序幕
どのくらい眠っていたのだろう。
かすかに誰かの声が聞こえたような気がして、随分と重たくなった瞼をゆっくりと開く。
意識は朦朧としているが、目の前に広がる光景は容易に理解できた。
−−変わらぬ闇。
深淵なる闇がただ静かに俺を包み込むのみである。
一瞬、俺はまだ眠っているのか、と思いかけるが、瞼の裏の闇とはやはりどこか違うようである。
何と言えばいいのか……ここの闇は流れているようだった。
闇が流れる、と言っても闇は流れるものではないし、語弊があるのも重々承知の上だが。
ただ、体中に得体の知れない浮遊感が溢れており、俺はさながら風に吹きさられる一枚の木の葉のように何処かへと運ばれていた。
尤も、視界の上には淀みすら感じられない暗黒が広がるだけなのだから、何とも不可解な気分である。
と、ふと足下へ目をやると、その先に小さくはあるが星状に輝く一点の光が見えた。
すると流れはその向きを変え、まっすぐに俺をそこへと運んでゆく。どうやら俺の行き先が決まったらしい。
光は近付くにつれ加速度的に、まるで闇の領域を侵食するかのように広がっていった。
気が付けば体はいつかの重量感を取り戻しており、運ばれるというよりは先の見えぬ光へと落ちていくような状態になる。
やがて俺の体は、目も眩むような光へと完全に吸い込まれた。
……また誰かが呼んでいる。
きっと、ここで目を開けることを真の意味での目覚めと呼ぶのだろう。
何ともなしにそう思った。
そして同時に、いつの日かの記憶が次々に脳裏へと甦る。
−−ああ、そういえば、一度死んだこともあったような気がする。
トコヤミ
序章 “時を越えた男” 前編
「ハァ、ハァ、……駄目っ……もう、限界……っ!」
吐き出すように呟いた所で、私はついに両肘をつきその場に倒れ伏した。
周囲の目線など、もはやどうでも良い。今の私にとって羞恥心なんてものほど無意味なものは無かった。
−−何で私がこんな目に……!
そうやって己の運命を呪うのも、これで本日三度目となる。
しかし、呪ったところで運命はそう易々と好転するものでもなく。
それどころか、運命は私にさらなる試練を与えるのだった。
ブツンッ……ゴト……ゴトゴトゴト……
何かが千切れる音に、何かが転がり去ってゆく音。
何だろう、とふらつきながらも立ち上がってみると、妙に肩が軽い。
まさか……と恐る恐る後ろを振り返ってみると、私の肩にかけていたロープの3メートルほど先から向こうが綺麗に消失していた。
そして、登ってきた坂を今、軽快に下っているものは……と思考がそこまで行き着くや否や、私の両脚は反射的にその活動を再開していた。
「誰か止めてっ、その荷車止めてーー!」
さて、そろそろ状況を説明しておこう。
時刻はまもなく正午、晴れ渡る青空の下、旅人や商人が往来を行き交う。
ここは、世界最大の貿易港を誇る“商業都市ラヴェスタ”の外れ、町を出てすぐさしかかる48番街道の坂道である。
そして、周囲の視線には目もくれず、坂を走り去る巨大な荷車を追いかけている彼女はマーシェルという名の年若いキュウコンである。
では何故、今彼女はこのような事態に陥っているのか、ことの始まりはおよそ1ヶ月前に遡る……
厳しい冬を越え、ようやく訪れた暖かい春の日射しに人々が喜ぶ、そんな日の朝。
学生寮の自室でいつものように朝食のトーストを焼きながら、しかし彼女は迷っていた。
一昨年の春、名門ラヴェスタ大学に海を渡って留学してきた彼女にとって、5日前の新聞に挟まれていた一枚の折り込みちらしの内容は、彼女に抑え切れない欲求を駆り立てたのだ。
そもそも、彼女は別にラヴェスタへ自ら進んで留学したわけではなかった。
大資産家で社交家でもある両親の一人娘として、彼らの社会的ステータスを上げるために半ば強制的に名門校へと進学させられたのである。
もっとも、それ自体は小学校の頃からずっと続いていたことなので、最初は彼女も仕方がないと割り切っていたのだが、海外への留学となると彼女の心は深く沈まずにはいられなかった。
故郷を離れること、それはつまり彼女にとって大切な“あの場所”へ通えなくなることを表していたのだ。
結局、両親には逆らえずラヴェスタへの留学は決定したのだが、あれから今年で2年、“あの場所”に行けない寂しさを押し隠そうとひたすらやりたくもない勉学に励んでいたところに、5日前のあのちらしである。
普段、新聞といえば社会面を斜め読みしてあとは捨ててしまう彼女にとって、偶然ではあろうがいつもの新聞ギルドのムクホークがその日に限って配達に大きく遅れ、登校しようとする彼女とはち合ったのはまさに幸運としか言い様がないだろう。
随分と慌てていた彼は、マーシェルに新聞を渡し飛び立とうとする際カバンのふたを閉め忘れ、結果バサバサバサと盛大な音と共に大量の新聞を落とした。
さらに彼はそれにも気付かず、大急ぎで次の配達地へと飛び去ってしまったのだ。
そして、まぁ気付けば自分で戻ってくるだろうと目の前の惨状に放置を決め込んだマーシェルではあったが、ふと目をやった先にそれはじっと身を構えていたのである。
気付けば、彼女は無意識の内にそのはみ出た一枚のちらしを拾い上げていた。
『古代文明 謎の遺産 発掘される!
同時に多数発見された 化石との関連性は!?
調査発表会 5日後午前10:00より ラヴェスタ総合文化ホールにて!』
あれはそう、ずっと昔、私がまだ幼いロコンだった頃の話。
幼稚園を卒業した私は、すでに小学校に入るのが楽しみで仕方がなかった。
いや、正確には入学式が待ち遠しくていても立ってもいられなかったのだ。
いつも“おしごと”で忙しいお父さんやお母さんが、入学式には来てくれるって。
私のお世話をしてくれるキュウコンのリーティルおばあちゃんにそう言い聞かされたから。
幼心にも、いい所を見せようと何日も前から張り切っていた。
しかし当日、私はお父さんにもお母さんにも会うことはなかった。
どこかで私のことを見てくれていると、そう信じたかった。
急に“おしごと”が増えたんだって。
帰ってから、そうおばあちゃんに教えてもらった。
“おしごと”ってそんなに大事なものなのかな。
−−私よりも?
その時、初めて自分の立場を思い知らされたような気がして、涙が止まらなかった。
闇夜の静寂を引き裂いた私の泣き声は、さぞ近所迷惑となったことだろう。
その次の日曜日、未だに落ち込んでいた私は、おばあちゃんに連れられてある不思議な建物へとやって来た。
難しい文字が並んでいて分からなかったから、おばあちゃんに聞くと『れきしはくぶつかん』と読むんだって教えられた。
おばあちゃんも、昔はここで“おしごと”をしていたんだって。
おばあちゃんは厳格な人で、帰ってからの手洗いうがいは当然のこと、食事のマナーや来訪客への挨拶のしかたまで私に事細かに言い付けていたけど、あの日からおばあちゃんはずっと優しかった。
その日にしても、おばあちゃんが私をどこかへ連れていってくれるなんてことは今まで殆ど無かったことで、私はそれだけで救われた気分だった。
今にして思えば、あれがおばあちゃんなりの思い遣りであり、愛情だったのかもしれない。
とにかく、あの日見たものを、その感動を私は10年以上経った今になっても覚えている。
独特のひんやりと湿った博物館の空気の中、数十、数百と並ぶガラスケースの一つ一つにしまわれているのは、手に取るだけでも崩れ落ちそうな古文書であり、古代文明の遺産といわれる四角い箱であり、古代人も私達のように使ったとされる端の欠けたお茶碗であり。
そして何より私が心を惹かれたのは、“かせき”と呼ばれる、大昔に生きていた人の古ぼけた骨格だった。
脇にある説明板にはその人がまだ生きていた時の想像画が描かれており、私はといえばぽかんと口をあけ、驚きに目を見張りながらも化石とその絵とをひたすら見つめるばかりだった。
これが私の生まれる数千年前、数万年前、或いは数億年前には生きて動いていた、そう考えただけで胸がわくわくして止まらなかった。
その後、引きずられるようにして家に帰っただろうか、お風呂に入り寝付くまでの間ずっと胸の興奮は収まらなかったのである。
それがきっかけとなり、私は学校の帰りにその博物館へと通うのが日課となった。
幸い、通っていた小学校からは帰りに15分ほど寄り道をすれば歩いて行ける距離だったので、その頃は毎日のように通っていたと思う。
そして行って何をするのかと言えば、例の“かせき”の前に座り込み、学校であったことや好きなこと、身の回りのことをひたすら語るのである。
傍から見ればとても危ない女の子だっただろうが、周囲のことなど気にも留めなかった。とにかく“かせき”に夢中だったのだ。
−−あの頃なら、将来は何になりたい、という問いにも迷い無く答えられた。
「わたし、“こうこがくしゃ”になる!
いっぱい“かせき”を見つけるの! それでお金がいっぱい入って、 “おしごと”もいらなくなるの!」
時刻は午前9時半を回っていた。
大通りの人混みをくぐり抜け、今、私の目の前には堂々と『ラヴェスタ総合文化ホール』の文字が並んでいる。
しかし、心の底には未だぬぐい去れない不安が付きまとっているのだった。
実は今日、大学では前々から予定されていた論文の発表会があったのだ。
ラヴェスタでの無形資産取引にかかる移転価格税制についての考察、という聞いただけで溜め息の出るような論題について、半年もかけてまとめるよう言い渡されていたのである。
その発表会をサボるということは、論文をまだ書き終えていません、と声を大にして宣言するに等しい。
ラヴェスタ大学は世界規模で有名な大学なのである。そういった身勝手、無責任な行動には容赦なく厳しい処罰が下るのだ。
もっとも、ここまで来て引き下がるような安い覚悟で、私も望んだわけではないのだが。
ホールへ入ると、そこは思いのほか空いていた。
警備員や関係者と思しき人たちが会場の準備にせわしなく動いているが、私のような一般人はほとんどいないように見える。
物騒な世の中だからだろうか、みんな自分のことで忙しいのかもしれない。
そう考えると、学校をサボってまでここに来た自分がひどく浮いて見えて、少し寂しい気もした。
しかし、正面玄関から廊下を通り会場まで行くと、そこはなかなかの賑わいをみせていた。
びっしりと何列にも並べられた椅子の半分以上は既に人で埋まっており、演台の前では、以前新聞で見かけた覚えのあるノクタスの探検家が記者のインタビューに答えていた。
彼が発見者なのかな、などと考えつつ、私はまん中のある一列の右側に並べられている、四足歩行の種族のための横に長い椅子にそっと腰を下ろした。
開演までまだ20分あった。
少しずつ客が増える中、改めて会場を見回すと、部屋の壁のいたる所に大小様々な紙切れが貼られているのに気付く。
その中の特に大きい一枚に目を向けると、どうやらそれは今回発見された“謎の遺産”とそれに付随して大量に見つかった化石についての調査論文のようだった。
『数年前、オーラルケプトの南東に位置する孤島の一つで小規模の古代遺跡が発見された。カール調査チームの2年に渡る発掘作業の結果、そこには今までに類を見ない数の化石と、そして今回発表する、古代人の知られざる“遺産”を発見するに至ったのである……』
−−こんな論文が書きたかった、と、読み進めながらぼんやりと思う。自らの足で世界中の遺跡へ赴き、自らの手で歴史の手掛かりを掘り起こすのだ。
それは、化石であり化石であり……そして古代という名の神秘のベールを少しずつ紐解……けるのか? まぁいいか。
古代については、本当に謎が多い。化石が発見されることはあっても、古代人についての詳細な手掛かりとなる文化的な遺産は殆ど見つからないのだ。
ラヴェスタに来てしばらく、歴史博物館と名のつくものをひたすら探し回ったことがある。
最初はすぐ見つかるだろう、とタカを括っていたが、それがどうしたことか1週間探しても見つからない。
2週間、3週間、と広大なラヴェスタの半分近くは探しただろうが、それでも見つかることはなく、1ヶ月探してようやく諦めた。
つまり、展示するものが無いのだ。化石にしたってやたらと損傷の酷いものが大多数というし、客などとてもではないが呼び込めないだろう。
そう考えると、私の故郷にあったあの博物館は、かなり“特殊”なものだったと言えるのかもしれない……
「化石、お好きなんですか?」
突然、誰かに声をかけられ、思考は中断される。
私は声のした方へと振り返った。
「お隣、よろしいですか?」
そこにいたのは、一人のバタフリーの女性。
しかし、その瞳は透き通るような淡い銀色を湛えていた。
後編に続く
あとがき
こんにちは、初めての方は初めまして、のらいもと申します。
ここまで読んでいただき、感謝と喜びの気持ちで一杯です。
これが初めての投稿作品となりました。まだまだ不馴れな感は僻めませんが、どうか暖かく見守ってやって下さい。
今回、反省すべき点は山ほどあったわけですが、特に酷いものとしてやたらと視点変化が多かったなぁ、というのがあります。
地の文にマーシェル視点、この二つが段落・時間軸ごとに変わるわ変わるわ。もっと分かりやすくまとめたかったのですが、実力不足でした。
理解しづらかった方には、本当に申し訳ないです。
なお、序章は長くなりそうだったため前編と後編に分けました。
なかなか良い区切り目が無かったので前編は早めに切り上げてしまったのですが、その分後編が若干長めになるかと思われます。
よろしければ、ご意見ご感想お聞かせ下さい。
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