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ふらいとらべる5 どうぶつ盛りだくさん の変更点


 ふらいとらべる5 

 作[[呂蒙]]

 序章 またも出発前に大事件

 冬に北の大地を訪れてから、一旦は終息の兆しを見せたものの、世界中に広がってしまったウイルスはしぶとかった。気が緩んだのか、はたまた詰めが甘かったのか、旅の代金に助成をつけるというキャンペーンをやった結果、春よりもひどい状況になってしまった。
 そうは言っていないけれど、実はもうそういうことなのかもしれない。国のお偉いさんが出てきても、言っていることは要約すると「政府は間違っていない」「予算は出したくないし、万策尽きたから、あとは各自で何とかしてくれ」とのこと。
 それならそれで、個人で最善を尽くすまで、と結城も思っていた。
 そんなある日のこと、アルバイト先で、仕事が終わりバイト仲間と雑談をしていると、上司から呼び出された。何かヘマをしたかと思ったが、問題はそれ以上に深刻なものだった。
「検査の結果、○○さんから陽性反応が出た。本社からの命令で検査費用はこっちで負担するから、君たちにも検査を受けてほしい」
 なんということだ。目下、日本を騒がせている深刻な問題ではあるが「自分の周りに感染者はいないし……」などとどこか他人事のように思っていた。だが、そうではなくなってしまったのである。

 結城は一応、ナイルにも話しておくことにした。
「……ということだ。最悪の場合、隔離入院だから、ナイルには実家に帰ってもらうことになるかもしれない」
「え~? どうせ何ともないでしょ? ご主人、いつもと変わらないし」
 と、ナイルは言うが、このウイルスの厄介なところは、症状が出ていないからと言って、感染していないとは言い切れないというところにある。未知のウイルスなので、生態系などが解明されるにはまだ時間がかかるかもしれない。

 検査の結果、陰性とのことだった。結城は「ああ、よかった」で済んだのだが、大変なのはバイト先だった。感染者が出たということで、何日間か施設を閉鎖して、徹底的に消毒をするとのことだった。当然のことながら、結城はしばらくの間、暇を言い渡された。
 それにしても、いい加減、どこかに行きたくなってきた。収束の兆しは見えない。それどころか、ひどくなる一方だ。この状況でも岩手県だけは唯一、鉄壁の防御を見せつけていたが、7月下旬、遂に陥落し名実ともに全国に広がってしまった。もう、各々で対策を万全にとるしかないのではないだろうか? 結城はそう思った。
 この状況でも、政府の方針に変わりはないらしい。つまり、8月1日からは前々から言っているように名実ともに「国内旅行解禁」というわけだ。お偉いさんたちのやっていることは、場当たり的で無茶苦茶だが、ともあれ「国内旅行してもいい」という大義名分は得られたことになる。
(久しぶりに、遠出するかな……。というか、今、行っておかないと、もう行くに行けるような状況じゃなくなる気がするし)



 第1章 自粛明け、でも厳戒態勢

 7月から8月にかけては本来ならオリンピックシーズンなのだが、状況が状況なので、1年延期ということになった。けれども、そのために作った祝日はそのままということになり、いつもの年とは異なり、7月の下旬に4連休ができた。もっとも、結城はそこまでスポーツに興味関心があるわけではないので、学校の課題とバイトをして過ごすことにしていた。
 ずっと家に引き籠っているわけではないが、学校の授業までオンラインになってしまい、家にいる時間は確実に増えた。さらに、アルバイト先で感染者が出てしまい、バイトも無くなりさらに家にいる時間が増えた。
 ナイルもオンラインで友達との会話を楽しんではいたが、外に出す時間が減ってしまい、ストレスが溜まっていないということはないだろう。
(どうしようかなぁ……)
 旅行の計画を立て始めたものの、今年は梅雨が長引き、7月はほぼ毎日雨だった。雨が長時間降ったことにより、各地で水害が発生した。
(九州方面は除外だな……。水害が酷いらしいし)
 パソコンで情報収集をしていると、那覇までの往復航空券とホテル代をセットにした商品が異様なほど安く売りだされていた。なんと、一番安いもので1泊2日2万円とのこと。通常、安い場合にはそれなりに理由がある。例えば、行くときは夜遅く着く便で、帰りは午前中の便になっていたりする。しかし、予約変更ができないことを除けば、特に縛りと言えるような条件はなかった。
(ど、どうやって利益を出しているんだ!?)
 こんな値段で売ったところで、利益が出るわけがない。最繁忙期の8月の上旬にこの値で売り出されているということは、そのくらい安くしないと買い手がつかないということなのかもしれない。今年はやはり何かがおかしい。
(破格の値段ではあるけれど、どうする? だが、沖縄本島の隣の与論島のこともある。止めておいたほうがいいか……?)
 ちょうどこの時、沖縄本島の隣にある鹿児島県・与論島で感染者が続出しており、書き入れ時であるにもかかわらず「来ないでくれ」というメッセージを発するに至った。連日ニュースでもやっており、沖縄を目的地にすることにはためらいがあった。
「今回は、陸路で行けて、関東からそんなに遠くないところにしよう、それでいいよな」
「ぼくはいいけど?」
 結局、今回の旅先は南東北になった。結城も、沖縄に興味がないわけではなかったが「首里城は燃えちゃったから、見るもんないしな」などと自分に言い聞かせた。ただ、結果論ではあるが、結城たちが旅行から帰ってきた後、沖縄では感染者が続出しており、行かなかったのは正解だったのかもしれない。
 ところで、この時期に旅行しようというからには、旅行者にもそれ相応の備えが求められる。マスクをするのは最低限のマナーである。結城はドラッグストアで、エタノール配合のウェットティッシュと、汗を拭きとるための洗顔ペーパーを買ってきた。とにかく、清潔であることを心掛けなければならない。
「ナイルも口と鼻を覆わないといけないから……どうしようかな」
「ええ、ぼくまでそんなことをしないといけないの?」
「当たり前だろ、それとも、家で留守番しているか?」
「分かったよぅ……。そんな、がならなくてもいいじゃない」
 結城もストレスが溜まっているのか、つい声が大きくなってしまう。旅好きにとってどこにも行けないというのは、拷問に等しい。
「大きめの、おしゃれなバンダナがあったな、これをこうしてだな……」
 スカーフのようにして、鼻と口を覆うように装着した。ナイルが付けられる医療用の物もないわけではないが、品薄でなかなか手に入らない。これでも、十分に代用品としての役割は果たしてくれるだろう。
「ナイル、なかなか似合っているぞ」
「そうかな?」
「テキサスのお尋ね者みたいだな」
「……」
「ちょっと、三下っぽいけど、まあ、なかなかいいぞ」
「それ、褒めてるの? それとも、バカにしてる?」
 ナイルが睨むと、結城はまだ何か言いたそうだったが、大人しくなった。
 7月の下旬になって、ようやく南の方から梅雨明けする地域が出始めた。だが、南から北まで一気に梅雨明けしたわけではなかった。大雨の範囲は九州から東北へ移り、旅行の数日前に山形県の大河・最上川が氾濫したとかで、鉄道にも影響が出ていた。ただ、人的被害はなかったらしく、そのことは不幸中の幸いだった。
 結城も様子を見ていたため、切符とホテルの手配が出発の前日になってしまった。最繁忙期に前日に切符の手配など、無謀もいいところだが、すんなり切符の入手に成功。新幹線の指定席もあっさりと確保することができた。今年はやはり何かが違う。
 家に帰ってきて、結城はナイルに新幹線のチケットを見せる。
「無事、確保してきたぞ。朝一番というわけではないけど、それでも朝早いのは変わらないからな、今夜は早く寝るんだぞ」
「はいはい、分かったよ」



 第2章 ターミナル閑散

 相変わらず、天気の悪い日が続いた。梅雨明けが見えてきたとはいえ、連日空はどんより、湿気は多く、ムシムシとした不快な日が続く。出歩くときは、マスクが必須となっているが、この天気のせいもあって、口の周りに熱がこもってしまう。周囲に人がいなければ、外すこともあるが、出歩くときは基本的にマスクは付けっぱなしである。
 必要なものを買い揃えて、出発の日を迎えた。旅行当日も、曇ってはいたが、幸い雨は降っていなかった。目的地も天気は曇りとのことだ。最悪雨が降ったとしても、コンビニに行けばビニール傘の1本くらい手に入るだろうと考えて、傘は持っていかなかった。
 朝の6時過ぎ、必要なものを詰めたカバンを持って家を出た。朝一番の電車に乗るには、朝4時過ぎに起きないといけないが、今回はそこまで早い出発ではなかった。結城が、朝起きたのは5時30分過ぎだった。結城は朝弱い方だったが、それでも起きる時間が1時間半違うだけで、体はだいぶ楽なように思えた。
 雨が降っていないのは幸いだったが、それでもムシムシジメジメとした空気があたりを包み込んでいる。湿った空気がまとわりつき、鬱陶しかったが、雨が降っていないだけ、まだいいと言い聞かせて、曇り空の下を歩いた。
「ところで、ご主人。こんな時に遊びに行くなんて、大丈夫かな? 顰蹙買わない?」
 ナイルがそんなことを言う。政府としては、県境をまたいだ移動に制限を設けているわけではない。むしろ、この数ケ月で観光どころではなくなり、そのあおりを受けた観光業のために、遊んでお金を落としてほしいのだろうが、いまだ大っぴらに「観光しに来ました」とはしゃぐのは、ご法度な空気だ。ましてや、関東地方からの来訪者である。仕事なら「仕方ないよね」で済むだろうが、遊びとなると「なぜ、この時期に?」と思われても仕方がない。地方は地方でピリピリしているのである。
「大丈夫、大丈夫。ちゃんとこざっぱりした格好をしてきたから、クールビズで仕事場に行く人にしか見えないさ」
 結城は、夏物のスラックスを履き、ストライプ柄のシャツを着て、夏物のジャケットを羽織っている。確かに格好だけを見れば、クールビズで仕事場に行く人のようにも見える。この日は土曜日だったが、世の中にあるすべての仕事が、土日祝日が休みというわけでもあるまい。
  結城の家から東京駅までは電車で1時間ほどかかる。ガラガラかと思ったが、上りホームで電車を待っている人がそれなりにいる。反対の下り方面ホームに目をやると、こちらは上りホーム以上に人がいた。長袖長ズボンに、リュックサックを背負った人が多く見られる。そしてこのご時世ということもあり、ほぼ全ての人がマスクをしている。山登りでもするのだろうか? 土曜日なので山登りに出かける人がいても不思議ではない。
(しかし、マスクをして、山登りするのか……。結構、きついと思うがな……)
 結城はそんなことを思う。平地であっても、この気温と湿度で、マスクで覆われている部分はほぼ蒸し風呂状態だ。蒸れてしまって不快なので、気を紛らわすために、本を読んで電車を待つことにした。
(ええと、6時35分発だから、あと3、4分で来るかな。さて、座れるかどうかだが……)
「ねえ、ご主人?」
「ん? どうした?」
「これ、取っていい?」
 ナイルはムシムシするから、鼻と口を覆っているマスク代わりの布を取っていいかと言う。
「我慢してくれよ。オレだって、嫌だよ。この蒸し暑い中マスクなんかするの」
「じゃあさ、もしも、もしもだけど……」
「ん?」
「電車にぼくとご主人しか乗ってなかったら、取っていい?」
「うーん、それなら、まあ、いいか。さすがにそんなことがあるとは思えないけど……」
 反対側のホームに6両編成の電車がやってきて、登山客と思しき人々を乗せて、そそくさと山方面へと旅立っていった。ほどなくして、上りホームにも10両編成の電車がやってきた。この電車に乗る。
 車内は空いており、先客はほとんどいなかった。鞄を網棚に乗せ、席を確保する。車内は冷房がかかっていたが、換気をするために、窓が所々開いている。湿った空気が入ってくるのではないか? と思ったが、このご時世だから、仕方がない。無事座れたことだし、一眠りしようかと思ったが、朝4時とか5時台という極端に早い時間ではないため、目が覚めてしまっていた。特にすることもないので、電車に乗るときに手に持っていた本の続きを読むことにした。
「ナイル? 眠いんだったら、寝てていいぞ? 着いたら起こしてやるから」
「うん、分かった」
 電車に揺られていれば、そのうち眠くなるだろう……と思ったのだが、ちっとも眠くならなかった。いつも通学に使っている路線で、何度も乗ったことがあるので、熟睡して外の景色を見損ねたとしても、惜しくも何ともないのだが、目が冴えてしまい眠くならない。
(まあ、無理して寝ることもないか……)
 特にすることもないので、持参した本を読む。本を読むついでに車内も観察する。移動自粛ムードが漂う中、いつもとどんな違いがあるのだろうか? 土曜日だから、通勤客と思しき人は少ない。代わりに遊びに行くであろう人や学校の部活に行くであろう人がそれなりに乗っていてもおかしくはないのだが、車内は閑散としていた。ただ、そうは言っても、都心と郊外を結ぶ普段から利用客が多い路線なので、途中から客が乗ってきて、いくつかの駅に停まると空席はなくなり、車内に立ち客が出始めた。
(大体、新宿と四ツ谷で結構降りるんだよな……)
 電車は定刻通りに、新宿駅に着いた。車内の半分ほどの客がおりて、数人の客がパラパラと乗ってくる。体をひねって窓の外を見ると、向かいのホームには、臨時の特急電車が発車を待っていた。この臨時特急電車は7時15分発だそうなので、あと3分ほどで発車である。扉も開けて客を待っているのだが、車内で発車を待っている客はほとんどいなかった。1車両に数人といったところだろうか? 客からすれば空いていてラッキーだが、会社からしてみれば全然嬉しくないことは明らかだ。
(ほぼ空気輸送じゃねえか、悲惨だな……)
 電車は定刻通りに動き出した。
「新宿で結構降りたね」
「うおっ、ナイル。起きていたのかよ」
「うん、目が覚めちゃった」
 次は四ツ谷駅である。ここでも、乗ってくる客よりも降りる客のほうが多かった。鞄を持ってこざっぱりした人たちの多くはここで降りていった。土曜日といっても、全員が休めるかといえばそういうわけでもないし、今の情勢では休むに休めず、休日出勤という人もいることだろう。
 窓が開いているため、どうしても湿った空気が流れ込んでくる。蒸し暑いのが苦手な結城としては、窓を閉め切って、冷房をガンガンに効かせてほしいところだが、そういうわけにもいかない。電車が走っているときは、湿っているとはいえ、風が入ってくるからまだいいが、駅に停まっているときは、何とも重い、不快な、蒸し暑い空気が流れ込んできてしまう。
 皇居のお濠沿いの木々は青々とした葉をつけ、それは目の保養になり、多少は気が紛れるが、ムシっとした空気はどうにもならない。加えて、マスクをしているので、口の周りに熱がこもってしまう。
 
 電車は定刻通りに東京駅に着いた。東京駅に着いた時は、車内はがらんとしていた。今の時刻は7時25分である。次に乗る列車は、山形行きの新幹線「つばさ127号」である。発車時刻は8時8分である。まだ40分ほど時間がある。
(多少、遅れるんじゃないかと思ったけど、そんなことなかったな。これならもう1本遅くても良かったな)
 長いエスカレーターを降りて、駅の通路を歩く。さすがに長距離列車の始発駅ということもあり、人数は少ないものの、大きな鞄を持った、旅行客と思しき人たちが見受けられる。
 次に乗る「つばさ127号」の乗り場は20番線とのこと。大きい駅なので多少は歩くが、発車まで40分以上あるので、間に合わないということはない。むしろ、どうやって時間を潰すかということを結城は考えていた。
(待合室があるから、そこで時間を潰すか)
 結城は、待合室に向かう前に少し寄り道をした。向かった先は当日券売り場であった。あらかじめ切符は買ってあったのだが……。
「あれ? 切符は買っておいたんじゃ?」
 ナイルが言う。結城は、切符はあらかじめ買っておいたし、落としたわけでも、家に忘れたわけでもない。
「ああ、買ったし、ちゃんと持ってきたぞ」
 当日券売り場は、閑散としていた。今は8月の最繁忙期だ。そうでなくても土曜日の朝は東京から地方へ行く新幹線は、どれもそれなりに混むものだが、切符を窓口で買い求めている人は数えるほどしかいなかった。やはり今年の夏は何かが違う。
 新幹線にあとどれくらいの空席があるのかが、売り場の窓口の上に取り付けられているモニターに出ている。〇が空席が十分にある、△が空席が残りわずか、×が満席ということになっている。
「随分、アバウトだね」
「残り席数を数字にしてくれたら分かりやすいんだろうけど、見辛い気もするな……」
 モニターには軒並み〇印が映し出されている。つまり、どの新幹線も空席が十分にある、というわけだ。
(うわ……『のぞみ』も軒並み〇印だ……)
 東京発の新幹線は、どの方面も空席が十分にあることが分かった。
「多分、オレたちが乗る新幹線も空いているぞ、よかったな」
 結城がそう言った。客からすれば、いいことなのかもしれないが、鉄道会社からしたら、たまったものではない。この前の週は、本来ならオリンピックの開催でそれに伴う連休があり、多少は利用客が増えたところもあったようだが、今週はこの情勢ということと、前の週の反動もあるのだろう。混雑というには程遠い状況であった。
 後日分かったことだが、8月で最も混むお盆期間でさえ、今年は、平年の2割ほどしか利用客がいなかったという。
 東北・上越新幹線の改札を通り、待合室で、しばらく時間を潰す。発車時刻が8時8分なので、15分くらい前に少し前にホームに行けばいいか、と結城は考えていた。指定席なので、乗車口に早めに行く必要はないのだが、久しぶりに北方面に向かう新幹線に乗るので、ホームや新幹線の写真も撮っておきたかったのだ。
 待合室には、土曜日ということもあって、仕事と思しき人は少なかった。
「なあ、ナイル。結構ポケモン連れが多いな」
「確かに、そうだね」
 法律で禁止されているわけではなかったが、遠出をすべきでないという風潮で、結城もそれは分かるのだが、一方で近所で買い物をするくらいしか出かける機会がなかったというのは、かなりストレスが溜まった。それは、ナイルも同じだった。いや、それ以上だったのかもしれない。何しろ、結城以上にデカい図体で大して広くもない部屋に長い間いるのだから。
(ここにいる人たちも、同じこと思っていたのかな?)
 結城は、普段、ポケモンを持っている他の人たちにあまり興味・関心がない。人には人のやり方があると思っていたし、その道で食っていこうなどとは思ったこともなかったからだ。しかし、今回ばかりは違った。どこにも行けないのは、やはりストレスが溜まるもの。それはポケモンも同じだ。他の人はどのようにして、不満やストレスを抑えていたのかという点は気になるところである。
(旅先に関するレクチャーは、ホームか、新幹線の中でいいか)
(イーブイにニンフィア……それに……)
 ナイルはあからさまにジロジロ見るのは失礼なので、遠出する人間についていくポケモンをちらちら見ていた。やはり、遠くに行けるということもあって、どことなく嬉しそうだ。結城がナイルのほうを見ると、何をしているのか察したのだろう。
「おい、あんまり他人様のポケモンをジロジロ見るんじゃない」
 と注意をする。
「『ジロジロ』は見てないよ『ちらちら』だよ」
「ふん、まあ、どうせお前も他のポケモンたちから見られているんだろうがな。今、7時53分だから、そろそろホームに行こうか」
 荷物を持って、20番線に向かう。ホームへ続くエスカレーターで、先ほどの話が少しだけ続いた。
「やっぱ、珍しいポケモンだったのか?」
「えっ? ううん、まあ、元・野生だったら珍しいかもしれないけど……」
「なるほど『養殖物』ってわけか」
「間違っていないけど、もうちょっと他の言い方があるでしょ?」
「コウノトリが運んできたんじゃなくて、どこぞの施設でせ……」
「も、もう、やめようよ、この話!」
 結城があらぬ方向へ話を持っていこうとするので、ナイルは無理矢理話を打ち切った。結城は、いつもこんな調子なので、いつまでたっても、ポケモンに関する知識が増えない。もっとも、例外的に法令という項目においては「ナイルが粗相をするとオレの責任になるから」という理由で、一生懸命勉強をしている。
 実際、イーブイやその進化系というのは、野生では珍しい。ただ、ブリーダーやトレーナーから卵を譲ってもらうという形で手に入れるというのは、そこまで珍しいことではない。ただ、それでもお金も手間も時間もかかるうえ、人間には保護責任者としての責任が重くのしかかる。ポケモンを持つということはそういうことなのだ。
 ホームに着くと、やはり、利用客の姿は少なく、ホームはがらんとしていた。新幹線もまだ入線はしていなかった。
(えーっと、14号車だから、もうちょっと上野寄りだな)
 8時8分発「つばさ127号」山形行きは、17両編成の大編成であるが、山形駅に行くのは11号車から17号車までで、1号車から10号車は「やまびこ127号」仙台行きとして運転される。この2つの行き先の異なる新幹線は途中の福島駅までは同一の列車として運転され、そこで切り離しを行うわけである。
「つばさ127号」は17と16号車が自由席で、15から12号車が指定席、11号車がグリーン車になっている。しかし、自由席の乗り場のところには、数人が列を作っているのみで、結城の乗る14号車の乗車口に至っては、待っている客は誰もいなかった。実は、この日は8時ちょうどに臨時の「つばさ175号」が運転されている。夏休みで需要増を見込んだものだろうが、閑散とした東京駅を見ていると、わざわざ臨時便を出すほどの需要があるようには思えなかった。ダイヤを作るのは数か月前で、その頃は多少落ち着いてはいたから、JRは予測を見誤ったのか、はたまた、客を分散させて「密」の状況を作り出さないようにしているということなのだろうか。
 程なくして、上りの「なすの号」がホームに入ってきた。客を降ろして、車内の掃除をした後に、別の新幹線として運行されるわけである。乗車口のところには清掃員が待機していた。
 少ない客を降ろし終わると、清掃員が道具を持って車内へ入っていき、短い時間で掃除を済ませる。この時期だと消毒もしないといけないだろうから、いつも以上に手際の良さが求められることだろう。「あんまり乗っていなかったから、掃除しなくてもいいか」とはならない。
 8時を2分か3分ほど過ぎた頃に、清掃が終わり、車両に乗ることができた。14号車の中は、結城とナイル以外、誰もいない。発車まで5分を切っているのだが……。
「ご主人、ぼくら以外、誰も乗っていないよ?」
「うーん、まさかここまでとは……。まあ、次の上野駅とその次の大宮駅でたくさん乗ってくるのかもしれないな」
 持参したパンとミルク、コーヒーを鞄から取り出して、朝御飯の準備をする。高価な物を口にするわけではないが、それでも、列車の中で食べる食事は、なんだか特別なことのように思える。
 発車の2分ほど前になって、初老の男性が1人乗ってきた。
「つばさ127号」山形行きは東京駅を定刻通りに発車した。発車の際の特に揺れがあるわけではなかったし、デッキと客室を隔てる自動ドアが閉まっていて乗車口のドアが閉まる音が聞こえなかったのもあるのかもしれない。結城たちは、後ろにゆっくり流れている車窓を見て、初めて発車したことに気が付いた。
 都心のビルとビルの間を縫うように走り、程なく地下に入る。東京駅を出てから5、6分で上野駅に着く。上野駅の地下ホームは東京駅と同様、閑散としていた。14号車には、親子連れ3人が乗ってきた。他に乗客はおらず、列車は上野駅を出発した。上野駅を出て、間もなく、地上に出る。
「さて、ナイル。朝飯にしよう」
「そうだね」
 結城たちが朝食をとっていると、車内放送が流れる。チャイムが流れ、停車駅とその到着時刻の案内がある。数人しかいない車内では、この放送も心なしか、空しく聞こえてしまう。結城たちが乗っている「つばさ127号」はこの後、大宮、宇都宮、郡山、福島、米沢、高畠、赤湯、かみのやま温泉、山形に停まる。結城たちは途中の米沢駅で降りる。米沢到着は10時25分とのこと。約2時間の旅である。
 17両の新幹線は、新幹線にしては「のそのそ」と北を目指す。東京駅と大宮駅の間は、首都近郊のベッドタウンを走ることになるが、騒音問題への対処もあり、最高時速が110キロに抑えられている。高層マンションや住宅が立ち並ぶエリアのど真ん中を走るのだから、こればかりは仕方がない。
「しかしなあ、ナイル。この車内暑くないか?」
「え? そうかなあ? ちょうどいいと思うけど?」
 ナイルはそう答えるが、結城は「暑い」だの「エアコンが効いていない」と文句を垂れる。結城が暑がりなのもあるが、在来線と違って新幹線は窓が開かないので、換気扇を使って車内の空気を入れ替えるしかない。この換気機能が結構強力で、数分で完全に車内の空気が入れ替わるというのだ。車内の温度が下がる前に冷たい空気も一緒に外に出てしまっているのだろう。これもこのご時世だから仕方がない。結城は多少は違うだろうと、シャツの袖をまくった。
 のそのそと走る「つばさ127号」は荒川を超えて、埼玉県に入った。朝食を食べ終えた結城は空になったパンの袋と牛乳のパックをデッキに備え付けてあるゴミ箱へ捨てた。客室に戻る途中、乗車扉の窓から外を眺める。空は雲の切れ目はあるものの、まだ雲が優勢といった空模様だった。
 客席に戻ると、缶コーヒーを飲みながら、外の景色を楽しむ。右側には、時折、新幹線と並行して走っている埼京線のホームが見える。都心と埼玉のベッドタウンを結ぶ路線で、決して利用客が少ないわけではないのだが、どの駅のホームも客は少なく、がらんとしていた。
 やがて、新幹線は定刻通りに大宮駅に到着した。後方の仙台行きの方には、乗車口で到着を待つ客の姿があるところもあったが、それでも数人で、山形行きの方も似たような感じであった。自由席車両は指定席車両よりも前にあるので、到着前のホームの様子をうかがい知ることはできなかったが、この様子では推して知るべしである。
 結城は「どうせ、大宮駅でたくさん乗ってくる」と言っていたが、残念でしたと言わんばかりに、新幹線はするすると、動き出した。結局、結城の予想は大きく外れた。乗ってきたのは、結城よりも一回りくらい年上(のように見える)眼鏡をかけたお兄さん1人だけであった。
「ご主人、1人しか乗ってこなかったよ?」
 これには、結城も
「ええ~? まじかよ……」
 と、言うしかなかった。やはり今年の夏はどこか違う。



 第3章 龍の後継者

 結城たちの乗っている「つばさ127号」は、8時34分、定刻通りに大宮駅を発車した。車内はほぼ空気輸送だった。何しろ、お客が10人もいないのだから。
 結城が乗っている14号車は、横1列がA~Dの4席で、それが17列あるので68席ということになる。だから、今のところ、乗車率は約1割という悲惨な状況であった。この後、1駅飛ばして、宇都宮駅に停まるのだが、大宮駅でのことを考えると、もしかすると、乗客は無しということもあり得るだろう。
「それじゃあ、今日行くところの、予習でもしておくか」
 何も知らないよりも、多少は予備知識があったほうがいい。
「何ヶ所か寄るけど、まずは『上杉』についてだな」
 江戸時代に米沢を統治していたのが上杉という大名家である。途中で養子を入れているので系譜上の繋がりでしかないが、一時は関東と越後に覇を唱えた大大名である。
 上杉の本家である山内家と、急速に勢力を拡大していた分家の扇谷(おうぎがやつ)家の間で起きた長享の乱(1487~1505)に勝利したのが、上杉本家の当主で関東管領だった上杉顕定(1454~1510)である。関東管領というのは、関東統治の責任者であり、名実ともに顕定が関東の覇者となったのだが、その覇権は長くは続かなかった。
 16世紀前半、日本は戦国時代であり、あちこちで合戦が起きていた。また、この時代というのは実力社会であり、身分に関係なく、合戦や領国経営に才を発揮するものでないと生き残れない時代だった。言い換えれば、家柄で何とかなるような時代ではなくなってしまったわけだ。そのため、上杉や細川、畠山といった名門大名の威光にも陰りが見え始めた。
 上杉の領国の1つである越後は、顕定の歳の離れた弟である房能(1474~1507)が守護として統治していた。その頃、隣の越中では一向一揆の集団が侵入し、大混乱に陥っていた。一向一揆の主力は農民で、指導層は浄土真宗の僧侶である。お坊さんと農民というと、なんだか弱そうな気もするが……。
「まず、農民だから武士と比べて数が多いだろ、それに当時の農民ってのは、過酷な農作業で鍛え上げられたマッチョマンも多かったから、かなり強かったはずだぞ」
 と結城は言う。越中の守護は畠山という足利将軍家に次ぐ名門が治めていた。現在の京都とその周辺を本拠地にしており、越中は言ってみれば飛び地だった。だが、都であっても戦国時代。時の権力者・細川政元(1466~1507)と対立関係にあってたびたび合戦に及んでおり、都から動けず、越中の一揆を鎮圧する余裕はなかった。そこで、隣国の越後に援軍を求めた。
 房能からしてみれば、そこまでメリットがある戦ではなかったが、一向一揆に侵入されてはたまったものではないので、部下の長尾能景(1464~1506)を越中に派遣した。
 能景は、連戦連勝でこのまま一向一揆を駆逐するかに見えた。しかし、畠山の代官として越中を統治していた神保慶宗(?~1521)は、このままだと越中が能景の物になってしまうとでも思ったのだろうか、一向一揆と密約を結んで、一揆側に寝返った。
 敵中に孤立してしまった能景は、房能に援軍を要請したが、房能は援軍を送らなかった。結局、長尾軍は現在の富山県砺波市における合戦(般若野の戦い)で敗れ、能景も戦死を遂げた。永正3(1506)年9月のことである。
 房能が能景を見殺しにした理由は諸説あるが、このこともあって、能景の子である為景(1489~1543・上杉謙信の実の父)との関係は険悪なものだった。
 能景が戦死した次の年「為景が謀反を企てている」という理由で、房能は為景を討伐するために準備を進めていた。だが、情報が洩れ、このことを為景も知ることになる。為景は同志を集め、先制攻撃に打って出た。為景方の急襲により、房能は顕定を頼って、関東へ逃亡を図るも、途中で追いつかれ、現在の新潟県十日町市にあった天水越で討ち取られた。これが、永正4(1507)年8月のことである。この為景の下克上により、上杉の支配体制が傾き始めることになる。自分の父親を見殺しにした房能を討ち取った為景は新たな越後守護として、上杉定実(?~1550)を擁立した。
 永正6(1509)年7月、この政変に激怒した、関東管領・上杉顕定は大軍を率いて、越後に侵攻し、為景と上杉定実を駆逐した。だが、かつては顕定の実父・上杉房定(1431~94)の手腕で比較的平穏だった越後国内も、その時とは実情が全く違い顕定は統治に難儀していた。為景はこの間に越中や佐渡で体勢を立て直し、翌年、越後に復帰を果たした。
 やむなく顕定は関東へ撤退を開始するが、現在の南魚沼市で、為景とその親戚である高梨政盛(1456~1513)の連合軍に追いつかれてしまう。合戦(長森原の戦い)となり顕定軍は敗れ、顕定も自害して果てた。長享の乱からわずか5年後のことである。その後、為景は越中にも出陣し、父親のもう1人の仇である神保慶宗を自害に追い込み、仇討ちを果たしている。
 守護と管領を討ち果たすという前例のない下克上の影響は、関東にも波及した。
 関東の覇者・上杉顕定には後継ぎとなる男子がいなかった。そこで、養子を2人取っていた。顕定は、後継は顕実(?~1515)と決めてはいたが、もう1人の養子である上杉憲房(1467~1525)は、上杉の血を引く(憲房は、山内上杉家8代当主・憲実の孫)自分を差し置いて、他所の家からやってきた顕実が上杉の家を継ぐことが納得できなかった。2人の養子の対立はそれぞれの支持者たちを巻き込んだ合戦となり、最終的に憲房が当主の座を奪い取ることに成功した。
 しかし、これで関東が落ち着いたかというとそういうわけではなかった。憲房にも長らく子供がおらず、他所の家から養子を迎えていたのだが、56歳にして実子を授かることになった。しかも男の子である。残されている資料が少なく、不明な点も多いのだが、この養子派と実子派の間で「関東享禄の乱」(1529~31)という内乱があり、後者が勝利した。この実子というのが上杉憲政(1523~79)である。
 度重なる内紛で、上杉の勢力圏は縮小し、関東地方で急速に勢力を伸ばした新興勢力である北条に覇者の座を奪われることになる。北条との戦いに敗れ、勢力を失った憲政は越後に逃亡した。

 外を見ると、相変わらず、雲行きはよくない。今年は天候不順で梅雨明けが妙に遅い。関東地方の梅雨明けは8月に入ってからだった。外は、住宅街がややまばらになり、畑や田んぼがところどころに見える。新幹線は利根川を越えて申し訳程度に茨城県を通り、その後、栃木県に入る。
 新幹線は小山駅を通過し、栃木県内を北上している。栃木県には新幹線が停車する駅が3つあるが、この列車が止まるのは宇都宮駅だけである。結城は喉が渇くのか、1本缶コーヒーを飲むと、持参した別の缶コーヒーを開け、小山駅を通過する前に飲み干してしまった。「つばさ127号」には飲み物を売る車内販売があり、車内で飲み物を買い求めるのもできるのだが、高いし、欲しい時に来てくれるとは限らないので、結城はあまり使っていない。飲み物を結構持ってくるので、旅行を始めた時よりも終わる時の方が荷物が軽い、ということもしばしばある。
 上杉憲政が越後に逃げ込んだ時に、越後を統治していたのが、為景の4男・長尾景虎(1530~78)である。つまりは後の上杉謙信である。幼い時は虎千代と名乗り、後継者候補ではなかったので、6歳の時に寺に入れられていた。為景没後、虎千代は13歳の時に寺を出て「長尾景虎」と名乗った。
 景虎は若年ながらも、メキメキと軍事的な才覚を表し、越後守護・上杉定実までもが一目置くようになった。当時の長尾家の当主は為景の長男である長尾晴景(1509~53)だったが、病弱で統率力に欠けていた。父の代には飾りでしかなかった定実も一定の権力は取り戻しはした。しかし、越後は群雄割拠状態で、定実も長きにわたり守護の座にはあったものの、飾りであった期間が長く越後全土を支配できるだけの力は持っていなかった。景虎派の武将達からの仲立ちの依頼があったことに加え、定実も晴景では越後の統治は覚束ないと思ったのだろう、結局、天文17(1548)年12月30日、定実の裁定により、晴景は引退し、景虎が当主となった。景虎はこの時、18歳「越後の龍」誕生の瞬間であった。
 この2年後、越後守護・上杉定実が没し、定実には後継の男子がおらず、また養子も取っていなかったため、守護が不在となった。そのため、室町幕府の命令で景虎が、越後守護の代行として越後を統治することになった。
 まだ、景虎に服さない武将もいたが、数年の内にはひとまずは越後の統一に成功することになる。

 列車は宇都宮駅に到着した。ここで、後続の新幹線の通過待ちをするため少し停まる。後ろの仙台行きの乗り場には、列車を待つ客がパラパラといたが、山形行きの方は誰もいなかった。当然、結城がいる14号車にも誰も乗ってこなかった。発車までただ待っているのも退屈なので、結城は
「記念撮影でもするか」
 と言って、ホームに降りて1枚だけ写真を撮った。宇都宮は、交通の要衝であり、日光が近くにあるため江戸時代から人の往来が盛んで、宿場町として大いに栄え、商業が発展していた。現在も北関東最大の都市ではあるのだが、どうも影が薄い。結城も栃木県という括りで見れば、小学生の時に日光に修学旅行で訪れたことがあるが、宇都宮に限ると、通過したことはあっても、訪れたことはなかった。
 後続の新幹線を先に通し「つばさ127号」は時間通りに宇都宮駅を発車した。あと1時間20分ほどで、最初の目的地である米沢駅に到着する。相変わらず、車内はがらんとしている。次は2つ飛ばして郡山駅に停まる。
 旅の目的地に関する予習も、上杉謙信の没後、謙信の姉の子である景勝(1555~1623)が後を継ぐことになったというところで終わった。
(まあ、あとは米沢に着いてからでいいかな)
 那須塩原駅を通過すると、列車は間もなく福島県に入る。ここから東北地方である。列車は、遅れることもなく時間通りに郡山駅に到着した。ここで、東京駅から乗ってきた初老の男性が降りていった。仙台行きの方の乗り場には、列車を待つ乗客が何人かいた。しかし、相変わらず、結城たちが乗っている14号車はがらんとしたままだった。
 郡山は、人口約33万の中通り最大の都市である。中通りの交通の要衝でもあり、東西南北に線路や道路が伸びている。ちなみに福島県は、県庁所在地がある福島市よりも人口が多い都市がある。郡山市といわき市が該当し、僅差でいわき市が福島県で最も人口が多い(人口:約33万7千)都市となっている。
「やっと、東北地方に入ったな。あ、そうだ。ナイル。眠かったら、寝てていいぞ? 山形県に入ったら起こしてやるから」
「ん? いや、別に眠くないから起きているよ」
「そうか」
 東海道新幹線で名古屋駅に向かった時と比べて、こまめに停車するせいか、ずいぶんのんびりした行程であるように感じる。停車駅が多いと言っても、新幹線なのだから、決して遅いということはないはずなのだが……。日頃、アルバイトだ、ジムだ、課題提出だとあくせくと動いて、生きてきたものだから、体が慣れていないのかもしれない。
 列車は福島駅で、仙台行きと山形行きを切り離す作業を行う。7両になり、身軽になった「つばさ127号」はここから在来線の線路に入り、山形県を目指す。福島駅から山形方面へ新幹線が走るようになった際、在来線をそのまま新幹線で走れるようするため、福島と新庄の間は在来線のレールではなく、開業時に新幹線用のレールに置き換えられている。
 福島までくれば、米沢は次の駅なのだが、急峻な峠越えをしなければならないため、スピードが出せず、30分以上かかってしまう。もっとも、次と言っても福島駅と米沢駅の間は40キロの距離があり、峠越えをして、30分少々で走ってしまうのだから、遅いとは言えないだろう。
 福島駅を出て、しばらくすると、人家が途切れ、急峻な板谷峠を超える。線路のすぐそばにまで青々とした葉っぱを付けた木々の枝が伸び、人影はない。
 似たような風景が続き、退屈になってきた結城は、眠気を催し、うとうとしてきたが、外を見ると、川の流れが変わったことに気が付いた。恐らくは最上川か、その支流であろう。列車は山形県に入っていたようだ。
 窓の外に住宅が表れ始め、程なくして、列車は定刻に米沢駅に着いた。結城たちはここで降りる。前方の自由席車両からはそこそこの人数(10人ほどだっただろうか?)が降りたが、14号車では米沢駅で下車したのは、結城たちだけだった。
 山形県は、庄内、最上、村山、置賜の4つの地方に大きく分けられる。そのうちの1つ、置賜地方の中心がこの米沢である。人口は約8万1千である。
「う~ん、やっと着いたな」
 結城は改札を出ると、背伸びをした。新幹線の中では、一度トイレに立ったのと、宇都宮で写真撮影をしたとき以外は、ずっと座っていたためか
「座りっぱなしってのも体に良くないな」
 と、言っていた。改札を出ると、外はこもったようなとでもいうのだろうか、盆地特有の空気が旅人を出迎える。今年は梅雨明けが遅く、気温だけで見れば、いつも以上に暑いということはなかったが、湿度が高いため、体感温度は実際の温度以上であるように感じられた。駅前では、路線バスやタクシーが客を待っていたが、肝心の人影はまばらだった。
「ねえねえ、ご主人、お昼御飯は、あれ、あれにしようよ」
 どうやら、ナイルが何か見つけたようだ。
「どうした?『あれ』ってなんだよ」
「あれだよ、あれ!」
 ナイルが「あれ」と言っていたのは、お店の看板だった。その看板には「米沢牛」と書かれていた。結城とは違い、ナイルの興味関心は「食」に重点が置かれていた。結城は内心「しまった」と思いながらも
「ああ、時間があったらな……」
 と、はいともいいえとも取れる曖昧な返事をした。
 米沢で降りた理由は、上杉神社に行くためである。その名の通り、上杉謙信と、出羽米沢藩9代藩主・上杉治憲(1751~1822)を祭神とする神社である。米沢駅からは2キロほどの距離がある。タクシーで行くのが一番手っ取り早いがお金がかかる。バスという手もあったが、本数が少ない。歩けない距離でもないし、最近は運動不足気味でもあったので、歩いていくことにした。
 この日の気温は30度に届いておらず、8月としてはさほど高い気温ではないだろうが、暑さに体が順応していないこともあったのだろう。湿った空気がまとわりつき、汗が身に着けている肌着を湿らせていく。何とも不快である。風があれば多少は違うだろうが、あいにく風は吹いていなかった。
 駅前に設置されていたコインロッカーに旅行用の鞄を預け、目的地に向かって歩き出した。
 土曜日だったが、駅前の通りに人影はほとんどなかった。政府の方針として、8月から国内旅行が解禁になったとはいえ、不要不急の外出は憚られるということなのだろう。通りに人影はほとんどなかったが、上杉神社に行く途中に総合病院があり、ここだけは例外的に多くの人の出入りがあるように見えた。駐車場にも多くの車が止まっている。
 そこからしばらく歩くと、最上川を越える。山形県を代表する大河である。7月下旬の大雨で、下流の大石田では氾濫が発生し、被害が出たが、役場が機転を利かせて早めに住民を避難させたために、町は濁流にのまれたものの、人的被害はなかったという。
 この洪水被害は、旅行を計画するうえで、結城が気にかかっていたことの一つだったが、米沢の次の目的地である山形市には、被害がほとんど無かった。なので、街歩きをするくらいなら問題ないだろうと結城は判断した。
 
 この米沢は、関ヶ原の戦いで西軍についたため、大幅に領地を削られた(120万石→30万石)上杉家の城下町である。かつては、大大名だった上杉も、この時点で現在の置賜地方と福島県の中通り地方の一部に領地を持つだけになってしまった。
 出羽米沢藩の初代藩主が上杉景勝である。上杉謙信の姉・仙桃院(1524~1609)の子である。謙信は生涯独身で子供がいなかった。そのため、養子であり、甥でもあることから有力な後継候補だった。
 ところが、他の後継者候補として上杉景虎(1554~79)なる人物がいた。実父は相模の大名・北条氏康(1515~71)である。北条は、上杉謙信の宿敵である武田信玄(1521~73)と同盟関係にあった。しかし、その同盟が破綻した後に、敵対していた上杉と同盟を結んだ。その際、同盟を破らぬ証として人質として越後に送られてきたのである。謙信は「大名の子を人質扱いするのは義に反する」として、自らの養子とし「上杉景虎」と名乗らせた。
 ちなみに上杉景虎については、経歴に不明点が多く、実父が北条氏康であったことと、後述する後継者争いに敗れて、自害した際に数えで26歳であったこと以外、詳しいことは分かっていない。
 天正6(1578)年3月13日、謙信が後継者を定めぬまま、急死したため、景勝・景虎間で大規模な内紛が勃発した。世にいう「御館(おたて)の乱」(1578~79)である。この時、謙信に保護され、後に上杉の苗字と役職、代々伝わる家宝を譲り渡し、この時は悠々自適に暮らしていた元関東管領・上杉憲政もこの乱で命を落とした。
 この後継者争いに勝利した景勝だったが、今度は活躍に見合った恩賞が得られないことに不満を抱いた新発田重家(1547~87)が叛乱を起こした。実際に重家の活躍は目覚ましいものだったが、景勝からの恩賞は「長敦(1538~80・重家の兄)の跡を継ぐことを認めてやる」という書状だけだった。ところが、景勝が子飼いの武将たちに恩賞を授けていることが、重家の耳に入ってしまう。この依怙贔屓ともとれる行動に、不満を爆発させた重家は乱を起こした。重家は勇猛で戦上手だったことに加え、柴田勝家(1522~83)に北陸の勢力圏を削られ、叛乱鎮圧に総力を挙げることが難しい状況であった。結局、この乱を鎮圧するのに6年もの歳月を要することになってしまった。
 そして、その後は豊臣政権下で五大老の一員として君臨するが、関ヶ原の戦いで西軍についたことで、本戦には不参加だったとはいえ、領土を大幅に削られてしまう。この結果、海に面した領地を失ってしまい、削られた領土分の収入を、港を使った商業や、製塩などの産業で埋め合わせすることも不可能になってしまう。領土が大幅に削られても、景勝は武士のリストラをしなかったため、人件費が藩財政を圧迫し、いきなり藩の台所事情は苦しくなってしまった。
 そんな苦労続きで心に余裕がなかったためなのか、景勝は常に謹厳で、配下の者たちに笑顔を見せることがなかったという。
「と、まあ、景勝についてはこんなところかな」
 ムシムシした空気が充満している道を歩くこと、およそ20分。ようやく最初の目的地である上杉神社に到着した。参道の両脇には上杉家で合戦の際に使われたといわれる「毘」の文字が書かれた旗と、全軍突撃の合図である「懸かり乱れの龍」の旗が立っていた。
「ふう、やっと着いたな。あ、そうそう。参道の真ん中は歩くなよ? マナーだから」
「はいはい」
 結城は、途中で上着を脱いで、手に持っていた。結城自身、寺社仏閣におけるマナーなどは全く知らなかったが、神社や祭神に無礼があってはならないので、事前に調べられることは調べておいた。参道の真ん中は、祭神が通る道とされており、参拝者は脇を歩かなければならない、というのがマナーだそうなのだ。他にも、鳥居をくぐる際は一礼をするというのもある。
「あ、それと、あんまり我欲にまみれたお願いはするなよ?」
「あ、うん。とりあえず分かった」
 祭神である上杉謙信にしろ、上杉治憲にしろ、とにかく無欲な人物である。我欲にまみれた願い事など聞き入れてもらえないばかりか、罰が当たってしまうだろう。それに、どういうわけかそういう願いに限って成就しないものである。
 参道の脇には、上杉謙信や、上杉景勝とその筆頭家老である直江山城守兼続(1560~1619)に、米沢藩9代藩主・上杉治憲の像が置かれている。他にも、陸奥仙台の大名である伊達政宗(1567~1636)の出生地という石碑がある。
 境内に人影はまばらである。観光客と思しき人もいれば、近所に住んでいる人と思しき人もいる。景勝と兼続の像や、政宗出生地の石碑の前で写真を撮っているのは、恐らくは観光客であろう。
 結城は、神社に参拝したことがないかと言えば、そういうわけでもないが、初詣と酉の市の時しか神社に行ったことがない。どちらも、境内は参拝客でぎっしりで、賽銭箱までたどり着くのも難儀である。だから、このように人がいない神社というのは、結城にとっては新鮮な光景だった。
「なあ、ナイル?」
「ん?」
「もし、もしも、だ……。この状況が年末年始まで続いたとして、だ。初詣とか随分、いつもとは違ったものになるんだろうな」
「う~ん、そうかもね。ずっと今みたいな感じだったらね……」
 酉の市や初詣は、言ってみれば「超三密状態」である。といって、神社側も信心でやっていることに対して「来るな」とは言えないだろう。初詣は単なるイベントではなく、その年の無病息災を願うという神道的に重要な意味がある。「超三密状態」になるのは避けられないだろう。果たして、どうなるのだろうか。
(賽銭をするときの作法はどうするんだったかな……?)
 そんなことを考えながら、参道を歩いていると、手水舎が左手にあった。まずはここでお清めをしなければならない。本来ならここで、口と手をお清めするのが参拝の作法だが……。
「ねえ、ご主人使えないよ、どうすんのさ?」
「う~ん、神社がやらなくていいって言ってるんだから、やらなくていいんだろ?」
 ひしゃくは撤去され、水も止められていた。これではお清めができないが、感染予防のためと書かれた張り紙がしてある。作法通りではなくなってしまうが、ひしゃくは不特定多数の人が触るため、止むを得ない処置だったのだろう。
 次は拝殿で、参拝をする。最低限の作法は頭に入れてきたつもりだったが、いざやるとなると、やはり不安である。
 まず、賽銭の前に拝殿で礼をする。その後賽銭をし、2回礼をし、2回手を叩く。そして、1回礼をする。最後に、拝殿から立ち去る際にもう1度礼をする……というのが基本的な作法である。ちなみに、賽銭をした後、鈴を鳴らすのが普通だが、やはり感染対策ということで鈴と麻縄は撤去されていた。
 拝殿の奥にある本殿では、何やら儀式の最中であり、神職の方が神様に祝詞を捧げていた。
(あ、邪魔したかな……)
 そう思った結城たちは、ぎこちないながらも作法に則った参拝を済ませ、そそくさとその場を離れた。結城もナイルも、祭神に無礼があってはいけないと思い、作法通りに参拝を済ませることで頭がいっぱいで肝心な願い事を何もしなかったことに気が付いたのは、それからしばらく経ってからだった。
 境内には「上杉神社稽照殿」という上杉由来の物を収めた蔵があるそうなので、そこに行ってみた。400円を払って中に入る。
 中は薄暗く、建物が古いのか、床は軋み、音を立てる。
 ここには、直江兼続の物と伝わる「愛」の前立ての兜「錆地塗六十二間筋兜」が展示されている。
 直江兼続といえば、愛の前立ての兜や、愛妻家であったこと、関ヶ原合戦の直前に「景勝に謀反の疑いがある」という内府(家康)に対し弁明というよりは、挑戦状ともとれる書状「直江状」を送り付けたことで知名度が高い。
 行政手腕に優れてはいたが、関ケ原の合戦と連動して起きた慶長出羽合戦では、山形攻めに失敗し、上杉の領土を大幅に削られ、苦難の時代を到来させてしまった人物として、評価は低かった。今日のように「名将」として良い評価がされるようになったのは、治憲が兼続の執政を手本にしたからだと言われている。もっとも、兼続自身も責任を感じていたのか、子供に先立たれても養子をとることはしなかった。そのため、兼続没後、その血筋も系譜上の繋がりも絶えてしまった。
 知名度が高い武将だが、20歳頃までは何をしていたのか分かっておらず、どこで生まれたのかも諸説があり、はっきりとは定まっていない。今後研究が進んだり、新たな資料の発見で分かってくることもあるかもしれない。
 他にも、川中島戦いの折に、上杉謙信が書いたとされる武田を討ち果たすという内容の願文が展示されていたが、こちらはレプリカだった。
(なんだ、ホンモノじゃないのか……)
 結城は残念に思ったが、後世に残す必要がある歴史的価値の高いものである。失われてしまっては大変だ。おそらく本物は、どこか別の場所で厳重に管理されているのだろう。
 一通りの物を見て、稽照殿を後にした。ちょっと、展示物が少ないようにも思えたが、有名な「『愛』の前立ての兜」を実際に見ることができたので、良しとした。
 薄暗い建物の中から外に出ると、外が一層まぶしく感じられる。建物の中は、エアコンが効いていたこともあって、蒸し暑さが倍増しているような感じがする。
 さて、これからどうしようかと考えていると、すぐ近くに「米沢市上杉博物館」という施設があるそうなので、そこへ行ってみることにした。

 その施設は、稽照殿とは対照的に、2階建てで、採光のための強化ガラスが存在感を放つ何とも現代的な建物であった。
 入場料・410円を払って、中に入る。ところが、結城は係員に呼び止められる。
「えっ?」
「恐れ入ります、手の消毒の方を……」
 結城は、エタノールで手を消毒する。当分は、感染対策のため、どこへ行ってもこのようなことをしなければならないのだろう。
 中はエアコンが効いていて、蒸し暑いのが苦手な結城やナイルにとってはありがたかった。
「あー、涼しい……」
「やっぱ、エアコンが効いたところは、真夏のオアシスだよな」
 お互いこんな会話をしながら、順路に従って、展示物を見ていく。やはり、米沢を統治した名君・上杉治憲に関する展示が多かった。
 出羽米沢藩は、領地が大幅に削られたにもかかわらず、武士のリストラをしなかった。その為、収入は大幅に減ったが、人件費は最大領土である120万石の時のままであり、藩財政は人件費で圧迫されいきなり台所事情は苦しかった。
 さらに、3代藩主・上杉綱勝(1639~64)は病弱で子供がおらず、上杉は断絶の危機に立たされた。綱勝の妹が、嫁ぎ先で産んだ子を養子としてもらい受けることで、御家断絶は免れたものの、ペナルティーとして現在の福島県中通りの領地を没収されてしまい、領地は15万石になってしまった。
 こんな状況で、藩主となったのが、上杉綱憲(1663~1704)である。実父は「忠臣蔵」の悪役として知られる吉良上野介(1641~1702)である。
 吉良家から、養子を迎えたことで断絶の危機はひとまず去ったが、綱憲は何かと実家から集られてしまう。上杉としては断絶の危機から救ってもらったということもあるし、綱憲も実父には強く出ることができなかった。結局、実家にかなりの額を仕送りしなければならず、苦しい財政をさらに圧迫することになってしまった。
(吉良は実は名君だった……とも言われているけど、上杉に集っていたのもまた事実だし、毀誉褒貶の激しい人物なんだよな……)
 4代藩主・綱憲は、教育や文化事業に力を入れたが、台所事情が苦しい中にもかかわらず、惜しみもなく文化事業に金を使ったため、もともと苦しかった台所事情はさらに苦しくなった。
 こういった放漫財政はしばらく続き、綱憲の孫で8代藩主・上杉重定(1720~98)の頃には、自己破産も時間の問題というところまで来てしまった。こんな状況だったが、重定には浪費癖があり、政治にも無関心で、危機感が全くなかった。
 重定には、長らく後継となる男子がおらず、39歳の時に他所の家から養子を迎えることになった。日向高鍋の大名・秋月種美(1718~87)の次男で、名前を松三郎といった。この松三郎こそが、後の名君・上杉治憲である。幼少の時から優秀で、母方の先祖が2代藩主・上杉定勝(1604~45)だからというのが養子に選ばれた理由だった。
 ちなみに、実父の秋月種美や兄の秋月種茂(1744~1819)も名君だったと伝わる。
 明和4(1767)年に重定が引退し、治憲が後を継いだ。実は、長らく子供がいなかった重定だったが、40歳の時に後継となる男子が誕生してしまう。が、重定は予定通り養子に跡を継がせることにした。治憲が日本史に名を遺す名君だったことを考えると、この決断は英断だったと言える。
「まあ、重定は政治に興味関心がなく、部下に丸投げだったから、単に『もう決めたのだから、今更変えるのも面倒ではないか……』という程度の理由だったのかもしれないけどな」
「結果オーライだね」
 重定の引退で、米沢藩の命運は、実家は九州、生まれたのは江戸の高鍋藩邸という米沢とは縁もゆかりもない人物に託されることになったのである。治憲の実家・日向高鍋藩の領地は2万7千石で、一方で米沢藩は15万石である。これだけだと実家よりも大きな藩から、跡取りに欲しいというラッキーな話が舞い込んできたようにも見えるが、現実はそんなに甘くなかった。
 治憲が藩主を継いだ頃には、歴代の放漫財政の積み重なりで、借金は膨れ上がり、自己破産も時間の問題だった。ラッキーどころか「超」のつく貧乏くじである。治憲は生涯をかけて米沢藩の財政再建に取り組むことになる。
 
 米沢を破産から救った名君とあって、治憲と生涯をかけて行った藩政改革については詳細な展示がされていた。
 8代藩主・重定の代に藩政を取り仕切っていたのは、森利真(1711~63)なる人物であった。重定が幼少の時から、仕えていたこともあり、重定が藩主となると、とんとん拍子に出世を果たした。その権勢は、他に並ぶ者がいないほどになる。
 森は専横を極め、商人と癒着し、一族で利権を独占した。森とその一族は利権で肥え太っていったが、一方で増税と、重定の信任をいいことに政治を壟断したため、あちこちで恨みを買ってしまう。
 ついに宝暦13(1763)年3月、竹俣当綱(たけのまた まさつな 1729~93)により暗殺される。事件後「あくまでも標的は、森とその一派であり、重定に対しては何ら恨みに思っていることはない」という報告がされ、重定もこの暗殺を黙認した。
 治憲が藩主となった際に、藩政改革の中心となったのが、先ほどの竹俣当綱である。
 とにかく収入を増やし、支出を減らすことが急務であった。藩主・治憲自らが粗衣粗食・質素倹約を心掛け、模範となった。藩主は、基本的に1年を国元で過ごし、もう1年を江戸で過ごすというサイクルを取らなければならない。江戸にお勤めしている際も支出を可能な限り切りつめ、従来の7分の1にまで減らした。
 その一方で、竹俣当綱による新しい田畑と、売って金に換えることができる商品作物の開発を中心とする増収策がとられていた。
 改革は順調だったかと思いきや、森という共通の敵がいなくなったことで、竹俣を中心とする改革推進派と、改革反対派に意見が割れてしまう。これが「七家(しちけ)騒動」(1773年)という出来事である。改革反対派の主要人物として、7人が名を連ねていたことからそう言われる。いずれも代々上杉に仕えてきた身分の高い家の者たちである。
 治憲自身は、穏便に済ませようと思ったのか、特に何もしなかった。しかし、ある時、改革反対派の者が、治憲に無礼を働いたということを前藩主の重定が聞きつけると、普段は政治に口出ししないはずの重定が「養子とはいえ我が子に無礼を働いたのは許しがたい」と激怒した。結局、重定の命令により、改革反対派の者たちは死罪を含む厳罰に処された。
 重定自身の浪費癖は相変わらずだったが、治憲は何も言わなかった。ただ結果的に、重定の強権発動で、改革反対派を黙らせることができたし、浪費癖によって質素倹約が厳命されている中でも、ある程度経済を回すことができた。重定は好き勝手やっているように見えて、改革の邪魔はしていない。単なる結果オーライだったのか、遊び人のようで実は「デキる人」だったのだろうか?
 抵抗勢力がいなくなったことで、改革は進んでいた。が、長い間権力を握り続けていると、人間というものは良くないほうに行ってしまうものらしい。
 天明2(1782)年、藩政改革を取り仕切っていた竹俣当綱に「米沢藩の金を横領している」という疑惑が浮上し、当綱は失脚した。後に、改革の中心となる莅戸善政(のぞき よしまさ 1735~1804)も本人に落ち度はなかったが、辞表を提出し、引退した。
 また、同時期に天明の大飢饉(1782~87)が発生したことで、領民の救済を最優先にしたことで改革どころではなくなってしまった。
 1770年代から東北地方は天候不順が続いていた。莅戸善政は、大飢饉が発生することを見越して予め様々な備えを講じていた。この予見は当たり、天明3(1783)年に、東北地方は記録的な凶作となる。盛岡藩や八戸藩では、農作物の生産量が平年の95%減(八戸藩)とか全滅(盛岡藩)という事態に陥ってしまう。この飢饉は数年の間続いた。
 米沢では、被害は最小限に食い止められたものの、長い年月をかけて備蓄されたものも、数年間に及ぶ大飢饉で使い果たしてしまい、改革は振り出しに戻ってしまう。さすがの治憲もなかなか思うようにいかない現実に嫌気がさし、34歳の時に藩主の座を降り、鷹山と号した。後任の藩主は、鷹山の養子で、元藩主・重定の次男である上杉治広(1764~1822)であった。ちなみに、鷹山にも実子が2人いたのだが、先立たれ、その2人には子供がいなかったため、残念ながら、鷹山の血筋はそこで絶えてしまった。
 ただ、重定と治広の親子は、鷹山に後見を望んだため、引き続き政治をみることになった。
 大飢饉が収束し、藩の立て直しが急務であった。家老の中条至資(1757~1814)が藩政改革の担い手となったが、成果に乏しく、結局、引退していた莅戸善政が復帰して改革の指揮を執ることになった。
 善政は、藩内に一定量の金銭や穀物の積み立てを命じる一方で、万が一、凶作で稲がやられても何とかなるように、代用食の開発を行わせ、善政自らが、植物学者の意見を取り入れたうえで「かてもの」という本を出版し、再び大飢饉が発生した際の備えとした。
 鷹山や善政が米沢藩を立て直し、自己破産から救った功労者であるためなのか、この2人の業績についてはかなり詳しい展示がなされていた。
「かてもの」には、米が取れなかった際に、代わりに食べられる植物について記してあり、中でも自然薯は、荒れ地でも育つうえに、栄養があって、おいしいという理由で栽培が奨励されている。一方で、絶対に食べてはいけないという植物についても記述があり、その中の代表がトリカブトであった。詳しい文言は忘れてしまったが「絶対に食うな、即死する」というようなことが書かれていた。
 鷹山や善政とその子である政以(まさもち 1760~1816)、そして、その後任である大石綱豊(1756~1829)の執政により、米沢藩が抱えた多額の借金はすべて返すことができた。文政6(1823)年、名君・上杉鷹山の没した翌年のことであった。
 当時の藩主・上杉斉定(1788~1839)は、このことを大層喜び、上杉謙信が祀られている廟に借金完済を報告したという。斉定の晩年に天保の大飢饉(1833~39)が発生し、大都市の大阪でも餓死者が相次ぎ、凄惨を極めた。
 しかし、米沢藩では鷹山や善政により備えが十分だったことと、大飢饉発生時の方針が示されていたために数年にわたった大飢饉も餓死者を出さずに乗り切ることができた。
 こうして、斉定の代には、借金を完済し、台所事情も黒字になった。その後、戊辰戦争で旧幕府側についたため、多少領地を削られたものの、取り潰しや他所への領地替えは免れた。
「ご主人、でも、まだ続きがあるね」
「みたいだな」
 
 米沢市の近現代の著名人の写真が飾られていた。何名かいたが、上杉鷹山の藩政改革の展示の量と比べると、圧倒的に少なかった。
(へえ、池田成彬って、米沢出身なんだ。あの戦前の巨大財閥のトップがね……)
 池田成彬(いけだ しげあき 1867~1950)、戦前の4大財閥の1つ、三井財閥の元総帥である。三井財閥は大正時代の中期から、九州の三池炭鉱経営で大成功を収めた團琢磨(だん たくま 1858~1932)男爵が長らく率いてきたが、会議のため、出勤してきたところを「血盟団」というテロ集団の一員に暗殺されてしまう。昭和7(1932)年3月5日のことである。
 この大事件は、1ケ月前に起きた前大蔵大臣・井上準之助(1869~1932)の暗殺事件と合わせて「血盟団事件」として、日本史の教科書にも載っている。この年は、政財界の大物の暗殺が相次ぎ、社会を震撼させた。ちなみに実行犯は現場で逮捕され、血盟団の首魁・井上日召(1886~1967)も後に逮捕され、血盟団による事件は起こらなくなった。
 この非常事態の後に、三井財閥の総帥となったのが池田成彬だった。総帥だったのは5年ほどだったが、その後も政財界へ大きな影響力を持っていた。
 
 一通りの物を見終えて、外に出る。外は青空が広がっている。ムシムシとした空気は相変わらずだったが、どんよりとした曇り空の下を歩くのと比べると、気分も違うというもの。
(急いで、米沢駅に戻れば、12時27分の電車に間に合うかもしれないな……)
 急げば、予定よりも1本早い電車に間に合うかもしれない、結城はそう考えた。
 結城たちは、米沢駅に戻ることにした。
 場所によりけりだろうが、中には、余所者への風当たりが強いというところもある。必ずしも都市部が寛容で、地方がそうだというわけではないが……。米沢から遠く離れた日向高鍋の大名家の子が養子としてやってきたのだ。かろうじて、上杉との血の繋がりはあるものの、実家は日向、生まれたのは江戸の藩邸である。上杉鷹山は言ってみれば余所者だ。しかし、他の上杉の当主は敬称略で呼ぶことはあっても、鷹山だけは「鷹山公」と「公」付けで呼び、敬意を払っている。このことだけでも、この米沢で、どれだけ敬愛されているかが分かるというものだ。
(それにしても、蒸し暑いな……)
 ふと横を見ると……。
「ちょっと待て、何で、お前、飛んでるんだよ」
「え? ダメ?」
「だったら、乗せてくれよ」
「イヤだよ」
 結城はナイルが自分だけ楽をしているのを咎めたが、ナイルは取り合わない。腕時計を見て、結城は12時27分の電車に間に合いそうだな、と判断した。とりあえず、電車に乗ってしまい、昼食は山形でとることにした。
 駅につき、時計を見ると、時計の針は12時21分を指していた。
(やった、間に合ったぞ!)
 ロッカーに預けていた荷物を取り出し、改札を通る。ホームには、12時27分発、山形行きの普通電車が発車を待っていた。
 結城が急げ、急げとナイルをせかし、電車に乗り込む。車内は学校帰りと思しき先客がたくさんおり、残念ながら座ることはできなかった。
(まあ、いいか。間に合ったし、その内、空いて座れるようになるだろ)
 定刻通りに山形行きの電車は米沢駅を発車した。座れなかったので、最後尾に突っ立って、後ろに流れゆく景色を楽しむことにした。
(やったぜ、間に合った)
(あ~……米沢牛食べたかったな……)
 異なる思いの余所者を乗せた電車は、奥羽本線を北上していく。ほどなく市街地が途切れ、田んぼのあぜ道の上にレールを敷いたような場所を進んでいく。路線名は「本線」とあって立派だが、単線である。
 各駅停車なのだが、かなりスピードを出す。運転台についているスピードメーターを見ると針が「100」のところを指している。米沢駅を出てから、5分ほどで次の置賜駅に到着した。
 この電車に限らず地方を走る電車は、駅で乗り降りする際には客がボタンを押して、自分でドアを開けないといけないのだが、少しでも換気をよくするためなのか、すべての扉が自動で開け閉めがされていた。この駅で、反対側からやってくる列車とのすれ違いのため、数分間停まる。
 程なくして、反対側からやってきた東京行きの新幹線が、駅を通過していった。


 第4章 狐にして虎

 電車は駅で、学生たちを降ろしながら、山形県内を北上していく。赤湯駅で、空席が目立つようになってきたので、席に座ることにした。早起きしたためなのか、先ほどの街歩きの疲れが出たためなのか、結城は急に眠くなってきた。終点で降りるため、寝ていて降りられなかったという心配がないこともあって結城は、冷房がよく効いた車内で居眠りを始めた。
 目が覚めると、電車はかみのやま温泉駅に着いたところであった。あと、10分少々で終点に到着する。
 道中、何か変わったことが起きるわけでもなく、電車は、定刻の13時15分に山形駅に着いた。奥羽本線という路線自体は、山形県内を北上して、秋田県を通過し、青森駅まで伸びているのだが、今日は仙台に1泊する予定なので、これ以上奥羽本線で北上することはない。かつては、東京と東北を結ぶメインルートの1つとして、全線を通しで走る急行列車があったのだが、もう20年以上も前に廃止になってしまった。
(金持ち相手の豪華寝台なんか無くてもいいから、のんびりと目的地を目指す下々のための急行があってもいいと思うんだよな……)
 今は、飛行機や高速バスの運賃が値崩れを起こし、路線も豊富ということで、一晩かけて目的地へ行く列車があったとしても、採算が取れるほど客は乗らないだろう。JRも公共性が強いとはいえ、民間企業なのだから、採算が取れないことをやるわけがない。結城も、そんなことは分かっているが、陸路で遠くに行くのであれば新幹線一択というのも何だか面白みに欠ける気がしないでもなかった。
 山形市は、人口は約24万8千の都市である。ごちゃごちゃとした猥雑さはなく、静かな町だなという印象を持った。
(なんか、雲行きが良くないな……)
 空を見上げると、灰色の雲が空を覆っていた。昼御飯にしてもいい時間だが、雨が降りそうだったので、その前に山形城跡だけ見ておくことにした。結城の目当ては、城そのものよりも、その跡地に立っている銅像だった。とにかく、一目、生で見ておきたいと思っていたのである。
「なあ、ナイル?」
「うん、どうしたの?」
「山形市って、一昔前まであることで日本一だったんだ。それは何だか分かるか?」
 道を歩きながら、そんなことを話す。山形も、米沢と同様盆地にある都市のためか、ムシムシとした空気が滞留しているように感じる。
「さあ、山形だから、サクランボの生産量とか?」
「あ~、ありそうだけど違うな」
「じゃあ、お米」
「米は、新潟だろ?」
「そっか、じゃあ、桃とか?」
「桃って山形で作っているのか? まあ、なくはなさそうだけど、違う。ヒント、食いもんじゃないぞ」
「じゃあ、積雪量」
「違うけど、嫌な日本一だな、それ」
 山形市は、日本では比較的北にありながら、昭和8(1933)年7月25日に、40.8度の最高気温を観測し、平成19(2007)年8月16日に岐阜県多治見市にとって代わられるまで、日本における最高気温地点の観測地であった。山形市は盆地にあるため、気温が上がりやすいところではあるが、夏場は40度を超えることが普通の灼熱の地ではなく、その年は異常気象で、気温が上昇する条件がいくつも重なった偶然の結果であったという。ちなみに現在の日本における最高気温地点の観測地は、埼玉県熊谷市である。
 
 結城の目当ては、山形城跡である。現在は「霞城公園(かじょうこうえん)」として、歴史的な施設というよりも、スポーツ施設として整備されている。敷地内には、体育館や弓道場がある。
 14世紀から17世紀の前半にかけて、出羽山形を統治したのが最上という大名家である。最上家はもともとは名門で、出羽全土(山形県+秋田県)に号令を下すことができる役職・羽州探題に就任可能な家柄だった。
 だが16世紀になると、陸奥の大名・伊達稙宗(1488~1565)が出羽に侵攻し、最上家は敗れた。その結果、最上家は、伊達家に従属することを余儀なくされてしまい、その勢威は大きく衰えてしまう。最上本家が没落したため、相対的に分家の力が強くなった。この分家の連合は「最上八楯(もがみやつだて)」と呼ばれ、伊達家と結んで本家の前に障害となって立ちはだかることになる。
 最上が伊達に従属を余儀なくされてから、30年近くがたった頃、政策の方針を巡って、伊達稙宗と嫡男・晴宗(1519~78)との間で内紛が起こる。これが世にいう「天文の乱」(1542~48)である。この内紛というか大規模な親子喧嘩は東北の様々な大名を巻き込んだ騒ぎとなった。この乱の結果、伊達は一時的に衰えることになる。
 伊達にとっては、とんだ災難だったが、伊達の従属を脱することができた最上にとってはラッキーな出来事だった。しかし、時の最上家当主・最上義守(1521~90)はそこまで優秀な人物ではなかったらしく、この乱の隙をついて多少の勢力拡大には成功したものの、かつての威光を取り戻すには至らなかった。
 この伊達家の傍迷惑な親子喧嘩の最中に、最上家の全盛期を築いた傑物・最上義光(1546~1614)が誕生する。そして、この2年後には義光が大変可愛がっていたと伝わる、妹の義姫(1548~1623)が生まれている。
 最上義光。「出羽の虎将」とも「羽州の狐」とも言われている。策謀に長ける一方で剛力無双の豪傑であったが、それだけではなかった。文芸にも造詣が深く、病気がちだった最晩年を除いては書記を雇わず、手紙は代筆させることなく、自らの手で書いていた。
 伊達家に嫁いだ妹の義姫とも、まめに手紙のやりとりをしていたと伝わっている。「義光」という名前は読みが長らく不明であったが、妹から義光に宛てた仮名文字で書かれた手紙が発見され、それで「よしあき」と読ませることが分かったという。
 
 山形駅の西口を出て、交差点で右に折れて、歩くこと数分。お濠にかかった橋を通って、城跡に入る。地図を見ると、ここは「南大手門跡」であることが分かった。ところどころに石垣が残っている。
 山形城は三の丸まであったらしいのだが、今日目にすることができるのは二の丸までである。最上家は義光の孫・義俊(1605~32)の代に発生した内紛のため、出羽山形57万石の領地を没収されてしまう。領地没収とはなったが、江戸幕府のお情けで現在の滋賀県東近江市に1万石の領地を与えられ、最低ランクの大名として存続することを許された。義俊の没後、跡を継いだ義智(1631~97)はまだ幼く、そのことが原因で、ペナルティーとして1万石の領地を5000石に減らされてしまい、大名ですらなくなってしまった。血脈は後世に伝えたものの、この後、最上家が大名に返り咲くことはなかった。
 一方で、57万石という広大な領地を持ち、城も大大名にふさわしい広大なものだったが、最上家が山形を去った後はこの57万石は、いくつかの藩に分割されてしまう。
 山形藩という藩そのものは残ったが、最初は57万石という広大な領地も、次第に削られ、江戸時代末期には5万石になってしまった。江戸幕府成立から、明治維新までずっと上杉家によって統治されてきた米沢とは対照的に、山形の場合いくつもの家が入れ代わり立ち代わりやってきた。短期政権が続いたためなのか、上杉鷹山や伊達吉村(1680~1752)に匹敵するような名君も現れなかった。広大な山形城も整備が追い付かなかったという。
「まあ、大きすぎる家も考えものってことかな。家の大きさは身の丈に合ったほうがいいわな」
「そういうもんかな?」
「いや、そうだろ? 島原の時も説明したと思うけど」
 二の丸のずっと外側に三の丸があったのだが、今はその場所に石碑が立っているだけで、最上家の全盛時代の城を見ることは不可能である。時代が下ると、山形藩という行政機構はどんどん縮小していき、城はかなり荒れてしまったという。
 今でも、歴史的な施設というよりも、スポーツ施設としての役割が強いように思える。自己鍛錬に余念がない人々やポケモンを結城はぼけっと見つめていた。
「どうしたの? ご主人」
「いや、最近、運動量が減ったな、と思って」
 今は暑い夏でも、快適な環境で運動できるようにスポーツジムがあちこちにある。だが、感染のリスクがあるというので、軒並み臨時休業してしまっている。また、外を出歩く機会も減ってしまった。ウイルスのことなど気にせずに運動ができるようになるのは、いったいいつになるのだろうか、と思わずにはいられなかった。
 今年はスポーツだけでなく、イベントも中止や延期が相次いでいる。山形市には最上義光の呼びかけが起源といわれている「薬師祭植木市」という祭りがあるそうなのだが、こういうご時世なので中止になってしまった。
 敷地内を歩き、二の丸東大手門をくぐると、目当ての最上義光の騎馬像がある。馬上で指揮を執る義光の姿が再現されている。義光の豪傑ぶりを際立たせるためなのか、乗っている馬も後ろ脚だけで立たせるという非常に難易度の高い技術が施されている。ちなみに東日本大震災の時もびくともしなかったとのことである。
 敷地内を歩いていると、東側の櫓のところで、無料の展示会を開催中という幟があったので見ていくことにした。
 無料で城の櫓の中に入ることができるのは良かったが、入り口のところで、靴を脱いでスリッパに履き替えないといけない。それだけならまだよかったのだが、ナイルの足の裏まで綺麗にしてやらないといけないという。外で待たせるのも可哀想なので、備え付けのアルコール配合のウェットティッシュで、文句を垂れながらも綺麗にした。
 汚れをきっちり落とすため、力を入れて足の裏をこする。
「ひゃははっ、ご主人、くすぐったいって!」
「あー、うるさいうるさい、もう……」
 結城は「うるせえな、もう」「あぁ、くそぅ。面倒だ」などと文句を垂れながらも、格闘すること5分。足を念入りに綺麗にする。さらに万が一の際、感染経路の特定をするためなのか、住所と名前を用紙に書くように言われた。ここまでして、ようやく展示を見ることができた。展示は山形城の近隣で起きた長谷堂城の戦いについてのものであった。
 感染対策の一環であることは分かるのだが、世の中には、靴を脱いで上がる公共の場というのが、思ったよりもたくさんある。そういうところに行くたびに、こんなことをしなければならないのかと思うと、結城は少々気が重くなった。
 
 最上義光の68年の生涯のうち、3分の2は、合戦の連続だったといっても良い。多くの合戦の中で、恐らく最大の危機となったのが、関ケ原の戦いと連動して起きた「慶長出羽合戦」である。
 義光が生まれた時、現在の山形県は、置賜地方は伊達、庄内地方は大宝寺という武家が支配していた。残りの村山、最上両地方は、最上家をはじめとするいくつかの武家の群雄割拠状態となっていた。
 伊達家とは、天文の乱を起こした晴宗の次男である輝宗(1544~85)に、妹の義姫が嫁いだということもあって縁戚関係になっていた。といっても、後に死闘を繰り広げることにはなるが……。
 若年ながらも、並外れた腕力と優れた智謀を持つ義光は24歳で最上家を率いる立場になったが、優秀な当主の出現に、近隣に存在する分家の集団「最上八楯(もがみやつだて)」は警戒を強めた。最上八楯はまず、引退した最上義守を担ぎ出した。さらに、近隣の大勢力である伊達家の当主・伊達輝宗に援軍を要請した。輝宗はこれに応えて、援軍を派遣した。天正2(1574)年1月のことである。
(まずいな、敵が多すぎる……)
 正攻法では勝てないと踏んだ義光は、2月の末に平身低頭で和議を申し出た。これで停戦が決まり、しばらくは大人しくしていたが、3月の下旬に敵方に奇襲攻撃を仕掛け、再び戦となる。この約束違反に怒った輝宗は領内に動員令を出し、自らも軍を率いて山形の近隣にある上山に侵攻した。
 戦は一進一退となり、9月に最上と伊達の間で交渉がまとまり、和議が成立した。その後も、15年ほどは領土拡大のため、近隣の勢力と合戦を繰り返すことになる。

 ところで、義光が21歳の時に、輝宗と義姫の間に梵天丸という名の男子が生まれている。義光からすれば甥にあたるが、この梵天丸が後の伊達政宗である。
 輝宗が当主の座を政宗に譲って、隠居した頃、義光と分家集団・最上八楯との戦いは続いていた。最上八楯の中心となっているのが、天童家であった。天童家に仕えている武将に延沢満延(のべさわ みつのぶ 1544~91)という人物がいた。義光以上の怪力の持ち主で、また戦上手であった。そのため、天童家との戦いは長期化した。
 義光は、延沢満延さえ何とかできれば勝ち目はあると考えた。しかし、戦や闇討ちで仕留められるような人物ではない。義光は側近で、交渉に長けた氏家守棟(うじいえ もりむね 1534~95)に命じて満延の引き抜きを図った。
 氏家守棟の交渉により、義光の娘と満延の息子を結婚させ、義光と満延が縁戚関係になることで、満延を引き抜くことに成功した。この際、満延側からも条件が出され、守棟は義光の元にその条件を持ち帰ってきた。
「何? 条件があるだと?」
「はい、いかがなさいますか?」
 守棟から聞かされた条件とは、満延の主君である天童頼澄の命を助けることであった。相手は敵対勢力の盟主である。城を落としたとしても、生きている限り反乱を起こす危険もあった。しかし義光は、守棟に承知したと伝えるように命じた。戦上手の満延の引き抜きの成功により最上八楯は急速に弱体化し、拠点であった天童城も陥落した。天童頼澄は伊達領に逃亡した。
 約束を反故にして、追っ手を差し向けることもできたかもしれないし、また生かしておくのは危険という理由でそういったことを進言する者もいたかもしれない。だが、義光は約束を守り何もしなかった。これは天正12(1584)年の出来事である。天童頼澄の生没年は分かっていないが、この後、数年間は伊達領内で生活していたことは分かっている。伊達政宗からは領地・1000石が支給され、元領主としてそれなりの待遇は与えられていたようである。
 それから4年後のこと、現在の宮城県北部を収める武家・大崎家でひょんなことから内紛が勃発すると、伊達政宗は、譜代の家臣である浜田景隆(1554~91)を代理として派遣した。大崎家は東北地方でも指折りの名家だったが、それは過去の話で、この頃には完全に没落してしまっており、伊達に従属しながら細々と生きながらえているに過ぎなかった。
 政宗からしてみれば、主筋にあたる伊達が何とかしてやるのが筋というもの、という名分で派兵したのだが、大崎家当主・義隆(1548~1603)は家を政宗に潰されることを恐れて、義光に援軍を要請した。単に、大勢力だったからという理由ではなく、義隆の妹の旦那というのが、義光だったのである。
 義光と政宗の直接対決というわけではなかったが、伊達と最上・大崎連合軍の「大崎合戦」が始まった。天正16(1588)年1月のことである。浜田景隆率いる伊達軍は現在の宮城県加美町にあった中新田(なかにいだ)城に攻め込んだ。この中新田城があったとされる場所は、現在も2つの国道が交差する場所であり、恐らく当時も交通の要衝であったのかもしれない。
 しかし、攻め込んだものの、時期は真冬。大雪で思うように身動きが取れないうえに、後続の留守政景(政宗の叔父・1549~1607)と泉田重光(1529~96)はお互い、ものすごく仲が悪く、案の定、戦の方針を巡って対立し、伊達軍の足を引っ張る原因となった。
 結局、伊達軍は敗戦を喫し、撤退した。義光は援護のため、伊達領内に攻め込んだ。伊達軍もこれに応戦し、各地で小競り合いが起きた。実家と嫁ぎ先の潰し合いを憂慮した義姫が和議の仲介をし、優勢だった義光は可愛い妹の頼みということもあってしぶしぶ和議に応じた。ところが、肝心の政宗は和議に応じなかった。
「優勢であった伯父上の方から、和議の申し入れがあるとは……。何か、裏があるのではないか?」
 と、言い出したため、なかなか和議がまとまらなかった。こうした状況の中、天正16(1588)年8月、上杉景勝配下の武将・本庄繁長(1539~1613)が現在の山形県・庄内地方に攻め込んできた。庄内地方は豊かで、しかも酒田に大きな港があるため交易収入も見込めた。周辺の大名からしてみれば、何としても手に入れたいところであった。
 当時は織田家などの例外を除いて「職業軍人」や「常備軍」というシステムはなかった。そのため、すぐに軍事行動に出ることは難しかった。景勝や繁長が兵を集めているという情報は義光や政宗の元にも届いていたのだろう。動くに動けず焦る義光と、あれこれ理由をつけて和議の成立を先延ばしにしようとする政宗の姿が目に浮かぶようだ。
 庄内地方は数年前に、義光は周到に策を練り、大宝寺を滅ぼし手に入れた場所であった。9月に和議がまとまり、大急ぎで救援に向かった義光だったが、守備部隊は繁長に蹴散らされ、庄内地方は陥落してしまった。さらに、繁長は現在の村山地方にも軍を進めてきたが、こちらは撃退に成功した。
 ちなみに、義光が庄内地方を上杉に奪われてしまったことを知った政宗は大喜びしたという。最上があまりにも大きくなるのは伊達にとっても好ましくはないが、それ以前に大崎合戦のこともあるし、義光が勝ちっぱなしというのも気に食わなかったのだろう。政宗、この時まだ21歳である。成人してはいるが、ところどころ子供っぽさが残っていても不思議ではない年齢である。
「政宗、庄内が上杉の手に落ちたことを知って『ざまぁ! 伯父上がしくじると気分がいいな!』とか言ってたんだろうな」
「どうだろうね?」
 この義光にとって屈辱の敗戦から12年後、上杉と最上は再び合戦に及ぶ。慶長5(1600)年9月、関ケ原の戦いと連動して、東北地方でも合戦が起きていた。世に言う「慶長出羽合戦」である。展示の内容は、その中でも絶望的な兵力差であるにもかかわらず、上杉を撃退した長谷堂城の戦いに関するものだった。現在は、その地に城はないのだが、跡地が残っている。小規模ながらも守りの堅い山城であり、今でもそこからは山形市街を一望できるそうなのだが、今回は行かなかった。
 上杉の領土は広大なものだったが、1つ問題があった。この頃の上杉の領土は、現在の福島県会津地方と中通り、山形県置賜地方と庄内地方、宮城県の一部、佐渡島の合計120万石である。その内、庄内地方と佐渡島は飛び地になっていた。会津や置賜地方から庄内地方へ行こうとすると、最上領(現在の村山地方+最上地方)が邪魔であり、義光も庄内地方の奪回を諦めたわけではなかった。要するに、戦になるのは時間の問題だった。
 義光として当初は家康がやってくるから、東北の諸大名と協力して、上杉をフクロにすればいいと思っていたが、上方で石田三成が挙兵すると、上杉討伐を中止して引き返してしまう。また、加勢に来ていた他の東北地方の大名も、適当な理由をつけて、自らの領地へ帰還を始めた。
 当初の目論見が大きく狂い、上杉を潰すどころか、逆に自分が潰されかねない状況に追い込まれてしまった。義光は甥である政宗に援軍を要請したが、返ってくるのは「行けたら行く」という煮え切らない返事ばかりだった。
(あの小僧……! わしを苦しめて楽しんでおるな……!)
 最終的に、政宗の母である義姫や義光の長男・最上義康(1575~1603)の要請により、政宗は留守政景率いる救援部隊の派遣を決定した。ただ、援軍を送ったとはいえ数は少なく、兵力差を埋めるには程遠かった。気丈な義姫もこの時ばかりは切羽詰まっていたのか「お前は母を見殺しにするのか!」「このままだと、伊達の名に傷がつくぞ! 早く援軍を寄越せ!」といった内容の書状を送ったといわれている。
 だが、政宗が救援部隊の派遣を決定したその日、上杉軍は山形城のすぐ近くまで軍を進めており、上山と長谷堂の2つの城でどうにか食い止めているところであった。
 その内の1つ、長谷堂城。長谷堂守備の責任者は、義光の側近で、文武両道の名将と伝わる志村伊豆守光安(しむら いずのかみ あきやす ?~1609)であった。そして、副将として情けに厚い豪傑・鮭延秀綱(さけのべ ひでつな 1563~1646)が派遣されていた。この時、城の守備兵は1000人ほどであったらしい。対する直江兼続率いる上杉軍は18000人の兵がいたという。
 長谷堂城そのものが高台にあり、加えて城の周りは田んぼや湿地帯になっており、攻めにくく守りやすい城ではあったが、兵の数に開きがあり、いつまで持ちこたえられるかは不透明であった。政宗が救援部隊の派遣を決定した日が慶長5(1600)年9月15日のことだが、この日にはすでに長谷堂への攻撃が始まっていた。
 このまま無策でいてはいずれ、攻めとされるだろうと考えた鮭延秀綱は志村光安にこんな提案をした。
「伊豆守殿、兵を200ほど貸していただけないでしょうか?」
「何か考えあってのことかな?」
「はい。この兵で、直江山城守に挨拶をしてまいります」
「いいだろう、私も行こう」
 9月16日に光安・秀綱は少数の兵で上杉軍に夜襲を敢行した。相手は籠城するとばかり思いこんでいた上杉軍はまさかの夜襲に大混乱に陥り、大きな被害を出した。連日の猛攻にも負けず、志村光安の巧みな指揮により城は持ちこたえた。連日の猛攻も成果がないため、直江兼続は、守備兵を引きずり出して、野戦に持ち込み、一気に守備兵を殲滅させようと考えた。そこで、兵たちに守備兵を挑発するように命じた。だが、光安も守備兵も挑発に乗らなかったため、この作戦は失敗した。
 戦線は膠着し、そうこうしている間に関ケ原で東軍が大勝利を収めたという知らせが届くと、西軍方であった上杉軍は撤退を始めた。救援に駆け付けた義光と守備兵はここぞとばかりに追撃に出たが、直江兼続は最上勢を振り切り、米沢への撤退に成功した。
 この長谷堂における攻防戦の決着がついた後、義光は庄内地方に兵を進め、上杉に奪われていた庄内地方の奪回に成功した。関ヶ原の戦いの論功でも家康から「功績大である」として大幅な加増(24万石→57万石)となった。
 義光は領内に善政を施したが、最上家による山形支配は長くは続かず、20年ほどで終焉を迎える。最上家が領地没収となってしまった時、義光の妹・義姫はまだ存命していた。実母が行き場を失ってしまったのを見かねたのか、政宗は実母を仙台に引き取った。晩年の義姫は病気で寝たきりというようなことはなかったが、高齢のため、体にガタが来ていたという。最上家が領地没収となった翌年の7月、実家の栄枯盛衰を見届けた、義姫は仙台でその生涯を閉じた。
 
 展示を見終えて、櫓から出てくると、空には黒い雲が立ち込めていた。雨が降るのも時間の問題といったところだ。
(一旦、駅に引き返すかな)
 そう思って、山形駅の近くまで来ると、パラパラと雨が降り出してきた。
「あ~あ、降ってきちゃったよ……」
 結城が雨宿りできる場所を探すと、近くにスーパーマーケットがあった。昼食の調達も兼ねて、スーパーマーケットに行くことにした。
 その、スーパーに着くと、雨が本降りになり、滝のような雨が降ってきた。視界も良くない。スーパーの一角がうどん屋になっており、結城たちはそこで昼食にしてしまうことにした。
 メニュー表を見て、結城は少し悩んでいたが、暑い時期であったので、ぶっかけうどんと温泉卵を頼んだ。サイズは「並」「中」「大」とあった。
(『並』と『中』って、意味は同じだよな……)
 結局、結城は中サイズを頼んだ。代金の440円を支払って、昼食をとる。ちなみにナイルも「ご主人と同じやつでいいや」と、同じものを頼んだ。
 メニューの中に期間限定として「だしうどん」なるものがあるのが気になったが、冒険をする気にはなれず、頼まなかった。
(出汁って、そりゃ、そうだろ。うどんなんだから……)
 と、結城は思ったが、この「だし」というのはいわゆるスープのことではなく、山形の郷土料理のことらしい。夏野菜と香味野菜を刻んで調味料で味をつけたものらしい。また、山芋やオクラを好みで加えるという。
(まあ、また来られるだろ、多分。新幹線で1本なんだから)
 好みは人それぞれだが、結城は暑い時期には暑いうどんよりも冷たいうどんが食べたくなる。温泉卵を絡ませ、ずるずると麵をすすっている結城が手を止めた。
「あっ……」
「どうしたの? ゴミでも入ってた?」
 ナイルがそんなことを言う。
「いや……。どうせ冷たい麺類を食べるなら、山形のご当地グルメ『冷やしラーメン』にすればよかったな、と思ってさ」
「それって、冷やし中華じゃなくて?」
「そう『冷たいラーメン』」
 冷やし中華とは異なり、醬油ベースのスープを使っているという。スープが冷たいのを除けば、醤油ラーメンとあまり変わらない。山形市は多治見市に取って代わられるまでは、長きに渡って日本における最高気温の観測地点であった。夏の猛暑を乗り切るための知恵の結晶とでもいうべきメニューである。
「あ~……しくじったわ……」
 手頃な価格で食べることができるB級グルメは、結城のように予算が限られている旅行者にとってはありがたい存在である。いくら節約しているといっても、毎回の食事がパンとミルクとかおにぎりとお茶では、確かに節約にはなるが、数ヶ月ぶりの遠出で、何故そんなストイックなことをしなければならないのか……。気分をリフレッシュさせに来たというのに……。
 通り雨だったのだろうか、外は土砂降りだったが、それも20分足らずのことであった。雨が上がると、それまでのどんよりとした曇り空が嘘のように晴れ上がった。
 昼食を取り終わる頃には、雨は上がっていた。
(さて、これからどうしようかな……)
 結城は考えた。今日の宿泊地は仙台である。山形から仙台に行くには、高速バスか仙山線である。どちらも所要時間は1時間程度で、途中で乗り換える必要はない。だが、今から予約してある仙台のホテルに行くには早すぎる。かといって、これから仙台市の見どころを見て回るには少し時間が遅い。
 慶長出羽合戦の際、長谷道城と同じく寡兵で上杉に頑強に抵抗した上山城を見に行こうかとも思ったが、山形駅から歩いて行けるところに「最上義光歴史館」というのがあるそうなので、行ってみることにした。
 山形駅から歩いて15分ほどのところにあるという。駅からバスで行くこともできるが、バスを使うほどの距離ではないと思い、歩いていくことにした。
 ムシムシした空気が相変わらず鬱陶しく思えた。山形駅の東口を出て、しばらく歩くと、立派な庭園付きの平屋建ての建物があった。中に入ると、エアコンが効いていた。山形市の施設なので、歴史的価値のある展示品の保護や保管には市から予算が下りているのだろうか? 入館料は無料だった。中は展示品の劣化を防ぐためなのか、外から光が入らず、また照明も控えめで薄暗かった。
(おお、これがそうか……。現物が存在していたとは……)
 義光が戦で指揮を執る際に使っていた鉄の指揮棒が展示されていた。その鉄棒には「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光(せいわてんのうまつようやまがたでわのかみうはつのそうよしあき)」と刻まれており、自らの出自と家の格の高さを誇示している。重さは刀の倍はあるという。しかし、怪力の持ち主だった義光なら、軽々使いこなせていただろう。
(まあ、重さ50貫(約190キロ)の石を持ち上げたっていう言い伝えがあるくらいだしから、刀の倍の重さなんてな)
 他にも、伊達政宗が会津地方を制圧した際に義光に送った書状などが展示されていた。驚くことにこの書状、本物であるとのこと。この書状には「この後は関東に攻め込む」といった内容のことが書かれており、さらなる領土拡大の野心が見て取れた。が、政宗は、間もなく、天下人・豊臣秀吉(1537~98)の小田原攻めに参陣し、豊臣政権下の1つの大名として生き残ることを余儀なくされる。この際、せっかく攻め取った会津地方の領地を没収されてしまった。ただ、会津地方を没収されたといっても、それでも72万石の大領土を保持していた。しかし、政宗はそれで満足できるような人物ではなかった。一旦頭を下げ、中央政府に恭順したように見せる一方で、策謀を廻らせ、隙あらば失地回復を図っていた。
 だから、結城にとって政宗は、伯父で策謀に長けた義光と並ぶ策士(立てた策がすべて成功したわけではないとはいえ)悪く言えば、曲者という印象が強い。義光のように単騎、敵陣に突入し敵将の首を取ったというようなエピソードはなく、武勇に長けた猛将というイメージはあまりなかった。
 入館料が無料でありながら、なかなか興味深い展示を見ることができたので、満足して結城は歴史館を後にした。
「タダの割には、結構いいものを見ることができたな、良かった良かった」
「でさ、ご主人。これからどうするの?」
「うーん、そうだな……」
 とりあえず、駅に戻る。山形駅には奥羽本線と、仙山線。それに左沢(あてらざわ)線が乗り入れている。
(左沢線に乗るか。特に何かあるわけじゃないけど)
 左沢線は山形駅と左沢駅を結ぶ全長約26キロの短い路線である。単線で気動車が走る典型的なローカル線だが、山形市への通勤や通学での需要があるため、途中の寒河江(さがえ)駅までは、朝7時過ぎから夜11時30分過ぎの間に1時間おきに列車が出ている。
「あ、そうそう。この列車、トイレついていないからな。先に済ませておけよ?」
「うんまあ、ぼくは大丈夫だけど」
 と、結城が言う。終点の左沢まで乗っても40分ほどなので、催しても駅まで我慢しろということなのだろうか? 本数が多くないローカル線でもトイレがついているとは限らないので、この辺りは事前のリサーチや準備が必要である。
(そういえば、さっきの山形線はついていたな、トイレ)
 乗り場は6番線とのことだ。次の列車は、16時30分発左沢行きである。乗り場に行くと、何名かの先客が折り返しの列車を待っていた。ほどなくして折り返しの4両編成の列車がホームに入ってきた。
 結城とナイルは列車に乗って、発車を待った。座席の埋まり具合は4割ほどといったところだろうか? 乗っている時間が短いためなのか、東京の通勤電車と同じくロングシートであった。ただ、クッションは効いていて、座り心地は悪くなかった。
 終点の左沢は、最上川の本流と支流の合流地点にあるため、かつては水運の中継地点として栄えていたところである。しかし、特に見どころがあるわけではない。左沢駅も特に変わったところのある駅舎ではない。近くには大江町役場や小学校、金融機関があるので、駅は町の中心部にあるのだろう。立地としてはいいのだろうが、観光スポットとしての魅力には乏しい。
「ねえ、ご主人。終点に何かあるの?」
 ナイルが聞くが、返ってきた答えは「別に」という素っ気ないものだった。
(ああ、やっぱりね……)
 普通の人からすれば、交通費の無駄でしかないが、世の中には、結城のように「乗るため」だけに列車に乗るという奇特な人間がいる。あと強いて言うならば、涼むためだろうか? 外が蒸し暑くても、列車の中はエアコンが効いていて快適そのものである。本を読むときも、どういうわけか集中できる。列車の中とはそういう空間である。
 列車は時間通りに動き出した。見た感じ、旅行者と思しき客は他にいなかった。
「ナイル」
「え? どうしたの?」
「エアコンが効いてて、気持ちがいいな」
「うん、そうだね」
「と、いうわけで、おやすみ」
「え!?」
 エンジン音を響かせながら、住宅街の中を列車は進む。次の北山形駅で、奥羽本線と別れてレールが大きく左に曲がっている。
 朝早かったこともあり、歩き疲れたこともあって、結城は列車に揺られながらお昼寝である。列車内が全く音がしないかと言えばそういうわけではない。レールの継ぎ目を拾う音やエンジン音がそれなりにするのだが、ほど良い揺れとよく効いた冷房が眠気を提供する。
 
 結城が熟睡している間に列車は寒河江駅で多くの客を降ろし、車内はがらんとしていた。結城が目を覚ましたのは、17時ごろになってからだった。
(あれ? 結構降りたんだな……)
 終点の到着時刻は17時10分である。列車は特に遅れることもなく、定刻通りに終点に着いた。線路のすぐ先は行き止まりになっており、さらにその先は住宅街になっていた。終着駅ではあるが、列車を止めておく車庫や待避線のようなものは無かった。
 持参したデジタルカメラで、列車の写真だけ撮ると、6分後に折り返す列車に乗り、発車を待った。この列車で、終点の1つ手前の北山形駅で仙山線に乗り換えて、仙台に向かう予定であった。
 17時16分、折り返しの山形行きの列車は、時間通りに左沢駅を発車した。4両編成の一番前の車両に乗っていたのだが、そこに乗っていたのは結城たちだけであった。
「ご主人、ぼくらだけだね。乗っているの」
「そうだな。でも、寒河江あたりでそれなりに乗ってくるんじゃないか?」
 結城が車内で熟睡しているときに通り過ぎてしまった寒河江は、山形市を除けば左沢線の沿線では一番大きな自治体である。人口4万弱で市制が敷かれている。
 寒河江は、鎌倉幕府の幹部・大江広元(1148~1225)の領地があり、広元没後、名字を寒河江と改めた子孫が代々領地を受け継いできたが、最上義光により滅ぼされた。
 ちなみに広元は、鎌倉幕府の幹部ということもあり、日本各地に多くの領地を所有していた。だが、広元の死から約20年後に起きた宝治合戦(1247年)で、一族の多くが北条軍に滅ぼされ、領地も大半が北条によって没収されてしまう。
 何とか没収を免れた領地の中に「安芸吉田」という場所があった。この領地は、生き残った数少ない広元の子孫によって代々統治されてきた。その子孫たちは大江姓ではなく毛利姓を用いていた。時代が下り、この一族の中から、中国地方の覇者が現れる。その人物こそが毛利元就(1497~1571)であった。
 
 結城の予想通り、寒河江駅に着くと、学生服を着た一団が列車に乗ってきた。エナメルのスポーツバッグを持っていることからすると、部活帰りといったところだろうか? この辺りはフルーツの生産が盛んなためなのか、寒河江駅の駅名プレートはサクランボの形をしていた。
 寒河江市は山形市の方から見ると、最上川とその支流によってガードされており、山形方面からの侵攻を防ぐのに役立っていたことは想像に難くない。が、結局は最上義光により滅ぼされた。寒河江にも統治拠点として城があったらしいのだが、江戸時代中期には廃絶し、現在は住宅街になってしまっている。
 途中駅で降りる人もいたが、乗ってくる人数のほうが多く、左沢駅を出た時には結城たちしか乗っていなかった車内も、席はあらかた埋まり、立ち客も何人か見られるようになった。途中で、最上川にかかる鉄橋を渡るが、川の水は茶色く濁り、流れも速かった。最上川は急流として有名ではあるが、これは数日前の大雨の影響だろう。橋脚には上流から流されてきたと思われる木の枝が、たくさん引っかかっていた。
 乗客のうち、3分の1くらいはマスクをしていなかった。だがこれだけで「山形県民は危機意識が足りない」などと決めつけるのは、あまりにも失礼というもの。直近だと7月31日に感染者が1人出てしまったが、その前に感染者が出たというのが7月16日であった。山形県では感染者が出ていない日の方が圧倒的に多く、出たとしても人数が2桁になるようなことは無かった。感染者を大勢出している首都圏とは捉え方が違うのも無理のない話である。
 終点の1つ手前の北山形駅で列車を降りる。ここで、仙山線の快速仙台行きの電車に乗り換える。発車時刻は18時03分とのことである。10分ほど時間がある。駅前に小便小僧の像があるというのだが、興味が湧かなかったので、結城たちはホームで仙台行きの快速電車がやってくるのを待つことにした。
 時間通りに、快速仙台行きの電車はやってきた。主要都市を結ぶ路線のため、座れないのではないかと思っていたが、車内はガラガラだった。この路線、宮城県内の愛子(あやし)駅と仙台駅の間は利用客が多いのだが、山形県内は利用客は多くない。山形から仙台へ行く場合、高速バスのほうが運賃も安く、時間もほとんど変わらない。雪の時期や仙台駅周辺の道路混雑で多少の遅れはあるかもしれないが、街中を走っているバスではなく高速道路を走るバスなので、着席は保証される。だから、どうしてもバスに客が流れてしまう。
 ボックス席が空いていたので、そこに向かい合わせに座る。何事もなく列車は動き出し、次の羽前千歳駅で奥羽本線の線路と別れて、大きく右に曲がる。
 羽前千歳駅から3つ目の駅が山寺駅である。ここは、駅のすぐ近くにある山の上に建立された立石寺という由緒ある寺で知られている。断崖絶壁に立つ開山堂からの眺めは絶景……なのだが、もう時間が遅い。
 伊達稙宗が出羽に攻め込んだ際、この寺は稙宗側についたため、近隣に勢力を持っていた天童家により焼き討ちに遭うが、後に義光の寄付により復興を果たした。
(まあ、また来れるだろう、きっと)
 この山寺駅の次の停車駅である作並駅はもう宮城県である。仙台行きの快速電車は、奥羽山脈の中に敷かれた急な上り坂を上っていく。山寺駅を出ると程なくして、にわかに濃い霧が立ち込め、視界が悪くなってきた。
 山寺駅から2つ目の奥新川(おくにっかわ)という駅でなぜか電車が止まった。時刻表の上では通過を意味する「レ」のマークがついているのだが……。どうしたのかと思っていると、反対方向から、山形行きの普通電車がやってきて、駅に停まる。反対側の電車が止まったのを見届けると、快速電車はするすると、動き出した。
(そうか、仙山線って単線だからな、こうやって、すれ違いをしないといけないわけか)
 どうせ停まるのなら、ドアを開けて客扱いをすればいい気もするが、ダイヤが乱れると、当然すれ違いのポイントも変わってくる。その時は本当に通過するのだろう。
 奥新川駅は奥羽山脈の中にポツンとある駅で、林業や鉱業が盛んな時代はそれなりに栄えたらしいのだが、やがてその2つの産業は衰退し、今では1日に利用する客は10~20人といったところだそうだ。だから、快速を止めるだけの需要があるかというと、答えは明らかである。
 宮城県に入って、最初の停車駅は作並である。温泉で有名なところではあるが、肝心の温泉宿が立ち並ぶエリアは駅から少し離れたところにある。もう日没を迎えたことと、このご時世もあって、降りる客も乗ってくる客もいなかった。
 奥羽山脈を抜けて、平野への入り口にあたるところに愛子駅はあった。別に何か変わったものがあるというわけではないが、仙台からくる電車のうち、山形まで行くのは3本に1本くらいの割合でしかない。残りの電車はここで仙台方面に折り返す。結城が時計を見ると、針は18時55分を指していた。途中、濃い霧が発生したため、遅れるかと思ったが、時間通りに走っている。
 向かい側のシートを見ると、いつの間にかナイルは寝てしまっていた。朝早かったし、歩き疲れたのだろう。それに、電車という乗り物はほど良い室温と、振動のせいで、どうも眠気を催させる。何度も乗っている路線なら、別に寝てしまってもいいが、旅先で乗る路線となるとそうはいかない。やはり車窓を見ておきたい。だから、結城はコーヒーを飲むとか、腹が満たされると、眠くなってしまうので、量は控えめにするなどの対策を取ってはいるが、それでもどうにも抗しきれない時がある。
(まあ、北仙台駅を発車したら、起こせばいいか)
 快速電車は、仙台市の住宅街の中を抜け、時間通りに終点の仙台駅に到着した。ナイルを起こして、電車を降りる。電車を降りた乗客の数はそれほど多くはなかったが、折り返しの電車を待つ客は多く、乗車口の前に列を作って待っていた。
 
 仙台市は、人口約109万の東北地方最大都市にして、東北地方で唯一の百万都市である。緑が豊かで「杜の都」とも言われている。仙台藩の時代から植林事業が盛んだったが、多くが太平洋戦争末期の絨毯爆撃により焼失し、仙台は焼け野原になってしまう。
 戦後の復興計画の一環で、公園整備が行われ、緑地面積も増えていった。だが、今度は都市の規模が大きくなるにつれて、開発との兼ね合いをどうするか……という問題も出てきている。
(青筋を立てて、大人に文句を言っていれば解決するわけではないし、難しいところではあるな……)
 さすがに東北最大の駅ということと、帰宅の時間帯ということもあり、駅のホームやコンコースは混雑していた。宮城県は温泉や景勝地など知名度の高い観光資源を活かしてPR活動を行っている。
「ご主人『宮城の観光大使・ラプラス』だって」
「は?」
 県をPRするポスターが貼ってあって、確かにそんなことが書いてある。
「はぁ~、なるほど……」
 そのポスターを見て、結城が感心しているのか、それとも生返事なのか、どちらともつかないような態度を見せる。
「それじゃあ、ナイル。お前もどっかの観光大使になれば? タダで旅行できるかもしれないぞ?」
「……例えば?」
「ウズベキスタンとか」
「どこ、それ?」
「ん? えーっとな、ユーラシア大陸の真ん中あたり」
「何その、雑な説明」
「じゃあ、どう説明すりゃあいいんだよ?」
 大して意味のない会話をしている内に、駅の外まで来た。結城は仙台駅の近くにあるホテルに予約をしていた。
(荷物を置いて、早く夕飯にしよう……)
 ホテルにチェックインする際も、体温測定とアルコール消毒をしなければならなかった。バイ菌扱いされている気がしないこともなかったが、何かあってからでは遅いのだ。もし、感染者が出てしまったら、営業を停止して全フロアを消毒なんてことになりかねない。消毒が済んでもイメージダウンは避けられず、ただでさえ客が少なくて苦労しているときに、追い打ちをかける事態になってしまう。
 無事にルームキーを受け取り、部屋に辿り着いた。
「なあ、ナイル。夕飯どうしようか?」
「何でもいいけど、お腹いっぱいになるものがいいな」
「う~ん、何にするかな?」
 とりあえず、街をぶらついて良さそうな店に出くわしたら、そこで夕飯にしようと決めた。仙台の繁華街と言えば、仙台駅から少し離れたところにある国分町だが、このご時世に繁華街に行くべきではないだろう。
 駅前の通りは、こういうご時世だから、それほど人は歩いていなかった。ホテルの近くにあったのは、仙台名物・牛タンのお店と、どこにでもある牛丼のチェーン店だった。
 時間は19時30分を少し過ぎている。まだまだ夕飯時の時間だ。空いている方の店にしようと思ったのだが、どちらも空いていた。
(どうする? でも、もしかすると、この後で、たくさん人が来るかもしれないじゃないか……?)
 2つの店の前を何度か通り過ぎ、迷った末に出した答えが「牛丼をテイクアウトして、ホテルの部屋で食べる」というものだった。結城もナイルも「牛タン食べたかったな……」と言いながら、買ってきたものを食していた。だが、食べ終わった後、牛タンも店で食べるだけではなく弁当にしてくれる店も結構あると知り
「ご主人、こうすればよかったんじゃない?」
「ああ、そうだな、失敗したな……」
 と、事前に調査しておけばよかったと後悔していた。考えてみれば、外食すること自体が憚られるご時世になった以上、店だって何かしら対策を取るはずだ。
 こうした失敗も旅の醍醐味と言えば醍醐味だが、後々まで少々引きずる。仙台なら、東北新幹線で1本だし、2時間もあれば来られるのだから、また来ればいいさ、と自分をムリヤリ納得させ、その日は床に就いた。


 第5章 南下

 2日目は、東京に戻るわけだが、そのまま戻るのもつまらないので、少し寄り道をして、東京に戻ることにした。
 節約と、見ず知らずの人と接触するのを避けるのも兼ねて、フルーツの缶詰を持参したので、それを朝食とする。ナイルは「こんなんじゃ足りない」と文句を言うが、結城は「あとでなんかお土産買ってやるから」と言って、とりあえずは黙らせた。
 ホテルをチェックアウトして、仙台駅に向かう。気温はそこまで高いようには感じないが、やはりムシムシしている。
 東北最大の駅なので、平日であっても、休日であってもそれなりに混んでいるのではないかと思ったが、駅は閑散としていた。まずは、昨日の埋め合わせで土産物を買っていくことにした。誰かに渡すわけではないが、家に帰っても少しは旅気分を味わうことができる。
 朝の8時30分で、多くの店は開いていたが、中にはシャッターを閉めた店もある。シャッターに張り紙がしてあって、開店時刻は朝7時とあるのだが……。開店の準備はされておらず、今すぐに店が開くといったようには思えなかった。
「ご主人、朝の7時からって書いてあるのにね」
「臨時休業かな?」
 臨時休業を知らせる張り紙などはなかったように思ったが……。今年の夏は新幹線の利用客が大幅に減少したため、朝早くから店を開けていても、客が来ないのでは人件費がかさむだけで、商売が成り立たないのだろう。短縮営業ということだろうか?
「ご主人、宮城県の名産って言ったら?」
「いや、いっぱいあるぞ? 例えば、牡蠣」
「カキってオイスター?」
「そう。まあ、でも旬は冬から春先らしいから、今はないな」
 他にも、牛タンや笹かまぼこ、米どころなので地酒もある。
「ああ、あと『ずんだ餅』とかあったな。緑色のやつ」
「ふんふん。他には何かないの?」
「うーん、じゃあ、ベタだけど、あれにするか?」
「ああ、知ってる知ってる。これおいしいよね」
 候補はいろいろあったものの、結局、結城は仙台銘菓「萩の月」を買い求めた。濃厚なカスタードクリームをカステラ状の生地でくるんだ一品である。潰れてしまうのを防ぐためだろうか、ビニール包装がされ、小箱に1つずつ入れられている。そして、大きな箱に小箱がいくつか詰まった状態で売りに出されている。妙に包装が厳重なのも、特徴の一つと言えよう。
 6個入りで1200円であった。ちょっと高い気がしないでもないが、味から言えば妥当なのだろう。1200円に袋代を合わせた額を支払い、商品を受け取る。
「ナイル、3つずつな。家に帰ってから」
 9時ちょうどの白石行きの電車に乗るつもりだったが、その1本前の福島行きの電車に乗ることができた。ホームには多くの人が列を作って電車を待っていた。仙台駅始発ではないので座れなくても仕方ないかなと思ったが、電車がホームに入ってきて、ドアが開くと、車内の客の多くは仙台駅で降りていった。
 ボックス席が空いていたので、そこに向かい合って座る。目的の白石駅到着は9時41分である。白石は、宮城県の南端に位置し、福島との県境である。
「白石まで50分弱だな。新幹線で行くという手もあったけど……」
「『けど』どうしたの?」
「本数が少ないんだ」
 白石駅から少し離れたところに、白石蔵王駅という新幹線単独の駅がある。時間だけで言えば新幹線のほうが短いのだが、その駅に停まる新幹線は1時間に1本程度であるうえに、駅が市街地から離れたところにあるため、利便性は良くない。そういうこともあってか、東北新幹線の中では、利用客は多い方ではない。
(……新幹線の駅の中には、どうしてこんなところに?っていう駅がいくつかあるんだよな、どことは言わないけど……)
 白石駅に着くまで、特にすることもないので、ぼけっと外を見ていることにした。あくせく生きていると、こういう時間がとても贅沢なもののように思える。
 外を眺めていると、新しい建物が結構目に付く。仙台市やその隣にある名取市は、震災で津波や地震で大きな被害を被った。新しい建物は、恐らく震災後に建てられたものなのだろう。
 国道4号線が進行方向左手に見える。道路沿いに様々な建物が建っていたが、常磐線との分岐地点である岩沼駅を過ぎると、少しずつ建物の数が少なくなっていった。
 白石駅には時間通りに着いた。白石は市制が敷かれており、距離で言えば福島駅と仙台駅の中間地点になる。だから、2つの都市の衛星都市的な感じなのかと思っていたが、首都圏のベッドタウンのイメージとは程遠かった。
 駅は随分とこじんまりとした作りであった。出口も1ヶ所しかない。ホームは上りと下り、折り返し用が1つずつある。かつては、長い編成の特急や急行列車が止まっていたのであろう。4両編成で運転されるのが普通の路線のホームにしてはやたら長かった。駅前に出てみると、すぐ近くにビジネスホテルが建っていたが、他に背の高い建物は見当たらず、無駄に目立っていた。
 東北新幹線が開業したのは昭和57(1982)年だったが、当時の始発駅は大宮だったため、都心からだと微妙に不便である。面倒な乗り換えを嫌った客がそれなりにいたということに加え、比較的安い値段で移動できるというメリットもあったのだろう。新幹線開業後も上野と仙台を結ぶ急行列車が生き残った。
 しかし、昭和60(1985)年3月に東北・上越新幹線が上野まで伸びると、東北本線を通る昼間の急行や特急は廃止、夜行列車も本数を削られてしまう。そして、高速バスというライバルが出現すると、それに太刀打ちできずに夜行列車も姿を消すことになる。

 白石市は人口約3万2千の長閑な地方都市である。仙台市と福島市の中間地点にある。市章は黒釣鐘である。かつて、白石を統治していた片倉家の旗印にちなむものだという。そのためなのか、駅前のロータリーには木造の鐘楼が建っていた。キリの良い時間になったら鳴らすのだろうか?
 白石駅から西に一本の県道が伸びており、その先の小高い丘の上に目的の白石城があった。人気のない道を歩く。最初は平坦な道だったが、次第に傾斜がついてくる。
(えぇ……。この坂道を登るの……)
 白石と米沢と同じく盆地にある。ただ、米沢と違い白石城はより防御のしやすい丘の上にある。ムシムシした空気とも戦いながら、坂道を登っていく。
「待て待て、だから、何でお前、飛んでいるんだよ」
 主人を歩かせているナイルを結城が咎める。
「ええ? 何か問題でも?」
「だったら、乗せてくれよ」
「イヤだよ。乗せるといろいろうるさいから」
 そんなことを話している内に、市役所の脇を通り、城が建っている丘の下までやってきた。あともう一息である。
「あーあ、しんどいな……」
 急な坂を登り、ついに白石城の敷地内に辿り着いた。

 白石城は、いつ誰の手によって建てられたのかはっきりとしていない。16世紀後半から17世紀初頭にかけて、何度か所属する大名が変わったが、最終的に伊達氏の支配するところとなり、伊達の重臣である片倉家によって、城が維持されていた。
 16世紀末期、72万石あった伊達政宗の領土は58万石にまで減ってしまっていた。伊達政宗が領有していた最大領土は100万石を越えていたといわれ、その時と比べると、5~6割ほどになってしまったことになる。
 こうした状況で、関ケ原の戦いが起こる。政宗は近隣の上杉領に兵を出す一方で、近隣の陸奥盛岡の大名・南部利直(1576~1632)の領土内で一揆を扇動し、その混乱に乗じて領土の拡大を狙った。が、一揆を扇動していたのが内府(家康)にバレてしまう。一揆の関係者の口封じをして、何とかシラを切りとおし、減封や改易は免れた。
 関ヶ原の戦いの際、政宗は内府から「没収された旧領49万石を恩賞として与える」という書状を受け取っていたとも言われている。戦後、この書状を理由に恩賞を催促した政宗だったが、挙動が怪しかったという理由で49万石の恩賞は却下されてしまった。一応新しい領地はもらえた(58万石→62万石)が、100万石には程遠かった。
 この時に恩賞としてもらうことができた領地が、この白石である。
 関ケ原の戦いの後、東北地方では戊辰戦争まで戦争はなかった。大坂の陣が終結した慶長20(1615)年「一国一城令」が出され、基本的に大名の領地に城は1つ、つまりは大名の御座所以外の城は取り壊せという命令である。だが、あくまでも「基本的に」なので、例外も結構多かった。白石城もその1つである。
「でもさ、ご主人。勿体ないよね? せっかく作ったのに」
「まあ、そうだな。この白石城もそうだけど、交通の要衝に建っている城も多いしな。一番の目的は軍事力の削減だろうな。幕府に楯突かないようにするのはもちろん、大名同士で戦争が起きないようにするっていう意味もあっただろうし」
 仙台藩では、藩主の居城は仙台にあったが、それ以外にも各地に「要害」と称した実質的に城と変わらない建造物が各地に残された。
 この城の城主は伊達政宗の側近である片倉景綱(1557~1615)であった。通称が「小十郎」だったため、政宗からは「片小」というあだ名で呼ばれていたと伝わる。景綱は幼い時に両親を相次いで亡くしたため、19歳年上の姉である喜多(1538~1610)に養育された。
 喜多の母親は、もともと伊達家の譜代家臣・鬼庭左月斎(おににわ・さげつさい 1513~85)に嫁いでいたが、2人の間に生まれたのは喜多だけだった。男子が誕生しないという理由で左月斎からは離婚を申し渡され、その後、喜多を連れて片倉家に嫁いだ。そこで生まれたのが景綱だった。
「ちょっと、フクザツな家庭だね」
「まあ、現代的な視点から見たらそうかもな」

 炎天下の中、坂道を登ってやってきたので、城の内部も見ておくことにした。
 現在目にすることができる白石城は平成に入ってから復元されたものである。代々片倉家が管理してきた城は、戊辰戦争(1868~69)の際に仙台藩が旧幕府方について戦い、その後、明治新政府に降伏した際に白石城は明け渡され、それから数年間は新政府の所有物だったが、明治7(1874)年に民間に払い下げられ、その後取り壊されてしまう。そのため、景綱が存命だった時と同じ全く姿なのかどうかというと、残念ながら疑問が残る。
(まあ、エレベーターがついているとかいうトンデモ復元はされていないから、その点は良しとするか……)
 櫓の中は板張りで、丁寧に掃除がされている。ホコリ一つ落ちていなかった。城は3層になっており、上の階へ行くには急な階段を登らなければならない。傾斜がかなりきつく階段というよりも梯子と言ったほうがいいかもしれない。
 最上階まで登ると、白石盆地を一望することができる。換気のためなのか、窓は開け放たれており、非常に風通しが良い。シャツが汗で湿っていたせいか、風が吹き抜けると、少し寒く感じる。
 西側には、東北自動車道が走っている。日曜日の午前中なので、普通なら混んでいる時間帯のはずだが、この日は高速道路を走っている車の数は少なく、上りも下りも流れは順調であった。
 東側には、駅から汗を流しながら歩いてきた市街が一望できる。遠くに、東北新幹線の線路と白石蔵王駅が見える。ぼけっと眺めていると、時折新幹線がやってきて、高速で駅を通過しているのが見えた。日曜日ではあったが、客は少なく、静かだ。観光地にとっては、客がたくさんいたほうがいいに決まっているが、結城としては静かな方がありがたかった。
 3分経っただろうか、それとも5分だろうか、少しの間涼しい風にあたった結城は、そろそろ行くか、と言って下の階に戻ることにした。城の天守や櫓にきていつも思うことだが、登る時よりも降りるときが結構骨なのだ。傾斜がきつく、それでいて、下見える。足を滑らせて落ちたらどうしようなどと、考えてしまう。心配のし過ぎなのかもしれないが、結城は一歩一歩慎重に降りていった。

 この後は、白石駅に戻る。そして福島行きの快速電車「仙台シティラビット2号」に乗り、福島まで行く予定である。快速電車の白石駅発車時刻は11時31分である。
 やってきた道を引き返し、白石駅に戻った。乗る予定の電車が来るまで、まだ20分ほどあった。
(ちょっと、早かったかな?)
 日が高くなってきたせいか、一層暑くなってきた。
「ご主人」
「どうした、ナイル?」
「喉乾いた」
「うん、そうか……」
 そういわれると、結城も本当に喉が渇いてきた。駅近くのコンビニで飲み物を買い求める。よほど喉が渇いていたのか、ナイルは、2リットル入りのペットボトルを持ってくると、無造作に結城が持っている買い物かごの中に放り込んだ。
「ちょ、ちょっと待てよ。こんなデカいのを飲むつもりか?」
「いいでしょ、残さないから」
「うん、まあ、まあいいか」
 途中でトイレに行きたくなったらどうするのだ、と思ったが、東北本線は在来線に使われる車両でもトイレがついているので、何とかなるだろうと考えた。

 白石駅に戻るとき、大河ドラマの影響もあってか、真田ゆかりの地であるというPR看板があることに気付いた。白石城へと続く道とは違う方向にあったため、来た時には気が付かなかった。
 真田家は関ヶ原の戦いの際に親子で東軍と西軍に分かれ、西軍についた真田昌幸(1547~1611)とその次男である幸村(1567~1615)は紀伊に流刑となったが、東軍についた信之(1566~1658)の方は大名家として存続していた。
 大坂夏の陣で、幸村は徳川の大軍を相手に奮戦し、天王寺ではあと一歩のところまで徳川方を追い詰めたが、力尽きて戦死した。その天王寺の戦いの直前に、幸村は娘の梅を「仙台の少将(政宗)殿に託したい」と参陣していた政宗の本陣まで送り届けている。その理由は「少将殿の配下に見どころのある若武者がいたから」という理由だった。その若武者というのが、片倉景綱の子・重長(1584~1659)であった。
 政宗は、梅の世話を重長に任せることにした。重長は梅を召使ではなく、側室として迎えたが、2人の間に子供は生まれなかった。大坂の陣の後、伊達家や片倉家に仕えた真田にゆかりのあるものもいたという。
 ちなみにこの話、梅が重長の側室になったのは事実だが、先述の幸村が政宗や重長を見込んで託したという説と、戦争のどさくさに紛れて略奪をしている最中に重長の家来が攫ってきた娘がたまたま幸村の子供だったという説がある。
 もっとも、大坂の陣の時には、幸村の姉である村松殿(1565~1630)や兄の信之はまだ存命(ただし信之本人は、病気のため大坂の陣は不参加)でこの2人のどちらかに託すということも出来ただろうが、そのようなことをすれば、実家に「敵と通じている」という疑いをかけられてしまうと判断したのだろうか? 子供を託した幸村や、それを受け入れた政宗や重長がどう思っていたのか、今となっては知る術はない。
 ところで、白石にやってきた梅には守信(1612~70)という弟がいた。この人物も大坂の陣からだいぶ経って、政宗の没後、仙台藩に召し抱えられることになり、東北の地で幸村の系譜を後世に残している。
 だが、徳川に楯突いた者の子を召し抱えたということが幕府に知られてしまい、どういうことかと詰問されてしまう。時の藩主・忠宗(1600~58・政宗の次男)は「この者は真田左衛門佐(幸村)の子ではありません」と、ウソの説明をして何とか切り抜けた。忠宗の機転により、幸村の子孫は途中で養子を迎えているとはいえ、系譜上の繋がりは後世に残すことに成功している。
 
 先ほど、購入した飲み物をナイルはあっという間に飲み干してしまった。
「お前、もう飲んじゃったのか?」
 結城が感心したような、呆れたような声でそんなことを言う。結城は、半分ほど飲むと、鞄に飲み物をしまった。発車時刻が近づいてきたので、ホームで福島行きの快速電車がやってくるのを待った。
 時間になり、福島行きの快速電車が4両でやってきた。車内は仙台から乗ってきた電車よりも混雑していた。ボックスシートには座れなかったが、ドアの脇にあるベンチような椅子には座ることができた。終点の福島駅には12時03分に着く。
 車内は冷房が効いており、ほど良い揺れもあって、どうしても眠くなってくる。夏本番の太陽の光を浴びた濃い緑が目の保養になる。
(あれが、厚樫山かな?)
 電車は丘陵地帯のふもとを通り、間もなく藤田駅に到着した。厚樫山は平安時代の末期に藤原泰衡(1155~89)がこの地に重厚な要塞を築き、源頼朝(1147~99)率いる鎌倉軍に抵抗したところである。激戦の末、泰衡は敗退。北方へ逃走した。泰衡は現在の北海道への逃走を図っていたともいわれるが、途中で部下の裏切りにより、殺害された。
(あ、もう福島県に入ったんだな)
 藤田駅からは福島駅までは各駅停車になる。藤田駅の次の次の駅は伊達駅である。大名の伊達家発祥の地ではあるが、政宗の領土が58万石に減らされてしまった際にこの地も没収されてしまった。関ヶ原の戦いの際には上杉領になっていた。関ヶ原の戦いと連動して、上杉と伊達の合戦があった(松川合戦)が、政宗率いる伊達軍は、本庄繁長により撃破されてしまう。
 政宗が福島に軍を進めたのは1度だけではなかったが、結局、全部失敗し伊達が仙台藩の領地に組み込まれることはなかった。
 伊達駅や東福島駅では、降りる客はほとんどいなかったが、乗ってくる客はそれなりにおり、車内は立ち客が見られるようになった。
 快速電車は定刻に福島駅に到着した。福島は先述の「松川合戦」の舞台ではあるが、本庄繁長が籠城していた福島城も今は福島県庁になっている。役場を見に行ってもしょうがないので、福島駅の外には出なかった。
 次に乗る電車は、12時20分発の郡山行きの電車である。発車まではまだ10分以上あったが、電車はすでにホームで発車を待っていた。東京に戻るには、福島駅から新幹線に乗るのが一番早いが、そこまで急いでいるわけではなかったし「松川事件」の現場を見ておきたいと思っていたので、郡山までは普通電車で行き、そこから新幹線に乗り換えることにした。
「よかったな、今度はボックス席に座れたぞ」
「そうだね」
 今回は運よく当たらなかったが、東北本線には、多少柔らかいベンチとでもいうような無機質なロングシートのみを備えた列車もある。長距離移動や外を眺めるには向かない構造になっている。どの車両がやってくるかは運次第である。
 進行方向右側のボックス席に腰を下ろし、発車を待つ。終点の郡山駅までは47分かかる。
 時間通りに福島駅を発車した電車は、しばらくは福島の市街地を走る。車内は各ボックスに1~2人ほどの客が座っており、ほど良く空いているといったところだろうか。
 特に代わり映えのしない市街地を走って、電車は南福島駅に到着した。ドアが開いて何人かの客が乗ってくる。近くのドアから地味というよりも薄汚い身なりで、ノーマスクのご老体がビニール袋を持って乗ってきた。結城は何となく嫌な予感がしたが、その予感は的中する。
 ご老体はよたよたとやってくると、結城の隣に腰を下ろした。
(うわっ、何だよ。このジジイ。公共の場なんだから、マスクくらいしろよ!)
 今日のウイルスのことも、500人も感染者を出している東京と比べると、福島は圧倒に数が少ない。意識に差があるのは当然と言えば当然だが、連日の報道もあってか、妙に神経質になっている結城にとってはたまったものではなかった。こざっぱりした格好なら何とも思わなかったが、薄汚い恰好をしているものだから、余計不安になる。見た目で人を判断するのは良くない、だが、不安になってしまう。
(あぁもう、早く下りてくれないかなぁ……)
 窓の外を見ながら、そんなことを思う。幸い、そのご老体は次の金谷川駅で降りていった。電車が動き出すと
「ご主人、すごい顔だったよ」
「え、そうだったか?」
「うん。言いたいことが顔に出てたよ」
 ナイルがそんなことを言ってきたので、結城も言葉を返す。
「だってさ、不安じゃねえか。小汚い恰好で、ノーマスクで乗ってきやがって」
 そういった結城は、喉が渇いたのか、白石で買った飲み物を口にした。
 自分の家ならば、どんなに奇抜な恰好だろうが、すっぽんぽんだろうが、小汚い恰好だろうが、本人の勝手だろう。しかし、電車の中というのは公共の場所である。ましてやこのご時世だ。結城もそこまで外見を気にする方ではなかったが、他人を不安にさせるような格好で公共の場に出てくるのはどうなんだろう、と思ってしまった。
 ソーシャルディスタンスを守ってくれているならまだしも、すぐ横に腰を下ろされたのだ、勘弁してくれよと思わずにはいられなかった。例のウイルスのせいで、世界は滅茶苦茶になり、生活もすっかり様変わりしてしまった。
 何となく気持ちがささくれだった結城を乗せて、電車は福島県内を南下していく。
 
 金谷川駅と松川駅の間に「松川事件」の現場がある。
 昭和24(1949)年の夏、国鉄絡みの怪事件が立て続けに起きていた。8月17日の未明のこと、青森発上野行きの列車が金谷川駅と松川駅の間で脱線事故を起こし、機関士1名とその助手2名が死亡した。現場検証の結果、レールが枕木から外されており、その時使われたと思われるバールやスパナが見つかり、この事故は人為的に起こされたと結論付けられた。
 当時国鉄では大規模なリストラが進められており、それに反対していた労働組合の構成員らによる共同謀議であると当局は断定、捜査が進められた。やがて、この謀議に加わったとされる20名が逮捕され、昭和25(1950)年12月に福島地裁は被告20人全員を有罪とし、内5人は死刑判決が下った。
 だが、これだけの大事件にもかかわらず、捜査当局が決め手としたのは被告人の自白だけで、実行行為と被告人を結びつける他の証拠は何もなかった。その自白も整合性が取れない不自然な物ばかりで、とても証拠と言えるようなものではなかった。それどころか、被告人全員にはそれぞれアリバイがあった。だが、捜査当局がこのことを隠蔽していたことが後に発覚する。
 広津和郎(1891~1968)をはじめとする著名な文化人たちの支援運動もあり、昭和34(1959)年8月の最高裁判決で「重大な事実誤認を疑うに足る顕著な事由がある」とみなされ、2審判決は破棄され、仙台高裁に差し戻された。2年後、仙台高裁は被告人全員に無罪判決を下した。検察は悪あがきをしたものの、上告は最高裁に棄却され13年間、5審にわたる裁判は幕を閉じた。
 どういうわけか、捜査当局は被告人全員の無罪が確定した後、真犯人を見つけるための行動を一切取らなかった。結局、時効を迎え「この事件は人為的な物であり、どこかに真犯人がいるはず」ということ以外明らかにならないまま、多くの謎を残し、事件は迷宮入りしてしまった。
 被告人は逮捕されてから無罪が確定するまでに15年という歳月を拘置所の中で過ごすことになってしまった。その後の国家賠償請求により、国が責任を認めて賠償をし、一応の名誉回復がなされるまでにさらに6年かかった。だが、それでも21年という年月は帰ってこないのだ。
 外を眺めていると上り線の線路脇に事件のことを後世に知らせるための塔が建っていた。当時単線で事件発生現場となった下り線の傍には観音像と殉職碑が建っていた。
 この辺りは、上り線と下り線が離れて敷設されている。その間には田んぼが広がっていた。長閑で社会を震撼させた大事件が発生した場所のようにはとても思えなかった。
 
 あとは特に何か見る予定はなく、ぼけっと外を眺めて電車が終点の郡山に着くのを待つばかりである。
「なんか、大きい道路が見えるね」
「4号線じゃないか?」
「ふ~ん……」
 外は日差しが強いのだが、車内は冷房と換気のために開いている窓から入ってくる空気のためか、快適である。なんとなく眠気を催させる。
 郡山市に入るまでに、二本松と本宮の2都市を通る。今回はどちらも途中下車をせずに通過した。この辺りはかつては、蘆名、佐竹、田村、伊達、その他大小の大名の勢力圏が入り乱れた。天正13(1585)年の伊達政宗による「小手森城の撫で斬り」と言われる殺戮の舞台となった小手森城跡も二本松市内にある。
 見どころが全くないかと言えばそんなことはないと思うが、東北本線を急行電車が走っていた時代は、郡山と福島の間には本宮、二本松、松川に急行電車が停車したため、上野駅から乗り換えなしで行くことが可能だった。しかし今は、郡山や福島で新幹線から在来線に乗り換える必要がある。まずそれがちょっと面倒だ。それに、大宮駅を出ると仙台駅まで止まらない新幹線も多く、福島県を素通りすることになり、名古屋と同じで「通りはするけど、降りたことがない」という現象を生み出している。
 結城たちがぼけっとしている間も電車は南下を続け、時間通りに終点の郡山駅に着いた。結城はここからは新幹線に乗り換えて東京に戻る。だが、その前に昼食を調達しておくことにした。時間はお昼の1時過ぎ、昼食にするにはちょうどいい時間である。
(まあ、何もないってことはないだろ。福島県第2の都市なんだから)
 改札の外に出ると、駅前のロータリーの傍にコンビニがあった。
(あそこで、パンでも買うか……)
 結城はコンビニに入ると、カツサンドとミルクを買い求めた。ミルクは見たことのないパッケージの物だった。いざ代金を支払う時になってカツサンドを温めますかと聞かれ、結城は「そのままで結構です」と言ったが、郡山ではコンビニのカツサンドを温めて食うのだろうか?「お弁当を温めますか?」とは聞かれるのは普通だろうが「カツサンドを温めますか?」とは聞かれたことがなかったので、少し戸惑った。
「ねえ、ご主人。この後は?」
「新幹線に乗って帰る。さすがにもうどこかに寄る時間もないし、疲れたから」
 郡山駅に戻ると、新幹線の自由席のチケットを購入し、ホームへ向かう。この後乗るのは13時36分発の「なすの276号」東京行きである。始発だし、自由席を多く連結していることもあり「まあ、座れないということはないだろう」と考え、結城は座席の指定を取っていなかった。
 途中、土産物を売っている売店の前を通る。
「ナイル、何か買っていくか?」
「じゃあ、買う」
 この売店で銘菓「ままどおる」を買って、新幹線のホームに向かう。発車まではまだ10分ほどあったが「なすの276号」は、11番線で発車を待っていた。結城たちは4号車に乗った。結城の読みは当たったが、先客は2人しかいなかった。繁忙期の8月の日曜日である。しかも日曜午後の東京方面へ向かう新幹線は普通なら、混雑しているのが相場である。
(う~ん……。空いているのは嬉しいけど、こうまでガラガラだと、なんか少し気の毒になってきた……)
 この「なすの276号」で大宮駅まで行く。大宮からは通勤電車を乗り継いで、自宅に戻る。各駅停車なので、新幹線としては時間がかかるが、それでも大宮駅までは1時間少々で着いてしまう。当然のことながら在来線に比べたら、ずっと速い。終点まで2時間もかからず着いてしまうためなのか、車内販売はない。食事をするのであれば、結城のように事前に調達しておく必要がある。
 せっかくなので、3人分の席を結城とナイルで使うことにした。混んでいるときはマナー違反だろうが、今は気の毒なくらい空いているので誰も文句は言わないだろう。
 新幹線は時間通りに郡山駅を発車した。この時点で乗っているのは、結城たちの他に、オバサン2人組だけであった。
 座席で先ほど買った昼食を食べる。先ほどのカツサンドは、どこにでも売っているコンビニのカツサンドである。ソースがかかった薄っぺらいカツと、申し訳程度のキャベツの千切りが三角形のパンに挟まっている。味は……普通である。
 各駅停車と言っても、やはり新幹線だ。高速で景色が後ろに流れていく。だが、それも数分間の出来事で程なくスピードを落とし、新白河駅に到着した。
 新白河駅は、停車する新幹線が多い方ではないが、それでも、各乗車口には、数人の客が列を作って、新幹線を待っていた。
 お客を乗せると、新幹線はするすると動き出す。食べ終えたカツサンドの包装や空っぽになったミルクのパックをごみ箱に捨てて、座席で、鞄の中に1つ残っていた缶コーヒーを飲む。
「なあ、ナイル」
「何? ご主人?」
「呼んだだけ」
「何だよ、それ」
「今回の旅は動物盛りだくさんだったな。虎とか狐とか、龍とか」
「うん、そうだね」
「あ、そういえば『猫御前』っていたな」
「ねこ……ねこ、ごぜん?」
 むろん猫ではなく人間である。大河ドラマに伊達政宗の側室として登場する人物で、ネズミを扇で追い払う姿が猫のようだったので政宗がそのようなあだ名をつけたのである。
 猫御前そのものは大河ドラマにおける創作上の人物だが、モデルとなった女性はいるため完全な架空人物とは言えないだろう。伊達政宗の側室・飯坂局(1569~1634)がモデルと言われている。天正19(1591)年に2人の間には、待望の長男である秀宗(1591~1658)が生まれている。
 何もなければ、秀宗が伊達の後継ぎだったのだろうが、秀宗が9歳の時に政宗と正室との間に男子が生まれる。この人物が仙台藩2代藩主・忠宗(1600~58)であった。
 秀宗は長男ではあるが、側室との間に生まれた子供であることに加え、豊臣家に奉公していた時期があった。そのような経歴があるため、徳川の世となると、その敵である豊臣とは何の関係もない忠宗に跡を継がせた方が安全だろうと考えた政宗により、後継者候補から外されてしまう。結局、秀宗が本家の後を継ぐことはなかった。
 新幹線は関東地方に入り、那須塩原駅に停まっていた。ここで、後続の新幹線を先に行かせる。
 あと1時間足らずで大宮駅に到着する。
「なあ、ナイル」
「何? また呼んだだけ?」
「違う」
「じゃあ、何?」
「なんか、長引きそうだしなぁ……。次はいつ遠出できるか分からんぞ……」
「うん、まあでもしょうがないよね……」
 今回の旅も半年ぶりの旅であった。遠出できる次の機会は一体いつになるのか、見当もつかなかった。


 おわり


 【あとがき】
 
 南東北を旅したのが2020年の8月でしたので、もう半年以上経ってしまっているんですね。去年中に完成させられたらな、とは思ったんですが、なかなか執筆する気になれず、時間がかかってしまいました。
 旅行中はちょうど第2波の頃でしたね。新幹線、行きはガラガラ、帰りのなすの号はそこそこ乗っていましたが、大宮到着直前で4割ほどの席が埋まっているかな? という感じでした。
 執筆中にいろいろありました。第3波の襲来もありましたし、鉄道やバスといった公共交通機関を取り巻く環境も大きく変わってしまいました。
 まず、利用客の大幅な減少に伴って、2021年の3月にダイヤが大きく変わりました。終電の繰り上げや、本数の削減などですね。途中で出てくる仙台と福島を走っている快速もダイヤ改正で廃止になってしまい、白石駅での乗り換えが必要になりました。ただ、それ以上に仙台ではのっぴきならない状況になっています。旅行どころではないかもしれませんね。
 もし、もしも遠出する機会があるのであれば、きちんと最新の情報を仕入れて、厳重な感染対策をしたうえで、遠出を楽しんでほしいと思います。
 次は、これを読んでくれている方のお住まいの近くに行くかもしれません。早く普通に旅行できる世の中になってほしいと願うばかりです。
 最後に、皆様方、体にはどうかお気を付けて。
 

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