この小説には特にこれといった警告要素はありませんが、ちょっとだけえちぃのかもしれません。
それを踏まえて、お読み下さい。
written by 多比ネ才氏
何事にも、指標という物は必要です。
対象の状態がわからないと、どのように扱ったら良いのか分からなくなりますから。
でも、自分というものの指標はありません。
ですから、どう扱ったら良いのか分からずに空回りする事もあります。
空回りをすると貞操を失いかねないから、指標を見つけようと躍起になる。
でも、元から無いものなんか見つかりっこ無いから、更に空回りをして貞操を失う。
なら、いっそのこと、貞操なんて気にしなければ良いんじゃないでしょうか。
まぁ、そんな事はどうでもいいんですけどね。
だって、この話の題名は“指標と貞操”ではないのですから。
「みんなー! ごっはんだよー!」
町外れにある一つの家。その家の板の間ともベランダとも言える場所に立つ一人の青年。
上下共にダボダボなスウェットを着ている姿はだらしなく、天パとくせっ毛の中間とでも形容すべき頭髪には寝癖がついている。
そんな、どうみても寝起きにしか見えない格好のどこから出ているのか、かなり溌剌とした声をあげた青年の本に、庭を横切ってポケモン達が駈けてくる。
イーブイ、ブースター、サンダース……所謂「イーブイズ」と呼称されるポケモン達が、各々の反応を見せながら集まってくる。
「いっぱい食べていいからね? って言っても、他の仔のは食べちゃダメだけどさ」
そんな事を喋りながら床の受け皿にポケモンフードを盛っていた青年の手の動きが止まった。
「あれ……草太(ソウタ)は?」
イーブイズの数は合計で八匹。
なのに、今集まっているのは七匹。
一匹、足りない。
「草太ー? もう、どこ行っちゃったんだろ……誰か知らな」
『ふぃいいぃぃいぃぃぃん!!』
家の庭中に、鳴き声が響き渡った。
「はぁ……」
「……きゅ」
自然に漏れた青年の溜め息と同時。グレイシアが踵を返し、庭の方に歩いて行く。
「あ、氷華(ヒョウカ)。草太を呼んできてくれる?」
「きゅー」
分かったわ、とでも言いたげな鳴き声を出して、グレイシアはてくてくと歩いて行った。
「ひ、ひぃぃぃい!?」
どうして、僕は、こんな目にあっているんだろう。
どうして、こんなうぞうぞとした脚を蠢かせる奇怪な生き物に、精神的にも肉体的にも追い詰められているのだろうか。
さっきご主人の声が聞こえたから、きっとみんなはご飯を食べているころ。なのに、僕は一人で泣いている。怯えている。
目の前の生き物が、怖い。
怖い。怖い。怖い怖い。怖い怖い怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖いこわい……。
「ふぇえぇぇぇ……ぇっく……だれかぁあ……」
動けない。脚が、動いてくれない。
だれか。お願いだからだれか。
助けに来て――
「あんたねぇ……いい加減にしなさいよ……」
突如聞こえた、雌の声。
呆れた感じの、冷たいソプラノの声。
でも、その聞き慣れた心地よい声は、いつも僕を助けてくれる人(ポケ)のもの。
……でも、反射的に体をびくつかせてしまう。あれ、なんで?
首を声の主の方向に向けたいのに、体がそれを許さない。
恐いから。
目の前の生き物も怖いけど、それ以上に、声の主を直視するのが恐い。恐い。怖い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐いコワい……。
「ぁ……う……」
まともな泣き声すら出せなくなり、しかし涙はとめどなく流れる。こんなにながれちゃったら、僕は喉が渇いて死ぬんじゃないだろうか。
普段は栗色をした僕の目は、きっとオレンジに見えるくらいに充血してるんだろうな。いやいや、そんな事を考えてる場合じゃないよ。僕。
「そんな小さな蜘蛛に怯えるなんて、どんだけ臆病なのよ……はぁ」
そんなに呆れた声をださないでよ。仕方ないでしょ。怖いんだから。
だから――僕を、見捨てないで。
そんなに冷たい言葉で、感情で、僕を凍てつかせようとしないでよ。
芝生を踏みつけて此方に近づいてくる音。
その一歩一歩の音に、動悸は更に激しくなる。
涙は、まだまだ流れている。止まらない。止まりようもない。
ついに、その脚が視界に入った。蒼い、けれども澄んだ蒼をした前脚。
あぁ、僕はこの脚に何をされるのかな。頭を小突かれるのか、はたまた顔をはたかれたりして。
脚が、ひょいっと浮く。
僕は、反射的に目をつぶって……
…………あれ? 何も起きない?
そっと目を開けると、蒼い脚はさっき蜘蛛がいた場所にあり、蜘蛛は僕の視界の隅から出て行くところだった。
「全く……あんな蜘蛛、ちょっと脚で触っただけで追い払えるのに何が怖いのよ。情けないわね」
前方からくる氷の槍は、容赦なく僕の心を貫く。
もう……勘弁して。
せっかく乾きかけてた頬の毛が、再び湿り気を帯びる。
「あー、もう! もっとシャキッとしなさいよシャキッと!!」
「ひ……っ……っ」
駄目だ。恐怖で、目を開けていられない。
ギュッとつぶって、何も見えないように。
きっと、今の僕は、何を見たって恐れてしまうから。
でも、目を閉じたら閉じたで違う恐怖がやってくる。
何をされるか見えない。殴られるのか、罵られるのか、嘆息されるのか――
――ペロッ
……え?
思わず、目を見開いた。
視界一杯に広がる、蒼の肌と青の水晶。
そして、いつも僕の事をちくちくと突き刺す、海の色の瞳。
いつもは恐怖の対象でしかないそれなのに、今は直視しても何も感じなかった。
「やっと泣き止んだわね。ほら、さっさと行くわよ」
その青は、ひんやりとした口で僕の首筋をくわえて引っ張る。
「じ、自分で歩けるよぉ……」
お腹は減ってるし、早く食べにいかないと何を言われるかわかったものじゃない。だから、渋々ながらもついて行くけど。
にしても……
さっき頬に感じた冷たい感触は、一体――――?
「大体、あんたはなんでそんなに臆病で怖がりなのよ? 特性がびびりってわけでも無い癖に」
朝ご飯も終わって、いつもなら池のそばの木陰にいる時間。だけど、今日は草太を連れて薄暗い裏庭に来ている。
「ね、姉さんには分からないんだよ……むしろ、なんでみんなはそんなに平気でいられるの……?」
またこれだ。似たような質問をする度に草太から返ってくるのは「姉さんには分からない」の言葉。
そんな臆病な気持ちを分かりたいとは思わないけど、その言葉だって結局は逃げよね。
全く、何から何まで呆れるわね。
「とにかく、お昼までのこの時間で特訓するわよ」
「と、特訓?」
「虫嫌いを克服する特訓よ」
「ふぇえっ!?」
そう。その為にわざわざ裏庭にまで連れて来たんだから、今日こそは克服してもらう。いくら涙目で訴えてこようが、今回ばっかりは止めるわけにはいかない。
草太に虫嫌いを直してもらわないと、私の方が保たないんだから。
「ほら、早くこっちにくるのよ」
「やだ、やだあっ!」
じたばたと暴れる草太を木の下にある石の前まで引っ張る。……今思ったけど、リーフィアの癖にグレイシアに力負けするってどういう事よ。本当に貧弱ね。
「な、なにするの……」
「だから、特訓だって言ったでしょ? ……えぃっ」
草太にそこから動かないよう釘を刺しながら、頭を使って石を転がす。
すると、その下から。
「ひっ、ひいぃいっっ!!?」
「ほら! 逃がさないわよっ」
蚯蚓に百足、蜘蛛、蟻、団子虫……虫嫌いでなくても嫌いそうな虫がうじゃうじゃと姿を見せた。
それに怖じ気づいた草太が逃げそうになったけど、すかさず尻尾をくわえてやる。
「えぅ、あ、やぁあっあ!!」
「ほら、目は閉じない! 顔も背けない! ちゃんと見ないと意味無いでしょ?」
本格的に泣き始めた草太を、無理矢理に抑え込んで虫を直視させる。湿った地面が草太の涙で更に湿るけど、それを見て解放するほど私は甘くない。
……と、石のあった窪みから一匹の百足が這い出てきて、此方に向かってくる。
「…………ぁ……ぅ……」
「……草太?」
途端に、草太の動きが止まった。いや、正確に言えば小刻みに震えてはいるんだけど。
そうする間も、百足はこっちに向かって来る。徐々に、徐々に。
そして、あと数センチで草太の前脚にぶつかる――
「氷華。止めなさい」
凛とした声が響くと同時に、何故か百足はふわりと浮かんで窪みに戻っていった。
「そんなに草太の事を苛めて、一体何が楽しいのよ」
「……陽頼(ヒヨリ)姉さん」
「ひよ……姉っ……」
私にぴしゃりと言い放った陽頼姉さんは、紫の尻尾をピンと立てながらこっちに向かって来る。その様子を見ていた草太は飛び跳ねるように立ち上がり、陽頼姉さんに泣きついた。
「ほらほら、もう泣かないの。百足はもういなくなったから、ね?」
「ひく、えっく、ふえぇ……っ……」
「……全く。あのままにしてて、もし草太が失神でもしたらどうするつもりだったのよ? 私がエーフィだったから良かったけど」
呆れたような目で私を見てくる陽頼姉さん。
「お姉ちゃんなんだから、弟を虐めちゃだめでしょ?」
「……別に、私は虐めてなんか」
「じゃあ、なんで草太の嫌いな虫を、わざわざ見せつけるみたいにしたのかしら?」
「…………」
陽頼姉さんは、深く溜め息を吐くと草太を連れて表へと出て行く。
「……私だって……したくて、こんな事してるわけじゃ……っ」
私の呟きは、木立の合間に消えていった。
裏庭の冷たい地面に身を伏せて体温を奪われながら、茂みの陰に隠れて表の庭を見やる。草太の姿は見えないけど、あの仔の事だから家の中で涼んででもいるんだろう。
それでも、今は裏庭から出たくない。
「あんな終わり方じゃあ、草太にも陽頼姉さんにも合わせる顔が無いわよ」
……確かに、草太を虐めたいって気持ちも無いとは言えない。けど、あんな言い方をされたら、まるで私が悪者じゃない。
草太の怯える声に、泣いている顔に。いつも迷惑しているこっちの身にもなって欲しい。
「あそこまで臆病だと、いちいち心配してなきゃいけない私まで辛いのに……」
どうせ大した事じゃないってわかってても、草太の悲鳴を聞く度に不安になる自分がいるから。何か、怪我でもしたんじゃないかって心配する自分がいるから。
草太が苦しむと、自分まで苦しくなってくるから。
だから、それを少しでも抑えたくて……。
「へぇ。ただ単に草太の事を虐めたいだけじゃなかったんだな」
「!?」
突然上からした声に立ち上がると、枝を掻き分けて何かがガサガサと落ちてきた。
「俺はてっきり、好きな仔を虐めたくなる雄の仔と同じ心情なんだと思ってたぜ」
「使炎(シエン)……」
上から落ちてきたのは、赤と黄の毛皮に身を包んだポケモン――ブースター。
「……私はあんたなんかと違う。好きだからって、それだけで草太の事を虐めたりなんてしないわ」
「あ、草太を好きだってところは否定しないんだな」
「…………」
「ふぅん。お前はツンデレだから、むきになって否定すると思ってたんだけどな」
「……私だって、否定出来るならそうするわよ」
でも、この胸の苦しさを一度恋だと認識してしまったら。
守ってあげたいとか、気を引きたいという感情を自覚してしまったら。
否定なんか、できっこない。
「なら、告白すればいいじゃん」
「…………はあっ!?」
え、ちょっと今、唐突に変な言葉が聞こえた気がしたっ!
「いや、だから、そんなに好きなら告れって言ったんだよ」
「む、むむむ、無理っっ!!」
何言ってんのこいつっ!
そんな、羞恥で死にたくなるような事を私にしろって!?
「無理じゃねーよ。お前は綺麗だし、草太の方だって実際まんざらでも無いと思うぜ?」
「あんな酷い事ばっかりしてるのに、草太が私なんかを好きになるわけが無いじゃない……!」
「あー、ったく。なんで俺の言いたい事が分かんねーかな」
使炎はがつがつと頭を掻き、私にずいっと近づいてくる。その目が、なんだかさっきまでの飄々とした感じとは違う真剣なものに見えて。
「おい」
「な、何……んっ!?」
若干怯えながら私が口を開いた瞬間、使炎が私のマズルに噛み付いた。
「っっ!! ぁ、ふ……!?」
使炎が若干顔を傾けて噛みついたせいで私のマズルは使炎のマズルとしっかりかみ合ってしまい、しかもそのクロスされた使炎の口から舌が入ってきて……って、私もしかしてキスされてるのっっ!?
ど、どうしよう、頭が混乱してきた。体にも力が入んないし、使炎は慣れた手つき(舌つき?)で私の舌に絡ませてくるしっ……。
「んっ、……ふっ……ぁ」
後肢がカクンと折れてしまい、へたり込むような形で尻餅をつく。前脚もぶるぶる震えるけど、口が繋がったままだから自然と上を向くような格好になってしまった。
そこに使炎の右前脚が伸びてきて、私の背中と首の境目あたりを抑えて固定される。上の方から、さっきよりも深く激しく口腔を貪るようにして熱い鞭が振られる。氷タイプの私にはそれは熱すぎて、けれど何故かそれが心地よくて、息苦しさに瞳が潤んでいく。顔もだんだん赤くなる。
炎に酸素を奪われてしまった私は更に力が入んなくなって、ぷるぷると震える前脚を使炎の背中に縋るようにまわした。
「――っっ!! く、っ!」
途端に、使炎は目を大きく見開いて口を解放して、私から距離を取った。支えのなくなった私は咄嗟に前脚で体を支えるけど、今にも地面に倒れ込みそうになる。
「……ちくしょう……あんな表情で脚まわしてくるとか、反則だろ……!」
「はぁ……は、……はっ……?」
使炎が何かを呟いた気がするけど、私の荒い息遣いのせいで何て言ったのか分からなかった。頭もぐらんぐらんするし、あぁ、私、どうしちゃったんだろう……。
「とにかく」
若干息の調子が戻っててきた頃に、使炎が再び私に近づいてきて。
「――俺みたいな雄にこうやって食われる前に、草太をモノにしとけって言ってんだよ」
耳元で囁かれたその言葉に、私はドキリとしてしまった。
「な、なん、何を……言って……っ」
再び赤くなる顔で、口をパクパクとさせながら声を振り絞る。でも、使炎はそんな私を置いて庭の方へと戻って行く。
「……それから」
途中でぴたりと脚を止めた使炎が、私に背を向けたまま喋り出した。
「今度、俺の前で無防備なところを見せやがったら……その時は、本気で食っちまうからな」
そう吐き捨てると、使炎は日溜まりの中に歩んで行った。
後ろを向いてたから表情は見えなかったけど、その声は心なしか上擦っていた気がする。
陽射しも無くなり気温も涼しくなる夜は私にとって過ごしやすい時間帯。冷たい夜風と星屑の光を全身に浴びるのは気持ちいいのだけれど、今家の外にいるのはそれだけが理由な訳じゃない。
「流石に気まずいわよ……」
草太には避けられてるような気がするし陽頼姉さんには会いたくないし、あんな事をされた後じゃあ使炎にも会えない。
そんな家の中にいるなんて、拷問以外の何物でもない。
そういう訳で、私は夜の散歩を楽しんでいる最中だ。
私達の住む家は町の隅っこの不便な場所にあるのだけれど、その代わりに広い庭で遊ぶ事が出来る。家のすぐ側には小高い丘もあるし、その向こう側には広大な森も有って。丘のてっぺんからは海を眺める事だって出来る。
森の奥までは行った事がないけど、遠くにある山脈の麓までずっと続いてるらしい。
っと、そんな事はどうでもいいのよ。今はまず、どうするかを考えなきゃ。
「いつまでも帰らない訳にはいかないし……はあ」
丘の青々とした草を踏みながら今日何度目かの溜め息を吐く。全く、どうしてこんな事になっちゃったのかしら。
草太を好きにならなければ、こんな事にはならなかったのに……。
――~♪ ~~♪
「……あれ?」
歌声が、聴こえる。
歌詞は分からないけれど、どこかで確かに誰かが歌っている。
「……丘の、上?」
こんな時間に、一体誰だろう。ポケモンの声だとは思うけど、こんな街外れの丘にわざわざ歌いに来るなんて。どんな物好きだろうか。
……ちょっとだけ、見に行ってみよう。どうせ今家に帰ったって仕方ないしね。
丘の上に向かって前脚を踏み出し、出来るだけ音を立てないように登っていく。草が足の裏を撫でる度に、歌声は明瞭に聴こえてきた。
にしても、なんだか聞き覚えのある声ね……。
「……聞き覚えがあるっていうか、なんだか霞月の声に似てる気がするわね」
兄弟で下から二番目の雄のブラッキー。草太よりも年下な癖に滅茶苦茶生意気な弟。でも、あいつの声はこの歌声よりもっと低かった気がする。
『――君の言葉は僕に通じて
僕の言葉は君に通じない
君の思いは僕に届いて
僕の思いは君に届かない』
あ。でも、音程の高い歌を歌えば声だって高くなるわよね。って事はやっぱり霞月の声かしら。夜目がそこまで利くわけじゃないけど、シルエットのあちこちで光るリングは明らかにブラッキーのものだし。
『心が凍える悲哀の風は
美麗で儚い薔薇を造り
棘から滴る苦渋の雫は
新たな悲哀の素となる』
丘を登りきって近くで見てみると、うん。やっぱり霞月だった。ちょうど霞月の真後ろから登ってきたから、まだ気づかれてはいないみたいだけど。
「……氷華姉さん」
「うわ。気づいてたの?」
「……誰かと違って、耳はいいんです」
「誰かって誰よ」
「……使炎兄さんに弄ばれて可愛くなっちゃってた誰かさんですよ」
「っ!?」
鼻で笑いながら此方を振り向く霞月。私を蔑んでいるかのような目つきをしながら、平然ととんでもない事を言ってのけた。
霞月にあの場面を見られた……!?
「……全く、氷華姉さんもかなり無自覚ですよね。使炎兄さんが可哀想ですよ」
「何が、」
「教えません」
「ちょっと、私はまだ何も」
「僕の事を『マセガキ』とか『厨二病』なんて呼ぶ姉さんには、何も教えません」
「……」
そういうところがマセガキなのよ、なんて事は言わない。
「……はあ。せっかく独りで感傷に浸っていたのに、邪魔が入ったおかげで気分が霧散しちゃいました。責任とって下さい」
そういうところが厨二病なのよ、なんて事も言わない。
「……心の声が口から漏れてますよ」
「五月蝿い!」
「……そうですか」
それだけ言うと、霞月は後ろを向いて地面に座り込んだ。海と空を眺めながら静かに佇むその姿は、闇に夜闇に溶け込んでいて儚げに見えて。……なんとなく、さっさとどっか行けって言われてるような。そんな気分になってきた。
まあ、確かにずっとこいつの側に居るのも癪よね。戻るのは億劫だけど、もうみんな寝てるだろうし。うん。
一度ため息を吐いて、家の方に体を向ける。
「……? 姉さん、戻るんですか? ……別に、ここに居てもいいですけど」
「別にいいわよ。普段は私の事嫌ってる癖に、よくそんな事が言えるわね」
「……そうですね。……それじゃあ、戻る前に一つだけ言いたい事が」
家に帰ろうとした私の方を向いて、霞月は短く言葉を発した。
「……草太は、姉さんの事が好きですよ」
「…………は!?」
「それだけです。……それじゃ、お休みなさい」
それっきり、霞月は遠くの水平線を見つめて此方を振り向かなかった。
「……お休み」
私も、家に向かって丘を降り始める。
登る時には感じた草の感触も、頭の中が違う草の事で一杯になっている私には、全くもって感じられなかった。
「……ふう」
氷華姉さんが大分離れたのを見計らってから、僕は声を上げた。
「……使炎兄さん。そこにいるんでしょう? ……茂みに隠れて盗み聞きなんかしてないで、出てきて下さい」
「……別に、盗み聞きしようと思った訳じゃねえよ。たまたま、ここを通りかかったから」
「だったら、身を伏せて近づいてくる必要はないですよね」
「……」
がさがさと音をたてながら、使炎兄さんはバツの悪いような顔をして茂みから出てきた。
「……全く。……氷華姉さんの唇を奪ったうえに今度はストーカーですか。……兄さん、一体何がしたいんです?」
「い、いや。だから、ここには偶々通りかかったんだって。……確かに、こっそり近づきはしたけどよ」
「……だったら、何のためにここを通ったんですか」
こんな遅くに、わざわざ何をしに外に出て来たっていうんだろう。
「ん。紅蓮(グレン)のとこに遊び行こうと思って」
「……紅蓮さんって……あの、ウインディの?」
「ああ。丘の反対側に迎え来てもらう約束なんだよ」
丘の下に右前脚を向けながら、まだ来てないみたいだけどな、なんて兄さんは言うけれど。
……でも、確か紅蓮さんと使炎って、
「……氷華姉さんにキスした癖に、違うやつとヤりに行くんですか」
2人は、そういう関係だったはずだ。
今は家族ぐるみでの付き合いだし互いのマスターも仲が良くなったけど、そうなったのは2人のおかげだと聞いている。……マスター達は、2人がそういう事をヤっているとは知らないみたいだけど。
「……大した根性ですね。見習いたいとは思いませんが」
「うるせえよ。ヤらねえとやってらんねえ事だって、あるだろうが」
「……お盛んですね」
「悪かったな。……なんだったら、俺はお前を食っちまっても構わないんだぜ?」
僕を威圧するようにずいっと詰め寄り、使炎兄さんは鋭い眼光を僕に向けた。これが兄さん以外の人だったら多少はうろたえるのだけど、
「……別に、いいですよ」
「は……!?」
兄さんは、僕には手出しが出来ないって分かってるから。
「……兄さんは自分の事を好きになってくれる人以外には手を出さないって、知ってますから」
「…………」
だからこそ。使炎兄さんにとって、氷華姉さんは特別な存在なんだと思う。
「……僕は、兄さんが好きですよ。……でも、陽頼姉さんの方がもっと好きです」
「……知ってる」
兄さんが暗い顔になったと同時に、丘の下から遠吠えが聞こえた。
「……紅蓮さん、来たみたいですね」
「ああ。……行ってくる」
兄さんは顔に影を落としたまま、斜面を駆け下りていく。
残された僕は、月の光を浴びながら朝の日差しを思う事にした。
「……うん。電気は全部消えてるわね」
基本的にうちのマスターは私たちの意思を第一に考える人で、「どうせ金目の物は置いてないから」と言って玄関の鍵は開けたままにしておいてくれている。だから、玄関には難なく入る事が出来たのだけど。
「どの部屋で寝よっかな……」
私たちの家は二階建てなのだけれど、基本的に下の階の部屋しか使っていない。マスターは好きな部屋で寝ていいって言うんだけど、みんな自然とマスターの部屋で寝る事にしている。でも、今日だけは同じ部屋には寝たくない。というか、草太と一緒に寝れる気がしない。
はあ、一体どうすればいいのよ……。
“お前は綺麗だし、草太の方だって実際まんざらでも無いと思うぜ?”
“……草太は、姉さんの事が好きですよ”
「……そんなわけ、ないじゃない」
あの2人は、一体どういうつもりであんな事を言ったんだろう。
……使炎は、どういうつもりで私にキスを……。
「あー! 分からないわよっ!」
何回考えてもさっぱり分からない。頭がパンクしそう……。
こんな事なら、変な気を起こして虫嫌いを治させようとなんかしなきゃ良かった。今更後悔しても仕方ないけど……
「……ぅ……ぇさん……」
「……え?」
今、誰かの声が……台所の方から聴こえたような。……あれ? なんかデジャヴ……
でも、この声はまさか……。
「……ょぅ……ねぇさ……ぇっく……」
「草太……っ!?」
台所の中をのぞき込むと、案の定背を向けてすすり泣く草太がいた。
でも、どうして台所なんかに。草太がこんな夜中まで起きてた事なんか一度も無いし、そもそも怖がりの草太が暗い家の中を歩き回れるわけが……
「ひっく……ふぇぇぇ……」
「……っ」
わざわざ中に入って慰めたりなんかしなくてもいいはずなのに、体が勝手に動こうとする。
……駄目よ。今草太に会っても、また傷つけるだけかもしれないじゃない。
それに、あの二人の言う事は信じられない。酷いことばっかしてる私の事なんか、草太は嫌いに決まって――
「……ぇう……ひょう、か、ねぇさん……ひっく……帰って、来て……ぇ」
――へ?
「……嫌われたままなんて、いやだよぅ……」
「――僕は、姉さんが好きなのに――」
「――――っっ!!!!」
「ふぇっ!?」
私にはもう、その場にいる事が耐えられなかった。
後ろを向いた拍子に音をたててしまっていても、台所から出て行こうとした後姿を草太に見られてしまっていても、気にする余裕はなかった。
どうしよう。
本当に、本当に好きだったなんて――!
「……冷静になれ、私」
咄嗟に家を飛び出して庭に出た後、結局私は一睡もしないまま朝を迎えた。朝食の時間まではまだまだあるけど、既に朝日は登っている。
庭の片隅にある蓮の浮かんだ小さな池の、すぐ側にある楓の木の下。私の特等席と化したその場所に座りながら、私は草太の言葉を反芻する。
「……兄弟としての好き、かも、しれない」
草太は「姉さんが好き」としか言って無かった。だから、別に恋愛感情は持ってないかも知れない。
……でも。
「嫌われてなくて……良かった」
そのことだけは、素直に喜べる。今まで草太にはキツく当たってばかりだったから、きっと嫌われてるんだろうなって思ってたから。
ただ、そんな態度をとってたせいで、草太は自分が私に嫌われてると思い込んでるっていう事も分かってしまった。
「……草太に、謝んなきゃ」
今までの事を謝って、誤解を解いて。私も草太が好きなんだって伝えよう。そして、もっと素直になる事にしよう。
もう後悔はしたくない。だから、もっと思い切った行動を心がけて――
「――思い切った行動って、何……?」
三つ子の魂百までって言うらしいし、私のツンデレを治すっていうのは無理だと思う。だけど、今まで通りの性格のままじゃあ誤解は解けないだろう。だから、それを上回る、草太に「好き」って伝える方法……。
「……キス、とか?」
好きだって言って唇を奪えば、もう誤解はされないはず。そうすればそれは告白にもなるから、二人は晴れて結ばれ……
「むむむ、無理無理っ!」
私のツンデレは恥じらいから来るものなのに、自分からキスだなんて恥ずかしすぎる事を出来るわけがない。第一、私には使炎みたいに自分の貞操を気にしない行動なんか……って、あ。
「もしかして……使炎が、私にキスしたのって」
私が、草太にキスをし易いように? いや、むしろ……草太にキスをしろっていう暗示だったのかも。なんだ、そういう事か。
でも、そうだったらそうだったで、ディープキスなんかしなくたってよかったんじゃないかしら。それとも、私にディープキスをしろっていうの? ああもう。そんな、考えただけで顔が熱くなるような事を出来るわけが
「……ね、姉さん?」
「きゃぁぁあぁっ!?」
背後から唐突に草太の声がして、思わず私は池に飛び込んだ。大きな水しぶきを上げて、体が冷たい水に濡れる。
「い、いきなり驚かさないでよっ!」
すぐに後ろを振り向き、池の中から草太を睨みつける。池はそれ程深くないのだけれども、それでも肩の辺りぐらいまでの深さはあるから必然的に上目使いになってしまう。
「……一体、なんの用よ」
「え、えっと……ぁうぅ……」
あ。また強い口調になっちゃった。この体勢だとどうしても目つきも鋭く見えちゃうだろうし、不機嫌だと思われてるかもしれない。でも、下手に言い訳をするよりも先に用事を訊かなきゃ。
「ほら。早くいいなさいよ」
「そ、その……姉さんに、謝りたくて」
……は?
「昨日の夜、姉さん、僕の独り言聴いてたみたいだから……気を、悪くしたかなって、思って……っ」
しゃべるたびに、草太の栗色の瞳に水が溜まっていく。
なんで、なんで草太が謝る必要が? 本当に謝らなきゃいけないのは、私の方なのに。
「いつも、迷惑かけてるから……姉さんが、僕の事なんか嫌い、なのは、分かってるけど」
ちがう。嫌いなわけ無い。むしろ、大好きなのに。
草太の声に嗚咽が混ざり始めて、頬も濡れてきた。
「これ以上、嫌いになって欲しくないから……。だから、好きには、なってくれなくてもいいから……っ」
もう、我慢出来ない。
「いなくなったり、しないで――」
「うるさい!」
前脚をお座りの格好で泣きじゃくっている草太の肩にかけて、思いっきり自分のほうに引き寄せた。当然、草太の体は池に落ちて私と至近距離で向き合う形になる。
「ぷぇっえぁっ!? い、きなり、何を――」
そんな草太の、泣き声しかあげられないような口を。
私は、自分の口で塞いでやった。
「…………」
五秒間ぐらいの、触れるだけのキス。
「……え」
「…………」
口を離してからポカンとしている草太の顔を見ると、口をちょっと開けた状態で完全に固まっていた。
でも、少し間を置いたらどんどん顔に赤みがさしていって。
「ぁ、う……」
「……っ」
気づいた頃には、クリーム色の毛の上からでもわかるくらいに赤くなっていた。かくいう私も、顔が熱くて熱くてしょうがない。
でも、これじゃまだ足りない。
「……私だって、泣きたいわよ」
「へ……?」
若干伏し目がちにだけど、私はしっかりと言葉を発していく。
「私だって、あんたに謝んなきゃいけない事は沢山あるし、伝えたい事だって沢山ある。……でも、私が謝る前に、あんたは謝っちゃうし、伝えたい事だって、恥ずかしくて言えないし……」
私がこんな事を言うなんて、きっと二度と無いんだろうななんて思ってみるけど。だからといって、私はここで言葉を区切る訳にはいかない。
「終いには、あんたは私に嫌われてるって思い込むし。……本当は、私もあんたが大好きなのに。……気付きなさいよ、バカ」
言って、額の水晶を草太のおでこの葉っぱにぶつける。
「……兎に角、私はあんたが大好きだから。だから……もう、泣くのは止めてよ……」
怖くて震えが止まらない時は、私がそっと抱き締めてあげる。
寂しくて涙が溢れた時は、私が全部舐めとってあげる。
悲しくて声をあげそうな時は、私がその口を塞いであげる。
愛情の指標なんてものは無いから、私がどのくらいあんたの事が好きかって事は推し量れないけど。精一杯、あんたに好きって伝えてあげる。
だから、もう泣かないで。
「あんたが泣くと、私まで悲しくなってくるんだから……」
「……」
沈黙。
沈黙。
沈黙。
「……ふ、……ぇっく……」
「……ば、バカ草太。なん、で、言ったそばから泣くのよ」
「だ、て……。嬉しい、から」
「…………」
「好きって、言ってくれたのが、嬉しいから……っ……ぅ、ふぇぇ、えっ……」
「……っ……ば、バカ草太……っ!」
この時、二度目に交わしたキスは。
お互いの涙が混ざってしょっぱくて。
だけど。
何故か、仄かに甘かった。
―しひょう(姉氷)とていそう(弟草)―
――End.――
〇あとがきという名の雑記
・本当は、ちょっとだけでもいいから家族全員を出したかった。
・後半になるにつれてグダグダになる。もはや僕の定番パターン……
・題名が空気。もっと指標とか貞操とかの言葉を使いたかった。
・氷華はもっとツンデレれたんじゃないかと思ったり。というか、最早ツンデレ要素が無いに等しい。
・そのうち氷華がツンデレ全開の話も書きたい。続編なり番外編なりで。
・まだまだ続きがあるのに、氷草を書いたらなんだか完全燃焼してしまった気分。
・書いてるうちに、当初のプロットとは大分違う事になってる所が幾つか……。
・改善点が有りすぎる……気がする。漠然と「なんか気に食わない……」とは思うものの、どう変なのかがいまいち分からない。
・ディープキスの表現ある時って、もうちょっと警告文付け足した方がいいのかしら←今更
……とりあえず、「しひょうとていそう」は完結っ!
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