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ふらいとらべる 新春駆け足観光篇 続き の変更点


 このお話は続編になります。

 作[[呂蒙]]

[[ふらいとらべる 新春駆け足観光篇]]←こちらが前半です。

 ふらいとらべる 新春駆け足観光篇 続き

 第3章 教会と坂と猫の街

 結城はホテルにチェックインした後は、食事をとり、近くの中華街を見に行ったあとは部屋でゆっくりと休むことにしていた。
「ご主人、この後の予定は?」
「ん? ナイル、暇なのか? オレはもうくたくただからゆっくりしたいんだ」
 かといって、ナイルも体力が有り余っているわけではないのだが。ホテルの窓からは、街の明かりが見える。そのこと自体は特筆すべき事柄ではないが、広い平野に住んでいるものからすると、山肌にまで、住宅が立ち並んでいるのは、いささか珍しい光景であった。
「すごいね、山の斜面にまで、建物が建っているよ」
「そりゃあ、長崎市は平地面積が狭いっていうしな、こうでもしないと家が建てられないんだろ?」
「海を埋め立てればいいじゃん」
「『埋め立てればいいじゃん』って言うけどな、漁業や造船業への影響もあるだろうから、そう簡単にはできないだろ。それに、出島を見に行った時に言うけど、これでも埋め立てを行って、平地を確保したらしいからな、これ以上は難しいんじゃないのか?」
 長崎市の特徴の一つとして挙げられるのが、平地面積の狭さである。市の面積のうち、平地が占めるのはその6分の1に過ぎない。それだけでは、40万を超す住民を収容できず、山の斜面に宅地が造成されている。さすがに家を斜めに建てるわけにはいかないので、その部分は平らになっているだろうが、その周りは当然のことながら、坂道である。しかも急で狭い坂道というのも数多くある。名所の一つ、グラバー園には「グラバースカイロード」なるものがある。坂の上に住まう人々のために作られたもので、世にも珍しい、斜めに移動するエレベーターである。つまりは、ケーブルカーの親戚のような乗り物である。ちなみにこのエレベーターに並行する坂道には名前が付けられている。その名も「相生地獄坂」である。
 この街はもともと、漁村に過ぎなかったのだが、キリシタン大名・大村純忠が提供した横瀬の港が純忠の敵対勢力により、焼き討ちに遭い、港は使えなくなってしまった。そこで、純忠は代わりの港を提供した。その港こそが、今日の長崎である。
 江戸幕府による鎖国以前にも、長崎は外国と貿易港として栄えていた。他にも、近隣の貿易港としては、北方の平戸や、島原半島の口之津などがあり、そのこと自体は、鎖国以前の日本においては特筆すべきことではない。長崎の特殊性は、天正8(1580)年にイエズス会に寄進されているということだろう。治外法権のエリア、つまりは実質的に外国領土になってしまったわけである。もっともこの後、日本に実質的な外国の領土があるという事実に驚愕した、豊臣秀吉(1537~98)によって、長崎はイエズス会より没収となり、時の為政者による直轄支配となった。この支配システムは江戸時代になっても変わらなかった。
「まあ、そんなところかな、後は明日、世界遺産でもある大浦天主堂を見に行くから、その時に説明しようか。今日はもう早く寝よう」
「そうだね」
「ああ、そうだ1つ言い忘れていた。明日の朝食は食べ放題だからな、なるべく食べておけよ。まあ、あんまり浅ましい真似はするなよ?」
「はいはい、わかったわかった」
 街歩きを始めると、いつ食事にありつけるかわからないからである。それに明日の夜の飛行機で長崎を後にしなければならない。行きたかったところに行けなかったということだけは避けたかった。

 翌朝、チェックインの際に渡された朝食のチケットを持って、指定されたホテル内のレストランに行く。朝食は取り立てて豪勢というわけではないが、一通りのものは揃っていた。
 結城はパンと、卵料理、ベーコンにサラダ、ミルクを選んだ。と、ここで、またまた結城の良くない癖が出てしまう。
「さて、エビフライから食べるかな」
 と、言うと、割り箸でナイルの体をつんつん。
「……殴るよ?」
 ナイルが睨むと、さすがに悪ふざけが過ぎたと思ったのか、結城はおとなしく朝食を食べ始めた。朝食はとびきりおいしいというわけではなかったが、栄養のバランスは十分に取れているし、何よりも日頃、自分で食事を用意しなければならない結城にとっては、朝食が用意されているということだけでもありがたいことであった。
「でさ、今日はこれからどうするの?」
「まず、バスターミナルに荷物を預けて、それから西坂公園に行こう」
 朝食をいつもより多めに食べ、部屋で荷物をまとめ、ホテルをチェックアウトした。まず、市電に乗って、長崎の駅前にあるバスターミナルに行かなくてはならない。空港行きのバスの時間を調べておかなければならないからだ。

 ホテルを出ると、最寄りの停留所で市電に乗り、長崎駅を目指す。今回の旅は、正規運賃ではなく、飛行機とホテルをセットで予約するという条件で、かなりの割引が効いた。加えて、市電の一日乗り放題のチケットがおまけでついてきた。このチケットは普通に買えば500円するので、市電に5回以上乗れば元が取れることになる(市電は1回の乗車で120円)。
 既に時刻は通勤や通学のラッシュの時間からは過ぎてはいたものの、車内はそれなりに乗客がいた。
 長崎駅前の停留所で降りて、バスターミナルに向かう。ロッカーに衣類などを詰めたカバンを預け、時刻表で空港行きのバスの時間を調べる。
(16時台は、と……。5分、10分、25、40、45、55分か……。おお、思ったよりも出ているな……)
 通るルートに違いはあるのだが、最終的に、どのバスも空港まで行ってくれる。空港までは、1000円とある。
 まず、西坂公園に向かう。この西坂公園というのは慶長元(1597)年に、京都で捕縛されたキリシタンたちがこの地に徒歩で連れてこられ、刑殺されたと伝わる場所である。この弾圧が、時の為政者による最初の弾圧とも言われている。時代で言えば、豊臣秀吉の最晩年の時期にあたる。この時すでに、宣教師を追放する命令が出されていたが、商人は対象外だったことと、貿易がもたらす利益も無視できないものであったため、この時までは、為政者による大規模な迫害はなかった。だが結局、追放令そのものが曖昧になってしまった。
 地図を頼りに歩いていくと「26聖人殉教の地」という看板が出ていた。観光地であるためなのか、名所への案内がされており、実に親切である。だが、結城たちを待っていたのは、キリシタンたちが処刑されたと伝わる丘に続く急な坂道であった。
「ええ……。こんなところ登るの……」
「あ~、随分急だね」
 この地は、刑場でも何でもなかったのだが、殉教者たちは、この地をイエス=キリストが処刑されたと伝わるゴルゴタの丘に見立て、この場所で殉教することを望んだといわれている。
「よし、背中に乗せろ」
 と、結城が言う。ナイルは拒否したが、疲れた疲れたと喧しいので、結局、乗せてあげることにした。本来なら、急な坂道を上り、さらに、階段を上らなければならないのだが、ナイルの背中に乗ってきたため、そこはまるっとスルーすることができた。階段を登りきったところに立札があった。この公園に関することなのかと思ったが、そういうわけではなかった。
「いやあ、楽だったな。お前連れてきて正解だったよ」
「感謝の言葉がないんだけど……」
「ああ、どうもありがとう」
 立札に目をやると、そこには「猫やハトに餌を上げないでください。増えすぎて困っています」と書かれていた。
「ほお、なる……ほどって、ナイル、変な声を出すなよ。何だよ『にゃーん』って」
「え? いや、何も言ってないって」
「ん? じゃあ、何かの聞き間違いか?」
 結城がふと、足元に目をやると、そこには猫がいた。どうやら声の主はこの猫であったようだ。シルバーに黒の縞模様で、妙に人懐っこい。結城にすりすり、そしてナイルにもすりすり。
「デウス的隣人愛の実践だ」
 などと結城が言い出す。アメリカンショートヘアという種類だろうか? 首輪が見当たらないので、野良猫なのだろうが、それにしては妙に人懐っこいし、ちょっと丸っとしていて、食事に困っているような感じはなかった。
(野良猫か? でも随分人懐っこいよな。となると、飼い主が放し飼いにしているとか?)
 結城たちが離れても、猫はついてくる。無視するのもかわいそうなので、体を撫でまわしてやる。完全に人慣れしてしまっている猫だったが、公園の隅っこにハトが飛来するのを見つけると、それは追い払っていた。
「なあ、ナイル。あの猫の人懐っこさには感動するよな、東京の猫は、人を見たらすぐに逃げるぞ」
「そうだね。さっきみたいにすりすりして、餌をもらっているのかもね」
「だろうな」
 この丘における処刑から5か月後に、織田信長(1534~82)や豊臣秀吉といった為政者と面会し、後進のために資料として書き残した『日本史』で知られる宣教師・ルイス=フロイス(1532~97)がここ長崎で没している。この『日本史』は確かに資料としては貴重ではあるが、フロイス自身が好意を持った人物には、良い評価がされており、一方で、宣教師にとって心強い味方である大村純忠の宿敵、西郷純堯に対しては「偽計・策略の点では第一人者」と酷評している。つまり、中立的な視点で書かれたものではないので、その点だけは注意しておかなくてはならない、ということだ。
「まあ、後で、もう一回同じことを説明することになると思うけどな」
「ふ~ん、それにしても、ここだけ周りに何もないよね。なんか変な感じがするよ」
 ナイルがそんなことを言う。西坂公園は小高い丘の上にあり、その眼下には長崎市街を望むことができる。山と海の間にあるわずかな平地に道路や建物、路面電車の軌道が詰め込まれている。しかし、この西坂公園に限って言えば、周りには何もない。公園の上に教会があるだけである。そのことが、この公園に何だか異質な感じという印象を抱かせる。
 
 次なる目的地は大浦天主堂である。丘を降りて、再び市電に乗る。大浦天主堂は元治2(1865)年に建てられたカトリックの教会である。先ほどの西坂における26聖人の刑殺や島原の乱と比べると随分、歴史が浅い。この天主堂は26聖人のために建てられたもので、西坂のほうを向いて建てられている。
 長崎駅前で市電に乗る。ただ、このままずっと乗っていればいいわけではなく、途中の停留所で乗り換える必要がある。乗り換えは、ちょっと面倒だが、歩くには遠すぎるし、バスで行く方法もあるらしいのだが、どの系統のバスがどこを通るのかといったことを事前にリサーチしていなかったため、この方法はとらなかった。
 市電の軌道の両脇には、車道があり、当たり前のように車が走り、市電を追い抜いていく。長崎に住まう人たちにとっては、道路の真ん中をビッグサイズの乗り物が悠々と進むということは、ごく当たり前のことなのだろうが、路面電車が絶滅寸前となっている東京では、こういう光景にはまず出くわさない。
(オレだったら、車の運転中にこんなのが来たら、ビビるわな)
 結城は市電に揺られながら、そんなことを考えた。車だったら、スピードがそれほど出ていなければ、ブレーキをガッと踏めばすぐに止まるだろうが、市電はそうはいかない。市電は制動が弱いためなのか、それとも、旅客の扱いをする以上は極端に強いブレーキをかけることができないという事情のためなのか「市電は止まるのに車の3倍の距離が必要です。急に止まれません」といった交通事故防止のための注意喚起がされていた。 
 大浦天主堂という停留場で市電を降りる。停留所の目の前にある……わけではなく、例によって、坂道を上り、丘の上まで行かなくてはならない。こればっかりは、平地が少ない土地柄なのだから仕方がない。
「ご主人、今度はちゃんと自分の足で歩いてよね」
「ああ……」
 結城も今度は、自分の足で坂道を歩き始めた。ゼイゼイ言いながら、坂道を上る。ちらりと横を見る結城。
「ちょっと待て、なんでお前飛んでるんだよ、ずるいぞ」
「いいじゃん、別に」
 結城はナイルが飛んでいるのが不満のようだった。先ほどと同じように「疲れた」だの「乗せろ」だの喚き始めたが、ナイルがシカトしているとやがて諦めた。
 ようやく坂を上りきり、ここにあるチケット売り場で、拝観料1000円を払う。しかし、ほっとしたのもつかの間。肝心の教会はそこからさらに高いところにあり、長い階段が結城たちを待っていた。
(勘弁してくれよ……)
 階段を上ると、中腹に踊り場のようなところがあった。そこにいたのはまたも猫。今度の猫は茶色と白のバイカラーであった。が、今度の猫は人間を恐れていないという点では先ほどの猫と同じだったが、態度がなんともふてぶてしい。どこからともなくやってきたかと思えば、観光客が歩いているにもかかわらず、往来の真ん中で昼寝を始めた。観光客がカメラを向けても、全く動じなかった。この猫も丸っとしていて、食事に困っているような感じはしなかった。やはり餌をあげる人間がいる、ということなのだろう。
 この天主堂の敷地内には、資料館があり、そこは異教徒でも遠慮なく(もちろん、最低限のマナーは守らなければならないが)入ることができる。
 ざっくり言うと、ここで見ることのできる資料というのは「カトリック苦難の歴史」という言葉に集約できる。もっと簡単に言うなら「私たちは可哀想な被害者」ということだ。ただし、先ほども述べたが、中立的な視点の資料ではないということは、常に気に留めておかなければならない。
 その「可哀想な被害者」の頼もしい盟友あるいは同志として、英雄扱いされているのが、大村純忠や「ユスト(ジュスト)右近殿」として、当時から宣教師たちの間で広く名前を知られた摂津高槻のキリシタン大名・高山右近(1552~1615)である。高山右近については、かなり詳細に説明がされていた。
 高山右近が生まれた頃、畿内は下克上を成し遂げた三好長慶(1522~64)によって掌握されていた。長慶はキリシタンではなかったが、キリスト教には好意的で布教の許可も出していたと言われる。「日本の副王」とまで言われた天下人・三好長慶が長く健在なら、右近の人生もかなり違っていたものになっていたことだろう。だが、戦国の時代はそれを許さなかった。
 長慶の勢力圏は、畿内全域から、海を越えて四国の東半分にまで及んでいた。都を支配下に置いていた長慶に対抗できるだけの力を持った大名は他におらず、日本の覇者が長慶であることは誰の目にも明らかであった。ところが、長慶の覇業を支えた弟たちや、跡取りである義興(1542~63)が相次いで死亡するという不幸に見舞われる。この時点ではまだ、安宅冬康(1528~64・長慶の弟)が健在であったのだが、長慶は何を思ったのか「何者かの」讒言を信じて冬康を殺害してしまう。そして、この事件から間もなく、精神を病み廃人同様になっていた長慶も世を去る。「日本の副王」とまで言われた権力者の最期にしてはあまりにも惨めなものであった。
 絶対的な権力者がいなくなったことで、畿内は動揺した。三好の跡取りは長慶の養子である三好義継(1549~73)という人物だったが、長慶には遠く及ばず、凡庸であった。そのため権力は、篠原長房(?~1573)と「弾正」の官職名で、今日でも知名度が高い松永久秀(1510~77)の2人に帰することになる。
「しかし、どうも、松永久秀が出てくると、話が歴史というよりもミステリーになってくるな。『三好家連続殺人事件』みたいな感じで」
「邪魔者が次々と死ぬんだから、都合が良いといえば都合が良いよね」
 結城が言ったように、長慶の身内が次々と死んでいったのは、自らの出世、あるいは野望の達成の邪魔になると考えた久秀が謀殺したからではないのか、とも言われている。久秀が謀殺したのでは? という噂は当時からあったといわれているが、一方で、久秀は関与していないとも言われており、結局のところ、長慶の身内が次々に亡くなった出来事の真相は闇の中である。
 摂津も例外ではなく、長慶の死により、再び群雄割拠の様相を呈してきた。資料館の資料で、キリシタンではないにも関わらず、たびたび名前の挙がる人物があった。その人物が、荒木村重(1535~86)という人物である。高山右近の上司にあたる人物ということになる。
 この荒木村重も、先ほどの三好長慶と同じように、下克上により、一国の支配権を握った人物である。高山家というのはもともと荒木村重に仕えていたわけではなかった。その主である和田惟政(1530~71)が村重との合戦で戦死したのち、後継者と対立したため、村重方に鞍替えした。この際、村重は「殺される前に殺したほうが良い、自分も支援する」と言い、高山友照(?~1595)と右近親子は、高槻から、和田一族を追放し、高槻城主の地位を奪い取ることに成功した。またこの時、村重から加増を受けている。
「主君には忠孝を尽くしなさい、裏切りは悪である」というのは、江戸幕府ができてから、それからしばらく経って、天下泰平の世になってから確立された価値観であり、この戦国乱世においては、主君の鞍替えというのは普通であり、悪いことでも何でもなかった。しかし、鞍替えしただの、城主の地位を奪取したというのは「福者・ユスト右近」の評価を下げるとカトリック側が判断したためなのか、その旨の記述はなかった。
 この時代、武士にとって大事なことは自らの地位と領土をどうやって守り抜くか、である。そのため、地位と領地を安堵(保証)してくれる人物に従うのは一般的な処世術と言えた。村重の場合は、勢力を拡大していく中で、織田信長に接近し「摂津のことは村重の裁量で行ってもよい」という確約を得た。村重そして、その上にいる織田信長という新たな覇者のもとで、キリシタンとしての生き方を実践できる……かに見えた。
「まあ、高山右近って、上司に恵まれていないよな……。いや、違うな。ひょっとすると、右近からすると、自分の本当の主はデウスだったのかもしれないな」
「……どうかなあ、神様って言われてもねぇ……」
 ナイルにはピンとこないようだったが、それは結城も同じである。デウスとは何ぞや? 日本風に言うと仏様なのかといえば、そういうわけでもない。日本の神様と同一なのかといえばそういうわけでもないっぽい。歴史に興味がある結城でも、神仏には興味がないため、この辺の説明がうまくできない。その辺は当時の宣教師も苦労したことだろう。日本人にわかりやすい言葉にしようとしても、どれも何かが違う。結局適当な訳が見つからなかったためそのまま「デウス」になったという。
 高槻の領主となり、村重と信長という自らの地位と領土を安堵してくれる人物も得た右近だったが、天正6(1578)年に突如、村重は信長に対して叛乱を起こした。村重は密かに信長と敵対する、本願寺や、中国地方の覇者である毛利と連絡を取っており、突発的に叛乱を起こしたわけではなかった。重用されていたはずの村重がどうして、叛乱を起こしたのか、明確な理由はわかっていない。ともあれ、村重配下の右近もこれに巻き込まれることになる。
 ちょうどこの時、摂津の隣にある播磨では、後世「三木合戦」といわれる20か月に及ぶ長期戦の真っ最中であった。播磨経略の責任者である羽柴秀吉と、いったんは信長に従ったものの、間もなく反旗を翻した別所長治(1558~80)との合戦である。秀吉は村重が叛乱を起こしたため、前後に敵を抱えることになり、窮地に立たされる。
 情け容赦のないイメージのある信長だが、村重が叛乱を起こした際、安土城に釈明に来るように命じ、それ次第では許すつもりであったという。自分が目をかけた武将、見込んだ武将は、問題があっても多めに見るというのが、信長の考え方であるようだ。ちなみに秀吉もこの少し前に、北陸における戦の際に、責任者である柴田勝家(1522~83)と戦の方針を巡って仲たがいし、自分の意見が容れられないことに不満を爆発させ、勝手に自分の領地である長浜に帰ってきてしまった。こんな勝手な行動が許されるはずはないのだが……。処罰はされたが、記録が残っていないだけなのか、それとも、大した処罰をされることがなかったため、記録する必要がなかったのか、いずれにせよ秀吉が何らかの処分を受けたという記録は今日に伝わっていない。その後、播磨経略並びに、毛利攻めの責任者となっている。どちらも、かなり難儀かつ重大な任務である。
「でもさ、ご主人。これって、危険な場所に飛ばしたってことだよね、だったら、懲罰なんじゃ……?」
「まあ、それかもしれないけど『サルならうまくやってくれるであろう』って信長も期待してたんだろうよ」
 ぼやぼやしているとサルが敵に包囲され、やられてしまう。そういう危機感もあったのだろう。信長が目を付けたのが右近であった。というのも、右近が治めている高槻は交通の要衝であり、また、摂津の入り口にあたる場所でもあるため、なんとしても押さえる必要があった。
 宣教師から右近は「金や地位では絶対に動かない」ということを聞き出した信長は「帰順するのであれば、此度のことは不問にするが、そうでなければ、キリシタンを迫害する」と通告してきた。右近もいくら村重であっても、信長が相手では勝ち目がないことくらい分かっていた。しかし、信長に帰順するべきではあるのだが、父・友照は徹底抗戦を主張していた。加えて、村重に人質を預けており、信長に帰順した場合、人質が処刑される恐れがあった。そのため、信長に対しては「人質の件が解決したら、帰順するので待ってほしい」と猶予を願い出た。
 村重が叛乱を起こしたのが、天正6(1578)年の7月だったが、信長が高槻へ出陣したのは11月になってからだった。ちなみに、この間の10月に、黒田官兵衛(1546~1604)が、村重の居城に単身でやってきた。村重と面識があり、翻意させるためであったのだが、捕まって、牢屋に監禁されてしまう。1年後、無事(にではないが)解放されるが、劣悪な環境に長くいたために、生涯にわたって、足に後遺症が残ってしまった。
 第2次木津川口の戦い(11月6日)で、毛利水軍を退け、9日には信長自らが、高槻に向けて進軍を開始した。
(判断を誤れば、多くのキリシタンが織田様に殺戮されてしまう……。それだけは避けなければ……)
 追い込まれた右近は、悩みに悩んだ末、村重に自分の財産を返上し、そして、剃髪したうえで、単身、信長に投降するという決断をした。信長の本陣へ右近が投降してくると、信長は喜んだという。結果的に、人質や多くのキリシタンの命は助かり、徹底抗戦を主張していた友照も、柴田勝家のもとに預けられる(幽閉される)ことになり、越前に追放となったものの命は助けられた。また、勝家の計らいで、幽閉といってもそれは建前で、実際は、行動の自由は与えられ、悠々自適に暮らしていたと伝わる。
「でもな、ナイル。20代半ばで、こんな究極の選択をしなきゃならないんだから、殿様と呼ばれる人たちは大変だよな」
「だよね。今のお偉いさんのほうが気楽だよね、絶対」
 右近の場合は、決断を誤らずに守るべきものを守ることができた。が、決断を誤ったが故に御家を滅ぼしてしまった例もある。代表的なのが、長篠の戦における武田勝頼(1546~82)であろう。この合戦の際、撤退を主張する老臣たちと進撃を主張する若手の間で、意見が真っ向から対立し、勝頼は後者の意見を容れた。が、結果は武田軍の大敗であり、多くの将兵を失ったことが致命傷となり、この7年後に信長によって滅ぼされる。武田家の全盛期を築き、天下人・徳川家康を恐怖のどん底に陥れた武田信玄(1521~73)の死からわずか9年後のことである。
 上に立つ者は、一歩間違えれば御家滅亡の選択をしなければならないこともあった。戦国の世とはそうした時代であった。
 右近や、高槻の近所である茨木を治めていた中川清秀(1542~83)が信長に降伏したこともあり、戦況は村重不利に傾き、最終的に、部下を見捨てて、村重は逃亡した。信長が高槻に進軍を開始してから、鎮圧まで丸1年かかった長期戦であった。勝ち目のない無謀な戦ではあったが、それでもこれだけの長期戦になったということは、逆に言えば、村重が武将として優秀であったともいえる。
 しかし、信長もこの数年後には本能寺の変で斃れ、明智光秀(1528~82)や柴田勝家らを倒した羽柴秀吉が天下人となり、右近もその配下となった。
 あくまで「カトリック側の視点」で作られた資料なので、中立的な視点のものであるとはお世辞にも言えない代物だった。とにかく、キリシタンたちへの賛辞が随所に見られる。右近は博学でしかも人徳があったため、彼の影響でキリシタンとなった者もいる。村重叛乱の際に捕縛され、有岡城に監禁された黒田官兵衛や、信長の娘婿であり、会津91万石の大名・蒲生氏郷(1556~95)である。
(あれ? この資料おかしいな……)
 黒田官兵衛、名前は孝高(よしたか)というのだが、名前の漢字が違っていた。間違っているほうでも「よしたか」と読めるので、一度見た時は気が付かなかったが、よく見ると、違っていた。
(人の名前を間違えるなんて失礼だよな、黒田官兵衛はかなり知名度の高い武将のはずなのにな、哀れ官兵衛)
 どういうわけか、黒田官兵衛が雑な扱いをされていることが分かった結城は、資料から目を離し、きょろきょろと周りを見た。細かい文字をずっと見ていたので、目が疲れたのである。やはり、正月明けの閑散期であるせいか、資料館には結城たち以外には誰もいなかった。それはそれで、静かでいいのだが、薄暗い室内に物音ひとつしないというのもいささか不気味に感じた。建物自体は年季が入っているのだろうか、歩くとところどころ、ギシギシミシミシと音を立てる。ナイルがつまらないとか、帰ろうとなどと言い出さないのは、結城も感心していた。
 羽柴秀吉のもとで、明石6万石に加増された右近だったが、この頃になると、キリスト教の良くない噂が秀吉の耳に入るようになる。何でも、キリシタン大名の領地では、僧侶が迫害されているだとか、領民たちにキリスト教信仰を強要しているだとか、信仰を拒んだ者を捕縛して外国に売り飛ばしているというのである。伴天連追放令が出された理由の一つが「奴隷貿易が行われていたから」というものだった。実際に天正15(1587)年に「大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本ニおゐて人の売買停止の事」という命令が出されており、宣教師たちの出身国の一つ、ポルトガルでは、これよりも10年以上前に、アヴィス朝の君主・セバスチャン1世(在1557~78)により布教に悪影響が出るという理由で、日本人を奴隷として売り買いすることを禁じる命令を出している。このことから「奴隷貿易」というもの自体はあったようである。(が、もちろん、ここにある資料ではそのような記述はない)
「もし、真であるならば実にけしからんことである」と、秀吉は、布教の責任者であるガスパル=コエリュ(1530~90)を呼び出して叱責した。が、何を思ったのか、コエリュは国外に援軍を要請したり、大砲を搭載した大型船を建造するなど、示威行動に出た。さらに、キリシタンの領地では寺社仏閣が破壊されているのはどういうことか、という問いに対して「神の教え以外に救いがないことを悟り、寺や神社など不要だと思ったからでしょう」と答えたことも秀吉の心証を悪くした。そして、キリシタン大名を扇動して、秀吉に敵対させようとしたが、幸いコエリュにそこまでの人望はなかったため、企ては未遂に終わった。
 結城には大学の授業で仕入れた歴史の知識があった。そのため、実際に奴隷貿易があっただとか、コエリュが秀吉を挑発するような言動をとったということの積み重ねの結果、為政者がキリスト教を警戒し、弾圧するに至ったという史実は、宣教師たちにも落ち度があり「一方的な被害者」「何も悪いことはしていないのに、弾圧された可哀想な私たち」と主張するのは、かなり無理があるように感じた。
(やはり、事前に知識を仕入れておくのって大事だよな)
 と思う瞬間であった。
 伴天連追放令は、信仰の無理強いを禁じたり、宣教師は20日以内に出てけという条項がある一方で、キリスト教を信仰するかしないかは、本人次第である(伴天連門徒之儀ハ、其者之可為心次第事)とし、信仰を禁止したわけではなかった。
 だが、キリシタンに対する風当たりは強くなりつつあった。こうした状況下で、右近は信仰を守るため、大名の地位を捨てるという選択をした。天正15(1587)年、右近が35歳の時である。だが、人格者で、博学な右近。そんな状況であっても、友達は多かった。秀吉の側近でありキリシタン大名でもある小西行長(1559~1600)に招かれ、行長の領地にしばらく滞在したのち、次いで前田利家(1538~99)に招かれ、金沢に移住した。金沢では利家から1万5千石が支給されており、流浪の身で困窮していたわけではなかった。また大名ではなくなったものの、武将としては活動しており、天正18(1590)年の秀吉による小田原攻めにも参陣している。
 利家没後、その長男である利長(1562~1614)のもとでも、禄と屋敷を与えられ、金沢で暮らしていたが、江戸幕府による伴天連追放令が出されると、右近は金沢を離れて国外に退去するという決断を下した。右近は金沢から大阪まで徒歩で向かい、そこからルソンへ向かう船に乗せられた。この時、右近は齢60を超えており、おそらくもう生きて日本に戻ってくることはできないだろうと思ったかもしれない。
 右近がルソンに到着したのが慶長19(1614)年の暮れのことである。宣教師たちの報告で、国外でも名前を知られていた右近は、現地で大歓迎を受けたが、すでに病身であったため、翌年1月に63年の生涯を閉じた。歓迎と同様、葬儀も盛大に執り行われたという。
 右近が、ルソンにて客死してから400年後(2015年)のこと、高山右近を殉教者として「福者」の称号を与えるようにローマ教皇庁に働きかけがあった。右近は、病死であり処刑されたわけではなかったのだが、その死を「信仰を守るため、大名の地位を捨て、異国へ追放された苦しみの末の死」ということにして、殉教者とし、それから2年後に右近には「福者」の称号が与えられた。
 高山右近とは、キリスト教世界(特にカトリック)では、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった、天下人以上の英雄なのかもしれない。
 右近没後の、資料はキリシタンに対する凄惨な迫害に重点が置かれていた。陸奥仙台の大名で今日でも知名度が高い伊達政宗(1567~1636)のように、親交のあった宣教師が処刑されることを知ると、助命嘆願をしたという例もあったのだが……。やはりスルーされている。
 出羽米沢におけるキリシタン弾圧の資料は、あまりにも美化されており「宗教のために死ぬ(殉教)ことは、究極的に美しいものであり、最高の善である」と言っているようであった。この資料を結城は眉をひそめながら見ていた。
 出羽米沢は、関ケ原の戦いで西軍についたがため大減封(120万石→30万石)となった上杉景勝(1555~1623)が治めていた。景勝存命中はキリシタン信仰は表向きは禁止されていたが、特に迫害などは行われなかった。しかし、子供の定勝(1604~45)の代になると、幕府からの弾圧命令が喧しくなり、一転して徹底的な弾圧が行われた。
 ある時、米沢藩内で棄教命令に従わなかったキリシタンたちが処刑されることになった。刑場の周りには多くの見物人がいる。すると、刑場にいた立会人である奉行が、見物人を前にして言った。
「皆の者、ここにいる者たちは、自らの教えを守るために死する潔い者たちである。この者たちへお辞儀をお願いいたす」
 この奉行は、キリシタンではなかったが、殉教者たちの一途な信仰心が、この奉行の心を動かしたのである、というようなことが書かれていた。結城はケチをつけずに資料を見ていたが、さすがにこれには
「何だよ、これ。処刑を美化しすぎなんだよ」
 と思わず、口に出して言ってしまった。周りに、敬虔なクリスチャンがいれば、一悶着あったかもしれないが、幸い、周りにはナイルしかいなかった。クリスチャンではない結城からすれば、法を犯したがため、刑に処されたというだけではないか、というのが正直なところであった。
「ところでさ、御主人、どうして奉行はこんなことを言ったんだろうね?」
「え? うーん、そうだなぁ……」
 米沢は長崎や畿内から遠く離れた地であったが、デウスの教えは畿内や九州に止まらず、東北にまで広がっていた。加えて、景勝の前に会津を治めていたのは、レオンの洗礼名を持つ蒲生氏郷であった。米沢に押し込められた後も、景勝は武士のリストラをしなかった。会津時代から仕えてきた武士の中にキリシタンがいたとしても、不自然ではないし、刑に処される者の中に、武士がいたとしても、それもまた不自然なことではないだろう。
 景勝没後、弾圧が始まり、何が何でも棄教しないというのであれば、下々は刑に処せばいいのだが、刑に処されるということは、武士階級では不名誉なこととされていた。責任を取らせるという意味合いが強い切腹をさせようにもキリシタンは自決を禁じられているので、それができない。お咎めなしというわけにもいかないので、斬刑ということになるが、それでは武士の名誉を奪うことになる。
(同じ主に仕えた者たちではないか……。刑に処したとしても、何とか、名誉を奪わずに済む方法はないものだろうか……)
 奉行はそう思ったのかもしれない、頭を下げてくれ、つまり、この者たちに敬意を払ってくれというのは、同じ主に仕えた者が、刑殺されるに及んで辱めを受けないようにするという奉行なりの心遣い、武士の情けであったのかもしれない。結城はそう考えた。
「まあ、信仰心に心を動かされたっていうよりもこういうことだと思うんだよな。謀反を企てたとか、不義密通をしたとかいう罪状じゃないんだし、弾圧だって、公儀が喧しいからやっているわけでさ」
 だが「宗教のために死ぬことはいいこと」という一神教(というよりも宗教)特有の教えに結城は恐ろしさを感じた。普段は何ともなくとも、何かあると宗教を核に団結し、為政者に反抗する。自らも三河一向一揆と対決した経験から、この点を幕府の創始者・徳川家康は熟知していたのだろう。こういう人物が天下人になった以上、宗教に何らかの圧力がかかることは時間の問題だったともいえる。
(だから、自爆テロとかがなくならないんだよな……)
 一神教なので、違う宗派だとか、異教を信じているというのを戦争の口実にできた。江戸時代ができたばかりのヨーロッパ世界というのは、三十年戦争(1618~48)という凄惨な殺し合いがキリスト教諸国の間で繰り広げられている時代であった。くどいようだが「この頃、ヨーロッパではキリスト教徒同士で殺し合いをしてました」なんていうことは、まるっとスルーされている。当時、ヨーロッパでは凄惨な殺し合いが行われている最中に、天下泰平の世を享受できた日本人はその点では幸せといってもいいかもしれない。
 次のコーナーに行くと、時代がかなり飛ぶ。いきなり19世紀に時間が飛ぶ。元治2(1865)年のこと。
「ご主人、元治2年って、いつ頃?」
「えーと、1865年だから、いきなり幕末だわな」
「時間飛びすぎだよね……」
「あ、ちょっと待った。1つ説明しないといけないことがあった。ここにはないけど」
 結城の話は、1世紀以上時代を戻すことになる。
 話の舞台は、天草である。島原の乱から、すでに150年以上が経過しており、幕府も手を尽くして、キリシタン根絶を進めており、その政策は成功したかに見えた。ところが、どうもキリシタンではないか? と思われる者たちが天草にいるらしい。という噂が幕府にもたらされるようになり、監視を強めることになった。この話が享保(1716~36)年間のことである。ただ、証拠が掴めなかったのか、あるいは遠隔地だからいいかと放置していたのか、はたまた事を荒立てたくないと思ったのか、すぐに住民が捕らえることはなかった。
 それから、しばらく時が経ち、文化2(1805)年、天草今富の庄屋の密告で、吟味(現代風にいうとガサ入れ)が行われた。この結果に、幕府の委託を受けて、当時天草を統治していた島原藩は驚愕した。キリシタンと思われる住民が5000人以上も見つかったというのである。当然、放っておくわけにもいかないが、対処を誤り一揆を起こしてしまった場合は、最悪の場合、改易からの斬刑である。かつてこの地を治めていた松倉という前例がある以上、それもあり得る話であった。
 キリシタン信仰を許すわけにはいかないが、かといって、手荒なこともできない。そこで、島原藩は吟味を受け入れるのであれば、寛大に対処することにした。すると、住民たちは素直に吟味を受け入れたうえで「あれは、先祖代々伝わるおまじないで、問題があることとは知らなかった。そのようなおまじないはもうしないから、どうか許してほしい」と言ってきた。
 島原藩としても、これ以上事を荒立てたくなかったのか、この「言い訳」を受け入れ、改めて踏み絵をさせ「もうこのようなことはしません」という誓約書にサインをさせ、放免した。幕府にも「素直に吟味を受け入れたので、どうか穏便に」と報告したところ、幕府も「あの者たちは、キリシタンなどではなく『宗門心得違い』の者たちである」という判断を下した。「宗門心得違い」とはいかにも便利で、あいまいな官僚言葉的ではあるが、とにかく、公には「キリシタンはいない」ということにされた。
「ま、いわゆる『隠れキリシタン』ってやつだったんだろうな」
 つまり、ポルトガルなどの布教に熱心な国が締め出されてから、開国するまでキリスト教徒がいなかったのかといえば、そういうわけではない。しかし、開国されてもキリスト教を信仰することは禁じられていたため、信仰を大っぴらにすることなどできなかった。
 そして、いかに感動的(カトリックからすれば感動的であることは間違いないだろうが……)な出来事であったのかという書かれ方がされている「信徒発見」に至るわけである。命の危険を冒してキリスト教の布教のために長崎にやってきていたプディシャン神父(1829~84)と日本にはいないと思われていたキリスト教徒との歴史的かつ感動的な出会いである。
 ちなみに、この頃になると、ポルトガルは、なおも新大陸にはブラジルという広大な植民地を持ち、アジアにおいてはマカオやティモールなどに拠点があるにはあったが、、イギリスやフランス、オランダに追い抜かれ、完全に没落していた。アジアでの布教に熱心だったのはフランスであり、プディシャン神父もフランス人だった。
 資料にあったのは、専ら日本における任務がいかに危険であったかということと、最悪の場合死刑になる恐れもあったが、殉教覚悟で活動をしたプディシャン賛美であった。カトリックにおいては功労者であることは間違いないから、そうなるのも無理はなかろうが……。プディシャン神父は刑に処されることも、国外追放になることもなく、大浦の地で生涯を終えている。
 日本におけるキリスト教の禁教が解かれたのは、明治時代になってからであった。明治時代になり禁制が解かれると、いわゆる「隠れキリシタン」も堂々とクリスチャンであると公言してもいいのだが、現代においても、昔ながらの隠れキリシタンの教えを守っている人々もいるという。
 結城たちは資料館を出た。幸いなことに、晴れてはいた。太陽が燦燦と照ってはいるが、やはり海からの風が冷たい。九州だから、きっと温暖だろうと思ってはいたが、そんなことはなかった。
「何か、中は薄暗かったから、日差しがまぶしく感じるね」
「……そうだな」
 結城はちょっと不満そうだった。資料は確かに興味深いものであったが、カトリックによるカトリックのための資料だから、やむを得ないのだろうが、都合の悪いところはひた隠しにしているような感じもした。カトリック側からすればそんなことはないというだろうが、どうしても、結城には、書いてあることをそのまま受け入れることはできなかった。
 せっかくここまで来たので、この近所にあるグラバー園も見ておくことにした。このグラバー園もやはり高台の上にある。そのため、眺めはいいのだが、敷地内も高低差があり、移動は難儀であると言わざるを得ない。
 このグラバー園は、外国人居留地にあった建造物を移築し、文化財として保存している。幕末にやってきたスコットランド出身の実業家・トーマス=グラバー(1838~1911)。ビジネスの傍ら、今日でも知名度の高い日本人とも面識があった。例えば、亀山社中を率いていた坂本龍馬(1835~67)や、薩摩出身の政商・五代友厚(1835~85)である。
 しかし、結城たちは、移築された建築物よりも、この高台から望む眺めの方を気に入ったようだった。長崎は夜景で有名である。結城も「見ておいて損はないかな」とも思ったのだが、あちこち見て回ったため、疲れてしまい、結局、寝てしまった。
「ご主人、下になんかあるね。クレーンかな?」
「ん~? ああ、あれは……」
 眼下にハンマーヘッドクレーンを備えた施設がある。この施設は、三菱重工業の造船所である。長崎は平地が少ないので、耕作地としては不向きだが、良港が多くあり、漁業や、造船には適した地であった。この造船所の近くに港があり、そこから五島列島へのフェリーが就航している。五島列島もなかなか見どころの多い場所で、魅力的ではあるが、いかんせん行くのに時間がかかる。今回の旅では断念せざるを得なかった。
 しかし、この立地がグラバーの屋敷にとって良くない作用をもたらしてしまう。時は、昭和14(1939)年。当時のグラバー邸の家主は、トーマス=グラバーの子供で、日本に帰化した倉場富三郎(1870~1945)であった。この年のある日、富三郎は、自分の家から退去することを強いられた。この立地が問題だったからである。と、いうのも、この前の年(1938)から眼下の造船所で戦艦「武蔵」の建造が進められており、そのことは当然ながら、軍の機密条項である。しかし、このグラバー邸からは、戦艦の建造の様子が分かってしまい、機密が漏れる恐れがあるというのが理由だった。突然、国の役人がやってきて、屋敷と土地を没収されたわけではなく、三菱重工業に買収されたということになってはいるが、富三郎が買収の話を拒めば、おそらく只では済まず、この話を承諾せざるを得ない状況だったことは想像に難くない。
 富三郎は、その生い立ちから、戦争中は「イギリスのスパイではないのか?」という嫌疑をかけられ、官憲の監視下に置かれたり、また、妻に先立たれるなどして晩年は不幸が続いた。このことは、富三郎の精神を徐々に蝕んでいった。最終的に、富三郎は終戦直後に、首を吊って自ら命を絶った。不幸が続いたことで精神的に疲れ果てた末の行動だったとも、スパイの嫌疑を晴らすために、戦争に協力的であったため、戦犯として裁かれることを恐れたからだとも言われている。
 
 一通り、グラバー園を見て回ったので、次は出島に行くことにした。まず、この高台から、麓にある市電の石橋停留所に行かなければならない。
「あーあ、ずっと歩いていたから、足が痛いな、おまけに疲れた」
 などと結城が言い出す。
(また、始まった……)
 またも、結城は「疲れた」だの「乗せろ」だの、子供のような駄々をこねる。
「お前だけ、飛んでるのはずるいぞ」
「別にいいじゃん」
「乗せろ」
「イヤだよ」
「じゃあ、ちょっとだけ」
「絶対に嫌」
 しばらく、このやり取りが続いた後……。
「じゃあ、乗らない」
 と、突然の奇襲を仕掛けた。今まで、ずっと「嫌」を連呼していたナイルは勢いで「イヤだよ」と言ってしまった。
「へぇ~、乗らないのが嫌なのか、そうか、乗っていいんだな?」
(うぅ……。悔しい……)
 傍から見ると、あまりにも子供っぽいやり取りの後、やむなく麓の停留所まで乗せることにした。結城はナイルに乗って、眼下に広がる景色を堪能しているようで
「おお~、いい眺め! 余は満足じゃ」
 と、殿様気分である。ナイルも乗せてやること自体は嫌ではないのだが……。
(乗せると、うるさいんだよなぁ……。いい歳してさぁ)
 急な坂道をまるっとスルーして、苦も無く停留所に着いた。
「うむ、エビフライ。大儀であった」
 と、よせばいいのに、結城がまたも悪ふざけをする。
「ん~? ご主人、おふざけが過ぎるよ?」
 ナイルが結城の頬をつねる。加減したつもりではあったのだが
「やめろよっ、痛てえよ! 痛いって!! 爪を立てるなよ!!!」
 人間にとっては、力が強すぎたようで、結城は本当に痛がっていた。
「出血したらどうするんだよ!」
「たとえ、そうなっても死なないから平気だよ」
 そんなやり取りをしている折り返しの市電5号線が入線してきた。直接、出島に行くことはできない。途中で1号線に乗り換える必要がある。
 市電を乗り換え、出島停留所で降りる。停留所のすぐ近くに出島の跡地があるにはあったのだが……。
「え? ご主人、本当にここ? 周り、市街地だけど……?」
「まあ、地図通りに来たからな、多分そうだろ?」
 ナイルがそういうのも無理はなかった。「島」とはあるものの、周りは海ではなく市街地で、とても「島」と呼べるようなものではなかった。もっとも、だからこそ出島「跡地」としているのだろうが……。
 扇形の区画で、周りと隔離されているため、この辺りが、鎖国体制下の日本において、例外的に外国とのやり取りが行われていたであろうことが想像できる。しかし、平地面積を増やすために、出島の周りは埋め立てが行われ、かつて島だったところは、市街地に埋もれてしまっている。出島が現役で使われていた頃に荷揚げなどを行ったであろう場所も、今は海ではなく、中島川という川になっている。
「あー、でもでも、ちゃんと『島』の形に復元する計画があるらしいぞ。2050年ごろに完成するらしいが……」
「だいぶ先だね……」
 だが、せっかくここまで来たのである。入場料510円を払って中を見物していくことにした。
 この出島は寛永11(1634)年から2年の歳月をかけて造成された人工島である。島原の乱の前年に完成し、ポルトガル人を収容するために使われた。言うまでもなく、禁制となっていたキリスト教の布教をさせないためである。しかし、ポルトガルとの交易を断絶したところで、貿易の利益が入ってこなくなるのは幕府にとっても困ることであった。ポルトガルを締め出したとしても、もう1つの交易国であるオランダが、どれほどの利益をもたらしてくれるかも不透明だった。
 島原の乱を鎮圧した後にポルトガル船の来航を禁止した。これが、寛永16(1639)年のことである。ちなみにオランダとしては、ヨーロッパで唯一日本と交易できることにメリットがあったようで、当時、オランダの交易を取り仕切っていたフランソワ=カロン(1600~73)は、ポルトガルの締め出したとしても、何も問題はないと幕府に進言している。カロンはこの時、日本とオランダの交易に関わって20年になるベテランで、日本語が堪能なことに加え、日本の現状を熟知していた。もし、カロンが対応を誤れば、オランダも日本との交易を禁止されていたかもしれず、鎖国下においても、ヨーロッパの国で唯一交易を続けることができたのは彼の手腕によるものといってもいいだろう。
 ポルトガル船の来航が禁じられてから2年後のこと、オランダの交易の拠点は、ここ出島に移されることになった。
 時代劇のドラマに出てくる奉行所のような造りの門をくぐると、整備された道の両脇に復元された建物がある。道はそれなりの幅があり、交易品を積んだ荷車が楽にすれ違うくらいの余裕は確保してあった。
 入ってすぐのところに、ヘトルが住んだといわれる建物があった。もっとも、復元されたのは、外側だけで、中はトイレだったり、土産物屋になってしまっていた。
「へとる?」
「薬缶だな」
「それはケトルだよね?」
「ちっ、バレたか」
 オランダの長崎商館(出島)には、貿易事務に携わるオランダ東インド会社のスタッフや、スタッフの世話をする使用人、スタッフに同行した医者などが滞在を許されていた。それらの人々を束ねるのが「カピタン」と呼ばれる役職の人物であった。出島におけるオランダと日本の貿易を取り仕切る責任者である。ヘトルというのはその補佐役である。カピタンは貿易事務を取り仕切るだけではなく「オランダ風説書」という海外の動向に関する資料を幕府に提出することを義務付けられていた。このバタヴィア(現:ジャカルタ)で作成された資料は、幕府が海外の情勢を知るうえで大いに役立った。
 その出島がある長崎は、江戸時代になっても、大名ではなく、直轄領として幕府による直接支配が行われていた。そして、その長崎の統治を行ったのが、長崎奉行と呼ばれる役職の人物であった。奉行にはそれなりの権限が与えられ、大事件が起きない限りは、自らの裁量で仕事を処理することもできた。幕府の役職なので、幕府からはちゃんと給料が出るのだが、オランダ人からの挨拶の品々が時たま届けられるので、副収入があり、結構「おいしい」役職であったようだ。
 豊後の大名・竹中重義は長崎奉行在任中(在1629~33)に、キリシタンに対し「穴吊り」という苛烈な拷問を編み出したことで知られ、幕府の至上命題であるキリシタン廃絶を進める一方で、とにかく強欲な人物で、裏で数々の汚職に手を染めていた。だが、忠実に職務に励む裏側で行っていた不正もやがて明るみになり、重義は奉行職を罷免されたうえに、翌年に切腹となり、家族は隠岐へ流刑となった。
 この出島跡地の片隅に小さな植物園がある。結城たちはそこへ行ってみることにした。この植物園は、江戸時代後期にオランダ商館付きの医師としてやってきたフィリップ=フォン=フランツ=シーボルト(1796~1866)が植物研究のために作ったものである。ちなみにオランダ人ではなく、ドイツ人である。オランダ語は一応話すことはできたが、さほどうまくなかったらしい。
「だから、幕府の役人から『お前、本当にオランダ人か?』って怪しまれたんだってさ」
「まあ、だろうね」
 この植物園の中には、石碑が立っている。これはシーボルトが刻んだもので、自分よりも一世紀以上も前に来日したエンゲルベルト=ケンペル(1651~1716)を讃えるものだった。ところどころ擦り減ってはいるが、文字が読める程度には残っていた。後世まできちんと記録を残すということに関しては、電子データよりも、作成の手間はかかるが、アナログ的な方法のほうが優れているのかもしれない。
 このケンペルもドイツ人であった。仕事のため、ヨーロッパを離れ、サファヴィー朝ペルシアの首都・イスファハーンに2年弱滞在した後に、インドを経由してオランダの植民地であるバタヴィアへやってきた。ここで、ケンペルは自分の病院を開いたのだが、どうにもうまくいかない。そんな時に出会ったのが、日本行きのオランダ船であった。ケンペルは自分の病院をたたみ、オランダ商館付きの医師として日本へやってきた。時に元禄3(1690)年のことである。
 ケンペルが日本にいたのは2年ほどだったが、ヨーロッパ人にとって、ベールに包まれた国・日本は彼に様々なことを考えさせたのであろう。ケンペルは後に『廻国奇観』や『日本誌』という本を著している。ケンペルの書物は、情報に乏しい日本という国を知るための、貴重な資料となった。ケンペルの没後、彼の著作の一部は、アイルランド人のコレクターによって買われ、大英博物館に現存している。
 ちなみに、ケンペルは時の江戸幕府将軍・徳川綱吉(1646~1709)に謁見を果たしている。天下の悪法と言われた『生類憐れみの令』で問題児扱いされる綱吉だが、ケンペルは「卓越した君主」と讃えている。ちなみに『生類憐れみの令』という名前の法律があったわけではなく、綱吉が将軍だった間に出されたおよそ130の「生き物を大切になさい」といった内容の御触れを総称して今日そのように呼んでいるのである。
「違反して、厳罰が下った例もあるぞ」
 
・ハトを虐めた→流刑
・ツバメを吹き矢で撃ち殺す→死罪(ちなみに居合わせた人も、注意しなかったという理由で八丈島へ流刑)
・病気の馬を捨てた→神津島へ流刑

「『ハトを虐めた』って何したのさ?」
「何だったかなぁ。確か、石を投げたとか、そういう罪状だった気がする」
「ところで、流刑って、軽い刑なの、それとも重い刑?」
「流刑は、死刑の次に重い刑罰だぞ」
「ハトに石を投げた罪で、死刑の次に重い罰かぁ……」
「『生類憐れみの令』の中には『旅人が宿で病にかかると、まだ息があるのに捨てる者がいると聞く。そんな不届き者がいたら厳罰に処せ』っていう優しい御触れもあるんだけど、あまり知られていないんだよな」
 やりすぎな感じもするが、人権もヘチマもなかった時代である。そういう殺伐とした時代に「何が何でも命を大切にする世を作る、もし命を粗末にすればこうなる」という意思表示をしたという革新的な政策という見方もある。天下の悪法か、革新的な福祉政策か、どう判断するかは人によって変わってくるだろう。

「出島の三学者」と呼ばれる人たちがいる。ケンペルとシーボルト、それにカール=ツンベルク(1743~1828)を加えた3人である。前者2人はドイツ人であり、ツンベルクはスウェーデン人であった。3人ともオランダ人ではなかった。
 この3人が持ち帰った研究成果や日本を訪れた際の記録は、ヨーロッパの人々にとっての貴重な資料となった。
「で、このうちの一人が大事件を起こすわけだ」
 文政11(1828)年、シーボルトは、5年間滞在した日本を離れることになった。シーボルトは、日本で医学を日本人に伝授する一方で、日本に関する資料を集めていた。シーボルトは、日本に滞在する間に様々な人と交流し、人脈を築いていった。その中の一人に、高橋景保(1785~1829)という人物がいた。天文学者で実測に基づく日本地図「大日本沿海輿地全図」の作成を引き継ぎ、完成させた人物である。
 景保の父、至時(1764~1804)は、日本各地を測量し、極めて精度の高い地図を作製したことで知られる伊能忠敬(1745~1818)の師匠である。
 シーボルトが帰国する際、門外不出のはずの「大日本沿海輿地全図」の縮図を持ち出そうとしていることが発覚した。当時、地図というのは国家機密である。この国家機密を外国人に漏らした容疑で、景保は逮捕され、翌年、判決が出る前に獄死した。また、これに連座したとされる景保の弟子の多くが流刑となった。
 シーボルトは、国外追放並びに再入国禁止処分となった。これが世にいう「シーボルト事件」である(ただし、後に鎖国が解かれた時も存命で、この事件から30年後に再来日を果たしている)。

 出島見物を終えて、長崎駅前に戻る。時計を見ると、もう午後2時前になっていた。
「ああ、そういえば、昼飯まだだったな」
 とりあえず、ふらふら歩いて、駅からほど近い路地にある食堂で昼食をとった。お得なランチがあるそうなので、何も考えずにランチを頼んだ。しばらくして、ランチが運ばれてきた。名物の長崎ちゃんぽんに、御飯と揚げ物と、野菜までついているというボリューム満点の代物だった。
「あ、エビフライだ。食うか?」
「食べるって言ったら、どうせ『共喰いだ』とか言うんでしょ?」
 ナイルはそう言ったが、結城は「そんなこと言うかよ」と否定した。
「じゃあ、食べる」
「ほらよ」
 割り箸でつまんだ、エビフライをナイルに差し出す。もしゃもしゃとエビフライを食べるナイルを見て結城は一言。
「仲間割れだ」
 ナイルが無言で睨むと、視線をそらし、長崎ちゃんぽんを食べ始めた。旅行中はどうしても、野菜が不足しがちである。長崎ちゃんぽんのような野菜が多く使われている料理は、旅行者にとってもありがたいメニューの一つである。
 結城はどちらかというと、食が細い方なので、出された料理は何とか全部食べ切ったものの
「しまった、ちょっと食べすぎたな……」
 と、少々苦しそうだった。
 食堂を出ると、次に向かった先は、和菓子店だった。
「せっかく長崎に来たんだからな、名物の一つが、これだ」
「カステラだね」
 店に入ると、店員が親切にも試食用のカステラを出してくれたが、結城は満腹のため、遠慮してしまった。
「あれー? ご主人食べないんだ。じゃ、僕がご主人の分まで食べちゃうから」
「ああ。どうせ買って帰るつもりだし……」
 ナイルがおいしそうにカステラを試食している横で、結城は実家用のカステラと、自分の家で食べる分のカステラを買い求めた。
 カステラを買うと、後は空港に向かうだけである。あまり休憩せずに見て回った結果、思ったよりも早く市内見物が終わった。
 バスターミナルに戻ったものの、まだ3時前である。東京に戻る飛行機の時間は午後7時20分である。早く着いたら着いたで、空港で待っていればいいのだが、待ち時間が長すぎるのもそれはそれで退屈である。バスターミナルの上の階は土産物屋になっていたので、時間を潰すのも兼ねて、行ってみることにした。
「お、これいいな」
 結城は、魚介類がふんだんに使われたふりかけを買い求めた。長崎県近海でとれた魚介類を使っているものらしい。カルシウムを補うにはちょうどいいかもしれない。だが、ふりかけを買ったところで、そんなに時間が経つわけでもなく、まだ、3時過ぎである。
「いいや、もう。空港に向かおう。バスだから、途中で渋滞にはまるかもしれないし……」
「早すぎない?」
「遅れるよりはいいだろう?」
 バスターミナルのロッカーに預けておいたカバンを引き取り、空港までのバスのチケットを買い求めた。空港まで本数が多いこともあり、あまり待たずにバスに乗ることができた。島原に向かう時とは違い、今度は結城とナイルしかバスに乗っていなかった。
「ぼくらだけだね」
「発車までに誰かしら乗ってくるんじゃないのか?」
 結城はそう言ったが、乗ってきたのは、バスの乗降口のところで、ターミナルの職員と雑談をしていた運転手だけで、他に客は乗ってこなかった。ドアは閉まり、結城とナイルを乗せたバスは空港へ向けて動き出した。
「ご主人、誰も乗ってこなかったね」
「まあ、いいだろ、その方が」
「そりゃ、そうだけどさ」
 このバスは空港までどこにも止まらずに行くわけではない。きっとどこかかしらで他の客が乗ってくるだろうと思っていたが、どのバス停でも客は乗ってこなかった。バスは市街地を抜け、高速道路に入った。
 食後だったことや、バスの暖房が効いてきたこと、外から差し込む暖かい日差しという条件が重なり、バスに揺られている結城は眠くなってきた。
「ナイル、一眠りするから、空港に着いたら起こしてくれ」
「うん、というか、ぼくも眠いんだけど……」
 結局、揃って寝てしまった。
 結城が目を覚ますと、バスは大村市内を走っていた。空港まですぐである。ほどなく、空港と対岸を結ぶ橋を渡り、太陽が西に傾きつつある頃、バスは空港に到着した。
(あと、3時間あるな。土産物でも見て、時間を潰そうかな……)
 そう思ったとき、ラウンジの案内板が目についた。有料なのだが、特定のクレジットカードを持っていれば、2時間までは無料で使うことができるという。
「ご主人?」
「……これ、使えるんじゃねえかな? そこそこいいやつだし」
 財布に入っていたクレジットカードを持って、ラウンジの入り口で使えるかどうか聞いてみると、使えるとのこと。
「ナイル、カード特典だ。ここでゆっくりしていこう」
「何で、そんなカードを持っているの?」
「ん~、何かで作った記憶がある……」
 ラウンジは、海に面しており、その景色を楽しみながら(と、いっても、海と、その手前の駐車場くらいしか見えるものがないが)ソファに腰掛け、くつろぐことができる。ソフトドリンクがサービスで提供されていたので、結城は温かいコーヒーを選んだ。
(そういえば、今日は歩きっぱなしだったな、ようやく一息つける……)
 とにかく、1時間くらいは何もしない。そう決めた。旅行の醍醐味はあちこち見て回ることだけではない。その逆もまたいいと考えている。
 コーヒーカップが空になると、先ほど寝たはずなのだが、暖房の効き具合がちょうどいいのか、またもうとうと。気がつけば、6時前になっていた。
 ラウンジを後にして、荷物検査を受ける。国内線なので、危険物を持っていなければ、特に問題なく、通過できる。正月明けのオフシーズンであったので、検査場はガラガラで、全ての検査を受け終わるまで20分もかからなかった。
 搭乗口の近くの椅子に腰を下ろし、本を読みながら、搭乗時刻まで待つ。トイレを済ませ、座席に戻ってくると、搭乗開始の案内があった。
 いざ乗ってみると、やはり機内はガラガラだった。行きもそうだったが、やはりオフシーズンのしかも平日ともなれば、搭乗率というのはこんなものなのだろうか? 時間通りに飛行機は離陸した。羽田空港への到着予定時刻は午後8時55分である。
「2日間、時間がないなりに、色々見て回ることができた、けど、ナイル。旅は良くないこともあるな?」
「ん? 楽しくなかったの?」
「違う、もそっと、深く考えられないかな」
(『もそっと』っていつの人だよ……)
「一回、旅行に行くと、次どこへ行こうかと考えちゃうからだよ。家にいるときはいいけどな、学校でそれを考えると、実によくない」
「じゃあ、考えなきゃいいじゃん」
「それができれば苦労しないんだよ」
「ああ、そう。で、次はどこへ行きたいの?」
「まあ、それはまだ考えてはいないけど、な……」
 飛行機が高度を下げ始めるという機内アナウンスが入った。束の間の楽しい時間は終わりを迎えようとしていた。

 ~完~

 <最後にあとがき>

 ネタの枯渇に苦しみ、自分の旅行を作品に流用するという暴挙に及んで早数か月。こんなに時間がかかるとは思いませんでした……。
 これほど長いものを書いた経験は皆無だったので、いい勉強にはなりました。いろいろと書きたいものが出てくるのは、どうにかならんものか……。しかしまあ、書きあげた時の達成感は何とも言えないものがありますね。
 旅行って素晴らしい。大人の趣味でございますね。それではまたどこかでお会いしましょう。

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