[[作者カヤツリ]] 作者[[カヤツリ]] #hr 草木も眠る丑三つ時…… &ruby(へいおんきょう){平穏京};((平安京のもじり。現在の京都に位置する物語の舞台。))の中央を走る&ruby(すざくおおじ){朱雀大路};((平穏京の中央を南北に縦貫する道路。長さ約3,7km、幅85m。大内裏南面の朱雀門からその南極の羅城門に通じる。))に、一台の牛車がゆるゆると角を曲がって現れた。 周囲を20人ばかりの護衛が松明を持って囲み、その明かりがぬばたまの闇を湛えた夜道と従者を照らす。 牛車は帝の住居である&ruby(せいりょうでん){凄涼殿};((元ネタは清涼殿。平穏京の内裏のうち、帝の日常の住居。尚、昇殿の許された者を殿上人と呼ぶ。))への帰途にあった。 従者はため息をついた。何だってこんな時分に外出しなくちゃならなかったのか。 手にした松明がパチパチと陽気にはぜるが、それは従者の心を明るくする役には立たなかった。 隣を進む牛車の中にいる帝の気まぐれで、今日は無理矢理夜の散歩に付き合わされる羽目になったのだ。 まったく。従者は毒づいた。 帝の周囲を振り回すわがままにもほとほと愛想が尽きる。 貴人が夜に羽を伸ばすなら理解出来ない訳ではない。 この平穏京では真夜中、人目を忍んで恋人の元に通う者も珍しくは無いからだ。 だがこの帝ときたら 「巷に聞く、物の怪とやらが見てみたい」 という理由だけで子の時に一同を叩き起こし、平穏京をぐるりと探検させたのだ。 さっきから牛車の中で物音がしないあたり、一向に現れない物の怪探しに飽き飽きして、寝てしまったものとみえる。 従者はまたため息をついた。しかも、よりによってこんな時間とは。 物の怪。誰しも恐れる怪物は丑三つ時によく現れるという。 この平穏京でも、時たま彼らの噂が聞こえて来る。 それは変幻自在で神出鬼没、人を脅かす未知の存在と人々に伝えられていた。 従者は勿論そんな噂を本気にはしていなかったが、実際に丑三つ時に外出するとなるとやはり不気味極まりない。 みみずくやらこうもりやらが淡い月明かりをよぎる度にびくっとしたものだ。 だが今のところ、物の怪どころか猫一匹見かけないまま。 これで帝も諦めてくれると良いのだが。 明日は管弦の集いの奏者としてもお呼びがかかっている以上、早く帰って眠りたい。 &ruby(りゅうてき){竜笛};((雅楽の管楽器の一つ。全長約40㎝の横笛で、主に唐楽に用いた。))の係の一人として、失態を犯す訳には行かないのだ。 夜気に濡れた&ruby(あさぎ){浅黄};色の水干((宮廷に仕える下級官人の服装。『千と千尋の……』に出てくる、千尋の油屋での服装もまたこれに当たる。))を寄せながら、従者は思った。 ふと、月明かりが分厚い雲に覆われた。 刹那。 何の前触れも無しに、生暖かい風が路地の向こうからどおっとこちらへ吹いて来た。 それは一瞬従者達の水干をなびかせて、唐突に止んだ。 前方の闇が一段と濃さを増した。そして従者は異様な光景を目にする事になる。 前方に黒い煙が渦を巻いて現れ、大路いっぱいを不気味な霧で覆い隠す。 夜の闇より尚も色濃く、光を吸収するかの様な紫を帯びた黒雲があたりに立ち込める。 従者達は口々に不安を口にした。 まずい、奴らだ。まさか本当に出るとは。 背筋をつうっと冷や汗が伝う。 うろたえ、口々に囁きながら皆で牛車の周りを囲んだ。 新たな松明が点され、ある者は弓に矢をつがえている。 橙色の明かりに照らされて、闇は一時引き下がったかに見えた。 ふっ。 次の瞬間、全ての松明が風も無いのに突然消えた。 辺りは漆黒の中に抱かれ、従者達はなす術もなく身を寄せ合い、そして闇に目を凝らして何かを待った。 従者は恐怖に歯が鳴るのを無理に押さえ、背負った&ruby(うつぼ){空穂};から矢を取り出した。 帝を守るのが優先事項だ。願わくば、この&ruby(しげとうのゆみ){滋藤弓};((下地を黒塗りして、その上を白い藤の茎で巻いた弓。))と&ruby(はまや){破魔矢};が効く相手でありますように。 刻一刻と暗くなる闇の中で、何かが動いた。ひゅんっ、と隣の従者が矢を放ったが何の音も声も上がらない。 その時、従者の耳元で誰かが忍び笑いをした。 「何奴!?」 さっと振り返ると、誰も居ない。 「お、お、おい、あれを見よ!」 いつの間にか起きていた帝が、御簾から顔を出して叫んだ。 指を指している方を見やると、宙に二つの赤い目が現れていた。 邪気を含んだ、意地悪そうな目が。細い瞳孔が此方を値踏みするかの様に輝いている。 「ふひひひひひひひひ!」 突如、目が大声で笑った。いや、そいつが笑ったというべきか。 目の下に口が現れ、ひきつった悪意の笑みを浮かべたのだ。 従者達は一斉にあわてふためいた。 ある者はやみくもに逃げ出し、またある者は腰を抜かしてへたりこんでいる。 悲鳴が上がり、それがぷつりと途絶えた。 ただならぬ予感がして振り向くと、一人の別の従者が糸の切れた傀儡の様に倒れるところだった。 ことり、ことり。 従者は次々と意識を失って倒れていく。まるで唐突に眠りに突き落とされるかのように。 20人近くいたはずの護衛は、今や立っているのは5人ばかり。 言い様のない恐怖があたりを包む。その間にも赤い目はこちらをねめつけながら、じわじわと近づいて来る。 恐怖の限界に達した従者は咄嗟に逃げ出そうとして、そして失敗することになる。 気味の悪い赤い眼差しが一瞬黒く翳るや否や、従者の足が地に張り付いた。 「よ、寄るなぁっ!」 最後の抵抗に弓を引き絞り、次いで弦に掛けていた指を離す。 しゅっという鋭い音を立てて放たれた破魔矢は物の怪の眉間をすり抜けた。 黒い冷気が辺りを包む中、確実に従者達と帝は追い詰められていた。 助けは来ない。こちらに迫って来る赤い絶望の眼を前に、身を寄せ合ったその時。 「待てっ!」 鋭い制止の声が響き、赤い眼差しはあと一歩のところで急停止し、ゆっくりと声のした後ろを向いた。 従者も闇に目を凝らすと、いた! 高い朱雀院の塀の上、白い水干を着た人物が立っている。 背には従者と同じ弓を背負い、首からは勾玉を懸けて。 顔は面で覆われて解らないが、その面には戌の文字と三つ巴の印が刻まれている。 赤い眼差しと従者達が見つめる中、そいつは懐から一枚の術式の書かれた木簡を取り出し、再度叫んだ。 「陰陽五行十二陣、方位戌!行け!&ruby(すさのお){素戔嗚};!」 どろん! 辺りに煙が充満し、どことなく香の匂いが漂って。 従者は目を見張った。心なしか和風な煙の中から、激しく咳き込みながら現れたのは、一匹の巨大な…… 狛犬? #hr ゲホッゲホッ!。 はいはい、また仕事ですか。 というか、もうちょいましな登場にならないかしらねぇ。 こっちは出たくてウズウズしてるのに、あんな呪文のせいで時間は食うし、煙が邪魔なことこの上ないし。 毎度ゲホゲホやるのは願い下げよね。 いくら炎タイプでも、煙までは操れないしね。 あ、申し遅れたわね。私、スサノオ。 今そこの瓦の上でぼけらっと突っ立ってる陰陽師、清明((元ネタは安部晴明。平安中期の陰陽師で、よく識神を用いたとされる。この作品のアイデアはここから生まれた。))の&ruby(しきがみ){識神};((しきじん、とも。本来、陰陽師に従い、不思議な能力を用いるとされた精霊のこと。作中では識神=ポケモンと捉えている。))のウインディ。 うーん、色々説明したいのは山々だけど、仕事片付けながらね。 大路に飛び出した時点で、敵の正体は分かってる。 今回のお騒がせはゲンガー。今月三回目。ハァ、懲りない奴。 平穏京から何度も追っ払ってるんだからもうそろそろ諦めても良いのに、人間に悪戯しにやって来る。 そう、私の仕事、というか陰陽師の仕事って私達ポケモンの力を借りて、都に入って来た物の怪、つまりポケモンを追っ払うのね。 私達ポケモンって普通の動物とは色々と違う力が有るから(火を吐いたり、水吐いたり)、この日本では専ら超自然の未知の存在として恐れられてるのよね、馬鹿馬鹿しいけど。 だから一般人がポケモンを見たら、物の怪呼ばわりして回れ右して逃げるか、もしくは他の動物と混同してるかのどっちか。 ま、私だって人間から見たら化け物じみた犬にしか見えないんだろうけどね。がくっ。 さて、ゲンガーの方に話を戻そうかしら? 可哀想な従者に催眠術やら黒い眼差しやらで意地悪していたゲンガーは私の姿を見てさっと宙に舞い上がった。 そのままだったら私の火炎放射に焼き尽くされてたのに。ちえっ。 ゲンガーが両手に闇の玉髄の様なシャドーボールを集める。 生憎、私の物理攻撃の範囲外。 私は清明と同じ塀の上に飛び上がって、浮遊する奴との間を詰める。 直後、渾身のシャドーボールが私に向かって飛んで来た。かなり速い。 あわや直撃のところ、神速でさっとかわす。 さっきまで私の立っていた瓦が漆喰と共に粉々に砕け散った。危ない危ない。 かろうじて屋根に留まると、二発目が追撃してきた。やむなく頭をひょいと下げると、それは私の耳を掠めて後ろに無事に通過した。 あれ、何か今誰か塀からが落ちた様な気がしたけど…… まぁいいや。私は無傷。それが一番大事。 というか、清明がいない方が戦い易いしね。 私がゲンガーに向き直ると、今度は気合い玉を撃つ気らしい。その手に明るい光球が収束し、まばゆい光芒を放つ。 光の洪水の中で帝と従者が朱雀門に走って行くのが見えた。 さぁ、来いっ! ゲンガーが気合い玉を放つと同時に、私は火炎放射で応戦した。 紅蓮の炎が光球を飲み込み、力がせめぎ合う。しばしの押し合いの後、ゲンガーの気合い玉が私の炎を押しきった。 そのまま炎の壁を突っ切ってさっきまで私のいた方に飛んで来る。 だけど、私はもうそこにはいなかった。ふん、誰がいつまでも技のぶつかり合いなんて眺めてるのよ。 私は火炎放射の陰で着実に距離を詰めてたのさ。 「馬鹿ね!」 奴が慌てて気付く頃には、私の狙い澄ました噛み砕くがその体を捉えていた。 どろん! 私の歯の間でその姿が煙と消えた。 あれ? 「ふひひひひひひ!」 身代わりだと気付いた時には遅かった。影の塊が背中にぶつかったから。 シャドーボールをもろに喰らって、私は塀から転げ落ちた。 瓦の破片の中から橙色の体を起こし、再度立ち上がる私。全身がズキズキする。 幸い、大きな怪我はないけどね。寧ろ騙された自分、騙した奴に強烈に腹が立つ。 くそ、私を怒らせたわね。 私を追って低空まで降りてきたゲンガーを視覚の端で捉える。間違いない、今度は本物。 私は間髪入れず、だっと神速で飛びかかる。 ゲンガーは避けようともしない。何故って?神速はノーマル技だから。 じゃあ私が何でノーマル技で突っ込むかって?かぎ分けるを使ったから。 さっき噛み砕くで近づいた時、奴の匂いはたっぷり嗅がせてもらったからね。 奴が気付いた時には遅かった。全身で突進してゲンガーを塀の壁に叩きつける。奴の霊の成分が大気に徐々に散っていく。 勝負ありってとこかしら。ま、レベルの差ってやつ? ゲンガーは憎々しげに赤い眼差しとその残像を残して消え去った。 やれやれ、これで懲りてくれると助かるんだけど。最近、ゴーストから進化して以来ますます面倒な相手になった。 さて、一段落ついたから改めて紹介すると、さっき塀から落ちたのは私のダメ主人、&ruby(あべのせいめい){安部清明};。 一応、一端の新米陰陽師で、司る方角は戌。 陰陽師は基本的には十二支のうちで自分の生まれ年の干支を一匹操る。 つまり、辰年ならドラゴンタイプのポケモンが相棒ってとこ。 お分かり? 私が出てきた札は私を閉じ込める呪文の書かれた召喚札で、普段はそれで私を持ち運ぶ。 そう、陰陽師は都で唯一ポケモンを操る集団。彼らは私達を恐れないし、私達の力を借りて任務に当たる。 もち、一般人はそんな事知らないから、陰陽師の操る私達を識神とか言ってるんだけど。 まぁ、力の秘密ってことで。 あ、やっと清明が出てきた。ひょろっとした二十歳ばかりの男がこっちに走って来るのが見える。 面はもう外している(というか、無くしたみたい)。正直、どこにでも居そうな特徴ない奴。個性のこの字も無い。陰陽師の衣装がなければ、ただの一般人。 あ~れま、かなりご立腹かしら。開口一番、 「スサ、この馬鹿!俺に当たったじゃないか!何で避けたんだ!」 だとさ。威勢のいいこった。 「なによ、あんたが前を見てないからじゃないの? 第一、ゴースト技ってノーマルな人間には効かないんじゃないのかしら? まさか、避けようとして落ちたとか?」 「うるさい!主人が危機に瀕したら身を挺して守るのが識神じゃないか!」 「あ~らごめんなさい、守るべき優先対象には見えなかったから、“ついうっかり”忘れてたわ」 そう言って私はすたすたと御所のある方に帰り始めた。 後ろからはまだ何か怒鳴りながら清明がついてくる。私と清明はいーっもこんな感じ。 馬鹿な主人を持つと苦労するわね。 やたら仰々しい鬼瓦で飾られた朱塗りの朱雀門を入って、陰陽師の宿舎、陰陽寮に帰る。夜明けまではまだ早いのか、東の空は暗いままだ。 細かい話をすると、陰陽師ってのは&ruby(さべんかんきょく){左弁官局};の&ruby(なかつかさしょう){中務省};に属する官職の一つで、その仕事は暦の決定から卜占、物の怪調伏まで。 よく神祇官と勘違いする人が多いけど、あっちは日本神道専門なのに対して陰陽道は唐の陰陽五行を基礎に神道が付け足されたもの。 だから私の名前は&ruby(すさのお){素戔嗚};っていう古事記に出てくる神様からの名前だし(因みに男の名前。がくっ。)、他の十二支のポケモンも似たり寄ったりの神話系の名前だけど(陰陽師の習慣らしい)、呪文とかは唐の陰陽道由来ね。 いつも日本は唐の二番煎じ。 まったく。向こうでは皆ポケモンなんて怖がらないのに、日本じゃ化け物扱いですか。 後ろをついてくる清明だって、今じゃ私をスサって呼んでいかにも陰陽師って顔してるけど、最初はびくびくして使い物にならなかったしね。やれやれ。 ふああぁぁぁぁぁ~。眠い。 牙の並んだ大きな口であくびをしながらも、やっとこ私は宿舎の陰陽寮に着いた。 こんな事があった日の午前中は、縁側でひなたぼっこしながらゴロゴロしてるに限る。 久々に休養を取りたいものよね。 後ろを向いてこちらも大あくびをしている清明に尋ねる。 「勿論今日は休ませてくれるんでしょうね? 言っとくけど、最近ずっと働きづめじゃないの。もうちょい労って欲しいな~。」 「さぁ、師匠にも相談しないと。最近、やたらとポケモンの出現が多いから。 おい、そんな悲しげな円らな瞳に俺は騙されないぞ。」 ちえっ。まったく人使いの荒い奴だ。 私は自慢のモフモフ(というかモサモサ)の毛を逆立てて唸る。 「ふん、どうせ私になんて非番の日なんて巡ってこないんでしょ」 清明は眠そうな目を擦りながら気の無い返事をした。 「まぁ、できるだけ手を尽くして休みにしてもらうつもりだからさ。 俺だって休みたいし。んじゃ、お休み」 奴が札を取り出して封印の呪文を一節唱えると。 どろん! 私は白い煙と仄かな香の残り香を残して、漢字のびっしり書かれた&ruby(もっかん){木簡};に消え去った。 #hr 淡い桃色の花弁が舞散る。桜の渦が私を囲み、仄かな香りと共に去っていく。桜色に染まる吉野の山、あちこちに顔を覗かせるさしもぐさ、かたくり、すみれ。 藤と柳は紫と緑の垂れの共演を繰り広げ、垣根に咲いたつつじの赤が眩しい。 私は日本の春が好きだ。風流であると同時に、艶やかだからね。 鮮やかな山吹も、可憐なこぶしの白い花も、どこか優しく控えめで、それでいて自己主張はしっかりしてる。 で、私は何してると思う? 風情に浸りながら陰陽寮の縁側でゴロゴロしてるとでも? とんでもない。 今、私は来る葵祭((京都下鴨神社及び上賀茂神社の祭。昔は4月の酉の日、今は5月15日。御所から各神社を巡り、葵の装飾をつけた牛車や斎王、勅使の行列が練り歩く。))の準備に狩り出されて、重い&ruby(だし){山車};を引っ張らされてる途中。 清明め、休みどころか仕事を持って帰って来やがって。 ひいひい言いながら山道を登る私に、清明から注意が飛んだ。 「スサ、もっと丁寧に運べよ。この山車壊したらただじゃ済まされないんだぞ!」 「そう言うあんたは私に八つ裂きにされる心配しなさいよ!ったく、識神の使い方間違ってない?」 「いや、全然。ほら、今枝にぶつかるとこだったし」 あ~あ。やりきれない。私、仮にも女なんですが。 散々苦しい思いをしながら山道を歩き終え、ちょっとした草原に出た時には、既にお日様は空の真ん中を散歩していた。 その場にドサッと体を下ろし、大きく伸びをしながら呻く。 「あ゛~疲れた~。何でいっつもこういう仕事私に押しつけるの? もっと適任ならいくらでも居るじゃない。トコタチとかさ~」 トコタチってのはケンタロスの識神。丑の方角のポケモンでこういうのにうってつけだと思うんだけどねぇ。 「いや、トコタチは扱いづらいし、暴れたら手つけらんないし。 というか、お前、それ十分知ってるだろ」 「グスッ。この可哀想なワンちゃんには束の間の休息すら許されないのね」 「な~にが可哀想なワンちゃんだ。この化け犬!」 「あ、言ったわね。まったく、か弱い女を重労働に狩り出してこきつかうなんて、非情な主人だと思わないの?」 「は?か弱い女?そんな奴どこにも見えないけど。後学の為に聞いておくけど、そんな奴どこにいるんだ?」 わざとらしく手をかざしてきょろきょろする清明。 うっざ。本気で腹立つ。 「……あんたねぇ……私を何だと思ってるのかしら」 私が脅しを込めて立ち上がる。首回りの毛を逆立てて近づくと、奴は事も無げに答えた。 「え、どっから見ても筋骨隆々の雌犬だろ」 そう言うや否や、奴は脱兎の如く逃げ出した。 もう! いつもなら飛び掛かってのしてやるところだけど、体力を消耗した私は走り去る清明の後ろ姿に思いっきり吠えるしかなかった。 追いかけるのも面倒くさいしね。 ハァ。ちょっと一休みしよう。 ゴロンと体を仰向けに倒して、澄みきった空を見上げる。 のどかな正午の光の中、雲がゆったりと悠久の時を流れていた。 唐の空もこんな感じなのだろうか。 大分昔の話になるけど、実は私、唐生まれのポケモンなのね。 まだ物心つくかつかないかのガーディの頃、唐の遣いが日本に来た際に献上品ってことで私を連れて来たのさ。 最初はただの犬だと思われてたんだけど、ポケモン(つまり、物の怪)ってことが分かって大騒ぎになって、結局陰陽寮に引き取られたって話。 別に唐に未練が有るわけじゃないし、日本だって嫌いじゃない。 そもそも、小さかったから唐の事なんて覚えてないしね。 ただ、一度は見に行ってみたいだけの話さ。 山から見てみると、平穏京はいかにも大きな都に見える。 これが唐の長安のパクリだって言うんだから、本物はどれだけ立派な都なのかねぇ。唐への憧憬は尽きない。 大空を&ruby(ひばり){雲雀};が横切った。澄んだ力強い声でさえずりながら。魂で鳴くというその褐色の小鳥は、春の陽光を浴びている平穏京に消えていった。 うらうらに 照れる春日に ひばりあがり 心かなしも ひとりし思へば こんな和歌が万葉集に有ったっけ。確か詠み人は&ruby(おおとものやかもち){大判家持};だったような。 今の私の気分にしっくりくる。 春の日はこんなに楽しげなのに、どこか切ない私の心、なんてね。 さて、少しのんびりしたし、もうひと頑張りするか。 私は体を起こすと、花飾りの沢山ついた牛車をゆるゆると引っ張り始めた。 せりなづな ごぎょうはこべら ほとけのざ すずなすずしろ これぞ七草…… どこか遠くから、遅咲きの桃の淡い香りが届いた。 いいわね、春って。 #hr あ゛~腰が痛い。 あれから更に荷物を運ばされて、よれよれになった私は夕暮れの中縁側で仰向けに寝そべっていた。 伝説ポケモンの名に恥じる無様な格好だけど、疲れたんだから仕方ない。 私はさっきからうつらうつらしながら、清明が琴の調律をするのを眺めていた。 実は琴には二種類あって、今清明が調律してるのは&ruby(そう){箏};っていう13弦の琴。ま、皆が想像する一般的なやつね。 長さ六尺強の桐の胴体に絹糸の弦を張って、象牙の爪を指に着けて弾く型。 もう一つは&ruby(わごん){和琴};っていって弦は6だけ、水牛の角から作った欠片で弾いて鳴らすやつ。 まぁ、箏の方が繊細な音はするけど、正直私にはどっちも眠気を催す退屈な音でしかない。 ま、この“雅な”社会ではたしなみとして誰しもやらなきゃならないんだけどさ。 「よし!やっと上手くいった!」 清明がぬか喜びして立ち上がったその時。 ガラガラ、ドタドタ、バチーン! 奥の戸が開いて、初老の男が部屋に走ってきて、次いで清明がようやく調律し終えた琴を思いっきり踏みつけた。 弦を支えていた柱が弾け飛ぶ。 「師匠!!」 清明が憤慨して叫ぶ。 いやぁ、いい気味だわね。 「おっと、すまない。だがな、急用なのだ。そう怒るでない。 喪失を恐れてはならん。恐怖は暗黒面へ繋がっておる……恐怖は怒り、怒りは憎しみ、憎しみは苦痛へ繋がるのだ。 陰陽師たるもの、些細な事で一々腹を立てては……」 この、物凄い勢いで自分の過失を正当化する爺さんが清明の師匠の&ruby(かものただゆき){鴨只行};((元ネタは賀茂忠行。史実でも安倍晴明の師匠とされる陰陽師。))。 辰年の陰陽師で、かなりのベテラン。識神のポケモンはなんと、レックウザらしい。実際に見たことはないけどね。 「今夜の当番が変わったのでな、知らせに来たのだ。よいか、午前の打ち合わせでは今日はお前は非番のはずだった。 だがの、昨日北野天満宮にゴーストタイプのポケモンが出たらしいと聞いてな、噛み砕くを覚えておるそなたのスサノオの方が適任だと思っての、配置替えってことで知らせに来た訳で。異論は認めんがな。」 は?今何て? 私はもう黙ってられなかった。 「ちょっと、&ruby(ろはゆき){ロハ行};(私のつけた渾名だ)、私、今日一日中働きづめだったんだけど。 少し休ませて欲しいのよね。まったく、人間様は私達の都合もう少し考えてくれないのかしら」 私が人間なら、腕組みしてるところだ。 ロハ行は私を一瞥すると顎髭を触りながら、難しい顔をして清明に言った。 「清明、躾がなっとらんぞ。口答えする識神にしろと誰が教えた?」 「はっ、おっしゃる通りで。おい、スサ、言葉を慎め。」 「識神をきちんと扱えないと、陰陽師の名が泣くのでな。では、今夜は天満宮を任せたぞ?」 「……わかりました」 えー。 何でそこ認めちゃうのよ。自分だって休みたいって言ってたくせに。 私の意向無視ですか。 ホント、あったまに来る奴らだ。 辞表でもあれば叩きつけてやるところなのに。 ロハ行が出ていった後、怒りの収まらない私はそっぽを向いたまま夕焼けを睨み付けていた。 清明は押し黙ったまま、再度琴の調律を始める。少しは後ろめたい気になってみろってもんだ。私がいなけりゃ何も出来ないくせにね。 燃える様な夕日を背景に、烏がねぐらへ急ぐ。 ヤミカラスも何羽か混じって一緒に飛んでいく。 あ~あ、自由って羨ましいわねぇ。 人間と居れば寝食には困らないし、色々見物できたりして面白い事もあるわよ、それはね。日射しの中で縁側でゴロゴロする快適さは野生じゃ味わえないし。 だけど、野生だったら苦労はすれど、もっとポケモンらしい、気ままで、生きる実感に溢れた生活だって送れたはずだ、と最近思う。 自由と唐への憧憬は近頃の私の片思い。 まぁ、叶うわけないんだけどさ。 ちょっと感傷的な気分に浸ってみたい時もあったって良いじゃない、ね? え、ポケモンの片思いはいないのかって? いやいやいや、ちょっと、私に何聞いてんのよ。 ここにいるかぎり、私に春は巡ってこなさそうだし。 本当ならそんな歳でもいいはずなんだけど。 ハァ、我ながら無性に切ない。 段々と暗くなってく夕空を眺めるのも、隣に誰か一緒にいたら今と違って見えるのかしらね。 私の体と同じ色に塗られた空を眺めながら、私はふーっと一つ、大きなため息をついた。 春の夕方、あしびの白い花をフワリと揺らした風が、私のふさふさした&ruby(にこげ){和毛};をふっと逆立てた。 #hr 時刻は亥(午後9~11時)を回ったばかり。あたりは真っ暗。 ここ、北野天満宮には今のところ異常無し。 北野天満宮は京を北に行ったところに建てられた、ひとかどの&ruby(かんぺいちゅうしゃ){官局中社};。 えーっと、噛み砕いて説明すると、神祇官が神様に貢ぎ物を供える場所ね。つまり、神社。陰陽系の清明は入れてもらうのに大分苦労したみたいね。 神祇官と陰陽寮、あんまし仲良くないし。 平穏京を守護する祈祷の込められたこの神社は、普段はあまり人は来ないんだけど、&ruby(としごいのまつり){祈年祭};((きねんさい、とも。国府における穀物の豊作を祈る祭。毎年旧暦2月4日。))とか&ruby(つきなみのまつり){月次祭};((国家の安泰と帝の長寿を祈り、神祇官で行なわれる祭。6月11日及び12月11日。))、&ruby(にいなめさい){新嘗祭};((しんじょうさい、とも。稲の収穫祝いであると同時に翌年の豊作祈願でもある。現在の勤労感謝の日はこれに由来する。))とかにはどかっと大勢が集まる、そこそこ有名なとこなのさ。 まぁ、興味ないとは思うけど。 立派な本殿の外周を回りながら、私と清明はかれこれ2時間近く待機していた。 話によれば、黒っぽい大きな物の怪が子の時過ぎに現れ、神社の警備にあたっていた門衛に襲いかかり、応援が駆けつけた時には二人が消えていたという。 う~ん、何だか引っかかるわね。 普通のゴーストタイプなら脅かしたり悪戯したりで大体満足してくんだけど、今回みたいに直接的に危害を加えるのは前例がほとんど無い。 性質が悪いっていうのかしら。 清明もどこかしら不安らしく、私達は二人で額を寄せ合った。 「ねぇ。な~んか嫌な感じしない?」 「同感。今までのゲンガーとかとはやってる事が違いすぎる。 悪タイプでもおかしくないと思うんだけど。前の辻斬りアブソルみたいな奴かもしれないし」 以前、平穏京に次々に通りすがりの人を斬り殺す狂ったアブソルが出たことがあるのは私も知ってる。 「でもさ、神隠しでしょ?悪タイプならもうちょい酷い事になりそうだけど。 首筋にガブリ、の奴らでしょ。まぁ、悪タイプだとしたら等倍技でしか戦えないわよ?」 「悪タイプなら一応矢は効くはずだよ。ゴーストタイプなら手は出せないけど」 「ふん、あんたの矢なんてただでさえ当たらないのに、こんな暗い夜中に当たるわけないでしょ!」 「おい!こっちが助けようとしてるのにその言い方はないだろ!」 「は?あんたが私を引っ張り込んだのをお忘れなく!」 お約束のように、段々と二人の間の雰囲気が険悪になってきた。 もっと知性溢れる、思いやりに満ちた主人だったらマシだったのに。 お互いそっぽを向いて、反対方向に巡回を始める。 塀を回り、松を通り過ぎ、半分程回ったっころで、向こうから同じく半分回って来た清明に出くわした。 二人の反応は単純明快そのもの! 互いに無視して、つんけんしながら通り過ぎた。 一晩中こんな感じで私達の夜は更けていった。 最後はお互い徹夜のせいでフラフラになりながら。 「……まだ……起きてたの……?……ひどい格好……ね」 落っこちてくるまぶたを懸命に持ち上げながら、白み始めた空の下、私はどぶに落ちたとおぼしき清明に言った。 「……お前だって…何回も…藪に突っ込んだ……らしいな」 確かにそんな気がするけど、いまいち記憶がはっきりしない。 葉っぱが体にいっぱいくっついてるけど。 「……結局、出なかったな……」 「えぇ……何も……」 二人は寝不足のあまり喧嘩も忘れて、あっちへフラフラ、こっちへヨロヨロしながら帰途についた。 夢遊病者の如く、柱にぶつかり、石段を転げ落ち、溝に落ち、馬に蹴られ……どちらもなかなかいい勝負だ。 目の下に大きなくまを作って陰陽寮に辿り着くや否や、私は床に突っ伏した。 続いて清明が私を枕に倒れ込む。払いのける気力も湧かない。 あぁ、眠りとはなんたる幸せ。 そのまま、私達は午後までずーっと一緒に眠っていた。 だけど、私達は大切な事を一つ見落としていた。 結局、あの日の晩は前述の様に何も現れなかった。 そう、“現れなかった”のは間違いない。 じゃあ何が問題かって? あの日、後に神社にやって来た神祇官がある事に気付いたのさ。 神主3人が新たに“消えていた”。 3人とも“中”に居たはずの。 #hr 二日続けて徹夜……あぁ~、なんか泣きたくなってきた。 いや、昨日何も異変に気づけなかった私達が悪いんだけど、半分眠ってるような私達をまた寄越したからって何も出来ないわよ。 しかも、今回しくじったら1ヶ月都の夜間警備の罰が控えてる以上、何としてでも解決しなくちゃいけないし。 う~ん、気が滅入るわね。月明かりの中、境内の中を嗅ぎ回りながら二人で歩き回っても、何も出てこない。 なんかむしゃくしゃしてきた。 「ねぇ清明、ひ、ひ、暇なんだけど」 私は欠伸を噛み殺しながら、滋藤弓の手入れをしてる清明に話しかける。 「えー、暇ぐらい自分でつぶせよ。あ、いや、一ついい遊びが有ったっけ。スサ、ちょっとそこに立って」 「?」 何が始まるのかわくわくしながら私が立ち上がると、清明は手入れを終えた弓を手に取って、矢をいきなりこっちに向けた。 「いや、ちょっとちょっと、あんた何してんのよ。危ないじゃないの!」 「何って、犬追う物。大丈夫、刺さらない&ruby(かぶらや){鏑矢};((鏃の先に孔を開けた木の部品をつけ、空中を飛ぶと音がする矢。))だから。」 そう言うや否や、清明は私に向かって矢を放った。慌てて私は飛びすさってかわす。 あの馬鹿、本気でやるなんて。 犬追う物ってのは武芸の練習で、走り回って逃げる犬に向かって、傷つかないように先端を被った矢で狙い撃ちにする世にも残酷な訓練で、最近流行り始めた迷惑な弓矢の練習方法。 考えた奴が分かったら今すぐにでもぶちのめしに行ってやりたい。 ひゅーっと鋭い音を立ててまた闇から矢が飛んで来た。 「ふん、やっぱり下手ねぇ。全然当たりそうにないじゃないの」 ふさふさした毛の生えた頭をひょいと下げてかわす。 ひゅん!今度は遥か上空に矢が飛び出した。大きな山なりの弧を描いて、あさっての方向へ落ちていく。 ありゃ射ち損じだわね。矢ってのはしっかり弓を握ってないと、前方どころか真上や真下に飛んでくものなのさ。 落ちていく矢をのんびりと眺めていると、シュッと鋭い何かが私の耳を掠めた。 ちえっ、さっきのは囮か。 今のはけっこう危なかった。 よし、そろそろこっちも本気で遊んでやろう。 バシバシ矢を当てられるただの犬じゃない所を見せてやろうじゃないの。 一時間後。鳥居の下で二人は息を切らして座っていた。 やれやれ、こんなに疲れるとはね! 結局一本の矢だって私を捉える事は無かったんだけど、危ないのもけっこう有った。 清明は素直に私を狙っても当たらないのを読んで、私が神速で逃げる先に射ったり、私が飛びかかって行くとサッとかわして、私が着地する場所には矢をこっち向きに植えておいたりと、なかなかせせこましい戦い方をする。 ま、結局一番の理由は全体的に正確性が増したこと。 私に当てるなんて千年早いけど、今なら80族位なら当てられるんじゃないかしら。 昔はツボツボにも当たらなかったのにねぇ。 あ、因みに余談だけど、陰陽師は弓矢しか扱えない決まりがある。 まぁ、清明に刀を持たせても役に立たないのは明らかだけど、血がケガレを呼ぶとかいう理由で帯刀は禁止されてる。馬鹿みたいだけどさ。 おっと、話が脱線したわね。鳥居の柱にもたれてた清明が言った。 「なぁー、次回から神速は無しにしないか?あれが有る限り俺のは絶対に当たらないって。」 「ふん、無くたって当たらないわよ。あと、あんたの矢って威力無さすぎ。あんなひょろひょろした矢、障子で止まるわよ。」 「……なら次回から&ruby(やじり){鏃};着けるぞ。そしたら障子だってお前だって止まらないさ」 「おぉ怖っ。ま、せいぜい私のお墓の前で泣くような羽目にならないことね」 「は?スサの為に墓なんて建てないさ。何かの餌か、剥製になるのがオチだろうね」 「ちょっと、何でそうなるのよ。私みたいな立派なポケモンが死んだら立派な石像とかで供養してくれたって良いじゃないの。あ、あそこに置いてある狛犬みたいなのがいいわねぇ。まぁ、私の方が断然可愛いけど」 「スサが可愛い?そうなったら世も末だな。雄のミミロップの方がお前よりよっぽど愛くるしいと思うけど」 「ふん、言うだけ言えば?その代わり、私がお嫁に行っても止めないでね」 清明は盛大に吹き出した。 もうっ、失礼な奴!! 「お前がお嫁?おいおい、笑わすなよ。スサが男にあぶれてるのは紛れもない事……ぎゃっ!」 私は思いっきり前足ではたいてやった。癪に障る奴だ。 そんなこんなで夜は更けていく。 亥の刻。異常無し。子の刻。何も変わらず。 そして、丑三つ時。闇が一番濃くなる。 月明かりがゆっくりと分厚い雲に隠れていった。清明も私も、おのずと緊張の糸がピンと張る。ゴーストタイプは闇夜で最も力を増すからね。 何かが起きる前の第六感が警鐘を鳴らし、私はたくましい四肢の筋肉をぐっと緊張させた。首筋がぞわっとする。だけど、何も起きない。 丑の刻が終わりを迎えようとしたその時。 何かの存在を私は知覚した。 私の五感のうち、一番敏感なのは鼻。そう、私はこれまでとはっきりと違う異質な匂いを感じ取ったのさ。 私の第一印象は“土”。 まるで墓場の様なその匂いは生とは対極の死の匂い。 無生物的な、というのが近いかしら? 次第に匂いが強くなる。私は清明に囁いた。 「来るわよ」 清明も頷き、矢をつがえて息をひそめる。 月が再び顔を出した。あたりが少しは明るくなり、私と清明の黒い影が地面を伸びる。だけど、匂いは消え去る素振りを見せない。 匂いはもうすぐ近くまで来ている。 どこ? 闇に目を凝らしても何も見えない。垣根の影、松の梢、塀の上。 目を走らせながら必死に正体を探す。 ゴーストタイプが一番好む、漆黒の暗がりはどこ? しゅっ! 清明が鋭く息を飲んだ。 「見つけたの?!」 震える指が地面を指差した。 ん? 何もいないけど? 「どこよ?」 私は清明を小突いた。 相変わらず地面を指差しながら、清明は蚊の鳴くような声で囁いた。 「影だ……」 ハッとした。 一番暗い影。それは月光に照らされた私達自身の影だった。 一人と一匹の影の中で何かが&ruby(うごめ){蠢};く。私は脈打ち始めた自分の影に唸りを上げた。特性“いかく”だ。 突如、私達の影は奇妙なねじれかたをして、その後ぐっと大きく伸びた。さながら、地面に出来た巨大な裂け目の様に。 そして、遂に裂け目の中から大きな両手がぐいっと伸び、その体を影から引きずり出した。 巨大な灰色の体、橙色の一つ目。体に入った黄色い模様はもう一つの顔を描いている。広げられた大きな手は掴みかかるかのように曲げ伸ばしされ、頭の受信機が月光にギ口ッと鈍く禍々しい光を放った。 夜の帝王、ヨノワール。 思わず私は身震いした。清明もじりっと後ずさる。 勘違いしないでよ。 別にただのヨノワールぐらいなら簡単にねじ伏せられる。“いかく”が発動してる以上、私はあまりあちらさんの攻撃は気にしなくていいし、いくら硬めのポケモンだって手数と効果抜群の前には敵わないしね。 私を震撼させたのはそいつがただのポケモンじゃなかった事。 その額に描かれてたのは、灼熱の紅い細線で刻まれた五線星。 こいつ、モノノケだ。 こほん。ここで少し説明してあげる。 平穏京にいる一般人が私達ポケモンを“物の怪”って呼ぶのは前にも話したわよね?私達識神と陰陽師の間で“モノノケ”って言う時には少し意味が違うの。 “モノノケ”ってのは簡単に言うと、人間の怨霊やら恨みやらが野生のポケモンにとり憑いたもの。 並のポケモンより話にならないぐらい強くって、ポケモン、人を構わずにやたらめったら危害を加える危険な輩。 勿論、殺しも辞さない。多分いなくなった5人は助からなかったと思う。概して凶暴な生き物だから、私達は見つけ次第滅ぼさなくちゃいけないわけ。 普通の迷惑なポケモンなら、追っ払ったり痛い目にあわせれば良いんだけど、こいつらの場合ちょっと特殊なのよね。普通、死せる魂は死後の世界、&ruby(よもつくに){黄泉国};に送られる。だから私達はこいつらをそこに送って調伏しなくちゃいけないのさ。 まぁ、つまるところ、モノノケさんには死んで頂かなくちゃいけないってこと。つまり、ぶっ×××(乱暴な適語を入れてね)しかないのよね。 だけど、陰の面の力がめちゃくちゃ強いから、倒すのが半端なく難しいんだけどね。 こっちが黄泉送りにだってなりかねないし。ハァ。 しっかし、驚いたわね。モノノケなんて時代遅れの産物だと思ってたのに。清明なら詳しく知ってると思うけど、ここ120年は現れてないんじゃないかしら。 以上で講義は終わり、試験には出ません! な~んて言ってる場合じゃなかった。 完全に影から這い出したヨノワールは私達をその一つ目で睨み付けるや、その手から蒼白い鬼火を放った。 おぅ、やる気満々じゃないの。清明が叫ぶ。 「スサ、火炎放射!」 はいはい、わかってますわかってます。一々指示なんて出さなくていいのに。 私は迫り来る小さな炎に向かって、巨大な火炎の花を咲かせた。 迎え火って言うのかしら? 私の炎は鬼火を飲み込み、そのままヨノワールの方に向かって行った。 ヨノワールはかわしもしないで、手で紅蓮の炎を払った。 う~ん、やっぱり強いわね。 でも、私だって負けちゃいられない。 この間のゲンガー戦の様に火炎の影から奴の喉元目掛けて一気に飛び掛かる。噛み砕いていけば防御下がるかもしれないし、急所ならなおいい。 こいつの速さじゃ身代わり張る時間も無いはずだし。 まぁ、現実はそう甘くはないものよね。 あと一歩ってところで、その姿が地面に消えた。 あいつは自分の出てきた、私の影に引っ込んで消えてしまった。 くそっ、どこいった? 私があちこち探していると、にわかに奴が再び姿を現した。 今度は清明の影から。 そして清明目掛けて重いシャドーパンチを勢いよく降り下ろす。 いいぞ、もっとやれ! あれ、間違えたかしら? まぁ、いいや、どうせゴースト技なら清明には効かないし。 案の定、二人でびっくりしてる。 ホント、二人揃って間抜けな奴らだ。再度私が灰色の体に飛び掛かる。今度こそ! だけど、今度もまたかわされた。 奴の体は清明の影に吸い込まれ、私は勢い余って清明に突っ込んだ。 「いだっ!!何すんだ馬鹿野郎!俺は味方なんだぞ!」 「うっさいわね、退きなさいよ!」 二人で揉み合ってるところに、松の木の影の中から姿を現したヨノワールが再度鬼火を放つ。 今度は火炎放射で打ち消すなんてしないで、かわしながら神速で一気に迫る。 ひと嗅ぎさえしてあれば、神速だって使える! だけど、またしても奴の姿はかき消え、今度は私の影から現れた。 巨大な拳が私を掠めていく。ギリギリでよけて、もう一度噛み砕くで前腕を狙う。 奴はまたしても私の影に潜り込み、少し離れた鳥居の影から現れた。 埒があかないわね。自分の影と戦っているようなものだし。 ヨノワールはしばし鳥居の影に佇んでいた。こちらも間を取って立ち止まる。 さっきの攻撃で二つの事が分かった。こいつは影から影へ移動出来る。そして、めちゃくちゃそれが速い。 接近戦はかわされて反撃されやすい。特に物理攻撃のヨノワールに、例の回避の仕方は私にとっては分が悪い。 私がいくら速く動いても、私の影が有る限り、あいつは私についてこれるから。しかも、どう頑張っても逃げられない。 特殊でしかまともな攻撃はできなさそうだ。 突然、ヨノワールが腹の口で笑った。私達を嘲笑うかの様に。 不快な声を一面に響かせたあと、奴は腹の口から何かをペッと吐き出した。 カラン。 敷石の上に吐き出されたのは5体の白骨。 それは哀れな神主と門衛の骸だった。 ……あぁ、なるほど。 具体的な説明をありがとさん。 私達も下手したらこうなるわけね。よ~く分かった。 暫く特殊撃ってみたけど、やっぱり無理だわ。 ぜんっぜん当たらないし、火炎放射ってそもそも速い技じゃないし、あっちは隠れ場所だらけだし、ゴーストだから清明の矢は効かないし、もう、正直二人ともお手上げ。 仕方ない。もう一回特攻するか。ただ今度は頭を使ってね。 いつまでも私についてこれると思ったら大間違いさ。 全身の筋肉を引き締め、バネの様に飛び掛かる。 目指すは鳥居の柱の影にいるヨノワール。まずは噛み砕くでその腕を狙う。 奴が地面の影にサッと消えた。勿論、それは見越してある。 だから私は鳥居の柱を蹴って再度跳躍、宙に身を踊らせる。 そう、これで私と影は別になれた。 地面にあった私の影に現れた奴はうろたえた。 そりゃね、私の影に出てきたのに当の私はおらず、こっちに向かって上から飛び掛かって来るんだから。 私は奴を思いっきり噛み砕いた。 はずだった。 牙が空を切り、私は悪態をついた。また?! いや、今度は既に手遅れ。 狛犬の影から姿を現したヨノワールがシャドーパンチを的確に私に打ち込んだのがかろうじて見えた。 「?!」 悲鳴をあげる暇もなく、私は吹っ飛ばされて反対側の狛犬に叩きつけられた。 「……がはっ……うぐぅぅぅぅ……」 ずるずると崩れ落ちる体。血の、鉄独特の味が口に広がる。 呼吸が苦しい。肋骨折れたかも。 一発喰らっただけなのに、全身から命が流れ出していくみたい。 四肢に力が入らない。もがく私の体の影から、ゆっくりと奴が現れた。 私は体を震わせ、迫り来る灰色の恐怖の影が拳を握りしめるのを見ているしかなかった。 あぁ、次の一撃で私は確実に、間違いなく死ぬ。 力なく横たえた体は、痛みにうち震えるしかない。先程の打撃は、私に立ち上がる事すら許さなかった。 ぐっと握られた拳が振り上げられ、そして降り下ろされた時、私は精一杯の憎しみを込めて死を睨み付けるしかなかった。 「……っぎゅっ!ぅぅぅぅ……」 ……二発目もきっちり頂きました。 ただ、死ななかったって話。 体力は完全に底をついたけど。何だかピシッて音がしたあたり、骨にヒビ入ったのは間違いないと思う。 息をする度に脇腹に激痛が走る。やっぱり肋骨かしら? もう痛い思いはしたくない。殺すならいっそ一思いにやっちゃって。 ピクリともしなくなった私に、ヨノワールが勝ち誇った笑い声をあげて、三度目の鉄槌を降り下ろす……。 その声が途中で途切れた。 二人の間に炎がどこからか投げ込まれたから。 明るくはぜる松明が二人を照らす。 そして、妙な事が起きた。 私を叩き潰さんばかりに迫っていた奴の姿が忽然と消えた。 それも、悔しげな声を上げて。 松明の明かりが、私の影を消していた。 炎のせいで反対側に出来た私の影からまた奴が現れる。 だけど、今度現れたのはヨノワールだけじゃなかった。 両手に赤々と燃える松明を持って現れたのは清明。松明を一薙ぎして、私の影を消し去る。出てくる影を失ったヨノワールは、少し離れた鳥居の影に逃げるしかなかった。 ははん、なるほど。 やっと状況が呑み込めた。 あいつは影から影へ移動“出来る”んじゃない。影から影へ移動“するしかない”って事さ! だから清明は影を明かりで消して、あいつを追っ払った。 よし、俄然殺る気が、じゃなかった、やる気が出てきた。 後は回復さえすれば…… 「早く立て、スサ!」 清明がこっちに何か投げて寄越した物を見ると。 ふ、ふっかつそう……なんかがっかり。 なつき度下がるわよ。もとからなついちゃいないけど。 私、断じて草食系じゃないし。 第一、漢方薬って不味い。鑑真も迷惑な物を伝えたものねぇ。 &ruby(すみれさいしん){菫細辛};、&ruby(はなみょうが){花茗荷};、&ruby(うこん){鬱金};、&ruby(にっけい){肉桂};、星草、馬の鈴草……どれもこれも苦いし、あの独特の臭気が……ね。 二の五の言ってられないから食べるけどさ! ギュッと目をつぶって、そのやたら苦い草体を口に入れる。 おえっ、やっぱり苦っ! 猛烈な吐き気が襲って来て涙目になりながら、それでも一気に呑み込んだ。 効果はてきめん。 縞模様の入った四肢に新たな活力が注がれるのが分かる。 一時的ではあるけれど、かろうじて立ち上がれるようにまでなった。 口直しがあれば完璧だったんだけど。 言っとくけど、こういう回復ってその場しのぎ。 骨折とか火傷が一瞬で治ったら、そりゃあなた、医学上の奇跡よ? ただ一定期間、興奮作用で動けるようになるだけ。 それでもこういう時は助かるけどね。 さて、どうしてくれようかしら? あいつを倒すには例の移動手段を封じなきゃ。奴を逃がさない手段がどうしても必要。だけど、影は捕らえようがないし…… もちろん、捕まえたところで、今までの様子じゃまともに打ち合っても私に勝ち目はない。 それなら……これしか無いわね。 心を決めると、私は清明から離れて、一気に天満宮の立派な本殿目掛けて走り出した。 「スサ、明かりから離れたら駄目だ!あいつの思うつぼにしかならないぞ!こら、戻って来い!」 清明の叫び声も無視して、&ruby(やしろ){社};の真ん中までひたすら駆ける。 松明の明かりの中から飛び出した事で私の影が再び形を取り戻し、それを見てヨノワールも動き出した。 高欄を飛び越え、&ruby(わたどの){渡殿};を駆け抜け、長大な&ruby(ひさし){廂};の下を通る。&ruby(はじとみ){半蔀};をひとっ飛びで乗り越えた時、私の影が捩れ、お約束のように奴が現れた。 そのシャドーパンチをすれすれでかいくぐり、ご神体の祀ってある部屋に滑り込む。よし、一か八か。 奴が追いついたところで私は炎を吐いた。だけど、これは火炎放射じゃない。火は真っ直ぐ奴に向かうかと思いきや、私自身と私の影をぐるりと取り囲んだ。 よし、上手くいった! 私が何したか分かるかしら? 顔も知らないお父さんから受け継いだ、ウインディなら普通は覚えない技である炎の渦。 この作戦の鍵になるのは、技を自分にかけた事。 奴を狙っても、どうせ別の影に逃げられるのは目に見えてる。 かといって無生物である影に技はかけられないし。だからこそ奴を私の影に引き付けたのさ。 炎の渦の効果は対象を逃がさないこと。 つまり、自分にかければ私自身技から逃げられない。 それが意味するのは、私の影も逃げられないってこと。。 私の影が逃げられないなら、出現を私の影に依存するヨノワールも逃げられない、そういう事。 あいつを確実に焼殺出来る訳さ。 問題は、これは自殺行為だってあたり。 私の特性は貰い火じゃなくて威嚇だから、炎の渦のダメージは私も受ける。半減だけが頼みの綱。 つまり、我慢比べみたいなものと考えてちょうだい。ただ、最後に私が助かるか否かが五分五分なのが怖いところ。 炎の渦が猛り、その包囲を縮めて轟音と共に二人を焼き尽くす。 逃れられない火の手に、ヨノワールが苦痛の悲鳴をあげる。奴の体を黄色い悪魔が呑み込み、黒い煙が幾筋も昇り始めた。 断末魔の絶叫を上げ、悶え、呑み込んだ幾つもの魂と一緒に灰色の体は焼かれていく。 私もまた、全身を焦がされていく最中だ。ふさふさした尾は燻った煙を上げ、胴には灼熱の地獄の中で次々に火傷が出来る。酸素を奪われ、頭がぼうっとしてきた。よろめく私の頭の中で響くのは、ただ一つの言葉。 焼き尽くせ。 私は自暴自棄になって、火にまとわりつかれながらも更に火炎を強める。火は建物にも燃え移り、さながら地獄絵図の様相を呈していた。 もう何も見えない。 奴が生きているのか、既に死んでいるのかも分からない。 自分が焼尽されて行くのが唯一確かな事象だ。 意識が飛び飛びになり、がっくりと私は体を下ろした。最後まで炎の渦に意識を注ぎながら。 炎の中で動くものは崩れ落ちる梁や&ruby(たるき){垂木};だけ。 あちこちから建物の崩壊が始まり、更に火が勢いを増す。 最後に私の目に映ったのは、ただひたすら、破壊を繰り広げる貪欲な炎の姿だった。 ふと、心をある思いがよぎる。 ヨノワール、あんた哀れね。 赤の他人の怨念に突き動かされて、こうして始末されてくなんてね。 もちろん、そんな感情とはすぐに決別しなくちゃいけないのは分かってるけど、一歩間違えれば誰にでも降りかかる運命にキリキリと心が傷んだ。 人間なんて、嫌いだ。 目の前に靄が急にかかって……まずい、落ちる……でも、私はそれを歓迎して……私の意識はそこで途切れた。 #hr 痛覚。 私が最初に感じたのはそれだった。 肺が苦しい。呼吸の度に胸が潰れそう。 「動くな。肋骨がヒビ入ってる。こりゃ暫く安静だぞ、スサ。無茶しやがって、この馬鹿め。」 聴覚。 上から声がする。あの声は清明だ。起きなくちゃ。 触覚。 火傷の痕に染みる軟膏が塗られて。 嗅覚。 一面に漂う、焦げ臭い匂い。 そして、視覚。 重い瞼を開くと、白み始めた空が見えた。淡い紫に染められた雲が細くたなびき、夜明けをもたらす太陽が山の端から私と清明、二人を照らし始めたばかり。 「……勝った……の?」 水干はあちこち焦げだらけ、顔にもところどころ煤をつけた清明の方に首を回して私は尋ねる。 「あぁ、あいつは滅したぞ。そこ見てみろ、五線星の焼け跡がある」 見れば、少し離れた地面には、確かに星の模様を描いた焦げ跡がくっきりと残っていた。 ハァ、終わったらしい。 突如、言い様の無い無常感と、安堵の波という複雑な感情にもみくちゃにされて一瞬私は混乱した。私の手当を終えた清明が立ち上がり、星形の焼け跡に清めの塩を撒きはじめる。 せめてもの供養らしい。その白さが黒い焦げ跡の中でくっきりと際立って見えた。 清明がこっちを振り返った。 「まぁ、終わり良ければなんとやら、俺らはまだ死んじゃいないだけで良かった方だろ?」 普段の様に振る舞おうとしてるのが見え見えだ。 でも、疲れた私には不思議とそれが嬉しかった。 「……まあ、私に感謝することね。貸しが一つよ?」 やっといつもの二人に戻って来る。 清明が口の端を歪めて笑っている。どうせあの皮肉屋の事だ、私に投げつける意地悪な言葉を探してるんだろう、と思った。 だから、清明が次にやった事に私は少しびっくりした。 「あぁ、借りが一つだ」 そう言って、奴は私の頭をくしゃくしゃっと撫でたんだ。 へぇ、これまた珍しい。 ここで「ありがと」って言うのが素直な人。でも私達は私達。 悲しい事に、こういう時も憎まれ口を叩くしかないのさ。 「やっと認める気になった?役立たず君?」 「ふん、俺がいなけりゃお陀仏だったくせによく言うもんだ」 ほらね、もう普段通りの私達。 まぁ、お互い気恥ずかしいってのもあるかしら? これはこれで嫌いじゃないけどね。 さて、もうそろそろ帰ろう。清明が腰を上げた。 「あいたっ!」 私はまだ燻って煙をあげる焼け跡から立ち上がろうとして、脇腹の痛みに顔をしかめた。 「……くっ……」 「おい、肋骨ヒビ入ってんだぞ、無理すんな。札に戻れってば」 そう言って木簡を取り出す清明。 「……いや……自分で歩くわ……」 「意地張ってどうすんだよ!この馬鹿犬!いいから札に戻すぞ。陰陽二気之……」 「ちょっと待って!」 私は呪文を唱え始めた奴を慌てて遮った。一つ確認したい事がある。 「私達、しばらく休めるわよね?任務は果たしたし、あんな大物仕留めたし。これでしばらく夜間警備は免れたんじゃない?」 清明はさも残念無念って具合に、首を左右に振った。 「お前、自分が何したか分かるか?天満宮まるまる一個、きれいさっぱり焼いちまったんだぞ。こりゃ大目玉間違いなし、お前が治り次第、しばらく働きづめだろうな……」 ハァ。 二人で妙な同期を起こして、私達は朝焼けの中でため息をついた。 そして、二人で笑ったのさ。 #hr 遠くから気だるい&ruby(しょう){笙};((雅楽の管楽器の一つ。木製の壺に長短17本の竹菅を垂直に立てて指孔を穿ち、金属製のリードを付けて吹奏する。))の音が風に乗って聞こえて来る。 のんびりとした晩春の昼下がり、私達はこの前通った草原に居た。 賀茂山の方を見やれば、花飾りと葵をを沢山付けた牛車が、その飾りを春の微風に揺らして進んで行くのがかろうじて見える。 今日は卯月の中の酉の日、つまり、葵祭。 街路には人々が溢れ、豪華絢爛の限りを尽くした盛装姿の&ruby(やしろがしら){社頭};や勅使、山車を見送っている。御所から出発した行列は下鴨神社を巡り、今は上賀茂神社へ登って行く途中だった。 神様もあんな騒がしい連中に押し掛けられて、さぞかし迷惑だろう。 私は思わず苦笑した。 「ねぇ清明、あんな事して何が楽しいのかしら?見えない神様にお祈りするくらいなら、もっと建設的な事したらいいのに」 「宮中行事なんだもの、仕方ないだろ。信仰は曲げられるもんじゃないし」 清明はそう言うと真新しい水干の&ruby(きくとじ){菊綴};((衣服の綻びを防ぐ、菊の花に似た飾り。水干には胸、背面、左右の袖の四ヶ所に二つずつつける。))を撫で付けた。 「何だか似合わないな、この服。なぁースサ、そう思わないか?」 例の一件で焦げだらけになった水干の代わりに、奴はモノノケ調伏のご褒美に、新しい水干を帝から直々に貰ってた。 「言えてる。っていうか、あんた色味があるの全体的にだめ、似合わない。何で昔みたいな白にしないの?」 今の水干は濁った空色みたいな&ruby(あさぎ){浅葱};色、亀甲紋の布地に白い葵の模様が刺繍してある。 布の織り主は品良くまとめたつもりなんだろうけど、遠くから見たら薄汚れた野良着みたい。 ま、惨めったらしい部類の色だわね。 糊の効いてごわごわしてる&ruby(くくりばかま){括袴};を必死にのばそうとしている清明から目を離して、私は広大な草原に視線を移した。 夏が近いらしい。 前回通った時よりも、勢いをぐっと増した草木があちこちで葉を広げ、すかっと晴れた空の下で命の共演を始めている。 木立の&ruby(わらび){蕨};は新芽をすっくと展開し、&ruby(しだ){羊歯};らしい切れ目の入った両手を広げる。 白い花を咲かせていた梨は花弁をそよ風に散らし、少し早めに渡って来た燕が鋭い曲線を大空に描いては飛び去っていく。 おっと、スバメも何羽か混じってるかしら? あっちに見える、てかてかした葉っぱの灌木は椿。赤い立派な花は散ってしまったみたいだけど、ムックルがその枝で追いかけっこしながら遊んでいるのが見える。 緑の絨毯の草丈は、もう私の足をすっかり隠してしまうまで伸びていた。 穏やかな光の中で、全てが夏へ動き出していた。 これが本当の晩春の姿だと私は思う。 祭も式典も行事もいらない、生命の息吹と、初夏への期待に満ちた世界。 私は胸いっぱいに大気を吸い込んだ。 春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天の香具山 遥か上空で輪を描いていた&ruby(とんび){鳶};が一声、澄んだ声で啼いた。 お わ り #hr #hr ~カーテンコール~ スサノオ 「これで十干十二支、第一話のおしま~い!一風変わった世界観を、最後まで楽しんでもらえたら嬉しいわね! ぇ、古語やら専門用語が訳が分からないって?頑張って辞書でも引きなさいってば。持ってるでしょ、それぐらい。 しっかしまぁ、日本文化って難しいわねぇ。暦も違うし、風習も違うし。物忌みとか、方違えとかもう、意味不明。カヤツリだって何度高校時代の国語の便覧のお世話になったことか。 コメントがあれば下によろしくね。では次回をお楽しみに~。」 #pcomment(十干十二支!~識神登場編~コメログ,7);