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ふらいとらべるしょーと 国境訪問記 の変更点


作[[呂蒙]]

<登場キャラクター>
結城・人間(男性)です。旅行と歴史をこよなく愛する。歴史に関する知識は学者並。ポケモンに関する知識はほぼ0。
ナイル・フライゴン♂。理性という名のブレーキが壊れると、性獣「えろいごん」になってしまいます。今回は最初から最後まで普通です。

 

 3月に入ってから、大陸発の新型コロナウイルス騒動はどんどん広がりを見せて、ヨーロッパに至っては、もうのっぴきならぬ状態。大学からも通知があり、不要不急の集まりや、海外旅行は避けるようにとの通達が来た。
 春休みといえば、海外旅行には最適のシーズンだ。何しろ、時間はあるし、お盆や大型連休ほどの混雑はない。ヨーロッパでに限って言えば、まだあちらは冬季のため、閑散期である。夏に比べれば、安価な値段で十二分に楽しむことも可能である。
 春休みといえば、海外旅行には最適のシーズンだ。何しろ、時間はあるし、お盆や大型連休ほどの混雑はない。ヨーロッパに限って言えば、まだあちらは冬季のため、閑散期である。夏に比べれば、安価な値段で十二分に楽しむことも可能である。
 だが、こうなってしまっては、旅行どころではない。しかし、自粛自粛でずっと家にいるのも気分が鬱々として精神的に良くない。
「うーん、ちょっとどこかに出かけたいな……。ナイル、今度の週末、どこかに出歩こう。ずっと家にいるのも、気分的に良くないだろ?」
「いいけど、どこ行くの?」
「まあ、そうだな。近場でどこか……」
 今回ばかりは、結城も前もって計画していたわけではない。飛行機も列車も、ホテルも予約していない。もっとも、移動制限ムードが漂うご時世であったので、ホテル業界などは大打撃らしい。直前でも予約はとれそうな気がするが……。だが、こういう状況では、さすがに結城も旅行という気分にはならなかった。余所で訳の分からないウイルスをもらってきて、無関係の人にうつしてしまうかもしれないではないか。
 パソコンで、近場で何かいいところは……と調べていると、なんと渡し舟で国境を越えられるところがあるという。しかも東京都。
(ふーん、灯台下暗しというやつか)

 当日、少々早起きをして、新宿駅に向かう。ここに来るまでに乗ってきた電車はかなり空いていた。終点が近づくにつれ、多少は混んできたものの、混雑というには程遠かった。
「随分、空いているな……」
「だって、今日は祝日だよ?」
「そりゃまあ、そうだけど、今日は3連休の初日だ。どこかへ出かけようって人がいてもおかしくはない気がするけどな」
 やはり、自粛ムードで出控えている人が多いということだろうか? それにしても、乗客の多くがマスクをしていたのはやはり世相を反映しているというべきだろうか。
 この新宿駅で中央線に乗り換える。電車を乗り継いで、ひとまず上野駅に向かう。新宿駅は、関東でも有数のターミナル駅だ。さすがに閑散としているとは言い難かった。けれども、ホームに滑り込んできたJR中央線の車内はガラガラで、座ることができた。時間は朝の9時前で、そこまで早い時間ではない。
「ラッキーだ。座れたぞ。普段、こんなに空いているなんてまずないからな」
「ねえ、ご主人。ちょっと考えたんだけどさ、出かける人は車を使っているんじゃないの?」
「あ、なるほど。そうかもしれないな」
 確かにナイルが言うのも一理ある。自家用車なら、少なくとも、見知らぬ人から訳の分からんウイルスをもらう確率はぐっと下がるだろう。実際に、人混みを避けつつ、休日を楽しむという無理難題を叶えてくれるキャンプ場は、レジャー施設が客集めに苦労する中で例外的に、繁盛していると聞く。
 トンネルをくぐって四ツ谷駅を過ぎると、進行方向左手に神田川が見えるようになる。桜の季節なると、花を咲かせた木々が目の良い保養になってくれるのだが、まだちらほらと花をつけた枝が見られる程度で、花見をするには少し早いようであった。
 終点の1つ手前の神田駅で京浜東北線に乗り換えて、上野駅に向かう。やはり、この電車の中もガラガラだった。東京や横浜という大都市を通る路線で決して利用客の少ないローカル線ではないのだが……。時間帯のせいか、はたまた東京や横浜から遠ざかっていくいわゆる北行きの電車だからなのか。
 何事もなく電車は上野駅に着いた。上野駅はかつての北の玄関口である。関東から東北方面に向かう長距離列車が、上野駅から出ていたことからそのように言われているのだが、コスト面や利用客の減少で上野始発の長距離列車はほとんどが廃止になり、草津温泉方面への特急電車がかろうじて残っているだけである。また湘南方面との直通が可能になったことから、始発駅としての性格は失われてしまった。
「ここで、今度は京成線に乗り換えるぞ」
 いったん、不忍口から改札の外へ出る。
「ナイル、ここで問題だ。これは何と読むのかな?」
「これって?」
 結城が指さしている看板には「不忍口」とある。
「『しのばずぐち』でしょ?」
「当たり。まあ、この位は人間界で暮らすなら知っておいてもらわないと困るから」
 駅前の横断歩道を渡り、京成上野駅へ移動する。まだ9時過ぎということもあって、駅前の人通りはまばらである。人がいないのはいいのだが、風が強いのが少々難儀である。近頃、家にいる時間が長くなってきたこともあり、少しは歩こうと思っていたので風が強いというのは都合が良くない。
 この京成上野駅から、空港まで「スカイライナー」という特急列車が出ており、列車によって所要時間に多少のばらつきはあるが40~50分ほどで上野と空港を結んでいる。
(このご時世だ。使う人などいるのか?)
 などと結城は思っていたが、数名のバックパックを背負った旅行者と思しき外国人が窓口で切符を買い求めていた。新型コロナウイルス騒動対策に各国は乗り出しており、中には国境を封鎖して事実上の出入国を禁止する国も出てきた。面倒なことになる前に母国へ帰ろうという人たちなのかもしれない。
 結城たちは今回は遠くへ行くわけではないので「スカイライナー」は使わない。目的地は柴又駅なので、東京都内で降りてしまう。
 切符を買い、案内板に従っていくと、ちょうど折り返しの電車が入ってきたところであった。9時33分発の成田空港行きの特急電車である。先ほどの「スカイライナー」も特急なので、この辺は慣れていない人は紛らわしいかもしれない。「スカイライナー」が空港まで短時間で行く人を対象としているのに対し、こちらはれっきとした生活路線である。だから「特急」とあっても、特急料金は取らないし、空港まで停まらないわけではない。
 ガタンガタンと音を響かせながら、入ってきたシルバーに赤と青のラインが入った車体。先ほどのJRの車体と比べると、随分年季が入っているように見えた。京浜東北線にあったドア上方の液晶ディスプレーなどという文明の利器は備えられていなかった。車内は結城たちを除くと、客は3人しかいなかった。
 定刻通りに、電車は発車した。1両20メートルある車内に、客はたった数人。あまりにも寂しい。
「ご主人、ガラガラだね……」
「いや、多分、次の日暮里駅で結構乗ってくると思うぞ?」
 結城の言った通り、次の日暮里駅でかなりの乗車があり、席はあらかた埋まった。しかし、成田空港行きの電車でありながら、スーツケースやバックパックを持った客はいなかった。
(1人くらいはいるかと思ったけどな……)
「京成高砂駅で降りるからな。寝るなよ? 今回はすぐだから」
「分かってるよ」
 ところで、車内の窓が少し開いているのが気になったが、車内放送があり、このご時世なので換気をよくするためにやっているとのことであった。
 東京湾には多くの河川が流れ込んでおり、高砂駅までそこまで距離があるわけではないが、隅田川、荒川、中川の3つの河川がある。3つ目の町屋駅を過ぎると、隅田川を越える。滝廉太郎(1879~1903)の歌曲でも知られている隅田川だが、両岸はコンクリート造りであり、風情は全くなかった。のぼりくだりの船人もいなければ、ながめを何にたとうべきといわれても、なかなか答えに困るような風景しかない。
 間もなく千住大橋駅を通過して、3分前に発車した臼井行きの普通電車を追い抜く。住宅密集地を縫うようにして走るため、ギリギリまで住宅が線路に迫っている様はいささか息苦しくも感じる。結城は、よくこんな住宅密集地である下町に地上線を通す荒業をやってのけたなと、変なところで感心してしまう。
「なあ、ナイル。やっぱりこういう住宅街には野生のポケモンはいないわけか?」
「と、思うけどね。でも、どうかな? 人目につかないところにはいるかもよ?」
「例えば?」
「マンホールの中とか」
「ストリートチルドレンかよ」
 ナイルとの間に特に意味のない会話が交わされる。結城は、確かに不衛生な環境でも耐えられるなら、マンホールの中もアリかもしれないな、雨風はしのげるしと思わなくもなかった。
 上野駅を出て15分ほどで、青砥(あおと)駅に到着する。この辺りの地名は「青戸」という表記なのだが、駅名の表記は「青砥」になっている。読みは同じなのだが、どういうわけか漢字表記が違う。地名で「戸」が使われている場合は船着き場が近くにあったことに由来しているという。青戸という地名は昔からあったのだが「青砥」表記が使われたことはなく、どういう理由で駅名にこの表記が使われたのかは不明である。
 この次の高砂駅で結城たちは電車を降りた。ここで、京成金町線に乗り換える。5番乗り場とのことだが、辺りにはそれらしきホームはない。とりあえず、案内板に従っていくと、京成本線の上の階に件の5番ホームはあった。この駅は3層構造で1階が本線ホーム、2階が改札階、3階が金町線のホームという構造になっていた。
 電車は運悪く出ていった直後のようだった。9時52分発の金町行きは行ってしまったので、次は10時07分発である。時計を見ると、まだ発車まで10分少々ある。ここに来るまで何度か乗り継いだが、どこもあまり待たずに電車に乗れたこともあり、10分少々といえど長く感じる。そして、風がかなり強い。高架になっているホームに春の乾いた風が容赦なく吹き付ける。日差しはあったのだが、風のせいで暖かくは感じなかった。
 寒くて辟易していたところに、折り返しの4両編成の電車が入線してきた。まだ10時前なので、発車までは少々時間があるが、発車までの時間、電車のシートに腰を掛けていられるのはありがたかった。
(おお、扇風機がついているぞ。まだこんな電車あったんだな……)
 京成金町線は金町駅と高砂駅の間を結ぶ全長2.5キロで、間に柴又駅があるだけのミニ路線である。東京では珍しい単線で、終点まで乗っても所要時間は、たったの、5分。しかし、走る距離は短くとも本格的な図体のデカい車両が投入されている。ミニ路線だからと侮ってはいけない。常磐線と京成本線を結ぶ連絡線であるため、需要は結構あるのだという。
 風が強いので、開け放たれているドアから容赦なく風が吹き込む。結城は、せめて1か所くらいドアを閉めるとかできないのかな、とも思ったが、このご時世である、換気をしなければならないということもあるのだろう。発車時間までの間、吹きすさぶ春の風に耐えていた。
 ようやく時間になり、ドアが閉まる。吹きすさぶ風からは解放された。電車が入ってきたときは数えるほどしかいなかった乗客も発車したときには、空席がわずかにみられる程度になっていた。
 電車は住宅街の中を縫うようにして走る。線路脇には進入を防ぐための柵があるが、そのすぐ外は住宅の敷地になっている。もしも、の話だが、何かのはずみで電車が脱線してひっくり返りでもしたら、線路沿いに建っている住宅も確実に巻き添えを食ってしまうだろう。そんな余計な心配をしてしまうほど、電車と住宅の距離が近い。目的地の柴又駅までは2、3分でついてしまう。結城たちはここで降りる。この路線は全線が単線だが、柴又駅ですれ違いができるようになっている。
 柴又には、帝釈天があり、駅のすぐ近くまで参道が伸びている。帝釈天の門前町といった趣で、両脇には、参拝客を相手にした店が軒を連ねている。店が開いていることからすると、何もなければ、この時間には参拝客相手の商売が成り立つ、ということなのだろう。まして、今日は彼岸である。ところがどうだろう。参道には結城たち以外誰もいない。都や国が、外出の自粛を呼び掛けているということもあるが、誰もいないというのは、異常事態というべきだろう。
「誰もいないね……」
「そうだな」
 両脇には和菓子を売る店があったが、午前中からお菓子を食べる気分にはならず、横目でちらりと見るだけで、何も買わなかった。
 帝釈天の脇を通り過ぎると、やがて、江戸川の堤防に行きつく。ここが東京と千葉の県境ということになる。河川敷には、野球をしている一団や、遊びに来ている家族連れの姿があった。そして、相棒と自らの鍛錬に励むポケモントレーナーと思しき姿も。風がいよいよ強くなり、遠目でも、川面に白波が立っているのが確認できた。
 ここには今では珍しい渡し舟があって、川を渡ることができる。観光客を呼び込むためではなく、地域住民のために江戸幕府が設けたものであり、江戸時代初期にはすでに渡し舟があったという。その後は、川に橋がかけられたために渡し舟は廃れていったが、この辺りには橋がかけられることはなく、生き残り、現在に至るものと思われる。上流のかなり遠くに国道6号線の橋があるのが確認できたが、下流には北総線の鉄橋があるだけで、人や車が通れるような橋は見えなかった。
 堤防を降りて、桟橋に行ってみたものの、桟橋は閉鎖されていた。
「あれ? 入れないね?」
「あー、嫌な予感的中だな。川が荒れると渡し舟は出ないらしいからな……」
 どうやら、渡し舟は川が荒れているため欠航のようだ。今回の外出の目的はこの「矢切の渡し」と呼ばれている渡し舟だったのだが……。風は収まりそうになかったし、諦めるほかない。だが、せっかく来たのだ、何とかして江戸川を渡りたい。
「この際だ。ナイルに乗って、渡ってしまおうか……?」
 結城がそんなことを言い出す。せっかく、フライゴンという空を飛べるポケモンを連れてきているのだ。それが一番手っ取り早いのだが……。
「ぼくはいいけど……?」
「うん、でもやっぱりやめる」
「えー、何だよー」
 結城はバランスを崩して川に落ちるの嫌だから、と、適当な言い訳をした。少し考え、北総線の新柴又駅まで歩き、東松戸駅まで行く。
 堤防の上の道路に立って、対岸を見てみる。
(そういえば、この辺りって古戦場なんだよな)
 対岸の国府台(こうのだい)には太田道灌(1432~86)が本陣を置いたとされる場所があり、後にその場所に城が築かれた。その場所は現在、里見公園という公園になっている。道灌の死から50年ほど後に第1次国府台合戦(1538)が起き、北条という余所からやってきた新興勢力がもともと関東に勢力築いていた連合軍を相手に大勝した。両軍はこの川を境に陣を敷いていたという。この一戦で、北条が関東の覇者になったかというと、そういうわけではないが、北条にとっては大きな勝利であることは間違いない。その後の歴史を左右する一戦がここで行われたと思うと、どこにでもありそうな河川敷も少しだけ特別なものに見えてくる気がしないでもない。
 今でこそ、住宅街であり、東京23区という日本の中心地といっても差し支えのない場所であるが、太田道灌が活躍した時代というのは、関東は辺境の地であり、戦乱が絶えないフロンティアであった。関東の実力者である上杉は健在だったが、戦国時代というのは完全実力主義社会なので、己の才覚次第では上杉を押しのけて覇者になることも可能な世界であった。
 川を離れて新柴又駅に向かう。渡し舟が出ないので、北総線に乗って、江戸川を越えることにした。駅までは少し距離があるが、ここのところ、あまり外に出なかったので、歩くのもいい運動になる。駅にたどり着いたものの、電車が来るまでは少し時間があった。時刻表を見ると1時間に3本しかない。次の電車は11時07分発の印旛日本医大行きであった。
(あと、15分もあるのか……)
 本数の多い京成線に代わって、上野から成田空港行の特急をじゃんじゃん通すために敷かれた路線だから、普通電車というのはおまけでしかないのだろう。特急を優先して通すためなのか、普通電車は平日の朝のラッシュの時間帯でも1時間に6本に抑えられている。

 道灌が20代前半の時に、日本史上稀にみる長期戦となった享徳の乱(1455~83)が勃発し、関東の武将たちは合戦に明け暮れることになる。この長期戦が終わって数年間は束の間の平和が訪れた。またこの合戦で大活躍をした道灌の声望は大いに高まった。
 だが、道灌の主君・上杉定正(1443~94)は道灌の存在を頼もしく思う一方で、危険視するようになっていた。また、本家の山内上杉家当主で関東管領・上杉顕定(1454~1510)も分家に本家の地位が脅かされることを恐れていた。だが、いくら上杉の本家といっても、道灌と定正は2人とも戦上手であり、戦を仕掛けても勝てる見込みはなかった。
 そんな中、道灌が定正に暗殺されるという事件が起こる。なぜ、定正が道灌を謀殺したのかは諸説ある。定正が道灌による下剋上を恐れたからだとも、顕定の策謀に嵌ったからだとも言われている。理由はどうあれ、道灌の死で一番得をするのは顕定だった。この事件で定正は多くの家来の不信感を招き、多くの家来たちは顕定側に鞍替えしてしまった。
 道灌の死からほどなくして、今度は扇谷と山内の両上杉の間に大規模な内紛が勃発する。世に言う長享の乱(1487~1505)である。戦上手だった定正の没後、後を継いだ上杉朝良(1473~1518)は戦下手で、単独では顕定に対抗できないため、余所の国に援軍を求める。この時、援軍を率いてやってきたのが、当時駿河にいた北条早雲こと伊勢宗瑞(1432/56~1519)である。関東とは縁のない北条が、どうして後に関東の覇者になることができたのかというと、この戦がそもそもの原因だったのである。
 永正元(1504)年、今川氏親(1473~1526)と伊勢宗瑞という強力な援軍を得た朝良は現在の東京都立川市で顕定軍と戦って、大勝を収めた。だが、顕定の部下である、長尾能景(1464~1506)が越後から援軍を率いて救援に駆け付けた。
(大敗した軍がすぐに攻めてくるとは思うまい)
 そう考えた能景は、自らの手勢と生き残った顕定の兵力を合わせ、朝良方の城に攻撃を仕掛けた。能景の読みは当たり、援軍が駿河に引き上げてしまったうえ、準備不足だった朝良は為す術もなく、本拠地である河越城を包囲され、翌年に降伏した。こうして、顕定が関東の覇者になったかに見えたが、その覇権も長続きしなかった。
 合戦に次ぐ合戦の関東で勢力を伸ばしてきたのが先ほどの伊勢宗瑞である。宗瑞の子・北条氏綱(1487~1541)は各地に出兵する一方で、自らの領地には善政を施し、南関東で急速に勢力を伸ばしていた。当然のことながら、余所者(氏綱は駿河出身)が急速に関東で勢力を伸ばすことを快く思わない者たちもいる。その筆頭が足利義明(生年不詳~1538)なる人物であった。足利将軍家の血を引く人物で小弓(現在の千葉市)を拠点に勢力を拡大し「小弓公方」と自称していた。勢力拡大で自信をつけたのか、義明は鎌倉を狙う動きを見せていた。この動きを察知した氏綱は兵を率いて、江戸川を前に陣を敷いた。世に言う第1次国府台合戦である。
 小弓公方方に参陣していた安房の戦国武将である里見義堯(1507~74)は、北条側が渡河の最中に攻めるべきと主張するが、受け入れられなかった。義明は自らの家柄と武勇を過信して自分に弓引ける者などいないなどと言い出す始末。その自信はどこからやってくるのか、まったくもって謎である。
(いかん、話にならぬな……)
 勝利はおぼつかないと見た義堯は適当な口実をつけて、主戦場である国府台ではなく、少し離れた市川方面に陣を移した。結局、義堯の予想通り小弓公方は戦死。氏綱の前に家柄など何の役にも立たなかった。小弓公方の戦死の知らせを受け、無傷で戦場を脱出した義堯は房総半島に勢力を広げ、北条と死闘を繰り広げていくことになる。ちなみに、氏綱没後に第2次国府台合戦(1563~64)があり、義堯は再び北条軍と対決することになる。

 ようやく普通電車が入線してきた。電車が動き出すと、程なく江戸川を越える。ここから千葉県である。旧国名で言えば下総である。東京側とは対照的に、国府台の方は住宅は少なく、畑が目立った。
(川を一つ越えただけで、こうも違うのか……)
 外を見ていると、トンネルに入ってしまう。
「あ……」
「トンネルに入っちゃったね」
「まあ、台地だからなこの辺」
 北総線は新しい路線なので、このような場所に出くわすと土地を取得するよりも、トンネルを掘ってしまったほうが建設費が安く済むのだという。これも技術の賜物か。
 次の矢切駅のホームはトンネルの中にあった。本当なら、渡し舟で江戸川を越えた後に、この駅まで歩いてくる予定だったのだが……。
 別に東松戸駅周辺に用があるわけではない。ただ、東松戸駅はJR武蔵野線に乗り換えることも、いくつかの路線に乗り入れて羽田空港に向かう特急で青砥駅へ戻り、そこで上野行きの京成本線に乗り換えることもできた。
 どちらにするかは、駅に着いたら決めることにした。

 東松戸駅に着くと、すぐに羽田空港行きの特急電車が来ることが分かった。大急ぎで上野駅までの切符を買い、ホームへ向かう。ホームにたどり着いたのと同時に、電車が入線してきた。
「よし、乗るぞ」
 幸い、座ることができた。駅を出るとき、ちらりと枝垂桜が見えた。花が咲いてはいたが、まだ満開ではなかった。
 この電車は、成田空港と羽田空港を結んでいる電車である。しかし、やはり、旅行者と思しき客はいなかった。
「少し疲れたな……。結構歩いたからな。お前に乗ればよかったよ」
「『いい』って言ったのご主人じゃん」
 椅子に座った結城とナイルはそんな大して意味のない会話をする。やがて電車は江戸川を越え、東京都に入った。
「んー……」
「どうしたの、ご主人?」
「いや、考えてみたんだけれどもさ、東京に住むようになってから、大分経つけど、葛飾区とか来た記憶がないなぁーと思ってな。同じ東京都なのに」
「確かにそうだよね」
「ちょっと、疲れたし、今日の夜は……」
「あ、また、そうやって……」
「下ネタじゃないぞ、今日の夜はステーキにでもするかな……っていう話だったのに、何だと思ったんだ?」
「……別に」
 大して意味のない会話をしていると、電車は高砂駅に着いた。次の青砥駅で上野方面行きの電車に乗り換えである。
 今回の外出は、以前から時間をかけて計画されたものではなく、肝心の渡し船にも乗ることができなかったけれども、外出の機会が減ってしまい、少々、気分が鬱々としていた折の外出であった。結城はともかく、体の大きいナイルはずっと遠出させないと、結城以上にストレスが溜まってしまうことだろう。といって、アウトドアの知識も道具も持ち合わせていない結城に大自然の中でキャンプというのは中々の難題である。
(まあ、だから、目的は達せられなかったけど、気分転換にはなったし、それなりによかったかな)


 おわり


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