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アンビバレンス

/アンビバレンス

作:稲荷 ?






眼を見開けば、そこはベッドの上であった。
見知らない風景ではあるが、心拍数を告げる電子音が静かな部屋に鳴り響いていたので、ここが何処かの病院であるということは理解できる。
ぼんやりとした蛍光灯の灯火が眩しく思え、僕は眼を擦りながら、身体を起こした。
全身が痛むが、僕はそれよりも今の現状を確認したい。
心電図のコードをグラエナ特有のかぎ爪で掻き切るとベッドからゆっくりと飛び降り、四肢を床につけてみた。
あまり力が入らないが、それでも覚束無い足取りのまま、病室を出ようとする。
「ガルムさん?気がつかれたのですか?」
閉ざされた扉の反対側から何かを問いかける声が聞こえる。
「開けますよ?」
僕は力が入らないのであるから、ただ無力に立ちすくむばかりであった。
金属の軋む音とともに白衣を来た看護士らしい女性とラッキー、そして青服の警官が部屋へと流れ込む。
「ああ、よかった。気がつかれたのですね」
看護士の安堵は僕には到底理解出来るものではないが、とにかく、僕は何故此処に居るのだろう。
そう尋ねようとして、口の中が異常に渇き切っていることに気がついた。
掠れた空気の音だけが、虚しくも口から溢れるのである。
「全く、心電図が途切れましたから、驚きましたよ。さあ、ベッドに戻って下さい」
今度は医者が薄ら笑みを浮かべてそう言った。
悪意は無さそうではあるが、僕は突然のことに混乱していたせいか、その指示には従わず、黙って医者を睨んだ。
正しい判断がどうにも下せそうにない。
「ガルムさん。指示に従って」
今度は青服警官が強い口調でそう告げる。
どうやら僕は何やらやらかしてしまったらしい。
この身体に力が入らないのも、そのせいか。
僕は声が出ないので頷くと、蹌踉けながらベッドへと戻る。
自分の鋭利な爪で切られた心電図のコードを払うと、心拍停止を告げるブザーの電子音が実に耳障りに思えた。
「ラッキーですね。お水をどうぞ!」
ラッキーは器用な手先で机に水の入った皿を置いた。
グラエナという種族柄、人間のように上品に水は飲めない、舌で水を掬い取らなければならないのだ。
僕はまるで砂漠の遭難者のように水を飲み干すと、この異常な口の渇きを治めようとした。
「大丈夫そうですので、私はこれで」
青服警官は医者と看護士に敬礼すると、憎らしげに僕を一瞥し、そのまま部屋の外へと立ち去った。
果たして何故僕がここにいるのやら。
「あ、あの....ぼ、僕はどうしてここに?」
ようやく掠れた空気音以外の声を発せる事が出来た。
「あなたはマンションの一室から顛落したのですよ?覚えていませんか?」
顛落、そう言われても僕の記憶は何も答えてはくれない。
どうやら、僕の記憶はどうもおかしくなっているようだ。
空になった水入れの容器を差し出すと、僕は頭を抱えた。
「...まあ、酷い有様でしたからね、軽い記憶障碍かもしれません。今度綿密な検査をしますので」
「記憶障碍....ですか」
僕はそう反芻すると、恭しく医者を見つめた。
50代は超えてるであろう白髪の男で、なるほどと人を唸らす様な貫禄も幸いな事に持ち合わせている。
「あの警官は?僕が顛落したことを調べているのですか?」
喉が潤えば、今までの疑問が噴出し、歯止めが利かなかった。
とにかく、僕は不思議で、そして酷く怯えてしまっていたのだ。
「ああ、その件に関しては、まあ、やがてお話があると思いますが、気になさらずに」
医者は少し目を逸らして言った。
何か怪しいと僕は考えたが、記憶障碍のせいだろうか、ぼんやりとした思考からは何も浮かばない。
「まあ喫緊の問題では無いので。焦らずに、十分に回復してからです」
「そう...ですか」
僕は真実を知れない事に落胆しつつ、どうしようもないと諦観していた。
そもそも病院にいて、そして僕の身体能力も今は衰えきっている。
反抗することは得策とは言い難い。
「それではガルムさん。ゆっくりお休みください。部屋からは出ないで下さいね」
そう医者が告げると、僕は素直に頷いた。
僕はガルムという名前らしい。
蒙昧な意識の中、僕はその名前に奇妙な違和感を覚えていた。
いや、確かに僕の名前はガルムに違いない筈ではあるが、その名前を他人から呼ばれる事に言い様も無い抵抗感を覚えてしまう。
そもそも僕の曖昧な記憶は自分の名前も、そして恐らくは持っていたであろう出生についての情報も思い出す事が出来ず、いよいよ記憶障碍は深刻なのだと悟る。
看護士と医者、そしてラッキーが立ち去ったのを僕は確認してから、閉め切られていたカーテンから外を見つめた。
「.....」
太陽の位置は既に低く、斜陽が眩しく眼下の国道を照らし上げていた。
桜の時期らしく、歩道は桜の花びらによって絨毯が敷かれたかのような有様だ。
この病院の向かい側はどうやら大きなホテルになっているようで、ガラス張りの壁からは紅い絨毯の敷かれた、広大なエントランスホールが見える。
全く見覚えがないので、僕はただの風景としてその姿を焼き付けると、ベッドへと四肢を投げた。
流石に病院だけあってふかふかである。
「....僕は、何したんだろう」
僕は深い眠りへと落ちるべく目を瞑った。
そうすれば、何も分からない、恐ろしい現実が逃れれるはずだと思ったからである。












次に目を覚ましたのは、夕日一色に染まった学校の教室であった。
「....あれ?」
僕は一番隅の窓際で、今の今まで居眠りしてしまったのか、学生帽を落とさぬように訝しげに周囲を見つめる。
「僕の学校?」
黒板を見れば、第84回卒業式と題され、多くのチョークによって彩られた文字が描かれているの見えた。
机と椅子も綺麗に整頓されているし、生徒の私物らしいものは何一つない。
窓から校庭を覗いてみても、外は夕焼けで眩しいし、人らしい影すら見えなかった。
「ここは、桜ヶ丘高校かな」
何故だろうか僕は自分の母校を口にしつつ、グラエナらしく飛び降りて、クラスから廊下へと飛びだした。
妙に動き辛いのは、綺麗にアイロンがけされた学校の制服を着ているせいだろう。
もとより、僕らグラエナにそんな計らい不要なのだが、今日は卒業式なので学校が着てくるようにと言ったに違いない。
廊下にも誰もいない。
僕は階段まで走ると、妙な緊張感を覚えた。
どうやら、ここは僕の過去の記憶のようだ。
蒙昧な記憶が、僕にこの悍ましい記憶の数々を追体験させてるに違いない。
「ガルム君」
不意に階段の踊り場から声を掛けられた。
見ればそこには生徒らしい若い女性の人間がいる。
「あ....」
いままで曖昧で、靄がかかっていた記憶の数々が微かに晴れた気がする。
彼女は僕の同級生だ。
名前は高梨百合。
白く透き通るような黄色人種とは思えないほどの白い肌と、深い樹海のように暗く、そして黒真珠を思わせる双眸、であるが、その双眸には必ずや明確な意志を感じさせる光を宿らせていた。
早い話、僕の様な卑小なポケモンとは釣り合う筈の無い美貌を兼ね備えているのだ。
「た、高梨さん...何故ここに?」
僕の質問に高梨は首を傾げて答えた。
「何故って...あなたがここに呼び出したんじゃない」
「呼び出した....?僕が...?」
そこで、僕は奇妙な感覚に囚われ、凡そ形容し難い恋の熱情なるものを思い出したのだ。
そうだ、僕は卒業式の終わるあの日に、彼女をここへ呼び出したのだ。
酷く古典的な誘いではあるが、それも僕の気持ちを伝えるためである。
今の僕から見れば、凄い他人事のように思えるが、この当時の僕はきっと緊張していたに違いない。
顔から火が出るほどまで真っ赤にして、耳の後ろが熱く、呂律の回らない姿を思い浮かべると告白など到底似つかわしく無い。
「ああ、そうだったね」
僕は改めて彼女を見据えると、あの時と同じように告白することにした。
僕の知り得る行動はそれだけだから、他に何をすべきか分からない。
「実は高梨さん。ずっと前から君のことが大好きでした!」
考える間もなく、過去の記憶の僕はそう告げたはずである。
そして僕が覚えている通りならば、彼女は少し戸惑った様な表情をし、やがて笑みを見せ、その告白を寛大にも受諾してくれたはずだ。
頭を下げる僕は、彼女の返答を待った。
彼女は困っているのか何も言わない。
「....」
それでも僕は待つ。
きっと当時の僕はこの時間が異常なまでに感じられただろう。
卒業式の夕方に告白なんて、随分と粋な事をするものだ。
「....」
長い、僕はこの四足歩行独特の土下座スタイルが厳しく思えて来た。
後ろ足がピクピクと震えだす。
僕は少し待ちきれなくなって、後方へ蹌踉けた。
「....」
それでも何も言わない。
僕は上目で、微かに何があったのか様子を探るべく、彼女を見た。
しかし、そこに彼女は居なかった。
「...あれ?」
そもそも、そこは卒業式を終え、夕日に暮れる階段の踊り場などでは無かった。
『次は、桜ヶ丘ー、桜ヶ丘ーです』
僕の手には就職の決定を知らせる合格通知書と、社会人としての手引きがあり、完全に列車の中だ。
喧噪と雑踏に揺れる列車の中、僕は正しく土下座のような形をしながら自分より背の高い人々に襲われないようにしていたのである。
「桜ヶ丘。桜ヶ丘。お出口は右側です」
どうやら次の場面に移ったらしい。
僕はこれも追体験の一つなのだと理解し、人々の流れに流されつつ桜ヶ丘の駅で降りた。
帰宅時間帯のせいか、いつもは閑散としきっている筈の駅の広場には、多くの人々が雑踏の中帰ろうとしていた。
バズロータリーにも長蛇の列が出来、あまり売れてなさそうなカフェにも、不味いファストフード店にも人が入り乱れている。
「ガルムさん!ほら!こっちですよ!」
ファストフード店からの聞き覚えある声に、僕は引きつけられ、怪訝そうにそちらを伺う。
どうも、そこには見慣れた姿があり、僕の同僚であるタツベイが窓際のテーブルに陣をとっていた。
「...今度はなんだろう」
果たして僕は僕自身に何を伝えたいのだろう。
僕の記憶ならば、さっさと思い出させて欲しいのだが。
「就職決まったんだって?御目出度う!」
「ああ、有難う」
僕は愛想笑みを浮かべ、就職の合格に歓喜する友人を眺める。
「これで百合ちゃんは専業主婦になるのかい?」
僕は無言でいつの間にか、正しく言えばご都合主義的にその場に出て来た珈琲を一口飲んだ。
どうやら、あの告白は無事済んだ事になっているようだ。
「ああ、子供が出来たら...そうなるよな」
そんな事を言っていると、僕の心底より、何か猛烈な愛憎入り交じった何かが噴出するのを感じた。
しかし、それを無視するように僕は変な疑問を抱く。
そもそも人間とグラエナで子供が出来るのだろうか?
奇妙な疑問が脳裏を掠め、そして交わりたいと思う下劣な自分に少しうんざりであった。
「グラエナって長いンだろ?」
そんなタツベイの最低な質問にも僕は笑顔で彼の頭を軽く殴る。
「馬鹿。お前は中坊か」
「いて、悪かったよ」
タツベイは僕を見つめて多少、からかった様な笑いを浮かべた。
見れば周囲の人々は苦笑いで静かに此の場から離れて行く。
「全く。僕はもう帰るよ」
「ああ、呼び止めて悪かったな。お幸せに」
僕はタツベイに一礼すると、再び群衆溢れる広場へと向かった。
枯れ枝ばかりの梅の木々を見つめるのはどうも物悲しく、寂寥の念がこみ上げて来る。
だが、そんなこと気にしていられる筈が無い。
恐らくは百合の待つ家へと帰らねば。
しかし僕は何故かは知らないが、迷う事無く自分の家に帰る事が出来たのである。
「...あれ?」
気がつくと、僕は両手に何も持っていなかった。
厳密には銜えていないし、そして暑苦しいスーツじゃなくなっている。
それに先ほどまで夕暮れに包まれていた風景は一変し、太陽が空高くから暖かな陽光を照らし続けているのが見えた。
「また...変わった?」
酷い頭痛が僕を襲う。
僕の家は13階立ての大きなマンションだ。
最高階であるここからは、先ほどの駅と、地平線の彼方へと伸びる鉄道網が展望出来る良物件である。
「きゃあ!お願い!やめて!」
鉄製のドアの向こう側から、百合の悲鳴が木霊する。
僕は全身に鳥肌が立ち、猛烈な頭痛に苛まれつつも、玄関の扉を開けようとした。
しかし、鉄製の扉は軋むものの、開く事は無く、其れどころか僕の頭痛は開けようとするたびに酷くなっている。
「思い出したく無いのかっ!くそぉ!」
僕は扉へタックルを試みる。
通路が狭いのであまり助走は出来ないけれども、マンションのドア程度ならば破壊できるはずだ。
目論み通り、ドアは少し拉げて部屋が辛うじて覗ける隙間が生まれた。
奥の部屋の扉が閉まっていて、何も見えない。
胸騒ぎが酷い、心拍数も跳ね上がっている。
僕は再び扉を突き破るべくの体当たりを敢行した。
弾ける扉の金属製部品。
だが、そんなことを厭わずに僕は部屋へと転がり込み、リビングへと通じる木製の扉を同じように突進で強引に突き破ると、百合の姿を捜した。
しかし、そこには、あまりにも筆舌尽くし難い、恐ろしい光景が。
僕は思わず唖然とした。
そして、漸く蒙昧なる意識の根底にあった、恐ろしいものの正体を突き詰めたのである。
壁に這いつくばる形で喉元を抉られ、死んだ百合の姿。
そしてそのすぐ隣で微笑みを浮かべながら、優越感に浸る化け物―――否、自分。
「ガルム!」
僕は絶叫した。
微かに警察車両の警報音が聞こえる。
よく見れば、死んだ百合の片手には携帯電話が握られているではないか。
「...君は僕か」
相手は人を殺したとは思えないほど落ち着いた声で僕に告ぐ。
「お前!百合に何をした!」
次々に僕の中からは百合に関連する記憶が呼び起こされつつあった。
自分でも分かるほどに僕は動揺し、そして赫怒するほどの惨状だ。
「何をするも、僕は彼女を愛している。だから殺した」
正気ではなかった。
しかし、僕には何故かその形容し難く、なんとも言い様の無い感情が正当のように思えてならないのだ。
身体の震えが止まらない。
「お、お前は僕じゃない!お前はただの殺人鬼だ!狂ってる!」
口元から血を滴らし、ガルムは僕との距離を少しづつ縮める。
それも酷く余裕を持っている。
「...感じないかい?僕は彼女のことを愛してる。だからこそ、虐めたくなる。分かるだろう?君もそれほど鈍感ではないはずだ」
そう一言間を置いて、ガルムは続ける。
「世間じゃ僕らはいつも虐げられるんだ。こんな趣味、往々にして受け入れられない」
「当然だ!お前はおかしいぞ!」
どうやら、あれは僕の独善の塊のようで、僕自身に巣食うエゴイズムの塊であるようだ。
「自分の愛情表現なんかのために、最愛の彼女を殺すのか!」
涙で声が震える。
僕は、どうしてしまったのだ。
「...人はそもそも利己に生きるものだ。僕は、彼女に僕らしい最高のプレゼントをしてあげたんだ。僕は大好きだって意思表示を、この行為に求めたんだよ」
「ふざけるな...全部、お前の偏見だ!彼女が喜ぶはずないだろう!」
事実、彼女は警察を呼んでいる。
結局のところ、此の行為の行き着く果てはこうなのだ。
「でも、知ってるんだ。僕の思いは理解されないって。僕はずっっと息を潜め続けてた。彼女に痛い事をすれば嫌われる。そう思って、心の片隅で怯えて暮らしてた」
警察車両がマンション前まで辿り着くのが見えた。
目も眩む赤色灯が窓からちらほらと入り込む。
「だけどね、僕はこのまま彼女と何ら変哲の無い生活より、思いを伝えて実践したほうがいいと思ったんだ。その方が精神衛生上、僕が苦しむことはない」
あまりに身勝手、こんなものはエゴであり、許されざる暴論では無かろうか。
だけど、今の僕には何もすることが出来ない。
僕はそう、彼に負けて、罪を犯したのだ。
現実世界じゃ、僕は抗う事など出来なかったのだ。
彼女の死体が目に浮かぶ、必死に抵抗するのを僕が力づくて組み伏せ、涙する彼女に遠慮無く食らい付く。
涎が溢れて来る。
「ちくしょお!くそ!こんな狂った感情、糞喰らえだ!僕はどうしちまったんだよ」
涙と涎で、僕の顔はもうぐじゃぐじゃだ。
だけど、ここでまた現実のように彼女を襲うわけにはいかない。
僕は彼女を護るべきであったのに。
僕は彼女を愛していた筈なのに。
警察が下のホールに入ったのか、騒がしい怒号が聞こえる。
もう逃げることは不可能だ。
「ガルム....もう、これ以上、他人に迷惑を掛ける前に...」
僕は牙を剥き、爪を剥き、そして吠えた。
全身全霊を持って、この野蛮な欲望の塊を殺すため、僕は自分自身へと食らい付いた。
僕自身は猛烈な抵抗を見せ、怒号を上げて喚き散らす。
しかし、僕は自分の首に噛みつくと窓際のガラスへと押し寄せ、渾身の力で自分を叩き付ける。
ガラスはいとも容易く砕け散り、美しい硝子の雨を眼下のマンション前へと散らした。
「百合、ごめん」
僕は不敵な笑みを浮かべ、そして足掻いてみせる自分自身を下に、マンションの13階から勇敢な特攻を計る。
外は酷く冷えている。
これほどまでに寒い町は初めてかもしれない。
「お前も、やがてはエゴに溺れるぞ!世界は利己ではないと生きて行けないのだ!やることやって!それが人生だろう!」
飛び降りる最中、僕自身は薄汚くもそう吐き捨てた。
だけど、僕はもう耳を貸さない。
そのまま、迫るアスファルトの大地へと、この屑とともに。














「大丈夫ですか?ガルムさん?」
目を見開くと、そこは蛍光灯の灯火だけで明るく染まった病院の一室だった。
看護士と医者、そして数人の警官に囲まれている。
「....ぼ、僕は?」
「酷い悪夢に魘されていたんですよ?」
シーツは汗でぐっしょりと濡れていた。
相当魘されていたことは自分の息の荒さと心拍数の異常さから伺い知れる。
「なんだ。大丈夫ですか」
警官達も安堵したかのように互いに顔を見つめ合う。
この警官達は僕を逮捕するべくにいるに違いない。
僕は取り返しのつかないことをしたのだ。
「...僕は百合さんを殺したんですね」
僕は半開きになったカーテンから外を見つめて言った。
外ではホテルのネオンが美しく瞬いている。
「....ガルムさん?記憶障碍では?」
医者は少し間抜けにも僕にそう問いかけた。
「いいえ、僕は思い出しました。僕は、実に恐ろしいことをしたのだと」
医者は当惑し、そして警官達は僕のことをじっと見つめている。
「僕は彼女の喉元に食らい付き、そしてそのまま、窓から飛び降りた」
もう、覆せない事実ならば、僕は反抗などしない。
ただ、本当に百合に償いをしたい。
これから訪れるであったはずの幸せを、彼女から奪ってしまったのだ。
不思議な事に、彼女を殺す原動力となった、恐ろしい感情は全く湧いて来なかった。
まるで、その感情も死んでしまったかのように、僕の胸に熱く煮えたぎる様な物は全く現れなくなってしまったのである。
「...これは逮捕状だ。ガルムさん、君を高梨百合殺害の容疑で逮捕する」
警官は深刻そうな表情でそう言った。
「起き上がれます?」
僕は無言で頷いた。
もう、社会復帰だとか、そんなものは不可能であろう。
でも、僕は償わなければ。
この薄汚れた世界で苦しみ続けなければ。
僕はもう、二度と欲望に負けてはならないのだ。
苦しみ、悶え、足掻かなければならない。
「退院の手続きをお願いします」
僕は静かに外を見つめた。
誰もいない国道に夜桜が鮮やかに浮き上がって見えた。
さあ、僕の人生は終わらない。
これから生き地獄を味わおうではないか。
それが、辛苦を潜る事こそ、僕の償いなのだ。


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Last-modified: 2014-03-26 (水) 00:49:00
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