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Luna-5 の変更点


何事も無く朝を迎え、何事も無く出発。
ハクタイシティを離れ、何故か一般的に利用される交通路では無く微妙に外れた場所をナツハとナッヘと僕は進んだ。
そこで一つ考えてみて欲しい、一日中延々と歩き続ける事の精神的肉体的苦痛を。そしてそれについて行く事の辛さを。
広大な大地を旅して街を巡ると言えば聞こえがいいが、移動手段がほぼ徒歩のみとなると話は別だと思う。
大体トレーナーは徒歩か自転車で旅をする物とは言っても、一歩道を外れればほぼ純粋な自然、それこそ肌を切るススキや襲いかかる野ヒル、
野生ポケモンの群れに未舗装で荒い地面、人間が長期間晒されるのにはあまり向いていない環境が溢れているのだから、そんな場所を歩くなよ、と

。
ナツハの考えている事は僕には理解できない。ナッヘも理解できないらしいので少し安心した。
ボールの中に居てもする事が無い為に外に出て、木の実や香草を集めるというちょっとしたイベントがあったけど、
それ以外は殆どただ歩くかボールの中に居るかのニ択。特にナツハは起きてから休憩を挟んだとはいえ半日は歩きっぱなしの計算になる。
我が主人ながら恐ろしい程の持久力だ。因みに香草、所謂ハーブ類は大抵高温多湿に弱く、逆に耐寒性は高い為、
何処の人間が持ち込んだのかは分からないが、荒地にも適した一部の種類は此処シンオウ地方でも結構一般的だ。

例えば今ナツハの鞄の中には数種類の木の実と一緒に小分けされたそういう物が突っ込まれている。
アキレア――軽い殺菌効果と止血効果を持ち食用にも耐える多年草――やフェンネル、
ランドクレス――口臭を防ぐ他にも食欲を引き起こす強い辛味が特徴の一年草――とか、そういうのが。
ただ人間がつけた名前は互いに区別するのに非常に便利なんだけど、もう少し簡潔に済ませる事は出来なかったのだろうか。
うん、どうでもいいか。

しかもそういうものを集める理由が食糧にするためってのがナツハのアレな部分をよく表しているんじゃないかなぁと。
普通そんな事をするくらいなら固形食で済ますんじゃないの?そう思って何処まで貧乏なのかと小一時間ほど問い詰めたけど時間の無駄だった。
ああ見えて非常に高度な話術を使ってくるからすぐに話を逸らされてうやむやにされるのだ、というか未だ彼女の性格が掴めない。
例えば今も丁度そうやって、質問の途中でいきなり「そろそろテントを張ろう」的な方向に話を誘導されて、
アルミとスチールで造られた無骨で小さな机と椅子、それなりの大きさを持ったテントの設営作業に巻き込まれた所だ。
太い張り縄と巨大なペグ……これ登山用のテントじゃないんだろうかとか思いつつも地面にペグを打ち込み終えて一息ついていると、
何やらナツハが鍋と――いや、鍋だけを用意してちょっとちょっと、と僕を手招きしてくる。

「ノハル、ちょっと氷造ってくれるかな」
「いいけど、何に使うのさ」
「料理」

……なんだかなぁ。
誰も居ない虚空に手を伸ばす。
イメージは静かな湖に広がる波紋の逆回転。氷タイプでも無い以上口膣からの吹雪の放射は僕には不可能。
こういった特殊系統の技は外部収束がメインとなるのはノーマルタイプの常であり、例外は破壊光線ぐらいだろう。
口から冷凍ビームや火炎放射って、冷静に見てみると微妙に格好悪いのではと思ってしまうのは自分が出来ない事だからか。
まぁ戦闘用に使うならまだしも、ごく少量の氷を時間をかけて造り出す程度なら負担は全く無い。
ので、別に僕にとってはどうでもいいのだが、何か激しく間違っている気がする。
いやいや、よく考えろ、バクフーンで暖をとったりピジョットで空を飛ぶ事と本質的には何も変わらない。
だから別にミミロップの出力調整した吹雪を使って水を得ても何の問題も無いはず。うん。

空に向けられた掌の上に輝く氷晶は、周囲の水蒸気を吸い取って次第に成長する。
きしきしと音を立てて大きくなる多面体の重みで多少腕が疲れる程度まで膨張したそれを手渡すと、ナツハはそれをそのまま鍋に入れる。
乾いた響きを立てて鍋に"嵌る"氷。

「…………大きすぎたかな」
「…………大きすぎますね」
「……まぁ、解凍する間に溶けてちょうどよくなると思うから、うん」

でも特に他に用意する事も無いからなぁ、と続けて彼女が放り出した袋は携帯食糧の束。
人間用に調整された物と汎ポケモン用の二種類、丁寧にも安っぽいイラストで解りやすい区別がしてある。
破かれた袋の中からナツハが取り出すのはブロックに近い形状に圧縮された薄茶と肌色の固形食。
何でも一本で10kgの体重のポケモンが一日分行動できるのに十分な栄養とカロリーが配合されているそうだ。
そもそもモンスターボールの中に居れば大して腹は減らないのだけど、それでも最低限は食べないと調子が出ない。
逆に言えば歩き続けたナッハは相応に疲労が蓄積しているはず、と言ってもやはり疲れているようには見えないが。

「健脚なんだねぇ」
「ふ――私は健全な魂は健康な体に宿るという幻想を体現した存在だからな」
「マスターはさり気なく高性能なんですよ」
「何処が高性能なのか激しく疑問に思うんだけど、っていうか煙草も酒もやってるよね」

いや、よく考えればそれは正しいかもしれない。
トレーナーとしての能力はともかく、空気を造り出す才能と話術、それに40km以上を一日で歩き切る持久力、
短所も十分にあるが長所もそれを補うに十分な程、少しナツハに対する評価を上向きに修正するべきか。
高性能な電熱器――調理用と言うよりはむしろ非常用――の熱を受けて溶けて水になる氷を受ける鍋を混ぜる彼女を見てそう思う。
液化した故に固体では収まらなかった鍋にその質量のほぼ全てが入り込み、たぷたぷと重そうな音でもって揺れる。
シチューを作る訳でも、煮物を作る訳でも無いだろうし、洗顔や身体を清める為の物にしては量が少なすぎる。
はて、あまり疑問に思わず氷を造ったけど、いったい何に使うのだろう。

「さて、このままでは味気ないのでこの固形食を使ってフルーツグラノーラもどきを作ろうと思う。
 しかし新鮮な果実を携帯していない私はどうすればいいか。選択肢の中から一つだけ選びなさい。
 答え1 紙一重なこの私は突如天才的な調理法を閃く。
 答え2 ナッヘがその辺から林檎か何かを分捕ってくる。
 答え3 諦める。携帯食でも栄養は十分である。
 私が丸をつけたいのは答え2だが期待は出来ない……何しろ民家の一つも見えない、そこでッ」

どん、とアルミ製の小さな机の上に叩きつけられた腕、振動で揺れが酷くなる鍋の内側の水。

「集めた木の実を使おうと思う」
「量はあるけど……何か心配だなあ」
「問題ない、ああナッヘ、袋を」

鞄を漁っていたナッヘが口に袋を加えたまま「ほふほ」と近づいてそれをナツハに渡す。
机の上に開けられる中身は午前中に少しずつ集めていた木の実、なかなかの量で机の端から零れそうな程だ。
最初から食料の足しにするつもりだった、と言ってもまさかいきなり使う事になるとは、ってまず人間が生で食べて大丈夫なんだろうか。
ナツハは何処からか取り出した小鍋で小粒の実――ナナシとヒメリ、どちらも硬く持ち運びに優れ保存も利く――を洗っている。
水は大鍋に溜まっている物の一部を流用したのだろう、流れ作業のように汚れが落ち、小鍋が拭かれて片づけられ、残ったのは綺麗になった木の実

だけ。
……料理器具が全く見えないんだけど、まさかそのままぶち込むだけとか言わないで欲しい。凄く硬いんだから、砕くのが大変なのに。
とか思ってると小振りのペンチっぽい何かで挟みながら砕いて鍋に投入し始めたのでホッとした。あ、鍋って言っても沸騰してたりはしないから。
木の実を適当に砕いて、適当に携帯食も水で戻して、ついでに缶の中から出した白い粉末も投入して、嫌と言うほどかき混ぜて。
ざらりと深皿によそわれたのは絵具か何かを使ってるんじゃないかってくらい白い液体に、ふやけたシリアルもどきと木の実が浮かぶ物体X。

「うん、完成」
「いやいやいやいやいやいやいやいやいやいや」
「あ、ノハルさん、見た目は悪いですけどマスターの作る物はみんな美味しいんですよ」
「いや料理じゃないよね、栄養面はともかく料理じゃないよねこれ。
 こんな見るからに不味そうな――――?」

鼻孔を内側から撫でるのは芳しい木の実の香り。新鮮な生命の臭い。
ただそれだけでは青臭さ、"あるがまま"故の強烈さで自己主張を始めるはずのそれが、しかしどうした事だろう。
粉ミルクと調整栄養食と言う一見明らかに自然の恵みを損なうはずの取り合わせによって見事に調和している。
前脚でも掴めるように設計された皿は&ruby(ポケモンフレンドリー){PF};製品。小型四足-二足タイプにも扱いやすいそれを掴んで中身を啜る。
まず……くない。悪くない。むしろ意外と普通に食べれる事に驚愕。いい感じに塩味が効いてて……塩なんて入れてたか?
ともかくぱさつきやすい固形栄養食品に、水と調整済粉ミルクを合わせる事によってまず乾燥感を打ち消している。
そしてそのままでは単調で飽きやすい味の筈なのだが、投入された木の実の欠片がいい具合にリズムを乱している。
元々様々な味が入り混じっているヒメリに、ナナシの酸味がのっぺりとした粉ミルクの味を整えつつ、さらに食感も楽しめるという、
馬鹿にしてたけどどうしてなかなか考えられた"料理"だ。おまけにいつ入れたのか少量の塩胡椒がきちんとした食事へと全体を昇華させている。
全体的にポケモンに人間用の香辛料はあまり推奨されていないのだけど、この程度なら十分に許容範囲だろう。
なんか料理漫画の様な感想になってしまったけど、実際にあんな短時間でこんな完成度の物を造れるというのは普通に尊敬できる。

「――――ごめん、美味しかった」
「ふん、解ればよろしい。二十余年独身を貫き続ける私の調理技術を舐めない方がいい」
「家事、では無い所がミソです、マスターは掃除だけは出来ないんですよ」

まさしく犬食い、前脚が使えないから仕方の無い事ではあるのだろうけど、ぺちゃぺちゃと音を立てるのは感心しないよナッヘ。
別にマナー云々は毛程も気にはしないけど、それでも耳が良い僕には若干不快感を与える音であるという事ぐらい気を回そうよ。
普通トレーナー持ちのポケモンだったらそれぐらい出来るよね、人に見られたら躾の一つもなってないって言われるんじゃないかな。
いや確かに美味しいし、見てる人も居ないけどね?なんて言うかその常識的な範囲内でその、うん。
それにしてもまだ日が沈んでいないのにもう寝る準備と言うか夕食と言うか、何処か妙な感じがする。今更過ぎるけど。
普通は夜まで歩いて朝になったらまた歩き始めると……あ、そうか。

「真夜中を避ける為に?」
「ん?ああ、時間か。大体そんな感じだ。
 後は朝焼けが綺麗だしな、何より早起きは気分がいい」
「早起きって言うよりそれは深夜徘徊だと思うんだけど、僕間違ってる?」
「手持ちが足らないので、あんまり見張りも出来ないのと……後は貧乏ですから」
「ナッヘ、貧乏では無く清貧だと何回言ったらわかるのかな?
 それに深夜もいいものだぞ、星が見えない嵐の前夜とかは特に」
「貴方がいればとりあえずは安心して野宿できますが、マスターとふたりだった時は……」
「完全に夜型生活だったな。いや、あれはあれで読者に人気だったらしいぞ。
 わりと評判がいいと編集長からメールが届くくらいには」

御馳走様、と皿を空にしてナツハに渡す。
彼女は今は空になった若干大き目の鍋の中にそれをそのまま突っ込んだ。
なんでもまた後で水を出せとの事、洗う為に最低限度の水は必要だろうから仕方が無い。
今まではどうしていたかと聞くと、水用のボールを使っていたとの事。というか僕のボールがそうだったらしい。
ポケモン以外の非生物圧縮には制限が云々、要するにポケモンじゃないとあまり効率良くボールでは持ち運べないとかなんとか。
専用のボールもあるらしいのだが、高くて買えなかったとの事。今までは水場に沿って移動してきたらしい。
今まで、と言っても三ヶ月程度しかたっていないらしいが。おまけにその大部分は湿原と都市の観光案内じみた物で、
逆にそれが読者に受けたとかどうとか。なんて事は無い食後の会話の時間だが、そういえば特訓すると言っていた事を思い出す。

「それじゃあナッヘ、特訓でもしようか」
「あ……お願いします。でも特訓って言うと、何か古臭くて嫌です」
「古臭いって言われても困るんだけど」
「何の話かな?」
「鍛えてくれるという事なので、少しバトルの練習を」
「おお、そういう事なら非常にありがたい。
 此処でやってくれないか、出来れば私も見てみたい」
「いや、見世物じゃ……まぁいいや。
 えーとね、あんまり他人に伝えられる程纏ってはいないと言う事をまず覚えていてほしい。
 僕の戦い方はあくまで僕自身に合わせて調整したものだから」

戦い方、すなわち動き方、すなわち知識と感覚の統合。
僕に会った戦い方があるように、ナッヘに合った戦い方が別に存在する。ただそれは自分自身で見つけなければならないモノだ。
僕に出来るのは単に自分が歩いた道を示す事だけ。

「まず何よりも大切なのが知識。経験も大事だけど、"知っている事"が一番大事だから。
 既知のポケモンの特性と使用可能な技、その肉体的な資質、及び出現地域。これを知っているだけでだいぶ違う。
 すなわち相手の行動の予測に繋がる第一歩だね」
「……つまり、大事なのは相手の動きを読む事だと?」
「"不意打ち"をなくすことが何より重要なんだ。ゲンガーの前で寝てしまったカビゴンの御伽噺とか知らない?
 基本的な所では属性の関係だってそう、相手に不利な事、自分に有利な事を積み上げていけば自分と同じ程度の相手になら勝てる」
「その為に知識が必要なのですね」
「そう、他にも感覚とか技のコンビネーションとか色々とあるんだけど、基本的には知識。
 圧倒的過ぎる相手でも無ければ知識があれば生きて逃げる事が出来る。
 冷静な判断力も同じくらい必要だけど」

だからまずは基本的な、ポケモン図鑑に載っているような事柄は全て覚えるように。
その言葉を聞いて少し考え込むナッヘ。基本的に黒と灰色の二色で構成された身体が午後の日差しを浴びて揺れる。
黄昏にはまだ今少し時間があるとしても、既に傾き始めた陽光は蜂蜜の輝き、コントラスト効果だろうか黒にはよく映える。
特訓、訓練と言うからには身体を動かす事を想定していたのだろうが、本当に大切なのは肉体じゃない、精神面だ。
ただしそれは根性論的な物では無く、あくまでも知性面、論理の方で。

「例えばさ。血反吐を吐くほどの修練っていうけど、本当は血を吐いたらダメなんだよ、効率が悪いから。
 呼吸器か胃か、どっちかが激しく傷ついてるって事だからね、傷薬かなにかで回復できるレベルならまだしも」
「やっぱりそういう訓練してたんですか?むしろするつもりなんですか?」
「いや、ポケモンセンターの世話にならないといけないレベルの消耗だと、訓練に充てる時間も削がれるでしょ?
 肉体の限界よりも精神の限界の方が遠いから、最初の訓練ならそっちから始めた方がいいと思っただけだよ」

ちゃんと肉体の方、技や回避行動の部分も指導するからと。
そうはいっても多分聞いてくれないだろうから、ごくごく軽い練習も混ぜていくべきなのだろう、うん。

「それから、回避。
 とにかく相手の攻撃が当たらなくて、自分の攻撃を当てれるならばそれはつまり勝ってるって事。
 要するに機動力の問題だから、この部分は今日から少しずつやっていくけど、いいね」
「足腰ですか、ランニングとかそういう感じの」
「最初は軽くだから大丈夫。それにランニングじゃなくてフットワークの方かな。
 四足でも出来るかどうかは分からないけど、基本は同じだから」

基本的に、ミミロップもグラエナも"硬い"方では無い。
つまりどれだけ攻撃を貰わないかが重要なポイントとなってくる訳で。
移動は殆ど脚から腰の流れ、脚力による跳躍に頼らなければならない以上、脚捌きは覚えて損は無いはず。目と耳、鼻をつく臭いや風の流れ、
そうして大気の味だって実は重要な感覚であり、本来は五感で受け取った情報に反射するが如く動けて初めて意味を持つのだけど、
ただ単に速く動けるだけでも、ただ前後左右に疾く跳べるだけでも、ある程度の回避は十分に可能だから。
まずは避ける事を基本に動き方を教えていこうと思う。攻撃なんて二の次だ。
戦闘ではないのだから、気楽に手軽に柔軟から。後ろ飛び、横薙ぎ、地面を掠めるような跳躍。
手本を真似するナッヘの動きは滑稽な程角ばって、僕からしてもとても見れたものではないが、瞳に真剣な物が見える以上嗤う訳にはいかない。

……挫折を知っているから。
どれだけ努力しても届かない場所を知っているから。
それでも届く事を信じて、なお砕かれる事の辛さを知っているから。
鍛えても筋力では大型連中に勝つ事は不可能。最高速度が音速を超えるような化物達と対等に渡り合うのも不可能。
全力で技を叩きこんでも何の痛痒も感じないような装甲を持った奴とも、ただ念じるだけで巨木を圧し折るような奴にも敵わない。
ならば自分に合った戦い方で、自分に出来る戦い方で、最大限自分に有利な方向に戦闘を持ち込む為に学んだ物の全てを出し切っても、
それでもどうしようもない、種族的に恵まれた努力家には恵まれない肉体の努力家は勝てない。解りきった結論だ。
しかしそれは逆に言えば限界は見えているが、限界の近くまで到達すれば"それ以下"の者には勝てると言う事でもあって。

まぁその辺は置いといても、努力するポケモンは嫌いじゃない。
足掻く姿にかつての自分を重ね合わせてるだけかもしれないけど、ね。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

さぞかし厳しく激しい内容だろうと考えていた"稽古"は、初回という状況を考慮しても拍子抜けする程簡単で。
だけど逆にそれは私が思っていたのとは別の、つまり全く異なる視点での戦闘論でもあったという事。
自分の弱さは自覚している。自分の頼りなさも自覚している。だからこそ、強くなりたい。
……彼もそう思った事があったのだろうか。

ただ闇雲に動くのではなく、"次の動作"を意識した回避行動。
相手に出来る事の予測、自分に出来る事の吟味、そうしてそれを積み重ねて闘いを自分の意のままに造り上げる。
……とても私に出来るとは思えない。

だけど修練を積んだ者の言葉を聞く事はそれだけで貴重な経験になるらしく、
単純に身体の動かし方、草を蹴る速さ、ゆっくりと投射される小粒の氷弾を余裕を持ってかわせるくらいには。
たった一時間でよくもここまでと我ながら自身を誇らしく思う、手加減されている事は解り切っているにしても。
つまるところ、余分な動きが多かったのだろうと思う。

理解さえすればとても簡単な事。
こんな短期間で根本的な成長は望めないのは常識、それでも今ある物の効率を上げる事でこんなにも。
それを他者に教える事が出来る彼は、きっと私よりも凄く先に居る。

屈伸や柔軟なんてした事なかったし、腱と筋肉の繋がりがどうこう、と言われても正直理解できなかったけど、
撓めた脚が自分の何処に眠っていたのかと思うほど力強く大地を蹴った時にはとても感動した。
慌てず騒がず落ちついて、なんて馬鹿みたいな指示をされたけど、ちゃんと観て聴いてみるとこれがなかなか。
実際の戦闘ではそんな余裕は持てなくても、"練習"だと解っているから緊張せずに対応できる。反応できる。
きっとこういうのの積み重ねが実戦でも役に立つのだろう。今はまだ戸口を覗きこんだだけだとしても、
マスターを守る為の力を僅かながらも着実に得ている事を感じるのは、とても嬉しい事だし、
適度な運動によって火照った肉体の上、毛皮を掻き混ぜ撫でる風が内に籠った熱を解き放つのも心地いい。
トレーニングなんて生まれてから一度もやった事が無かったけど、程良い筋肉の疲労はなんというか、快感だ。

「今日はこれくらいでいいかな。
 後は図鑑でも使って各ポケモンの特性と技をとりあえず暗記して……」
「ノハル。私は仮免二種、所謂トレーナーもどきだからポケモン図鑑は所有していないぞ」
「……えー」
「マスター、図鑑は無くても端末に旧式の資料があったような無かったような」
「ああ、計測も予測機能も付いてない、殆ど紙媒体と変わらない奴ね。
 そういえばそんな物もあったな、私が使わない時に自由に使えばいい」

寝る準備を始めるマスターの姿を横目に体を振るって空を見上げる。
夕暮れ時を少し超えて、薄紫から蒼へ、そうして黒へと滲んでいく空模様は何度見ても飽きない私の一番好きな風景で。
そんな時に蒸れた身体から汗が逃げていくと共に立ち上る臭いは、自分のものとは言え少しうっとおしい。
身体を清める手段もあまり無いのにこれは頂けない。これから眠る予定なのに。
温めたタオルでマスターに身体を拭いて貰うのはとてもとても気持ちがいいけど、今は多分無理だ。
彼が加わって"水"はほぼ無尽蔵に手に入るようになったとしても、温度が足りない。
炎技を使えたらいいのだけれど、生憎よく比較されるヘルガーと違って私は炎タイプではない。
自分で全部用意できて自分で身体を拭ければ凄く楽だろうなぁと思いつつも、私はグラエナでしかないのだから無理な話。
別にそれを嫌った事は無いが、それでももう少し融通が利く身体ならばと何度思ったことか。

なかなかに柔らかい方だと自負している自慢の毛先を舌先で梳る。
肩から腹へ、捩じって背中側へ、届かぬ場所は爪で掻き解す。
毛皮は寒さに耐える為の生得のものであっても、手入れの面倒臭さは変わらないが、
牙で梳いて整えて、風では飛ばせなかった熱気を外に逃がす、これだけで随分と綺麗になる。
一応牝の仔だし、身だしなみには気をつけているんだから。……それなりに。
コンテストに出るつもりは無いし、マスターも出すつもりは無いだろうけど、それでも最低限の身繕いは。

「何時に起きる予定?」
「大体二時頃になるかな。常駐型の虫除けスプレーを撒くからテントから出なければ危険はそれほど無い。
 秋の夜空を見上げながら草原の散歩と洒落込もうじゃないか」
「疲労が募るばかりなんじゃ……いや、雲も出てないし今夜は晴れそうだし、
 確かに綺麗な月夜になりそうだけど、確実に健康な生活では無いよね」
「ノハル、健康の定義は人それぞれだと言う事を忘れてはいけないよ」
「…………口では勝てないって事は解った」
「ああほら、ナッヘもこっちに来なさい。
 今日は冷えるから君達のもふもふを十分に活用させて貰おう」
「達って僕も数に入ってるの!?」
「寝袋が古くてねぇ、そのままだと寒くてどうしようもないんだ。と言う事で」

……何か聞こえてきたが、マスターを暖めるのは私の役目だ。
例え彼にその気が無いにしても、黙って見過ごす訳にはいかない。
全身を解し終わって、風で乾燥させた身体、空気を程よく含んだ毛皮で騒がしいテントの中に向かう。
もぞもぞと動く袋からはみ出た茶色っぽい物はおそらく彼の耳、今まで私の尾の定位置だった場所に鎮座している。
確かにふかふか感ではあちらの方が上かもしれないが、私はこんな所で負ける訳にはいかないのだ。

「マスターは私が暖めますからノハルさんはどうぞごゆっくり」
「なんだなんだ、仲良くしなさい」
「ちょっ……狭い!狭いから!潰れるって!」
「うむ、やはり一匹よりも二匹の方が暖かい」

容量オーバーに極めて近いところまで寝袋に体積を詰め込んだおかげか、寒さは感じない。
かといって息苦しさも感じない、なるほど確かに一人と一匹より一人と二匹の方が効率的だ。
だからといって今まで培ってきた湯たんぽの立場をそうやすやすと渡してたまるものか。
丸まって、マスターと肌を寄せ合って、互いの吐息を感じるほど近くに。
ああ、幸せ。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

……いきなり寝袋の中に突っ込まれた時は割と本気で焦ったけど、まぁ、うん。
遠く風の音を背景に聞こえる鼓動の連奏はナッヘとナツハの物、絶妙な暖かさと相まって妙に心地がいい。
軽い圧迫感が種族的な記憶を呼び起こすのかどうかは知らないが、何となく感じる安心感。
しかしポケモンを真剣に暖房器具に使うってのもどうなんだろうなぁ、やっぱり間違っている気がしなくもない。
そもそも普通は炎タイプとか、体温が高いポケモンを使うものじゃないの?あるいは大型ポケモンとか。
半ば無理やり突っ込まれたおかげで体勢が妙な事になってるし、このままじゃ眠るに寝れないなぁと、
首から捩じってとりあえず顔だけは袋の外に出たらナツハとばっちり眼が合った。

「おわぁっ!?」
「人の顔を見てのリアクションとしては失礼だと思わないか。
 ましてや一応形式の上では君の主人だぞ」
「いや、あまりにもタイミングが……まぁいいや」
「むにゅ……ますたぁー……すー……」
「なんという寝付きの良さ、っていうか寝言がありがち過ぎる気が」
「ナッヘは昔から寝る時はすぐ寝る仔だったからな、今でも羨ましい。
 ……寝れないなら寝物語に何か話してやろうか?」
「寝物語って………………軽く引くんだけど」
「ピロートークだろう。心配するな、そっちのケは無いから。
 逆に言えば『ポケモンが好きなんじゃない、お前が好きなんだ』が出来るな」
「なにその『男が好きなんじゃない、お前が好きなんだ』みたいなノリは」

要するに暇だからなんか話してやるよ、と言う事らしい。
どんな方向の話でも出来る、ほらリクエストしてみろとせっつかれたので、
せっかくなので僕はそれじゃあ官能的な奴を、と軽い気持ちで言ってみた。

「ほほう、ならばそれはそれは爛れた桃源郷な話でもしてやろうか。
 とは言っても人間の閨の事など聞いても面白くも無いだろうし、やはりポケモンので無ければ駄目か?」
「いや結構冗談のつもりで言ったんだからそんなに本気で考えこまなくても」
「仕方ないな、一部の人間の間で大人気で秘かな社会的流行にもなっている『オーレの夏休み』の話を……」
「……それ、ひょっとして略称が『オレなつ』だったりする……?」
「よくわかったな。新米トレーナーが田舎に里帰りしつつ、村はずれで暮らしているブラッキーやら大工仕事を手伝うカイリューやら、
 旅館付きのレントラーやら歌が好きなグラエナやらおっさん臭いリングマやら……まぁ雄ポケモンとキャッキャウフフする話だ。
 元々ゲーム媒体で発表されたものだが、あまりの出来栄えについ最近ノベライズされてな。
 同僚が勧めてきて不承不承呼んだのでバッチリ頭の中に入っている」
「所謂女性向けにカテゴライズされる感じのじゃないのかと思うんだけどそれ」
「ガチ成人男性向けだったぞ?それはそれはもうハードでディープな男と雄の絡み合いがボルケイノで」
「…………」

人間とポケモンと言う種族の違いに着目するというのはありがちだが~とか、
触手プレイが無かったのは個人的に頂けない~とか横で批評を始めるナツハにそこはかとなく貞操の危機を感じるのはきっと気のせいじゃない。
思い起こせばナッヘに対する仕草にも単なる好意以上の何かがあったように邪推できてしまう。
いやいやいや、自分でそっちのケは無いって言ってたからきっと僕の思い違いだ、そうであってくれ。
これなら普通に過去の話でも聞いた方が良かったか、と……

「――――懐かしいアイツからの手紙 それが俺の夏休みの始まりでした」

声が変わる。
違う、変わったのは空気だ。
ナツハの声は今まで通り、何処にもおかしい所は無い。
というのにこの存在感。其処には既に別の時間、別の空間が広がっていて。
唯の言葉のはずなのに、単なる文章の筈なのに、ありえない程に引き込まれるのは。
別にそんな雄同士のあれこれに興味は無いというのに、それでも彼女の口から語られる物語は僕の心を掴んだ。
いや、変な意味じゃなくてね?聞き惚れてただけだから、勘違いしないで欲しい。
語り部とでも表現する他ない存在感に溢れた語り口が悪いんだ。

「――――。――――巨体に見合った、――――蜂蜜派なのだろうか」

表現されるのは他愛ない日常――――と、其処に潜む非日常。
互いに擦れ違う切なさと、友情からほんの一歩だけ踏み出した違和感。

「――――――――のスリットと呼ばれる、――――――――は――――で」

やがてずれ始めた世界。少しずつ見え始める肉欲と狂気。
求められて求められて、次第に求め始める主人公の独白と選択。

「隠しようの無い――――――――吐息は竜鱗を――――――――滴るのはどちらの涎か」

ひたすらに淫靡で凄惨で。物語の始まりからは想像もつかないどろどろぐちゃぐちゃ、終わりの無い泥沼のような情事。
およそ人が思いつくであろうありとあらゆる倒錯を詰め込んだかのような物語は終焉へと加速して。

「―――――――『―――っと、俺の―――――』――――て絡み合うのは―――穢れなんかじゃない」

……高性能すぎる。
何これ、ナツハって本当に妙な部分に才能あるんだなぁと薄々は感じていたけどさ、
まさか"言葉"だけでここまでアレな雰囲気を出す事が出来るって言うのは流石に想定外だった。
ムウマージやその他のある種のポケモンみたいに、技で縛っている訳じゃない。ナツハはただの人間だし。
黒い眼差しでその場に留められている訳でも怪しい光によって混乱させられている訳でも催眠術で操られている訳でもない。
単純にその口調、その微妙な間合い、その紡がれた物語の演出が信じられないほど真に迫っているだけだ。
容易に想像できるなんてレベルじゃなくて、実際にもう語られるキャラクタの息遣いが聞こえてきそうな程の。
確かに内容は内容でまぁ、凄い練ってあるんだけど、それ以上にナツハの語り口がどうしようもない。

「―――――――――――臭いが。咽るような誘うような―――――――だけど喜んでしまうのは」
「…………っ、もう十分だよ」
「うん?色気に当てられたか?」
「ああもうそうだよだからちょっとタイムタイム」
「私の超絶美声によるストーリーテリングなどめったに聞けるものでは無いというのに。
 経験が無い訳でもないだろうにどうかしたのか?ん?」
「そりゃあるけどさぁ、ナツハの…その、口調があんまりにもさ……。
 やっぱりそっちの気があるんじゃないかって疑う程にさぁ……」
「おお、可愛い反応をありがとう。ナッヘはこういう時に普通に返してくるから弄りがいが無い」

にやにやと笑いを零すナツハの姿ははっきり言って所謂セクハラ親父そのもので、"女性っぽさ"なんて欠片も無い。
自分の頬はきっと薄く色づいているのだろう、顔と耳が熱い熱い。ああもう、柄じゃないのに。
素直に興奮していると認められないのは御愛嬌だとしても、それでも年相応の切り返しぐらい出来てもいいだろうに、
やはり自分は不器用なのだなと再確認する。……勃ってはいないのだけがせめてもの幸いだろう。
こんな寝袋の中でそんな状態になったら間違いなくばれる。というか普通に恥ずかしすぎる。

「しかし此処で普通なら発情したノハルが私かナッヘに……とありがちな展開を予想していたんだが」
「それなんてエロゲ……いや流石に僕も引くよ、逃げるよ」
「官能的な奴をと頼んだのは君だろうが。
 しかし思わず話し込んでしまったな、眠気が覚めた」

そう言われては返す言葉も無い。軽い気持ちで変な事を言うもんじゃないなと再認識しつつ、
ナッヘを起こさないように器用に動いて寝袋の外に出るナツハの挙動を追う。
無骨な、最早登山用と言っても通用するリュックを開けて何やらごそごそと探し物をしている様子。
彼女が日中に口を酸っぱくしていかにこの製品が優れているかを言い聞かせてきたので性能は大体覚えてしまった。
強化ポリエステル素材で撥水性に優れつつも通気が良いとか、摩耗しにくくとにかく丈夫だとか。
50Lというある程度の容量を備えながらも歩行の邪魔にならない機能性とか、軽量性に如何に配慮された設計だとか。
モンスターボールに頼らない収納を実現する老舗の技に惚れたとか、とにかくべた褒めだった。
思うに、趣味の話になると人間は信じられない程口が軽くなると言うが、きっとこれもそうなのだろう。

「と言う訳で酒を飲んで眠ろうと思うのでちょっとこっちに来なさい」
「なんでさ」
「酔っぱらった勢いで……というのも常套手段だろう。
 だが誤解されているが単に酩酊状態だと正常な判断がしにくくなるだけで、
 けして性的になるとは限らないという事にも注意しなければならない。
 ……君も眠れないだろうから酒を飲ませてあげようと思ってな」
「誰に説明してるのか謎だけど、くれるって言うなら」

取り出したのは褐色瓶。人の片手にぎりぎり収まるか収まらないかというサイズのそれと、小さなカップが二揃い。

「十余年の時を経てなお枯れずくすまず崩れず熟成に到達する原酒はそれほど少なくはない。
 故に値段もそこまで高くない。だがだからこそその風味と味のみを武器に商業ベースに乗せた商品には輝きがある。
 そもそもこれだけ揺られ混ぜられてなおその風味を失わない"旅行用"にカテゴライズ出来るものは実に希少だ。
 徒に古ければいいという訳でも無いしな、見ろ、この淡い琥珀色を。馥郁とした中にもしっかりと佇む木香はどうだ。
 まぁ千の言葉よりも実際に味わった方が早いか、ほら」
「こういう所に金を使うから貧乏なんじゃないの……?」

手際よく杯に注がれた琥珀色の液体。広がる咽るような香気。
何十種類もの芳香が混じり合った濃い匂いはあまり好きじゃない。
人間にとって複雑で芳醇な香りと言う事は、それ以上の嗅覚を持った生物にとっては匂いが強すぎる事を意味するのだから。
とはいえせっかく渡された物を飲まないのはあまり行儀がいいとは言えないので、仕方無しに飲む事に決めた。
酒に弱くて、「彼」と過ごしていた時もその事でからかわれたりもしたが、一杯くらいなら大丈夫だろう。
さして味わう事無く飲み込み、喉元を通り過ぎる灼熱は胃に入り込んで腹を焼く。
舌に残るのは濃い果実に似た甘味と雑多な花の香りと煙の混ざった苦味。不味くは無い、酒に詳しくない僕でもそれぐらいは解る、
むしろ美味しい方に分類されるのだろうが、どうしても濃すぎる。
大体人間用のものは大抵が濃いのはどうしてだろうか。何にしてももっと薄く幽かな余韻を楽しもうとは考えないのかいつも疑問に思う。
そもそも――――――?

「これ、何度位のお酒?」
「40度。ウイスキーだからな」

絶句した。
道理でやけに胸と腹が熱いと思ったら。
この女馬鹿じゃなかろうか。

「小型ポケモンにそんなもの飲ませるのは――――――――ッ」
「む、拙かったか」
「分解しきれなくて死に至る種族だっているのに、それでなくても酔いの回りが早いのにどういう料簡なの本当に常識を――」
「一杯程度なら問題ないだろう、ナッヘもよく呑むしな」

そういう問題じゃない、と言おうとしたけど。
ほら、体重と心臓の鼓動間隔の短さとかね、小動物にアルコールはね、危険なんだって。
即効性がある上に下手したら昏睡じゃすまない、ワインとかならそれでもゆっくり飲めば問題無いって聞くけど、
7度程度かと思ってつい飲んでしまったのに40度ってどう考えても危険域だよね、少し考えればわかる事だよね。
トレーナーじゃ無いにしてもそれくらい常識の範疇に入るよね、ほんと馬鹿じゃないの?
熱い。胸と腹と腰と耳が熱い。なのに脚元は震えるような生温さで、揺れ始める視界と世界は気持ち悪いはずなのに何処か心地よく。
吐きそうで吐けない、むかむかする、これ二日酔いに近いんじゃないか、いやそんな事よりもどうにかしないと。
ぐるぐるする頭を片腕で支え……られない。四足で動くのが精一杯だ、本気で不味いっぽい。
なんとか寝袋を抜け出して料理の時の要領で氷の結晶を……出せない、集中が足りない、制御できそうもない。
ちょっと冗談じゃないよ、これは結構非常に危ないんじゃないの、ああ糞思考が纏まらない。

「……ッ、ちょっと酔い醒ましてくるから」
「うん?そんなに拙かったか、すまないな」
「ああもう……ッ」

半ば駆ける様に転がって外へ。草葉が身体に纏わりつくけどそんな事気にしてる暇は無い。
夜風は十分に冷たいというのにやっぱり熱い。生温い。心地よくて気持ち悪い。ああもう。
この程度で大変な事になるのは仕方の無い事とはいってもやるせないのに変わりはない。
大型のポケモンなら。人間以上の耐久力を持っていれば。別になんて事は無く酒だってがぶ飲み出来るだろうに。
一つのコンプレックスだと自分で理解していても、本質的に僕は自分が嫌いでしょうがない。
感染症に食事効率、数え上げればいくらでも。それは自分を含むミミロップをただ貶めるだけだとしても、
もっと強ければ、もっと大きければ、もっと恵まれていれば。戦闘の中で、或いは「彼」との生活の中で何度そう思った事か。
例え機転と知識と執念を用いて何かを成し遂げたとしても、それでも基本的な肉体の性能は何ら変わらない。
ああ、間違いなく酔ってる。

全身を土と草に擦りつけて転がって、転がって、転がり続けて空を見上げる。
真夜中にはまだ五時間は足りないだろう、澄んだ夜天にぱらぱらと申し訳程度に鏤められた星の光と、
半月から少しだけ成長した月が僕の全身を照らしていた。
多少は落ち着きつつあるものの、それでも普段とは違う精神状態にある事を自覚して、
しかしそれでも良いじゃないかと思ってしまう自分を認識する。大丈夫、自己を見失ってはいない。いないはずだ。
思考の欠片は集めれば集めるほど腕の中から零れ落ちて、いつもにも増して支離滅裂だと自覚できる。
自覚できる以上は大丈夫、まだ大丈夫、僕は壊れてなんかいない。

これだから酒は苦手なのに。
取り繕った自分が崩されるから。
所詮はそう、要するに、さびしいのだ。兎は寂しいと死ぬと言ったのは誰だったか。
必要とされて、必要として、そういった関係に憧れて、依存と斬って捨てるのは怖いからか?
なんて脈絡の無い考えだろうか。なんて脈絡の無い感情だろうか。なんて無意味な――――

「はは……ははは……」

根本的な恐怖。自分と他者が違うという事。それは仕方の無い事なのに、だけどそれを受け入れられない。
解っているのだ、自分に欠損がある事は。感情があって精神があって、でも倫理と躊躇が何処にもないのは僕のせいじゃない。
紅は命の色だと誰が決めた?血が美しいものだと誰が決めた?叩きつけられて拉げた骨と肉の塊に命の尊厳など存在しない。
広がるぐずぐずとした体液は間違っても花に例えられるような綺麗なものではない。何度も繰り返してきた事だ、
ただ罪悪感と言う物を感じてみたいが為だけに。それの何処がいけないのだろうか。
美化も矮小化も何も無い、ただ現実としての命の終わり。あまりにもあっけない幕切れをこの手で何度も造り出して来た。
だというのに、現実感が其処に存在しない。喜びも悲しみも、本当に何の感動も無かった。
殺戮と血の匂いに酔って、血の昂ぶりを覚える事はあっても、"終わらせた事"に対しては、何も。
確かにこの手で何匹かの生命を終わらせたのに、積み重ねてきた歳月の本を無理矢理閉じさせたのに。
何も無かったのだ、僕には。

だから精一杯、最初は「彼」の為に、次は気紛れを装って自分を肯定してくれる存在を求めて僕は"僕"を演じている。
何の為に生きるのか、何を成すのか、目的を探すのか、そんな哲学的で根源的な問いの答えなんて要らない。
けれども温もりは欲しいのだ、自分は確実に邪悪にカテゴライズされるであろう存在だとしても。

「は……あぐっ……ひ…」

本当に、自分で自分に吐き気がする。
なんて捻れた、どうしようもない、卑屈な、卑しい、自己嫌悪でもって自身を正当化する、無様な兎。
背徳感、罪悪感、不安感、興奮、嫌悪、狂喜、後悔の何一つとして感じなかった癖に。せいぜいが支配感を楽しんでいただけの癖に。
急速に冷めていく精神を持て余して、勝手に口から漏れ出す声を制御する事が出来ない。
泣き笑いを顔に張り付けたままに朦朧とする頭を振り払って立ち上がる、随分と遠くまで転がって来たらしい。
耳にへばりついた土と塵を払い、空を見上げ背骨を反らして感じる違和感は腰から来るもので、
何とはなしに視線を下げれば股の間で自己を主張する鮮やかな肉色が。

――――心の底では、僕は自分が大嫌いだ。

酒の必然?草葉に擦れた?或いはナツハの話の余韻?
それとも自分の異常性に興奮でもしたというのだろうか、意識を移せば痛い程の屹立が其処にあった。
泣き笑いが自嘲に変わる。どれだけ深刻ぶって論理と思考を重ねた所で所詮この身は唯の肉纏う獣に過ぎないと痛烈に実感する。
これこそがリアル、なのではないのか。流れる風と微かな音と土と草の匂い、そうして身体を動かす欲求こそがリアルなのではないのかと。

「…ははは」

本当に、莫迦らしい。
酔っている事はまだ自覚できるからいいものの。
とはいえこんな状態ではテントに帰るに帰れないし、
時間経過によっては収まりそうもない上に、ナツハに見られれば何を言われるか分かったものでは無い。
である以上、自分でどうにかしなければならない事は明白であって。
おまけに水場も無く、氷から水を造ろうにもこの気温では時間がかかりすぎ、
従って無暗に放ってしまえば汚れた体毛に絡んだ自分の精液を舐め取って体を清めなくてはいけない羽目になる。
うまく回らない頭で頭でここまで後処理の事を考える事の出来た自分に拍手を送りたいくらいだ。
かと言って人間の使うようなティッシュなんて便利な物はここには無い、ではどうすればいいかと言えば決まっている。

さて、草結びと言う技がある。
本来は離れた場所に生えている草を結んで輪を造り、相手を転ばせるという技なのだが、
熟練する事によって緩めたりきつくするだけでなくある程度形を変える事が出来るようになる。
そしてここは草原と言っていい程草に溢れている。つまり材料はいくらでもある訳だ。
僕の指先の動きに合わせて周囲の草叢が揺れる、揺れて捻れる、捩じれて輪を造り、見る間に輪が重なり合って筒となる。
緑の筒に更に絡む草は隙間を埋める様に蠢いて、枯葉色と碧のストライプの何かが出来上がる。
後はちょっとだけ細部を弄って脚と粗末な顔をつければ、ほら。
人間でいうダッチワイフの出来上がりだ。

なんて下らない事をしているのだろうかとも思うが、幽かな疑念はすぐに劣情に流されて消えてしまう。
勿論このままだと流石に痛いし最悪出血するので適当な草を噛んですり潰し、唾液をまぶして筒の中にあらかじめ突っ込んでおく。
あまり褒められたものでは無い生活の知恵、と言ってしまっていいものかどうか。
此方の方は既に準備万端、張り裂けそうな位に漲っている、後は入れるだけだ。

「く……あはっ……」

別に音はしない。強いて言えば噛み潰した草葉と唾液の混合物に先端が触れた時の幽かにくちりと音が鳴った気もするけれど。
笑いながら腰を振って自慰に励むミミロップと言うのも滑稽だろうなぁと思っても、始めてしまったものは止まらない。
耳を使った方が気持ち良いとはいえ、自分の意思で自在に締め付けを変化させられるこの方法も我ながらなかなかに素晴らしいと思う。
逆に言えば常に草結びの制御に意識の一部を割かなければ快感を得られない、と言う事でもあるのだが、
暖かさとぬめりを除けば実際大抵の雌に劣らない。少なくとも自分の体験からはそう判断できる。
ずるずると腰の動きに従って先走りと唾液の混ざった潤滑液が全体に行きわたって抽送を助け、次第に水音も大きく響く。
快楽の波がじんじんと広がって勝手に腰が動くようになればもうちょっとだ。
本当なら途中で止めてイキそうでイケない絶頂間際の感覚を楽しむのだけど、
今は快感を目的とした自慰では無いのだからそんな事も言ってられない。数をこなさないと満足できない種族なのだから仕方が無いのだ。

「うぁ……っく…」

ああ、やはりそれでも僕は単なる生物だと実感できる。
どれだけ外面を取り繕っても、こんな単純な行為に夢中になれるのだから。
粘膜への刺激によって込み上げる射精感はいつ暴発してもおかしくない状況で、だけど久しぶりの草結び、
思わずして"イキそうでイケない"を実行する事になってしまったのは偶然か必然か。
きゅうっと締め付けて揉み解す葉の束に、痙攣ついでに反り返った屹立が自分にも感じられて、
だけどそれでもあと一歩、あと一歩の所で射精に至らないのが悔しくてがむしゃらに腰を叩きつける。
熱く張って心なしか重さを増したような錯覚を覚える睾丸もその動きにつられて揺れるのが分かってなおさら速度を速める。
下腹部の奥深くで渦巻く欲望が、早く外に出せとざわめいているようで、何故か僕は泣きたくなった。

「っ……ぅぁッ」

脳裏に浮かぶのは取り留めもない事ばかりだ。
「彼」、かつての仲間、過去と現在、肌を交えた雌と雄、そうして思い出したくも無い一年間。
肉欲に溺れているのに、夢中なのにどこか冷めているのはこれが単に自慰だからか、僕が欠陥品だからか。
それともそんな事はどうでもいい事か。今は一瞬の悦楽を楽しむべき時か。
わからない。わからないのに身体は動く。本能で動いているというのなら理性の必要性など無いだろうに、
出しそうで、イキそうで、どうしようもない状態のまま精神だけが乖離している。
……だけどそんな危ういバランスが永遠に保たれている筈も無く。

「ああうッッ!」

発作的な、突発的な、圧倒的な衝撃が。
きゅうっと草人形に抱きついて、押し付けた全身を震わせて、
堪えに堪えた限界の叫びを上げつつぐっと脚を掴んで押し付け捻じ込んだ剛直を脈打たせ。
吐きだすのは熱い子種。白濁とした粘塊。がっちりと草人形を抑え込むのは本来は雌の胎内に確実に出し切る為の反射行動、
しかし草で出来たそれとの間に仔が出来るはずも無く、それどころかびゅるびゅると吹き出すたびに隙間を通って地面に濃白の雫が垂れる。
荒い呼吸を自覚して、一度目の射精を認識して、でもまだ足りない。
&ruby(ミミロップ){兎};は好色、と言われるように一度や二度では満足"出来ない"。
浅く腰を引いて、再度打ち付けて、恍惚の波に飲まれつつも草結びを操って絞るように動かして。
口の端から垂れた涎がぽたりと人形の背に落ちたのが見えて、それがとても淫靡に思えて。

「くあああッッ!」

限界まで突き込んで、二回目の射精。
僅かな隙間からぶじゅぁっと音を立てて噴き出して、ぼたぼたと再び地面に落ちる精液。
両腿でがっちりと挟むのは一滴残らず一番奥に流し込むための体勢だけど、やっぱり草人形には無意味な事。
ぱた、た、と、放出が弱まってから一気に摩擦を再開し、自ら造り吐きだした汚液に塗れて滑るは抜き身の性器。
先走りよりもなおぬめるその体液、放出直後の暖かさに包まれて三度目の絶頂を目指して陶酔の抽送は激しさを増す。
後始末が面倒にならないようにと考えて造られた形状だけあって、人形の"下"には精液溜まりが出来ていても、
股間の毛皮には若干の湿り気しか見られないのは、うまく剥けた性器の部分だけを草結びで締め付けて子種の逆流を防いでいる証拠でもある。

「んぅっ、んあぁっ!」

奥歯を噛みしめつつ三回目の射精。
放出の痙攣に合わせての草結びによる蠕動運動も、流石に三回目となるとコツを思い出して来たのか流暢で、
未だ衰えない剛直に蠢いて絡みつきつつ更に絞り取るように前後する。もう触手と言ってもいいだろう。
爆ぜる熱い滾りは途切れる事無く滴って仔を成さぬままに地面に染み込んでいく。
殆ど時間を置かずに四回目、五回目、六回目。色狂いという表現がこれほど相応しい情景も無いだろう。
突き入れて、出して、絞って、引き抜いて、突き入れて。延々と繰り返される単純な動作。
結局草人形がべとべとのどろどろになって使えなくなるまでその作業は続いた。


……ああもう、だから酒は嫌なんだよ。
運動のおかげもあってか、それとも単に時間がたったからか酒もあらかた抜けたけど、
まぁ、うん、目の前にはべっちゃりなアレなアレがある訳で。そのね、素面に戻ると凄い恥ずかしい状況なんだけど。
何発抜いたか覚えてないっていうか、まぁ、うん、その、ね。すっきりしたから別にいいんだけどさ。
最後らへんちょっと記憶がね。なんか微妙にナッヘをオカズにしていたような気がして、うん。こっぱずかしい。
抜け出てから何時間経ったか分からないけど、いい加減帰らないとナツハが心配……いや多分寝てるな、間違いない。
躁鬱って言うんだろうか、自分でも普段から感情の振れ幅が異常だと知ってはいたけど、酒は怖いね。
普段よりも六割り増しくらいでちょっと彼方に思考が飛んでった。
酔った僕も「彼」と旅していた頃の僕も今の僕も、そうしてあの僕も皆「ノハル」だという事に変わりは無いんだけどね。
二重人格とかそういう意味じゃなくて、全部纏めてそれが「ノハル」なんだから。
と、哲学らしきことをやってみるも依然として目の前には白と緑のコントラストが鮮やかなアレがある訳で。

「なんだかなぁ……」

まぁ、少なくとも今は今を楽しもうと。
未だ土と草が付着していたので全身を軽く払って清め、入念にこびりついた精液が存在しないか確認してから、
草結びを解除して後は自然に還るに任せて来た道を戻る事にする。
万が一移動の時この場所を丁度通りかかったら非常に気まずい思いをするだろうが、まさか其処まで不運では無いと信じたい。
……実はもう真夜中を過ぎていて、テントに帰ってそのまますぐ寝ずに歩きとおす事になるというある意味不幸に陥ったのだが、それは別の話。

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