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つきのうた

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Lem

 時には心を空っぽに。

つきのうた 


 生きるという言葉はそれ自体が旅人であり、旅を止めた時人は何処へと向かうのだろう。
 冷たい闇と凍風が背筋を逆撫でる。
 淡く発光する大地を踏みしめる。
 空に月はなく星のみが広がる。
 それはそうだ。月は僕の足下にあるのだから。
 周囲は海に閉ざされ、僕以外の人間を見る事もない。
 僕は今何処に居るのだろう。少なくとも解る事は僕は宇宙に居る訳ではないし、服装だって普通の何処にでもある洋装である。
 足下を伝う月は比喩表現でもなく正真正銘の月そのもの。
 過ぎ去りし春の夜、僕は月を飼っていた。
 それは今の様な大きさではなく、窓辺に置いた平皿の水面に月を浮かべて晩酌を供にするものだった。

 切っ掛けは酔狂から始まったものかもしれないし、単に人恋しさが絡んだものかもしれなかった。
 他人との干渉を酷く恐れ、深くは関わらず、ただ観察するだけの人間関係は少年期の頃から変わらず、より一層拗らせたままに大人になった。
 誤解をされやすいが人間が嫌いだからそうするのではなく、僕は独りが好きなのであって誰かとつるむ事を悪だとも思った事はない。
 ただ一定の人間にはそういう人間が居る事が信じられず、人は群れて暮らすものという価値観に縛られている。
 彼等の言い分も僕は理解できるし、共存共栄に切磋琢磨し合う事で人間性を高めあう事も理解できる。
 だが全てがそういうものではない事も僕は解っていた。
 だから必要最低限のコミュニケーションは取る様努めてきたが、歳を取る度に溝は深くなり、次第に拒絶という言葉が合間を埋めていくと自然と僕の周りからは人の形は消えてしまった。
 衝突を避ける事は正しく物事を円滑にもするが度が過ぎれば孤立する。
 特に子供はそういう反応に過敏だ。
 万国共有の競争道具に使われる彼等ポケモンの利用も僕はなるべく避けてきた。
 彼等を連れているだけで他人に絡まれる事の億劫さに僕の精神が堪えられないのと、彼等の心は人と近しすぎる事も僕の忌避感を煽り立てる。
 誰とも関わらず、干渉せず、大人になってからはビジネスパートナーとしての付き合いのみを徹底し、そこにある風景の一部に溶け込む。
 そういう生き方だけで僕は満足する生き物だ。
 再三言うが人が嫌いなのではない。彼等の事も嫌いではない。
 僕が僕でいられなくなる瞬間が単に恐ろしいからこそ、必要以上の干渉を避けるのだ。
 傷付きやすく壊れやすい、脆い人間だと自負しているから衝突しあわない暮らしを望んだ。
 そういう人種にも世界は必要とするのか仕事だけは困らなかった。
  人の可能性を拡げる研究でありながら世間には認められず忌避感だけを露にする研究。
 人の道から外れた研究は掃いて捨てるほどある。
 誰もそれを知らないのは見ようともせず、知ろうともしない、知りたくはない中身だからなのかもしれない。
 その中の『月を飼う』という題目に惹かれたのは僕の中に僅かに残る人恋しさと荒唐無稽な言葉の列びに感嘆したからだ。
 詳細を調べるとそれは人の脳波と月の光の作用関係について紐解かれ、職務内容は被験者の脳波を測定器とするものであるらしい。
 月が相手ならば僕の面倒な孤独感も薄れるだろうか。
 二つ返事で応募を申し込むとその夜に返信が入り、然したる障害もなく採用となった。後日迎えにきた係員の誘導により、指示通りに従って僕は研究所のある所へ案内される。
 ただそれが何処にあるかまでは知らない。
 守秘義務を徹底してか道中の間は目隠しをされ、車に揺られながら流れる時の海を彷徨う。
 秒数を数えて運行距離を測ったり車体の揺れを注意深く関知しても無意味だろう。
 こういう徹底した行為は過程の最中に無駄を挟んで思考を惑わせる。
 ならば大人しく従った方が疲れなくていい。
 やがて車のエンジン音が止まり、後部座席から下ろされ、別の座椅子に座らされるとそのまま椅子ごと僕を運ぶ。
 どうやら別の車に乗り換えたらしい。
 歩幅の計算もさせない徹底ぶりには恐れ入るが、安全ベルトをややきつめに絞められてか座り心地はあまり宜しくない。
 我慢できない程でもないので苦言は漏らさず、運ばれるままに小さなドライブを楽しむ。
 電子音や重々しい鉄扉の駆動音、僅かに感じる浮遊感からは地下へと落ちていく昇降機。
 やがて車体が止まり、僕を戒める拘束が解かれた。
 うっすらと眼を開く。
 小ぢんまりとした長方形の部屋。デスクトップのPC、本棚、片隅にはベッドと出窓。
 どれも見覚えがある。あるどころかここは僕の部屋ではないか。
 どういうことなのか。今まで起きていた出来事は全て僕の幻覚だったとでも言うのだろうか。
 困惑に喘いでいると急に耳慣れない機械音がPCのスピーカーを通して僕に語りかけた。
 音声に同期して開かれたPCの画面には僕がここでやるべきマニュアルが表示され、手短な命令を残して通話が途切れる。
 此方からの質問には答える気はないらしい。
 尽きぬ疑問はさておいて目の前の問題を消化する事にする。
 表示された画面を使い慣れたデバイスで操作し、切り替えること数分。
 この部屋は脳波を測定する前に被験者の体調のリラックスを目的として模造された私室であり、暫くの間僕はここで暮らす事になるようだ。
 自室なのに本物の自室ではないという違和感を抱えてリラックス等できるものなのかと危惧するが、二日三日もすればそれは杞憂であり、逆にあの出来事自体夢だったのではと疑う位には進展がなかった。
 出窓から見える景色も遜色なく再現され、空は星々と月だけが大きく存在を主張する。
 あれも偽物なのだろうかと疑惑を抱いた所で僕にそれを確かめる術はないし、詮索するだけ野暮な面も感じ取っていた。
 個室の外も自宅の間取りが完全再現されており、家具の配置も寸分の狂いすら無い。
 唯一違うのは自宅から外へと通ずる扉だけが開かない、という点のみだった。
 何にせよ指示が下るまでは好きに過ごせとお達しの事なので、冷蔵庫から適当に酒を摘まむ。
 独りで酒を飲む事には何の抵抗もないが、月を飼うという蠱惑的な謎を知った後ではどうも以前の自分とは違った感じがある。
 食器棚から目深の平皿も抱えて私室に戻ると出窓にそれらを並べ、自分と月の分を注いでいく。
 平皿の水面に月が写り、遠い距離が一気に近く感じる。乾杯の音頭が小さく鳴り、震えては揺らぐ月の顔を眺め、盃を傾けながら語り合う。
 それが始めての月との対話にして飼育の序章であった。



 翌日、酔い潰れてベッドに転がる我が身を起こすと奇怪な変容が起きていた。
 平皿の水面に浮かぶ月の影は夜が明けてからも姿を消すことはなくその場に留まり、淡い輝きの陰影を水面に燻らせていた。
 語りかけてみても月は言葉を発さない。代わりなのか頷こうとして球体がくるり、と一回転する。
 意思があるかの様に振る舞う月への返事へ細かい些事はどうとでも良くなった。
 良くはないのかも知れないが、現実としてそこにあるのだから受け入れる以外答えはない。
 割り切りは早い方が得である。
 やることがあるからまた後でと席を立ち、PCの電源を入れる。
 新たな指令は無し。今日もいつも通り過ごせば良いのだろうか。
 月の事は気になるが、あまり気に掛けすぎるのも宜しくはない。
 僕が月ならばほんの少し、否、相当嫌な気持ちになるだろうな。
 自分がされると嫌なことは他人にしない。
 当たり前のルールであり人としての至極当然な形である。
 例え相手が生き物ではないとしても関係ない。敬意を忘れてはならない。
 とどのつまり普通に過ごす事が今の僕にできる事である。
 ただ飯の都合はどうなのかそこだけは疑問に感じたので簡単な質疑応答を図る。
 yesならば回転し、noならば動かない。
 可能かを問うと回り出したので意志疎通は取れているらしい。不思議だ……。
 話し合った結果、月は飲食を必要とはしないが水の張り替えだけはお願いしたいらしく、僕の飯の都合に合わせて一日三回張り替えることになった。
 植物みたいな子。子なのかも分からないけど。
 朝食もまだ済ませてないので早速新しい食器に水を張り、月を移し変える。気分がいいのか着水してからも暫く回り続けていた。
 可愛らしいと感じるのか自然と笑みが溢れる。
 昼が過ぎ、夜になり、更なる異変を僕は見た。
 空に月が浮いていないのだ。
 雲間に隠れているのでもない。それならば星々も隠れて姿を見せないのだから。
 原理は分からないが空にあった月は僕の傍らにぷかぷかと浮かぶ月と同一個体であるらしい。
 良く分からない事が立て続けに起きているが、今すぐに結論を出すには情報が不足しているし、僕自身も冷静ではあるものの正常とは言い難い動揺も多分ある。
 一先ず保留にして様子を見るのが最良だと判断し、普段通りに過ごしていく。
 一日、一週、一月が経つ頃には明確な違いが現れた。
 月が大きくなっている。異変を感じたのは日数の経過に準じて月も満ち欠けが始まり、急に欠け出したその様に一時期は不安を覚えたが、そこから徐々に元の形の丸みを帯び始めていった。
 だが月は前とは違う大きさへと育ち、平皿の水面が隠れる程に巨大になっていた。
 生き物の様に育つ月を一先ず大きめの洗面器に移し変え、定位置に戻す。
 流石に出窓には置けないのでベッドを退かして陽が当たる場所に設置した。
 上機嫌なのか暫くくるくると回っていた。
 今日もPCに新着はない。
 二月が経ち三月が経ち半年を巡る頃には月の大きさも大変な大きさになっていた。
 何処まで大きくなるのか。このまま容認し続けていてはいずれ自分が押し潰されてしまうかもしれない。廊下へと続く扉を潜れる内に対策を施す必要がある。
 外への扉は相変わらず開かないが、窓から続く庭は大きめの子を飼育するには程好い空間がある。
 一先ずそこを月の移住先にすることにした。
 開放的な気分が伝播し、落ち着いた折で供に笑いあう。
 水に浸かるのを好んでいたのでなるべく以前と同じ環境を与えてやりたいが、庭は広いだけで特に何もない。
 ホースシャワーで満足するだろうかと水をかけてみる。
 物凄い勢いで回転し、その弾みで水滴がほぼ僕に跳ね返ってくる。
 次からは雨合羽を用意しよう。

 そうして月日だけが流れ、季節は初冬に差し掛かる。
 ここ暫く外の天気は雨が続き、窓越しに月へ体調はどうかと問うと問題ないといつもの返事を返す。
 とは言えもう一週間も雨である。
 水嵩も徐々に高く、僕の部屋は二階にあるものの一階の足場は浸水の恐れが常につきまとっていた。
 何があっても良いようにと非常食の備えは万端にしてあるが、あまり気持ちが安らぐ心地はない。
 不安に押し潰されるよりは寝て事態の好転を願おうとその日は早目に床につく。

 激しい雨音に混ざる轟音に驚き飛び跳ねた。
 恐れていた最悪がすぐ足下まで迫っていた。
 雨水で増水した河川の氾濫がここまで流れ着き、みるみる内に家屋を浸水し始める。
 月はどうしているのか直ぐ様に階段を降りようとするがそれよりも浸水のスピードが早く私室に引き返すしかなかった。
 窓から下は見えないかとそちらへ駆け寄ると淡く眩い輝きが窓越しに射し出した。
 僕を心配してかここまで移動してきたらしい。ありがとう。
 風雨に打たれるのも構わず窓を押し開ける。暴風が一気に隙間を手掴み、片方の窓がもぎ取られた。
 構わず月に手を差し出す。触れた箇所に広がる不思議な温かさは生き物としての密接な繋がりを感じ取り、同時に月の意思も僕の頭に流れ込んできた。
 月の背へ飛び乗り、しがみつく。
 急激な寒さが意識を刈り取ろうとも掴んだ手を離さず、月の船は上昇を続け、雨雲を突き抜ける。
 薄れる意識の眼に映る空の青さは何処までも暗く、瞬く星々の煌めきが落ちていった。



 全身を温める陽光の眩さに僕は目を覚ます。
 朦朧とする視界が徐々に明瞭になると同時に世界の変わり様を知る。
 辺り一面に広がる月の大地は地平線に広がる海の中を漂っていた。
 急激な事態の対応に追い付くには心が些か疲弊しており、直ぐ様に動く気持ちにはならなかった。
 そうして項垂れているとやがて空から影が降りてきた。
 陽光を背に大地へ降り立つ火の竜はその昔同級生が自慢話の種に見せてきたあの生き物に似ていた。
 互いに目配せを交わしていると一定の方角を指差し、萎え欠けた僕の心に火種を灯す。
 何があるのか分からずとも指標があるならばそこへ向かうしか無いだろうと重い腰を上げる。
 それを見届けると火の竜は雄叫びを上げて再び空へと羽ばたき、再び僕は独りになった。
 指し示された方角の先に広がる果ての見えない砂漠を無心で歩く。
 渇きが喉を焼き、全身の血の巡りを滞らせていく。
 限界だと感じても尚歩き続け、無理矢理に気力だけで歩を進め、そして再び僕は大地へ倒れた。
 砂風が全身を埋めていき、残る水分も吸い上げようとしていく。
 完全に埋め立てられる直前で僕の身体を何者かが自らの背に乗せる。
 呻く僕に構わず動く四つ足の生き物は僕が向かう先へと進んでいく。
 砂漠が途切れ、草木の生い茂る樹木の影に僕を下ろすと嘶き出し、先の火竜と同じく何処かへ行ってしまう。
 四つ足であったそれは二足で歩きだし、背から吹き出す陽炎が景色を歪め、そして見えなくなった。
 木陰で涼むものの喉の渇きは癒されず、何か無いかと周囲を探る。
 頭上には無数の木の実や果実が実り、力を振り絞って樹を揺するも落ちてくる気配はみられない。
 力無くとも叩き付けを繰り返していると唐突に衝撃が樹の反対側から僕へと突き抜けた。
 弾みで落ちる果実が僕の足下へと幾つか散らばり、咄嗟に拾い上げて皮ごと貪る。
 口内に広がる果肉と果汁が全身の活力をみるみる内に漲らせ、続く二個目三個目を立て続けに頬張る。
 その様を樹の反対側から覗き見るはこれも二足の生き物で、特徴的な嘴を笑み崩しながら鳴き歌い、そしてそれもまた僕を置いて旅立った。
 自身の足で歩ける程に回復した身体を起こして次に向かうは何処だろうかと、視界を生い茂る森林に惑わされていると頭上で枝葉が擦れる物音がした。
 それはひとつひとつと木々を移るように移動していき、後を追う様に僕の足も惹かれていく。
 無数の木立を抜け、広がる草原と頬を撫ぜる風にふわりと香る春の色。
 再び背後で枝葉が鳴る。振り向くと炎を鬣に生やした猿が逆しまに僕を見下ろしていた。
 ありがとうと感謝を告げると歯茎を目一杯に広げた笑みを返され、そして彼もまた森の中へと消えていく。
 草原を進んでいくにつれて足場が芦の高い草葉に絡め取られ、移動に難儀していると藪の中から何かが飛び出してくる。
 その姿は先の彼らとは違って明らかな敵意を僕に向けており、剥き出しの爪牙を向ける獣は死神を連想させる黒衣に類似していた。
 下手に刺激をしないよう後退るも草葉に再び足を絡み取られ、体勢を大きく崩す僕の隙を獣が見逃すはずもない。
 一瞬で距離を詰め、僕の喉笛を咬み千切るヴィジョンを横からの乱入者が獣を大きく突き飛ばし、堪らず逃走する獣へ一瞬の油断無く見届ける巨漢は熊かと見紛う体躯に炎の顎髭を蓄えていた。
 呆ける僕を巨漢が抱き起こす。
 先から僕は何かに助けられている。それが何なのかは分からないが、事ある毎に揺らめく火が僕の側を付き纏う。
 巨漢が抱き抱えた僕を地に降ろす。降ろされた先ではまた別の生き物が手招いている。
 後押しする様に背を押す巨漢へ振り返るも既に姿は無く、前方では僕の到着を待つ狐が優しげな笑顔を向けている。
 それは恐怖を微塵も感じさせず、揺蕩う火の揺らめきに安堵する感情に近かった。
 側まで近寄ると狐が僕の手を取り、残る片手に持つ小枝を優雅に操って芦の原を焼き払う。
 一見燃え移りそうなものなのに不思議と炎の渦は通り路だけを灰に変え、それ以外へ炎を飛び散らす事無く霧散していく。
 さながら魔法を見ている様で魔女と呼んでも差し支えない風貌だった。
 やがて風景は市街地の外れが見え始め、魔女はそこで手を離す。
 供に来ないのかと訊くも狐は頭を横に振るのみで、別れの哀しみに項垂れていると再び小枝から魔術を僕へと放つ。
 炎が僕を渦巻くも熱くはなく、視界を埋め尽くしてはやがて掻き消える。魔女の姿と共に。
 寂しさを胸に市街地へと歩を向ける。
 歩けど歩けど距離は縮まらず、何だか歩幅も小さくなった感じがする。景色も何故か高い。
 歩みを止め、自身の手足を覗くと先から感じていた違和感の正体に気付いた。
 僕の身体は子供の姿へと戻っていた。
 魔女は自身の姿のみならず僕の柵までも焼き払ってしまったのだろう。
 ふと景色が急に高くなり、歩を進めても居ないのに距離が縮み始めた。
 少年の僕を肩に乗せる強面の大猫と目が合った。
 サムズアップに笑顔を乗せるその姿はヒーローの姿を僕の瞳に心に焼き付ける。
 釣られて僕も笑顔とサムズアップを大猫に返す。
 市街地に入り、広い公園の中で数人の子供達が声高らかに遊んでいる。
 僕を掲げる大猫に気づいた一人の子供を皮切りに子供達が周囲に寄ってきた。
 不意に芽生えた恐怖感に僕は大猫にしがみつくが、それよりも早く大猫は僕を降ろしてしまう。
 後ろに隠れても子供達は回り込んで僕を気に掛ける。
 一緒に遊ぼうと手を差し伸ばしてくれるも僕はそれに手を伸ばせないでいると、大猫が最後の仕事とばかりに強引に手を繋ぎ合わせ、僕は子供達に引かれるまま公園の奥へと連れていかれる。
 きっと振り返っても大猫はもう姿を消しているのだろう。
 これまでの彼等がそうであったように。
 公園の中で立ち止まると子供達の姿もいつの間にか無く、僕を繋ぐ子供だけがずっと隣を歩いていた。
 やがて公園を抜け、終着点である家屋が目前に広がる。
 扉を開く僕等は打ち合わせた訳でもなくごくごく自然に、当たり前の言葉を住人に向けた。

「「ただいま」」



 長い夢を見ていた。
 心のわだかまりが解放されたからなのか、気分は不思議と多幸感に充たされている。
「おはようございます。気分は如何ですか?」
 感じたままのありのままを伝えると、白衣を着た白髪混じりの男はもう心配は要らないと、快調に向かっていると言葉を残して部屋を後にした。
 白い壁と天窓の先では淡い月光を放つ満月が煌々と輝き、僕の姿を覗き見ている。
 そして傍らで僕の手を握る大柄の兎を僕は知っている。
 眠りこけている兎の頭を優しく撫ぜ、掌に滲む陽の温かさに僕は小さく感謝の言葉を告げる。そして続くかの名前。
 それを聞き逃さない兎の聴力は直ぐ様に飛び跳ねるように起き上がり、唐突で驚く僕と目が合った。
 空白を隔て、僕は言葉を紡ぐ。
 
「おはよ──」

 言葉は最後まで言わせてくれなかった。
 陽を吸った匂いが鼻腔を充たす力強い抱擁は次第に宵に溶け、夜明けまで覚めることはない。

 月が詠い終わるそのときまで──



 精神病院の退院の目処が立った後の僕は長い昏睡からの筋肉の衰えをリハビリに費やしていた。
 最初は支えが無ければ歩けない状態の僕だったが、常に手を差し伸べる兎の助力もあって今ではほんの数歩だが自身の力のみで歩ける様になった。
 その様を傍らで見守る兎の喜び様は逆にこちらが気恥ずかしくなるものだったが、その全力投球の姿勢が僕に元気の活力を分けてくれる。
 休憩の合間に兎は手近にあったサッカーボールを器用にリフティングしながら踊っている。
 ふと夢の中のあの子供を思い出した。あの頃からずっと側にいた。いてくれたのだと思うと目頭が熱くなる。
 痛みで泣いていると思ったのか兎が僕の膝を頻りに撫で擦る。
 そういう訳じゃないけれど、でもその気遣いはとても嬉しい。
 身体が治ったらあの公園へ兎を連れて行こう。
 大きくなっても子供の頃から変わらない僕の相棒はきっとあの頃と同じ様に僕を遊びに誘うのだろう。
 遠くない未来を胸に抱きながら空を見る。
 陽の光と温もりを二重に感じ、深く深呼吸。
 薄れる春の匂いに薫風の混じる爽やかさが僕らを吹き抜けた。



 後書

 ざっくばらんに言いますと夢の中を彷徨うお話ですがお楽しみ頂けたでしょうか。
 夢って何でしょうね。記憶が紡ぐ魂の修復なのか、細胞に遺る記憶の残骸なのか、単なる電気信号の焼け跡なのか。
 ポケモンの名前を書かない書き方はいつもの事ではあるものの、本作は特にその部分には強い拘りがあったりします。
 作品中の僕はポケモンの事を何も知らない(知ろうとしなかった)ので、見た物の形をそう表現するしかないのです。
 退院した後に彼等の存在を改めて認識する。それは現実の私ともリンクするポケモンへの向き合い方でもあります。

 主催者様、参加者の方々、読者の方々、投票してくれた方へ。お疲れ様でした。
 また次の世界でお会いしましょう。

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Last-modified: 2021-05-04 (火) 12:27:43
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