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スキゾフレニア

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作:稲荷 ?







忘却されるべき忌々しき記憶が、私の脳裏にと不意に姿を現し、言い様もない挫折感と胸の締め付けられる様な痛みが私を襲った。
苦悶に表情を歪めながら、私は周囲の人々に悟られぬように、ビタミン剤の小瓶に入った抗不安薬を適度につまみ出すと、嘔吐を押さえるかの様に口へと投げ込み、強引に呑み込む。
「はぁ....はぁ....」
今まで味わった事がないほどの激しい動悸に、私の掌は汗で滲んでいた。
手足が微かに震えていたが、今日ばかりは工場を早退する訳にはいかない。
派遣社員という立場故に、私は追い詰められていたのだ。
年齢も40を過ぎ、年齢的にも再就職は厳しく、かといって家で素朴な生活を続けれるほどの貯蓄すらない。
困窮とは、まさしくこの事を言うのであろうか。
「おい!佐々木!なにしてんだ!」
「す、すいません」
私は顔を引きつらせ、そして慌てたようにモンスターボールが流れる作業ラインへと戻る。
視界が酷く眩む。
しかし、後少しで抗不安薬の効果が現れるはずだ。
壁にかけてある時計を見ると、帰宅時刻まではあと10分余りと、十分に耐え抜ける様な時間であった。
「おい?大丈夫か?」
私の隣の作業ラインにいる若い男が心配そうに私の顔を伺った。
金髪に染め上げたその姿はいかにも正当な社会からのはみ出しもので、どうにも私は彼のことが苦手である。
その理由は私にですら明言出来ず、正しく曖昧な生理的な嫌悪というものであった。
「ええ....大丈夫です」
私は小さく頷くと、作業ラインを流れるモンスターボールへと封をしていく。
もしかしたら、永遠に続く単純作業が私の精神疾患に悪影響を齎したのかもしれない。
確かに、無理往生に労働の職務に勤めさせる、この工場の方針には私も辛苦の思いをし、そしてことあるごとに先ほどの様に怒鳴り散らされ、精神もすり減ってしまったのかもしれない。
私はそう自己診断を下し、納得した。
そんなものであるから、今更、心理療法とか言うものをやっても、それはきっと無意味だろう。
そこに隣の金髪男がまた話しかけて来た。
「おい...聞いたか?」
少し切羽詰まったような表情である。
「いや、何も...」
私の返答に金髪男は相変わらずの深刻そうな表情で答えた。
「実はさっき聞いた話なんだが、どうやらここの工場が全自動化されるらしい」
その一言で、私の収まりかけていた目眩はより一層激しくなってしまった。
全自動化。このことが意味するのは無論、私たちの失業であった。
確かにそれは喫緊の問題である。
「そ、それは本当ですか?」
「ああ、工場長の話を立ち聞きしたんだから、違いねえ」
しかし、私は内心、彼を疑っていた。
それは彼をもともと信頼していなかったのもあるし、それと同時に、私が未だ刹那主義に囚われていたからかもしれない。
「あんた名前は?」
金髪男の問いかけに、私は無言で派遣社員の名札を見せる。
「佐々木賢人ね...幸運を祈っとくよ」
そう金髪男は言うと、不良品のモンスターボールを作業ラインからつまみ出し、空き箱へと乱雑に投げ捨てた。
それから暫くは無言で、何ら話す事も無く時間が過ぎて行く。
帰宅まで、何もないことを祈るばかりだ。
やがて終業のチャイムが工場へと鳴り響き、全ての作業員が虚ろな目を時計へと見つめる。
やっと帰る事が出来る。
今日は酷く疲れてしまったのか、私はその安堵で溢れていた。
しかし、誰もが帰ろうと準備する中、その無慈悲な宣告は唐突に始まったのである。
「全ての作業員に連絡致します....今から名前を読み上げますので、名前を呼ばれた方は派遣の契約を打ち切らせて頂きます....」
私は思わず目頭を押さえ、作業用の制御盤に寄りかかった。
嗚呼、なんということであろうか。
私は戦慄しながら嘆いた。
金髪男へと目をやると、彼は顔を伏せ、このおぞましい解雇の波をやり過ごそうとしている。
「先ずは、愛川柳司さん。牛下裕太さん。海原圭一さん....」
私の目の前で、名前を呼ばれた何人のも人々が泣き崩れ、あるいは呆然と作業帽を握りしめている。
「加藤末吉さん...工藤達郎さん...児玉伸さん...」
地獄であった。
名前を呼ばれない者も、この悲痛な惨状に息を呑み、そして泣き伏せ、突っ伏した人を見つめるだけである。
私も呼吸が荒く、そして自分の名前が呼ばれてしまうことに怯えていた。
「佐々木賢人さん...」
その瞬間、私は重い鈍器で胸を殴られたかの衝撃を受け、そして激しく動揺してしまった。
だが、それを表面に出す事も無く、大きく息を吸って、異常な速度で動く心臓を落ち着けようと必死に他のことを考えようとしたが、思考停止状態に陥った私の脳は実に脆弱で、何も考える事が出来なかった。
先ほどの金髪の男が、私を哀れむよう見つめていることは肌で感じ、そして私がこの工場から解雇されたという、凡そ受入れ難い事実が私の前に漠然と横たわったのだ。
名前は呼ばれ続ける。
いや、何も今すぐ派遣切りに合う訳では無い。
そもそも私はこの工場で長くも7ヶ月は労働をして来た。
ギリギリ失業給付を受ける事が出来、それだけで当分は食いつなぐ事が出来るであろう。
ただ、死刑宣告も同等であった。
いくら私を救済するような雇用保険法だろうが、最早再就職は厳しいのだ。
年齢という厚い壁と、足の小指が二度と動かないという軽度な障碍が私の就職を妨げている。
それこそ日雇いのアルバイトやら生活保護で生きて行くほかないのかもしれない。
名前が呼ばれ終わった。
途端に静かになる工場内に機械の電子音が微かに響く。
「名前を呼ばれた方は、全ての工場備品を返却してください....なお、失業給付の方は....」
私はそれからの事をあまり良く覚えていない。
なにやらややこしい手続きについて工場長が語っていた気がするし、曖昧ではあるが数人の作業員が工場長へと怒鳴り声を上げていたのも覚えている。
しかし私は、泣く事も無く、笑う事も無く、そして同業者と一回たりとも目を合わせず、私は工場を逃げるように去ったことは、漠然とした情景が記憶に残っている。
ともかく、それから私は家へと帰り、薄汚い布団へと飛び込んだっきり、死んだように眠ったのだ。








「大丈夫?ご主人様...」
私は聞き慣れた声で目が覚めた。
身体を起こすと、布団の傍らに一匹のサンダースが心配そうにこちらを見つめている。
「ああ、大丈夫だよ...」
到底そのような事はあり得ないが、私は掠れた声でそう返事をした。
彼女はイーブイのころから私の大切な仲間であり、最早家族とも言うべき存在であった。
名前をアリシアと言う。
「今日はお仕事にいかないの?」
「.....今日はいいんだよ。アリシア」
私の両親は既に他界し、親戚一同とも疎遠な私にとってアリシアは唯一の心の支えである。
既に電気が止められたこの僅か4畳半の小さなアパートが私の家だ。
アリシアのお陰で電気に関しては困らないが、已に電気を使うものなど数が限られている。
だが、それでもアリシアは私の大切な存在だ。
絶対に彼女に苦痛な思いをこれ以上させてはいけない...あの、忌々しい記憶を繰り返してはならない。
「ご主人様、お昼ご飯は何が良い?」
アリシアの問いかけに私は笑みをこぼして答える。
「なんでもいいよ」
私はそう言うと、鞄から失業給付に必要な手続きのための書類を書き始めた。
もしかすれば、私のあの忌々しい記憶の時から、既に私の人生は八方塞がりで、生涯を不遇に生きるべしと定められてしまったのかもしれない。
決して思い出したくは無いあの邪悪な記憶。私を苦しめ、罪悪感に苛まれる発端の記憶。
私は抗不安薬を一錠、呑み込むと大きく溜め息を吐いて、目をアリシアへと泳がせた。
器用に二足で立ち上がり、カップラーメンの支度をしている。
もはや、食べ繋ぐ事も厳しくなるであろうから、贅沢は言ってられない。
「家賃も...厳しいな.....」
気がつけば私の頬には涙が伝っていた。
もう、駄目かもしれない。
私は断じて退廃的な敗北主義者でも、そして将来を期待する楽観主義者でもないが、正直もう限界であった。朝から夕までアルバイトをいくつも掛け持ちし、派遣社員として粉骨砕身の思いで労働した。
だが、私は考えが甘かった。
心の何処かで、このままでも十分に生きて行けると、そんな慢心があったに違いない。
そうなれば私に残されたのはただの幼さと傲慢さだけである。
「ご主人様?」
「アリシア.....本当にごめんな」
私のところに来たばかりに、彼女の可能性ある将来を奪ってしまった事を私は悔やんだ。
「....ううん、ご主人様は悪く無いよ」
私は嗚咽を漏らすばかりだった。
窓辺からは春の穏やかな光が満ちあふれ、空は怖いくらいに快晴である。
暖房など、そろそろ要らない時期だ。
私はアリシアの手を握った。サンダースだから、凡そ人間とは似つかず、そして子すら抱けるか分からないような手つきだ。だけど、その柔らかな手が私にどれだけの幸福を齎したかは、とてもではないが筆舌に尽くし難く、私の有り余る感情を伝える術など、存在しないのであった。
アリシアほど、寛恕で柔和なポケモン、いや人間でも見た事が無い。
私は思う。
卑賤な私が、本当に大魁な彼女と共に居て良いのだろうか?
もっと、私よりも優しく、裕福な家庭に貰われるべきなのに。
酷く卑しい私のせいで、彼女までもが貶められているようで、私は我慢がならなかった。
沸騰したお湯から湯気が沸き立ち、汽笛のような音が鳴り渡る。
「大丈夫?ご主人様?辛いの?」
私は首を左右に振って、そして頬の涙を拭った。
「....もう大丈夫。さあ、ご飯食べよう」
私はそう言うと、アリシアも首肯し、台所からカップヌードルを二つ取り出した。
『革命的美味しさ!じゃがバター風味カップラーメン』と題された、まるでどんぶりのように大きなカップラーメンではあるが、所詮は安価な量産品で、味はあまり良く無い。
油でギトギトのスープは、一口飲んだだけでも気持ち悪くなり、私にとっては間食の無駄使いを減らさしてくれる有り難い存在なのではあるが。
それでも、贅沢などもっての他で、腹持ちやら内容量を重視してしまうことが多かった。
どうせ破滅的人生なのだ。
アリシアはともかく私には碌な貯蓄が無いのであるから、重い病でも適切な治療が受けられるかどうか、非常に疑わしい。
それならば、私にとっての健康など最早無意味で、仮に抗不安薬が効かなくなるほどまでに重篤な精神疾患を抱えるに至るのならば、私はいっそのことこの身を薄汚れたこの灰色の都市へと投げようと思う。
私は再びスープを口に含む。
ギトギトの油と仄かにジャガイモの素朴な味が味覚を占拠し、そのあとから、恐ろしいほどの塩っぱさを感じた。
私はアリシアへと一瞬目を向けると、アリシアは既にそのスープを飲み干していた。
「.....」
これからどうなるのだろう。
抗不安薬が漸く作用し始めたのか、私の脳裏は急速にぼーっとして、一時的ではあるが全ての出来事に鈍感になりつつある。
それでも、私の蒙昧な脳ですら、あまりにも悲劇的な展望しか思い付かないのである。







ネットならば様々な求人広告が多様にあると、何処か風の便りが知らせてくれたのを私は実に明瞭に思い出したのは、日が暮れようとする5時頃であった。
私は薄汚れて黴臭い押し入れから、五年前に購入したっきりのノートパソコンを引っ張り出し、そして神妙な面持ちでそれを見つめた。
果たしてこれは動くのだろうか?
そんな疑問が沸々と蠢いたからだ。
「アリシア...頼む」
私はぐるぐるに絡まった充電コードを取り出すと、アリシアへと片方の電極を手渡して、バッテリー充電口へともう一方を挿した。
アリシアにとって、パソコンの充電程度の電流を出す事はいとも容易いことである。
私がパソコンのスイッチを押すと、実に壮大な草原の画像が映し出され、そして軽快な起動音が部屋へと木霊した。
大丈夫。まだ動く。
私はその事を確認すると立ち上がり、徐に黒の色褪せたコートを羽織る事にした。
「アリシア。一緒に来てくれるか?」
私の問いかけにアリシアはもちろんと答え、そして電極を握ったままこちらへと顔を向けた。
「駅まで出よう。ここじゃネットが出来ない...」
そうなのだ。この四畳半の小さなアパートにはネット環境などというものは存在せず、無線LANも使えない。
其れ故に近所の駅にあるファストフード店まで出なければ、ネットは使えなかったのである。
私はパソコンを持ち上げるとアリシアは充電コードを口に銜え、まるで散歩のときのように私の後ろにくっ付いて歩いた。
これで充電しながら駅まで行けるということであろう。
当然ではあるが、私に公共交通機関を使える様な資金は無い。
そもそも、給料が絶たれた今、無駄遣いするような愚か者が果たしているであろうか?
幸いにも私はそこまで堕落はしていなかったので、最寄り駅までは何も買わずに、ただパソコンを大きな鞄に入れ、コードだけをアリシアが持つという異様な行進を続けていた。
やがて斜陽に眩しく照らし出された駅が姿を見せ、私とアリシアは迷う事無く大手のファストフード店へと足を踏み入れる。
カウンターで一番値の張らないハンバーガーを注文すると、アリシアにパソコンを持たせて奥の席へと座らせた。
まだ帰宅ラッシュにも陥っていないためか、駅前の広場を見渡しても、多くても5~6人ほどしか町を歩いておらず、ネットを利用するには丁度良かった。
ここのハンバーガーは大した時間を待つ事無くすぐに来る。
それがファストフードの良い所でもあるのだが、その分、味もあまり良いとは言い難かった。
「こっちだよ!」
アリシアに呼ばれ、私はハンバーガーだけを持って壁際の寂れた座席に座り、そしてパソコンを起動する。
先ほどと同じ起動音と画面が現れ、アイコンが遅れて表示されて行く。
「ハンバーガー食べる?」
私の質問にアリシアはやや迷ってから頷いた。
ここのハンバーガーの美味しいところなど無いのではあるが、強いて言うならピクルスがまあまあな美味しさであろう。
寧ろピクルスだけでもいいくらいだ。
「有難うございます!ご主人様!」
アリシアはそうお礼を言ってからバーガーに勢い良く食らい付いた。
私はそんなアリシアを微笑ましく思いながら、求人サイトへと検索を掛ける。
色とりどりの色彩鮮やかな広告の群れを私は一瞥し、そして適当な物の詳細を眺めた。
「....」
どれもこれも条件やら資格やらと、如何せんともし難い壁が立ちはだかり、私の予測通り再就職は厳しそうだ。
であるが日雇いならば出来る物が幾つか見つかったので、私はそれを持って来ていたメモ帳に書き留めると、顔を上げた。
アリシアは利口にも席に座って充電コードを握っていた。
ハンバーガーの包み紙も已に捨ててあるようだ。
私は目を細めて、彼女を見た。
今思えば、私は彼女に恋をしていたのだろうか。
それとも、母性の様な愛情なのだろうか。
私は少し考え込んで、それから直ぐに考える事を止めた。
実際、そんなことどうでもいいのだ。
私は彼女を幸せにするために生きようとした。
それが彼女への償いであり、如何ともしがたい罪悪感への解消を計ろうとしていたのだ。
あの忌々しい記憶、私の脳裏にこびり付いたおぞましい記憶が私を苦しめ続けるのであるが、本当に辛いのはアリシア自身ではないだろうか。
あれほどの、惨事とも言うべき被害を受けたのは他でもないアリシア自身だ。
私の愚かな判断と、粋がった幼さが彼女を傷つけたのは覆し様の無い事実である。
それなのに、彼女は今目の前で、私とともに生きている。
この体たらくですら恐れず、私を見捨てずに生きている。
パソコンの電源を落とすと、私は店内の時計を見つめた。
「もう6時か....」
アリシアは私が帰ろうとした事を察したらしく、握っていた充電コードを器用に丸めると、私の鞄へと入れた。
そうしていよいよ帰ろうかという時に———
「お!佐々木さん!」
何処かで聞き覚えのある声で呼び止められた。
私は振り返ると声の主を見つめ、恭しく頭を下げる。
声の主は工場で共に労働に従事していた金髪の男であった。
私はこの性分であるから、彼の名前など微塵も覚えてはいないのであるが、金髪に片耳ピアスという奇抜なファッションは人の記憶からそう簡単に消え去れる物ではない。
「ああ、あなたですか」
私の等閑とした返答に、金髪男はやや苦笑して、恐らくは連れと思しき男数人と一匹のリングマに待つように言った。
「あなたなんて酷いな、一緒に働いたでしょうに、たった2週間あまりですけど」
私は彼と親しかった覚えなど無く、業務上少しだけ談笑する程度である。
それなのに、この金髪男はいかにも盟友と言った感じで話し書けてくるのだから質が悪い。
「どう?転職先見つかりそうっすか?」
「いいや、全く駄目ですね」
愛想笑いでそう誤摩化そうとすると、金髪男はアリシアに気がついたのか、そちらに目線を落とした。
「佐々木さんの手持ち?」
「ええ、まあそうですけど」
「バトルは?」
その質問をされたとき、私は異常なまでに心臓がばくんと大きな音を立てたのを聞いた。
そしてアリシアの表情を慌てて伺おうと目を伏せると、アリシアはただ訝しげに突如現れた金髪男を眺めるだけであり、特に気にかけている様子もない。
「あれ?なんか不味かったっすかね?」
「い、いや...でも悪い。今日はもう帰って、早い所仕事探さなきゃならないですし....」
私はどぎまぎしながらそう言うと、金髪男はなるほどと頷いた。
「そりゃあ、大変っすね。こっちも仕事あれば連絡してあげましょうか?」
「いや...有り難いけど、遠慮しときます」
そう言い終えた時、後ろから口調の悪いリングマの叫び声が聞こえた。
「おい!圭一!さっさと来いよ!そんな冴えねえオッサンと話し込むなって!」
先ほど待つ様に言われていたリングマである。
待ちくたびれでもしたのだろうか。
「ああっ、すいません...口がなんせ悪いもので」
「いやいや...別に構いませんよ」
私は特に気にも障らなかったので、リングマを笑顔で許す事にした。
だが、アリシアだけは実に憤怒の色を見せ、そしてリングマを睨みつけた。
いかにも不快そうな目つきで、軽蔑した様な目線。
リングマはそれが気に入らなかったらしく、怒鳴り声を上げ、何やら喚き始めた。
他の男連中はその光景を馬鹿らしく笑っているだけである。
「佐々木さん...これ俺の連絡先です。どうぞ」
金髪男はリングマの罵倒を無視し、メモに書かれた電話番号を渡すと、リングマの腕を掴んで、強引に連れて行こうとする。
「騒がしいね」
アリシアは強制的に連れ去られて行くリングマを相も変わらずの蔑む目線を送り続け、そして私の顔色を伺った。
「ああ....そうだね」
私は空返事らしくそう言うと、電話番号の書かれた紙を見つけた。
もう、これ以上誰にも迷惑はかけられない。
「さあ、いこうか」
アリシアにそういうと私は家へと帰路を急いだ。
不意に一陣の強風が吹き荒れ、私の手に握られていた電話番号のメモ帳は遥か上空へと舞い上がり、民家の屋根へと消えた。
西の空には太陽の姿は既に見えず、仄かに薄暗さを残すのみである。










「生活保護を受けられない....?」
私がアリシアとともに生活保護の給付を乞うために華美な役所に訪れたのは、私が失業してから1ヶ月ほど経過した後だった。
「ええ、残念ですが、あなたの申請は認められません」
骨細の不快な体つきに、どうにも気に喰わない目つきの職員が答える。
私とアリシアは愕然とする他無かった。
無論、この一ヶ月間、必死で働き先を探し就職活動を行ったが、この年齢では到底出来ず、反社会的な仕事など今の私にはもっての他だった。
日雇いも幾つかは見つけてはいたが、立て続けに日雇いで暮らせる様なわけでもなく、私は最後の望みをこの生活保護にかけたのだ。
「さあ、いつまでもそこにいないで帰って下さいねー」
面倒くさそうに骨細の男は答えると、不躾な態度のまま机の書類に目線を落とした。
アリシアも困ったように顔を見上げ、私を見つめる。
「....」
しかし骨細の職員はそんな私たちを一瞥し、追い打ちをかけるかの如く、小さく言い放った。
「だいだい、なんでポケモンを引き連れて生活保護を受けれると思ったんです?ポケモンは行政では飼い犬...もといはそういった分類に入ることを知らないんですか?」
「え?」
私は息を呑んだ。
今の私にとっては、アリシアの侮辱は私の生きる意味への侮辱と同等であり、そして家族同然なのだ。
「ポケモンは贅沢品の扱いなのです。次からはポケモンがいることを隠して、別の役所に行った方がいいですよ?生活保護を受けたいのなら」
私は胸悪の思いで、そして激しい憤りを覚えた。
だが、ここでこの職員を殴り飛ばしたとしても、私達の生活が報われるはずではなかった。
なにしろ、ここでアリシアを独りにさせてはならない。
私は必死の自制心で、そう自らに言い聞かせると、手の震えを押さえながら役所を早足で出た。
相変わらずの春の陽気で、半袖でも十分に暖かかった。
街路には梅の花が咲き乱れ、私とアリシアは梅の木の合間を抜ける。
「ご主人様....」
「なんだ?」
アリシアの蚊の鳴くような声に、私は少し当惑しつつ、そして不安を打ち消すように笑みを作ってアリシアを見据える。
「私のせいで...ごめんね」
私はその言葉を聞いたとき、また、私は彼女に苦痛な思いを抱かせてしまったのだと思い、そしてあの忌々しい記憶が脳裏へと蘇らせてしまう。
私がこれほどまでに困窮する原因となり、私がアリシアを傷つけてしまった最大の理由。
それが、私のこの忌々しい記憶の中にある。
だから、私は慌ててビタミン剤の小瓶から、抗不安薬を取り出そうとした。
この記憶は私が死ぬ時まで封じ込めなければならなかったからだ。
しかし、いくら小瓶を振っても、叩いても、錠剤の一粒すら出ては来ない。
「くそっ...」
酷い動悸であった。吐き気もしたし、明らかに三半規管が狂っている。
耳鳴りもする、目眩も激しい。苦しい。
「だ、大丈夫?ご主人様!」
アリシアの顔すら見つめられず、私は梅の木の根もとへと突っ伏した。
嗚呼、おぞましい記憶だ。
気がつけば私の脳裏には鮮烈にその映像が浮かび上がっていた。
薄気味悪い洞窟と、鍾乳洞の数々が私と、未だイーブイの頃のアリシアを突刺さんとする勢いでこちらを睨んでいる。
「畜生....アリシア、頑張ってくれよ...」
そのときの私は、今の様に臆病で、不肖な限りではなく、むしろ勇敢であったはずだと記憶していた。
目の前にはボスゴドラと、一見して金持ちの風貌の若い茶髪の男が立ちはだかり、私の行く手を阻んでいる。
バトルがどのように展開されたかは不明虜だが、恐らくは私の指示に何か重大な誤りでもあったのであろう。
ボスゴドラの、あの余りある巨体によって、踏み潰され、絶叫するアリシア。
私は叫んだ。もう止めてくれと。持ち金は全て出すから、もうやめろと。
これ以上、試合を続けても、既に羅利粉灰の惨状に、私は勝敗などどうでも良くなっていた。
だが、痛苦に表情を歪めて、こちらに助けを乞うアリシアの姿が、私の目へと焼き付けられ、私は酷い恐慌状態に陥った。
だが、茶髪の男は名状もし難いほどに残忍で、その上、何らかしらの病気を抱えていたらしく、在りもしない戯れ言を喚き叫ぶと、ボスゴドラに全体重を掛けるように命じたのだ。
その瞬間、私は無我夢中でボスゴドラへと飛び掛かった。
しかし、あまりにも無謀なことである。
野鄙な男は、まるでそれを嘲笑するかのように、私へと罵倒の言葉を浴びせかけている。
私はまさか精神障碍を抱えているのでは無いかと錯覚するほどに彼の行動は常軌を脱していたことを記憶し、彼の異端性に怯えた。
いや、それは錯覚じゃないのかもしれないが。
ボスゴドラの身体は鋼のごとくに堅く、私が全力で殴り飛ばしても、私の指の骨が文字通り砕けるだけで、アリシアの救出は絶望的だ。
既に、アリシアの声は途絶し、言い様も無い焦燥感と、この茶髪男への憎悪が私に募った。
「どうした!?」
私の背後から、誰かが迫る。
しかし、そんなことどうでも良い。
私は狂ったように悲鳴を上げ、そしてボスゴドラを蹴飛ばし、自分の小指が二度と動かなくなった。いや、私はそんな事どうでも良かった。
とにかく、アリシアを助け出さねばと無我夢中だった。
「おい!なにをやっているんだ!」
茶髪男は奇声をあげながら、ボスゴドラを自らのボールへと仕舞、そして不気味な洞窟へと駆け出して行く。
ボスゴドラの踏みつけていた場所。
ぽっかりと地面が抉れ、そしてその中には――――
私は絶句した。
「大丈夫か!...うわっ」
駆けつけた人も表情が凍り付き、アリシアの身体を痛ましそうに見つめる。
アリシアの身体は最早、当初の形状を留めていなかったのだ。
「.....お、落ち着いて。とにかく、応急処置を...」
茫洋とした私を置いて、男は何やらを施し始める。
その手つきは迅急で、その上に心確かなようである。
メタモンの細胞を取り出した自己再生細胞を注射し、出血の酷い箇所にはテーピングを施し、元気の欠片と呼ばれる生命エネルギーの結晶をアリシアへと投与した。
私は、血みどろのアリシアを見据え、そして私は何も出来なかったと、果てしなく名状し難い罪悪感と忌々しい無力感が私の残った正常な思考回路を弾き飛ばす。
それから、私はポケモントレーナーを辞める事を決意した。
いや、辞めざる終えなかった。
私には、その時からもうポケモンに指示を出す能力など失われてしまったし、そして抗不安薬無しでは生きていられないほどなのだ。
それにアリシアをあれほどの激痛に晒し、再びポケモントレーナーを志すというのは、余りにも貪戻すぎはしないだろうか。
私はあの日から、社会不適合者の烙印を押されるほどの精神疾患を持ち、そうでありながらも非正規雇用の一員として労働に従事したのだ。
私は荒い呼吸を収めようと、大きく深呼吸をした。
「ご主人様....」
アリシアがこっちを見ている。
その純粋な、そして節烈なその様に、私は漸く知ったのである。
あの忌々しい記憶の時のように、私を理解してくれるものは、アリシア以外誰もいない。
この社会の底辺に生きた私はアリシアの命を危険に晒したにも関わらず、アリシアは私を愛してくれた。
堪え難い苦痛はアリシアが一緒にいたお陰で、乗り越えられたのだ。
だけど、私はもう疲労困憊だ。
「アリシア.....」
梅の木が風に揺らされ、花びらが雪のように舞い散る。
そろそろ桜が開花する時期だ。
忌々しい記憶など、無いほうが良いに決まっている。
生活苦、不況、就職難、精神疾患、トラウマ、自責の念。
これら全ては、私とアリシアの道を閉ざすものであったが、それは同時に答えへと導くヒントに過ぎない。
「もう止めようか」
私の問いかけにアリシアは何も答えない。
「もう...こんなの終わりにしよう」
私は梅の木に寄りかかって踞るように俯いた。
これ以上アリシアが私とともに居ても、私はアリシアを幸せにはさせてあげれないし、それどころか忌々しい記憶のように再び惨劇へと引き込んでしまうかもしれない。
それなのに、アリシアは笑みを浮かべて
「私はご主人様と居れて楽しかったよ」
そう言った。
何故もそれほどまでに一途なのか。その答えは私に出せる筈が無かった。
いや、出さずともそれで良かった。
ただ、彼女の幸せそうな笑みに、私は安堵した。
「だからね、私も一緒にいくよ?」
彼女の柔らかい前足が、私の頬を撫でる。
そうして私は自らのあまりに傲慢な勘違いを悟った。
嗚呼、彼女は好き好んで私を支えてくれていたのだ。
彼女は私を恨んでなどおらず、私の罪悪感などそれは全て忌々しい記憶から齎された偏執なのであったのだ。
「ああ....頼むよ」
春の暖かな陽気が全てを包み込む。
眩しい斜陽が、世間に生命の息吹を吹き込む頃。この大都市から一人と一匹は忽然と姿を消した。






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Last-modified: 2014-03-13 (木) 08:37:00
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