#include(第十四回短編小説大会情報窓,notitle) writer:[[赤猫もよよ]] 「逆光と黎明」 察するに、店先に下げられていたのは「臨時休業」の札らしい。 わざとらしい渋面を浮かべながら車に戻ってきたのはモッズコートのポケットに両手を突っ込んだバシャーモで、俺の彼氏の&ruby(カガリ){篝};だった。嘴から漏れる白い吐息が夜の闇に溶けている。 「機械メンテの為休業だってよ。有り得ねー、二十四時間営業ぐらいしか強みねーってのにな」 「まあ、こんな時間だしさ」 窓越しに眺めるハンバーガーチェーンの中に人気はなく、いつもならうるさいぐらいに輝く回転看板も眠りについたかのように動かない。どうにも運悪く、そんな日に当たってしまったという訳だ。 ぶうぶうと口を尖らせながら車の助手席に乗り込んでくる篝を諌めるように、苦虫を噛み潰したように笑みを返す。 モニターのデジタル時計に記された時刻は午前三時を回ろうとしていた。田舎特有のやたらに横幅の広い国道には俺達の他に車の影などなく、ただエンジンの低く唸る音だけが先の見えない静寂の中で蠢いている。 「最期の晩餐も食えずじまいかあ。とことん間が悪いな、オレ達」 助手席に行儀悪く腰掛け、篝はシートベルトをたどたどしく手繰り寄せる。今後の予定のことを意識しているのか、いつもに増して斜に構えたような態度と口調が目立っていた。 「コンビニ寄る? ちょっと寄り道するけど」 「いいよ。めんどくせえし。最期の飯がコンビニっつーのも締まらないだろ」 「ハンバーガーも大概だと思うけど」 「言えてるわ」 篝は笑い、俺は路肩に止めていた車を出した。法定速度より少しだけ遅く、立ち並ぶ街灯が後方に流れていく。 僅かな沈黙。アスファルトに痕を引くタイヤの音と、その隙間に染みる静寂に居心地の悪さを感じた。 「タバコ吸いてえ。吸っていい?」 篝は俺の返事を待たずに自分の鞄を漁り出し、俺は返事を返さずに助手席の窓を開けた。 「悪いね」 全く悪びれない詫びの言葉を舌先で転がし、篝はライターでタバコに火をつけ、咥える。 助手席の窓の外で、ゆっくりと嘴から吐き出された青煙が深まったままの夜に溶けていく。鼻腔にひりつくような煙の臭いがこちらにも流れてきて、俺は不快感に眉をひそめた。 二口三口と吸っては吐き、それから篝は唐突に煙草を火のついたまま窓の外に捨てた。さながら、飽きた玩具を放り出す子供のようだ。 「ポイ捨てはよくない」 「高いタバコ、あんま美味くねえもん。甘くねえし」 「いつものにしときゃ良かったのに」 「贅沢してーじゃん、たまにはさ」 彼は三白眼を歪めて笑みを作った。香水に紛れて漂う獣の匂いと、上塗りするような渋い煙の臭い。 篝の瞳は月明りを溶かした宵の湖のような色をしていて、そしてそれは今から俺達が目指す場所でもあった。 再びの沈黙の中で、緩やかな弧を描いた国道を走る。錆びた田舎の街並みを抜け、気が付けば少しずつ建物が減っていく。代わりと言わんばかりに生い茂った木々が運転席を覆うように伸び、左手には土手の下り坂が半ばほどから仄暗い闇に漬かっていた。 「真っ暗だ」 街灯はとっくに消え失せ、車のライトだけがひび割れたアスファルトのわずかを照らす。 視界の先に光はなく、行く先には暗がりだけがあった。 「道合ってんの」 「間違えたかも」 「マジ」 「わかんない。でも合ってるかも」 間違ってると思いたくなくて、取り繕うように言葉を足した。 ドリンクホルダーにねじ込んだガムボトルの蓋を開けて、指先を突っ込んでガムを探す。中は空だった。 「合ってると思うぜ、オレも」 少しの沈黙の後、篝はぼうっと正面を見つめたままそう呟いた。 「じゃなきゃ、何のためにここに居るのか分かんねえし」 「そっか」 普段ならどことなくぶっきらぼうで、言い換えるなら刺々しさのある筈の篝の横顔は、今日に限って灰を被った炎のように燻っていて、珍しく何かを考えこんでいるようにも見えた。彼が何を考えているのか知る由もなかったけど、悪い事ではないと信じたかった。 視線を戻す。なおも車は夜を裂いて走り、周囲は闇の中に沈んでいる。 車の中の、やや埃っぽい暖気に包まれた空間だけが確かな輪郭を帯びていて、そこには俺と篝の他に誰も居なかった。 「なあ、悠」 篝は唐突に口を開き、俺の名前を呼んだ。 悠、というのは俺の名前のことで、この名前を呼ぶのは今ではもう篝しかいない。 「本当にいいのか」 「またその話? 何回目だよ」 俺は溜息を吐いた。後部座席に積まれたゴムボートに視線を一瞬泳がせて、それからハンドルを握ってないほうの手で鞄の中の睡眠薬を探る。ピルケースの冷たい感覚が指先に当たり、かさかさと中で粒の動く音。ガムと違って、中は空ではない。 「まあ、確かにもう少しいい死に方はあったと思うけど」 俺は茶化すように言葉を並べたが、篝は表情を動かさない。俺はもう一度溜息を吐いた。 「嫌なら、篝だけ降りても」 「嫌じゃねえ。二人で決めたことだろ。……でもさ、ほら、大学とか良かったのかよ」 「いいってば。そんな面白くなかったし。篝だって仕事場のこととかあったでしょ」 「……まーな」 窓枠に頬杖を立てた篝の視線は、窓の外に流れる暗闇を見つめていた。 視線の先に映っているのは、彼が今まで世話になってきた人達の顔なのだろうか。変なところで律儀な篝のことなので、心の中で詫びでも入れているのかもしれない。 「少し眠りなよ。仕事上がりで疲れてんでしょ」 篝は首を横に振った。いやに頑なだった。 「眠ったら一人になるだろ」 「篝が?」 「お前が」 「まあ、確かに」 別に、そこまでこだわる訳ではなかったが、喋り相手がいないで黙々と車を走らせるのはやや堪えるものがある。 篝が言いたいのはたぶんそういう事ではないのだろうが、俺はあまり深く考えようとしなかった。考えるのは、とても疲れることだったからだ。 「じゃ、起きててよ。……なんか面白い話して」 「無茶言うなよ。つか、湖まであとどんぐらい?」 「たぶん、三十分ちょい」 「マジか」 古いカーナビに視線を落とせば、くすんだ液晶の上の矢印は既に道なき道を進んでいた。何とも当てにならないことだ。 暫く押し黙っていた篝は何かを思惟するような表情を一瞬浮かべて、それからわしわしと後頭部の毛束を梳いた。 「あー無理。悠、どっかで一回車止めてくれ」 「酔った?」 「いや、小便してえ」 「やっぱコンビニ寄ればよかったじゃん」 「その時はしたくなかった。……やべえ、漏れるかも」 えらく子供じみた口振り。思わず吹き出してしまい、睨まれる。俺は肩を竦めた。 「何笑ってんだよ。ピンチだぞ」 「いや別に。どうする、引き返す?」 「いい。適当なとこに止めてくれ」 幸いにも道は広い。適当なところで車を路肩に止めるや否や、篝はドアを開けて外へと飛び出していった。 いそいそと土手を降りていく足取りは思いのほか早く、案外、切羽詰まっていたのかもしれない。 闇に消えていく彼の背を見送り、しばし一人になる。エンジンの小刻みに震える音の他には何もなく、窓の前方に広がる冷えた闇を見つめていると妙に不安が襲ってきた。 土手の闇に呑まれた篝は、もうこのまま戻ってこないのでは――など、我ながらバカらしいものだ。 「……まだかな」 暇だ、という言葉を舌の裏側で転がし飽きるぐらいには暇だった。何ともなしにラジオを点け、耳を傾ける。 至って深夜に似合わない、軽快が過ぎるポップミュージック。疲労しきった深夜の脳髄には癒しを通り越して頭痛の種だった。 チャンネルを切り替え、切り替えてしばらく、漸く静かな電波に辿り着く。 『PDC文化放送、再放送です。本日は目前に迫った“共在の日”特集と称しまして、これまでのポケモンと人との共存の歴史を――』 平易な口調の女性の声音が耳に優しい。 内容にそこまでの興味はなかったが、頭が痛くならないものなら何でもよかった。座席に深く腰掛け、篝が戻ってくるまでの間、思考をぼうっと中空に浮かせる。 共在の日。 幸いにして大学でそれ系の専攻をしていたので、なんとなく成り立ちは理解出来ていた。 旧呼称で人間と呼ばれる、俺のような「ヒト」という種族を繰り上げて一番目のポケモンにしてしまおう、という偉い人のお言葉が国中に広まって、じゃあそうしましょうと決まった日の事、らしい。 つまるところ、人間とポケモンの垣根を取っ払ってしまおう、同じ枠組みに嵌めて認知しようという思惑が根元にあったのだ。 『――により既存種との言語間コミュニケーションを可能とした私達ヒト種は、既存種との繋がりを強固にすべく――』 今では考え難い事だが、ほんの数十年前まではヒト種とそれ以外のポケモンとで言語間の隔絶があったという。ヒト種の俺とバシャーモの篝が当然のように言葉を交わすような光景など、影も形もなかったというのだから妙な話だ。 というか、言語の媒介なしにどうやってコミュニケーションを行っていたのか。言葉を交わせていたとしても分からない事だらけだというのに、昔の人はいったい。 「すまん、待たせた」 そんなくだらない事を考えている内に、篝は戻ってきた。 さっきよりほんの少しだけ表情が緩いように見えるのは、緊張から解放されたからだろうか。 「遅かったね。迷子にでもなったのかと」 「色々あってな」 篝は俺の軽口に軽く首を振って、それからハンカチに包んだ妙な球体をダッシュボードの上に置いた。 「変なもん見つけたから拾ってきた」 「……ボール?」 その球体を何かの資料で見たことがある気がして、俺は首を傾げた。 妙な球体は、やはり妙な球体としか形容の出来ない形をしていた。野ざらしにされた期間が長いのか表面は随分と薄汚れているが、辛うじて球体を半分に割った内の上部が赤、下部が白であることは分かる。 「川辺の草むらんとこに落ちてた。たまたまそっちに目線やんなかったら見つけられなかったぜ、きっと」 篝は妙に得意げな笑みを浮かべた。俺はうへえという顔をした。 「なんでそんなもん拾ってくるのさ。ばっちいなあ」 「だって、気になるだろ。なんかわかんねーけど……」 篝は謎の球体を両手で持ち上げ、しげしげと眺めまわした。 彼がここまで一つの物品に執着を見せるのは珍しい。 なんだか新鮮な気分になるが、それはそれとしてごみを拾ってくるのは止めてほしいのだが。 「なんかドキドキすんだよな、これ見てると」 「はあ。恋でもしたの」 「んー、悠からこれに鞍替えするのもアリかもな。……ウソ、冗談だよ」 笑いどころのいまいち見出しづらい冗談まで転がし始める。ここまでくると、新鮮と言うより奇妙ささえ覚えてしまう。 「悠、これ知ってるか?」 「どっかで見たことがあるような……ごめん、出てこない」 「そうか。まあいいけど」 俺は思考を切るようにしてサイドブレーキを戻し、再び車を出した。 『――こうして、我々ヒト種は異種生命間平等を確立し、既存種に基本的人権及び生存権を認めたのが2146年の――』 「また小難しいラジオ聴いてんな」 「暇だったから」 ラジオから淡々と流れる文化的放送も、篝にとっては何とかの耳に念仏というやつらしい。しきりに軽快な音楽の流れるチャンネルに変えようとするも、猛禽めいた爪ではタッチパネルを弄るのもままならなかったようだ。 「あー反応しねえ。悠、指貸して」 「音楽のやつ、頭痛くなるからやだ。我慢して」 「仕方ねえなあ。聴くか」 篝は腕を組んで座席シートに深く腰掛けた。 まるでクラシック音楽のコンサートにでも訪れたような神妙極まりない面持ちで、ラジオから流れる平坦な言葉を辿っている。 「なあ悠。なんでヒトって昔のこと振り返るの」 「なんでって、そりゃ……」 篝の素朴な語気での問いに対し、返す言葉を見いだせず詰まる。それが当たり前である行為の理由を問われると、案外言葉にするのは難しい。 「昔にこんなことがありました、昔はこうだったとか言われてもさ、だから何だよって話じゃん」 「でもほら、昔があって今があるんだし、知っといてもいいんじゃない」 「んでも、昔を知らなくったって今オレはここに居るんだから、今オレがここに居ることに昔は関係ないわけで……」 よくわからなくなったのか、篝の言葉は途中で薄れていった。 お互いに顔を見合わせて、肩をすくめる。お互い、いわゆる知的な議論というやつにはとんと向いていないのである。 『――2150年には婚姻制度の改定が見込まれ、ヒト種と既存種の異性婚が認可されるようになりました。ヒト種の男性と既存種のポケモンの女性、またはヒト種の女性と既存種のポケモンの男性の夫婦関係に社会的権利が付与され――』 割って入るようにラジオの声が続く。単調な声音は俺にとって睡眠導入剤に近いものだったが、篝は思いのほか興味深そうに食いついている。 「オレが生まれるちょい前のことなのな。てことは、それまではヒト種と既存種の俺らとの結婚は……」 「無理だった」 「マジか。考えらんねー!」 篝は初めて訪れた博物館の展示を見るような顔をした。俗世に疎く、ニュースなんてものも一切見ないような彼にとっては、知り古された歴史的事実も新鮮なものに映るらしかった。 今や、ヒト種と既存種の夫婦は珍しいものでも何でもない。俺より上の世代――ポケモンを“飼う”ことが当然だった世代――から見れば奇特な光景なのかもしれないが、少なくとも俺達にとっては何でもないものだ。生まれた時から、それが普通だった訳で。 「でも、俺達は無理だよ」 「悠」 助手席から投げられた視線を避けるようにアクセルを踏んだ。目的地を示す矢印看板が、速いスピードで流れていく。 「俺たちは例外だから」 舌の根に刻むようにして、ゆっくりと呟いた。 ヒト種と既存種における、オスとオスの婚姻は認められていない。俺達は、今現在の「普通」において例外の位置に立っていた。 その理由については、列挙すればいくらでもある。つまり、倫理的ナントカとか、伝統的家庭観がどうとか、子供にとってとか、宗教とか、そういう「普通」の人たちの所感が尺度となっていた。 「でもさあ、ヒト種は男と男で結婚できるじゃん。なんでオレたちはダメなんだろうな」 「ヒト種が男と男、女と女で結婚できるようになるまでも、結構長かったんだよ」 例外が認められて、それが新しい「普通」になる度に、伴って新しい「例外」が出来上がるのは当たり前のことだ。 そしてその新しい「例外」が新しい「普通」になるまでに、いくつもの苦しみがあり、戦いがあるのだという。 「薬、ちゃんと効くやつだといいな」 「なんで」 「苦しみたくないし」 好きになった人がたまたまヒト種でなくて、たまたま同じ性別だっただけで、苦しまなくてはいけない理由はなんだろうか。 権利とか、中傷とか、偏見とか。そういうのと戦いたくて、俺は篝を好きになった訳ではないのに――。 「溺れてる途中で目覚めるとか、最悪じゃん」 「うへえ、想像したくねえな」 篝は水が苦手だった。そんな彼にとって、意識のあるまま溺れていくことはいっそう辛いことだろう。 「めちゃくちゃ一杯飲めば大丈夫でしょ、薬」 「えー。カラダに悪くね?」 「どうせ死ぬのに健康に気を使ってもなあ」 「それもそうだな」 たわいない会話の中に残る微妙な淀みを、見ないことにしたまま車は進む。 やがて、舗装されていない細い道を抜けて、車は広い湖のふもとへと差し掛かった。 「着いたよ」 「だな」 湖の向こうに見える空の大部分には群青色の宵が広がっていて、明け方の白がわずかに底溜まりしていた。 凪いだ風に湖の水面は張り詰めたまま動かず、空は止まっている。夜明けは、まだ少しだけ遠いようだった。 車のライトの他に頼りになるような光源はない。俺たちはエンジンとライトを点けたまま車を降りて、後部座席に詰め込んであったゴムボートを引きずり下ろした。 「なあ悠、これどうする」 篝は先ほど見つけた謎ボールを、ハンカチにくるんだまま丁寧に持っていた。 「どうするって言われても」 「オレ気付いたんだけどさ、ほらここ、ボタンっぽいのがあるんだよ」 上部の赤、下部の白のツートンの境界線、ボールを正面から見て丁度中央の部分に、無機質なボタンのような突起があった。 「ほんとだ」 「なあ悠、押してみようぜ」 篝はいっそう子供のような顔をした。俺は難色を示す。 「なんか、体に害を及ぼす奴かもよ」 「どうせ死ぬのに健康に気を使うか?」 「……それもそっか」 篝が余りに押したそうにしていたので、彼に任せることにした。不発系の爆弾だったらいけないので(そんな訳はないだろうが)、ぴったりと篝の傍に寄る。先に死なれては困るからだ。 「押すぞ」 意を決して、篝は中央のボタンを押し込んだ。 その瞬間、朽ちていたはずのボールの表面に、わずかに赤い光が灯る。 「うおっ」 まさか稼働すると思わなかったのは篝も同じらしい。慌てた拍子にボールが取り落とされ、砂利の上に転がる。 ボールに灯る赤い光は切れかけの蛍光灯のように不安げな瞬きを見せていたが、やがて息絶えるようにして光を消した。 「やべー、超ビビった」 篝が足先でボールを転がしても、もう何の反応もなかった。 念のため、拾い上げて再度スイッチを押し込んでみるも、やはり光は点かない。 「悠、それ持ったままそこで立ってて」 「いいけど」 急に何を言い出すのか。俺は篝に言われるがまま、片手にボールを握ったまま立ちすくむ。 篝は少しだけ湖面のほうに歩いて俺から距離を取り、振り返って俺をじっと眺めた。キャッチボールでもするつもりなのか。 「悠、こっち向いて。……おお、なんかしっくりくる」 「なにそれ」 謎の感慨に耽るような言葉が妙にツボで、俺は少しだけ愉快な気持ちになった。 そう言われれば、なんとなく、ボールを握る手はしっくりときていた。収まりがいいというか、握り心地がよいというか。 改めて、薄汚れたボールに視線を落とす。泥を払えば鈍い金属光沢があって、重さはさほどでもない。野球ボールより少し小さいぐらいだろうか、なぜだか無性に投げたくなる。 「……あ」 その瞬間、不意に忘れていたことを思い出した。 この真球の形と赤白のツートンカラーを、俺は確かに講義の資料で見ていたはずだった。 そしてそれを、どうしようもなく馬鹿らしいものだと思ったことも。 「モンスターボール……」 「ん、なんか言ったか、悠」 喉の奥から押し出されるような呟きを、暗闇に溶ける前に篝が拾い上げた。 「モンスターボールだ、これ」 モンスターボール。 篝や俺の生まれるもう何十年も前、まだヒト種が「人間」で、既存のポケモン達との言語コミュニケーションが成し得なかった頃、日常的に用いられていたという道具だという。 人間種の観点から見て非文化的な生活圏を構築していた彼らポケモン達を捕獲し、人間の意志の元に主従関係を構築するという、客観的に見ればエゴイスティック極まりないものであって―― 「そんなエグイもんには見えねえけどなあ」 俺のやや偏見の混じっているだろう説明に、篝は首を傾げた。 「要は、その時の出会いのきっかけとしての道具ってことだろ。まだ言葉がなかった時、悠とオレが出会うとしたらそれきっかけじゃん」 「非言語関係下でのコミュニケーションツールってこと?」 「難しい言葉はわかんねえけど、たぶんそんな感じ」 首を傾げたまま頷き、彼はなんとも適当極まりない相槌を打った。 「じゃ仮に、突然俺がこれを使って篝を捕まえたらどうする。そしたら、俺が主人で篝が従者になるよ」 俺は篝に向かって軽くボールを投げた。当然捕獲機構などというものは死んでおり、ボールは篝の手に受け止められる。 「んー、いんじゃね」 「マジか」 「マジ。だってオレ、お前のこと好きだし」 彼は朝焼けのような笑みを見せて、ボールを投げ返した。俺は受け止められず、胸にボールをぶつけた。 「へたくそ」 「逆光でまぶしいんだよ」 その実、空はまだ暗かったのだが、朝焼けに目が眩んでまぶしいのは本当だった。 こっぱずかしさから負け惜しみのようなものを口の中で転がしつつ、地面に落ちたボールを拾い上げる。 「その、モンスターボールっての、見てるとドキドキするんだけどさ。嫌なドキドキじゃないって感じるんだ」 「感じる?」 「なんつーの、本能っていうか? よく分かんないけど嫌じゃねえし、そしてそう感じるのはオレだけじゃないってこともわかる」 「主語が急に大きくなった」 「それな。でもそう思うんだよ。たぶんオレたち昔からヒトのことが好きで、今もそうだし、これからもずっと、たぶん……」 彼は途中で言っていることが良く分からなくなったのだろう。ひもが絡まっていくように、声が迷いを帯びていく。 そんな篝の様子に微笑んで、俺は歯の浮くような言葉を並べた。たまには、こういうのもいいだろう。 「俺も篝のことが好きだよ。たぶん、昔に出会ってたとしても、言葉が分かんなくても、篝を好きになったと思う」 まだヒトが人間で、既存種がポケモンだった頃。ボールを媒介としたコミュニケーションが「普通」だった頃から、結局俺たちの関係とは何一つ変わっていないのかもしれない。 お互いがお互いを好きになろうとする関係。それを繋ぐのが、かつてはボールで今は言葉なのだろう。 「昔の人は、こうやって好きを言葉で交わせるようになるなんて思わなかっただろうね」 「全くだな。お陰でめちゃくちゃ恥ずかしい」 篝は照れをごまかすようにタバコに火を点け、俺は照れを隠すように空を仰いだ。 立ち上る紫煙が、もうすぐ明ける夜に溶けていく。 「篝」 「なに」 「いつか、俺とお前の関係もさ、それが普通になる日が来るかな」 足元に転がされた萎んだゴムボートを眺めて、それから車の中の鞄に入っている睡眠薬に思いを馳せた。 俺達は例外の位置にいて、相手を好きになるだけで多くのものと戦わなくてはいけないという不公平を背負っている。 けれど、そんなのは面倒だった。みんな、誰かを好きになっているというのに、どうして俺達だけが――たまたま同じ性別で、たまたま違う種類の生き物を好きになった俺達だけが――戦わなくてはいけないのか、分からないでいる。 だから面倒で、水の底に逃げようと思って、俺と篝は湖へとやってきたのだった。けれど。 「オレ、難しいことは良く分かんねえけどさ。今まで変わってきたんだから、きっとまた普通が変わる日は来ると思うぜ」 いつかは分かんねえけどさ、と篝は付け足して、嘴の先から煙を吐いた。 俺は目を閉じた。瞼の内に広がる暗闇。車で走っていた最中の、ライトの先の見通しの立たない闇が途方もなく恐ろしかったことを思い出す。闇そのものより、それがずっと続いていくだろうという恐怖によって。 息を吸って、目を開ける。少しずつ明るんでいく黎明の空を背負うように、逆光で黒く染まった篝の姿が目の前にあった。 「篝」 「なに」 「いつか、俺達が普通になるまで、一緒に生きてほしいんだけど」 冬の朝の、冷たく厳しい風が吹いた。朝焼けの始まりの白を溶かしたような湖面が、ざわりとさざめき立つ。 「当たり前だろ」 篝は子供のように微笑んだ。 朝焼けのような笑みだった。 萎れたまま膨らむことのなかったゴムボートを後部座席に再度詰め入れ、俺は車を出した。 まだ車の少ない朝の国道を走る。運転席に射し込む、まだ生まれたばかりの空の光がいやに目に染みる。 「腹減ったなー。なんか飯食おうぜ」 「さっきのバーガーショップ、もうそろそろ開いてると思うけど」 「じゃそこで」 適当な会話を転がして、頭が痛くなるような音楽を流すラジオをそのままにして、車はまだ若い、黎明の空の下を進んでいく。 俺達の関係性は、まだ例外の位置にある。普通になるまでにどれほどかかるのか、俺達はその頃生きているのかも分からない。 でも。 いつか俺達が普通になる日の、その黎明を二人で迎えることを、夢に見るぐらいはいいだろう。 ---- あとがき 第十四回短編小説大会で5票を獲得、三位入賞でした。大変感謝です、もよよです。 同性間の、あまりセクシャルな側面の強くない恋愛譚が書きたかったので書きました。変わっていく世界の中で、変わらない愛情みたいな。 ともあれ、お読みいただきありがとうございました。 #pcomment()