RIGHT:次:[[初めましてのジャメヴ・Ⅱ]]へ LEFT:ジャメヴは、ダンジョンの中で巡り合う―― &size(32){初めましてのジャメヴ}; #contents [[水のミドリ]] *1-1.山あいの骨董品店 &size(8){2017/07/29投稿}; [#hFI3uN4] *1-1.山あいの骨董品店 &size(8){2017/07/29投稿}; [#Igk5Wo2] 山のふもとに広がる樹林で、コジョンドのフエは完全に迷っていた。 道を尋ねた村民に「一直線ですぐそこだよー!」と陽気に返され、ろくな計画も立てずに出向いたフエに非があるのは間違いない。彼の聞いた「すぐそこ」が、田舎特有の距離感覚であることを全く考慮していなかったのだ。加えて道を教えてくれたヒノヤコマの青年が意味するところは、"はやての翼で空を飛べば"「一直線ですぐそこ」だったのだと、とうに見失った細い道を探しながらフエは忌々しく歯噛みした。 「3日ぶりにダンジョンから出たのにまた野宿とは……勘弁してもらいたいなぁ」 ため息交じりに零したフエのひとりごとは、急速にたそがれてゆく山の夕暮れに吸い込まれていった。しっとりとした茸のような森のにおい。刻一刻と闇が取り巻いてくるようだった。 風の大陸特有の風上に向かって幹を曲げた広葉樹たちは、今にもがさがさとオーロットのように動きだしそうで。ダンジョンで苦手なゴーストタイプに追い回された苦い記憶が蘇ってきて、フエは縮こまる体をぞくり、と震わせた。軽いトラウマを追い払うように鞭の腕をぶんぶん振るう。わざとらしく大げさに、おぶっていたザック型の探窟鞄((不思議のダンジョンシリーズに登場する、ランクが上がるとキャパシティが増加するフシギ袋のこと。探窟とはダンジョンを探索して道具を発掘する意味の、漫画『メイドインアビス』に出てくる造語である。))を背負い直した。ガラゴロと音を立てた中身は、近場のダンジョンで発掘してきた、一見ガラクタのような道具ばかり。駆け出しのトレジャーハンターであるフエはいつも野宿のためのキットを持ち歩いているが、それも一度立ち寄った村の民宿に預けてしまっている。 完全に暗くなる前に野営の準備を始めた方が賢明だ。風を防げそうなくぼみを斜面に探していて、フエは気づいた。 西のほう、ぽっかりと木々の開けた山の斜面が、うす青く輝いている。一瞬ゴーストタイプの驚かし山賊でも現れたのかと顔をひきつらせたが、よくよく見ると霊的なおどろおどろしさのない、柔らかな光だった。夜光虫が波に漂うような淡い群青が、一面に立ち昇っているのだ。 「……すごいな」 言葉を失ってフエはそろそろと近づいてゆく。光の正体は花だった。アサガオのような淡い青の花が一面に咲き、螺旋を描いた花弁を夜風に揺らしていた。太陽が完全に西の稜線に沈むと、いっそうその青が幻想的に湧き立つ。見たことのない花だ。 忽然と現れた神秘の花畑に、しばしフエは呆然としていた。息を呑んで見渡す彼の目が、その中央に留められる。 螺旋の花のうす明りが、花畑の中に忽然と佇む山小屋をライトアップしている。目を凝らせば、小屋の前の置き看板には『骨董品店リン』の足形文字が、淡い花の光に浮かび上がっていた。それはフエがさんざん探し求めていた店で。 「……ホントにあった、こんな山奥に骨董屋が!」 命からがらモンスターハウスを抜け出したときのように、安堵に力の抜けたフエは息をついてへたりこんでしまった。 &size(22){巻貝の独楽}; つかの間、ふたりは立ったまま固まっていた。 軋むドアを内側から開いた山小屋の主は、まだうら若いルカリオだった。整った青と黒の被毛はすべらかなまま、花弁のような耳をピンと尖らせている。側頭部に2対伸びているふさふさの房も、フルパワーで波動を駆使した時のように広がっていた。小屋の中央に吊られているオイルランプの逆光でもくっきりと映える朱い瞳が、驚いたように見開かれフエを捉えていた。 可憐、という言葉がぴったりの少女だな、とフエは見とれていた。そんな心うちを気取られないように、我に返った彼は優しげな笑みを浮かべる。 対して扉を開けたルカリオも、ノブに手を掛けたまま動けないでいた。それはフエに一目惚れをしてしまった――ということではないらしい。彼に笑いかけられると、1歩身を引いて怯えたように首をひっこめた。ドアを開けた瞬間に見せた晴れやかな笑顔は隠れ、神経症のように垂れた房のうち右のひとつをしきりにさすっている。今にも噛みつかれそうな不安を押し殺して、突然の訪問者を上目遣いで窺っているようだった。その視線も落ち着きがない。 フエとしては、この反応はつまらない。こんな山の奥に若い雌ひとりで店番をしているのなら警戒されても仕方ないものか、と半ば無理やり納得して、気を取り直したフエは努めて気さくに話しかける。 「なに、コジョンドを見るのは初めて?」 「あ、いぇ、そういうわけでは……少し驚いただけですから。お客様がお気を悪くされたのなら謝ります、ごめんなさい」 「いやいいよ、とりあえずそのお客様を中に入れてくれると嬉しいんだけど。風も冷えてきたし」 「っはい、そうですね。どうぞお上がりください」 招かれた小屋はほとんどワンルームになっていて、日焼けしたフローリングの上にところ狭しと骨董品が跋扈していた。 フエの腰回りほどもありそうな樽に革を張って作ったような打楽器が、店の一角を占拠している。古めかしいにおいの沁みついた香箱。壁一面に掛けられた鳩時計の振り子が、等間隔で小さなリズムを刻んでいる。棚には未開の地に住む民族が祭事に使っていそうな木彫りの人形が並び、天井からは真鍮のミルク缶が縄で吊り下げられている。しげしげと上を向いて歩いていると、砂の大陸で焼かれたらしい赤土の壺を足で倒しそうになって、フエは慌ててそれを避けた。 よく見ると、今まで売り込んできた骨董屋では見られないような物品がいくつか含まれていることにフエは気づく。ひび割れたガラスのショーケースに飾られているのは、フォークの無くなったカトラリーセット。口の欠けたソース差しは、傾ければドバっと中身をこぼしてしまいそうで。そういえばさっき倒しそうになった壺は、フエが足を引っかけるまでもなく底が割れていたようだった。そっと値札を盗み見たフエは、つい声を上げていた。 「こんなのが5000ポケもするのか……!? 半月は遊んで暮らせるぞ?」 「……うちは他所様とは少し異なる鑑定方法で値付けさせてもらっていますので、一見価値のなさそうなものでも高額で引き取らせていただくことがございます。……お客様の持ち込まれたお品物からも、思いもよらない掘り出し物が見つかるかもしれません」 店主の目利きに不信感を覚えたフエの気持ちを察したように、座面から綿の飛び出した椅子に腰を下ろしたルカリオが言う。遅れてカウンターまでたどり着いたフエが、背負っていたザックをどしり、と台の上に押し上げた。 「……へぇ。それは期待しちゃうね」 とは言ったものの、フエはあまり期待していなかった。小屋の中へと招き入れてくれたものの、店主のよそよそしさは抜け切れていないまま。理由は分からないが、嫌われている。ルカリオのように波動を駆使しなくても、彼女がフエに悪い印象を持っているとは筒抜けだった。嫌いなヤツの持ち込んできたガラクタに、わざわざ高値は付けないだろう。 初対面で一方的に嫌われた理由は思い当たらないが、フエはまだあきらめていなかった。イカしたトレジャーハンターの条件は、ダンジョンを踏破し価値の高いアイテムを持ち帰るだけがすべてではない。より収益を上げるには、手持ちのガラクタをいかに値打ち品に見せるかという話術も重要なのだ、とはフエの師匠にあたるサンドパンの言葉だった。苦労して持ち帰ってきた品だ、せっかくなら少しでも高く買い取ってもらいたい。それに、他の探窟家とチームを組んでいないフエにとって、旅先のポケモンと話すのはそれだけで楽しみだった。いつもはダンジョンに出てくる心無い敵に追い回されてばかりだから、話が通じるだけで感動するというもの。しかもそれが美人ときたらなおさらだ。 「しっかし凄いところに店を構えたもんだね。村から道を教えてもらったけど、たどり着くのに2時間以上かかったよ」 「……ご足労さまです」 店主のルカリオは、フエの目を見ずに彼の荷物を紐解いていた。錆びかけたリングル((『ポケモン超不思議のダンジョン』に登場する装備品。腕など体の一部に装着することで、様々な効果を発揮する。またリングルに空けられたくぼみに『ラピス』と呼ばれる宝石をはめれば、ダンジョン内でそのラピスごとの効果も受けられる。))、絹織りのスカーフ、よく磨かれた陶器……。狭いカウンターの上はみるみるガラクタで溢れていく。 ルカリオの返答はつれないものの、フエは諦めない。 「こんな山奥にひとりで住んでるの、寂しくない? お化けが出そうで気が気じゃなかったよ」 「……ええ、そうですね」 「いろいろ不便なんじゃないの? 山の中だとすぐに陽が落ちちゃうし。ほら、もう外は真っ暗だ。できればひと晩泊めてほしいなー……なんて」 カウンターに肘をついたフエが冗談交じりに言う。手を止めたルカリオは肩をびくつかせ、咄嗟に顔を上げた。再び見せる不安と驚愕の表情。そこから視線を落とし、ひどく思いつめたように目に影が落ちた。踏み込みすぎたか、とフエは心の中で舌打ちをする。 「……分かった、見知らぬ雄とひとつ屋根の下は怖いもんな。俺は大人しく外で野宿するから――」 「いえ、大丈夫です。ロフトをお使いください。……私はお客様のお品物を鑑定しておきますから。朝までにはすべて」 「……ありがとう、宿泊費は鑑定額から差し引いておいてくれ。お客様はもういいよ、俺はフエだ。よろしく頼むよ、骨董屋さん?」 「……&ruby(リン){凛};と申します。この度は骨董品店リンをご利用ありがとうございます、フエ……様」 「だからその"様"っての止めてほしいんだけど……はぁ」 思いがけなく泊めてもらえることになったが、名前を聞いたのは間違いだった、とフエは悄然とした。商売相手として、魅力的な雌として仲を深めておきたいのに、思い通りにならない焦りと落胆だけが募ってゆく。 「……じゃ、お言葉に甘えて先に寝させてもらうよ」 晴れない気持ちを振り払うように、フエは腕の鞭を振るってみせる。仲良くなるのは明日からだ。右の房に手をやりながら縮こまる凛に依頼品をザックごと丸投げして、フエはロフトの階段をずかずかと昇っていった。 ごわごわの毛布にくるまって、フエはふと思う。さっき凛が驚いたときに見えた、房についていた痣のような模様。どこかで見たような気がするな、と記憶を探りながら、いつしかフエはまどろみに飲み込まれていった。 *1-2.時間の花 &size(8){2017/08/07更新}; [#k2x0UIF] *1-2.時間の花 &size(8){2017/08/07更新}; [#hEjctaq] 久しぶりに寝具の温かさを堪能したフエは、すっかり外が明るくなってからロフトをのろのろと降りた。寝ぼけ眼をこすると、凛はすでに起きており依頼品を鑑定している。昨晩と同じ椅子に昨晩と同じ体勢でガラクタと向かい合っているルカリオに、フエは爽やかな顔を作ってから声をかける。 「おはよう凛さん。……まさか本当に夜通し値付けしてくれていたのか? 俺は急いでないからゆっくりでいいのに」 「……ご心配には及びません、休憩は取りましたから。そろそろすべて鑑定し終わりますので、そちらでお待ちください」 顔を上げてくれたものの、凛の挨拶はそっけない。フエは長く伸びたコジョンドの髭をいっそう垂らして、彼女に示された店の奥へとぼとぼと進む。年季の入った&ruby(とう){籐};のパーテーションで区切られた狭い住居スペースを覗きこんで、フエは目を丸くした。 小さな薪ストーブが据え置かれたミニテーブルに、フエの分の朝食が用意されていた。乾燥肉を挟みこんだサンドイッチ。まだほのかに熱を保っている汁ものが、うっすらと酸味の効いたにおいを小屋の中に振りまいている。思い返せば昨日は何も食べずに寝てしまったから、かなりの空腹だった。 「これ、俺のために?」 「はい……温かいうちにお召し上がりください」 「頼んでないのにこりゃどーも。嫌われている割にずいぶん親切にしてくれるんだね?」 「っ、……申し訳ございません」 「謝ってほしくて言ったわけじゃないんだけどなぁ。……ま、ありがたくいただくよ」 これも商品らしい上質な毛皮をなめした敷き物にどっかとあぐらを組んで、フエは固焼きパンのサンドイッチを頬張った。凛はもう済ませてしまってあるらしく、流し台の端で立てかけられた食器が残り水をしたたらせている。複雑な顔でフエは小さくため息を漏らしたが、それでもまともな食事は久しぶりで、乾いた喉は空豆とマトマのスープをひと息に飲み下していった。 嫌っていること否定しなかったな、とフエは固焼きパンを噛みしめながら思う。あれだけ大量の依頼品を一夜で値付けするなんて、「長居せずにさっさと帰ってくれ」と俺に言っているようなものじゃないか。凛がなぜ自分を嫌っているのか分からないし教えてくれる様子もなかったが、反面こうして無下に扱ったりはしない。両極端な凛の態度に、フエは腑に落ちないままだった。 凛に断って小屋の裏手で湯あみをさせてもらい、風に当たりある程度乾いたところでフエは小屋の中に戻る。依頼品の値付けを終わらせた凛が、買い取り額を集計しているところだった。 これで彼女ともお別れか。もやもやした気持ちを押し殺して、フエは腕をひらひらとゆする。 「風呂まで貸してもらっちゃって悪いね凛さん。手ぬぐいはどこに置いておけばいいかな」 「私が洗濯しますので、お預かりいたします……」 「あーそれならいいよ俺がやっておくから。何もかもサービスしてもらうばっかりじゃ申し訳ないからね。何か手伝えることがあったらやっておくけど。掃除でも巻き割りでも、商品の整理でもさ」 目を細めて和やかな表情でフエが言ったとたん、対照的に凛の瞳がすっと大きくなった。紅い目がふるふると震え、叱られた子犬のように首をすっこめる。 「と、とんでもございませんっ。フエ様にそんなことさせるなんて……っ」 「……そうかい」 しょげるフエの手からタオルケットをおそるおそる受け取ると、凛は身を翻して洗い場の方へ引っ込んでしまった。避けられる寂しさは昨晩から幾度も味わわされてきたが、ひとり残されたフエはやはり気が滅入る。 今の反応でなんとなく感づいた。凛は恐れているのだ。フエが機嫌を損ねないように寝具を貸し、朝食を出し、入浴を勧めた。……理由は謎のままだったが。 商品らしい枠木が外れかけた姿見鏡の前に立って、フエは慣れない笑顔を作る。顔が怖いと暗に言われているようだった。確かに目つきが鋭いと昔の友達に言われたことはあったが、少しも目元を緩めてくれない凛に指摘されるのは心外だ。口角を持ち上げたり髭をだらりと垂らしたり目を丸くしたり、いろいろと試行錯誤してみた。 しばらくして凛が戻って、鏡の前でじっとしているフエの顔をおっかなびっくり覗きこむ。 「フエ様、何をなされて……、……っ、ふ、ふふ……っ!」 凛が吹き出してしまうのも無理はなかった。振り向いたフエの顔は、髭の先端には鮮やかな紅のリボンがくくり付けられていて。きつい目元にそぐわないファンシーな雰囲気が、フエをよりいっそう滑稽に見せていた。 口許を慌てて押さえつけた凛が、青い顔をさらに青くして勢いよく頭を下げる。 「も……申し訳ございませんっ! 私めがフエ様のお顔を見て笑うなど――」 「いいんだいいんだ! それよりやっと笑ってくれた。ぜんぜん表情が変わらないから、絡繰りで動いてるんじゃないかと思い始めていたところだったんだよ」 「は……はぁ」 リボンを髭から抜きながら、フエは安堵に声を上ずらせていた。かなり躊躇したが、凛が笑ってくれれば恥をかいた甲斐があるというものだ。恐れられる理由は分からないままだが、これで彼女の恐怖心も薄れてくれるだろう。 「なんだ、ちゃんと笑えるじゃないか。むすっとしてるより、笑顔の方が断然かわいいよ!」 「っ、そうでしょうか……、そうですよね。フエ様は&ruby(・・・・){違います};ものね。お気遣い、ありがとうございます」 少し困惑気味だったけれど、やっと見せてくれた凛の笑顔。ぎすぎすした関係はどうにか解消できたような気がして、フエは救われた思いだった。心が軽くなって、つい饒舌になる。 「そういえば昨日『他所とは違う鑑定方法で値付けしている』って言ってたけど、いったいあのガラクタのどこを見ているのさ」 「はい、それはですねフエ様」 相変わらず凛の語尾には『様』がついて回るが、口調は心なしか明るくなっていた。表情も以前より崩れて、雰囲気も柔らかいものになっている。しっかりとした手つきでボロ椅子の下をさぐると、大切そうにそれを取り出した。フエによく見えるようにカウンターの上へそっと乗せる。 それは、山小屋の外で競うようにつぼみを揺らしている、淡紫の花だった。花はガラスでできた立方体の装置に植えられており、ふたを外せばその中に小さなものを入れられるようになっている。 「小屋の外にも生えていた花だね。それを使うんだ」 「私たちルカリオのような波動を扱う者は、これを"時間の花"((映画『波動の勇者ルカリオ』に登場する、ストーリーに深くかかわる花。劇中では波動を持つものが波動を込めるとはなに映像を記録し、また波動を送ればそれが再生される仕組みだった。))と呼びます。亜種もいくらか発見されているようですが、ここらに根を張るものは『物やポケモンに深く刻まれた思い出に反応する』ようなのです。だから例えば……これで試してみましょうか」 装置をてきぱきと組み立てた凛が、鑑定したガラクタの山からひとつ、掌に握れるくらいの小さな貝を拾い上げた。中身をくりぬいた巻貝の中に、蝋を流し込んで作られたベーゴマだ。 それをガラス張りの直方体の中へと収めると、時間の花が植えられたふたを被せる。凛は目を閉じて息を吸って吐くと、花に向けて手のひらを突き出した。 途端、フエの目の前で淡紫の花がほのかに光る。昨晩見た夜光虫のさざめきに比べれば頼りないものだったけれど、カビが生えたような山小屋の雰囲気を一掃するには十分に神秘的だった。 半信半疑で凛の話に耳を傾けていたフエが目を見張る。凛が手を離すと、時間の花は光を弱めていきつぼみに戻ってしまった。 「ぅお、スゴいじゃないか! どういう仕組みなんだ?」 「詳しいことは私にも分かりませんけれど……波動の扱いに長けたものが触れると、装置の中に入れた物に込められた思いが強ければ強いほど、花は強い輝きを放つんです。私は……昔に怪我をしてしまって波動が上手く使いこなせないのですが、資質のあるルカリオならその思念を映像として観ることもできるのですよ。……この巻貝の独楽はフエ様が持ち込まれたものの中で最も効果に値付けさせていただきまして、15000ポケになります」 「こんなのが15000ポケ!? ……分かんないもんだなぁ」 凛の手から独楽を渡され、フエはそれをガラス細工に絵付けするような慎重さで眺めまわす。先のダンジョンで、なんとなく拾った面白い形の石。それが今まで自分が持ち帰ったアイテムの中で最高額を叩き出した、らしい。信じられなかった。そもそも石ではなく巻貝であった。5000ポケの値札が付いている割れたツボも理解できないが、その3倍の価値が自分の手のひらの中にあるということだ。自分の審美眼を鍛え直さなければな、とフエは頭を抱える思いだった。 と、思い立ってフエは装置の中に独楽を戻す。 「ちょっとそれ、俺にもやらせてよ」 「フエ様が……ですか? けれど……」 困惑する凛の鼻先に指が立てられ、彼女はびくっと肩を震わせた。カウンターに身を乗り出して凛の言葉を遮ったフエが、得意げに鼻を鳴らす。 「へへ、俺だって"波動弾"くらい覚えるんだぜ? やってみなくちゃわかんないだろ、まぁ見てなって。……それっ!」 フエが身を引いて、立ったまま体をほぐすように肩を回す。気を送り込むように、両手を装置の前に突き出した。 時間の花が、開花する。 「……すごい」 螺旋を描いた2枚の花びらの、先端を合わせた頂点がカイロスの角のように空間をつくる。その数センチのすき間にまばゆい光が凝縮して、小屋の中の空気を包みこむに波動が拡散した、 淡い波動のステージで、ベーゴマに込められた昔の思い出が再上演される。オルゴールの台座で踊るバレリーナのように、波動で形作られた幼いリオルが現れた。100年は昔を思わせるような藁小屋が並ぶ漁村の広場を背景に、子どもたちがせっせと巻貝の独楽を回している。最も幼いらしいリオルが――凛とは全く関係ないだろうが偶然にも同じ種族だった――紐で独楽を回そうとして、あらぬ方向へ飛ばしていた。 年長者らしいモウカザルが、その小さい手を取り投げ方を指導している。リオルが教えられた通り数回チャレンジすると、独楽は初めてくるくると回った。跳びあがって喜ぶリオルとモウカザルを残して、波動の光は消えていった。後には薄暗い骨董屋の内装が広がるばかり。 独楽に込められていた思い出はきっと、努力と成功の喜びと、ひょっとしたら恋心も混じっていたかもしれない。現実に戻されたフエは名残り惜しさを感じながら、つけられた法外な値段に納得していた。 凛も同じように目を輝かせていたが、その内容はすこし違っていたようで。 「すごい……すごいですフエさんっ! 時間の花を開花させるには、相当な波動の素質が必要なはずなのに……、ルカリオの私だって1度も成功したことがないのに……!」 「はは、照れるなぁ」 褒められてフエは悪い気がしなかった。トレジャーハンターの師匠は厳しく皆伝してもらえるまでほとんど褒められた記憶もなかったから、ひとから認めてもらえる喜びはひとしおで。何よりフエ『様』からフエ『さん』へと近づいたのだ。より凛との距離を縮められたような気分だった。 「……そうだ、波動の師匠として凛さんに教えてあげられることがあると思う。上手くいけばまた波動が使えるようになるかもしれないし……ちょっと付き合ってくれないか?」 「ホントですかっ!? ……あ、でも……っ」 年若い少女らしい気色の声を上げたが、凛はすぐにそれをため息へと変えてしまった。視線を落として自分の手を握ったり離したりする。房も垂れてきた。 萎んでいく凛の態度は、気を良くしたフエの目には映らなかった。 「この近くに不思議のダンジョンはあるかいっ?」 「はい……すぐ西の森の中に『青の回廊』というダンジョンがありまして、その影響でここらは時間の花の群生地になっているのですが……。風光明媚なところですが有益な道具も落ちていないそうです」 「や、ダンジョンがあればそれでいい。さ、行こう!」 「い、今からですかっ!?」 「善は急げさ!」 跳ねる気持ちそのままにフエはまくしたてると、まごつく凛の左手を掴む。触れられた凛の肩がビクッと跳ねたが、それにも気づかない。ろくに値段のつかなかったらしい錆びたリングルをもう片方の手で鑑定品の山から引っつかみ、山小屋を飛び出した。 「あ……あの、あのっ……!」 手で結ばれながら、ひっそりと風にそよぐ時間の花の花畑をふたりは突っ切ってゆく。左手をグイグイと引っ張られたまま、凛は唇を噛みしめ痣のある房を右手でぎゅっと握り込んでいた。 *1-3.荒治療のゆくえ &size(8){2017/08/14更新}; [#S4siKRR] *1-3.荒治療のゆくえ &size(8){2017/08/14更新}; [#1zdPy4m] 青黒い岩盤で支えられたダンジョンの洞窟は、時間の花があちこちに根を広げていた。地面や壁から並んで&ruby(こうべ){首};を垂らすつぼみは、強い波動を纏ったフエが近づくと薄青くきらめいて眼前の闇を照らしてくれる。下層から常に吹いてくる生ぬるい風が岩を浸食してできた&ruby(されき){砂礫};が、フエたちの脚元をさらさらと流れる。行く先を見れば時間の花が淡く光り、来た道を振り返ればコジョンドとルカリオの足形が砂に消えてゆく。『青の回廊』の名前から連想すると、まるであの世とこの世の&ruby(はざま){狭間};をさまよっているようだな、とフエは小さく背中を震わせた。 狭い通路を進むふたりは、会話を交わしつつも周囲への警戒を怠らない。青の、と名が付くだけあって、襲いかかってくる心を失くしたポケモンたち――邪気は、青い体色をしたものが多かった。メタングやズバットなど、フエの苦手とする敵も多かったが、そこは凛との連携や道具を駆使して圧倒してゆく。 「気になっていたんだけどさ、あんな誰も通りかからないとこで骨董屋なんてやってて、どうやって稼いでいるのよ。お客さん来ないでしょ」 「あ、それはですね。山を越えたところに少し大きな町があるのですけれど、そこの町長さんがよく買いに来てくださるんです」 「へぇ、凛さんのファンってわけだ」 「いえっ、そういうわけでは……その方はお年を召したシャンデラさんなのですけど、思念の籠められた骨董品を燃やすと体調がよくなられるそうなんです。ふた月に1度ほどお見えになって、お店の商品をまるごと買っていかれたりして……。本当にあの方がいらっしゃってくださらないと、骨董屋リンは立ち行かなくなってしまうんです。それにいつも『凛さんの見定めた骨董品は、どれも良質なものばかりで助かるよ』なんて褒めてくださるんですよっ」 「なんだ、凛さんがその客のファンなんじゃないか……しかもゴーストタイプって」 弾むように話す凛を振り返って、フエはつまらなそうに腕をゆする。お得意様を丁重に扱うべきなのは理解できるが、自分と話すときには決して表に出さないような心からの笑顔を見せつけられると、さすがのフエも気が重くなる。見たこともない相手に嫉妬しているようで、そんな自分に気が滅入った。 まあいい、これからそいつ以上に凛さんとの仲良くなればいいじゃないか。フエはめげずに前を向いた。年寄りなんかにはできそうにもないこと――たとえばダンジョンで彼女に襲いかかる邪気を打ち倒して、格好いいところを見せればいい。 広い部屋での小休憩を終え、ふたりが先へ進もうかという折りに通路から現れた邪気。土くれを固めたようなごつごつとした体、腹に描かれた渦巻きと頭のいびつな双眸からは無機質な光が漏れ出している。 「あ、凛さん待って。あいつは前に倒した記憶がある。確か……地面タイプだったはずだよ。凛さんは弱点だから、下がっていたほうがいい。俺が近づいて倒すから、サポートお願い!」 「は、はいっ!」 虚ろな邪気の瞳が彼らを捕らえると、フエの記憶通り地面を踏み鳴らし衝撃波を放ってきた。フエがワイドガードで地震をしのいでいるうちに、凛が"睡眠の枝"を振るう。「えいッ!」という掛け声はまるで枝を使い慣れていないものだったが、彼女の腕に嵌められたリングルの窪みで"枝振り上手"のラピスが黄金色に輝き、その効果球が山なりに湾曲する。光球の直撃した泥人形はその場で昏睡し、地響きのようないびきを漏らし始めた。 「もらったァ!」 すぐさま駆け寄ったフエが、助走を付けながら跳躍する。腰のひねりを加えた峻烈な膝蹴りが、ゴーレムのような邪気、ゴビットの脳天をかち割らんと的確に捕らえ――すり抜けた。 ごしゃっ。 「ふ、フエさーーーんっ!!」 地面にめり込んで動かないフエへと、凛は大慌てで駆け寄っていく。いつ動き出すともわからない邪気をワープの枝でどこかへ飛ばし、びくびくと痙攣するフエを抱き上げる。 「だ……大丈夫ですか!? あの邪気とは戦ったためしがあったのでは……?」 「う……ん、タイプをド忘れしていたみたいだ。はは、カッコ悪いとこ見せちゃったね……」 「いえっそんなことないです、私を庇って前に出てくださったフエさん、とても頼もしかったですっ!」 力なく笑うフエを介抱した凛は、彼の膝を手のひらでさすり、治癒効果のある波動を送り込む。力の弱い凛では癒しの波動で傷をふさぐまで時間がかかったが、懸命に寄り添ってくれる彼女の姿は確実にフエの心を癒していた。 フロアをいくつか跨いで到着した最奥部は、凛の店ほどの広さしかないちょっとしたスペースだった。骨董品代わりの岩柱がいくつも立ち並び、それらにまとわりつくように時間の花がそこかしこに群生している。カウンターのあった中央付近には地面に大きく亀裂が走っており、ダンジョン内で感じていた生暖かい風はそこから吹いてきているようだった。地脈の割れ目のようなその穴からは、どうやら波動がこんこんとあふれ出しているようで。ルカリオの凛は種族柄さすがに敏感らしく、青い熱波に煽られる房をぎゅっと握り込んでいた。 「確かにここなら私の波動も回復しそうですが……、その、私は」 「ふふーん、実はそうじゃなくってさ。凛さんをダンジョンに連れてきたのは、これを試してみたかったんだ。何だか分かる、これ?」 フエが得意げに取り出して見せたのは、玉虫色に輝きを放つ宝石の欠片。凛は困惑したようにフエの顔と手のひらに乗せられた宝石を見比べながら、おずおずと口を開く。 「フエさんが貸してくださったリングルに嵌めた、不思議の枝をうまく使えるようになるラピスというもののようでけど……。……でも私、本当に今のままで大丈夫ですから――」 「おしいッ! 半分は正解かな。ラピスなのは間違いないんだけど、ラピスにも様々な種類があって、これはね……」 食い気味にフエが言って、縮こまる凛の手を取る。彼女の腕に取り付けられたリングルのくぼみに、小さな宝石をカチリと押し込んだ。 途端、凛の体が丸い光に包まれる。時間の花のそれよりも格段に強烈な輝きを纏って、彼女の体組織が変身してゆく。波動が全身を黒く駆け巡り、温厚だった目つきも鋭くとがる。伸びた房の先端や拳は、闘気を纏ったように赤く色づいた。 覚醒のラピスでメガシンカを遂げた彼女を目の当たりにして、フエは1歩後ずさった。あまりにも凛がりりしくて、そのギャップに思わず息を呑んでいた。 「……どうだい、波動の感覚、戻ったかな?」 「あぁ、ぁああっ……!」 対して凛は、自分の身に起きていることを把握しきれていなかった。体の内側から波動が満ちてくる、懐かしい感覚。視界に映るすべてのものが波動に彩られて見える。淡青色をした岩柱や、それにはびこる時間の花の強烈な群青。その中に佇むコジョンドが、しきりにこちらに話しかけているのが分かる。 「なんて綺麗なんだ……っ。なぁ、俺と組まないかっ? 俺と凛さんが組めば、最強のトレジャーハンターになれる! 思念のこもった骨董品はゴーストタイプに高く売れるって言ってたじゃないか。実は俺、ゴーストって苦手なんだけどさ、凛さんとなら上手くやっていけると思うんだ。だから俺といっしょに――」 凛はフエを見た。フエの体の奥底から迸るような、紅色と桃色の混じった波動を見た。 それが、彼女が厳重にふたを閉じていたはずの記憶と重なって。 「うぁ――うわぁぁぁあああッ!!」 「え……どうした凛さ――――」 凛が頭を抱え込んでうずくまる。異変に駆け寄ったフエが彼女に触れる直前、どっ、と彼のみぞおちに衝撃が走った。それが凛の殴りつけた波動弾だと理解したころには、フエの体は洞窟の硬い壁面に叩きつけられていた。 「ゲ、ぇ…………っ?」 フエの体がくずおれる前に、具現化した骨ブーメランがでたらめに飛んでくる。息をつかせぬ連撃がかろうじて残っていた彼の体力を削り切ると、壁に刺さった数本の骨がフエの体を壁面へと&ruby(はりつけ){磔};にした。 「ち、近寄るなッ! そうやって信頼させてから、私を裏切るのだろう……!? &ruby(・){あ};&ruby(・){い};&ruby(・){つ};&ruby(・){と};&ruby(・){同};&ruby(・){じ};&ruby(・){よ};&ruby(・){う};&ruby(・){に};、また私を&ruby(しいた){虐};げるのだろう!?」 「な、ん、のこと……?」 喚き散らす凛の耳に、もうフエの言葉など届かないようだった。凛の強すぎる波動に触発された時間の花たちが、彼女を中心として一斉に開花する。骨董屋で巻貝の独楽から現れた見知らぬリオルの幻影のように、凛の体へと刻まれた強烈な彼女の思い出が、波動の形をなして具現化しはじめる。 「あ……嫌っ、やめて、私に思い出させるな、やめろっ!」 いつもは優しげな光を灯す双眸を吊り上げた形相で、凛は半狂乱になって洞窟を破壊する。波動を広げる花を殴り潰し、岩柱を豪脚で蹴り飛ばした。衝撃波に浮かび上がった彼女の房、そのひとつに見えた痣を、磔にされたままぐったりとするフエの瞳は鮮明に映し出していた。 痣の模様は足形の焼き印だった。砂の大陸で売買された奴隷が、誰の所有物なのかを示すためのあかし。それも、コジョンドの足形だ。 それが凛の房に刻まれているということはつまり、彼女が奴隷であったことの証明で。 自分と同じ足形など、毎日のように見慣れているはずなのに、身近すぎてかえって初めて目にしたような真新しさだった。この感覚は、確か。 ――&ruby(ジャメヴ){未視感};だ。 眼前で繰り広げられる光景を呆然と眺めることしかできないフエの目と、凛の三白眼が不意に合った。なおも破壊を続ける彼女が、痣のある自身の房を握りつぶしながら叫ぶ。 「その鞭の腕で、動けない私を何度も何どもなんども――っ、もう思い出したくないっ、消えろ消えろ消えろ、私の記憶から、消えろぉォォっ!!」 時間の花をひとつ潰せば、それに呼応するようにほかのひとつが花開く。忘れることなど決して叶わない凛の過去が、照らし出された影絵のように洞窟内で再現されはじめた。 *1-4.凛の記憶 &size(8){2017/08/28更新}; [#MSf1Rlx] *1-4.凛の記憶 &size(8){2017/08/28更新}; [#ahxG3AM] 奴隷として買われた凛の初仕事は、身だしなみを整えることだった。 小奇麗なドレッサーを前に、凛は小さな椅子へ座らされていた。ぴかぴかの合金でできた鏡面には、房を立て周囲に目を配り、気を尖らせているリオルが映っている。豪華な昼食をもてなされ鏡台付きの私室まで与えられたのに、凛はそれでも警戒を解かなかった。 奴隷はその&ruby(あるじ){主};からひどい仕打ちを受けるものだ。親の顔も知らずに育った彼女は、奴隷たちに囲まれて生きるうちにいつしかそう刷り込まれてきた。市場で買い叩かれたゴマゾウの少年が、自身の3倍は重量のありそうな恰幅の良いベロリンガを背に乗せて足代わりにさせられていたし、まだ年端もいかないトロピウスの少女は、熟していない首元の果実をいたずらにもぎ取られ悲鳴を上げていたから。奴隷船での生活は貧困を極めていたが、買われた先でも暴虐的な扱いは変わらない。そうでなくともたいていの奴隷たちが纏っている、感情の波のようなもの――のちに彼女が進化して"波動"と知るもの――は、どれも失意や諦観めいた弱々しいものだった。 だから、彼女の背後から笑顔で&ruby(くし){櫛};を入れてくるトゲキッスを、凛はどうしても信用できなかった。ぼさぼさの青い被毛が、1本1本洗うような丁寧さで&ruby(す){梳};かれてゆく。長らく体験していなかったこそばゆい感覚に、凛は表情ひとつ変えずに押し黙っていた。 『いいですか? 女の子はね、幸せにならなければならないのです』 『……』 アンジュと名乗ったこのトゲキッスが、背後からしきりに語り掛けてくる。優しげな声も初めて食べた肉料理もふかふかの藁布団も、凛を信用させるための罠だ。天使の鈴を打ったような声で喋りかけてくるアンジュが、いつ豹変して自分をひどい目に遭わせるのか。凛はそれにばかり神経をとがらせていた。 とくに、アンジュの纏う感情の波には格段に気を傾けた。表情や仕草をいくら取り繕おうが、心から放たれるオーラは隠しようもない。奴隷を買う側のポケモンたちがそろって滲ませる、相手を喰らうようなおぞましい心の波形。それがいつアンジュから感じ取れるか、凛はそればかり考えていた。 『さて、ずいぶん毛艶もよくなりました。明日からは自分でしなさい』 『…………はい』 『幸せの努力は、決して怠ってはならないものです。あなたはしっかりと仕事ができるようにならないと。今日来ていきなりですが、私の執事にいろいろと教わりなさい。……ビアン、いますか』 『へぇマザー、ここに』 玄関へと続く廊下の敷居から顔を覗かせたのは、ビアンと呼ばれたコジョンドだった。小悪党あがりのような尖った眼つきに、凛は屈することなく睨み返す。奴隷商から凛を買い取りこの屋敷まで連れてきたのも彼であった。かわいげの欠片もない凛に、ビアンは目を細めただけだった。このコジョンドからも、アンジュと同じような温かいオーラを感じる。 『ビアン、凛のことはあなたに一任します』 『分かりやした。それよりマザー、お客様がお待ちしてますぜ』 ふわふわの翼を揺らしてアンジュは部屋を後にする。彼女を「マザー」と呼んだビアンは手で凛を招くと、廊下をのそりと戻り始めた。ますます不信感を募らせながらも、凛はそのあとを着いてゆく。 『んじゃ、仕事教えるから。一端オレがやって見せるから、次からは自分でやりな』 『……』 『聞いてたか? 返事しろよな』 『……なんで私なんか買ったの』 上目遣いに睨んだままの凛を振り返って、ビアンは鞭の腕をゆすりながら言う。 『お前がマザーのお役に立ちそうだと、市場でひと目見たときから直感したからな。さっさと心を開いてくれないと、お前を選んだオレが大目玉を喰らっちまう。いい加減素直になれって、な?』 『……信じられない』 『ともかく、お前は今日からオレたちと寝泊まりするしかないんだ。いつまでもヘソ曲げてないで、仕事は早く覚えろよ。でないとまたあの隷属生活に逆戻りだ』 『………………』 キッチンに入り木をくりぬいたカップふたつに水を注ぐと、ビアンは幾何学模様の角盆にそれらを乗せた。凛は見上げながら、食器のしまってある戸棚と、並ぶ水瓶と、背の低さを補うための脚台の位置を目で盗む。次からは凛がこの雑用を任されることになる。殴られないためには、有能であらねばならない。主の機嫌を損ねない技術は、すっかり身に染みついていた。 玄関を入ってすぐの応接間、ペルシャ柄の絨毯が敷かれた大広間へ、角盆を持ったビアンに続く。応接間にはアンジュと、"お客様"らしい妙齢のダストダスがひとり、すかし彫りのローテーブルを挟んで向かい合っている。ダストダスは気落ちした面持ちで綿花のソファに沈んでいた。 『ああっマザー、わたくしはどうすればよいのでしょう……惨めなこのわたくしにどうかお導きを!』 『スノウさん、まずは落ち着いて、ゆっくり話しなさい。心が乱れていると、ワタシにも見えません。どうなされたんですか、昨日いらっしゃったばかりなのに』 『実はわたくし……この町を去ることにいたしまして』 焦燥して支離滅裂なダストダスの夫人の話をまとめれば&ruby(いわ){曰};く、旦那のダイノーズが浮気をしているらしい。磁力で飛ばしたチビノーズを、鋼タイプで同じ鉱物グループの女性にわざとくっつかせて、そこから関係を持ちかけているようで。怪しんだスノウが尾行していたところ、先日旦那がひと回りも年の離れたギルガルドの女の子を連れて歩いているのを目撃してしまい、ショックでおぼつかない足どりでアンジュの元へ駆けこんだそう。そのときはアンジュと話すことでどうにか落ち着いたが、深夜に帰ってきた旦那を見てひっくり返ってしまった。いつも体に纏っているチビノーズがふたつも無くなっていたのだ。それはつまり、味を占めたダイノーズがまた別の女性を磁力に引っかけたということで。 ダイノーズが働きに出ている間に、ダストダスは荷物をまとめて家を飛び出した。このときばかりは、子どもを授からなかったことが救いのように思えた。まだ幼いヤブクロンをあの旦那のもとに置き去りにすると考えると、後ろゴミを引かれてしまうだろうから。それからどこか遠くに越してひとり人生をやり直そうと決意したが、今まで世話になったアンジュの顔がふと脳裏に過ぎり、つい立ち寄ったということだった。 『もうわたくしは耐えられません……あんなバカ亭主に拾われて、ほんとうにつらい思いばかりしてきました。この間の休日なんて、内職を切り上げて久しぶりに外へ食べに行きましたのに、あのひとったら「おまえの作る飯より上手いな」なんて笑ってきたんですよ、信じられますかっ!? 家に帰ってきたと思ったらぐーたらとだらけてばかりだし、最近は夜もご無沙汰で、それから先月の結婚記念日なんて――』 せきを切って溢れ出すスノウの鬱憤に、向かいのソファへ腰を落ち着けたアンジュはだまって頷き返していた。たまに「それで?」など相槌を挟むだけで、自分からは話題を持ち出そうとはしない。 10分ほどスノウがまくしたてて、そっとビアンの出した水を啜って落ち着いたところで、それまで静かに聞いていたアンジュが口を開いた。すべてを理解したような、天使の微笑みを浮かべたまま、諭すように語り掛ける。 『ダイノーズの旦那さんが家で思う存分鼻をくつろげるのも、あなたを信頼しているあかしなのではないですか? 連日働きづめで疲れているのだし、少しくらい羽目を外しても多めに見てあげてれば良いではありませんか。それに、本当にスノウさんが旦那さんを見限っているのなら、ワタシのところに相談しには来なかったはずです。わざわざいらっしゃったのは、引き留めてもらいたかったのですよね。ワタシには見えます、あなたの心が「旦那さんとよりを戻したい」と叫ぶ悲痛な"波動"が』 波動、という聞き慣れない言葉に、話半分に聞いていた凛は顔を上げた。初めて聞く響きだが、なぜだか自分がそれを知っているような気がしてならなかった。&ruby(デジャヴ){既知感};というものかもしれない。 それまで悲痛な面持ちだったスノウが、アンジュの語りを聞いてついにさめざめと泣き出した。 『あ……あああっ、やっぱり……やっぱりそうでしたかっ!! マザーに聞いておいてよかった、あのままだと本当のわたくしの気持ちに気付かずに旦那を裏切ってしまうところでした……』 『汝に波動の祝福あれ』 アンジュは鈴の声を響かせて、滂沱するダストダスへと両の翼を伸ばす。さらさらと扇ぐと、ダストダスの頭上から光る羽毛を振りまいた。浴びた彼女の表情は、極楽へ連れていかれるように恍惚としていて。 『はい、お終いですスノウさん。あなたの波動も、いつもの穏やかな淡い水色になりましたよ』 『あ……ああ、ありがとうございましたマザー、これからも、こんなわたくしを見捨てずにどうか、よろしくお願いしますねっ。……これはほんの、お気持ちです』 『……はい。スノウさんも女の子なのですから、幸せにおなりなさい』 スノウが胸元の破れたビニールから取り出したのは、にぶく輝く大判の銀貨1枚。アンジュが変わらぬ笑みで懐に仕舞ったのを盗み見た凛は、言葉を失っていた。大銀貨1枚あれば、凛なら半月は食いっぱぐれないような額になる。手にしたことなど当然のようにない大金だった。 凛の驚愕を横で察したビアンが、そっと耳打ちする。 『貧しいポケモンたちの悩みを聞いて、お気持ちを頂戴する。それがオレたち"マザー"の施しさ。安心しろ、ここじゃ辛い肉体労働なんてさせられないから。お前はマザーの手伝いをすればいいってワケ』 スノウを送り出すアンジュを横目に、ビアンはダストダスの座っていたソファに散らかるゴミを片付け始めていた。 世間を知らない凛でも、"マザー"と呼ばれるアンジュの施しは奇妙なものに思えてならなかった。その日の食事代を稼ぐには、自分の体を酷使して働くものだと刷り込まれていたから、話を聞くだけで金銭を受け取れるということがにわかに信じられない。錆びついた穴あき銅貨さえ隠し持つように生きてきた凛は、かつての自分が想像もしたことのない環境へ置かれていることに、今さらながら慄いていた。脚台に乗りながら、流し台で黙々と皿を洗う。満腹になる食事と明日に怯えることもなく眠れる寝床が、これだけの軽労働で認められるのだから、確かに施しを受けているようなものだ。 あれから2か月が経ち、凛もこの屋敷のルールを理解した。アンジュに施しを授かろうと訪れるポケモンは1日にひとり現れるかどうかで、駆け込み的に訪れる雌ポケモンたちのために屋敷からほとんど外に出ない。彼女たちを待つ間は自室にこもりっきりで、ひとり娘であるトゲピーのアルシュを子守りしていることがほとんどだ。ビアンは買い出しを任されているらしく、ふらりといなくなることが多かった。凛の仕事は、炊事や洗濯、掃除と水出しくらい。神経症になりそうなほど恐れていた体罰もない。なにより彼らが凛に接する際の感情は、ずっと荒波立つことはなかった。もし凛にも波動が見えるのなら、アンジュの言葉を借りれば、彼らの感情の波動は"温かな赤色"をしていることだろう。 砂の大陸、オアシス都市サマディ。富裕層の住むエリアにかろうじて建てることを許されたような小さいお屋敷だったが、それでも凛の目には豪勢を極めた宮殿ように映った。砂質粘土と藁を混ぜて日干しにした灰色レンガの高い外壁に、天井に急なアーチを描いた門構え。底の浅いプールのある小さな庭と、一面の芝にのしかかるような高い日差しが彼女の生活空間になっていた。 『りーん』 『……え?』 今日の夕食は何を作ろうか、と思案していた凛のかかとの肉球に、そっと触れる感覚があった。驚いて下を振り向けば、トゲピーのアルシュが凛の足元をつっついている。 『わ!? ぇ、えと、どうした……の?』 『あのねーあるしゅねー、おそと遊びたい。おそとで遊びたいのー!』 『え、ぇええ……ど、どうしよう』 凛は家事全般を任されているが、アンジュの愛娘であるアルシュの世話はすべて母親が仕切っていたから、トゲピーの体には触れたこともなかった。そもそも年下の子と話すのが初めてだ。 アンジュの指示を仰ごうと思ったものの、彼女は応接間で施しの最中だ。また買い出しだろうか、ビアンの姿は朝から見当たらない。 思案したが、わざわざマザーの施しに水を差してまで窺うことでもないだろう。アルシュを連れて勝手口から庭に出て、芝の上を走らせる。凛は庭石に座って、高い太陽を仰ぎ見た。 明るかった。雲ひとつない青空が、どこまでも広がっていた。巻き上げられた砂埃で少しかすんでいるけれど、奴隷船から見上げた鉛色の夜空よりもずっと澄んでいた。きっと明日も、明後日も、いつまでも明るいままだろう。 アンジュやビアンのことも、そろそろ信頼してもいいのかもしれない。凛は少しずつ心を開き始めていた。 ばりんっ!! 陶器が割れるような音で、凛は我に返った。慌てて顔を上げると、アルシュの姿が見えない。 さっと血の気が引いた。跳び起きてあたりを見回すと、水の張っていないプールの底に、アルシュがうつ伏せに倒れている。息を呑み抱きかかえると、ちゃり、と固いものがこすれる音がした。 持ち上げようとしたトゲピーの殻が真っぷたつに割れ、短い手足を通してずるり、と剥けた。咄嗟にすくい上げたアルシュの肌は芋虫の腹のように柔らかく、支える凛の手が震えあがった。殻の腹側はクモの巣のようにひびが走っていたようで、白い欠片がぱらぱらとプールの石底に積もる。 落ちた衝撃で気絶しただけのようだったが、くたりと動かないアルシュ。一大事にはならなかったが、しかし彼女を支える凛の腕は一向に震えが収まらない。柔らかいトゲピーを抱えたまま、凛は芝生へと崩れ落ちた。 殺される。 奴隷が主を怒らせればどうなるか。長らく忘れかけていた感情が、凛の腹の奥からぞわぞわと這い上がる。かつてはいつ死んでもいいと覚悟してきたはずなのに、温かい布団で寝ているうちにそれがすっかり抜け落ちていた。何があっても決して泣くまいと心に誓ったはずなのに、込み上げてくる涙を抑えることができなかった。 恐怖でぐしょぐしょになった顔を上げると、開け放たれた門が目に映った。隙を見て抜け出してやると画策していたのは、いつの頃までだったか。幸せの味を知ってしまった凛の頭には、逃げるという選択はもう思い浮かばなかった。 *1-5.一枚挟んで下の世界 &size(8){2017/09/06更新}; [#EgTxOuT] *1-5.一枚挟んで下の世界 &size(8){2017/09/06更新}; [#ajIGIGH] にかわを剥きだしたようなぶにぶにの肌を晒すアルシュを胸に、凛はよたよたと玄関を跨ぐ。吐き気を堪えながら応接間へ進み出て、乾ききった喉から声を出す。 『ま……マザー、あの』 『どうしたのですか凛、入ってきてはいけないと言ったはずです。ワタシはいま施しの最中で――』 凛の腕の中でぐったりしたトゲピーが目に入った途端、アンジュはぐわっと飛びあがっていた。爪先まで羽毛が生えそろったような短い脚で凛を押さえつけ、愛娘を取り上げる。 ふわふわの翼で気絶したアルシュを抱え込み、鼻をうずめてにおいを嗅ぐように凝視していた。見上げた凛には、見開かれたアンジュの目が小刻みに震えているのがはっきりと分かってしまう。それは、明らかに悪い方向への動揺だった。 わが娘で顔を隠したまま、アンジュが抑揚のない声で困惑したお客に言う。 『申し訳ありませんがニーナさん、今すぐ帰りなさい』 『え……でもまだお話聞いてもらって――』 『いいから早く帰ってッ!』 『っひ!?』 ただならぬ気配に怯えていたニドリーナの少女は、弾かれたように耳を畳んで逃げていった。それ以上に、凛は固まって動けなかった。すぐ上から圧し掛かかってくる、振り切れたアンジュの激情。かろうじて平静を保った面の皮に浮かび上がる、途方もない憤怒のかたまり。それを差し向けられて、凛は身じろぎもできない。 『ビアン、出て、きなさい』 『……へぇ、お呼びで』 外出していたと思っていたビアンが、応接間のソファの裏からぬっと現れた。そこだけ床石が外れるようになっていて、階段が地下へと延びていた。&ruby(かび){黴};くさいにおいを纏ったビアンが、怪訝そうにうなだれている。 『凛を、お仕置き部屋に、連れて行きなさい』 『……でも、凛はまだ――』 『口答えするなあッ!!』 我が子を抱きしめながら、アンジュが妖精の光を突き刺す。猛烈な閃光がビアンの肌を焼くが、彼は見切りもせず正面から受け止めていた。アンジュに歯向かうことは、執事のビアンでさえ許されていない。間近で眺めることしかできない凛は、蘇る悪夢に口を押さえて震えるしかできない。 アンジュが叫ぶ。 『お仕置き部屋はきのう片付け終わったって言ってたじゃない、あれはウソだったの!? もう予備のも使い切ってしまったのよ、次を用意しないと、この子には後がないのっ、分かるでしょう!!』 『へぃっすぐに! 承知しましたマザー、いま連れていきますから!』 ヒステリックに叫ぶアンジュに凛は放心するだけだったが、状況はどう見ても絶望的だ。ビアンに腕を引ったくられ、もつれながら暗い階段を下る。2ヶ月この家に住み込んでいて存在に気づかなかった石造りの地下室は、凛のベッドを4つ合わせた程度の広さしかない。何もない空間が、かえっておぞましさを強調していた。冷たい石壁に染みついた恐ろしい気配が、凛を四方八方から取り囲む。これからこの密室で残虐のかぎりを尽くされると想像しただけで、凛はすくんだまま声を震わせていた。 『あの、あのっ、私どうなっちゃうんですかっ!? いや、嫌です&ruby(ぶ){打};たないで、ころさないでください、もうしませんから、たすけてくださいいぃ……!』 『落ち着け、マザーも気が動転してるだけだ。お前が大切なのは、マザーにだって同じだから……説得してきてやるから、大丈夫だ安心しろ。大丈夫だからな……』 泣けば許してもらえると知っている小賢しい子供のように泣きじゃくる凛を、ビアンが後ろから抱きしめてくる。圧倒的恐怖のなか、凛は彼から放たれる強烈な感情の波を、肌が焼けるほど熱く感じ取っていた。 凛が狭いお仕置き部屋でひとり泣き腫らしているあいだ、ビアンはアンジュをどうにかなだめてくれていたようで。2時間ほどしてようやく、凛は再び陽の光を拝むことができた。 『今日はもう休みなさい』と声をかけてきたアンジュから受け取れる感情の波は、いつものそれに戻っていた。窮地に陥った自分を庇ってくれた、ビアンと同じ温かいもの。それはつまり、アンジュもビアンも、普段は凛に温かな心で接してくれているということだった。 しばらくはまともにアンジュと目を合わせられなかったが、彼女を母親のように恐れる凛は、どこにでもいる年頃の子どもと変わりなかった。むしろ、感情の波がいつも変わらないアンジュだって憤慨することがあるのだと、凛は彼女に対する認識を改めていた。無感情で奴隷を虐げて遊ぶのだろうと警戒していた凛は、毎日向けられるアンジュの愛情がいっそうありがたいもののように感じられてくる。信用してなるものか、と当初構えていた警戒心も、もうほとんど溶けてなくなっていた。 アンジュの逆鱗へ触れないようにだけ気を配りながら、凛はだんだんと彼女に懐いていった。あのとき取り乱した凛を庇ってくれたビアンには、さらに深い信頼を寄せるようになる。それが淡い恋心だと気づかされるのに、そう時間はかからなかった。屋敷の外までは同伴させてもらえなかったが、彼の部屋に入る権利は慣れないおねだりまでして勝ち取ったほどだ。 そうして信頼を寄せると、ビアンにちょっとした秘密も教えてもらえた。凛が落として殻を割ってしまった、トゲピーのアルシュ。彼女は年齢の割に知能の発達が芳しくなく、アンジュは幼稚園にも通わせず彼女らしい教育方法で育ててきたとのことだった。1日の大半を部屋に籠もって娘を見守り、"天使ちゃん"と呼んで溺愛しているのだとか。アルシュは体の発育も未成熟で、凛が砕いてしまった外殻は、自分で殻を作ることのできない彼女に外から着せられたものだったとのこと。「大丈夫だ、お前は何も悪くない」。頭を撫でてくれるビアンの長い腕の毛が、しきりにこそばゆかった。 それから数ヶ月と経たないうちに、凛の心変わりは身体にも表れた。3人家族のように応接間のソファでくつろいでいるとき、それは突然に訪れた。凛の体が光り出し、腹の底からエネルギーが吹き出してくる。全身を駆けまわる熱にくらくらした。 ぐんと背が伸びる。視点が高まって、見上げずともふたりの驚いた表情が分かる。2対に割れた頭の房、鉤型に延びた尾、しなやかに肉づいた四肢。腹回りにはクリーム色の&ruby(にこげ){和毛};まで生えてきた。それから、物やポケモンたちが纏う薄青色の&ruby(もや){靄};――きっと、いつもマザーが施しのときに見ている"波動"というもの――が、視覚に漂っている。 驚きに笑うアンジュが、熱い波動を放っているのが分かった。きっと、自分の進化を喜んでくれている感情。 『進化した……私、マザーのおかげで進化することができました!』 『その体で明日からしっかり働きなさい! 新しい仕事は、明日1日かけてじっくりビアンに教えてもらいなさいね』 掛けてもらえた言葉は相変わらず厳しかったが、弾むようなアンジュの口調はやはり、凛の進化を心から祝福してくれているもので。胸が詰まる思いだった。 リオルという種族は、誰かに絶対的な信頼を置いていなければ進化できない。誰も信じないと心に刻んでいた、奴隷だった昔を乗り切ったのだ。しきりに揺らされる凛の尻尾が、隠しようもない彼女の幸せを浮き彫りにしていた。 明日からはどんな日常が待ち受けているのだろうか。背も高くなったし、戸棚の上も掃除がしやすくなりそうだ。波動をうまく使いこなせるようになれば、マザーの施しをお手伝いすることだってできるかもしれない。高鳴る鼓動を押さえながら、凛は日付を回ってようやく眠りにつくことができた。 石畳の硬く冷たい感触に、凛はのろのろと甘い夢から目を覚ました。 視界に映ったのは、煤けた石の天井。鎖に吊るされたカンテラが、弱ったろうそくの光で狭い部屋をかすかに照らし出している。見覚えがあった。それはいつかアンジュに大目玉を喰らって閉じ込められた、お仕置き部屋だ。 体を起こそうとして、頭が強烈に地面へ引き戻された。見れば両手と両足首に、ひとつ10キログラムはありそうな石のバンドが巻き付いている。這いつくばるように体を持ち上げ、慣れない波動を周囲に飛ばした。 ルカリオに進化したのは、夢ではなかった。飛躍的に増強された波動の探知能力は、小部屋に染みついた感情を鋭敏に察知していた。絶望、恐怖、観念……未進化のリオルでもおぞましいと理解できたほど強烈な負の感情が、凛の視界で靄のように混ざり合っている。上下左右から迫りくる瘴気に、悲鳴をかすり上げた。 いや、初めてじゃない。凛は思い出していた。いつもすぐ近くで感じていた――自分だってそう思っていたはずなのに、ほとんど忘れかけていた感情。自らの生まれを呪う毎日の、奴隷たちのそれだ。忘れたふりをしても体に沁みついてしまった、忌まわしい記憶。 &ruby(ジャメヴ){未視感};だ。 目を覚ました凛を察したように、お仕置き部屋の石扉が外される。狭い階段を滑り下りてきたアンジュは、いつもの笑顔だった。おぞましい空間に普段と変わらない様子の彼女がいることに、ひどい異質感を覚える。アンジュの体から放たれている赤桃色の茨のような波動は――ルカリオになって間もない凛はそれがどのような感情であるか詳しくは分からなかったが――凛が進化した時に纏っていたものと変わらない。いつも信者たちに向けている熱い波とも同じ、愛情の塊だ。むしろ強まっている気さえする。 『ま……マザー、これはいったい……?』 『おはよう凛。ようやく進化しましたね、おめでとう』 『あの……あのっあのっ、私なにか悪いことしましたか……? っ、ごめんなさい、マザーごめんなさいもう気に障るようなことしませんから許して……ゆるして、ください……。お仕置き部屋は、いやです……こわいです……っ』 『あら、何を勘違いしているのかしら?』 尻すぼみに語気を弱めた凛の肩が、びくっと跳ね上がる。ふつふつと向けられる愛情が、ひたすらに怖かった。目を合わせられない凛に、アンジュが屈んで微笑んだ。 『ここが今日から、あなたの部屋なのですよ。私のアルシュのために、定期的にタマゴを産むことがあなたの仕事。ほらあの子、生まれつき肌が柔らかいでしょう? きちんと保護しておかないと、大切なアルシュに傷が付いてしまうもの。人工のものだとかぶれてしまうし、だからあなたには丈夫なタマゴを産んでもらわなくっちゃ。進化するまで待ったのですから、期待していますよ。せめて10回分は保ちなさいね』 後半アンジュが何と言っているか、凛はほとんど理解できなかった。一刻も早く抜け出したいこの部屋と、それを許さないアンジュの姿勢に挟まれて、もうほとんどパニックに陥っていた。脳を溶かす寄生虫に犯されているみたいだ。 そのまま階段を上ろうと背を向けるアンジュ。大きな翼に縋りつこうとしたけれど、重しの付けられた両手は磁石のように床石へ吸いついて離れない。命乞いをするように叫んでいた。 『どうしてマザー!? マザーは私を拾ってくれたんじゃないのっ? 惨めな私に同情して、愛情を注いで育ててくれて――』 『だから、何を勘違いしているのです』 &ruby(はんばく){反駁};を許さない切迫したアンジュの口調に、凛は次の言葉を飲み込んだ。愛情の波動をたぎらせたまま、その表情には限りない怒気が表れていて。噛み合わない感情に、凛はただ目を見開くだけ。 『ま、マザー……?』 『かいがいしく世話をしてやったのも、すべてあなたを進化させるため。だってあなた、リオルのままではタマゴを産めないのでしょう? 可愛い私の天使ちゃんのためにわざわざ大枚をはたいてあなたを買ったのに、信者どもから聞いて呆れましたよ。全く、ワタシとアルシュが幸せになる邪魔をしないでください』 異質感に飲み込まれ、吐いてしまいそうだった。さっきからずっと、アンジュは娘の話しかしていない。 『え、でも、だってマザーから出ている波はいつも温かくって、今だってこんなに強く感じているのに……。っ、そうです、私を拾ってくださった日に、マザーはおっしゃったじゃないですかっ。「女の子は誰でも幸せになるべきだ」って、背中で優しく櫛を通しながら――』 『それはワタシの大切な天使ちゃんに向けて言ったのですよ。そう、あの子は幸せにならなくちゃいけない。ワタシは何としてでも、あの子を幸せにしなければならないの』 『な……』 『そもそもあなた、女の子である前に奴隷じゃない』 『――っ』 違和感の正体に、やっと気が付いた。 愛情だと思っていたアンジュの感情は、&ruby(いっとき){一時};たりとも凛へ向けられたものではなかった。信者に施しを授けるのも凛をしつけたのも、すべて娘のアルシュのため。アンジュの視界には、みすぼらしい奴隷など初めから映っていなかったのだ。 愛を注がれていると、凛が勘違いしていただけだった。幸せになる未来なんて、初めからなかったんだ。 『それではビアン、後はきっちりね』 『了解』 入れ替わりで階段を下ってきたビアンが、いつもの怪訝そうな顔で凛を見やる。かろうじて四つん這いの姿勢を保っていた彼女は、指先でつつけばヌケニンのように潰れてしまいそうだった。 『その様子だと……ぜんぶ聞かされちまったみたいだな』 『……知ってた、の』 湿った床石に向かって零された凛のかすれ声に、ビアンがゆっくり近づいてくる。ずっとアンジュの執事をしていた彼は、どうしたって凛の味方になってくれるはずがない。 『そんなしょげるなよ。顔挙げて』 それでも、その優しい声に縋っていた。ダンジョンで倒れても誰かが救助してくれるはずだと祈る探窟家のように、最後には彼に頭を撫でてもらえるものだと盲信していた。ぬっと伸びてきた長毛の腕に、凛はハッと顔を上げる。アルシュの殻を割って泣きすさぶ凛を庇ってくれたときと同じ、赤と桃色の波動を靡かせて、ビアンはとても愛おしいものを見つめるような顔つきで―― ばしッ! 凛の頬を、したたかに打った。 視界がぐわっと歪んだ。床石の染みとまた見つめあいながら、凛は思考をはたき落とされたような気がした。遅れてやってきた左頬の腫れるような痛みが、自らの置かれた状況を再認識させていた。 『面倒だから先に言っておく。オレはね、女の子が絶望して泣き叫ぶところが何よりも好きなんだ』 いつもと変わらない調子で、ビアンが言う。心のどこかで、ああやっぱり、だから信じるなって言ったのに、と誰かが囁くのを凛は聞いた。それでもしがみつかずにはいられない。もう凛は、ひとりで生きてゆく信念を持ち合わせていない。 『な、なんでビアンまで――』 凛が口を開いた途端、ばちィ!! コジョンドの鞭が凛の肩口に打ち据えられた。被毛の薄い青地に、痛々しいみみず腫れが浮き出る。容赦のない2発目は、落としたタマゴのようにひびの入っていた凛の心を容易く打ち砕いた。 『奴隷が口答えするなよ』 『――、っ――――』 もう凛は泣くことさえ許されていなかった。波動を使うでもなく凛の心中を勘付いたように、ビアンが淡々と続ける。 『分かる、そうだよな。お前みたいな境遇になったら、誰だってそう思っちまう。「なんで私が、幸せをつかんだはずの私が、どうしてこんな薄暗い地下室で鞭を打たれてるの?」って、悲劇のヒロイン気取りになっちまう。どうしてだって? そりゃ単純だ、運が悪かっただけさ! 奴隷になんざ生まれてこなけりゃ、今ごろあったかい藁布団でスヤスヤできていただろうよ。大丈夫だ、お前は何も悪くない。お前がいま冷たい床の上にすッ転がって絶望しているのは、お前のせいなんかじゃないんだ。ただ単に運が悪かっただけ。諦めな。……それに、オレにとっちゃあそんなんはどうでもいい。オレはただ、お前みたいな多感な雌ガキを&ruby(いたぶ){甚振};ることができればそれでいいのさ。自分のことを"マザー"とか呼ばせるキチガイじみた宗教家についていっているのも、ちょうどいい隠れ蓑を見つけたからだ。安心しな、アイツと違って、オレはきちんとお前を愛しているぜ』 『…………』 にたついたビアンが凛の背に覆いかぶさってくる。首筋にかかるべとついた息、内股に手がいやらしく這わされて、凛は思わす脚をきつく閉じた。すかさずコジョンドの鞭が飛んできて、体毛の薄い&ruby(すね){脛};を打つ。浮き出た涙は、目元に這わされたビアンの舌に舐めとられた。ぞ、全身の毛が一気に逆立つ。 『新しいお前の仕事、その体に毎日じっくりと教え込んでやるから。……恨むなよ? どのみち初めからこうなる運命だったんだ。リオルでもタマゴを産める体だったら、手ひどく裏切られることもなかったがな。逆に考えろ、一瞬でもいい夢見ることができたって。奴隷にしちゃあけったいなご身分だろ。……前のコノハナは半年くらいだったかな。まぁせいぜい持ちこたえてくれや』 前の、と聞いて、とうとう凛は吐いた。きのう食べたシチューが、まだ暖かなまま&ruby(す){酸};えた臭気をまき散らす。甘かった人参も旨味のにじみ出る肉の欠片も、もう形を残してはいなかった。 何ヶ月もこの屋敷で過ごしてきて、凛は地下室の存在に気づいていなかったのだ。忌まわしいこの空間でどれほど女の子が助けを求めて泣き叫んでいようと、薄い床板を1枚挟んだ上の世界で、凛はのんきに信者へとお茶を出していた。幸せになれたんだと平和ボケしていた自分が、どうしようもなく馬鹿らしいし恨めしい。 彼女たちのそれからは、嫌でも想像できる。未成熟な体が度重なる妊娠と産卵に耐えられるはずがない。腹が破ければ、ビアンは次の少女を買いに行くだけだ。 『――っぎゃァ!?』 意識をそらせていた凛の房に、激熱が押し付けられる。見ると、ビアンが赤熱した鉄の棒を押し付けていた。 『へへ、いい声だ……。コジョンドの足形をつけてやったぞ。これでお前はオレの、オレだけのものだ……!!』 ようやく凛はすべてを理解した。 今までアンジュとビアンが発していた暖かな感情は、決して純粋な愛などではない。アンジュがアルシュに向ける熱意も、ビアンが凛に向けるまなざしも、初めから同じものだった。 桃紅色の強烈な波動は、独占欲。娘のためなら他のすべてを利用してやろう、幼い雌の体を好き放題壊してやろうと願う、歪んだ愛情の表出だった。 また、鞭が振り下ろされる。内股から腹を裂くような痛みに、凛は思考を放棄した。 ダンジョン『青の回廊』の最奥地で、コジョンドのフエは意識半分にそれを眺めていた。 地下室のような閉鎖的な岩間で、時間の花が咲き乱れる。その上に浮かび上がる、凛の過去のモンタージュ映画。彼女の波動が弱まったからか、蛍火のように輝いていた花たちは全てつぼみに戻っていく。あれからどのくらい時間が経過しただろう、岩壁にボーンラッシュで磔にされたまま、彼女がコジョンドを避けていた原因を嫌というほど教え込まされた。 破壊の限りを尽くした凛は、覚醒のラピスによるメガシンカも解け、瓦礫に顔をうずめてぐったりとしている。つい先ほどまで、凛は全身に裂創を負うことも厭わずに、彼女自身の過去を振り払おうとあがいていた。疲労の限界を迎えたようで、もううめき声しか聞こえてこない。 少しでも痛みを分かち合おうと抱きしめてあげたいけれど、フエが近寄っただけでまた凛は暴れまわりそうだった。そもそもフエにもそんな気力は残されていない。体力的にも、精神的にも、限界だった。 意識が飛ぶ間際、フエの耳に誰ともわからない中性的な声が届く。それを子守唄にするように、彼はがっくりと首をうなだれた。 「――凛さん、ですね? 初めまして。記憶を消す者、ジャメヴです」 *1-6.苦い思い出の肩代わり &size(8){2017/09/25更新}; [#2cMPOQW] *1-6.苦い思い出の肩代わり &size(8){2017/09/25更新}; [#hp6eCc5] 昨夜使わせてもらったロフトで、フエは意識を取り戻した。 気配を察知したように、立て付けの悪い階段がぎしぎしと鳴る。すぐに見慣れたルカリオの顔がひょっこりと現れた。 彼女にやられた腹の傷がずぐりと痛んで、フエは小さく呻いた。慌てたように凛が飛んできて、髭を垂らす彼のわき腹に手を添える。癒しの波動がゆるゆると広がった。 「動いちゃダメですっ、まだ塞がってないんですから!」 「ぅう……?」 その手つきに嫌悪感が全く現れておらず、フエはかえって戸惑った。 フエが最後に見た凛は、メガシンカのエネルギーに飲み込まれて、奴隷だった過去を振り払おうと破壊を繰り返していたはずだ。あのあと正気を取り戻したとして、トラウマを植え付けられたコジョンドと同じ種族のフエを、介抱したりはしないだろう。 そのはずなのに、すべてを水に流したように凛は親切にしてくれる。ダンジョンでも同じような状況に陥ったが、その時よりも距離が近かった。波動の力も強まっているみたいだ。 すっかり元気になったと示すつもりで、フエは冗談めかして軽く笑う。 「凛さんこそ……もう大丈夫なのかい、そんなに俺にくっついて」 「あ、あれ……、どうして私の名前を? お会いしたこと、ありましたっけ」 「いやだなぁ凛さん、いくら嫌いだからって忘れたフリなんてひどいじゃないか」 「……?」 「え」 いたって真面目な凛の様子に、フエは固まった。 凛は本当にフエのことを知らないようだった。一瞬目の前のルカリオが、凛に似た別のポケモンなのかと頭の隅をよぎったが、そうではない。彼女は「凛さん」と呼ばれても変な顔はしなかった。目くばせや話し声のトーン、なによりその笑い方が、ふと見せてくれた凛のものだった。 つぅ、と冷や汗がフエの長毛を伝っていく。彼の体調がまだ戻っていないと判断した凛が、なだめるように彼を布団に押し戻した。 「混乱しているんですね。無理もありません、ダンジョンで倒れていたのですから。私が助けてあげられたのも、たまたまそこを通りかかっただけですし」 「………………」 一方的にフエをリンチにしたことも、やはり彼女は覚えていなかった。混乱して、フエは口を開けたままあぐあぐと喘いだ。凛が怪訝そうにのぞき込んでくる。 もしやと思い、フエはおそるおそる尋ねる。 「……コジョンドを見るのは、初めて?」 「はいっ。鞭のような体毛に、しなやかな筋肉。同じ格闘タイプとして、憧れちゃいます! ……触ってみてもいいですか?」 「……嫌じゃないなら、いいけど」 ふわふわと腕の袖毛をいじられて、フエは危うく凛を突きはなしてしまうところだった。やっと彼女が好意的に思ってくれた嬉しさなんかより、得体の知れない恐怖感の方が勝っていた。フエの知っている昨日までの凛なら、アレルギーがあるのではと疑わしくなるほど鞭の腕から視線を逸らしていたから。 フエとの思い出だけではない。彼女の中から、むかし奴隷だった記憶まですっかり抜け落ちている。あれだけ苦しんでいた凄惨な過去など、無かったことになっているんだ。 忘れられたショックや、起こった出来事の異様さに頭の中が混乱の渦に囚われている。どうして、とそれしか思えなくなったフエの頭に、あの声がリフレインする。 ――『凛さん、ですね? 初めまして。記憶を消す者、ジャメヴです』 記憶を、消す。 意識が飛ぶ前に耳にした、あの中性的な声。きっと凛は、そのポケモンに記憶を消されたのだ。にわかには信じがたいが、そんな能力を持つポケモンだっていてもおかしくはない。 どんどん顔色の悪くなってゆくフエをぺたぺたと触診しはじめた凛、恋ポケのような距離まで顔を近づけてくる彼女を、フエはどうにか押し返した。 「――ありがとう、手厚い看病のおかげで、なんとか動けそうだよ。&ruby(・){初};&ruby(・){め};&ruby(・){ま};&ruby(・){し};&ruby(・){て};、凛さん。村のはずれに珍しい骨董屋さんがあるって聞いて、見に来たんだ。俺は旅をしているフエだ、よろしく」 「あ、私の名前を知っていたのは店の名前でしたかっ。元気になってよかったです、フエさん!」 「……」 元凶となっていたトラウマが抜け落ちてしまえば、凛はこうも明るい性格なのだ。忘れられる前のフエでは決して見ることのなかった幸せそうな彼女の笑顔に、フエは終始複雑な思いだった 昨日と全く同じメニューの朝食をもてなされる。世界を見て回っていると嘘を言うと、凛は骨董品に含まれている記憶を見せてくれた。波動を使うことにためらいがなくなったのか、巻貝の独楽から現れた淡い波動のリオルが、再びフエの前に現れた。 また森で迷ってしまった時のためにとサンドイッチまで持たされて、フエは店先で見送られる。軽くなったザックを背負って、小さな山小屋を振り返った。そういえばここは凛が住み始めるまでは誰がいたのだろうかと、ふとフエは思う。 「あのさ凛さん、もしよかったらさ」 「なんでしょう?」 「お、俺といっしょに――」 「?」 チームを組まないか。『青の回廊』でも投げかけたその言葉を、フエはぐっと飲み込んだ。後ろ髪を引かれる思いのなくなった凛は、もしかしたら縦に首を振ってくれるかもしれない。たとえ彼女と旅をすることになったとして、これからずっと初対面のふりをしなければならないのだ。何も覚えていない彼女に笑顔を向けられて、自分は耐えられるだろうか。自分だけが知っている、彼女の苦い思い出。それを肩代わりして生きていくのは、とても辛いことじゃないか。 「――いや、何でもない。今度こそ迷わないように気を付けるよ。介抱してくれたうえにお土産まで持たせてくれて、ありがとう」 「はいっ。骨董品店リンは買い取りも行っていますので、機会があればご贔屓にお願いしますね!」 「……」 『骨董屋リン』の看板の脇で深々と頭を下げて、頭を上げた凛が弾けるような笑顔を見せる。ふわりと浮いた房のひとつに痣が見えて、フエは喉を詰まらせた。 奴隷の印として刻み込まれた、コジョンドの足型の焼き印。凛が最も忘れたがっていた記憶の中で、猟奇的なコジョンドが彼女の房に鉄の棒を押し付けていた。きっとあれが、焼き&ruby(ごて){鏝};だったのだろう。記憶から消えていても、体に残された傷は彼女の過去を物語っている。 ざわつくフエの内心を敏感に察知した凛が、無垢な笑顔できょとんとする。 「フエさん、どうなさいした? まだ体が痛むのではないですか?」 「いや、大丈夫だ、これでいい、これでいいんだ……」 自分に言い聞かせるように呟いて、フエは言葉を続ける。 「――さっき見せてくれた巻貝の独楽、あれに出てきたリオルが、凛さんにそっくりだったよね。きっとあれ、凛さんの子供のころの思い出だったんじゃないかな」 「そんなはずはないですよ、だって私のお母さんは…………、あれ、あれ…………?」 「いや、そうに違いないよ! あんなに幸せそうな生活を忘れるなんて、凛さんも罪作りだなぁ! 凛さんはそうやって、そうやって育って、でも今はこんなところでひとり骨董屋をしているけど、いつかは家族のもとに戻って――」 「ちょ、ちょっとフエさん……?」 震えそうになる声をどうにか押さえつけて、フエは無理やり笑顔を作る。それは俺が持ち込んだものだ、とは言わなかった。独楽に封じられていたのは、凛とはまったく関係のないリオルの姿。注意深く見ればその記憶が大昔のものであることも、おそらく性別からして彼女がそのリオルではないことも気づいてしまうだろう。 それでも、消えた凛の記憶が戻らないのなら、それでいい気がした。彼女が勘違いして、どこか小さな村の、何も知らないリオルに成りすませるのなら、それが凛にとっていちばん幸せであることに違いない。できることなら、その痣にも気が付かないことを。 それから、フエの記憶にこびりついた、中性的なあの声。意識が飛ぶ間際、ジャメヴと名乗った訪問者が凛に接触しようと『青の回廊』の最深部まで追いかけてきていたのだ。 これは直感としか言いようがないが、そのジャメヴを探さなければならない気がした。なぜ凛の記憶を消したのか、ほかにも記憶を消して回っているのか。もしそうならば、どうしてそんなことをしているのか。世界のどこにいるかも分からないし、手掛かりなんてほとんどない。凛の記憶抹消を会って詰問するわけでもないが、胸にわだかまるこの記憶は、そうでもしなければ消えてはくれない気がしたのだ。 山のひらけた広場の一面に咲く時間の花が、ただ静かにフエの背中を見送っていた。フエの姿が森の端へ見えなくなるまで、凛はずっとお辞儀をしたままだった。 巻貝の独楽・終 巻貝の独楽編・終 ---- なかがき これにて第1章はおしまいです。続きは[[初めましてのジャメヴ・Ⅱ]]へ。 こんな感じの章のブロックがいくつか並ぶ作品になると思います。いつ飽きて終わっても後腐れないような形式ですね。続くことを私は祈っておりますが。 ---- 感想いただけるとこういう作品って続きやすくなりますよね(他人事) #pcomment