「さて。
喜ぶ
緋焔はその中の一体――リーダー格のリザードに真っ直ぐ近づいた。俯せに倒れているリザードに前脚をかけて転がし、上を向かせる。
「おい貴様。話がある」
「ひっ……た、助け……」
胸の上に置かれた鋭い爪の生えた前足を見て、殺されると思ったらしいリザードは情けない声を上げた。
「……んな顔で見なくても殺さねーよ」
仄霞を襲った時の威厳はどこへやら、見る影もなく怯えるリザードに緋焔は半ば呆れ口調になったが、すぐに真剣な顔に戻して言った。
「貴様に一つ忠告しといてやる。俺やあのエーフィの事はすぐに忘れろ。そして絶対に――いいか、絶対に誰にも話すな。……せっかく助かった命を無駄にしたくなければな」
この最後の一言を、緋焔は低い唸り声で脅すように言った。同時に胸の上に置いた前足にも少し体重をかけ、爪をリザードの表皮に喰い込まない程度に押し当てた。ただでさえヘルガーという種族は恐ろしげなのに、更に凄んで見せたものだから、仄霞は傍で見ているだけでも背筋がぞくりとした。当のリザードは声が引き攣ってまともな返事さえ出来ていない。
「群れの他の仲間にもしっかり伝えておけ。…わかったな?」
「~~!!」
リザードは頭をぶんぶん縦に振って肯定した。
「よし」
緋焔は頷くと、もう興味は失せたとでも言うように顔を上げ、仄霞の方を向いた。仄霞は一瞬身じろいだが、こちらに歩いて来るヘルガーの表情にもう恐ろしいものは見られなかった。
「これでもうここに留まる理由はなくなった。行こう、仄霞」
緋焔は仄霞に声をかけると脇を通り過ぎ、そのまま西へ向かって歩き始めた。仄霞も慌てて後を追う。背中で悔しげに呻く声が聞こえた。
立ち去り際。仄霞はこれを最後と南東の方角を振り返ってみた。脳裏に思い描くのは、ほんの前日まで過ごしていた故郷の姿。だが丘の間から、懐かしいリザネスの森が見える事はなかった。
☆
我ながら奇妙な光景だと、仄霞は思った。
どこまでも続いているのではないかと思わせる、延々と先の見通せない丘陵地帯を連れ立って歩くヘルガーとエーフィ。自分は今どこにいるのかさえ分からないというのに、先を行くヘルガーの方は確かな足取りで、小さく低い丘ならば乗り越え、大きく高い丘は迂回し、偶に立ち止まっては空気の匂いを嗅ぎ、迷う事なく一定の方向に進んでいる。そしてその間、ほとんど喋らなかった。
「あの……」
かれこれ一時間程経過した頃、黙っているのが気まずくなった仄霞はおそるおそる声をかけた。
「何だ?」
足は止めず、緋焔は首だけで軽く振り返った。その目は優しいとは言えなかったが、決して冷たいものではなかった。
「緋焔さん、私の目の事とか、訊かないんですか?」
仄霞は自分より遙かに背の高いヘルガーを見上げた。
「まあ確かに気にはなるが……仄霞が話したくないというなら無理に訊こうとは思わない。通常とは色が違う事をコンプレックスに感じている奴も多いだろうからな。……ただ、その目が原因で狩猟者に追われているんだろう? だからあのリザードには釘をさしておいたが」
緋焔は静かに答えた。
そうだったのか、と仄霞は心の中で納得した。あの時には気づかなかったけれど、あの脅しは私の事を考えての行為だったのね。どうやら仄霞が思った以上に、このヘルガーは頭が切れるらしかった。
それに。再び前を向き、丘を左に迂回する進路をとった緋焔を見つめて仄霞は微笑む。二匹は割と早い速度で進んでいたのだが、それは旅慣れていない仄霞に無理にならない程度のものだった。緋焔はさり気なく、旅慣れない上に歩幅の違う仄霞のペースに合わせてくれていたのだ。
緋焔さんって、見た感じは素っ気ないけど本当は優しいポケモンなのね。
仄霞は少しだけ、暗く沈んでいた心がマシになった気がした。
その日の夜も野宿だった。夕食は、緋焔の狩ってきた山鳥一
「おいしい……緋焔さんって、狩りも調理も上手なんですね」
湯気を上げるローストに舌鼓を打ち、仄霞は素直な感想を口にした。
「どうも。まあ元々俺達ヘルガーは狩りをする種族だし、旅の身ともなれば食糧を確保する能力は尚更必要になってくるからな。行く先にいつも木の実があるとは限らないし、何より肉の方が力がつく」
緋焔はそう言って、もう一羽のローストの手羽を噛み砕いた。
彼らの傍らでは焚き火がぱちぱちと爆ぜては、木々と夜の闇を暖かな光で照らし上げていた。光によって追手が引きつけられるリスクを最小限に抑える為に、灌木の林のできるだけ奥まった所、それも窪地を選んでの焚き火だった為に炎は小さい。しかしそれでも、揺れる炎は光と温もりを以って旅人達を包み込んだ。
「緋焔さん、これから行く街ってどんな所なんですか?」
ふと思い出したように仄霞が尋ねた。
「クドン。炭鉱と労働者の街だ」
緋焔は答えた。よく知っているのか、彼は滞る事なくすらすらと説明する。
「ここからだと、あと一日程の距離にあるか。近くに大きな炭鉱があって、そこで働く者やその家族なんかが住んでいる。人とポケモンの比率は六、四くらいだな」
「に、人間がいるんですか!」
人間という言葉が出るや、仄霞が驚いた声をあげた。逆に緋焔は不思議そうな顔をした。
「当たり前だ。街や村を造るのはほぼ例外なく人間だからな……何だ、仄霞は人間が嫌いか?」
「ちょっと……嫌いって言うか、怖いです。私を追っている狩猟者だって人間だし……」
少し躊躇いつつ、俯き加減に仄霞は口にする。当然と言えば当然だった。そもそも彼女が故郷を追われた原因自体が、他でもない人間の干渉によるものなのだから。直接その姿を見ていないにせよ。
「仄霞の気持ちもわからなくもない」
緋焔は相変わらず淡々とした口調を崩さなかったが、心なしか柔らかさが感じられた。
「だが、人間と言っても良い奴もいれば悪い奴もいる。一概に悪い輩、ってわけでもないぜ」
静かに息を吐くと、緋焔は押し黙って焚き火の炎を見つめた。ちらちら踊る炎を映すヘルガーの瞳は、ここではないどこか別の世界を、例えば遠く懐かしい記憶を見つめているかのように揺らいでいた。その頃には既に食事も終わり、彼らの周りは炎の弾ける音と、茂みの奥から微かに聞こえる虫の声だけが満ちていた。
「……さて、そろそろ寝るとするか」
おもむろに緋焔は立ち上がると、ほんのりと佇む焚き火に近づいた。燃えている枝を前脚で崩して広げると、炎は仄白い煙を遺して呆気無く消える。辺りは一瞬の内に夜の暗闇に包まれた。
「そうですね……お休みなさい、緋焔さん」
闇の中、紅く
「ああ。お休み、仄霞」
緋焔は応えて、ゆっくりと横たわって、すぐには目を閉じなかった。彼は暫くの間神経を研ぎ澄ませ、不可視の闇の奥に怪しい気配がないかを探っていた。やがて仄霞の規則正しい寝息が聞こえてくる頃になって、漸く緋焔は浅い眠りに就いた。
☆
次の日も、二匹はひたすら歩き続けた。彼らの進む道は落ち着いた色合いの緑と茶色の起伏を縫うように続き、数種類の野の小鳥以外には誰とも遭遇しなかった。緋焔は絶えず周囲に気を配っているようだったが、少なくとも今現在は追っ手の気配はないようだった。
「仄霞。一つ訊いてもいいか?」
険しい丘の山裾を回り込みながら、緋焔が口を開いた。仄霞も顔を上げる。
「私が答えられる事なら……」
「別に難しい事じゃない。ただ仄霞を追っている狩猟者について、何か情報があったら教えて欲しい」
「えっと……」
答えようとして、仄霞は一旦言葉に詰まった。思えば彼女自身、はっきりとした情報は分かっていないのだ。
「遣いに
正直に話した仄霞に、今度は緋焔が首を傾げた。
「そんな僅かの情報だけで追い出されたのか? 仄霞の故郷を悪く言うつもりはないが、少し過敏過ぎじゃないか?」
緋焔の言葉を聞いて、仄霞の顔が曇る。しかしそれは長老の判断に対する不満や疑いではなく、もっと根本的な――悲しい記憶を引き出した時の顔だった。仄霞は少し息を吸って、話しだした。
「私の森は……昔にも一度、狩猟者と思われる人間達の一団に襲われた事があるんです」
「……」
「私が生まれる前の事なんですけど。私達イーブイ系のポケモンばかりが狙われて、連れ去られたり、戦って逆に殺されたり……それで森の人口が一夜にして激減した事件があったそうなんです。……以来長老様は悲劇を繰り返さない為にも、少しでも危険な要因は排除しなきゃならなくなったんです」
悲しげに語る仄霞の側を、強い西風が駆け抜けていった。風は丘の間を滑り抜けざま、もの悲しい叫びを一つ零して立ち去った。
「……そうか。悪い事を訊いたな。済まない」
緋焔は言葉を切り、その後は何も言わずに歩き続けた。
☆
やがて太陽が地平線の向こうへと沈みかけた頃には、土地はほとんど平らになっていた。
「見えるか仄霞。あれがクドンだ」
丘陵地帯の終わりを告げる、最後の丘の頂に立った緋焔は、視線でその先に見えるものを示した。長く尾を引く彼の影に寄り添うように、仄霞も彼の隣に立つ。
茜色と群青色の入り混じった薄明の中で、全体的に角ばった建物が群れを成していた。北の方にある一際目立つ大きな柱――巨大な煙突は黒々とした煙を空へと吐き出し、煤のにおいは風に乗って仄霞達の所にも流れてきていた。ちかちかと瞬く小さな無数の光は、家々の窓から溢れ出たランプの灯りだろう。
「あれが……」
仄霞は生まれて初めて見る“街”を、不思議な気持ちで眺めた。自分の故郷からあまり遠くはない場所に、こんな世界が存在していたとは。自分が恐れを抱く人間と共に生活を営むポケモンが、そこには確かにいるのだ。
「行こうか」
仄霞を促し進みかけた緋焔だったが、三歩と歩かないうちに足を止めた。
「……やっぱり目立つか……」
「何がですか?」
「その瞳だよ」
緋焔は仄霞の顔を覗き込み、眉根を寄せた。仄霞も言われてから気づき、困惑した。生まれ育った故郷と違い、外の世界でこの両眼違いは相当目立つはずだ。まして今は追われている身。このまま街に突入するのは、自分の足取りをわざわざ教えながら歩くのと同じだ。
「……、何もしないよりはマシか。仄霞、しばらくここで待っててくれるか。必ず戻るから」
何か思いついたのか緋焔が言った。仄霞はよくわからないままに頷き、傍らの茂みに身を隠す。それを確認すると、緋焔は夕闇の中、一足先に街の方へと走って行った。ヘルガーの漆黒の体がすぐに夜に融けて見えなくなるまで、仄霞はじっと彼を見送っていた。後に残ったのは、風の咆哮が微かに響く沈黙だけ。
緋焔さん、早く戻ってきてくれないかな。
たった独りで待ちながら、無意識にそんな事を考える。いつの間にか、出会って間もない彼をこんなにも信頼している自分に気づき、仄霞は軽く肩を竦めた。
『街までだ』と緋焔は言っていた。その街は仄霞の目の前、僅か数百メートルと離れていない。もうすぐ、彼と別れて一匹だけの逃避行を再開しなければならないのだ。
それにしても、故郷の仲間達は元気だろうか。ついこの間、親友の薫良と朝食を食べた記憶が遠い昔の事のように思えてくる。あの時は、こんな平和がいつまでも続くと信じて疑わなかったのに。
とそこまで考えたところで、彼女の大きな耳はこちらへ向かってくる足音を捉えた。仄霞の胸に期待と不安が湧きあがる。緋焔さんなら良いけど、もし知らないポケモンだったらどうしよう。昨日襲ってきたリザードの卑下た笑みが脳裏を過ぎる。
仄霞の不安は杞憂に終わったようだ。やってきたのは緋焔だった。その口には何かを咥えている。
「街中で虹彩異色症を晒すとどうやってもアシがつくからな。この方がマシだ」
緋焔が仄霞の足下にばさりと置いたのは、黒く長方形の布と――綱のついた、首輪。
「……あのー、何処でこれを?」
森育ちの彼女にも、それらが何に使われる物なのかは容易に察しがついた。なんと言って良いのかわからず、ひとまず仄霞は無難だと思われる問いを投げかけた。
「まあ聞くな。俺はけっこう色んな場所に出入りしているんでな」
明確な答えは返さなかったが、緋焔は言った。
「とりあえずは、布で目隠しして瞳を目立たないようにする。目隠しだけだと不自然だし、慣れない場所で俺について来るのが難しいだろうから、引き綱をつけて貰う。……仄霞には屈辱だろうが、少しの間我慢してくれ。今回だけだ」
最後にすまなさそうに、そう付け足した。
「でも、逆にこの方が目立つんじゃ……?」
緋焔からは不純な感情が感じられなかった。その事実に一応安心したものの、新たな別の不安が湧き上がる。仄霞が尋ねると、緋焔はその点は気にしなくて良いと言う。
「ちゃんと考えはある。これをつけて裏通りを通って、俺の知り合いの家まで行くつもりだ。……後は俺を信用してくれるかどうか、だが」
緋焔の固い表情に、ほんの少しだけ不安の色が浮かんでいた。しかし、仄霞の心は決まっていた。
「わかりました。お願いします、緋焔さん」
「本当に良いのか? その……俺が言うのも何だが、変な場所に連れていかれるという可能性は考えないのか?」
澱みなく答えた仄霞を逆に訝しく思ったのか、緋焔は自ら暗い可能性を示唆したが、今度は仄霞が首を横に振る番だった。仄霞は緋焔の瞳をまっすぐ見つめて、きっぱりと言い切った。
「あなたを信じてます」
(緋焔さんは何度も助けてくれたから。私は、あなたを信じるよ)
第三話、闇纏う者に身を委ね 了
中書き
間が空きすぎて少々ぎこちなくなってしまった気がします……;;でも、やっぱり小説書くのは楽しいですねーと再確認。
仄霞が目隠しするという案ですが、何故かかなり初期からありました。確かオッドアイという設定を考えた直後くらいから。あれから随分経ってしまいましたが。
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