*誰が為のもふもふ [#o3dce1cf] writer――――[[カゲフミ]] ―1― 心地よい陽気はこの小ぢんまりとした部屋の中にも分け隔てなく降り注ぐ。高くなり始めた太陽の光が差し込み、私は重い瞼をゆっくりと持ち上げた。 お尻を上げて前足をぐっと前に出し、欠伸を交えて私は大きく伸びをする。天井の窓ガラス越しに見ても綺麗だと思えるくらいの青い空。 日当たりを考慮してなのか、この小屋の天井と正面の壁にはかなり大きめの窓が取り付けられている。 ただ、正面の窓は日当たりを考慮してと言うよりも、外から小屋の中をはっきり見るという目的の方が強そうだけれど。元々人通りの少ないこの小屋の前だ。 外からじろじろ眺められて、落ち着かない思いをしたことは数えるほどしかない。それも慣れない最初のうちのこと。 今ならば、誰かの視線を感じながらでも眠りにつく自信があった。本当に環境への対応というのは私自身驚かされるものがある。 四メートル四方の部屋。ウインディである私の体の大きさからすれば、若干窮屈に感じることも少なくない。 まあ、広さに目をつぶりさえすれば、風通しも日当たりも湿度も適切で案外過ごしやすいんだけどね。 さて、と。天気もいいみたいだし、もうひと眠りしようかしら。別に天気が良くなくても、他にすることもないので寝るという選択肢に落ち着くことは多い。 私は再び人工の芝生が植え付けられた地面に腰を下ろす。何もなくて殺風景だった土地に芝生を生やしてしまえるなんて、人間の技術にはびっくりだ。 実際の自然の中での草むらに比べると手触りも寝心地もそんなに良くはないのだが。あんまり贅沢も言ってられない。例え作られた芝生でも、ないよりはずっといいのだから。 さあ寝ようか、と目を閉じかけたところに入り口のドアの向こうから聞こえてきた声で私は現実に引き戻される。 外の受付にいるあまりやる気のないバイト君の声と、もう一人。壁を挟んでいるのでもごもごとしてはっきりとは聞こえない。 とはいえ、そんなに重要な会話じゃないだろう。ここに入るかどうか。入るならばその際の注意点等々。いつも通りの内容のはずだ。 二人の会話が止まった、と思ったその直後。がちゃりと音がして入り口のドアが少し開いた。どうやら入ることにしたのね。と言うことは私のお客さんだ。 「それじゃあ、時間になったらチャイムが鳴るからね」 「うん、分かった」 そう言ってドアを閉めて入ってきたのは十二、三歳ぐらいの少年だった。あどけなさの中にもほんの少しだけに青年の凛々しさが見え隠れしている。 私は腰を下ろした姿勢のまま少年の方に視線を向けた。いきなり私の方から近づいたりすると、びっくりされることは目に見えているから最初は慎重に。 別段顔色を変えたりすることもなく、彼も私の方をじっと見ている。やがて、何のためらいもなく芝生を踏みしめ、一歩一歩私の方へ歩み寄ってきた。 この様子だと私に怯えている心配はしなくてよさそう。ときどきいるのだ。私の想像以上の大きさに、怖がって近づいて来られない人が。 私の高さはだいたい百八十センチくらい。平均的なウインディの大きさとしてはやや小柄らしいけど、それでも大人の男性かそれ以上だ。 ここに来るのはほとんどが子供だ。彼らから見上げれば、私は相当巨大なポケモンとして映るのではないだろうか。 だから私は誰かが入ってくるときはこうして腰を下ろして、体を小さく見せている。それでも怖がられるときは怖がられるんだけど。 でもまあ、彼くらいの年齢になれば大丈夫なのかな。少年はもう私の目の前まで来ている。彼が手を伸ばせば、私が前足を差し出せば、お互いに届く距離。 腰を下ろしていると私が彼の顔を少し見上げる形になっている。ウインディを見るのは初めてなのかもしれない。少年の瞳は好奇心できらきらと輝いていた。 おそるおそると言った感じで手を伸ばし、私の首元の毛に触れた。指先が僅かに震えていたのは真新しいものに触れられたという感動から、なのだろうか。 「……すっげえ。本物だ」 少年は小さく息をついた後、満足げに微笑む。そりゃあ私は正真正銘のウインディだ。彼は私が絵か何かだとでも思っていたのだろうか。 いや、日常生活で本物のウインディと接する機会なんてそんなにあるものでもないか。本や写真、あるいは遠くの映像が映る小さな箱――――確かテレビといったかしら。 それらで見るのと、実物と触れ合うのとでは全く別のもの。この部屋に来れば私の大きさ、手触り、匂い、全てを感じてもらえる。 だからこそ、私の想像以上の迫力に驚いたり、恐れたりする子も少なくない。それでもいいのだ。ここはウインディというポケモンをより近くで知ることができる空間なのだから。 「やっぱりかっこいいなー。俺もお前みたいなポケモン持ってたら、友達に自慢できるのに」 少年は羨望するような眼差しを私に送ってくる。彼の歳でウインディを手持ちに入れて使いこなせるトレーナーがいれば、周囲から一目置かれる存在になり得そうな気がした。 だけど自慢するためにポケモンを持ちたいっていう動機はどうなのかしら。まあまだ若いし、その辺は仕方ないかしらね。 そして、かっこいい、か。やはり傍から見れば私はかっこいいと分類されるポケモンなのかな。今まで訪れたお客さんにも、何度か言われたことがある。 これでも私は雌だ。雌としてはかっこいいよりも可愛いとか綺麗とか言われた方が嬉しいんだけど。なかなかそう言ってくれる人もいないのよね。 ふさふさの鬣や、しっかりとした力強い四肢。きっとそれらが私をかっこいいと印象付けているのだろう。嫌だとは思わない。鬣も四肢も、私の誇りだ。 「なあ、お前、俺のポケモンにならない?」 突拍子もない提案だ。私は驚いて彼の顔を見る。真面目な表情というわけではなく、どことなく笑みを含んでいた。軽い冗談のつもりなのだろう。 もし本気で言われていたとしても、私は謹んで断っていたはずだ。窮屈に感じることもあるけど、私の居場所はここなのだから。 ただ、彼が普段目にしているのはどんな世界なのか。彼の友達が私を見た時、どんな反応を示すのか。少し興味はあった。 一日くらいレンタルされてあげるのならば、それはそれで悪くないかもと思ったり。こんなこと考えてるとご主人に怒られちゃうかな。 「なーんてね」 そう言って彼は肩を竦める。やっぱり冗談だったのね。ウインディというポケモンに憧れてたなら、言ってみたくなる気持ちも分からなくはないか。 少年は黙ったまま、私の喉元に手を伸ばしてわしゃわしゃと撫でてくれた。大人よりは小さい。でも、完全に子供の手でもない。少し成長した手。 慣れない不器用な手つき。だけど乱暴じゃない。優しさが籠もってる。彼の手のぬくもりが心地良かった。 ふいに、部屋の中にチャイムの音が鳴り響く。入ってから一定の時間が経過すれば鳴るようになっている。お客さんが長居し過ぎないためのシステムだ。 「もう終わりかあ……じゃあな、ウインディ」 少々名残惜しそうにしながらも、少年は私から手を離して入り口のドアへと歩いていく。遠ざかっていく彼の背中は何となく寂しげだった。 ウインディに初めて会えて凄く嬉しそうだったし、もっと私と一緒に居たかったみたい。でもここはそういう決まりだから、ごめんね。 ドアに手を掛け、少年は振りかえる。そして、にっと笑顔になると片手を振った。ばいばい、ってことなのかな。よかった。笑ってくれて。 何も言わなかったのは、別れが惜しくなるからよね。もし私が人間の言葉を喋れたとしても、ここは黙って彼を見送っていたかもしれない。 部屋を去っていく少年の無言の挨拶をしっかりと受け止め、ひらひらと尻尾を左右に振ることで私はそれに応じたのだ。 ―2― 午後になって太陽も少し傾き始めた頃だろうか。わざわざ窓から外を見なくても、ここに差し込む光の角度で大体は察しが付く。 丁度真上から光が差し込む感じで、部屋の中央に四角い形の日向ができている。直射日光だとさすがに暑いので、部屋の隅の方で私はうずくまっていた。 お昼に食べたポケモンフーズでお腹も膨れ、ふわふわと心地よい眠気が漂い始めている。午前中といい、午後といい、何だかうとうとしてばかりな気がする。 でも、他にすることもないし別にいいよね。最初の少年の後、誰もお客さんは来ていない。私がここで注目を集めるような存在でないことは、自分が良く知っている。 この状況は何も珍しいことではないのだ。ガラス越しに覗いてくる人ならともかく、わざわざ中にまで入りたがる人はかなり少ない。 私の大きな体は、そこからくる第一印象で見る人に近づくことを躊躇わせてしまうのか。あるいは、もともとウインディにそこまで興味がないのか。 他にも理由はあるかもしれないが、私が思いつくのはそれくらいだ。もし私が大人気のポケモンなら、こんな閑散とした隅の方に小屋を立てたりはしないだろう。 だが、これはこれで悪くはない。四六時中誰かの視線や気配を感じながら過ごすよりは、多少退屈に思えることがあっても静かな方が私はずっと良かった。 何よりも開いた時間での一眠り。その睡眠が何とも言えない気持ちよさ。私の生活には欠かせなくなっている。誰も来ないなら、また寝ちゃおうかな。 そう思った矢先に外から何やら話し声が。バイト君の声ともう一人、じゃないな。聞いた感じだと少なくとも二人はいそうな気がする。 さっきの少年よりも少し幼い雰囲気の声。明らかに子供と思える相手には、彼も普段より丁寧に説明しているらしい。その辺のやる気はまだ残ってるのね。 「それじゃあ、時間になったら音が鳴るからね」 「はーい」 きい、とドアが開いて入ってくる人影が二つ。十歳くらいの男の子と、六歳くらいの女の子だった。 男の子の後ろに隠れるようにして、女の子が立っている。兄妹なのかな。かなり幼い子供達だ。きっとウインディを見るのは初めてだったに違いない。 兄の方は部屋に入って私の方を見るなり、表情が固まったのが分かる。妹の方はぽかんと口を開けて突っ立ったまま。 二人ともその場から動こうとしない。私との距離は縮まらないまま、ただただ無言の時間だけが流れていく。 これは、完全に怖がられちゃってるかな。いつものように腰を下ろして低い姿勢を取っていたつもりだけど、彼らから見ればそれでも大きく映ってしまうのか。 何とかしてあげたいところだけど、今彼らはかなりの緊張状態にある。下手に体を動かせばますます驚かせてしまうことになりかねない。 まだ幼い二人だ。一度心に恐怖を植え付けてしまったら、それを克服するのは大変なこと。私のせいで彼らがウインディを嫌いになってしまうのは何だか忍びないしね。 私は芝生の上に寝かせていた尻尾をぱたぱたと左右に振って、彼らに意思表示してみる。君たちをどうこうするつもりなんてないから、近づいてきても大丈夫よ、と。 揺れ動く尻尾を見て妹の目の色が変わったのを、私は見逃さなかった。途端にほっとしたような笑顔になると私の方へ歩いて来る。 小さな足を少しずつ踏み出して、慎重に。それでも着実に前へ。そして私のすぐ前まで来てしゃがむと、笑った。屈託のない眩しい笑み。 部屋に入ったときとは打って変わって、躊躇いのない妹の行動に私の方が少し面食らってしまう。尻尾を振っただけでここまで警戒を解いてくれるものかな。 「わあ……大きい」 そう言って妹は私の前足を小さな手でぎゅっと握ってくれた。両手を合わせても私の足の半分にも満たない幼い手だ。それでも、私の毛を掴む確かな力が伝わってくる。 怖いという気持ちがなくなってしまえば、後は私に対する好奇心が完全に勝ってしまっている。どうやら彼女はそういうタイプらしい。 「あったかーい。やわらかー」 両手で私の前足を包むようにして、妹はしみじみと言う。私は炎ポケモン。人間よりも体温は高い。その暖かさが珍しいみたい。 おや、そういえば兄の方はどうしたんだろう。見てみると、まだ部屋の入り口で立ち尽くしている。強張った表情のままぴくりとも動かない。うーん、そんなに怖いかな、私。 「お兄ちゃんも、ほら。すごく大きいけど家のポチエナと一緒だよー。大丈夫」 なるほど、この子達の家にはポチエナがいるのか。彼女は私が尻尾を振る動作を見て、ポチエナと同じで大丈夫だと判断したのだろう。 進化前のポケモンであるポチエナと一緒にされるのはあんまりいい気分じゃなかったけど、四足歩行でもさもさしてて尻尾がある等々、共通点は確かに多い。 言われてみればこの子の私を撫でる手つきもちゃんと前足の毛並みに沿って動かされていて、なかなかに心地よい。 さっきの少年とは違って随分と慣れた手つき。彼女が家のポチエナをこうやって撫でている姿が容易に想像できた。きっと大事にしているのだろう。 おお。妹に促されて覚悟を決めたのか、ようやく兄の方も歩き出した。そうそう。せっかく来たんだから、何もしないで帰っちゃうのはもったいないよ。 私に兄妹はいないけど、下の子は出来て自分は出来ないと言うのはちょっと悔しいかも。頑張れ、お兄ちゃん。 兄はぎくしゃくした足取りでどうにか妹の隣、私の正面まで辿りついた。彼の細い息遣いが伝わってくるくらいの距離。このまま倒れてしまわないかちょっと心配になる。 無表情で震える右手を私の顔の前まで差し出してくる。これは、私に触りたいのか。でもちょっと踏ん切りがつかなくて思いとどまってる感じかしら。 ただでさえ大きい私の姿が、近くだとより一層際立ってしまう。その事実が彼をあと一歩のところで踏みとどまらせているのかもしれない。 ここはどうすればいいだろう。手を置いてあげてもいいけど、私が動くとびっくりしちゃうよね。かと言ってこのまま何もしないっていうのも、せっかく勇気を出してくれたんだし。 あれこれ考えて迷った挙句、私は舌を伸ばしてぺろりと彼の手を舐めてあげた。友愛の証、なんて大層なものじゃないけど。私に敵意がないことは伝わっていてくれたらいいな。 一瞬、兄の体がびくりと引き攣った。やっぱり驚かせちゃったか、という不安が私の頭をよぎったけれど。泣きだしたりするようなこともなく。 彼は私に舐められた手のひらを不思議そうにまじまじと見つめていたが、やがて私と目を合わせるとふっと穏やかな顔つきになる。 この時初めてちゃんと目を見てくれたような気がする。私が怖がらなくても大丈夫なポケモンだってこと、分かってくれたのかな。 兄として妹が見ている手前、引き下がるわけにはいかなかったのかもしれない。妹の前で怖がってばかりじゃさすがに恥ずかしいよね。 「ねー、大丈夫でしょ」 「う……うん」 妹に言われ、遠慮がちに頷く兄。部屋に入ってからの行動だけを見れば、どっちが上なのか分からないくらい。 彼も妹と同じようにしゃがむと、私のもう片方の前足に触り始める。妹の方と比べると少し控え目な撫で方だけど、そこには優しさが籠もっていた。 ふと、顔を上げた兄と私の視線が交わる。まだ妹のような笑顔ではなかったけれど、表情は硬くない。緊張がほぐれた感じだ。 私はそっと彼に微笑みかけてみる。私が笑えば彼も笑顔になってくれるかもしれない。それと、勇気を出してよく頑張ったね、の気持ちも含めて。 少し、私を撫でる兄の手がぴたりと止まる。そしてふっと目を細めると、笑った。こういうところは兄妹共通かな。笑顔が眩しいね。 やっぱり、彼らの年齢くらいの子たちにはこんな風に無邪気に笑っていてほしい。最初はどうなる事かと思ったけど、妹もお兄ちゃんも楽しんでくれたみたいで良かったわ。 ―3― もうすぐ夕方に差し掛かるくらいか。少し薄暗くなり始めた部屋の中。窓があるのは天井と東側だけなので、沈みかけた太陽の光は入らない。 あの兄妹が帰ってから幾時間。私はぼんやりと頭を巡らせながら、さっきの二人のことを思い返していた。 部屋を出る時間になっても、もっと見たいと渋る妹を宥めていた辺りはさすがお兄ちゃんと言うべきか。 本音を言うともうちょっといてくれてもよかったんだけどね。多分、次を待ってる人なんていなかっただろうし。 とはいえ、決まりは決まり。定められたルールがある以上はお客さんにはそれに従ってもらわなければならない。 兄に説得され、不服そうな顔をしながらも妹はどうにか納得してくれたみたい。やるときはやるんだな、彼も。 妹の手を引いて部屋を出ていく姿が随分と印象に残っている。初めはどっちが上なのか分からないなんて思っちゃったけど、最後にちゃんと私に頼もしさを見せてくれた。 年端もいかない子供達でもああやって兄妹で支え合っているのだ。何だかとても微笑ましくて、あったかい気持ちになれた。私には兄妹はいないけどもしいたらどうだっただろうなあ。 兄や姉がいたら、わがままを言って甘えていたときがあったかもしれない。弟や妹がいたら、とても可愛がって大事にしていたかもしれない。 兄妹がいないことに対する不満はなかったけれど、ああいう二人を見ていると少し羨ましく思えてくるときもあるのだ。 そんなことを考えていると外から声が聞こえてきた。こんな時間にお客さんとは珍しい。バイト君も少し戸惑っているのか、対応がワンテンポ遅れている。 随分と落ち着いた感じの声だ。少なくとも、今日来てくれた三人のような子供ではないことが判断できる。どんな人なんだろう。 「では、時間になったらチャイムが鳴りますから」 「分かりました」 入ってきたのは男の人だった。眼鏡をかけた細身で、身長は私よりやや低いくらいか。顔つきから見ても大人だって分かる。二十代くらいかな。 子供の付き添いとしてなら割と見かけるけど、大人が一人で入るのはなかなかないこと。こんな時間に、しかも私の所にわざわざ来るなんて。ウインディに思い入れでもあるのかしら。 少しの間入り口から動こうとしなかった彼だけど、ようやく私の前まですたすたと歩いてくる。さすがにこの歳になれば、ウインディが怖いなんてことはないか。 すぐ傍まで来るとしゃがんで、私の顔をじっと見つめてきた。相手が大人だと腰を下ろした私と目の高さがほとんど同じくらい。 私からも男性の顔が良く見える。彼の眼鏡の奥の瞳は何を考えているのか読み取れない。どことなく冷めた色をしていた。 睨んでいると言えば行き過ぎかもしれないけど、にこりともせず無表情のまま。何か、気にいらないところがあるのだろうか。 私も大人への対応はあんまり慣れていなかった。とりあえず、何度か瞬きをして少しだけ首を傾げてみる。 どうすればいいのかなという思案と、どうしたのと男性に尋ねるという二つの意味合いを含めて。 すると彼はふっと口元を上げて、笑った。でも何だろう。その表情に違和感を覚えてしまうのだ。笑顔の奥で何かを企んでいるような、薄ら寒いものを。 これは私の考え過ぎだろうか。だけど間違いなく、男性の笑みは子供達が見せてくれたような無邪気なものじゃなかった。 彼は両手を伸ばすと、私の首を両側から包み込むようにして触れた。その手の大きさと包容力は子供のそれとは違う。 そして、両手は首に触れたまま私の首元からお腹まで伸びているふかふかの毛に顔を埋めて――――。な、何。待って。ちょっと。近い近い近いってば。 私の目線のすぐ下に、男性の頭が見える。手や腕ならともかく、顔で直接私の毛に触れてくる人は初めてだった。 顔を押し付けられた部分からは毛の隙間を通して、彼の微かな吐息が伝わってくる。これって、私の匂いを嗅いでいるのかしら。 人間からすればそんなにいい匂いではないと思うんだけど、そんな素振りは全く見せない。匂いが嫌ならそもそも顔を埋めたりはしないか。 「ああ……もふもふ」 男性は何か良く分からないことを呟きつつ、両手を私の背中の方まで伸ばしてぎゅっと包み込むように私を撫でる。その力の強さは抱きついていると言っても過言ではない。 私の背中を這いまわる彼の手つきに只ならぬものを感じてしまったのは、私の杞憂。どうかそうあってほしい。私はポケモンだし、そんな変なことされないよ、ね。 胸元の飾り毛だけじゃ満足できず背中の毛もお望みかな。私が本気で身を退いたりすれば、彼も手や顔を引っ込めてはくれるだろうけど。 ここに来るお客さんは大抵、ひときわふさふさして柔らかそうな首から胸元にかけての毛を触る人が多い。すぐ近くにある前足ならまだしも、背中を撫でてくれる人はなかなかいなかった。 そんなに私の背中の毛が良いのだろうか。まあ、私も自分の毛には少しばかり自信があったしこうやって触れてもらえて、思っていたよりも悪い気はしないかな。 ただ、彼の指先が動くたびにに何となく胸騒ぎがするのは、本能が危険を告げているからなのかしら。とにかく、彼の挙動は慎重に見守っておくことにしよう。 私の首元と背中の毛を一通り堪能した後男性は少し後ずさって右の手のひらを上に向け、私に差し出してきた。 相変わらず黙ったままだったが、何かを期待するような眼差しを送ってくる。これはお手をしろ、と言うことなのか。 正直気は進まなかったけどせっかく来てくれたお客さんだ。その手を無視するわけにもいかないわね。私のサービス精神に感謝しなさいな。 私は渋々前足を彼の手の上に置いた。もちろん仕方なくやってますよと言った表情は顔には出さない。営業用の顔つき。 直接触ってみて、あらためて子供との手の違いを実感させられた。首元の毛よりもずっと感覚に優れた肉球で触れているから良く分かる。 手のひらも指も皮膚もしっかりとしている。私の足の裏よりは小さかったけど。最近ここに来る人は子供ばかりだった気がするので、何だか新鮮だった。 「……!」 やっぱり大人だと違うんだなあとか考えてると、いきなり肉球を掴まれる。これには私も思わず背筋をびくりとさせて反応してしまった。 指先で丸い個所をむにむにと揉んでくる。ちょ、ちょっとやめてってば。くすぐったい。 私が動揺したのを見て味を占めたのか、手の動きが容赦ない。五本の指を巧みに使って肉球の真ん中の部分や、毛との境目を執拗に撫でまわしてくる。 そしてあろうことか敏感に反応する私を見て笑っていたのだ。何がそんなに楽しいの。心地良さそうにしてないことは、私の顔を見れば分かってるはずなのに。 何なのよ、もう。確かにここはウインディとふれあえる場所だけど、もう少し普通にスキンシップしてほしいもの。 この人、楽しみ方のベクトルがずれてるような気がする。あのまま揉まれ続けるのはいくらなんでも嫌だったので、私は手を引っ込めて彼をむっと睨んだ。 「あ、ごめんね」 さすがに悪いことをしたと感じたのか、男性は申し訳なさそうに私の喉元を撫でる。わしゃわしゃと毛をかき分けるようにしながら。 そこなら、まあいいんだけど。むしろ歓迎だ。できれば最初からこうやって撫でてもらいたかった。 私が嫌がっていることを示すと手つきも態度も大人しくなったので悪気があったわけじゃないんだろう。 「君が可愛かったから、つい……ね」 穏やかに笑いつつ、そっと囁くように。彼が紡いだ言葉。私の思考を一時的に止めてしまうには十分な内容だった。 え……。彼、今、私の事を可愛いって。確かにそう言ってくれたよね。聞き間違いなんかじゃなかった。 突拍子もなく飛び出してきた発言に私がきょとんとしていると、終わりを告げるチャイムの音が鳴り響く。 男性は小さくため息をつくと、残念そうにしながらも私から手を離して立ち上がった。そして何度かこちらを振り返りつつ、ドアまで歩いていく。 「今日はありがとう。楽しかったよ」 そう言い残して彼は部屋を出て言った。私は男性の去り際に尻尾を振って応えることもできずに、ぽかんとドアを見つめたまま。 私のことを可愛いと言ってくれる人、いるんだ。久しくその褒め言葉を聞いていなかった気がする。最後に言ってもらえたのは何カ月、いや何年前だろう。 昔、自分がガーディだった頃には何度か言われたものだが、ウインディに進化してからはぱったりと聞かなくなった言葉。正直なところ、かなり嬉しかった。 かなり変わったお客さんだったけど私のことを可愛いと評価してくれた人。もし、今度来てくれたならもうちょっと積極的に対応してあげてもいいかもしれないわね。 ―4― すっかり日が沈んで夜の闇が広がりつつあった。いつの間にか閉館時間を過ぎていたらしく、バイト君はもう帰ったみたい。 微妙に遅れてくることはあるくせに、帰る時間だけはきっちり守るんだから。ちゃっかりしているわ、本当。 最低限の対応はちゃんとしてくれているみたいだから、悪くはないのに。そういう所があるから、私の中での彼への評価がやる気がない、なのよね。 まあ、彼が遅刻してきてお客さんへの対応が遅くなったなんてことは一度もなかったんだけど。私の所に朝早くから並ぶ人なんていないしね。 元々静かなこの小屋周辺だ。営業時間と今とでそんなに変化はなかったりするのだけど。確実に違うのは明るさと気温くらいだろうか。 今日私の所に来てくれたお客さんは四人。これでも割と多い方だ。来客がゼロという日はなかなかないが、一人や二人だけの日も少なくはなかった。 私が身を置いているのはポケモンに直接触って触れあうことを目的とした広場のようなところ。もちろん、私もそこの一員。 とはいえ、私はついでにここに居させてもらっているような感じではある。広場の本命のポケモンはコリンクとかイーブイとかピカチュウとかロコンとか。 小さくて愛らしくて、おそらく子供が怖がらないであろうポケモンたちが中心だ。広場の中央には大きな小屋があって、ここと同じように中に入って触れあえるシステムだ。 この広場は元々自分のポケモンをまだ持てない、幼い子供達にポケモンに慣れてもらおうという目的で作られた場所らしい。 早いうちからポケモンに接しておけば、自分がポケモンを持つようになったときにパートナーと良い関係が築きやすいとかなんとか。その辺の理屈は私は良く分からない。 だけど、小さなポケモンから慣れていくというのは正しい方法だとは思う。初めて見るポケモンが自分より小さくて、なおかつ愛くるしい姿をしていれば。 警戒を解いて接してみようという気になるかもしれない。頭を撫でて、喜ぶ姿を見ればポケモンを好きになってくれるかもしれない。 初めて接するポケモンがいきなり進化後の、しかも彼らの体の何倍もあろうかと思われる私にチャレンジするのはいくらなんでもハードルが高すぎる。 下手をするとポケモンは怖いものだというトラウマを植え付けてしまいかねない。そりゃあ私はそうなってしまわないように努力はしている。 体をできるだけ小さく見せようとしてみたり、愛想良く尻尾を振ってみたり、と私も自分なりに考えて行動しているのだ。 それでも、なかなか私の試みだけでは何とかなるものでもなく。堪え切れずに泣き出してしまい親御さんに抱っこされて小屋を出ていった子らを、私は幾度となく目の当たりにしてきた。 そういうわけで、私は未進化のポケモン達と比べると需要は薄い。自覚していること。別に残念に思ったりはしていなかった。 私の所に来るのは小さいポケモンより大きい方が好きな人か。あるいは、中央広場のついでに見に来てくれる人か。そんなところ。 おや、ドアの外から聞き覚えのある足音が。そしてドア越しでも私の鼻孔をくすぐる匂い。ウインディはポケモンの中でも鼻が利く種族。匂いを記憶してしまえば顔を見ずとも誰だか分かるくらいに。 私がどんなに歳を取って鼻が衰えたとしても、この匂いだけは絶対に忘れたりしない。閉館時間を過ぎて私の所に来てくれる人物、それは。 「ウインディ、今日もお疲れ様」 少し皺の入った顔に愛嬌のある笑みを浮かべながら私にねぎらいの言葉を掛けてくれる。この広場の館長、そして私のマスターも兼ねている人。 私は思わず立ち上がって、尻尾を振りながら彼の胸元に鼻先を擦り寄せた。毎日会ってはいるけれど、ちゃんと近くで存在を確かめたくて。 いつもの彼の匂いと、若干の汗のにおいが混じっている。天気も良かったし、小屋の中とは違って外は暑かったのかもしれない。 近づいてきた私にマスターは嬉しそうに笑い、首元の毛を撫でてくれる。一番安心できて、心地よい手つき。どんなにポケモンに慣れている人でも、マスターには誰も敵わないわね。 「今日はお客さんは来てくれたかい?」 私はこくこくと頷く。人間の言葉は喋ることができないけど、簡単な意思疎通くらいならできる。きっとマスターもある程度は、私の言いたいことを理解してくれてるんじゃないかな。 「そうか、それなら良かった」 誰かが来てくれていると分かれば、マスターは安心してくれる。誰も来なかった日でも、彼を心配させたくなくて首を縦に振ったこともあった。 もしかしたら私の微妙な仕草の違いで、そんな嘘は見抜かれていたのかもしれないけど。マスターは何も言わずににこやかにほほ笑んでくれたのだ。 私がここに居場所があるのも館長であるマスターが掛け合ってくれたおかげ。本来なら客寄せ効果の薄いポケモンのためにわざわざ小屋のスペースを割いたりはしない。 それくらいは私にも察しが付く。この小屋は立地条件が悪いために入れるべきポケモンがいなくて余っていた小屋、とは聞いているけど。 でも、マスターの仕事の間ボールの中でじっと待っているよりは。訪れてくれる人は少なくとも、誰かと接することができるこの小屋の方がずっといい。 「また明日も一緒に頑張ろうね、ウインディ」 私の頬に手を当て、優しく囁くようにマスターは言う。私はその台詞を待ってましたと言わんばかりの勢いで頷くと、小さく鳴いた。もちろん、という意思表示。 頑張るねでもなく、頑張ってねでもない。頑張ろうね、という言葉。マスターが掛けてくれる中で、私が一番好きな言葉。 広場を運営しているマスターと、その広場のポケモンである私とでは頑張る方向性は全く違うものになるのだろうけれど。 それでも、広場のためにマスターも私もお互いにという、前向きな雰囲気が私はとても気に入っていた。 本音を言ってしまえばこの小屋は、私がボールの外にいられるという利点があるにせよ退屈で面白みの少ない場所。 ここを私のために設けてくれたマスターには申し訳ないけどね。一日の中でじっとしている空白の時間が長いとやっぱりそう感じてしまう。 ほとんど人が来なくて、寂しい思いをした日だってあった。だけど、マスターも広場のどこかで頑張ってるんだって思うと、不思議と元気が出てくるのだ。 彼の一言があるだけで私はまた明日もやるぞって気分になれる。マスターの頑張ろうね、は私にパワーをくれる魔法の言葉。 「……ウインディ。少し、いいかな?」 マスターの提案。傍から見れば何のことなのか皆目見当がつかないだろう。もちろん私は、彼が私に何をして欲しいのか分かる。そして私もそれを求めていた。 私は少しだけ後ずさって彼との距離を置くと、芝生の上にそっと腰を下ろす。そして顔を見上げながらぱたぱたと尻尾を振ってみせた。どうぞ、の合図。 マスターは朗らかに微笑み、ゆっくりと私の右側まで歩み寄った。やがてくるりと背を向けて地面に座ると、私の横腹から背中にかけてもたれかかる。 私の体は大きい。腰を下ろしていても、大人の男性が身を預けられる位の高さは十分。ふさふさの背中は随分と心地よいらしく、マスターにはとても好評だった。 「やっぱりこうしていると一番落ち着くよ」 目を閉じて、ふうと息をつくマスター。放っておけばそのまま眠ってしまいそうなくらいリラックスしている。ここで眠ってくれても私は大いに構わないんだけどね。 この瞬間が一番落ちつけるのは私も同じ。マスターの重みと、温もりと、息遣いと。すぐ傍で感じることができて、私は一人じゃないんだって安心できる。 広場にいるといろんなお客さんが来て、私の頭や前足、首の飾り毛とか、いろんなところを撫でていく。 だけど、どんな時もこの場所だけはマスターのために開けておくから。だから、安心して身を預けてくれていいんだよ。 どんなにウインディが好きな人が来てくれたとしても、絶対に譲れない特等席。私にこうやってもたれてもいいのはマスターだけ。私の大切な大切なご主人様、貴方だけだからね。 END ---- -あとがき ネタばれを含むのでこの話を全部読んでから見ることをお勧めします。 ・この話について ウインディがひたすらもふもふされる小説、という名目で思いついたのが今回の作品です。 そのテーマから、動物園のような施設でいるポケモンは訪れる人たちをどういうふうに見ているのだろうかという考えに発展し、現在の形になりました。 雄のウインディは既に登場させているので雌に。こういう雌っぽい口調の一人称は初めてで、なかなか新鮮でした。 ポケモンと触れ合う広場だから、来てくれた人には愛想良くするけど、本命はご主人様だけだよーというトレーナーラブなウインディです。 正直、三人目の男性のシーンが一番書きたかったところ。3話よりも4話のほうが文字数が少ない。本能は正直です。 正直、三人目の男性のシーンが一番書きたかったところです。3話が最も文字数が多い。本能は正直です。 【原稿用紙(20×20行)】 38.7(枚) 【総文字数】 13072(字) 【行数】 236(行) 【台詞:地の文】 3:96(%)|434:12638(字) 【漢字:かな:カナ:他】 34:64:3:-2(%)|4470:8449:479:-326(字) 最後まで読んでくださった皆様、ありがとうございました。 ---- 何かあればお気軽にどうぞ #pcomment(誰が為のコメントログ,10,)