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*愛が故 [#ed94b16e]
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〔1〕
「なあ、お前、ドリームボックスって知ってるか?」
昨日、僕と同じ場所に住むことが決まったばかりのポチエナが、興奮したように言った。
「うん……」
「なーんだ、つまんねーの」
つまらないのはこっちのほうだよ、と心の中でつぶやいた。彼の反応は予想通りだった。
みんな同じ、単純な奴ばかり。夢の国に行ける、天国に――。
「すごいんだぜ、パラダイスだよ、早く連れてってくれねえかなあ」
「すぐ連れてってもらえるよ」
「なんでわかるんだよ、そんなこと」
「……わかるから」
「はあ?」
君も早ければ明後日には、みんなが憧れる場所に行ける。僕にはわかる。
次の日、また次の日と、あっという間に時は流れて――。
「あれ、お前は?」
「……まだ、みたいだね」
「そうか、じゃあ先に行ってるから……また会えるといいな」
彼もまた、わくわくする気持ちを抑えきれない様子で、跳びあがるように部屋から出て行ってしまった。
僕は、この粗末な部屋にやってくるポケモンを見送り続けて六年になる。冷たい床、高い天井、頑丈な金網――なにもかも、すべてが嫌になった。
なんでも願いがかなって、年を取らなくて……夢の場所、憧れの土地。それが、ドリームボックス。
だからみんな、こんなところには二度と帰って来てくれない。全然面白くなくて、窮屈だから。
「……早く行きたいよ」
無意識に、ぽつんと呟いた。
目を覚ますと僕は、ドリームボックス行きが決定したことを知らせに来て、そこまで連れて行ってくれる、「いつもの人」に抱かれていた。
今日はもしかして、そんなまさか――考えれば考えるほど、信じることができなかった。
「よかったなあ、お前」
いつもの人が笑顔で言った。僕の心境をなんとなく感じ取ってくれたのだろうか。
「行けるの? 僕も行けるの?」
食いつくように聞いた。
すると、いつもの人は首を横に振ったあと、「やっと売れたんだよ」と嬉しそうに言って、おやつを食べさせてくれた。
甘いような、苦いような、どちらとも言えない変な味だった。
「可愛がってもらえよ、みんなの分まで」
僕は何も言い返せなかった。突然、ものすごく眠くなってきたのだ。
意識が暗闇の中に落ちて行く。
ほどなく、僕は深い眠りについた。
僕を「ベッド」に寝かせてくれて、「布団」をかぶせてくれたのは、この人らしい。名前は、ユウ。
重かったけど頑張ってここまで運んできて、うなされていたから、ずっと看病してくれていた――らしい。
「ほんとに知らなかったの? ベッドも、布団も」
「だって、そこで生まれたんだから。えっと……」
「くつろぎハウス。ひどいね……そんなの、名前だけじゃん」
僕はこくりと頷いた。
今までの暮らしは、嫌な思い出を除いて、覚えている範囲で全て話した。くつろぎハウス――ユウのおかげで初めて、あの場所の名前を知った。
「でも、ほんと、よかったねえ」
「なにが?」
「ドリームボックスだよ。僕が引き取らなかったら、ヤバかったんだから」
「そう、それだよ、ドリームボックス! 僕の生きがいだったのに!」
怒りと憎しみが心の底からわき上がってくるばかりで、そのことをすっかり忘れていた。
僕も、くつろぎハウスで出会い、再会を誓ったポケモンたちのように、長くとも1週間でドリームボックスに行けてたら――。
ぜったい、幸せになれた。
「余計なことしないでよ!」「もうちょっと待ってたら、行けてたかもしれないのに!」
ユウをキッとにらみつけながら言った。
どうしてくれるんだ、と彼を責め立てる。死んじゃえばいいのに、とまで言った。
彼には関係のないことまでも、でたらめな理由をつけて、彼のせいにした。
ありったけの罵詈雑言を浴びせながら、泣きじゃくる。――僕の中で募った思いが、ついに爆発した。
「……すっきりした?」
「わかんない」
涙声で言った。何も考えたくないという気持ちだけが頭の中を支配している。
今の僕には、なにが「すっきりする」ことで、どうなることが「すっきりする」なのか、わからなかった。
「もっと早く言えばよかったね」
「なにが」
「君は間違ってるから」
「だから、なにが!」
「……連れてってあげるよ、今から。でも、ぜったい、行かせないからね」
「意味わかんないよ、さっきから、ねえ、ちょっと!」
納得のいかないまま、一瞬、ふっと意識がとんだ。生まれて初めて、モンスターボールの中に入れられた。
たまに行くと意外に楽しめて、毎日通うとなると飽きてしまう――聞いていた通り、モンスターボールの中は、そんな場所だ、と言えるような気がした。
狭くもなく、広くもない。平凡な景色が広がっていて、退屈しのぎはできないけど、生活はできる。
辺りを一通り見回ったあと、わらが敷きつめられている場所に寝ようとしたとき、ふいにまた一瞬だけ、ふっと意識がとんだ。
「ついたよ。よいしょっ、と」
僕は地に足が着いた途端、ユウに持ち上げられた。思わず出そうになった声を、ぐっとこらえる。
「やっぱり重いね、君」
「よし、じゃあ行こうか」
ユウの言葉とほぼ同時に、聞き覚えのない声が言った。
声の主は僕の――ユウの前にやってきて、そのまま歩き出す。ユウもそれに続いた。
「……ここだ」
ドリームボックスは、僕の予想を覆す、さびついて質素な場所だった。寒気を感じるほどに不気味だ。
僕たちを待ちかねていたかのように、ドリームボックスの扉が上に開いた。どうやって入るのだろうか、という疑問は、それで解決した。
残念ながら中の光景も、外見とほとんど変わらなかった。
辺りは静かだった。それをかき消すように、ミズキさんに投げられた、一つのモンスターボールが、ポン、と音を立てた。
そこから出てきたのは、期待に胸を躍らせているように見える、ポチエナだった。
まだ鮮明に残っている記憶の中のポチエナと、今まさにドリームボックスへ入ろうとしている現実のポチエナが、頭の中で重なった。
「ここに入ればいいの?」
「ああ……お疲れさん」
なにが「お疲れさん」で、どうして声の主が涙声になったのか、僕にはさっぱりわからなかった。
また自分だけが置いていかれてしまう――。
僕は思わず、「待って!」と大声で叫んだ。驚いたポチエナが、振り返る。
「ぜったい、行かせないからね」
痛いほど体を締めつけてくるユウに、耳元でささやかれた。震えるような声だった。
「気にしないで、ほら、早く」
ユウがわざとらしく、明るく声を張り上げて言った。ポチエナは笑顔でこくりと頷くと、ドリームボックスに入っていった。
それから間もなく、ドリームボックスは閉じてしまった。
「見てみろ。元気だろ」
「……やっぱり見てられないですよ、ミズキさん」
「そいつのためなんだろ?」
僕は、精一杯見上げてやっと、声の主――ミズキさんの顔を見ることができた。
大粒の涙を流していた。
「はい……こいつも信じてるんです」
「……ほら、見せてやるんじゃないのか?」
ミズキさんが言った直後、高く持ち上げられてた僕は、ちょっとした足場に立って、後ろをユウに支えてもらいながら、ガラス越しにポチエナを見れる状態になった。
なんだよ、嬉しそうにして――ちぎれそうなほど、激しく尻尾を振り続けるポチエナの姿に、僕は嫉妬した。
しかし突然、ポチエナは不安と恐怖に押しつぶされそうな表情になった。
なにかが、始まった。
最初は暴れまわっていたポチエナも、立てなくなると苦しそうに何度も地面を転げて、仕舞いには痙攣を起こした後、動かなくなってしまった。――あっという間だった。
ミズキさんがポチエナをドリームボックスから出すのと同時に、僕はユウに再び抱きかかえられた。
「死んでるように、見えないだろ?」
ミズキさんが、鼻をすすりながら言った。僕は彼が抱えているポチエナを見た。
ぐったりしたポチエナは確かに、体を揺すると今にも目を覚ましそうだ。
夢を見ているようにも、見えた。
「知ってたら、こんなところ……来ようと思いませんからね」
ユウの言うとおり、殺されるのを知っていたら、誰もドリームボックスに来たいとは思わないだろう。
「違うよ、こんなの……違う! ここだけなんでしょ?」
ここが「くつろぎハウス」でないことは、ミズキさんの声を聞いたときから、なんとなくわかっていた。
きっとここだけが、今みたいな残酷なことをしているのだ。――僕は真実を受け入れたくなくて、勝手にそう決めつけた。
「ううん、どこも同じだよ」
暗い声で言ったユウは、僕を椅子に座らせて、目線を合わせるためにしゃがむと、愛おしそうに優しく、体をなでてくれた。
「ありがとう」
ユウが微笑みながら言った。言葉では説明できない彼の思いが、僕にはちゃんと伝わった。
いつの間にか、ユウの傍にいたはずのミズキさんがいなくなっていた。今なら、と思えた。――今しかない、とも思えた。
泣いた。号泣した。
誰よりも単純な奴は、僕自身だった。
「これ、見える?」
ユウが、目の前になにかを持ってきた。
それを見ようと思って、涙をぬぐった。しかしまた涙があふれてきて、視界をさえぎってしまう。
僕は首を横に振って、意思を伝えた。
「食べ物なんだけど、口に入れるから……僕を信じて」
迷わず頷いた。――間もなく、口の中になにかが入ってきた。
「噛んでみて」
言われたとおり、噛んだ。噛みしめた。
ほろ苦い甘さが口の中に広がって行く。――こんなおいしい物、食べたことない。
「……だいぶ落ち着いた?」
「たぶん」
僕は軽く頷きながら、だみ声で言った。
ふわふわする感じと、体の底からわき上がってくる熱が、なんとも心地良い。
鼻をすすりながら、目に残った涙を全部ぬぐって、ユウを見た。
「今の、なに?」
「気に入った? チョコレートだよ」
よく見ると、ユウの手には透明の紙に包まれたチョコレートがたくさん握られていた。
「ちょうだい! なんでもするから!」
「じゃあ、こうしよう」
「いいから、早く!」
僕は、もっとチョコレートが食べたくて仕方がなかった。
「しっ!」と言ったユウは、人差し指を立てて僕の口の前に持ってきた後、「まあまあ、落ち着いて」と言って、はやる気持ちを制してくれた。
「……約束して欲しいんだ」
「わかった!」
しまった、と思った。早とちりしてしまった。
僕は、恥ずかしいを通り越して、情けない気持ちで胸がいっぱいになった。
「大事な話なんだ、頼むよ」
困ったような、悲しいような表情で言ったユウを見て、僕は思わずしゅんとなった。
「……僕のパートナーになって欲しいんだ。引き取るってのは、そういうことだから」
「一生、独りにさせない。だから、なにがあっても離れないでね」
止まったはずの涙が、またあふれてきた。――なにか言い返せる自信がない。
「家族になろうよ」
「……うん!」
僕はとびっきりの笑顔を浮べて、大きく頷きながら言った。
「帰ろうか」
ユウも満面の笑みを浮べながら言った。
次の瞬間、僕はモンスターボールに入れられた。やはりまだ慣れてないせいか、一瞬だけ意識が飛んだ。
「……ついたよ」
「あれ、ほんとに?」
拍子抜けするほど、僕はあっという間にモンスターボールから出してもらえた。辺りを見渡すと確かに、ドリームボックスへ行く前に見た光景と同じだ。
「車、出してくれたんだ、ミズキさんが」
「……ごめん、よくわかんないや」
「ああ、ごめん……」「どうかな、この部屋」
少し気まずい雰囲気になってしまった。僕はそれを紛らわせるために、ゆっくりと辺りを見渡した。
気持ちに余裕ができたから、新しい発見がたくさんある。――これからユウに、色んなことを教わらなければならないと、切実に感じた。
「そうだ、これ……約束だったよね」
「え、あ、ありがとう!」
床に座ったユウが、手渡ししてくれたチョコレートを、僕は夢中になって食べた。
一個だけでは物足りず、二個、三個――「もう、おしまい」と言われるまで、ひたすらチョコレートを食べ続けた。
「すごいね、君」
呆れたような、驚いたような表情をしながら、ユウが言った。一個ずつが積み重なって、いったい何個食べたことになったのだろうか。
「数えてた?」
「ううん、でも……気持ち悪くないの?」
僕は正直に、こくりと頷いた。するとユウは、一段と驚いた顔をしてから、「好きだなあ」と言って笑った。
「実はさ、君の名前を考えてたんだけど……チョコにするね」
「僕の……名前?」
「うん。種族も名前もフカマルなのは、今日までだよ」
今日から僕は、チョコ――。
「もしかして、気に入らなかった?」
「……ううん、すごいよ! すごい! 特別になれたんだ!」
世界にたくさんいるフカマルと違って、今から僕はユウだけの特別なフカマルなのだ。それが、すごい。
嬉しくて、感動した。チョコというフカマルは世界で僕一匹……と信じたい。
「……チョコ」
「なに?」
「チョコ」
「なあに?」
僕がおどけた返事をする。きっと、ユウの期待に応えることができたはずだ。
「ふふふ……」
よかった、笑ってくれた――。
僕もそれに釣られて笑った。笑うことがこんなに幸せなんて……知らなかった。
「あれ、また泣いてる」
「泣いてないよ、ほら、泣いてないじゃん!」
強がってみせた。さっきのまま笑っていたくて、ユウにも笑っていて欲しいのに、泣けてきたから――。
「わかった、わかった」
ユウが、僕を優しく抱きしめてくれた。
そのおかげで心が穏やかになって、涙が収まってくれた。ユウは温かくて、なんだか安心する匂いがして……このままずっと、離れないで欲しいと思った。
「……どうしたの?」
ユウが僕の顔を見て、心配そうに言った。
抱擁がとかれて、僕は寂しい気持ちになっていた。それが思わず、顔に出てしまったのだろう。
「僕たち、ほんとに、ずっと一緒なんだよね?」
「うん。ずうっと一緒だよ」
「……よかった」
よかった――。
僕はもう、独りじゃない。それを改めて確認できて、心の底から安心した。
「あれ、もうこんな時間だ」
しばらく気まずい沈黙が流れたあと、ふいにユウが腕に巻いたカラフルな物を見て言った。
「ご飯かお風呂、どっちにする?」
「じゃあ……お風呂がいい、けど……いや、やっぱり無理! あの冷たいのだけは勘弁して!」
頭の中で、思い出したくなかった記憶が、よみがえってきてしまった。
僕は三日に一度、季節に関係なく、「お風呂だ」と言われて体を水洗いされていた。
冬はまさに地獄で、僕にはそれが恐怖でしかなかったのだ。
「いやいや、冷たいの、って……ああ、なるほど」「……ほんとのお風呂を教えてあげるよ」
「ほんとのお風呂?」
「うん。ついてきて」
僕は、先に歩いて行ったユウを、走って追いかけた。
「あ、ごめん、ここでちょっと待ってて! すぐ戻るから!」
なにがなんだかわからないままに、ユウはどこかに行ってしまったあと、本当にすぐ戻ってきて、僕の前を歩き始めた。
あぜんと立ち尽くしていた僕は、我に返ると慌ててユウを追いかけた。
「……よし、とりあえずここでストップ」
「まだなの?」
僕が息を切らしながら言った。
「ごめん、またちょっとだけ待ってて欲しいんだけど、服、脱がないと」
「ああ……だから、そんなに広くないんだあ」
入ってきたときは部屋の広さに驚いたけど、そのためだけのスペースならば、と考えると納得できた。
しかし、どうしてそんな場所が必要なのだろうか。ユウが、次々と脱いだ服を入れて行く、大きな鉄の箱……あれはいったい――?
「チョコ!」
「ん、どうしたの?」
「それはこっちの台詞だよ」
ユウは僕を何度も呼んでいたらしい。
「ごめんごめん……それで、なに?」
「いや、裸になるからあっち向いてて、って頼みたかったんだけど……」
「どうして?」
なにか、まずいことがあるのだろうか。
「いや、どうして、って……恥ずかしいから?」
「そうなの?」
わからない。いつか僕も理解できるようになるだろうか――?
「ま、まあ……」
ユウも困っているようだし、今は深く考えないことにしよう。
「チョコって、雌だよね」
「え、どうしてわかったの?」
「いや、なんとなくだけど……とにかく、悪いけど頼むよ」
「う、うん」
僕は戸惑いを隠せなかった。
今まで話した相手は全員、僕のことを最初は雄だと勘違いした。雌だと訂正すると、たいていは信じてもらえたけど、すごい剣幕で証明しろと言い寄られたこともあった。
そのときはさすがに怖くて、泣く泣く雄だと認めさせられたことを覚えている。
「……もういいよ、お待たせ」
一心に、清潔感あふれる白い壁を見つめながら、嫌な思い出にふけっていると、優しい口調でユウが言った。
「そんな格好して入るんだね、お風呂って」
「うん。これは、バスタオル、っていうんだ」
「へえ……」
しっかり覚えておこう。
「よし、入ろうか」
なんだか張り切った様子で、ユウが言った。
僕がこくりと頷いたのを確認すると、ユウは少し手前の扉を横に滑らせた。するとゆっくり、むわっとした空気が出てきたのを体全体で感じることができた。
「滑るから気をつけてね」
「……」
僕は、恐る恐る中に入った。
ユウは透明な青色の椅子を持ってきてそこに座ると、手に持った特殊な道具で水をすくい上げてきて、僕の目の前に置いた。
「持ち上げるよ? よいしょっと……今からお風呂に入れてあげるから」
「わわ、待って、あ、あ」――足が浸かった。「や、あ、あれ……」――温かい。
ゆっくり下ろしてもらって、足が底についた。僕は、温かい水に胸の辺りまで浸かってしまった。
「……お風呂ってのは、温かい水に浸かるものなんだよ。気持ちいいでしょ」
「これが……これが?」
僕は実感がわかなかった。お風呂は、冷たさに耐えるだけの地獄の儀式という考えが、しつこく頭から抜けなかったのだ。
「温かい水は、お湯っていうんだけどね」
「お湯……」
体の芯まで温かくなる、これがお湯――本当に、心地良い。
「それで、体を綺麗に洗ってさっぱりして……ぜんぶひっくるめて、お風呂に入るっていうんだ」
「……知らなかった」
知らなかったと言うより、勘違いしていた。
「仕方ないよ……いったん外に出していい?」
「うん、洗ってくれるの?」
「そうそう、どう洗ってもらってたのか知らないけど……」
ユウが少し遠慮がちに言った。僕を気づかってくれてのことだろう。
「たわしって言ってたけど……ひりひりして痛かったんだ」
「はあ……」
ユウが悲しそうに、深いため息をついた。嫌なお風呂の記憶は、これ以上思い出したくない。
「僕はスポンジでするから……とにかく安心してくれていいよ」
「うん!」
スポンジがどんな物かわからなかったけど、ユウだから安心できた。
「……よし、終わったよ」
「ありがとう」
ユウは長い時間をかけて、僕をとても丁寧に磨いてくれた。おかげで肌につやができて、触り心地がよくなった気がする。
「どういたしまして。あとは僕が体洗って、お湯に浸かるだけだから……お風呂に入って、待っててくれる?」
僕が勢いよく頷くと、ユウは僕のお風呂のお湯を交換してくれたあと、自分の体を念入りに洗い始めた。
「……よし、そろそろ出ようか。どうだった、お風呂は?」
かなり長い間お湯に浸かっていたけど、ユウが入浴している間、色んなことを話してくれたおかげでとても楽しかった。
「最高だよ! 今度、そっちに連れてってくれない?」
「いいよ。次は僕と一緒に入ろうか」
実は、僕が入っているのは「洗面器」で、ユウがいる場所が「お風呂」だということを知った。
お風呂はとても深く、足が届かなくて怖いだろうから、という配慮をしてくれたのだ。初めてだということもあって、あえて洗面器にしてくれた――だから、その心遣いが嬉しかった。
「やったあ! でも、重いからって離さないでよね」
「わかってるって」
ユウが笑顔で言った。
その直後、立ち上がったユウは僕を先に脱衣所へ行かせたあと、扉を閉めて濡れたバスタオルをしぼってから、遅れて脱衣所に入ってきた。
「ごめん、またあっち向いてて欲しいんだけど……」
ふかふかのバスタオルで優しく体を拭いてもらったあと、僕はそんなことを頼まれた。ユウの恥ずかしそうな表情がなんだか面白くて、にやにやしながら背を向けた。
「……よし、終わったよ。それじゃあ、部屋に戻ろうか」
これがパジャマか……と感心していると、早々と歩き出したユウに、僕は遅れを取ってしまった。
お風呂で教えてもらった「パジャマ」を、もう少しじっくり見ていたかったけど、そんなことでユウを止めるわけにはいかない。
「早い、早いよ、ユウ!」
息を切らしながら、か細い声で言った。
僕の訴えが聞こえなかったのか、どんどん離れていくユウを、泣きそうになりながら追いかけた。
「はあ、待って……」
もう、限界――。
僕は床にへたってしまった。
大口を開けて体の中に溜まった熱気を逃しながら、落ち着いて深呼吸を繰り返した。
「よいしょっ、と」
「……いいの?」
慌てて戻ってきたユウは申し訳なさそうに謝ったあと、僕を抱きかかえてくれた。
「重い、けど……チョコは走り慣れてないんだよね、うっかりしてたよ」
「ごめん、いろいろ迷惑かけちゃって……」
「気にしないで」
ユウが笑顔で言ってくれた。
そのあと、行きとは違って、精神的にも楽だったから、あっという間にユウの部屋に着いた。
ベッドに座らせてもらった僕は嬉しくなって、跳ねたり転げたりしながら、ふかふかな布団を大いに楽しんだ。
ふと我に返ってみると、苦笑いを浮べながら僕を見るユウの視線を感じて、急に恥ずかしさが込み上げてきた。
「えっと……」
「このやろー!」
驚くまもなく、ユウが僕に飛びかかってきた。一瞬ふわっと体が浮いたあと、ユウに力強く抱きしめられながら、足の裏やわきの下をくすぐられた。
「ひゃはははは! やめ、やめてえ、へははははは!」
涙が出て、むせるほど笑わされて、ようやく僕は解放してもらえた。
お風呂で体を洗ってもらったとき、弱い場所を知られてしまったのは不覚だった。
「もうしないから……ごめんなさい」
僕が必死に息を整えながら言った。くすぐられるのは、悪い気はしないけど、軽いトラウマになりそうだ。
「ふふふ、いいよ、べつにそんな……毎日されたら困るけどね」
「え、じゃあ、そんな本気でくすぐらなくてもいいじゃない!」
おおげさかもしれないけど、僕は苦しくて死にそうだった。
「いや、癖になったら大変だからね。それに、今のは本気じゃないし」
「本気じゃないの? 勘弁してよお……」
楽しそうに笑うユウが、少し怖く思えた。しかし、同時に安心感もあった。
自分のことを気にかけてくれている。僕はユウを心から信頼していて……なんとなく、家族ってこういう関係なのかな、と感じることができた――。
「チョコ次第かな」
「えーっ! やめてよ、そんなの」
僕がわざとらしく嫌そうに言った。
きっと、無理な言いつけをされることはないし、あからさまに物事を禁じられることもないだろう。
「やめないよ、ふふふ……そうだ、そろそろご飯食べないと」
僕は、待ってましたとばかりに、とびっきりの笑顔を浮べながら何度も頷いた。
するとユウは、「急いで作ってくるから」と言って、部屋を出て行ってしまった。
お腹が減っていたことをすっかり忘れていたけど、今思えばそれはユウのおかげだった。
どれだけ僕がユウに夢中だったか――ユウがいなくなった途端、僕は痛感した。
少しでもユウが離れると、不安になる。寂しくなる。泣きたくなって、大声で叫びたくなる。
早く戻ってきて、僕を独りにしないで、早く、早く――。
「ねえ、ったらあ!」
「んえ? ど、どうしたの、そんな必死になって」
「……できたよ、ほら」
「へ? うわあ、すごい!」
思わず声が上擦ってしまった。
「持ち上げるよ……はい」
ユウは一通り料理を見せてくれたあと、それを下において僕を持つと、ゆっくり床に下ろしてくれた。
「あ、ありがとう……」
ユウは先ほど部屋を出て行ったばかりなのに、どうして――?
「……それで、なに考えてたの?」
「え、えっと……いや、その……」
僕は、半ば放心状態だったため、とっさに上手く説明できなかった――否、僕のせいでユウが縛られるのはぜったいに嫌だと思って、言いたくなかった。
「いいよ、気にしなくて」
「へ?」
「言いたくないんでしょ? ほら、ご飯が冷めちゃうよ」
「え、ああ、ありがとう……ごめん」
「気にしないで」
僕はユウに心から感謝しながら、香ばしい匂いを放つ肉のかたまりにかぶりついた。
「ん、んん……」
噛みしめるたびに口の中で広がる風味に、僕は一瞬で夢中になった。美味しい――。
「……もっとないの?」
「まだ食べるの?」
最初に出してもらった食べ物だけでは物足りず、おかわりを繰り返してもなお、僕はなかなか満腹にならなかった。
さすがにユウも力尽きたようで、「もうやめたほうがいい」と言って、皿を下げてしまった。
「これあげるから、今日は勘弁して」
そう言って渡されたのは、チョコレートの匂いが漂ってくる、茶色い飲み物だった。
「なにこれ?」
きっと、美味しいに違いないと確信して、一口飲んでみた。
「すごい、チョコレートの味がする!」
「うん。ココアっていうんだ」
僕はユウの言葉をしっかり耳に入れながら、あっという間にそれを飲み干してしまった。
「熱くなかったの?」
「ううん、大丈夫だったよ」
「すごいね……ほんと、いろいろすごいね」
ユウは呆れるを通り越して、感動しているようにも見えた。
「……よし、皿洗いするから、ちょっと手伝ってくれない?」
「うん!」
少しでもユウの傍にいれるなら――僕は一生懸命、食器を運んだ。
しばらくしてすべて片付いたあと、ユウもベッドに座って、とりとめもない話を始めた。わからないことは教えてもらいながら、楽しい時間だけが過ぎて行く――。
「……ねえ」
「ん?」
「おしっこ、行きたいんだけど……」
思い切って言った傍から、恥ずかしくて顔が熱くなってきた。
「やっぱりかあ。もぞもぞしてたもんね」
「……」
気づかれてたんだ、と思うと、言わなければよかったとさえ感じた。
しかし、布団の上でもらすわけにもいかない。
「連れてってあげるけど、ちゃんと場所覚えてね」
「うん……もれそうだから、早く!」
極限まで我慢しなければよかった、と後悔した。
トイレに着くと、ユウが用意してくれていた厚手のシーツの上で、用を足した。
こんな場所でしていいのか、と聞く暇もなかったけど、人間用のトイレで用を足すのはきっと無理なので、仕方がなかった。
ユウに体を持ってもらったまま――という考えが浮かんだけど、ぜったいに嫌だ。
「すっきりした?」
「ま、まあ……そういえば、あのシーツはどうするの?」
トイレの外に出ると、待ってくれていたユウが、僕を抱えて部屋まで帰ってくれた。
ベッドに下ろしてもらったときは、いいのかな、と思いながらも、シーツの濡れていない場所で入念に拭いたから大丈夫だろうと考えて、なにも言わなかった。
「片付けとくけど、今されるのは嫌でしょ?」
僕がまた恥ずかしい思いをしながら、こくりと頷いた。
「だったら、気にしないで」
「ありがとう」
ユウに聞こえるか聞こえないかの声で言った。
「……歯ブラシ取ってくる」
気まずい雰囲気になる前に、ユウが逃げるようにそう言って、部屋を出て行ってしまった。
「う、うん」
一応返答したけど、聞こえたかどうかはわからなかった。
それからしばらくして部屋に戻ってきたユウは、テレビを見ながら歯を磨き始めた。
「あーんして」
僕はテレビに夢中になっていたけど、今回は一度でユウの言葉を聞き取って、大きく口を開いた。
あふれる唾液はこまめに拭いてもらいながら、丁寧に磨いてもらう。
「よし……あとは口をゆすいで、ここに吐いて」
僕が言われた通りにすると、ユウは再び部屋を出て行った。
「ねえねえ、テレビってどうなってるの? なんであんなことできるの?」
「……わかんない」
「ええー」
「ごめん、また今度にして。もう眠たくて……」
ユウが大あくびをしながら言ったあと、テレビを切ってしまった。
「もう寝ちゃうの?」
「明日になったらたくさん遊べるから、一緒に寝てよ」
「一緒に寝ていいの?」
僕が思わず声を張り上げて言った。
「もちろん」
ユウが笑顔で言った。
一応、床で寝る覚悟はしていたけど、さすがユウだ。僕の期待を裏切らないでくれて、本当に優しい。
僕は飛び上がりたい気持ちを抑えながら、布団の中に入れてもらった。
「電気消すよ」
僕が頷いたのを確認したあと、ユウは特殊な機械で消灯した。真っ暗というわけではなく、オレンジ色の淡い光が、部屋の中を薄く照らしている。
「……どうしたの、震えてるよ」
それからどれほど経ったか、ふいに僕の体をなで始めたユウが、気を遣って言ってくれた。
「夢だったら、どうしよう?」
「……大丈夫」
「気づいたとき、またあそこだったら、僕……」
冷たい床、高い天井、頑丈な金網――あの場所には、もう二度と戻りたくない。
真実を知らされたショックが消えてしまいそうになるほど、今日は幸せな一日だった。
だからこそ、実感がわかなくなってきて……不安に押し潰されそうになるのだ。
「痛い痛い! なんなの、急に?」
ユウに頬をつねられた僕は、思わず声を荒げて言った。
「夢じゃないから」
「……ありがとう」
やっと、あくびが出た。
ユウの優しさに深い感銘を受けながら、僕はゆっくり目を閉じる。
おやすみを言い合ったあと、僕は安心して眠りに就いた。
どうして真夜中に目が覚めてしまったのだろう――?
その答えは、意識がはっきりするにつれて、明確になった。
ベッドから降りるには、一苦労しそうだ。しかし、それ以上に……心細い。
「ユウ……ユウ!」
遠慮してしまえば、余計に手間をかけることになってしまう。怖くて、僕だけでは行けそうにない。
だから――ユウの体を精一杯揺すった。
「……なあに?」
ユウは大あくびをしながら起きてくれた。
「おしっこ連れてって」
「んー?」
小声で言ったせいか、ユウは聞き取れなかったようだ。
「おしっこ!」
「……ああ、おしっこね」
ユウは、のそりと起き上がって布団から出たあと、なにも言わず僕をトイレまで連れて行ってくれた。
用を足したあと、布団の中に戻してもらえた僕は、ユウに何度もお礼と謝罪をした。しかし、それをどこまで聞いてもらえたかは、わからなかった。
それからしばらく寝付けない状態が続けたけど、いつの間にか意識は暗闇の中に落ちていて、気づいたときには朝を迎えていた。
横には――愛しのユウが、いた。
〔2〕
心と体が成長して、なにかといらいらすることが多くなった。ユウに言わせると、それは反抗期だからで――口では否定したが、心の中では一応認めていた。
俺は、ユウの気遣いを素直に喜べなくなった。餓鬼扱いされているようで、頭にくるのだ。
いちいち構うな、と言い続けるうちに、ユウは俺と距離を置くようになった。
今の俺に、フカマルだった頃の面影は、少しもない。あってたまるか。
甘えることも、心から感謝することも、泣いて謝ることもなくなって――感情を表に出すことと言えば、ほとんどが怒りと憎しみだけになった。
わがままばかり言って、思い通りにならなければキレる。ガバイドに進化してから、そんな毎日が続いていた。
俺がこうなったのは、すべてユウのせいだ。
胸の中を支配する、自分でもよくわからない「もやもや」が、苦しくて仕方がない。どうしようもない怒りや不満が、次々と腹の底からわき上がってくる。
気分が晴れる方法があるのなら、なんだって構わない。それで救われるのなら――。
ユウとの関係が日増しに悪くなって行く中、俺は酒に目をつけるようになった。
飲みたいのはやまやまだが、缶を持つことができない。だから――ユウに頼むしかないのだ。
それができれば――。
「おお、起きたのか」
俺は、朝が大嫌いだ。目覚めが悪いとむしゃくしゃするし、なんと言っても、一日の始まりだからだ。
「……美味いか?」
最初は慣れなかった手も、今では器用に使えるようになった。
「どうなんだよ」
「んああ、だまってろ!」
飯を食っている最中にぶつくさと――いつも、そうだ。
そろそろ諦めろ、と言ってやりたい。というか、何度か言った覚えがある。ユウのことは知らないが、俺は変わった。
いつまでも、昔のような生活を続けていたって、なにも変わりやしないのだ。
「……ココアは?」
ぷい、とそっぽを向くと、ユウは立ち上がって、台所へ向かった。
さっさと朝食を平らげた俺は、なにも言わずユウの部屋へ戻ると、いつものソファに腰を下ろした。
それは、俺でも問題なく座れる工夫が施されてあって――確か、進化祝いに買ってもらった物だ。
手前にはピンクと水色を基調としたテーブルがあって、その向こうにテレビ、少し離れた場所にベッドと勉強机、本棚などがある。
それにしても、俺の手は不便で仕方がない。
「ガバイド用リモコン」なるものが、あればいいのだが――。
なにかと、ユウに頼らなければならない自分が、情けない。
「……おまたせ」
ユウが、ココアを持って部屋に帰ってきた。
「ふんっ」
俺は鼻で笑って、嬉しさを紛らわせた。
悪態をつこうとしたが、好物を前にしてそんなことはできなかった。
幸いなことに、マグカップはガバイド用に作られていて、いちいちユウの手を借りなくて済む。
「……テレビ、つけてくれよ」
「ああ、なに見る? これか?」
俺が首を横に振ると、テレビには料理番組が流れ始めた。
再び同じ動作をすると、今度はニュース――ドラマ、バラエティー、ニュース、スポーツ番組……畜生、なにもない。
「お……」
愚痴をこぼそうとした矢先、見たくもなかったニュース番組に目を引かれた。
テレビでは、さすがファッションモデルだ、と思わせる風格を放つミミロップが、最近流行りだという服を抜群に着こなして、注目を浴びる様子が映し出されている。
「またルーニーちゃん特集かあ。人気あるよなー」
「……」
俺はユウを無視して、「今日のファッションポイント」を説明するミミロップ――ルーニーちゃんの話を真剣に聞き始めた。
それからあっという間に彼女の特集は終わってしまったが、なんだかいい気分になれた。
つくづく、おしゃれをしてみたいと感じさせられるような内容で、俺の中に隠れた「女心」ならぬ「雌心」をくすぐられた。
「素直に認めなよ」
「はあ?」
「興味あるんだろ?」
俺はいつものように図星を指されて、ぎくりとした。
「うっせー、だから違うって!」
ユウが思っているように、俺は誰かを好きになったからだとか、綺麗になりたいという理由でおしゃれをするのではない。
否、恥ずかしくて認めたくないだけだが――わかってくれ。突っ張っていないと、プライドが傷ついてしまうのだ。
「はいはい」
「……」
俺は、赤くなった顔を、精一杯ユウから背けた。それが治まったところで再びテレビを見ると、面白そうなドラマが始まった。
見ることにしよう。一時間はつぶせるはずだ。
終わってみると――なんだか、切ない気持ちになった。
「あー、だりい」
ようやく、昼が過ぎた。もっと、時間の流れが速くなってくれないものだろうか、と切実に思う。
飯を食ったばかりなので、あと半時間ほど経てば昼寝するつもりだ。
しかし、なにもすることがない。朝に比べればかなり気分が落ち着いたが、相変わらずいらいらする。
気分転換に……たまには外を歩くのもいいだろう。よし、そうするか。
「……散歩」
報告する義理はなかったが、なんとなく言っておいた。
「ついて行こうか?」
皿洗いをしていたユウは、ちょうど一仕事終えたようで――余計な気配りをしてくれた。
断る理由はないが、昔のように並んで歩きたいとも思えない。
「……」
結局俺はユウを無視して、晴天に恵まれた外の世界にやってきた。久しぶりだ。
太陽の光が目の奥を刺激して、ずきずきと痛む。ゆっくり深呼吸すると、新鮮な空気で肺が満たされて、なんとも言えない心地良さを感じることができた。
「よっ」
大きく伸びをしたあと、のんびり歩きながら、どこをどう行こうか迷っていると、予想していた通り、ユウがやってきて、親しげに俺と肩を並べた。
「……おいおい、ゆっくり歩こうぜ」
「んああ、恥ずかしいって!」
俺はますます恥ずかしくなって、どんどん歩く速度を上げて行くうちに、仕舞いには追いかけっこをしているような状態になって――ユウを本気で、殺してやろうかと思った。
「お前……」
なんとか誰もいない場所に逃げ込んで、必死に息を整えながら、ユウをにらんで言った。
「ふざけるなよ!」
俺は怒りの余り、言葉を投げつけるだけでは収まらず、ユウを思いっきり蹴ってしまった。
幸い足の裏だったので、惨劇にならずに済んだ。しかし、それでも――取り返しのつかないことをしてしまった。
ユウは苦しそうに、うずくまったままでいる。ここは素直に謝って、声を掛けるべきなんだろうが……。
「くそお……」
大丈夫か――悪かったな、の一言が、どうしても掛けられない。自身のプライドが、許してくれないのだ。
それを捨てることができれば、どんなに楽になるか。
俺は逃げるようにして、何食わぬ顔で家に帰った。そして布団の中にもぐると、急に色んな感情がぶわっと胸の中から込み上げてきて、抱いた枕に顔を押し当てながら、思いっきり泣いた。
それからの記憶は、寝ている間に飛んでしまったようだ。
気がつけば夕方で――俺の勝手な予想では、とっくに帰ってきて、屋内のどこかにいるはずのユウが、いくら探しても見当たらなかった。
夜になって、俺は焦りを感じていた。
速く帰って来い、と心の中で念ずることしかできない自分が、かなりもどかしい。
以前から、俺だけの部屋が欲しいと強く望んでいたが、実現するとこうなってしまうのか、と思うと嫌になる。
部屋の中を、せわしなく行ったり来たりする俺の姿を見て、ユウはどう思うだろうか。
「あ……」
永久のように感じられた時間も、なんの前触れもなく帰って来たユウのおかげで、普通に流れ始めた。
なんとか言えよ、俺。早く――。
「おかえり」
「……ただいま」
ひとまず、返事をしてもらえた。よかった――。
緊張で、全身が震えそうになるのをなんとか抑えながら、できるだけ落ち着いて次の言葉を考えた。
向かい合うのは苦手だ。さっきから足元ばかり見ているが、ユウはいったいどんな表情をしているのだろうか。
「どうしてこんな……遅くなったんだ?」
「さあな」
ユウは、俺を突き放すように、冷たく言った。
胸が張り裂けそうになった。本当に俺は……取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
「お、教えてくれよ! なあ!」
「……」
俺を無視して台所に向かったユウを、後ろから、気づかれないように恐る恐る追いかけた。
「お腹すいただろ」
息を潜めながら食事の支度をするユウを見ていると、突然声を掛けられて、思わず飛び上がるほど驚いてしまった。
「あ、ああ……食わせて、く、くれるのか?」
「……」
なにか答えてくれよ、頼むから――。
「……できたぞ」
ユウが、黙々と作業を続ける中、沈んだ声で言った。
俺は少しためらったあと、いつもの場所に行って、静かに座った。
気まずい。胃がきりきりと痛む。吐き気だって、する。こんな思い――今日が最初で最後であって欲しい。
美味しいはずの飯が、極端に言いすぎかもしれないが、反吐のように感じる。
「それで……」「それで、お前……なにしてたんだよ、こんな遅くまで」
俺は踏ん切りをつけて、再び今日の話を持ちかけた。
「病院に行ってたんだよ」
「へ?」
「お前、本気で蹴りやがったからなあ……それより、俺はもう食えないから、残すなよ」
ユウは早々と自分の食器をまとめて、逃げるように食卓から立ち去ろうとした。明らかに様子がおかしい。
「ちょっと待てよ! おい、待てって! 聞けよ!」
俺は、台所に向かうユウの背中に、怒鳴り続けた。
ユウをどうにか止めようとしなかった俺は――きっと、誰よりも臆病者だ。結局、なにもできなかった。
「……風呂、行ってくる」
台所からあっという間に再び食卓へ戻って来たユウは、俺の真横にぴたっと止まってそう呟いたあと、消えるようにその場を去ってしまった。
ユウは、思わずぞくりとするような目で、俺を見ていた。
俺は、残りの晩飯をがむしゃらに頬張った。口の中で味がでたらめに交じり合って、いったいなにを食べているのか、わからなくなった。
ただ、やけに塩っぱくて――涙が体の奥まで染みて来るようだった。
寝れば少しは気持ちも楽になるだろうと考えて、風呂にも入らず布団に直行した。
その結果、深夜に目が覚めてしまって、寝付けなくなってしまった。
起き上がって、ふと横を見ると、予想通り、ユウの姿がなかった。俺はのっそり布団から出ると、何度もあくびをしながらダイニングに向かった。
そこでユウは、ひっそり酒を飲んでいるはずだ。
しばらく歩いて、ユウの背中が見えるところまで来た。晩飯のときのように、いきなり声をかけられないだろうかと、ドキドキしながら少しずつ前に進んだ。
なんと声を掛けようか、頭の中で必死に考えて、口に出す言葉は、決めた。心の準備も、整った。そして、ユウの傍まで来た。
いざ――と思ったとき、俺の頭の中は真っ白になった。
ユウの手前のテーブルには、いくつかの酒と、もう一つ――濡れてしまったところを、手で拭いたような跡が残っていたのだ。
「なあ……」「やっぱり、俺の……俺の所為なのか?」
「……」
そうだ、と言って欲しかった。そしたら――頭を下げて、謝れたかもしれない。
「俺ってさ、不器用だから……なんにもできないかもしれないけどよ」
「……」
俺は、泣きたくなった。無視されることが、こんなに辛いなんて――。
構ってもらうのが当たり前で、あろうことか、自分の都合で無視を繰り返していた俺は、今になって報いを受けることになったのだ。
「そういえばさ……酒って、美味いの? 俺にも飲ませてよ」
「……駄目」
ユウは、手に持っていた缶をテーブルに置くと、突き放すようにきっぱり言った。
「どうして! お前はそれで楽になってるんだろ? 飲ませてくれよ!」
「嫌だね」
「……なんでだよ」
ものすごく腹立たしかったが、昼の一件のおかげで、なんとか平静を保てた。
しかし、このまま拒まれ続けると……ヤバいかもしれない。
「飲ませろって!」
俺は気が短い。いつものように、しぶしぶ承諾してくれれば、話は済むのだ。
「……チョコには、まだ早いよ」
「お前……」
再び、じわじわと怒りが込み上げてきた。
「まだ餓鬼なんだから」
ユウは、なんのためらいもなく言った。その時、俺の中でなにかが破裂した。
「お前なんかに、拾われなきゃよかったよ!」
俺は怒りのままにテーブルを蹴飛ばして、その勢いで暗闇の広がる外へ飛び出した。
体力がなくなるまで、がむしゃらに走り続けて、思わず転んで立つのがやっとになる頃には、後悔の念で胸がいっぱいになっていた。
情けなくて、ユウに見せる顔がない。
俺は大粒の涙を流しながら、夜の街を徘徊し始めた。
目に映る景色は、ほとんどぼやけている。それでも、今自分がどこにいるのか、なんとなくわかっていた。
我が家から、そう遠くは離れていない。昔、ユウとの散歩で何度か通った覚えがある場所だ。
もう少し歩けば――よかった、着いた。
「ふう……」
一安心した俺は、冷たいベンチに座って、大きなため息をついた。
馴染みのある公園だ。昔は――ここに連れて来てもらうのが、楽しみで仕方がなかった。
あの頃と、なにも変わってない。すべり台や、シーソー、鉄棒に、ジャングルジム、名前のわからない遊具だって……。
進化しなければ良かった。それを望んだのは俺で、動機は確か、ユウを守るため。
それが、守るどころか傷つけることになるなんて、皮肉にも程がある。
俺は、唯一の居場所を失ってしまった。もう戻れない。受け入れてもらえないだろう。
できることなら――もし、ユウがもう一度俺にチャンスをくれるなら、心の底から、今までのことを謝りたい。
できることなら――ユウを思いっきり抱きしめて、匂いをかいで、冗談を言って、笑ってもらいたい。
目をつむった。体を丸めて寝そべっていると、不思議と眠くなってきたのだ。
このまま寝てしまえば、きっと寒さも忘れることができるだろう。季節は、冬。それがなにを意味するのか、よくわかっていた。
思い残すことはたくさんあるが、今は……今は、寝ることが優先だ。もう、他のことは、どうでもいい。
俺は寒空の下、大あくびをしたあと、ゆっくり深い眠りに就いた。
まさか、次の朝が来るとは、夢にも思わなかった。
朝日のまぶしさに、思わず顔をしかめたときは、天国に来たものだとばかり錯覚していた。
そして、余裕があると思って横に転がった瞬間、顔から地面に落ちてしまって、ようやく目が覚めた。
俺は何重もの毛布にくるまっていたおかげで、心地良い野宿を堪能できたようだ。
そこからは微かに、ユウの匂いが、した。
俺は、一度のみならず、二度も命を助けられてしまったのだ。
「帰らないと……」
でたらめにまとめた毛布を肩に担いで、迷いを捨てて、家路に着いた。
きっと、これが最後のチャンスだ。
飯を食って、テレビを見て、チョコレートをもらって、風呂に入って、ふかふかのベッドで寝る。
そんな、ありふれた毎日を送れていたのは、すべて、ユウのおかげだ。
声を掛けてくれなかったことは、一度もない。俺の一番の理解者は、ユウなのに――。
自分だけで生きていけると思っていた。
ユウに言ったら、笑われるだろうか。
「ほら、みてみろ」と、罵られるだろうか。所詮、お前だけでは、なにもできないんだ、と……。
ユウなら、きっと――。
「……」
玄関まで来た。あとは――俺は決意を固めて、震える爪の先で、ゆっくりインターホンを押した。
電子音が家の中で響いたのと同時に、胸が、どくん、と跳ね上がった。
しばらく待っていると、扉が開いて、中からユウが出てきてくれた。
「よ、よう……」
とっさに慌てて、考えてもなかった軽い挨拶が、口から出てしまった。
ユウの悲しげな視線が、体のあちこちに突き刺さってくるような気がする。
「い……入れてくれるか?」
違う――。
プライドなんて、捨てろ、俺。
「なあ、頼むよ……」
いざとなると、焦って失敗してしまうことが多い。俺の癖だ。
一番大事なことを――早く言えよ、俺。
ユウが、痺れを切らしたかのように、一段と悲しい顔をして、ゆっくり扉を閉めて行く。
ああ……待ってくれ、お願いだ。俺は――俺は、お前なしでは生きられないんだ。
「……悪かったよ!」
声が裏返ってしまった。閉じかかった扉が、止まった。
「ごめん! ほんとうに……」
俺は体の力が抜けて、ひざ立ちする格好になった。
「もう、無理は言わないから……だから! だからよお……」
自然と涙があふれてきた。
「もう一回、拾ってくれ! ユウ!」
俺は懇願した。拾われなければよかった、と言ってしまった報いは、なんでも受けるつもりだ。
これからは、ユウのために尽くす。ユウにふさわしいパートナーになってみせる。だから――。
「……朝飯、できてるぞ」
俺は、笑顔で家の中に迎え入れてもらえた。
それからしばらくの間、静かな朝にはふさわしくない、俺の泣き喚く声が、我が家に響き渡った。
〔3〕へ続く...
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・つぶやき
反抗期の心情ってのは難しいですね。
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IP:61.22.93.158 TIME:"2013-01-14 (月) 18:14:36" REFERER:"http://pokestory.rejec.net/main/index.php?cmd=edit&page=%E6%84%9B%E3%81%8C%E6%95%85" USER_AGENT:"Mozilla/5.0 (compatible; MSIE 9.0; Windows NT 6.1; WOW64; Trident/5.0)"