ポケモン小説wiki
黒い手巾 の変更点


*黒い手巾 [#0oOmiVB]
writer――――[[カゲフミ]]

―1―

 誰にでもめぐり合わせの悪い日というのはあるらしい。そんな日はやることなすこと裏目に出て、悪い方悪い方へと進んでいくばかり。どうやら僕にとってその日は今日だったらしい。バイトの時間に寝坊して、ぎりぎり電車に間に合ったかと思えば機械のトラブルで結局大幅に遅刻してしまった。それが原因で先輩に小言を言われ、自分がすべて悪いわけではないのにと腹立たしく感じていたせいかバイト中もつまらないミスを連発してしまい、更に先輩に叱られる結果に。まったく、嫌なことというのは重なるものだ。ため息混じりにバイト先からの帰り道、夕方の商店街を歩いていく。早歩きで次々と先へ先へ進んでいく道行く人の足取りとは対照的に僕の足取りは重いままだった。今日は何がいけなかったんだろう。電車の機械のトラブルは仕方がないにしても、最初に寝坊してしまったのが一番の失敗か。余裕を持って出発できていればトラブルが起こった車両に乗り込むことにはならなかったはずだし。いや、遅れるなら遅れるで事前にバイト先に連絡しなかったのがいけなかったのかもしれない。あらかじめ電車のことを伝えていれば先輩もあそこまで目くじら立てたりはしなかったんだろうか。などとあれこれ考えながら歩いていたのがまた良くなかった。誰かとすれ違いざまに肩がぶつかってしまう。向こうがそこそこの勢いで歩いていたらしく結構痛かった。普段の僕なら一瞬むっとはするかもしれないけれど、あからさまに悪態を顔に出したりはしない。ただ今日ばかりは事情が違った。面白くないことが続いていてつい、振り返ったときに大きな舌打ちをしてしまっていたのだ。しまった、と思っても時既に遅し。相手はどう見ても堅気じゃなさそうな怖そうなおっさんだった。短く刈り上げた坊主頭に色のついたメガネがよく似合っていた。本当に怖いくらいに似合っていた。
「なんだお前。今舌打ちしたよな?」
「……あ、いや、その」
 おっさんは僕を睨みつけている。とても雲行きが怪しくなってきた。どうにかこの場を切り抜けたくて上手い言い訳を必死で考えようとしてみたけど、僕はもともとそんなに口が上手いほうじゃない。突然の出来事に頭の中が真っ白で何も浮かばなかった。
「ちょっと来い」
 有無を言わさずに僕は腕を掴まれて人目につきにくい路地裏へと連行される。このおっさん誰かを引っ張っていくのが慣れてるのか、こんな人ごみの中でも引っかからずにすいすいと進んでいく。もちろんそんな場合ではないのだが、僕は変なところに感心していた。これだけ人を避けるのが上手なんだったらわざわざ僕にぶつからなくてもよかっただろうに。僕がおっさんに連れて行かれたのは通行人がぎりぎりですれ違えるくらいの道幅の路地。両隣の建物のものであろう、エアコンの室外機が生暖かい風を周辺へと撒き散らしていた。僕は壁を背に、おっさんに詰め寄られていた。
「なあ、人にぶつかっときながらその態度はねえだろ。あん?」
「す、すみません……」
 いやいやぶつかってきたのはそっちじゃないのか。そりゃあ考え事ばかりしていて前をちゃんと見ていなかった僕にも非はあるのだろうけれど。もちろん本心なんて口にできるはずもなくとりあえず頭を下げるしか僕には出来なかった。
「謝れば何でも済むと思ってんじゃねえぞ、おらぁ!」
 僕の腹に一発、おっさんの渾身の右ストレートが炸裂。重い一撃、視界がぐらりと揺らいだ。猛烈な痛みと衝撃に僕は為すすべもなく膝からその場に崩れ落ちる。いとも容易く倒れ込んだ僕に興味をなくしたのか、ふんと鼻を鳴らしておっさんは去っていった。追撃で腹を蹴られたり、金を出せとか言われなかった分だけましと思うべきか。でも、痛いもんは痛いんだよ。強く腹を殴られたせいか口の中がひどく気持ち悪い。僕は背中で壁を這うように上半身を起こすと、隣に唾を吐き捨てる。本当にどこまでもついてない日だ。今日はもう下手に出歩かないで家に帰って寝たほうがいいかな。
「ぐえっ」
 途端、右側の頬に細長いものがばしりと当たる。太い輪ゴムで弾かれたようなじんじんと疼くような痛みだった。ああもう何なんだよ。苛立ちを隠そうともせずにそれが飛んできた方向を見ると、薄暗い路地の中に二つ光る赤い瞳。への字に曲がった口元はくすんだ黄色で端にはチャックのような突起がぶら下がっていた。いつの間にそこにいたのか、そのジュペッタは僕を睨みつけていた。
「あんたが吐いたもんが掛かったじゃない。汚い」
 ジュペッタの頭の辺りが少し湿っている。ああ、僕の唾か。この子が居ると知らずに吐いてしまったからな。わざとじゃないんだ、なんて言ったところではいそうでしたかと納得はしてくれそうにない。君もあのおっさんみたいに気が済むまで僕を殴るのかい。悪いことが重なりすぎると逆にもうどうでも良くなってくる。僕に落ち度があるんだし、好きにすればいいんじゃないかな。
「黙ってないで、なんか拭くものよこしなさいよ」
 ジュペッタは僕を痛めつけて怒りを収めるよりも、唾が汚いからそっちをなんとかしたいらしい。ぎろりと睨みつけられたまま迫ってこられて有無を言わさぬ迫力を感じた。ゴーストポケモンならではの凄みなのか、正直あのおっさんよりずっと怖かった。僕の本能がどうにかこの状況を回避せよと訴えてくる。ええと、拭くもの拭くもの、と。幸いポケットの中にハンカチが入っていて助かった。差し出した僕の手からそれを乱暴に取り上げると、ジュペッタは頭についた唾をごしごしと拭い取る。
「……悪かったよ」
 僕は俯いたまま謝罪の言葉をぽつりとこぼす。今更ながらの謝りで許してくれたのかどうかは分からない。でも、ジュペッタがそれ以上僕に何かをしてくる様子はなかった。ちゃんとハンカチを渡してあげたから少しは気分が落ち着いたのかもしれない。まだ唾が気になるのかジュペッタはハンカチで念入りに頭をこすっている。細長い影のような両手で押さえた頭部が結構凹んでいて案外弾力があるんだなと、僕は目を丸くしていた。ジュペッタをこんなに近くで見るのは初めてだし、そもそも僕は自分のポケモンというものを持ってなかったから新しい発見だ。
「何やってたの。こんなところで」
 僕の方を向くわけでもなく、ハンカチをひらひらと振ってみたりして弄びながらジュペッタは聞いてくる。野生のポケモンなら人間を警戒して近づいてこないものだとばかり思っていた。それに見ず知らずの人間にどうしてこんなことを聞くのか不思議だったのだが、この子の様子からするとただ何となく尋ねてみたかっただけなんだろう。だけど何をやっているのかという質問は今の僕には辛い言葉だ。失敗と不運を積み重ねて行き着いたというよりは連れてこられた先が路地裏で、極めつけはジュペッタからの手痛い平手打ち。本当、今日の僕は何をやっているんだろう。むしろこっちがジュペッタに聞きたいくらいだ。
「分からない、な」
 情けなくて答える気分じゃなかったのと、本当に何をやってるか分からなかったのとが半々ぐらい。路面に腰を付けて壁にもたれ掛かったまま僕は吐き捨てるように言う。しばらくの間沈黙が流れた。僕も俯いたまま顔を上げず、ジュペッタも僕の横から去っていく気配がない。何か他に言いたいことでもあるのかと振り向くと目が合った。道端に転がっている石ころのように、さもつまらない物を見つめるような冷めた視線。
「……ふん」
 僕の物言いがどこか気に入らなかったのか、ジュペッタは眉をひそめるとそのまま薄暗い路地裏の奥へと消えていった。何だったんだろう。とりあえずはあの子の怒りが収まってくれたみたいでよかった。ゴーストポケモンで気が強そうな感じだったし、変なわだかまりを残すと後々尾を引きそうな雰囲気がする。頬を叩かれた新たな痛みがあったせいで、殴られた腹の痛みを大分忘れられたように思える。ジュペッタのおかげで立ち上がれるくらいには回復したと強引に解釈しておこう。とはいえ顔に触れると鈍い痛みがまだ残っている。もしかしたら赤い痕になっているかもしれない。さっさと家に帰って鏡を見てみよう。

―2―

 家に着いたときは辺りが薄暗くなりかけていた。玄関のドアを開けて靴を脱ぐ。ただいまとは言わなかった。言っても答えてくれる相手がいない、僕は一人暮らしの身なのである。真っ先に洗面所へ向かって電気を付けると鏡を覗き込んだ。幸い血は出たりしていなかったものの、なかなかくっきりとした赤い手形の痕跡が残っている。ある程度時間が経っていてこれだからな。路地裏を後にした直後はもっと真っ赤だったと思われる。この顔で電車に乗っていたと考えると恥ずかしい。コンビニのトイレかどこかで先に確認しておけば良かった。男性が女性を怒らせて顔に平手打ちを食らうシーンは漫画やドラマでは割と見かける演出だけど、それをまさか自分が体験することになるなんて。怒らせたのは女性じゃなくて雌のジュペッタだったわけなんだけどさ。ついでにおっさんに殴られたお腹の辺りも見てみたけれど何も残っていなかった。その筋の人は体のどこが痕が残りにくいかを心得ていてそうした場所を狙うと聞いたことがある。相手から被害を訴えられた時の予防策だとすれば理にかなってはいるが。やっぱりあのおっさん本物だったんだろうか。まあどうでもいいか、そんなことは。今夜は食事を作る気も起こらなかったので、夕食は冷蔵庫の残り物と冷凍食品で適当に済ませるつもり。台所の冷蔵庫からラップした皿と冷凍庫から袋入りのグラタンを取り出す。あとは電子レンジで温めるだけでそれなりに味の保証された晩飯が出来上がるというわけだ。僕は文明に感謝しながら床に敷いたカーペットの上に腰を下ろして、机の上に置いた夕食を口に運ぶ。最近は冷凍食品も割と美味しく仕上がってるので満足度はそこそこ。今日はテレビをつける気にもならず、黙々と食べ進めたのであっという間に晩御飯は終了だ。食べた後の片付けは明日でいい。僕は出来るだけそのまま何も考えないようにしながらすぐ横のベッドの上に倒れ込んだ。ちょっと固めのベッドのクッションが、満身創痍の僕の体を受け止めてくれる。ベッドの安心感はいつの日だって平等だ。
「……っ」
 ベッドの布地と頬が擦れて僅かな痛みが走った。今日は極力何も考えずに寝てしまいたいのに、平手打ちされたジュペッタのことが頭に浮かんでしまった。ただでさえ鏡を見るたびに嫌でも思い出しそうなんだ。唾を掛けてしまったのは本当に申し訳なかったから、そこまでして僕の思考の中に割り込んでこなくて良いのにな。しかし一旦頭に出てくるとそこからじわじわと思考が広がっていってしまう。そういえばあのジュペッタはなんであんなところに居たんだろう。街中にジュペッタが野生で出るなんて聞いたことがない。どこか他の場所から迷い込んできた個体だろうか。僕を睨みつけていたときの目つきは確かに恐ろしかったのだけれども、振り返って去っていくジュペッタの背中は何となくだけど寂しそうに感じられた。他に仲良しのポケモンもいなくてずっと一匹で過ごしているのかなあ。ん、待てよ。あの時ジュペッタに渡したハンカチって返してもらってたっけか。慌てて体を起こしてポケットの中を探ってみるが、ない。ジュペッタにあのまま持って行かれちゃったのか。ぼんやりとしててちゃんと確認しなかった僕にも原因はあるけど、あのハンカチは十年近く使っててかなり気に入ってた奴だからな。嫌なことが積もり積もって行き着いたあの路地にもう一回足を運ぶのは正直なところ気が進まない。だけど、その気持ちを差し引いても僕にとってそれは大事なもの。明日のバイト帰りにもう一度裏路地に寄ってみよう。

 ◇

 次の日。今日は寝坊もしなかったし、電車も送れなかったし、バイトにも遅刻しなかった。先輩に小言を言われることもなく、滞りなく進んだ至って平凡な勤務時間であった。平穏な日常って本当に素晴らしい。昨日の散々っぷりが嘘のようで逆に不安になってくるくらいだ。夕方の商店街の雑踏の中、今度はちゃんと前を見ながら僕はやや早めのペースで歩いていた。もしかしたら昨日のおっさんがまだ近くをうろついているんじゃないかと、必要以上にきょろきょろと周囲を警戒しながらどうにか無事に路地裏の入り口までたどり着いた。おっさんに強引に連れ込まれたときは分からなかったけど、ここってこんなに薄暗くて道も狭くて圧迫感のある場所だったんだな。特別な用事でもなければ極力足を踏み入れたくない雰囲気がある。だけど今日訪れた僕の用事はその特別なものに値すると言っても過言ではなかった。確か昨日ジュペッタと会ったのはこの辺、だったっけか。僕が壁にもたれ掛かっていて、その隣にちょうどジュペッタがいて。もし使い終わったハンカチが放っておかれているとしたらこの近くにある可能性が高い。いくつも並んでいるエアコンの室外機の隙間や電柱の影などをくまなく探し回ってみたものの、ない。グレーの目立たない色だから背景に溶け込みやすいとは思うけれど、流石にそれを見落としはしないと思う。やっぱりジュペッタがあのまま持って行ってしまったんだろうか。野生のポケモンの行動範囲なんて皆目分からないし、手がかりなしにジュペッタを探すのは途方もない話。しかしわざわざここまで出向いてすぐに諦めて手ぶらで帰るというのもな。むやみに路地を進んでいくのは躊躇われるけれど、せっかく来たんだしもうちょっとだけ探してみようか。
「……どいて、邪魔」
 ふいに背後から声が掛かって、思わず横に避けた僕を尻目にのそのそと歩いていく黒い影。あまりにも唐突な登場の仕方で、昨日のジュペッタだと気がついたときには大分背中が小さくなってしまっていた。僕は慌てて追いかける。
「待って、ちょっと待っててば」
「……何?」
 さも煩わしそうに僕の方を振り返るジュペッタ。変につついたら爆発してしまいそうなくらいに不機嫌そうな態度だった。やっぱりこのジュペッタ間違いなくあのおっさんよりも迫力がある。呼び止めてしまった僕がやめとけばよかったかなと少し後悔するくらいには。いやいや、僕は昨日のハンカチの行方を聞くだけだ。何もジュペッタの神経を逆なでする要素なんてない。
「あのさ、昨日の」
 意を決して切り出した僕の言葉を遮ってくれたのは、ジュペッタの大きなお腹の音。ぐるぐると僕の方にも充分聞こえた。ジュペッタの赤い瞳が一瞬大きくなる。さすがに恥ずかしかったのか咄嗟にお腹を押さえ、微妙に僕から目を逸らしてばつの悪そうな表情。おや、突っ慳貪な態度だとばかり思っていたけれど案外可愛いところもあるじゃないか。何だか苛々しているように感じられるのも、もしかしたらジュペッタが空腹だからなのかもしれない。空腹を満たせないままでいると心のゆとりを奪っていくからな。
「お腹減ってるなら、食べる?」
 ここへ来る途中、試供品を配っていたおばちゃんからもらったのが丁度ポケモンフーズだった。僕はポケモンは持ってないけど、ただでもらえるのと面と向かって差し出されて断りづらかったのとでつい受け取ってしまったのだ。別に与えてはいけないポケモンとかは書かれていなかったから問題はないだろう。口に合うかどうかは分からないけどないよりはいいんじゃないかな。僕は袋を開けて差し出してみた。途端、ぎろりと表情を鋭くしたジュペッタの手が伸びてきて袋を弾かれる。場所は違えど再び叩かれてしまった手の甲が痛い。支えを失った袋からポケモンフーズがぱらぱらと地面に散らばった。
「馬鹿にしないでよ。私は人間の施しなんて受けない……」
「あ、いや。気に入らなかったんだったら、えっと、その……ごめん」
 ジュペッタから思いがけない拒絶を受けて、半ば気が動転してしまっていた。怒らせるつもりなんて全くなかったし、何がジュペッタの気持ちを逆なでしてしまったのか僕には見当がつかなかった。何かまずい状況になりそうな雰囲気を感じると、自分が悪いかそうでないかにも関わらず謝罪の言葉が出てきてしまう。想定外の展開には応用が利かないのであった。
「もう私に関わろうとしないで」
「ま、待ってよ。昨日君に――――」
 そのまま立ち去ろうとするジュペッタ。これでさよならされたら困る。僕の本題は終わってない。追いかけて背中に声を掛けると、ぴたりとジュペッタは足を止めた。くるりと振り返ったその形相に僕の背筋は冷え切ってしまった。ついさっき、一瞬でもジュペッタに可愛いところがあると思ってしまった評価を大いに改めなければならない。それくらい僕を睨みつけるジュペッタの視線は憤怒に満ち溢れて、殺気すら感じると言っても過言ではないくらい。
「しつこいのは嫌いなのよっ!」
 ジュペッタがすっと差し出した両手から、黒に近い紫色の球体がばちばちと音を立てながら出現する。ええとこれは確か、シャドーボールって言ったっけ。ゴーストタイプの中でも威力の高い強力な技だったと記憶している。こんなの食らったら平手打ちどころの騒ぎじゃない。のんきに分析している場合ではなさそうだった。
「わ、わ、悪かったよ……!」
 ぎらぎらした瞳のジュペッタにもはや話が通じるとは思えない。僕は怒涛の勢いで路地裏を飛び出していた。表の商店街を行く人々が突然路地から駆け出してきた僕に妙な目を向けているのが分かる。胸に手を当てるとまだ鼓動が早かった。とてもじゃないが今のジュペッタはまともに話ができる状態ではない。結局ハンカチのことは切り出せないまま終わってしまった。いっそのこともう諦めてしまおうかと思いもしたけれど、ここまできて投げ出すのも迫力に負けてしまったみたいで何だか情けないしな。ひとまずはジュペッタの頭が冷えるのをしばらく待ったほうが良さそうだ。

―3―

 ジュペッタにものすごい剣幕で追い返されたあの日以降、バイトの帰りに何度か路地裏の入口まで足を運んでみたことはあった。ところがいざ足を踏み出そうとするとあの時のとてつもなく恐ろしい表情が僕の頭に浮かんできて、途端に足が動かなくなってしまうのだ。単なる脅しであんなふうにシャドーボールを両手に抱えたりするものだろうか。どうもジュペッタは本気で僕に命中させるつもりだったように思えてならない。薄暗い路地裏にぼうっと浮かび上がった不気味な紫色の光は今でも僕の脳裏に焼き付いて離れてはくれなかった。あれがジュペッタなりの最後の忠告だったとすれば、それをわざわざ破りにいくのは自殺行為に等しい。気に入っていたハンカチに執着するあまり命を落としてしまったのではあまりにもやりきれない。今日も今日とて路地裏の近くまで来てみたものの、やっぱり僕の足は簡単には前に進んでくれそうになかった。自分の体だというのに難儀なことだ。僕は目を閉じて小さくため息を零した。
「また、今度にしようか……」
 ぽつりと呟いた後、僕は路地裏に背を向ける。また今度という言葉は自然と口から出てきていた。完全に諦めたわけではない。やはりどこかでハンカチへの未練を捨てきれず、再びここへ訪れたいという意思は僕の中にあるのだ。時間が経てば経つほどハンカチが見つかる可能性は少なくなっていくだろうけど、それと同様にジュペッタの怒りも減っていくと信じて。

 ◇

 それから数日後のこと。その日はバイトが休みで特に予定もなく僕は家でごろごろとしていた。外は雨が降っていて、窓を隔てても雨音が部屋に入り込んでくるくらい。結構強い雨だった。ベッドの上に寝転がっていた僕は無意識に寝返りを打つ。もう頬の痛みはなくなっていた。住処を持たない野生のポケモンは、こんな雨の日はどこかでひっそりと雨宿りしているんだろうか。僕はおもむろに体を起こすと出かける準備を始めていた。雨が降っているから何かが変わるわけでもないだろうけど、雨に濡れてるなら少しはジュペッタの頭も冷えてるんじゃないかという短絡的な考え。もし今日ジュペッタに会えなかったら、あるいは会えてもハンカチの行方が分からなかったら完全に諦めるつもりでいた。あの路地裏にチャレンジするのは今日で最後にしよう。そう心に決めて、僕は傘を片手に玄関のドアを開けたのだ。

 電車を降りて駅から歩くこと数分。雨の勢いは弱まる感じがしない。しっかり傘を差していたというのに腕の辺りが少し濡れてしまったくらいだ。とはいえ、普段と比べると人通りもまばらで思ったよりも早く目的地に到着できたのは雨のおかげだろう。ただでさえ薄暗い路地裏の様子は雨だと余計に分かりづらい。入り口で目を凝らしてみてもジュペッタがいるかどうかまるで判断がつかなかった。傘を持ってない方の手を胸に当てて小さく息を吸い込んでから僕は足を踏み出した。道幅の狭い路地だ。傘を広げていると時々壁に擦れる音はしていたものの、どうにか傘を差したまま進むことができた。随所に出来ている深そうな水たまりを避けつつ、僕が最初にジュペッタと会ったであろう場所までたどり着いた。辺りを何度か見回してみても何もない。前回来た時も見当たらなかったし、今日になって出てきているなんてそんな都合のいい話はない、か。あのジュペッタも姿が見えないし、手がかりを訪ねたくても居ないのではどうしようもないよな。かと言ってこんな雨の中、路地裏の奥へ探しに行くのも抵抗がある。もう諦めるしかないのかと肩を落として俯いたときに、ふと僕の視界の端で何かが動いたような気がしたのだ。ちょうどエアコンの室外機の影になっていたのと、悪天候による薄暗さで見落としていた箇所。
「あっ……」
 僕は思わず声を上げてしまっていた。一瞬、黒っぽい布のような何かが壁際に置かれているものかと見間違いそうになった。だけど、それは両手を投げ出して壁にもたれ掛かったまま目を閉じているジュペッタの姿に間違いなかった。何だか以前会った時よりも小さく見える。確かに会うことは会えたけど、どうやら僕に気づいていなさそうだし何だか様子がおかしい。野生のポケモンがこんな雨の中、雨ざらしになっているところでわざわざ眠ったりするだろうか。二回目に会ったときにお腹を空かせていたジュペッタの様子が僕の頭に引っかかる。まさか、な。
「ジュペッタ?」
 返事はない。控えめに声をかけたのでは雨音にかき消されてしまう。もっと声を張らなくては。ジュペッタはきっと僕の声が聞こえなかっただけ、そうだろう。そうだよな。そうであってくれ。
「おい、ジュペッタっ!」
 今度はしゃがんでジュペッタに顔を近づけて、思い切って腹の底から声を上げた。降り注ぐ雨の音には負けていなかったと思うけど、やっぱり何も返ってはこなかった。雨からくる肌寒さとは別の、嫌な感じの震えが僕の背中を走った。おそるおそる手を伸ばしてジュペッタの肩を軽く揺すってみる。これでも何の反応もなかったら、考えたくはなかったけどもしかすると。
「……ん」
「ジュペッタ!」
 固く閉じられていたジュペッタの瞼がゆっくりと開き始めた。だけど半開きの状態からそれ以上開かない。かろうじて聞こえてくる呼吸音も雨の音に負けてしまいそうなくらいに希薄だった。視線もどこか虚ろでちゃんと僕の姿が見えているかどうか怪しい。ポケモンの状態に明るくない僕から見てもジュペッタが衰弱しているのは判断がついた。
「……なに?」
 体が弱っていてもなお、僕を突っぱねるような態度は変わらない。自分をここまで貫くのは対したもんだけど、今回ばかりはそれを言っていられる状況ではなさそうだ。
「こんな雨の日にこんなところで、何やってんだよ」
 休むにしたってもっとましなところはあるはずだ。雨にずっと打たれ続けると体温も下がって、それだけで体力も奪われてしまうというのに。前みたいにお腹が減っているとすれば余計に休憩する場所として選択するべきではない。
「別にどこで何しようが……私の勝手でしょ。あんたには関係ないし……」
「だけどジュペッタ、このままじゃ」
 今はまだ大丈夫でも、何もせずにほうっておいたら遠くないうちにきっと。直接的な言葉をあまり口にしたくなかった僕は言い淀んでしまったけど、ジュペッタだって薄々は気がついているとは思う。
「……そうね、死ぬかもしれない。だけど、それがなに?」
 ゴーストポケモンだから、死ぬという概念がないとかそういうわけではないはずだ。現にジュペッタはこれだけ弱っているんだ。それでも全く弱音を吐いたり怖がったりせずに、毅然とした口調を崩さないのはジュペッタなりの精一杯の強がりなんだろうか。自身の死を当たり前のように捉えていたジュペッタの言葉に、僕は何も言い返せなかった。
「こんな路地裏で細々と生きてれば……いつかこういう日が来るかもしれないって思ってた。それがたまたまこの時期だった……それだけ」
 ジュペッタは抑揚のない声で淡々と口にする。何もかもどうでも良いような投げやりな口調だった。どんな経緯でジュペッタがこの路地裏で生きてきたのか僕には分からない。そして、どうして生きることに対して投げやりになっているのかも。でも、ジュペッタがどうでも良くても僕にはどうでもよくはなかったんだ。
「もう……いいでしょ。私、すごく疲れたから……そっとしといて……」
「僕は、良くないよ」
 また目を閉じようとするジュペッタ。もしそれを許してしまえばきっと二度と目を覚まさなくなる。もう雨を気にしている場合ではなかった。僕は傘を畳んでエアコンの室外機の横に乱雑に立てかける。今度戻ってきたらハンカチに続いて傘もなくなってるかもしれないな。でもそれはそれで仕方がない。僕はジュペッタの脇に両手を伸ばして持ち上げると、そのまま抱き抱える。軽く力を込めた僕の指先からじわりと水気が滴り落ちた。思っていたよりも重みがある。雨に打たれ続けて体が水を吸っているからだろうか。ぬいぐるみポケモンの体が本当の綿で出来ているとは考えにくかったけど。そんなことより、ええと。最寄りのポケモンセンターは、確かここを出て左の方角だったっけか。ろくに地図の情報を見ずに雰囲気だけで場所を記憶していたのがこんな時になって悔やまれるなんて。
「……ねえ。見ず知らずの野生ポケモンにこんなことして楽しい?」
「会うのは三度目だ。見ず知らずじゃないんだよ。いいからもう喋るな」
 本来のジュペッタなら死に物狂いで抵抗して、僕が触れることを許してくれなかったはず。こんな思い切った行動が出来たのも、最初にジュペッタの肩に触れたときに僕の手を払いのける気力すら残っていなかったからだ。今なら多少なりとも無茶ができる。後のことは後から考えればいい。この期に及んで僕に嫌味を零せるくらいだから、きっとまだ間に合いそうだ。そう信じるしかない。あちこちに出来ていた深い水たまりなど気にも留めずに僕はがむしゃらに駆け出していた。

―4―

 ジュペッタをポケモンセンターに預けた後、びしょ濡れだったので一旦家に戻ってシャワーを浴びて服を着替えた。ジュペッタを抱えたときに放り出した傘は、幸い元の場所に転がっていたので帰りに回収することができた。どうもジュペッタは軽い栄養失調状態だったようで、命に別条はないらしい。センターの人が言うには、栄養になる点滴を打って半日くらい休めば意識もはっきりしてくるとのこと。あんな雨の中身動きもせずぐったりとしていたのだから、ジュペッタはきっと重篤な状態だと思い込んでいた僕からすれば、そんなにあっさり回復するものなのかと拍子抜けだった。まあ確かにポケモンの生命力は計り知れない部分もあるし、センターの人がそう言うのなら間違いはないのだろう。だいたい半日くらい、か。あれから二時間くらいは経っている。センターの人がジュペッタの意識が回復したら連絡をくれると言ってくれたけど、先に戻ってロビーで待っていることにしよう。部屋で時間を潰すにしても、どうにもジュペッタのことが気になって他のことが手につきそうにないし。外の雨音はさっきと比べると幾分か穏やかになりつつあった。無事に手元に戻ってきた傘を手に取ると、僕は再びポケモンセンターへと向かったのだ。

 傘を畳んで入口の置き場に差し込んで、僕はポケモンセンターの自動ドアを潜った。雨はかなり弱まってきており普通に傘を差して歩いていれば服はほとんど濡れない程度。とはいえ本日は悪天候のせいもあってか入り口のロビーで休憩している人や談笑している人の姿はまばらだった。ここへ来るまでだいたい三十分。まだまだ半日には程遠い。センターの人に声を掛けるのもなんだか急かしているみたいで申し訳ないし、ひとまずは休憩用のベンチで雑誌でも読んでいることにする。本棚に乱雑に置かれた雑誌を一つ手に取って腰掛ける。多数の人が読んでは棚に戻しを繰り返したせいか雑誌の裾は丸くなって反り返っていた。ジュペッタが目を覚ますまでの時間潰しだ。読むことに没頭するわけでもなくぱらぱらとページを捲ってざっくりと目を通していく。話題になっているテレビ番組、周辺でオススメのお食事処、ポケモンを可愛く見せるためのグッズなど内容はとりとめのないものばかり。目で見た瞬間は頭に入ってくるけれどページを進めるうちに次第に消えていって僕の中には残らない。そうした生産性のない行動を続けて三冊目に差し掛かったとき、背後から不意に声を掛けられた。振り返るとそこに立っていたのはポケモンセンターの人。
「先ほどジュペッタを連れてこられた方……ですよね?」
「はい、そうです」
 僕に話しかけてきたのは白衣を着たやや背の高い女の人だった。受付をしてくれた人とはまた別の人、だと思う。正直ジュペッタのことで一杯一杯だったのでどんな顔だったかあまり覚えていないのだ。
「意識が戻りましたよ。面会されますか?」
「あ、すぐ行きます」
 びしょ濡れのままジュペッタを抱えて飛び込んだからな。僕の歩いた後は掃除が大変だったかもしれない。連絡の通知もなく直接声を掛けてきたということは、印象的な外来患者だったために顔を覚えられてしまったか。まあこの際そんなことはどうでもいい。ジュペッタが回復したのなら何よりだ。僕は持っていた雑誌を本棚にしまうとセンターの人の後に着いていった。

 ポケモンセンターの内装がどうなっているのか、意識したことはなかった。ポケモンを持っていない僕からすればほとんど利用することのない施設。せいぜい受付と休憩できるベンチや机があるロビーくらいしか印象に残っていない。こんなにも奥行きがあっただなんて驚きだ。廊下に面した個室のドアがずらりと並んでいる。番号が書かれていなかったら確実に迷子になってしまいそうなくらい部屋数が多かった。何度か廊下を曲がった先にあった一つの部屋の前でセンターの人は立ち止まる。
「こちらになります」
「案内ありがとうございました」
 そのままいそいそとドアに手を伸ばそうとして、僕はセンターの人に呼び止められる。
「ジュペッタは野生のポケモンだと聞いています。あの状態ですから、あなたを攻撃するようなことはないとは思いますが……もし何かありましたら部屋に入ってすぐのところに緊急用ボタンがあります。それを押してください」
「……分かりました」
 真剣さを纏ったセンターの人の言葉に妙な迫力を感じた。手持ちのポケモンを見舞うのならともかく、弱っているとはいえ相手は野生のポケモンだ。僕もそのことを忘れかけていた。こちらの善意が相手にとってもそうだとは限らない。現にジュペッタは僕の行為を迷惑がっていたわけだし。きっと野生ポケモンをセンターに連れてきて、面会した時に攻撃されたという事例が過去に何度かあったのだろう。怪我や病気を治すべき場所であるポケモンセンターで新たに怪我人が出たとあってはいたたまれないから、センターの人も僕に念を押したのだ。
「では」
 軽く会釈をしてセンターの人は廊下の奥へと歩いて行った。正直なところ、ここからポケモンセンターの入口まで案内なしで戻ることができるか自信がなかったけれど、今はジュペッタの容態を確認するのが先決だ。僕はドアに手を掛けて開き、ゆっくりと部屋の中へ足を踏み入れた。僕が住んでいる部屋よりも一回りくらい小さくひっそりとしていて殺風景な場所だった。ドアを開けて突き当たりには壁の半分くらいを占めている窓があってカーテンが掛かっていた。もう外は暗くなっているので閉められている。部屋の真ん中にあるベッドの上でジュペッタは静かに横たわっていた。瞳は開いてはいるが体はぴくりとも動かない。本当にベッドの上に置かれたぬいぐるみと言われれば信じてしまいそうなほどに。微かに上下しているお腹で、ジュペッタが呼吸をしていることがなんとか確認できるくらいだった。僕はベッドの傍まで行き、横にあった椅子に腰掛ける。これで僕とジュペッタの顔が少しだけ近くなった。
「……調子はどうだい?」
 僕の声にジュペッタは視線だけをこちらに向けてまたすぐに元に戻した。答えるつもりも、話すつもりもないという意志の現れか。語らずともジュペッタの視線は全てを伝えてくるようだった。ベッドと椅子の距離は近いはずなのに見えない大きな隔たりを感じる。僕は小さく息をついた。仕方ない、ジュペッタが喋りたくないのなら無理強いはできないし。今夜は体を休めることを優先させた方がいいだろう。どのみちこのままずっとポケモンセンターに預けっぱなしには出来ない。ひとまずは日を改めて来ることにしようか、と僕が椅子から立ち上がろうとしたとき。
「ねえ」
 ジュペッタから声が聞こえた。首や視線は動かさず声だけを発したのだろう。一瞬誰が喋ったのか分からなくなって反応するのが少し遅れてしまった。
「どうして、私を助けたりしたの?」
 首をこちらに向けたジュペッタ。その赤い瞳にも声にも何の感情も見受けられなかった。ただ淡々と言葉を連ねているだけ。すっかり覇気がなくなってしまっていて、初日に僕に平手打ちを叩き込んできたのと同じポケモンとは到底思えないくらいだった。
「さすがにあの状態の君をほっとけるほど無神経じゃない」
「じゃあ、私がここで回復したら……そのあとはどうするつもりだったの?」
「え、それはもちろん君がいた路地裏に……」
 ジュペッタは野生のポケモンだ。弱っていたのを放っておけず思わず助けてしまったけど。やはり元いた場所へ戻るのが道理だと思って、言いかけた僕の言葉を遮るように。ジュペッタはふふと乾いた笑い声を零した。
「やっぱり、興味が無くなったらさよならなんだ。そんなもんよね、人間なんて」
 どうしてその結論にたどり着くのか僕には理解が追いつかなかった。興味が無くなったとか、人間がどうだとか。いったい何の話をしているんだろう。ジュペッタからすればもちろん不本意だったことは認める。だけど僕としては一時的にポケモンセンターで休ませてもらって、元気になったら普段の暮らしに戻ってもらう。それだけのつもりだった。どうにもジュペッタは僕の言葉を曲解しているようにも感じ取れる。
「中途半端な優しさならない方がまし。もう誰かに裏切られるのは嫌なの。どうせ見放すんだったら、最初から優しくなんてしないでよ……っ」
 声を震わせるジュペッタの目には涙が浮かんでいた。思いがけないジュペッタの感情の現れに僕は戸惑う。体が弱ったことで気持ちが不安定になっているところがあるのかもしれない。裏切られたというのは、昔一緒に居たトレーナーに捨てられたとかそういう事情だろうか。だとすれば僕が干渉しようとしたことを頑なに拒み続けたジュペッタの態度もなんとなく頷けるような気がした。一度心に受けた傷は深く、人間に対する不信感も根強く残っているのだろう。

―5―

 事情を知らなかったにしても僕の一方的な行動がジュペッタを苦しませているのだとしたら、それはいたたまれないことだ。いったい僕はどんな風に言葉を掛けてあげればよいのだろうか。言葉巧みに相手の心を落ち着かせる話術なんてもちろん持ち合わせていなかったし、上辺だけの薄っぺらい常套句ではきっと納得してくれないはずだ。ただ、ひとつだけどうしても言っておきたかった言葉はある。このタイミングでそれを言うのかとジュペッタには呆れられるかもしれないけど、今一番伝えておきたい事柄でもあったのだ。
「実を言うと……君を助けたのには一つ目的があったからなんだ」
 ジュペッタの瞳が僅かに広がって、すぐまた元に戻る。僕の行動が完全に善意だけだと思っていたような雰囲気だった。確かに行動するうちに何としてでもジュペッタを助けないとという気持ちばかりが先行して、僕自身も当初の目的を忘れかけていたのだが。
「……何よ?」
「最初に会った日、君に渡したハンカチがあっただろ?」
「ハンカチ?」
 どうにも腑に落ちない様子でジュペッタの顔には疑問符が浮かんでる。何となく予感はしていたがこれは。いやいやまだ希望を捨て去ってしまうのは早い。
「ほら、僕が君に唾をかけちゃって、何か拭くものないかって言われて渡したやつだよ」
「……知らない。覚えてないわ」
 これだけ情報を追加してもなおジュペッタに突っぱねるような言い方をされれば、いい加減に僕の予感も確信へと変わる。ハンカチを渡したのが一週間近く前。ジュペッタが使った後放置していたのだとすれば、風で飛ばされて何処へやらの状態だ。薄暗い路地に溶け込むくらい真っ黒になって元の形が分からなくなっているかもしれないな。それなりに引きずっていたハンカチへの未練をようやく断ち切る選択ができた瞬間でもあった。
「もしかして、あんたの目的ってそれ? たかがハンカチじゃない、馬鹿馬鹿しい」
 鼻で笑うような聞いて損したと言わんばかりのジュペッタの態度。確かにジュペッタにとってはたかがハンカチかもしれない。だけど僕にとっては昔からずっと使ってきた大事なものだったんだ。さすがに腹が立った僕は、椅子から立ち上がってベッドの縁を掴んでいた。
「言ってくれるじゃないか。僕がどれだけ大切にしていたかも知らないで……!」
 まさか僕がハンカチのことでこんなにも怒りをあらわにするとは想定していなかったのか、ジュペッタが一瞬怯んだように見えた。もちろんそれは一瞬だけで、むすっとした顔つきに戻るのにそんなに時間は掛からない。僕としてはかなり本気で憤慨していたつもりだったのだけれど、そんなに迫力がなかったのだろうか。確かに普段あまり目くじらを立てることも少ないから、怒り慣れていなかったというのもあるかもしれないが。
「じゃあどうしろって言うのよ。私をハンカチの代わりにでもするつもり?」
「大きすぎる……じゃなくて。君にはこれで一つ貸しが出来たわけだ、だから」
 ジュペッタではいくらなんでもハンカチと呼ぶにはサイズがありすぎる、だなんて冗談めいた言葉を間に受けている場合じゃなかった。僕はそっとジュペッタの脇に手を伸ばしてベッドの上に座らせる。抵抗されることは覚悟していたのに、意外にもすんなりとジュペッタの体は僕の腕に従ってくれた。
「だから……僕の好意くらいは素直に受け取ってくれたっていいじゃないか」
 相手のことが心配だったから、いてもたってもいられなくなって手を差し伸べてしまう。僕の行為はきっとジュペッタの言う中途半端な優しさ、なのだろう。だけどそれってそんなにいけないことなのだろうか。あの時僕が、野生ポケモンに必要以上に干渉するべきではないと切り捨てていればきっと、ジュペッタはあのまま命を落としていたのではないかと思う。僕が助けてしまったのは哀れみとかそういうのじゃなくて、自分の目の前でこの子が死んでしまったら嫌だと強く感じたから。それだけだった。
「それに今、ハンカチが必要なのは君の方じゃないのかい?」
 僕はそっと手を伸ばして指先でジュペッタの目元に触れる。溢れ出していた温かな雫が僕の手のひらへと流れ込んでくる。ジュペッタは慌てて自分の手で目を押さえて、手のひらを濡らしているものの量に驚いているようだった。
「あ……う……」
 次々と溢れ出してくる自分の感情に、どうしていいか分からずほろほろと涙を流し続けるジュペッタ。僕は何も言わずにジュペッタの背中に手を回してぎゅっと抱きしめた。今回ばかりはハンカチの役目を僕が引き受けたって構わないさ。これまでの強気で尊大な態度は心に巣食う不安や寂しさの裏返しだったのかもしれない。僕がそれらを少しでも和らげることが出来るのなら、今は何も言うまい。ジュペッタの気持ちが楽になるまで思う存分に涙を流すといい。
「どうしてっ……くれるのよ。こんなにも、私の心を振り回して……」
 僕の胸に顔を埋めたままの、嗚咽が混じったジュペッタのくぐもった声。どんな形であれ他者から受けた優しさを一度受け取ってしまえば、強がっていても心は揺さぶられてしまうもの。ベッドの上に伸ばした僕の手を払い除けたりしなかったのは、ジュペッタが心のどこかで誰かに助けを求めていたからなのかもしれない。ポケモンセンターで治療を受けなければ危ないくらいに体力を消耗して、追い詰められてようやく本心が出てきた可能性もあるけれど。僕としてはもちろん、ジュペッタの素直な気持ちは大事にしてあげたいと思う。
「興味が無くなったらさよならするのが人間だなんて君には思ってほしくない。僕なりに責任は取らせてもらうよ」
「もし私を裏切ったりしたら……どこまでもどこまでも追いかけて、あんたを呪ってやるんだからっ……!」
 言いながら僕の背中に手を回してぎゅうっと力を込めてくるジュペッタ。これは比喩でも何でもなく言葉通りの意味なのだろう。ゴーストポケモンのジュペッタが言う分だけあって底知れない恐ろしさがある。もちろん僕は呪いの対象になるような振る舞いをするつもりはなかったけど。
「肝に銘じておくさ」
 ジュペッタの体はふかふかしていて柔らかい。ハンカチというよりはやっぱりぬいぐるみとしての感触が優っている。そういえば小さい頃一人で眠るのが怖かったとき、ぬいぐるみを抱いて寝ていたような記憶がうっすらとある。僕が成長していくにつれてだんだんと必要としなくなって、結局そのぬいぐるみがどこに行ってしまったのか残念ながら僕は覚えていない。だけど数年ぶりに感じたこの手の中のぬくもりは手放さないつもりだ。自身の気まぐれでジュペッタを見限るようなことをしたら、この子を捨てた人間と同じ。ジュペッタにそんな風に評価されてしまうのは癪だからね。

 ◇

 数日後。完全に体調が回復したジュペッタを僕はポケモンセンターから引き取った。初めて手にしたモンスターボールの感覚に少々戸惑いながらも家路に着く。玄関に足を踏み入れてただいまと言っても、何も返ってこないのは同じ。だけどこれからは一緒にただいまと言える相手がここにいる。靴を脱いで家に上がると僕はボールの開閉スイッチを押す。何しろ今までやったことすらなかったからボール開閉の操作に手間取って、ポケモンセンターの人に説明を受けたのはジュペッタには内緒。やがてボールから赤い光が飛び出してジュペッタの形になっていく。どういう原理でこうなっているのか、センターの人に聞いてみたら苦笑いされたので仕組みは分からないけれどとりあえず便利なものなのだと認識しておいた。僕の家に初めて降り立ったジュペッタは何度か目瞬きをして部屋をぐるりと見回す。
「質素ね」
 最初に抱いた感想がそれか。まあ、一人暮らし用の部屋だし必要最低限の設備という感じはする。今の僕はしがないバイト生活だから無理はできない。だけどジュペッタも来たことだしいずれはもっと広いところを借りられたらいいとは思う。
「まあ雨風は凌げるし、慣れれば居心地は悪くないよ」
 言いながら僕はベッドの上に腰掛ける。このこぢんまりとした部屋にソファーなんて洒落たものはない。腰を下ろすなら必然的にここになるのだ。ジュペッタも座ってごらんと手で促す。まったくもって遠慮する気配もなくベッドの上にぴょんと飛び乗るジュペッタ。全身を受け止めたベッドがぎしぎしと軋む。もちろんベッドもこの部屋に相応な品物だからほどほどにしてもらわないと寝る場所がなくなってしまいそうだ。僕の心配をよそにジュペッタはクッションの感触がかなり気に入ったようでご満悦だった。
「なかなかいいじゃない。今日からここで寝るわ」
「おいおい、僕の寝場所を取らないでくれよ」
「ほら、床にもスペースあるし」
「だめ」
 ジュペッタにベッドを占領されて僕が床の上で寝るのは何かが致命的に間違っている気がする。頑なに首を縦に振らない僕にジュペッタは不服そうな表情をする。そんな顔をしてもだめなものはだめだ。中の構造がどうなっているかはともかく、休むのはモンスターボールの中で我慢してもらわねば。
「どうしてもベッドがいいなら一緒に寝るかい?」
「な、あ、あんた何言ってんのよ!」
 てっきり呆れられるか引かれるかのどちらかだと思っていたのに、意外と可愛い反応するじゃないか。顔を赤くしたりはしてないにしても、もしかして本気にしたのかな。僕は笑いながらやんわりと冗談だよと付け加えておいた。まあ僕としては別に構わないのだけれども、ポケモンとは言えジュペッタは雌だし抵抗があるのも頷ける。ぬいぐるみポケモンのジュペッタだけど実際に枕元に置くとなるとこのベッドでは場所を取りすぎてしまうし。
「そうだ。自己紹介がまだだったよね」
 ベッドから立ち上がって僕はジュペッタの方へ向き直った。こういうのはちゃんと面と向かって言っておくべきだと思ったから。
「僕はルフカ。これからよろしくね、ジュペッタ」
「ふうん、あんたルフカって言うんだ。……よろしく」
 僕の顔を見上げてくれてはいたけれど、微妙に視線を逸らされていたような気がしたのはジュペッタなりの照れ隠しなんだろうか。でもちゃんと言葉を返してくれたし、曲がりなりにも僕との暮らしを受け入れてやろうという意思は見て取れたから。今はそれだけでも十分だった。
「そうだね……いつまでもジュペッタじゃよそよそしいから、君に似合うニックネームを考えておくよ」
「せいぜい私が気に入るのを考えてちょうだい。……あんまり期待しないで待ってるわ」
 大して興味がなさそうに肩を竦めるジュペッタ。前のトレーナーからどう呼ばれていたのか僕は知らないし、ジュペッタも思い出したくないだろうから何も聞かなかった。初めてポケモンを持つ僕のネーミングセンスは未知数。ジュペッタが納得いかない名前だと猛烈に駄目出しを受けそうな予感はした。自分の案を却下されるのは正直心苦しい。幸い時間はある。これからゆっくりとこの子に合う名前を考えるとしよう。

 おしまい
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・あとがき
読んでいる途中で薄々気づいた方も居られるかもしれませんが、[[このお話>ぬいぐるみとぼく]]の過去の物語だったりします。主人公とジュペッタが出会った頃のお話。昔トレーナーに捨てられたという過去をジュペッタに持たせるのはベタな気はしますが、そういう役回りが似合うポケモンだとも思うのです。タイトルの手巾とはハンカチのこと。ぬいぐるみポケモンなので割と水を吸うかもしれませんがそれはさておき、主人公の渡したハンカチがきっかけで手持ちになったジュペッタ、というお互いの関係をイメージしました。
読んでいる途中で薄々気づいた方も居られるかもしれませんが、[[このお話>ぬいぐるみとぼく]]の過去の物語だったりします。主人公とジュペッタが出会った頃のお話。昔トレーナーに捨てられたという過去をジュペッタに持たせるのはベタな気はしますが、そういう役回りが似合うポケモンだとも思うのです。タイトルの手巾とはハンカチのこと。ぬいぐるみポケモンなので割と水を吸うかもしれませんがそれはさておき、主人公の渡したハンカチがきっかけで手持ちになったジュペッタ、というお互いの関係をイメージしました。あと、作中で一度も主人公がジュペッタのことを「彼女」という代名詞で表現していないのはまだ主人公が異性としてしっかり認識していないからです。

最後まで読んでくださった方々、ありがとうございました。

【原稿用紙(20×20行)】52.7(枚)
【総文字数】18988(字)
【行数】189(行)
【台詞:地の文】10:89(%)|1900:17088(字)
【漢字:かな:カナ:他】31:63:7:-2(%)|5933:12094:1425:-464(字)

何かあればお気軽にどうぞ
#pcomment(手巾のコメントログ,10,)

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