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おしゃべり小箱

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おしゃべり小箱




水のミドリ掌編小説集第二弾。あとがき書いて綴じました。
世界観は掌編ごとに違います。



目次



初恋は歌に乗せて 


「なによ、あんなこと言わなくってもいいじゃない!」
 ミーシャは河原にある小石を蹴り飛ばした。味気のない灰色の石は、どぼん、と水の中に落ちていった。川底を覗きこむと、眉間にしわの寄ったエネコロロの顔が、月の光にきらめく水面に映っている。
 ミーシャは、きのう恋人のレムーンと些細なことで喧嘩してしまったのだ。今となっては、どちらが言い出したのかもわからない。ただ、ひとたび恋人に対する文句を溢してしまうと、付き合い始めてから少しずつたまっていた不満が、口から矢継ぎ早に飛び出していったのだ。堪えていた涙があふれ出ていくように、際限なくお互いの悪口を言い合う。しまいには、ミーシャは自慢の毛並みをすべて逆立たせ、レムーンは背中のひと瘤から今にもマグマを噴き出しそうになっていて、とうてい恋人同士のようには見えなかった。
「おまえの気まぐれにはもううんざりだ!! もうおれの前には姿を見せないでくれ!!」
「なによ、あなたは食事のことしか頭にないくせに!! 今日の毛並みはいつも以上に綺麗だね、とか、少しは気の利いたことが言えないの!?」
 これが、二人が最後に交わした言葉だった。
 それで、苛立ちと不安と、ほんの少しの反省も混じった複雑な気持ちが、ミーシャを夜の川べりまで誘い込んだのだ。
 満月に照らされた森の中、ミーシャは大きな平べったい石の上で横になった。本来ならこれから元気の出る時間帯なのだが、気持ちは一向に暗いまま。日課のグルーミングすらやる気になれなかった。――本当はあんなことは言いたくなかった。恋をし始めた頃と同じように、あなたを変わらず愛しているのよ、とミーシャは強く思った。私の歌を褒めてくれたのは、あなたが初めてだったのよ。不意に頬を涙がつたう。そのうち彼女の強い思いは願いになり、願いは口をついて歌になって、(くう)を漂い満月に届いたようだった。急に背後の茂みががさがさと揺れ、中から黒い影が飛び出してきた。
「レムーン!? 来てくれたの!?」
 尻尾を大きく振って喜ぶミーシャの前に現れたのは、しかし恋人のレムーンではなかった。この森ではよく見る、ポチエナというポケモンだ。しゅんとするミーシャを見て、ポチエナの少年は不思議そうに尋ねた。
「あれ、こっちの方からすてきな歌声が聞こえてきた気がしたんだけどなぁ。まるで、心の奥から魅了するような、とてもすばらしい歌声が」
 歌を褒められて、ミーシャは途端に機嫌を取り戻した。彼女は気まぐれなのだ。色恋も分からないような年頃の男の子が無垢に誉めているのだから、本心に違いない。彼女は美しく見えるようポーズをとって、鼻を高くする。
「あら、それなら特別にもう一度歌ってあげるわ」
 ミーシャは満月に向かって、喉を鳴らした。それは遠く透き通った鈴のようであり、また重く故人をしのぶような歌声のようにも聞こえた。しばらく聞いているうちに、ポチエナの少年は夢を見るような目つきで、気恥ずかしそうに顔を赤らめ始めた。まるで初恋の人の手を握ろうとしているかのように。
「エネコロロのお姉さん、ぼくと付き合ってください!」
 そして本当に告白したのだ。突然そばで大声をあげられて、ミーシャは思わず歌うのをやめてしまった。するとポチエナの少年は我に返った思いで、あたりをきょろきょろと見回し、あどけなく首をかしげた。
「おや、ぼくはいったいなにを…… はやくお母さんのお手伝いをしなくちゃ」
 目をぱちくりさせたまま、ポチエナの少年は帰ってしまった。あとに残されたミーシャは、少年の変わりように茫然としていた。――まるで、歌を聴いている間は夢でも見ているみたいじゃない。
 と、ここでミーシャはあることに気付いた。
「私はわざで”うたう”も”メロメロ”も覚えているわ。きっとレムーンを想う強い気持ちが、ふたつのわざを融合させてしまったのね。きっと、今の私の声を聴いた男は、みな一様に私に首ったけだわ」
 果たして、彼女の歌声は森の雄ポケモンを一瞬で骨抜きにしていった。どれだけ偏屈で控えめな雄でさえ、その歌声が耳をかすめると、心ここにあらずといった表情で彼女を見つめる。歌の一節を聞いてしまえば、たちまち彼女に愛の言葉を囁くのだった。メロメロの場合よりはるかに簡単で、一度に多くの雄を魅了することができた。
「夢のような力だわ!」
 ミーシャはもちろん、この上なく上機嫌だった。――私がひとつ口ずさめば、どんな男でも自由になるんだから! まるで森を統べる女王様になったかのような心持ちだった。ただ、むやみに歌を歌うことは少し危険な場合があるようだった。たとえば、多くのポケモンが集まる広場で歌えば、周りを囲まれ、ちょっとした混乱に陥ってしまう。またその中には好ましくない雄まで厚かましく寄ってくる。そのような事故は、出来るだけ避けておきたかった。この前はパートナーのいる雄を誘惑してしまって、危うく爪で引っかかれるところだった。けれど歌をやめてしまえば、みな狐に化かされていたかのように我に返るので、困ることはない。恋人と喧嘩してむしゃくしゃした気分を埋め合わせるのには、ちょうどいい能力だった。
 それから森のはずれで静かに歌を歌うミーシャのそばには、いろいろな雄が侍るのだった。美形のロズレイドから鮮やかな花のブーケを貰い、優しいトロピウスからは首に実っている果実を差し出される。抱擁力のあるサーナイトに膝枕されながら、陽気なエテボースの曲芸を見るのだ。すべてはミーシャの思うがままだった。気が済めば歌うのをやめればいい。そうすれば、すぐに一人の時間がやって来る。そう、風も吹かない暗い森の中にただ一人、ぽつりと取り残されるのだ。ミーシャがいくら恋人のレムーンを想って歌っても、寄ってくるのは知らない雄ばかり。どれほど魅力的な雄に囲まれても、満たされた気持ちにはならなかった。彼らはミーシャの歌に酔っているのであって、本当の彼女を見てくれてはいないのだ。――私を、ありのままの私を愛してくれたレムーンは来てくれないの? もしや、本当に別れたなんて言わないでしょうね。ミーシャは擦り切れそうな思いで、あの日と同じように、満月に向かって歌った。本当に、心から彼とよりを戻したいと願った。
 突然、背後の草むらがざわめく。しかしミーシャは振り向かなかった。生ぬるい夜風に下草がそよぐ。
「ミーシャ!」
 闇夜を切り裂くような衝撃だった。決して凛々しいとは言えないが、ミーシャに向けられた力強い声。彼女は今すぐに歌をやめて後ろを振り向きたかった。しかし、すんでのところで思いとどまる。ここで歌うのをやめてしまったら、せっかく来てくれた彼は、ミーシャの顔を見た途端踵を返して去ってしまうだろう。――それなら、このまま歌い続けた方がいいわ。ミーシャはかれそうな喉を庇うことなく歌う。
「ミーシャ……」
 今度は優しく呼びかけられて、彼女は後ろから優しく抱きしめられた。背中に確かなぬくもりを感じる。心臓が飛び上がるようで、ミーシャの呼吸が乱れる。歌も途中で途切れてしまった。
 しかし、レムーンはミーシャに抱き付いたままだった。むしろ肩に回した腕にぎゅっ、と力がこもる。歌が途切れても、レムーンが彼女から離れることはなかった。
「ミーシャ、ずっと探していたんだぞ! やっと見つけた! もう会ってくれないのかと思って、夜も眠れなかった。当てもなくさまよっていたら、聞き覚えのある歌が流れてきて、近くにいるって確信したよ。これほど君のことを想うなんて、付き合って間もない頃のようだ。あんな言い方してごめん。仲直りしよう」
 ミーシャは喉が詰まって答えられず、代わりに何度も首を縦に振った。目から熱い涙がこぼれたが、これはあの日と同じものではなかった。きっと、もうミーシャの歌声を聴いても、森のポケモンたちがメロメロになることはないだろう。――けれどいいの。いちばん大事な人に振り向いてもらえたから。ミーシャはどうにか呼吸を整えて、頭を下げるレムーンを抱きかかえた。
「私こそごめんなさい。あなたと別れて初めて、あなたの大切さを知ったの。私を見て、私の歌を心から褒めてくれるひとは、あなただけだわ」
 二人の様子を、満月は変わることなく上から見守っているだけだった。
 ミーシャが恋人のドンメルの特性が”どんかん”であることを知ったのは、月が少しだけ欠けた夜のことだった。


やらずの雨 


 6月の夜がじめじめしていることが多いのは、港町であるアサギシティでも変わらない。
 中心部からやや離れた、一軒家がぽつぽつと並ぶ住宅街。多くの家では子どもたちがお父さんの「ただいま」の声を待ち、ポケモンと遊んでいる。そのドアのひとつが、潮風で錆びついたような音を響かせて開いた。ただ異なるのは、迎え入れるのではなく送り出すために開けられたというところだ。
「それじゃ、そろそろお(いとま)するよ、リラさん。こんな時間まで長々とお邪魔しちゃったね」
「いいんですお気になさらずに。私が呼び出したんですから……」
 気丈にふるまうリラだったが、どうしてもその表情は暗いものになってしまう。すばるさんとの夢のような時間はあっという間に過ぎ去り、気づけば夜の7時を回っていた。お付き合いをしていない男女がこれ以上ひとつ屋根の下にいるというのは、いささか問題がありそうだ。
 玄関から1歩踏み出たところで、すばるは声を上げた。
「あ、降られちゃったか。傘持ってきてないんだよなあ……」
 外は風もなく音もなく、糸みたいに細い雨が降っていた。眉を曇らせたすばるに鞄を手渡し、リラも口を挟む。
「でも、傘持ってても差せないじゃないですか」
「はは、確かにそうだね」
 言いながら、すばるはポケットからボールを取り出し、玄関先に柔らかく投げる。まばゆい閃光から放たれたのは、梅雨には似合わない南国の植物のようなポケモン、トロピウス。
「悪天候の中悪いがココ、ひとっ飛び頼む」
 コンディションを確かめるように、首のあたりをぽんぽんと叩く。ふーす、と抑え目に鳴いたココは、待ちくたびれたとばかりに新緑の羽を伸ばした。夜の市街地に大きな影が揺らぐ。
「確か合羽がどこかに……」
 トロピウスの背中に乗っているときは、傘なんて差そうものなら瞬時に壊されてしまうだろう。吊り戸棚を探すリラに、すばるは慌てて声をかける。
「あ、リラさん大丈夫。思い出したんだ、こんなこともあろうかと、ボーナスで技マシンを買って使ってみた」
「え、もしかしてそれって」
「見ててごらん、びっくりすると思うから。ココ、『にほんば――」
 そのとき。すばるの目に留まったのは、庭先にいた小さなポケモン。水色の体にとって付けたように足がついている。大きめの頭の左右からはサンゴみたいな触角が生え、大きな口に対し目が小豆ほどしかない。まだ手の生えていない体と尻尾を懸命に揺さぶって、雨雲を集めている。この技は、『あまごい』。
「ぱ!? うぱ、うぱぱぱぱ!!」
 はたと目が合うと、その小さなポケモン――ウパーは慌てたように飛び跳ねた。泥水をまき散らしながらすばるの横をすり抜け、リラの後ろに隠れてしまった。
 どういうことかとリラの顔を伺うと、彼女は恥ずかしそうに目を背けるだけ。
「その仔はリラさんのウパーかい? ポケモンを連れているなんて知らなかったなあ、むしろあまり好きでないのかと思ってた」
「いえ、そんなことはないんです。この仔はどこから来たのか、私の庭に住み着いてしまって。いつの間にか仲良くなったんです」
 なるほど。すばるはもういちど雨模様の空を見上げた。
 仲良くなった友だちに、彼女がお願いしてまで降らせた雨。
 ふぁるるる、とココが喉を鳴らす。ここで帰ってしまうのは野暮だぞ、と言っているようだった。
「ありがとうココ、もう少しだけ待っていてくれ。……リラさん、雨脚が強くなってきたみたいだし、もう少しお邪魔していてもいいかな?」
「え。……っはい! もちろんです!」
 日本晴れのように、リラの笑顔が輝いた。
 またひとつドアの閉まる音がする。雨の勢いは次第に強くなっていく。


たくわえる 


 ぷくぷくぷくぷく。
 カソードの目の前で、不思議な板がしきりに空気をはきだしています。大きな水たまりに半分つかった金属でできた板が、休むことなく空気の泡を作りだしています。
「なんだろう、これ」
 カソードは、これはなんだろうな、と思いました。よくわかりません。赤い耳が水面につきそうなくらい顔を近づけてよくみても、よくわかりません。しかも、よくわからない水たまりと、そこに半身浴している金属の板のセットが、あちこちにあるのです。金属の板は、またべつの金属の細い線で、ほかの金属の板とつながっています。何かよくわからないものが、なにかよくわからない状態になっています。これはもう、子供のカソードには何が何やらよくわかりませんでした。
 ぷくぷくぷくぷく。
 しばらくたってから、カソードは、はっ、と我に返ります。なにも、危険なダンジョンの奥深くまでもぐったのは金属板の温泉を見るためではありません。カソードはダンジョンの最奥地にいるアロガンスおじさんに会いに行くためでした。アロガンスおじさんはいわゆる“はつめいか”で、“はつめい”がうまくゆくまでこのエレキ平原の奥地からこもって出てこない“ごくつぶし”なんだと、カソードのお母さんが教えてくれました。お父さんは、おじさんは後世に残るような”すごいはつめいか”と言っていたので、ふたりの話をまとめると、おじさんは“すごいごくつぶし”になります。カソードは2週間おきに、おじさんのもとに食べ物と頼まれたさまざまなよくわからないものを持っていきます。カソードはまだ子供ですが、家族の中で病弱なお母さんを除いてただ唯一“ひらいしん”の特性を持っているので、一人でダンジョンに入ります。そのときだけ、カソードはちょっぴり大人になったような気がしていました。帰ってきたときにお父さんに「カソード、お前はよくできた妹だ」と褒められるのが何よりうれしいのです。そのときのちょっぴりうらめしそうなお姉ちゃんのまなざしも、カソードはちょっぴりのちょっぴりだけ気に入っていました。
 あたりを見回しても、アロガンスおじさんの姿が見つけられません。電磁気を帯びて青く光ったり、宙に浮かんだりする白い石ばっかりです。カソードはそこで、あ、とひらめきました。おじさんは水タイプだから、この不思議板と同じように温泉に入っているのかもしれない。そうしたらきっと、おじさんは偉いから、この板がつながれている先端にいるのだろう、とカソードは考えました。カソードは水たまりをひとつひとつ調べて回りながら、線の先端を追いかけてゆきました。
「あっ、おじさん!」
「お、来たかい」
 カソードの予想通り、アロガンスおじさんは線の一番先端にいました。しかし温泉には浸かっていませんでした。おじさんはなにやらよくわからない工具で、分厚い金属板をへし曲げているところでした。
「おじさん、お久しぶり! おじさんは温泉に入らないの?」
「温泉? あぁ、おれがこの中に入ったら感電死しちゃうよ」
 おじさんはいつも通りゆっくりと話します。おじさんに自己紹介させたら、お天道様が一度昇って沈んでしまうのではないかというくらいゆっくりです。また、おじさんは大男でもありました。小さいカソードにはおじさんはピンクの巨人に見えました。いつもトゲトゲしたぐるぐる帽子をかぶっているから、とても大きいです。力強くて、賢くて、それでいて優しい巨人です。なぜ優しいかというと、おじさんは食べ物を運んできたお駄賃にと家族には内緒でグミをくれるのです。
「おじさん、今日はなんだかよくわからないものが転がっているけれど、これは何?」
「おおっ」
 おじさんは身を乗り出しました。よくぞ聞いてくれた、と大げさに前置きしてから、カソードにもわかりやすく説明し始めました。さっきよりもほんの少しだけ早口です。
「これはな、電池と言ってな、エレキ平原に有り余っている電気エネルギーを化学エネルギーに変換して貯蓄しておけるという代物さ。端から飛び出ている電極があるだろう。この二本の電極の電位差が起電力となって、差が大きいほど馬力のある電池になる。で、この液体が電解質。これの質によって蓄えられる電気量が変わってくるのさ。いまは水を使っているけれど、なにかもっといい方法があるはずなんだ。おれは今そこで悩んでて、カソードに頼んだものを待っていたんだ。わかったかい?」
「わかんない!」
 全然わかりませんでした。カソードのまだまだ子供の脳みそでは、理解が追いつくのに500年はかかりそうでした。これなら毎朝お母さんが暗唱するアルセウス様への祝詞のほうがまだわかります。あまりにわからないので、頭がショートして両のほっぺたから火花がバチバチと飛びました。アロガンスおじさんは見かねて、ふぅむ、と顎をしゃくります。これはおじさんが考え事をする時の癖です。首周りの赤白のフリルが小さく揺れました。
「じゃあ、これを尻尾につけて、手を入れてごらん」
 おじさんは手袋を使って金属の板から線を外すと、痛くないようにカソードの十字型のしっぽに巻きつけました。これでよし、と背中を軽くたたかれて、カソードはおそるおそる水たまりに手を突っ込みます。
 手の先端から、空気が出ました*1
 ぷくぷくぷくぷく。
「わあっ、すごいすごい、わたし、“あわ”が使えるようになった!」
「そうじゃないんだけどなぁ」
 カソードにとっては、そうかそうじゃないかはあまり重要ではありませんでした。自分の手の先端から、空気の塊が出ている。これが何より面白く、不思議で、つい笑ってしまうことなのでした。
「おじさん! おじさんは“すごいはつめいか”なんでしょう? こんな面白いものを作っちゃうなんて、やっぱりおじさんはすごい人だったんだ!」
「よせよ、褒めても何も出ないぞ」
 おじさんはすっかり上機嫌です。普段のマイペースはどこへやら、デレデレです。一通りうれしさを噛みしめた後、おじさんはやんわりと付け加えました。
「でも、おれはこれをただの気泡を出す装置として発明したわけじゃないんだ。電池は電気エネルギーを外部に持ち出すことで――」
「わかんない!!」
 やっぱりわかりませんでした。けれど、カソードはいっしょうけんめい考えて、おじさんの言いたいことを予想します。
「つまり……“でんち”は電気タイプの友達ってこと?」
「うーん、違うな。電池が実用化されれば、電気タイプがしてくれていた仕事を代わりに電池がやってくれる。金属に電気を通したり、銅を精錬したり、しばり球なんかの不思議球加工も電気タイプの専門職じゃなくなるな。その分カソードみたいな電気タイプは楽できるってワケだ。これで散々迷惑かけてきた兄貴も、認めてくれるかな」
 カソードにはおじさんの言っていることはやっぱり理解できませんでした。けれど、なにか言いようもない、よくわからない真っ暗な不安に遠くから見つめられているようでした。
 カソードは自分の手の先から出続けている泡と、おじさんの自慢気な顔を交互に見比べて、だんだんと泣きそうな顔になっていきました。嘘泣きが得意なカソードですが、なんでいま泣きそうになっているのか、自分でも騙されているみたいでした。
 ぷくぷくぷくぷく。
「つまり、わたしみたいな電気タイプはもう要らないってこと?」
 これにはおじさんも、う、と声を詰まらせました。凄い発明家のアロガンスおじさんでさえ、分からないことはあります。電池が普及することで、電気タイプがどうなるかはわかりません。もしかしたら電池に反対するデモが起きるかもしれません。そうしたら、電気タイプの多いこの町では運動は盛んになり、電気タイプでない者が徒党を組み、タイプ同士の小競り合いが、やがて血を血で洗う戦争に発展して……
 おじさんは、ながいながいため息を吐いて、天を仰ぎました。目をつむっても、カソードの泣きそうな顔が焼き付いて離れません。いつもよどんだエレキ平原の曇り空は、雨の一滴さえ降らせてはくれませんでした。
 ぷくぷくぷくぷく。ぷくぷくぷくぷく。


箱にゆられて 


 私は電車が好きだ。
 好き、と言っても写真を撮ったり、家の中にジオラマを組み立てたりはしない。実際に切符を買ってホームで待ち、箱に揺られて変わりゆく風景を見ながら、どこか知らない土地に降り立つのが好きだ。大学時代、私は旅行系のサークルに所属していて、その癖が抜けないのか、社会人になった今でも週末を利用して遠くに足を運ぶことが多い。その時は決まっていつも電車を使っている。
 学生の頃は長期休暇を満喫して仲間とともに暮らしていたせいか、大学を卒業していざ働きに出ると、私は4年の潜伏期間を経て急にホームシックになってしまった。会社の新人説明会で意気投合して以来の仲の日立ちゃんは見かねて話し相手になってくれて、挙句の果てに実家で生まれたばかりらしいこのツナグを私にくれたのだ。ポケモンなんて生まれてこの方関わってこなかった私は当然ながら断ったのだが、当の日立ちゃんは「あんたこのままじゃ結婚もしそうにないし、今のうちに人肌の、いやポケ肌の温かみに触れておくといいよ」とだいぶ失礼なことを言って聞かない。しぶしぶといった形で私は承諾したのだが、確かにツナグは手がかからないし、そのうえ気が利いて利口である。この前大切な資料を無くして会社のプレゼンを台無しにしてしまいそうになった時も、ツナグがテレポートを使って家から持ってきてくれたのだ。その時は気が動転してお礼もろくに言えなかったのだが、よくよく考えてみれば必要な資料はどれかを理解しているし、それを私がどこに放り出したかを覚えているしで、普段いつも眠っているようにしか見えないツナグのほうが私よりしっかりしているのではないか、と少し落胆した。これでも私は外から見れば十分「しっかり者」と呼べるらしいけれど。
 ともかくツナグが私の同居人となったことで、ホームシックが薄れたのは事実だ。おかげで何とかやっていけている。忙しさにかまけて盆は実家に帰らなかったのが心残りで、今となって両親の顔を拝みたいのだが、それは正月まで待ってもらうしかない。あとはくすぶった旅行欲か。一人旅もいいものだが、旅は道連れ、というより旅の仲間がほしい。
 そんなわけで、今日は土曜日を利用してツナグと二人で遠出をしている。私が朝早くに――と言っても午前8時は過ぎているのだが――珍しくツナグを起こすものだから、家から駅まで歩いているときには腕の中から抗議の音をあげていた。が、ボールの中に戻ってもらっては二人旅の意味がない。顎を腕に沈めると山吹色の尻尾が地面をこするようで、超能力で姿勢を直す姿がいじらしい。
「起きていないと分からない楽しみがあるんだよ。ほら、特急に乗ったら寝ていいから、ね?」
 1日の4分の3を寝て過ごすらしいツナグには少し過酷なことかもしれないが、しっかりと風景の移り変わりを見てもらわないと、旅の醍醐味が伝わらない。テレポートは便利で、あって損しない能力であることには間違いないのだけれど、私はその過程も大事にしたいのだ。私のお願いが伝わったのか、ツナグはきゅい、と短く鳴くと腕の中に納まった。
「切符はそうね、ふたりぶん買おう」
 会社とは逆方向のホームに立つ。私の最寄り駅はなかなかの大きさのターミナル駅で、都心に上る方には十数本の路線が伸びているが、一方のどかな農村地帯へ進む線路は片手で数え足りるくらいしかない、というような典型的なベッドタウンだ。週末ということもあってか、駅はそれなりに混雑していた。キャンプに向かう家族連れや昔を彷彿とさせる学生の集団に交じりながら、私はツナグに切符を握らせる。9月も中ごろになると暑さもだいぶ和らいで過ごしやすい。これならツナグがばててしまうこともないだろう。白のブラウスに使い古した麦わら帽子。荷物は最小限にして大きめのポーチに収まるようにした。
「電車に乗るには、お金を払って切符を買うのよ」
 ツナグをボールから出したままで電車に乗るのは初めてだ。そもそもツナグは生まれて間もないから、遠出すること自体が初めての経験か。ツナグの頭の中では、なんでわざわざ移動することにお金をかけなくてはならないの、と至極まっとうな疑問がぐるぐる回っていることだろう。
 ホームに電車が滑り込んできて、ツナグは少しこわばった。間近で見る電車は想像以上に迫力があったのだろう。ツナグは緊張すると脚が硬くなるから、表情に出さなくてもすぐにわかる。オレンジの二重線の入った四角い車両を目で追って、顔を傾ける。黄土色の短い毛が風になびいて、ツナグはあどけなく耳を震わせた。
「これに乗って、今日は海に行きまーす」
 海。ふだん私の家からは海が見えないから、当然ツナグは初めて海を見る。知識として聞きかじっているかもしれないが、やはり大自然を生で見て、その息遣いを肌で感じる衝撃は何物にも代えがたい。私だって海を初めて見た時は、はしゃぎすぎて頭から突っ込み、あまりの塩辛さに涙目になったことを覚えている。
 電車のボックス席に腰を下ろすと、私は窓の外を見るようツナグに促した。持ってきたペットボトルから紙コップにお茶をそそぐ。ひと口飲んで、ツナグはきゅい、と鳴いた。
「お、動き出したね」
 ごとり、と重たい音を振動に混ぜて、私たちを乗せた列車はゆっくりと動き出した。さっきまで眺めていた風景が、左から右へと流れてゆく。銀行、薬局、近くの公園、そして私の家。知っている街が、どんどん知らない風景に置き替わってゆく。ツナグは何を思っているのだろうか。
「窓、開けよう」
 列車の窓は上から数センチが開閉できる仕組みになっていた。わずかに開いた隙間から、まだ青々しい風が吹き込んできて、頬をなぞる。川を超えると、景色は一気に田舎っぽくなる。一軒家さえもまばらで、ほとんどが田んぼだ。まれにビニールハウスが軒を連ねていて、中で作業しているお年寄りが見え、一瞬のうちに視界の端っこまで押し流される。ツナグはもちろんこんな世界は知らない。興味ある物には身を乗り出して観察しようとするから、私はツナグが窓ガラスに頭をぶつけないように気を配る必要があった。
 片手に持っているお茶をこぼしそうになりながら、私は朝早起きして作ってきたお弁当を取り出す。昨日の作り置きのポテトサラダに、きんぴらごぼう、生姜焼き。ツナグの好きなブドウも一房丸々持ってきた。いつものように質素だが、ふたを開けるといつも以上においしそうなにおいが鼻をつく。電車の中で食べるお弁当はどうしてこんなに美味しいのか。
 車窓を覗くと外はもうすっかり山と森が大地を覆っていた。気の早い木々はところどころ色づき始めている。渡りをする鳥ポケモンたちが、隊列を成して青い峰々を飛び去ってゆく。
「あ、ほら見て、今一瞬海が見えたよ!」
 私はいつの間にか寝てしまっているツナグを優しく揺り起こして、窓の外を指さした。けれどツナグが振り向くころにはまた視界は緑に覆われてしまっていて、あの青色を目にすることは出来なかった。ツナグが抗議の視線をこちらに向けると、また一瞬だけ木々が途切れて海が見える。振り向いても今度はトンネルに入ってしまい、一面のくすんだ灰色しか見えない。
「ほらほら、今度は目をそらさないで、しっかり外見てなよ」
 クスクス笑う私と窓の外を交互に見ながら、ツナグはふてくされたようにきゅい、と鳴く。
 視界が開けた。遠くに見えるコバルトブルーと、どこまでも伸びる海岸線。
 私は、ツナグの細い目が、9月の太陽に照らされた海と同じくらい輝いているのを見た。
 電車を降りたのは、観光地として有名な駅の一つ前で、そのせいか人影もまばらだった。太陽はもうだいぶ高いところまで昇っている。2時間と少しの長旅だ、疲れるのも無理はないだろう。私の腕の中で電車を見送ったツナグは、私の顔を見上げて、もう一度きゅい、と短く鳴いた。
「ほら、海の香り、するでしょ?」
 ツナグは言われてから鼻をひくつかせた。南風が勢いよく私の髪を撫で上げる。照り始めた太陽が、私の麦わら帽子の影と薄手のブラウスを透かしてみせた。ツナグはよくわからないよ、というように首を傾けた。
 海は反対側のホームから出たところにあった。ホームの端から伸びている高架に駆けあがる。高架には屋根がなく、まるで歩道橋のようなつくりだ。
 すぐそこに一面の海が見えた。
 防砂林の向こうは、先端がどこにあるのかわからないほど長い砂浜が広がっていた。そしてその先には、どこまでも深い碧色をした大海原。車窓からちらり、と見えた海のかけらがたくさん集まっていて、まるでひとつの大きなジグソーパズルを作っているようだ。 360度、いや天に向かってさえも遮るものが何もない。私たちを取り囲むパノラマは、山も海も太陽も、何もかもきらめいて見えた。私が一昨年に訪れて、お気に入りの場所だった。
 水平線の向こうから船の煙突が現れて、だんだんとその影が大きくなってくる。そういえば水平線というものは本当はなくて、見る人が勝手に決めたものなんだって、昔の詩人が言っていたっけ。海の向こうには私の知らない大陸があって、そこでもきっと電車が人とポケモンを運んでいるんだろう。
 いろいろな思いも一緒に乗せて。
「……」
 ツナグの足が硬くなって、私の足を蹴る。私もこたえるように、腕に力を込めてツナグに抱き付いた。もう片方の手で、どこか香ばしいにおいのするツナグの頭を撫でる。
 きっと、ツナグは賢い仔だから、思い立てばいつでもテレポートでここに来ることができるだろう。けれど私は、ツナグはそんなことはしないと分かっていた。旅の途中を抜き去ってしまったら、山も海も太陽も、こんなにも輝いては見えないだろうことを、ツナグは理解してくれたはずだから。


愛の木の実 


 むかしむかしのその昔、この星が今よりちょっとだけ暖かかったころのはなし。
 どこまでも広がる大海原の真ん中に、ぽつりと小さな島が浮かんでいました。ガラスを砕いて散りばめたような白い砂浜は、真夏の太陽を受けてキラキラと反射しています。ほとんど傾斜のない陸地は真ん中に下草が生えている程度で、砂浜からは反対側の海が見えていました。温暖な気候でしたが、南国のリゾートを想わせるような木は、1本たりとも生えていません。まるで青いテーブルクロスにぽつんとこぼした牛乳のよう。波打ち際をゆっくり歩いても、1時間もあればもといたところへ戻ってこられるような、そんな小さな島でした。
「もうっ、これからどうすればいいのよ!」
 なので、キルリアの少女は、ぷりぷりに怒っていました。成長途中の甲高い叫びは、しかし延々と打ち寄せる波間に吸収されていきます。砂浜に小さな拳を振り下ろしても、むなしい砂埃が舞うばかり。島には何もありません。おいしいお菓子も、ふかふかのベッドも、優しかった両親も。みんなみんな、海の底へ沈んでしまいました。
 少女は遭難してしまったのです。海は荒れ雷がとどろく嵐の夜に、少女を乗せた船はひっくり返ってしまいました。無我夢中で船の柱にしがみつきましたが、あまりの恐怖に意識を手放してしまいます。足を波にさらわれ目を覚ました時には、背中のうらに白い砂浜。昨晩の嵐が嘘だったかのように、穏やかな時間が流れていました。しっとりとした潮の香りだけが漂っています。波がひたひたと打ち寄せる音以外、何も聞こえません。
「なんでわたしがこんな目に合わなくちゃなんないのよ! どれもこれもアダム、あんたのせいなの! わかったら、魚の1匹や2匹、さっさと釣ってきなさい!」
「け、けれどイヴお嬢様……」
「奴隷が口答えしない! お父様に言いつけるわよ!!」
「……」
 イヴは細い腕で、オーロットの青年の逞しい足を殴りました。ポカリ、と臼を叩いたような乾いた音が響きます。叩かれたアダムは怒るでもなく、気まずそうに首を引っこめるだけでした。もとより普段は鞭で痛めつけられているので、イヴの弱々しい拳など、蚊が止まったほどにしか感じなかったのですが。
 お父様はもう、とアダムは言えませんでした。いえ、言う必要はなかったのでしょう。首にかけられたロケット*2を握るイヴの手が、ふるふると震えています。奴隷にひどい仕打ちをするイヴの父親を恨んではいましたが、か弱いイヴを追い詰めることは、どうにも気が引けました。
「イヴ様、何か召し上がりたいのなら、どうかぼくの木の実をお食べください。少しはお腹が膨れるはずです。このあたりには、魚の1匹も見当たりません」
「い、イヤよ! どうして私が奴隷の体から生えた木の実を食べなくちゃならないのよ!?」
 アダムが顔のそばに生えている赤い木の実を自らもいでイヴに差し出しましたが、イヴはそれを払いのけてしまいました。ずっしりとした木の実が、砂浜にぼすり、と落ちます。真っ赤に熟れたその木の実は、真上から厳しい太陽の光を浴びて、まるで宝石のように輝いていました。
 結局その日、イヴは何も口にすることなく、冷たい砂の上に横になりました。投げ出された緑色の足は小さく縮こまり、やつれた白いスカート状の飾りは放射状にくたびれて広がっています。額に手を当て、小さく息を吐きました。乾ききった砂のうえに、涙はひとしずくもこぼれてきません。漫然ときらめく星と星とを線でつなげては、両親の顔を思い浮かべていました。
「……イヴ様、なにかものを口になさってください。これでは明日の身が持ちません。ぼくは根からどうにか栄養を補っていますから、ほら、どうぞ」
「明日どうしろって言うのよ……」
 寡黙なアダムがよく喋る日でした。イヴが木の実を受け取るまで、いつまでも手をひっこめないようです。真剣なまなざしが、幹にぽっかりと空いた(うろ)からイヴをとらえていました。仕方なく差し出された木の実を掴んで、イヴは慌てて両手で持ち直します。それほどにずっしりと重かったのです。
「なんでわたしが――」
「……」
「わ、わかったわよ。食べる、食べればいいんでしょう!?」
 イヴは顔を見られないように、アダムとは反対のほうを向きました。奴隷に食事を見られるなんて、しかもその奴隷の体の一部を食べなきゃいけないなんて、屈辱そのものです。苦虫を噛み潰したような思いで――本当はそっちの方がよかったのに、なんて考えながら――イヴは木の実を齧りました。
 それは、不思議な味がしました。真っ赤な表皮に歯を立てた途端、鼻の奥を満たす爽快なにおい。新雪をはんでいるかのような歯触り。体の隅々まで行き渡る栄養。奴隷商人になる前の、親子3人で食卓を囲んだ思い出が、甘酸っぱい果蜜とともに溢れ出しました。
 ぽたり、ぽたぽた。イヴの大きな瞳から、大粒の涙が零れ落ちます。乾いた砂浜に、点々と濃い染みが浮かび上がりました。嗚咽とともにだんだんと大きく揺れる肩が、アダムの目にはとても小さく映っていました。
 何も言わずに、震える小さな肩に手を添えました。初めて触ったイヴの肌は、まるで涙をため込んではち切れそうだというほど張りつめていました。触れただけで破けて、小さくしぼんでしまいそうな。
「……」
「……っぐ、ど、奴隷のくせに、さ、さ、触るんじゃないわよぉぉ……!! ふぇぇ、うぇぇぇ~~~~ん!!」
 泣きながら、イヴは夢中で木の実を頬張りました。どこまでも、どこまでも優しい味がします。背中を向けておいてよかった、と、イヴは木の実を噛みしめながら思いました。

 近くを通る船は一向に見当たりませんでした。遠くのほうを飛ぶ鳥ポケモンを見かけて手を振っても、気づいてもらえることはありません。あれから何日もたちました。何もない島で生き延びるのに、アダムの『しゅうかく』の特性はたいへん重宝するものでした。健康ならば、1日に数個の木の実を、その枝葉に実らせることができます。イヴにとって、それはかけがえのない食糧源でした。
 イヴはアダムから木の実を受け取ると、さっと離れて食事につきます。相変わらず顔は合わせないままでしたが、日を重ねるうちに、2人の距離は次第に近づいてきました。
「は、恥ずかしいからあっち向いてなさいよ!」
 顔を真っ赤にしたイヴは、そっとアダムに背中を預けます。ずっしりとした、頼りがいのある幹でした。そのままイヴが寝てしまうと、アダムは顔だけを回転させて、すやすやと眠る顔を覗きこむのです。照り付ける太陽がイヴの肌を焦がせば、それからイヴの真っ白な肌を守るようにそっと移動しました。
 アダムも、一方的に栄養を与えているだけではありませんでした。イヴの吐き出す息はアダムの光合成を助け、イヴの排泄物は――初めの頃イヴは本当に嫌がりましたが――より一層木の実をたわわに実らせました。
「あら、今日はこんなところに花が咲いているわ。ふふ、可笑しい」
「……よしてくれよ、恥ずかしいな」
 数か月もたつと、アダムは砕けた言葉を使い、イヴはよく笑うようになりました。今日はアダムの両頬に花が咲き、まるでおめかししているように見えるのです。もう少したてば、きっと怒って膨れた子供のように、頬を真っ赤に染めることでしょう。そんな日々のちょっとした変化でさえ、笑いあうことができました。
「あっ……」
 そのとき、イヴの髪から飛び出している赤い三日月型の角が、温かく輝きました。それは、ぼうっとしていれば気づかないほどはかない光でしたが、アダムにはわかりました。そして、ぱっと顔を赤らめました。花が実になる前に。
「……」
「……」
 2人の間に、心地よい沈黙が流れます。それは、不意に手が触れあってしまったときのような、そんなこそばゆさ。沈んでいく太陽は、いつまでも頬を染めて黙り込んだままの2人を、そっと闇に隠していくようでした。
 小さな島のなかで、2人はお互いに栄養を与えあって生きていました。アダムの体の一部がイヴに取り込まれ、イヴの体の一部がアダムに吸収されます。栄養だけではありません。アダムの嬉しいという感情はイヴを元気にさせ、それにはもちろんアダムも喜びます。必要なものは、すべて相手から受け取ることができました。沈みゆく太陽を背にして、肩を寄せ合った2人の輪郭が、淡いオレンジ色の波間にゆらゆらと溶けだしてゆきます。2人のあいだで完結したエネルギーの循環が、まるで仲睦ましい恋人どうしの会話のように、しかしもはや無粋な言葉すら必要としないで、延々と続いてゆくのでした。

 数年、数十年がたち、もう2人は遠くの海を眺め、鳥たちに手を振ることはありません。互いに熱い視線を交わし、その手でお互いを抱きしめるのです。
「わたし、世界で一番の幸せ者だわ。この島で、この楽園で、あなたと一緒に暮らしてこれたなんて。ねぇ、アダム」
「ああ、ぼくも、きみと一緒に、きみだけと一緒に生きてきたなんて、ああ。ぼくは世界一幸せだよ、イヴ」
 そして、ひとくちずつ、愛の木の実をかじるのです。深い深い抱擁をかわした2人は、そのまま永遠に離れることなく、ずっとずっと抱き合ったままでした。緑の手から力なく転げ落ちた愛の木の実は、ならんで開いた小さな穴から、黄金色の汁を連綿と砂浜に浸透させていました。



 トレジャータウンの南、鮮やかな夕焼けを背にした海岸。クラブたちの吐く無数の泡がオレンジ色に染まるころ、母親のマリルリが子供たちにお話を聞かせている。その声は、まるで夜を知らせる教会の鐘の音のように透き通っていた。
「それで、そのあと二人はどうなったの?」
 期待に満ちた目で、兄のマリルが訊ねた。話の続きが気になって仕方がないようだ。母親のおとぎ話は、どれも郷愁的で寓話的で、不思議な魅力があった。彼女が気まぐれで吹く、青いビードロの次に好きだった。
「二人はついに寿命が尽き、仲良く寄り添ったまま天にめされました。それを知っているのは、太陽とお月様だけ。そう、神のみぞ知る、とでも言うべきでしょうか。不思議なことに、アダムの体は成長を続けてゆきました。イヴの体を抱えたまま、彼女を天に送り届けるかのように、上へ上へと伸びてゆくのです。海が引き島が陸続きになったころ、アダムは、のちの世の人が目を見張るほどに、大きなリンゴの木になっていました。それから、アダムとイヴの間にひときわ大きな実がなったとき、2人の強い愛がダンジョンを生み出して――あっ」
 弟のルリリは、あまり興味を惹かれないようだった。砂浜の上に無造作に置かれた藁の袋から頭だけはみ出したリンゴにかじりついた。それは兄弟がお使いで買ってきたばかりの、赤く新鮮なリンゴだった。
「あらあら、だめよ。それはあなたたちの誕生日プレゼントじゃない」
「えへへ、だっておいしそうだったんだもん」
 母親の制止を気に留めず、ルリリは、自分のしっぽほどはありそうな大さの、ルビーのように輝くリンゴを、もうひと口かじった。ほのかに甘くさっぱりとしていて、ナイフを入れたような歯触りが心地よく、栄養が豊富に含まれていた。それは愛の味がした。どこまでも深い愛がしみ込んだ、それは愛の木の実だった。
 リンゴの森の最奥部には、天を見上げるほど大きなリンゴの木があった。実る巨大な木の実を目当てに、ダンジョンに潜るものも多い。しかし、その実をいくら収穫しようとも、木の実がすべて萎れ、森が枯れ果ててしまうことはない。まるで神に愛されているかのように。こんな奇跡は、世界中どこを探しても見当たらないだろう。絶えずそこに実っている愛の結晶を、人々は感謝と称賛の意を込めて『セカイイチ』と呼んだ。


「だったのに。」 


 リアンと酒を交わすと、この前行った地方ではこんな珍しいポケモン見ただとか、次に行く地方では木の実からモンスターボールを作っているんだそうだとか、そういう話が多い。研修期間が終わるとすぐに世界中の部署に出張できることが、彼の就職した会社の謳い文句だった。あつみさん、どうしたんですか? あんなに長かった髪をばっさりと切って。と、まだ買ったばかりのスーツに包まれたリアンが言う。失恋? いいや、まさか。私は笑って、箸でつまんだ唐揚げをハイボールで流し込む。昔から変わらない、バカみたいな飲み方だ。リアンは高校からの腐れ縁だが、いつまでも変わらずに丁寧語で喋る。そっちこそ、今回の出張はどうだったのよ? や、聞いて下さいよあつみさん。今回行ったのは豊遠(ホウエン)地方なんですけど、そこでばったり幼馴染と再会してですね――。私たちが飲むときは決まって学生街の、安さと煩く騒いでも怒られないことが取り柄のような汚い店だった。夜も更け、赤い掛け提灯と客の喧騒を背に、私はぬるいお湯に肩までつかっているような心地よさを享受していた。

「好きだったのに。」

 エ? ああ~、あつみさん聞いてなかったでしょう? リアンはケータイを滑らせ、画面を傾けてきた。そこにはニンフィアを腕に抱えた妙齢の女性と、笑う彼。小学校が同じだったメトちゃん、結婚していたんですよ。はぁ。ニンフィアと言えば、むすびつきポケモンの名にあやかって、カップルからの人気は絶大だ。そのリボンの端同士を握り合った二人には、永遠の愛が約束されるという。カメラロールの中の彼が、ニンフィアのリボンの先を掴んでいないことを横目で確認して、私はつと安堵の息を吐いた。そして思わず口を紡ぐ。
 いや、そんなんじゃないだろ。
 心の中で自分に悪態をついた。彼の口から飛び出た「好きだったのに。」は、どこに向けられるでもなく天井を漂って、私が気づくのをじっと待っているように思えた。のに。のに、何だろう? 喉まで出かかった答えを、ほとんど水のようになった液体で押し殺す。瞼の裏に、見たことのない彼のどこか悲しそうな目と批判じみた口調が張り付いて、気丈に話す顔を見るたびに輪郭が少しぶれる。私はたまらず背筋を震わせた。ねえ、次の店、行かない? 西門すぐ出たとこの。あぁ、角煮の美味しいところですね。勘定を済ませ、狭い戸口を這い出る。ここからだとキャンパス突っ切った方が近いよ? まだ時間ぎりぎり間に合うから、急ごう。人気のない大きな通りを、二人縦に並んで歩く。強まってきた夜の熱気が、急かすように足元を掬う。手を後ろで組みながら、つま先を蹴るように歩く。今はまだかろうじて緑のイチョウ並木の真ん中で、私は振り返った。ねえ。

「私も、好きだったのにな。」

 エ? はは、なんだその顔。ほら、早くいかないとお店しまっちゃうよ。彼は止まっていた足を再び動かし始める。呆けた顔を誤魔化すような、安堵の表情。変わらないなァ。リアンは、昔からそういう奴なのだ。


跳び蹴り姫 


 ミミロップのモプは、生まれ持った特性を考慮しても、弁明することのできないくらい根っからの不器用だった。だから、新しくこの森にすむことになったチラチーノに、一夜にしてアイドルの座を奪われてしまったのも、森のみんなが口をそろえて仕方ない、と言うほどだった。そのしなやかな体毛さばきを見せつけられては、モプのたどたどしいステップなぞ見向きもされない。心無いものは、どうして今まで彼女がちやほやされていたのか分からない、とさえ言い始めたのだ。
 ファンの捨てていった応援ハチマキを握りしめる拳が、わなわなと震える。
「ぜったいにィ……絶対にあの女を蹴落としてやるんだからあッ……!!」
 およそ元アイドルらしからぬ呪いの言葉を吐き、クリムガンも真っ青の怖い顔で住みかとしている大樹を蹴っ飛ばした。ざわざわと枝がこすれるだけでびくともしないうえ、蹴った右足がジンジンと痛むが、今の彼女にとってはそれも些細なこと。
「なにかいい考えは……ん?」
 苛立ち紛れに蹴り飛ばした木の上に、どうやら誰かがいたようだ。先ほどからガサゴソという物音の合間に、やべっ、とか、おっおっ、とか、そんな類の悲鳴が聞こえる。
「……」
 ときに深く考えはしないまま、モプはもういちど蹴りを入れる。今度は木が大きく揺れるよう、重心を外した跳び蹴りだ。
「おおおうっ!? お、お、落ちッ!!」
「ふっふーん、女のコを覗き見なんてぜったいにしちゃいけないんだゾ☆ さぁ早く観念して、ワタシのまえに姿を現す――」
 かぽっ。アイドル時代の決めポーズをとるモプの頭に落ちて来たのは、帽子だった。
 春の終わりには少し季節はずれな、黄色いニット帽。緑のドット柄が小じゃれていて、折り返しは淡いピンクになっている。特徴的なのは帽子の左右から青々とした角が生えており――そして、中ほどにぎょろり、と目玉がついていることだった。
「……」
 顔面に感じた湿度120%で、モプはすべてを悟った。手探りでそいつ(・・・)の腕を掴むと、ぐい、と上に持ちあげる。
 だばー。
 大量の粘液が滝のようにモプの顔に降り注ぐ。そのまま目と目が合うところにもってくる。あくまで笑みを絶やさぬまま。アイドルだった時の笑顔を張り付けたまま。
「……」
「う、うおおおおモプたん!? 森のアイドル、モプたんがしょ、しょ、小生(しょうせい)を見つめてくれていますぞ~~~!!」
 ファンに見せるべき笑顔をどうにか維持したまま――モプはブチギレた。
「何さらしてくれてんじゃこの粘液クソ野郎があぁぁッ!!」
「!!!?」
 渾身の跳び蹴り。効果はいまひとつながら怒りのボルテージで威力は5割増しだ。顔面が(ひしゃ)げるほどの蹴りを喰らったウツドンは、秒速300mくらいで吹っ飛んでいった。

「……」
「……」
「おい」
「はヒッ!?」
「……」
 幹に激しく打ち付けられたウツドン(カタヅという名前らしい)が気絶している間に、モプは小川で水浴みをして粘りをそぎ落とした。(できる限り優しく)叩き起こしたウツドンと並んで倒木(これはモプが蹴り倒したものではない)に腰かける。暗澹(あんたん)たるモプの気持ちと対をなすように、木漏れ日の気持ちよい正午過ぎである。
「あのさ、なんで私の木の上なんかにいたの?」
「それはもう、モプたんがちゃんと朝起きられるか、ご飯は食べているか、ブラッシングをおざなりにしていないか、ダンスを練習しているかを観察するためニっ!!」
 どすん。
「ふ~~~……」
 歩み寄ろうとした私がバカだった、とモプは思った。そりゃま、追っかけしていたアイドルにいきなり跳び蹴りされれば誰だって怯えるだろうけど、それを考慮してもこの罪は重い。寝坊したときになんかドロッとした液体が顔に掛かって飛び起きたことが何度かあったが、なるほどこいつのせいか。絶対に許すまじ。
 だが、今となってはこいつも、こんなやつでも貴重なファンのひとりなのだ。無碍にすることはできない。ついさっき顔面に食い込ませた痛烈な蹴撃をノーカウントにして、モプは考えを切り替えた。
 何ひとつ進展していない。問題はどうすればアイドルの座に返り咲けるか、だ。
「昨日さぁ……夢見谷のほうに新しくチラチーノが越してきたでしょ」
「もちろん知っていますぞ。小生の同胞たちにもさっそく鞍替えする輩がでてきてしまい、心苦しい限りですぞ」
 やっぱりそうなのか……。改めて聞かされるとへこむなぁ、とモプは思う。
「うん、悔しいけど私よりあの子の方が器用だし気立てがいいし、愛嬌があると思うよ? 時折見せる仕草はしとやかで、同性の私だって目を引くし……。はあ、言っててホントに自分のどこがいいのかわかんなくなっちゃった」
「そ、そそそそんなことないですぞ!! モプたんにはモプたんの魅力が……」
 肘を立て、掌で顎を支える。ひとを魅了するような――昨日までは確かに魅了していたはずの妖しげな黒い目を細め、長い溜息をひとつ。
「魅力、かぁ……。私って不器用だからさ、何やらせても要領悪いんだ。木の実を育てればことごとく枯れて、魚を捕ろうにも逃げられるし。独りじゃ生きていけないからアイドルなんて始めたけど、うん、気づいてたよ。それすら向いてないってこと。ファンのみんなの名前、まだ全然憶えられてなかったし、飽き性だから、ダンスも全然練習しないし。プレゼントもどう使っていいのか分からないものばっかりだし。……今更だけど、みんなに合わせる顔がないよ。失ったときにその大切さがわかるっていうけれど、ホントにそうだったんだなぁ、って……!!」
 自分でも思っていないようなことが自然と口からこぼれてくることに、モプはかえって心地よい驚きを覚えていた。負けを認めてしまえば、ああ、なんて楽なんだろう。そして恐らくはもうこれからはみんなの前で、無茶して気丈に振る舞わなくていいんだ。
 なみだが頬の毛をじっとりと濡らし、一筋の濃い縞を作った。

 ぱしん。

 頬に走った突然の衝撃を理解できず、モプはじんと沁みる痛みに手を添えることしかできない。
 混乱する頭で振り向くと、先ほどまでのだらしなさは一転、凛とした表情のウツドンがそこにいた。
「なんてことを言うんだ!! アイドルが、ファンの前でそうやすやすと涙を見せていいものではないぞ!! くよくよするな、前を向け!! その悔しさをバネにして成長すればいいだろう!? さあ、これで涙を拭いて、どうすればいいか考えようじゃないか!!」
「……うん、ありがと」
 差し出された小さな黄色い葉を受け取って、モプは涙を拭う。表面が薄い毛で覆われているそれは彼女の湿り気をよく吸収してくれた。まるでモプの心が優しさを吸い込んでいくように。
 返した葉っぱを口の中にしまい、ウツドンは2、3度頷く。
「うむ、やっぱりモプたんは笑顔が一番輝いているんですぞ!」
「ありがとうね、元気出た、もう大丈夫。そうだね、私がくよくよしてちゃダメだよね。それと――」
 べこぉん!!
「私の涙を味わうな」
 もういちどウツドンの顔面が陥没した。



 不器用には不器用なりの戦い方がある、とウツドンに言われるがまま、モプは噂のチラチーノの寝床まで来ていた。アイドルの座を奪ったライバルを観察するなんてモプにとっては辛いことこの上なかったが、ウツドンいわく、真似が一番の近道、だそうで。
 夢見谷の小さな尾根の岩肌に、チラチーノの住処がある。『クレナのおうち』なんてあけすけに書かれた看板の脇には木の実やら薬草やらが山盛りにされたバスケットがあって、嫌でもすぐにわかった。
「……どう?」
「うーん、ここからは中の様子は見えないんですぞ」
 反対側の尾根から、身を隠しながら偵察する。中にいる気配はするのだが、一向に姿を現さない。何をしているのだろうか。
「あっ……! 出てくる」
 小さな穴から出てきたのはチラチーノではなく……小枝を抱えたビッパ。
「ぬおおお、あ奴は小生の同胞、バガメ氏ではないか! また出歯亀を働いているんですな……ってモプたん!?」
「みんなのアイドルたるものが男を連れ込んでェ……何しようってんだろうかねェ……」
 ふしゅーふしゅーと口から白い息を吐きながら、モプの頭は高速で回転していた。どうすればあの女を引きずり降ろせるのか、それだけが彼女を支配していた。
「いっそのこと崖から滑落したことにすれば……」
「あ、チラチーノも出てきましたですぞ!」
 ウツドンに言われて、あわてて聞き耳を立てる。モプの聴力なら、この距離からでもやすやすと聞き取ることができる。
「わざわざ手伝ってもらっちゃってありがとう! 私ひとりだとにっちもさっちもいかなくって……」
「いいのいいの、力仕事は任せてほしいでゲス! 自分はこの枝がもらえるだけでも……ゲフフ。そうそう、クレナちゃんはタネが好物と聞いたんですが、タネは食べずにやわらかい土に埋めるといいんでゲス。数日でまた収穫できて、保存食にもってこいなんでゲスよ」
「あら、そうなの! でもわたしナッツとか好きだから、ついつい食べちゃうのよね。太ったらいけないし……そうしようかな。貴重な情報ありがとうね!」
「いやいや、礼には及ばないでゲスよ!」
 ふーん、なるほどねぇ、タネが好き、と。
 モプの口許がにたりと吊り上がる。
「どうしたんですぞ? 悪い顔してるモプたんもなかなか……じゃなくて」
 チラチーノの方を向いたまま、モプは確かめるように尋ねる。
「そうだアンタ、なやみのタネ、なんて技覚えてない? 頭が重くなる代わりに眠らなくてもよくなるやつ」
「確かに覚えていますぞ。これはよく小生が徹夜でモプたんを見守る時に――」
「よし、そいつをプレゼントしてやれ。ささやかな歓迎の挨拶だ」
「な……!? も、モプたん、さすがにそれは――」
 どうかと思いますぞ、と言い切る前にモプの先制つぶらなひとみ。口撃ランクの落とされたウツドンは強く言い返せるはずもなく……
「とてもいい考えですぞ!! では早速」
 言うや否や、フルーツが盛られているバスケットの中にタネを吹き入れた。カゴの実なんかより数百倍きつけ効果があるなやみのタネは、ひと口かじれば3日3晩は目が冴えて眠れなくなるという。
「ふっふふ、どうなるか楽しみね」



 果たして、なやみのタネの効果はすぐに表れた。翌々日、もうすっかり日が昇り森のポケモンは活動を始める時間なのに、クレナは一向に姿を現さない。どうしたのかと心配になったみんなが寝床に集まってくるようになってようやく、クレナが重い体を引きずって横穴から這い出て来たのである。
「く、クレナちゃん、どうしたんでゲスかそのやつれた顔は!?」
「眠れなかったんですか? 慣れない環境だから仕方ないでしょう。僕が安眠効果のある薬草を持ってきますよ」
「普段は見せないであろうクレナ様の疲れ切った表情……ゴクリ」
 もっとも親しいと思われるビッパ、オーベム、ゴクリンが口々に慰める。それにつられて方々からかけられる彼女を心配する声。それにクレナは弱弱しく答えるばかり。
「うん、ちょっと眠れなかっただけだから、大丈夫。心配かけちゃったよね、ごめんなさい」
 どうやら前日になやみのタネに当たったらしい。みんなの前に姿を現した彼女の眼の下には、リングマの胸の模様みたいな隈ができていたのだ。
「リングマだけに、ですな」
「別にうまくないわよ。それより凄いわね、タネの効き目は。あれならお得意のメロメロボディも形無しだわ。よしっ、今ならみんなの注目は私に向かうはずッ……!!」
 切り株の上にがばと立ち上がり、モプは大きく声を上げた。
「みんな~、そんなしょげた顔しないで? やっぱり女の子は元気がイチバン☆ 今から特別にアタシが歌ってあげちゃうゾ☆」
 一斉に振り返ったみんなの視線を浴びて、モプはゾクゾクしていた。体が長らく忘れていた感覚。多くの視線を独り占めする高揚感。やっぱりこれだ、これがなければ生きていけない!
 しかし、モプの切望はあえなく打ち砕かれることになる。
「……チッ、誰かと思えば出来損ないかよ」
「病気のクレナさんを前に、流石にそれはちょっとどうかと思いますよ?」
「そうだ、お前の時代は終わったんだ、帰れ帰れ!」
 むき出しにされた嫌悪に、モプはたじろいだ。
「え、ちょっと、みんな、どうしたの……」
 次第に大きくなる帰れコール。みんな眼の奥に敵意をこめて、モプを射すくめる。
 直接言われたのはこれが初めてだった。まだみんなこっちを向いてくれるはず、という一縷の希望が断ち切られ、驚きと混乱と恐怖で錯綜する頭をどうにか押さえつけながら、気づけば一目散に逃げ出していたのだ。



「なんでじゃぁぁァァァァ……!!」
 カイリキーも裸足で逃げ出す怖い顔で、モプは唸っていた。腹いせにウツドンの頭をぼすぼすやりながら、まだ熟れきっていないオレンの実に噛り付く。苦い味が口いっぱいに広がる。
 毛羽立った気分が落ち着くと、あとに残されたのは行き場のない怒りだった。掌を返したようにあちら陣営についた心無いファンにも、わかっていたとはいえ裏切られてショックを受けた自分自身にも腹が立っていた。
「こんなものっ!」
 未練がましく携えていたハチマキを、いよいよ投げ捨てようと思った。過去を振り切るように、思い切り振りかぶる。
「あっ!!」
 急に声を上げたウツドンにモプは目を見張った。
「どうした」
「小生、とてもいい案を思いついたのですぞ!」
「なんだよ、つまらなかったら蹴るからな」
「人気が出ること請け合いですぞ! では早速」
 言うや否や、ウツドンはそれまで見せたことのない勢いの良さで飛び跳ねて、モプの頭に覆いかぶさった。
 かぽっ。だばー。
「……」
 顔面の湿り気にデジャブを覚えたモプだったが、あまりのことに言葉が出てこない。
「小生、わかったことがひとつありますぞ! モプたんが小生の粘液を浴びたとき、蹴りの威力が上がったように感じたはずですな!?」
「……」
「そう、その通りですぞ!! あれは『いえき』!! モプたんの不器用さを打消し、あのような華麗な身のこなしができるようになったんですぞ!! さらにそのこだわりハチマキで技のキレは1.5倍!! これは小生も心地よさを通り越して髄に響く破壊力なのですぞ!」
「……」
「さあ今こそ、その華麗な足さばきを――」
 ハチマキの代わりに、ウツドンを投げ上げる。ウツドンが落ちてくる前に――モプの身体は疾風のごとく翻った。
 どすん。ひゅーぼとん、しゅっ。ばきん、めきめきめきどーん。ぎゅるるるるる、がしゃばらこーん。
 こだわりハチマキを使いこなした怒涛の連続跳び蹴りは、ウツドンの顔の中心にすべてクリーンヒットすると、木々を数本なぎ倒し地面に浅いクレーターができてからようやく収まった。
「ありがと、おかげで目が覚めたわ」
 言葉通り、モプはウツドンに感謝さえしていた。もう吹っ切れた。これからはこの森を捨て、放浪の旅にでも出てやろう。
 と、突然。背後の茂みが揺れる。
 茂みから出てきたヤナップの男の子は、キラキラした驚きの表情を表しながら、拍手していたのだ。
「すごい、すごいよモプさん!! そんな足技、見たことがないよ!」
「……え?」
 彼を皮切りに、先ほどチラチーノを取り巻いていたポケモンたちがぞろぞろと現れるではないか。
「さっきは強く言い過ぎたと思って謝ろうと来てみたら……そのステップ、かっこいいでゲス!」
「見直しましたよ、まさかそんな華麗な踊りを隠し持っていたなんて!」
「粘液にまみれたモプ様の引き締まった太もも……ゴクリ」
 様々な角度から賞賛を受け、モプは有頂天だった。手に手に差し出される木の実やら花やらを笑顔で受け取る。
 いま零れたなみだは一昨日のそれじゃない。幸せを噛みしめながら、モプは振り切るように顔を上げた。ファンの前でそうやすやすと涙を見せていいもんじゃない。
 しなやかな身のこなしで倒木に立つと、渾身の決めポーズ。
「じゃ、張り切って歌っちゃうゾ☆」
「あ、いや、歌とかいいんで……」
 そのとき、がさごそと茂みが揺れる。異質な雰囲気に、そこにいた全員が振り返った。現れたのは――この森のボス、壮年のローブシン。
「見ていたぞ……モプとやら、このオレと森の王者の座をかけて勝負しようじゃないか……!!」
「え、いやワタシってアイドルだし? そんな野蛮なことできないし……」
 どよめく観衆。もちろん歓喜の声だ。もう一度あの華麗な足技を見れる、と大いに沸いた。
 ウツドンを見ても、黙って頷くだけ。
「やるしかないのか……」
 ハチマキを握りしめ、モプは蹴り倒すべき相手をにらみつけた。



 べとべとの蹴り姫が跳躍する格闘技の興行は週1回ペースで続き、モプの防衛戦は毎回広場のふちに立ち見が出るほどの盛況ぶりだった。歓声のいろはアイドルの時のそれとは異なるが、それでもいいと思えてきた。みんなが私を好意の眼で見てくれているんだ。それがどんな目をしていたっていいじゃないか。
「さあモプたん、今回は『いえき』か『なやみのタネ』、どっちにするんドフッ!!」
「いいからさっさと吐け」
 セコンドとの掛け合いも人気の理由のひとつだった。今日も森に、飛び散る汁と強く叩きつけられる何かの音が響いている。


告白と形見 


 虫も寝静まった夜。森にぽっかりと空いた広場を月がしっとりと照らす。今宵は満月だ。
 東側の低地から、おれは月明かりの下に進み出た。ほぼ同時に、反対は西の山道から黒い影が縫って出る。なにか不穏な空気を感じ取ったように、短い下草がわさわさと夏の夜風になびく。
 青黒く長い胴体に六角形の黄色い模様。なんでも丸呑みにする大顎から紅く細い舌がちろちろと見え隠れする。ザングースの宿敵、ハブネーク。鋭利な刃になっている尻尾の先端に瓢箪(ひょうたん)を引っ提げ、ぶらぶら揺らしている。
「毎月飽きずによく来るな。ボケちまって忘れてんじゃねぇかと思ったぜ、ベルン」
「アンタこそ、古傷がぱっくり開いてくたばってんじゃないかとヒヤヒヤしたよ、ウェイク」
 いつものやり取り。広場の真ん中らへんまで進み出ると、互いに腰を据える。それ以上近づかないという距離感は、長年の付き合いで身に染みついていた。月明かりに照らされたベルンの体は、歴戦を物語るかのごとく傷だらけだ。
 おれは抱えて来たそれを宙に放る。酒を詰めたヤシの実だ。ベルンも同じようにひょうたんを投げる。ゆったりと放物線を描いて、月の真下で交差する。酒を詰めた小さな穴から、透明な液体が少し飛び散る。
「ふん、また瓢箪酒か。お前はバリエーションってぇもんがねぇのかよ」
「手を変え品を変えアンタはいつも違うもんだけど、どれもいまいちぱっとしないねぇ。決め手に欠けるのは昔からのアンタの戦い方みたいだよ」
 飲み口を尻尾で切り飛ばしたベルンはしゃらしゃらと笑い、けれど溢れ出る酒にむしゃぶりつくよう口をつけた。喉を鳴らしてあっという間に半分を飲み干す。
 瓢箪の口を爪で切り落として、おれも体に酒を注ぎ込む。乾いた体に満ちてくる熱。
「最近どうだい? 聞いたところによると、拠点を南の海岸に移したそうじゃないか。それよりさらに南下すると、キングラーどもの縄張りだから気をつけな。……あそこは昔、アタシたちハブネークが根城としていたところだって、知ってんだろ。どうしてまたケンカを吹っ掛けるような真似をするかねぇ」
「それを覚えてんのは、今となっちゃあおれを含めて数匹だ。いつのまにか、おれも古株になっちまったもんよ。昔話のできる奴も、お前くらいだ。そっちはどうだ?」
「そうだねぇ……アタシに孫ができたよ」
「ほう……。そいつはめでてぇな。天国にいるお前の旦那も喜んでるだろうに」
「天国送りにした張本人から祝われちゃあ、喜ぶにも喜べないじゃないか」
「違えねぇ」
 しゃらしゃら笑うベルンだが、しかしその眼はじわりじわりと充血してきている。宿敵と相(まみ)えると心臓が拍動を速め、深く酩酊したように思考に霧がかかるのは、おれたちの(さが)だ。いつのまにか、おれの息も荒いものになっていた。
「あーもう、うずうずして仕方ねぇ。そろそろ前哨戦とでもいくか」
「鈍っていたとしても、手加減はしてやれないよ」
 瓢箪を押しのけ、静かに睨みあう。散逸していた意識が一本の糸に統合さていくような、透徹した感覚。少しずつ、理性の殻を剥いていく。
 風が凪いだ。
 瞬間、太く長い体が躍り出る。しゃららら、と威嚇の声を散らしながら、ベルンの刃が月の光を反射する。こんな目くらましをしてくるハブネークは、おれの戦ってきた中でもベルンだけだ。一族を束ねるだけあって、実力は疑いようもない。
 もちろんそうはさせまいと北側に回り込む。しなるように2、3度打ち込まれる尻尾を爪でいなす。きん、ぎりりり……。鈍い音が響く。
「ふん、力は衰えてないようだねぇ……」
「お前こそ、光を跳ね返す肌のツヤなんてとっくになくなったと思ってたよ」
「……口のほうは切れ味を増してるようじゃないか。それも臆病者のみみっちい生存戦略かい?」
「るっせぇ」
 爪と尻尾、言葉と言葉を何度かぶつけ合って、一度間合いを取った。乱れた呼吸を整えあう。自然と口の端が吊り上がっていた。
「今日はなんだか血が騒ぐな」
「おや、アンタもかい? アタシも牙と尻尾が疼いて仕方ないんだ。今夜は長くなりそうだねぇ、付き合いな」
 月を見上げて、ベルンはため息をついた。それはやれやれ、というよりもどこか期待に満ちた、ぞくぞくする自分にあきれたような。分かってる。おれもそんな気分だから。今夜は語りつくそうじゃないか、どちらかが倒れるまで。
 両脚に力を込めて、もういちどぶつかり合う。1対1であのうねる身体を相手にするのはどうにも厄介だ。四肢を絡め取られたら最後、言葉通り手も足も出ずに締め上げられる。それを避け、深追いせず当てられる部位に攻撃を当て、ダメージを蓄積してゆく――のだが。もちろんベルンがそうやすやすとさせてくれるはずもなく、鋭利な爪と牙がぶつかりあう音が断片的に木霊する。
「……見晴らしヶ丘を巡って争った時のこと、覚えているか」
「んン? なんだい昔話なんてらしくない、走馬灯でも見たのかい?」
 鞭のように空を切る尻尾を、なんとか爪で弾く。
「るっせぇ。互いのかしらが死んだ、あの戦いのことだよ」
「覚えているよ、忘れられるわけないじゃないか。今日のアタシたちがこうやってひそかに会っているのも、あんな忌々しいことがあったからだろう」
「そうだな、違いない……ッ!!」
 振り上げた腕の死角から、ベルンのしなる胴体がおれの脇腹をしたたかに打つ。勢いのまま転がって衝撃を殺しつつ距離をとり、追撃に備える。が、月に照らされたベルンはその場に動かず、しゃらしゃらと小馬鹿に笑っているだけだった。
「左の腕を振り上げるスキは、昔っから直らないままだったねぇ。よく生き残ってこられたよ。その生への執念深さにはアタシも舌を巻いた。そういや、見晴らしヶ丘でも死にかけていたっけ。アタシの亭主に喉首かっ切られたときにゃあ、さすがのアンタでも無理だと思ったのに……しぶとさだけは一人前だねぇ」
「しぶとく生き残っていれば、一族のかしらにだってなれるんだよ」
 喉に絡んだ痰を吐き捨て、おれはベルンを睨み返した。思えば奴との関係は見晴らしヶ丘から変わっていない。おれが崖下で、奴が崖の上。おれはいつもベルンの一歩後ろだった。
「あのとき――当時のおれたちのかしらが討ち死にして、おれが怒りと全身を駆けまわる毒で暴走していたとき、どうしてとどめを刺さなかったんだ。そのときおれはお前の旦那を殺したんだぞ? 敵にモモンを食わせてしかも峰打ちで気絶させたなんて仲間に知れたら、いくらお前でもタダじゃ済まなかったろうに」
「可愛かったからだよ、アンタが。変な特性に生まれちまったせいで鉄砲玉にしかなれないアンタの、その健気さが」
 そばに転がっていた瓢箪を尻尾で器用に拾い上げ、おれにむかって投げた。キャッチしたそれを一気に飲み干す。ベルンも飲みかけの酒を啜る。その眼はすっかり獰猛な蟒蛇(うわばみ)のそれだ。
「……嘘を吐け。あらかた、『アイツを次のかしらにしておけば、ザングースも沈静化して無駄な血を流すことも少なくなるだろう』くらいにしか思ってなかっただろうに」
「ふふん、可愛げはなくなっちまったんだねぇ。けれどあれ以降、あんな大きな戦いは起きていないだろ? アンタの先代もアタシの旦那も血の気が多かったから……。聞くところによると、先代の無茶な特攻で見晴らしヶ丘じゃあ群れの半分はおっ()んだそうじゃないか」
「おれの親友もほとんど逝った。……目が覚めてから肚の中が空になるまで一日中吐いたよ。自分が気持ち悪くて、情けなくて。なんで生き残っちまったのか、なんで敵に助けられたのか。でも、自分で自分の首を掻っ切ることなんてできなかった。本当に惨めだった」
「根っからの臆病者だからねぇ、アンタは。……恨みつらみはどうしようもないだろ。アタシだってアンタに亭主を殺されてんだ、怨の深さは同じくらいだろうさ」
「……ちッ」
 尻尾で空中に放り出されたヤシの器が、地面に激突する前にきれいな8等分に裁断され、からからと乾いた音を立てた。おれも空になった瓢箪を引き裂き、全身の体毛を逆立てる。
「がああああ!!」
「しゃららららっ!!」
 互いに酒の器を捨て、臨戦態勢に入る。口許の毛に染みついた液体を拭って、大地を蹴った。蛇腹を軋ませて飛び出したベルンの牙と、おれの爪が小気味よい音を立てる。
 許せない。友を殺したのも、おれを生かしたのも。群れのリーダーに仕立てあげ、挙句、こうして玩具みたいに尻尾の上で転がされているのも。この世に生を受けた時から、何もかもが不条理だった。それでもおれは生きてきた。
 互いが群れを率いるようになってから、おれとベルンはひとつだけ約束を交わした。満月の晩、必ずここで会うと。守る義理はどこにもない。それでも今日まで貫いてきたのは――
 何故だ。
 浅く入ったベルンの尾をくぐり、おれは狙いを定めた。稲穂のようなくちなし色をした巨大な六角形の鱗。その部分だけ隣の鱗と噛み合っておらず、体をしならせるたびに隙間が空いているのだ。罠である可能性も十分にあり得るが……ここは引けない。
 伸ばした爪が――届いた。
「うおおおお!!」
「――ッ!!」
 下から食い込ませた鉤爪に思い切り力を込める。ばこん、と破裂音にも似た歪んだ音を立てて、鱗が剥がれ飛ぶ。ブレイククローが彼女に対して有効打となったのは、これが初めてだ。
 まとわりつく虫を退けるように乱雑に尾をしならせて、ベルンはおれを振りほどく。とす、と遠くの草むらに鱗が突き刺さる音がした。
「……らしくねぇな。孫ができてとうとう耄碌(もうろく)しちまったのか!? おれの爪がすんなり入るなんて――」
「なあ!」
 突然の呼びかけに、示し合せたように風がやむ。辺りを静寂がつつむ。
「アタシと心中する気はないかい、ウェイク?」
「……はぁ!?」
 えぐられた表皮からしたたる血液が、月の光を反射して暗く、そして鈍く光る。
「アタシと一緒に死ぬ気はないのかってんだよ」
「ますますらしくねぇじゃねぇか!! そんなことしたらどうなる!? かしらを失った双方が激突して沢山死ぬぞ!! 分からないわけでもないだろ!!」
「ずっと恨んでたんだろう? アンタを利用してきたアタシをずっと!! アタシを殺せる最後のチャンスだぞ!!」
「おれはもう群れのかしらだ!! 群れのことを第一に考えなきゃいけねぇんだ!! お前だってそれは十分わかってるだろ!!」
「分かっているさ!! それでもッ!!」
「……!!」
 来る……!! 縮こまった蛇腹から、軋んだ体を一気に弾き、恐ろしい加速を生む。刹那、ぐい、と曲げられた尻尾の先端がおれの首元をめがけて飛んでくる。
 受けてやる。頭までイカれちまったこの死に損ないに引導を渡してやる。

「おれはお前がずっと――」
「アタシはアンタがずっと――」

 大きく振りかぶった腕から、重い爪の一撃。ぎゃりいぃん!! と不協和音が響き渡る。生じた衝撃波がおれたちを中心に広がり、草を、木々を、驚かせる。
 力は拮抗していた。渾身の一撃は相殺され、まるで恋人達がそっと口づけを交わした後のように、爪と刃がふわり、と離れた。
 骨抜きにされたように全身に力が入らない。仰向けに崩れ落ちると、呼吸を落ち着けるのがやっとだった。
 と。顔を照らしていた月に影が入る。最悪だ。全力が釣り合っていたなんて見せかけだった。まだゆうゆうと動けるじゃねぇか。
「そうかい、それがアンタの答えかい……」
「なんだよ、早くとどめを刺していけばいい。結局お前には最後まで勝てなかったな」
「……ふん、見逃してやるよ、いつかみたいに。このくたばり損ないが」
 ぼすり、と頭のすぐ横に何かが落ちた音。それは大きな葉で丁寧に包まれた何か。
「薬草だよ。アンタのためじゃない、ほかの仲間が傷ついたときに使いな」
「……なんでまた助けるんだよ」
 じっと見つめる。逆光でその表情はよくわからない。怒っているのか、泣いているのか、はたまたいつものように嘲笑っているのか。
「あん時アンタを生かしたのは――」
 おれの額に数滴、生ぬるいしずくが落ちた。
「気まぐれさ。今日のための話し(バトル)相手が欲しかっただけだよ、そんだけだ」
「……次の満月の夜も来いよ。今日の借りはぜってぇ返してやる」
「その調子じゃまだまだくたばんないね」
 相変わらずしゃらしゃらと高い笑い声を響かせて、長い体を引きずる音は茂みの奥に消えていった。
 わずかに動く手で包みをほどき、中から取り出した乾燥オボンを口に含む。広がる優しい甘みと安堵感に身を任せ、おれはそのまま意識を手放した。


 それからベルンには会っていない。
 次の月も、その次の月も奴は姿を現さなかった。風の噂で、ハブネークの群れのリーダーが代わったと聞いた。今思えば、ベルンの言葉――『心中する気はないか』というのは、ふたつの意味を持った告白だったのかもしれない。きっとそうだ。……おれはそのどちらも汲み取ってやれなかった。分からないまま、拒絶してしまった。ただひとりの、彼女の話し相手だったというのに。
 群れの先頭を率いて生きてきた雌の、最後の我儘。
「勝ち逃げなんてずるいじゃねぇかよ……。おれだってお前が……好きだったよ……」
 淡いくちなし色をした六角形の器。それにヤシ酒を注いで、そっと口をつける。ひとりで。
 もうすっかり熱の引いた夜風が下草をさわさわとたなびかせる。頷くように、酒に映った満月が揺れた。





あとがき 


 最終更新日から3か月ほど経って見直しましたが……、私生活がありありと作品に影響を及ぼしています。怖い。旅行にハマった時期もあり、失恋した時期もあり。決闘はしていませんが。読みやすくなるように(私生活がバレないように)順番をシャッフルしてしました。以下作品ごとにひとことずつくらいコメントを。
 『おしゃべり小箱』の8編の中で個人的に一番のお気に入り「初恋は歌に乗せて」をトップに。特性をオチに持ってくるのは使いやすくて頼りにしがちですね。3人称で心理描写をするとややっこしくなるのがつらいところでしょうか。ドンメルの魅力をもっと書いてあげればよかった。
 梅雨時期に書いた「やらずの雨」。なぜ舞台をアサギシティにしたのかは謎。ウパーは雌雄でエラの本数が異なり、この仔は男の仔です。どうでもいいですが友人に「ウパーは腹からWi-Fiを飛ばしてる」と言われてからそうにしか見えなくなってしまいました。題名を漢字で書くと「遣らずの雨」となり、愛しい人を引き留めるかのように降る雨のことだそうです。
 不思議のダンジョンの世界って科学の発展具合がいまいち想像しづらいですよね。ギルドの掲示板は毎日張り替えられるので活版印刷はありそうですが、蒸気機関はまだできていなさそうです。けれど電気タイプのおかげで電気化学は発達してそう。ということで電池の発明を妄想したのが「たくわえる」でした。カソードはプラスル、アロガンスはヤドキングです。
 テレポート、便利ですよね。私もテレポートできたら電車なんて使いませんし、遅刻を恐れず毎朝2度寝してます。でも、車窓を眺めていると楽しいのも確か。「箱に揺られて」に登場するケーシィのツナグ君も電車を好きになってくれたようです。
「愛の木の実」の着想は星新一のショートショート「樹」から。原作は宇宙船内で桜の木と男の栄養循環でしたが、本編は神話を絡めてみることにしました。感情の循環を組み込みたかったのでキルリアと、樹役はおなじ不定形のオーロット。このオチの付け方も私っぽい気がします。
 私の先輩にあたる同人作家さんで(ジャンルはポケモンではありませんが)恐ろしく繊細な恋心を描く方がいて、必死にモノマネした結果が「「だったのに。」」です。ウーム、そう上手くはいかないものだなァ。ポケモンも写真の中のニンフィアしか出てこないので、掌編集の中でも異色な感じに仕上がりました。箸休め作品のつもりで書いたのですが、内容が失恋じゃぜんぜん休まらないですよね……。どうしてこうなった。
 私がギャグを書くと「跳び蹴り姫」のような感じになってしまいます。個人的には面白いものが書けたつもりなのですが、スベっていると思うと空恐ろしい。リアルでも「真顔でボケるな」とよく言われます。特性打ち消しはもはやレトリックですね。最近ではモプがメガシンカを覚え、キーストーンを口の奥底にしまい込んで離さないカタヅが伝線ストッキング生足の餌食になっているそうです。
 なぜハブザンなんてメジャーどこを書こうと思い立ったのでしょうか。カッコいいオバサンが好きだからかな。「心中しろ」という言葉にはベルンの恥じらいが表れています。雌を忘れて生きてきた大年増が、長年の宿敵に恋をしてしまう。矜持と恋慕にはさまれながらの精いっぱいの告白も、上手く伝えられず失敗に終わってしまう。時が経つにつれウェイクも徐々に理解するが、もう取り戻すことはできない。ひとり残されて「告白と形見」のうち形見にあたるベルンの六角形の鱗に口づけするなんて、なんともロマンチックではありませんか。
 うーむ、あとがきを書いていて思ったのですが、ここで解説するくらいなら本編で書けって感じですよね。まったくその通りです、難しい。だから楽しいっていうのもあるんですが。



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*1 ボルタ電池のcathode(正極)での反応は2H++2e-→H2↑。発生した空気の泡は水素である。また電解質には硫酸を用いるが、放電し続けると上記の反応式が進行しpHが大きくなるため直接触れても問題なかった(真似しないでください)。
*2 ロケットペンダントのこと。ここでは木枠のチャームに小さな肖像画を封じ、ひもを通し首から下げられるようにしたもの。

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Last-modified: 2015-06-28 (日) 22:38:44
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