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ふらいとらべるしょーと2 千本社

/ふらいとらべるしょーと2 千本社

 作呂蒙


 新年度が始まって、間もない頃、結城はゼミナールの所用でゲームで言うところのジョウト地方に来ていた。遊びに来たわけではないのだが、肝心の所用はお昼過ぎで終わってしまった。状況が状況なので、さっさと関東地方へ引き返すべきなのだが、結城がそんなことをするはずがなかった。
「夕方の新幹線まで、時間があるから、どこか名所でも見てから帰ろう」
 と、言い出した。ポケモンと一緒に暮らしていると、健康面から見ても、家に引き籠ってばかりいないで、定期的にどこかへ連れていってやるべきなのだが、こういうご時世なので禁止というわけではないが、頻繁にどこかへ出かけるのも憚られる。
 大きいサイズのポケモンは弄繰り回すには十分過ぎるが、ずっと家の中に置いておくのは色々とよろしくない。そんなことを思いながら、連れのフライゴン・ナイルをちらちら見る。
「なに? ご主人?」
「別に~? まあ、しいて言うなら、そろそろ降りるから準備しておけよってくらいかな?」
 乗ってきた東海道線の新快速電車を降りる。この駅で結城たち以外にも多くの客が降りた。意外だな、と思ったのは乗客の多くが降りたのに対し、電車に乗る客はほとんど見られなかった。お隣で、例のウイルスの感染者が急増しているのが影響しているのだろう。
(やっぱり、人が多いな。さすがは日本有数の観光地)
 ここは、京都駅。百万都市でもあり、かつて日本の朝廷が置かれていたところである。仕事と思しき人、観光にやってきたと思しき人が、ホームを歩いている。
 すぐにでも街歩きに繰り出したいところだが、まずは昼食を済ませなければならない。
(どうしようかな……)
 店は決めていなかった。京都タワーの脇を通り、烏丸通りを北へ歩く。空は雲一つなく、日差しはあるのだが、風が冷たかった。そのため、陽がさんさんと差している割には、あまり暖かく感じられなかった。
 ところで、この烏丸通りの左手には、塀で囲まれた建造物がある。結城は中には入らず、御影堂門を見ただけだったが、ここが東本願寺である。
 本願寺は浄土真宗の寺であり、戦国時代に鉄砲で武装した信者集団が織田信長との10年にわたる合戦(石山合戦 1570~80)を繰り広げたことで知られている。現在の本願寺の中心は京都だが、16世紀中頃は石山、現在の大阪城が建っている場所が本拠地であった。
 石山本願寺は寺というよりも、周りを堀に囲まれた難攻不落の要塞都市であった。また、多方面に敵を抱えたこともあり、対本願寺に全兵力を投入することは不可能であった。天正4(1576)年には本願寺側は攻勢に出て、天王寺にあった織田方の砦を包囲した。この砦の守備を任されていたのが、後に信長に謀反を起こす明智光秀(1528~82)であった。
 戦上手の光秀も天王寺の砦に籠城を余儀なくされ「あと3日、持ちこたえるのも難しい」というところまで追い込まれていた。信長は光秀救援のため、すぐ近くの河内まで来ていたが、あちこちで合戦が繰り広げられていたために、なかなか兵が集まらなかった。
 天正4年5月7日、もはや一刻の猶予もないと見た信長は、3千の手勢で天王寺を包囲している1万5千の軍勢に強襲をかけ、包囲軍を蹴散らし、光秀と合流すると、砦を打って出て再び本願寺の軍勢に強襲を敢行した。籠城するとばかり思い込んでいた織田軍のまさかの突撃に本願寺は多くの兵力を失い、籠城戦に切り替えた。そして、中国地方の覇者である毛利にも援軍を要請した。
 信長は本願寺を完全に包囲するために大阪湾に水軍を展開して、海上封鎖を試みるも、9月に援軍としてやってきた乃美宗勝(1527~92)率いる毛利水軍に惨敗し、海上封鎖は破られ、本願寺に物資の搬入を許してしまう。この第1次木津川口の戦いと呼ばれる海戦の2年後、織田水軍と毛利水軍は再び、水上で相見えることになる。この時、織田水軍は鉄でできた大型軍艦を用意し、毛利水軍を破ったと伝えられている。
 完全包囲され為す術がなくなり、天正8(1580)年8月、石山合戦は終結した。ただ、信長の勝利と言っても、実態は正親町帝(1517~93)の仲裁による信長優位の和睦、つまりは仲直りであり、本願寺勢力を壊滅させたわけではなかった。
 石山合戦時の本願寺最高指導者・顕如(1543~92)の子供の代に御家騒動が起きて、本願寺は東西に分裂した。その片割れが東本願寺である。御家騒動で分裂はしたものの、浄土真宗そのものは現在も続いている。
「ねえ、ご主人。お昼御飯はどうするのさ?」
「え? ああ、昼飯?」
 ナイルが早く飯にしてくれというので、結城はあたりを見回すが、左手には東本願寺。右手には……。餃子のチェーン店があるのが見えた。
「じゃあ『餃子の香車』にするか」
 結城からしてみれば、特に「これが食べたい」というものは無かった。とはいえ、パンとミルクだとか、おにぎりとお茶だと、夕飯まで持つかどうかという懸念があった。
 横断歩道を渡って、餃子店に入る。昼食時のピークは過ぎたため、店内はがらんとしていた。
(どうしようかな……)
 メニュー表を見てしばらく迷う。結局、結城が頼んだのは、ラーメンと餃子という迷った割にはごく普通の物だった。
 注文した時、餃子は注文してから焼くので、ラーメンの方が先に来るとのことだったが、先にやってきたのは餃子だった。
(あれ? 餃子の方が先にやってきたぞ。ま、いいか)
 食事をとりながら、どこに行こうか考えていた。東京に戻る新幹線までは3時間ほど時間がある。待合室で待つには長すぎる。しかし、何ヶ所も見るだけの時間はない。京都は名所があちこちにあるため、全部見ようとすれば丸一日あっても足りるかどうか分からない。
 ラーメンと餃子を平らげ、店を出る。とりあえず、京都駅に戻ることにした。
「ご主人、これからどうするの?」
「う~ん、そうだな……。京都伏見稲荷大社に行ってみるか。電車で数分だし、駅からも近いからな。JRを使おう。京阪電車でも行けるけど、肝心の京阪電車が京都駅を通っていないからな」
 京都伏見稲荷大社は、京都駅から奈良線で2つ目の駅である稲荷駅のすぐ近くにある。電車に乗ってしまえば、京都駅からは5~6分ほどで着く。快速電車は止まらないが、それでも1時間に4本の電車があるので、不便というわけでもない。
 奈良線のホームは8・9・10番線だという。駅の通路は、やはり人が多い。背広姿の人は少なく、私服姿の人が多かったが、地元の利用客なのか、それとも他所からやってきた観光客なのかは判別がつかなかった。
 10番ホームには、城陽行きの電車が発車を待っていた。発車は14時36分とのことである。
 奈良行きの快速電車が発車していった後、程なくして、ドアが閉まり、電車はゆるゆると動き出した。車内に人はまばらで、座席にもまだ空きがあった。
「ご主人、そんなに混んでいないね」
「うん、まあ、1本前の電車がついさっき出ていったばかりだしな」
 電車に揺られ、ぼけっとしているとあっという間についてしまった。京都の見どころの1つということもあり、それなりに降りる客がいた。駅の真ん前が京都伏見稲荷大社であった。全国にある「稲荷社」「稲荷神社」の総本山である。朱色の大鳥居と灯篭が参拝客を出迎える。
 五穀豊穣や家内安全、商売繁盛などのご利益があるという。伏見稲荷大社の起源は平城京に都が移ったばかりの頃にさかのぼるという。だから、1300年くらいの歴史があることになるだろうか。
 伏見稲荷大社があるのは、京都の東山三十六峰の最南端・稲荷山で山そのものが信仰の対象となっていたようである。北野天満宮の祭神である菅原道真(845~903)の政敵として有名な藤原時平(871~909)が延喜8(908)年に多額の寄付をしたという記録がある。
 今日でも格式の高い神社として有名なのが、伊勢神宮だが、当時の伊勢神宮は皇族以外の参拝を禁じていたため、京都からほど近い伏見稲荷に参拝をする貴族が多かったという。「蜻蛉日記」や「枕草子」にも登場している。時代が下ると教養のある武家からも信仰を集めることになった。
 この神社に参拝を行い、栄華を極めたのが平家の総帥・平清盛(1118~81)である。平治の乱(1159)が勃発した際に、清盛はこの神社に戦勝祈願をし、境内の杉の木の枝を折って、お守りとして持ち帰ったところ、乱の鎮圧に成功した。
 それから8年後に、人臣最高位の1つであるである太政大臣となった。この頃の太政大臣という役職は名誉職であり実権が伴っていたわけではなく、清盛も3ケ月で大臣を辞めてしまった。それでも本来貴族の家来に過ぎなかった武家が、貴族社会の頂点に君臨したのは事実であった。
 お稲荷様あるいは平家が崇拝していた厳島神社の祭神によるご加護・ご利益であろうか、清盛の義弟・平時忠(1130~89)をして「平家にあらずんば人にあらず」という栄華を現出した。
 後白河院(1127~92)の后である平滋子(1142~76)や清盛の長男で院とのパイプ役、小松殿こと平重盛(1138~79)が存命の間は曲がりなりにも朝廷や貴族とも協調関係にあった。
 だが、既得権益を侵されることを恐れた後白河院や貴族たちは、平家の急速な台頭に危機感を抱いた。院と平家のパイプ役となる人物が相次いで没したことも両者の対立に拍車をかけた。
 治承3(1179)年11月、この頃になると後白河院はあからさまに平家外しを考えるようになっていた。この動きに対して、清盛は軍勢を率いて京都に乗り込み、反平家の急先鋒で関白の松殿基房(1144~1231)や太政大臣・藤原師長(1138~92)をはじめとする貴族たちの官職を剝奪し、流刑に処した。
 また後白河院も鳥羽離宮に幽閉し、空席となった関白には清盛の娘婿である近衛基通(1160~1233)を据え、平家の一門や平家と親しい貴族に官職を与えた。
「治承3年の政変」と言われるクーデターにより後白河院を中心とする政権は崩壊した。代わって成立したのが、高倉上皇(1161~81)と基通を中心とする政権だったが、2人ともまだ若年で政治的な手腕には乏しかった。また平家の影響力が極めて大きかったため、事実上の「平氏政権」であることは誰の目にも明らかだった。だが、栄華も長くは続かなかった。この2年後の3月に清盛は原因不明の熱病にかかりその生涯を閉じた。
 その後の平家であるが、力で押さえつけてきた各地の反平家の勢力が蜂起した。清盛の後継者は三男の宗盛(1147~85)だったが、父には遠く及ばず凡庸で、平家は壇ノ浦の戦いに敗れて滅亡する。清盛の病死からわずか4年後のことだった。宗盛が凡庸だったこともあるが、栄華を極めたにしてはあまりにも早い凋落、まさに「驕る平家は久しからず」である。
 駅から歩いてすぐのところにある鳥居をくぐって、少し歩くと楼門があった。大きな門の手前に灯篭と稲荷の象徴であるキツネの像が両脇に据えられていた。この楼門は天下人・豊臣秀吉(1537~98)が天正17(1589)年に造営したものと伝えられている。
「ご主人、案外、人が多いね」
「そうだな」
 結城もナイルも、境内は閑散としているかと思っていたのだが、さすがは日本随一の観光都市・京都である。参道は観光客と思しき人たちで混雑していた。これでも普段の年に比べたら格段に少ないというのだから、いかに京都を訪れる観光客が多いかを物語っている。
 結城からしてみればあまり人がいないほうが静かでいいのだが、それでは観光客相手の商売を生業にしているところは生活が立ち行かなくなってしまう。近年、観光客が増え過ぎたことによる弊害を意味する「観光公害」という言葉も出現したが、実際のところ京都に住む人はどう思っているのか、余所者が口を出すべきではないが、まあ難しい問題だろうなと結城は思った。
(うーん、外国人が多いな。大丈夫か? この国の水際対策)
 伏見稲荷大社は、千本鳥居という無数の鳥居が連続して建っている道があり、これがSNS映えするというので、日本人のみならず外国人旅行客も多く訪れる場所となっている。ただ、時期が時期である。どうしても無駄に神経質になってしまう。国際線は多くの路線が欠航となっている。中には本数を減らしながらも運行されている路線もあるが、日本国内にいる外国人の帰国のため、あるいは外国にいる日本人が帰国するために運行されているようなものだ。
「じゃあ、ナイル。ぱっぱと参拝して、京都駅に戻ろうか」
「そうだね」
 時間にそこまで余裕があるわけではないので、千本鳥居とその先にある奥の院だけ見物して帰ることにした。ちなみに全て見ようとするのであれば、稲荷山の頂上である一の峰まで行かなければならない。登山のような重装備は必要ないだろうが、山登りであることは変わりないので、速乾性のトレッキング向け服装やトレッキングシューズ、飲み水などの装備は必要だろう。 
「うーん、思ったよりも人が多いぞ……」
 閑古鳥が鳴いているかと思っていた結城は、思ったよりも人が多いので、それが不満のようだった。もしかすると、お隣の大阪では例のウイルスが猛威を振るっているので、それを避けて京都に人が流れてきたのかもしれない。加えて、立地条件も極めて良い。何しろ駅から歩いてすぐなのだから。
 鹿苑寺金閣や慈照寺銀閣など京都駅よりも北側にある見どころは駅から離れたところに位置しており、京都駅か地下鉄烏丸線の北大路駅からバスということになる。だが、今回は時間にそれほど余裕がなかったことに加え、バスは渋滞にはまるということも考えられ、時間が読めない。加えて言えば、見どころと駅を結ぶバスは慢性的に混雑している。
(そう考えると、悪くはない選択肢だったのかな。そもそも、人が全然いない京都を満喫……なんて虫が良すぎたか)
 と、結城は思い、多少人が多いのは我慢することにした。お守りやお札などを販売している授与所は、きちんと営業時間があるのだが、境内への出入りは24時間できるそうなので、どうしても人がいないときがいいというのであれば、朝早い時間に来るなどの工夫が必要だ。
 境内の奥に進み、千本鳥居の通路に進む。この神社にしかないと思われる朱塗りの鳥居が連続して建っており、まるでトンネルのようだ。
 人が多いのは仕方がないのだが、時々前がつっかえているという現象に出くわす。スマホで撮影しながら、通路を進んでいるために必然的に歩くスピードが遅くなり、後続が詰まってしまうのである。
(参拝しに来たんじゃなくて、SNSにアップする写真を撮りに来たようにしか思えないな……)
 本来の目的と違うじゃないかと、口には出さなかったが結城はそんなことを思った。観光に来たのだから、写真の1枚や2枚撮るのはむしろ、普通のことだ。それも結城は分かるのだが、予想以上に混んでいたためか、やはり、我慢しているつもりでも気持ちが若干ささくれ立っていた。
 向かい側から人が来ない時を見計らって、何をしに来たんだが分からないような人を追い抜くということを何度かした。
(写真を撮ったり、動画撮影をするのはいいけど、後ろからくる人の邪魔にならないようにやってほしいなぁ……)
 というのが偽らざる本音であった。寺社仏閣という聖域の中にいるのだから、最低限のマナーは忘れないようにしたいものだ。
 京都市内は晴れてはいたが、風が冷たかった。しかし、どういうわけか参道の周りは無風であまり寒さを感じなかった。これは地形によるものか、はたまた聖域には人智を超えた何かが働いているということだろうか?
 参道を進み、奥の院に着いた。その一角に2基の灯篭が建っており、その上には「おもかる石」なるものが置いてあった。なんでも、願い事をかけこの石を持ち上げた時に軽く感じれば近々願いが叶うという。逆に重く感じれば願いが叶うのは当分先になるという。
(じゃあ、体を鍛えている人ほど、願いが叶いやすいってことか?)
 結城はそんなことを思った。非力な人が持った時だけ軽くなるような都合のよさそうな物には見えなかったし、考えようによっては体を鍛えるという努力をしている分、何もしていないよりは願い事が叶いやすいというのは平等と言えるのかもしれない。
 ちなみに結城もナイルも石を持ち上げてみたかいうと、チャレンジはしなかった。このご時世に不特定多数の人がべたべた素手で触ったものを触るというのは抵抗があった。結城は潔癖症と言えるほど綺麗好きかと言うとそれほどではないが、時期が時期である。手袋をすればいい話だったが、生憎そんなものは持ってきていなかったし、逆に滑って持ちにくいような気もする。一応灯篭の脇に消毒液が置いてあったのだが、それでも抵抗があった。チャレンジした人全員が手を消毒しているという保証がないからだ。
「手が滑って石を落としたら、どうなっちゃうんだろうね?」
「縁起でもないことを言うなよ」
 ナイルがそんなことを言い出す。結城もナイルも何もしなかったので、ご利益はないだろうが、害を被ることも無いはずだ。だが、もし手が滑ったとかの理由でそうなってしまったら、どうなるのだろうか? やはり制裁すなわち罰が当たってしまうのだろうか? まあ、足の上にまともに落としてしまったら……。痛いだけで済めばそれは不幸中の幸いというやつなのではないか? と思えるくらいの大きさと重さはあるように見える。そんな石であった。
 時間にそれほど余裕があるわけではないので、結城とナイルは駅に戻ることにした。
「あ、そういえば……」
 結城はあることを思い出した。本当かどうか定かではないのだが、稲荷大社に願い事が叶った際にお礼参りに行かないと神様もしくはキツネの機嫌を損ねて、酷い目に遭う、要は祟られる……というのである。
「それ、本当なの?」
「いや、まあ、ネット上の情報だから、どこまで信用していいものか、疑問符が付くけどな」
 ただ、それが嘘か真かいずれにせよ、祀られている神様に対し無礼を働くべきではないだろう。これは、信心というよりもマナーの問題である。
「だから、もし白峯神宮で無礼を働いたら、とんでもない目に遭うぞ。命があるかもどうかわからん」
 などと結城が言う。白峯神宮は京都市上京区にある神社である。地下鉄烏丸線の今出川駅から徒歩圏内で、今回参拝する神社の候補の1つでもあった。
 ここに祀られている神様は「淡路廃帝」こと淳仁帝(733~65)と、もう1人が崇徳上皇(1119~64)である。2人とも帝の位にありながらも政争に敗れた末に位を追われ、最終的に流刑先で崩御した。
 崇徳上皇は平清盛が出世していくきっかけの1つとなった保元の乱(1156)に敗れ、讃岐に流刑となった。そして45歳で崩御するまで京都に戻ることはなかった。上皇は流刑先でお経を書き写し、乱で命を落とした者への供養に奉納してほしいと京都に送ってきた。
 ところが、後白河院は受け取りを拒否して突き返してしまう。お経を突き返された上皇は、しばらくは悲嘆に暮れていたが、いつしかその気持ちも憎しみに変わり、自らの血でお経に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民にし、民を皇となさん」と書き加え、その後は崩御するまで髪も爪も切らずに伸ばし続け、恨みを抱きながらこの世を去ったという。
 上皇が崩御して10年ほど経つと、大事件が続発するようになり「上皇の祟りではないか?」と京都で噂されるようになった。またその後、支配者(皇)である皇族や貴族からすれば下々(民)に過ぎない武家による政権が成立し、貴族や皇族に事実上取って代わったことで「皇を取って民にし、民を皇となさん」というのは、一応成就したと言えなくもない。
 そんなことがあってか、崇徳上皇は今日に至るまで和歌をたしなんだ文化人としての一面がある一方で、強力な力(魔力?)を持つ怨霊として今日に知られている。
 そんな怨霊と表裏一体の祭神に無礼を働いたら、どうなるか明白というものだ。
 稲荷駅に戻る前に、本殿前で賽銭を済ませる。本来は来た時にするものなのだろうが、混んでいたため、後回しにしたのである。帰り際に賽銭をしたときには、賽銭箱が置いてある本殿前には誰もいなかった。
 賽銭を入れ「二拝二拍手一拝」の作法で参拝を済ませる。駅に戻ると、あと10分弱で京都行きの電車が来ることが分かった。京都の名所の真ん前にある駅のため、観光客と思しき人が大勢いた。外国人のグループが電車を待つ間、ホームで飲み食いをしている。
 日本はシンガポールのように、ゴミのポイ捨てや屋外の喫煙にそこまで厳しいわけではないが、時期が時期なので、どうしても不安になる。心配のし過ぎだと言えばそれまでだが「この国の水際対策、本当に大丈夫かよ?」と思わずにはいられなかった。
 空気そのものは冷たく感じたが、陽がさんさんと差しているのと、風がなかった分、幾分マシに思えた。しばらく待つと、黄緑色の電車がホームに入ってきた。
(おお『103系』だよ。こんな古い車両がまだ現役で走っているんだな)
 JRがまだ国鉄だった昭和39(1964)年から昭和59(1984)年にかけて作られた車両で、一番新しい車両でも製造から35年以上経っている。乗ってみると、車内には最近の通勤電車では、ほぼ見られなくなった扇風機がついていた。車内は混雑しており、座席に座ることはできなかったが、終点まで5分もあればついてしまう。
 扇風機は動いていなかったが、換気のため、窓が開いていたので風が入ってきていた。4月の初めだったが、年々、桜の開花が早くなっていることもあって、車窓から時折見える桜の木の花はほとんどが散ってしまっていた。今年は、近隣の大阪では3月19日に桜の開花が発表になった。平年だと4月5日頃に満開らしいので、ちょうど見頃のはずではあるのだが……。
 混んではいたが、レトロな車両に乗ることができたので、その点は良かったと思いつつ、終点で電車を降りた。
 ここで、新幹線に乗り換えて、東京に戻る。今回は新横浜までの切符を買ってある。新横浜からは在来線に乗り継いで、家に戻る。京都と新横浜の間は500キロ弱の距離があるが、のぞみ号だと「次の次」で、2時間もかからない。高速化を実現したのは日本の持つ技術力のたまものだが、一方で距離感覚が少しおかしくなりそうな気もする。
 新幹線の発車時刻まではまだ多少余裕があるので、土産物を売っているエリアをぶらついて時間を潰すことにした。京都駅は通過する新幹線はないが始発駅ではないので、早めにホームへ行って、車内でゆっくりと発車を待つということができない。
 土産物店を見て回ると、商品名が違うだけで、どこにでも売っていそうなものや、八ッ橋のように京都ではおなじみの銘菓が売られている。
「ねえねえ、ご主人」
「どうした、ナイル?」
「どうして、京都で『赤福』が売っているの?」
「え? うーん……」
 実は、この点は結城も気になっている。「赤福」といえばいわずと知れた伊勢の名物である。どういう理由で伊勢から遠く離れた京都で売り出すようになったのかは分からないが、売っている以上は商売が成り立つだけの利益が出ているのだろう。
 食指が動かなかったと言えばウソになるが、伊勢に来たわけではないので、結局はベタに生八ッ橋を購入した。
 土産物と飲み物を買うと、することも無くなったので、ホームで新幹線を待つことにした。結城たちが乗る新幹線は「のぞみ238号」東京行きである。発車時刻は16時54分とのことだ。
(あと、10分ちょっとで来るな……)
 京都駅は多くの観光客が利用する駅なので、新幹線が発車する時刻が近づいてくると、乗車口には乗客が列を作って新幹線を待つ、というのがお決まりの光景であったが、やはりこのご時世ということもあってか、ホームに人影はまばらだった。
「ご主人、全然お客がいないね」
「まあ、このご時世だからなぁ」
 在来線のホームは日常生活で利用する人や観光客でそれなりに混雑はしていたが、県境を跨ぐ移動を自粛するように呼びかけられていることもあるだろう。
「あと、大阪まで行けば高速バスもたくさん出ているからな、値段だけで言えばそっちの方が圧倒的に安いし」
 京都から大阪まで移動する必要があるが、とにかくスピードを出すことで知られる東海道線の新快速電車を使えば30分少々で着いてしまう。さほど手間ではないだろう。
 新幹線は時間通りにホームに入ってきた。慢性的に混雑しているはずの東海道新幹線もこの日はガラガラだった。切符に書かれている指定座席に腰を下ろす。
 程なくして「のぞみ号」は滋賀県内に入った。
「なぁ、ナイル?」
「どうしたの、ご主人?」
「次はいつ遠出できるかな?」
「さぁ……」
 別に遠出してはいけないという法の縛りがあるわけではないが、やはり躊躇ってしまう。
 結城としては、普通に旅行できる日が早く来てほしいと思うばかりだった。
「なぁ、ナイル?」
「今度は何?」
「このご時世、金のかからない趣味って、結構いいよな」
「うん、そうだね……」
「ん、眠いのか? さっきから生返事ばかり」
「あたり」
「じゃあ、小田原を通過したら起こしてやるから」
「うん、ありがと」
 
 東京の自宅に戻ってきてから、結城はインターネットで料理のレシピを載せているサイトを見ることが多くなった。東京の飲食店は、営業時間に制限がかかっていることもあり、自炊をする機会が増えたのだが、毎日同じような料理だと飽きてしまうので、料理のバリエーションを増やすためだ。
(へぇ、オーロラソースってこんなに簡単に作れるのか……)
 どこにも出かけられない以上、家の中でも退屈せず、かつ健康的に過ごす工夫をしなければならない。何もしないでいるのも1つの手かもしれないが、ずっとそうして過ごしていると、だんだんと気分が鬱々としてくる。結城にはとても耐えられそうになかった。
「ナイル、そろそろ昼飯にするけど、何か食べたいものってあるか?」
「え~っと、じゃあ、きつねうどん」
「きつねうどん、ねぇ……」
 作ること自体は構わないのだが、油揚げがあったかどうか? 冷蔵庫の中を見てみると、めんつゆはあったが、油揚げはなかった。
「やっぱりないか……。買った記憶がなかったからな。ナイル、留守番頼むぞ」
 そう言うと、結城は食材購入のため、部屋を出ていった。

 
 おわり




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Last-modified: 2021-07-11 (日) 18:07:33
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