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ふしぎなきもち

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ふしぎなきもち 

Written by March Hare
魔女先生シリーズ6作目。
注:R18表現があります


◇キャラクター紹介◇

○ライズ:ニンフィア
 兵士養成学園セーラリュートの高等部二年生。

○ヤンレン:ヒヤッキー
 ライズの友人。ライズのことが好き。

○ロッコ:コジョンド
○キャス:エルレイド
○マルス:ギャロップ
○キャミィ:ペルシアン
○ユリ&ユズ:プラスルとマイナン
 etc.



ちゅうい:R18要素(ネタバレ反転:強姦っぽい描写、おもらし、その他もろもろ)があります


プロローグ:禁断の領域 


 ここまでうまく事が運ぶとは思っていなかった。
 寮の個室にライズ様と二匹きり。
「はぁ……」
 ベッドで眠るライズ様を見つめている。時間が止まっているみたいで、どれくらいの間こうしているのかわからない。
 そう、何もわからないんだ。私がこれから何をしたいのかもわからない。どうしてこんなことをしてしまったのかもわからない。ただ、胸がどきどきして、動けないでいる。
 私はみんなから少し変わっていると言われる。私はただ自分のしたいこと、自分の好きなこと、自分が楽しいことに正直なだけなのに。
「ライズ様……」
 顔を近づけると、ニンフィア特有のお花みたいな香りがする。どうしよう。
 抱きしめたい、と思った。このまま抱きしめて一緒に眠りたい。でも、なぜか少し怖いようにも感じる。
 自分の心に正直に行動した結果、こうなった。なのに、ここへきて自分が何をしたいのか、見えなくなってしまったのだ。
 彼の頬に触れてみた。
「あったかい……」
 それに、ふわふわした毛ざわりで、柔らかくて。ヒヤッキーの固い毛とはまるで手触りが違う。
「ん……ぅ……」
「――っ!」
 ライズ様の反応に驚いて声を上げそうになって、慌てて自分の口を塞いだ。
 私、何やってるんだろう。
 後先なんて考えていなかった。でも、後悔はない。私の望んだことだから。
 今度は起こさないように気をつけて。
 ベッドに上がって、彼のすぐ隣に体を横たえた。そうして、その薄桃色の体をそっと抱きしめて――

新学年 


 新学期が始まって二ヶ月。海が運んでくる風にも、近づく夏の香りが漂っていた。
 今、学園では次代生徒会役員の選挙の話題で持ちきりだ。
「ライズ様がいよいよ風紀委員長になるのかしら」
「新一年生に可愛い子がいるらしいぜ!」
 休み時間に廊下を歩いていると、そこかしこからそんな声が聞こえてくる。自分の名前を耳にしても、いちいち反応しきれないくらいだ。
「ライズ様、風紀委員長になるの?」
 ヒヤッキーのヤンレンはちょっと変わっているけれど、中等部頃から三年連続同じクラスで付き合いの長い友人の一匹だ。昔から要領の良い優等生で、得意の数学ではライズと同じ授業を受けている。
「それは僕には決められないし……順当にいけば、僕じゃなくて三年生のマルス先輩が第一候補だと思う」
 マルス先輩は現副委員長のギャロップで、次の選挙までの間、高等部を卒業して一線を引いたキャミィの代わりに委員長業務を代行している。たいていの場合、選挙を経て副委員長がそのまま委員長になることがほとんどで、事実上は指名制みたいなものだ。
「あのひともカッコいいもんね! ファンクラブもあるって聞いたよ。私は断然ライズ様派だけど!」
「あはは……ありがと」
「でも、ファンクラブの人数ならこっちが上だよ! ライズ様の方が人気あるんじゃないかな」
「さすがにそんな……ファンクラブって女の子ばかりでしょ? マルス先輩は男子からの支持も大きいんだよ」
 ライズのような線の細い中性的な容姿の方が確かに異性に受けはいいし、ただでさえニンフィアは異性を惹きつける特性を持っているのだから、ヤンレンの言うことも嘘ではないだろう。でも、投票するのは女子ばかりではない。学園全体の人気で言えば屈強な美丈夫といった出で立ちのマルス先輩の方が上だとライズは思う。
「うーん。そっかあ。好みって人それぞれだもんね」
「ヤンレンさんの好みがみんなと一緒とは限らないってこと」
「ライズ様の言う通りかも」
 ヤンレンは良くも悪くも純粋で、あまり男女を意識させないので、ライズとしては一緒にいて心地の良い相手でもある。中等部の頃にその純粋さが高じていろいろあったのだけれど、今は二匹ともそのことには触れないのが暗黙の了解になっていたり。
「でも生徒会長より風紀委員長の方が人気ってのも変だよね」
「今みたいになったのはシオン様の代からだよ! シオン様は男の子にも女の子にも人気があったし、すごかったよ」
「そっか……僕は一年のときはいなかったから、知らなかったな」
 中等部二年からの編入だったことが悔やまれる。一年から入学していれば風紀委員長シオンを見られたのにと思うと惜しいことをした。
「あ、そうだ。生徒会といえば私、役員に立候補しようと思ってるんだ」
 生徒会は風紀委員会から見ると上部組織にあたり、他にも保健委員会や図書委員会やらを統括している。各委員長と副委員長には個室が与えられることになっていて、学園の制度上は対等なのだが、風紀委員長だけ人気が飛び抜けているというのがセーラリュートの現状だ。
「生徒会に立候補、ね……」
「うん。私もライズ様と一緒にお仕事できたらいいなーって」
 一緒にお仕事。
 ヤンレンが生徒会に立候補。
「え?」
「どしたの? ライズ様?」
「ちょっと待ってヤンレンさん。生徒会に立候補って……誰が?」
「もちろん、私!」
「はぁっ!?」
 会話の流れが自然すぎて、事の重大さを認識するのに数十秒も遅れてしまった。大きな声を出してしまったせいで周りの学生の注目を浴びることになるし、そういう冗談はやめてほしいものだ。いや、冗談ではないのか。
「そんなにびっくりしなくてもいいじゃない」
「だってヤンレンさんが生徒会なんて……」
「やっぱり似合わないかな? ライズ様としては私ってそういうキャラじゃない感じ?」
 ヤンレンは首を傾げたが、冷静に考えると、彼女は成績はそれなりに優秀だし、性格も明るくて真面目だし、容姿も悪くない。男子の間では密かに人気があって、告白を受けたことも何度かあるらしい。昔あんなことがあったせいで、ライズの彼女に対するイメージが偏っているだけなのかもしれない。立候補したら案外、当選してしまいそうだ。
「そ、そうだね。意外っていうか……生徒会にヤンレンさんが入るってのがちょっとピンと来なくて」
 背中を押すわけにはいかなくて、やんわりと否定しておいた。ヤンレンのことは嫌いではないけれど、一緒に生徒会で仕事をするとなると別の話だ。適度な距離を保っているからこその心地良さというものがあって、あまり近づきすぎるとどうしても過去のことを思い出してしまうから。
「立候補するだけだから! 私じゃ通らないと思うけど、ライズ様今年で卒業しちゃうかもしれないんでしょ? だったらダメモトでもやってみないと損かなって」
 本心では止めたかったけれど、ライズと一緒に仕事がしたいというのは彼女の好意のあらわれであって、その気持ちを無碍にするのは気が引けた。
「そ、そう……頑張ってね。僕も応援するから」
 結果として、賛成とも反対ともつかないまるで他人事みたいな言い種になってしまった。それなのにヤンレンは目を輝かせて、いきなり抱きついてきた。
「えっ、ちょっ」
「嬉しい! ライズ様が応援してくれたら百人力だよー!」
「わかったから、抱きつかないでっ」
 ロッコがいなくてよかった。ヤンレンとロッコも長い間ルームメイトで仲が良いけど、ライズが関わることになると喧嘩ばかりしている気がする。ロッコも昔はそうじゃなかったのに、最近は独占欲みたいなものが芽生えているみたいだし。
「何あのヒヤッキー、ライズ様にあんなにくっついて!」
「ライズ様と同じクラスの子よ。いい気なもんだわ」
 ロッコだけの話ではなかった。周囲の視線が痛い。ライズが恥ずかしいだけならまだいいのだが、ヤンレンが昔のキャスのように彼女たちのターゲットにされないとは限らないのだ。
「ほら、みんなに見られてるし」
「んん?」
「や。んんじゃなくて」
 力が緩んだ隙に、リボンの触角でそっと彼女の体を引き離した。
「んーと……嫌だった? 私なんかがライズ様の体に触るなんて、やっぱりやめた方がいいのかな」
「友達だから、それくらいはいいけど……」
 中等部の頃に、軽いスキンシップくらいなら、と許可してしまった以上、今さら拒絶はできない。あのときはヤンレンも、ライズもまだ子供だった。お互いに何も意識していなかった。でも、そんなヤンレンがこうして気を使うようになって。
 そんなやり取りをしていたものだから、教室に着いたときには授業が始まるぎりぎりの時間だった。急いで席について、数学の授業が始まってしまったので、話は有耶無耶になってしまったけれど、今のヤンレンが果たしてライズをどう思っているのか、気にならないと言えば嘘になる。あの頃は友達だと言い切ることができたけれど、年頃の少年少女がそのままの関係を続けるのは無理な話だ。相手もライズのように、恋愛対象として同性の方が好き、というなら話は別だけど。少なくともヤンレンは同性に興味があるようには見えないし。
 隣の席に座っているヤンレンにちらりと目をやると、真剣な顔つきで授業に集中していて、ライズの視線にも気がつかない。
 ――だめだ、集中しないと。せっかくここまで品行方正、成績優秀で通ってきたのに、躓くわけにはいかない。シオンに勝ちたいわけではないけど、本人にも褒められたのだし。
 そうして気持ちを切り替えると、あっという間にさっきまで悩んでいたことなんて忘れてしまった。昼休みを告げる鐘が鳴る頃には、今日習った公式と問題の解法のことで頭がいっぱいになっていた。
「今日の授業、難しかったね……ライズ様はわかった?」
「一応理解はしたつもりだけど……忘れないうちに復習しないと、覚えられないかも」
「だよねー。私、復習とかメンドーだから嫌いなんだけど、今日のはさすがにちゃんとやっとかないとダメかなあ」
 ヤンレンは要領が良くて、例えばライズが百点を取るために十時間勉強しているとしたら、ヤンレンは八十点しか取れないかもしれないけど、勉強は三時間で済んでいる。もし彼女が本気を出したら敵わないかもしれないと時々思ったりする。
 そんなこんなで、食堂で待ち合わせているロッコのもとへ向かうのだった。

気づかないふり 


 そこで授業の間に忘れてしまっていた重大なことを思い出すことになった。
 ロッコは食堂で待つライズとヤンレンを目にするなり、コジョンドに特徴的な長いひげと前足の毛を(なび)かせて、ものすごい勢いで走り寄ってきた。
「ヤンレンっ! 生徒会選挙に出るって聞いたけど本当?」
 彼女にしては珍しく、随分と慌てている様子だ。
「そうだよー。ライズ様も応援してくれるって!」
 などと嬉しそうに言いながら、ヤンレンはライズの頭を撫でた。
「何……!?」
 ロッコは目を白黒させてライズとヤンレンを交互に見る。
「ライズ……ヤンレンを応援するってどういうこと!?」
「どういうことって……」
 その場の雰囲気というか、社交辞令というか。でも、べつにヤンレンのことを嫌っていはいないし丸っきり嘘というわけでもない。
「ふふふ。選挙で応援っていったらアレだよ、ロッコ。応援演説! ライズ様が私を推薦してくれるってコト!」
 待って。そんなつもりでは決して。
「応援演説……っ!? ライズ、正気? ヤンレンなんかを応援するなんて!」
「ぼ、僕はそこまでするとは……」
「ロッコひどい! ライズ様が私を応援するのが正気じゃないって? そんな言い方はあんまりじゃない?」
 まずい。ロッコとヤンレンがいよいよ睨み合いを始めてしまって、今さら取り消せる雰囲気じゃない。
「ライズ様は優しくて友達想いだから、友達の私を応援してくれるって……ロッコはライズ様の気持ちまで否定してるんだからね!」
「ライズの何を知ってるというの。わたしは……ヤンレンよりずっとライズのことを知ってる」
「なによー。抜け駆けしてひとりだけライズ様に近づいてるってコト? それってロッコの方がずるいじゃん。応援してもらうくらいで何がいけないの?」
「それは……」
 ロッコとライズの関係は今も秘密のままだ。秘密を明かすわけにはいかないし、この先もずっと明かすつもりはない。フォローしたくてもできないのだ。
「私だってライズ様の友達なんだからね! だいたいロッコ、ずっと前から思ってたけど、あんただけどうしてライズ様のこと呼び捨てなの? どうせ自分だけは違うって思ってるんでしょ! 私だって、きっと他のファンのみんなだって、ロッコのそういうとこ、黙って許してくれてるんだよ。私がちょっとだけ特別扱いされたからってロッコにそれを言う資格なんてあると思う?」
 ヤンレンがこんな風に怒っているところなんて初めて見た。彼女だって馬鹿ではないのだ。鈍感に見せかけて、今まで気づかないふりをしていただけだったのかもしれない。
「……ヤンレンの言う通りだ」
 ロッコは俯いたまま、声を落とした。たぶん、ロッコはヤンレンみたいに頭の回転は早くない。何も隠さず、正直に気持ちを伝えるのがロッコのコミュニケーションの取り方だ。何かを隠したまま、器用に辻褄を合わせて話すなんてことは得意ではないのだ。
「ちゃんとわかったなら、よろしい」
 ヤンレンはまたいつもの笑顔に戻って頷いた。弟や妹がたくさんいると言うだけあって、たしかにこういうところはお姉さんらしい。
「ライズ様、ごめんね。これから一緒にご飯食べようってときにケンカして雰囲気悪くしちゃって……」
「や。謝らないでいいよ? 僕が原因みたいなものだし? っていうか元はと言えば僕が悪い気もするし……」
「ライズ様は悪くないよー。あ、べつにロッコが悪いってイミじゃないよ?」
「……今回のことは、わたしが悪い」
「私もついカチンときちゃって、言い過ぎたところもあるかなって……だからそんなに落ち込まないで?」
 ロッコは本気で自分だけが悪いと思っているみたいだ。それをヤンレンがフォローする形になって、ロッコの肩を持ちたいライズとしては非常に気まずい。
 でも、ヤンレンのことはちょっと見直した。何も考えていないように見えて、実はちゃんと他人のことを見て、気づかいまでできる女の子だったなんて。それでいて、言わなきゃいけないときははっきり物を言う。彼女のほうが、ライズなんかより余程しっかりしているのではないか。
「って、ちょっと待って」
「ん? どしたのライズ様?」
「……ううん。なんでもない」
 気持ちの上で応援するとは言ったけど、応援演説までするつもりはなかったなんて。今さら言えないよね。

心と時の流れ 


 いよいよ選挙期間になると、学園のそこかしこで選挙運動が行われ始めた。ライズ自身はといえば、風紀委員は実質指名制みたいなところがあるので、演説するのは全校集会で与えられる機会くらいのものだ。一年生のときもそうだったけど、ポスターを貼るのも、それどころか作るのもファンクラブの人たちがやってくれて、少し申し訳ない気持ちになる。
 自分のポスターが貼られた掲示板を眺めていたら、見慣れたペルシアンの女学生が近づいきた。
 キャミィ先輩は昨年ライズと色々あったせいもあってか、錬成部に上がると同時に風紀委員を辞めてしまった。今年もまた高等部の生徒だけで構成されることになりそうだ。
「委員長になれるよう応援してるわよ、ライズ君」
 それでもこうして話しかけてくるのは、前向きというべきか図太いというべきか。
「もう関係ないでしょう、キャミィ先輩には」
「あら。言うようになったじゃない。あの震えていたライズ君が」
 冷たくあしらっても強気の姿勢を崩さないあたり、本物だ。それは自分に自信があることの裏返しでもある。周囲の学生たちも前風紀委員長のキャミィと今年度の候補のライズが話しているのを目に留めて、ひそひそと噂話を始めるポケモンまでいた。
「ひとは変わるものですよ」
「そうね……でも、私は変わらないわよ」
 挑発されてももう全然怖くなんてなかった。セルネーゼを怒らせてしまったときに比べたらなんてことない。弱みを握られているとはいえ、ライズと関係を持っていた頃の話なんて吹聴して回ったら立場が悪くなるのはライズより彼女の方だ。今なら冷静にそう考えられる。
「人だかりができてるから何だろうって思ったらやっぱり君だったんだ」
 キャミィと向き合って黙り込んでいたら、通りかかったエルレイドが声をかけてきた。
「えっ、あ、はい……」
 心の準備ができていないときに急にキャスが現れたものだから、まともに受け答えできなかった。彼を前にすると、体温が上がるのを感じる。あの日のことが思い出されて、顔が熱い。
「ふふっ。どうしたの、変な声出して」
「ご、ごめん……」
 キャミィは(いぶか)しげにキャスとライズを見比べた。別れを切り出したとき、彼女には言ってしまった。僕には好きな人がいる、と。中等部の頃からずっと片想いの相手だとも。
 今も、片想いの関係は続いている。キャスはあの日のことを後悔していて、彼がライズに抱くものは友情でしかない。体を重ねてしまったからこそ、絶対に叶わない想いであることを知ってしまった。セルネーゼと再会して、前を向くことができるようにはなったけれど、だからといってキャスを忘れられるはずがない。
「えっと……前の風紀委員長のキャミィ先輩……ですよね。初めまして。ライズの友達のキャスっていいます」
「友達、ねぇ」
 キャミィはすぅっと目を細めた。やっぱり、気づいているのか。ライズの片想いの相手が彼だと。
「知ってるわよ。中等部の頃はライズ君のルームメイトで、すごく仲が良かったそうね。というより、君がライズ君にべったりで、まるでライズ君に恋する女の子みたいって噂だったわよ」
「そ、そんなこと……っ」
 キャスは顔を赤くして、一歩後ずさった。
「あの頃のボクにライズしか友達がいなかったのは本当ですけど、恋とかそういうのじゃないですっ」
 そうだ。キャスの気持ちは恋なんかじゃない。優等生の僕に憧れてはいたかもしれない。おまけに依存していたから、はたから見るとそんな風に見えていただけで。
 でも、本当はキャスを必要としているのは僕の方だった。目が合わせられない。
「ふーん……それなら、どうして二匹とも恥ずかしそうに目をそらすの?」
「誤解しないでくださいっ。ていうか、恋する女の子って……それ、どっちかというとライズの方だし……」
「前にも言ったけど、僕は女の子じゃ――」
 言いかけて、墓穴を掘ってしまったことに気づいた。キャミィははじめから、カマをかけていたのだ。おそれでわざと挑発して、二匹の反応を観察しようとした。
「へぇ。やっぱりそういうこと。私じゃ絶対に敵わないわけだ」
 キャミィは今のやりとりで全てを悟ってしまった。それでも、衆目を集めるこの状況ではさすがの彼女も踏み込んだ話はできない。
 周囲のポケモンたちがざわつきはじめた。また変な噂のタネを撒いてしまったのかもしれない。今回は前風紀委員長のキャミィまで巻き込んでいるし、彼女のファンまで巻き込んで広がってしまいそうだ。
「ライズ様ー!」
 空気を読まずそこへ現れたのは、丸めたポスターを抱えたヤンレンだった。
「ファンクラブのみんなでライズ様のポスターは貼り終わったよ! あ、キャミィさんも手伝ってくれてありがと!」
「……あなたねぇ。本人の前で大きな声で言うんじゃないわよ」
 キャミィがポスターを貼るのを手伝っていたとは意外だった。でも、ライズを応援しているというのは、形はどうあれ本心からの言葉なのだろう。別れてからは脅迫的なアプローチはしてこなくなったものの、未だに諦めていないのはライズにしてみれば迷惑な話だ。
「ヤンレンさん、自分のはいいの?」
「それは、これからだよ! ライズ様がいなきゃ、私が生徒会に入っても意味ないもん」
「それ言っちゃっていいの……?」
「下心丸出しもいいところね。ま、ライズ君にアプローチするのは勝手だけど、やり過ぎて皆の反感を買わないように気をつけなさい」
 キャミィがファンクラブの一員だということは本人から聞いて知っている。ロッコとは一度あんなことがあったから仲が悪いみたいだけれど、ヤンレンとはどうなのだろう。少なくとも不仲には見えない。
「じゃあね、ライズ君、ヤンレンさん。お互いに頑張りなさい」
 そんな良い先輩らしい言葉を残して、キャミィは去って行った。ヤンレンにも激励の言葉をかけたのは、人前だからか、それとも本心なのかはわからない。しかしキャスを無視したのはきっとわざとだろう。
「……仕方ないよね。ボクが良く思われないのはさ」
 キャスは胸のツノに手を当てて、困ったようにはにかんだ。キャスは悪くないのに。ライズとしては申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
「んん? キャスってキャミィさんに嫌われてるの?」
「そうみたい。ま、ライズとボクの仲が良すぎるから嫉妬されてるだけだよ」
「き、キャスっ……みんなの前でそんな……っ」
「間違ったことは言ってないでしょ? ライズとボクは大親友だもの」
 キャスはライズの頭を撫でて、悪戯っぽく笑った。わざとライズをからかっているのか。キャミィに嫌われても怖がらないところといい、以前の彼とは大違いだ。
「そ、そうだけど……もう、進化して大きくなったからって頭撫でないでよっ」
「あはは。ライズのそういうとこ、可愛いよね。ヤンレンさんもそう思うでしょ?」
「う、うん……ていうか、ライズ様は何してても可愛くてカッコよくて美しいけど!」
 ヤンレンまで巻き込んで、キャスに完全に手玉に取られている。
「ふふ。相変わらず女の子には大人気じゃない、ライズ」
 明らかな気持ちの余裕を感じさせるような、キャスの微笑み。
 ライズが告白したとき、彼は言った。『今でもライズはボクにとっての憧れの存在なんだ』と。でも、今のキャスがライズに憧れの念を抱いているとは思えない。まるでキャスに支配されているかのような心地がする。
「ライズ様って男の子にはあんまり人気ないのかな? ライズ様の魅力って男とか女とか関係ない感じがするんだけど」
「どうだろうね。個人的にはライズを応援してあげたいけど、ライズって女の子みたいだからさ。男子の憧れの対象とは違うかな」
「女の子みたい? ライズ様が?」
「……女の子って言うのやめてよ。何回言わせるの?」
「えっ? わ、私はライズ様のこと、女の子みたいって思ったことないよ? ライズ様が男の子じゃなかったら私、好きになったりしないし!」
「や、ごめん……ヤンレンさんじゃなくて、キャスに言ったの」
 抗議の気持ちを込めて、キャスを上目遣いで軽く睨んだ。
「確かにそうやって意地でも認めないところは、男の子らしいかもね」
 キャスの声には、少し嘲りの色が含まれていた。
「ど、どういう意味だよっ」
 気のせいではない。それでつい、ライズも声を荒げてしまった。本当は喧嘩なんてしたくないのに。
「ボクはライズのこと、半分くらい女の子だと思ってるからね。君が認めなくたって、ボクが嘘をついたって、それは変わらないよ」
「っ……」
 返す言葉がない。キャスはライズの内面を勘違いしているわけではないのだ。それどころか、ロッコと同じかそれ以上によく知っている。これまでの自身の振る舞いをキャスの視点から見れば、恋する乙女そのものだと言われても、否定しようがない。
「ライズ様……?」
 唇を噛んでうつむいてしまったライズの顔を、ヤンレンは身をかがめて心配そうに覗き込んだ。
 それからいきなり立ち上がったかと思いきや、ヤンレンはキャスに詰め寄った。
「キャスっ。あんたの言うことは正論かもしれないけど!」
「ええっ、と……」
 突然のことに、キャスは一歩下がってたじろいだ。ライズもこの前のロッコとの一件で初めて見たときは驚いたけれど、ヤンレンは純粋な性格だからこそ、怒るときは怒るし、大事なことははっきり言うタイプだ。
「ライズ様が傷つくってわかってて言ったよね? 私よりずぅっと深くライズ様のこと知ってるくせに、わからないなんて言わせないからね!」
「ま、待ってよ。ボクは……」
「やめて、ヤンレンさん。正しいのはキャスなんだ。僕が意地を張るためだけに、キャスに気を遣わせるなんて……僕が自分勝手なだけで」
「どうしてキャスを(かば)うの? 今のはキャスが悪いよ。ライズ様がずっと悩んでることなんだよ? それをあんな言い方するなんて」
 中等部の頃、まだキャスへの気持ちを自覚する前のこと。欲はあるけど恋はわからない、と最初に打ち明けた相手は、ヤンレンだったことを思い出した。
「私もそうだから、わかるの。他人と違うから。いつか真面目に、自分の心と向き合わなきゃいけないって。でも、それは誰かが答えを突きつけていいものじゃないよ。心の準備って言葉、知ってる? いつ答えを出すかは、ライズ様が決めることでしょ?」
 ヤンレンの言葉の一つ一つが、いつになく重い。
 それでも、今のキャスには響かなかった。キャスは不機嫌そうに、眉をひそめただけだった。
「そんなこと言われたって、ボクにはわからないよ。ボクは、普通の男子だから……男ってのはライバルに勝ちたいと思うものなんだ」
 ああ、そうか。キャスにとって、ライズは超えなければならないライバルだったのだ。弱くてライズに依存していた中等部の自分を払拭するために。キャスに支配されているように感じたのも、合点がいく。キャスに抱かれたあのときから、ライズはキャスに征服されていたんだ。
「みんなの見てる前だし、やめない? こういう話」
 キャスは肩をすくめて、くるりと背を向けた。
「……二匹とも、頑張ってね。ボクがライズを応援してるのは、嘘じゃないから」
 キャスは起伏のない声で言い残し、人混み(ポケモン)をかき分けて行ってしまった。最後まで謝ることはなく。
 彼に謝ってほしいとはライズは思わない。ここで謝られたら、それこそ完全に、キャスの掌の上で転がされてしまうようなものだから。

勝利の秘策 


「キャスがあんなやつだとは思わなかったよ! 私もガツンと言ってやったけどさ!」
 最近はロッコとヤンレンとライズの三匹でランチタイムを過ごすのが日課になっている。選挙に向けて、ライズと話す機会が増えた。それだけでもヤンレンにとっては十分立候補した価値があったというものだ。しかし、近づこうとすれば、いろいろと見えてくるものがある。今回のキャスの一件がそれだ。
「もういいよヤンレンさん……悪いのは僕だしさ」
「なんでそうなるのー? ライズ様は絶対悪くないよ! ね、ロッコはどう思う?」
 ロッコはライズの顔をじっと見て、しばらく考え込んだあと、小さなため息をついた。
「……悪いのはわたしかもしれない」
「え? ロッコが?」
「わたしがライズを後押ししたから……ヤンレンも知ってるでしょ。ライズがキャスを好きだってこと」
「うん」
 ライズがキャスに恋心を抱いていることは、中等部の頃にいろいろあって知ってしまった。
 でも、私はライズ様が好き。その気持ちは変わらない。
「わたし、ライズがキャスと距離を縮められるようにって……無理言って……」
「僕が望んだことだよ。ロッコさんは僕の望みを叶えてくれただけ。それに、キャスは僕の気持ちをきちんと受け止めてくれたし」
「でも、今日のあれは……やっぱり前のキャスとは違ったよ。昔は私と同じで、ライズ様のことが好きなのがわかったよ。男の子同士だから、ちょっと違うかもしれないけど。なんていうか、ライズ様を尊敬してるってカンジだった」
 綺麗には言葉にできないけど、自分の感じたことは間違っていないと思う。
「今のキャスはライズ様を下に見てるよ絶対。自分の方が偉いみたいな顔しちゃってさ!」
「や、キャスに限ってそんなことは」
「支配欲……か」
 ライズはあくまで否定したが、ロッコは訳知り顔で意味深な言葉を呟いた。
「支配欲?」
「キャスも男の子だから、ライズに勝ちたいんだと思う。あの子、昔はずっと自分に自信がなかったから」
 キャス自身も同じことを言っていた。ロッコは直接聞いたわけじゃないのに、まるで他人の心を見透かしたみたいで。
「そんなの……私にはわかんないよ」
 ロッコはすごく頭がいいわけじゃないけど、他人の心を分析するのは得意なんだと思う。彼女がライズの一番の理解者になっているのも(うなず)ける。
「もうやめない? 本人のいないところでこういうこと言うのはさ……」
 本人にもはっきり言ってやったのだから、ヤンレンとしてはべつに陰口を叩いているつもりはない。でも、ライズはあまりこの話題に触れたくなさそうだった。
「……ライズ様がそう言うなら」
「うん。それよりヤンレンさん、生徒会に立候補するの初めてでしょ? 僕に相談したいこととかないの?」
「えっ? そ、そうだね、えーと……」
 突然そんなことを言われたら、戸惑ってしまう。ライズが友達として仲良くしてくれているだけで、ファン冥利に尽きるというのに、こんなに優しくしてくれるなんて。話題を逸らすためかもしれないけれど、たとえそうだとしても、嬉しいことには変わりはない。
「ヤンレンさん?」
「え、あ、ごめん……ライズ様に相談だなんて、恐れ多くて……」
「……馬鹿?」
 ロッコの冷ややかな目にはちょっとむかついたけど、ライズのきょとんとした表情が可愛くて、すぐにどうでもよくなった。
「ヤンレンさんってやっぱり不思議……急に抱きついてきたりとかはするのに」
「えっ!?」
 ライズの一言にロッコが半ば叫ぶような声を上げた。ロッコが声をひっくり返すなんて珍しい。
「あ、いや……」
「ライズ、どういうこと? ヤンレンと何したの?」
「べ、べつに何もしてないよ? ただ、普段のスキンシップは遠慮がないっていうか……」
「ロッコだってしょっちゅうライズ様の頭撫でたりしてんじゃん」
「そ、それはそうだけど、わ、わたしは……だ、抱きついたりとか、してないし」
「でもロッコ、ライズ様といっつも距離近いよ? 今もそうだけど、三匹で集まったときにいっつもライズ様の隣に座ってるし」
「……わかった。ライズが嫌がっていないなら、それくらいは……」
 少し前に似たようなことがあったからか、ロッコは言い返してこなかった。さすがに自覚はあるみたいだ。
「ていうか、なんでロッコにそんなこと言われなきゃなんないの?」
二匹(ふたり)とも、やめとこうよ? ぼ、僕は気にしてないからさ……」
 ライズがヤンレンを応援してくれると言ったときは、衝動を抑えきれなかったところもあるけれど、さすがにライズが嫌がっているかどうかはわかっているつもりだ。自分の欲求を満たすために、ライズに嫌われてしまったら元も子もないのだから。
「えっと……ライズ様に相談したいこと……うーん。学園を良くしたいって気持ちを正直にアピールしたら、それでいいのかなって」
「ふふっ。そういう純粋なところがヤンレンさんの長所だよね」
 ライズはリボンの触角で口元を抑えて小さく笑った。
「案外、僕が余計なアドバイスとかしない方がいいかも」
 ライズの笑顔を見ていると、胸の奥がほんのりと温かくなる。やっぱり、ライズに悲しい顔はしてほしくない。
「ヤンレン、学園を良くしたいなんて、本気で思ってる? ライズと一緒に仕事がしたいだけじゃないの?」
「もちろんそれが一番だけど、学園のみんなに笑顔でいてほしいって気持ちは嘘じゃないもん」
「……ほんと、子供みたいに純粋な奴」
「ロッコも出たら良かったのに」
 ロッコに皮肉を言われたので、負けじとからかってみた。
「わ、わたしは……そういうの、柄じゃないし」
「たしかに、ロッコさんが生徒会でお仕事してるところはちょっと想像できないかも」
「あ、ライズ様もそう思う?」
「わかってて言ったの? ライズ、これのどこが純粋だって?」
「まあまあ、ロッコさん……」
 こうしてお互いに冗談を言い合える関係の中にライズがいる。それってすごく幸せなことなんだと思う。でも、慣れてしまったせいだろうか。それだけでは物足りなさを感じるようになってしまった。ロッコに対抗心を燃やしている自分がいる。
 私だってライズ様ともっと仲良くなりたい。ロッコばっかりずるい。
「よ、ライズ!」
 そこへ声をかけてきたのは、ニャオニクスのフォールだった。いつもと変わらず、トリミアンのレミィ、エンブオーのヒルダ、ハピナスのナーシスを引き連れている。三匹は中等部の頃からフォールにくっついていたけれど、みんな進化してしまったから、あの頃よりもフォールがやけに小さく見える。
「ロッコさんとヤンレンさんも元気? オマエもハーレムが板についてきたなァ」
「べつにそういうのじゃないよ……」
「ま、どっちでもいいけどさ。オマエ、いよいよ風紀委員長になるんだろ? オレもこいつらと一緒にバッチリ応援してるぜ!」
「あたしたちはフォール一筋だけど、フォールが応援するって言うならライズ君を応援するわ」
 トリミアンのレミィはそう言って、ライズにウィンクした。
「あ、ありがとう」
 ライズは自分は同性には人気がないと言っていたけれど、そんなこともないのではないか。フォールはライズと仲が良いというよりは、ライズを気に入っている風に見える。
「しかしなァ、ライズ……前から思ってたんだが、オマエ、大人しすぎるんだよな。真面目な優等生キャラってのもいいけどさ、正統派すぎて飽きられるんじゃないの?」
「や、僕は狙って演じてるわけじゃないし」
「そうだよ! ライズ様は自然体で王子様だからいいの!」
 フォールがケチをつけるもんだから、つい声を荒げてしまった。フォールみたいにちょっとワルっぽい男の子も嫌いではないけれど、結局最後は正統派には敵わないと思う。
「悪いとは言わねーけどよ。ただ、なんつーか……そう! ライズにはあざとさが足りないんだ!」
「は? あざと……何?」
「オマエ可愛いんだからさぁ。オレのハーレムに加えてやりたいくらいだもん」
「なっ……ばか言わないでよ! ぼ、僕は、女の子じゃないんだから!」
 ライズは頬を赤く染めてフォールに言い返した。恥ずかしそうな表情は、確かに可愛い。
「ほら、そういうとこ。もっと見せりゃいいのにさ。オマエが可愛く甘えたら年上のお姉さま方はきっとみんなイチコロさ」
「たしかに。わたしもイチコロでやられてしまう」
「ロッコさんまで!」
「へぇ。ロッコさん、ライズに甘えられたことあるんだ?」
「えっ……いや、そんなことは……」
 フォールに指摘されて、ロッコは明らかにうろたえている。今の発言はロッコがライズの可愛いところをよく知っていると言わんばかりだった。ライズも目を背けているし、まるで隠れて付き合っている恋人みたいだ。
「やめときなよフォール。あんただってカッコつけてるけど可愛いトコいっぱいあるじゃん」
 意外なところからフォローが入った。フォールの取り巻きの一匹、エンブオーのヒルダがぽんぽんとフォールの頭を撫でた。
「ばっ……オマエな、人前でそういうこと言うなって!」
 なんだか、自分だけ置いてけぼりだ。ロッコは確かにライズと仲がいいし、ヤンレンの知らないことも知っているとは感じていたけれど。こうして目の前のすると、もやもやする。
「も、もうこの話はやめておこうよ? お互いの名誉のためにもさ」
 ライズの提案に、フォールは照れ隠しなのか、軽く舌打ちをして、とりまきの三人を連れて行ってしまった。
 全員がそうとは限らないけれど、ニャオニクスは女の子の方が勝気で、男の子は受身な子が多いらしい。フォールはそんな内面を隠すためにあんな風に振舞っているのかもしれない。彼を追いかける女たちはそんなギャップに惹かれているのだろう。
「フォールってワルぶってるけど、可愛いんだよね……あんなこと言って挑発してくるし……」
 今ならわかる気がする。見かけと本当の姿のギャップに魅力を感じるひとの気持ちも。
「ライズ様、フォールのこと好きだよね」
「は? ち、ちちがうよ? フォールは友達だし……あんな挑発になんて乗らないんだからねっ」
 目の前の王子様には秘密があって、本当は正統派じゃなくて、実は乙女みたいな一面があることも知っているから。
「嘘。ライズは惚れっぽいから、フォールに本気で誘われたら断らないでしょ」
「ロッコさん!? い、いくら僕でもそこまでじゃないからね?」
 ロッコはやっぱり変だ。ヤンレンの知らないライズを知っている。まるでライズの家族、もっと言えば恋人みたいだ。
「そこまでじゃない、ってことは……惚れっぽいのは否定はしないんだ?」
 ライズがキャスのことを今でも好きなのはわかる。でも、他のひとにそんな態度を取ったところなんて、見たことがない。
「ええと、それは……」
「男の子に、ってこと?」
「誤解だよ、ヤンレンさん……フォールのことは嫌いじゃないけど、そういうのじゃないから」
「シオン様にメロメロだったくせに」
「あやややや、シ、シオンさんはその、あの」
 ライズは慌ててリボンをぱたぱたさせて、ロッコの口を塞ごうとしたが、もはや手遅れだし、こんな反応をしたら肯定しているのと同じだ。
「シオン様に会ったの? 最近?」
「ちょっと色々あってね……」
「シオン様なら、仕方ないかなぁ。あんなに綺麗なエーフィ、見たことないもん。おまけにすっごく可愛いんだよね! 年上の先輩とは思えないくらい!」
「そ、そうだよね! ヤンレンさんって中等部一年の頃はシオンさんのファンだったんだっけ」
「そだよ! ライズ様のファンクラブにも元シオン様ファンが多いんだ。あ、私はライズ様の方が断然好きだから安心してね」
「何の安心? わたしはライズしか見ていないけど?」
「もー、ロッコはすぐそういうこと言うんだから。一年のときはライズ様いなかったんだもん」
 ライズ様も私と同じなのかもしれない、と思った。
 ヤンレンにとって一番はライズだけれど、それはそれとしてかっこいい男の子は好きだし、綺麗なひとも可愛い子も好きだし。かといって、男の子なら誰でもいいってわけじゃない。
「ヤンレンはいいとして……」
 ロッコはライズを横目で見て、彼のほっぺをつついた。
「ひゃっ!?」
 反応が可愛い。ずるい。いつも私が抱っこしたりするとちょっと嫌がるから、今度はロッコの真似をしてみようか。
「フォールの言う通り、ライズはもっと可愛さをアピールした方がいい」
「ええっ……僕、そういう方向性じゃないと思うんだけど」
「無自覚」
「こればかりはロッコに賛成かなー」
「や。そういうのは僕じゃなくてシオンさんとか……あ、進化前のキャスも可愛かったけど」
「ライズ様が可愛いだけの男の子じゃないってことは知ってるよ? でもさ、相手はあのマルス先輩なんだよ」
 ライズの対抗馬、ギャロップのマルスにもファンは多い。女子だけでなく男子にも憧れの対象として人気がある。
「わたしたちはライズのことが好きだから絶対にライズに投票するけど、マルス先輩とライズのどっちに入れるか迷っている生徒も多いはず」
「マルス先輩、かっこいいもんね……僕なんかよりずっと」
「ライズ様もかっこいいよ! でも、可愛さはライズ様にしかない武器だよ。マルス先輩に勝とうと思ったら、その武器を使わない手はないよ」
「べつに僕は勝ちたいとか思ってないし……誰を選ぶかはみんなが決めることだから」
「でもライズ様……最後かもしれないんだよ? 卒業、しちゃうんでしょ?」
 あまり口にしたくはなかった。ライズ様と、じきに会えなくなるかもしれないなんて。でも、ライズのファンはみんな考えていることだ。
「うーん……期待に応えたい気持ちもあるんだけどね。そもそも、可愛さをアピールって……どうしたらいいの?」
「それは私とロッコに任せて! ライズ様は私たちの言うとおりにするだけでいいから!」
 ロッコに目配せすると、彼女も黙って頷いた。
「それはありがたいけど……ふふ、ヤンレンさんの相談に乗るつもりが、逆になっちゃったね」
 長々と話していたら、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。ヤンレン達はまた放課後に集まる約束をして、それぞれの授業の教室へと向かうのだった。

てだすけ 


「ライズ様、笑顔が堅いよー? いつもみたいに自然に、自然に」
「そんなこと言ったって作り笑顔なんだから……」
「去年の学園祭のことを思い出して。接客の精神」
「あ、それそれ! ライズ様のメイドさん可愛かったもんね!」
 二匹のレッスンは厳しかったけれど、可愛く振る舞う自分のイメージは少し作れたように思う。でも、こんなのでマルス先輩に本当に勝てるのか。ファンの期待に応えたい気持ちはあるけれど、本心ではそこまで委員長になりたいわけではないし。
「そうだ、ライズ様。本番でいきなりってのは難しいから、私の応援のときに試してみたらどうかな?」
「えー……友達の応援を自分の練習に利用するわけにはいかないよ」
「私の応援、そこまで真剣に考えてくれてたんだ!」
「それは当然。ライズは友達を蔑ろにするような子じゃない。いくら相手がヤンレンでも」
「確かに。でも最後の一言は余計じゃない?」
 ヤンレンとロッコがまたいつもの小競り合いを始めた。喧嘩するほど仲が良い、とはいうが。最近は彼女たちも本音で接する機会が増えたから、衝突するのも無理はない。
 ロッコと特別な関係になって、ヤンレンとはちょっと距離があったのは事実だ。考えてみれば、これはその距離を埋めるチャンスなんだ。
 過ちは繰り返したくない。特定の一匹と仲良くしすぎたら、誰かに嫉妬されて、間接的に傷つけることになってしまう。まして大切な友達同士の関係が悪くなるなんてごめんだ。
「ふたりとも、喧嘩しないで」
 闘争心を失わせるニンフィアの能力を使えば場を収めることもできるのだけど、無理なことはしたくない。一時的に感情を抑えたって、解決にならないから。
 この二匹なら、リボンの触角でそっと触れるだけで、わかってくれる。
「ライズがそう言うなら……」
「ロッコが一言多いからつい……ごめんね、ライズ様」
 ああ、でも、ライズが止めてしまうと、ニンフィアの能力で無理に止めるのと変わらないかもしれない。
 二匹の反応を見て、少し失敗したと思った。

         ◇

 そうこうするうちに時は過ぎ、本格的な選挙運動が始まった。投票日の全学集会のスピーチ以外は、自由な活動が許されている。もちろん贈賄行為なんかは不正として失格にされるけれど、ジルベールの学校に比べたら規則なんてあってないようなものだ。
「――ということで私、ヒヤッキーのヤンレンをよろしくお願いしまーす!」
 選挙運動解禁初日の昼休み、ヤンレンは自然体で、ありのままの自分をアピールしていた。初めての機会なのに緊張もしていないなんて、肝が座っているというべきか楽観的というべきか。
「えっと、今日は私の応援に来てくれたポケモンがいます!」
 多くの候補者たちが演説する中庭の広場で、彼女は背後に花壇のあるこの場所を選んだ。サプライズゲストを裏に隠すために。
 打ち合わせ通り、ライズは花壇の影から飛び出した。元気に、可愛らしく、を意識して。
「えっと、み、皆さんこんにちは! ヤンレンさんのクラスメイトのライズです!」
 よし、練習通り笑顔で言えた――はずなのに、聴衆はしんと静まり返っている。
「えっと……びっくりしたかな? 今日はヤンレンさんを応えにゅるれ……っ、お、応援しに来ました!」
 一安心したら、盛大に噛んでしまった。自分の演説ならともかく、友達の応援で失敗するなんて最悪だ。
「ちょっと、あれ本当にライズ様?」
「出てきたときは別のニンフィアかと思ったけど……」
 聴衆がざわめきはじめた。やっぱり、急にイメージを変えようなんて無茶だったんだ。こんな調子じゃ応援にならない。申し訳ない気持ちで横目でヤンレンの様子を伺ったら、小さなガッツポーズをしながら、ウィンクしてきた。ガンバレ、と応援してくれているのか。応援に来たのは僕の方なのに、これじゃ立場が逆じゃないか。
「ご、ごめんなさい。友人の応援演説は初めてなもので……緊張してしまって」
 やっぱり自然体でいこう。これ以上ヤンレンに迷惑をかけるわけにはいかない。
「僕は彼女とは中等部からの友達で……ヤンレンさんはちょっと変わったところもあるけど、真面目な女の子です。学園のためにお仕事がしたいという彼女の気持ちは本物です。彼女が生徒会役員になったら、ひたむきに学園のことを考えて、きっとセーラリュートの未来に貢献してくれることでしょう。だから、僕も彼女を応援しています! 是非ともヤンレンさんに清き一票を、よろしくお願いします!」
 話している間、聴衆は静かに聞いてくれたけれど、ひと息つくとまた騒がしくなってきた。
「おいおい、どうやって学園の王子様を味方につけたんだ?」
「ライズだって俺たちと同じ男だろ? ヤンレンさんの魅力に気づいたんだよきっと!」
「悔しいけど、ライズ様が応援しているなら……」
「そうね……あの子はどっちでもいいけど、ライズ様には悲しんでほしくないし」
 でも、男女ともに反応は悪くないみたいだ。
 少なくともライズの応援がかえってマイナスになるようなことはない……と信じたい。
「ライズ様、ありがと!」
 ヤンレンもとびきりの笑顔で応えてくれた。なんだか少し照れくさい。
「あ、そうだ! みんなも知ってると思うけど、ライズ様は次の風紀委員長候補です! ライズ様のことも応援してあげてくださいね!」
 主役は自分なのに、ライズのことを気づかう余裕まであるなんて。ライズが思っていた以上に、彼女は大物になるのかもしれない。
 なんて、まるで保護者みたいな偉そうなことを考えてしまう自分がいるけれど。今の彼女はもう、ライズより大人なのではないか。ヤンレンが子供みたいだったのは昔の話で、いつの間にか、ああ、本当に姉弟の一番上なんだって思うことが増えた。
 演説が終わると、昼休みも終わりに近づいていたので、聴衆の学生たちもすぐに移動し始めた。会話の一つ一つは聞こえないけれど、皆ライズの登場に驚いて、あれこれと想像を巡らせているようだった。
「さ、私たちも行こっか! 授業に遅れたりしたら印象悪くなっちゃうしさ!」
「う、うん……また後でね」
 これで良かったのだろうか。もとは応援演説までするつもりではなかったとはいえ、ここまできたらやっぱり力になってあげたいと思う。でも、今日の調子では力になるどころか、足を引っ張ってしまったかもしれない。自分で考えていた以上に、ライズは学園の皆に影響力の大きな存在になっている。驕りでも自意識過剰でもなく、事実として認めなきゃいけない。自身の風評のためだけなら気にしなくても良かった。けれど、誰かの応援をする意思を表明したのなら、決して無視はできない。
 一つのミスが、自分だけではなくヤンレンの印象まで損なってしまうことだってあり得るのだ。
 変にキャラ作りなんかして、失敗するなんて。真剣さに欠けると捉えられてしまったらどうしよう。
 考えれば考えるほど、不安になる。聴衆の反応は悪くはなかった、なんてのも勘違いかもしれない。ライズが聞き取れたのは前列にいた学生たちの声だけだ。悪評なんてのは本人に聞こえないところで囁かれるものだし。
「……はぁ。やっぱり、余計なことしなきゃよかったかも」

         ◇

 ライズ様が応援に来てくれた。それだけでもう満足してしまいそうだ。何のために立候補したのか、って、ロッコには怒られそうだけど。
 でも、責任はちゃんと感じている。あのライズ様が応援してくれているのに落選するわけにはいかない。この学園のために働きたい気持ちだって、嘘じゃない。
 それでも今はライズ様と一緒にあの場に立てたことで胸が一杯になる。ロッコと一緒に教えたとおりに振る舞おうとして、失敗して噛んじゃうところが可愛くて。
「あの、ヤンレンさん」
 ライズの姿を思い出して頬を緩めていたら、その当人がヤンレンのところにやってきた。
 先生の声がまるで耳に入っていなかったけれど、どうやらホームルームが終わったようだ。
「あ、ライズ様っ? ごめん、ぼーっとしてた!」
 にやけた顔を隠そうと大げさに驚いてみせたが、ライズは不審がる様子もなく。というか、うつむいていて、少し落ち込んでいるみたいだ。
「昼の応援演説のことだけど……ごめんね」
「えっ? 謝ることなんてあったっけ?」
「や……最初、変に意識したせいで、緊張しちゃってさ。噛んじゃったし……」
 どうやら、真面目なライズ様は、演説を失敗したと思って落ち込んでいるらしい。そういうところがまた可愛いなんて思ってしまうのは、ちょっと本人に失礼だろうか、なんて考えていたのに。
「ライズ様が演説してくれただけで私は感謝してるよ? それに、緊張してるライズ様って珍しくて、可愛かったし!」
 そのまま言ってしまった。他にフォローする言葉も見つからないし、何より本当に感じたことだし。
 あれを見た他のみんなだって、きっとヤンレンと同じことを感じたに違いない。好みはあったとしても、可愛いことに変わりはない。可愛いは正義だ。
「は……? そこ!? 僕は、真面目に可愛く振る舞おうとしたのに」
「わかってるよ。ライズ様が頑張ってたことはね」
「……なんか、馬鹿にされてる感じ」
 ライズは横を向いて、口を尖らせた。
「拗ねないの。私がライズ様を馬鹿になんてするわけないじゃん」
「拗ねてなんかないよっ。もぉ、ヤンレンさんと話してると調子狂うな……」
 いつも落ち着いた態度のライズ様がこんな姿を見せてくれるのは、自分が気を許せる相手だと認められているようで少し嬉しい。
「応援演説のことなら、大丈夫だよ。ライズ様、私のことしっかり推薦してくれたし……途中で失敗しても、最後はうまくいったんだから」
「そう……かな。そうだといいんだけど」
「うん。サプライズの演出もばっちりだったし! それに、応援演説のときに練習しよーって勧めたのは私なんだから」
 気がついたら、ヤンレンはライズの頭を撫でていた。
 無意識に手が出てしまった。しょんぼりしているライズ様を見ていたら、無性に慰めてあげたくなって。
 ライズ様は嫌がりはしなかったけれど、妙にクラスメイトの視線を感じる。やっぱりライズ様と一緒にいると、目立つのかな。
「さあ、気を取り直して放課後も頑張らなきゃね! 今日の放課後は中央広場で風紀委員の候補が演説するんでしょ?」
「うん、一応……ね。風紀委員はほとんど推薦みたいなものだから、今日はみんな挨拶程度だけど」
 去年までは聞く側だったけれど、選挙運動解禁日の放課後といえば、風紀委員の候補生が一度に姿を見せる初めての機会だ。候補となる一年生が誰なのか、そのとき初めて知る学生も多いから、特に注目される。一年生のとき、ライズ様が先輩から推薦されていることは多くの生徒が知っていたけれど、それでもすごい熱狂っぷりだった。
「今年の一年生ってどんな子なの?」
「今年は二匹いるんだけど、プラスルの女の子とマイナンの男の子で……双子の姉弟なんだってさ」
「へーっ。双子のアイドルって新しいね!」
「風紀委員はアイドルじゃないってば」
「ライズ様もマルス先輩も……去年の委員長のキャミィ先輩だって学園のアイドルでしょ?」
「それは……みんなにそう見られているなら、そうかもしれないけど」
 キャミィ先輩の名を出したところで、ライズは少し表情を曇らせた。
 もしかして、ライズは彼女のことがあまり好きではないのだろうか。ヤンレンも、ライズ様ファンクラブの一員として彼女と何度か話したことはある。昨年度は風紀委員をしているライズの様子について、よく質問攻めに遭っていたのに、いつも落ち着いた態度を崩さなかった。大人の女性として尊敬されていて、皆より少しライズに近い位置にいても許されるような雰囲気があった。ときどき陰口を叩かれていたロッコとは扱いが対照的だった。
 そういえば、ロッコは露骨にキャミィ先輩を嫌っていたっけ。彼女はたぶん、何か事情を知っているんだ。
「ちゃんと学園の風紀を守るのが仕事だもんね。ごめん。私も生徒会に立候補してるわけだし、自覚しなくちゃ!」
 今は聞くのはやめておこう。ライズ様がいろんな悩みを抱えていることは知っているから。
 いつかライズ様が話したいと思ったときに、受け入れてあげられる心の準備をしておくことが私にできることだ。ロッコなら、すぐに問い詰めて、一緒になって解決しようとするかもしれない。
 本当は私も世話焼きなところがあるから、すぐに力になってあげたい。でも、友達として三匹一緒にいるなら、役割は違った方がいい。
「ヤンレンさん、珍しく真面目な顔してるね」
「珍しく、って……私だって真面目にやるときはやるんだから」
「ごめんごめん。たしかにヤンレンさん、授業中はすごく真面目だもんね」
「そ。ライズ様には敵わないけど、こう見えて私も真面目な優等生で通ってるんだよ?」
「それは……あー、でも言われてみれば……」
 ライズ様が私に抱いている印象は、きっと周りが思っているヤンレンの姿とは少し違う。
 どちらが本当の私なんだろう。それは私にしかわからないことなのに、ときどき自分がわからなくなる。
 でも、純粋さが私のいいところだ、とライズ様に言われたときは、自分自身でもしっくりくるものがあった。今なら、お互いに間違った理解はしていないと思う。
 三年連続で同じクラスになった、付き合いの長い友達。だから異性として意識せずに、仲の良い女の子同士みたいな接し方をしている。でも、ライズ様に抱く気持ちは純粋な友情とは違う。
 不思議な気持ち。友達として仲良くなりすぎたせいか、この感情に名前がつけられないでいる。
「そろそろ集合時間かな? 楽しみにしてるね、ライズ様の演説」
「今度こそ……ちゃんと可愛くなれるように頑張る」
 ライズ様が真剣な顔でそんなことを言うもんだから、思わず吹き出しそうになった。言い出したのは自分とロッコだから、どうにかこらえたけれど。

対決 


 風紀委員の演説は、さすがに人(だか)りの規模が違う。ロッコと待ち合わせて中央広場に着いたときは、すでにステージが見えないくらいのポケモンで埋め尽くされていた。
「どひゃー。ちょっと遅かったかな」
「大きなポケモンの間をうまく抜ければ大丈夫」
「無茶言わないでよ。私はコジョンドみたいに細い体してないんだから」
「ヒヤッキーの方が体は一回り小さいでしょ」
 ロッコの言うとおり、たしかにコジョンドの標準的な体型の彼女は立ち上がると百四十センチくらいはある。ヤンレンは少し大きいとはいえど、それでも百十センチ程度だ。意外と、何とかなったりするかもしれない。
「早く行こう」
「ちょっ、待ってよ、ロッコ……!」
 ロッコは宣言したとおり、大きなポケモンの足下を器用にすり抜けて進んでいく。ヤンレンもどうにかついていったが、ところどころでどうしてもボリュームのある頭のタテガミが引っかかったり、強引にぶつかりながら突破することになってしまう。
「あっ、ごめんなさい! ……いたた、髪引っかかっちゃった……もう、ロッコったら……無茶するんだから!」
「黙ってついてきて。あなただって近くでライズを見たいんでしょ」
 物言いはぶっきらぼうだったけれど、ヤンレンのことを考えて後ろを確認しているし、ヒヤッキーの体型でも通りやすい道を選んでくれている。
「はいはい、私が(わる)ぅございました」
 それから何匹かのポケモンの間を抜けて、ステージがはっきりと見えるところまでやってきた。
「只今より、風紀委員候補の演説会を行います!」
 ちょうど演説が始まったところだった。ギャロップのマルス先輩が、遠くまで通る声で高らかに宣言する。
 その瞬間、周りから大きな歓声が上がった。彼の名を叫ぶ黄色い声もちらほらと混じっている。
「開幕の宣言だけでこの歓声……やっぱりすごい人気なんだね、マルス先輩って」
「ライズだって負けてない」
「……うん。そうだよね!」
「負けてない……といいけど」
 ロッコにしては珍しく弱気だ。
 でも、それくらいすごい歓声だった。今も拍手は鳴り止まないし、静かになってからマルス先輩の名を呼ぶ目立ちたがり屋の女性ポケモンの姿もある。
「まずは一年生から! プラスルのユリちゃんとマイナンのユズ君、どうぞ!」
 少し聞き慣れない、珍しい名前だ。東の方の出身なのだろうか。
「はーい! ただいまご紹介にあずかりました! 一年生のユリです!」
 プラスルのユリがはつらつとした声を会場に響かせた。なかなか元気な女の子だ。どっと上がった歓声に、飛び跳ねながら短い前足をパタパタと振って、おまけにウィンクまで見せた。
 なるほど、これは自分の可愛さが武器になることをよく理解している子だ。
「お兄さまもお姉さまも、中等部の子たちも! みんなありがとー!」
 一年生なのに場馴れしている。風紀委員はアイドルじゃない、ってライズ様は言っていたけれど、少なくともこの子はアイドル路線まっしぐらだ。
「で、こっちが双子の弟のユズ! ほら、皆さんに挨拶して!」
 プラスルのユリに代わって、今度はマイナンのユズが前に進み出てきた。足取りは遠慮がちで、元気な姉とは対照的だ。
「えっと……ユズ、です。風紀委員にお誘いいただいて、光栄です……」
 頑張って声を出そうとしているのはわかるが、これでは後のポケモンたちには聞こえないだろう。
 案の定、姉のユリが弟の背中をぺちっと叩いた。
「そんなんじゃ聞こえないわよ! もっと大きな声出して!」
「は、はいっ!」
 その様子も愛嬌たっぷりだった。
 ライズ様一筋なのに、思わず胸にキュンときてしまった。
「一年生のユズです! ぼ、ぼくもお姉ちゃんと一緒に頑張ります! よろしくお願いしますっ!」
 ユリのときとは違う、黄色い歓声が一気に上がった。
 これは強い。双子の姉弟という利点を最大限に活かしている。
 プラスルのユリが一瞬、自信ありげな含み笑いをしたのをヤンレンは見逃さなかった。
 今のやりとりは偶然じゃない。狙ってやっているんだ。
 私がロッコと一緒にライズ様に教えたみたいに。
「次は、二年生の素敵なお兄さまです! ニンフィアのライズ先輩、お願いします!」
 ユリが高らかに宣言し、ユズと二匹で左右に分かれてステージの端へ下がってゆく。次の演説者の紹介まで、完璧だ。この一年生、侮れない。
 二匹の動きに合わせて優雅な足取りで進み出てくるライズ様とと、一瞬目が合った。
 困ったようなはにかみが意味するところは。
「ライズの作戦……これでは無理」
 ロッコも表情を曇らせた。
「ライズ様もたぶん、気づいてる」
 もちろんライズ様だって可愛いけど、付け焼き刃の演出じゃ、あの子達には勝てない。
「皆さん、僕たちのためにこんなにたくさん集まっていただいて……ありがとうございます」
 いつものライズ様だった。凛とした顔つきで、透き通るような声で語りかける。
 その瞬間、ユリたち姉弟に負けないくらいの歓声が上がった。でも、ほとんどは女学生の声だ。
「昨年度は、まだ右も左も分からなかった僕を応援していただき、ありがとうございます。今またここに僕がこうして立っていられるのは、ひとえに皆さんの支援のおかげです」
 いかにも優等生らしい内容のスピーチだった。落ち着いた声も穏やかな表情も、ライズ様の魅力を最大限に引き立てている。
 でも、素直に受け取れない生徒が少なからずいるのも事実だ。
「お手本みたいに綺麗な言葉並べちゃってさ」
「応援つったってどうせ女ばっかりだろ」
「やめとけって、ファンの女子に聞こえたら厄介だぜ」
 ライズ様の名を呼ぶ黄色い声の隙間に、ときどきそんな男子学生の声が耳に入ってくる。
 ファンにはアンチがつきものだし、それくらいは仕方がない。ライズ様が悪く言われていることに腹が立たないと言えば嘘になるけど、それよりも今は、ライズ様の応援だ。
「ライズ様、かっこいいー! 大好きー!」
 自分の演説のとき以上に精一杯の声を張り上げた。ロッコは恥ずかしがって声を出さないから、こういうところは私がしっかりしなくちゃ。
「応援するのはいいけど、大好きって何」
 私なりに気遣いを込めたつもりだったのに、当の恥ずかしがり屋にいちゃもんをつけられた。ほんと、最近はライズ様のことになるとすぐこの調子だ。
「私は正直に思ったことを言ってるだけだよ? ロッコもこの際、思いの丈をぶつけちゃえば?」
「わたしは、影からライズを支える役だし……それに、ライズに言いたいことはもう言ってる」
「私だってライズ様が好きだっていつも言ってるけどさ。こういう場で思いっきり叫ぶのとは違うじゃん。だからロッコだっていちゃもんをつけたくなったんでしょ?」
「それは……」
 ロッコが言いかけたところで、波が引くように聴衆が静かになった。
「沢山の声援をありがとうございます。これまでサポートしていただいた分、今年度は僕が――」
 頃合いを見計らって、ライズ様がスピーチを再開する。結局、ロッコはチャンスを逃してしまった。ま、私の知ったことじゃないけど。
「新一年生に、二年生の同級生に、三年生に、それから錬成部の先輩方に……しっかりと貢献して、恩返しをしていきたいと思います。まだまだ未熟な僕ですが、今後ともよろしくお願いします!」
 ライズ様のスピーチが終わると、一際大きな歓声が会場を包み込んだ。これならきっと大丈夫だ。
 観衆が収まるのを待って、ライズ様が次の委員を紹介するために口を開いた。
 今年は二年生も三年生も一匹ずつだから、もちろん、あのひとだ。
「では、皆さんお待ちかね……最後は三年生、ギャロップのマルス先輩です! どうぞ!」
 ライバル相手なのに、きちんと盛り上げ役をこなしている。ま、あのライズ様が卑怯な手を使うはずないんだけど。
 ライズ様と入れ代わりにマルス先輩が前に出てくると、ユズ・ユリ姉弟やライズ様のときとはまるで違う、戦場の勝鬨のような雄々しい大歓声が上がった。
「皆も知ってのこととは思いますが、錬成部に上がったキャミィ先輩は学業に集中されるとのことで、風紀委員からは昨年度いっぱいで身を引かれました。今年は私が引っ張ってゆかねばならぬと思うと、重責も感じます。しかし! このセーラリュートは心も体も強き者を育て、排出してきた学園! あの海神を退けた英雄シオン様も我が学園の風紀委員長だった! 風紀委員とは、学生の風紀の模範を示さなければならないものです。なればこそ私は、強くありたいと願う! セーラリュートの全ての学生の重みを我が身に背負ったとしても、この脚が折れぬように!」
 大歓声、というよりもはや轟音だった。耳が痛いくらいの声に包まれて、ライズ様を応援するためにこの場にいるヤンレンでさえも、胸を打たれそうになる。
 風格が違う。それに、演説の内容。明らかにライズ様を意識している。
 マルス先輩だって、美丈夫という言葉の似つかわしい美青年だ。こんなに綺麗なギャロップにはそうそうお目にかかれない。
 でも、自分にあってライズ様にない魅力は美しさでなく、強さであると理解している。
 こっちだって戦略を練っていたのだから、向こうも同じことを考えていただけの話だ。
「こんな形でシオン様の名を出してくるなんて、ずるくない?」
 隣にいるロッコに愚痴を言ったけれど、負け惜しみでしかないことは自分でもわかっている。
「でも、マルス先輩は本当のことしか言っていない」
 ここは戦闘のスペシャリストの養成学校だから、その顔となる風紀委員長は強くなければならない。そう言いたいのはわかる。シオン様は強いから委員長になったわけではないけれど、結果的にはルギアを倒してランナベールの英雄になってしまった。そのことも、今や周知の事実だ。
 美しくも儚い、百合の花のようなライズ様よりも、踏まれても強く咲き誇る蒲公英のようなマルス先輩のほうが風紀委員に相応しいと、聴衆に思わせるには十分な主張だった。
「私と、私を支えてくれる風紀委員の後輩達に、少しでも力添えをしていただけるのなら、こんなにありがたいことはない! 我々も、皆の期待には応えてゆくつもりだ!」
 聴衆の反応に手応えを感じたのか、すでに委員長であるかのような物言いになっている。
 ステージの後ろにいるライズ様を見ていたら、また目が合った。
 ライズ様は苦笑いしながら、「ごめんね」と口を動かした。
 別に謝らなくてもいいのに。
 投票日を迎えるまで、まだ委員長が決まったわけじゃないし。
 そう言い聞かせはするものの、その日の演説会は大盛況のままに幕を閉じた。
 ライズFCのメンバーだけが、皆落胆を隠せないようだった。

開票 


 その後も地道な活動はしたけれど、日々はあっという間に過ぎてしまった。
 今日は開票結果が公表される日だ。
「とうとう来ちゃったよ、この日が……」
 大ホールに全学生が集まり、選挙管理委員会が当選者を一匹一匹呼び出していく。
 発表順は保険、図書、広報、環境、風紀、そして最後に生徒会だ。
 さすがにここで風紀委員が最後にならないのは、当選者が決まっているからだろう。委員長が誰になるか、というところにしか皆の関心がないのだから、これは仕方がない。
「ヤンレンさん、緊張してる?」
 立候補者の待機席で、ライズに声をかけられた。
「あったりまえだよ! 私、通ってるかどうかわかんないし……何より、ライズ様が委員長になれるかどうか決まる日なんだから!」
「ヤンレンさんならきっと大丈夫だよ。僕のことは……ヤンレンさんの期待に応えられるといいんだけど」
 ライズ様に勝ってほしい。その気持ちはあるし、ファンクラブの皆で活動も頑張ったけれど、正直マルス先輩のあの演説の影響力を覆すことができるとは思えなかった。
 でも、どちらに投票しているか迷っている学生を何匹か懐柔したし。地道な活動が実を結ぶことだってあり得る。 
「一年一組、マイナンのユズくん!」
 あれこれと考え込んでいたら、いつの間にか他の委員会の発表が終わっていた。いよいよ風紀委員の当選発表だ。順番は得票の少なかった順、つまり、最後に委員長が呼ばれることとなる。
「一年三組、プラスルのユリさん!」
 順番に呼ばれた一年生の二匹が壇上に上って、仲良くお辞儀をする。
 次に誰の名が呼ばれるか。緊張の一瞬。会場の皆が唾を飲む音が聞こえるようだった。
「次は、風紀副委員長――」
「ライズ様……お願い」
 副委員長。ここで呼ばれなかった方が、委員長だ。
「二年四組、ニンフィアのライズくん!」
 ――え。
「はい」
 隣でライズ様が返事をした。
 会場に少し控えめな拍手と、どよめきが起こる。
「ごめんね……でも、ありがとう」
 ライズ様は小声でそれだけ言って、壇上へと向かう。一年生の横に並んで、いつもの天使みたいな笑顔を振りまいた。
 まるで映像だけが流れているみたいだ。
 敗色濃厚だったとはいえ、こうして事実を突きつけられると。
「今年度の風紀委員長はこの方! 三年一組、ギャロップのマルスくん!」
 マルス先輩の名が呼ばれて、会場が大きな拍手と賞賛の声に包まれる間も、放心状態だった。
 黒い鉄球を飲み込んでしまって胸につかえているみたいな、そんな感覚。
 我に返ったのは、生徒会のメンバーが呼ばれていることに気づいたときだった。
「次は、生徒会副委員長! 二年四組、ヒヤッキーのヤンレンさん!」
 ああ、もう副委員長まで進んでいたんだ。
 当選と落選の瀬戸際だった私には縁のない話で、ということはやっぱり落選――
「ヤンレンさん! 前へお願いします!」
「……へ?」
 聞き間違いだろうか。
 でも、さっきも聞こえたような。
 生徒会副委員長、二年四組って――
「副委員長、しっかりしろよ! 落選した俺らの分も頑張ってもらわねーと困るんだからよ」
 隣にいた候補者のキリキザンに背中をつつかれた。
 私の耳がおかしいのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「は、はいっ」
 盛大な拍手の中、壇上へと進むのは妙に気まずかった。
 副委員長? 私が?
「おめでと、ヤンレンさん」
 すでに壇上にいるライズ様が、微笑みかけてくれた。
 嘘? これって夢じゃないよね?
 皆にお辞儀をするときも、いまいち現実感がなかった。
 ライズ様が風紀委員長になれなかったというのに、私が生徒会副委員長だなんて。
 喜べばいいのか、悲しめばいいのかわからない。
「最後に、生徒会長です! 三年三組、アマージョのルウェナさん!」
 横に並んだルウェナ先輩は、三年生で成績トップ、皆からの信頼も厚い女学生だ。
 私がこんなひとの横に並ぶなんて、恐れ多い。
「貴女の評判は聞いているわ。期待しているわね、ヤンレンさん」
 おまけに優しく微笑みかけてくれた。
 ――頑張らなきゃ。
 応援してくれたライズ様のためにも、投票してくれた皆のためにも、期待してくれている先輩のためにも。
「はい!」
 ライズ様が風紀委員長になれなかったのは残念だけれど、ヤンレンにとってライズ様の魅力は変わりはしない。
 そんな憧れのライズ様と一緒に仕事ができるだけで、こんなに嬉しいことはないんだから。

忘れたい場所 


 結局、僕は副委員長になった。
 応援してくれたファンのひとたち、特に尽力してくれたロッコとヤンレンには申し訳ない気持ちはあったけれど、少しほっとしているのも事実だ。
 僕はマルス先輩の支持層までまとめられるような器じゃないし、自信もない。
 自分を好きでいてくれるポケモンたちと一緒にいるだけで十分だ。学園のトップアイドルになるなんて、やっぱり荷が重い。
「ライズ先輩っ!」
 先に一般生徒がホールを出た後、教室に戻ろうとしたら、一年生のプラスル、ユリに呼び止められた。
 立ち止まると、ユリは満面の笑顔で、半ば強引にライズの前足を取った。
「これからよろしくお願いしますねっ! あたし、ライズ先輩のためならなんでもしますから!」
「え? あ、ああ、うん……よろしく、ユリさん」
 今までに関わったことがないタイプの子だ。勧誘もマルス先輩の推しが強かったから任せっきりだったし、まだほとんど言葉を交わしていなかったりする。
「えへへっ。呼び方は……先輩、でいいですかぁ?」
 中等部の頃は下級生と関わる機会がなかったから、思えば後輩ができたのは今年が初めてだ。なんだか少しくすぐったい。弟はいるけど、ずっと年が離れているし、年の近い後輩というのは感覚が全然違う。
「マルス先輩も先輩だし……あ、でも今年は委員長って呼べるね」
「えと……ライズお兄さま、ってのはダメですかぁ?」
「は?」
 予想していなかった提案に、呆然とした。
 ユリはライズの答えを待っている。というか、ライズの反応を観察しているようにも見える。
「後輩からそんな風に呼ばれたことってないけど、べつに僕はなんでも――」
「ダメダメ! そんな馴れ馴れしいの、だめだよ!」
 答えようとしたら、ヤンレンが二匹の間に割り込んできた。物理的に。
「ライズ様が優しいからって調子に乗らないの!」
「えっと、生徒会の副委員長さん……ですよね?」
「二年のヤンレンだよ。よろしくね」
「よろしくお願いします、ヤンレン先輩。でも、あたしがライズお兄さまをどう呼ぼうと、先輩には関係なくないですか? 本人がいいって言ってくれてるんですから」
「ええっ? うーん……それはそう、かも」
 ユリが臆さず言い返すとは思っていなかったのか、ヤンレンは言葉を濁らせた。
 なんだか雲行きが怪しくなってきた。このユリって子、思っていたよりずっと面倒くさい性格をしている。
「でもホントにいいの、ライズ様?」
「ええと……僕としては、ヤンレンさんのその"様"ってのも実はあんまり……普通に呼んでくれる方がいいんだけど」
「ほへ? で、でも、ほら、ライズ様は私とお友達にはなってくれたけど、やっぱりそこは譲れないっていうか……今でも私、ライズ様のファンだからさ」
 友達といっても、彼女の中には譲れない一線があるらしい。
 本気で頼み込めば変えてくれるかもしれないけど、呼び名なんて他人に強制するものではないと思う。よほど嫌な呼び名じゃなければ、呼びたいように呼んでもらえるのが一番いい。
「ヤンレン先輩はファンクラブの方なんですね! でも、あたしは風紀委員の先輩後輩として、いい関係を築いていけたらなって、そう思ってます。ファンクラブには入ってないですけど、ずっと前からライズお兄さまのこと、見てたんですよ?」
「へ、へえ……」
 それにしてもこの子、タイプはぜんぜん違うのだけれど、どこかで知っているこの感じ。
 あのひとに似ている。
「それってライズ様のことが好きってこと? なら、ファンクラブに入ればいいのに」
「えー。だってファンクラブって女子達が勝手に作っただけでしょ? 入ってもべつにライズお兄さまとお近づきになれそうにないですしぃ。ライズお兄さま公認のファンクラブなら、入りますけどぉ」
 ていうか、あのひとより強気だ。
 キャミィ先輩はファンクラブに入っていたし、他のファンと友好的な関係を保ちながら、ライズに近づいてきた。狡猾な彼女にはあっという間に弱みを握られて深くまで踏み込まれてしまったが、ここまでまっすぐ突っ込んでくる相手もそれはそれで対処が難しい。
「……私はライズ様が嫌がってないなら、何も言わないけど。他のファンのひとたちの前でそんなこと言ったら、大変だよ?」
「あたし、そういう回りくどいの好きじゃないなぁ。それに、あたしにはユズがいるもん。二匹揃ったら誰にも負けませんから」
 マルス先輩が言っていた。この姉弟は可愛いだけじゃなくて、強さも相当なものだと。プラスルとマイナンの特性で、タッグを組んだ彼らは戦闘(バトル)科目の成績以上に実力を発揮するのだとか。
「お姉ちゃん……僕たちの力……ケンカに使うのは良くないと思うよ……」
 いつの間にかマイナンのユズも合流していた。演説の印象に違わず、弟は大人しい性格のようだ。
「こっちからケンカを仕掛けたりはしないわよ。もしライズお兄さまのファンのひとたちが何かしてくるなら、って話よ。そのときはユズ、あたしをしっかり守りなさいよ」
 この子、苦手だ。この先、うまく関係を築くことができるだろうか。キャミィ先輩みたいなことになるのはもうごめんだ。
「なんだ、みんなして集まって? 顔合わせなら後でやるから、さっさと教室に戻れよ」
 風紀委員が集まっているのを見て、マルス先輩まで声をかけてきた。
 これからは彼が皆の兄貴分だ。そう考えると、いくらユリがちょっかいを出してきたとしても、委員長とライズの関係がぎくしゃくしていた前代よりは、うまくまとまってくれるだろう。
「はーい。また後でお会いするのを楽しみにしてますね! ライズお兄さま!」
 ユリの態度に少しの不安を覚えはしたけれど、彼女がキャミィ先輩のように卑怯な手を使わないのであれば、問題ない。
 僕を誘惑するつもりなら、残念ながら無意味だ。ユリは女の子だし。
 ロッコにもヤンレンにも、親愛の情はあってもキャスに抱いた燃えるようなあの気持ちは湧いてこないから。
 セルネーゼさんだけは少し違う気がしているけど、これが本当に恋情なのか、答えは今もわからない。
「ライズ様? どしたのぼーっとして。教室に帰ろ?」
「あ、ああ、うん……」
 ヤンレンに促されて、ライズは二年の教室へと足を向けるのだった。

         ◇

 放課後、全ての委員が生徒会室に集められた。各委員会で活動日が違っていたり、保健委員や図書委員は滅多にここを使わないからこうして集まる機会は顔合わせのときくらいだ。
「改めまして、今年度の生徒会長に就任いたしました高等部三年生のルウェナです。皆さん、一年間よろしくお願いしますわね」
 生徒会長のルウェナに続いて全員が軽く自己紹介をしたあと、一度解散して、各委員の委員長と副委員長だけが残された。
 個室についての説明があるのだという。
「皆さんも知っての通り、委員長と副委員長には個室が与えられることになっています。個室寮のある区画はご存知ですね?」
 個室寮のある区画には様々な大きさのコテージが並んでいて、各ポケモンの体に合った部屋が割り振られる。
 もちろん、樹上や水中にも用意されているので、毎年いくつかは空室になってしまうのだが、特別に優秀な成績を修めた学生に与えられたりすることもある。
 部屋割りは、コテージのドアにかかっているネームプレートで確認できるとのこと。
 まあ、キャミィ先輩の個室を何度も訪れたことがあるから、知っていることばかりだったけれど。
「前年度も個室を持っていた方は部屋の変更はありませんが、今年度から新しく個室に入る方は土日のうちに私物を移動させておくようにしてくださいね」
 週明けには前の部屋の私物は撤去されてしまうのだという。開票日が金曜日だったのは引っ越しのためもあったのかもしれない。
 それにしても、アマージョという種族は高飛車なことが多いと聞くけれど、ルウェナはさすが生徒会長というだけあって、口調も態度も穏やかだ。
 これならグレイシアのセルネーゼさんの方がよほど怖い。
「ああ、でも、個室の鍵は部屋の中に置いてありますから、今日中に回収しておいてくださいね。今日のところはそのまま個室を利用していただいても構いませんわ。それから――」
 ルウェナ会長はそこで言葉を止めて、マルス先輩とライズの方へ視線を向けた。
「これは、風紀委員から注意していただくべきことかもしれませんが」
「ああ。個室だからって異性を連れ込んだりするなってことだろ? 仮にも学園の代表になった俺らが風紀を乱すようなことはしちゃいけねぇよな」
 演説のときと違って、マルス先輩が砕けた口調で話すのを見て、ヤンレンをはじめとした新顔の委員たちが少し驚いた顔を見せた。
 公的な場での姿が飾り物というわけではないが、普段はすごく親しみやすいポケモンなのだ。
「なぁ、ライズ」
「えっ!? あ、あぁ……はい! そうですね!」
 親しみやすいのはいいけど、お茶目なところを皆の前で見せるのはやめてほしい。
「いけませんよ、ライズ君。あなたが女学生に絶大な人気があることは私も知っているけれど、個室を不純な交遊のために利用するようなことはあってはなりませんよ」
 いきなり生徒会長に目をつけられたし。
「ぼ、僕はそんなことしませんよっ」
「そうです、ルウェナ会長。ライズ様はそんな子じゃありません!」
 ヤンレンがフォローを入れたが、キャミィとの関係を知るマルス先輩が冷ややかな視線を向けてくるのがわかった。
 やめて。これ以上思い出させないで。
「ふふふっ、そう怒らないで。揶揄(からか)い甲斐のある子ね」
 やっぱりこのひと、隠しているだけで根はドSなんじゃないのか。
 彼女は昨年は副会長をしていたから、面識はあったのだけれど、ほとんど話したことがない。
 今年度は生徒会長だし、やりとりする機会も自ずと多くなりそうだが、うまくやっていけるのだろうか。
「さて、冗談はこのくらいにして……今日のところは解散としましょうか。念願の個室を楽しみにしている方もいらっしゃるでしょうし」
 でも、悪いひとには見えない。心配しすぎなのかもしれない。
 キャミィ先輩のせいで、どうしても上級生の女学生を警戒してしまうのだけれど、それも失礼な話だ。彼女は全く関係ないのだから。
「ライズ、ちょっと」
 その場は解散となったが、マルス先輩に呼び止められ、皆が出てから話をしよう、と耳打ちされた。
「ごめんヤンレンさん、先に行ってて」
「はーい。それじゃ、また明日かな?」
「そうだね。でも、明日は忙しそうだけど」
「私は自分のものなんて教科書くらいしかないから、ライズ様を手伝おうかなって思ってたんだ」
「それは助かるかも。じゃ、また明日」
 皆が生徒会室を出てゆくのを見送って、生徒会室にはマルスとライズだけが残された。
 いったい何の話なんだろう。
「仲がいいんだな。あいつの応援演説もしてたんだっけか?」
「ええ、まあ……」
「意外だな。俺はよく一緒にいるコジョンドの彼女……ロッコちゃんだっけ? お前のコレはあの子だと思ってたぜ」
「そういうのじゃありませんって……」
「前にロッコちゃんのこと聞いたときもお前、否定してたけどさ。あ! もしかして両方とも?」
「いくらマルス先輩でも怒りますよ?」
「はは、悪い悪い、やめとくわ。俺も可愛い後輩に怒られたくねーからよ」
 怒ると言ってはみたものの、マルス先輩はどうにも憎めないところがある。
 ライズが何をしても否定はしない、そんな器の大きさを持っているからだろうか。
「まったく……そんなことのために呼び止めたわけじゃないですよね?」
「ああ。お前に聞きてーことがあったんだよ」
 さっきまで面白半分にからかっていたくせに、マルス先輩は途端に真剣な顔つきになった。
「聞きたいこと?」
「演説のことだよ。お前、妙に大人しかったっつーか……三年の俺に遠慮してたのか? とても風紀委員長を賭けた演説には見えなかったぜ」
 何かと思えば、演説のことを気にしていたらしい。
 ユリ達姉弟の可愛さ全開アピールのあとにヤンレンたちと練った作戦は使えなくて、その場で普段通りの挨拶をすることに切り替えたのだ。
「僕は僕のありのままの姿で、演説しただけですよ」
 本当は作戦がありました、なんて言っても負け惜しみと取られかねないので、適当に濁しておいた。
「そっか。なんか俺だけが力入った演説しちまって、思い出すと恥ずかしくなってくるわ……お前もすげー作戦用意してくると思ってたのによ。とんだ空回りだったぜ」
「そんなことないですよ。マルス先輩はかっこよかったです。ちゃんと最多得票で風紀委員長に選ばれたわけですし」
 実際、こちらの作戦がうまくいったところで彼には勝てなかっただろう。それくらい圧巻の演説だった。 
「……お前に言われると、なんか照れるな」
「照れないでくださいよ、男同士なのに」
 かっこよかった、なんて褒めるのはちょっと変だったかな。
 でも、純粋にそう思っただけだし、べつに下心なんかないし。断じて。
「男も女もねーよ。可愛い子に褒められたら嬉しいだろ? あ、俺が男もいけるって意味じゃねーからな?」
「わかってますよ。でも、可愛い子って言われるのはちょっと」
「お前は可愛くて格好いい。両方持ってんだから、別にどっちを褒めても間違っちゃいねえだろ?」
 その可愛さで先輩に対抗しようとしていたんです、とはさすがに言えなかった。
 マルス先輩は好みのタイプではないけれど、キャミィ先輩よりはよっぽど好きになれそうだ。
 もし誘われたのがキャミィ先輩じゃなくて彼なら――って、僕は何を考えているんだ。
「どうした? 顔が赤いぞ?」
「せ、先輩が可愛いとか格好いいとか言うからです!」
「はは。それじゃ、お互い様だな」
 彼とはこのまま先輩後輩として、良好な関係を築いていきたい。
「悪かったな、引き止めちまって。じゃ、寮に帰るか! お前も念願の個室をゲットしたわけだしな!」
 それからマルス先輩について個室寮区画に向かった。
 日はすっかり落ちていて、西の空にわずかにオレンジ色が残っている。
 コテージの立ち並ぶこの場所に来るのは、キャミィ先輩と別れて以来だから、薄暗い道を歩いているとつい思い出してしまう。
 良い思い出なんてないはずなのに、忘れられない。風紀委員の活動が終わったあと、彼女と二匹でよく通った道だ。
「ライズの部屋は、っと……お? あの部屋は確か――」
 ライズの名を刻んだネームプレートがドアにかかっている、あのコテージ。
 なんて悪い偶然。
 しかし、空きが出たタイミングや種族の体の大きさを考えたら、十分あり得る話だ。
「気持ちはわかるけどよ。部屋ん中は新しくなってるみてーだし、昔のことは気にすんな。お前がフったんだから未練なんてねーだろ?」
「ないですよそんなのは……でも、忘れたい記憶ってことには変わりありませんから」
 まさか、キャミィ先輩の使っていた部屋が割り当てられるなんて。
「ま、キャミィがお前に未練ありまくりなのは見ててバレバレだしな。お前も最後は嫌々ってところがあったんだろうが……ま、余計な詮索はやめとくわ。またな!」
 マルス先輩が自分の部屋に帰るのをひらひらとリボンの触角を振って見送ったあと、いよいよコテージの前に立った。
 ドアを開けて中に入ると、カーペットやベッドは新しくなっているけれど、部屋の形や壁紙、本棚や時計といった一部の調度品はそのままだった。
「はぁ……」
 でも、慣れたらどうってことないよね。
 ここは今日から僕の部屋。キャミィ先輩が来ることは二度とない。
 ライズは背中の両側に提げていた鞍型のバッグを下ろして、ベッドに体を投げ出した。
 天井の照明も、窓も同じだ。
 カーテンは新しいものになっているのか。
 あの三ヶ月、何度も彼女と抱き合ったっけ。好きでもない相手と、ただ自分の欲を満たすためだけに。
 本当なら、もっと早く拒絶できたはずなのに。
 欲望に負けてしまった自分が嫌になる。
 はじめは弱みを握られていたから、誘いを断りきれずに嫌々だった。
 でも、その後、ライズから誘ったことも一度や二度じゃない。
 ――やめよう。
 こんなことで自己嫌悪に陥っていたら、またロッコさんに怒られる。
 ああ、そうだ。今度は僕が、ロッコさんを呼んであげなきゃ。
 春の終わり頃、不満を募らせた彼女に教室で襲われちゃったこともあったし。
「なんだか、今日は疲れちゃったな……」
 考えごとをしているうちに、瞼が重くなってきた。
 集団寮のベッドと違って、ふかふかであたたかい。これならぐっすりと眠れるに違いない――

情欲の魔物 


 学園祭が近づいてきた頃。
 外から沢山のポケモンがやってくる機会を前に気を引き締めるため、風紀強化月間ということで放課後に風紀委員が学園の各所を回り、呼びかけを行っていた。
「さて、一通り終わったわね。今日もお疲れ様」
 三年生のキャミィ委員長、二年生のマルス副委員長、それから一年生のライズ。三匹で分かれて学園中を回ったあと、中庭の広場に集合した。
 ねぎらいの言葉をかけながら、キャミィ先輩は前足でライズの頭を撫でた。
「ライズは相変わらず可愛がられてんなぁ」
「あら。マルス君も撫でてほしいの? でもペルシアンの私じゃ届かないから、頭下げてくれる?」
「そういうのはいいっすよ俺は! じゃ、今日は疲れたし、俺帰りますわ」
「もう、照れ屋さんなんだから。またね、マルス君」
 マルス先輩は空気を読んでさっさと帰ってしまったのだろう。
 二匹の関係を明言してはいないけれど、一番近くにいる彼はすでに勘づいているのだ。
 今日もまた、部屋に誘われるんだろうか。
「ライズ君も、気をつけて帰りなさいね」
「えっ」
「……んん?」
 自分が出した声に自分で驚いた。
 もしかして僕、期待してた……?
「ふふふ。どうしたの、ライズ君」
「え、えっと……」
 最近誘われていなかったから、そろそろくると思ったんだけど。
「なぁに? 言ってくれなきゃわからないわよ」
 この反応は、本当にわかっていないみたいだ。
 彼女はあまり相手の心を察することが得意ではないみたいだし。
「……きょ、今日は……キャミィ先輩と、い、一緒に……」
「えっ……? それって……今日は私に甘えたい気分、ってこと?」
「…………はい」
 何やってるんだ僕は。
 これじゃ誘われて嫌々だなんて言えない。
「へぇ……嬉しい。ライズ君の方から誘ってくれるなんて。初めてじゃない?」
 キャミィ先輩はこれまでに見たことがないくらい喜んでいる。
 その姿を見ても、嬉しいと思わない自分がいる。
 じゃあ何かって、ただ僕はあの快楽を求めているだけ。
 そんな自分が少し嫌になりつつも、この関係で僕が得られるものはそれしかないから。
「今日は疲れたからそういう気分じゃなかったんだけど、ライズ君が私をほしいっていうなら、話は別ね。さ、一緒に帰りましょ?」
「……はい。キャミィ先輩」

         ◇

 部屋に入ってすぐ、頭はただ快楽に埋没してしまいたい欲求でいっぱいになった。
「最近ご無沙汰だったものね……前に君を連れてきたのは一週間前だったかしら?」
「もう十日前ですよ。だから僕、もう我慢できなくて……キャミィ先輩っ」
 油断している彼女に飛びかかって、ベッドに押し倒した。
「きゃっ」
 早く。僕を連れてって。
 僕があなたに求めるのはそれだけなんだから。
「ちょっと……ライズ君、今日は随分と積極的ね……いいわよ、そういうのも。年頃の男の子らしくて」
 キャミィ先輩は嫌がらないどころか、喜んでいる。
 へえ。怒らないんだ。全部自分の思い通りにならないと気が済まないひとだと思っていたのに。
「いいんですか? 止めなくても……」
「ふふ。こんなに野性的な目をしたライズ君、初めて見たんだもの。たまには悪くないわ。君の好きにさせてあげても」
 ライズに見下ろされながら、キャミィは余裕たっぷりに妖しい笑みを浮かべている。
 答える代わりに、その口を自分の口で塞いだ。
「ん……っ、ふぅ……言いましたね……ん、ちゅ……はぁ、はぁ……僕、遠慮しませんから……!」
 キャミィ先輩に覆いかぶさって、貪るようにキスをした。
 体が擦れ合ったとき、股間のものがすでに張り詰めていることに気づいた。
「……ん、はぷ……ふふ、ライズ君ったら……」
「ちゅ……ぷはぁっ……だめ、キスだけじゃもう……」
 一度立ち上がって、彼女の首を後足で跨ぐように体勢を変えた。
「へぇ……ライズ君、すごいことするのね……」
「口、開けてください」
 言いながら、後足を曲げて腰を落としていく。
「っ、ちょっと! いきなり!?」
 キャミィ先輩は一瞬、抵抗する素振りを見せたけれど、すぐに口を開けて僕のものを咥えた。
「んん……!」
 生暖かくて、ざらりとした舌の感触に包み込まれた。そこから全身に、電気みたいな快感の波が走る。
「はぁぁ……気持ち、いい……」
 欲望をそのまま叩きつけるように腰を振って、彼女の口の中に入れ込んでゆく。
「はっ、ふぁぁ……あっ、んんっ……!」
「んぐっ……! ぁふ、ぁっ……! んん、ぷはぁっ! こら、ライズ君っ!」
 いいところだったのに。外されてしまった。
「いくらなんでもやりすぎよっ!」
「先輩……でも、僕……」
 何も考えられなかった。この衝動を解放できるなら、もうなんだっていい。
「ちょっ、ライズ君っ!」
 キャミィ先輩の胸に下腹部を押し付けて、また腰を動かした。
「ぁ、ふ……っ、んううっ……! はぁ、ぁ、ぁあ……っ!」
 腰から下が爆発したみたいな感覚と一緒に、彼女の顔や胸に欲望の塊をぶち撒けた。
 どくん、どくんとこみ上げる快感に浸っている間に、彼女のクリーム色の毛は白濁の液まみれになってしまう。
「はぁ、はぁ、はぁ……キャミィ先輩……っ」
「全くもう……! めちゃくちゃじゃない! これならお漏らしされたときの方がまだ良かったわよ!」
「え……? そう……?」
「そうよっ。私は君の先輩なのよ? こんな一方的に犯されるみたいな……っ、ちょ、ひゃぁっ!?」
 ちょうどしたくなったので、言われたとおりにした。
 溜め込んでいた欲望を解消して、それからすべてを解き放つ開放感。
 気持ちがいい。
 いつもと違う。どす黒い、相手を征服する悦び。
 弱みを握って僕を自分のものにしようとした彼女を今、自分の欲望で蹂躙している。
「そういう意味じゃないっての! この、馬鹿っ! 許さないわよ!」
「んぁ……ぅ……ふわぁっ!?」
 突然、視界がガクンと揺さぶられた。
 前足で顎の下を打ち据えられたのだと気がついたときには、ライズはベッドから転げ落ちて床に横たわっていた。
「まったく。君の好きにさせてあげようと思ったのが間違いだったわ。気の迷いなんて、起こすものじゃないわね」
 言葉は聞こえるが、視界がぐるぐる回って、立ち上がることができない。
 無防備な状態だったから、綺麗にクリーンヒットしてしまったんだ。
「君と私は対等じゃないの。ライズ君は私のものだってこと、忘れたの? それとも、仕返しのつもりかしら」
 薄れゆく意識の中、思考は理性を取り戻しつつあった。
 彼女の言う通りだ。支配しようなんて無理な話だ。僕は彼女に勝てないんだから。
 でも、そう。仕返し。無意識の中に、鬱憤を晴らしたい気持ちがあったんだ。
 欲望に引っ張られる形で、その感情が暴走してしまった。

 ――それから、どうなったんだっけ。

 目が覚めたあと、保健室のお世話になって、しばらくは彼女の奴隷みたいな扱いを受けて――

「ライズ様……あったかい……いい匂い……」
 この声。誰だっけ。
 温かくて、心地がいい。
 変だな。声の主に覚えがない。
 こんなに近くで聞こえるはずのない声だ。思い出せない。
 でも、いいや。
 今はこの温もりに包まれていたい。
 悪い夢を忘れさせてほしい。
「××××……さん……」

無計画の功 


 話は少し遡り、マルスとライズだけを残して皆が生徒会室を去った後のこと。
 ヤンレンは個室区画で自分の部屋を確認して、鍵だけ回収して元の部屋に帰るつもりだった。
「ややっ? これはまさかの……」
 自分の名が刻まれたネームプレートはすぐに見つかった。問題はその隣のコテージだ。
「ライズ様のお部屋が隣……!」
 隣とは言ってもコテージなので、何メートルかは離れている。
 選ばれた生徒だけに与えられる特別な寮というだけあって、壁に耳を当てると声が聞こえてしまうような集団寮とはさすがに違う。
 ルウェナ会長とマルス風紀委員長が、異性を部屋に連れ込むのは禁止だと言っていたから、何もできないのだけれど。
 それでも、ライズ様がすぐ近くにいるというだけで気分は最高潮だ。
 ヤンレンはテンションに任せて、勢い良く自分の部屋のドアを開けた。
 開けると同時に、ゴトン、と何かが落ちる音がした。
「あっ」
 激しくドアを開いたせいで、ネームプレートが落ちてしまったのだ。
 こんなに簡単に取れるなんて。
 でも、交代のたびに付け替えているなら、取り外しができるのは当たり前か。
「ってことは……」
 閃いてしまった。
 連れ込むのは禁止、って言ってたけど、間違えて入っちゃったなら、それは不可抗力だよね?
 周りに誰もいないのを確認して、ライズ様の部屋へと走った。
 ライズ、と名の書かれたネームプレートを取り外して、落ちたプレートの代わりに自分の部屋に掛ける。
「ふっふっふ……これでよしと」
 今しかないんだ。
 まだライズ様が自分の部屋を確認していない今しか。
 先のことは考えていなかった。

         ◇

 ――で。
 茂みに隠れて待っていたら、マルス先輩と一緒にライズ様がやってきた。
 狙い通り、ライズ様はネームプレートを確認して、ヤンレンの部屋に入ってゆく。
「よしっ」
 音を立てないように、そっとネームプレートを外して、急いでライズ様の部屋に掛け直し、自分の部屋のプレートも元に戻した。
 ちなみに鍵はもう回収してあるから、手元にある。
 鍵がないことに気がついてライズ様が出てくる前に、何食わぬ顔で部屋に入って、鉢合わせ。
 その後は――
「うーん……私、何やってんだろ」
 その後どうするか、全く考えていなかった。
 ただライズ様を部屋に入れるなら今しかないと思って。
 異性を連れ込むのは禁止だって言われたとき、真っ先に思い浮かんだのがライズ様のことだった。
 私だって、その意味くらいは知っている。
 でも、ライズ様と私じゃ、きっと何も起こらない。
「はぁ……でも、ここまでやっちゃったんだし」
 今さら後には引けない。
 もしかして、お願いしたらちょっとくらいは言うことを聞いてくれるかも。
 ライズ様が部屋を間違えたことを謝る。そのときに、だめ、許さないって言って、代わりに私のお願いを聞いてもらうとか。
「ま、無理だよね……」
 これ以上考えても何も思いつかない。
 ちょっとライズ様をびっくりさせるくらいで終わりになりそうだけど、仕方ないか。
 突然の思いつきで行動してしまうのは、子供の頃からの自分の悪い癖だ。
 そんな反省をしながら、ドアを開けた。
「……あれ?」
 静かだ。ライズ様は確かに部屋に入ったはずなのだが。
 ライズ様の荷物が置いてある。床に放り出したままだなんて、ライズ様らしくない。
 いや、でも、ライズ様の寮での生活なんて知らないし。もしかしたら意外と自分の部屋は汚かったりするのだろうか。
 部屋を見回すと――いた。
 ベッドの上に。
 眠っている、のか。
「ライズ、様……?」
 恐る恐る彼の名を呼んでみたが、反応がない。
 ライズ様は静かに寝息を立てている。
 どうしよう。
 鍵も掛けずに寝てしまうなんて、無防備にも程がある。
 でも、個室にわざわざ入ってくるような学生なんて、普通はいないし。
 とりあえず鍵は掛けておこう、うん。
 それから、ベッドの横にかがみ込んで、ライズ様を見つめていた。
「はぁ……」
 いくら見ていても飽きない。
 まさか彼の眠っている姿を見られるなんて、思ってもみなかった。
 リボンの触角と長い耳が垂れ下がって、柔らかそうなお腹が上下している。
 何か見てはいけないものを見ているようで、罪悪感さえ覚えてしまう。
 どのくらいの時間、そうしていただろう。
 わずかに残っていた宵闇の光も消えて、部屋の中はほとんど真っ暗だ。
 起こした方がいいのか。
 でも、こんなに気持ち良さそうに眠っているのに、起こすなんて可哀想だし。
 もっと近くで見ていたい。気がつけば、少しずつ顔が近づいている。
 そこでようやく、自分がよだれを垂らしていることに気がついた。
 なんて恐れ多い。あと少しでライズ様の体を汚してしまうところだった。
 よだれを拭ってから、改めて顔を近づけた。
 間近で寝息が聞こえる。
 甘い花のような香りが、ふわりと鼻をくすぐった。
 いつも一緒にいるときは心安らぐ香りなのに、なぜか、胸がどきどきする。
「ライズ様……」
 私は何をしたいんだろう。
 抱きしめたい。でも、なんだか怖い。
 起こしてしまったら、とか、そういう理由じゃなくて。
 起きているときには何度かライズ様を抱っこしたことがあるけど、この状況で同じことをするのは、あまりに罪深い気がして。
 衝動的な欲求と恐怖心の狭間で躊躇して、結局、その頬に触れるだけに留まった。
「あったかい……」
「ん……ぅ……」
「――っ!」
 ライズ様の反応に驚いて声を上げそうになって、慌てて自分の口を塞いだ。
 寝ている男の子をこっそり観察して、勝手に触るなんて、何をしているのか。
 でも、ここまできたら、抱きしめるのも同じなんじゃない?
 いいよね? 抱きしめちゃっても。
 そんな自問自答をしたあげく、起こさないように、そろりそろりとベッドに上がって、足を横に伸ばして眠っているライズ様の背中側に寝転がった。
 後ろから、そーっと手を伸ばして、抱きしめようとした。
 手が彼の背中に触れたそのとき。
「ふゎ……」
 ライズ様が寝返りを打って、前足を伸ばしてきた。
「えっ? えっ……?」
 ライズが逆に抱きついてきたのだ。
 ヤンレンは戸惑いながらも、自然に彼を受け止めていた。
「……ぁ……んれ……さん……」
「はわ、わわわ……っ」
 抱き合っている。ライズ様と。ベッドの上で。
 しかも、今――名前を呼ばれた?
 起きてはいないみたいだけど。
 たしかにヤンレンの名を呼んだように聞こえた。
 私の夢を見ているのか。
 それとも、寝ぼけて私の声に反応したのだろうか。
 どっちだとしても、嬉しい。
 温かくて、ふわふわで、いい匂いがする。
「……幸せ」
 時間の許される限り、ずっとこの幸福に埋もれていたい。
 きっとこんなことは二度とないから。
 目を閉じても、間近にライズ様を感じる。
 今夜だけの幸せ。
 憧れのライズ様と添い寝できるなんて。
「あはは……私、もう死んでもいいや……」

真夜中の大事故 


「はぁ……天国みたい……」
 どんな夢だったか思い出せないけど、なんだか幸せな夢を見ていた気がする。
 私はライズ様を抱きしめたまま、眠りに落ちていたらしい。
「むにゃ……おしっこ……」
 寝言が子供みたいだ。ライズ様って、ときどき可愛いところがあるよね。
「って、誰……えぇぇえええええぇぇぇぇっ!?」
「へあっ!?」
 まどろみの中でライズ様の温もりを感じていたら、悲鳴のような声に起こされた。まだ真夜中だ。このまま朝まで眠っていたかったのに。
「急に大声出さないでよっ。いくらライズ様でも……」
 反射的に注意しようとして、自分のしたことを思い出した。そして状況を認識した。
「ど、どどどどうしてヤンレンさんが僕の部屋に……っていうか、なんで僕と一緒に寝てるの!?」
「ここは私の部屋だよ?」
 ライズはあり得ない状況に混乱しているが、ヤンレンはどうしてこうなったのかをきちんと理解している。
 そのせいか、意外と冷静な受け答えができた。
「う、嘘っ? 昨日は確かに、僕の名前の札が掛かった部屋に入って……疲れてたから、すぐに寝ちゃったんだけど……」
「ライズ様が間違えたんだよ、きっと。私が部屋に入ったらライズ様が先にベッドで寝ててびっくりしたもん」
「そ、そうなの? じゃあ悪いのは僕……じゃなくて! そのまま一緒に寝るのはおかしくない!?」
「……おかしくないよ」
「え?」
「私、ライズ様のこと好きだもん。一緒に寝るしかないじゃん」
「そ、そんなの……っ、ふぁぁ……っ」
「ん? どうしたの?」
 ライズは体を丸めて、苦しそうな声を上げた。と言ってもヤンレンと抱き合っているので、ぎゅっと抱きしめられることになって、胸がどきりとしてしまう。
「ト、トイレに行きたくなって……目が、覚めたんだけど……」
「あ、そっか。さっき寝言でおしっこって言ってた」
「ええっ。僕、そんな子供みたいな……ぁふぁああっ……! そんなことより、離してっ……!」
 本人は必死なのだけれど、我慢しているライズの姿をもう少し見ていたいような、邪な気持ちに駆られてしまう。
 その姿を見て、記憶の闇に封印して、思い出さないようにしていたことを思い出してしまった。
「くふふ。ライズ様、中等部のときのこと、覚えてる?」
 あの頃はまだ自分の心がわからなかったけれど、今ならわかる気がする。
「あんなの忘れたくても忘れられるわけ……ぁあんっ、そんなゆっくり話してる余裕ないんだって!」
「しょうがないなあ。私がトイレに連れてってあげる」
 ライズが子供にしか見えなくなって、特に変な意味を込めることもなく、さらりと言ってしまった。
「はいっ!?」
「一匹で大丈夫なら、いいけど……トイレは共同だから外だよ。怖くない?」
「こ、子供じゃないんだから! 平気だよっ」
「そうかな? 震えてるよ?」
「これは違っ……ふぁぁぁっ……!」
 ライズは体を強張らせて丸くなった。そんなに限界なのか。怖くて震えているわけではないらしい。
「自分で動けないくらい限界なの? ほんと手のかかる子なんだから、ライズくんは」
 無意識に、呼び方が変わってしまった。いつもの格好良くて可愛いライズ様とは違う。子供みたいに無力で私に縋るしかないライズくん。
「私が抱っこして連れてったげる。絶対漏らしちゃダメだからね」
 もう抵抗する余裕もないのか、ライズは素直に従ってくれた。ぎゅっとヤンレンにしがみつくライズの体を左手で支える。密着するとまたニンフィアのお花みたいな香りがして心地良い。
 が、一歩間違えば大変なことになってしまう。
「ゆ、ゆっくり……揺らさないで……っ」
「はいはい。大丈夫だよ。このままお漏らしされちゃったら私も嫌だからね」
 ライズを抱いたままそっとベッドから下りて、そろりそろりと忍び足で歩く。
「大丈夫?」
「ぁふぁぁ……っ」
 ライズの表情は切羽詰まっていて、答えることもできないみたいだ。
「あとちょっとだから頑張って」
 外へ出るドアに手をかけた、そのときだった。
「ふぇええぇ……もうだめぇっ……!」
「えっ……あっ、こらっ!」
 ついに決壊してしまった。
 胸に温かい感覚。じわり、なんてものじゃない。本当に我慢の限界だったのか、勢いが普通じゃなかった。
「ぁ、ぁあ……んふぅっ……ぁ、あ、あぁ……」
「こら、絶対漏らしちゃダメって言ったのに! ここはおしっこするところじゃないでしょ!」
 子供を叱るみたいな言葉が自分の口から出たことに驚いた。今私が抱いているのは、ライズ様なのに。
「ご、ごめ……ふぇっ、ごめんなさぃい……っ」
 ライズは涙を目にいっぱい溜めながら謝ったけれど、下の方は相変わらずの大洪水だ。
「はぅぅぅ……っ、止まんないよぉ……!」
「あーもう、どうしてこんなに出るのっ……?」
 男の子には子宮がないから、そのぶん膀胱が少し大きいって生物学の解剖図で見たことがあるけど。
 それにしたって、胸から下はずぶ濡れになって、床に水たまりができているのに、まだ止まらないなんて。
 このままじゃ部屋の後片付けが大変だ。そんなことを考えながら、中等部の頃のことを思い出していた。ライズ様はおしっこなんかしないんだって、現実から目を背けた理想を抱いていた頃。でも、私と同じポケモンなんだって思ったらすごく興味を惹かれて。異性への興味としては少し変なところから入っちゃったけど、最後には本当に見せてもらって。
 あのときはライズ様の後ろで見ていたから、思いきり顔にかけられちゃったんだ。ニンフィアみたいな猫型のポケモンのおしっこが後ろに飛ぶなんて知らなくて。
 ポケモンがここまで進化して、文明的な暮らしをする前は、縄張りに自分の匂いをつけるために使っていたとか。ニンフィアやエネコロロなんかは、その匂いで異性を惹きつけることもできる。
「あのとき、ちょっと舐めてみたりしちゃったんだよね……」
 独り言はライズには聞こえていないようだった。
 っていうか、現実逃避をしている場合じゃない。
 あのときと同じ甘い花のような香りと男の子の匂いが混ざったフェロモンが、私の気分を昂揚させていた。
「このままじゃ床が大変なことになるから……」
 こんなことを思いついてしまったのは、そのせいに違いない。
 ヤンレンは膝をついて、ライズの前足の下に手を入れて、体から離した。
「ふぇっ……ぇ……?」
「……大人しくしてなきゃだめだよ……?」
 体毛の外に少し露出していた彼の股間のものを、口を開けて咥え込んだ。
「ひゃぁ、ぅううう……っ……な、何を……っ!?」
 少ししょっぱい味がして、でも香りは甘くて、生温かくて、不思議な感覚だった。
「はぅぅ……ヤンレンさん……っ、そんなことしちゃ……ダメだよぉ……」
「んっ……ん……」
 そしてライズが全部出してしまうまで、離さなかった。
「ん、はぁ……沢山しちゃったね……」
 飲んじゃった。ライズ様のおしっこを。
「あぅうっ……どうしてこんな……ひ、ふぁっ!」
「どしたの?」
「ヤ、ヤンレンさんの……息がかかって……ぁあっ……」
 それまで咥えていたライズのものが、大きくなっていた。
 最初は少し体毛の外に見えていたくらいだったのに、今ははっきり見てわかるくらいに屹立している。
「えへへ……ライズ様、もしかして気持ち良かったの?」
 変な笑いが漏れてしまった。なんだろ、この気持ち。
 なぜかわからないけど、楽しい。
 知らなかったライズ様の姿を、彼が心の奥に隠しているものを見ているみたいで。
「だ、だってヤンレンさんが咥えたりなんかするから……」
「咥えると気持ちがいいんだ? へー……」
 心を昂ぶらせるフェロモンの香りに誘われるように、もう一度、ぱくりと咥え込んだ。
「ふぁぁっ……! ちょっと……!」
「ん、ちゅ……ぷはぁ……ライズ様の声、可愛い……んっ……」
「んぁ、ぁっ……も、もうっ、ヤンレンさんっ!」
 ライズが語気を強めた。痛かったのか。噛んだりはしていないけど。
「ひゃあっ……ライズ様っ?」
 抱いていたライズ様が暴れるものだから、後ろにひっくり返ってしまった。
 でも、拒絶されたのかと思ったらそうではないみたいで。
「ヤンレンさん……」
 ライズの目が妖しく輝いている。
 いつものライズ様じゃない。
「え、ちょっ……んんっ!」
 もう一度ライズ様のものを咥えた、というか、咥えさせられた。
 ライズがヤンレンの顔を跨いで、腰を落としてきたのだ。
「ん、は……ふぅ……ちゅ……ん、んっ」
 でもこれがライズ様の望みなら願ったり叶ったりだ。
「ふうぅっ……く、はぁ……っ、あぁんっ……!」
 ヤンレンが舌を動かすのに合わせて、ライズも腰を振り始めた。
「ん、んんっ……! ん、うっ……!」
 しかし、すぐに舌を動かしている余裕なんてなくなった。喉を突かれそうになって、咄嗟に顎を引いた。
 ライズの動きは、彼に相応しくないくらい乱暴だった。間違えて噛んでしまわないように、唇だけで押さえて、喉の奥に入らないようにするので精一杯だった。
「ん、く……、んんっ! ぷは……ん、んんんっ!」
 息が苦しい。どうにかして息継ぎをしたけれど、これが長く続いたら体がもたない。
 どうにかして、伝えないと。
「ぁ、はぁ……んっ、ふぁ、ああああ……んん、あぁっ……!」
 そう思っていた刹那、ライズが力の抜けた声を漏らした。
 同時に、咥えていたライズのものがびくん、と脈打って、温かい何かが口の中に吐き出された。
「んぐっ、く、っ……!? んんんん! んっ、はぐっ、ごほっ、ごほっ……」
 苦しくて息を吸い込もうとしていたから、思い切り咽せてしまった。
 これ、おしっこじゃない。
 思わず口を離したら、その白濁の液体が顔にも降り注いできた。
 べたついていて、味は苦くてちょっぴり甘い。匂いも独特で、嫌いではないけれど、なんだかすごく不思議な香りだ。
「けほっ、けほっ……」
 息を整えていたら、ライズ様が、ふるる、と体を震わせた。
「ライズさ……きゃぁっ!?」
「ふぁぁ……」
 今度はおしっこを顔に思いきり浴びせられた。
 さっきみたいに量は多くなかったけれど、それでもライズの精液が洗い流されてしまうくらいで、無事だった髪がびしょびしょになってしまった。
「はふぅ……ん、ぁ……」
 満足しきったみたいな、気持ちよさそうな声。
 その間にライズの下から這い出して、彼の顔を見た。
 ライズ様は放心状態で、快感の余韻に浸っていた。魂がどこかへ旅立っている。
「んもう……! なんてことするのっ!」
 一言、叱責したら、ライズの瞳に光が戻った。
「あ……ヤンレン、さん……」
 ライズはびくっと体を震わせて、一歩後ずさった。
「ぼ、僕……何を……!」
「ん……まあ、ライズ様が気持ちよかったなら、いいけど?」
「よくないよ! 僕、今……ヤンレンさんにひどいこと……」
 いつものライズ様だった。
「ひどいこと? んー。たしかにちょっと苦しかったけど、私もライズ様を気持ちよくしてあげようって思ってたし」
「で、でも、途中から僕、ヤンレンさんを押し倒して……口の中にむりやり……」
「男の子のこれ、こんなにべたべたしてるなんて知らなくて……咽せちゃった」
「ほ、ほんとに、ごめん……なさいっ。あ、謝って済む問題じゃないかもしれないけど、あの……だ、大丈夫?」
「べつに体に悪いものじゃないんでしょ? 大丈夫だよ? あ、もし体に悪くても……ライズ様のだったら飲んじゃうかな……」
「そういう問題じゃないよ! こんなつもり、なかったのに……」
「あ。でも最後におしっこかけたのは怒ってるからね?」
「あ、あれは……その……あれだけ刺激されると、おしっこしたくなっちゃって……」
「そういう問題じゃないでしょ?」
 彼の言葉をそのまま返したら、ライズ様はばつが悪そうに目を背けた。
「最後のは、我慢できなくておもらししちゃったってのとは違うよね」
「そ、それはその……僕もどうかしてて……生理的欲求に逆らえなかったっていうか……」
 言われてみれば、押し倒されたあたりからライズ様は理性を失っていた。したいと思ったことにそのまま従った結果、ああなったと。
「いいよ、聞いてあげる」
「え?」
「私はライズ様のこと、好きだから。言い訳くらい、いくらでも聞いてあげる。私が納得できたらそれでいいじゃん」
「ヤンレンさん……」
 ライズ様の様子が変だ。
 変といえばさっきも変だったけど、今度は何故か、泣きそうになっている。
 ていうか、泣いてる。
「えっ……ど、どうして泣くのっ? 私、変なこと言った?」
 突然暴走したかと思ったら、今度は泣くなんて。
 ライズ様のことがわからない。
 そうだ。私、ライズ様のこと、知らないことばかりだ。
「ふぇ、ぇっ……ひくっ……ち、違うよっ……ヤンレンさんが……優しすぎて……っ……」
「ほえ?」
「昔の夢……見てたんだ……キャミィ先輩と付き合ってたときのこと……」
 キャミィ先輩と……付き合ってた?
「そ、そうだったんだ……私、鈍感だからわかんなかったよ……」
「周りには、隠してたから……ね」
 それまで泣いていたライズ様が、少しずつ落ち着いてきた。
「でも、意外。ライズ様、女の子には興味ないと思ってたのに」
「僕が望んだことじゃなかったんだ。キャミィ先輩、強引でさ……押しに負けたっていうか……弱みを握られたっていうか……」
「弱み?」
 聞き返したら、ライズ様は恥ずかしそうに目を伏せた。
「……キャミィ先輩の前で……やらかしちゃって……」
「えっ……? もしかして……おもらし、しちゃった、とか……?」
 ライズ様は無言で、小さく頷いた。
「それで、言いふらすって脅されたんだ?」
 彼女がまさかそんなことしてたなんて。その頃のファンクラブでのキャミィ先輩は、風紀委員として過ごすライズ様の日常を楽しそうに語ってくれる人気者だった。
 裏で付き合っていたなんて夢にも思わなかった。
「…………」
「ん? どしたのライズ様?」
「……自分から話すの、初めてだから……恥ずかしい……」
「あはは、そうだよね……」
 ついさっきまでのことが思い出されて、こっちまで恥ずかしくなる。きっとそれはライズ様も同じだ。
「無理矢理キスされて、さ……僕、えっと……なんていうか、弱い、んだよね……そういう刺激っていうか……その」
「敏感肌ってやつ?」
「肌はいらないけど」
「ふーん……」
 そういえば、息がかかっただけで過剰に反応していたっけ。
「頭が真っ白になって、力が抜けて、気がついたら……ああ、もう、そういうことだから、さっきのとは全然違うからね?」
「わかったわかった。もう驚かないってば。ライズ様は何をしてもライズ様だから」
「ほんとにわかってる……?」
「うん。あ、そうだ……先にシャワー浴びてもいい? 部屋も綺麗にしないといけないし……あっ、話はその後でちゃんと聞くからね?」
「……ご、ごめん。僕……」
 ライズ様は慌てた様子で、深く頭を下げた。
 言ってしまってから、気がついた。
 これじゃライズ様を責めているみたいだ。
「気持ち、悪い……よね……こんなの……ああ、僕のばかっ! あんなひどいことして、気遣いもできないなんて!」
「え、いや、全然! 気持ち悪いとか、思ってないよ!? でもさすがにほら、このままじゃライズ様もゆっくりお話できないだろうしさ!」
「無理にフォローしなくていいよ……」
「フォローっていうか、正直な気持ちなんだけど……ま、いっか」
 これ以上やり取りをしていても収拾がつかないので、強引に切り上げた。
 まずは濡れてしまった玄関先のマットを外に干して、それからライズ様と一緒に床を拭いた。
 ライズ様は全部自分がやると言ったけれど、元はといえば出来心で自分の部屋にライズを入れた挙句、一緒に寝てしまったヤンレンにも落ち度があるから、そういうわけにはいかないと断って、一通り二匹で片付けた。
 それから、個室に備え付けのシャワー室へ。
 ライズ様と二匹で。
「あ、あのさ……」
「ん?」
「一緒に入る必要、ないよね……?」
「思ってたより広いし、別々に入る必要もないでしょ? あ、私が洗ってあげよっか?」
「や、何言ってるの? 僕、子供じゃないって言ってるのに……」
「んんん? おもらししちゃうような子がそんなこと言っちゃう?」
「……ごめんなさい。もう子供でいいです……」
「あははっ、ライズ様、かわいい。今までで一番かわいい」
「やめてよ……」
 そんなこんなで、二匹仲良く体を流したあと。
 改めて部屋に戻って、話の続きを聞かせてもらうことにした。
「えーっと。キャミィ先輩と嫌々付き合うことになっちゃったんだっけ」
「嫌々……と言えばそうかもしれないけど……付き合ってるときは、僕も、男だから……体の関係だけは、求めてたんだよね」
「……ライズ様、昔言ってたよね。中等部の頃。恋はわからないけど欲はあるって」
 思い出した。あのとき言われたこと。
 考えてみれば、あれも私が起こした思いつきの行動が原因だった。
「キャミィ先輩の部屋によく連れ込まれてたんだけど……その部屋が、ここなんだ」
「へっ? ほんと? すごい偶然……!」
「そのせいかわかんないけど、昔の夢、見ててさ。十日くらい誘われなくて……こんな言い方するのもあれだけど、欲が溜まっちゃって。自分からキャミィ先輩を誘っちゃったんだよね」
「男の子ってやっぱりそういうことあるんだ……大変だね」
「……女の子にもあるけどね」
「え、そうなの? 私はわかんないけど……あ、でも、長期休暇でライズ様にずっと会ってないと、体がライズ様(ぶん)を求めて苦しくなっちゃったりする!」
「それはちょっと違うかな……ていうか、分って何、分って」
「ライズ様の見た目とか匂いとか声とか肌触りとか? ライズ様を五感で受け止めるの!」
「……聞かなきゃよかった」
 ライズ様は苦笑いをしているけれど、どこか嬉しそうだった。
「話そらしちゃってごめんね。それでライズ様がキャミィ先輩を誘って……どうなったの?」
「……欲に負けて暴走しちゃったんだ。あのひとを性欲のはけ口にしちゃって……思いっきり殴られちゃったけどね」
 言いながら、ライズ様は表情に影を落として俯いた。
「僕、ヤンレンさんにも同じことしちゃったんだ。キャミィ先輩とは違うのに。ヤンレンさんは大事な友達なのに」
 声は震えていて、また泣きそうな顔をしている。
 ライズ様って、案外泣き虫なんだ。
「私は殴ったりしないし、ライズ様のこと嫌いになんてならないよ?」
 大事な友達、って言われて、嬉しかったし。
 そう思ってくれているなら、わざとじゃなかったことくらいはわかる。
「うぅ……どうして、そんなに……優しい、の……?」
 涙を零す彼の背中に手を回して、抱いてあげた。
「言ったでしょ。私はライズ様が好きだから。言い訳くらいは聞いてあげるって。今の話を聞いて、私、ちゃんと納得したよ」
 ここがキャミィ先輩の部屋で。
 嫌なことを思い出しながら、疲れて眠ってしまって。
 そんなところにヤンレンが一緒に寝ていたものだから、いろいろと重なっちゃったんだ。
「それに……ライズ様がこの部屋に入ったのって……私のせいなんだよね……」
「……え?」
「てへ。ネームプレートが簡単に外れることに気づいちゃってさー。つい出来心で、私の部屋に間違えてライズ様が入ってきたら面白いなーって」
「てへ、じゃないよ! キャミィ先輩の部屋が自分の部屋になっちゃったって、運命を呪った僕の気持ちは? ていうか、嫌なことを思い出さなければ僕だって……」
 そこまで言いかけて、ライズ様は黙り込んだ。
「……や。だからってヤンレンさんを無理矢理犯すようなことしちゃったのは……許されない、よね……」
「私が納得したから許すって言ってんじゃん。ライズ様ってば、ほんと頑固なんだから」
 やっぱり、ライズ様はこういう性格なんだ。
 自分のしたことの責任は取らなきゃって考えちゃうから、タダで許すと言っても首を縦に振ってくれない。
「それじゃ、こうしよ? 代わりにライズ様が私のお願いを一つ聞いてくれる。これでチャラになるでしょ」
「……わかった。お願いって何? あんなことしちゃったからには、なんでも聞くよ……」
 なんでも?
 一瞬、ライズ様を独り占めしてしまいたい欲求が心を支配しそうになったが、ここでそんな要求をしたらそれこそキャミィ先輩と同じになってしまう。
 だから、もうちょっとライズ様に負担のかからないようなお願いにしよう。
「私と、添い寝してほしいな……このまま、朝まで。できたら、これからもときどきしてくれると嬉しい!」
「そ、添い寝……?」
「大丈夫だって、襲ったりしないから! 私、約束は守る女だよ?」
 これくらいなら、いいよね。
 一緒に寝るだけだし。
「わかったよ……わかりました……ヤンレンさんの好きなときに呼んでくれたら……それくらいは……」
「やったー! 夢みたい! これ、現実だよね!? ね? やっふぅー! サイコー!」
「ちょ、ちょっと、声が大きいよ。真夜中なんだから……!」
 あの天国みたいに幸せな時間を、この先も味わえるなんて。
 ライズ様の秘密もいろいろと知っちゃったし。
 勢いのままライズ様を抱き上げて、ベッドに飛び込んだ。 
「わぁっ……!」
「いい夢見られそう……おやすみ、ライズ様!」

するどいやつ 


 窓から差し込む光で目が覚めた。
 隣にはまだ、ライズ様が眠っている。
 温かくていい匂いがするし、このまま離れたくない。
「んふふ……寝顔、可愛いなぁ……」
 抱きしめて、ほっぺをくっつけてみた。
「にゃ……ヤンレン、さん……?」
「えへへ……起こしちゃった?」
「うーん……もうちょっと寝かせて……」
 やばい。
 寝起きのライズ様ってこんな甘え方するんだ。
 朝からテンションが上がりすぎて、変になってしまいそう。
「しょ、しょうがないにゃぁ」
 力が抜けて、頬が緩んでいるのが自分でもわかる。
 今日は土曜日で休みだし、引っ越しの作業もべつに急ぐほどのことじゃないし。
 このままライズ様と二度寝ってのも悪くないかも。
「昨日は大変だったもんね……」
 ライズ様の体を抱いて、頭を撫でていると、また瞼が重くなってきた。
 もういいや。このままライズ様が起きるまでこうしていよう。

         ◇

 コンコン、と木の板を叩く音が聞こえる。
 はじめは小さな音だったのに、それがどんどん大きくなって。
 気持ちよく二度寝していたら、今度は謎の訪問者に起こされることとなった。
「もう、朝から何なの? ……って、もうお昼前か……」
「ふぁあ……おはよ、ヤンレンさん……」
「おはよう、ライズ様。誰か来たみたいだから、出てくるね」
「うん……」
 ベッドを下りたところで、気がついた。
「って、まずいよ! ライズ様がここにいることが誰かにバレたら……」
「えっ!? そ、そうだよね! ごめん、寝ぼけてた……」
「シャワールームにでも隠れてて!」
「わ、わかった」
 ライズ様をシャワールームに隠してから、改めて玄関の方へ。
「はいはーい! 今出まーす!」
 ドアを開けると、そこにいたのは。
「こんな時間まで寝てたの? ヤンレンにしては珍しい」
 コジョンドが一匹。
「ロ、ロッコ? 私に何か用事?」
 よりによってこのタイミングで、一番勘の鋭いのが来るなんて。
「何か用事、じゃなくて。副委員長だから個室になったのは知ってたけど、昨日はこっちに帰ってくるんじゃなかったの?」
 よく考えたら、ルームメイトのロッコが心配して見に来るのは当然といえば当然か。
「あ、あはは……ほんとは鍵だけ取りに来たつもりだったんだけど、個室のベッドが寝心地良くってさー。連絡もしなくてごめんごめん」
「あなたがいい加減なのは知ってるからいいけど……今日、ライズ見た?」
「ライズ様? ごめん、今まで寝てたから知らないや……」
 どうしていきなりライズ様のことを聞いてくるのか。
 内心ひやりとしたが、どうにか自然に答えることはできた。
「……そう。朝、カフェテリアにいなかったし、個室も留守みたいだし……昨日は男子寮に帰って、もしかしてまだ寝てるのかな」
「そ、そうかもね……」
「……ヤンレン、まだ寝ぼけてる? ライズのことなのに、関心が薄くない?」
 やっぱり鋭い。
 付き合いの長い友人だから尚更、ヤンレンが普段通りでないことを見抜かれてしまう。
「昨日はいろいろありすぎて疲れててさ……」
 ロッコは外に干してある玄関マットを見て、首を傾げた。
「これ、どうしたの?」
「あ、ああそれ? 昨日コーヒーこぼしちゃってさー、あはは」
「ヤンレン、普段コーヒーなんか飲んだっけ?」
「き、昨日はライズ様が差し入れてくれたんだ」
「……そう。隣同士だとそういうこともあるのか」
 綱渡りをしているような気分だ。
 さすがのロッコも部屋の中まで強引に入ってくることはしなかった。
「男子に聞いてみようかな……でもわたし、あんまり話しかけたことないし……」
「たしかに、ロッコってライズ様以外の男子と話してるところ見ないよね」
「あなたなら聞けるでしょ。人気者なんだから」
「探すのを手伝ってほしいの? なんだー、最初からそう言えばいいのに」
「だ、だから、最初に訊いたでしょ。ライズ見なかったかって」
 どうにか話をうまく逸らすことはできたようだ。
「いいよ。私も今日、ライズ様のお引っ越しを手伝う約束してるし」
「わたしはもう一度、図書室とかトレーニングルームとか見てくる」
「私は……朝ごはん食べるからカフェテリアに行くつもりだし、てきとーな男子掴まえて聞いとくね!」
「お願い。私も後から行く」
「了解っ。またあとでね!」
 ロッコが学園の方へ戻っていくのを見送ってから、ドアを閉めてその場にへたり込んだ。
「はあぁぁぁ~っ。つ、疲れた……」
 途中からは自然な会話ができたけど、玄関のマットを干しているのを指摘されたときはひやりとした。
 心臓も鳴りっぱなしだし、体温も上がって汗がひどい。
「ライズ様、もう出てきてもいいよー」
 ヤンレンの呼びかけに応えて、シャワー室からライズ様が出てきた。
「良かったぁ……僕もドキドキだったよ……」
「だよねぇ……まさかロッコが来るなんて……」
「でも、ヤンレンさん、意外と演技が上手なんだね。僕が逆の立場だったらばれてたかも」
「ふっふーん。私、要領だけはいいからね!」
「それ自分で言っちゃう? ま、その通りではあるんだけど……」
 部屋にライズ様がいて、こうして二匹で話しているとまた昨夜のことを思い出してしまう。
 ライズ様と一緒に寝ちゃった。
 おまけに、これからも呼んだら来てくれるって。
 この先の学園生活が楽しみで仕方がない。
「あ、そうだライズ様。さっきの話だけどさ。頃合いを見計らってカフェテリアに来てくれない? 今まで何してたのって聞かれたら、個室で爆睡してて気づかなかったことにすればいいよ!」
「爆睡って……でも、男子寮に戻ったって嘘ついたら後が面倒だし、それしかないか……」
 ライズ様はため息をつきながらも、荷物をまとめていく。
「……よし、大丈夫。誰もいないよ」
 ライズ様が顔を出すわけには行かないので、代わりにドアを開けて確認した。
「ありがとう。また後でね、ヤンレンさん」
 そのまま隣のコテージへと向かうライズ様の後ろ姿を見ていると、名残惜しい気持ちになる。
 夢から覚めたみたいな気分だ。
 昨日の出来事は、ヤンレンにとって日常ではありえない夢そのものだった。
 でも、ベッドに戻ってシーツを整えようとしたら、残り香がふわりと漂ってきた。
 ここでライズ様と一緒に眠っていたことが現実だったと実感できる。
「はぁ……ライズ様……」
 真夜中に目が覚めたときのことも。
「よく考えたら私、すごいことしちゃったな……」
 大事な友達なのに、って言ってくれたけど。
 私がライズ様にされたことも、友達同士なら絶対にしないことだ。
 それに、キャミィ先輩と付き合ってたって。同じことを私にしちゃったって。
「あれ……?」
 この先も、友達、でいいんだろうか。
 添い寝もしてくれるって言ってたけど、ま、それくらいなら友達同士でもするかな?
 でも、ルームメイトのロッコにそんなことをお願いしようとも思わないし。
 もしかして、越えてはいけない一線を越えちゃったってやつ?
 越えてる、よね。一緒に寝ちゃったし。事故みたいなものだったとはいえ、寝ただけじゃないし。
 ライズ様の恥ずかしいところも可愛いところも見ちゃったし。
「……顔、あっつい……」
 なんなのこれ。今になって胸がどきどきしてきた。
 この後、ライズ様にどんな顔して会えばいいんだろう。

         ◇

 ヤンレンの部屋を出たあと、改めて自分の部屋を確認した。内装や間取りはほとんど変わらないみたいだ。
 と、一息ついたところで、いろいろな感情が押し寄せてきた。
 僕、最低だ。
 彼女まで欲望の対象にしちゃうなんて、ケダモノみたいじゃないか。
 笑って許してくれたのが今でも信じられない。
 その代価に添い寝を要求してきたところを見ると、内心は怒り心頭ってこともなさそうだったけれど。
 ヤンレンがネームプレートに悪戯をしたのが事の発端とはいえ。
「はぁ……」
 ヤンレンはたぶん、秘密は守ってくれる子だ。
 思っていたより誤魔化すのも上手で、あれならロッコにバレることもないだろう。
 でも、ロッコさんをちゃんと恋人として特別扱いしてあげようと思っていた矢先に、隠し事を抱えてしまうなんて。
「ま、昨日のは一回きりの事故で……これからは添い寝だけなら……いっか……友達で……」
 声に出して自分を納得させた。
 それよりも直近の問題として、このあと合流して、ロッコに悟られないように振る舞わなきゃいけない。
 ヤンレンが上手に誤魔化しても、ライズがボロを出してしまっては元も子もない。
「うん。昨日は何もなかった。そういうことにしよう」
 自分に何度も言い聞かせてから、部屋を出た。

恋を縛るもの 


 時刻は十一時の少し前。朝食には遅く、昼食にはまだ早い。カフェテリアに(ポケモン)の少ない時間帯だ。
「どうだった?」
「うーん。何匹かに聞いてみたけど、男子寮には帰ってないみたいだよ? ライズ様、実は個室でまだ寝てたりして」
 ライズ様がどこにいるかは知っていたけど、一応、本当に二匹の男子に聞いておいた。
 可能な限り、本当のことを言えば済むようにしておく。
 作り話が多すぎると、やっぱりどうしても不自然になってしまうし、他でもないロッコが相手だから徹底しておくに越したことはない。
「朝の早いあなたが寝坊ってのも珍しいけど、ライズまで? 休みだからってだらけるようなタイプじゃないと思うんだけど……個室ってそんなに快適なの?」
 ほら、やっぱりこんな風に、いちいち気にしてくる。
 そこは偶然で押し通すしかないけど、個室の快適さをアピールしておくくらいのことはしておこう。
「快適だよ! まさに選ばれし者の部屋って感じ!」
「すぐ調子に乗るんだから……あっ」
 ロッコが入り口の方を見て声を上げた。打ち合わせ通り、ライズ様がカフェテリアに現れたのだ。
「おはよ、ロッコさん、ヤンレンさん」
 ライズ様の顔を見た途端、とくん、と胸が高鳴った。
 昨日まではこんなことなかったのに。
「おはよ、じゃなくて。ライズ、今までどこにいたの? 探したのよ」
「そ、そうなの? ごめん、ずっと寝てた……」
 とにかく今はロッコをうまく誤魔化さないといけない。ライズ様がもし何か失敗したらフォローを入れるための心の準備だ。
「何度もノックしたんだけど、気がつかなかった?」
「うーん、そういえば、音は聞こえたような……寝てたからわかんないけど」
「……個室ってそんなにポケモンをだめにするものなの?」
 ロッコはため息をついて、ヤンレンをじろりと見た。
「私も寝すぎちゃってさー。あの魔力にはさすがのライズ様も勝てないよね」
 黙っているのも変に思われてしまうので、自然に会話に参加する。
 あとは適当に返してくれればいいのだけど――
「そ、そうだね……個室のベッドって寝心地最高だよね! 休みだからいいかなーって、つい昼まで……あははは」
 ライズ様、演説のときから思っていたけど、やっぱり演技が下手なのでは。
「どうしたの? 今日のライズ、何か変。ヤンレンもそう思わない?」
 まずい。このままでは誤魔化しきれない。
「たしかにちょっと様子がおかしいかも? ライズ様、何か隠してたりする?」
 とっさに思いついたのが、自分は関係ないフリを決め込むことだった。
 これならどんな反応をされても、まさか私との間に何かあったなんてロッコは考えないはずだ。
「えっ……な、何も隠してないよ?」
「……怪しい」
 ロッコに怪しまれることが避けられないなら、こうするしかない。
 ごめんね、ライズ様。
「ま、いいんじゃない? 見つかったんだし。あんまり詮索してもライズ様が可哀想じゃん。ライズ様も年頃の男の子なんだしさ。私たちには言えないことだってあると思う」
「……ヤンレン、いつからそんなに大人になった?」
 大人に、なった……?
 考えないようにしていたのに、また昨晩のことを思い出してしまう。
 暗がりの中で聞いたライズ様の表情とか、声とか。
 一緒に眠ったときのふわふわの毛と肌の感触とか、匂いとか。
 顔が熱い。ライズ様の方をまともに見れない。
「やめてよ。私だっていつまでも子供じゃないし! ロッコは私を馬鹿にしすぎ!」
 昂ぶった感情に任せて、ちょっと怒ってみせた。
 こうでもしないと隠せそうになかった。
「そんなに必死にならなくても」
 ロッコは少し驚いていたが、それくらいで済むならどうってことはない。
「……でも、ヤンレンの言うことも間違ってない。ライズ、勘繰ったりして悪かった」
「や、べつに、気にしなくていいよ。ほんとに何も隠したりとか、してないし……」
 知っているのは私とライズ様だけ。
 ロッコがどんな妄想を繰り広げたって、事実にたどりつくことはできないんだから。
 それにしても。
 これからライズ様に会うたびにこんな調子じゃ、ちょっと会話をするだけでも大変だ。
 昔からライズ様のことは好きだけど。
 他の学生たちみたいに、例えばキャスとセリリみたいに、二匹で唯一無二の関係を築けることは絶対にないと思っていた。
 すぐ側にいながら、私はずっとライズ様を見上げていた。
 もしかしたら手が届くかもしれないなんて、考えもしなかったのに。
 子供の頃のような興味や好奇心とは違う、この気持ち。
 心臓が、ドクン、と一際大きく脈打った。それこそ痛いくらいに。 
 そっか。
 ――私、気づいちゃった。
 ライズ様がずっと、わからないと言っていた気持ち。
 私もわかったつもりで何もわかっていなかった。
 恋に落ちるって、こういうことなんだ。

         ◇

 ロッコには様子がおかしいと怪しまれてしまったけれど、ヤンレンさんがうまく誤魔化してくれた。
「はぁ……」
 しかし、話が終わってから、様子がおかしくなったのはヤンレンの方だ。食事中もずっとこっちをちらちら見ながらため息をついていて、後から来たライズのほうが先に食べ終わってしまった。
「どうしたのヤンレンさん。食欲ないの?」
「えっ? べつにそんなことないけど……ちょっと考えごとしてて!」
 ヤンレンは思い出したようにフォークを動かして、もう冷めきったベーコンエッグを口に運び始めた。
「……ライズ。昨日ヤンレンと何かあった?」
「えっ? どうして?」
「いや。今朝、ライズと会ってからヤンレンが変だし」
 うまく誤魔化せたと思ったのに。
 いくら要領良く話の辻褄を合わせることができても、態度で気づかれてしまっては意味がない。
「そう? 私はいつも通りだよ?」
 彼女は普段通り振る舞っているつもりらしい。が、ライズの目から見てもまったくそうは見えない。
 寝起きにロッコが訪問してきたときは、彼女の期待以上の要領の良さに感心するくらいだったのに。
「ヤンレンさん、もしかして疲れてる? 昨日は放課後まで顔合わせの集会とか、いろいろあったし」
「うん。いろいろあったよね……」
 だめだ。フォローになっていない。
 ヤンレンの考えていることはきっとライズの言いたかったこととは違う。
 ていうか、そんな顔されると困るから、やめてよ。
 僕だって昨日のことを思い出さないようにしているんだから。
 目配せでそう伝えようとしたけれど、一瞬でも目が合うと視線を逸らされてしまう。
「……恋する乙女?」
 案の定、ロッコがとんでもないことを言い出した。
 昨日あんなことがあって、嫌われるならまだしも、恋、だなんて。
「今さらそんなこと言われてもさぁ。私はずっと昔からライズ様のこと好きだって言ってんじゃん……」
 言っていることはたしかにいつものヤンレンだ。
 でも、違う。彼女にしては勢いがない。大人しすぎるのだ。
「ライズ? 説明して?」
「ええっ? ぼ、僕に聞かれても……」
 やばいって。ヤンレンさん。他人のフォローは完璧だったのに。
「やめなよロッコ。ライズ様をいじめないの」
 どう答えるべきかと困っていたら、ヤンレンがロッコとの間に割って入ってきた。
「え、と……」
 止めてくれたのはいいんだけど。
「……はぁぁ。やっぱりダメ……ライズ様っ」
 ヤンレンは深い溜め息をついたかと思いきや、急に抱きついてきた。
「ふぇっ!? ……んんっ!」
「なっ!?」
 ロッコが驚きの声を上げた。
 それも無理はない。
「あ、ごめん……ガマン、できなくて……つい……」
 ライズから離れたヤンレンは、頬を染めて横を向いていた。
 キス、された。
 頬でも額でも前足でもなく、口に。
「な、ななな……なにっ? 今ライズに何した? ヤンレンっ!?」
「……ごめんって、謝ってんじゃん……」
「あ、謝って済む問題じゃないっ。ライズもなんとか言ってよ!」
 昼食時が近づいて、少しずつカフェテリアにポケモンが増えてきている。
 今の、誰かに見られたりしてないよね……?
「ちょ、ちょっと……ここで騒ぐのはやめない? ロッコさんも落ち着いて」
「ライズがそんな態度だからヤンレンがいつまでも調子乗って!」
 何この状況。
 これじゃまるでロッコとヤンレンが僕を取り合って揉めてるみたいだ。
 ていうか、みたい、じゃなくて。
 全くその通りなのでは。
 どう答えていいかわからずロッコと向き合っていたら、視界の隅にフォールの姿が見えた。
 いつもいいところに来てくれる。フォールは僕のヒーローだ。
「ライズ! 何やってんだ? ケンカかよ?」
 視線で助けを求めると、フォールはすぐに駆け寄ってきてくれた。
 今日は珍しく、取り巻きの三匹はいない。
「ヤンレンがいきなりライズにキスした」
「は?」
 フォールはもとからくりっとした目をさらに丸くして、ロッコとヤンレン、それからライズを見た。
「だって……ライズ様見てたら……」
「いや……ライズが可愛いのはわかるけどよ? さすがにまずいだろ、こんなところで」
「場所を選べばいいってものじゃない。それに今朝から二匹とも、何か隠してるし」
 仲裁に入ってもらったのはいいけど、ロッコの疑惑は晴れないままだ。
 ここで余計なことを言われると返ってまずいことに。
 お願い、何とか丸く収めて。フォール様。
「ははーん。さてはお前ら、昨日の夜一緒に寝たりとかしたんだろ」
「って、フォールっ!」
 願いは届かなかった。助けてくれると思ったのに。何しに来たの。
「ライズ……?」
 ついフォールの名を叫んでしまってから、気がついた。
 ロッコが怒った顔でこちらを見ている。
「図星かぁ。ライズ、女の子は平等に扱ってあげないとダメだぜ」
 墓穴を掘った。フォールが余計なこと言うから。
「そ、そうだよ。ロッコもキスしたらいいじゃん」
「ヤンレン、それ本気で言ってる? わたしはもうとっくにしてるけど?」
「オイオイオイ……まじかよ? ま、まぁ、ライズとロッコさんはなんかありそうだなぁと思ってたけど」
 だめだ。収拾がつかなくなってきた。
 ロッコとの関係も秘密だったのに。このままでは何もかも明るみになってしまう。
 フォールだけならともかく、何匹かの学生にもおそらく聞かれてしまった。
「もうとっくにって……どういうこと? ロッコ、やっぱり抜け駆けしてんじゃん!」
「わたしはあなたみたいに無理矢理じゃない。ライズはちゃんと、わたしを好――」
「わあっ! ロッコさん、待ってっ」
 慌ててリボンの触角を鼻口部に巻きつけて、ロッコの口をふさいだ。
(ポケモン)集まっちゃってるし……場所変えようぜ? 生徒会と風紀委員会の副長同士がこんなとこで揉めてたら目立つって」
 時すでに遅し、というか遅すぎるけど、ようやくフォールが場所を変えることを提案してくれた。
 そんなこんなで、どうにかロッコをなだめながらカフェテリアの外に出た。

         ◇

 中庭の隅の人気のない場所を選んで会話を再開したときには、ロッコも少しは落ち着いていた。
「ごめんね、フォール……付き合わせちゃって」
「いいっていいって。オレとお前の仲だろ? それにオレがいなくなったらまたケンカしそうだし」
 実際、助かっている。ライズ一匹で彼女たちに挟まれて、うまく収められるとは思えない。
「で、ロッコ……どういうこと? ライズ様がロッコのことを好きだなんて、本当なの?」
 あのときロッコの口を塞いだのに、ヤンレンにはもうばっちり聞かれていた。手遅れだ。
「えっ、と……」
「わたしがライズの前で嘘をつく理由がない。この際だから言うけど、わたし、ライズと付き合ってるの」
 言い淀んでいたら、ロッコが全てを話してしまった。
 そもそも隠していたからおかしなことになっていたんだ。もうこうなったら覚悟を決めよう。
「嘘……だよね? ライズ様……」
「……ごめん。全部本当のことなんだ」
 認めるしかなかった。
 ロッコが一瞬だけ、勝ち誇った顔をしたのを見逃さなかった。
 ライズは自分のものだから手を出すな、と堂々と言えるのだから。
「なるほどね。ハーレムだと思ったら本命がいたってわけかぁ。ヤンレンさんとしては、悔しいよなぁ」
 フォールは真剣に考えているのか面白がっているのかわからない。
「そんなの、おかしいよ。だってライズ様……」
 ヤンレンはフォールの方を見て、言い淀んだ。
 誰にも知られていないことだから。
 でも、僕にはその言葉を止める権利はない。
「……いいよヤンレンさん。遠慮しなくても」
 ライズが促すと、ヤンレンは真剣な顔つきになった。
「ライズ様が好きなのは男の子でしょ? ライズ様がロッコを好きになるはずないじゃん」
 これにはさすがのフォールも驚きを隠せないようで、両前足で口を押さえて目を見開いていた。
「……マジ?」
「……まじです」
 一瞬の間のあと、フォールは神妙な面持ちになった。
「そっか……悪い、ライズ。オレ、今までデリカシーないこといっぱい言ったよな」
「謝ることないよ。そうやって気遣ってくれて……偏見を持たれないだけで、僕は嬉しい」
 なんとなく、フォールには知られても大丈夫な気がしていた。
 彼は偏見なんて持たないって。やっぱり、フォールはいい友人だ。
 秘密を知られても、きっとこのまま――
「何をいい話にしようとしてるの」
 ――と、穏やかな気持ちになっていたところに水を差したのはロッコだった。
「フォール。油断しちゃだめ。ライズってこう見えて惚れっぽいんだから」
「へー。それは初耳。でも、オレはいいぜ? ライズ、カワイイしキレーだし。あ、でも特別扱いはしねーかんな! あいつらに怒られるし」
 ハーレムに加えてやりたい、なんて冗談めかして言われたことがあったけど。
 もしかして、冗談ではなかったのか。
 あれ? もしかして僕、告白されてる?
 急に恥ずかしくなってきた。秘密を知った上でフォールにこんな扱いを受けるなんて。
「そういうこと言うなって話! ライズ、何照れてるの?」
 いけない。このままではロッコの怒りが頂点に。
「おっと、悪い悪い。そういや今はライズはオマエのだったか。ひとのものを盗ったら泥棒だもんな」
「わかればいい」
 フォールが謝ると、意外にもあっさりとロッコが引き下がる。フォールが空気の読める子でよかった。
「待ってよ。それがおかしいって言ってんじゃん」
 が、ヤンレンが納得するわけがなかった。
「フォールに取られたなら仕方ないけど……なんでロッコなの? 私、わかんないよ。ロッコがキャミィ先輩みたいなことするとは思えないし……どうして?」
「……ヤンレン、知ってたの? キャミィ先輩のこと」
「昨日の夜、ライズ様に聞いたんだよ」
「夜?」
 ヤンレンがわざわざ夜なんて言うから、ロッコが噛み付いた。
 でも、今のは絶対わざとだ。ヤンレンはロッコに対抗心を燃やしている。
「そうだよ。私、昨日はライズ様と一緒に寝たから」
「な……」
 ロッコは驚愕に目を見開いた。
 ああ、もうだめだ。
 こんなの、二匹から絶交されても仕方ない。
「私とライズ様が隠してたことがわかってすっきりした? これでお相子だよね」
 ヤンレンが彼女らしくない、勝ち誇ったような笑顔をロッコに向けた。
「……ライズっ!」
 ロッコの怒りの矛先が、ついにこちらに向いた。
 気がついたときには、彼女に背中を押さえられ、地面に組み伏せられていた。
「ライズ、あなた……本当に誰でもいいの? わたしは特別じゃなかったの?」
「ま、待って……昨日のは事故みたいなもので……て、ていうか、同じベッドで寝ることになっただけで……な、何もしてないから!」
「……本当? 本当に何もなかったの? じゃあどうして隠してたの? これ以上嘘ついたら、いくらライズでも許さない」
 背中を押す力が強くなる。胸が圧迫されて苦しい。
 彼女は学園でもトップクラスのバトルの成績のコジョンドだ。力が強すぎて、全く動けない。
「ロッコっ。ライズ様になんてことするの!」
「落ち着けって。ライズが死んじまうぜ!」
 ヤンレンとフォールが二匹がかりでロッコを引き剥がして、ライズはなんとか立ち上がった。
「ライズ。答えて」
 ロッコの視線が痛い。事故みたいなものとはいえ、襲ってしまったのはライズの方なのだから。
 何もなかったなんて、よく言えたものだ。これじゃヤンレンさんに謝った気持ちまで、嘘になってしまう。
「……ごめん。実は、僕――」
「待って。ライズ様は悪くないの」
 ヤンレンがライズを庇うようにロッコの前に出てきた。
「私がほんの出来心で……部屋のネームプレートを入れ替えちゃったから、ライズ様が間違えて……」
 ヤンレンは、二匹が一つのベッドで寝てしまうに至った経緯を説明した。
 もちろん、夜中のあの大事件のことは隠したまま。
「へぇ……オマエ、大胆なことするんだな」
「こいつが大胆なのは昔から。油断したわたしが悪かった」
 ロッコも少し落ち着いてきたみたいだ。
「……ライズはわたしに告白してくれた。卒業までは恋人でいてくれるって。ずっとわたしに助けられてばかりだったから、今度は自分がお返しをするって」
 ロッコと交際するに至った経緯。
 誰にも知られていなかった二匹だけの秘密だった。
「ははーん……そういうワケがあったんだな。ま、付き合ってるっつっても好き同士の恋人とはちょっと違ってたんだよな。オレがわかんなかったわけだ」
「感謝……ってこと? それって違うじゃん。ライズ様、ロッコを好きになったわけじゃないんでしょ」
「……そう。ライズはわたしにお礼がしたかっただけ」
 何も否定できない。
 恋人になって、ロッコの望みを叶えてあげたかっただけ。
「でも、わたし……ライズの恋人でいたら、それ以上を望んでしまう。嫉妬してしまう。独占したくなってしまう。わたしはライズの側で、ライズを守ることができたらそれでいいって思っていたのに。わたしはわたしのなりたかった自分から離れていく」
「ロッコさん……」
 僕には彼女の名を口にすることしかできなかった。それ以上は何も言えず、黙っていた。
 次の言葉は、ライズの予想した通りだった。
「もうやめにしよう。ライズは十分返してくれた。それに、もうわたしに依存することもない。だから、友達に戻ろう、ライズ」
 ヤンレンはロッコの言葉に聞き入っていて、フォールは気まずそうに視線をそらしていた。
「……こんな僕でも……友達で、いてくれるなら」
 ロッコの言うとおり、僕には彼女を必要とする理由がない。まだお返しが終わってないから、なんて、押し付けがましい理由で引き止めることなんてできない。
「これでライズはもうわたしのものじゃないから、ヤンレン。ライズが欲しいなら好きにすればいい」
 少し投げやりな言葉を残して、ロッコはその場を去っていった。
 彼女が校舎の影に消えるまで、僕はその背中から目を離すことができなかった。

         ◇

「……オレ、もしかして余計なことした?」
 ロッコがいなくなったあと、フォールが申し訳なさそうにつぶやいた。
「フォールに助けを求めたのは僕だし……べつに、いいんだ。悪いのは僕だから」
 恋の対象にはならないとわかっていながら、ちゃんと特別扱いするなんて、無理な話だったんだ。特別扱いって、相手のためにするものじゃない。ロッコを見ていてわかった。独占したいとか、他の異性と仲良くしてほしくないとか。自分の側に置いておきたいとか。そういう自分のための感情から湧いてくるものなんだ。
「オマエが悪いのか? そりゃ、やり方は間違ってたかもしれないけどよ。オマエはロッコに感謝してたんだろ。なら、悪いことはしてねーよ」
 フォールの言う通り、やり方が間違っていた。ロッコにお礼をするにしても、もっと他のやり方があったはずだ。
「そうだよ。ライズ様は悪くないよ。昨日のことだって、悪いのは私だし……」
「オマエもロッコとライズの関係を知らなかったんだろ? 誰も悪くねーよ。色恋沙汰なんてそんなもんだろ」
 夜中にライズがヤンレンに半ば陵辱に近いような行為をしてしまったことをフォールは知らない。それをヤンレンが許してくれたことも。だから、やっぱり悪いのは僕だ。
「じゃ、オレカフェテリアに戻るわ。アイツら待たせてるしよ。もちろん、今日のことは誰にも言わねーから」
「うん……ありがとう、フォール」
 背を向けて行こうとしたフォールが、思い出したように振り返った。
「あ、その気になったらいつでもオレんとこ来ていいぜ!」
「もうその冗談は聞き飽きたよ! 女の子扱いされるのはごめんだからっ」
「あははっ。オマエ、ほんと可愛い奴だな」
 フォールは何が楽しいのか、上機嫌でその場を後にした。
 残されたのは、ヤンレンとライズの二匹。
「えっと……ライズ様……私……どうしたらいいのかな……なんだか、昨日からいろんなことがありすぎて、わかんないよ」
「僕だってわからないよ」
 いつか崩れる関係だったんだ。きっかけを作ったのがヤンレンだっただけで。
「それにしてもロッコのやつ、ライズ様に暴力振るうなんて信じらんない。いくらキャミィ先輩からライズ様を助けたって、自分もあんなことしたらおんなじじゃん」
「ち、違うよ、ロッコさんはキャミィ先輩とは全然……」
「違わないよ。ライズ様はお礼をしたいって思ってロッコと付き合ったんでしょ。だからってライズ様を自分の物みたいに……」
 自分が原因でヤンレンとロッコが仲違いをすることなんて、あってほしくない。
 ロッコとはもう以前のようには戻れない。友達に戻ろう、とは言っていたけれど、避けられるかもしれない。
 ヤンレンはきっと、変わらないだろう。この先も友達でいてくれる。
 そうしたら彼女たちの溝は深まる一方だ。
「私、昨日の夜、さ。迷ったんだよね。ライズ様がお詫びをするって言ったとき。ここで私がライズ様と付き合いたいって答えたら、ライズ様は断れないって」
「考えてたんだ、そんなこと」
「だって大好きな男の子が何でもするって言ってくれたんだよ? それって真っ先に思うことじゃん?」
「僕、嫌われてもおかしくないようなことをしたのに?」
「あれがライズ様の本性だってなら話は別だけどさ。ライズ様、すぐ謝ってたじゃん。ちゃんと事情も聞いて納得したから、それはもういいの」
「……ほんと、ヤンレンさんは優しいよね」
「そ! 私、すっごく優しいの。だからライズ様へのお願いも別のことにしたんだ。キャミィ先輩と同じになっちゃうからって」
「でも、キャミィ先輩は無理やりだったし」
「無理やりでもお礼でもお詫びでも一緒なの。それって要するに、ライズ様を縛っちゃうってことでしょ。ライズ様が嫌って言えないの、可哀想だもん」
 ヤンレンの言葉はすごく身に染みる。でも、昔のロッコなら、同じことを言ったかもしれない。
 僕はロッコさんの望むものを与えようとして、失敗したんだ。本当は冷たく突き放す方が良かったんじゃないか。
「どうしたの? ライズ様。泣きそうだよ?」
「……放っといてよ。僕がきみを好きになれないことはわかってるでしょ」
「へ?」
 ヤンレンはきょとんとした顔で首を傾げた。
「昨日の夜、暴走しちゃったこと……あれが僕の本性だって言ったらどうする?」
「えっと……何言ってんのかわかんないよ?」
 僕は嫌われてもいい。同じ過ちを繰り返さないために。
「僕ってさ……結局、自分の欲望が満たされたらそれでいいっていうか……相手の好意を利用してるだけなんだ。このまま僕と一緒にいたら、きみも――」
「下手」
 ヤンレンは手を伸ばしてきて、ライズの涙を拭った。
「ヤンレン、さん……?」
「ほんっと、ライズ様って演技が下手なんだから。泣きながら言われたって……無理してるのバレバレだよ?」
「ぼ、僕はっ……そんな……!」
「どーせ私がロッコみたいになると思って、わざと嫌われようとしたんでしょ?」
 全部お見通しだった。ヤンレンは鈍感な子だと思っていたのに。
 長く一緒にいたせいか。彼女は彼女なりに僕のことが好きで、ずっと見てくれていたから。
「……っ、ぁあ……!」
 言葉が出てこなかった。
 悪いのは自分なのに。どうして、涙が溢れてくるんだろう。
「もう、また泣いてる……しょうがないなあ」
 ほんと、最近泣いてばかりだ。
 ヤンレンは優しくライズを抱いて、とんとん、と背中を叩いてくれた。
「大丈夫だよ。私、ロッコと違って我慢しない性格だし。けっこう好き勝手するからさ。あ、ライズ様が本気で嫌だったらいつでも逃げ出していいし、嫌だって言われたらやめるから」
 たしかに、そうだ。ヤンレンはライズのご機嫌伺いみたいなことはしない。キャミィ先輩みたいに力ずくでライズをやり込めようとはしないけど、急に抱きついてきたり、さっきはキスまでされた。だいたい、ネームプレートを入れ替えて自分の部屋に誘い込もうなんてロッコなら絶対にしないことだ。
「私……ずっとライズ様のこと、大好きだけど。今まで、仲の良い友達でいようって思ってた。こんなこと言ったらライズ様、怒るかもしれないけど、女の子同士みたいな気分でさ」
「……怒らないよ」
 息を整えて、ヤンレンの顔を見上げた。
「性別の違いとか、そういうの、全然感じさせなかったから。ヤンレンさんといると、気が楽だったんだ」
「私のこと、そんな風に思ってたんだ……でも、それじゃ、これからはちょっと私のこと、嫌になるかな?」
「どういうこと?」
「昨日、あんなことがあったせいなのかな……私、今朝から変なんだよね……ライズ様のことを考えたら胸がドキドキしちゃって……今も、すっごく体が熱いんだ」
 自分が泣いていたから、気がつかなかったけど。言われてみると、昨日より彼女の体温がずっと温かい気がする。
「今さら、って思われるかもしれないけどさ。昨日までの"好き"と違うんだ」
 あれがきっかけで、嫌われるどころか、進展してしまうなんて予想もつかなかった。
「ずっとこうしていたいって、思っちゃうんだ……ライズ様といつまでも抱き合っていたいって……」
「……でも……僕には何も返せないよ」
 自分の中から湧き出る気持ちがない限りは、いくら返そうと努力しても無理なんだって、わかってしまったから。
「いいの。昨日の約束はまだ生きてるよね? 私、ライズ様がほしくなったら、呼ぶからさ」
「それは……約束だから、守るよ」
「ありがと。でも、もう一つ約束して。私も遠慮しない代わりに、ライズ様も嫌だったら断ること。本当に嫌になったらやめてもいいから」
 本当に、これでいいのか。
 ロッコがヤンレンに変わっただけで、また同じことを繰り返さないだろうか。
「あと、ロッコとちゃんと仲直りもしなきゃね。ロッコが抜け駆けしてライズ様と付き合ってたって聞いたときは、ちょっとむかついたけどさ。このままじゃ、今度は私が抜け駆けになっちゃうもん。ロッコもあんなこと言ってたけど、本気でライズ様のことが嫌いになったわけじゃないでしょ」
「そう……なのかな」
「これでもロッコとはルームメイトだったし、長い付き合いだしね。すぐには戻ってこないかもしれないけどさ。ロッコのやつ、私と一緒で心の底からライズ様のこと大好きだから。頭冷やしたら、きっと後悔するんじゃないかな」
 僕には何も答えられなかった。
 でも、前に進むしかないんだ。
 後悔して、自分を責めて、罪を償うことばかり考えていないで、ちゃんと関係を修復しよう。
 またみんなで笑って友達でいられるように。

大好きで大嫌い 


 ああ。
 ライズと別れてしまった。
 ヤンレンではなくライズの方に怒りの感情が湧いた自分には驚いた。でも、事故だとかなんとか言ってたけど、それは結局ライズが拒否しなかったということだ。
 拒否してほしかった。わたしが特別だというのなら。
 ヤンレンにも簡単に気を許しているライズに何度釘を刺しても変わらなかった。それはわたしとライズの関係を周囲に悟らせないために必要なことなのだとわかってはいても、やっぱりライズが他の異性と仲良くするのは嫌だった。
 それでも、友達の一線を越えない限りは、許そうと思った。それより先はわたしの特権だから、って。
 何が特権、何が特別、何が恋人だ。
 わたしはもうライズにとって必要な存在ではなくなってしまった。キャスとの関係の修復も、はっきりと言うヤンレンの方が適任だし。
 そもそも、二匹の関係を変えてしまったのはわたしだ。わたしのやり方は間違っていた。ライズが身を許してくれたとき、嬉しかった。きっとライズも同じだろうって。
 その結果がこれだ。わたしとライズも、ライズとキャスも、うまくいかなかった。やっぱり、一時の感情に任せて越えてはいけなかったのかもしれない。
 ずっと親友のままなら、こんなことにはならなかった。
 でも、自分の気持ちに嘘はつけない。一度越えてしまったら、親友だった頃の距離にはもう近づけない。その先を知っていたら満足できない。生殺しみたいに。
「はぁ……」
 でも、それは好きだからこそ。
 本当に嫌いになってしまえたらいいのに。
 あんなことを言っておきながら、こそこそと引き返している自分に腹が立つ。
 あの後どうなったのか、気になって。生け垣の隙間から、覗き込んでみた。
「……何、それ」
 見に来なきゃよかった。
 ヤンレンがライズを抱きしめていた。ライズも彼女に身を預けている。抵抗もしないで受け入れているではないか。
 ライズはもう自分のものじゃないから、好きにしろとは言ったけれど。いくらなんでも別れた直後にこんなことしてるなんて。
「もう知らない。本っ当に知らない!」
 叫びたい気持ちをこらえて、彼らに聞こえないくらいの声で囁いた。
 友達もやめだ。ファンクラブも抜けてやる。
 あんな子を好きになっちゃうなんて、わたしの頭がおかしかったんだ。
 どうかしてる。本当にどうかしてる。
 ライズなんか大嫌い。口もききたくない。
 ――嫌いなのに、胸が苦しい。
 嫌いと好きがぐちゃぐちゃになったこの不思議な気持ちに、名前をつけられないでいる。
 忘れよう。ライズのことは。
 すぐには無理かもしれないけど、どうせ来年には卒業してもう学園にはいない。そのときまでの辛抱だ。
「わたしも、他の男の子探そうかな……」
 ライズしか見ていなかったから、知らないだけで。もっといい相手だって、探せばいるはずだ。
 忘れるためにはきっとそれが一番。今度は、ちゃんとわたしを好きになってくれるひとがいい。
 ライズがいなくたって、わたしは生きていける。

         ◇

 女子寮の部屋に荷物を取りに戻っても、ロッコはいなかった。
 それからライズ様の引っ越しを手伝って、一通りの作業が終わると夕食の時間になっていた。
「ロッコさん、あれから会わないね」
「きっと私たちを避けてるんだよ。あんなこと言っちゃったから、合わせる顔がないなんて思っちゃって」
「それもそっか……」
 夕食時、集団寮の生徒は寮食があるので、カフェテリアにはほとんどいない。代わりに学内の食堂でどこでも使える食事券がもらえるのが個室寮のもう一つの特権だったりする。
「ライズ様、好きなものばかり食べてバランス崩さないようにね」
「種族によって体質ってのがあるでしょ? ほとんど肉しか食べなくても大丈夫なポケモンもいたりするし」
「それって狩りをして生肉を食べるならって話でしょ。血抜きして加工されたお肉は違うんだよ」
「ヤンレンさん、栄養学の先生みたい……」
「私の故郷の龍州にはまだいるんだよね。狩りをして生きてるポケモン部族が」
「へー……って、ヤンレンさんが龍州の出身って……初めて聞いたよ」
「あれ? 言ってなかったっけ?」
「聞く機会がなかっただけ、かな。でも、言われてみたら名前の響きがそれっぽいよね」
「楊蓮、って書くんだよ。龍州の字では」
 持っていたノートに名前を書いて見せた。
「わ、かっこいい」
「でしょー? こっちのひとってみんなそう言うよね」
 ライズの故郷が隣国のジルベールであること、そこのとある騎士の家の出身らしいということは、ファンクラブ情報で知っている。
 一方的に知っていると話題にしづらくて、思えば故郷の話なんてしたことがなかった。
「あ、ライズお兄さま!」
 ライズ様との二匹の時間を楽しんでいたら、聞き覚えのある声がした。
 この馴れ馴れしさ、姿を確認するまでもない。風紀委員の一年生、プラスルのユリだ。後ろには弟のマイナン、ユズもいる。
「あれ、ユリさん……寮の夕食は?」
「もう食べちゃいましたよ! 急に、ライズお兄さまに会いたくなっちゃって」
 ユリは頭お花畑のセリフを並べながらライズにウィンクした。あまりにも露骨であざとい。
「そ、そう、なんだ……喜んでいいのかな?」
 ライズ様もこんな扱いをされたことがないせいか、対応に困っている。
「……さすがはライズお兄さまです。手強いですね」
「は?」
 というか、ライズは誘惑されていることに気づいていない。ま、女の子に興味がないのだから鈍感なのも仕方ない。
「言っとくけどユリちゃん。ライズ様にそういうことしても無駄だよ」
 さすがに目に余るので、釘を刺しておいた。
「余計なお世話です! 失礼ですけど、ヤンレン先輩はライズお兄さまのファンですよね? あたしはファンじゃなくて、ライズお兄さまとお友達になりたいだけですよ?」
 何この子。言い方の一つ一つがむかつく。
「ざーんねんでした。私はライズ様とは中等部の頃からお友達なんだよ。ファンがお友達になれないなんて誰が決めたのかな?」
 ついつい棘のある言い方になってしまって、すぐに後悔した。今日あんなことがあったばかりで、ライズ様の前でまたケンカなんてしたくない。
「ふーん……でも、お友達以上には、なれませんよねぇ?」
「あ、あの、お姉ちゃん……喧嘩はよくない……と、思う……」
 ユズが姉をなだめにかかったが、当のユリは見向きもせず完全無視だ。
 ――こうなったら。
「ライズ様。ちょっとこっち来て」
「え……?」
 向かい合って座っていたライズ様を、隣に移動させて、すかさずその首に手を回した。
「んっ……!?」
 二度目のキス。
 初めてだったお昼のときよりも、冷静でいられた。
「う、うそだぁ……」
 ユリは口をぽかんと開けて、頬を染めていた。
「ヤンレンさんっ……一年生が見てる前でこんな……」
 心の中でライズ様に謝りながら、ユリに笑顔を向ける。
「ってことだから、ユリちゃん。ライズ様に変なマネしたら、私が許さないからね!」
「し、失礼しました! ユズ、行くわよ!」
「ま、待ってよお姉ちゃん……!」
 諦めないだとか、ヤンレン先輩はノーマークだったとか、ぶつぶつ言いながら、ユリは逃げるようにカフェテリアを出ていった。
「もう……とんでもない子が風紀委員に入っちゃったなぁ。ライズ様、気をつけてね」
「と、とんでもないのはヤンレンさんでしょっ。急にキスされるなんて思わなかったよ!?」
「ごめんごめん。でも追い払うにはこうするのが一番っていうか……くふふふ。何回やっても、キスの味ってたまんないなぁ」
「建前の後に本音がだだ漏れだよ」
「言ったでしょー。本気で嫌だったら怒っていいからって」
「……べつに、怒るほど嫌じゃないけどさ」
 拗ねたようなその表情があまりにも可愛くて。
「むふ。ライズ様、かぁわいい」
 無意識のまま、ライズ様に抱きついて頬をくっつけていた。
「ちょっ、やめてよ、恥ずかしいからっ」
「あ、ごめん。体が勝手に動いちゃって。わざとじゃないんだよ」
「そんな言い訳、聞いたことないよ!」
 昨日までと違うのは自分だけだと思っていたけど、一晩一緒にいたせいか、ライズ様の態度も違う。少し前まで、抱きついたりしたらやんわりと拒絶されていたのに。今は、口では抵抗しながらも受け入れてくれる。
「ね、ライズ様。今日も一緒に寝よ?」
「ええっ。呼んでくれたらいつでもとは言ったけど……昨日の今日だよ?」
「だって……ライズ様と離れたくないし……」
「そ、そんなこと言ったら毎日一緒に寝なきゃいけなくなっちゃうよ」
「最初だけだから! こういうのって、慣れたら少しずつ離れても大丈夫になっていくと思うんだ。たぶん」
「……はぁ。今日だけだよ?」
「やったー! ライズ様、大好き!」
「もうっ、いちいち抱きつかないでっ」
 ライズ様がこんなに近くに。
 ロッコに申し訳ない気もするけれど、それはそれ、これはこれ。
 私だってライズ様のこと、大好きなんだから。

低みを越えて [#0n5zycB] 


 その日の夜。
 いざ、ライズと一緒にベッドの前に並ぶと、急に緊張してきた。
「どうしたの、ヤンレンさん?」
「き、緊張しちゃってさー。あははは……」
「昨日も一緒に寝たのに、今になってどうしてそうなるの?」
 ライズは驚くほど落ち着いている。
 そりゃ、キャミィ先輩やロッコと経験があるなら当たり前か。
「い、いや、ほら……昨日はライズ様、先に寝ちゃってたしさ」
「や。本人の許可もなしにベッドに入り込む方がどうかしてるでしょ! 今日は僕がヤンレンさんと一緒に寝てあげるって言ってるんだよ?」
「それはそうだけどさ……こうしてると、恋人同士みたいで……」
「し、しないよ!? 添い寝以上のことは! 昨日ヤンレンさんを襲っちゃった僕が言っても説得力ないけど……」
「私は襲われてもいいよ! あっ、でも今度は優しくしてほしいな」
「だから、しないってば!」
「えー、残念……」
 あんまり苦しいのは嫌だけど、あの野生的なライズ様をもう一度見てみたい気もする。
「緊張、ほぐれた?」
「あ、うん……話してたら、ちょっと」
「じゃ、今のうちに。ほら、ヤンレンさんが先に入ったら大丈夫でしょ」
「わ、わかった」
 ライズが優しくリードしてくれてる。昨日は私の方がお姉ちゃんぶった態度を取っていたのに、一日で立場が逆転してしまった。
 ベッドに入ってすぐ、ライズがリボンで布団をめくって、横に入ってきた。
 昨日だって一緒に寝たのに。今日は胸がどきどきして、体が熱くて、ガチガチに固まって動けない。
「あの……大丈夫?」
「だ、だだだだだだだいじじょうぶ、じゃ、ない」
「……はぁ。添い寝してほしいっていったのはヤンレンさんでしょ?」
「そ、そうなんだけどっ。どうしちゃったのかな私……昨日は平気だったのに……」
「ふふふっ。ヤンレンさん、可愛い」
「えっ、えっ……? かわいい? わ、私が? 何言ってるの?」
 ライズが悪戯っぽく笑いながら、リボンと一緒に前足を伸ばしてくる。
「僕のこと、さんざん可愛いとか綺麗とか言ってからかってるくせに。だから、お返し」
 ぎゅっ、と抱きしめられた。
 その瞬間、全身に電気が走るみたいな、でも痛くはなくて、むしろ気持ちがいいような。生まれて初めての感覚を味わった。
「あぅうう……ライズ様ぁ……なに、これぇ……」
「ヤンレンさん……?」
 頭が真っ白になって、体がびくびくと痙攣している。お腹の下の方に、じんわりと不思議な熱を感じる。
 抗えない。この快楽には。
「ライズ様ぁっ……!」
 ライズを抱き返して息を吸い込むと、花の香がいつもよりずっと強く感じられて、脳天まで突き抜けていった。
「ちょっとヤンレンさんっ……く、苦しいよっ……」
「ご、ごめん……でも、私……体が、熱くて……ライズ様がほしい……このままじゃ、眠れないよぉ……」
「や。どうして急にそうなっちゃうの……!」
「私にもわかんないよ……!」
「だめだって! 添い寝しかしないって約束だったでしょ?」
「このままじゃ私……はぁ、んっ……どうしたらいいのっ?」
 ライズと抱き合っている体が少し擦れ合うだけで、耐えがたい衝動が全身に走ってしまう。ひどく背徳的で、この感覚には身を委ねてはいけないと、理性が叫んでいる。
 でも、きっと長くは耐えられない。
「はぁ、はぁ……ライズ様、いい匂い……ふぅ……柔らかい……あったかい……食べちゃいたい……」
「だ、だめだって、ヤンレンさんってば……!」
 キスくらいなら。もう、二回しちゃったし。いいよね。
「ライズ様ぁ……んっ……ちゅ……」
「んんんっ!?」
 今までとは違う。貪るような勢いでその唇を奪って、舌を突き入れた。
「ん、はふ……れろ……っ、……ぷはぁ……ライズ様ぁ……」
 そうして舌を絡め合うと、少しは満たされたような気がしたけれど、体を燃やしてしまいそうな熱は、あとからあとから湧いてくる。
「はぁ、はぁ……や、約束が……はぁ、はぁ……違うよぉ……」
 ライズがとろけるような目で私を見つめ返してくる。彼の体からは完全に力が抜けていて、もはや抵抗の意思は感じられなかった。
「も、もう一回……しちゃおっかな……」
「ええっ!? ……ん、んんっ!」
 無防備なライズに覆い被さって、キスをもう一度。
「ヤンレンさん……っ、ぁ……ん、ちゅ……ふぅ……んっ……」
 今度は、ライズも私の舌の動きを追いかけてきた。口ではダメだと言いながら、受け入れてくれている。
「ん……っ、ぷはぁ……ライズ様、好き……」
 今日のライズは昨日とは打って変わって、随分おとなしい。まるで私に好きにしてくれ、とでも言わんばかりだ。
「こ、腰が……ぁふ……砕けて……体に、力が……」
「ライズ様、弱いって本当だったんだ。私なんかのキスでもこんなになっちゃうんだね」
「そ、それも、ある、けど……ヤンレンさんが……上手だから……」
「えっ!? い、いいのかな、こんなので……私、初めてなんだけど……あっ、そういえば、友達に、キスが上手って言われたことがあったな」
「友達? だ、誰とキスしたの?」
「違う違う、ほら、あれだよ。さくらんぼの茎を口の中で結ぶやつ! 私、やってみたらできちゃったんだよね。キスが上手な証拠なんだって!」
「あ、はは……ヤンレンさんにそんな才能があったなんて……」
 それにしても、体の火照りがおさまる気配がない。いつまででもライズ様とキスしていたいし、抱き合いたいし、もっと言えば、その先まで。
「はぁ……ライズ様……」
 ライズに覆い被さって、また顔を近づけた。
「お、重いよ、ヤンレンさん」
「あ、ごめん……でもさぁ、キスだけじゃおさまんないよ……」
「ま、待って……これ以上されたら、僕……」
「んー?」
「……も、漏らしちゃう……かも……」
 ライズは恥ずかしそうに目をそらしている。
「へぇ……やっぱりライズ様ってこーゆー刺激に弱いんだ……」
 昨日も大変だったけど、ベッドの中でされたらさすがに後始末に困る。でも、ここまできたら止められない。
「でも、そんなこと言って……逃げる気でしょ!」
「ほ、ほんとだからっ。こんな恥ずかしい嘘、つかないよ……」
「昨日みたいに飲んじゃったりは……できないしなぁ。キス、したいし……」
「も、もうっ。またそんなこと言って! や、やめようよ? ぼ、僕だって……ここでやめるの……苦しいのは同じだし……」
 ライズが本気で嫌がっていたら、ヤンレンも気合で我慢して、やめようと思っていた。
 でも、ライズ様もきっと、望んでる。触れ合った体から直接、胸の鼓動が伝わってくる。恥ずかしがってはいるけれど。
「私も……苦しいのはやだよ。ここでやめたら二匹とも苦しいじゃない……」
「で、でも……」
「大丈夫だよ。私、いいこと思いついちゃった」
 私がヒヤッキーだからこそ、できること。忘れていた。
「ヒヤッキーってさ。尻尾で水を吸って頭の毛に貯水するんだよね。知ってた?」
「や、そこまで詳しくは……ど、どうするつもり!?」
「んふふふふ……それはね……こうだよ!」
 尻尾の先の房を、ライズの股にぺたんと押し付けた。
「わひっ!!?」
「あっ、ごめん。冷たかった?」
「はうぅ……な、なんてこと、するんだよっ……!」
「えへへ……これで大丈夫だよ。私ともっとキスしよ?」
「や、ちょっ、待っ……んっ!」
「んちゅ……っ、ん、ふぅ……」
 ライズの体温と舌の感触から、フワーッと意識が遠のくような快感が頭の後ろに突き抜けてくる。おまけに下半身まで熱くて、どうにかなってしまいそうだ。
「あ、ふ……んぁ、ああああぁ……」
 でも、ライズ様はそれくらいで済んでいないみたいだった。力の抜けた声を出しながら、本当にお漏らしをしてしまった。涙目で虚空を見つめていて、心ここに在らずといった様子だ。
「ん、ぷはぁっ……もう、ライズ様ったら……」
 吸い上げた尻尾と背中が熱くなって、頭まで上がってきた。なんてことを、って言われたけど、自分でもとんでもないことをしていると思う。
「や、やだっ……あうぅっ、吸わないでぇっ……」
「だめだよ。こうしないとベッドが濡れちゃうもん」
「そ、そんなこと言ったってぇ……あ、ぁあんっ……」
「でもライズ様、気持ち良さそうだよ?」
「そ、そうじゃなくて……や、ぁああっ……」
「あ。そろそろ終わりかな?」
 勢いが弱くなってきたところで、最後に一気に吸い上げようと、尻尾の力を強めた。
「ひゃぅうっ……! それはダメぇ……っ!」
「えっ、ご、ごめん……痛かった?」
「ち、ちが……あ、あぁんっ……ぁ、ぁ、あっ……!」
「ん? まだ残って……って、これ……」
 ライズはがくがくと体を痙攣させている。ドクン、ドクン、と断続的に、尻尾の中に流れ込んでくるのは、もしかして。
 尻尾を離すと、どろり、と白濁の液体が溢れ出した。
「あぅ、う……ひどいよ、ヤンレンさん……こんなことするなんてぇ……」
「ごめんごめん。そっちも出しちゃうなんて思わなくてさ。あははは」
 ベッドの上で仰向けになったライズが涙ぐんでいるのを見て、さすがに少し罪悪感に襲われた。
 でも、体はまだ熱くて。
「ライズ様、大丈夫、だよね……まだ……」
 自分でも無茶を言っているとはわかっているけど、もう止められそうになかった。精を吐き出したばかりのライズのものに触れて、今度は口にくわえた。
「ひゃぅ……ヤンレン……さん……ま、待って……っ……!」
「ん、れろ……もう一回……ん……元気に……っ、して、あげるから……」
 舌を絡めて愛撫するうち、少しずつ突起が持ち上がって、また硬さを取り戻してきた。
「あうぅ……ヤンレンさん……っ」
「は、ふぅ……これで、いいよね……えへへ」
 体も心も、ライズ様を求めてる。
 ライズは怯えたような声を出しているけれど、その目は物欲しそうにヤンレンを見つめている。
 本音はどっち?
 考えるまでもなかった。
「ライズ様の全部……私に、ちょうだい……?」
 期待に胸が高鳴って、頬が緩んでしまう。仰向けになったライズの上に覆い被さって、顔を近づけた。
「いいよね……? 答えないなら……もらっちゃうからね……」
「い……」
 ライズは言いかけて、一瞬だけ目を逸らした。
 でも、それからすぐに、ヤンレンの目を見てはっきりと答えた。
「いい、よ……」
「えへへ。聞いたよ。じゃあここから先は、二匹の合意の上、ってやつだよね」
 すでに溢れる欲望を抑えられなくなった自分の秘所を、ライズのものの先端にあてがって、ゆっくりと腰を落とした。
「は、ぁ……つぅ……っ……!」
 ライズの肉棒が入ってきたとき、小さな痛みを感じてつい声を上げてしまった。
「ふぁ……っ……だ、大丈夫……?」
 ライズはされるがままのようでいて、ちゃんと私を気遣ってくれる。さすがに経験が豊富なだけのことはある。
「大、丈夫……だよ……ちょっぴり痛かったけど……ん、あぁっ……ほら、ちゃんと入った、よ……ライズ様……」
 入ってしまえば、小さな痛みもすぐに気にならなくなった。
 ついにライズと一つになれた喜びと、ずっと燻っていた燃えるような熱さに体の感覚が支配される。ちょっと動いただけで、それはキスで得られる快感よりも、ずっと強くて。
「ぁああっ……!」
 目の前が一瞬、真っ白になって、自分で出した声に驚いた。
 気がついたときには、ライズの上に倒れこんで、すがりつくように彼の体を抱きしめていた。
「……あ……ふぅ……なに、これぇ……」
「ヤンレンさん……」
 ライズは前足で私を抱き返してくれている。わがままを押し通したのは私なのに。
「ご、ごめんね……こ、こんな風になるなんて……思ってなくて……」
「初めてなんでしょ? 落ち着いて、ゆっくり……ヤンレンさんのペースでいいから……」
 お互いに状況は同じでも、心の余裕には大きな差がある。今日は昨日とは逆にこっちから襲ってやろうと思ったのに。
「ううん、平気、だよ……昨日の苦しかったのに比べたらね……」
 せいぜい言葉で言い返すくらいが限界だった。
「う……それは……ぁあっ……」
 腰を動かすと、ライズが力の抜けた声を上げる。
「えへへ……気持ちがいいんだ、ライズ様も……」
 慣れてはいても、快楽には逆らえないらしい。ライズは声こそ抑えていたが、熱い吐息を漏らして悶えている。
 でも、そんなライズの姿を見て、こっちはそれくらいじゃ済まなかった。
「ぁは……ふ、ぁ、ああっ……!」
 自分の声が自分のものじゃないみたいで。
 これまで経験したことがない未知の感覚に体を支配されてしまって、抵抗できない。
「ぁ、ぅうっ……ライズ様ぁ……っ!」
「は、ぅ……ぁあっ……!」
 腰の動きに合わせてライズも声を上げていたけれど、その声すらもほとんど聞こえなくなる。
「あ、ああぅう……ああああぁっ!」
 ライズの体がびくんと跳ねて、体ごと下から突き上げられた。あまりに強すぎる快感が頭のてっぺんまで突き抜けて、一瞬、意識が飛んでしまった。
「……ぁ、ふぅ……私……っ……」
「はぁ、はぁ……」
 自分の中でライズのものが脈打って、熱い精液が注がれているのがわかる。
 そんなライズの体温を感じながら、目を閉じた。
 まだ荒い息遣いが近くで聞こえる。
「ライズ様が……私の中で……えへへ……」
 快感の余韻に浸りながら、ライズを抱きしめた。彼の体は温かいを通り越して、熱いくらいだった。
「ヤンレンさん……僕……」
「何も言わないで……もう少しだけ……このまま……」
 ライズ様がこんなつもりじゃなかったってことはわかってる。
 わかってるけど、今はライズと心も体も一つになれたんだって、思っていたいから。

ひとりぼっち 


「彼を知り己を知れば百戦危うからず、という言葉はこの学園に通う君たちなら聞いたことはあるだろう。だが、己を知ることは意外と忘れがちだ」
 週末を挟んで、日常はすぐに帰ってきた。
 ロッコはいつも座っている講義室の真ん中ではなく、窓際の端の席に座っていた。
 得意だった戦略論の座学の授業も、頭に入ってこない。
 これを日常だなんて呼ぶのもおかしな話だ。
「この場合、己とは自分を含む味方のことだ。どうだ? 君たちは自分や友人のことを本当に理解していると言えるか?」
 ライズは変わらず、いつもの席に座っている。違うのは隣にわたしがいないこと。
 ライズは真面目に講義を聞いていて、気にしている様子もない。
 わたしが思っているほど、彼の中でわたしは大きな存在ではなかったのか。どうせ友達の一人。ちょっと体の関係があったくらいで、特別でもなんでもない。どうせ誰にでもすぐ身を許しちゃうんだから。もしかしたらとっくにヤンレンとそういう関係になってるかも。
 ――どうして、わたしはライズのことばかり考えているんだろう。友達もやめてやるって思ったのに。
 自分のこともわからない。
「今日はここまで。次回は小テストを行うから、しっかり復習しておくように!」
 気がつくと一限が終わっていた。
 ロッコは素早く荷物をまとめて、ライズから逃げるように講義室を出た。
 幸い今日はライズと重複している授業はこの一つだけだ。ライズがほとんど飛び級で上の学年の授業を受けていることが今となってはありがたい。
 でも、明日は?
 同じ学校に通う以上、ずっと関わらないで過ごすなんて無理な話だ。
 友達に戻ろうと伝えたっきりだし、ライズの方から話しかけてくるかもしれない。
 もし今ライズに声を掛けられたら、一体どう接したらいいのか。
 やっぱり絶交だ、とはっきり言うべきなのか。
 わからない。
 でも、わたしには相談できる友達もいない。ヤンレンのやつはライズを横取りした張本人だし。
 高等部に上がってから、ライズとばかり過ごしていた。中等部の頃は、ライズと口を聞いてもらえるなんて思っていなくて、ただ見守っているだけだったのに。ライズが対等に接してくれるようになって、舞い上がっていた。
 ――ライズと仲良くなる前は、どうやって過ごしていたんだっけ。
「あの……ロッコ……どうしたの……?」
 廊下に立ち尽くしていたら、通りがかりの学生に話しかけられた。
「べつに、なんでも……」
 顔を上げると、大人しいを通り越して少し怯えたような表情のデンリュウがそこにいた。
「……ミツ?」
 中等部の頃のあの事件からすっかり疎遠になってしまっていたが、かつてはライズのファンクラブの仲間で、クラスメイトとして交流があったミツだった。
「ライズ君と……ケンカでもしたの?」
「どうしてミツがそんなこと聞く?」
 ミツはあのときからファンクラブも抜けて、ロッコ達とは疎遠になっていた。
 まだ中等部の子供だった頃。ライズが本当はキャスを好きだったこと。ヤンレンの要求を飲んでしまったこと。マチルダ先生の一件。いくつもの衝撃が立て続けに襲いかかってきたのだ。そこから逃げ出してしまうのも無理のないことだった。
 そんな彼女が今になってロッコを気にかけてくるとは、意外だった。
「だって、いつも一緒のロッコとライズ君が離れた席で講義受けてるんだもん。みんな不思議がってたよ」
「……よく見てるのね」
 それもこれもライズが目立つからだ。そんなことはわかっていた。注目の的になることを楽しんでさえいた。
「ミツはもう興味ないものだとばかり」
「追っかけるのはやめたけど、見る分にはほら……ライズ君、美少年だし。目の保養になるから」
「たしかに、見た目()()は綺麗」
「……やっぱり、何かあったんだ」
 隠すつもりもないけど、こんな言い方をすれば勘づかれて当然だろう。
「ライズと別れた。ミツには関係ないでしょ」
「別れた……? え? 今まで付き合ってたの!? 嘘でしょ? だってライズ君……」
「それも、いろいろあったから」
「ええっと……」
「もういいでしょ。次の授業が始まる」
 こんなところで誰かに立ち聞きされたら面倒だ。ライズのファン達とも、もう関わり合いになりたくないのに。
「でも、ロッコ……辛そうな顔してるし……」
「……あのときライズから離れたあなたに、今さら何が分かるっていうの!?」
 ミツがしつこく食い下がるので、つい声を荒げてしまった。自分らしくもない。
 相も変わらず大人しい性格のミツは身を竦ませてしまって、何も言い返してこなかった。
 廊下を行く学生たちの足も止まって、ロッコ達に注目が集まった。
 ま、今さら気にしたって仕方がない。ファンクラブの耳に届いたところで、もうわたしには関係ないのだから。
「ロッコ……」
 心配そうな顔のミツを横目に、ロッコは黙ってその場を後にした。
 次の教室に着いてから、後悔した。
 わたしは相談できる友達が欲しかったんじゃないのか。それなのに、こんな言い方してしまうなんて。
 ほんと、わたしって不器用だ。

         ◇

 昼休みにはよく中庭のベンチでライズと二匹、購買部で買ったパンを食べていることが多かった。途中からはヤンレンも一緒だったっけ。
 今日は一匹でカフェテリアに来たが、ライズ達は見当たらない。
 どうせヤンレンと二匹であの場所にいるのだろう。
 周りにはロッコを見てヒソヒソと内緒話を始める学生がちらほらいる。今朝の一件が噂にでもなっているのだろう。
「隣いい?」
「好きにすれば……って、え?」
 そんな中、隣にやってきたのは、これまた意外な人物だった。
「もう学校中で噂になってるわよ。別れたんだ、ライズ君と」
 前風紀委員長。ライズを強引に恋人にして支配していた悪女。ペルシアンのキャミィ先輩だった。
「なんであなたと一緒にお昼なんか」
「あら。まだ仲良くお食事ってわけにはいかないの?」
 冗談じゃない。
 絶対に許さないと誓った相手なのだ。仲良くする理由なんて一ミリも存在しない。
「あなたがここに座るなら席を変える」
「嫌われたものね」
 しかし、席を立ったロッコの前に、キャミィは素早い身のこなしで回り込んだ。
「貴女には貸しがあったわよね?」
「……」
 ああ。
 一度だけ。ファンクラブの上級生に絡まれていたところを助けられたことがあったっけ。
 あれ以来、露骨な嫌がらせをされなくなったのは、彼女の影響によるところが大きい。
「わかった。今回だけは話を聞いてもいい」
「ふふ。真面目なのね」
 借りは返さなきゃいけない、という気持ちはたしかにあった。
 でも、それだけじゃない。
 彼女に対して怒りの感情を抱いていることに、後ろめたさを感じている自分がいる。
 許してやってもいいんじゃないか、と考えてしまいそうになる。どうしてだろうか。
「で、ライズ君のことまだ好きなんでしょ?」
「何言ってる? 誰があんなやつ」
「……じゃあ、どうして私を許せないのかしら?」
「どういう意味」
「貴女が怒っているのは、貴女の大好きなライズ君を私が無理矢理恋人にしたからでしょ?」
 言われて初めて気がついた。自分の抱いていた後ろめたさの正体に。
 ライズはわたしが守ると誓ったのに。ライズを傷つける奴は許さないって、思っていたのに。
 ライズのためじゃなく、自分のために怒って。暴力まで振るってしまって。
 彼女といったい何が違うというのか。
「……わたしにはもう、あなたに怒る資格がない」
「ふふふっ。面白いことを言うのね。資格も何も、怒る()()がないはずなのよ。貴女にはね」
 ――そうだ。許すも何も、好きでもなんでもないライズがこいつに何をされようが、わたしの知ったことではないのだ。
 でも、キャミィの物言いに腹は立つ。わたしがこんなにも自分を省みているというのに、どうして全く反省もしないで平気な顔をしていられるのだろう。
「貴女がライズ君をいらないって言うなら、私がいただくわよ」
「勝手にすればいい。ライズに嫌われてるあなたが、どうやってあいつを振り向かせるのか知らないけど」
 もうどうにでもなれ。
 ライズなんか、またこの女に騙されてしまえばいいんだ。
「私、これでも貴女のことは評価してたのよ。ライズ君を想う気持ちも、彼からの信頼の厚さも……私じゃ勝てそうにないってね」
 ただの自信過剰な女だと思っていたが、伊達に優等生をしているわけではないらしい。ライズとわたしの関係を意外とよく観察しているな、と思った。
「でもまさか、敵じゃないと思っていたヤンレンさんに取られちゃうなんてね。ライズ君ってけっこう移り気なのかしら」
「取られたわけじゃない。私がライズに愛想尽かしただけ。それに――」
 ヤンレンは悪い子じゃない。ちょっと変なところはあるけど、キャミィと比べたらまだヤンレンの方がライズのことを考えていると思う。
 言えるか、そんなこと。
 ライズを横取りしたあいつを、何故わたしが評価しなくてはいけないのか。
「――いや、やっぱりいい。わたしはもうあんなやつのことは知らない。好きにして」
「十分よ。私は貴女が下りることを確認したかっただけだから」
 本当に、ただそれだけだったらしい。
 用件が済むと、キャミィは早々に席を立った。
「私は諦めが悪いのよ。貴女とは違ってね」
 自信満々の笑みでそんなことを言い残して、彼女は去っていった。

 諦めた、なんて。
 今の会話でどこをどう聞いたら、そんな解釈になるのだろう。
 諦めるも何も、嫌いになったんだ。
 わたしが、ライズを?
 それとも――

不思議な気持ち 


 昼休み、ヤンレンはライズと一緒に中庭にいた。先週までは、ロッコと三匹で過ごしていたいつものベンチだ。
 今日もほとんど人気がなく、静かだった。
「やっぱりここには来ないかぁ。ロッコのやつ、ちょっと意地張りすぎじゃない?」
 ロッコへの不満を口にしたが、ライズの答えは返ってこなかった。
「はあぁ……僕ってどうしてこんな……」
 ヤンレンの言葉も耳に入らないほど、ひどく落ち込んでいるようだ。耳やリボンが垂れ下がっていて、見るからに元気がない。
「よしよし」
 とにもかくにも慰めてあげようと、ライズを抱きしめて、頭を撫でてあげた。ふわふわで、いい匂いがする。何度抱いても飽きない、心が癒やされる感触だ。
 それに加えて少し前から、胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚も加わった。
 これがまた、苦しいはずなのに、妙にクセになる心地良さがあるのだ。
「あ、あの、ヤンレンさん……」
 頭を撫でていたら、ライズが遠慮がちに声をかけてきた。
「なーに?」
「……昨日のこと、どう思ってるの?」
「んー?」
 昨日のこと。
 ライズに添い寝してもらって、そのまま――
「――あっ。約束、破っちゃってゴメンね……」
 襲ったりしないって約束してたのに。
 ライズは怒っているようには見えないけど、さすがに謝っておこう。
「や、それは……僕もいいよって言っちゃったし。はぁ……」
 ライズはため息を繰り返している。
「ゴーイの上、ってことだよねっ! なになに? ライズ様、後悔してるの?」
「そりゃ、だって……ロッコと別れたばっかりなのにさ。僕、節操なさすぎじゃない?」
「襲っちゃったの、私だしなあ」
 添い寝だけのつもりだった。
 けれど、いざライズと一緒にベッドに入ったら、抑えることができなかった。
 自分の中にこんなに熱い気持ちがあったなんて、知らなかった。
 ライズも拒否できたかもしれないけど、さすがにヤンレンの立場からライズを糾弾することはできない。
 それどころか、もし本当はライズに全くその気がなかったのだとしたら。
「やっぱり私とは嫌だった?」
「そ、そんなことは」
 ライズは言いかけて、言葉に詰まった。
 本当は嫌だったのかな。そうだとしたら、悪いことしちゃったのかな。
「――ないよ、全然! 嫌とかそういうのじゃなくて!」
 ヤンレンの心の内を察してか、ライズはすぐに否定した。
「ほんと? ならオッケーだね!」
「オッケーじゃなくてさ……嫌なのはヤンレンさんじゃなくて、自分自身だよ」
「へ? どゆこと?」
「ヤンレンさんは嫌じゃないの? 僕が昨日の今日でべつの女の子と寝ちゃったら……」
「べつに私はいいよ? その代わり、次の日は絶対、私がライズ様と寝るからね!」
「や、そのりくつはおかしい」
 ライズが珍しく真顔になった。
 ちょっと可愛い。
「どうして? 独り占めするほうがおかしくない? ライズ様は誰のものでもないのにさ。ファンクラブだってホントは抜け駆け禁止だし……」
 誰のものでもないから、自分一匹が独り占めしようとは思わないし、ライズを縛りたくない。
「それにさぁ。友達とはしちゃだめなの?」
「えと……うん、まあ。僕もだめとは思ってない……かな」
 ライズが一瞬迷う素振りを見せたのは、ヤンレンの言葉を否定したかったからか。
 否定できない心当たりが、ライズにはあったのだ。
「友達同士でもいいよねって……最初は、僕がロッコさんを誘ったんだ」
「……そうだったんだ」 
 何故だろう。ライズの方からロッコを誘ったと改めて聞かされると、ちょっとむかっとする。
 ライズに同意を得られて、嬉しいはずなのに。
「ほら、やっぱり。ヤンレンさんだって、ちょっと僕のこと、嫌になったでしょ」
「えっ? 違うよ?」
 指摘されて、どきりとした。どうやら顔に出ていたらしい。
 でも、本当に違う。ライズのことが嫌なわけじゃない。
 ただちょっと、ロッコが羨ましいだけ。
 ずっと前から、ライズが自分よりもロッコに気を許していたことが。
「……でもさ。ライズ様の言ってること、少しわかったかも」
 この粘っこい泥みたいな、胸のわだかまりと苛立ち。けれどそれがライズに向けられることは絶対にない。
 今、私はそう言い切る自信がある。
 けれど、思い返せば――
 ――ロッコもはじめはそうだったんじゃ?
「ライズ様が何したって、私は絶対にライズ様の味方だって思えるんだ。でも……この気持ちって、ずっとは続かないのかな。私も、いつかロッコみたいになっちゃうのかな?」
 中等部の頃からずっと、憧れていた。好きだった。
 身近になるにつれて、それがただの"好き"じゃない、不思議な気持ちに変わっていた。
 変化の先がどうなるかなんて、誰にもわからない。
 ライズへの気持ちがこの先ずっと変わらないなんて保証はないのではないか。
「それは、僕にはわからないけど……ロッコさんも前は同じこと言ってたよ。絶対に僕の味方だって」
 どこか投げやりな笑顔で、ライズはヤンレンの予想通りの答えを口にした。
 寂しそうに遠くを見つめながら。
 そんなライズを見ていたら、こっちまで泣きそうになってしまう。 
「私はやだよ! ライズ様を嫌いになんてなりたくない!」
 気がつけば感情が溢れ出して、叫んでいた。
 通りかかった学生のポケモン達が振り返るくらい、大きな声で。
「ちょっ、ヤンレンさん……?」
 ライズは驚きを隠せない表情で、気まずそうに周囲を見回した。
 幸い、ほとんどの学生はちょっと大きな声に立ち止まっただけで、何事もなかったかのように歩き出している。
「私、約束する。私がこの先どうなっても、今のこの気持ちを絶対に思い出すって」
 無意識のうちに、ライズの前足をぎゅっと握っていた。
「お、落ち着いてよ。そんなプロポーズみたいなの……受け取れないよ、僕には」
 しかし、リボンの触角でそっと押し戻されてしまう。
「僕を好きでいてくれるのは嬉しいけど、僕には婚約者もいるし、きみに恋することもできない。それにヤンレンさんだっていつか目が覚めて、僕なんかよりずっと魅力的なひとに出会うかもしれない。今そんな約束しちゃったら、ヤンレンさんが幸せになれないよ」
 ライズの顔つきは真剣そのものだ。
 まさかそんなに重く受け止められるとは思わず、少し困惑した。
 ライズは真面目すぎるというか、物事を重く捉えすぎるところがある。
 私は天然だとか、何も考えてないとか言われるけど、ライズは逆に考えすぎなのだ。
「私、ライズ様と結婚しようとは思ってないよ? 私がいつか別の誰かを好きになったとしても……ずっとライズ様の味方でいたっていいじゃん。ライズ様が困ったときにいつでも助けられるように、ジルベールに住んで……ライズ様の近くでお仕事ができたら、カンペキだよね。そんな感じ!」
 ライズはぽかんと口を開けていた。
 ヤンレンの言葉がよほど意外だったのか。
 そうして、しばらく考え込むそぶりをしたかと思えば――突然吹き出した。
「ふふっ……ヤンレンさんってやっぱり、変だよ」
「今さらそんなこと言っちゃう? ライズ様だって知ってたでしょ?」
 変わっている、と言われることには慣れている。けれど、ライズに言われると少し嬉しくなる。
 ライズもちょっと変わってるから、仲間だって認めてくれたみたいな気がして。
「でも、ヤンレンさんにいい出会いがあったら、僕のことは忘れてもいいからね」
 ライズはまた、空を見上げている。
 やっぱりわかりやすい。私がずっとライズばかり見ているせいかもしれないけど。
「ライズ様ってば、どーしてすぐ寂しいこと言っちゃうの? そんなこと、ホントは望んでないくせに」
「ヤンレンさんは僕を縛りたくないって言ってたじゃない。だからきみも僕に縛られてほしくないんだ」
「その心配なら、逆だよ、逆。こんなに色々あったのに、忘れられるわけないじゃん。それとも、ライズ様は私のことを忘れたいの?」
 敢えて答えのわかっている質問を投げかけた。
 少し意地悪な聞き方だけど、こうでもしないとライズは納得しないから。
「ち、ちがっ、そういう意味じゃ……」
 ライズはあからさまに狼狽えている。
 リボンがあっちこっちにバタバタして、絡まってしまいそうだ。
 落ち着かせようと、ヤンレンはライズの頭に、ぽん、と前足を乗せた。
「わかってるよ、ライズ様はそんな子じゃないって」
 ライズは目を丸くしてヤンレンを見つめ返した。 
「大丈夫だよ。将来離れ離れになっても、ライズ様が困ってたら私はどこからでも駆けつけるから!」
 しばらくの沈黙のあと、ライズはふっと力が抜けたように微笑んで、口を開く。
「……うん。僕も、それは同じ。もちろん、ロッコさんもね」
 そう答えたのは、いつものライズだった。
 ライズがこうして笑っているのが、一番嬉しい。
 ロッコも今は拗ねているけど、きっと戻ってくるだろう。
 自分の気持ちに嘘はつけない。ライズの友達として、ファンとして、ずっと一緒にいたからわかる。
 この気持ちが突然消えたりするはずないって。
 そうだ。あの頃から、ちゃんと繋がってる。
 ただの好きで終わったりなんてしない。
 ふわふわとした雲みたいで、形の定まっていない、不思議な気持ちだけれど。
 どこかへ飛んでいってしまわないように、自分の中にずっと抱えていよう。

 ライズへの気持ちも、この先の関係も、なんとなく答えが出た。
 ロッコのことは時間が解決してくれる。
 これで何もかもうまくいく。
 昼休みを終え、二匹はそんな安心感を胸にそれぞれの授業へと向かうのだった。

雌猫の本性 


 しかしながら、何事もないまま事が運ぶはずもなく。
 次の日の放課後、あまり顔を合わせたくなかったペルシアンの上級生がヤンレンをお茶に誘った。
 今まで交流がなかったわけではないものの、彼女と二匹でカフェテリアの隅の席で向き合っているのは変な心地がする。
「珍しいですね。キャミィ先輩が私を誘うなんて」
 ライズに事の顛末を聞いてから彼女と話すのはこれが初めてだ。
「ふふ。気まぐれにも理由があるのよ。胸に手を当てて考えれば、貴女には心当たりがあるでしょ?」
 やはり、ただファンクラブの仲間として親睦を深めようというわけではないらしい。
 きっとライズのことだ。
 ロッコとの間に一悶着あったあと、ヤンレンがずっとライズと一緒にいるからだろう。
「ライズ様のことですか?」
 今さらキャミィに隠すのも面倒なので、正直に聞いてみた。
「あら。素直でいい子ね。ロッコさんがライズ君に愛想つかしちゃったんだって? それで貴女が次の恋人ってわけ?」
 それならば話が早いと、キャミィの方もいきなり核心をついてきた。
 ヤンレンはあまり他人の心を推し量るのは得意ではないから、彼女が何を考えているのかはさっぱりわからない。
 ずっと見ているライズのことだけはわかったりするのだけど。
「私とライズは友達です。私はライズ様の恋人にはなれないし、先輩みたいにムリヤリ恋人になったりもしません」
 ヤンレンの返答を耳にして、キャミィはすぅっと目を細めた。
 少し言い方に棘があったかもしれない。でも、あんなことを聞いてしまったら不審を抱くのは当たり前だ。
「あら。それじゃライズ君から私のこと、聞いてるのね。そうよ。ライズ君は私の元カレ」
 ムリヤリ、の部分には触れず、あくまで淡々と、キャミィは話を続ける。
 わざと聞かなかったふりをしているようにも見える。
()カノの先輩が、何か用ですか? 今はもう関係ないですよね?」
「そうねぇ……少し、忠告してあげようと思って」
「忠告?」
 いったい何の目的で近づいてきたのか。
 ファンクラブでは仲良くしていた先輩だけれど、ライズに真相を聞いた今となっては、随分印象が違って見える。
 彼女は警戒すべき相手だ。特にライズ絡みのことでは。
「貴女とライズ君、どこまでいってるの? 私の目には、ただの友達には見えないけど」
「どこまでも何も……友達ですから」
 さすがに何度も添い寝してるとか、一回襲っちゃったとか、そんなことは言えなかった。
 というより、このひと相手には、答えたくなかった。
「そうなの? それじゃ……」
 キャミィは意外そうに首を傾げたが、フフッ、とどこか含みのある笑い方をした。
「……ライズ君とそういう関係になる前に、教えておいてあげる」
 そうして、ヤンレンの耳に顔を近づけてくる。
「ライズ君って、性感帯がすっごく弱くて……その上、お漏らしグセがあるのよ」
 耳元で、赤裸々な告白。
 背筋にザワザワと悪寒が走った。
「最初なんて、キスしただけで漏らしちゃったんだから」
 明らかに相手を貶めるような、黒く陰った声色だった。
「……そんなこと、言っていいんですか」
 別れた相手の恥ずかしいところを暴露するなんて。それもライズと仲の良い私に。
「知らないと貴女がびっくりしちゃうでしょ? フェラをしてあげたときも、思いっきり顔におしっこかけられちゃったし……私の()でもお漏らししちゃうし……いつもベッドが濡れちゃうから、大変だったわ」
 ライズはこれを言いふらすと脅されて、キャミィとの交際を承諾した。
 一時とはいえ、ライズは彼女の望みを受け入れていたのに、バラしちゃうなんて。
「私が治してあげたかったんだけど、最後まで治らなくて……ロッコさんに聞いた話では、今でもそうらしいわよ」
 ロッコの名前まで出されて、さすがにカチンときた。
 ロッコがそんなこと言うわけない。
「どうして、私に……そんな話……」
 心の内から湧き上がる感情をいよいよ抑えられなくなり、声が震えた。
「忠告、って言ったじゃない。ライズ君と付き合うつもりなら、知っておいたほうがいいんじゃない?」
 先輩は、こんな話で私がライズ様に幻滅するとでも思ったのだろうか。
 だとしたら、私をライズ様から遠ざけるため……?
 ひとの弱みを握ってこんな使い方するなんて卑怯だ。
 しかし、彼女が考えているよりもずっと多くのことをヤンレンは知っている。
 今はもう、ライズを見上げて憧れているだけの無垢な少女ではないのだ。
「……そんなこと、とっくに知ってるし……」
「え……?」
 キャミィは一瞬、顔を歪めた。すぐに笑顔に戻ったが、目論見が外れて悔しがるその表情を、ヤンレンは見逃さなかった。
「ライズ様とキスくらいしたことあるもん。そのときにライズ様、漏らしちゃったの。だから知ってたよ」
 ふつふつと怒りが込み上げてきて、敬語を使うことなんて忘れていた。
「友達ってのは、やっぱり嘘だったのね」
 キスも添い寝もそれ以上のこともしちゃったけど、お互いに友達でいるつもりだ。
 だから嘘はついていないが、彼女に説明してもわかってもらえそうにはない。
「まあ、そのことはいいわ……それより貴女、嫌じゃなかったの?」
「ぜーんぜん。だって私の大好きなライズ様だもん。それくらい許せちゃうよ」
「一度なら許せるかもしれないけど、私のときは、何度もよ? それでも許せるっていうの? 悪いことは言わないから、やめておきなさい。友達でいる分にはいい子だけど、そういう間柄になるのはおすすめしないわ」
 忠告だの何だのと建前を並べておきながら、やっぱり、ライズと別れさせることが目的だったんだ。
 キャミィが本音を隠さないつもりなら、こっちだって洗いざらい話してやる。
 ライズが不利になるようなことさえ言わなければ、自分はどう思われたって構わない。
「べつに私、一回だけなんて言ってないよ? もう三回か……四回くらいは、あったかな。飲んじゃったこともあったし」
「はぁ!? ちょっと何言ってるのかわからないわよ! 要するに貴女が変態だってこと? なにそれ? 私はあんなに我慢してたのに……」
「先輩は嫌だったんだ? ちょっとライズ様愛が足りないんじゃないかなあ。ライズ様の体の中のお水だよ? ライズ様の一部みたいなもんじゃん」
 彼女の反応を見て、不思議と笑いが込み上げてきた。
 なーんだ。やっぱりこのひと、ライズ様のこと本気で好きじゃないんだ。
 それなら、私が負けるわけないよね。
 キャミィはもはや建前も作り笑顔も忘れて、驚きと怒りに顔を赤くしていた。
「愛? 知らないわね、そんなもの。貴女それ本気で言ってる?」
 いよいよ本性をむき出しにして、キャミィはヤンレンを馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「どうせ貴女も、フェロモンの香りに惑わされてるだけよ」
「惑わされちゃいけないの? 私は自分の体が求めるものに、正直でいたいよ」
「あんなの、縄張りを持ってた原始時代の名残じゃない。私たちには理性があるの。普通は嫌でしょう」
「普通かどうかってそんなに大事? 私はヘーキなの。それでいいじゃん。誰かに文句言われる筋合いなんてないよ」
 チッ――と、大きな舌打ちをするのが、はっきりと聞こえた。
「……話にならないわ」
 キャミィは席から立ち上がって、ヤンレンを睨みつける。
 完全に怒らせてしまった。
 しかし、不思議と怖くはなかった。
「貴女なんて、最初からいてもいなくても同じなのよ。まともに話をしようなんて考えた私が馬鹿だったわ」
 怯みさえしないヤンレンにまた舌打ちをして、キャミィは足早にカフェテリアを出てしまう。
 捨て台詞を残して去っていく彼女の後ろ姿を眺めながら、少し可哀想なひとだと思った。
 何かが違っていれば、同じライズのファンとして仲良くできたかもしれないのに。

 ライズには何も言わないでおこう。
 どうせキャミィの作戦は失敗に終わったのだ。
 ライズに話したって、彼女のことを無駄に思い出させるだけで、いいことなんて一つもない。

 ロッコじゃなくて私なら、なんとかなると思っていたのかな。
 ざんねんでした。私一匹だって、ちゃんとライズ様を守れるもんね。

 そんな誇らしさを抱いて、ヤンレンは小さくガッツポーズをするのだった。

実は見てました 


 ヤンレンをライズから引き剥がすことに失敗したキャミィは、いよいよ焦っていた。
 この半年間、じっくりと機会を伺っていた。
 ライズがロッコと仲違いして、今近くにいるのは何も考えていなさそうな能天気ヒヤッキーだけ。ついにチャンスが来た。そう思っていたのに。
 その日の夜、寮の食堂でキャミィは一匹思案していた。
 夕食の時間もとうに終わり、ほとんどの生徒は部屋に戻ってしまって、がらんとしている。
 ちらほらと談笑している学生はいるものの、キャミィに目をくれる者はいない。
「あいつ、思ったより手強いわね……」
 キャミィとライズのどちらが早いにしても、学園を卒業したらきっと会う機会もなくなってしまう。
 最後までロッコが離れなかったら、それでも諦めがついていたかもしれない。男の子なんて星の数ほどいるんだから、また私に相応しい綺麗な子を探せばいい。でも、可能性があるなら話は別だ。
 友人たちも、噂を耳にしたファンクラブのメンバーでさえも、あのキャミィならライズと横に並んでもおかしくない、と評していた。
 現にロッコがライズと付き合っているときは嫌がらせをする者もいたのに、キャミィのときは一切そんなことはなかった。
 ともあれ、与し易しと考えていたヤンレンに負けるのは納得がいかない。子供みたいで、深いことなど考えずにライズに憧れているだけのヤツだ。秘密を暴露すればすぐに目が覚めるはず。
 ヤンレンの反応は全く違っていた。動じないどころか、もう知ってただなんて。
 ロッコは良くも悪くも、恋ゆえの盲目に陥っていただけ。腕っぷしが強いのも厄介だったが、源である恋心が冷めればあの通りだ。
 対するヤンレンは、もはやライズの信奉者に近い。ライズへの想いは恋心を超越しているし、何より自分でそれを理解している。
 こうなったら――
 ――とそのとき、席に近づいてくる者の姿があった。
「キャミィ先輩……ですよね!」
 小さくて丸っこい体に、赤い大きな耳。プラスルの少女が、話しかけてきた。
「……そうだけど。貴女は……新しい風紀委員の子ね。確か……ユリ、といったかしら」
 キャミィは今は委員会には関わっていないが、彼女が弟のマイナンとともに演説していたのはよく覚えている。
「はいっ。前風紀委員長さんにご挨拶できて、光栄ですっ」
 ユリはぴょんと跳ねて、キャミィの隣席についた。
 演説の印象通り、やけに人懐っこい子だ。
 しかし今は、彼女に付き合っている暇などない。
「今は誰かと話したい気分ではないの。一匹で暇してるように見えたのなら悪いわね」
 適当にあしらっておこうと考えたが、ユリは離れようとしない。
 それどころかキャミィの顔を見上げて、ニヤリと笑った。
「ずばり、ライズお兄さまのことでお悩みなのですねっ?」
 無警戒だったところにいきなり心を見透かされて、ビクリとした。
 人懐っこいというのは、間違いだった。この笑い方、まさに小悪魔のそれだ。
「ふん……一年生の貴女が何を知っているというの?」
 相手に媚びて要求を通すなんてやり口は、弱者のすることだ。
 思い通りにならないものは力ずくで従わせてしまえばいい。
 それが信条のキャミィは、彼女のようなタイプをはっきり言って見下している。
「実は、見ちゃったんです。今日、キャミィ先輩がヤンレン先輩とケンカしてるところを」
 あのとき、二匹に注目していたポケモンは周りにいなかったはずだ。
 喧嘩といっても大きな声を出していたわけではない。
 ということは、どこからかこっそりと覗いていたのか。
 いかにも小悪魔らしい、小心者のやり口だ。
「ああそう。そうだとしても、貴女には何の関係もないわ」
「あたしもライズお兄さまとお近づきになりたいんです!」
 ――そうきたか。小悪魔な上に、強引なヤツだ。
 皆が欲しがるライズという少年。
 そういう存在こそ、私の隣には相応しい。貴女なんかに手の届く相手ではないのよ。
「なぁに? 私の邪魔をするというの? だったら容赦はしないわよ」
「ち、違いますよぉ。あたしはキャミィ先輩に協力したいっていうか……邪魔なのはヤンレン先輩ですよね? だったら、あたしも協力させてほしいです!」
「……協力? バカバカしいわね。貴女に何ができるというのよ」
「私、こう見えても一年生では一番強いんですよ? 二番目が弟のユズ。二匹で力を合わせれば、誰にだって負けませんから!」
 そういえば彼女たちは、武闘派ギャロップとして有名なマルス君の推薦だったっけ。
 たしかに、コジョンドのロッコには真正面から挑んでも力で勝てないという問題はあった。
 が、ヤンレン相手ならそこはどうにでもなる。かくなる上は力ずくでライズを奪ってやろうとも考えたが、露骨な殴り合いにでもなれば学園中で問題になる。おまけに、生徒会の副委員長というそれなりの権限を持つ相手になってしまったのも厄介だ。
 少なくとも今キャミィが求めているのは、単純な力ではない。
「残念ね。戦力なら事足りているわ」
「ノンノンノン。数は多いに越したことはないのです。一匹ではできないこともありますよ?」
 ユリは生意気にも指を振って、キャミィの言葉を否定した。
「しばらく観察して、ライズお兄さまの弱点もわかりましたし」
「偉そうに言うからには、具体的な作戦はあるんでしょうね」
「もちろんですっ」
 彼女と馬が合わないことは明白だったが、かといって一匹で悩んでいても進展しそうにない。
 とりあえず、話だけは聞いてやることにした。

         ◇

「……まあ、単純だけど、ライズ君を従わせるにはそれが一番効果がありそうね」
 ライズの弱みを握っていることが武器になると思っていたが、ヤンレンにはまったく通用しなかった。
 だが、ユリの作戦ならば間違いなくライズは言うことを聞くだろう。
 ヤンレンとライズの二匹を抑えなくてはならない以上、協力なしには不可能な作戦だ。
「でも、貴女に何の得があるの? 見返りがなければそんなリスクを犯す理由はないわよね?」
「もちろん、キャミィ先輩がライズお兄さまを独り占めするっていうなら、このお話はナシです」
「……私はそういう主義じゃないの。恋人にするということは、私一匹(ひとり)のものにするということよ」
「でも、このままではライズお兄さまに振り向いてもらえそうにありませんよ?」
「……残念だけど、交渉決裂ね。私を舐めてもらっては困るわ」
 やはり、おこぼれにあずかるつもりでいたのだ。
 小悪魔らしい、ケチな考え方。
 その程度でいいなら、恩を売ってまでチャンスを待ったりしない。
 キャミィは席を立って、部屋に戻ろうとした。
「待ってください」
 が、ユリに呼び止められる。
「わかりました。先にライズお兄さまに目をつけていたのはキャミィ先輩です。だから、ライズお兄さまはキャミィ先輩のものにしてもいいです」
「何が言いたいの?」
「……キャミィ先輩がライズお兄さまを手に入れるところまでは、協力します。ですがその先は、敵同士です!」
 これはこれは。
「……フフフフッ。面白いことを言うわね」
 その言葉が、キャミィに真正面から喧嘩を売っていることに気づいているのか、いないのか。
「ヤンレンさんからは無理でも、私からならライズ君を奪えるっていうのね? いい度胸してるわ、貴女」 
「先輩が簡単に乗ってくれないことくらい、予想してました。もちろん、先輩の攻略もちゃんと考えてありますよ?」
 キャミィが睨みつけても、ユリは物怖じ一つせずに不敵な笑いを浮かべた。
 なかなかに勇敢というか、無謀というか。とんでもない怖いもの知らずだこと。
「いいでしょう。やれるものならやってみなさい」
 どうせ、共通の敵を倒すまでの話だ。
 誰かと組むのは性には合わないが、利用できるヤツは利用してやればいい。

暗転直下 


 キャミィがあんな形で接触してくるなんて、思いもよらなかった。
 その日の夜、ヤンレンはなんとなく不安になって、ライズを部屋に呼んだ。
「結局、昨日一日だけじゃない」
 ヤンレンの部屋へ入ってくるなり、ライズは苦笑いをする。
「なははー。昨日はガマンしたんだけどねー」
 約束を破ってしまった手前、しばらくは我慢するつもりだった。
 しかし、どことなく不穏なものを感じずにはいられなかったのだ。
 さすがのキャミィでもまさかヤケになって夜這いなんてしないとは思うけれど、ライズを一匹(ひとり)にするのは心配だった。
「……まあ、いいけど」
 ライズはぼそりとつぶやいて、ヤンレンに身を寄せる。
 ふわりと花の香が漂い、一瞬、頭の奥がしびれるような感覚に見舞われた。
 もう慣れてしまったはずなのに、彼の放つニンフィアの匂いにはいつも惑わされてしまう。
 しかし、今日はそれだけでは済まなかった。
「僕も誰かと一緒にいたい気分だったんだ」
 普段よりずっと低い声で、ライズが囁いた。
「う゛っ」
 心臓をぎゅっと掴まれたみたいだった。
 いつもはいかにも優しい男の子って感じの、高めの声なのに。
 急に男らしい声でそんなこと言うの、反則だよ。
「えっ、ちょっと……どうしたの?」
 胸を押さえてふらついたヤンレンを心配して、ライズが前足を伸ばしてくる。
「不意打ちはダメだよ……」
「は?」
 どうにか転倒することなく踏みとどまり、ライズに歩み寄る。
 ポカンとしているところを見ると、完全に無自覚らしい。そういうところが彼の魅力でもあるのだけれど、このままでは自分を抑えられなくなりそうで危ない。
 ヤンレンとて、約束を破って襲ってしまったことは反省しているのだ。
「ライズ様も同じ気持ちでいてくれて、嬉しかったんだ」
 ただそれだけ。自分に言い聞かせるため、本当のことは言わなかった。
「そんなことでふらついたりする……?」
「もう、それはいいの! 早く一緒に寝よ?」
 戸惑いを隠せない様子のライズを抱きかかえて、ベッドに転がり込む。
「わわっ、ちょっと……!」
「大丈夫だよっ。今日は絶対に襲ったりしないから!」
 うん。今日は大丈夫だ。
 相変わらず胸はドキドキしているけど、一昨日みたいな体の疼きはあまり感じない。これ以上ライズに誘惑されなければ。
「緊張でガチガチだったり、強引だったり……ヤンレンさんってほんと、わからないよね」
「ゴメン……私、マイペースすぎ?」
「気を遣われるよりはいいよ。僕、ヤンレンさんの優しさに甘えてる立場だし」
 ベッドの中で、ライズがヤンレンの体にリボンを巻きつけてくる。そうすると次第に心が落ち着いてきて、胸のドキドキも収まった。
 ニンフィアの能力で、気持ちを和らげてくれたみたいだ。
「これでよく眠れそう?」
「うん。ありがと、ライズ様」
 一昨日みたいな衝動もなく、ライズが隣にいる幸福感を味わいながら、意識が遠のいていく。

「もう寝ちゃったの? ……ふふ。寝顔は可愛いんだけどなあ」

 眠りに落ちる中で、ライズの声が聞こえた。
 やっぱり大人しい子の方がライズ様の好みなのかな?
 私って言いたいこと言っちゃうし、すぐ体も動いちゃうし。キャスも昔は大人しかったもんね。
 それでもこんな私と仲良くしてくれるんだから、ライズ様ってやっぱり優しいよね。
 不安だったことも忘れそうになるくらい、すごく気持ちがいい。
 ああ、今夜もいい夢が見られそう――。

         ◇

 やけに体が重い。ああ、これは風邪でも引いちゃったかな、とライズは思った。
 しかし、意識が覚醒してくると、倦怠感も熱っぽさも感じない。
 体が重く感じるのは、ずいぶん長い間寝ていたせいか。喉もカラカラだ。

 ひどい悪夢でも見ていたような気がする。内容は何も覚えていないけれど。
 一限目はもう始まっているだろう。寝坊して遅刻するなんて、自分らしくもない。
 そんな不安と焦りが心に渦巻いたが、授業の心配なんてものは、すぐに頭から吹き飛ぶことになった。

「あら、やっとお目覚め? ちょっと加減を間違えちゃったかしら」
 この声。あまり思い出したくもない。
 なんでまた、彼女の夢なんか――
「ん……」
 重い瞼を押し上げると、そこには。
 額に赤い宝玉。鋭い目。クリーム色の毛並み。
「おはよう、ライズ君」
 悪夢の続きか。そうとしか思えなかった。
 でも、目の前の光景が現実だということを、すぐにはっきりと認識した。
「わぁあああああああぁぁぁぁっっ!!?」
 自分でも驚くくらいの絶叫だった。
 ライズは悲鳴を上げて、ベッドから転げ落ちていた。
 なんで? どうして彼女がここに?
 しかも一緒のベッドで寝ているだなんて。
「お化けでも見たような反応しないでくれる? 私と君とは何度も一つのベッドで眠った仲でしょ」
 ベッドの上からこちらを覗き込むキャミィは、偽物でも幻でもなさそうだ。
 自分の絶叫で完全に目が覚めて、頭がはっきりしてきた。
 昨日はヤンレンに呼ばれて、一緒に寝ることになって。二匹でそのまま眠りに落ちたはずだ。
 ベッドの中で見た彼女の寝顔ははっきりと覚えている。
 だから、こんなことはあり得ない。朝起きたら突然ヤンレンがキャミィにすり替わっているなんて。
「メタモンかゾロアークか……知り合いにいたっけ? ヤンレンさんの友達? ぼ、僕を驚かせようとして……ヤンレンさんの悪戯だよね?」
 悪戯にしてはあまりにもタチが悪い。さすがにヤンレンがこんなことするわけない、と思いながらも、頭が目の前の現実を受け止めきれない。
 しかし、窓の鍵が黒焦げになって、壊されていることに気がついた。
 部屋に潜んでいたのではなく、わざわざ外から侵入してきたということだ。
「うふふっ……ライズ君、まだ寝ぼけてるの?」
 キャミィがベッドから降りて、前足でライズの体を起こした。毛ざわりも本物だ。体が触れ合っても変身は解けないし、何より記憶に刻まれた彼女の匂いが、本物だった。
「嘘……どうして……!?」
「久しぶりに見た君の寝顔、可愛かったわよ。やっぱり君は私の物になってもらわなくちゃね」
「なっ、何勝手なこと……! そっ、それよりヤンレンさんは!? 僕と一緒に寝てたでしょ!」
 キャミィはやけに楽しそうに、ニヤリと口元を歪めた。
「ああ……もともと彼女が標的だったのよ。部屋に来てみたら、驚いたわ。ライズ君が一緒に寝てるんだもの。誠実そうに見えて、君って意外と好色なのね」
「そんなのどうでもいいよっ! 今、ヤンレンさんが標的って、言いましたよね? ヤンレンさんに何をしたんですか? 一体どこに……!」
 サッと血の気が引くのを感じた。
 突然こんなことになるなんて、まだ信じられない気持ちはある。けれど、この状況はキャスがイジメに遭っていたときと同じだ。
 今回は相手が悪い。あれくらいじゃ済まないかもしれない。
「あら。君をそこまで必死にさせるなんて、妬けるわね」
「いい加減にその軽口をやめないと、本気で怒りますよ」
 怒りに呼応して、体からフェアリーの波導が湧き上がってくる。
 今すぐムーンフォースをぶち込んでやりたい衝動に駆られたが、どうにか理性を保って押し留めた。
「君の大切な恋人なら、仲間が連れて行ったわ。私の催眠術で眠らせてね」
 キャミィは物怖じすることもなく、淡々と言ってのけた。
 悔しいが、彼女にはそれだけ余裕があった。ライズが抵抗したところで、力で勝つことはできないのだ。
「そんなに怒らなくても、これから連れて行ってあげるわよ。君の大切な恋人のところへね」
 ライズがまったく気づかずに眠っていたのも、催眠術のせいか。
 時計はすでに十時を回っていた。夜中に連れ去られたのだとしたら、もう随分と時間が経っている。
「……何が目的なんですか」
「私は君が欲しいの。それだけよ」
 一貫してライズへの執着をやめないキャミィを、精一杯の嫌悪を込めて睨みつけた。
「誰があなたなんかに。……二度と屈するものか」
 また彼女に支配されるくらいなら、死んだ方がマシだ。
 今ならそれくらいの覚悟はある。
「ふふっ。いつまでそんな顔していられるかしらね」
 キャミィの自信たっぷりの笑みに、内心では震えているのもまた事実だった。
 一度刷り込まれた恐怖の感覚が、心の奥底から首をもたげてくる。
 けれど、恐怖を押し込めるくらいなら、きっと大丈夫だ。
 もっと勇気を出さなきゃいけないことなんて沢山あった。あのときの僕とは違う。
「君が私に跪く瞬間が今から楽しみだわ。……ヤンレンさんに会いたいなら、ついてきなさい」

 ――でも、ヤンレンさんがひどい目に遭わされていたら。
 僕の手で助けられなかったら。
 彼女を犠牲にしてまで、我が身可愛さに自分を押し通すことなんてできやしない。

 キャミィはそれをわかっていて、ヤンレンさんを標的にしたんだ。
 彼女が簡単に諦めるような性格でないことは知っていたのに。
 おおかた、ロッコが離れた今がチャンスとばかりに仕掛けてきたのだろう。
 僕が油断していたばかりに。

 ライズは後悔と焦燥に苛まれながら、キャミィの背中を追いかけるのだった。

恋と友情の末路 


 施設のある区画から離れ、学園の塀に沿って歩く。
 花壇の裏の死角になっているところ、学園の外と内を隔てる外塀に、穴が空いていた。
 セーラリュートはランナベールの北東の角にあり、南向きの正門と、少し小さな西門がある。穴の空いていたのは、北東角に近い場所だ。
 外に出ると、そこは手入れのされていない雑木林だった。
 言わばここはランナベールの外壁と学園の外塀の隙間のような場所。わざわざ入ってくるポケモンはほとんどいないだろう。
「一年生のくせにこんな場所を用意しているなんて、なかなか侮れないわね」
 鬱蒼とした木々の間を進むキャミィが独り言をこぼす。
 ヤンレンを連れ去った仲間のことか。
「一年生? まさか……」
 そう聞いただけで、ピンと来た。
 最初に話したときから、キャミィに似ていると思っていた。でも、せっかくできた風紀委員の後輩を疑いたくはない。推薦したマルス先輩のことを思えば尚更だ。
 しかし、ライズの淡い期待はあっさりと裏切られた。
「ふっふっふ。やっと来たんですねぇ、ライズお兄さま」
「ユリさん……どうして……」
 キャミィとライズを黒い笑顔で迎えたのは、思った通り、プラスルのユリだった。マイナンのユズも傍らに控えている。
 ユリ達の前には三脚が立てられていて、ビデオカメラらしき物がセットされていた。
 そして、そのカメラの向けられた先には。
「ヤンレンさん……!」
 木に吊るされたヤンレンの周りに、パリパリと音を立てて弱い電流のようなものが走っている。
 あれは、体を麻痺させるための電磁波か。どうやらユズの仕業らしい。
「うぅ……ライズ……様……?」
 ヤンレンはライズの声に反応したが、声に力はなく、随分と衰弱していた。
 いつからこんな状態で放置されていたのか。

 なんてことをするんだ。
 僕の友達に、何の罪があるというんだ。
 
 とにかく、考えている暇などない。
 ライズはヤンレンを助けるべく、飛び出そうとした。
「今助け――うぁあっ!!」
 が、後足を踏み切った瞬間、背後にいたキャミィに組み伏せられた。
 背中から地面に押し付けられて、動けない。
「させるわけないでしょう。君が私の物になると約束するなら、彼女を開放してあげてもいいけれど」
 ただ交渉材料を得るために、ヤンレンさんをこんなひどい目に合わせるなんて。
 卑劣にも程がある。
 許されるはずがない。
 それなのに僕は。
 僕の力はこんなものなのか。大切な友達一匹も助けられないなんて。
「キャミィ先輩、甘いですよ。本番はこれからなんですから」
 ユリがライズの顔を覗き込んで、にへら、と悪魔のような笑いを浮かべる。
 こんなことをしながら愛嬌たっぷりの笑顔を振りまける彼女が恐ろしい。
「ユズ。そのまま電磁波でしっかり抑えておくのよ」
 ユリの傍らにいるユズは、怯えた目でライズを見ている。
 目が合って気がついた。この子はこんなことやりたくてやってるわけじゃないんだ。
「ユズくん……やめてよ……自分のやってること、わかってる? そんなお姉ちゃんの言うこと聞いちゃダメだよ!」
 ユズはライズの言葉に身をすくませて、ユリの方を ちらりと見やった。
「お姉ちゃん……やっぱり、こういうのって……」
 彼なら説得できるかもしれない。
 一瞬そう期待したが、ユリの一言であっさりと裏切られる。
「あたしに逆らったらどうなるか、わかってるよね?」
「な、なんでもない……ごめんなさい、お姉ちゃん」
 一度は考える素振りを見せたユズも、姉の一睨みで黙り込んでしまった。
 どこへ行くにも二匹一緒で仲の良い双子だと思っていたが、実情は違った。完全な恐怖支配だ。
 ライズの言葉には耳を貸してくれそうにもない。
「ライズお兄さま」
 ユズを黙らせると、ユリはライズに向き直って笑顔を見せた。
「あたしもライズお兄さまをお慕いしています。いつか手に入れてみせます。今だけはキャミィ先輩に譲りますけど……忘れないでいてくださいね」
「フン。渡す気はないわよ」
 本人の意思そっちのけで会話が成立している彼女たちに、恐怖すら覚える。いったいどうやったらそんな風に考えられるんだ。
「本当に僕がほしいなら……僕のことが好きなら……どうしてこんな目に遭わせるんだよ……! やめてよ! ヤンレンさんをこれ以上傷つけないで!」
 ライズの説得も虚しく、ユリがユズと手を繋いだ。
 その途端、二匹の体がバチバチと音を立てて帯電し始める。プラスルとマイナンの特性の力なのか、今まで感じたことがないくらい、ものすごいパワーだ。
 あんなのを食らったら、無事で済むわけがない。
「わかったよ、言うこと聞くから……! 僕のことはいいから! ヤンレンさんを傷つけるのはやめて……!」
 これ以上は見ていられない。キャミィ先輩の物になるしか助ける道がないのなら、それでもいい。ヤンレンに傷ついてほしくない。
「ライズ様……だめ、だよ……私……なんか……の……ために……」
 全身の痺れに耐えながら、途切れ途切れで、滑舌もはっきりとしない声だった。でも、力を振り絞ったヤンレンの言葉は、たしかに伝わった。
「何言ってるんだよ! 見捨てられるわけないじゃないか!」
「このまま帰してしまったら、ライズお兄さまはどうせすぐに約束を破るに決まってます。絶対に逃げられないようにしなくちゃ」
 ユリがユズと繋いでいない方の手を、ヤンレンに向けた。
「待って、やめて! ……やめろっ!!」
 迸る閃光と同時に、ズガン、と心臓に響くほどの雷鳴が轟いた。
「ぎあ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁあぁぁぁぁっ!」
 声にならないヤンレンの悲鳴。
 ユリの手先から走った稲妻が、ヤンレンに直撃する。
「ああぁっ……ヤンレン、さん……」
 吊るされたままのヤンレンの体がビクビクと痙攣した後、ぷつりと糸の切れた人形のように四肢が垂れ下がった。
「ただの電気ショックですよ。死なないようにちゃーんと加減しましたから、安心してください。ライズお兄さま」
 ユリの声は、もうライズには届いていなかった。
 目の前の光景があまりにも衝撃的で、全身の皮膚が湧き立つようなおぞましい感覚に襲われた。
「うぅ……なんで……どうして……」
 ショックと悔しさに涙が溢れて止まらない。
 見ていることしかできないなんて。
 全力で暴れるライズの体を、キャミィは押さえて離さない。
 意識を失ってしまったヤンレンの下半身からは、ポタポタと水が滴っていた。
「あらあら、失禁しちゃうなんて……ライズ君と仲良しだけのことはあるわね。フフッ」
 キャミィの声音は、妙に楽しそうだった。
「あたしの計算通り、ですよ。ばっちりこのテープに収めましたし……」
 ユリはセットしてあったビデオカメラからテープを取り出すと、ライズに見せびらかすように掲げた。
「ヤンレン先輩、顔だけはイイんですよね。男子生徒にも人気あるみたいですし? このテープをコピーしてこの街で売ったら、そこそこの値段がつきそうですよね。学園にばら撒いてやってもいいですよ? ……ライズお兄さまなら、どうします?」
「許さないから……! 僕の友達を傷つけて、そうやって笑っていられるきみを、もう同じポケモンだとは思わない!」
「……答えになってないですよ?」
 今すぐにでも殴ってやりたいのに、気持ちばかり先行して、体は動かない。
「まどろっこしいわね」
 刹那、首の後ろに鈍痛が走った。
「ぅ……っ……」
 キャミィに噛み付かれたのだ。
 牙が突き刺さるほどではないが、甘噛みというには強い力で、いつでも殺せるのよ、と言わんばかりの、脅迫だった。
「君が私の物になるなら、そのビデオは何もせずに保管しておいてあげる。ただし、君が裏切ったら、ヤンレンさんの羞恥が国中にバラ撒かれるってこと。察しの良い君なら、それくらいわかっているでしょう? ライズ君」
「痛めつけるなら、僕をやればいいじゃないか! どうしてヤンレンさんなんだよぉっ……!」
 喉がはち切れそうなほどに痛い。
 振り絞って出てきたのは、半ば泣き叫ぶような声だった。
「今の君なら、自分が貶められるくらいは平気でしょ? それじゃ言うことを聞いてくれないもの」
 背後からの囁きは、まるで悪魔の声。
 一言一言が、ライズの心に鉛の塊を落としてゆく。
 重くて苦しくて、地獄の底まで沈んでしまいそうだ。
「僕は……」
 だって、こんなの。
 力で助けられないなら、服従するしかないじゃないか。
「……僕は、キャミィ先輩に……」
 自分の口がまるで自分のものじゃないみたいだ。
 背中越しで見えなくても、キャミィが笑顔を浮かべているのが手に取るようにわかる。
「キャミィ先輩に、従」
「ダメっ……!」
 服従を誓う言葉は、鋭い声に遮られた。
 信じられない。
 気を失っていたはずのヤンレンが、キャミィを睨みつけていた。
「私なんか……ライズ様と釣り合うわけないじゃん……先輩もユリちゃんも、バカじゃないの? 私に何かしたくらいで、ライズ様を思い通りにできるなんて……」
 ヤンレンは身をよじって、ロープをほどこうともがいている。
 一度は気絶したほどのダメージで、ロクに動けるはずもないのに。
 本当に、とんでもない精神力だ。
「ユズ、ちょっと黙らせて」
 ユリが感情のない声で、弟に命令する。
 やめろ、と言いかけて、唇を噛み締めた。
 これ以上やったら、本当にヤンレンさんが死んじゃう。
 もう僕に選択肢は残されていない。
「キャミィ先輩もユリさんも、僕を好きにしていいから……なんでも言うこと聞きますから……! だから、これ以上ヤンレンさんに手を出さないで!」
 フフン、とキャミィが鼻を鳴らして、ユリがニヤリと口元を歪めた。
 そこまでは予想通りの反応だった。
 でも。
「ライズ、様……。本気、で……?」
 ヤンレンが目に涙をいっぱい溜めて、がっくりと項垂れた。
 かと思いきや、髪を振り乱して泣きながら、悲痛な叫び声を上げる。
「……私のせい? 私がライズ様と仲良くしすぎたから? ねえ、ライズ様。嘘だって言ってよ……私はやだよ……ライズ様が私のせいで苦しむくらいなら、死んだ方がずっとマシだよ! ねえ、ユリちゃん、ユズくん。こんなことするくらいなら、いっそ私を殺してよ! こんなの、耐えられないよ……!」
 ユリもユズも、狂い叫ぶヤンレンに圧倒されて動けない。
 暴れた拍子にロープがほどけて、ヤンレンの体がどさりと地面に落ちる。
「ライズ様……今すぐ取り消して……本当に私のためを思うんだったらさ……こんなの、見捨てられるよりずっと苦しいよ……」
 ヤンレンは上半身だけを起こして、電撃で負った傷と涙で見るも無残に崩れた顔をライズに向けた。
 彼女の理屈はわかる。
 けれど、それはライズも同じだ。
 キャミィやユリに服従するより、ヤンレンを見捨てる方がずっと苦しい。
 今の彼女にそれを言って通じるだろうか。
 ヤンレンは何一つ悪くないのに、自分のせいでこうなったと思い込み、その事実を受け止めきれずにいる。
「ちっ……ここまで面倒な女だとは思わなかったわね」
「……あたしもこんな人質、初めてです」
 悪いのはこいつらなのに。
 どうしてこんな奴らに、不幸な選択を迫られなきゃいけない?
「いっそ……本当に二度と喋れなくなるくらい、痛めつけてやるしかありませんね」
 ユリがユズと手を繋いで、ヤンレンの方へと向き直る。
 いくらライズが服従を誓っても、彼女達を止められない。

 何がどうして、こうなったのだろう。

 やっぱり、僕が悪かったのかな。
 みんなと仲良くしていればキャスみたいな被害者は出ない。そう思って友達になったはずだった。気がつけば深い仲になっていて、ライズの方が依存してしまっていた。
 僕がきちんと距離を保っていれば、こんなことにはならなかった。苦しむのは僕だけで済んだ。

 本当は、いつかこうなるかもって思ってた。
 
 大切な友達一匹守る力もないのに、近づくべきじゃなかった。
 友達を持つなら、もっと真剣に己を鍛えることだってできた。
 こんなペルシアン一匹、跳ね退けられるくらい。

 どちらともつかず、ただ漫然と日々を過ごしていた。
 自分が誰も傷つけなければ、それでいいと思っていた。

 力がほしい。
 ――願っただけで手に入るなら苦労はしない。

 ああ、ロッコさんがあれだけ強いのは、ただの才能じゃなかったんだ。
 僕を守りたいと思ってくれていたから。
 後悔しても遅い。
 守りたいものがあったことにすら、僕は気がついていなかった。


 ズドン、と大きな音がして、一瞬、爆風のような強い風が吹き付けた。
 ユリとユズの電撃が放たれた衝撃か。閃光が眩しい。
 目の前が真っ白で何も見えない。

「ヤンレンさんっ――!!」

後悔しても 


 目も眩む光が収まったあとも、濛々と土煙が立ち込めていて辺りの様子が見えない。
 電撃で植物の焦げた臭いが立ち込めている。
「そんな……ヤンレンさん……」
 守れなかった。
 妙に距離感が近くてやりづらかったり、でも、そのおかげで性別を意識せずに付き合えたり。
 ちょっと変わってるけど、やっぱり年頃の女の子らしく悩んで、僕を好きだと言ってくれて。
 ――大切な友達だったのに。

 土煙が晴れて、彼女の様子がこの目に飛び込んでくる瞬間がただただ怖かった。
 無力を嘆いても、後悔しても、もはや意味がない。
 目の前の現実を受け止める道しか、ライズには残されていないのだ。

「つぅぅ……っ……何なんですか!?」
 最初に聞こえたのは、ユリが慌てふためく声。
 いざ煙が晴れると、そこには予想外の光景が広がっていた。
 焦げてしまった草木の上で、ユリがよろよろと立ち上がる。
「ユズ、調節失敗した……?」
「ち、違うよ……! 誰かが横から雷を……」
 ユズの声がやけに遠い。
 ユリと手を繋いでいたはずだが、数メートルほど飛ばされてしまったらしい。
 あの閃光と爆発は彼女たちの電撃ではなく、第三者の妨害によるものだった。
「はぁ、はぁ…………間に合った……かな……?」
 少し離れたところから、妙に懐かしくも思える、聞き覚えのある声がした。
 長い首が特徴的な黄色と白のシルエットは、ドラゴンポケモンにも近い。
 頭と尻尾が赤く発光していて、パリパリと電気を纏っている、彼女は。
「え……? ミツさん……?」
 大人しそうなデンリュウの女の子が、そこに立っていた。
 高等部に上がってから、いや、厳密には中等部三年生のときのあの事件以来あまり関わっていなかった、かつてのクラスメイト。
 でも、当時はヤンレンとロッコと彼女の三匹は仲良しで、いつも一緒にいた。
 ――と、いうことは。
「ぎゃっ……!」
「ふわあぁっ!!?」
 想像を巡らせるまでもなく、横から叩きつけるような衝撃がライズとキャミィを襲った。
 軽々と吹き飛ばされた二匹は、ゴロゴロと転がって引き離される。
 ――少し前なら、こんな手荒な真似はしなかったのに。
 やっぱりまだ怒ってるよね。
「貴女……! もうライズ君には愛想尽かしたんじゃなかったの!?」
 二匹もろともにドロップキックをぶちかましたそのコジョンドに、キャミィは驚きと怒りの交じった表情でまくし立てる。
 蹴られたところは痛いし、擦り傷だらけになっちゃったし。
 でも、ヤンレンさんに比べたら、こんな痛みじゃ全然足りない。
「嫌いになっても……わたしは、ライズを守ると決めているから」
 ロッコは怒りに燃えているわけでもなく、不気味なほど静かだった。
 複雑に渦巻く気持ちを整理できぬまま、何も考えまいとしているようでもあった。
「ロッコさん……どうしてここが……」
「いいから、ライズはヤンレンを!」
「わ、わかった」
 そうだ。とにもかくにも、ヤンレンの状態が心配だ。
 急いでヤンレンの元へ駆け寄ると、ヤンレンはゆっくりと視線をライズの方へ向けた。
「ライズ……様……? 何が……どうなっちゃったの……?」
「ロッコさんとミツさんが助けに来てくれたんだ。だからもう大丈夫だよ! すぐに医務室に……!」
 重傷を負ってはいるが、今ならまだ間に合いそうだ。
 ライズ一匹の力ではヒヤッキーを持ち上げて運ぶのはそう簡単ではないが、そうも言っていられない。
 リボンの触角を伸ばして、どうにかヤンレンの体を起こそうとする。
「ダメだよ……ライズ様……私……こんなにボロボロだし……汚いから……」
「こんなときまで何言ってるの! 僕だって怒るときは怒るよ?」
 しかし、持ち上げるのに手間取っているようでは、説得力がない。
 四苦八苦していたら、突然、ヤンレンの体が青い光に包まれて浮き上がった。
「気持ちはわかるぜ、ヤンレンさん。乙女心ってヤツだよなあ」
 これまた聞き覚えのある声だった。
 振り返ると、ニャオニクスのフォールが立っていた。
 念力を使うために耳をピンと伸ばし、普段は隠れている目のような模様を光らせている。
「フォールも……来てくれたんだ……」
「ま、その話は後だ。正直、こんなにひどいことになってるとは思わなかったけど――っと!」
 刹那、飛んできた電気ショックを、フォールは華麗なステップでひらりと躱す。
 フォールの足元に命中した電撃が、地面を小さく焦がしていた。
「逃がしませんよ!」
 電気ショックを放ったユリが、バチバチと体を帯電させて次の一撃を準備している。
「ライズ、あいつらを頼む! ヤンレンさんはオレに任せとけ!」
 ヤンレンのことは心配だが、運び役はフォールの方が適任だ。
 それに、いくらロッコが強いとはいっても、ロッコとミツの二匹だけではこの三匹の相手は重い。
「……お願い!」
 ヤンレンをフォールに託し、電光石火の勢いでユリに体当たりを仕掛ける。
「きゃっ……!」
 体当たりの衝撃で、ユリの準備していた電撃は空中に放電され、霧消する。
 体制を崩したユリを支えようとユズが駆け寄ったところまで、予測通り。
 既に次の技を放つべく、ライズは体中にフェアリーの波導を(たぎ)らせている。
 ムーンフォースを撃ち込んでやろうと、狙いを定めた、そのとき。
「ライズ、危ない!」
 ロッコの声に慌てて技を中断し、身を翻す。ビュン、と空を切る鋭い爪の音には、明らかな殺気が込められていた。
 あと少し反応が遅れていたら、キャミィの爪に切り裂かれていただろう。
 こちらはヤンレンを連れて学園の方へ走ってゆくフォールを追うつもりもないらしい。
「ふふっ……一年のガキの提案に耳を貸した私が馬鹿だったのかしらね」
 キャミィは全身から湧き立つ殺意を隠そうともせず、ライズを睨みつける。
 かつてライズが別れを切り出したときに見せた、あの表情だった。
「……そうよ。思い通りにならないなら、いっそ私の手で殺してあげればいいんだわ」
 けれど、今はもう、キャミィを怖いとは思わなかった。
 自分に向けられる殺意よりも、ずっと恐ろしいものを見せつけられた今となっては。
「キャミィ先輩……! ライズお兄さまを傷つけては……」
「うるさいわね。ライズ君は私の物よ! 誰にも渡さないわ!」
 言い終わるが早いか、キャミィが牙を剥いて飛びかかってくる。
 逆上しているせいか、単調な攻撃だった。冷静に対処すれば、ライズでも捌ける。
 振りかぶっているのは右足の爪か。身を低くして彼女の左側へ回り込み、すぐさま振り向いて反撃の一手を。
 ――しかし、体が動く前に、疾風のごとき影が二匹の間に割り込んだ。
「邪魔しないで! もう自分には関係ないって言ってたくせに!」
 キャミィが喉の奥から唸るような怒声を上げる。
 横合いから飛び込んできたロッコが、キャミィの攻撃を真正面から受け止めたのだ。
 ロッコの左前足にキャミィの爪が食い込んで、ポタポタと血が滴っている。
「わたしは、何があってもライズを守ると言ったはず」
 次の瞬間、ロッコは受けに使っていない右前足を、半立ちになったキャミィの胸に当てた。
()ッ!!!」
 小さな予備動作が嘘のように、キャミィの体がボールみたいに吹っ飛んだ。
「くっ……うあぁっ!!」
 キャミィは体を思いきり木の幹に叩きつけられ、どさりとその場に落ちる。
 格闘タイプのポケモンが使う発勁の技術だが、ここまで見事に決まったところはなかなか見ない。
「うぅ……っ……ライズ……君…………」
 キャミィはそのまま起き上がることはなく、気を失ってしまった。
「……ライズ。怪我はない?」
 ロッコはライズの方へ向き直ると、腰をかがめてライズの顔を覗き込んできた。
 無表情なのに、どこか優しくて安心感を覚える。いつものロッコだった。
「え、っと……」
 また泣いてしまいそうになったけれど、唇を噛みしめて、涙は堪えた。
 今回ばかりは泣いている場合じゃない。
 彼女のように、誰かを守れるくらいに強くならなきゃって、思ったばかりなんだから。
「ロッコさんに蹴られたところが痛いくらい……かな」
 泣きたい気持ちを誤魔化そうと、軽い冗談で返したつもりだった。
「……へえ。泣かなくなったんだ。ライズのくせに」
 が、ロッコは不自然に高い、微妙な声色で、馬鹿にするように言い放った。
 ライズの内心なんてお見通しだと言わんばかりに。
「ばっ――そ、そんな言い方しなくたって……」
 言いかけて、ロッコが自身の左前足を押さえているのに気がついた。
 そうだ。自分のことなんて今はどうでもいい。
「それよりロッコさんこそ、前足……大丈夫なの? さっき思いっきり刺さってたよね?」
「こんなの、かすり傷よ。わたしはライズと違ってヤワじゃないから」
 立て続けに、ロッコの言葉の刃がグサグサと突き刺さる。
 言い返せるはずもない。ライズがもっと強ければ、こんな事態は防げたのだ。
 そんなことはわかっている。だから今言うべき言葉は一つしかない。
「……ありがとう。まさかロッコさんが助けに来てくれるなんて、思わなかった」
「感謝するくらいなら、反省して。ライズは気が多いからこういうことになる」
 今日のロッコは本当に容赦がない。
「はい……ごめんなさい……」
 あの日、友達に戻ろう、と言った彼女の中で、大きな心境の変化があったのだろう。
 以前のような一歩引いた気遣いは感じられない。それこそヤンレンやミツのような"友達"への接し方と変わらない。
「あの……ロッコとライズ君って、そんな感じだっけ……?」
 事情を知らないミツが驚くのも無理はない。ライズだって驚いている。

 そんな三匹のやり取りを傍らで眺めていた、一年生二匹。
「あ、あの……」
 完全に置いてけぼりにされたユリが、おずおずと口を開いた。
 ユズは相変わらず、俯いて黙りこくったままだ。
「何? あなたたちもやるというなら、まとめて相手してやるけど?」
「い、いえっ……あたしは……ライズお兄さまとお近づきになりたかっただけで……その……」
 一年生の中でトップの戦闘能力を持つという彼女も、ロッコの力を目の当たりにして、さすがに抵抗する気も失せたらしい。
「それで、ヤンレンを人質にしてライズを従わせようって? 馬鹿じゃないの。ライズのことを何もわかってない」
 ロッコはライズの首に手を回して、ユリの前にしゃがみ込んだ。
「夜中にライズのベッドに忍び込めばそれで済んでた話よ。こいつ、こう見えてすぐ流されるから」
「な……!? っ、そ、そそそそんな、こと、あたし」
 ユリは顔を真っ赤にして、ライズとロッコの顔を交互に見た。
 ミツまで口を押さえて恥ずかしがっている。
「ぼ、僕だって相手は選ぶからね!?」
「こんな話、一年生には早かった? ……いや。こんなことしてからじゃ、もう遅いか」
 ロッコはライズの反論を無視して、言葉を続ける。
「嫌われてしまったら、その手は使えない」
 とはいえ、ロッコの言うこともあながち間違ってはいない。
 嫌いな相手じゃなければ、にべもなく拒絶したりはしない……かもしれない。
 普通に先輩後輩として信頼関係を築いていけたら、もしかしたら友達以上になれたかもしれない。ヤンレンもロッコも、はじめは普通の友達だった。
 でも、それはあり得ない未来の話。
「ライズお兄さま……あたし……」
 ユリは目に涙を溜めて、ライズの顔を見上げた。
 泣きたいのはこっちだ。
 あれだけのことをしておいて、今さら泣いたって、たとえ本気で反省したって、許されるわけないじゃないか。
「きみがヤンレンさんにしたこと、絶対忘れないから。きみとは友達もごめんだよ」
 明確な拒否の意思を突きつけられたユリの目からは、感情が失われていた。
 だが、その挫折も後悔も、傷つけた相手の心情を慮るものではない。ただ自分が失敗したことを悔いているだけだ。
 キャミィと同じかそれ以上に、自分勝手で救いようがない。
「……ライズにここまで言わせるやつも珍しい。そこで伸びてるあいつでさえ庇ったのに」
 ロッコは気絶しているキャミィを一瞥して、目を細めた。
 ああ、そんなこともあったっけ。
 一年生の頃、ロッコが助けに来てくれたとき。
 キャミィ先輩には風紀委員でお世話になったから、許してやってほしいと。
 一度ならず二度までもライズの心を征服しようとした今でも、どこか可哀想なひとだと思ってしまう自分がいる。
 中等部の頃から目をかけてくれていたのが、百パーセント彼女の私利私欲だったとは考えられないからか。
 それとも、本意ではなかったとはいえ、何度も体を重ねたせいで情が移ってしまったのか。

 いずれにしても、ロッコ達に目撃されてしまった以上、今回の件でキャミィもユリも厳罰は免れないだろう。
 退学処分とまではいかなくとも、長期の停学が言い渡されることは間違いない。
 願わくば、もう二度と関わり合いにはなりたくないものだ。

 体にはまだ、彼女の匂いと首筋の痛みが、わずかに残っていた。
 一刻も早く消えてほしいのに、嫌な記憶と重なるように、長く長く尾を引くのだった。

素直な気持ち 


 あの後、ユリとユズは一旦寮に帰らせて、キャミィだけ放置するわけにもいかないので、戻ってきたフォールが医務室まで運んだ。ビデオテープは証拠として回収したけれど、できることなら誰にも見せたくはない。
 学園の慣習上、高等部以上で起こった問題はまず、生徒自治会に持ち込んで対応を協議することになる。当事者が風紀委員というのも気が重いが、それより今はヤンレンの身が先決だ。
 ライズ達が医務室に入ると、ヤンレンは手当てを受けて眠っていた。まだ目は覚ましていないが、校医のトゥーリット先生いわく、命に別状はなく、特に障害が残ることもないそうだ。
 セーラリュートの医務室は普通の学校の保健室よりは病院に近い。
 診察室や事務室などがきちんと分かれていて、ヤンレンが眠っているのはベッドのある大部屋だ。
 大部屋には十台ほどのベッドが並び、それぞれが薄いカーテンで仕切られている。
「しかし、ロッコさんが血相変えてオレんとこに来たときはビックリしたぜ」
 ヤンレンの無事に胸を撫で下ろしたところで、フォールが事の顛末を話してくれた。
 聞けば、ロッコは朝からライズとヤンレンが登校していないことを不審に思っていた。
 はじめは二匹仲良くサボりかと怒り心頭だったそうだが、昼休みにたまたま、キャミィまで欠席しているという会話を耳にしたらしい。
 つい最近、キャミィがロッコに接触していたこともあり、これは何かあったと確信したのだという。
「さすがに心配しすぎじゃねーのか、ってオレは言ったんだけどさ。……ロッコさんの勘、すげーよな」
「私も……まさか、こんなことになってたなんて思わなかったよ」
 ロッコはフォールとミツに協力を仰いで、学園中を探し回った。そこで外壁の穴を見つけ、雑木林に出た後はユリたちの電撃の音と光を頼りにあの場所を特定した、ということだった。
「わたし、友達いないから……二匹(ふたり)しか思いつかなくて。手伝ってくれたこと、感謝してる」
「あったりまえだろー? ロッコさんみたいな可愛い女の子の頼み、オレが断るわけないじゃん」
 フォールは気障ったらしくウィンクをしてみせる。
 当人は格好つけているつもりらしいが、つぶらな瞳のが際立って妙に可愛らしい。ロッコはちょっと反応に困る顔をしていた。
 ロッコはフォールの言葉には何も返さず、ミツに向き直って頭を下げた。
「ミツには一度、酷いことも言った……あのときは感情的になりすぎた。ごめん」
 ライズの知らないところで、ずっと疎遠だった二匹の間も何かあったらしい。
「ううん。あのときはロッコ、すごく落ち込んでるように見えたし……私は今も、ロッコの友達をやめたつもりはないから」
 ミツは控えめに主張したあと、ちらりとライズの方を見る。
「ライズ君のことも……ずっと、気になってたし」
 あの事件がきっかけで距離を置く選択をした彼女もまた、ライズの秘密を知る一匹(ひとり)だ。
 ヤンレンが目の前で傷つけられたとき、友達なんて作らなければ、と後悔した。
 でも、僕のために動いてくれた友達がこんなにいる。ひとりじゃ何もできなかった僕を助けてくれた。
「フォールも、ミツさんも……ありがとう。……ほんと、二匹が友達で良かった」
 あの悪夢のような状況から抜け出して、ヤンレンも無事で。
 ここへきて安心したせいか、言葉が震えてしまった。
「おいおい、大げさだな、ライズは……」
「ライズは泣き虫なだけ」
 涙ぐんでいたらフォールには驚かれたが、ロッコにまたキツイ一言を付け足されてしまった。
「ロッコ、ライズ君にあたり強くない……? やっぱり別れたときに何かあったの?」
 ここまでくると流石に、ミツも気づいていた。ロッコの態度が普通じゃないことに。
「わ、わたしはべつに……」
 ロッコはちらちらとライズの顔を伺いながら、気まずそうに目を逸らした。
「べつにライズのことなんか、もう何とも思ってないし」
 頬を染めてそっぽを向くなんて、ロッコらしくない。初めて見る表情だった。
「なーんだ、そういうこと」
 フォールが悪戯っぽく笑って肩をすくめる。
「ま、そりゃそっかぁ。あのロッコさんが必死になってオレたちに助けを求めるくらいだもんな」
「フォール、何がおかしい!」
 ロッコは怒りも露わに詰め寄ったが、フォールはくすくすと笑っている。
「ロッコ……素直になった方が、いいと思うよ……」
 横から恐る恐るといった様子で、ミツまでもがロッコに意見する。
 二匹とも何が言いたいのか、ライズにはよくわからない。
 本当はまだ怒っているのに、僕を守ると約束した手前、助けに来ざるを得なかったのではないか。
 恋人ではなくなっても、友達には違いないのだし。
「わたしはいつも、正直だって……ライズなら、知ってるでしょ!?」
 珍しく取り乱したロッコが、ライズに同意を求めた。
 隠し事はしないし、少なくとも二匹きりのときは、言いづらいことでもすました顔でさらっと言ってしまえる。ロッコはそういう性格だ。
「……うん。ロッコさんがそういう女の子だってことは知ってる」
「だーっ、オマエも鈍感かよ!」
 が、二匹のやり取りを見ていたフォールが、ぴょんぴょんと可愛らしく地団駄を踏んだかと思うと、ライズのお尻を軽くはたいた。
「ひゃぅっ!?」
 びっくりして飛び上がると、目の前にはロッコが――
「ちょっ、ライズ――」
 そのままロッコに突っ込む格好となってしまい、二匹はもつれ合って床に倒れ込んだ。
 しかしそこは運動神経抜群のロッコ、しっかりとライズの体を抱きとめてくれたおかげで、痛み一つ感じることはなかった。
 フサフサの長い毛並みに包まれて、温かくて安心するこの感覚。ずいぶん久しぶりに思えた。
 おまけにロッコの顔が、あと少しで口先が触れ合うほど間近にある。
「ご、ごめん……すぐ退くから……」
 さすがに気まずくて、ライズはすぐに体を起こそうとした。
「…………」
 が、ロッコはライズを抱く前足を離してくれない。
 動揺していたら、ロッコが目を閉じて、首に手を回してきた。
「ちょ、な、何のつもり――っ!?」
 思わずライズも目をつぶる。

 ――ちゅ、と唇の触れ合う感触がした。

「……えっ」
 驚いて目を開けると、ロッコは頬を朱に染めて微笑んでいた。
「ヒュー。やるじゃん!」
 フォールの冷やかしの声が耳に飛び込んできて、我に返る。
 キス、されてしまった。
 もう僕のことなんか何とも思ってないって。ただの友達だって言ってたのに。
 ロッコは立ち上がって、胸に抱いたライズをそっと床に下ろした。
「……嘘ついてた。本当はまだ、あなたのことが好き」
 ばつが悪そうに横を向いていたが、さっきまでとは違う、ロッコらしいはっきりとした口調だった。
「でも、恋人に戻ってほしいとは思っていない。ライズとわたしはそういう関係じゃない方がいい」
 友達以上恋人未満。思えばロッコとの関係が一番うまくいっていたのは、そんな微妙な距離感の頃だった。
 ライズはどう答えるべきか迷って、しばらくロッコの顔を見つめていた。
 と、そこへ、隣のカーテンがシャッと開いて、タブンネの若い女性が現れる。
「あなたたち。ここが医務室だってこと、忘れてない?」
 校医のトゥーリット先生はライズとロッコを見て、呆れ顔で肩をすくめた。
「若くて結構だけど、さっきから全部聞こえてるわよ?」
 ――先生の存在を完全に忘れていた。
 これは恥ずかしい。
 顔から火が出そう、とはまさにこのことだ。
「ごごご五限目が始まるから、わたしはこれでっ!」
 キスをした上にあんなことを言ってしまったロッコは、ライズの比ではなかったようで。
 もはやロッコとは思えないぐらい裏返った声で叫ぶと、逃げるように医務室を飛び出して行った。
「あっ、ロッコ、私も……」
 ミツはすぐさまロッコの後を追ってゆく。
「オレも――」
 フォールも続こうとしたが、入り口のところで足を止めた。
「……ライズは?」
「僕は……」
 後ろを振り返ると、体のあちこちに包帯を巻いたヤンレンが、まだ眠っている。
「……ヤンレンさんが目を覚ますまで、ここにいるよ」
「そっか。ま、オマエはいてやった方がいいかもな。オレも放課後また来るぜ!」
 フォールはそう言うとウィンクをして、医務室を出て行った。

 悪いのはキャミィとユリだけど、それでも僕のせいでこんな目に遭ったことには違いないんだから。
 
 ライズはベッドの傍らに座って、ヤンレンが目覚めるのを待つことにした。

 今、側を離れるわけにはいかない。
 起きたら一番に、僕が声をかけてあげなきゃ、ね。

十色の情 


「……君、この子の彼氏?」
 ライズが一匹になると、静寂に間がもたなくなったのか、トゥーリット先生が話しかけてきた。
「や、そういうのじゃ……ないですけど」
「聞いていると、ロッコちゃんが元恋人でこの子が今の……って思ったのだけど。ま、余計な詮索はやめておくわ」
 さすがに大人の女性だけあって、鋭い。ほぼ当たっている。
「先生は向こうの診察室に戻っているから、ヤンレンさんが目を覚ましたら教えてくれるかしら。こっちの子は軽い脳震盪だけだから、大丈夫だと思うけど」
 そうだ。もう一つ忘れていた。
 トゥーリット先生が去った後には、ライズと、眠っているヤンレンと――
 ――ロッコの発勁で失神させられた、キャミィが残された。
 先生がカーテンを閉めてしまったので、ヤンレンの傍にいるライズには隣のベッドは見えない。
 加害者と被害者がこんなに近くにいて大丈夫なのか。
 先生もいることだし、ケガ人が何かできるとも思えないけれど。
「ねえ」
 しかし、カーテンの向こうから声がして、思わず身をすくめた。
 起きていたのか。
「いるんでしょ、ライズ君」
 ライズは何も答えない。
 答える義理なんてあるものか。
 たとえ何を言われても、無視を決め込むつもりでいた。
「……私、どこで何を間違えたのかしらね」
 けれど、ライズの答えも待たず、キャミィはひとり、語り始めた。
 今まで聞いたことがないくらい、穏やかな調子で。
「まだ君は中等部だったわね。初めて君を目にしたときの感動は、今でも鮮明に覚えているわ。なんて綺麗な子なの、って……風紀委員にするならこの子しかいないって」
 どうして思い出話なんか聞かされなきゃいけないのか。
 怒りがこみ上げてきたものの、ライズはキャミィの言葉を黙って聞いていた。
 その気になれば耳を塞ぐこともできたけれど、そうはしなかった。
「ふふっ。今思うと笑えるわね。この私が、ファンクラブなんて俗っぽいモノに入ることになるなんて。でも、最初は純粋に君のことが知りたかったのよ。本当よ?」
 ああ、そうだ。彼女ははじめからこうではなかった。
 最初はただ、ライズに目をかけてくれる良い先輩だった。
 いつも落ち着いていて、まさしく優等生らしい彼女をかっこいいとさえ思った。
「でも、君が風紀委員になって、二匹(ふたり)で過ごす時間が増えて。いつの間にか、見ているだけでは満足できなくなってしまったの」
 彼女のライズを見る目が日に日に変わってゆくのを、ライズも感じていた。
 自慢ではないが、好意を向けられるのには慣れていたし、最初は何とも思わなかった。
「私に言い寄る男子学生は山ほどいたし、いつの間にかファンクラブまで作られてたの。そんな私が君一匹落とすくらい、わけもないと思っていたわ。それなのに君は、私の誘惑には乗ってこなかった。あの日、ついに手を出してしまったときも……君は、抵抗したわよね。お漏らししちゃったのはさすがに驚いたけど、最初の一回だけは……許してあげようと思ったのよ」
 強引なところもあったけれど、優しさを見せることもあった。
 あの優しさは偽りではなかったはずだ。
「でもね。君が一切私に気がないことがわかって、悔しかった。君は私をこんなに惑わせているのに、私は君の顔色ひとつ変えることもできないなんて」
 ただ、このひとはプライドが高すぎたんだ。
「私は自分の負けを認めたくなかったのよ。いつの間にか、どんな手を使っても君を跪かせてやるって、ムキになっていたわ。それでも私は、君が嫌々でも、私の隣にいてくれるだけで満足だった」
 負けず嫌いで、自分勝手で。
 悪いところばかりが膨れ上がって、だんだんと彼女のことが怖くなった。
 気がつけば弱みを握られて、交際を了承してしまっていた。
「あの頃の君は……たとえ嘘でも、私を求めてくれたこと。嬉しかったわよ」
 でも、そこを突かれると痛い。ライズが彼女を求めていた気持ちが、百パーセント嘘だとは言えない。
 初めてキスをされたときのこと。繋がったときのこと。思い返せば、本気で嫌なわけじゃなかった。好きな相手とじゃなくても、意外と気持ちがいいんだって知って。
 キャミィは自分が優位でいないと気が済まない性格だった。ライズが従順な態度でいる限りは、キャミィは優しかった。抵抗して殴られるくらいなら、身を任せて快楽を得られる方がずっと良かった。
「ああ、やっぱりライズ君も男の子なんだ、って。ちょっと安心したわ。体の関係だけで、私は君を繋ぎ止められると思ってた。馬鹿よね。そんなの、いつまでも続くはずないのに」
 あのとき、シオンに出会わなければ。ロッコが助けてくれなければ。
 もしかするとあのまま、今でも彼女との関係を続けていたかもしれない。
 僕はどうしようもなく流されやすくて、欲望に抗えない。
 ああ、そうだ。思い出した。
 初めてだったんだ。
 ロッコと関係を持ったと言っても、彼女はライズに合わせて男の子役をしてくれたから。
 自分が雄として、雌のポケモンと体を重ねたのはキャミィが一匹目だ。
 だから僕は、彼女を憎みきれないのかもしれない。
 本当に最悪な日々だったのに。
 しばらくの沈黙のあと、キャミィが再び口を開く。
「もしも私が……惚れた方が負けだ、って、自分の敗北を認めていたら……」
 低い声音には、後悔の念がにじみ出ていた。
 やめてよ。今さら反省なんかしたって、もう遅い。遅すぎるよ。
「君の友達として、そっち側にいられたのかもしれないわね。あの子達みたいに」
「何を馬鹿なこと……!」
 つい、答えてしまった。
 最後まで無視できなかった。
「もしもの話なんて、したくありません。想像しただけで吐き気がします」
 答えた以上は続けないわけにはいかず、言い放った。
 でも、ユリのときとは違って、全否定はできなかった。
「……ふふっ。嬉しいわ。もう口も利いてくれないと思っていたのに」
 シャッ、とカーテンが開いて、出てきたキャミィと目が合った。
 あんなにギラギラしていた眼光はすっかり消えて、まるで別人みたいだった。
 それっきり、二人が言葉を交わすことはなく。
 キャミィはふらついた足取りで部屋を出て、トゥーリット先生のいる診察室の方へ歩いてゆく。
 最後まで、彼女は謝らなかった。
 謝ろうが謝るまいが、ライズの心が動くことはないけれど。
 今さら善人ぶったところで、彼女のやったことは消えはしないのだから。
 それなのに。
 どうしてか、去ってゆく彼女の後ろ姿から目が離せなかった。
 
         ◇

 体のあちこちにガーゼや包帯を巻かれたヤンレンの姿は、痛々しかった。ふんわりとしたカールがお洒落だった鬣も、半分以上電撃で焼け焦げて見る影もない。
 一体どれくらいの間、彼女の寝顔を見つめていただろう。
 その瞼が、ゆっくりと押し上げられた。
「ヤンレンさん……!」
 彼女が無事だったことへの安堵と、自分が原因で傷つけてしまったことへの慚愧の念。複雑な感情が入り混じって、声が上ずっていた。
「ライズ様……? ここは……」
「医務室だよ。フォールが運んでくれたの、覚えてない?」
「そうだ、私……」
 虚空を見つめていたヤンレンが突然、弾かれたように体を起こした。
「っ……! ライズ様、大丈夫!? 何もされてないよね? あんなやつの言いなりになってないよね?」
「お、落ち着いて……まだ寝てないとダメだよ!」
 リボンを優しく巻きつけて、そっとヤンレンをベッドに寝かせる。
 こんなにボロボロなのに、目覚めて早々、ライズの心配をするなんて。
「みんなが助けてくれたおかげで、僕はなんともないよ」
「そう……よかったぁ」
 ようやく、ヤンレンは普段通りの笑顔を見せた。
 また彼女が笑っているところが見られて、安堵の気持ちに胸をなで下ろす。
 とはいえ、彼女はライズの身代わりになったようなものだ。ライズはただ純粋に無事を喜べる立場ではない。
「ごめんね。僕のせいでこんなことに巻き込んじゃって」
 謝れば済む話ではないけれど、謝らずにはいられなかった。責任の一端は間違いなく僕にもある。ロッコに言われた通り、あまりにも軽率に、ヤンレンと深い仲になってしまった。ヤンレンと普通の友人関係を保っていれば、ターゲットになることもなかったはずだ。
「キャミィ先輩が僕に執着してることも、手段を選ばないことも、僕は知ってたんだ。それなのに、きみを守る力もないのに、僕は――」
「やめてよ、もう」
 ピシャリと、言葉を遮られた。ヤンレンの声色は、少し怒っていた。
「ライズ様に守ってもらおうなんて思ってないし、私はそんなの嬉しくないよ。ライズ様にとって私はただの友達かもしれないけど、私にとってライズ様は今も、憧れの男の子なんだ。ライズ様が私と友達でいてくれることは嬉しいけど、私にはそれよりもずっと大切な気持ちがあるの。私がライズ様の友達でいることで、もしもライズ様が責任を感じたり、私なんかのために心を砕くようなことがあるなら――」
 ヤンレンはにっこりと、ライズに笑いかけた。
「――私はライズ様の友達をやめて、遠くから見守っていたい。昔みたいにさ」
 屈託のない笑顔で、どうしてそんなことが言えるのか。
 きっとこれが、嘘偽りない彼女の気持ちなのだ。あのとき追い詰められて、狂ったように叫んだ彼女の姿が脳裏によぎって、ライズはしばらく言葉を返せなかった。
 自分のせいで誰かを傷つけることが怖い。その気持ちは痛いほど理解できる。けれど、視点を変えれば、自分自身もその"誰か"なのだ。いつも自分の心に真っ直ぐなヤンレンでさえ、ライズのこととなると途端に自己犠牲的になる。恋は盲目とはよく言ったものだ。
「僕が嫌だって言ったら?」
「……え」
 予想外の言葉だったのか、ヤンレンはぽかんと口を開けたまま静止した。
「この際はっきり言っておくけど、僕はきみをただの友達だなんて思ってないからね?」
 またこんな言い方をしたら、ロッコに怒られるかな。
 でも、伝えておかないと。僕は"高嶺の花"なんかじゃないって。
 僕はあれだけ酷いことをしたキャミィ先輩のことさえも、心のどこかで哀れんでいる。
 ヤンレンとは友達として長い間過ごして、互いに隠す事もなく、内面をさらけ出せるような仲になって。
 一つのベッドで眠って、ついには体を重ねてしまった。
 これで親愛の情が湧かない方がどうかしてる。
「きみが僕に抱いている気持ちとは、きっと違うと思う。でも、僕はヤンレンさんのことが大切だよ。他に代わりなんていない、特別な存在なんだ。失いたくないんだ」
「……ライズ様、本気で言ってる?」
 ヤンレンは目を丸くしている。戸惑いと照れの混じった、恋する乙女そのものといった表情をしていた。
 その恋に応えられないのは、心苦しいけれど。
「こんなときに嘘なんかつかないよ」
「えっ、でも、だって……わ、私なんか、ライズ様と釣り合ってないし。特別なものなんて、何も持ってないよ……」
「それを決めるのはヤンレンさんじゃないでしょ」
 前足を伸ばして、ヤンレンの頬に触れた。
「前に言ってたよね。きみはずっと僕の味方でいてくれるって」
「……友達をやめても、それは変わんないよ」
「僕の味方なら、僕を悲しませないでよ」
 それっきり、ヤンレンは黙り込んでしまった。
 ここまで言えば、きっとわかってくれたはずだ。
 友情が友情のままで、純粋に親愛の情に変わったっていいじゃないか。

 しばらくヤンレンの答えを待っていたら、バタバタと複数の足音が近づいてきた。
「ヤンレン、大丈――って、ライズ、何やってるわけ?」
 振り向くと、ロッコが疑惑の目でこちらを見ていた。
 気づけばもう、今日の授業は終わった時間だ。ミツとフォール、それからフォールの取り巻きたちまで一緒だった。
 ライズはベッドに身を乗り出している上、前足をヤンレンの頬に当てている。
 ――それから誤解を解くのに一悶着あって、結局ヤンレンの答えは聞けず終いだった。

処分 


 明くる日の放課後。
 生徒会室にはアマージョのルウェナ自治会長以下、生徒自治会のメンバーと、ユリとユズを除く風紀委員が集まっていた。
 オーベムのフィスカ、エテボースのクレリク、ケンタロスのゼネルの三匹が、それぞれ今年度の会計、書記、庶務を務めている。クレリクとゼネルは一年生の新顔だ。
 そして、事件の当事者として、また、生徒会副委員長として、怪我の治りきっていないヤンレンも出席している。
「さて……」
 ルウェナの鋭い眼差しが、風紀委員のライズとマルスに向けられる。
 高等部以上で起こった問題は、原則的に学生の自治によって解決することになっているのだが、今回は事件の当事者が多すぎる。
「昨日未明、我が生徒会副会長のヤンレンさんが、先代風紀委員長のキャミィさんと、一年生のユリさん、ユズ君に拉致監禁、暴行された事件はご存知ですね」
 マルスは苦い顔で俯いたまま、「ああ」と一言、低い声で肯定した。
彼女は顔を上げ、マルスとルウェナを交互に見て、「風紀委員長が悪いわけじゃないから」と気まずそうに付け加えた。
「動機は痴情のもつれ……それも()()副委員長ライズ君を巡って争っていたとか」
 ルウェナはヤンレンのフォローにも眉一つ動かさず、厳しい声音で続ける。
「学園の風紀を守るのがあなた方の責務のはず。それが自ら風紀を乱していたとは、一体誰が想像したことでしょう」
 そこに思い至らなかったなんて、僕はどれだけ浅はかだったのか。
 ライズもヤンレンも、こと学園の風紀という点では純粋な被害者ではいられない。
「あの姉弟をスカウトしたのは俺だからな。俺の見る目がなかったようだ……」
 マルスは苦虫を噛み潰した顔で、深い溜め息をついた。 
「先代委員長の不始末も、この場は代わって俺に詫びさせてくれ」
 深々と頭を垂れるマルスの横で、ごめんなさい、と一言、囁いた。
 唯一この件に絡んでいない彼に頭を下げさせることが心苦しい。
 しかし、ルウェナの追及はさらに続く。
「それだけではないわ。ライズ君」
 矛先がこちらに向き、ルウェナに睨みつけられた瞬間、どきりとした。
 顔合わせであんなに優しかったのが嘘みたいだ。
「あなたは事件当日、ヤンレンさんの部屋にいたそうではありませんか」
 まずい。
 もうそこまで掴んでいたなんて。
 今回の事件の大きさに比べれば些末なことかもしれないが、規則違反は規則違反だ。
「前委員長のキャミィさんとも随分懇意にしていたようだけれど、彼女の部屋にも入っていたの?」
 一体どこから発覚してしまったのか。
 キャミィやユリは自分に都合の悪いことをわざわざ話すようには思えない。
 退学を覚悟し、ライズを巻き添えにしようとヤケになって洗いざらい話してしまったのか?
「驚いた顔をしているわね。身に覚えがないと? それとも、どうしてバレたのか気になるのかしら」
 ルウェナには完全に見抜かれている。
 これは言い逃れできない。
「ユズ君に聞きましたよ。姉から黙秘を命じられていたようですが、先生方に代わって私が問い詰めたらすぐに話してくださいましたわ」
 ああ。彼なら、ユリと離してしまえば、そういうこともあり得る。姉に洗脳されていなければ、根は真面目な少年だし。
 ルウェナの隣に座るヤンレンは口を閉ざしたままだ。下手に言い訳でもしようものなら墓穴を掘ることになる。
「長期休暇に異性の寮に侵入する男女が跡を絶たないような学園ですから、驚きはしないけれど……あなたは皆の手本となり、それを罰する権利すら持つ立場でしょう」
「待て、ルウェナ。こんな事件を起こしたヤツの言うことを真に受けるのかよ? 証拠もなしに」
 何も答えられないライズを、マルスが庇ってくれた。でも、嘘の上手なひとじゃないから、苦し紛れなのは丸分かりだ。
「前委員長との関係はともかく、ヤンレンさんの部屋に入ったことについては、調べても良いのよ。彼の証言が事実なら、彼女の部屋からニンフィアの毛の一本くらいは出てくるでしょう」
 ルウェナはおもむろに席を立って、マルスの前に進み出た。立ち上がったところでギャロップのマルスよりもずいぶん小さいのに、何倍も大きく見える。下から見下ろしている。そんな表現が似つかわしい。
「マルス君。あなたは本当に、何も知らないのかしら?」
 あのマルスが完全に気圧されている。偽証などしようものなら殺す、と言わんばかりの鋭い眼光だ。
「まさか風紀委員長のあなたが、見て見ぬ振りをすることはありませんよね?」
 自由国家ランナベールの気風そのままに、学園の風紀などあってないようなものだ。風紀委員の活動は形骸化し、選挙も単なる人気投票になってしまった。それでも一応、絶大な人気を誇る学生が模範を示すことで学園の風紀を保つ、という体面があるにはあった。
 だが、今となっては風紀委員の面目も丸潰れだ。マルスまで罰を受けるようなことになれば、風紀委員自体の存続も危うくなる。
「マルス先輩には、僕と彼女の関係を話したことはありません」
 風紀委員で唯一、真面目に規則を守っている彼が糾弾されるのを、見ていられなかった。
 ライズが口を開くとルウェナがこちらに向き直る。
「……そうですか。貴方がそう言うのであれば、彼の潔白は信じましょう」
 再び鋭い眼光に射抜かれたが、もう身が竦むことはなかった。
「そして……嫌疑を認めるということですね?」
 ライズは大きく深呼吸をして、その場の全員を見渡した。
 疑念、不安、心配――各々の視線に込められた感情は、様々だ。
 覚悟を決め、ライズは全てを話した。
 キャミィ先輩と交際していたこと、何度も部屋に入ったこと、破局後も彼女がライズに執着していたこと。それが動機で今回の事件が起こったこと。
 それから、ライズがヤンレンの部屋にいた証拠も、探せば出てくるであろうことも。
 ヤンレンには悪いと思ったけれど、ここまでくると逃げられないのは彼女も承知だろう。
「待ってよライズ様……!」
 しかし、それでもヤンレンは最後の抵抗を試みた。
「キャミィ先輩は無理矢理だったんでしょ? ライズ様は悪くないじゃん! 私とのことだって、私が無理なお願いをしたから……」
 自分のためではなく、ライズのために。
「ヤンレンさん。貴女がライズ君の意思に反して強制していたのなら、彼が人質になったあなたを彼が助けに行くのは辻褄が合わないわ」
 さすがに苦しい言い訳だった。互いの応援演説までしていたライズとヤンレンが懇意にしているのは誰の目にも明らかだ。新人役員達からの視線も痛い。
 ルウェナはおもむろに細い腕を伸ばして、ライズの顎をクイっと引き上げた。
「いかにも真面目そうな顔をして……とんだプレイボーイね」
 顔が近い。ライズはごくりと唾を飲み込んだ。
 彼女の体からはライチのような独特の甘酸っぱい香りがして、少し頭がくらっとした。
 アマージョの体質ゆえか、ニンフィアやエネコロロの異性を虜にする香りとはまた違うけれど、ライズを緊張させるくらいには効果があった。
 まっすぐにライズを見据える瞳の奥で、一体何を考えているのか。つい跪きたくなるような、
 わけのわからないまま見つめ合うこと、十秒かそこらか。先に目を逸らしたのはルウェナの方だった。
「危険だわ……」
 つぶやいたルウェナの顔が、心なしか、少し赤くなっていた。
「数々の女学生を虜にし、あのキャミィさんを暴挙に駆り立てた……たしかに、あなたには……それだけの魅力があるようね」
 おまけに、それまで凛とした態度を一切崩さなかったのに、声が震えていた。
 固唾を飲んで二匹を見ていた周りの学生たちも、これには驚きを隠せない様子だ。
「会長、お気を確かに……!」
 一年生のケンタロス、ゼネルが声を上げる。
 たぶん、ルウェナはライズを威圧しようとしたのだろう。
 それで自滅することになるなんて、露ほども思わずに。
「会長……? 具合でも悪いのですか?」
 ライズは気づかないふりをして、ルウェナの心を落ち着かせてあげようと、リボンの触手を差し出した。
「……っ」
 が、ルウェナはリボンを払い退け、こちらを睨みつける。
「私は正気です! ……惑わされたりなど、するものですか」
 ルウェナはそれきりライズの目を見ることなく、くるりと踵を返す。
 席に戻ると、こほん、と一つ咳払いをして、その場の皆を見回した。
「さて。ライズ君も認めたところで……ここからは茶番は無しです」
 なんだか変な空気になってしまったが、さすがに生徒自治会長は切り替えが早い。
 ルウェナは完全に落ち着きを取り戻していた。
 それどころか、一瞬で場の雰囲気を厳かなものへと変えてしまう。
「本題に入りましょうか。今回の事件、および風紀委員による不純異性交遊問題。これらについて議論の上、関係者への懲罰を決定します。風紀委員会の存続の是非も問うことになりますが、よろしいですね?」
 ライズが全てを認めてしまった以上は、もう誰も異論を唱える者はいなかった。

門の向こう 


 生徒自治会により下されたライズへの罰は、風紀委員の罷免と、停学三ヶ月。
 ロッコとの関係は疑惑に終わったものの、キャミィやヤンレンと複数回に渡る関係を持った上で、それを隠して風紀副委員長など務めていたことは悪質だと、厳しい処分が下された。
 二年生前期の単位取得は絶望的で、せっかくの飛び級もなかったことになってしまう。
 自業自得と言えば自業自得だが、皆の期待を裏切ることになったのはあまりに申し訳ない。

 ヤンレンは生徒自治会副会長から降格して書記に、入れ替わりにエテボースのクレリクが書記から副委員長へ。
 それと、二週間の謹慎処分。
 今回の一件では最大の被害者でもある、ということで情状酌量となった。

 キャミィとユリは退学一歩手前の無期停学、ユズは半年の停学処分と、主犯格には厳しい処分が下った。

 一連の処分が決定した翌日。
 学園に呼び出されて一通りの説明を受けた母は、ただただ悲しい顔をしていた。
 まさか停学になった息子を連れて帰ることになろうとは、夢にも思っていなかっただろう。
「あなたを自由に育てすぎたのかしらね……」
 春も終わり、夏の姿に移り変わる最中のメブキジカ。ピンクの花が散り、青い葉が茂り始めている。
 いつも帰省するのは長期休暇のある夏と春だから、季節の合間の母の姿を見るのは随分と久しぶりだ。
 こんな形で見ることになろうとは思わなかったけれど。
 門の前には、たったひとりの風紀委員になってしまったマルス、ロッコとミツ、フォール、それからキャスが見送りに来ていた。
 ヤンレンは謹慎処分で許可なく寮から出られず、この場にはいない。
 ライズと関係を持ってしまったロッコとキャスは気まずい表情をしていた。
「どうしてライズだけ……とは、やっぱり思ってしまう。けど、わたしはライズの名誉を守るから。それだけは覚えておいて」
 ロッコはいつにも増して、ぎゅっと力強く、抱きしめてくれた。
「優等生じゃなくたって、ライズはボクの友達には変わりないよ。帰って来るのを待ってる」
 ヤンレンの言葉を思い返すと、キャスの真意はわからない。
 でも、彼がこの場に来てくれたこと、そして友達だと言ってくれただけで十分だ。
「まさかオレより先にライズが停学になるとは思わなかったぜ。自由の国でもやっぱガッコーは厳しいよなぁ。オレも気をつけねーと――」
 フォールはいつもの軽口を叩こうとしたが、ライズの後ろにいる母をちらと見て、気まずそうに目をそらした。
「――や、冗談っす! お母さん、ライズに似て綺麗ですね! ハハハ!」
 使い慣れない敬語で言葉がおかしくなっている。
 母が反応に困っているのを見て、ライズは思わず吹き出してしまった。
「フォール君、なんにもフォローになってない……」
 が、ミツは表情一つ変えず、フォールを小突く。
 ミツはライズとは違って、仮面も何もない、本当に真面目な子だ。
「ちゃんと反省して……帰ってきてね、ライズ君」
「ありがとう、ミツさん」
 それから、後ろで見守っていた大きな影がひとつ。
「……ライズ。俺は、お前を責めるつもりはないからな」
 最後に口を開いたのは、たったひとりの風紀委員となってしまったマルスだ。
 風紀委員を廃止、自治会に統合する案も出たが、マルスを中心に再編成することでどうにか存続は決定した。
 しかしそれもマルスの身辺調査を行って潔白が証明された後になるという。
「でも……ごめんなさい。マルス先輩まで疑われることになって……」
「安心しろって。風紀委員は俺ひとりでも立て直してやるさ。これでも俺は、学園一の人気者らしいからな」
 マルスは冗談めかしてそんなことを言うと、不敵に笑った。
「ライズのお母さん。あなたの息子は悪いやつじゃない。ライズを信じてやってください」
「ありがとう……。ライズは良いお友達に恵まれたのね」
 ライズはもう一度皆にお礼を言って、母と二匹、踵を返した。

 遠ざかってゆく学園の門を見ながら、ライズは中等部の頃を思い出していた。
 あのときは、門の向こう側から、マチルダ先生を見送ったんだっけ。
 彼女もこうして後ろめたい気持ちを抱えながらこの道を歩いたのだろうか。

 思えば、やったことの本質は彼女と何も変わらない。
 彼女が僕に惹かれたのも、きっと類は友を呼ぶというやつで。
 
「ライズ様ー!」

 そんなことを考えていたら、背後から彼女の元気な声が聞こえてきた。
 振り返ると、門の鉄格子の向こうで青い体が跳ねていた。
「ヤンレンさん……?」
 何か言っているみたいだけど、もうずいぶん遠くに離れてしまって、何を言っているかは聞き取れない。
「お友達? 戻らなくていいの?」
 母もヤンレンに気づいたみたいだが、ライズはゆっくりと首を振った。
「また戻ったら、長くなりそうだし」
 傷も完治していないし、謹慎中だ。
 名残惜しくはあるけれど、僕ももう踏ん切りをつけなくちゃいけない。

 ライズはできるだけリボンを広げて、ヒラヒラと大きく振る。
 そして自分らしくもない、とびきり元気な声で叫んだ。

「ありがとーー!!」


 -Fin- 


あとがき 

お久しぶりです。三月兎です。
このお話だけは終わらせて活動を休止しようと思っていたのですが
直前で失速してしまいました……
更新を待っていた方には申し訳ありません。

この先のお話もいろいろ考えてはいるのですが
更新の継続が難しいので、今後は気が向いたときに一話完結の短編を投稿していけたらと思います。

ご拝読ありがとうございました。


コメント欄 

コメントいただけると嬉しいです!

最新の10件を表示しています。 コメントページを参照

  • 今日久しぶりに見たら更新されてた!
    執筆お疲れ様です。続きも期待させていただきます。 -- UNO ?
  • ずっとコメント返せていなくて、更新も止まっていてごめんなさい::
    応援ありがとうございます!
    また活動していきますのでよろしくおねがいします……! -- 三月兎
  • あのドロドロ展開からどういう結末になるのかと思いきや綺麗に青春物語としてまとまってびっくりしました
    フォール君やっぱりイケメンですね〜 --
  • 完成お疲れさまでした。日頃、お忙しいと推察しますので、簡潔に。
    最終的に厳しい処分が下ってしまったわけですが、自分がこんな甘々で充実した学園生活を送れたら、20歳くらいで天に召されても「あんなことやこんなことがあったけど、いい人生だったな」ときっと悔いはないと思います。
    海外旅行などというものに熱をあげてしまい、こういう青春とは無縁だったので、とても新鮮でした。
    個人的には、オトコ同士でも構わないから、シオン君とライズ君に一緒になってほしいですね。かかあ天下だと大変でしょうし。
    完成お疲れさまでした。ゆっくり休んでください。 -- 呂蒙
  • 完結おめでとうございまーす! 長きに渡っての執筆お疲れ様でした。やりましたね!!
    なんといいましょうか、物語的にはライズさんってもう少し聖域的な立ち位置だと思っていまして、順当に処分を受ける流れは意外でした。
    が、何と言いますか、無抵抗ではなく、ルウェナさんにリボンを差し出す辺りですとか、すごく狡猾というか強気というか、ともすれば生徒会全てを牛耳ってしまおうというその一線を、自らの意思で超えようとしていた辺りですとか素晴らしいです。よね!
    高嶺の花でもなんでもないとは以前より言及されてましたけれど、悪魔的な一面を覗かせて、いよいよ"ただの身近なポケモン"へと降りて来たかのような、そういう、こう、素敵。素敵です。 …この解釈が正しいのか分かんないですしこれで伝わるのかどうかも分かんないですけれど!!
    何はともあれ、今しばらくはごゆるりとお過ごしくださいませ! 素敵でした!! --
  • 皆様感想ありがとうございます!

    >名無しさん
    綺麗な青春物語……なのでしょうか(?)

    >呂蒙さん
    少々邪道な青春かもしれませんが、せっかくの学園物なので、そこを楽しんでいただけて嬉しいです、
    BL展開は色々考えつつも形にはなりませんでしたね(
    いつか書きたいものです。

    >名無しさん
    ライズ君は周りからは完璧超人に見えて、実は中身は等身大の少年……
    というのが、作者としてのキャラクターイメージではあります。
    本人の葛藤や悩みとして描いてはいましたが、ようやくストーリーにも反映された形ですね。

    最後まで読んでいただきありがとうございます! -- 三月兎
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Last-modified: 2020-10-13 (火) 18:48:48
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