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てのひらの小説

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てのひらの小説



水のミドリ掌編小説集第1弾。処女作です。



目次



花と 


 東からやおら春一番が吹いて、頭の一枚葉を優しくなでた。
 風の中にはかすかに、しかし懐かしい香りが充ちていて、咲夜は今しがた通り過ぎた双子の大樹が梅であることに気付いた。枝の先端に芽吹いたつぼみが、花開く時を今か今かと待っている。もう一度風が吹いて、木に覆いかぶさっていた雪をぞろり、と落とした。
「春か……」
 今年の春先はいまだ寒い日が続き、あたりの木々にも雪が残ったままだ。咲夜の住む村では広場にたいそう立派な桜の木が枝葉を広げているのだが、その香りがこの梅のものと似ているのだ。雪を被った村の桜は遠くから見ると、村一番の泣き虫である吉野が、大きなユキノオーに食べられる、と怯えたほどであった。吉野は村の悪餓鬼から目をつけられていて、陰口をたたかれたり、時には小石まで投げられたりした。そのたびに咲夜が追っ払っていたのだが、このときはその乳飲み子のような言葉に呆れ、咲夜でさえため息をつくばかりであった。
 その吉野が、病に倒れた。
 二日前の晩、宵も寅の刻というのに吉野の家には行燈の明かりがともっていて、ぱたぱたと騒がしい。何事かと様子をうかがいに行ってみれば、吉野が顔を火照らせて床に伏している。聞くところによるとこうだ。夜になっても姿がつぼみに戻らない。しばらく様子を見れば大事には至らないだろうと寝かせておいたが、今になって症状が悪い方に転がった。聞いたことも見たこともない病状で打つ手がなく、ただただ額に当てた手拭いを取り換えるしかない。村唯一の医者が町へ出たっきり、雪に阻まれて帰れなくなっていたところだった。
 聞くや否や、咲夜は村を飛び出していた。町まで下りれば、他の医者を呼びにやれるか、そうでなくとも万能薬が手に入るに違いない。幸い佐柳(さなぎ)の国は薬に長けている。そうそう運が悪くなければ、何とかなるはずだ。夜通し枝と枝とを渡り続けて、手のひらは血が滲み、体のいたるところに切り傷ができていた。足元の雪は体力を奪い、思いのままに動かしていた体も、流石に言うことを聞かなくなってきた。
「ここまで来れば、もう大丈夫だろう」
 咲夜は口を突いて出た自身の言葉に息を詰まらせた。額から染み出した嫌な汗を手の甲で拭い、邪念を払うかのように頭を振るう。梅の枝に腰かけると、頭の葉を千切って丸め、穴をあけて口に当てた。優しい、しかしどこか頼りないような音色だった。咲夜は、村の一本桜の頂上で吉野と戯れた時を思い出していた。吉野はやはり高いところを怖がっていたが、咲夜の草笛の音を聞くと落ち着いて、そっと咲夜に寄り添った。柔らかな風が巻き上がり、笛の音と桜の花びらを乗せてどこまでも飛んでいくように思われた。それから村の桜の頂は、咲夜と吉野のお気に入りの場所になった。
 突然、一段と強い風が吹き、梅の枝が揺れた。つぼみがいくつか吹き飛ばされ、咲夜はぎょっとした。あわてて草笛でそれらをまとめて包む。
「もし、咲夜よ」
 不意に頭の上から声がした。見上げると、先ほどまで座っていた梅の枝に黒い影が咲夜を見据えていた。
「……おまえが風を起こしたか」
「いや、違う。そのつぼみは落ちるべくして落ちたのだ」
 奴は村の医者だった。咲夜は一向に警戒を解こうとしない。医者のなにかとても不吉なものを感じ取ったのだ。わざわいポケモンと呼ばれるだけはある。進化していれば、このような胡散臭い奴など吹き飛ばしてくれる、と咲夜は思った。
「何か用か。おれは急いでいるんだ。雪の中を進める医者か、いなければ薬を探しに来たんだ。おまえは村に戻れず、ここで立ち往生していたのか」
「嘘を言うな。……もうあの吉野という娘、助からんぞ。お前も知っている(・・・・・)だろう」
 ざり、と先を行く足が止まった。咲夜は振り向きざまに思い切りにらみつけ、頭から葉の刃を勢いよく飛ばした。しかし村医者は角を一振りしただけで、飛んできたすべての刃を弾き落としてしまった。
「乱暴に葉を飛ばすと、つぼみに当たってしまうぞ」
「五月蠅い! 吉野が病にかかったと知っているのか。病人を見捨てるなんて、医者として非ざる行いだ! なぜこんな処にいるんだ!!」
「それは、お前と同じ理由だよ。生き延びるためだ」
 憎悪と焦燥をあらわにする咲夜に対し、村医者はいたって冷静だった。咲夜の周りに空気が渦巻く。空気の刃が、彼の怒りを乗せて村医者に襲い掛かった。しかし、村医者も同じように空気の刃を操り、中空で刃同士がいびつな音をたててぶつかった。
 一瞬の沈黙。そして轟音。
「なんだ!?」
「来たか」
 慌てふためく咲夜に、村医者は慈悲もなく呟いた。咲夜が頭を抱え地に伏している十数秒のうちに、白の塊はあたり一面を飲み込んで、双子の梅の木の片方をなぎ倒し、咲夜が今来た道を跡形もなく消し去った。
 形をとどめていないつぼみが、咲夜の目の前に流れ着いた。震える手でそれを掬う。
「お前は物の怪の子だから、私と同じように神通力が使えるのだろう。お前は村を飛び出したのは淡い恋心からだと思っているだろうが、それは違う。天の声が逃げろ、と言ったのだ。何も悔やむことはない。私たちの村は、こうなる運命だったのだ」
 咲夜は壊れたつぼみを抱きかかえながら、大声をあげて泣き続けた。
 梅は、別の名を木ノ花という。


イースターのたまご 


 どこまで見渡しても一面の草原に、大きな樹が1本だけ立っていました。なんと言う名前の樹なのか、樹齢は何歳なのか、そんなことは誰も知りませんでしたが、樹はどっしりと大地に根を下ろし、枝は広々と空をおおい、葉は5月のはじめの太陽を存分によろこんでいました。
 樹のいちばん長く伸びる枝の影が、赤い屋根の家にかかっています。光をはらんだ優しい風が小さな家の窓から入り込み、おいしそうなパイのにおいと陽気な鼻歌を持ち出してゆきました。楽しげなハーモニーを奏でるように、樹の葉は風に揺れ、草原には波が広がってゆきます。
「あら、今日もいい天気ねぇ!」
 ピンクに可愛く塗られたドアから、20代後半と思われる可憐な女性が顔を出しました。両手には刺繍つきのミトンがつけられたままです。今日は旦那さんのお誕生日だから、彼の大好きなピーカンパイを焼いているのでした。草原と同じ若草色のエプロンをつけて、ひと昔前にはやったラヴソングを口ずさみます。前髪の寝癖はなおし切れていないようで、風に吹かれてエプロンといっしょにたなびいていました。女性はひとつ大きな伸びをすると勢いよくかけ出して、草の上にぽてり、と転がりました。
 いつもと変わらない、けれどちょっと特別な朝でした。
 とつぜん、草原にポケモンの鳴き声がひびきます。
「りる、りるりー!!」
 あら、と女性は身を起こします。川に水を汲みに行ったイースターが帰ってきたのです。イースターは旦那さんのポケモンで、仕事で留守にしている間じゅう、女性のお手伝いをしているのでした。イースターはちからもちだから、バケツを一度にみっつも持てるのです。しかし、どうも帰りがいつもより早い気がします。いつもは水汲みのついでに川遊びもしてくるらしく、帰るのはお日さまが樹のてっぺんを過ぎるあたりになるのです。
「あらあらどうしたの。 ……ってまぁ!」
「りるり!」
 イースターが手に持っていたのは、水のはいったバケツではなく、ポケモンのたまごでした。にわとりの卵ならそれひとつでパイが作れてしまいそうなほどの、大きなたまごでした。
「これ、あなたが生んだの? って、違うわよねぇ。男の子だもの。ひろってきてはダメよ。ほんとうのお母さんが困ってしまうじゃない」
「りる!」
 女性はいたずらを優しくとがめますが、しきりにイースターはたまごを差し出します。身長が届かないので、小さい足をたてて背伸びしています。つらい体勢らしく、青いうでがぷるぷると震えています。どうしたの、と女性はたまごを受け取ると、たまごは冷え切っているではありませんか。
「まさか…… 流れてきたの?」
「りる!!」
「あら、それはたいへん! 早くあたためてあげないと!」
 イースターは勢いよく頭を縦に振りました。耳がやわらかく揺れます。どうしようかしら、とはにかむと、女性は家にもどってお気に入りのブランケットでたまごをくるみました。女性が優しく胸にだくと、たまごはまるで光のてらされた深海のように、美しくかがやきます。
「これで、よし! 水汲みはまた明日にしましょう!」
 女性はたまごをイースターにわたすと、読みかけの本を持って木陰にかけてゆきました。洗濯物を干してしまったので、もう午前中はやることがありません。鼻歌を唄う女性を追うように急いで、しかしたまごを落とさないようにイースターもかけてゆきます。風が1人と1匹をつつむように、優しく草原をかけぬけました。

 どこまで見渡しても一面の草原に、大きな樹が1本だけ立っていました。なんと言う名前の樹なのか、樹齢は何歳なのか、そんなことは誰も知りませんでしたが、樹はどっしりと大地に根を下ろし、枝は広々と空をおおい、葉は5月のはじめの太陽を存分によろこんでいました。
 木の根元で、ポケモンと可憐な女性がお昼寝をしています。青い体に白の斑点のあるたまごみたいなポケモンは、ブランケットにくるまれた青く斑点のあるたまごをおなかに大事そうにかかえています。女性はというと、自分のおなかに手を置いて、やさしく、やさしくなでているのでした。
 パイの焼きあがるにおいが、草原をみたしてゆきます。


星の寝台 


 地表から飛び出たひときわ大きな岩柱の陰に太陽が隠れた。オレンジ色の光が闇に吸い寄せられるように収束すると、群青と黒紫を混ぜ込んだ空の遥か彼方には、いくつもの星々が漫然と輝いていた。
 石灰質の大地が長い年月をかけて抉り取られ、蔦を生やした硬質の岩の柱が天に向かって幾本もそびえ立つ。息をのむような幻想的な風景を、何千年もの間変わることのなかったかのような静寂が包んだ。
 岩柱の頂に影がふたつ。
「なぁ(さく)。おまえはこれでよかったのか?」
「どうした急に。怪物は倒せたんだ。これ以上言うことはないだろう、フルート」
 体長が2メートルはあろうかという大きな体のポケモンが、どこか意地悪そうに笑った。よく見れば全身傷だらけで、相手を笑っていても様になっていない。
「そうじゃなくて、あれだけ人間嫌いだったおまえが、危機を察知するや否や人間に頼ろうとするんだもの。僕思わず笑っちゃったよ」
「そうでもしなければ、あの男を止めることは出来なかっただろうな」
 小さい方のポケモンは、顔色一つ変えずに答えた。漆黒の三日月形の角が、満天の星空の下で映える。だんだんと薄れてゆく太陽の光を惜しむかのように、朔は目を細めた。
 フルートも真似をして目を細める。尻尾は悪戯っぽく左右に振れたままだ。
「捕まって、サーカスの見せ物にされてたんだって?」
「……」
 朔は答えないまま、空を見上げた。太陽はいよいよ地平線に沈んだのか、あたりには星明かりと蓄光菌のうすい光しかない。あたりに漂う焦げたようなにおいと薄い煙は、ほんのわずかな空気の流れがゆっくりと綯い交ぜにしてくれているようだった。反応のない朔に諦めたのか、フルートは体の傷をしきりに舐めていた。
「あの少年を選んだのは正解だったろう?」
「うん、背中の乗せ心地サイコーだった。彦さまはあっちのメガネのがお気に入りだったみたいだけど」
 フルートは眼下にいる少年たちを顎で指した。振り向きざまに長い触角が朔の鋭利な角に当たって、イテ、と呟いた。少年たちに見守られて、彦さまは淡い光に包まれながら眠りに落ちるところだった。
「彦さまにお会いするのは、また一千年後か」
「気の遠くなるような未来だよね。僕の子供の子供の、子供くらい?」
「馬鹿、もっともっと未来のことさ」
 ふぅん、と興味のなさそうに返事をして、丸くなった朔の背中を見つめた。
「僕こう見えても虫だからさ、おまえよりだいぶ短命なんだ。 ……寂しくなるね」
 朔は答えなかった。何も言わずに鉛のように重くなった腰を上げ、大きな伸びをひとつだけした。フルートもつられるように錆びついた翼を広げ、2,3度ゆっくりと羽ばたいた。
 赤色のカバーから滴が染み出す。
「達者で」
「うん」
 あまたの星々に見守られながら、ファウンスには子守唄が響く。


縫合の叫び 


 コフィの夢は国一番の医者になることだった。だった、というのは、今ではもう凄腕の医者になったからである。
 コフィが医者を目指すきっかけになったのは、高校に入学して間もない16歳*1の時のことであった。彼女の父親はヘビースモーカーで、絶えずその双子の体から毒ガスを撒いているようなダメ親父だったが、ある晩寝ぼけて鬼火を吐き、20年ローンがたんと残った新居を消し炭に変えてしまった。それが原因で彼女の両親は離婚し、彼女は母親に引き取られることになったのだが、幸運にも彼女の母親は上場企業に勤めるキャリアウーマンだったので、女手一つで彼女を育てることができているのである。
 ともかくも、その大火事のさなかにコフィを救い出したのが救助隊員のハーシーだった。
 彼は炎に弱いタイプでありながら先陣を切って火に飛び込んでゆく勇敢さと、状況把握や火事の被害者への気遣いもできる冷静さを持ち合わせた青年だった。巧みに風を操り炎を退け、薄い壁なら勢いよくすり抜ける。熱と煙に恐怖していたコフィの目の前に現れた彼は、さながら白羊に乗った王子様であった。
 そんなわけで、コフィがハーシーに恋をするのも時間の問題であった。
 初めは礼をしたい、と言って連絡先を受け取り、週末に会う約束をとり付けた。そこで彼はどんな食べ物が好きなのか、映画は、お洒落は、音楽は、そしてもちろんどんなタイプの女の子が好きなのかを聞いて、家に帰ってから忘れることのないようメモに書き殴った。ハーシーも満更ではないようで、ほどなくして二人は付き合い始めた。ハーシーが人のために力を尽くす娘が好きだ、とこぼしたのでコフィは医者を目指したのである。仕事で多忙な母親の背中を見て育ったコフィは、私を寂しくしない人が好き、と口癖のように言っていたのだが、恋焦がれている乙女というのはそれほど単純なものなのだ。
 コフィは恋人ができたことを母親には黙っていた。と言っても実際には筒抜けで、母親が黙認している状態であった。娘に恋人ができてからというもの、彼女が遊びほうけるでもなく、むしろ勉強熱心になっていったのである。恋は盲目、という言葉があるが、こういう方便で使われることもないだろう、と母親も鼻を高くしていた。
 しかし、親と子は似るものである。母親もまた盲目であった。娘が何の勉強に励んでいるのか、まったく知らなかったのである。
 コフィが高校3年生で初めての三者面談で、事件は起こった。夜間の仕事で忙しいハーシーとは案の定疎遠になっていたが、医者になる夢は変わっていなかった。意志の強さが幸いしたのか、恋に向けていた意欲がすべて勤勉に向かい、成績も学年で5本の指に入るのではと噂されるほどだった。そのせいかどうかはわからないが、仲の良かった友達ともいざこざがあって、コフィはクラスの中でも浮いた存在になっていた。
 コフィはおそるおそる言った。
「私、医大を目指しているんですけど」
 言った瞬間、コフィは何かとてつもない間違いを犯してしまった、と直感した。教員室の時間が、まるで砂時計を横においたかのように止まったのだ。面談していた担任の綾香先生はぽかん、と口を開けたままだし、会話を耳にしただろう向こうにいる飛行実技のリドリー先生は、自慢の鋼の体にオイルをたらし続けている。いつも居眠りしているはずの夢眠(ムーミン)先生の頭からは夢の煙が途絶え、横にいる母親に至っては驚愕のあまり手と目と口をすべて体に仕舞い込んでいた。
「ええと……」
 張本人であるコフィをよそに、すぐさま母親と先生たちで緊急の職員会議が開かれた。いつから医者になりたいだなんて言い出したんだ、とか、普通気づくもんだろう、とか、これは学校の面子にかかわる、とか聞こえてきたが、最終的に母親からはこう説得されただけだった。
「私たちの種族は医者にはなれないのよ。だってホラ、見た目がこうじゃない? 医者なんかにこだわってないで、もっと遊んだっていいのよ。学生なんだから」
 母親は手をヒラヒラさせ、無い肩をすくめて見せた。コフィにとっては4本の器用な腕と患者を横たわらせる寝台付きの体なんて医者にうってつけだと思われたのだが、つまり仕方のないことだからあきらめなさい、という意味なのだろう。なんともない仕草だったが、コフィにはそれが先生から友達から恋人から、それに家族からも見放されたように感じたのだ。
 コフィは自分を繋ぎ止めていた糸がぷつり、と切れてしまったと思った。
 やけくそになって、腹の内をおもいっきり叫んだ。
「もうお母さんなんて知らない! そんな種族主義、今どき流行らないんだから! 絶対有名な医者になって、お母さんも先生も友達も、みんなみんな絶対見返してやるんだからっ!!」
 その勢いのままコフィは家を飛び出した。飛び出してからは早かった。ハーシーの家に転がり込み、朝から晩まで学習参考書とにらみ合っていた。ハーシーも勤勉な女性は嫌いでなかったし、何より人のためになることを生きがいとしている善人を絵にかいたような性格だったから、勉強に打ち込むコフィを全力で手助けした。それに、彼女を助けたのは恋人だけではない。毎月末になると彼女の口座にいくらばかりか振り込まれているのである。コフィはその度に喧嘩別れの様になってしまった母親宛に、謝罪と感謝をつづった手紙をポストに入れるのだった。綾香先生もコフィの意気込みに押され、放課後もつきっきりで化学や数学を教え、仕舞いにはコフィの成長ぶりに圧巻され有名医大への推薦を出すほどだった。険悪な仲だった友達ともいつの間にか仲直りしてしまっていた。
 しかも、コフィが医者を目指しているという風の噂を聞き付けたのか、離婚した父親までもたまに面倒を見てくれるようになった。こんな娘でよければもらってやってくれ、と冗談交じりにハーシーをおちょくるのだが、ハーシーは相性が悪いらしくひきつった笑顔で頷くだけであった。また可笑しな話だが、コフィとハーシーがくっつく前に、父親と母親が再婚したのである。結婚を決めたコフィが実家の玄関をくぐると両親が仲睦ましく談笑しているものだから、開いた口が塞がらない。1年ぶりに顔を出したと思ったら結婚するなんて頭ごなしに叱られると覚悟していたが、両親とも
「まぁいいんじゃない?」
の一言で片づけるものだから、あっけなくゴールインしたのだ。
 あの時の叫びが、ばらばらになったコフィの体を、またひとつに縫い合わせてくれたみたいだった。
 そういうわけで、丘の上には小さな棺桶病院がある。


流星落とし 


 ダーズワンのハンマーのような右腕が、柏和(かしわ)がほんの刹那までいた地面に広くクレーターを作った。最小限の動きでそれをかわし、脚を滑らせながら、しなやかに引き締まった筋肉を収縮させる。奴の腕が地面にめり込んでしばらく動けないうちにすかさず懐に飛び込み、その隙のできた右わき腹に、瓦をかち割らんとするばかりに拳を突き上げた。顔の側面から汗が飛び散り、地面にうすい染みを作る。
 ダーズワンの眼がかすかに歪む。同じところに4発も渾身の拳を見舞えば、流石にプロテクターをまとった体も限界か。自分の荒い呼吸と心臓の音だけが響く。乱暴に振り下ろされる腕と角をかいくぐり、柏和は奴の襟首に鋭い鉤爪をくいこませた。そのまま奴に体重をのしかけ、顔を思い切り近づける。
 今まであまり変わることのなかった顔が、驚愕の色に染まる。柏和はその見開かれた眼をあらん限りの見幕で睨みつけてやった。
 柏和は脚で奴を思い切り蹴飛ばした。驚きで踏ん張りがきかなかったのか、300キロを超すだろう巨体は面白いほどに軽々と転がった。柏和はそのままの勢いを殺さずにバックステップ。2、3度跳ねてから飛び上がり滑空すると、ひときわ高い岩の柱に降り立った。
 集中。
 何とか体勢を立て直したダーズワンが両の掌から岩石を打ち出してくるが、もう間に合わない。柏和を激しい光がつつむ。
 両腕の膜にエネルギーが集約される。空気抵抗がなるべく働かない姿勢をとると、柏和はそのまま奴に狙いを定め、脚の緊張を爆発させた。
 時が止まったかのようだった。
 闇夜を二分するまばゆい光が走り、けたたましい轟音。まるで流星が落ちてきたかのようだった。巻き上がった砂塵が晴れると、大地には3メートルを越そうかというほどの大男が倒れていた。
 試合終了の鐘と熱狂する観客の歓声が、ようやく柏和の耳に届いた。

「新チャンピオンの誕生おめでとう、柏和」
 控室で声をかけてきたのはあのダーズワンだった。頭に包帯を巻いている。
「……」
 柏和は差し出された手を邪険に振り払った。握手を拒まれたダーズワンは苦笑いして、ばつが悪そうに手をひっこめた。
「だいぶ嫌われているようだね」
「……当たり前だろう。お前には訊きたいことが山ほどある」
「俺も言いたいことが山ほどあるぞ」
 ダーズワンの口ぶりが癪に障ったが、柏和は手を出さなかった。ここで暴れて追い出されては本来の目的が果たせなくなる。コロシアムの控室はリングと対照的に静まり返っていた。さして大きくもない部屋には明かりとりの小窓が2つと歴代チャンピオンの銅像、入り口を見張るガードマンしかいない。ダーズワンは見張りの男を一瞥してから、柏和に耳打ちした。
「ここでは場所が悪い。今夜9時に交差点のバーで会おう。お前の義父(おやじ)の行きつけだった」
 聞いた途端、柏和の目が大きく見開かれた。リングの上で躍っていた時のように、心臓が高鳴る。体が硬直してしまって、顔だけで振り返った。
 どこか含みのある笑みを残して、ダーズワンはそのまま、先端が円い尻尾を引きずって闇に消えていった。

 柏和の義父(ちちおや)は、ここトレジャータウンいちの拳闘士だった。
 長く続くコロシアムの歴史の中で、彼は異色の存在だった。大概の拳闘士は大柄で筋肉質で、先のダーズワンのように腕っ節の強い猛者たちである。が、柏和の義父は身長が1メートルと半分にも満たない小柄な体格であった。加えて頑丈な装甲を身にまとっているわけでもなく、角のような強靭な武器を備えているわけでもない。彼の武器はそのカリスマ性にあった。彼がひとたびリングに上がれば、観衆の声援はやむことを知らない。対戦相手は完全アウェーの中戦わなければならなかった。どんな固い腕も鋭い牙も、ひらひらと羽ばたく彼には当たらない。4つの拳から放たれる高速の連続パンチは『流星落とし』という名で熱狂的ファンの間では語り草だった。その名の通り流星のごとく現れたルーキーは、そのたぐいまれな格闘センスも相まって、わずか半年でチャンピオンの座をかっさらったのだ。
 しかし、人気の只中であった彼が忽然と姿を消した。また、義父がコロシアムのチャンピオンである、と柏和が知ったのもこの頃だった。
 チャンピオン失踪事件が風の噂で柏和の耳に入ってきたころ、柏和の母親はどうやら夫のいない寂しさを酒で紛らわせるようになった。酒に強くない母親が無理して酔いつぶれて口を滑らせなければ、柏和も義父探しの旅に出ることはなかっただろう。
 義父の件について母親に問い詰めるも、これは一向に口を割ろうとしない。
 なぜ拳闘士であることを隠していたのか。なぜ妻子を放っておいてまで家を空けているのか。そして何より、どこへ消えてしまったのか。
柏和は募る疑問を胸に家を飛び出した。母親が心配であったが、しっかりした姉の柳義(やなぎ)が見張ってくれているから、堕落することはないだろう。両親ともなんとも世話の焼ける奴だ、とため息が出た。
 ――困難は自らの手で打ち砕いてゆくものだ。
 これが、柏和の信条だった。
 なので夜道を一人で歩いていた柏和を狙った悪党どもは、女一人を相手にコテンパンにされてしまった。柏和はそのことをダーズワンに話すつもりはなかったから、真相を知る者は柏和以外に誰もいないが。
「おう、随分と遅かったじゃないか。ごろつきにでも絡まれていたか?」
「……」
 大通りが交わるトレジャータウンいち賑やかな場所にある『交差点』は、昼は喫茶店だが夜の8時を過ぎるとバーに変わる。バーテンのパッチールは手仕込みドリンクにアルコールを入れてくれるのだ。店内は優しい音楽と照明に包まれ、地上へ続く階段にも暖かな光が漏れていたから、柏和も迷うことはなかった。
 ダーズワンはカウンターに座って、ゆるりと手招きをしていた。柏和はつられて彼の隣に座る。慣れない様子を見てか、バーテンはダーズワンと同じものを柏和の前に滑らせた。アルコールは入っていない。
 店内は人がまばらで、チャンピオンの来店を囁く野暮な輩はいなかった。
「……なぜ私が娘だと分かった」
「いろいろ聞かされていたからな、この席で」
 柏和は答えずに、カップに口を付けた。とろりと甘ったるい舌触り。モモンの実が使われているようだった。あまり得意な味ではなかった。
 コロシアムでチャンピオンベルトを巻いているダーズワンを見かけた時から、柏和は奴が義父の(かたき)だと盲信していた。てっきりこの男が義父を闇討ちにして葬ったのだと思っていた。相性はめっぽういいはずなのに負け続けている腹いせに、義父を消したのだと決めつけていた。
 けれどコロシアムで拳を交え、控室で交わした言葉を思い返して、柏和の確信は揺らいでいた。彼の表情には、自分に対する憎しみや恐怖という感情が全く現れていなかったのだ。彼は笑っていた。まるで親友に久しぶりに会ったかのような顔をしていた。思い返してみれば、彼は自分と義父の姿を重ね合わせていたのかもしれない。冷静になって、柏和は自分の早とちりをひどく恥じていた。
「……おまえが義父を消したわけではなさそうだな」
「そんなはずはないだろう、あいつと俺は親友だ」
 真っ赤になって黙り込む柏和に、ダーズワンはそっと笑ってみせた。
「はは、まぁあまり気にすんな」
「……ごめんなさい……」
 柏和はうつむいてプルプルと震えている。柏和が落ち着くまで、ダーズワンは話しかけないでいた。小さなカップの中で氷がからりと揺れる。時刻はすでに11時を回っていた。バーテンは静かにテーブルを拭いている。
「もう、大丈夫です。続きを、聞かせてください。義父に何があったのか」
「……あれは、あいつによく似合う、月のきれいな晩だった」

「願いが、切れる……? なんだそりゃあ」
「だから、そのままの意味さ。」
 夜のサメハダ岩は、肌にしみとおるほどひんやりとしていた。数多く開いた穴からは月明かりが差し込み、義父の背中を照らし出していた。隙間風が吹き込み、亡霊のうめき声のような音が響いた。
 義父は海を見つめたまま話し続ける。
「おれはここに来るまえ、出稼ぎの仕事をしていたって話しただろう?」
「ああ」
「その時道に迷って、たどり着いた先にいたのがジラーチだった」
「……ジラーチ? 俺も長年探検隊をやっていたが、そんな奴聞いたこともないぞ」
「知らなくても無理はない。どんな願いも一つだけかなえてくれる、幻の存在さ」
 義父が振り向いた。逆光でほとんど顔は見えないが、笑っているような気がした。打ち寄せる細波がやけにはっきりと聞こえる。
「お前、まさか!?」
「そのまさかさ。おれは強くなりたいって願った。トレジャータウンでだれよりも強い拳闘士になるって。働き詰めおれに舞い降りた千載一遇のチャンスだと喜んだ。藁にもすがる思いで叫んでいたよ。そうすればおれの妻も子供も、食うに困らないと思ってな」
「……」
「だが悲しいかな、人生とはうまくいかないみたいだ。コロシアムで戦っているうちに、野生のカンが戻ってきたんだ。毎夜毎夜夢に見るんだよ。虫の知らせ、ってヤツかな。おれのいない間、妻はほかの男の所に通っているし、柳義は借金の取り立てにお水を始めたみたいだ。笑えるだろう?」
「んな……!!」
 月が陰って、義父の顔が一瞬だけ見えた。そこにはもうチャンピオンの勇猛さはなかった。ただ乾いた笑いをこぼすだけだ。
「今からでもやり直せるだろ!!」
「それができないんだ。ぼくには時間が残されていない。元探検隊のきみなら知っているだろうが、不思議のダンジョンの中で長く生活していると心のうちにざわめくものを感じることがあるだろう。おれは初め、それがなんだか分からなかったよ。けど今は痛いほど理解している。ダンジョンにいる野生の者どもを殴り、殺め、肉を喰らい血を啜れば、自分自身だって心無い亡者になってしまうことくらい、少し考えれば分かることだったのに」
「……ウソだろ」
「もう本当に時間がないみたいだ。最後にきみに出会えて本当に良かった。 ……勝ち逃げで悪いね、ダーズワン」
 義父の体が、ゆらり、と揺れた。

 夜のクラブ海岸は、肌にしみとおるほどひんやりとしていた。波打ち際に座るダーズワンの掌の中で、柏和は丸くなったまま動かない。
 細波に紛れて、すすり泣く鳴き声が途切れることなく流れている。
「わ、私っ、もう、何を信じたらいいか分からないよぅ……」
 ダーズワンはそっと、小さい頭を撫でてやる。赤子のように小さく、頼りがいがない。プルプルと震え、不規則に揺れる。コロシアムで彼の脇腹に拳をたたき込んだ張本人だとは思えなかった。
 ダーズワンは海の向こうの、遠くの方を眺めた。
「旅に、出ようか」
「……え?」
「旅さ。生きる意味を見失ったときは旅に出るのがいい。俺も親友を失った。拳闘士を続けていても意味ないかな。そんで、ジラーチに会って確かめよう。あいつが望んだのは、こんなことだったのか、って」
 柏和は不思議そうにその横顔を見る。
「お、柏和、見てみろ」
 柏和がダーズワンの指す方向に目を向けると、満天の星空の間を縫って、流れ星がひとつ落ちてゆくところだった。


斜陽 


 取っ手に力を込めると、風が流れ込んできてドアはひとりでに開いた。
 真っ白い部屋だった。
 壁も天井も床さえも染みひとつない。広く開け放たれた窓にはレースのカーテンがひらひらとさわやかな風を受けてなびいていた。ショートテーブルに飾られている百合の独特なにおいが鼻に届く。光で満たされた夏の窓辺には、絵にかいた教会のような厳かささえあった。
 揺れたカーテンに気付いて彼女がこちらを向く。ややあって、彼女は嬉しそうに声を上げた。
「あら(しゅう)さん、ごきげんよう」
「ああ、しばらくぶりだな。会いたかったよラザニア」
 私は鞄を棚に置くと、抱えていた百合の花を古いものと入れ替えた。前にここに来たのが二週間前だったから、丁度よい頃合いだろう。ラザニアには純白の百合がよく似合った。子供心ながら初めて彼女にプレゼントしたものも百合だった。
「今日はね、すこぶる調子がいいのよ愁さん。ほら……」
 彼女は長い髪を物憂げにたくし上げて、付け根に結わえてある白いリボンを見せてくれた。これも彼女のお気に入りだ。暗灰色の体に白がよく映える。ベッドから起き上がるのも精一杯だった彼女も、ようやくここまで恢復したようだ。
 正直に言うと、医者に止められているのも関わらず、私は彼女を外に連れ出したくて仕方がなかった。特にこんな天気のよく、彼女がおめかしなんかしているときには、すぐにでも彼女の手を引いて、サナトリウムの外の空気を吸わせてやりたいという衝動にかられた。
「だいぶ恢復してきたようだね。この調子だと、次の月あたりにはここを出られるんじゃないかい?」
 ベッドに腰かけてから、私はラザニアの長く美しい髪を撫でた。毎日風呂に入れてもらっているのだろうか、髪には彼女のにおいが残っていなかった。シーツには皺ひとつない。
 髪を撫でられているあいだ、彼女はくすぐったそうに眉を細めていた。そのめいっぱいに口を釣り上げた笑い方も、からからと掠れたような声も、おまけ程度にちょこんと生えた耳も長い手も、何もかも好きであった。
「ほら、お外に連れて行って頂戴?」
 私の手に指を絡ませながら、彼女が囁いた。人間の手よりも一回り小さい彼女の手を、私はそっと握り返す。答える代りに、彼女の口許にそっと口づけてやった。
 鈍く輝くチャックには触れもしないで。

 ラザニアが砂浜まで下りたい、と言うので、私は彼女の後ろをついていった。実際、彼女の容態は優れているようだった。手をつないで階段を下る。道の左右には白樺が並び、木々の洞からはリスが飛び出したりして、その度に彼女はからからと笑った。
 私は喜ぶ彼女の後姿を石畳の数段上から眺め、まだ高い太陽に目を細めた。東の空に雲がたまっている。遠くの方を、何かの鳥ポケモンが飛んでゆくのが見えた。
 浜につくと、彼女は灌木の間から海を見た。病室から毎日見えているだろうに、彼女は後からやってくる私に見せつけるかのように、海を指さして振り向いた。
「愁さん、ほら、海よ」
「そうだね」
 私たちは太陽を背に波打ち際を歩いた。日射病が怖いので私は彼女に麦わら帽子を被せたのだが、ラザニアはリボンが見えなくなるのが気に入らなかったらしい。つま先を蹴り上げるように歩く。彼女がへそを曲げた合図だった。
「もう、愁さんは。わたしがおめかししていますのに」
 彼女は口を尖らせたが、手はつないだままだった。水にぬれると体が重くなって、お医者様に怒られてしまうわ、と言っていた彼女だったが、はしゃいで水際に近寄りすぎて、大きな波に足をすくわれることが何度かあった。その度に私は彼女を拾い上げた。足が乾くまで、彼女を肩車するのである。背中にかかる心地よい重みが、私の心にじんわりとのしかかっていた。
 誰もいない砂浜を、私と彼女は歩いた。打ち上げられている海月を棒でつつく。椰子の木陰で休憩を取りつつ、私たちは手をつないでゆるりと歩いた。薄紅色のハートの形をした鱗を見つけたので、懐に入れて持ち帰ることにした。穴をあけて紐を通せば、簡素だが味のあるネックレスが出来上がる。入院する際に持ってきた荷物はさして大きくないトランク二つだけだったが、確かその中に手芸の道具が入っていたはずだから、使う紐は太めの、簡素なやつがいい。彼女は趣味で作った人形を枕元に並べているのだが、それは彼女の性かもしれなかった。

 西日が身に眩しい時分になると、彼女は疲れ切ってしまったようで、私の背中で静かに寝息を立てていた。足が砂を踏むかすかな振動が、背中越しに彼女の心音と重なった。
 私はこのように彼女と暮らすはずだった。
 ラザニアは、私の許嫁だ。私と彼女の結婚は私が九つの時にはすでに決められていて、それとなく親から聞かされていたので、そういうものなのだと思っていた。盆と正月には顔を合わせるので、たびたび遊んでは妹のようにかわいがっていた。当時は彼女が私の妻になると頭ではなんとなくわかっていて、けれど実感のわかない、陽炎の向こうにいるような感覚だった。私は確かに、その陽炎の中に今日のような眩しい真夏の海を想っていた。物心がつくと、私は次第に男らしく、彼女は進化して女らしくなった。体の関係こそなかったが、私たちはだんだんと睦ましい夫婦になっていった。
 順風満帆だった。
 彼女が高等学校を卒業して、いざ一つ屋根の下に住まおうとなった時、彼女に疾患が見つかった。肝臓だった。もう手遅れなほど臓に影が落ちていた。もともと病にかかりやすい体質であると聞かされていたが、今になってはなぜ彼女を気遣ってやれなかったのかと後悔してもしきれない。
 彼女はそれでも気丈に笑って、生き物はいつか死ぬんですから、とまるで他人事のように笑っていたが、私は彼女が一人枕を濡らしていると知っていた。知りながら、何もできない私も涙を流した。不幸中の幸いか、ほどなくして臓腑の移植が決まった。彼女は文字通り綿を詰め替えた。これでまたあなたの隣に居られます、と病院のベッドで呟いていた。私の手に彼女の指先が絡みついてきて、離そうとしなかった。
 それから、ラザニアが少しずつ変わっていった。
 まず、ぼうっとすることが多くなった。いつも窓の外を眺める姿は、何かに思いを馳せている少女のようだった。時折ため息をついては、ふと思い出したように私を見てからからとしおらしく笑う。その度に私は彼女の細い手をそっと握ってやるのだが、彼女は決まって、小さく震えながら、御免なさい、と呟くのだ。私が謝ることなどないよ、これから二人で歩んでいこう、と諭しても、ただただ目を伏せるばかりだった。
 食事もあまり採らなくなったし、外に出かけることもめっきりなくなってしまった。一日の大半を家の中で過ごし、日が落ちるとともに何かから逃げるように眠りについた。私の知っているラザニアは、もうそこにはいなかった。
 しばらくして彼女は流行り病にかかった。警戒する猶予さえなかった。移植を受けると免疫が弱くなることがあると聞いたことがあるが、彼女はとても病弱になっていた。病はひとたび患ってしまえば治ることのない、いわば不治の病というものだった。御免なさい、と彼女はまた呟いた。半年ほど自宅で療養していたが、血が絡んだ痰を吐くようになってからは山のサナトリウムで恢復を待った。それが春先のことだった。
「あら、愁さん…… ほらご覧になって」
 いつの間にか背中のラザニアは起きていたようだった。細い腕で、山裾にそびえる白い建物を指さす。
「こんなところに教会があったなんて、わたし、知りませんでした」
「本当だな」
 教会の白い外壁は、今や暖かい光でオレンジに染められていた。建てられてからあまり年月が経っていないようで、また庭の芝生も丁寧に手入れがされていた。小さな、個人で建てたかのような教会だ。それでも高い位置に時計が設えてあって、もうそろそろサナトリウムの夕食の時間であることを教えてくれていた。
 私たちはしばらく教会を眺めながら、山からの風に身を当てていた。
「ラザニア、そろそろ帰ろう」
 彼女は何も言わず、私の首に巻いている腕に少し力を込めた。帰りたくない、という合図だ。私も無言になって、教会へ歩いて行った。
 教会の司祭は70を過ぎたほどの壮年で、白髪の混じる薄桃色の髪が純白の内装には不釣り合いに思えた。祭壇の端に掲げられている燭台の蝋燭にひとつずつ丁寧に火を灯している。今日は日曜日だから、午前中には礼拝に来た信者でここは埋め尽くされていたのだろう。私は鐘の鳴り響く朝焼けの砂浜を思い浮かべた。それはちょうど夕日に染まる彼女の部屋のようだった。
 私たちは並ぶ長椅子の真ん中あたりに腰かけて、目をつむった。物音ひとつ起こらない。荘厳な空気が私たちを包んでいた。高い天井から見守られている気がして、ラザニアも眠くなったのだろう、瞳を閉じて動かなくなった。つないでいる手がじんわりと暖かい。
 私は指を優しくほどき、ゆっくりと立ち上がって伸びをした。祭壇の前まで進み出ると彫像を見上げた。聖母がこちらを見返していた。引き込まれるようだった。
「さあ、あなたの罪を告白しなさい」
 不意に後ろから声がした。あの司祭だった。ピンクの右腕に聖書を抱えている。片方だけ髪から出ている眼にはモノクルがかけられていて、歳は60を超えているだろうか。髪の艶は失われカボチャの表皮もひび割れていたが、その割れた口に点った陽炎のような炎は、いくら強い風が吹いても消えることがないようだった。
 口籠っていると、司祭は話を続ける。
「あなたたちを見ていれば、二人の関係がねじれていること、よくわかります。よいのですか? このままではずっと、二人とも苦しいままでしょう」
 司祭はそれ以上追及しなかったが、お見通しであった。私もラザニアも、このままでは破滅することにそれとなく気づいていた。気づいていながら、今の環境に甘えきっていた。
 ラザニアはこの先長くはないだろう。
 そして、私はもう彼女を愛してはいない。

 私は心のどこかで、いつの間にか彼女を恨んでいたのだろう。彼女が病に倒れてから、いやそれ以前――彼女が私の許嫁に決まった時から、彼女をやっかんでいたのかもしれない。疑い始めると際限がなかった。私の中に芽生えた小さな染みのような感情は、日に日に増幅していった。
 それが彼女に気付かれないはずがなかった。ねたみや恨みの感情を敏感にキャッチする種族なのだ。私の心変わりなど手に取るようにわかるだろう。けれどラザニアは優しいから、それを口に出すことはない。ただ私の手を強く握るだけだった。しばらくして、彼女が不意に細い目で遠くを見るのは、強い自責の念なのだと分かった。自分のせいで私を縛り付けてしまっているという自己嫌悪。彼女は何も言わない私に甘えていたし、私も何も言わない彼女に救われていた。彼女に対する同情と親類へのひとつまみの矜持が、私が別れられないでいる理由だった。
 私が私自身を疑えば、彼女が敏感に察知し傷つく。彼女が旗鼓嫌悪に陥れば、私は彼女への愛をさらに疑うことになる。負の連鎖だった。私たちは見かけが変わらないまま、何もかも崩れてしまっていたのだ。
 不意に手が強く握られた。彼女だった。聖母の前で、二人静に佇む。司祭は忍び寄る闇に溶け込んだかのように、どこかへ行ってしまっていた。
 彼女はうつむいて泣いていた。泣きながら笑っていた。
 握る手がさらに強まって、彼女は囁いた。
「……御免なさい。本当に御免なさい……」
 謝らないで、とは言えなかった。喉の奥からあぶくがせりあがってきて、しかし口の中は乾ききっていた。つ、と涙が頬を伝う。
「……ごめんな」
 一度手を強く握ってから、私はつないでいた手を離した。

あとがき 

ミドリです。私の作品に目を通していただき、ありがとうございます!
ふと気まぐれで小説を書いてみたいな、と思い立ち、数年前にこちらのサイトを偶然発見したことを思い出して(その時はいくつかの作品を拝見しただけだったのですが)、ここにお世話になることにしました。よろしくお願いします。
短編小説をちろちろ書いていこうと思っているのですが、今書いている作品が少し長くなってきてしまったので、このページとは別枠で投稿することになるかもしれません。そうしたら作者ページにも名前を並べることになりますね。ああ恐れ多い……
他の作者の方の作品に目を通すべきなのですが、感想を書くのが苦手で。気を使ってしまうんですよね。早めに挨拶しに行こうと思います。コメントもらえたら嬉しいですもんね。読んだら足跡は残していこうと思います。


それでは各作品に補足を。

花と 

このページで投稿した作品は、すべてメインの登場人物の種族が明記されていません。一つひとつが短いですから、「コイツだれだろう?」位のスタンスで読んでほしいです。
咲夜。日本の神コノハナノサクヤビメから名前を取りました。女神ですが、咲夜のかっこよさに惚れて採用。神話には詳しくないのですが、オチだけなぞらえて吉野と離れ離れになるお話になりました。チェリムが吉野っていうのは、安直すぎますかね。
アブソルの危機察知能力は便利ですね。ご都合主義です。
一部話の展開に飛躍があったので修正しました。
始め人間もいて古めかしい舞台設定だったのでランセ地方にしたのですが、気づいたらブショー出てこなくなっちゃいました。うむむ……

イースターのたまご 

マリルリってイースターエッグみたいですよね、っていうお話です。なにかキラキラ輝く風景が描きたいなー、と思って書きました。モデルがウサギで、マリルリはイースターを擬キャラ化したようなポケモンですね。ちなみに2014年度は4月20日でした。投稿したのも大体そのくらいの日付だったような気がします。
たまごが川を流れるのは不自然だと思ったのですが、マナフィのたまごにしたのはもっと違和感がありますかね。マナフィ遡上してますもんね。あともう少しポケモン小説である必然性があるとよかったですかね。
最後のシーン、女性は妊娠しているってこと伝わりましたか?

星の寝台 

映画ジラーチの1シーン。フライゴンとアブソル使うのは豪華な気もしましたが、2匹とも好きなので。フライゴンの目のカバーは萌えです。アブソルをすぐに2回出してしまったのは失敗でした。掲載順の変更はこのためです。
書くにあたって映画を見直そうと思ったのですが時間がなくて断念。そのうち見て書き直します。

縫合の叫び 

ゴーストタイプ、とくに棺桶ポケモンは医者にはなれませんよね。その一ネタだけで書いてみました。設定だけ書き連ねて本編がないような話です。流れるような文章が書きたかった。初め書いているうちは無駄に長くなっていったので相当カットしました。機会があればコフィが成功するまでを書こうかなと思っています。
棺桶なのでcoffinから。ハーシーはBWで僕が育てたエルフーン♂のNNそのままでした。まさかのすり抜け…… 可愛いからいいんですけどね!
ちなみに文中出てきた先生陣、綾香先生は人間、リドリー先生はエアームド、夢眠先生はムシャーナです。一文でサクサクわかると楽しいですよね。

流星落とし 

問題作ですね。投稿したときは気づかなかったのですが、大変なミスリードを含んでいました。4本の腕と言ったらそりゃカイリキーですね。私はレディアンのつもりで書いていました。レディアンの顔がどことなく覆面レスラーのようで、あまり目立たないポケモンですけど好きなのです。急きょ羽の描写を入たのですが、そう読んでしまった方には申し訳ないです。サメハダ岩のシーン、レディアンとカイリキーでは印象が全然違うでしょうから。
始めの戦闘シーンだけでルチャブルとドサイドンだと伝わりましたかね? ドサイドンはプロテクターから分かると思うのですが、ルチャブルの描写が難しかった。瓦割り、鍵爪、とんぼ返り、ゴッドバードあたりで気づいてもらえればうれしいですね。ルチャブル可愛いよルチャブル。
あとドサイドンはレイダーズの彼をイメージしました。ドサイドンのどこに“レイド”要素があるのか分からなかったので、名前に無理やり入れてみました。本来ならユレイドルあたりが入るべきだと思います。柏和は腕の飛膜がかしわもちみたいだったので。
続きそうな書きかたしましたが、これ以上書く気はしないんですよね。大柄で経験豊富な元エリート探検家と小柄で気が強いけどまだまだ世間を知らない少女のコンビ。こう書くと冒険させてみたくなるのですが……

斜陽 

いろんなものを書いてみたいので、サナトリウムに挑戦。心理描写が難しかったです。たぶん読んでも途中で「?」ってなったかと思います。実力不足を痛感しました。
ジュペッタは元気っ娘に書かれることが多いですが、病弱っ娘も可愛いと思うんです。「口のチャック」の1キーワードでだれか確定できるのはぼかしたい文を書くときに強みになります。ジラーチといい、あの体型可愛いですよね。抱き付きたい。メガ進化したので、ジュペッタの話はまた書こうと思っています。
司祭を誰にしようかと思い、不定形+お見通しが被るパンプジンに。髪が手になっているのも素敵だと思います。
気づいたのですが、ポケモンはともかく人間を人間だと表すのが難しいですね。わざわざ人間と明記するのも陳腐になってしまいますし。服を描写してもポケモンが服を着ている世界観もあるので、満足に区別できないんです。ああもどかしい!



最後に、適当なあとがきまで目を通してくださった皆様がた、ありがとうございました。これからも月イチ更新を目指してゆったり頑張っていこうと思います。生暖かい目で応援してください!




*1 成人年齢を18とした時の相対年齢。不定形の種族は平均寿命が人間のそれと大差ないので1年で1歳年を取る。

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Last-modified: 2014-05-23 (金) 18:38:24
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