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つみかさね の変更点


&color(red){《注意!》}; この作品には&color(Red,red){血、殺害};に関する描写があります。苦手な描写がある方はご注意ください。


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つみかさね
つみかさね 作:[[カラスバ]]
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 ここ最近、この狭くて暗い道には緊張の糸が幾重にも張っている。こっちの世界の法則は変わらなくても、ある日を境にして風景が一変したことは確かであった。人間共から得られる食べ物の減少がこの状況を作っていることくらいは、闇夜を這いずり回る俺にだって分かっている。いや、むしろ俺だからこそ、その現実を身をもって知っているのだ。
 誰だって自分の命を繋ぐためには罪を犯さなければならない。例えその罪によって生き長らえる命に意味が無いのだとしても。俺には力がある。それが俺を裏切った人間に与えられた力だからといって、使うのをためらったりはしない。ただ目の前に立ちふさがる障害を壊して、殺して。意味など無い飢えを満足させる方法は、それしか無かった。

#hr

 薄汚い路地裏を駆けて、食べ物を咥えて走る&ruby(グラエナ){黒犬};を俺は追う。月明かりと、人間の行き交う世界から漏れ出た光が周囲をぼんやりと照らす。他に誰の気配も無い。ただ俺と黒犬の爪が舗装された地面を擦る乾いた音だけが響いている。黒犬は、人間共が通らないような入り組んだ地形に入り込む。そうやって俺を撒こうとするのだろう。だが&ruby(レパルダス){悪豹};という俺の種族柄、その判断はむしろ俺にとって有利に働く。腹が減っているのは同じだが、黒犬はすでに息が上がっている。一方人間の元に居た頃に鍛えられた俺の体にはまだまだ余裕がある。追いつくのも時間の問題だった。
 少しばかりの追跡の後、ついに黒い毛皮が射程圏内に入る。俺は体内を流れる力を爪の先に集中して飛び掛かる。その一瞬、爪は触れただけで斬れる程鋭く、また毛皮を掻き切るのに十分な程長くなる。その背に迫ると、自分の行く末を知ってしまった黒犬の息遣いが届く。今だ、と全身の血が滾り、爪を振りぬく。声にならない悲鳴と同時に、生まれついての欲求を満たす感触が伝わってくる。
 再び静寂が戻る。埃舞う血生臭い路地裏で、俺は黒犬の首を絞めた。黒犬の痩せ細った体が力無く垂れる。その艶の無い毛並みは心躍るようなものではない。牙を離し、周りを見渡しそいつの仲間が居ないことを確認すると、俺はお目当ての物に目を移す。そいつが絶命する瞬間まで咥えていたそれは、嗅ぐだけで体が熱狂しだすような匂いを漂わせている。人間が残した"魔性の餌"が、人間が作った透明の軽い器に包まれて俺が開けるのを待っている。
 "魔性の餌"に口をつける。狩って食べた肉では絶対に得られない濃厚な味が溢れる。これこそが、俺が求めていた物だ。衝動そのままに全て平らげ、匂い一つ残らなくなるまで舐める。残念なことに量は少なかった。仕方なしに空腹を黒犬の肉で埋める。口周りが血に染まる。味のよい部分だけを食べて、残った部分はいずれ嗅ぎつける他の生き物にくれてやる。さすがに黒犬の成体全てを食べきれるほどの胃を持っているわけではない。人間どもに育てられたとしても、胃の大きさまでは鍛えられてはいなかった。

 殺戮&ruby(レパルダス){悪豹};のことを知らぬ者は居ない。俺は常に独りだ。俺の背負っている罪を知り、皆遠ざかる。人間に育てられ、奴の勝手で突然この世界に投げ出され、とにかく生き残るためにと&ruby(いさか){諍};いがあれば殺し、立ちふさがる者があれば殺してきた。俺はこの世界での生きる術を知らなかった。でなければ目の前の食べ物のために罪を犯すような、そんな生き方はしなかったはずだ。だがいくら悔いようとも、もはやその罪を取り消すことなどできない。こびり付いた血の臭いが漂えば、顔を合わせてくれるお人好しなんてどこにもいない。
 俺は人間の世界に背を向け、暗く静かな世界へと向かう。ほとんど円い姿の月だけが、俺の罪の一部始終を知っていた。銀色の灯りを頼りにしてひんやりとした道を進むと、人間に捨てられた廃屋の横たわる姿が見えてくる。横道に逸れて池で顔を洗って、こびりついた血を落ちるだけ落とす。血の臭いはいくらか薄まった。見上げれば、廃屋が静かに月光に照らされ輝いている。打ち捨てられた廃屋は、どのような思いで月明かりを浴びるのだろうか。少なくともあの廃屋は、自身を美しく照らす光として喜んでいるように見える。俺にとっては、これほど明るい月夜は闇をかき消し、狩りがやりにくくなるから好きではない。
 廃屋はねぐらとしてはこれ以上ないものであったが、俺を嫌って、住み着く者は他には居なかった。

 幾日か過ぎた。再び空腹が俺を突き動かす。空には太陽の残した暗橙色が消えかけのにおいのように残ってはいるが、路地裏は既に夜で満たされている。丸まっていた背を伸ばす。深呼吸をして新鮮な空気が尾の先まで満ちると、意識がはっきりすると同時に、空腹感もその輪郭を明瞭にする。
 俺はねぐらから飛び出し、暗黒の世界に入り込む。今日はどこを探そうか。狩りは失敗の可能性も高く、体力の消耗もある。人間が捨てた"魔性の餌"が手に入るなら、それに越したことは無い。狩りの代わりにそれが手に入るのならば、なにより罪を重ねることがない。いまさら罪の一つが何だという考え方もできるだろうが、それでも罪を避けたいと思うのは、罪滅ぼしのための偽善ではなく俺の心からの望みである。
 ふらふらと、当て無く食べ物が得られそうな所を巡った。しかし今日に限っては、食べ物やそれを漁る者すら全く見かけない。思い描いた行き先を半分くらい回っても何一つ得られない。巡り会わせが悪かったか。人間の世界から流れてくる食べ物は、こちらの世界で求められる量よりもずっと少ない。"魔性の餌"が見当たらない日があるのも珍しいことではない。また、誰も見当たらないのは、俺への警戒が強まって、俺の気配を嗅ぎつけてさっさと逃げてしまっているからかもしれない。
 歩き回っているうちに、先日&ruby(グラエナ){黒犬};を狩った場所の近くへとやってきた。狩りをすることも考えながら、恐らく誰もいないだろうと思いつつも周囲を探索する。そのときだ。あの待ちわびた匂いがどこからか漂い、鼻先を掠めた。ここは人間の世界と壁一つの距離にある。"魔性の餌"が存在していても不思議ではない。あの黒犬があのときの餌を漁った場所が近くに在るのかもしれないと思い、俺は匂いの方向へと向かう。人間や他の誰かがいないことを確認しながら慎重に歩めば、匂いがだんだんはっきりとしてくる。そして、それはあった。裏路地の、人間の建物の外壁の根元に、白い半透明の袋が落ちている。すぐ傍まで近寄れば、食欲を急かすような匂いがむっと強まる。袋の口は縛られているが、緩かったため匂いが漏れ出しているようだ。すぐにでも口をつけたいところだが、ここは人間の話し声や足音がすぐ近くに聞こえる。奴らがいつやってくるとも限らない。はやる気持ちを抑えて、安全なところまでそれを咥えていかなければならない。咥えると白い袋は乾いた音を立て、首でその重さが感じられる。表面上の欲求を満たすことができるだけの量はありそうだ。
 俺は人間のいる方面から離れ、誰の気配もない場所に駆け込む。そこは人間の捨てたガラクタが山になって積まれている場所だ。遠くからは見づらくて、それでいて周囲の見通しは悪くない所だ。俺はガラクタの山の陰に立ち止まり周囲を見渡す。気配は無い。咥えていた袋を下ろし、呼吸を落ち着ける。
 そして、いよいよ食べようと俺は爪を尖らせて袋を切り裂く。乾いた音で袋が破れると、空腹を刺激する匂いが立ち込めた。透明な容器の中には白い米や、内側まで味の染み込んだ肉が詰まっている。食道の奥から早く早くと求める声が聞こえてくる。それに急かされるままに、俺は爪で容器を切り裂いた。
 それからしばらくのことは、記憶に残っていなかった。俺は周囲の警戒も忘れて、無我夢中になって"魔性の餌"を漁っていた。容器の半分が空になったころ、俺はガラクタ同士の擦れ合う音に気づく。俺の意識は一瞬にして明瞭に戻る。そのガラクタの音を聞くなり、背中の毛全部が逆立つ。気配、それは人間のものではないが、確かに生き物の気配を感じる。俺は自慢の柔軟な体を適度に緊張させて、先が三日月型の刃のような形になっている尾の先まで意識を張り詰めて、周囲を探る。
 また音がした。金属同士が不器用にずれる音。そして続けざまに、短く小さな悲鳴が聞こえる。外敵がこの距離に居るというのにあまりにも不用意だ。俺は静かに音の方へ振り向く。耳を集中させると、またガラクタが音を立てる。俺の視線には一つの大きな箱があり、どうやらその向こうに誰かがいるようだ。周囲への警戒を続けながら、飛び掛られても不意打ちで返せるように体を昂らせる。再び音がして、続けて箱の向こうから幼い声が聞こえてきた。
「おかあさん?」
 箱の向こうから顔を出したのは、まだまだ幼い&ruby(ポチエナ){幼黒犬};だった。幼黒犬は宝石のように美しい眠たげな目を俺に向ける。その瞬間、俺の中で先日の記憶が蘇る。&ruby(グラエナ){黒犬};だ。俺が食べ物を奪って殺した黒犬の姿がこの幼黒犬と重なる。この幼黒犬とあの黒犬の関係が瞬時に描かれる。違う、今はそんなことを気にしている場合ではない。俺は想像を押さえ込んで再び目の前の幼黒犬に目を向ける。幼黒犬は俺の姿を確認すると一瞬にして目に恐怖の色を浮かべ、その場で固まってしまう。俺は一歩踏み出して威嚇する。幼黒犬は腰が引けてしまっていて、体の力が抜けてしまっているようだ。だが幼黒犬は、そうしていながらその目は俺の足元の食べ物に釘付けになっていた。
 しばらく張り詰めた空気が支配する。俺も幼黒犬も、一言も発さずにただ立ち止まっていた。何の障害にもならないような幼子とこうやって対峙するのはひどく奇妙なことに思われる。だが俺は動くことはできなかった。殺した&ruby(グラエナ){黒犬};の姿と、母を呼んだ&ruby(ポチエナ){幼黒犬};の姿が混ざり合い、どろっとした感情の塊が俺の足を硬直させている。
「こっちへ来い」
 幼黒犬は逃げる素振りを見せない。このまま向き合っていてもどうしようもないので幼黒犬を呼んだ。すると幼黒犬は、ためらいながらも短い足をちょこちょこと動かして俺の方へとやって来る。濁りの無いくりくりとした目が、闇夜の中の僅かな光を映して光る。
「これを食べろ」
 食べ物が半分程残っている容器を指して、俺は一歩下がる。幼黒犬は周りを警戒することもなく、一目散に俺が食べるはずだった食物に喰らいつく。よほど腹が減っていたのか、幼黒犬はガブガブという音でも立てるように一気に食べていく。その食べっぷりを見ていると、自分の空腹さえ満たされていくような気にさせられる。
 しばらくして、幼黒犬の動きが止まる。どうやら食べ終わったようだ。口の周りを舐めまわして、幼黒犬は俺を見上げる。出会った瞬間はあんなにも俺を恐れていたのに、今は微笑みすら浮かべている。単純なやつだと俺は思った。
 今まで感じたことの無い感覚が、そよ風のように吹き抜けていった。幼黒犬は俺に、重たい記憶を背負った体が軽くなるような錯覚をくれた。
 俺は立ち去ろうと幼黒犬に背を向ける。だがそのとき、幼黒犬が俺を呼び止める。振り向くと、悲しそうな表情で幼黒犬が鳴いていた。俺はその表情を振り切ってガラクタの山へ跳んで、登る。すると後ろからガチャガチャと音がして、短く小さな悲鳴が聞こえる。再び振り向けば、ガラクタを登ろうとして滑落したであろう幼黒犬が地面に転がっていた。俺の脚が止まる。それから、俺は転げ落ちるようにガラクタの山から下りていった。
 幼黒犬の所へ行き、鼻で促して立たせるて幼黒犬に向き合う。
「いっしょにいく」
 幼黒犬は涙を浮かべながら言った。
「"お母さん"はどうするんだ」
「おかあさんは帰って来ないもん」
 何の裏も無い言葉だが、俺は眉をひそめてしまう。思い出したくもない記憶が蘇る。親を失った孤独な幼子の行く末など、たった一つしかあり得ない。遠い昔の感情が、呼んでもいないのにやって来る。幸せだった頃の、捨て去ったはずの感情。それは、夢中で食べる幼黒犬を見たときの感情とよく似ていた。そして俺は、おぼろげな期待とともに一つの結論を導く。
「邪魔になるようなら覚悟しろ。それでもいいなら付いて来い」
 幼黒犬はぽかんとする。覚悟しろという意味が理解できないのか。しかし俺の様子から"付いて来い"という意味を察したのか、その目を輝かせる。
 俺が歩き始めると、幼黒犬も後を付いて来る。俺はガラクタの山を迂回してねぐらへと向かった。

 明くる日、聞きなれぬ物音で俺は目覚める。侵入者かと思い周囲を警戒する。心臓が高鳴る中で、目、耳、髭の感覚を総動員して調べると&ruby(ポチエナ){幼黒犬};の姿がそこにあった。そこでようやく鈍った頭に記憶が戻る。この幼黒犬は、俺自身が連れ込んだものだったということ。そのことに気付くとまず最初に、敵に襲われたのではなかったことに安堵する。眠りから叩き起こされた体がずっしりと重く感じられる。
 ねぐらの廃墟は、白くて硬いざらざらとした石が床、壁、天井を作っている。人間に棄てられてからずいぶんと経つのだろう。所々崩れていて利用できないからだろう、人間は近付かない。壁の穴からは日差しが差し込んでいる。幼黒犬は楽しそうに見知らぬ部屋を嗅ぎまわっている。それから幼黒犬は俺が起きたことに気付くと駆け寄って来る。
「おにいちゃん、おはよう」
 無邪気な顔で笑う幼黒犬を見ると、何か懐かしい風が吹き込んだ。危ない所へは行くなと言うと、幼黒犬は軽快に駆けて行った。
 幼黒犬の様子を見ながら、誰かとこうして会話するのもいつ以来だろうかと思う。少なくともこの世界で生と死の境目を見るような生活が始まってからは無かったと記憶している。
 欠伸の出そうなゆっくりとした時間が過ぎて、いつの間にか白い壁が橙色に染まりだす。そろそろ食べ物を探しに行かなければ。幼黒犬はおそらく空腹を感じているだろう。そう思い、俺は幼黒犬を呼び寄せる。幼黒犬は跳ねるように走ってやって来る。相変わらず朝露の雫のような目をしているが、その目は何かを訴えるような色も持っている。
「俺はこれから食べ物を探しに行く」
 俺の言葉を聞くなり、幼黒犬は今にも駆け出しそうに喜ぶ。しかし、次の言葉を聞くとその様子は一変する。
「お前はここでじっと待っていろ」
 すると一転、幼黒犬は萎れた花のようになって、怯える表情をする。
「わたしも、わたしも一緒に行く」
 幼黒犬は悲しげな甲高い声を出す。その顔が崩れてしまいそうになって、強い不安が見て取れる。もしかしたら親が居なくなってしまったという経験がそう感じさせているのかも知れない。そう思うと心を締め付ける何かを感じそうになる。だが幼黒犬を危険に晒さないためには、連れて行くわけにはいかない。
「駄目だ。お前はここに残れ」
「なんで? なんで?」
 幼黒犬は必死に食い下がろうとする。俺はしばらく考え、ゆっくり口を動かす。
「お前を罪に巻き込まないためだ」
 俺の思った以上に黒くて重たい言葉が出た。意味を分かっているとは思えないが、雰囲気から意味を汲み取ったか、幼黒犬は驚き、弾みでわがままを引っ込める。
「いいか、ここで待っているんだぞ」
 俺がそう言うと、幼黒犬は今度は納得する。それを確認し、幼黒犬に背を向け俺は食べ物探しに向かう。すると、俺が数歩歩いたとき幼黒犬が問いかける。
「おにいちゃん、"罪"ってなに?」
 振り向くと、幼黒犬のつぶらな瞳が俺を見つめている。
「罪……」
 俺はしばらく思案する。
「罪っていうのは、報いを受けることだ」
 俺はそう言って、逃げるように駆け出す。幼黒犬が納得したかということは気になっても、それを確認する気にはなれなかった。ああ確かに、それは大事なことかも知れない。だが今はそのことを考えることが堪らなく不愉快に感じられる。幼黒犬の心にその言葉が刻まれないままでいて欲しいと思う。幼黒犬の、透き通る2つの宝石は濁らないままでいて欲しかった。
 夕日の当たる白い壁を背に、影の路地へと飛び込む。周囲はしんと静まっている。かちゃかちゃと足音を立てる幼黒犬が居ないことで意識は目の前に集中できる。三日月のような形の尻尾の先、尖った耳の先、爪の先、それぞれ研ぎ澄ます感覚は再び俺にある種の快感をもたらす。幼黒犬に食べさせるなら、命を奪って狩った獲物ではない方がいいだろうなどと思いながら、俺の体の紫色とよく似た世界へ染まる。

 俺は路地に立ち込める闇の中を駆けずり回った。だが結局"魔性の餌"は見つからず、狩りをした。&ruby(ヘルガー){炎犬};の一家を見つけた俺は、その数匹の群れを分断してはぐれた一体を仕留めた。今、息の音が止まった黒い肢体が俺の目の前にある。
 ねぐらからは離れている。獲物を引きずっていくわけにはいかないので、自分の分をとってから、幼黒犬の分を咥えて持ち帰らなければならない。炎犬の仲間が居るかもしれないと思い、急いで肉を噛み千切る。それから滴る血の痕を残しながら、脇目もふらずに路地を駆ける。
 白い壁が夜に染まりきった頃、ねぐらに辿り着いた。出入口が見えてくると、部屋で待っているはずの幼黒犬が飛び出して来る。俺は思わず咥えていた肉を落とす。
「お前、待ってろって言っただろ!」
 月明かりの下、響いた俺の声に幼黒犬は驚き、涙目になる。
「まってたもん。ずっとまってたもん」
 幼黒犬の不安は今にも弾けそうだ。これ以上責める訳にはいかない。幼黒犬をなだめ、落とした肉を拾って走る。幼黒犬も後に付いてくる。
 ひっそりと静まり返った部屋で、幼黒犬は口周りを血まみれにしながら食べる。あっという間に完食すると、幼黒犬は血の匂いを振りまいて笑う。その様子にどきりとさせられた俺は、面倒臭がる幼黒犬を引っ張って池に連れて行った。池で血の汚れを落とすためだ。世界は完全に闇に染まって、俺と幼黒犬は闇に隠れて動く。池に辿り着くと、幼黒犬の口周りを水に付けさせ血糊を洗い流す。血は煙のように水面に溶けていく。再び元の色を取り戻した幼黒犬の顔を見て、俺は安堵の溜め息をついた。
「おにいちゃんは洗わないの?」
 幼黒犬はそう言って見上げる。
「あ……」
 俺の口元には、いくら落ちない血の痕がこびりついている。はっきりとではなくても、確かに奥深くに刻まれている。池を覗けば月光に照らされた&ruby(レパルダス){悪豹};の顔が映る。今なら、今ならこの血痕も消せるのではないかと、ふと幼黒犬の息遣いがそう感じさせる。永遠に残ると思っていたこの罪の記録がもしかしたら溶けて無くなっていくのではないかという錯覚が過る。幼黒犬が俺をじっと見つめていた。俺は幼黒犬の方を見て、微笑みを作る。
「俺はいい。さあ、帰ろう」
 俺は跳ねるように反転し、ねぐらへの道を歩み始める。この血の痕が消えるかどうか、その結果を確かめるべきではないと俺は思った。小さな幻想の儚い命を、わざわざ殺めてしまう必要なんて無いのだから。

 翌日。空には暗雲が立ち込め、雨粒の大地を打つ音が無機質な空間に反響していた。沈黙した太陽は時を教えることを拒む。今は一体&ruby(いつ){何時};頃なのだろうという思いとともに俺は目覚める。立ち上がって外を見遣る。分厚い雲を突き抜けて僅かに差し込む光から判断するに、まだ夕刻ではないようだということは分かった。俺は目覚めの時の習慣として、柔軟な体を伸ばし体の隅々まで覚醒させる。喉が渇いた、とふと感じる。この雨の中を、水飲みのために行く必要があるだろうか。俺は少しばかりためらう。だが何となく冷たい雨が恋しくなって、池まで行くことにする。幼黒犬は置物のように静かに眠っていて、俺は物音を立てないようにそろそろとねぐらを出る。
 雨の当たらない軒下から飛び出す。雨は容赦無く俺を打ち付け、全身の毛は力なく垂れる。俺は地面の水を跳ね上げながら池へと向かう。灰色の幕が周囲を包み、水の弾ける音がこだまする。俺は池の水でひとまず喉を潤し、木陰を見つけて一休みする。
 こんな天候だから、目につく範囲には誰も見当たらない。こんなときにわざわざ外に出ようなどと思うのは、よほどの用事のある者だけに違いない。些細な理由で飛び出した俺を除いては。雨粒を防ぐ木の下で目を瞑れば、雨音が刻む難解なリズムに包まれて浮遊感がやってくる。
 幼黒犬がやってきてわずか数日だが、今までに無い日常は俺を疲れさせている。こうして独りでいることは、場合によっては精神的な休息を与えてくれるのだと今になって初めて分かる。幼黒犬はまだ子供だ。一緒にいると、疲れるものだ。だがその疲れの中には、俺の言葉では言い表せない"癒し"のようなものがあると感じていた。
 俺は、罪を忘れているわけではない。いつか報いがやってくる。今だって、こうして死ぬまで終わらない孤独がある。だが常に報いを受け続ける必要もあるまい。些細な"癒し"を感じることくらいは。幼黒犬だっていつか俺の罪に気付くかもしれない。でもそれまでは……。
 頭に冷たい水滴が落ちる。意識を目の前に戻せば、先程に比べて雨が強くなっている。ついにこの木では防げなくなったのだろう。柄にも無いことを考えてしまったと、冷えかかった体を反省する。それから俺はねぐらへと戻るべく歩き出す。

 ねぐらは何一つ変わりないように静かだった。だが俺が元居た部屋に戻ったとき、一つ重大な問題に気付く。幼黒犬が見当たらない。この広い建物の中で迷子になっているのだろうか。寝ている幼黒犬を放って、ふらふらと外に出てしまったことを悔やむ。この雨なので外には出ないだろうと、廃墟の中を探し回ろうとしたその時。
 異質な物音。それは明らかに幼黒犬以外の者の立てる音だ。続けざまに、物陰から黒い影が現れる。一瞬にして全身の毛が逆立つ。目の前には2体の&ruby(ヘルガー){炎犬};が、殺気立った面立ちで構えていた。
「お前が俺たちの仲間を殺した&ruby(レパルダス){悪豹};……」
 炎犬の片方が口から火の粉を吹き出しながら、威嚇を込めて唸る。その目からは計り知れない敵意を感じる。やはり、昨日殺した炎犬の、逃げた仲間だった。
「報いを受けろ!」
 炎犬がもう一度叫ぶ。どうやらここで俺を殺すつもりらしいということは、その剣幕から伝わってくる。俺も炎犬達を睨み返す。敵は2体……だが叫ばなかった方の炎犬の足元に、俺の予想だにしなかったものがいる。横たわる幼黒犬の姿が、そこにある。炎犬の1体が、幼黒犬の首元を抑えている。俺がそれに気付いたことを見て、炎犬が叫ぶ。
「こいつがどうなってもいいのか!」
 幼黒犬は気絶しているのか、目を瞑っている。ときどき体を震わせていることから生きてはいるようだ。俺が逡巡したとき、2体の炎犬の視線が動く。それを合図にするように後ろからもう一つの黒い影が飛び掛かって来る。
「報いか……」
 そのとき俺の持っていた何かが軽い音を立てて消えた。俺は体の力を抜いて頭のなかを空っぽにする。幼黒犬から視線を外して素早く反転。次の瞬間、後ろから飛び掛かった炎犬が体を切り裂かれ倒れる。最初の2体の炎犬が驚きの声をあげる。
「お、お前っ! 何やってんだ!」
 倒れた炎犬が体を力なく痙攣させているのを見て、残った2体の炎犬は焦る。幼黒犬を押さえていない方の炎犬は逃げる。俺は残った炎犬の方へとじりじりと歩み寄る。炎犬は幼黒犬をより強く押さえて、震え声で叫ぶ。
「ふざけるなっ! 俺達は本気だぞ!」
 俺はまるで目の前に誰もいないかのように感じながら、一歩一歩炎犬に近づく。炎犬の背後は壁だ。こいつはもう逃げることはできない。俺はあえて、作った笑みを見せつける。そのときまたもや後ろから、逃げたと思っていたもう1体の炎犬の叫び声が聞こえてくる。そして俺の背後で炎のエネルギーが高まる。
「死ねええっ!」
 爆風と共に炎が迫り来る。俺は筋肉をしならせ、とっさに跳んで避けた。俺の毛先を焦がした爆風は、俺の正面に居る、幼黒犬を人質にしていた炎犬に直撃する。炎上するように炎が炎犬を包むと、強烈な熱風を巻き起こす。近寄れば俺もただでは済まないような炎だが、炎犬はむしろ力を得ているようだ。なるほど、炎犬の中には炎のエネルギーを吸収して力を高める能力を持った者が居る。それを利用するつもりか。人間のところにいた時に得た知識だった。炎を浴びた炎犬は目を見開いて、牙に炎を纏って飛び掛かってくる。
「グオッ」
 その一瞬、鋭利な爪が皮膚を切り裂いた。炎犬の体が地面に叩きつけられる。空気の潰れたような音が、炎犬の体から鳴る。飛び掛かった炎犬は、着地できなかった。俺がいくら侮蔑的な視線を向けてもこいつが再び立ち上がることは無い。激昂し弱点を丸出しで突っ込んで来る相手など、子供を狩るくらい簡単だ。最後に残った炎犬を睨むと、炎犬はよろよろとへたり込む。圧倒的な力量差に戦意を喪失したようだ。
 静かになった部屋を見渡す。普段俺が寝床にしていた部屋には、顔をしかめさせる死の臭いが充満している。その中から、焼け焦げた臭いが微かに混じっているのを感じる。その臭いを辿ると、小さな焼死体が捨てられたゴミのように転がされているのが目に飛び込んで来る。一瞬背筋に寒気が走った。
「ああ……」
 小さな声が俺から漏れた。それは紛れも無く幼黒犬であった。俺は振り向く。炎犬の最後の1体は未だに心ここにあらずといった様子で立ちすくんでいる。
「さっさとどこかへ行け」
 俺がそう言っても、炎犬は抜け殻のままでいる。一歩迫り、爪に力を集めて見せつければ、ようやく炎犬は驚かされた子供のように跳ねて逃げて行く。部屋に乾いた雨音が戻る。静まりつつある鼓動と雨音の2つだけがそこにはあって、戻ってきた日常をただ無言で俺に突きつける。部屋には二度と物を言わない肉体が3つある。血まみれで無残な姿を晒すものが2つ。虚しい感情を湧かせるものが1つ。
 俺が何をしようと、どのみちこの幼黒犬の未来は変わらなかった。俺の拭いがたい罪を少しでも減らそうという正当化などではなく、それは事実だろう。ただ報いは、思ったよりも早くやってきた。
 もうこの部屋に棲むことはできないことは明らかであった。俺はすこし疲れのある体をぱちんと弾いて、新しい寝床を探しに行く。この廃墟にはまだまだたくさんの部屋がある。気に入っていたあの部屋を失うのは不本意だが、まだまだ問題ではないさ……。

 夜になると、雨など無かったかのように綺麗な夜空が現れた。星はちりちりと音を立てるように瞬く。ここ数日の"非日常"がまるで存在しなかったかのように、俺の体は静かな夜に溶け込んでいる。炎犬との戦闘が何日も前のことのようにすら感じる。それが紛れも無く今日の出来事であったことは、異質な疲れの溜まっている体が教えてくれるのだが。
 闇の帳を越えて、遠吠えが聞こえる。今もどこかで誰かが復讐の爪を研いでいるのだろうか。重ねた罪の分だけ、報いはその大きさを増して再びやってくる。背負った積み荷を下ろすすべを俺は知らないし、知ることはできないだろう。
 罪の報いが俺の命を狙うなら、報いすら殺してまた背中を重くする。たとえそれがその場凌ぎだとしても、いつか報いが俺の力を越えるまで俺は&ruby(あがき){生き};続ける。
 俺はもはやそうすることでしか生きられない。罪から生まれた報いが俺の命を脅かすなら、俺はまた、罪を重ねる。それが俺の今までの積み重ねであり、そして未来であった。

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一言でも構いませんので、感想を貰えれば嬉しいです。
厳しい意見も大歓迎です。
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