいそうだ。
「いやいや、お前酔ってるんだから」
私は彼を担ぐと家を出る。
夏だというのにこの日の夜は妙に冷えていた。
虫の音と用水路から聞こえる水の音が暗い静寂を乱し続ける。
体格差や職業柄、私は人を運ぶ事に慣れている。
彼の家は用水路の道を暫く進み、大きな桜の木のあるアパートの隣だ。
小さい頃よく遊んでいたから私は良く知っている。
「....あれ」
道のり自体はそうでもない。
だが、私は目印にしていたアパートが消えてなくなっている事に少し驚いた。
立派な桜の木があったはずの場所は根元から抉られた後と、解体された資材が山積みにされている。
「...」
町に来て初めて、私が変化らしい変化であると実感出来た。
「アパート無くなったんだな」
「あにゃ?ああ、桜の奴ね」
背負われた彼は危うく眠りかけていたのだろう。
焦点の定まらなそうな蕩けた目でアパートの敷地を見つめる。
「一家心中さ。悲しい話だよ」
「そうなのか」
私は目を細めながらかつてのアパートの前を通り過ぎる。
一家心中。
胸の痛む残忍な話であるが、私の思考の中にはレクサとあのダニエルの表情が浮かぶ。
まさか、彼に限って心中などあり得まい。
私は羨望のあまり相手へ破滅的結末が訪れるようにと願う自分に恐怖した。
足早にアパート前を通り過ぎ、彼の家へと辿り着く。
彼も一人暮らし故に扉の鍵は掛かったままだ。
「おい、鍵どこだ?」
私は背中のリウーを揺すりながら尋ねる。
しかし、帰って来る返答は静かな呼吸音ばかり。
「.....」
私は仕方なく彼を門柱に寄りかからせて荷物を物色することにした。
彼はあまり酒に強い体質ではないのだろう。
寝息を立て、安眠に入る彼を私は怨めしく思った。
荷物の中には様々なものが入っていたが私はそれらをくすね取るほど堕落はしていない。
目的の鍵だけをとって扉を開ける。
「...おい、家に入るぞ」
返答は相変わらずない。
これがもし幼い日のレクサとの出来事ならば私は正気を保てていたかすら怪しい。
リウーはこっくりと頷いて、再び私に担がれる。
家の中は比較的綺麗に片付けられていて、リウーの几帳面な性格が現れていた。
いや、几帳面というよりは極度にこだわりが強いのだろう。
彼の家の構造までは覚えていないのでとりあえずそれらしい部屋のソファーに彼を寝転ばせる。
「...さ、帰るか」
返答は無かったが、リウーは感謝するように手を左右に振っていた。
私は一切の荷物を彼に返し、再び夜の闇へと帰路に着く。








水の流れる音だけが聞こえる闇の中。
何故、私はここにいるのだろう。
堅牢な橋の上。
石垣の小道の入り口に私は立っていた。
ここに立つだけで私の動悸は凄まじいものとなる。
幼少期の頃からここの道は遊びに通い詰めているから良く知っている。
用水路と繁茂する植物らによって、この小道は夜になると急激に温度が下がるのだ。
無垢な子供はそれを幽霊の仕業だと言う。
だからこの小道は夜になると誰も訪れない。
「.....」
闇に目を慣らし、私は一歩、小道へ足を踏み入れる。
他の気配は全く感じられず、冷えた空気が微かに動いていた。
私はまた一歩、一歩と音を立てないように慎重に小道を行く。
今更後戻りなんて出来ない。
ここで誰かに見つかって詰問されれば、私は言い逃れできないのだから。
やがて見えて来る彼女の家。
深夜という時間帯にも関わらずいやに明瞭に家が見える。
当然の如く灯りは着いていないし、家には鍵もかけられていた。
「.....」
息を殺す。
鍵を開ける事等、軍属の私には実に容易い事であった。
彼女の部屋が何処にあるのかはおおよそ見当が付いている。
簡単な鍵を開けて家へと忍び込む。
最早、犯罪者なのだと私は思った。
だが、ここで彼女を手に入れなければ、私は再び後悔するだろう。
彼女はもう私の手の届かない所にいるのだ。
丁度その時、私は先ほどの夕飯の席でリウーの言った事を思い出した。
星に手が届かなければ意味が無い。
まさに彼の言う事は正論だったのだ。
ならば、私は強引にでも手に入れてやる。
彼女を幸せにするのはこの自分だ。
彼女の笑顔を見れるのはこの自分だ。
彼女と子供を育むのはこの自分だ。
私は世間体や身分すらも忘れ、廊下を進む。
予想は正しかった。
彼女は私が幼い時から一階の一番奥の部屋を好んで使っていた。
東向きに面した部屋なので朝日が美しいそうだ。
ドアノブに手を掛ける。
ここで私は息をする事を止めた。
体内からは早まった動悸がばくばくと音を上げ、それすらも煩いと感じられる。
「........」
扉をゆっくりと開ける。
私はてっきり、彼女は几帳面なものと思っていた。
だから、私の視界に飛び込んできたそれを見た時。私は思わず戦慄せざる得なかったのである。
私は見たのだ。
彼女のベットの上に寝ているそれらを。
なにも予想していなかったわけでもない。
実に忌々しい不快な匂い。
獣臭いというべきなのか、甘いというべきなのか。
私はその乱れた部屋に蒼然とし、思わず口を押さえた。
もう、何も言うまい。
私は再び黒洞々たる闇へと消える事にした。
それが私にとって最良の判断だった。
虫すらももはや寝てしまったのだろうか。
静かな石垣の小道だった。
心拍も平常通りにまで戻っていた。
用水路の水の音だけは変わらずに聞こえ、私は力が抜けるように近くの縁石に座り込む。
愕然としながらも、私はゆっくりと空を眺める事にした。
空には何も見えない。
星すらも、私の目には見えなかった。
「...手が届かないのか」
空は闇一色に染まっている。
用水路の齎す水の音の中、私はその視界を涙で滲ませながら朝を待つ事にした。








「ウォード中尉!お迎えに上がりました!」
家の前に一台のセダンが止まる。
いかにもそれらしい軍服を纏った人間が現れ、彼は高々に私の名を叫んだ。
「ご苦労。早い所この町を出るぞ」
私は家に鍵をかけ、荷物を車の後部座席に放り込む。
新車なのだろう。革のシーツはまだどこにも汚れは付いていない。
2mもあるバンギラスが乗るには少々窮屈であったが、文句など言ってはいられなかった。
「いやあ、一週間ほど滞在されると聞いていたのですがね」
軍服姿の人間は運転席に乗り込みながらそう言った。
「いや、少々予定が早まってな」
正直な所、私はもう一刻も早くこの町から逃れたかった。
リウーには悪いと思うが私は帰る事にする。
「そうですか。それでは出発しますね」
車はエンジン音を響かせ、ゆっくりと発車した。
今日は昨日に比べて幾らか暑いが、車内の冷房はそんなことを一切感じなどはさせない。
用水路の道を下って、車はやがて国道へと出る。
蝉の啼く音は相変わらずであり、この灼熱の太陽もまた当たり前だった。
しかし、もう私にはこの町が同じ場所だとは到底思えない。
もう、私の居場所など失われていたし、この町に居れば居るほど忌々しいあの夜の記憶が蘇ってしまいそうだからだ。
深い溜め息をついて、私は言い様の無い寂寥と虚無感に苛まれる。
「暑いですね」
運転手は冷房の角度を調整しながら車を走らせる。
私は鞄の中から例の葉書を取り出して、少しそれを見つめた。
私が十数年間抱き続けた思いは何処へやら。
彼女の姿はただの堕落した生き物にしか見えない。
私がこの町を訪れる事も未来永劫無いのであろう。
車は海辺の道を走っていた。
私は窓を開けると、その潮の香りと海のさざ波の音を聞く。
「ウォード中尉、窓は閉めて頂かないと」
冷房のスイッチを弄りながら人間は言う。
「...ああ、そうだな」
私は葉書を外へと投げ、窓を閉める。
葉書は空高く潮風にあおられ、やがて見えなくなった。
ただ澄み渡る青空だけが。その行方を知っている。




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Last-modified: 2014-08-05 (火) 21:31:03
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