ポケモン小説wiki
あの日の空

/あの日の空

この作品は元々、第三回仮面小説大会用に執筆しておりました作品です。ただ……おそらく仮面の意味が無いくらいに作者がバレバレだと思いますので、あえて作者名は伏せたままにさせて頂きますね(笑)。

注意:この作品には流血表現が含まれております。



「おい、そこの部品を取ってくれ」

「あ、はい」

 散らかった作業場。元々は割と広かったこの作業場だったが、工具やらなにやらが無造作に散乱しているせいか、妙に狭く感じる。こんなに散らかっているのも、俺のだらしない性格故なのだろうか。片付けようと思った事も何度かあったが、ついつい先送りにしてしまい、気付いた時にはこの有り様。もう片付けるのが困難な程だった。
 塗炭屋根の下、そこで俺はある物を制作していた。ポケモンの保護活動団体に勤める俺は、仕事の後輩に無理を言って作業を手伝ってもらい、制作中のそれは既に完成を迎えている。
 それは俺にとって長年の夢だった。小さな頃からの夢。今となっては当たり前のような事だが、過去にそれは人類の夢でもあった。そう――大空を舞う事だ。
 異国の地でとある兄弟が初飛行に成功してからもう百年以上。遥か上空を大型のジェット機が飛び交い、飛行機やヘリコプターに乗って空を飛ぶだけならば、そう難しい事ではないだろう。
 だが、俺はそれら動力を持つ物に頼らず空を飛びたかった。なにより風を感じたかった。そんな俺が着目したのはハンググライダーだ。丘を駆け下りて飛び上がり、上昇気流の力を使って騒音もなく優雅に舞う。一度体験したその瞬間。俺はもう虜となっていた。
 それからと言う物、俺はハンググライダーにのめり込み、何時しか自らの手でそれを作る計画すら立てていた。休日のほぼ全てをハンググライダーの制作に充て、給料の殆どもそれに注ぎ込みながら夢の実現を目指し、俺は文字通り没頭していた。それが今日、遂に陽の光を浴びるのだ。
 アルミ合金の骨組み。ポリエステル系合成繊維の翼。グライダーと操縦者を繋ぐハーネス。トライアングル状のコントロールバー。事故を防ぐ為にも、逸る気持ちを押さえてそれらの箇所を念入りに俺は確認する。

「ふぅ、異常はなし。自分で言うのもなんだが、完璧だ」

「これでやっと飛べますね。先輩」

「あぁ」

 おっと、そう言えばまだ名前を言っていなかったな。俺の名前はライト。ポケモンの保護活動団体で働く二十五の男性だ。身長も体重も、おまけに顔も人並み。一見すれば取り柄の無いどこにでも居るフツメンと言った感じだ。
 まぁ、自己紹介はこれくらいに、入念なチェックも済んだ事だ、こんな薄汚い作業場から完成したハンググライダーを太陽の下に晒すとしよう。

「お前はそっちを持ち上げてくれ。落とすなよ?」

「分かってますよ。……ったく、先輩は注文が多いっすね」

「愚痴は後で聞くから、とにかく慎重にな」

「はいはい」

 少し不満を顔に浮かべる後輩。彼には色々と世話になった物だ。今度飲みに誘って奢ってやるか……。
 俺と後輩はアルミ合金の骨組みを握り、約30Kg程のハンググライダーをそっと持ち上げ、慎重に作業場の外に持って行った。照明や窓があるとはいえ、薄暗かった室内を出れば、眩いばかりの陽光が降り注ぎ、そよ風が肌を撫でて走り去っていく。
 完成を迎え、晴れて陽の光を浴びた俺のハンググライダー。真紅に塗った翼と、澄み渡った空に似た綺麗な青で塗装した骨組み。美しきその姿は俺を魅了して止まなかった。
 もう直ぐ初飛行だ。そう思えば自然と俺の心は躍り出す。そして同時に、とある記憶が蘇った。いや、それは片時も忘れる事が出来ない記憶だった。

「先輩、風も穏やかで天気も良いし、今日はいつにもまして綺麗な空っすね。絶好の飛行日和じゃないすか」

「あぁ、そうだな。……まるであの日の空みたいだよ」

「あの日の空?」

 不思議そうに後輩がそう尋ねてくる。そうか……そう言えば、彼には話していなかったな。俺の過去、そして"彼"の存在を。丁度良い。後輩とは仲が良い方だし、飛ぶ前に一つ昔話でもするか。
 俺は自分の過去を後輩に話そうと、彼を日陰まで連れて行って寂れたベンチに腰掛ける。突然昔話をすると言い出した俺に、彼は少し違和感を覚えていたようだが、ベンチに腰を下ろしてからは俺の話に耳を傾けてくれた。
 俺は記憶の扉を開き、過去の――四年前の出来事を彼に話すべく口を開いた。

「今から四年くらい前だ。俺は彼と出会った。……彼って誰? とか空気読まない質問は無しだぞ? ちゃんとこれから話すから」

「あ、今そう聞き返そうかと思ってたっす」

 やはり……。予想していただけに釘を刺しておいて良かった。それはさて置き、俺は一度澄み渡る青空を仰ぎ、古い記憶を呼び起こしながら、約四年前に別れた彼の事も思い出す。懐かしい思い出の欠片と欠片を合わせ、それを話として俺は繋いでいく。
 彼は今も、この大空の上で自由に飛び回っているのだろうか。いや、きっとそうに違いない。彼もまた、俺と同じく空を飛ぶ事が夢だったのだから……。










~あの日の空~









 約四年前、俺は"彼"と出会った。出会いは唐突で、それはまるで神の気まぐれ。何の前触れもなく、彼は俺の目の前に姿を現したのだ。
 その頃から既に俺はハンググライダーの制作に没頭しており、当時はまだ設計図作りの段階だったが、毎日仕事を終わらせては友人の誘いを断って、家に向かい車を走らせていた。
 アクセルを踏み込み加速した所でクラッチを切り、ギアを上げてはクラッチを繋ぐ。それを繰り返し、加速する車で逃げるように俺は自宅に向かう。その時はまだ彼との出会いなど想像しておらず、この頃の職業であった部品加工店の仕事が早く終わったので、帰路を軽快に走りながら、俺は今日もハングライダーの設計図を描こうと考えていた。
 当時から変わらず、俺の家は町を見下ろせる丘の上にただ一つ寂しく佇んでいる。もちろんそれは、その場所がハンググライダーの飛行に最適な場所だったからだ。町から少し距離がある為に多少不便でもそんな事、俺の夢とは釣り合わない。
 長い坂を登り終え、自宅の前まで辿り着いた俺はサイドブレーキをしっかりと掛けてエンジンを切り、キーを抜く。
 さて、今日も夢に一歩近付こう。俺は車のキーを片手に玄関まで足早に向かった。今日は仕事が早く終わり、太陽はまだ蒼天に輝いている。丘の上と言う見通しの良い場所で、俺は昼下がりの空に見惚れていた。
 煌めく光輪。澄み切った青のキャンバスに描かれる純白の雲々。青と白のバランス。その日の空は何もかも完璧と言え、美しさが俺の心を掴んで離さなかった。思わず足を止め、景勝の空とその下に広がる町並みを眺めてしまっていた俺だったが、ふと緑に覆われた丘の斜面に何かが見えた。
 少し距離があって最初はなんだか分からなかったが、それは緑の大地の上では妙に不釣り合いな色合いだった。黄色や白の花々であったのなら、この風景に馴染むであろう。しかし、その色は深い赤だった。
 一体あれはなんだろう? そう思った時には、俺の足は一歩踏み出していた。俺は転ばぬように斜面を下る。近付くにつれてはっきりしていくその形や色彩。動かなかったそれを、俺は最初"物"だと考えていたが、ある一定距離まで接近したその時、俺は足を止めてしまった。

「ん?」

 それは、いや……彼は物なんかでは無かった。空と形容出来る青の体色。頭の左右から伸びる六本の角。最も特徴的だったのは、風を操り大空をまるで庭のように飛ぶ事を可能にする真紅の大翼。俺の前に突如として現れた彼。それはポケモンの中でも一際危険な種族とされ、出会ったら戦うより逃げた方が得策とまで言われるドラゴンポケモン――ボーマンダの雄だった。
 けれど、彼はぐったりとしてあまり動かない。いや、動けないのだろう。高所から落下したのか、または同種間で喧嘩でもしたのか、彼の体は傷だらけで、所々からは多少の流血もあった。なにより、彼の姿をはっきりと確認して一番驚いたのは、ボーマンダの象徴である真紅の翼が……一枚しかない事だった。
 翼――それは俺が作ろうとしているハンググライダーからジャンボジェット機、果ては子供が作る紙飛行機でも共通する事がある。翼と言う物は対を成して初めてその効果を発揮する物。つまり、この片翼のボーマンダは……もう大空を飛ぶ事が出来ないのだ。
 ボーマンダと言う種族は俺に似て、大空を飛ぶ事が夢であるポケモンだと聞く。傷だらけの彼は、さぞかし飛べない事が辛いだろう。俺はポケモンを飼育した事もなければ、ポケモンと人は相容れぬ存在くらいに思っていた。
 なのに、妙に俺は傷だらけでぐったりとする彼の悔しさや悲しさを感じ取っていた。なにせ、彼は俺に気が付くまで……若草に下顎を埋めながらも悲しげな瞳で空を見上げていたのだから。
 普通なら俺は一目散にこの場から逃げていただろう。しかし、その悲しげな瞳と痛々しい姿に、俺は逃げる事が出来なかった。右の翼は根本の付近から何かに切り裂かれたようで、そこからは血が滴り、細長い緑葉の表面を暗い赤に染めている。
 これだけの傷では例えボーマンダでも、もう殆ど動けない筈。それでも彼は俺に気が付くと悲しげな瞳を一変させ、威圧するような鋭い視線を俺に突き刺してきた。背筋に悪寒が走る。その一瞬、まるで俺は捕食者に狙われた獲物の気分だった。
 恐怖。心はその感情で一杯だったのかもしれない。でも、何故だか俺は逃げる事が出来なかった。蛇睨みとかそう言う類ではない。寧ろ、この場合見捨てられなかったと言った方が正しいのかもしれない。
 人間とポケモン。種族はまるっきり違い、言葉も常識も、何から何まで異なる彼――ボーマンダ。それでも、彼の悲しげな瞳を見てしまった俺は分かっていた。彼の夢と俺の夢は……等号によって繋がるのだと。
 俺は決心した。この傷だらけのボーマンダを助けよう。俺は彼を刺激しないように慎重に一歩一歩草を踏んで近付いていく。一方の彼は、うつ伏せに倒れ込んだ状態から起き上がろうとするも、体に力が入らないのか小刻みに震えながら崩れた。

「お、おい。大丈夫か?」

 人間の言葉が通じる筈もないのに、崩れた彼に俺は、まるで怪我人に声を掛けるようにそう言いながら、さらに接近していた。手を伸ばせば届きそうなくらい、彼との距離を縮めていた俺。その事を悟った時、俺はもう彼の攻撃範囲の中だった。
 突然彼が震えながら首を持ち上げたかと思うと、長く強靭な尻尾を俺に向かって振ってきたのだ。なんとかギリギリでそれを避ける事が出来たが、突然の出来事に俺はその場に尻餅をつき、両手を斜面に当てながら半分腰が抜けていた。そう、近付いた俺が間違っていたのだ。
 彼は当然野生。人間とポケモンは、一部ではパートナーのように行動を共にしているが、大半は敵対している者同士。人間が土地を開拓する為に森の木々を伐採すれば、決まり事のようにポケモン達から手痛い妨害を受けていた。時折、ポケモンに命を救われたとか言う噂も耳にするが、やはり暗い噂の方が先走る物。俺もポケモンに対しては悪いイメージの方が強かった。

(あ、危なかった……)

 冷や汗がもみあげから頬を伝って流れ、心臓の鼓動が早くなっているのを俺は感じた。死の恐怖とはこう言う物なのかもしれない。自然と目を見開いて俺は硬直していたが、彼はそれ以上俺に手を出してこなかった。いや、出さないと言うよりは出せないのだ。尻尾を一度大きく振った後、彼はもう一度崩れ、苦しそうに目を細めながら俺を見ていた。
 もう体力の限界。動く事すらままならないのだろう。冷静さを取り戻した俺は再び考える。この礼儀知らずのボーマンダを助けるか、それても放っておくか。いや礼儀知らずと言うのは彼に失礼か。野生なら当然の反応だろう。郷に入っては郷に従え……とか彼に言っても無駄だろうし。
 数秒か数十秒か、立ち上がった俺はその場で考え続けた。そして辿り着いた答え、それは彼を助けてやろうと言う先と同じ答えだった。同じ空を夢見る者同士。それだけが妙に彼との繋がりを感じさせ、俺は恐る恐る彼の体に触ってみる。
 ドラゴンタイプは、得にこのボーマンダは寒さに弱く、変温動物なのだろう。温かければ活発になり、逆に寒ければ動きが鈍る。今の季節は春。日光を浴び続けていた彼の肌は温かった。俺が触れた途端、彼はまた俺に攻撃しようとしたのだろうが、痛みと疲労から彼はもう動けなかった。
 動けない事に一応安心は出来た。これならこちらが攻撃を受ける可能性はぐっと低くなるからだ。両足に並ぶ鋭い爪の前には、人間の体など紙切れも同然だろう。見れば恐怖が込み上げてくるので、爪にはあまり目を向けないよう心掛けた。
 傷の箇所を確認し、俺の力では運ぶ事も困難なので一度自宅に戻り、人間用ではあるが、消毒液や包帯などをあるだけ抱えて彼の元に急ぐ。いつの間にか俺の心に宿っていた恐怖心は薄れて行き、彼の傷に包帯を巻いたりガーゼを張ったりしていく内に、俺の心では恐怖に変わって彼を助けてやりたい気持ちが面積を広げていた。
 同時に、熱心に手当する気持ちがポケモンである彼に伝わったのか……は、定かではないが、警戒心を張り巡らせていた彼も、いつの間にか落ち着いて俺の応急処置を受けるようになっていた。もしかしたら、野生のポケモンも誠意を持って接すれば心を開いてくれるのかもしれない。目を閉じ、抵抗する様子もなく俺の処置を受けるこのボーマンダの横顔を見ながら、俺はそう思い始めていた。

「ふぅ、これで一応は大丈夫だろ。……しっかしまぁ、体中傷だらけだな。お前、何しでかしたんだ?」

 一通り傷口を包帯などで塞ぎ、応急処置を済ませた俺は、緩やかな丘の傾斜に身を預ける彼にそう問い掛けてみる。まぁ、当然返事などする訳もないのだが、彼は地面の草に埋もれる顔で俺を見上げた。何を考えているのかは人間である俺にとってさっぱりだが、少なくとも俺を襲うつもりはもうないらしい。
 とにもかくにも、今日と言うこの日、そして彼と出会ったこの日が、俺の中で特別な一日となったのは間違いなかった。
 問題は、まだ動けそうにない彼をどうするかだ。彼の巨体を筋トレなど体育の授業以外で一度もした事がない俺が運ぶのは不可能。かと言って、夜はまだ冷え込むのだから、ドラゴン、飛行タイプである彼にとっては厳しいだろう。
 考えた末、せめて体温が逃げないようにと、俺は自宅から使っていない古い布団をあるだけ持ち出し、彼にかぶせてやる事にした。西の空が茜色に染まった頃、俺は布団を彼に掛けてやる。最初は彼も少し驚いた様子だったが、直ぐに布団と言う物を理解し、仕舞いには動くようになった長い首を曲げ、布団を咥えては自分で位置の調節すら始めた。

「お前、見かけによらず意外と利口なんだな」

 器用に布団を咥えて、自分の好きなようにそれを移動する彼の姿に、俺の中でポケモンに対するイメージが変わりつつあった。おそらく、棲家では木の葉を布団にでもして眠っていたのだろう。逞しい体躯とは裏腹に、布団の中で首や尻尾を丸めて蹲るその姿はどこ可愛げがあった。
 茂る草々の上で、瞼を降ろす彼。いつの間にか俺への警戒心も薄れ、彼は眠りに就いていた。少し心配だが、布団もあるしこの様子なら大丈夫だろう。俺は何度か振り返りながら自宅までの斜面を登り、最後に閉めかけた玄関の隙間から眠る彼の姿を見ると、玄関に施錠する。
 その後は適当に夕食や家事などを済ませ、ゆったりと風呂に浸かって疲れを癒し、風呂上りに娯楽番組を眺めながら時折窓から彼の姿を確認して、明日の仕事に備えて俺は眠りに就いたのだった。










 翌朝、けたたましい目覚ましの電子音が俺の耳を襲い、それで俺は目を覚ました。春になったとはいえ、朝方はまだ冷え込む事も多い。今日もそうだった。冬に比べれば大分マシになったが、それでも寒さと言う物は俺を布団の中に閉じ込める。出来るのであれば、一日中こうやって布団の中でのんびりしていたいものだ。
 布団。その単語で俺は思い出した。そうだ。夜の冷え込みに耐えられるよう、布団を掛けてやったあのボーマンダはどうしているだろう。ポケモンは、特に野生のポケモンは人間に比べて早起きだと聞くし、もうあの場所には居ないかもしれない。もしくは、夜の寒さに耐えかねて……。
 つい不吉な事を考えてしまったが、さすがにそれはないだろう。衰弱していたとはいえ、彼はボーマンダなのだ。きっと大丈夫。俺は自然と自分にそう言い聞かせていた。
 鍵を掛けておいた玄関を開け、覚束ない足取りで靴を履いた俺は早朝の丘に足を踏み出す。朝焼けの空も美しくて、東側になだらかな斜面を持つこの丘を、眩い太陽は地平線の彼方から包むように優しく照らしていた。
 そして、なだらかな斜面に彼の姿はあった。東から線条に注ぐ陽光を青い体に受けながら、彼は神々しい太陽と雲一つない空を昨日と同じ瞳で見上げている。良かった。傷だらけで衰弱していたとはいえ、無事に夜の冷え込みをやり過ごせたらしい。さすがはポケモン界でも頂点近くに君臨するボーマンダと言った所だ。
 昨日俺が処置を施さず、また布団を掛けてやらなければ彼は命を落としていたかもしれない。一つの命を生に繋ぎ止めた実感。医者が手術を終えた時に味わうようなその感覚を俺は覚えていた。
 だが、やはり彼は悲しげな瞳で空を見上げていた。きっと空を飛びたいのだろう。首を持ち上げて空を見上げる彼の純粋な姿は、どこか俺の心に響く。そうだ。きっと彼もお腹を空かせているだろう。ポケモンが普段何を食しているのか、俺は良く分からないが、何か食べさせてあげなければ。
 そう思った俺は寝間着のまま家の中に戻ると、六枚の食パンが入った袋を掴んで足早に彼の元に向かう。昨日は近寄るのが怖かったが、今はその恐怖心も薄れていて、俺の足取りは幾分軽快だった。朝露が付着する新緑の草を踏み、布団を背中に掛けている彼の元まで歩み寄った俺は、少しだけ距離を取ったところで一度立ち止まった。
 おそらくは攻撃してこないだろう。根拠こそないが俺は彼を信じていた。けれど相手はボーマンダ。逞しい体や角の生えた顔を見ると、少しだけその迫力に押されてしまう。一方の彼は、俺の姿を見ても逃げようとも攻撃しようともせず、昨日の懸命な処置が功を奏したのか、俺を味方として認識している様子だ。
 ちょっとばかしの恐怖心を抱きながらも、俺は空を見上げる彼に声を掛ける。

「よう、お前の口に合うかは分からねぇけど、パンでも食うか?」

 袋詰めにされたパンを取り出し、それを彼の目の前で少し左右に揺らした後、俺はそれを地面に置いて一歩下がった。見る限り、昨日出会ってからは何も食べていないのだから、彼は空腹の筈。出勤まではまだ少し時間があるし、少しの間俺は彼を眺める事にした。
 目の前に置かれたパン。それが食べられるものだと彼が判断したのは早かった。相当お腹が減っていたのだろうか、彼は特に怪しむ様子もなく俺が差し出したパンを食べる。その瞬間、俺は思わず笑みを零していた。彼がパンを食べてくれたその現実が、俺はなぜだか嬉しかったのだ。
 彼がまた俺に心を開いてくれた。美味しそうにパンを食べるその姿に、俺は勝手ながらそう思い込んでいた。ペットにエサやりをしていた子供時代のように、俺は嬉しくなって残りのパンを全て彼に与えてしまう。

「どうだ? 人間の食い物も美味いだろ? ほれ、全部やるよ。これ食って早く傷を治しな」

 そう彼に優しく声を掛けた後、俺はその場を後にした。あまり長い間彼と一緒に居たら、出勤時間に遅刻してしまう。本心を言ってしまえば、俺は正直まだ彼の側に居てやりたかったが、さすがに仕事をサボる訳にはいかない。
 仕事が嫌……とか言うと上司に怒られるから口にはしないが、仕事の事を考えながら俺は自宅に戻った。それから思い出したのだが、そう言えば昨日、白米を炊いておく炊飯器のタイマーをセットしておくのを忘れた。つまり、先程彼にパンを全て与えてしまった俺に、事実上朝食となる物は残されていなかったのだった。気付いた時はもうすでに後の祭り。慌てて窓から彼の居る斜面を見るも、もうそこに食パンの姿は無かった……。
 結局、冷蔵庫の中には牛乳とオレンジジャムくらいしかなく、今日は朝食抜きに俺は出勤する事に。歯を磨いたり顔を洗ったりと、色々と準備をした俺は何時もと変わらず止めてある車まで歩みを進め、運転席に乗り込んでキーを差し込む。差したキーを捻ると同時にエンジンが回転を始め、俺はギアをローに入れて車を発進させた。車を走らせながら、ふとサイドミラーに目を向ける。磨き忘れで少し汚れた銀色のそこには、首を持ち上げてこちら見ている彼の姿が小さく映り込んでいた……。
 仕事中、俺は彼の事がどうも気になって仕方がなかった。その事で作業の手が度々止まり、同僚に注意されたり上司に怒られたり……そんなこんなで仕事が終わったのは、日が暮れてから大分時間が経過した頃だった。
 今日も同僚の誘いを断って車を走らせ、街頭に彩られた町中を通って俺は自宅に向かう。途中、閉店ギリギリのスーパーに寄ってそこでパンやらポケモンフードなる物を購入し、再びアクセルを踏んで車を走らせる。
 町を抜けてからは、俺は彼の事ばかり考えていた。お腹を空かせていないだろか。寒さに震えていないだろうか。傷の具合はどうだろうか。彼の事を考えるその気持ちが、俺のアクセルを踏む足に力を込めた。
 唸りを上げ、力強く坂を登る俺の車。速度は……警察に見られたら取締りの対象になるぐらいは出ていたと思う。そんな事はどうでも良いとして、俺は自宅に付くと直ぐに車を降り、月明かりに照らされた斜面に彼の姿を探す。
 今朝はまだ居たが、日が昇って沈んだ今、彼がまだこの場所に居るとは限らない。ただ俺の心は彼がまだ居る、いや、居てくれるとどこか願い、そして確信していた。左から右に視線をずらしつつ、冷たい銀の光が差す丘を俺は見渡す。
 彼は――まだ居てくれた。昨日俺が与えた布団を今日は自ら体に被せ、昨日と同じように首や尻尾を丸めて彼は蹲っている。もう寝てしまったのだろうか。そう仮定した俺は、彼の睡眠を妨げないよう、忍び足で彼に近付く。
 けれど彼はまだ起きていた。そして変わらずに空を見上げている。そんな彼の瞳を見れば見る程、俺は思う。やはり彼は心からまた空を飛びたいと願っているのだろう、と。肌寒い夜風が草を揺らす中、俺は彼に声を掛けようとした。せっかく彼に為に買ってきたポケモンフードだ。早速夕食として与えてみよう。
 そう思いながら俺は彼に声を掛けようとしたのだが、俺は喉元まで上がった声をふと止めた。まだ出会って間もないが、少なくとも彼は俺を敵とは思っていない筈。ならばせめて彼に名前を付けてあげよう。唐突に俺はそう思ったのだ。
 さて、どんな名前が良いか。ポケモンフードが入った大きな袋を抱えながら、そして彼に見詰められながら俺は考える。ドラゴンタイプだから強そうな名前が良いか、それとも飛行タイプも混ざっているからそれにちなんだ名前にするか……色々な候補が浮かんでは、沈んでいく。ポケモンフードを抱えながら、しばらくの間考え込んでしまった俺の目にふと、自宅の脇にある塗炭屋根の作業場が映った。
 その作業場は、俺の夢であるハンググライダーを制作する為の物。ハンググライダー。それで俺は閃いた。

「よし、お前の名前はフライトだ。今は飛べないかもしれないが、きっといつかまた大空を舞えるさ」

 Flight――フライト。それは俺の夢であり、彼の夢である飛行を意味する英単語。そう、彼の夢と俺の夢はきっと同じ。それが決め手だった。
 雲間から月や星が覗く中、俺は笑顔で彼に名前を付けてあげた。理解は出来ていない、言ってしまえばそれは俺の自己満足なだけだろう。けど、少なからず彼――フライトと繋がりを持った以上、名前は必要だった。そして、俺は早速フライトと呼んでみる。

「フライト。ポケモンフードとか言うの買ってきたから食え。きっと昨日のパンより美味いだろ」

 当然、まだこのフライトと言う名前を理解出来ていない彼は一瞬首を傾げるも、一緒に買ってきた皿の上に盛られたそれを食べ始める。見る限り、どこか昨日よりは顔色も良くなって気がするし、食欲も十分にある。
 後は傷さえ治れば、元気に動けるようになる筈だ。だが、この時から俺は薄々気付いていた。野鳥を勝手に飼育してはいけないように、ポケモンを勝手に飼育する事もまた、いけないのだった。つまり彼とはいつか別れなければならないのだ。
 ポケモンの定義にはPP(パワーポイント)と呼ばれる独自のエネルギーを体内に持ち、それによって技と呼ばれる物を発動できると言った事などがある。つまりは普通の動物とは違って火を吹いたり電撃を放ったりと、桁違いに危険なのだ。それだけに、飼育にはポケモントレーナーのライセンスが必要だし、それを取得するには資金と相当な知識や技量が必要となってくる。
 また、ポケモンにはそれぞれ種族値と言う物が定められており、それに応じて第一級から第三級までの三つのライセンスが存在し、また一際危険な種族……俗に600族と呼ばれる一部の種族の飼育に関しては、第一級ライセンスに加えて特級と呼ばれる最上位のライセンスが必要となっていた。当然、ハンググライダー作りに没頭していた俺は、それらを持っている訳が無かった。
 美味しそうにポケモンフードを食べる彼。その幸せそうな姿を見れば見る程、今回だけは心が苦しくなった。出会いがあれば別れがあるとはよく聞くが、その辛さが、この年齢になってから初めて分かる事になるとは……。
 月明を浴びながら、俺はポケモンフードを食べる彼の頭を撫でてみる。彼は出会った時のような鋭い視線を俺に突き刺す事はなく、俺が撫でればどこか喜んでいるようにも見えた。随分と人懐こい奴だ。そう思いながらも、俺は彼の頭を虜になったように撫で続ける。夕食を食べた後、彼は俺に撫でられながら眠りに就いた。そこに警戒心は皆無であり、彼が心を開いてくれた事を、俺はその姿から感じていた。
 次の日。俺は休日にも拘らず朝早く起きていた。勿論、それは見たいテレビがあるとかそう言う理由ではなく、早起きである彼との交流を深めたかったからだ。昨晩、ベッドの中で色々と考えたのだが、きっとこの場所は殆ど人も来ない事だろうし、このまま空を飛べない彼と一緒に過ごしていても大丈夫だろう……と、言う答えに俺は辿り着いていた。なにより、既に愛着が湧いてしまった彼と別れる事が出来ない想いからの判断だった。違法だと言う事は百も承知だが、きっとバレはしないだろう。俺は楽天的に考えていた。
 何時も通り靴を履き、玄関の鍵を開けて斜面に居る彼に会いに行く。これからはこの生活が日課になりそうだ。自宅から出れば、少しひんやりとした朝の空気が立ち込めていた。彼は今日も斜面で、布団にくるまって空を見上げているのだろうか。
 なんとなく、彼のそんな姿を浮かべながら私は彼を探したが、その予想は少し外れていた。斜面には布団だけが残っており、彼は丘の頂上付近、俺の家の直ぐ近くにまで来ていたのだ。それにはさすがに驚いたが、同時に俺は嬉しかった。何と言ったって、傷だらけで衰弱していた彼が、歩けるようになるまで回復していたのだから。
 朝霧が僅かに淀む中、彼は今日も空を見上げていた。突然の出会いから今日まで、彼は何時も空を瞳に映している。そして、時折一枚だけになった翼を動かしているのだ。そんな姿を見れば、誰でも胸を締め付けられる。片翼となった彼をなんとか飛ばせてやりたい。そうは思うも、それは俺の力でどうこうなる問題ではな…………いや、出来る。
 その時、俺は閃いたのだった。もしかしたら、また彼を飛ばせることが出来るかも知れないと。前にテレビで鰭を失った水棲ポケモンに、人工の鰭を付ける事で泳ぐ能力を回復させたと言うドキュメンタリー番組を放送していた事がある。ならば、彼に人工の翼を作ってあげれば良いのだ。
 それは決して容易な事ではないだろう。だが、そう決心してからと言う物、俺は書きかけのハンググライダーの設計図を引き出しに仕舞い、彼を再び飛ばせる為の人工翼の制作にのめり込んでいった。必ず彼をまた大空に舞い上がらせてみせる。そう、彼の夢と俺の夢は――等号によって繋がっているのだから。
 決心した翌日から、早速俺は行動に出た。毎日の仕事が終わっては設計図の制作に時間を割き、歩けるようになった彼を作業場に住まわせながら俺は頭を捻り、そして書き続ける。全ては彼の夢を再び叶えてやるために。気付いた時には、それが俺の夢であり、目標となっていた。
 また日を追う毎に、作業場に住む事になった飛べないボーマンダ……フライトとの絆は深まっていった。出会ってから一週間が経った頃には、お互いを友として認め合い、俺が調子に乗って体を叩いたりしても怒るような事は無くなっていた。それどころか、体を撫でたり叩いたり声を掛けてやると、彼はまるで子犬のように喜ぶのだ。
 世間一般に聞くボーマンダのそれとはかけ離れた性格のフライト。尻尾を振って喜ぶ時もあり、その都度置いてあった物が粉砕されるも、仕方のない事。寧ろ彼が元気な事、そして喜んでくれる事が俺にとっても幸せなのだった。









 ――急流のような月日は流れ、彼と出会ってから既に二週間を越える。俺は仕事が終わってからの時間や、休日返上で失われたフライトの翼の代わりとなる、人工翼の設計図を書き続け、それだけならようやく完成出来た。ポケモンの為の人工翼の設計など、もちろんゼロからスタートだったが、前に見たテレビ番組の人工鰭や、今まで没頭していたハンググライダー制作の知識を参考に、なんとか書き上げる事が出来たのだ。
 また、彼との交流も進み、元々ハンググライダー制作に没頭していて友達の少なかった俺にとって、彼はもう数少ない友達の一人。今では「フライト!」と、声を掛ければ振り向いてくれる程、彼と俺の仲は良くなっていた。
 そんなある日。俺は彼と共に、緑に染まった丘の斜面に寝そべりながら空を見上げていた。彼との距離もどんどん縮まり、一日、また一日と信頼関係が積み重なっていく日々。出会った時は俺を敵として認識していたのに、今となっては共通の夢を抱く友。時間と言うのは不思議な物だ。傍らに座る彼を横目で見れば、彼が俺に攻撃してきた事がまるで嘘のように感じる。俺はそんな呑気な事を考えながら、彼と共に青空を流れて行く雲をしばし眺めていた。
 ふと、上空高くに何かが見えた。
 まるで海をひっくり返したように広大な空を背に、それは優雅に飛んでいたのだ。飛行機でもハンググライダーでもない、その姿はフライトと瓜二つ。そう、フライトとは違う別のボーマンダだったのだ。翼に一本古傷が走っているが、彼はフライトの友達だろうか。心地よい良い風の肌触りを感じながら、俺はそう考えていた。そして、傍らに居るフライトに俺は話し掛ける。

「フライト。あのボーマンダ。お前の友達だったりするか? もしそうなら、また友達と一緒に空を飛べるように……」

 語り掛けながら腕枕に支えられた顔を彼の方に傾けた俺だったが、その瞬間、俺は言葉を失ってしまった。友達であるボーマンダに羨望の眼差しでも向けているだろうと俺は考えていたが、それはまるで違ったのだ。
 羨望どころではない、彼の目は恐ろしいほどに鋭く、まるで刃物のような目付きだった。彼は上空高くを舞う別のボーマンダを、明らかに敵として見ていた。いや、それ以上に宿敵として見ていたのかもしれない。その悲しみと憎しみに染まった彼の顔を見て、俺は悟った。
 彼の翼を奪い、傷だらけにして飛べないボーマンダとしたのは、おそらくあのボーマンダなのだろう。縄張り争いか、雌の奪い合いか。理由は分からないが、同種間の喧嘩に彼は敗れて地に墜ちたのだろう。小さくなっていくボーマンダの姿を睨み続ける彼に、俺はそっと手を当てる。

「そうか。お前、あいつにやられたんだな……。けど、辛い過去なんて忘れろ。お前には俺が着いてるし、俺が必ずまたお前を空に戻してやるから」

 彼の体を撫でながら、俺はあやすように彼に言う。そんな俺の手に、彼は悲しみに塗れた顔の鼻先を当ててきた。今の俺には、ただ励ましてやる事しか出来ない。体を撫でていた手をそこから離し、俺は彼の鼻先に優しく触る。斜面を駆け上がる風が草を揺らし、緑の絨毯は波打つ。その音色が響く中、俺は鼻先を当ててくる彼の顔を見ながら、ずっとそこに手を当てていた……。
 試作第一号の人工翼が完成したのは、フライトとは別のボーマンダを見掛けた日から数週間後の事だった。自分の生活レベルを下げてまで、人工翼制作の為に資金をつぎ込んだ上、殆どが手作業。完成までの道のりは険しかった。それでも、彼と青空や星空を共に眺めるその一時や、俺が疲れている時は心配そうに近寄ってきてくれる心優しいボーマンダである彼の存在が、なによりの支えとなっていた。
 この頃になると、一緒に食事したりする楽しい事も、空を飛べない辛い事も何もかもを分かち合ってくれる彼の存在は、俺にとって掛け替えのない存在へと進化していた。親友。そう断言しても決して語弊は無かった。さらに彼の写真も沢山撮ったりして、幸福が思い出のアルバムを重くして行く。
 掛け替えのない存在――フライト。俺は彼を作業場から丘の頂上に連れて行き、早速完成した人工翼を、傷だけなら完治した彼の翼に取り付ける。ハンググライダーと同様に、合成繊維の翼とアルミ合金の骨組み。さらに接合部には、ずれないようにラバー素材なども用いてみた。
 視界良好。風も穏やか。しっかりと彼に人工翼を固定した俺は、彼の背中を軽快に一度叩き、言った。

「よし、フライト。今日が生まれ変わったお前の初フライトだ!」

 これできっと彼はまた大空に飛び上がってくれる筈。「ガウッ!」と彼が元気よく返事をしてくれたその時、俺はそう信じていた。だが、現実はそう甘くなかった。
 利口な彼は取り付けたそれを直ぐに翼と理解し、俺の思惑通り彼は羽ばたきを始める。軽さ重視で極力細くした合金の骨組みが撓り、合成繊維の翼膜が風を受ける……筈だった。しかし、羽ばたいて彼の体が持ち上がったその瞬間、俺は目を疑った。丹精込めて作り上げた人工翼は無残にも、合金の骨組みが悲鳴を上げて圧し折れたのだ。
 翼の崩壊と共に彼は落下し、叩き付けられて斜面を転がっていく。そう高さはなかったので、彼は少し痛そうにしていたものの怪我は無い様子。けれど、その光景は俺の心に深い傷を刻み込んでいた。

「フ、フライト!」

 俺は落下した彼に駆け寄る。見た限り、落下の原因は強度不足と重さらしい。俺の作った右翼から緑の大地に落下した彼は直ぐに起き上がると、何が起きたのかと首を左右に動かし、目を泳がせる。転びそうになりながらも彼の元に辿り着いた俺は、彼に手を当ててぶつけた箇所を摩ってやる。いくらボーマンダとは言え、痛かっただろう。俺は彼に何度も謝りながら、壊れた翼を回収し、落ち着きを取り戻した彼と共に重い足取りで作業場に戻った。
 その後、俺は彼が飛ぶ事が出来ず、翼が呆気なく崩壊してしまった原因を探った。そして分かったのは、読みの通りで強度不足と重すぎる事が原因だと言う事。ならば強度を増せば良いだろう。……と考えたいものだが、強度を増せば比例して重さも増して左右のバランスが悪くなって飛べなくなる。詰まる所、強度を増しつつ重さを軽くしなければいけないと言う、一種のジレンマが俺の前に立ちはだかったのだった。
 けれど、こんな所で挫ける訳にはいかない。失敗は成功の元。俺はその言葉を信じ、今回の失敗を分析して、また新しい人工翼を作る決心を固めた。机上に広がる設計図に面と向かい、頭を抱えていた俺の背中をふと彼が鼻先で撫でてくれる。
 驚いて俺が振り返ると、そこには心配そうに俺を見てくる彼が居て、その向こうにある壁に掛けてあった小さな鏡には、疲れに歪んだ俺の表情が映っていた。そうか、この萎れた草のような顔を見て、彼はきっと俺を心配してくれたのだろう。俺は笑顔を作ると椅子から立ち上がり、彼の頭に手を当てる。

「気を遣わせちまって悪いな……けど、ありがとな。今度は必ずお前を飛ばしてやるから」

 俺は彼にそう語り掛けた。いや、もしかしたらその言葉は、振り出しに戻った自分への言葉なのかもしれない。
 失敗したその日を境に、俺は強度を高めつつ、どうすれば軽量化出来るかを模索する、出口の見えないトンネルのような日々に入り込んだ。一度書いた設計図を基本に、定規を片手にペンを走らせる。新しい構図を考えては、重量などを計算で導きだし、それが違えば、描いた設計図は紙くずと化す。
 一時は、親友である彼の幸せそうな表情に、このままでも良いのではないだろうか……と、挫折しそうになったが、時折空を仰ぐ彼が見せる悲しげな瞳を目にする度に、俺は決意を改めて固めると頭を捻った。
 軽量化と強度の向上と言うジレンマの打開策を暗中模索する日々が続き、季節は廻って、いつの間にか春も終わりに近付いていた。その時俺は、設計を変更する事により答えを見つけ出そうと奮闘していたが、何気ない事が俺にヒントを与えてくれた。
 金属やら何やらを加工する町工場である俺の職場にて、同僚と上司の会話の一説が、仕事中にも拘らず人工翼の事を考えていた俺の耳に響く。

「おい、それじゃ駄目だ。いいか? 変える時は先ずその根底から見直すんだ。基本が正しいとは限らんぞ。ほら、分かったら作り直してこい」

「は、はい!」

 それは同僚の作った部品を作り直すように命じた上司の言葉。根底から見直せ。その言葉によって俺は閃いたのだった。

(そ、そうか……! 答えはそこにあったんだ)

 上司の言葉を切欠に、頭に閃きが迸った俺は作業の手を止め、一人顔を明るくしていた。これなら行ける。まだ計算などした訳では無かったが、浮かんだ案に俺は確信と希望を抱いていた。その直後、上司にサボるなと叱られたのは言うまでもないが……。
 仕事を終わらせた俺は、残業をなんとか逃れて真っ先に自宅の作業場に戻った。彼が待つそこの扉を乱暴に開け、俺は夕食も忘れて汚れた机に素早く腰掛ける。そんな俺の姿に、作業場に身を置く彼も少しばかり驚いていたようだが、俺は彼の眼差しを背中に受けながら机に向かった。
 そう、根本から見直すのだ。今までは形状の変更により答えを探していたが、俺は着眼点をずらした。根本――すなわち素材から見直す事にしたのだ。今まではハングライダーでも一般的に使用される合金を素材として利用していたが、そこを変えるのだ。軽量化と強度の向上と言うジレンマを解決に導くにはそれしかないと俺は直感的に確信していた。目を付けた素材。それは炭素繊維と呼ばれる物だ。
 炭素繊維と言うと堅苦しいが、カーボンファイバーと言えば聞いた事もあるだろう。その素材は飛行機の翼などにも使われ、合金に比べると大分軽く、それなのに強度は合金以上。正に素材としては理想だった。全く、何故今まで気が付かなかったのだろうか……。
 解決の糸口は見つかったとして、問題もある。先ず、調達コストが高い事と加工が難しい事だ。立ちはだかるその壁は決して低くないが、それは彼の、そして自分の為にも乗り越えなければならない試練だった。
 設計図と格闘していた俺は、息抜きに両手を天井に向けて伸ばしながら振り返り、彼を見る。彼は何時ものように蹲りながら安らかな表情で寝息を立てており、やはりその姿はボーマンダのイメージとはかけ離れた、純粋無垢な物だった。言うならば癒し系だ。色々な意味で、彼には俺も世話になっているな。
 眠っている彼の頭を俺はそっと撫で、布団を一枚だけ優しく掛けてやる。気持ちとしては、まだ設計図の制作を続けたかったが、突如口から大きな欠伸が漏れてしまった。体の悲鳴なのだろうか。漏れ出たその欠伸を発端に、急な眠気に襲われた俺は、今日はこの辺で切り上げる事にした。
 あまり長く作業していては体に毒だし、明日の仕事に支障をきたしてしまう。それを踏まえて部屋を後にした俺は、やる事を済ませてからベッドに横になり、人工翼と彼の事を色々と考えながら、何時しか夢の世界へと誘われていった。










 素材に炭素繊維を使う事を閃いてから数日、設計自体は前とそこまで変わらず、各部の微妙な修正などだけだったので、設計図は既に完成していた。後は時間を見つけて制作するだけなのだが、今日はまだ作業に従事していない。ここ最近は設計図の制作にのめり込み過ぎて、彼との交流が薄くなりがちだった。
 なので、骨休めも兼ねて俺は彼と共に丘の斜面に寝転がっていた。背中を支えてくれる葉の感触がなんとも気持ちよく、肌を掠める風はいつも心地よい。視界には人間の作り出した建造物の一つも入らず、どこまでも青く美しい空が広がっている。正に癒しの一時。形を変えながら流れて行く雲を見上げていると、つい時間を忘れてしまう。
 昔から空に憧れていた俺は、同じく昔から空に憧れていたであろう彼の前足に触れながら、二人でずっと空を見上げ続けていた。だが、その時だった。

「うむ、通報の通りだな」

 唐突に丘の上から呟くような男性の声が聞こえる。驚いて俺は仰向けの状態から体を回転させて起き上がると、丘の上に目を向けた。そこには猟銃を担いだ、見るからに猟師と言った姿の中年男性が腕を組んで立っていた。
 不味い……。俺はその時そう思った。ポケモントレーナーのライセンスなど持っていない俺がボーマンダを違法に飼育している事が他人に見られてしまったのだ。バレる筈などない。そう確信していたが、その確信は今正に崩壊した。

「え~と……そ、その……これには色々理由がありまして」

 俺は慌てていた。不安そうな表情を浮かべる彼に片手を当てながら、斜面に立った俺は言い訳の言葉も見つからず、ただ慌てふためく事しか出来ない。そんな俺とフライトを丘の上から見下ろしながら、威厳のある顔つきの男性は淡々と言った。

「俺は地元猟友会の者だ。ここをたまたま通った住民から、危険なボーマンダが居ると通報があってな。あんた、第一級、及び特級のライセンスは持ってるか?」

「…………」

 言葉が出ない。資金的にも知識的にも、ライセンスの取得が出来なかった俺は、今まで彼を違法で飼育していた。この屈強な猟師相手に、誤魔化しなどの茶番は通用しないだろう。俺は彼に手を当てたまま俯き、小さな声で質問に答える。

「ライセンスは……持ってないです……」

「なるほど。つまりは、600族に分類される危険極まりないボーマンダを、あんたは第一級どころか、トレーナーのライセンスすら持たずに飼育していた訳か」

「…………」

 猟師の言葉が俺の胸に突き刺さり、黒鋼色の銃身が威圧するように陽光を淡く反射する。猟師の発言に、俺は一度小さく頷いただけで、返す言葉は浮かんでこなかった。代わりとして脳裏に浮かんでいたのは、もしかしたら今日で彼と別れる事になるかもしれないと言う、恐怖だった。
 猟銃を担いだ猟師の姿に、俺と同じく彼も怯えていた。彼は俺に寄り添ってくると、縮むように首を曲げる。俺の手の位置まで顔を降ろした彼。俺はそれを横目で見ながら、彼の頭に片手を乗せた。

「だ、大丈夫さ……俺が……俺が何とかするから」

 なんとか出来る問題ではないのかもしれない。けれど俺は、彼にそう言った。この言葉が偽りとなる可能性は非常に高く、それがまた彼の心を傷つけるかもしれない。俯いたまま、顔を上げる事が出来ない俺に、再び猟師が話し掛けてくる。

「はぁ……どうもそこのボーマンダは大人しいみてぇだし、今直ぐと言うのも無理があるだろ。だから今回は見逃してやる。が、数日後にまたここに来るから、それまでに決心を固めて、そこのボーマンダを野生に返すんだ。いいな?」

「し、しかし。彼は……フライトは飛べないんです!」

 それが、俺の出せた精一杯の言葉だった。そんな俺を、猟師は丘の上から無言のまま、冷たい瞳で見下ろす。人工翼の設計図は完成しているので、後はそれを制作するだけ。だから……せめて別れるのなら、彼に翼を持たせてからにしたかった。
 空を失った彼への想いが勇気をくれ、俺は一歩踏み出すと猟銃を担いだ猟師に声を張り上げる。

「た、頼みます! もう少しだけ待ってください! 俺は今、彼の翼を作っているんです。せめて……せめてそれが完成するまで待ってくれませんか? 再び空を飛ぶ事はフライトにとって夢なんです!」

 魂の叫び。正にそうだった。俺は言い終えると同時に猟師に向かって頭を深々と下げる。だが、返って来た猟師の言葉は厳しかった。

「甘ったれるな。俺はポケモンを保護する側ではなく排除する側の人間だがな、あんたにはうんざりだ。本当にそこのボーマンダ――フライトの事を想うのなら、翼どうこうより、先ずは努力してライセンスを取得するべきじゃなかったのか? 取得しなければ、いずれ別れの時が訪れるぐらい分かるだろ。
 あんたが知ってて法を犯し続けた故に、あんたは翼を与えるどころか、フライトに別れの辛さを与える事になった。法を犯した代償をポケモンにまで背負わせるんじゃねぇ」

 猟師の方は、猟銃を担いだ背中を俺に向けながらそう言い放つと、乗って来たと思われる白い軽トラックに乗り込む。そして、衰えを知らないような中年の猟師は最後にこう言った。

「……だがまぁ、過ぎた事を気にしてもしょうがねぇ。フライトに翼を持たせてやりたいと……それがフライトの為だと思うのなら、彼を再び空に飛ばせてやれ。それが、せめてもの償いになる筈だ」

 猟師は俺にそう言葉を残して、軽トラックに乗って走り去っていく。この時俺は、何も言わずに俯いたまま、寄り添うフライトに手を当てていたのだった。
 厳しさと隠れた優しさを持つ猟師と出会ってからと言う物、俺は急ピッチで人工翼の制作に打ち込んだ。計算により導き出した、最低の細さに加工した炭素繊維を骨組みとし、そこに柔軟なポリエステルの合成繊維を張る。強度、重量のバランスを整え、形状は極力ボーマンダの翼と同じにした人工翼の第二号。その作成は異様な程、早く進んで行った。
 また、数日後に訪れると言った筈の猟師は、何故か俺の前に姿を現さなかった。けれど、時折白い軽トラックが丘を登っては直ぐに下っていく事があり、それを見て俺は理解した。猟師の方は、見て見ぬ振りをしてくれている。あの方は俺がフライトの人工翼を完成させるのを、きっと待ってくれているのだ。
 猟師の方の情けを無駄にしない為にも、俺は仕事以上に人工翼の制作に労力をつぎ込み、約二週間後の日曜日。新しい人工翼はようやく完成の日を迎えた。急ピッチの制作故に散らかった作業場から俺は外に出ると、丘の中に彼の姿を探した。
 ほぼ常に吹いている穏やかな風が今日も丘の草を揺らしており、草々が奏でる爽やかな音色が響いていた。緑の大地と澄んだ青の空が美しいそこで、彼は今日も空を見上げている。翼が一枚しかないその背中を俺は見詰めながら、彼の名を呼んだ。

「フライト!」

 彼は俺の声に反応し、直ぐに振り向くとこちらに向かって走ってくる。巨体故にその姿は迫力満点。彼を知らない者が見たら、思わず逃げ出してしまうだろう。けれど俺は彼を知っている。そして猛進する彼がちゃんと俺の前で止まってくれる事もまた、俺は知っていた。
 だから俺はその場から動かずに彼を待った。当然の如く彼は俺の前で立ち止まり、犬とは少し違うが、長く強靭な尻尾を左右に振っていた。きっと俺が遊んでくれるとでも思っているのだろう。しかしフライトの期待を裏切って悪いが、今回は違う。なぜなら、今日こそ彼の夢を実現してやれるのだから。そうとは知らず、彼は俺にお凸を差し出している。全く、撫でるのを催促するとは可愛い奴だ。
 親友と言って過言ではない彼の頭を、俺は今回も優しく撫でてやる。撫でられた事で嬉しそうな表情を見せた彼を、俺は汚い作業場の中に誘導した。散らかり放題の作業場の中心で彼を止めた俺は早速、制作した人工翼の二号を彼に装着する。接合部の具合。骨組みの様子。それらを入念に確認しながら、俺は悟っていた。
 そう……彼の夢を叶えてやる事。それは別れの時を意味していた。俺は法を犯した一種の罪人。彼とは別れたくないけれど、これ以上俺に規則を捻じ曲げる事は許されないのだ。彼の様子を気遣いながら、取り付けた翼のチェックをする俺は、何度も彼の温かな肌に触れる。
 掛け替えのない存在である彼と別れなければならない現実。俺はまだそれを受け入れる事が出来ないでいた。いずれこういう時が来るとは分かっていた筈なのに、いざその時が訪れると悲しみが胸を握り締めてくる。
 翼の装着も済み、後は彼が空に――夢に飛び上がるその瞬間を見届ければよいのだが、俺は彼に触れたまま、しばらくその場を動けなかった。夢にまで見た、彼が再び大空に飛び上がるその瞬間。俺は今までそれを目指して努力を重ねてきた筈だ。もっと喜ぶべきではないのか。
 俺はそう自分に問い掛ける事で、別れの悲しみを紛らわそうとする。しかし、幾ら問い掛けても、悲しみを忘れる事は出来なかった。そんな俺を彼は心配してくれた。自然と俯いていた俺の手に、彼はいつものように鼻先をそっと当ててくる。
 過ぎ行く月日の中で、培われた信頼と友情から、優しい性格の彼は俺が落ち込んだりすると、決まってこのように慰めてくれる。普段なら、俺はその優しさに救われていただろう。けれど今は、その優しさが俺にとっての悲しみを一層積み重ねて行く。
 接合部の具合を淡々と確認しながらも、俺は未だ別れを惜しんでいた。ライセンスを取らず、法を犯していた俺が悪いのは承知している。しかし、出来るのならずっと彼と共に居たかった。
 別れの悲しみを引きずりながら、俺は人工翼を取り付けた彼を外に誘導する。踏み出す一歩、それは彼にとっては夢への一歩の筈なのに、俺にとっては別れの一歩。その現実が俺の足取りをどうしても重くする。けれど避けられない現実は受け止めるしかないのだ。
 彼を連れて作業場を出ると、いつの間にか空は雲が多くなっていた。風もどこか湿気を帯びているし、時期に雨が降り出しそうな気配が漂っていた。まぁ、それも良いだろう。雨が降れば、彼に別れの涙を見せなくて済むのだから……。そう、その時俺は別れに耐えられる自信がなかったのだ。

(今日でフライトともお別れか……)

 心の中でそう呟く俺は、雲が広がる空から視線を地に降ろす。するとそこには一台の車――白い軽トラックが停車していた。その運転席には、この前の猟師の姿があった。猟師は窓から車外に手を出しながら座席に寄りかかっており、その視線は俺達に注がれている。また、助手席には猟銃が立て掛けてあった。
 車の中からこちらを見ている猟師に俺は一度頭を下げ、彼を連れて開けた場所に移動する。すると、何を思ったのか猟師は車のドアを開け「よっこらしょ」と、口にしながら緑の大地に足を付けた。そして、猟銃は担いで俺の元に歩いてくる。

「言い難いが、心の準備は出来ているか?」

 猟師は腕を組みながら、俺にそう問い掛けて来た。その返答に俺は無言で頷く。心の準備……彼と別れる準備が出来ているなど、とてもではないが口では言えなかった。口にした途端に、悲しみが増々込み上げてきそうだったのだ。
 どうしても気持ちが沈んでいる俺の横で、彼――フライトは瞳に希望を灯しながら空を見上げている。同時に、今直ぐにでも飛び立ちたい気分なのか、元の翼と俺が取り付けた人工の翼、その両方をゆっくりと動かしていた。
 今日で別れなければならないと知ったら、彼はどんな反応をするだろう。悲しみが心に渦巻く中、俺はふと思った。大空に舞い上がり、自然に帰れることを喜ぶのだろうか。それとも、今の俺のように別れを悲しむのだろうか。
 そんな考えを巡らせながら、じっと横目で彼を見詰めていた俺だったが、猟師がまた話し掛けてくる。

「時間だ。何時までも落ち込んでたってしょうがねぇ。あんたも大人なら、現実を受け止めるんだ。俺もこれ以上見て見ぬふりは出来ない」

「はい……」

 猟師の言葉が心に刺さる中、俺は小さく返事をした。そして、俺は彼の頭を優しく撫でる。これが最後だ。自分にそう言い聞かせながら。
 彼は今日も嬉しそうに目を細める。その柔らかな表情が、別れたくない気持ちを広げるが、俺はそれを無理やりにでも閉じ込めた。彼にとって、今日は別れではない。きっと門出なのだ。もっと喜び、再び大空を舞うその時を祝福するべきだろう。強引に俺はそう思い、彼の首元を何時ものように軽く叩く。

「よ……よし! フライト、今日こそ飛び上がるんだ!」

 俺は軽快にそう言った。湿った風が吹き抜け、上空の雲は白から灰色へと変わっていく。彼がバランスを取れるのか、そして俺の作った翼は彼の羽ばたきに耐えられるのか。悲しみの中に色々と考えを巡らせながら、俺は数歩後退する。
 今正に羽ばたこうとする彼から距離を取った俺は、別れを告げる決心を固めると上を向いている彼を見ながら口を開いた。

「フライト。その……飛び上がったらもうここには戻ってこなくて……良いぞ。お前はお前の世界に帰るんだ。わ、分かったな?」

 言葉を並べる事がこんなに難しいとは……。小さな声で彼に別れを告げた俺だったが、本当はこんな事を言いたく無かった。自然と曇った俺の表情と沈んだその声に、彼も何か違和感を覚えたのだろう。彼は俯く俺の顔を覗き込むように見てきた。
 そんなに見ないでくれ。別れがもっとつらくなるではないか。そう思いつつも、俺は悲しみを抑え込み、偽りの笑顔を作ると彼に再び声を掛ける。

「ほら、何してんだ。早く飛べって。空を飛びたかったんだろ?」

 俺は引きつった作り笑顔で彼に元気よく言いながら再び彼の体を叩く。だが、ポケモンである彼も薄々分かっているのだろう。飛び上がる事が別れの時だと。故に彼はなかなか飛び上がろうとはしない。
 それでも俺は彼に言う「早く飛び上がれ」と。寧ろ俺はそれしか言えなかった。包み隠さず真っ直ぐに別れを告げる事は俺にとっても心の苦痛なのだ。けれど現実に今日別れなければならない。だから俺はそう言い続ける。

「は……早く飛べって。なぁ?」

 何度か言い聞かせた所で、ようやく彼は羽ばたきを始めた。俺が作り上げた翼は前回と同じように撓り、合成繊維の翼膜が風を捉える。その瞬間、彼の体は舞い上がり、今度は翼が壊れる事も無く彼の体は上空に昇って行く。
 結果は大成功。俺が手作業で作り上げた人工翼によって、彼は失われた飛行能力を取り戻したのだ。さすがにこの時ばかりは彼も嬉しかったようで、彼は曇り空を背に飛びまわりながら、嬉しそうに口から炎まで吐いていた。
 ……良かった。俺はしばらく飛び回る彼を見上げながらそう思っていた。だが、目的を達成した感覚と嬉しさが治まった頃、途端に悲しみが込み上げてくる。人工翼が完成を迎えた今、彼とは本当に別れなければならない。もう「フライト!」と、彼の名を呼ぶことも無ければ、彼の頭を撫でる事もないのだ。
 これでもう、彼とは一生会わないのかもしれない。自然とそんな考えが浮かび、俺は飛び回る彼の姿を瞳に焼付けようと、ずっと見つめ続けた。そんな俺の横に居た猟師の方がふと声を掛けてくる。

「別れは辛いかもしれないが、潮時だ。最後に彼に一声、別れの言葉でも掛けてやれ」

「……いや、出来ないです」

「ん?」

「俺……別れの言葉を言ったら、悲しみに耐えられそうにないんです」

 握り締めた拳を小刻みに震わせながら、そして震えた声で俺は猟師に言葉を返す。そんな俺に対して、猟師は何も言わず、俺と同じく上空を舞うフライトを見上げていたのだった。
 悲しみに耐え、流れ出ようとする涙を抑えながら、俺は鉛色の空を飛び回るフライトを眺めていたが、しばらく飛んでいた彼が高度を下げてくる。それも俺の居るこの場所に向かって。
 しかし、彼がまたここに……俺の元に戻ってくる事は許されないのだ。どう言葉を掛けて良いのかも、さらに別れなければならない彼にどう対応すればよいのかも、俺は分からず、ただ悲しみと言うものだけが胸を締める。
 何も出来ず、何も言えない俺の横で猟師はしぶしぶと言った感じに担いでいた猟銃を手に持ち、フライトの居ない方角である真上に黒鋼の銃身を向けた。

「あんたの口で別れを告げられないんじゃ、可哀相だがこうするしかない。銃声で威嚇してフライトを追い払う」

 どこか重い声で猟師はそう言った。一方の俺は、何も出来ずにただ目を閉じた。降下してくるフライト、猟師の言葉、空に聳える銃身。その全てが俺の心に悲しみの傷を付けて来るからだ。そう、俺は現実から目を背けていた。
 目を閉じて溢れようとする涙を堪える俺の耳に、猟師が猟銃に一発弾を込める音が潜り込んでくる。そして続いて引き金に指を掛ける微かな音も……。だが、その時俺は思った。彼を違法で飼育していたのは自分。そう、悪いのは全て自分なのだ。その現実から目を逸らし、銃声と言う本能に潜む恐怖を駆り立てる音によって、フライトの心に傷を付けて追い払うその役目を、何の罪も背負っていない猟師に任せるのは失礼だろう。悪かったのは自分、だからけじめは自分で着ける。俺は不意にそう決心したのだった。

「猟師さん……待ってください。銃声でフライトを追い掃うその役目……俺がやります。悪いのは全て俺ですので……」

「……そうか。よく言った。弾は込めてある。後は引き金を引くだけだ」

 俯いた顔を持ち上げられぬまま、俺は猟師の方から長く重い猟銃を借り、なんとか涙を押さえながら同時に目を開き、銃身を高々と天に向け、近付いてくるフライトの姿を再び目に映す。

(フライト、ごめん。これで……これで……お前とはお別れだ)

 片手で銃を握り締め、俺は引き金に掛けた指に力を入れた。瞬間、強烈な発砲音が轟き、腕には大きな衝撃が伝わってくる。猟銃を撃ったその時、俺は全てを失った気持ちだった。
 涙こそ何とか堪えていたが、銃声に驚いたフライトは俺の十数メートル先の上空で止まった。自身の翼と人工翼の両方を羽ばたかせながらその場でホバリングする彼は、見開いていた目をそっと俺に向けてくる。そんな彼と目が合った時、彼の瞳は空を見上げていたあの時のように悲しげだった。
 結局、俺は彼に空を与えたのではなく、悲しみを与えただけだったのかもしれない。悲愴と後悔が心に渦巻き、最後に俺はフライトにじっと目を合わせる。十秒以上はきっと目を合わせていただろう。まるで互いの姿を瞳に焼付けるように、見合っていた俺とフライトだが、ポケモンでありながら別れの時を悟った彼は不意に体の向きを変え、過ごした日々の記憶を背負った重い背中を俺に向けた。

「フラ……」

 思わずフライトを呼び止めようとする声が喉を駆け上がるが、俺はそれを押し殺す。ここで彼を呼んだら、きっと彼は俺の元に戻ってくるだろう。だがそれは許されない。決して許されないのだ。悲しそうに去っていくフライトの背中を、涙を堪えながらずっと俺は見詰め続けていたのだった。「ごめん」と、何度も心の中で彼に謝りながら……。











「せ、先輩にそんな過去があったなんて……なんか意外です」

「まぁ……な」

 時は戻って現在、日陰にあるベンチに座りながら、フライトとの日々を俺は後輩に語っていた。爽やかな日和の筈が、大分重くなってしまった気がするが、後輩は俺の過去が言葉の通り意外だったようで、少し驚いたような顔をしていた。
 そして、後輩はベンチに座ったまま曲げた膝の上に肘を置き、少し前屈みになってハンググライダーを見詰めた後、徐に口を開いた。

「それが先輩とフライトとの別れだったんですね」

「いや、実は物語はこれで終わりじゃなかったんだ」

「えぇ!?」

 俺が切り返したその言葉に、後輩は度胆を抜かれたかのように派手に驚いた。その様は見ているこちらとしては少し面白かったが、それはさて置き、たった今自らの口で明かしたように、俺とフライトの物語はこれで終わりでは無かったのだ。
 さてと、派手なリアクションも治まった所で、後輩に物語の結末を話すとしよう。俺は、長らく心の奥に封じ込めていた、別れたその後の記憶の鍵を開けたのだった……。










 悲しみを背負いながら去って行ったフライトと別れて十数日。別れて以降は一度も彼の姿は見ていなかった上、どうしても沈んだ気持ちを立ち直らせる事が出来ず、俺は仕事も普段より捗らない日々をただ歩み、兼ねてからの夢であったハンググライダー制作にも全く手を付けていない状態だった。家に帰っては後悔の念に押し潰されそうになり、それはまるで抜け殻のような日々だった。
 そんなある日、俺は職場でとある話を耳にする。それは先輩と昼食に安いコンビニ弁当を食べている時に聞いた話だった。

「なぁ、知ってるか? 昨日町の子供が近くの森で行方不明になったらしいぜ。立ち入りが禁止されてる森に入った子供は三人で、内戻ってきたのは二人。話によればどうも後一人はボーマンダって言う、マジでやべぇ超凶悪かつ無情で極悪非道なポケモンに浚われたらしく、生存は絶望的だってよ。
 猟友会の人達が捜索に向かうらしいが、全く物騒な世の中だよな~。それも町外れの森で起きた事件なんだから、他人事じゃねぇ。俺も子供が居るから心配ったらありゃしねぇぜ。……お前はどう思う?」

 ボーマンダ。その単語が胸に突き刺さるが、俺は極力悲しみを表に出さないように先輩の問い掛けに答える。

「個人的には、その……ポケモンを凶悪と決めつけるのはどうかと思います。難しいでしょうけど、きっと接し方を変えれば、野生のポケモンとも共存出来るんじゃないでしょうか?」

「……なぁライト。お前頭でも打ったか熱でもあるのか? 前はポケモンは危険な生き物とか言ってたのに」

 先輩の言葉は意外だった。だがよくよく考えてみれば先輩の言う通りだ。俺がボーマンダ――フライトと共に過ごしていた事など、彼は知らないのだから。
 しかし、先輩が話してくれたその話が俺は気がかりで仕方が無かった。絶対にありえない。そうは信じてはいるものの、悲しみが俺のような人間に対する怒りへと変わってしまったフライトの犯行という可能性も捨てきれなかったのだ。俺は表情こそ変えずに先輩と会話を続けながらも、内心では彼の筈はないと自分に言い聞かせる。見掛けとは裏腹に優しい性格の彼が先輩の話すような凶行に走るなど、俺には考えられなかった。
 そんな中、珍しく今日は仕事が早めに終わり、まだ明るい内に帰路に就く事が出来た。思い起こせば、フライトと初めて出会ったあの日も今日のように仕事が早く終わり、日が沈む前に帰路についていた。ふとした事で、忘れる事の出来ないフライトとの日々を脳裏に浮かべながら俺は車を走らせる。
 フロントガラス越しに見えるのは澄みきった青空で、燦々と注ぐ太陽の光は少々眩しい。流れていく町の景色も、時期に見えてきた俺が住む小高い丘も、不思議と彼と出会ったあの日と似ているように俺は感じていた。

「丘の斜面にまたフライトが居てくれたりしないものか……」

 ハンドルを握りながら俺は車内で一人そう呟く。しばらく車を走らせ、何時のように坂を登って自宅付近に辿り着いた俺は家の手前で車を止めると、エンジンを切ってドアを開けた。途端に丘を駆け上がる爽やかな風が吹き抜け、背丈の低い草の大合唱が耳に飛び込んでくる。
 緑に覆われたこの大地と何処までも青い空。今日とよく似たあの日、傷だらけだった彼は斜面に居たのだ。そう遠くない過去の記憶に誘われるように、俺はなだらかな斜面の方にゆっくりと歩みを進める。風が走る中、空を見上げれば純白の雲が流れていて、つくづく彼と出会ったあの日の空に似ていた。
 そして俺は仰いでいた空から視線を斜面に映す。またこの斜面に彼が居ないだろうかと言う、叶わぬ小さな願望を胸に。

「!?」

 町が広がる方向に向かって下る斜面に目を降ろした時、俺は一瞬自分の目を疑った。視界に飛び込んできたその光景が、俺にとっては信じられなかった。そう――緑に覆われた斜面、そこには出会ったあの日と同じように、彼の姿があったのだ。
 距離はあったが、それが彼……すなわちフライトだと言うのは瞬時に判断が着いた。草に埋もれる体からは、真紅の大翼が一枚と正真正銘俺が作った人工翼があったのだから。夢なのかもしれない。一瞬だがそう思ってしまうも、俺は見えない何かに引っ張られたかの如く丘を下った。
 嬉しかった。とても嬉しかった。もう二度と会う事が出来ないと思っていた彼との再会。共に暮らす事は出来なくとも、このようにして再び彼の姿を瞳に映せた事が、なにより俺の心を躍らせる。俺は丘を駆け下りながら大きく口を開き、彼の名を呼んだ。

「フライトー!」

 この名を呼べば、彼は以前のように直ぐ反応して草の中から首を持ち上げてくれる筈。そう確信していたが、どうも首を上げる気配がない。もう自分の名前を忘れてしまったのか。それともふざけて俺をからかっているのか。そんな事を頭に巡らせながら、自然と笑顔を浮かべていた俺は一直線に彼の元に急いだのだが、近付くに連れてはっきりとしてくる彼の姿を目にした時、俺の足は鉄のように重くなってしまった。

「……!!」

 彼の姿を目にしたその瞬間、俺は声が喉を上がらなかった。彼の……フライトの姿は変わり果てていたのだ。眼前の現実を否定したくなる程に。
 青い体や真紅の翼には幾つもの傷があり、それもただの傷ではない。彼を苦しめるそれはいわゆる弾痕だった。また、中には切り傷や噛み傷も混ざっている。見た感じ数発から十数発は撃ち込まれたのだろうか、至る所から血が体に沿って流れ、彼の顔は苦痛で歪んでいた。

「フ、フライト!」

 状況を飲み込み、声を出さずにはいられなかった俺は歩みを早める。そして転ばないように注意しながらも全力で彼の元まで駆け寄ると、血の付いた彼の顔に手を当てた。体中の傷は見るからに酷く、もう返事も出来ない程に彼は衰弱している。
 それでも、彼は草に顔を埋めたまま俺に綺麗な瞳を合わせてきた。ふと傷だらけの彼の後方に目を向ければ、落下した跡が斜面に残っている。そこから十数メートルは懸命に地を這ってここまで斜面を登って来たのだろう。体から流れた血の跡が、彼が這った道筋として緑の上に残っていた。
 俺は苦しむ彼の頭をそっと撫で、とにかく今は痛みを和らげてやろうと思った。これほどの重傷では俺が出来る処置など殆ど無かったのだ。

「フライト、今ポケモンセンターに連絡するから辛抱するんだぞ!」

 死期が近付いている事を暗示するような弱々しい眼差しで俺を見てくるフライトにそう言葉を掛け、俺はポケットから携帯電話を取り出す。だがその時、俺はテンキーに並んだ番号を押す事を躊躇ってしまった。
 考えてみれば、フライトを苦しめる数々の弾痕。それはおそらく猟銃から放たれた物だろう。そうだと仮定すると……つまりは先輩の話していた事件の犯人がフライトだったと言う事になる。子供を浚い、それを取り返すべく森に入った猟友会の人達と戦って、銃弾の雨を浴びたと言う可能性が非常に高いのだ。
 このままポケモンセンターに電話をしたところで、果たしてその職員は彼を助けるだろうか。下手すればポケモンセンターの職員から猟友会に通報されてしまう。そんな事から、俺は電話するのを躊躇ってしまっていた。
 一体どうすればよいのだろうか。片膝をついて、フライトの傷だらけの頭や背中を摩りながら俺は悩んだ。そして、同時にフライトとの本当の別れが近いのかもしれないと言う考えが、俺の心を締め付ける。
 悩み、悲しむ俺に声を出す事すらままないフライトは、残った力を絞って俺の手に何時ものように鼻先を当ててくる。それは俺が悩んでいたりした時に、彼が決まって行った励ましの行動。多量の弾丸をその身に受け、激痛が走っているであろうにも拘らず、彼は俺を気遣ってくれたのだ。

「おいフライト、無理に動くなって」

 この傷で動けばさらなる出血を招き、本当に命を失いかねない。鼻先を優しく手に当ててくるフライトの頭を俺はそっと草の上に寝かせ、上着を脱ぐとそれを傷口の一つに当てる。少しでも出血を防ぐ事。俺に出来る事はその程度でしかなかった。
 だが、自分でも無理に動く事は良くないと理解出来ているだろうにも拘らず、彼は最後の力を振り絞るように長い首を持ち上げる。当然動けば傷口から流れる血の量は増え、死が近寄ってくる。とにかく今は安静にさせようと、俺は慌ててフライトに言った。

「お、おい。動くな。俺がなんとかするから」

 そう言って俺はフライトを再び寝かせようと彼に手を掛けるが、彼はそれを頑なに拒み、震えながら俺の胸にそっと顔を当てて幸せそうな表情を見せた。

「フライト……」

 彼が何を望んでここに戻って来たのか。彼の行動で俺はそれが分かった気がした。彼は既に自分の死を悟り、痛みを堪えながらこの丘に舞い戻り……最後にもう一度俺に会いたかったのだろう。そして彼は町を見下ろす小高い丘、少しでも空に近いここを死に場所に選んだのだ。
 胸に顔を当ててくるそんな彼を俺は抱き締め、とにかく俺は彼の頭を撫でてやった。すると彼は苦痛が残っている筈だろうに、嬉しそうに目を細めて弱々しく尻尾まで左右に動かす。
 彼は喜んでいた。彼は幸せそうだった。そして彼は悲しそうでもあった。永久の別れ。その前に彼は俺に会いに来てくれたのだ。彼の俺に対する気持ち。夢を分かち合い、親友として親しんだ彼の気持ちは俺も心から嬉しかった。
 しかし……しかし、死期は刻一刻と迫って来ている。抱き締める顔から伝わる普段は温かい筈の肌も、今はどことなく冷たく、衰弱している事が手に取るように分かる。それでも彼は俺の胸に顔を預けながら幸せそうにしていた。
 助かる見込みはもう残されていなかった。今の俺に出来る事はとにかく彼を安心させてやる事なのかもしれない。

「フライト……フライト……フライト……」

 俺は何度も何度も彼の名を優しく呼ぶ。それに応えるように、彼は何度も鼻先を擦り合わせてきた。風が草々を靡かせる音色に包まれながら、俺は最後までフライトの温もり感じ、彼の気持ちに応えようと撫で続ける。それがきっと彼にとっての幸福であり、最後の望みなのだから。
 顔を胸に当ててくる彼の息が段々と弱くなってくる。肌で感じる命の灯火が燃え尽きようとする感触。涙を堪えながら俺はとにかく彼を撫で続けた。撫でる度に、それに応えるように動いた尻尾も時期に動かなくなり、俺の胸を摩る彼の鼻先の力も弱まってきた。
 もう長くはない。否定したい彼の死と言う現実が近付き、けれど苦痛の一つも見せずに幸せそうな表情を浮かばせる彼の姿を、俺は目に焼き付けていた。叶わないと分かっていながらも、死ぬな、死なないでくれ、と心の奥で繰り返して。
 別れの時は……それから間も無く訪れた。
 そして彼――フライトはそれを分かっていた。呼吸の一回一回が弱くなり、その中で彼は幸せそうに降ろしていたその瞼を最後にもう一度持ち上げると、どこまでも透明で、まるで雲一つない青空のように澄んだ純粋な瞳で俺を見上げる。
 涙で潤んだ視界でフライトの頭を抱き締めながら、俺の目から涙が一滴零れた。その一滴は俺を見上げてくる彼の額で弾け飛ぶ。それに続くように一滴、また一滴とフライトの額に俺の涙は零れ落ちていく。
 また、ポケモンである彼もその純粋な瞳に涙を蓄えていた。初めて目にしたポケモンの涙。ポケモンも人間と同じように、悲しい時や辛い時に涙を流すのだった。とにかく何時ものように頭を撫で続ける俺の胸に、彼はこれで最後とでも言うかのように鼻先を再び当ててくる。優しく、優しく……。
 その状態のまま、やがて彼はゆっくりと瞼を降ろした。同時に、彼の目に溜まっていた涙が頬を伝って流れ出し、それは緑に覆われた地面に落ちる。彼が流した一滴の涙は、葉先から落ちた朝露のように、生えたばかりの小さな草の上で弾け飛んだ。
 そしてそれを境に、鼻先を俺の胸に当てていたフライトから力が抜けた。

「フ……フライト……」

 逞しくもあり、優しくもあった彼の顔は俺に抱えられながらぐったりと動かなくなり、呼吸の感覚も無くなっている。もう一度彼の名を呼んでも、彼の頭を撫でても、彼はもう俺に応えてはくれなかった。瀕死の重傷を負いながら、最後の力を振り絞ってまで俺に会いに来てくれた彼は、今この瞬間、人生の幕を降ろしたのだった。
 己が選んだ人生の道に、満足したかのように幸せな表情を俺に残して……。











「それで、フライトが旅立った直後に、俺の元に尋ねてきた例の猟師から聞いたんだけど、ボーマンダに浚われた子供を救出するべく、猟友会が捜索兼討伐の名目で森に入ってな。そこで噛み傷や切り傷で既にボロボロだったフライトに遭遇したらしく、彼は背中に浚われた子供を乗せていたらしいんだ。
で、フライトは猟師達を見ると子供をそっと下して飛び立ったんだが、討伐が命じられていた猟師達はフライトを犯人だと思い込み、背中を向けて飛び去る彼に向かって一斉に引き金を引いたって言うんだ。けど、捜索隊とは関係の無い別の猟師の目撃情報によると、翼に古傷があるボーマンダから、片方の翼が明らかに人工的に作られたボーマンダが子供を助け出す一部始終を見ていたらしく、フライトは俺達人間に味方して真犯人のボーマンダから子供を助け出したにも拘らず、いわゆる勘違いによって銃撃を受けたらしいんだ。猟師の男性も、悔しそうに俺が捜索隊に同行していれば……って、言ってたっけな」

「そんな……そんなの理不尽じゃないですか……先輩はそれで納得出来たんですか?」

 普段は何かと陽気な後輩も物語の真相を聞くや否や、不満を漏らすようにそう言葉を吐き出した。おそらく、俺と同じくポケモンの保護を仕事としている以上、この結末には納得が出来なかったのだろう。

「まぁ、もう過ぎた昔話なんだから仕方がないさ。それに猟友会の人達だって悪気があった訳じゃないだろうしな。けど、今でも後悔する事はあるかな。……出来たのならあの時、あんな理不尽な出来事を防ぎたかったって」

 後輩に俺はそう答えると、日陰にあるベンチに後輩と腰掛けたまま、一度前屈みになって丘の頂上に置かれた自作のハンググライダーに目を向けた。そう――彼のように青いボディと、彼のように赤い翼を持つハンググライダーに。
 しばらくは風が草を揺らして騒ぎ立てるその音色だけが響いていたが、俺の隣でふと後輩が口を開く。

「先輩。もしかして先輩はその出来事が切欠でこの仕事に?」

 俺よりもまだ若いくせに、なにかと鋭い後輩だな。彼の言う通り、フライトが大空を飛び越えてその上にまで昇って行った後、俺は部品加工の会社を辞職し、二度と俺が経験したような悲しい過ちが起こらないよう、ポケモンの保護活動団体に勤める事にしたのだった。全ては……親友であったフライトの死を無駄にしない為に。

「まぁ……そうだな」

 後輩が投げ掛けてきた一つの些細な質問に、俺は答えると日陰のベンチから立ち上がる。

「さてと、昔話も終わった事だ。そろそろ初飛行と行くか!」

 話の内容が少々重かっただけに、俺はそれを振り払うかのように張りを付けた声で後輩に言った。それを聞いた後輩も直ぐに立ち上がり、俺と後輩は丘の頂上でその時を待つハンググライダーの元へ足を運んでいく。
 出会いと別れ。幸福と悲愴。人とポケモンの間にある確かな絆。様々な事を俺に教えてくれたフライトと言う掛け替えの無かった存在。彼は今も、この大空の"上"で自由に飛び回っているのだろうか。いや、きっとそうに違いない。彼もまた、俺と同じく空を飛ぶ事が夢だったのだから。
 ――さあフライト。今から一緒に飛ぼうではないか。俺はお前と違ってずっと低い所しか飛べないが、等号で繋がったお前との夢を追い掛けて、ようやく叶える時が来た。飛んでいるその時は……いや、何時だってお前とは一緒だろ? 
 姿は無くとも、この晴れ渡った空の上を飛ぶ彼に俺はそう問い掛けて、初飛行の準備に取り掛かる。各所を再度入念にチェックし、俺は自分の体をハーネスでハンググライダーと繋ぎ合わせた。最後にゴーグルを降ろして準備は完了。後はなだらかな斜面を駆け下って飛び上がるだけだ。
 いざ駆け出そうとしたその時、少し離れた場所に居た後輩が俺に向かって話し掛けて来る。

「あ、先輩。ところで、この青いボディと赤い翼のハンググライダーの名前はなんですか?」

 全く、後輩の奴も分かり切った質問を。このハンググライダーの名前? そんな物決まっているだろう。俺は後ろに居る後輩の方に一度振り返り、軽快に答えた。

「"フライト"さ!」









END










あとがき
この作品は冒頭の通り、元々は第三回仮面小説大会出場用に書き始めたものでした。しかし、思った以上に長くなって投稿が間に合いそうになかったと言う理由と、どう見ても作者がバレバレだと言う理由、並み居る強豪作者様方の想いが詰まった作品と競える自信が無かったなどで、結局参加を躊躇ってしまい、今回の大会には参加せずに書き掛けの状態でお蔵入りとなってしまっておりました。
また、ここ最近は重度のスランプで現在執筆中の作品が進まず、気分転換とリハビリを兼ねてこの作品を完結させてみました。
一応、テーマとしては人間とポケモンの間における絆を掲げ、物語的には切ない感じの内容を目標に執筆しておりましたが、後味は割とスッキリした感じを意識してみました。後、実は投稿直前までフライトの事を彼と呼ぶかあいつと呼ぶかと言う些細な事に悩んでいたり……(笑)。
なにはともあれ、この物語を楽しんでくださったのでしたら、作者としましては光栄な限りでございます。また、私としては初の人間が登場する作品だったりします。
とにもかくにも、この度は貴重なお時間を割いてまで作品を読んでくださり誠にありがとうございました。お手数をお掛け致しますが、もしよろしければ感想などを頂けたらと思います。
では、何時になるかは分かりませんが、またいつかお会い致しましょう。


ノベルチェッカーによる分析結果
【作品名】 あの日の空
【原稿用紙(20×20行)】 98.9(枚)
【総文字数】 31312(字)
【行数】 583(行)
【台詞:地の文】 10:89(%)|3377:27935(字)
【漢字:かな:カナ:他】 38:55:4:1(%)|11958:17477:1539:338(字)





トップページ   編集 凍結 差分 バックアップ ファイル添付 複製 名前変更 再読み込み   新規作成 ページ一覧 ページ検索 最近更新されたページ   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2012-10-28 (日) 00:00:00
This site is protected by reCAPTCHA and the Google Privacy Policy and Terms of Service apply.