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ふらいとらべる 新春駆け足観光篇

/ふらいとらべる 新春駆け足観光篇

呂蒙
 
 ※作中には実在の地名が出てきますが、全てフィクションです。

 序章 きっかけはひょんなことから

 世間があわただしくなる師走のことである。結城はパソコンをいじりながら、こんなことを言い出す。
「ああ~、なるほどなぁ、そう来たか」
「どうしたの?」
「これだよ、これ」
 フライゴンのナイルがパソコンの画面を見ると、そこには「大河ドラマの主役にしてほしい戦国武将ランキング」というのがあった。1位は、筑後柳川藩主の立花宗茂(1567~1643)であった。ちなみに2位が薩摩島津家の当主で、勇猛な武将として名高い島津義弘(1535~1619)であった。奇しくも2人とも九州の出身である。
「で?」
「『で?』ってなんだよ、つまんない奴だな」
 歴史に興味のある結城からすれば、この反応はつまらない以外の何物でもないが、さほど興味のないものからすれば、その反応も無理はなかった。いくら有名でエピソードに事欠かないといっても、それはあくまで「歴史に興味のある者の中」での話であって、そうでない人からすれば「誰なんだ、それは?」ということになってしまう。もっとも、それはこのことに限った話ではないのかもしれないが……。
「最近、遠出していないからなぁ、旅に出たくなった。そうか、いいかも、九州」
「え?」
 こうなると、結城は周りが止めても聞く耳を持たない。「行くったら行く」の一点張りである。ただ、事前にきちんと情報収集はするので、情勢が不安であるとか、災害に見舞われている、ということが分かれば「しょうがないな、また今度にするか」と言って、潔く諦める。どこに行くにしても、そこだけは必ず守るので、最初はあちこちに出かけていくのを、家族は不安そうにしていたが、やがて安心したのか何も言わなくなった。
 いくつか、候補はあったが、結局、目的地は長崎に決めた。近年世界遺産になったところもあるし、考えてみれば、有名な観光地ではあるが、まだ行ったことがなかったというのが決め手だった。
「正月明けにしよう。試験が近いが、まあ何とかなる。課題の論文は突貫で仕上げて、旅行の前に提出してしまえばいい」
 そう言って、さっさと予約を取ってしまった。
「正月明けで、しかもまだ日数があるからかな、結構空席があるな……」
「あ、ほんとだね」
「ナイル、お前は荷物室だからな」
「何でよ!」
「冗談」
 そんなこんなであっさり年が変わり、旅行の日がやってきたのであった。

 第1章 西の国へ

 試験の前に半ば強引にねじ込んだということもあり、今回は1泊2日の少々あわただしい旅となった。そのため、当然のことながら、朝は早かった。最寄り駅の朝一番の電車に乗るため、ナイルは朝の4時前に叩き起こされることになった。
「おい、起きろ」
「眠いよ……」
 すると、蹴りが飛んできた。起きないのであれば、置いて行ってしまうという選択肢もあるのだが、結城は絶対にそんなことをしない。可哀想だからというのもあるが、妙に神経質なところがあり、自分の知らない間に部屋の物の配置が大きく変わっているのが嫌なのだという。
「痛いな、もうちょっと、優しく扱ってくれてもいいじゃん」
 ナイルは怒ったが、結城はそんなことは意に介さない
「ほら、目が覚めただろ?」
 結城は、ナイルを手荒に蹴り起こすと、洗面所で歯を磨いていた。急いではいる。しかし、身だしなみは整え、小ざっぱりした格好で旅行に行くべきというのが、結城の考え方であった。もっとも、あくまで「旅行に行くときは」なので、通学の際、特に寝坊したときはそういうわけではなかった。髪がぼさぼさでも、遅刻するよりはまし、という理由で、顔を洗っただけで家を飛び出したこともある。矛盾しているような気もするが、本人曰く「それはそれ」なのだという。
 都市部の朝は早い。朝といっても、日が短い時期なので、周りはまだ真っ暗だった。1泊2日分の荷物を入れたカバンを持って、まだ夜が明けていない道を歩く。朝一番の電車は4時35分である。これに乗らなければならない。多少、電車が遅れてもいいように早めに家を出る、というのが結城流のルールであった。
 お互いに寒い、寒いと言いながら、駅にたどり着き、切符を買う。
 時間通りに、電車がホームに滑り込んできた。朝早い時間ということもあって、難なく座ることができた。
「よし、座れたし……」
「どうするの?」
「寝るか。終点で乗り換えだから着いたら起こしてくれ。寝坊するといけないと思って、夜通し起きていたから眠いんだわ」
「いや、僕も寝たいし……」
「眠いのか? まあ、赤いもんな……」
「これは元からだって……」
 暖房が効いていたこともあり、お互いほどなくして眠ってしまった。結城は一度目が覚めたが
(お……? まだずっと先じゃないか……)
 二度寝を決め込んだ。起きたのは、終点の2つ手前の駅に着く直前であった。朝が早すぎたためか、ナイルは結城の横で熟睡していた。
 鉄道を使うと、空港まで何度か乗り換えないといけない。面倒だが、それもまた旅の醍醐味である。
 結城たちを乗せた電車は途中事故に遭うこともなく、定刻通りに終点の駅に到着した。ここで、電車を乗り換える。
 エスカレーターを上り下りして、ホームを移動する。さすがにターミナル駅ともなると、とてつもない広さである。結城はこういった乗り換えには慣れているほうだったが、それでも、しばらく来ていなかったため、少し迷った。空港へ行くためには5・6番ホームに行かなければならない。
 どうにかこうにか辿り着き、電車が入選するまでしばし待つ。夜はまだ明けきっておらず、群青色の空の下で、ネオンやビルの明かりがこうこうと輝いている。
 数分後、ブルーのラインが入った大船行の電車がやってきたので、これに乗る。さすがは大都市圏を通過する電車といったところか、まだ朝の6時前だというのに、それなりの人数が乗っており、席に座ることはできなかった。
 空港へ行くには、浜松町駅でモノレールに乗り換えるか、あるいは品川駅で私鉄に乗り換えるという方法がある。最寄駅から、浜松町と品川までの切符の値段が同じだったこともあり、もし、浜松町で、モノレールに乗り換えると思しき人が多ければ、品川まで行ってしまおうと決めていた。
 数分後、電車は浜松町駅に着いた。
(結構乗り換える人が多いな……。品川まで行ってしまうか……)
 大きな荷物を持った人々が大勢降りて行ったのを見届け、結城は品川まで行ってしまうことにした。
「さっきのところで降りるんじゃないの?」
「モノレール、混みそうだから、品川まで行く」
 浜松町からさらに2駅行ったところが品川駅である。ここで空港行きの私鉄電車に乗り換える。
 空港までの切符を購入し、空港行きの電車の時間を確認してから、ホームに移動する。この路線は空港だけではなく、横浜方面に行く電車もあるため、行き先を間違えるとあらぬ方向へ運ばれてしまう。おまけに各駅停車だの、快特(快速特急)だの、急行だの、電車によって止まる駅が違うため、きちんと覚えておかないと、降りる駅を通過してしまった、なんてことになりかねない。
 ホームにはすでに電車が入線していた。だが、結城は乗ろうとしなかった。
「これに乗るんじゃないの?」
「ああ、そう。これに乗るのか、さよなら~」
「え?」
「行き先をよく見ろ」
「へ?」
 見ると「各停 久里浜」とある。つまりこれに乗ったところで、空港には行けないわけだ。
 一つ電車を見送ったところで、別の電車が入ってきた。6時27分発、空港行きの急行電車である。
「これに乗るぞ」
「あ、うん」
 結城はどうせ始発駅なんだから空港まで座っていけるだろうと思っていた。が、そうはいかなかった。
 首都圏の私鉄は、よその路線と直通運転をしていることが多く、この私鉄も例外ではなかった。この私鉄は、都営の地下鉄、さらにその先は京成という別の私鉄とつながっており、よその路線から直通の電車がやってくることがある。つまり始発駅だからと言って、始発の電車に乗れるとは限らない、というわけだ。
「これ、千葉県からやってきたやつじゃないか……!ちくしょう、乗り入れに当たるとは……!」
「さっき、いじわるしたから罰が当たったんだよ」
 ドアが閉まり、電車が動き出した。立っている状態では眠ることもできず、外の景色を見て、空港に着くのをただただ待つしかなかった。車内を見ると、大きな荷物を持った乗客が大半であり、おそらく空港まで乗ってくることはあっても、降りる客はほとんどいないだろうな、と結城は思った。事実、次の停車駅は青物横丁という駅だったが、誰も乗らなかったし、降りもしなかった。空港までそんな感じであった。
 蒲田駅を出ると、横浜方面に向かう本線と別れて、空港へ向かう支線に入る。
「おい、ナイル。両方見えるぞ」
「え? 何『両方』って?」
 窓の外を見ると、ビルとビルの間から、首都の名所の一つでもある「スカイツリー」と「東京タワー」がそれぞれ見えた。が、まもなく二つの塔はビルにさえぎられて見えなくなってしまった。電車は高架を降り、糀谷(こうじや)という駅に着いた。あと、10分で空港に着く。

 座れなかったものの、時間通りに空港に着いた。

(まあ、時間通りに着いたし、良しとするか)
 
 首都にほど近い空港ということもあって、正月が終わった直後でそう人はいないだろうと思いきや、それでも結構な人数がいた。自宅から持参した菓子パンとミルクで簡単な朝食を済ませ、さっさとチェックインを済ませる。
 保安検査場には、それなりに長い列ができていたが、さほど時間はかからなかった。ここまでくれば、後は搭乗開始時刻にゲートへ行き、飛行機に乗るだけである。
「ナイル、お前、荷物検査で引っかからなかったな」
「だって、何も持っていないもん」
「隠し持っている『凶器』もちゃんと出したか?」
「……また、そうやって、下品な話を」
「ちょっと、視線を落としただけだろ?」
「股間に目が行っていたよ、何を言いたいかなんて、すぐに分かるんだよ、付き合いが長いんだから」
 離陸時間は午前8時15分だが、おそらく搭乗開始時刻は、その30分前といったところだろうか? 幸い早めに来ていたこともあり、焦る必要はなかった。搭乗ゲートの近くの椅子に腰を下ろし、搭乗開始時刻まで待つ。
「ナイル、少し予習をしておくか」
 旅先のことを少しでも知っておけば、旅もその分面白くなる、というのが、結城の考え方であった。が、なかなか話が始まらない。結城の視線は、他の客が連れているポケモンに目が行ってしまっている。
「……ご主人?」
「なあ、ナイル、4足歩行ってラクなのか?」
「分からないよ、そんなこと」
「あの青いのは、なんであんなえろい体つきをしているんだ?」
「しぃっ! 聞こえたら、どうするのさ!! それと、言っとくけど、オスのほうが数が多い種族だからね……」
「へぇ~……オスでえろいのか……。何とも罪だな」
 ようやく、今回の旅先のレクチャーが始まる。最近世界遺産になったこともあり、観光のPRが空港でもされていた。
 戦国時代真っ只中の天文年間(1532~55年)外国から日本にやってきた2つのものといえば、1つは種子島、つまり鉄砲である。もう1つが、デウスの教え、すなわちキリスト教である。このキリスト教と深いかかわりがあるのが、今回の旅行先なのである。
 天文18(1549)年、鹿児島にヤジロウなる日本人を伴って、上陸したのが、イエズス会宣教師・フランシスコ=ザビエル(1506~52)である。ちょうど、この頃、キリスト教は、新教(プロテスタント)と旧教(カトリック)に分かれて対立していた時代であり、旧教側のイエズス会は海外にキリスト教を広めることに熱心な団体だった。血みどろの宗教戦争に参加するよりは、何も知らない外国人どもに教えを広めて、勢力を拡大するほうが効率がいい……と考えたのかもしれない。
 ザビエルが日本にいたのは、2年ちょっとだったが、教えを広める活動は続いており、大村純忠(1533~87)という協力者も現れた。純忠は永禄5(1562)年に自分の領地にある横瀬(現・長崎県西海市)という港を提供し、翌年には、コスメ=デ=トーレス(1510~70)から洗礼を受け、自ら、キリシタンとなった。下々ではなく、支配階級に、異国の教えを受け入れた者が現れたという事実は、のちの日本の為政者の頭を悩ます問題の1つとなる。もっとも最初から為政者が一律に弾圧していたわけではなく、それぞれの支配者の領地によって弾圧されたり、されなかったりでさまざまであった。
「……とまぁ、ざっくりこんな感じかな。ま、何も知らないといっても面白くないからなぁ……。あとは、あっちに着いてからだな。それと、時間があったら、うまいもん食わせてやるから」
「あ、それは期待してる」
「後は、そうだな……。人間がお前たちから見たら、いかに不可解な生き物かってことを知る……かもしれないなぁ……。姿形じゃなくて、考え方というかな……。まあ、そんなところ」
 搭乗開始時刻は、7時45分とのことだったが、準備が間に合っていないとかで、実際に搭乗が始まったのは、7時50分を過ぎてからであった。指定された席に腰を下ろすと、結城は辺りを見回し、
「やっぱり、すいているな」
 と言う。世間では、仕事始めの時期であったし、当然といえば当然なのかもしれない。目的地の長崎まで、約2時間の旅である。搭乗がスムーズに終わったこともあり、予定よりも2,3分早く、飛行機は動き出した。
(ここからが長いんだよな……)
 結城は、いささかうんざりした。というのも、日本有数の過密スケジュールで運営されている空港である。ひっきりなしに飛行機の離発着がある。離陸滑走路のそばまで来ても、すぐに飛び立つかどうかは不明で、離陸するために、飛行機が列を作って離陸待ちをしている、ということも珍しくない。何も30分も40分も待つわけではないのだが、どういうわけか無駄に長く感じるからだ。
 だが、そんな懸念とは裏腹に、飛行機はすんなり、離陸した。
「あれ、すんなり離陸したな。きっと、日頃の行いがいいからだな」
 などと結城は言う。

 

 第2章 疲労みなぎる大移動

 飛行中、何のトラブルもなく、結城たちを乗せた飛行機は定刻通りに、長崎県大村市にある長崎空港に到着した。晴れてはいたものの、気温は低かった。空港には、大村をPRするポスターが貼られていて、そのポスターには、この辺りの領主であった大村純忠の像が写っていた。
「無事についてよかったね」
「ああ、そうだな」
 結城は、朝早かったことに加えて、碌に寝ていないこともあり、眠気と疲労で足取りが重かったが、体に鞭打って出口まで辿り着いた。結城たちは11時ちょうどに出る島原行きのバスに乗る予定だった。
「大分、待つね」
 ナイルがそんなことを言う。確かにナイルの言う通り、公共交通機関を利用するとなると、待ち時間が無駄に長くなってしまうことがしばしばある。水分補給やトイレの時間も必要だろうから、分刻みの行程というのも好ましくはないが、だからと言って、長ければいいというものでもない。
「ねぇねぇ、ご主人。あれなんかいいんじゃない?」
「『あれ』って? ああ、なるほど、そういう手もあるか……」
 ナイルが言う「あれ」とは、レンタカーの受付ブースであった。確かにレンタカーであれば、バスなり、鉄道なりの時間を気にする必要などない。しかし、全く見知らぬ土地での運転というのは不安だったし、できれば、バスの中でひと眠りしたい、というのが、正直なところであった。
「……で、誰が運転するんだ?」
「ご主人に決まってんじゃん。免許は持ってきたでしょ?」
「眠いんだから、勘弁してくれよ……」
 レンタカーでの移動は却下となり、結局、バスを待つことになった。ただ、結城は、眠い目をこすりながらも、公共交通機関が未発達な地に旅した場合はありだな、とも考えていた。
「僕ら以外、待っている客がいないねぇ……」
「まあ、まだ発車まで20分あるからな……」
 結局、バスに乗ったのは10人もいなかった。定刻通りにバスは動き出した。ここから、またも約2時間の移動である。国道をひた走り、諫早(いさはや)を経て、島原まで行く。
 バスに揺られ、窓から差し込む日差しを浴びているうちに、強烈な眠気が襲ってきて、結城は寝たり、起きたりを繰り返していた。
 寝たり起きたりを繰り返しているうちに、バスは諫早市内に入っていた。諫早は長崎県内の交通の要衝であり、後で、島原から、長崎へ移動する際にも通ることになる。先年に亡くなったノーベル化学賞受賞者の銅像が立つ学校の前を通り、ほどなくして、バスは諫早駅に着いた。ここで、ようやく半分といったところである。乗客は10人にも満たなかったが、ここで結城たちを除く全員が降りる。ここで、乗ってきた客は1人だけであったが、その客も島原まではいかず、すぐに降りてしまった。ここから、有明海沿いに島原半島を南下する。
 しばらく、バスの中で寝たこともあり、眠気は何とか醒めたものの、今度はすることがなくて、時間を持て余すようになった。生憎、島原まではまだ時間がかかる。
 結城は隣で寝ているナイルに目をやった。そして、何を思ったか、股間に手をやると、そこをすりすり。
「うひゃあっ!?」
 ナイルは目を覚ました。幸い、他に乗客はいなかったため、誰もナイルたちに視線を向ける者はいなかった。
「何すんのさ!」
「別に……? 思ったよりも敏感なんだな」
「当たり前でしょ!」
 そんなやり取りをしていると、バスが止まり、そこでおばあさんが2人乗ってきた。
「あーあ、おばあさんに見せられなくて残念だったな……」
「……殴るよ?」
 ナイルが結城を睨むと、結城は視線をそらして、何も言わなくなり、持参したお茶を口に運んだ。そのおばあさんたちもそこから3つ目のバス停で降りていき、車内は再び、結城たちだけになった。
 暖かい日差しと、何もすることがないという状況が眠気を催させる。
(う~ん、ちょっと退屈だなぁ……。対岸から船で島原にわたるという手もあったな……)
 対岸の熊本県から、陸路で島原へ行こうとすると、大きく北へ迂回しなければならず遠回りだが、有明海を突っ切ることで近道ができる。島原半島の多比良(たいら)や島原の港と、対岸の熊本県にある、長洲や熊本の港を結ぶ航路が開けている。ちょうど、バスは多比良の港の近くを通過中であった。港に停泊している白っぽいフェリーが見えた。
 12時49分、バスは島原駅に到着した。結城たちはここで降りた。

 ここ島原は、雲仙岳と有明海に挟まれたわずかな平地にできた、人口約4万4千の町である。
 そのわずかな平地に存在感を放つ建造物が、島原城である。だが、島原城の前に、まずは城下町を見物しておくことにした。
「……と、その前に、だ。緊急事態だ……」
「え、どうしたの、ご主人?」
「トイレに行きたくなった」
「……」
 結城は、先ほどのバスで、お茶をがぶ飲みしていた。が、それが祟ったのは明白だった。幸い、島原駅のすぐそばにトイレがあり、大事には至らずに済んだ。
「お茶の飲みすぎだって……」
「ああ、荷物見ててもらって悪いな……」
 持ってきたカバンの中から、ガイドブックと、カメラと飲み物を旅行用のカバンとは別の手提げのカバンに入れると、旅行用のカバンはトイレの隣にあったロッカーに預けた。
 持参した地図を頼りに、ぶらぶらと街歩きを始めた。既にお昼の1時になろうとしていたが、この時はまだ腹が減っていなかったので、食事をする気にはならなかった。
 島原の城下町は、地元の住民たちの努力によって、昔ながらの街並みが保存されている。中央に水路がある。上からのぞき込むと綺麗な水が流れている。島原の名物にして貴重な資源の一つ、湧き水である。
「ご主人、水路があるね。ずいぶんきれいな水だけど、飲めるのかな、これ?」
「まあ、飲めるんじゃないか?」
 大きな河川がない島原においては貴重な水資源だったはずで、おそらくはかつて生活用水として使われていたのであろう。結城は空になったお茶のペットボトルに、水を汲んで、ナイルに渡した。
「どうだ?」
「どうって、まあ……。無味無臭だね」
「そうか……。ん? あ! ま、まぁいいか……」
「え? どうしたの?」
 足元に目をやった結城が思わず声を上げた。足元に、注意を記したプレートがあり、そこには「飲まないでください」と書かれていた。が、飲ませてしまった。今更吐かせるわけにもいかず、何も見なかったことにした。
(ま、まぁ、こいつなら大丈夫だろ……)
 水路の両脇に武家屋敷が立ち並んでいる。中には、石垣の囲いがあるお宅もある。そのお宅は、どうも中に入って見学することが可能だという。
「せっかくだから、中を見物しようか」
「そうだね」
 中には、人形が置いてあり、当時の生活の様子が再現されていた。食事の様子もあったが、どうも見た感じでは、贅沢さは一切なく、質素な生活ぶりが窺えた。もっとも、コメがお金と同じ価値を持つといっても、過言ではない時代のこと。下々はそれ以下の生活を強いられていたわけで、毎日、白米の食事にありつける、ということだけでも贅沢なことなのかもしれないが。
「ふ~ん、お侍さんって、思ったより貧乏なんだね……」
「まあ、それは否定しないな。時代劇なんかだと偉そうにしているけど、実際には商人に頭を下げて借金をしていた、なんていうのはよくある話だったらしいからな」
 大名だから、侍だから、お金持ちで贅沢ができるというわけではなかった。対岸の肥後熊本藩や、その近くにある薩摩藩といった大藩でも、藩が抱えていた莫大な借金に頭を悩ませていた。明治維新の立役者となった薩摩藩も、10代藩主・島津斉興(1791~1859)の頃には、500万両の借金を抱えていた。この500万両というのは、現代の価値にして数百から数千億円という途方もない額であった。しかも、この借金につく利子のほうが、薩摩藩が1年間に得られる収入よりもはるかに多いという手の施しようがない状態になっていた。
 現代なら自己破産するしか方法がないという状況で、登場したのが調所広郷(ずしょひろさと 1776~1849)という辣腕の政治家であった。もはや、普通の方法では借金が返せないため、調所は「500万両は無利子で250年かけて返済する」事実上の踏み倒しを行った。当然金を貸している商人たちは納得するはずがなかったが、脅迫したり、借金の証文を燃やすという強硬策に出て、無理矢理認めさせた。その一方で、従属させていた琉球を利用しての密貿易や砂糖を安く買いたたいて、余所に高値で売りさばくなどして収入を確保した。
 こうして、この手段を選ばない調所の財政再建策は成功し、後の討幕における切り札ともいえる、最新式の武器の購入に資金を充てることもできるようになった。70万石を超える大藩でもここまでやらなければならず、大藩だからお金持ちで、安泰ではなかったのである。武士=公務員とするのであれば、そこが現代と違うところといえるかもしれない。
「そういえば『武士は食わねど高楊枝』っていう言葉があるだろ、もし、侍が裕福で、生活苦とは無縁の生活を送っているんだったら、こんな言葉はできなかっただろうな」
「まあ、そうだろうね」
「だから、黄門様の印籠よりも、借金の証文のほうが威力があったんじゃないか?」
「へ?」
「『この紋所が目に入らぬか!』ってやられても『それがどうした、これなるは借金の証文なるぞ!』とかってやられたら、御老公や助さん、格さんもひれ伏すぞ」
「楽しみにしてる年寄りが文句言うよ、それじゃあ」
 ちなみに、例に漏れず、黄門様こと水戸光圀(1628~1701)が藩主を務めていた水戸藩も台所事情が苦しかった。また、史実の光圀は見栄っ張りだったのか、実収入が28万石のところを36万9千石と幕府に過大申告したため、農民たちは重税に苦しんだという。
 話が横道に逸れたが、街歩きは順調だった。ぶらぶら歩いていると、茶屋があった。中で休んでいる客はいなかったが、どうやらやってはいるようだった。
「ナイル、少し休憩しようか」
「そうしようか」
 結城たちは、城下町の中にある茶屋で一休みすることにした。茶屋の中はストーブが焚かれており、暖かかった。この茶屋では、島原名物の「寒ざらし」なるものがあるという。
「じゃあ、それを2つ」
 1つ、300円と値段も手頃だった。しばらくして、頼んだものと、サービスでついてくるほうじ茶が運ばれてきた。甘いシロップの中にいくつか、白玉が入っている。これが名物の「寒ざらし」というものらしい。食事というよりは、どちらかというとおやつと言ったほうがいいかもしれない。
「中々だったな。もう一つ頼もう」
 2人で4人分を平らげ、茶屋を後にした。茶屋には30分もいなかったが、甘味と、そのあとにいただいたお茶が疲れた体に癒しを与えてくれた。
 疲れも取れたので、島原城へ行くことにした。現在の島原城は、戦後断続的に復元されたもので、中が資料館になっている。武家街を歩きながら、結城が予習がてら、島原城についてレクチャーを行う。
「まあ、とりあえず、松倉と島原の乱について抑えとけばそれでいいかな」
 江戸幕府が開かれたのち、島原一帯を治めていたのは、キリシタン大名として著名な有馬晴信(1567~1612)であったが、贈賄事件を起こして甲斐に追放となり、その子供である直純(1586~1641)の時代に日向延岡に国替えとなった。直純の時代までは、藩の政庁(つまり、城)が置かれたのは、日野江(ひのえ)というところであり、この島原ではなかった。
 元和4(1618)年、大和から国替えとなった松倉豊後守重政(1574?~1630)が、この地に新たな城の建造を開始した。島原藩というのは、見込める収入が4万石であり、これは城が持てる大名としては最小クラスのランクであったが、無駄に大きな城を建てたため、重税で苦しむ農民たちをさらに苦しめる結果となった。
「あ、城が見えてきたな」
「それにしても、随分、お堀が深いね」
「あ、いいところに気付いたな、ナイル」
 島原城は、周りの堀が深く、また、二の丸と本丸は独立しており、一本の橋でつながれている。いざという時には、橋を落として、深い堀に守られた本丸に籠城できるようになっている。松倉豊後守重政という人物は、築城の名手として、今日に知られている。この無駄にでかい城は、己の築城技術を世に示すと同時に、農民や浪人どもが一揆を起こした時に備えた作りになっている。しかし、大坂の陣も終わり、天下泰平の世になろうとしている時に、いくら一揆に備えたとはいえ、ここまで防御に優れた城が必要であったのかは疑問である。おそらくは、松倉重政の自己顕示欲を満たすためだけに作られた城なのだろう。
 やがて、2人は大手門をくぐり、島原の街を見下ろす本丸にたどり着いた。
「やっと着いたな」
「それにしても、随分デカいね? 1、2……5階建て?」
 ナイルが天守閣を見上げて言う。
「ああ、いいところに気付いたな。今日は、お前、冴えているな」
「でもさ、海から大砲を撃ち込まれたら、どうすんのさ?」
「有明海は、遠浅の海だから、大砲が積めるような大きな船は入ってこられないだろ」
 結城の言う通り、有明海は遠浅の海で、大きな船が入るのは当時としては、難しかった。そのため、島原の南方にある口之津(くちのつ)の港が外海への積出港として発展した。
「でもさ、さっき、フェリーが止まってたじゃん」
「そりゃ、技術が発達すれば、遠浅の海でも、大型の船が停泊できるように、人工的に港を作ることもできるだろ」
 晴れていたので、日差しは申し分なかったが、風が冷たく、暖かさはさほど感じられなかった。本丸には、人影はまばらだった。
「じゃあ、中を見物するとしようか」
「あ、ニャオニクスのカップルがいる。……あ、抱き合ってる」
「そんなじろじろ見ちゃ、悪いだろ」
 結城が注意するが、ナイルはこの白昼の大胆な行為のほうが気になるらしい。
「白と紺色が体を寄せ合って……あぁ、チューしてるよ。結構ディープだ」
「おーい、もしもーし。ナイル、置いていくぞ!」
(ああ、まさか下のほうも……!?)
「おい、ナイルっていうか、聞こえてるだろ!?」
「ああ、下のほうはさすがにないか、わかったわかった、行こう」
「何だ? 何なら、対抗してオレたちも抱き合って、チューして、アソコもいじりあいっこしようか?」
「え? やだよ、こんなところで!」
「オレだって、やだよ、何の罰ゲームだよ」
 入館料540円を払って、城の中に入る。中は資料館になっていた。
「ちょっと狭いね、階段も急だし」
「城は単なる屋敷じゃなくて、軍事要塞だからな」
 ナイルにとっては翼が邪魔になるようだった。外で待っててもいいぞと結城は言ったのだが、それはそれで退屈なのだという。
 
 この地に城を築いた松倉と、幕府が鎮圧に12万以上の兵力を用いた島原の乱(1637~38)は切っても切り離せない関係にある。
 元和4年、松倉重政はこの地に新たな城の建造を開始した。多くの人員が使われ、完成までに7年の歳月を要した。その一方で、様々な出費を穴埋めするために重税を課し、キリシタンを弾圧したことで知られている。さらに幕府の歓心を買うためなのか
「某にお任せくだされば、日ノ本に巣食うキリシタンどもを根絶やしにして御覧に入れましょう」
 などと言い出した。その方法というのが、ルソン(現:フィリピン)に遠征をおこない、宣教師の本拠地を潰してしまう、というものだった。キリシタン弾圧と並行して、宣教師どもの本拠地を潰してしまえば、そのうち、キリシタン信仰などなくなるに違いない、そう考えたのだろう。
 幕府がどこまで、この話に実現性があるのか考えていたのかは分からないが、これを口実に、松倉重政は、軍資金を捻出するために、民に重税を課した。ただ、最初のうちは、意外にもキリシタン弾圧は緩やかだった。どうせ、本拠地を潰せば一挙に片が付くのだから、ちまちま弾圧しても意味がない、とでも思っていたのだろう。
 ところが、参勤交代で江戸に赴いた際に3代将軍・徳川家光(1604~51)から「手ぬるいのでは?」と暗に叱責を受け「このままでは、最悪、お取り潰しだ」と思ったのか、一転して、キリシタン弾圧に乗り出した。キリシタンを片っ端からとっ捕まえては、近隣にある雲仙地獄へ連行し、熱湯責めにし、力ずくで棄教をさせた。もちろん、この拷問で死者が出たことは言うまでもない。この恐怖政治のため、数年後には、領内にキリシタンはいなくなった、かに見えた。
 重政は実際にルソン偵察を行っていたともいわれているが、寛永7(1630)年に急死し、ルソン遠征が行われることはなかった。跡を継いだのが、松倉長門守勝家(1594~1638)という人物だった。重政の子である。
 この頃は、世界のあちこちで異常気象が多発していた。島原も例外ではなく、連年、凶作が続いた。が、松倉勝家は容赦なく重税を取り立てた。4万石ほどの収入しか見込めないのに、10万石と幕府に過大申告したことに加え、参勤交代や江戸普請の出費で、藩の台所事情は非常に苦しかった。見栄を張るために、収入を過大申告すれば、それに伴って出費も増える(必要経費が増える)わけで、当然のことながら、その穴埋めをするのは領内に住まう民たちであった。
 やがて、松倉勝家は
「ちゃんと税が納められていないのは、民たちが出し惜しみをするせいだ。実にけしからんことである。力ずくでも納めさせろ」
 と部下たちに命令を出した。が、もともと島原は土地が痩せていて普通でもそれほど収穫量が見込めず、さらに凶作で、とても藩主が要求するだけの税が納められるはずがなかった。すると、松倉の家来たちは農民たちの家族を人質に取り、拷問を加えるという暴挙に出た。
 ある時、口之津村の庄屋のところに米30俵を年貢として差し出せという命令がきた。ところが、凶作続きで出せなかったので、猶予を願い出た。が、帰ってきた返事は
「よろしい、ならば拷問だ」
 という過酷なものであった。庄屋の息子の嫁を人質に取り、水牢に放り込み、米30俵を出せば、牢から出してやるという。何とか税を納める方法を話し合ったが、常日頃の苛斂誅求により、もう出せるものは何もなかった。
 人質に取られた嫁は身重であった。6日間、拷問で苦しんだ末に産み落とした子供とともに絶命した。
 ここで、農民たちに取れる選択肢は3つだった。自分の食い代まで差し出して、飢え死にするか、素直に出せませんと言って、拷問にかけられて殺されるか、一か八か松倉を倒すか、である。
 松倉の苛斂誅求に耐えかねた領民たちは、代官所に大挙して押しかけ、代官を殺害した。これが、島原の乱の始まりである。時に寛永14(1637年)10月25日のことである。
 これと同じころ、有明海を挟んだ天草でも領民たちが蜂起し、一揆勢は、島原半島の南端で合流し、かつて使われていた有馬氏の居城、原城に立て籠った。その数、3万7千という。
 その2週間後、領民たちが蜂起したという第一報が江戸城にもたらされ、徳川家光の側近である板倉重昌(1588~1638)という人物が一揆鎮圧の総大将に選ばれた。

「でもさ、御主人、隣近所に援軍を要請するとかしなかったわけ?」
「おお、いいところに気付いたな、ナイル」
 この時、島原藩は、近所の大藩、肥後熊本藩に援軍を要請しているが、熊本藩はこれを断った。と、いうのも武家諸法度に「たとえ隣近所で騒乱が起きても、幕府の命令があるまで軍を動かしてはならない」という決まりがあり、これを守ったためであった。結局、幕府が動くまで援軍はなかった。島原藩は「兵がだめなら、せめて兵糧を貸してほしい」と食い下がり「それくらいならいいか」と熊本藩からは兵糧が送られてきた。が、参勤交代で江戸にいた藩主・細川忠利(1586~1641)はこの行動を叱責した。
「無駄なことをするな。これだけのことをしたのだ、どうせ松倉は取り潰しに遭う。そうなれば誰が、貸した兵糧を返してくれるというのだ?」
 といった内容の手紙を国許へ送ったといわれている。だが、この結末は、忠利の予想を超えるものとなる。

 この総大将・板倉重昌という人物は、持っている領地は1万石ちょっとで、幕府内のポジションは将軍の親衛隊の隊長というものだった。取り立てて偉いというわけでもなく、かといって下っ端というわけでもなかった。中間管理職的な存在である。
 原城を包囲したものの、原城は周りを海や断崖絶壁に囲まれた天然の要害で、しかも一揆勢は鉄砲で武装していたため、迂闊に手が出せなかった。何度か攻撃してみても、つれてきた九州の大名同士の連携を欠き、被害は大きくなるばかりだった。
 そもそも、領地の石高イコール大名のランクとされたこの時代のこと。幕府内で余程高い地位にいない限りは、1万石ちょっとの領地しか持たない小大名の言うことなど聞くわけがなかった(九州は外様といっても大藩が多いため)。
 戦況がはかばかしくないという知らせが江戸にもたらされ「板倉だけでは無理であったか……」ということになり、老中首座(幕府のナンバー2)である、松平伊豆守信綱(1596~1662)が派遣されることになった。松平信綱は「知恵伊豆」の異名を持つ優秀な官僚であり、幕府の切り札であった。加えてこの時、老齢ではあったが、歴戦の猛者で備後福山藩主の水野勝成(1564~1651)にも出陣を命じた。最終的に幕府軍は12万を超す大軍になる。
 しかし、この知らせに焦ったのが、他でもない板倉であった。板倉がこの知らせに接したのが寛永14年の暮れであるといわれている。
「松平伊豆守様が、もう、小倉まで来ているだと!? 農民どもの一揆すら鎮圧できんとあっては、わしの面目にかかわる……!」
 明けて寛永15(1638)年の正月、板倉は、原城を総攻めにするが、この総攻撃も大名同士の連携を欠いて、幕府側は4千とも5千ともいわれる被害を出してしまう。加えて、突撃を行った板倉も鉄砲玉の直撃を受けて戦死してしまう。松平信綱が島原に到着したのはその数日後であった。
 松平信綱は、短期に原城を攻略することは不可能と考え、持久戦の構えを取った。最終的にこの兵糧攻めが効いてきたころを見計らって、諸大名を集めて、総攻めを行うべきか、それともこのまま兵糧攻め続けるべきかを問うた。水野勝成は総攻めを主張し、戸田氏鉄(1576~1655)は兵糧攻めの継続を主張した。意見が割れたが、2月28日に総攻めを行うこととなった。ところが、ここで事件が起きる。何を思ったのか、従軍していた肥前佐賀の大名・鍋島勝茂(1580~1657)がこの前日に勝手に攻撃を始めたため、予定が狂ってしまう。松平信綱は、やむなく総攻めを命じ、一揆は鎮圧された。
 この総攻めにより、一揆勢3万7千は、幕府に内通していた1人を除き、皆殺しとなった。この乱の首魁と言われる天草四郎(1621?~38)も、信綱は生け捕りにするつもりであったが、討ち取られたという。

「で、だ。ナイル。松倉がこの後どうなったかだ」
「あぁ、ちょっと気になる」
 
 島原の乱は、宗教反乱と言われることもあるが、実際のところはそうではなかった。農民たちの蜂起は、キリシタン信仰が、どうこうというよりも松倉の圧政が原因であり、幕府もそのことは把握していたようである。しかし、乱後、松倉は取り調べで「自分は何も悪いことはしていない。キリシタンの馬鹿どもが暴動を起こした」と言い逃れを図ったことと、結束力を高めるために一揆勢が棄教したはずのキリシタン信仰に再び転んだことが宗教反乱とされる一因になっている。もっとも、キリシタンの根絶を目指していた幕府にとっては、宗教反乱としておいたほうが都合がよかった。
 言い逃れを図った松倉だったが、通るはずもなく、領地没収の処分にとどまらず、寛永15年7月19日に斬刑となった。武士、しかも大名が責任を取らせるという意味合いが強い切腹ではなく、一介の罪人と同じように刑に処されるということは、異例のことであり、反乱惹起の罪を幕府がそれだけ重く見ていたということである。
 この後「キリシタンは放っておくと、幕府に楯突く恐れがある」という口実を得た幕府は、キリシタン迫害を進め、翌年にはポルトガル船の来航を禁止した。これが、いわゆる鎖国である。

「これで、島原の乱は終わりだね? ん、でもご主人。まだ上の階があるよ?」
「ああ、後は、この城のすぐそばにある火山と関係があることだな」

 この島原城は有明海と雲仙岳の間にある狭い平地に立てられた城であることは、先にも述べたとおりである。この城の背後にそびえる雲仙岳は活火山であり、この島原に湧き水や温泉という資源をもたらしている。が、それがひとたび牙をむけば、人間など無力な存在であり、抗う術などない。
 松倉が領地没収の上、斬刑となったのち、高力、松平、戸田と藩主が変わり、18世紀後半に再び、松平家の所領となった。
 寛政4(1792)年、雲仙岳の火山活動と、そのあとに起きた大地震のため、島原城にほど近い眉山が「真っ二つに割れた」と表現されるほどの山崩れを起こし、島原の城下町は言うに及ばす、大量の土砂が一気に海に流れ込んだために、対岸の肥後にも津波で大きな被害が出た。この大規模な自然災害の犠牲者は1万5千とも言われている。世に言う「島原大変肥後迷惑」である。時の藩主・松平忠恕(まつだいら ただひろ 1740~92)は、被災した民の救済に努める一方で、自ら被災地を巡察し、被害の全容を把握しようとしたが、あまりの被害の大きさに心痛から病を発し、ほどなく没したといわれている。その時の山崩れは、有明海の景勝地「九十九島」として、その名残をとどめている。
「うーん、やっぱり、熊本まで飛行機で行って、有明海をフェリーで横断する方法をとったほうがよかったかな。そうすれば、船が島原の港に入る前に『九十九島』も見ることができただろうから」
「ご主人、最上階は展望スペースになっているみたいだね」
「ああ、そうだな、せっかく来たんだ、行ってみるか」
 島原城の最上階は展望スペースになっており、晴れていれば、天草や、遠く阿蘇山を望むことができる。
「ご主人、天草は熊本県でいいんだよね?」
 ナイルが持参した地図を見ながら言う。
「ああ、その通りだ」
「海を挟んではいるけど、こうやって見ると、結構近いね」
 島原の乱が勃発した口之津にある港と、天草諸島最大の島・下島にある鬼池港とはフェリーで結ばれている。ちなみに、天草諸島は古来より肥後国天草郡という行政区域に属していたが、肥後を支配した加藤清正(1562~1611)や、加藤家の改易後に肥後を治めた細川氏の時代には、天草は支配地域に入っていなかった。有明海の向こう側にある肥前唐津藩の飛び地として、本領からは代官が送り込まれ、統治にあたっていたが、口之津で農民たちが蜂起したのとほぼ同じ時期に、苛政に耐えかねた農民たちによる一揆が発生した。結局、島原の乱後、責任を問われ、大名・寺沢堅高(1609~47)は、命は助けられたものの、飛び地領の天草を没収され、数年後、精神に異常をきたして自殺してしまった。後継ぎがいなかったため、寺沢家は断絶、改易となった。その後、天草は貧しく大名が赴任したとしても、とても食っていけるだけの収入は得られないだろう、ということで、幕府の直轄領となった。

 最上階からの展望を楽しんだのち、下へ降りた。陽はまだ高いのだが、ゆっくりはしていられなかった。今日中に長崎へ行かなければならないからである。島原から長崎へ行くには、島原鉄道と長崎本線を乗り継ぐのが一番早い。乗り継ぎ地点である諫早まで海岸線に沿って北上するわけだが、これだと、空港からここまで来たルートとほぼ同じで面白みがない。諫早まで違うルートが辿れないかと調べたところ、ないわけではなかった。島原から、バスで雲仙温泉へ向かい、そこで、小浜行きのバスへ乗り継ぎ、小浜で諫早行きのバスに乗り継ぐというものだった。前者とは違い、島原半島の内陸を通るものだが、バスを乗り継ぐ分、交通費がかさむうえ、時間がかかる、その上面倒である。結局、鉄道を乗り継いで、長崎を目指すことにした。
 天守閣の外に出る。日差しはあったが、やはり風が冷たい。かつては松倉の圧政の象徴であったはずのこの場所も、今では城は資料館になり、本丸跡地は市民の憩いの場になっている。
「あ、オレンジのもふもふがもふもふ」
「へ、何言ってんの?」
「いや、あれだよあれ」
 結城の視線の先には、もふもふの代表格(?)ブースターがいた。
「2匹、お互い毛づくろいしているぞ。何とも微笑ましい光景だな」
「え? エッチなことを期待してたんじゃないの?」
「そんなのは、お前だけで十分なんだよ」
「あ、ずるいよ、こういう時だけ真面目になるの」
「普段からこうだし? ところで、野生なのかな? それとも人に飼われているのかな?」
「どうだろうね? 個体数は少ないから野生では滅多に見られないっていうし、人慣れもしているようだから、飼われているんじゃないの?」

 島原城を後にし、駅に戻った。ここから鉄道に乗る。次の列車は15時14分発諫早行きであった。1430円を払って、切符を買う。終点・諫早には予定通りならば、16時19分に着く。
「お前が長崎まで、背中に乗せて行ってくれれば、楽なんだけどな」
「やだよ、疲れるし」
「じゃあ、途中の諫早まででいいから」
「や・だ・よ」
 やがて、時間になり、一両編成のかわいらしい黄色の気動車が入ってきた。つまり「電車」ではないわけだ。東京では、もはやお目にかかるのは不可能であろう。幸い、ボックスシートが空いており、向かい合って座ることができた。
 有明海に沿って、島原半島を北上していく。結城は、席に腰を下ろした途端、街歩きの疲れがどっと出てきて、ほどなくして眠ってしまった。目を覚ました時には、列車が本諫早駅に入線した時であった。終点の一つ手前まで、熟睡していたことになる。
(しまった、景色を見られなかったか、損をしたなぁ……)
 列車は定刻通り、終点の諫早駅に到着した。ここで、長崎本線に乗り換える。次に乗る予定の列車は16時39分発、区間快速「シーサイドライナー」であったが、どうも10分ぐらい遅れているという。
「ご主人、遅れているってさ。どうする?」
「え~、早く長崎に行ってしまいたいしなぁ……。よし、特急に乗るか」
 300円を追加で払い、特急券を購入した。この区間快速の前に、特急「かもめ25号」があり、それに乗れば、17時前には長崎駅に着く。
「ちょうどいい。お前は『かもめ』と競争だな。どっちが先に長崎に着くか」
「勝てるわけないじゃん、そんなの」
「え~? カモメにも勝てないのか?」
「いや『かもめ』って特急の名前でしょ」
 背後には電光掲示板がある。
「あ、バレたか」
 幸い、こちらの特急電車は時間通りに来た。自由席だったし、20分も乗らないので、座れなくてもいいかな、と思っていたが、何とか座ることができた。
 空いているレザーシートに腰を下ろす。やはり、自由席とはいえ、特急なので、それなりのグレードは保証されているようだ。座り心地はバスや、先ほどのローカル線とは比べ物にならない。
 海沿いを走るのかと思いきや、遠目にちらっと海が見えたのみで、後はずっと山の中を走っていた。浦上駅で、博多行の特急とすれ違う。あと1つで終点である。
 16時50分、定刻通りに特急電車は長崎駅に入線した。快適な旅はあっという間に終わってしまった。路線はここでプツリと途切れている。車止めが止まった電車の先にある。かつては東京駅と長崎を結ぶ夜行列車があったのだが、飛行機や高速バスに価格破壊が起こると、対抗しきれずに、廃止になってしまった。
「やっと、長崎に着いたな」
「そうだね、ここが一番西にある駅なのかな?」
「ん? 一番西にあるのは、松浦鉄道の『たびら平戸口』駅じゃなかったかな?」
 いずれにしても長崎県の駅である。ただ、沖縄にモノレールができてしまい「日本最西端」の駅ではなくなってしまった。ちなみに駅前には「日本最西端の駅」という石碑があるようなのだが、直すに直せず、そのままだという。
 駅前には、東京ではもはや絶滅危惧種となった路面電車が走っている。結城が1日の移動で疲れがたまっていたこともあり、見物は明日にして、さっさとホテルに行こうと言い出した。
 路面電車に乗り、120円を支払う。ホテルの最寄りの停留所で降りて、さっさとチェックインを済ませた。
「せっかくだから、食事の前に中華街でも見ておこうか?」
 と、結城は言ったが、これは無駄足となった。行ってはみたものの、時間帯や時期のせいもあるのだろうが、店はほとんどがクローズで、中には潰れてしまったと思しき店もある。かなり寂れている。横浜の中華街のようなものをイメージしていたが、規模は比べ物にならないほど小さかったし、人気もなかった。特に見るべきものはなかった。
 中華街を後にし、街を歩いている時に見つけた店で、夕飯を取り、その日は早めに休んだ。明日は長崎見物である。

 続く


 予想以上に長くなってしまったので、2つに分けたいと思います。こんなに長くなると思わなかった……。(作者)


 続編はこちらになります↓
ふらいとらべる 新春駆け足観光篇 続き

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Last-modified: 2019-08-30 (金) 23:38:24
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