written by [[アカガラス]] 前編へ↓ [[スパイラル -鎔- Ⅰ]] ---- この物語には主人公という概念が存在しません。あしからず。 ---- &size(30){スパイラル -鎔- Ⅱ}; &size(25){スパイラル -鎔- Ⅱ}; ---- 今日はあの日から数えて4日目になる。あの日というのはつまり、アノンがコウの両親に初めて挨拶をした日のことだ。 ただ、小さく「こんにちは」と言い、コウのお母さんが触れようとした瞬間に二階に逃げてしまったことを挨拶したといえるかどうかはわからないけども。 それを機に多少人間慣れするかと思ったが、そう簡単にはいかなかった。二人とも話しかけはするしアノンも反応したりはするが、未だに触れることは出来ていない。 コウも4日前にアノンに関する&ruby(・・){全て};の説明をしたので、二人はそれなりの理解を示した。 コウの両親はコウと同じように融通が利くし優しいから、アノンを邪険に扱ったりはしなかった。 でもそれがアノンをいい方向に導いているかというと必ずしもそうではなかった。 アノンの心は一歩踏み出したまま、あまり動く気配をみせない。後退はしないが、前進もしない。 相変わらず俺や姉さんとは普通に会話していた。俺はいつかされた誘惑に近い悪戯がトラウマとなって、素直な気持ちで会話が出来なくなっていたけども。 そのときを思い出すと思わず身震いするが、同時にアノンが人間にも俺たちに見せるような表情で接することが出来るようになってほしいとも願う。 話は変わって、今日は土曜日だ。コウの学校は休み。コウの両親の会社も休み。普段できないことが出来る日だ。 俺とコウはフレンドリィショッピングセンターに来ていた。この国で一番名の知れているショッピングモールだ。 姉さんはアノンと一緒に家にいた。アノンとコウの両親を一緒にさせておくのは不安があるからだとコウは言っていた。 モンスターボールから出ると、雲ひとつない空から降り注ぐ灼熱の太陽光が、その巨大な建物のてっぺんにある『F』と青い字で書かれた看板を照らしているのを見つけた。 コウにFとは何かと聞くと、フレンドリィの頭文字なんだそうだ。 コウは一時間半も自転車をこぎ続けていた(らしい)ので、足もお尻も痛そうにしていた。汗だくだくだ。 自転車を駐輪場に停めると、コウは暑さを逃れるように自動ドアをくぐり抜けた。俺も遅れないように続く。 「ふう、やっぱ冷房が効いてるなぁ」 コウはまるで冷房に心から感謝しているという口ぶりでそう言った。俺はずっとモンスターボールの中にいたので冷房のありがたみはコウほど感じられない。 コウは自動ドアから歩いてすぐの、左側にある案内看板を指でなぞっていた。 「久しぶりに来たからな。ポケモン関連のグッズ売り場ってどの辺なのか忘れちゃったよ。確か三階だった気がするけど」 しばらくコウは唸りながらグッズ売り場の書かれている場所を探していた。 なぜわざわざ近くのコンビニや店に行かずにここへ来たかというと、ここでしか買えないものがあるからだ。 それはずばりモンスターボールだ。少なくとも俺たちの住んでいる町やその周りでモンスターボールが購入できるのはここしかない。 そしてなぜそんなものが必要かというと、アノンをその中に入れる必要があるためだ。 基本的に人間と一緒に暮らしているポケモンはモンスターボールに登録しておくことが推奨されている。 実はアノン、ポケモンセンターから家に来る間、モンスターボールには入っていた。でもそれは正規のモンスターボールではなく、医療用――怪我をしたポケモンを運んだりするときに用いられる非正規のボール((作中オリジナルのボール。何らかの原因でモンスターボールに入れられない(例えば野生ポケモン)ポケモンを持ち運ぶことができる。捕獲能力はなく、一度使えばモンスターボールとしての効力は失われる。ゆえに、一度正規のモンスターボールに入り登録が行われたポケモンでも入ることが可能となる))だ。 捕獲能力もないし、もちろん登録も出来ない。中のポケモンが望めば容易く外に出られる。何より使うと一回きりだ。 だからアノン専用のモンスターボールを買いに来たのだけれど……まず今の状態のアノンが簡単にボールに入ってくれるかどうかが怪しい。 ちなみに今のは全部コウからの受け売り。 「ルシア、行くぞ。エレベーターだ」 ようやくグッズ売り場の場所を見つけたのか、コウが俺を促す。 そのまままっすぐ進むとエレベーターがあった。その道のりでたくさんの人やポケモンとすれ違った。 大きな買い物袋を両手にぶら下げて重そうにしている男の人と、その隣を歩いている、米袋3つを肩に軽々と乗せているゴーリキーが印象的だった。 他にもたくさんの人やポケモンとすれ違った。笑顔が多い。 エレベーターに入ると、中には俺とコウ以外にいない。 コウが押したボタンは『5』のボタンだった。三階は思い違いだったらしい。どこからか機械的な声が「上へ参ります」と告げる。 コウは目的の買いにつくまでこのショッピングモールの&ruby(うんちく){薀蓄};を教えてくれた。 昔はフレンドリィショップという名前で全国に点在していて、ほとんどはポケモンと関連のある商品だけを売っていたらしい。 今のように何でも揃うこの国一番のショッピングモールとなたのは十数年ぐらい前からだそうだ。 再び謎の声が「五階になります」と告げ、ドアが横にスライドする。 間に飛び込んできたのは馬鹿でかいモンスターボールの置物だった。コウの背丈と同じくらいの高さだ。 一目見て、ああここはポケモングッズがメインの階なんだなと嫌でも気付かされる。 「こっちだ」 コウは右にまっすぐ進んだ。俺も隣について歩く。 ポケモンフーズ専門店の前を通り過ぎると、心地よい木の実の香りが鼻腔をくすぐる。 もしかしたらアクロはここでユウキに『シーヤの実』味のフーズを買ってもらったのかもしれない。俺もちょっとコウにねだってみようかな……。 歩みを止めかけたが、コウが隣の店に入って見えなくなってしまったので慌てて後を追う。 その店が今回の目的を果たすのに相応しいようだ。中には色とりどりのモンスターボールが棚に所狭しと並べられている。 店の前に立ててある看板にも色々書いてある。読めないけど、多分「たくさんボールが置いてありますよ」的なことだろう。 既にコウは色々なボールを手に取っていた。俺を手招きして呼び寄せる。 「これなんかどうだ?」 コウが手にしていたのは下半分が白、上半分が水色でその中央が赤く塗られており、黄色の縦の三本線が入ったボールだった。 正式名称は確か……ルアーボールだ。 「それ……炎タイプのアノンには……全然合わないと思うんだけど」 「いや、でもかっこいいじゃん」 とりあえずコウはモンスターボール選びにふざけたビジョンを持っていることは分かった。 「うーん……じゃあこれは?」 今度はその隣のコーナーにあったボールを手に取ってきた。 全体的に真っ黒で、上と下の分かれ目は赤く塗られていて、上半分のほうも上から見ると赤い輪が描かれているように見える。 これは名前を知らなかった。 「ゴージャスボールだって。中はとても居心地がよく、ポケモンは懐きやすくなります……らしいぞ」 「仮にそれに入ったとしてさ……アノンがそのボールの意味を知ったら……」 「やっぱりやめるか。これはちょっと違うよな。懐かせるためにボール買うわけじゃないしな」 二十分ぐらい悩んだ末に、結局普通のモンスターボールを買うことになった。価格は500円。昔はもっと安かったらしい。 駐輪場を目指して涼しい屋内を歩いている途中、コウは別の薀蓄を聞かせてくれた。 今は昔ほどモンスターボールでのポケモンの捕獲はしなくなったから、ジュヨウとキョウキュウとかいうよく分からないもののせいで値段がつり上がった。 今のポケモンの形態は、野生で生まれたら野生のままで生涯を終わり、人間のもとで生まれたら死ぬまで人間と一緒に生活する。 俺も物心ついたときにはコウの家で暮らしていたから、その話には納得した。 俺の両親もコウの祖父母のところで暮らしているし、後者のポケモンはその子ども、孫も生まれた家の次の世代とともに最期を迎える。 人間とポケモンにおけるあり方が変わってきている今、近い将来モンスターボールの持つ元来の意味は消滅するだろう。 コウはそういうことを冗談交じりに話した。俺にはどこら辺から冗談だったのかわからなかった。 自動ドアを抜けると、相変わらず太陽は俺たちを照りつける。 コウはこれからまた一時間半も自転車をこがなくてはならないという現実に直面しうなだれていた。 俺はコウにボールを出してもらい、その中に入る。 これからのことを考えた。最重要課題は、どうやってアノンにボールに入ってもらうかだろう。 俺と姉さんでうまく説得しなければならないと思うと、気が重くなった。少なくとも現時点では難しい。 何か策はないかを思考を巡らせているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。 &size(20){ ~}; 目が覚めるとぼんやりと白いものが床に置いてあるのが見えた。紙か何かだろうか。文字も書いてある。 私の目の前に置いてあるってことは、読めってことだろうか。面倒なことを。 やれやれと思って紙に目を通した三秒後、私の寝ぼけ眼は目薬をさしたように醒めた。目薬なんて使ったことはないけど。 『でかける。あのんのせわをたのむ。 こう るしあ』 私にも読めるようにひらがなで書かれた書き置きには、どうみても悪意が含まれているようにしか見えなかった。 部屋には寝ているアノン以外誰もいない。この調子だとコウは本当にルシアと出かけてしまったみたいだ。 壁に取り付けられている掛け時計の短針は8と7の間にいた。 こんな朝早くからあいつらどこに出かけたんだ。この家での生活や人にまだ慣れていないアノンを押し付けるなんて、身勝手にもほどがある。出かけるんだったら行き先とか目的ぐらい書いてよ。 ……イライラしてきた。『リーフブレード』覚えたらコウとルシアの顔をバラバラに切り刻んでやる。 「眉間にしわ寄せてると可愛くなくなるわよ」 「……! どうせ可愛くないもん」 いつの間に起きていたんだ。そしていつの間に背後に? 「ルシアがいないのはなぜなの?」 「さあ、なんでだろうね。コウもルシアもどこかに出かけちゃったみたいけど、行き先も何も聞いてないし」 「へえ、コウもいないのね」 目に見える変化として、ここ数日の間にアノンはコウのことを名前で呼ぶようになっていた。 それがアノンの気まぐれ、人間と呼ぶのが煩わしくなったのか、それとも多少なりともコウがアノンに近い存在になったのかはわからない。 願わくば後者であってほしいけれども、問題はそこまで簡単ではない。 「朝ごはん食べてもいいかしら。その……」 「いいよ。私も今起きたばかりだから食べてないし」 アノンが言わんとしていることは大体わかる。 おそらくコウの両親がいるであろう一階に一匹で下りていくのが嫌なのだ。怖いというのもあるだろう。 コウの両親とアノンが会話するのは、決まって私がその場に居合わせているときだ。 以前ルシアとそのことを話し、自分と同じポケモンが近くにいることが、アノンに一種の精神安定剤的な役割をしているのかもしれない、という結論になった。 やはりアノンの心を完全に開くためには、コウだけではなく私やルシアの力が必要不可欠なんだ。 「ああ、おなか空いた! 早く食べに行こっ!」 「あ、ちょ、ちょっと」 「どーしたの? 早くっ!」 コウに任せっきりじゃいけない。私が少しでも明るく振舞わなきゃ。 &size(20){ ~}; 例年にない酷暑で各地の海水浴場が盛り上がる中、&ruby(ひとけ){人気};のほとんどない寂れた海水浴場がある。 すでに閉鎖し、管理者も不在、大小さまざまなごみが散らかっているこの場所で遊ぶ人はあまり見られない。 今現在も、サーフィンの練習をしている男性と、貝殻や石などを拾って歩いている子連れの夫婦がいるだけだ。 そんなところに一人の男と、その連れのポケモンがやってくる。 男は長身痩躯、猛暑にもかかわらず黒い長袖の服とジーンズを身にまとっている。 露出している顔と手は一度も日に当たったことがないのかと思えるほどに白い。 その存在と今日の天気はまるでつり合いが取れていない。そもそも男がこの場所にいることが間違いではないだろうか。 ポケモンのほうは四足で立っている。特徴的なのは四肢についた足枷のようなものと背中を覆っている何本かの骨のようなもの、そして頭から生えている、後頭部方向にカールしている二本の角だ。 体の色はそれらを際立たせるかのような漆黒だ。 それがダークポケモンと呼ばれる所以は、その悪魔的な風貌からだろう。 ヘルガー――悪タイプを象徴するポケモンの一匹だ。 角の大きさから判断すると、どうやら雄のようだ。 海水浴場の入り口で立ち止まり、なにやら会話をしている。 「どうだ?」 「ああ、かすかに残ってやがるぜ、アイツのにおいがな」 ヘルガーはその発達した嗅覚で地面のにおいを嗅ぎ、誰かを捜しているようだった。 「ここまで来たのは間違いなさそうだな。どこに続いていそうだ?」 「方向からすると……林だ。林に向かったみてぇだな」 「よし、急ぐぞ」 「おい、俺はそんなに急げねぇよ。何日も前の雨でアイツのにおいはほとんど流れて消えちまってんだ。ここまで辿り着けたのだって奇跡だぜ? 俺の鼻に感謝するんだな」 ヘルガーの高慢な態度にも男は眉ひとつひそめることはしない。このようなやりとりが男とヘルガーの関係において特別なことではないようだ。 「……わかった。そのまま続行してくれ」 「ああ」 ヘルガーはその後も地面を嗅ぎながらゆっくりと歩を進める。 本人が言ったように目的のにおいが消えかかっているせいか、途中で何度も立ち止まり、そのたびににおいの続く方向を確認する。 男とヘルガーは林の奥深くへと進み、なおも目的のものを探し続ける。 地面を凝視し、神経を鋭く尖らせているその様は、何が何でも見つけるといった強い意思が感じられる。 やがて、ある一本の木とぶつかる。その近くには海へと注ぐ小川が流れている。 「……ここで完全に途切れてやがる」 ヘルガーは周辺をくまなく調べるが、それ以上の収穫はなく、諦めるように言った。 「だが姿はない……か」 男の表情は変わらない。終始無表情だ。 「ったく、結局これで終いかよ。ここまで苦労してきたのによぉ」 「そうだな、お前がもっとしっかり見張っていれば脱走させずに済んだかもな」 「うるせえ! 今そんなことは言ってねえだろうが! てめえも窓の鍵開けっ放しにしてただろうがよ!」 男の言葉に牙をむき出しにして反抗するヘルガーだが、やはり男は表情一つ変えない。 「……あいつがいなくなってから&ruby(ヤ){犯};るやつがいねぇ。ようやく俺好みに反応しだすようになったのによぉ」 「……そればっかりだなお前は」 「今でもあいつの喘ぎ声が耳から離れねえ。最高だぜ? 何度&ruby(ヤ){犯};っても締まりは緩くならねえし、孕ませる心配 もねえ。逃すのはもったいなさすぎるぜ」 「お前そればっかりだな」 男の表情がはじめて緩む。何を考えているのか推し量ることのできないような不気味な微笑みだった。 「ああ、考えただけで興奮してくんぜ。お前も必要だろ? ……鬱憤晴らしにな」 ヘルガーも不敵に笑う。その笑顔はまさしく悪魔そのものだった。 「ああ。……それより、ここで途切れてるのはどういうことだ? 死んで処分されてるなんてことはないだろうな?」 「アイツはこんなところでくたばるようなタマじゃねえ。必ずどこかで生き延びているだろうよ。だが……においが残ってない以上俺にはもうどうすることもできねえ。どうするよ……おい、聞いてんのか?」 男は考え事をしているようだった。あごに手をやるのは考えるときのしぐさらしい。 そして、何かをひらめく。すでに微笑んではおらず、再び無表情に戻る。 「なあ、他のにおいはないか? 例えば人間とか……ポケモンでもいい」 「ああ? ……ったく、しょうがねえな。」 ヘルガーはまた嗅覚に仕事させるのを嫌がったようだが、渋々承諾した。 もう一度木の周りを調べる。元来の気質なのか、入念に行っている。 男はその姿を、表情こそ変わらないが、期待の眼差しを向けるように見る。ヘルガーの能力に関しては絶大な信頼を寄せているようだ。 ヘルガーも口では横柄な態度をとっているが、それなりに男の期待に応えようとする。 そして……見つける。 「これは……気がつかなかったぜ。人間のにおいだ。そんなに年がいってるわけでもねえな」 「本当か?」 「しかもそれだけじゃねえ。ポケモンが一匹……いや、違う、二匹か。でも似通ったにおいだな。アイツにも近いような感じだ」 「すごいな。におい消えかかってるんだろ? そこまでわかるもんなのか?」 「はっ、俺をあんまりなめんじゃねーよ。そんなことより……」 「ああ、誰かに拾われたのは間違いない。余計なことを……大方予想通りだけどな」 男は唇を噛むが、すぐに止める。 「どうする。まだ調べんのか?」 男はまたあごに手を当てて考える。 「……いや、いい。それだけわかれば手掛かりなんて幾らでも探せる。そのうちシッポは掴めるだろう。今日のところはこれで終わりだ」 男は踵を返し、もと来た道を辿る。 ヘルガーもその後についていく。一度立ち止まって振り返り調べたところを見やるが、また歩き出す。 「逃げられると思うなよ……&ruby(リン){燐};……」 鳥肌の立つような禍々しい笑みの先にあるもの、それを知る者はいない。 &size(20){ ~}; 太陽が容赦なく照りつける太陽は俺の体力を容易く奪っていく。 自転車をこぎ始めて三十分も経っていないが、俺の青いTシャツはより深い色に変色していた。 気温は往路を通ったときよりも高い。何か飲み物を買っておくべきだったと今更ながら後悔する。それに替えのシャツも持ってきていないから、着替えることもできない。記事がべったりと肌に絡み付いてくる。俺の中の不快指数はどんどん上昇していく。 ボールの中は快適なんだろうか。もしそうなら俺もポケモンに生まれたかったなあ。今の俺みたいな苦労をしないで、ゆったりとくつろいでいるルシアを想像すると、ボールから出して走らせようかと考える。俺と同じ苦労を味わわせるために。でも仕返しを食らうのは目に見えているのでやめることにした。 ショッピングセンターのある町を出て海沿いの道に入る。人や車通りはみるみるうちに少なくなっていった。 ここからは潮風がそれなりの仕事をしてくれるので、快適に走れる。 左横のガードレールを越え、松林を抜けてそう遠くないところに、穏やかな波が立つ海が悠然とたたずんでいた。 何羽かのキャモメがそのはるか上を旋回して、独特な鳴きかたで調べを奏でている。 そういえば……アノンと初めて会ったのはここの海岸だった。サフュアと海で格闘していたらいきなりルシアが走ってきて、こっちに来て、とでかい声で呼ばれたのがまだ記憶にある。ルシアがあんなにでかい声を出せるなんて知らなかったな。もう少し進めば例の海水浴場が見える。 防砂林をすり抜けてきた潮風が、あのときのことを思い起こさせる。 林の奥のほう、近くに海へと注ぐ小川が流れていて、そこにアノンが倒れていた。 そう、ちょうど今見えてくる川の近くに立っている人のあたりに……人? あんなところに突っ立って何やってるんだ? ポケモンもそばにいる。数は一匹、四足歩行のポケモンだ。種族はわからない。防砂林がところどころ視界を遮っているし、そもそも対象が俺と離れた場所にいるからしかたない。 でも人のほうは、ずいぶんと異色な格好をしているのはかろうじてわかった。こんな真夏日に長袖長ズボンなんて頭がどうかしてるんじゃないだろうか。世の中変な人もいるもんだな。 いや、そんなことよりも家路を急がなければ。 サフュアも家でアノンの世話をしてくれているし……たぶん俺に文句を垂れながらだろうけど。 このひと時の天国も、海沿いの道を離れたら途端に灼熱地獄に変わってしまう。名残惜しいが、悠々とこいでもいられない。 俺は自転車を加速させて、風を切りながら自分の家へ向かう。 が、俺の前に行く手を阻むものが現れた。 『みちのえき バショウ』 バショウ――この町の名を冠した道の駅。道の駅とはすなわち休憩所、旅人のオアシスであるわけだけど……。 俺はそこでこぐのをやめて自転車を止める。右手に自転車を進めれば疲れた体を癒す休憩所が……。 いやだめだ、できるだけ早く帰らなきゃいけない。実は今日里奈が家に来ることになっている。 アノンを人に慣れさせるための計画の一環として里奈が協力してくれると言ってくれた。 今ここで道の駅に立ち寄るのは、里奈の気持ちを無碍にしてしまうことと同義なんじゃないか。 もし俺より先に里奈が家にいたら申し訳ないし、俺がいない状態でアノンと里奈が会うのは非常にまずい。 左手首につけている、汗で蒸れてうっとうしいことこの上ない腕時計を確認する。 時刻はちょうど11時を過ぎた頃だった。里奈が家に来る時間は12時半だったはず。 まあ、これなら多少休憩しても間に合うだろう。それにのどが渇いてしかたがない。家に着くより先に脱水症状がやってくるかもしれない。 悩んだ末に、俺は『みちのえき バショウ』の自動ドアをくぐることにした。 &size(20){ ~}; リビングの壁にかかっている時計の短針は11を指しているが、まだコウは帰ってこなかった。 朝早くから発っていったのに……もしかしてかなり遠いところに出かけているんじゃないだろうか。 だとしたらなおさら私を連れて行ってほしかった。 何でコウは私を連れて行ってくれなかったんだろう。私がお出かけが好きなのは知っているはずなのに。 しかもルシアはインドア派だ。どう考えてもコウは選択を間違っている。 「まったくもう……」 私は不満を垂れて、ソファの上でコウのお母さんがつけっぱなしにしているテレビを見ていた。 テレビの中の人は、真ん中で芸をしている人を見てげらげら笑っているのだけど、何が面白いのかまったくわからない。 人間とポケモンではユーモアの感覚が違うんだなあとしみじみ実感していた。 アノンは朝食を取り終えると、そそくさと二階の部屋に戻ってしまった。ルシアに負けず劣らずのインドアだ。 コウのお父さんはさっき会社から呼び出しを食らって、電光石火のごとく家を飛び出した。 電話口での会話を盗み聞くと、どうやら緊急の会議が開かれるらしい。休日なのに本当にご苦労様です。 そしてコウのお母さんは家の人々が出払っている間に、と意気込んで掃除機を使って家中を掃除し始めた。今はリビングを掃除中で、その喧しい音がテレビから発せられる音を遮っている。 まあ、大して面白くもない番組だし、音が聞こえようが聞こえまいがどうでもいいことだけど。 結局何をするでもなく、ソファの柔らかさに身をゆだねてうとうとし始めた。だんだんと騒がしい掃除機の音も聞こえなくなってくる。意識もゆっくりと沈んでいく……。 しかしそう簡単にことはうまく運ばない。家への来訪者を知らせる、木琴が高音でなったような音に目が覚めてしまった。 チャイムが鳴り響くのと同時に、コウのお母さんは掃除機のスイッチを切り、玄関へと続く廊下へ向かう。 「誰かしら? 何か荷物でも頼んでいたかしら」 私もコウのお母さんのように、宅急便か何かの類だろうと予測して、そのまま目を瞑って眠りにつこうとする。 しかし訪ねてきたのは宅急便なんかではなかった。 「こんにちはー」 壁越しに聞こえてくる声だけで、訪問者が誰なのかがわかった。 「あらまあ、久しぶりね、里奈ちゃん――」 紛れもなく訪ねてきたのは里奈だった。 「こんなところで立ち話もなんだから、入って」 コウのお母さんが里奈をリビングに連れてくる。 里奈はリビングを一通り見渡すと、わたしに気づいたのかつかつかと歩み寄ってきた。 その後ろにはいつの間にいたのか、ハルもいる。 「あ、サフュアちゃん、元気?」 「元気も何も、昨日も学校で会ってるよね」 「サフュア、あんまり真に受けないで。ここ最近頭のねじがどんどん緩くなって、痛っ!」 里奈がハルの後頭部に手刀を食らわす。もちろん手加減はしているはずだし痛いというのも嘘だろう。 何気ない会話を交わすうちに疑問に思う。 「でもどうして来たの? 最近全然ここに遊びに来なかったのに」 すると里奈は驚いたように目を大きく開いて瞬きをした。 「え、浩一から何も聞いてないの? あいつが家に来てくれって頼んできたのに。あれ、そういえば浩一はどこにいるの? トイレ?」 まったく何にも聞かされていない。コウはどこまで秘密主義者なんだ。いや、単に忘れていただけかも。 「コウは朝早くからどっかに行っちゃっていないんだ。ルシアもいないよ」 「えー!? ほんとに? ……やっぱり来るの早すぎたかなあ」 里奈がわかりやすくがっくりと肩を落とす。いささかオーバーリアクションだ。 「でもしょうがないか。本当は12時半に来てって言われてたんだけどね、2時過ぎから家族と一緒に出かけなきゃいけなくなっちゃってさ。だから早く来たんだけど……浩一の携帯に電話したんだけど出てくれなくて」 どうせコウのことだから、携帯はコウの部屋でごみが散乱している状態を形成している一部にでもなってるはずだ。 「でね、わたし、ただ遊びに来たわけじゃないんだよ」 途端に里奈は表情を引き締めて、私をまっすぐ見据える。今度はハルが口を開いた。 「サフュア、何度か学校でうちにポケモンが来たって話してたよね。確かアノン……だっけ? 私たちはそのポケモンに会いに来たの。」 頭に浮かんでいた疑問は消えた。最近コウが携帯で里奈らしい相手と部屋で話していたのを見かけたけど、そのことで話をしていたのかもしれない。 「でも……アノンって全然人間と仲良くなりたがらないっていうか……正直今のままで里奈と会わせるのはちょっと……」 思っていたことを率直に話すと、里奈はうーんと唸る。 コウのお母さんは掃除機をかけるのをやめて、洗剤やスプレーなどを準備し始める。トイレや風呂を掃除するらしく、足早に廊下のほうへ行ってしまった。 「コウのお母さんやお父さんとですらうまく付き合えてないのに……事情は知ってるからあんまり不都合はないんだけどさ」 「浩一からその話は聞いてる。なかなか難しい問題だよね。でもそれが目的で私たちは来たんだから」 話が水面下で進んでいたことを知らなかったせいもあるけど、ポケモンであるハルはともかく、アノンを里奈と会わせるとなると気が進まない。 そもそもことを起こすのが急ぎすぎではないだろうか。 数日前におばあさんのところへ出かけたときも、アノンは逃げてしまった。 アノン自身何か思うところはあったようだけど、少なくとも目に見える変化には結びついていない。 そのことを何分かにわたって話し合ったけれど、結局里奈をアノンに合わせることになった。 「結果はどうなるかわからないけど、行動は早め早めのほうがいいんじゃない? っていうか私だって頻繁に来れるわけじゃないし」 里奈の答えは単純明快だった。 二階に上がると、私たちの部屋のドアは開けっ放しになっていた。 「変に刺激しないでね」 わたしは着いてくる里奈とハルに小さな声で忠告して、部屋の前に立つ。 アノンは広い真四角の部屋の奥のほうに座っていた。ちょうど窓から差し込んでくる陽に当たっていた。 何もせずにただ佇んでいるだけで、退屈ではないだろうか。 「あ、サフュア、どうかした?」 アノンが微笑みながら質問を投げかけてくる。そういえば家に来たときより、アノンの笑う回数はわずかだけど増えた気がする。 しかし、すぐにその微笑みは消え失せ、怪訝そうな顔つきになった。 私の後ろから現れた里奈を見るなりこの表情だ。この来訪者を煙たがっているのは火を見るより明らかだった。 「こ、こんにちは……」 里奈はアノンの鋭い視線にたじろぐ。 次いで視線が私にも向けられた。余計なものを連れてくるなとでも言いたいんだろう。 「(どうしたらいい?)」 里奈が蚊の鳴くような声で尋ねてくる。 「(とりあえず入ってソファにでも座ったら?)」 私も同じような声の大きさで返した。アノンは私たちのやり取りを不審に思っているようだった。 里奈はおずおずと部屋の中へ入り、左手にある濃紺色のソファに座った。 里奈はその以下にも高級そうなソファに座ることにすら躊躇っているように見える。 そんなぎこちない動作の最中にも、アノンはわずかに後ずさって里奈から距離をとろうとしていた。 ハルは私の隣でずっとその様子を傍観していた。 「こんにちは……」 里奈が再度挨拶する。精一杯の笑顔で切り出したが、どこか引きつっている。アノンは案の定無視を決め込んでいた。 そういえば里奈には直接アノンの体の傷のことは言っていなかったけれど、コウはちゃんと説明していただろうか。 さっきからアノンの体を見ては何度も目をそらしている様子を見ると、事前には知らされてなかったみたいだ。 「何? さっきからジロジロと。傷痕がそんなにおかしい?」 「あ、いや……ご、ごめんなさい……」 アノンが静かに、しかしドスのきいた声で言う。脅しの口調そのものだ。里奈は早速自分が犯したミスに萎縮した。 最悪のスタートだった。 「結構手ごわいんだね」 ハルが私に耳打ちする。うん、そうだねと返すことしかできなかった。 しばらく居心地の悪い沈黙は部屋の空気を支配していた。 ほかの誰よりも耐え切れなくなっていたのは里奈だった。上を向きながら考え事をした後、おもむろに口を開いた。 「名前、アノンちゃん……でいいんだよね」 「……」 「いい名前だね」 「どうも」 何だこの会話。どこかの偉い人が言った、会話は心と心のキャッチボールだ、などという言葉が全否定されているような会話だ。 当然のようにアノンは里奈と目を合わせていなかった。 また同じような沈黙が流れて、同じように里奈が口を開いた。 「……私たち人間のこと、どう思ってる?」 いきなりその話題にするの!? いくらなんでも単刀直入すぎる。 「嫌い」 もうやだ帰りたい。ここが私の家だけど。 「うん、そうらしいね。浩一から聞いたよ」 一瞬アノンの瞼が少しだけ上に持ち上がった。人間の中では一番信頼されているコウのことを話題に出せたのは良かったかもしれない。 しかしすぐにアノンの表情は曇る。 「……私、浩一からアノンちゃんのことを聞いて友達になりたいって思ったの」 「私はなりたくはない」 「どうして?」 「あなたに話すつもりはないわ」 ピシャリとアノンに言い切られ、ひるんでしまう里奈。やっぱり里奈では荷が重過ぎる役目だったのかもしれない。 「じゃあ私には話せる?」 傍観していたハルが唐突に口を開いた。ハルも流石にこれ以上里奈には頼れないと踏んだらしい。 アノンは答えなかった。 「裏切られたから?」 里奈は、えっ、と驚いたような顔をした。それはアノンも同様だった。 「人間は自分の都合が悪くなるとすぐに手のひらを返すから?」 「……何言ってるの?」 アノンが声を震わせる。間違いなく動揺していた。それでもなおハルは続ける。 「アノン……アノンが思っているほど人間は悪いものじゃないと思うよ。そりゃ、中には悪い人もいるかもしれないけど、それが霞むぐらいいい人がいっぱいいるんだよ。多分あなたはたまたま悪い人間としか接してこられないような状況しかなくて」 「わかったようなこといわないで!!」 アノンの声が家中にこだまする。おそらく外にまで漏れ聞こえたであろうそれは、まるで地響きでも起きたかのような錯覚を起こさせる。 いったい何事なの、とコウのお母さんが階段を上ってくる足音が聞こえてきた。 アノンはハルに詰め寄っていた。眉間にしわを寄せて睨みつける姿は恐ろしいというほかない。 「あなたには到底わかるはずがない! 信じていた日常が全部! 全部嘘で塗り固められて! いつか変わると信じても何も変わらない! 私がどれだけ苦しもうと助けてくれる人は誰もいない! 人間は悪いものじゃない!? 笑わせないで! だったら私の体だってこんなに醜くなるはずがないでしょう!? 違う!?」 ハルはドアを背にして、アノンの狂気ともいえる態度に怯んでいた。 アノンは鬼の形相を崩して、しばし呼吸を整えた。 「だから……悟ったのよ。人間は信じるに値しない存在だって。信頼とか友情とか、そんなもの人間とポケモンを表面的に結びつけるだけで、簡単に壊れる。でもあなたは気づかないと思うわ。生温い環境の中で真に気づけることは何一つないのよ」 ハルは黙ったままだった。アノンに&ruby(けお){気圧};されて、口をつぐんでしまった。 それだけじゃない、どういうわけかずいぶんと気分の悪そうな様子だ。 「私はハルを裏切るなんてことしないよ」 アノンがソファに座ったままの里奈のほうを振り返る。 里奈は履いているひざ上までのスカートの裾を両手で握りしめていた。唇をぎゅっと結んで、フローリングに視線を落としていた。 アノンはそれをとても炎タイプとは思えないような冷めた目で見つめる。 「同じような言葉、以前にも言われたわ。本音だったのか、中身のない空疎なものだったのか、今となっては知る術はないけれど……いずれにせよ私にとっては虚言になってしまった」 「っ……事実はそうかもしれないけど……」 里奈は顔を上げ、今一度しっかりとアノンの顔を見つめる。 「わたしをあなたを傷つけた人と一緒にしてほしくない」 強い目だった。よく目にするおちゃらけた里奈からは想像できない目だった。 「私を信じてほしいとは言わない。偽善者ぶるなって思われても構わない。だからアノンちゃん……友達になろう」 開け放っていた窓から、さっと風が吹き抜けた。 いとも簡単に熱された空気をさらう。止まっていた時間は動き始めた。 「勝手にしたら?」 アノンは開けたままのドアから足早に出て行った。 ちょうどアノンと項のお母さんが廊下ですれ違ったらしい。 「ど、どうかしたの?」 ずっと硬い表情をしたままの私たちはそう声をかけられた。 果たしてアノンは里奈の言葉をどう受け取っただろうか。 嘘偽りのない言葉か、それとも虚飾に彩られた甘言と感じたのか。 里奈はすでに玄関の外で、ハルの用意ができるのを待っていた。 私は玄関で身支度をするハルと話し込んでいた。 「アノンは何やってるの?」 わたしは庭にいると思う、何をしているのかは知らない、と手短に答えた。 そんなことより、なんとなく疑問に思っていたことを伝えるほうが私にとっては重要だった、 「ねえ、さっき『裏切られたから?』って言えたのはどうして? やっぱりアノンの心が読めたの?」 ハルは、そんなわけないでしょと首を振る。 「わたしは人やポケモンの感情を読み取ることはできるけど、心とか考えてることを読むことはできないよ。ごく稀にそんなことができる私と同じラルトス系統のポケモンもいるけどね……。でも私には彼女の感情が形としてとして視えた。だからなんとなくこうなのかなって思ったことを口にしただけ」 「形? 感情にも形なんかあるの?」 「あくまでもイメージの問題だけどね。私が視たのはぐちゃぐちゃなヘドロみたいな塊があって、その中心にしこりみたいな硬くて小さな真っ黒いものがあるの。それが見えたとき正直言って吐きそうだったよ。知ってるでしょ? ラルトス系統のポケモンは周りの生物がどんな感情になってるかで自分自身の感情とか体調にまで影響するの」 ああ、だから気分の悪そうな顔をしていたのか。 ハルの言う見えるとかイメージだとかは私にはわからないが、最終的にハルが言いたかったことはなんとなくわかった。 ハルが吐きそうになってしまうくらいの負の感情の塊がアノンの心の中にはあるんだ。 「はぁ、やっぱりアノンを立ち直らせるのは無理なのかな……」 ハルの話を聞いてると、これ以上私たちに何ができるのかと思ってしまう。 結局何をやっても変わらないんじゃないか、と諦めてしまいそうになる。 でも、そんな私の落胆を払拭したのもまさしくハルの言葉だった。 「そうでもないよ。泥はしつこくこびりついてるみたいだけど、たくさん削れた跡があるから」 「……どういうこと?」 「そのままの意味だよ。サフュア、ルシア、そしてコウイチがいることで憎しみの感情は少しづつなくなってる。たとえるならやすりみたいなものだよ。表面をずっと削り続ければ、やがて小さくなって、終いにはなくなる。わかるよね?」 ハルが婉曲な言い方をするときは、決まって私を元気づけるときだ。本当に少しでも力に慣れているのかな……。 「急がなくてもいいんだよ。あまり悲観しないで。私も里奈も協力するし、それでもだめだったら頼もしい友達だっているんだからね」 「うん……ありがと」 「ハルー、もう行かないと用事に間に合わなくなっちゃうよー!」 ドア越しに聞こえてくる里奈の声がハルをせかす。 「もう行かなきゃ。あさって学校で会おうね!」 「うん! バイバイ!」 ガチャリとドアノブが回って完全にドアが閉じるまで、私は見送り続けた。 心配事が全てなくなったわけじゃないけど、今日はハルのおかげで幾分か気持ちに余裕ができた。 わたしはハルのような信頼できる友達を持てて幸せ者なんだな。 そしてハルには里奈、私にはコウのような信じることができるパートナーがいることも同じように幸せなことだ。 改めて、アノンを立ち直らせてあげたい、そんなふうに思った。 何十分か経ったあと、汗にまみれた汚らしいコウと涼しい顔をしたルシアが帰ってきた。 きっちり3発づつ『葉っぱカッター』をお見舞いしてやった。 道草食ったとか寝てしまったとかそれぞれ言い訳したので、もう何発か食らわせることになりそうだ。 &size(20){ ~}; 久しぶりに姉さんの技を食らい、体中に切り傷ができた。道理もわからないうちに攻撃されたから、まともな盾を作ることはできなかった。 アノンのためのボールを買ってきたんだと言うと一瞬だけ動きが止まったけど、すぐに攻撃は再開された。 言い訳無用といったところか。 姉さんに物理技を持たせるのは、人間にたとえれば刀と拳銃で武装させているくらい危険だ。 ブラッキーとして防御能力にはかなり自信はあるけど、生まれ持った才能に、これ以上ないってくらい磨きまくった姉さんの攻撃力には及ばない。 才能だけでは、姉さんに勝つことなど夢のまた夢なんだと思い知ったし、コウと一緒に行動すると何かと姉さんの逆鱗に触れてしまうから、今後は目をつけられそうな立ち振る舞いは控えるようにしようと思った。 やっぱりインドアが一番だ。 姉さんは自分が外へ連れて行ってもらえなかったことに相当気が立っているようで、特にコウに関しては体と着ていた服が大惨事に見舞われた。おそらくその青いTシャツと半ズボンが日の目を見ることはもうないと思う。冥福を祈る。 一日もほとんど終わり午後8時を回った頃、俺と姉さんは落ち着かない気持ちで過ごしていた。 姉さんはいつもどおりリビングのソファを陣取って、&ruby(ピロー){枕};に顔をうずめていた。 俺はソファのそばで姉さんの付き人であるかのように床に座っていた。 「……本当にモンスターボールに入ると思う?」 姉さんに刻一刻と迫る今日の最大の修羅場がどうなりそうなのかを尋ねる。 俺たちは、コウが学校にアノンを連れていくべく買ってきたモンスターボールに果たしてアノンが入ってくれるのだろうかという不安でいっぱいだった。 「どうだろ。今日の様子見てる限りじゃとてもじゃないけど……」 姉さんはそこで言葉を切った。その後を続ければ、砂粒ほどの希望的観測も消えてしまうかもしれないと恐れているみたいだった。 事の顛末は姉さんが話してくれたが、アノンの怒鳴り声が相当凄かったらしい。 姉さんが終始怯んでいたぐらいなんだから、遊びに来た里奈とハルには災難としか言いようがない。 アノンとポケモンセンターで&ruby(ふたり){二匹};きりになったときのことを思い出す。 俺は……怒鳴り声とは言わないまでも、その異様な雰囲気に飲み込まれそうになった。 もしそのときにちょっとでも及び腰になっていたら、アノンがこの家に来ることもなかったかもしれない。 「はぁ……里奈もハルも特に言わなかったけど……結局ほとんど何もしないで帰しちゃったからなあ。学校で会ったら謝ったほうがいいかなあ……」 「……コウがいなかったし……しかたないことだったんだよ」 「ボールの中で悠々と寝てた馬鹿に言われても釈然としないし、単にむかつくだけだから」 姉さんは栗色の瞳を細めて、横目で俺を睨んだ。 まだ根に持ってたんだ……。教訓その壱、やっぱり姉さんに喧嘩を売る、またはそれに類する行為をしてはいけない。 でも馬鹿はないだろ、馬鹿は。そんなこと言われたのは何週間ぶりだ? 小さいときはもっと頻繁に虐げられてきたから幾分かはましになったけれども。 「……で、肝心のコウはどこにいるの?」 疑問符が頭に浮かぶ。 と同時に、ドアについているガラスをすり抜けたリビングの明かりが微かに照らしている廊下から、水の流れる音が聞こえてくる。 間もなくして、コウは意気揚々とリビングに乗り込んでくる。 「よし、準備完了」 何が準備完了だ、はしたない。さっさと手を洗ってほしい。 そんな願いは叶わないまま、コウはテーブルの上に置いてある紙袋の中身を漁りだした。 その中には今日のイベントの主役とも言えるものが入っていた。 コウはそれを何か神々しいものにでも触れるかのように大事に取り出した。 まっさらで、磨かれた表面が天井から降り注ぐ照明の光を薄く反射している。勿論俺や姉さんの古くなったものとは違い、傷や汚れなどは微塵もついていない。 アノンがそれに入るのだとしたら、ちょっとだけ羨ましい。 いよいよ始めるんだな、と心を引き締めたとき、唐突にコウはこんなことを切り出した。 「お前らはついてこなくていいからな」 俺も姉さんも「は?」と素っ頓狂な声を上げた。 「え? いや、だからさ、俺一人でやるからお前らは何もすんなよってこと」 「いや、ちょっと待ってよ」 先にコウの行動に異を唱えたのは姉さんだった。 「一人でやるって……何考えているの? コウだけの問題じゃないでしょ。今自分一人でかっこつける必要なんてどこにあるの?」 「かっこつけてるんじゃないって……」 コウは気だるそうだった。自分のやりたいことを無条件で認めようとしない姉さんを疎んでいるようだ。 「だってそうでしょ? アノンを助けるためにはたくさんの力が必要だから今日も里奈を家に呼んだんじゃないの? ねえ? もしかしてすっぽかしたのも周りの協力は必要ないって思ってるから?」 「いや、それはちょっと違うんじゃ……」 姉さんがあまりにも激しくまくし立てるので横から中和剤を入れてみるが…… 「あんたは黙ってて!」 俺は姉さんに頭突きでもされるんじゃないかと錯覚してしまうくらいの剣幕で怒鳴られた。 ……里奈とすれ違ってしまったのは単に道の駅での昼寝が間延びしてしまっただけで、決して故意ではない。 むしろコウは後悔さえしているくらいだ。 「ちょっと、大声で喧嘩をするのはやめなさい! 近所迷惑でしょ! 喧嘩は一日一回までにしなさい!」 コウのお母さんが台所で食器を洗いながら実にいいタイミングで割り込んでくれた。 基本的に俺も姉さんもコウも(コウのお父さんも)コウのお母さんには頭が上がらないので、一騒動起きてもその鶴の一声でピタリと止んでしまうのだ。 最後の一言はこの家の事情を熟知したものにしか理解できない難解な言葉だ。 姉さんも少しは頭が冷えたのか、目を伏せて黙り込んだ。 まったく納得していない、憮然とした表情だった。 そんな姉さんに、コウはしゃがんで目線の高さを姉さんに合わせた。申し訳なさそうな顔をしている。 コウはしばらくの間黙り続けたあと、ゆっくりと口を開く。 「……もし俺がサフュアにそんな誤解をさせていたなら謝るよ、ごめんな。別にアノンを助けるのにお前らの協力が必要ないなんて思ってないよ。里奈には悪いことしちゃったしな。……本当は一緒についてきてほしいと思ってる。むしろお前らに全部任せてしまいたいくらいなんだよ」 コウから予想外の言葉が飛び出し、姉さんは驚いたのか伏せていた顔を上げた。 そのときのコウの表情、果たして姉さんにはどんな風に映ったのだろうか。 少なくとも俺には、不安以外のものは感じられない。 「でもさ、そうするとたとえアノンがボールに入ってくれたとしても、俺を信頼したからなのか、それともただルシアとサフュアがいるからとかそんな曖昧な理由で入ったのか……わからなくなっちゃうんだよ」 コウの瞳がわずかに揺れる。 「だから……これは俺にとっての試練なんだ。……正直言って、アノンと本音で会話ができるサフュアたちが羨ましい。早くサフュアたちのようにアノンと触れ合いたい。でもそのためにはまず、アノンを無理にでも引き取った責任として、しっかり認めてもらわなきゃならないんだ。そのためにはお前らの力を借りないで、&ruby(サシ){一対一};で向き合わなきゃいけない。そうじゃないと、お前らにも、アノンにも、……アノンをここに居させてくれることを許してくれた親たちにも失礼だからな」 コウに思いがけない心情を吐露された俺は、……多分姉さんもだが、気づいた。 もともと俺や姉さんはコウには手に入れることのできないアドバンテージを持っているんだ。 それがここ数日の間にどれだけコウを悩ませてきただろうか。 本質的な部分で俺も姉さんも間違いを犯していた。結局コウの気持ちなんか理解していなかったんだ。 姉さんの頭を撫でたあとにゆっくりと立ち上がり、階段のある廊下へと向かった。 その後ろ姿に、いつもの『いい意味で』の根拠のない自信は見えなかった。 俺も姉さんも、ただ離れゆくコウを見守ることしかできない。 けれど、そんな状況の中で妙に楽観視している自分がいた。 コウ自身はアノンにまったく信頼されていないと思っているらしいけど、実はそうでもなかったりする。 ポケモンセンターで、確かにアノンは人間のことを信用することはできないと言った。それは間違いなく本心から出た言葉だと思う。 でも、コウの温かさに触れてしまえばそんな決心も砂の城同然だ。 アノン自身も、コウのことを中途半端に許容してしまっているのは自覚しているだろう。そしてそんな自分を頑なに拒むこともない。 ……もしも昼間の一件が、アノンの人間に対する敵対心を煽るような結果に終わってなかったとするなら、ボールに入ってくれるか否かの確率は五分五分といったところだろう。 ここまできてしまえばあとはコウ自身の問題だ。いかに自分を信頼できるか。いかにアノンを信頼できるか。 ありったけの気持ちをぶつければ、そうそう悪い結果にはならないはずだ。 姉さんに期待するという気持ちはあまりないようだけど、それでも俺は信じたい。 コウなら、……絶対にできる。 &size(20){ ~}; 手を握り締めると、じっとりと汗が滲んでいるのがわかる。緊張の度合はほとんどピークに達していると言っても過言ではない。 少し深呼吸をして、心拍数を整える。少しは落ち着いただろうか。 気持ちは十分に奮い立っているけれど……。 もしモンスターボールが突っぱねられたら? これを気に二度と仲良くはなれなくなったら? いろいろな「もしも」が頭の中を駆け巡り、胸の中で蠢いている不安を引きずり出そうとする。 「で、さっきからあんたは何がしたくてそこに突っ立ってるの?」 「え? あ、うん……」 「うん、じゃないんだけど」 アノンは訝しげに俺の右手に収まっているモンスターボールを見つめる。 俺は部屋の前で立ち止まって、引きこもっているアノンにまずどんな声を掛ければいいのかわからなかった。 アノンにはそれこそ俺を&ruby(かかし){案山子};か何かと思ったことだろう。 見かねたアノンに先に話しかけられてしまった。 「私に用があってきたんでしょ? 用件を話しなさいよ」 「あ、ああ……」 結局アノンの圧力で部屋に一歩踏み込むことにはなったものの、やっぱり話を切り出すことができない。 迷った末に、とりあえずソファに座ることにした。とにかくリラックスできなければ話にならない。 部屋の中央に居座るアノンとちょうど対峙するような形になる。 長い沈黙に、アノンはいささか疲れたような顔をした。いや、実際に疲れているのかもしれない。 サフュアの話から察するに、今日のアノンはだいぶストレスを抱え込んでいるようだ。 俺はそんなアノンを刺激しないように慎重に言葉を選ぶ。直接的に話を持ち込むのは厳禁。あくまでも回りくどく、遠まわしに。 「あー、……そろそろうちには慣れてきたか?」 数秒間の静寂。 「……まあ」 よかった。さわりは一応合格点といったところか。 「サフュアとルシアとはうまくやれてるか?」 「そこそこ。別に問題は無いわ」 今度はすぐに答えた。わずかに目をそらしてはいるものの、出会った当初と比べればかなりの進歩だ。 もう一度深呼吸。喋るたびに上がりそうになる心拍数を押さえつける。 まだ核心をつくのは危険すぎるけど、そろそろ一歩踏み込もうか。 「……俺が無理言って……アノンを引き取ったけど、どう思う?」 ……どう思う? って本人に直接言ってどうするんだ俺。核心に触れないとはいえ、いささか踏み込みすぎてしまった感が否めない。 「正直言って迷惑」 ピシャリと言い切られた。まあ、最初から期待はしていなかったけれど、こうもオブラートに包まないで言われると堪えるものが……。 「……って思ってたけど、今はそれほどでもない」 「え……?」 まさか、アノンが発言を翻すとは思わなかった。期待していなかった分だけ嬉しさがこみ上げる。 「勘違いしないで。思ってたよりは、って話だから。あなたに期待していることはあまりない。私を助けてくれた点では評価するけれども」 それでも俺がアノンにちょっとでも認められたと言う事実に気持ちが躍る。が……、 「でもあんまり上から目線でものを言うなよな」 「だってここに連れてきたのはあなたじゃない。必ずしも私が望んでいたことじゃないわ」 確かにそうだけども。……俺が正しいと思ったことはアノンにとって正しいとは限らないってことか。 俺はしばし押し黙っていた。俺の引いた直線とアノンの引く直線は交わってはいないのだ。 俺の気持ちとアノンの気持ちは一致していない。やはりどうにも縮めることのできない距離があるのだ。 大きな一歩を踏み出せたわけではない。半歩、いや、四分の一歩くらい。 三度の深呼吸で、俺は深くソファに沈みこむ。アノンから視線を外して天井を仰いだ。 そうしてだいぶ熱が抜けきった頃、何を思ったかアノンが突然話し始めた。 「生き物って複雑よね」 俺は黙って天井を仰ぎ続ける。単純に返す言葉が見つからなかったものあるが、それ以前にアノンが積極的に話しかけるなんてことがほとんどなかったから、アノンの言葉を遮りたくなかったというのもある。 「生き物ごとに存在そのものが良い・悪いと何かの基準で示されていたら、どんなに楽なことか。最近そんなことばっかりすっと考えてるの。例えば、ポケモンはみんな良い生き物で、絶対に信じたら裏切らないし、常に私の心を満たしてくれる。他方で人間はみんな悪い生き物で、すぐに裏切るし、永遠に私の心を蝕み続ける。そうしたら、信じるのはポケモンだけでいいし、人間のことは憎むなり無視するなり……まあ関わらないようにすればいいだけだと思う」 ずいぶんと突飛な発想だな。アノンのような辛苦を味わっていない俺には到底できない発想だ。 「でもそれは私のそばに私を苛める人間しかいなかったから今までそんなふうに考えてもよかった。というかそう考えなければやりきれなかったから。……本当はわかってるつもり。依然私が住んでいた世界はものすごく狭かったってこと。そういう考え方は間違ってるってことをね。あなたを初めて見たときからそう思ってた」 天井板の模様が不意にぼやけた。 ああ、そうか。きっと大丈夫なんだ。直線同士はまだ交わってはいないけれど、平行線じゃない。 諦めずに描いていけばいつかきっと交わるんだ。 「でもね、まだ完全には受け入れられない。まだ足りないの。本当に私が信用して生きていける世界なのかわからない。サフュアは私を優しいおばあさんのところへ連れていってくれた。今日来たあなたの友達も、ひどいことを言ったのにもかかわらず私のことを想ってくれていた。凄く嬉しかった。でも、やっぱり怖い。どこかで裏切られるんじゃないかって……」 そこでアノンは一度言葉を切った。多分哀しそうな表情をしているんだろうな。 そんな顔、もうしなくてもいいのに。 「……そりゃ怖いよな。ずっと酷い仕打ちをされてきたのなら尚更……。でもまあ俺が言うのもなんだけど……そんなに心配しなくてもいいよ。何があっても俺が守るし、サフュアやルシアもいる。不安があるならみんなに頼ればいいよ。そうやって少しずつ慣れてけばいいから……」 自分でそういって苦笑した。俺が守るって……なんだか正義のヒーロー気取りみたいだ。 俺はソファの背もたれに預けていた首を起こした。 「そういやあまり期待していないなんていってたけど……結構期待してるじゃん」 アノンは俺からさっと目をそらした。 「何が? 全然期待してないわよ」 素直じゃないな、本当に。これは世間で言うところのツンなんとか(忘れた)と判断していいのだろうか。 いや、断じて恋愛対象ではないけれど。そんなことしたら現行法に抵触するおそれがある。 「ふう……そんなことよりも。もっと大事な用事があるんでしょ?」 アノンもうすうす感づいていたようで、俺は言われて思い出す。危うく忘れるところだった。 俺はソファの背もたれと座面の間に挟まったまま身動きの取れなくなくなっでいたモンスターボールを引っ張り出した。 また緊張感がぶり返すが、不快ではなかった。むしろ心地いいとさえ感じていた。 「じゃあ改めて」 「早く言いなさいよ」 これはもう完全なツンだな。なんとか(忘れた)はもう拝めそうにない。 気を取り直して四度目の深呼吸。 「……アノン、俺のポケモンになってくれ」 「ボールになら入るけど。あなたの所有物にはならな……」 俺はアノンの屁理屈が言い終わるか言い終わらないかのうちに、そっと下手投げでモンスターボールを投げた。 ボールはアノンの頭に当たり、跳ね返って宙に浮く。 ボールが開く。赤い光線が出る。 アノンは「痛っ」と小さな悲鳴を上げて、ボールの中に吸い込まれていった。 ボールはカチッと閉じて、カーペットの上に着地した。 一回、揺れた。 二回。 三回。 ……止まった。 俺はゆっくりと静止しているモンスターボールに歩み寄って、しっかりと右手で掴み、拾い上げる。 なんだろう。達成感というか……ようやく大事なことをやり遂げることができた安堵感というか。 もちろんアノンがただボールに入ってくれただけで、まだ始まったばかり。達成感なんて気が早いけれど。 やっとアノンに認められたんだ。 おもむろにボールのスイッチを押す。 赤い光線とともに……いや、なんだかオレンジ色の火花みたいなものが……火花? 「あっちいいいいいいい!!」 「痛かったじゃないの! 何頭にぶつけてんのよ!」 アノンは出現すると同時に『火の粉』を繰り出したらしく、俺の顔面および髪に命中した。 「いてええええ! 何すんだよおお!」 「あなたがもっと気をつければいい話でしょ!?」 「なにやってんの、いい加減にしなさい!」 下の階から母さんの声が聞こえてくるのも毎度のお約束。 ちなみにその日、俺は寝る寸前まで焼けて縮れた髪の毛を一本一本取り除く作業に追われた。 こうして、正式にアノンは俺の家族となった。 嬉しいけれど、扱いづらいポケモンが家に三匹もいるのはなかなか考えものだ。 しかし本当に喜ぶのはまだまだ先のこと。今は長い道程を歩き始めたばかり。 アノンを真の意味で束縛から解放してやれるのは俺なんだ。 精一杯やる。それだけはしっかりと胸に刻んでしまっておいた。 &size(20){ ~}; どんなに頑張っても自分に素直になるのはやっぱり難しい。 コウに指摘されたとおりなのだ。期待していないなんて真っ赤な嘘だ。 初めてコウに会ったときから、自分でもよくわからないようなもやもやとした気持ちがあった。 それが二度と信じないと誓ったはずである人間に対して既に何らかの期待感を持ちはじめていたこと、なんて絶対に認めたくなかったのかもしれない。 昔からそうだったけど、つくづく自分の気持ちに反して強気を押し通していたように思う。 それがある意味で自分自身を苦しめることになるとも信じることができなかった。 未熟だった。どんなに苛められても、ただ主人にすがらなければいけないと妄信し、私の体が巨悪に蝕まれることを許してしまった。 どこかですっぱりと諦めがついてしまえば、すぐに逃げ出すことも可能だったし、ここまで体が傷つくこともなかった。 いくらでも主人――人間を殺せるチャンスはあった。実際人間が本気を出したポケモンの技を受ければひとたまりもない。 それをしなかったのは、心のどこかでまだ信じていたいと願っていたから。いつか昔のように元に戻ってくれると思っていたから。 人間は私にそんな心の甘さ、隙間があることを知っていた。そして冷酷にもそれを利用したのだ。 だから余計に許せなかったし、人間など二度と信じないと誓った。 機会が巡ってきたら、道行く人間たちを焼き殺しながら歩いて回ろうなんて馬鹿なことを本気で考えていた。 実行に移すだけの勇気はまた別のところにあったようで、何とか理性がふざけた真似はするな、と制してくれてはいたが。 もちろん止めたのは理性だけではなかったのだが、冷静さを欠いた私に気づける余地はなかった。 ……今までの私は、確かに私は愚かしかった。 しかし今回ばかりはそんな自分の甘さにも感謝せざるを得ない。 もし人間との縁を完全に断ち切りたいと思っていたなら、……出て行くときにモンスターボールを&ruby(・・・・・・){壊さなかった};はずだったからだ。 かつての主人から逃れることさえできれば、他人のモンスターボールに入れられることもない。 当時の私になせボールを壊したのかと問えば、多分気まぐれだ、とでも言うのだろう。 しかしそれは間違いなく、どこかであの安らいだ日々が忘れられなかったからなのだと思う。 そう、……まだ忘れることはできないのだ。 ---- 次へ→ スパイラル -鎔- Ⅲ ---- 最終更新日 10/11/09 ---- 感想等ありましたらどうぞ↓ #pcomment