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この一線を越えていく

/この一線を越えていく

人間×人間を示唆する描写があります
人間×ポケモンに当たる描写もあります

後悔しませんね?




 真夜中、不快な音に目を覚ます。
 不快なことと言ってもご近所様が怒鳴り込んでくるような大きさではない。静かにしている中で小声でひそひそ話されるようなものでもないし、人間の耳にとってのガラスをひっかいた音ような、生理的に受け付けられない音というわけでもない。最近寝つきが悪いということもあるが、これだけは譲れない。この音は、彼にとって不快なのだ。
 壁一枚を隔てた向こう側から、聞こえてくるそれ。
 何かを叩くような音、打ち付けるような音、ベッドのスプリングがきしむ音……何より、人間同士の喘ぐようなうめき声。
 つまりここはリビングで、他の家族は男女の営みを行っている部屋に鍵がかけられている以上、ここで寝ることを余儀なくされている。
 ずっと昔からこうだったわけではない。ご主人様があの男を彼に紹介してから始まった習慣だ。
 それまでは一人と一匹、仲良く寝室で、枕を並べて、とするには少々ベッドが狭かったので、ベッドと地べたで寝るのが普通だった。ところが今は男が来ない日も寝室とリビングで、扉や壁を隔てて寝るようになった。
 そして、あの男が夕方に来る日は、決まってこうして真夜中に起こされる。

 ……くそ。起こしやがって。

 こうなるともう眠れない。イライラと悶々と、あと半分は自分でも整理しきれない感情が頭の中を渦巻いて、気持ちが落ち着かなくなる。
 前足を噛んでみたり、壁に体をこすり付けたりしてみても、触覚を感じるだけで聴覚は紛れることはない。
 別に、特別耳がいい種族でもないのに。どちらかというと鼻の方が利く。
 短針が無感情にせっせと時を刻む音がなおさら気を逆撫でる。いつの間にか慣れていた夜目は、扉のこちら側は昼間と変わらぬ平和な様相を呈しているのを認めた。
 だからこそ、余計に向こう側で行われていることに腹が立つ。
 骨の形をした噛んで遊ぶポケモン用のおもちゃは、進化してから一層咬合力の強くなった彼によってすぐダメにされ続けている。千切れたおもちゃを見て、ご主人様が「リッキーか噛む力が強いんだね」と笑って新しいおもちゃを買い与えてくれるのが思い出される。
 振りほどくように、そして忘れるように頭をふった。壁にぶつけて音が出たが、男女には聞こえていないだろう。彼は聞こえよがしに寝返りをうった。無駄だろうが。
 こうしてしばらく涙ぐましい努力を続けていると、そのうちに情熱的なデュエットはクライマックスを迎える。彼はきゅっと目を瞑ってそれを耐えた。
 ひとまず、ここまでは終わった。ぼそぼそ聞こえるような聞こえないようなピロートークは、これまでと比べたら格段に不快指数は低い。しかし彼は安寧を手に入れたかと言えば、そうではない。むしろ本番はこれからだ。きっとこれから起こるそれに、彼は一つ溜息をついた。
 そうら来た。男は事後に必ず帰っていく。夜明けを待たずに。玄関を開けるときに、どうしてもそれとわかる音がする。廊下を歩く音だけなら水場に行くだけかも知れないのに。それ自体は清々することだ。とっとといなくなってくれて嬉しい。前はそうでもなった。男は夕方に来てご主人様と彼と一緒に食事をし、楽しい夜を過ごし、幸せそうに日が昇ってから別れていた。彼もその時はここまで心を荒らされていなかった記憶がある。
 いつからこうなったかは知らない。タクシーでも拾うのか、歩いて帰れるほど近くに住んでいるのか、別の宿があるのか、彼にはどうでもいいことだ。ご主人様にはどうでもいいことではなかったかもしれないが。
 彼には、もう一つどうしても許せない音があった。
 どんなに聞こえないフリをしても、どんなに耳を塞いでも、どうしても聞こえてくる嫌な音。自分の角が立派過ぎて耳を塞ぎ切れているのではない。
 地獄の番犬とさえ呼ばれる自分の遠吠えが、臆病なポケモンたちには千里離れていたって聞こえるのと同じ理屈だ。嫌じゃなければ聞こえない。
 ご主人様がすすり泣く声が聞こえてくる。これが嫌いだ。しかし導かれるようにリビングを出て、鍵のかけられた寝室の前へ。よりはっきりと聞こえるようになった涙のしるしは、あるものは耳の奥から中の空洞を通って頭の中へ、あるものは耳の奥から下へ落ちて胸の深くへ。ただの泣き声だというのに、どくどくやねっとうのような殺傷力を持って彼を締め付ける。
 行為の音とこっちの音、どちらの方が嫌いかと言えば間違いなく彼は後者を取るだろう。彼はそれだけご主人様のことを大切に思っているわけで。
 でも彼は、ご主人様から何もしてこない以上、今している自分からのアピールしかできなかった。



 翌朝、ご主人様は何事もなかったように起き出してきて一人と一匹分の朝食を作る。
 本当はその前にシャワーを浴びて昨日の痕を消してるんだけど。回っている洗濯機がそれを否定しない。
 彼は今匂いにつられてようやく起きたように目を開けると、ご主人様のもとへのそりと寄って行った。
「リッキーおはよ!」
 気丈に振舞っているのは本心からですか。それとも作っているのですか。彼も人間の言葉を話せれば、つい聞いてしまっただろうか。
 自分のポケモンが目を覚ましたのを確認して、テレビを点ける。朝のニュース番組が流す軽快なメロディに合わせて、ご主人様は鼻唄を歌った。
 夜のことなんか夢であったかのように。でもきっと、それは夢じゃない。ベーコンの焼ける臭いが換気扇に吸い込まれていく。
 洗濯が脱水完了を告げる笛を鳴らしたところで、餌箱が目の前に置かれた。
「はい、リッキーの朝ごはん」
 ニッコリと笑っていたが、朝食に使ったベーコンやドレッシングのにおいに混じって、石鹸と、少しばかり似つかわしくない臭いがした。やっぱりあれは夢じゃない。
 心なしか、化粧前のご主人様の顔には、まだ涙の痕が残っているように見えた。
 餌箱に食いつく隙を見てリビングから抜け出し、洗濯物を乾燥機に放り込む。ご主人様はなぜ頑なにそれを僕に言わないのか、と彼は気付いてないフリをしながら思った。
「リッキーそれ机の上のそれ読んどいて!」
 そのまま寝室に戻ってしまった。メイクと服装を整えて仕事に行ってしまうのだろう。朝が忙しいのは彼も重々承知している。

 リッキーへ
 お買い物をお願いします。机の上のメモを持って中村さんの店に行ってください。
 壊れ物はないのでリビングに放っておいていいよ

 人間との生活に慣れている彼は買い物だってできるし洗い物だってできる。オートロックのマンションだって鍵を忘れずに持って出ていくし、帰るときも器用に開けてしまう。洗濯だって干すところまでできるが、絶対に頼まない。掃除は鍵のかかっていないところだけやってしまう。風呂掃除はさすがに無理だが……。
 この手の役目を担わされるのはまるで苦痛ではない。むしろ嬉しくすら感じる。ずっと昔からこういう関係だったのだから。四本足で手なんてない。よそ様から、リッキーくんはかしこいねと主人が褒められるのが、彼にとって幸福だった
 だからこそ、こうして何もないように振舞われるのが、余計に苦しい。
「リッキーあとよろしくね! 行ってきます!」
 洗い物をしているところを、顔も合わせず、逃げるように玄関から出ていったご主人様。見送りもさせてもらえなかった。気を使ってくれたのかもしれないが、好意的に解釈する気にはなれなかった。
 一応後から覗いてみたが、玄関は鍵を掛けられていなかった。オートロックだからって不用心すぎるじゃないかと思った矢先、それは違った。寝室には忘れず鍵が掛けられているので、玄関はわざとだ。
 微妙な信頼感と不信感のはざまに、彼、リッキーは立たされていることを思い知った。


 
 リッキーがデルビルとしてタマゴから孵ったとき、ご主人様は確かまだ保護者が付いていなければポケモンも持てない少女だったと回想する。
 つまり下劣な回想だが、ご主人様が少女から大人になるにつれて、実の親よりも長い時間と厚い信頼を与えられてきたという自負がある。
 初めて男性とお付き合いなされたのは義務過程を修了なさる少し手前の頃だったでしょうか。初めて純潔を捧げられたのは皆さまより遅めの過程でしたね。その時のお相手は都合の問題で残念なことでした。まあ、きっとどなたも同じような道を通ったのでしょうが。
 しかしリッキーは納得しない。その頃の相手と違って、より精神的には成熟しているべきなのに、ご主人様はより不安定になっているのだ。
 それはもうお互いに自我に目覚める前からの切っても切り離せない強い関係で結ばれてると思っていた。
 リッキーに限っては。
 前に男が来てからまだ日が経ってないので、今日は構ってもらえるだろうと思ったらそんなことはなく、帰宅して寄り付くなり「ごめんね、ちょっと疲れちゃった……」と拒まれる彼の心中やいかに、長いキャリアこそあれ、所詮は主と従の関係だったのである。
 中村さんの店へのお使いは済ませてリビングのわきに置いてある。洗剤やスポンジ、サランラップなどの日用品だったので、自分で片付けられるものは片付けておいた。
 聞いてくださいご主人様。中村さんが久しぶりに顔を見たがっていましたよ。ここで暮らすようになってから随分とお世話になりましたものね。最近はこの周辺にも不審者が出るようになったらしくて、皆さん心配されていましたよ。昔のようにリッキーを連れ歩いたほうがいいんじゃないかって。
 仕事着を脱ぎ捨てて、うっとうしいメイクと、軽く汗を落とすと、何も言わずにソファに寄り掛かる主人を、部屋の隅からじっと見つめていた。いつの間に持ってきたのか、左手にはビール。彼なりに気を遣ってミックスナッツの袋を咥えていったが、無言で取り上げられてしまった。代わりに、自分でビーフジャーキーの袋を開けて投げてやる。
 深夜帯特有の題材の重い、でもどこかズレていて感情移入できないドラマが点けられている。確か視聴率が取れていないと聞いた。そしてご主人様もそんなドラマには興味がないようだった。ビールも一口か二口飲んだらテーブルの上に置きっぱなしだ。だらしない恰好のまま、ソファに寄り掛かってスマホを眺めている。
 テレビの中でヘルガーが吠える。演技の下手なヘルガーだ。自分のほうがもっと哀愁を込めた遠吠えができると、彼はぐるぐる唸った。ご主人様が左手で彼の頭を探し、そして見つけた。ポンポンたたく。ビールを握っていたせいか、冷たい。
 手の冷たさに顔を上げるが、ご主人様は気づかない。スマホを眺める横顔は、ひどく寂しそうに見える。画面を覗けば彼にもその理由がわかるのだろうか。後ろ足で立ってソファーの背に寄り掛かれば覗けない位置ではない。きっとご主人様は怒らないだろう。それとも自分には分からない暗号でやり取りしているのだろうか。
 塩辛くておいしくないジャーキーだ。ちゃんとしたメーカーのやつなのに。例の実質値上げとかいうやつで質を落とされたのだろうか。ご主人は忘れていたビールをちびちびと啜っている。おいしいんだろうか。
 しばらく一人と一匹のこの状態が続いて、そのうちにドラマが終わる。やたらテンションの高いCMが耳を通り抜けていく。ご主人はまだ寝ないのだろうか。お座りに飽きてリビングをぐるぐるしてみたが、何も反応はない。
「あ……」
 がちゃん
 やっぱり眠くてうとうとしていたのだろう。ご主人様がスマホを落としてしまった。ビールをはじいて倒してしまう。中身はまだ半分ほど残っていたようで。あーあー、といかにもやってしまったという声を上げて、ご主人様が目を覚ました。
 こういうときこと自分の出番と、リッキーが布巾を持ってきてぬぐおうとする。落ちた衝撃でスマホの待機画面が明るくなっていた。スリープにはなっていない。
「ダメ!」
 ご主人様が叫んだ。何事かとリッキーはそちらを向いて立ち止まる。ビールは缶こそ立て直されたが出た分がまだ広がっている。ご主人様はスマホが濡れないようさっと奪いとった。
 リッキーが、これを自分に見せたくなかったからだと理解するには、少しだけ時間がかかった。その間ずっといたずらを見咎められて固まっているデルビルのように固まっていた。やましいことなど何もないのに。
 ましてや、誓ってそれを覗こうとしてやったことではなく、ただの自分の役目としてすっ飛んできただけなのに。
「いい、リッキーはダメ。私が全部やるから、もう寝よ」
 提案ではなく、ほとんど命令だった。顔も相応に険しかった。弁明しようにもヘルガーには人間の言葉はしゃべれない。仕方なく口をぱくぱくさせる。牙と舌の感触が気持ち悪い。伝わるわけがなかった。
 雑にビールをふき取るとスマホにダメージがないことを確認して、目も合わさずにおやすみと言われた。怒られているに等しかった。一応後を追ってみたが、やはり寝室に逃げ込まれて鍵をかけられてしまった。

 ねえご主人様。そんなに大事な方とスマホで繋がってらっしゃるのですか。
 何も話してくれなくてもいいので、もっとこっちを向いてください。



 ご主人様にだって人並みに休日がある。いつもより余裕のある朝の時間に、いつもよりバッチリ決めて気合を入れる。彼にできるのは遠くから邪魔が入らないように応援することのみ。
 休日だからと少しくらいは期待していたが、かわいらしくデコレーションされたモンスターボールは今日も転がったままだ。やっぱり連れて行ってもらえないということは、そういうことなんだろう。
「リッキー、今日何時になるかわかんないからカギ忘れないでね」
 ここに来たばかりのときはよく締め出されて大家さんに顔を覚えられたものだ。あの娘のところのヘルガーだね、と。今のような距離だと、大家さんはあの娘とヘルガーを結び付けられただろうか。
「ん? リッキーも一緒に出る?」
 カギを首にぶら下げて、ご主人様の足元へ。ぶつかると本気衣装に毛がついてお互いに嫌な思いをするので、そこは注意。何の香りかはわからないが、最近買ったんだろう嗅ぎなれない香水が香った。
 うぉん、と一鳴きすれば、ご主人様もそのときは元気よく返事をしてくれる。
「じゃあ途中までね!」
 そう、一緒なのは途中まで。どれだけ粘っても、駅の改札までがせいぜい。後ろ姿はやたら気合が入っていたが、こういうときこそ心配だ。

 そして案の定、ご主人様は夕方にもならないような早い時間に、まるで別人のように萎んで帰ってくるのである。彼がどうしたの、と構おうとしても反応せず、当然自分から何がどうしたなどと言い出すわけもなく、リッキーはますます我が身を締め付けられる思いがした。



 ご主人様。僕はご主人様のことが大好きです。生まれた時からずっとお慕い申しております。今後もきっと、この身が果てるまでこの気持ちは変わりません。だからこそご主人様には笑顔でいてもらいたいのです。
 ご主人様の決断ですから、本来なら僕もあの男のことも受け入れるべきなのでしょう。
 でもご主人様。
 どうしてあの男と交わった後、決まって泣いているのです?
 僕の伝え方では伝わりませんか? それとも、僕ではあの男にすら及ばないのですか?



 その日、ついにご主人様と男と――彼の、堪忍袋の緒が切れた。
 リッキーでなくとも、隣近所が苦情を言いに来るくらい激しい口論をご主人様と男が交わしたのち、しばらくの暴力的擬音、最後に男の特大の罵声が響き渡り、アパートの扉を壊してやるというように鳴らして帰って行った。
 すぐにリッキーは異常性を悟ってリビングを出る。きっと男の背中がまだ見えていれば、迷わず飛び掛かって噛みついただろう。
何か声をかけるわけではないが、寝室の扉の前に来てしまった。まあ、声をかけても通じないのだが。

 ……開いてる。

 リッキーは四本足とはいえ、部屋暮らしの長いヘルガーだ。
 洗い物も掃除もできるのだ。人間用にしか作られていない扉だって、今なら音もたてずに開けられる。鍵さえかかっていなければ。
 今日の出来事はご主人様にとってよほどショックだったのか、彼の記憶にある中ではほとんど初めてに近いレベルで、寝室の鍵がかけ忘れられていた。扉が完全に締まり切っておらず、蝶番が頭がおかしくなったように上の歯と下の歯でゲラゲラ笑っていたのである。
 ご主人様と目が合ったら気まずいな、と思いながらも、寝室に足を踏み入れた。空いている扉は、侵入者について主に伝えるのにはほとんど役目を果たさなかった。薄暗い微光が消されていない。
 久しぶりに入るそこは自分の知っている風景とずいぶん変わっていて、まず知らないものと、ゴミが増えていた。
 ご主人様は少し配置の変わったベッドの上でブランケットを被り、うつぶせになっていた。下着は床に転がっている。きっと下は全裸なのだろう。

 かわいそうなご主人様

 リッキーがその姿を一目見て最初に抱いた感想がかわいそうだったのは、彼の主人に対する忠誠心の厚さを示すのに十分な印象を与えただろう。
 といって、これから起こることが許されるかと言えば、そうではない。リッキーの感想は、すぐにどす黒い邪なものに成り代わられてしまう。いや、成り代わられてしまう、は正確ではない。正確にはリッキーの純粋な慕う心と、それと並立して出てきた邪なところが化学反応を起こしてしまった。
 ご主人様は泣いていた。それだけなら、リッキーの心が変わることは、まず間違いなくない。問題は、それだけではないこと。混ぜ切った助燃材と可燃材があるところに、火種が投げ込まれたのだ。

 あんな男の名前を呼びながらすすり泣くなんて……!

「誰!? あなたなの!?」
 唯一身にまとっていたブランケットを引きはがされ、困惑とともにさけぶ主人。その叫びがなおのこと彼の怒りを刺激した。

 あの男なわけないだろ……!!!

 自分の存在を完全になかったものにしたあなたが悪い。
 ポケモンの雌であろうと、人間の女であろうと、どうやら股座から分泌される液体には雄を狂わせる効果があるらしい。生まれてからずっと飼われていたポケモンといっても、本能に近いところはなんだかんだで残っている。グァッ、と一つ低く鳴いた。自分でもこんな吠え方ができるのだとちょっと驚いた。
 ブランケットを引きはがされて一糸まとわぬ姿になったご主人様、ポケモンが抱く感想としてはどうなのだろうか、このまま突き進んでやろう、という感想を彼は抱いた。
 リッキー本人にどんな経験があるのかを、ご主人様は知っている。だからこそ、今目の前で自分のよく知っている”はずの”リッキーがやっていることが信じられない。
「いやっ! リッキー、やめなさい!」
 股の間に顔を突っ込む。自分の知っているメスポケモンたちのとはずいぶん違うのかと思ったら、別に似たようなものだ。ただ人間らしく、綺麗に刈られている。あの男のために見苦しくないようにしたんだろう。やめなさいと言われたってやめないし、手で押しのけられたってこっちのほうが力が強い。
 ご主人様の強烈なにおいに混じって、生臭くて吐き気のする、言及したくもないアレが存在を主張していた。

 違う。僕だってこんなことをしに来たんじゃない。
 いや違わない。思い知らせてやる。

 とがった鼻面から裂けた口にかけてを股を覆うようにあてがう。上目で様子をうかがうことができる。 
 ご主人様の顔は複雑な表情をしていたが、どっちかというと恐怖に支配されていた。このまま噛み千切られるかと少しだけ思ったのだろう。抵抗も全然しなくなった。
「リッキー! 言うことを聞いて!」
 彼はポケモンだし雄だが、その前にご主人様のことが大好きな手持ちポケモンだ。言う事は聞かなくても、そんなことはしない。
 股の割れ目から、全部吸い出してやる。出てこない分は舌で掻き出すように。人間なんかの舌より丈夫で長くて頑丈だから、ずっと奥まで入れるはずだ。
 体外ならなんだかんだで自他問わず舐める機会はたまにあるが、体内の、こういうところを舐める機会はほとんどない。ご主人様は小刻みに震えていた。が、恐怖だけではないほうが、彼には望ましかった。
 のどに絡むような気持ち悪いアレは、においが鼻の奥から抜けて行って吐きそうになる。だからと言ってご主人様の中に残しておくなんてとんでもないことだ。それに、ご主人様が分泌する体液の方はピリッとしてやみつきになる。味そのものは決しておいしいものではないのに。
 舌はヘルガーの器官の中でも有数の敏感な部位だ。半分以上がご主人様の穴の中に押し込めて、その形を覚えていく。異物を入れられたとき特有のぬるぬるした壁の動きがすべて敏感に伝わってくる。 
 下をずっと突っ込みっぱなしなので、自分の涎はだらだら垂れてくる。一部はご主人様の中に一緒に溶けていく。ご主人様の体液と混じって、味も、においもふたりの隔たりを溶かしたようになる。よく利く鼻が、口から鼻腔にかけての香りと外から直接の香りでダメになりそうだ。頭はそれより先にダメになっている。
 舌を圧し潰してくるのを押し返すと、ご主人様は喘ぎともうめきともとれない声を上げた。
 長い舌を引きずり出す。壁を舌先で丹念に掃除しながら。最後に、割れ目全体を大きく舐めあげた後、舌触りのいいでっぱりを吸った。人間のここくらいなら一度でどろりと舐められてしまう。ひっ、とご主人が小さく叫ぶ。
 びくり、ご主人様の体が大きく跳ねた。意識してやった動きじゃないのはなんとなく彼にも分かった。つまるところは絶頂という奴だろう。
 リッキー、と呼ばれたような気がしたが、自分の感情の昂りと弄ばれてしっかり話せないご主人のせいで、はっきりとは聞こえなかった。でも、もしも呼んでくれてたら、うれしかった。
 ご主人様は腕と手で顔を覆っていた。信頼―していたかどうかは定かではないが―する番犬の不義理ともいえる行為に何を思うのか。そして、ポケモンにイカされてしまった自分をどう思うのか。ただ、ありがたいことに、ご主人様は泣き止んでいた。
 とんでもないことをしてしまった、と彼は思った。しかしここまでやってしまったのだ。淫靡な空気は増すばかり。
 まだびくびくしているご主人様を見下ろすように、前脚で踏まないように注意しつつお腹の横、脇の下へ。
 みしり、とスプリングが軋んだ。
 薄暗いとはいえ証明は点けっぱなしだ。お互い顔は見える。だから目が合った。ご主人様は当然驚いたような、怯えたような顔をしていたが、彼の方はどんな顔をしていただろう。

 ダメだ、違う、こういうことじゃない。
 僕は、ご主人様を――

 生まれてからずっと見てきたご主人様の瞳が何を訴えているのかを理解できなかったのは、暗いせいにしよう。
 そんなことより。
 ご主人様の首から下を覆うように立ちふさがる。ご主人様はちょうど混乱から解けたように彼をまんじりと見回した。角の先から口元も、お腹も。
 そして、一点を凝視して言葉を失い、動けなくなった。両手で顔を覆う。
「え、リッキー、うそでしょ……?」
 一点といえば一点しかない。人間とは似ても似つかぬ赤黒く肉肉しいそれが長年の相棒とも言える彼の股の間からにゅるりと伸びていて―そして、彼女はもう大人だから、これから起こるであろうことも予想がついた。
 舌が長く器用だからと言って、憎きあの男が完全にご主人様から駆逐されたと言えば、そうではない。同じ臭い体液なら、せめて自分ので書き換えてやる。マーキングはヘルガーの本能だ。
 だがそれをされたら。人間とポケモンではサイズも形も違う。力や体力も。いくらご主人様が経験者だからといって壊れてしまわないとも限らない。

 ――壊したいわけじゃない

 けれども。この破壊はきっと必要なことなんだ。
 ご主人様の顔がヒクつく。たまにいるらしいポケモンのアレに狂っている人間の雌ではないのだから当然の反応だろう。
 彼はご主人様の上に覆いかぶさった。
「リッキー!!!!」
 ご主人様の静止が始まりの合図となった。彼は知る由もないが尖った陰茎の先っぽは狙いを定めずとも唾液と分泌液に濡れた穴を切り拓いて進んでいく。
 当然のことだが人間の体は人間の生殖器を受け入れるように作られているので、肉壁が受け入れているような、拒んでいるような動きをしてムズムズした。
 リッキーがご主人様の首筋を舐める。陰茎を雌の中で愛撫されていると、雌の首を噛みたい欲が出てくるがそれは支配の証。自分がご主人様に望むのは、それとは遠い関係。
 もっとも、自分が本気で欲望のままに噛みついたら、ご主人様はただでは済まない。こと切れてしまうだろう。
 あとは正真正銘の遺物をぶち込まれているご主人様を、僭越ながら癒してやろうといったところか。
 結合部がみちみち音を立てていたが、それはきっとご主人様が正常な人間である証。わざと拡張するような人工物で慣らさなければヘルガーのものなどとてもとても。
 そんな律義なご主人様を、今征服しているという達成感と、それに伴う苦痛を強いているという罪悪感が彼の心臓を握りしめた。

 瘤は……入れたら本当に戻れなくなるよね。

 ご主人様は必死に力を抜こうと深呼吸している。色気を見せながらも表情は冴えない。そりゃ下腹部に異物が嵌ってるんだから辛いのだろう。
 でもただ辛いだけでもないみたいで、これは今まで全く知らなかったご主人様だ。

 挿れるだけ挿れたらどこか心にゆとりが出てきて、変な熱は少し収まってきた。むしろああそういえばいれていたんだという具合に、股間のソレが肉に握りしめられるのを感じられた。
 彼の勢いがなくなってきたのを感じ取って、ご主人様は乱れた息を整える。
 ご主人様が手を差し出した。下に入っている状態で、何とか上体を起こして首元に手を回す。首の裏の毛を掻かれるのは昔から好きだ。ご主人様の横顔がすぐ目の前にある。
「リ……ッキー、だから、待って……?」
 びっくりした。息は切れたままだったが、それでも熱に浮かれているような声だった。顔をよく見る前に離れられてしまう。
 んっ、と声を漏らしながら、ご主人様がつながったまま体をよじる。彼が四本足拘束しているので、その箱の中で体位を変えるというわけだ。敏感な肉棒が、銜え込まれている肉ひだにずりずり、横方向に擦られて、それは快感だった。だがそれは大きな問題じゃない。
 上から覆いかぶさって、後ろから突くカタチ。ポケモン同士というには主語が広すぎるけれど、一般的にヘルガーがヘルガーと行うときと同じ体勢。
「んぅ……ラクに、なった……」
 これって、つまり、最後まで。思わず涎が垂れそうになる。彼だって雄でポケモンであくタイプだ。ここまで性的によこしまな本性も、実はあったのかもしれない。さっきまでは、こんな行為自体は二の次三の次だったのに。
「いいよ」
 色情を煽られてはその気にさせられてしまう。彼は情動に任せて動き始めた。狭いご主人様の胎内は、今まで彼の体験したことのない未知の世界。
 彼が自分の気持ちのいいように模索しながら突き動かせば、ご主人様も答えるように喘いでくれる。本心なのかはわからないけど。
 だんだん慣れてきて視界のほうが開けてくる。そうだ、この体勢ではご主人様を後ろから覗くことができたんだった。髪の毛、耳、首筋。大好きなご主人様のにおい。こういう形でのふれあいは、不本意だったはずだが彼は今やそれなりに楽しんでいた。
 彼の荒い息遣いと飛び散る涎に何を思ったのか、ご主人様がこちらを覗いてきた。しかし余裕がないのか、その目に何を訴えているのかまではわからない。余裕がないのは彼もそうだったかもしれない。
 その時露わになった首筋に赤い痕を認めたから……彼の怒りを刺激したのは言うまでもない。
「ひいっ」
 ベロリ、と赤い痕を、ふき取れるはずないのに舐める。でも何もしないより精神的に良い。別の良いこともあった。ご主人様のなかがぎゅうっと締まった。とても気に入ったらしい。彼の肉棒に、欲が上ってくる。
 ご主人様が無理に首を捩じってこっちを向いてきた。鳥がついばむように唇を突き出して、必死に何かを探している。
 自分は絶頂が近い。ご主人様の動きも、きっとそういうことなんだろう。

 最後は、それがしたいということですか。でもすみません、僕にはそれだけはできません

 だから、彼が本当にやりたかったこととは――
 ―――― 
 ――




「…………」 
「…………」
 一人と一匹はようやく落ち着いてきた。
 つまり、感情に任せて取り返しのつかないことをしてしまったリッキーが、自分が何をしていたかについてじっくりと振り返れるようになったということで。
 
 ああああ、やってしまった。大それたことをやってしまった。勘当だ。もう一緒にはいられない。野良になろう。旅に出よう。いや、主人を襲ったポケモンとして施設行きかも。

 とまあ、こんな具合である。吠えることもできない。ずっと頭の中で後悔がぐるぐるしていて、目に入る情報も耳に入る情報も届いていなかった。
「……リッキー」
 目を合わせず、怒気も喜気もなく名前を呼ばれるのが、どうしてこうも緊張するのだろう。リッキーの背筋が伸びる。ご主人様は自分の中から出てくるどろどろを拭っていた。
 とても、気まずい。人間もこういう気持ちになるのだろうか。
「ねえ、何でこんなことしたの?」
 沈黙。ヘルガーには人間に自分の意思を正確に伝える手段はない。というのは建前で、もし彼が人間の言葉を自在に操ったとしても沈黙を選んでいた。ベッドの隅で小さくなっている彼の前に、ご主人様がどっかり座った。全裸で。
「ちゃんとわかるように伝えなさい」
 昔、いたずらをした子犬を、ご主人様はこうした態度で叱っていた。子犬とは自分のことで、ふとリッキーはその光景を思い出していた。その態度は悪いことを叱るときだけではなかったことも、同時に。最近でも目と目が合うのはそれなりにあったが、こんなに含蓄を持つまなざしは久しぶりだ。
 わかるように伝わるかどうかは別として、自分がどう感じていたかはしっかりと伝えないといけない。それが叱るとき以外にこの態度を取るご主人様へのお答え。
 伝わるかどうかはわからないけど、伝わってほしいなとぼんやり思った。
 ご主人様が変な男と付き合い始めてからまるでご主人様が幸せそうではないし、自分は自分でそんな状況も嫌だし、何より大好きなご主人様がまるでご主人様でないようになっていて……簡単に言えばこんなところだが、それを伝えるのは厄介だ。単なる音や動きは伝わらないのだから。
 唸ってみたり、吠えてみたりは当然のこと。確か男が持ってきて部屋に転がっていたプレゼントを蹴っ飛ばしてみたり、ご主人様と鼻を突き合わせてみたり。どれも一歩間違えれば絶縁レベル
 その場にあってるかも分からないようなくるくる変わる表情もご主人様はじっと見ていた。こんなに真剣に見つめてくれるのはいつ以来か、もちろん彼が叱られるようなことをすることがなくなったせいもあるのだが。
 考え付く限りのコミュニケーションをあらかた試して、じっとご主人様を見返す。ちょっと腰は引けていたけど、真剣には変わりない。伝わっていなかったら……もっと頭を回転させるしかない。
「大体わかったよ。あの人のことと、私のことね」
 ご主人様が手を出す。大体分かった、の内容がこちらの意図通りかは心配だが。さっきのように、首元に手を回す。首筋を撫で上げて、頬を滑り、突き出た鼻の脇へ。顔が近づいた。
「こんなことになっちゃったけど、それでもあの人の好きと、リッキーの好きは違うんでしょ」
 ちゅっと音がする。鼻の頭に口づけされた音だ。口じゃないのは、きっと単純にやりにくいからじゃなくて、こっちの意図を汲み取ってくれたから、ということにしておいたほうが妥当だろう。
 返事にぐるぐる啼いた。あの男が帰ってきても逃げ出してしまえ。
「安心して、もうあの人とはダメになったから……」
 頭をぐしゃぐしゃ撫でてくれる。あの人という発言に少し憂いを見た気もするが、暗いからよくわからないせいだ。今はにこにこしているんだから、単純にうれしい。
「一緒にシャワー浴びよっか。洗ってあげる」
 ああ、過程がどんなものであれ、ご主人様に洗ってもらうなんていつ以来だろう。



・あとがき

でした。
自分でもなんでこんなのを書いたのかわかりません。クソデカ感情とかいうのにつき動かされていたのかもしれませんね。
個人的には人間×人間をぶっこんでかつwikiにふさわしい作品にしたかった思いがあったことだけは覚えています。
いざ蓋を開けてみたら4票も入っていました。3位でした。本当にもうありがとうございます。


なおこっちもプラグイン記述を忘れていました。懺悔します。せっぷく


>ポケポケも良いですがポケ人も好きです。 (2019/12/14(土) 10:43)
ポケ人流行れ流行れ……

>リアルな感じがすきです (2019/12/14(土) 16:01)
リアル感頑張りました!ありがとうございます!

>重い〜〜〜〜重い内容ですよ、クズ男に惚れこんでいて、挙句手ひどくふられた傷心の主人を襲ってしまう。言葉が伝わらないことをもどかしく、またそれをいいことに体を重ねるヘルガーくんすっっっっごいエモかったです。『あの男なわけないだろ……!!!』から衝動的に本能をさらけ出し、けれども大好きなご主人を傷つけたくはない。せめぎ合いの中でもがく彼が『もしも(リッキーと)呼んでくれたら、うれしかった。』ってそんな些細な幸せに意識を向けているのがとっても素敵。ラストのお風呂がね〜〜〜雨降って地固まるって感じで非常によかった。 (2019/12/14(土) 18:53)
クズ人間にフラれて見方によっちゃそれにつけこんだクズ行動なのに丸く収まってしまったご都合展開風味ではありますがこれはこれで良かったのでしょう。投票ありがとうございます!

>リッキーさんによる激情的な感情表現に大変憧れます。素敵。 (2019/12/14(土) 23:06)
ご主人様が大好きでかつ大事に思っているからこそ感情がきっと爆発するのです。

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Last-modified: 2019-11-24 (日) 01:54:23
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