#include(第十八回短編小説大会情報窓,notitle) 「僕はここにいていいのでしょうか」 調査隊の制服に袖を通してから初めて、テルの口から出た言葉だった。 夢の中で「アルセウス」というポケモンに出会い「すべてのポケモンに出会え」と言われ、次の瞬間には見ず知らずの場所に放り出された。そこで海の向こうから来たという博士に拾われ、見たこともないモンスターボールでポケモンを捕まえさせられた挙句、ギンガ団の調査隊としてポケモンの生態調査を命じられた。要約すればほんの数秒で話し終える内容でも、テルにとっては目まぐるしい変化だった。 「それは、これからのあなた次第です」 海の向こうから来たという博士は、流暢な日本語でそう言った。 期待の眼差しを受けて、テルは曖昧な笑顔で応えることしかできなかった。 元居た世界では、テルは学生だった。ポケモントレーナーになるのはほんの一握り。あとは義務教育の9年と、義務教育ではないけれど3年。安定を求めるなら追加で4年以上。名は様々だが学校という場所で学ぶ者がほとんどだ。テルは義務教育の7年目を始めたばかりだった。野山を駆けまわるほどの体力など、通学と週に2度の体育の授業程度では補えるはずもない。部活も美術部で筆を握っていただけだ。ちょっと走っただけでも息切れを起こし、華麗に地面を転がって回避行動なんてもってのほか。それが、フィールドワークに出て野生のポケモンを相手にしろだなんて、無茶にも程がある。試験のために捕まえた3匹だって、ビッパはとろいし警戒心もないから捕まえられたようなものだ。ムックルはビビッて逃げ惑うし、コリンクは「でんこうせっか」で襲ってくるし。何度ボールを補充しに戻ったかわかったもんじゃない。それでも「ポケモンを捕まえる才能がある」なんて持ち上げられるものだから、テルはどうしてよいかわからなかった。しかし、仕方がない。調査隊になれば、衣食住を保証してくれるというのだ。野山に放り出され、道具も頼れる人間も何もなしに野宿をすることを考えれば、願ってもない条件に思えた。どちらにせよ危険な目に遭うことに変わりはなかったが。 ヒスイにやってきてひと月。テルはなんとか生き延びていた。 危ない目には何度も遭った。崖から落ちたり、川に落ちたり、ポケモンの技をその身に受けたり。酷い時には死にかけたこともあった。黒曜の原野のキング、バザギリを鎮めた時は、その巨大な両手の斧で何度体が真っ二つにされそうになったかわからない。しかし、死ななかった。もう駄目だと思うたびに意識が途絶え、気が付けばベースキャンプに戻されていた。たまたま通りがかった調査隊員が、ベースまで連れて帰ってくれたという。そんなに偶然が続くものなのかは怪しいが、目が覚める度に「生きていてよかった」という気持ちと、「これは悪夢ではなく現実なのだ」という絶望が胸の奥から湧き上がってくる。まだ生きたい。生きねばならない。この理不尽を乗り越えていけば、いずれは元居た世界に戻れるかもしれない。 とはいえ、悪いことばかりではない。来てよかったと思うこともあった。 例えば、雨の足音がわかるようになったこと。 やけに冷たい風が吹いたり、空に積雲や朧雲が見えたりといった直接的なものはもちろん、空気が湿り気を帯びてきたとか、何かが濡れたときの匂いが鼻を掠めたとか、そういう感覚的なものまで様々だった。ヒスイの地に降り立つまでは、天気予報でしか知ることのなかった変わり目。それらを漠然とではあるが、テルは体で覚えつつあった。 野山を駆け巡るうちに、疲れにくくもなってきた。単に体力が増えただけではない。岩場には岩場の、山道には山道の、砂場には砂場の、それぞれの場所に適した歩き方が身に付いたのをテルは感じていた。おかげで体力が尽きて倒れるなんてことはなくなったし、来たばかりの頃と比べればずっと楽に歩けるようになっていた。 ある日、ギンガ団団長のデンボクからの指令で、紅蓮の湿地へ向かおうとしたテルを呼び止める声があった。 「あら、テル」 調査隊の先輩、ショウだ。前にバトルを挑まれ、負けそうになっている。テルに捕獲の才能があるというのならば、ショウにはバトルの才能があるのではないか。そう思えるほどに、ショウは駆け引きが上手かった。同じレベル帯にも関わらず、ピカチュウ一匹にテルの手持ちのポケモンは全滅しかけたのだ。知識はあってもバトルは素人だったテルから見ても、いずれは村一番のポケモン使いになるのではないかなどと思えるほどだった。 「いいところで会いました。これは勝負との天の声です」 これから調査が控えているからと断ろうとしたが、この世界で生きる術を教えてくれた先輩の頼みを無下にするわけにもいかない。それに、どうせ断っても食い下がられるだろうという予感がテルの中にはあった。理由は前にも似たようなことがあったからに他ならないのだが。 テルは今回もすんでのところで勝利をもぎ取った。早業を使うタイミングを誤っていたら、負けていたのはテルの方だった。 「ああ、ピカチュウにあたし怒られるかも……」 と言いつつ、勝負のお礼にとクラフトのレシピをくれるあたり、流石は先輩だとテルは思う。 レシピを受け取ると、ショウはこう切り出した。 「あの、私は時空の歪みの調査です。ご存知ですか? 時空の歪み? 最近あちこちで発生するようです。歪みの内部はすてきな道具と強いポケモンでいっぱいの空間で、入るなら気を付けないと……!」 時空の歪みという響きに、テルは心惹かれた。それがどんな空間かわからないとはいえ、時空が歪むということは、どことも知れない時代と繋がっているかもしれない。 「では、湿地ベースに向かいましょう」 踊る心を抑えつつ、テルはショウの後を追った。 紅蓮の湿地最初の拠点に着くと、博士が子の湿地に「毒を使うポケモンがいる」ことを、ショウがこれから向かうべき「ズイの遺跡」の場所を教えてくれた。 「時空の歪みですが、いつどこで発生するのか謎ですので、とりあえず湿地で探してみます。地図をみてわかるといいのですが」 誇らしげに胸を張って、ショウは言った。手持ちのピカチュウにさえおっかなびっくりだった頃が嘘のようだった。きっと彼女は立派に任務をやり遂げる。そして、また先輩としてテルを引っ張ってくれる。予感というよりは願望に近かった。 ひとしきり任務と調査を終えたのち、テルは湿地ベースへ戻ってきていた。 雨の匂いがする。 テルの経験が告げていた。もうすぐ、夕立がやってくる。 今日の調査は打ち止めにして、村へ帰ろう。そう思い立った時。 ふと目を向けた先で、遠雷が瞬いていた。しかしそこに雷雲があるわけではない。半球状の光に包まれた、不可思議な空間。あれがショウの言っていた、時空の歪みというものだろうか。 気付けば、テルの足は動いていた。雨の匂いは徐々に強くなってくる。このままいけば、確実ににわか雨に降られることだろう。 急く心を留め、忘れないように達成した図鑑タスクを博士に報告してから、テルはベースを発った。 こういうとき、博士は決して止めはしない。どんなに悪天候だろうが、夜遅かろうが、テルが行くと言えば 「では、引き続き調査をお願いするのです!」 と言って、送り出してくれる。その温和な性格と笑顔に、テルは何度も救われていた。 これが今生の別れかもしれない、とは口に出さない。もしテルがいなくなっても、調査隊は何も変わらない。図鑑の完成が遅れるかもしれないなど、考えるのもおこがましい。テルがいることで少しだけ加速していた時が、元に戻るだけなのだろうから。 アルセウスフォンの導きで、時空の歪みとやらにたどり着いた。とはいえ、発生すれば遠くからでもよくわかる。半球状の空間が形成され、中は元の地形のままで珍しいアイテムやポケモンが出現し始めるというものだった。ショップで高く売れるほしのかけらや、ポケモンの進化に必要そうなアイテムなど、普通には手に入らないアイテムが目白押しだった。 しかし、テルが注目したのはそこではなかった。時空が歪むというのだから、もしかすると歪みに触れることで元居た世界に戻れるのではないかと期待したのだ。 残念ながら、歪みの中に入っても境界に触れても、時を超えるなんてことは起こらなかった。むしろこの場で起こらなくてよかったのかもしれない。そう思うことで、帰れない悔しさを紛らわした。どこに飛ばされるかもわからない。飛んだ先が過去か未来かもわからない。そんな中、半ば博打のようにテルは時空の歪みを探っていた。 何度目かわからない時空の歪みに飛び込んだテルは、ようやく帰還の糸口を掴むに至った。 多面体で構成された体。黒い点が白地を動き回る無機質な目。 ポリゴンだ。 テルが生きていた時代に人工的に作られたという、この世界にいるはずのないポケモンだ。そうと判るや否や、テルは走り出した。他の野生のポケモンに見つかることなど意に介さず、ポリゴンにとびかかった。 ポリゴンはかくばった足をばたつかせた。尖った部分が隊服に引っ掛かり、細かい歪みを作っていく。しかしテルはお構いなしにポリゴンを揺さぶった。 「僕を帰してくれ!」 めちゃくちゃに揺さぶられ、ポリゴンの黒い目がぐるぐると回る。別にポリゴン自身に時空を超える力があるわけではないのだが、テルは必死だった。 「お前の居た世界へ、連れて行ってくれよ!」 ポリゴンの口元に、光が集まっていく。技を放つ前の溜め。ケーシィなどのポケモンがテレポートするときのそれでは、ない。 次の瞬間、胸の真ん中に衝撃が走った。 ポリゴンの打ち出した「チャージビーム」が、心臓を撃ち抜いた。 一瞬力が抜けたものの、テルはポリゴンを掴む力を緩めはしなかった。しかし、テルの必死の抵抗も空しく、ポリゴンの姿は虚空に消えた。 「は……はは……」 テルの口から渇いた笑い声が洩れた。 結局、元の世界に戻るなど幻想でしかなかったのか。時空の歪みはポケモンや道具を運んでは消すが、人間は運んでくれないのか。あるいは、人間が別の時代に跳ばないよう、意図的に仕組まれたものなのか。 走馬灯の代わりに、それまで溜め込んでいた想いが浮かんでは消えていく。テルの脳内で、電気信号が目まぐるしく行き来する。そして、ゆっくりと意識が遠のいていく。 消えゆく意識の中で思う。 もうすぐ夕立がやってくる。 目を覚ますと、ベースキャンプの休憩用のテントの中に寝かされていた。 いつものことだ。テルが倒れるといつも、こうしてこの場所に運ばれる。これで何度目になるかわからないが、調査隊員の文句を聞いたことがない。テルが危険な調査をこなしていると分かった上でなのか、影では愚痴をこぼされているのかは知らなかったが。 思えば、テルが何度も怪我をして運ばれているのに対し、他の調査隊員が同じような目に遭ったという話はほとんど聞いたことがない。 「何でお前ばかりがそんな目に遭っているのかと、不思議に思っているな」 不意に、いつもベースのテントの側にいるギンガ団員が言った。心を読まれたようで、テルはどきりとした。 動揺するテルに構わず、ギンガ団員は続けた。 「俺たちはお前よりもポケモンを恐れている。だから奴らと戦おうとはしないし、無理に刺激しようとも思わない。向き合い方の違いさ」 「向き合い方」 「お前のやり方が悪いとは、口が裂けても言えないな。お前のおかげで調査が進み、皆のポケモンに対する見方も変わってきているのは事実だ。だが、ポケモンが怖い生き物であるという事実は変わらない。そのことに注意を向けることができれば、もっと運ばれる回数は減るはずだ」 「……」 彼の言うことは至極もっともだった。テルが運ばれてくる原因の大半は、テル自身の不注意によるものだ。先ほどのポリゴンのときも、生身で向き合わずボールで捕まえるなり、仲間のポケモンの力を借りるなりすればもっと安全に立ち会えたかもしれない。普段道を歩く時も、ちょっとした段差や窪みが命取りになりうる世界だ。元の世界のように整備された道路を歩けるわけではない。 「気を付けてみます」 「ああ。調査に行くなら準備は怠るなよ」 いつも通りの言葉に背を押され、テルは調査の続きへと向かった。 ヒスイにやってきて半年ほど。テルはあることに気付いた。 それはずっと、天冠の山麓の頂上にあった。最初こそ疑問に思ったものの、知らず知らず「まだ行けない場所だ」「いつものことだ」と見過ごしていた。音こそ聞こえてこないものの、時空の歪みの奔流のようなものが空に渦巻いていた。そこにはいつでも落雷が見えた。 あの山の頂上に行けば、何か変わるかもしれない。元居た世界に戻れるのか、それとも新しいポケモンと出会えるのか。 天冠の山麓に来られるようになった今、赴くべきはあの場所だ。そう思って動いていたが、頂上へ続く道は調査隊がとおせんぼしていた。今はまだ、直接向かうことはできないようだ。いずれは通れるようになるのかもしれないが、そんなに待ってはいられない。 「飛べるか?」 黒い渦を指さし、今では長い付き合いになったムクホークに尋ねてみた。いつもは勇ましいムクホークだが、このときばかりは頭を振った。 いつもならどこまでも高く飛んでいきそうなフワライドも、嫌がった。 「でんじふゆう」で浮いていけそうなジバコイルも、嫌がった。 ポケモンが嫌う何かがそこに在るとしか思えなかった。 テルの背に空を掴む翼があったとしても、その場所まで辿り着けるかわからなかった。 あるいは、神と呼ばれし存在ならば。試す価値がないわけではなかろうが、考えるだけ無駄に思えた。おとなしく、全てのポケモンと出会うという使命を果たすほかあるまいと。 ふう、と、テルの口から溜息が洩れた。 今となっては、元の世界に戻れようが戻れまいがどちらだってよかった。 テルが今のテルになったのはこの場所に来たおかげだ。今はテルを必要とする人が、この時代に増えすぎてしまった。 このヒスイの地が、今のテルの生きる世界となっていた。それを覆すのには、また神のきまぐれに身を任せるしかないのではないかとさえ思えた。 紅に染まる西の空には、黒い雲が沸き上がっていた。 雨の匂いが鼻を突く。 もうすぐ、夕立がやってくる。 ヒスイにやってきて一年。テルの旅は終わりを迎えようとしていた。 テンガンの山麓の頂上への道を通ることを許可されてから、もう三月が過ぎようとしていた。その先にあるシンオウ神殿でむげんのふえを吹き、現れた光の階段を登った先。光でできた円形の床の上で神と呼ばれるポケモンと対峙した。そして、何度も死にかけた。神の足元から広がる光の輪に、神の頭上から降り注ぐ隕石や光線に、時空を超えて追突する神の巨体に、全てを焼き尽くす怒りの業火に、幾度となく命の危機が訪れた。そのたびに目の前が真っ暗になり、気付けばまた、いきりたつ神の前に立っていた。腰の袋には無限のシズメダマ。手持ちのポケモンたちは全員全快。そして神に与えたダメージは、倒れる前の記憶の時のまま。これ以上ないお膳立てだ。自然とシズメダマを握る手に力が籠る。 ヒスイに来る前のテルならば、途中で諦めていただろう。このまま命を落とせば楽になるだろうとか、温かい布団の中で丸くなっていたいとか、そういうことを考えていただろう。しかし今は違う。力もついた。目的にもあと一歩のところまで近づいた。あとはテルがここに来た元凶を――アルセウスを鎮めれば。 かくして、神の分身を譲り受けたことでポケモン図鑑は完成した。 正確にはすべてのポケモンの情報が載ったというべきか。博士に課された図鑑タスクがすべて埋まったわけではない。博士は今までと変わらず、 「では、引き続き調査をお願いするのです!」 と言ってテルを送り出す。これ以上何を期待するのかという話だが、研究に終わりがないというのはこういうことなのだろう。きっと図鑑タスクを全て達成したところで、博士は同じようにテルを送り出すことだろう。 テルは何度目になるかわからないシンオウ神殿を訪れていた。頭上では相変わらず黒い渦が蠢き、時折雷が空を走っていた。荒ぶるオヤブンを鎮めても、神と呼ばれる存在たちを鎮めても、図鑑タスクを完成させても、消えることのなかった渦だ。 「僕を乗せて行ってくれ」 神の分身は普段から無表情で、何を考えているのかわからない。しかしその時ばかりは、緑の瞳の奥に寂寥と哀れみの色が見えた気がした。 膝を折り、テルを背に乗せた神の分身は、散歩にでも行くように軽やかな足取りで地を蹴った。ぐんぐんの空へ登っていく。そして何者にも遮られることなく、天冠の山頂にひしめく黒い渦の中に飛び込み―― ヒスイ地方の真央では、今日も遠雷が瞬いていた。