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ジョングルールには大きなパンを

/ジョングルールには大きなパンを

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writer:赤猫もよよ

 タブンネの季節は耳の先からやってくる。
 
 空の水桶を抱え、裏口から家を出る。しばし続いた雨は夜明け過ぎに止んでいたようで、見上げれば煉瓦屋根の林冠から漏れる光がさんさんと鳴っていた。
 水気をふんだんに含んだ風が耳の触覚を揺らし、背を押す。眠気におぼつかない足取りのせいで水たまりを踏み抜く。水音がはじけて跳ねる。
 裏通りを抜けて、水汲み広場に辿りつく。
 石畳の敷かれた円形広場には柔らかな日差しが降り注ぎ、雲の流れる音さえ聞こえるほどに静まり返っていた。
 広場が賑わうのはもう少し先の話だ。いかんせん早朝である。街の鐘つき堂が真鍮の喉を鳴らすまでは、夜の果てを粘りたい夜行性の住民や、あるいは私のような窯持ちの住民ぐらいしか動くものはなくて、今日は私のほかに誰もいなかった。
 水汲み場の蛇口をひねる。桶の水かさが増していくにつれ、映る空が近づくのをぼんやりと眺めながら、昨晩雨が降っていたのに透き通った水にありつける理由を思い出せない自分がいることに気づいた。スイドーがどうとか、ロカがなんやらとか、記憶の砕片はもう水に流れてしまった。
(まあいっか)
 大切なのは麦のこね方であり、焼き窯の火加減であり、水がきれいかどうかなのだ。そこの領域から私は出られない。
 慣れない物思いと一緒に蛇口を締める。重量がやや手に余るが、毎日のパン焼きで鍛えられた膂力を舐めてもらっては困るというものだ。
(水がつめたい)
 秋の気配がした。けれども秋と断じるにはまだ材料が足りない。
 タブンネの季節は耳の先からやってくる――などという言葉が遠方にあるらしく、まさしくその通りだった。ドーブルが、世界は色彩に満ちていると断じるように、聴覚に長けた私の捉える世界は音色に満ちていて、私は未だ、秋を秋たらしめる音を聴いていない。そういう理論だ。
 秋に分類される音色にはいくつかある。煌々たる満月の輝く音。麦穂の隙間を風が縫い、そこからはじまる歓喜に似た騒めきの声。けれどもそれらは、秋の始まりを告げるものではなく、もっとふさわしいものを私だけが知っている。

 ――しゃん、しゃん。

 そう。例えるなら、薄氷の糸で編まれた飾りのように、脆弱で淡く、そして美しい音。
 その、早朝のしじまの中に深くしみこむような鱗の擦れ音の持ち主を、私は一人しか知らない。ともすれば雑音になりかねないそれを、彼はものの巧みに操り、幽けき快の音色に変えてしまう。
 一度に目が覚めた。繊細に編まれた音色の線を辿り、視線の先は広場に面する大通りへ。均等に敷かれた白石畳の道の先から、ひとりのジャラランガがやってくる。わたしは水桶を両手に、彼のもとへと走り寄った。
「戻っていたのですね、ユルゲンス」
「昨日に、ちょうど。一晩中領主(コバルオン)様に捕まっていて、遅くなりました」
 お元気そうですね、ヨカさん――とユルゲンスは滑らかに言葉を並べ、笑む。彼はどうやら、わたしがたったいま(・・・・・)元気になったことを察していないらしい。
「収穫はありましたか」
「ええ、夜をまたいでなお語りつくせぬほどに。星々も名残惜しそうにしておりました」
 私は彼の顔を見上げる。視線に気づいた彼の顔が上がり、視線と視線が絡む。精悍で、威厳に満ちたドラゴンの顔。無骨な口先から漏れる吐息の緩さに、私は一つの確信を得る。
「……眠いでしょ」
「はい、あとお腹もぺこぺこです」
 彼のまなざしはとろりとしていた。夜通しというのは比喩でも何でもなくて、本当に寝食を忘れて喋り通していたのだろうことが容易に想像できる。
「領主様のところでご馳走になったんじゃ」
「おれが帰ってきて最初に食べるのは、ヨカさんの焼いたパンだと決めているのです」
「さすが伝道師(ジョングルール)、口先はお手のもの」
「本心ですよ」
 その言葉を裏付けるように、ユルゲンスのお腹がぐうと鳴る。
「ほら!」
「はいはい」
 少々気恥しそうにしつつ、彼は私の手から水桶を取る。
「家に戻るまで、旅の途中でおれの教わった、空の話をしましょうか」
 そのたくましく広い背中が揺れる。擦れあう鱗の音に乗せて、詩人は空の詩をうたい、心地よい声音に耳を傾けた。
 ――そうして、私の、色づきに満ちた秋がやってくる。




「ユールさあ、寝てるよなあこれ」
「寝てるねえ」
 寝てるよなあ、とハリエットは口惜しそうにつぶやき、丁度共有スペースの隅に寄りかかって眠りについたばかりのユルゲンスの前で項垂れた。
 ハリエットは大柄で、力持ちで、丸っこく、そして愛嬌があった。とどのつまりブリガロンという種族を構成するすべての要素を完璧に持ち合わせており、まさしくブリガロンになるべくして生まれた、と本人は言う。
「くっそう、ユールの話聞きたかったのになあ」
「はいはい、起こしてあげないの」
 寝るなよなあ、とぶつくさしながらユルゲンスの頬をつつくハリエット。彼もまた、ユルゲンスの帰りを待ちわびていたうちの一人というわけだ。
 ハリエットはユルゲンスを兄貴のように慕っている。そして、ユルゲンスの幼馴染である私もなし崩し的に姐さんなどという立場を手にしていた。私は彼に寝床と朝食を提供する代わりに、パン焼きを含めたいろいろなことを手伝ってもらっている。
「かまどに火入れて。どうせパンの匂いで目を覚ますでしょ」
「あいよ姐さん!」
「燃え移らないようにね」
 どたどたと店の表の薪小屋へと走っていく忙しない巨体を尻目に、早朝こさえておいたパン種を棚から引っ張り出す。
木製のボウルにぎっちりと詰まった灰褐色の塊、その見てくれはそのあたりの泥土となにも変わらないが、ボウルにかけておいた(うすぎぬ)を取り払えば芳しさが部屋一面に漂う。今秋穫れたてのライ麦だ。
(今日もロッゲンブロートにしといてよかった)
 ロッゲンブロート。他の麦粉を一切混ぜず、ライ麦粉オンリーで焼き上げるパンのこと。パンに通常期待されるふんわりとした食感はこれっぽっちもないが、代わりにずっしりとした重量感と食べ応え、独特の爽やかな酸味とライ麦の強い味わいが腕を組んで待っている。焼き上げ前も土のようだが、焼き上がればそれはまるで岩肌のように強固となる。
 クルミを砕き、混ぜ入れ、練り上げつつ成形に移る。ロッゲンブロートはかなり食べ応えと歯ごたえとが強いので、切り分けて食べやすいよう小さな楕円型にするのがセオリーだ。もっとも、ジャラランガやブリガロンのような膂力抜群の男どもなら、岩塊のようなサイズにしてもバリバリとかみ砕いてしまうのだろうが。
 大塊から千切ったパン種を手の上で転がし、二枚の鉄板の上に均等に並べていきながら、部屋の隅で縮こまって寝息を立てるユルゲンスに視線を送る。
(無事でよかった)
 ほっと一息。外側の世界というのは、とにかく私には想像につかないような危険に満ちているらしいから。
「姐さん、窯! 火入れた! 焼き入れもやろうか?」
 入口からひょっこりとハリエットが顔を覗かせ、手を振る。
「そうね、手伝ってくれると嬉しいかな」
「がってん!」
 彼はもはやユルゲンスが寝入っていることを忘れているようで、どたどたと大地が寝返りを打つかのごとき足取りでやってきて、私の手元の鉄板を片手で一枚ずつ持ち上げる。
「よっ、力持ち」
「わはは」
 適当な声援に凱旋気分のハリエットに続き、外の窯へと向かう。煉瓦で組まれた焼き窯の周りには熱気が立ち上り、最下段に押し込まれた枝木を舐めるように炎がちらついていた。ぱち、ぱちと木の爆ぜる音が小気味いい。
「ハリエットは上のに入れて。下段は私がやるから」
 彼の体格上、下段の焼き場にパンの乗った鉄板を差し入れるのは難しい。手ではだめだからと蔦を操って入れようとした結果、火が燃え移ってあわや惨事となりかけたのは記憶に新しい。
「そういえばさあ、姐さん。ユール、今回の旅で最後にするらしいよ」
「ユルゲンスが? まさかあ」
 私はハリエットの手から鉄板を受け取り、その重みにふらつきながら下段の焼き場に差し入れる。火の具合からして、焼き上がりはだいたい二十分ぐらい後だろうか。
「ほんとだって。昨日、領主様の前で宣言したって」
「本当に?」
「うん」
 ハリエットは神妙にうなずく。
 その声色は噓のようには聞こえず、途端私の中にいろいろな考えが渦巻き始める。なにか、旅が嫌になってしまうようなことでもあったのか、それとも、まさか、もしかして。
(つ、つがいでも見つけるつもりとか……?)
「オレの代わりにさ、聞いといてよ。オレこの後、バベットさんとこの子供たちの面倒見るの頼まれてんだ」
 強張った私の顔を不思議そうに見下ろし、ハリエットは口を開く。
「あ、うん。昨日焼いたの、戸棚に用意しといたから……」
 朝めしと向こうに渡す分貰ってくね、というハリエットの言葉にたどたどしい生返事。
 あのユルゲンスが旅を止める、というワードがあまりに衝撃的で、残響が胸の内にこだまし続けていた。


「ハリーはもう出ましたか」
 ぼうぜんと、かまどの中で焼けるパンを眺めていると、不意に声が降りかかる。寝起き直後の、霜が降ったように緩く喉を鳴らしつつ、ユルゲンスは私の上から窯の中を覗き込んだ。
「ハリエットなら、ちょうどさっきに。今日はバベットさんのところの孤児院のお手伝いだって」
「彼、子どもたちに大人気ですからね。……して、パンはもう焼けますか」
 焼けていくパンを焦がれたように見つめる、垂涎のまなざし。これと同じだけの熱量を注ぐものが、彼の中には果たしてどれぐらいあるのだろうか、と思う。失礼ながら少なければいいな、とも。
「ヨカさん?」
「あ、えっと。もうそろそろ……うん、いいと思います」
 では、と彼は窯から突き出した鉄板の取っ手を握り、引き出す。ふわり、と薄もやのような湯気が一瞬視界を満たしたかと思うと、熱を帯びた芳醇な麦香が来て、薄黄金色の焼き目が姿を現した。
「素晴らしい。山岳に沁みる夕焼け(アーベントロート)を初めて見たときの衝撃を思い出しました」
「世界にはいろんな言葉があるのねえ」
 私にとっては変哲もない焼きたてのパンだが、彼のしみじみとした呟き、感嘆たるまなざしはまるで黄金の塊でも目にしたかのようだった。別段大袈裟というわけでもなくて、自分の感性は人より多くのことに感動できるというだけ、だと彼はいう。それを何でもないことのように言ってのけるのが、まさしく才能であるということだろう。
「食卓についててください。手ごろな付け合わせを用意します」
「では、お言葉に甘えて」
 調理場に運んでもらった焼きたてを冷ます間に、窯の火を消し、葉野菜を切り、バベットさんのところから頂いたクリームチーズを出し、ウブのみを磨り潰したペーストをこさえておく。濃厚で滋味深く、口当たり重厚なロッゲンブロートには、甘酸いウブのペーストにクリームチーズを混ぜたものがとても合うのだ。
「お待たせしました」
 スライスした薄黄金色のパンの山を中心に、黄色、乳白、緑色の彩りを並べていく。彼の対面に座り、視線を交わす。合言葉は遥か昔から決まっていた。
「「いただきます」」
 パンにチーズを塗り、その上にウブのペーストを乗せる。食べるふりをして、彼の姿をこっそりと見上げれば、ユルゲンスは二枚のパンでチーズと野菜とを挟み込んでいた。
 ドラゴンの大口が開かれ、がぶりと一口。長い咀嚼を経て、喉の奥へと嚥下されていく。そこでようやく彼は私の視線に気づき、気恥しそうに、しかしどこか安らかに笑んだ。
「ようやく、帰ってきた感じがします」
 私は口を開いた。彼が旅立ってからの二年間、温めておいた言葉。
「おかえりなさい、ユルゲンス」
「はい。ただいま帰りました、ヨカさん」
 パンを齧る音が重なる。外はいつものように騒がしい。
 この穏やかさをそのままに留めておきたいという気持ちがあり、ハリエットの言葉を確かめたいという気持ちもあった。私が方針を決めあぐねている間に、空白を埋めようとしたのか、彼は口を開く。
「今回も、沢山のものを見ることが出来ました。いくつか、おれたちの営みに役立ちそうなものも持ち帰れましたし……会った人間たちは、とてもよくしてくれました」
 伝道師(ジョングルール)。私たちの文明(せかい)において、断崖の大地を超え、あるいは根源の海を越え、べつの文明圏へ向けて旅をする者のことをいう。彼らは私たちの文明から持ち込んだものを先方に与え、その見返りとして何かを得、戻ってくる。何かとは、文化であり、技術であり、物種であり、概念だった。
 今、私たちが口にしているパンのライ麦も、ユルゲンスの祖父がはるか昔に持ち帰ってきたものだ。それまで大いなる大地の恵みに甘んじるだけだった私たちの祖先の、転換点がそこであったと、まだジャランゴだったユルゲンスは興奮しながら語った。詳しい内容は覚えていないけれど、あの輝くようなまなざしは今もしっかりと覚えている。
「良い旅だったみたいですね」
「ええ、とても」
 彼は目を細めた。視線の先に映るのは彼だけの記憶であり、私の知らない名前の宝石だ。
 その、わたしのたどり着けないだろう色彩に満ちた宝石を語りの手で転がすとき、彼はとても素敵な顔をする。
 ゆえに、私はどうしても首をかしげざるを得ないのだ。
(……なら、どうして)
 旅はきっと彼から切り離せないものだろうに、どうして、彼は足を止めることを決めたのだろう。

「ユルゲンスにいちゃーん!」
 私が切り出そうとした瞬間、不意に家の外から子供たちの呼び声が響く。
「おっと、お呼びみたいですね」
 彼は慌ててパンの山を平らげる。焼きたての熱々も意に介さず、瞬く間に口の中へ放りこまれていく。
 外に出るや否や、ユルゲンスの大きな体は瞬く間にポケモンたちにとり囲まれる。バベットさんの孤児院の子どもたちだった。
「にいちゃん、おかえり! おはなし聞かせてよ」
「あのね、あのね。まえに教えてもらったはな飾り、作れるようになったの!」
「にーちゃん! パワーしょうぶしようぜ!」
 束になって集う子供たち。その集団から少し離れたところに、両手を合わせこちらに向け謝罪しているハリエットの姿があった。大柄な体を縮こまらせている彼のもとへ詰め寄る。
「ごめんようヨカ姐さん。子どもたちにユールが帰ってきたことバレちゃって」
「情報漏洩罪でご飯抜きです」
「堪忍してよお。ここ一週間ぐらい、みーんな待ち遠しそうだったんだもん」
「うそうそ。あとでお茶菓子を持っていってあげるから、二人で遊んであげて」
「おっけい」
 背に乗られ、尻尾をつかまれ、体をぶつけられ、もうもみくちゃになっているユルゲンスに向けて手を振る。彼は困ったようにはにかみながらも意を察したらしく、子ども団子のまま孤児院のほうへと歩き出した。ハリエットもそれについていきながら、一人ずつ子どもたちをユルゲンスから引っぺがしている。
 二人と子供たちの姿を見送り、家へと戻る。あの一瞬のうちにパンの山は平らげられ、朝餉の音はどこかに流れていき、世界は閑散としていた。
彼の話は面白い。伝道師のなかでも、物事を伝えるのが上手だ。彼の語りに耳を傾ければ、足を運んだこともない異界の情景がありありと浮かんでくる。彼が帰ってくる期間は、街中引っ張りだこなのだ。
(もっとゆっくり食べればいいのに)
 それは誇らしくもあり、少し寂しくもあった。





「盛況だったみたいね」
「それはもう」
 ありがたいことです、と力なくユルゲンスは息を吐いた。活力に満ちたドラゴンタイプでも、流石に昨日今日と喋りつくせばへとへとのようだ。私の隣を歩く足取りはふらつき、歩幅にあわせて鳴る鱗の音も心なしか弱弱しく感じる。
 孤児院での子どもたちへの語りはきっかけに過ぎなかったらしい。ユルゲンスの姿を見つけた方々に呼ばれ呼ばれ、彼の身柄が解放されたころには既に陽が落ちかけていた。
 帰路の両脇、見下ろす刈り残しのライ麦畑。陽を浴び眩むような輝きの中を二人で歩く。
 風のたび、麦穂のざわめきが起こり、鱗が鳴り、触覚が揺れ、それだけだった。
「聞きたいことがあるの、ユルゲンス」
 彼は足を止め、振り返る。彼を見上げた瞬間、風が凪ぐよう。
「おれが旅を止めることですか」
「どうして、私がそれを知ってるって」
「ハリーから聞きました。きっとヨカ姐が一番知りたがってる、と」
 どうして私が先に知る必要があるのか、と思いかけ、なんとなく、察する。ハリエットは人の心のかたちを探り当てるのがだれよりも上手だ。
 彼は息を吸い、話し始めた。
 魂が引き込まれるような、淡い響きを纏ったジャラランガは、ふと、ライ麦畑に黒曜のようなまなざしを向ける。
「ライ麦は、おれたちの文明(せかい)に転換の兆しをもたらしました。ただ成っている実を食み、他に奪われる前にため込み、或いは奪い合うだけの生活は終わり、おれたちの営みは次の段階へ進みました」
 食料の確保に追われる時間の分、余裕ができた。余裕が文化を生み、知恵の共有を生み、渇望を生み、ものを錯誤するための時間が与えられた――と、私は聞いている。それは多分、パンが生まれたことであり、パンの効率の良い焼き方を知りたいと思うことであり、パンの味の可能性を模索することだろうと、昔、理解の焼き型の中に押し込んだ。
「おれは、さらに次の転換点を求めて旅をしました。おれたちの文化の先を行く、人間たちの世界を拝借し続ければ、いつかもう一つ先の段階へと進むことが出来ると信じて」
 でも、と彼は息を継いだ。
「彼らの足跡をたどれば辿るほど、それは人間の歩幅であり、おれたちの歩幅ではないことに気づかされたのです。すでに彼らは、『生き物としての文明』を超え、『人間の文明』にたどり着いていた」
「えっと……私たちにはもう真似できない、と?」
 彼の話は小難しい。たどたどしい私の問いに、彼はあいまいにかぶりを振った。肯定はせず、かといって否定もし難いというのが本音であるらしい。
「伝道師たちがあらゆる物事を持ち帰り、組み立て続ければ、いつかはたどり着くかもしれません。でもおれは、それを望みたくはないのです」
珍しく、言葉より感情が先行しているようだった。まだ透明な気持ちの輪郭を探るように、つたなく、熱を込めて、彼は言葉を積み上げる。
「おれは、いつか来訪するだろう、おれたちの文明の可能性を捨てたくない。美しいものを生む人間たちを尊敬しているからこそ、彼らと並びたくて、そのために、おれはこちらで出来ることを探そうと思って――」
 けれど、とユルゲンスは遠くを眺め、息を詰まらせた。横顔に暗がりが差す。
 彼の視線の先は、広がる麦穂の黄金郷のさらに向こう側で、私には眩しすぎて何も見えない。
 彼は少しして口を開く。珍しく、言葉を迷っていた。
「そういう風に、領主様にはいいました。けれどあの人は、きっと見抜いていたと思います。おれのそれは建前でしかない。本当は、もうすでに、諦めているのだと」
 私は、彼の言葉を通して彼の軌跡を聴くことが出来る。
 けれど音は不完全なもので、それだけですべてを分かろうとはできない。紡がれる輝かしい詩の間隙、息継ぎの中にあるだろう傷口の形は、私には分からない。
 見せかけで繕うのは簡単だろうけど、私はそれをしなかった。
「そう」
「……聞かないのですか、おれがどうして諦めてしまったのか」
 彼は難しい顔のまま、夕日に眼差しをくらませていた。彼の手を取り、帰り道のほうへ引く。
「話したいなら、もうとっくに喋ってるでしょう」
 私の返しに、彼は何かを言いかけて、それからゆっくりと口を閉ざした。
 切れかけの、いっとう輝く夕の茜に炙られて。
 私たちはひそやかな帰路をたどる。





 夕餉を済ませ、夜を待つ。
 途中ハリエットが帰ってきたかと思えば、しばらく孤児院のほうに泊まるからと身の回りの品を背の甲羅の中に放り込み、足早に去っていった。そんなに気を利かせなくとも、と思いつつ、彼も彼なりに大人ぶろうとしているのだろう、と私たちは結論付ける。
「お腹いっぱいです」
「お粗末様。もう休む?」
「少しだけ、夜の空気を吸ってから休もうかと」
 すぐ戻ります、と言い残し、彼はふらりと外へと出ていった。
(大丈夫かな)
 夕餉のさなか、彼はいつもの調子の語り口に戻っていた。いつものように食卓の静寂を埋めようと、彼は旅の途中で出会った物事の話をし、私の知らない言い伝えの話をし、出会った人のことを愉快気に話した。それがまるで自分の務めであるかのように。
 手早く食事の後片付けをして、後を追うように家を出て、しばし歩く。彼が夜に溶け込みたいときの場所など、昔から一つしかないことを私は知っている。

「ユルゲンス」
 水汲み広場の一角の芝生の上に座り込み、彼は空を見上げていた。視線の先は灰色の雲が分厚く広がり、空の色は見えない。
「おれがいつもここに来ること、よく覚えてましたね」
 私は彼の隣に腰かけた。彼はそこまで驚いた様子もない。
「まあね」
 私は、彼が好きになったもののことを何一つ知らない。けれど、彼が好きなもののことは全部知っていた。夜の水汲み広場の、騒がしさを許さないような空気を、本当は何よりも好んでいることも。
「いまは、大した話もできそうにありません」
「伝道師さまにお話を伺いに来たんじゃないもの」
 そうですか、と彼はつぶやき、それきり口を閉ざす。私も何も言わなかった。

 きん、と張り詰めた夜気の中、私は耳を澄ませる。
 灰曇りの空はどうどうと流れ、眠りの前のつかの間の団らんを楽しむ家族の声がどこからか聞こえていた。
 煌々たる満月の輝く音が、夜の街に遠鐘のようにして響いていた。
 やがて遠くの麦穂の隙間を縫うだろう、街をなぞるようにして抜けていく、秋の夜の冷たい風の唄が流れていた。
 すべて幽かな音色だ。隣でひしがれるジャラランガには聞こえていない。私に麦穂の黄金の先が見えなかったように、彼にはきっと何も聞こえてはいないのだろう。
 タブンネは知っている。すべての音は輝きを纏って放たれ、やがて去っていくことを。四季が流れていくように、音もまた、そうであることを。
 そしてて、私は知っている。すべてが去った後に訪れる静けさが、誰かと分かち合える二つのうちのひとつであることを。

 永劫のような時間を経て、やがてどちらともなく私たちは寄り添った。
 伸ばされた手が私の体を抱き寄せる。鎧のように並ぶ飾り鱗の下、細かく生える小さな灰鱗のざらついた感覚と、ほのかに伝わる命の熱。心臓の鼓動が、強く、強く、響く。
 彼はその体を強張らせていた。横目で彼を見れば、ついぞ見ないような、とても珍しい顔をしていて、私は彼の背を押すように微笑んだ。
 意を決したように、二三と息を吐き、そうして、彼はささやいた。伝道師らしからぬ、不器用で、いびつな音色。
「ヨカさん、おれのつがいになってください」
 震える彼の声に、私は「はい」と言った。

 互いの口が塞がる。
 彼の尻尾が私の体を絡めとる。
 ひとりとひとりの鼓動が、いま、ふたりの鼓動に変わる。

 そうして私たちは、静けさを分かち合うことを決意した。





 曇天は朝まで続いていた。窓越しに伝う外気は冷たく、しっとりとしていて、今にも雨が降り出しそうな予感がする。そのせいか、外を歩く人影はほとんどない。
「おはようございます、ヨカさん」
「はい、おそようさま」
 衝撃の三度寝を経て、ユルゲンスはようやく目覚めたようだ。
 ぐわあ、とドラゴンらしい大口で、ドラゴンらしからぬ腑抜けたあくびを浮かべる彼を、私は席に着くように促した。
「いい匂いがします」
「なんとか焼きが間に合ってよかった」
「なにか困難が?」
「あなたの寝相。ベッドから這い出るのも一苦労だったもの」
 なんとまあ、と言い、それから何かを思い出したようにユルゲンスは顔を赤らめた。私も、同じように。
 気まずくも至福に満ちた沈黙から逃げるように、窯から引き出した焼き型をひっくり返せば、岩塊のような大きさのロッゲンブロートが現れる。薄黄金色の焼き色と、ほかほかと漂うライ麦の香り。
 私は私の分を少量切り分け、残りの岩塊をそのまま彼の皿に置いた。彼は目を丸くする。
「大きいですね」
「ですから、ゆっくり食べてください」
 いただきます、の声が重なる。
 私たちは、それぞれの大きさの、同じ味のパンを口いっぱいに頬張った。
 突き抜けるような香ばしさと、舌に絡む酸味。ライ麦の滋養に満ちた味わい。
 咀嚼の音だけが聞こえる静かな世界で、ふと、視線が結ばれて。
 私たちは、音もなく笑った。


あとがき
 久しぶりに書きたくなったので帰ってきました。お久しぶりですはじめまして、もよよです。
 いつもはコズミックだったりミソロジーだったりそういうものを書き散らしているのですが、たまには男と女のしっとりしたロマンス書きてえなあ、書くか! みたいなノリが発端となって、こうなりました。結果として入賞こそ出来ませんでしたが7票も頂いたそうで、本当にありがとうございます(余談ですが7票でなお4位という結果に驚いています。Wiki、ヒト、イッパイ、オデウレシイ)。
 昨今流行りのニンサザみたいなドラゴン・フェアリーのカップリングをやろうと思い、目を付けたのがジャラランガでした。そこから音つながりでフェアリータイプっぽいタブンネを引っ張り出し、音色と静寂をテーマにしてうまいことやろうと息巻いたのはいいんですが、書き始めて半分ぐらい経ってタブンネがノーマルタイプだと気づきました。イェーイ! 破綻!
このエピソードでお察しの通り、相変わらずノープランノープロット一発勝負でお送りしています。これからも雰囲気でストーリーテリングしていきますのでよろしくお願いします。
余談ですが、描写の参考のためにライ麦パンを焼き上げる動画を鬼リピしていました。夜に見るもんじゃないなと思いました。はらへるて。

以下コメント返信です。
・風景や音を綴る言葉選びの美しさ。ヨカとユルゲンスと結ばれるまでの過程の美しさ。まるで本当に伝道師の声を聞いているような気持になりました。 (2022/07/03(日) 11:37)

ヨカさんが聴覚に優れたタブンネであり、ユルゲンスが見聞きしたものを伝える役割を担っているので、いつもより音の描写や風景の描写を意識して盛り込みました。詩吟のような物語であったのなら、狙った通りになってよかったなあと思います。

優しい言葉で紡がれるファンタジーに引き込まれました。鋭敏な聴覚を持つタブンネの聴く世界が素晴らしかったです。 (2022/07/05(火) 22:11)

・作中でも出てきましたが、同じ世界であっても、種族が違えば捉え方も変わるのだろうなあと思いながら書いていました。せっかくの一人称なので、少しでも音に鋭敏な種族の感覚を味わって頂けたらなあと色々描写を錯誤しています。

どこが好きかと問われれば、だいたい全部好きです。雰囲気がいいですよね。書き出しから唸らされました。 (2022/07/05(火) 23:01)

・手前味噌ですが、今までの作品の中で一番いい書き出しができたなと思っています。世界観づくりにも一役買ってくれたなあと読み返して思いました。

「掴み」の部分である序盤の描写がとても丁寧で見事でした。後半に少し描写が控えめになるのはストーリー展開の他に、「I thought what I'd do was, I'd pretend I was one of those deaf-mutes.」という意味も含まれているのでしょうか? いずれにせよ、素敵なお話でした。 (2022/07/09(土) 08:21)

・英文のフレーズ「僕は耳と目を閉じ口を噤んだ人間になろうと考えたんだ」は「ライ麦畑でつかまえて」(邦題で失礼します)の一節でしょうか。ライ麦という共通点からどこかしらのフレーズは着目されるだろうなあと思っていました。
 作者が勝手に言っていることなので気にしないで頂きたいのですが、ホールデンの望む痛みから背くための沈黙と、今作の静けさは真逆の意なのではないかと思います。
つまり、今作での静寂は、聴覚に長けたヨカがそうではない人と寄り添うために待つものなのですね。(ちなみに後半が控えめなのは文字数……制限……都合……みたいなアレもあれです)

描写の一つ一つや物語の締めくくりまでとても美しいお話でした。 (2022/07/09(土) 20:33)

・ありがとうございます。何かひとつでも感じ入るものがあれば、作者冥利に尽きるというものです。

詩的な語り口に淡いロマンス!
短編ながらバランスがよくて、個人的に印象に残りました。 (2022/07/09(土) 23:02)

・あまり派手で激しい物語を書くのは苦手なのでいっつも「盛り上がりが足りない」とご指摘を頂くのですが、今回はもう逆に振り切って静かに淡く進めていこうと思いました。多くの作品があるなかで、三本の指に止まって頂いたようでとてもうれしいです。

上手く言葉に出来ないのですが、この美しい文体と世界観に圧倒されました。
1行目の "タブンネの季節は耳の先からやってくる。" 趣のありすぎる表現でむっちゃ好きです。
ユルゲンスさんとヨカさんの関係性も素敵で、とても楽しませていただきました。ありがとうございました。 (2022/07/09(土) 23:40)

・言語化の難しい感動を与えることが出来たのだなあ、とうれしく思っています。一行目の表現はしばらく引きずるぐらいには自分も好みです。

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  • 彼の尻尾が私の体を絡めとる。
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Last-modified: 2022-07-13 (水) 21:58:29
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