どがらっ、どがらっ! どがらっ、どがらっ!!
黒曜の原野。蹄鉄ヶ原。通常より遥かな巨躯を誇る炎馬が大地を駆ける。
その蹄が踏み締め、蹴り上げる土は遥か高くの空を舞い、多少の障害はその質量の前に弾け焼かれて灰と化す。
炎馬が駆ける。駆ける。燃え盛る鬣。猛る全身。そして金剛石の如き硬度を誇る額から生える角が外敵へと向けられる。
それが何をした訳でもない。だが、生まれたばかりの子供が数多く親の庇護の元に居るこの季節。群れを纏める主として縄張りに入ってくるだけでそれは許す事の出来ない存在である。
それは炎馬と比べてしまえば華奢な肉体をしていた。鍛えられているにせよ、この身の突進を受ければ弾け飛びそうな程である。
だが、研ぎ澄まされた殺意がその身に潜んでいる事を炎馬は感じていた。また、その殺意は研ぎ澄まされていようとも、おどろおどろしさを多分に含んでいた。
今までに会った事のない形の殺意。純粋に気持ち悪いと感じるそれ。だからこそ体に炎を纏い、全力でそれに向けて角を突き出したのだが。
感触はなかった。
外した? 直前まで狙いは外れていなかったはずだ。
只者では無いらしいと思い、身を翻そうとしたその時、体が勝手に崩れ落ちていくのを感じた。
「!!??」
どこからか、赤黒い刃を取り出していたその敵。その視界に何かが落ちてきた。それは、見慣れた足。蹄のついた、強靭な……。
己の足を見た。片方がすっぱりと切り飛ばされて、血が吹き出していた。
「ビッ、ビイィ!?」
気付いた時にはもう遅く、その千切れた足を敵は拾うとその断面に齧り付き、見せつけるように血をじゅるると飲む。
立ち上がろうとしても一つの足が千切れてしまえばそれは能わず、その足に齧り付いたまま敵は目の前まで悠々と歩いてくる。
立派に整っていた白い髭を赤く濡らすのすら気にも留めず、今、この鬼の興味は全てが己に注がれていた。
ごく、ごぎゅ、ぶちぃっ。
肉を強引に食い千切ると持っていた刃を高く掲げて。
凶悪な笑みを浮かべながらそれが首へと振り落とされるのに、どうしてか目を離せなかった。
ざんっ。
ざくっ、ざくっ。
すぱっ、べちゃっ。
悪夢を見ているようだった。属性は優っているはずなのに、その手に持つ刃の一本だけで全てを覆されている。伸ばした蔓も、飛ばしたヘドロ爆弾も全てが一閃の元に切り裂かれていく。
多少は切られても焼かれても別に支障はない蔦ではあるが、これだけ切られる間に掴むどころか、傷の一つも与えられていないなど、そんな事そもそも想像した事がなかった。
時折見える顔は、犬歯を剥き出しにした笑みを浮かべていた。それが少しずつ、少しずつ近付いて来ている。その刃をこの身に直接切り付ける時を待ち侘びているその顔。
勝てない事は明白だった。だが、足の遅い自分には逃げる術もなかった。
どうしたら良いのか分からないまま、気付けばそいつは一気に距離を詰めていた。最大の危機であるが同時に最後の好機だと信じ、大きく蔦を広げて周りから一気に包み込もうとすれば、そいつはその刃を掴み直して。
迎え撃つのかと思いきや、次の瞬間にはそれは眼前へと吸い込まれていて。
ざくっ。
……どしゃっ。
びぐっ、びぐっ……。
……ずっ、どずっ。
びぐんっ! …………びぐっ。
ずっ、どずっ。ずっ、どづっ。ずっ……。
…………。
いつもその大きな体で僕達を守ってくれていた親分。陸も海もその牙と氷の息吹で敵知らずだった親分。
親分のむちむちで大きいお腹に寄りかかると、いつの日でもすぐにぐっすり眠れた。いつか僕も大きくなったら親分みたいになれるのかなと思っていた。その時になったら、僕も僕の子供を大きくなったお腹に寄りかからせてぐっすりと眠らせるのかなと思っていた。
その親分が目の前ではらわたに顔を突っ込まれていた。
「ァ……カッ……」
ぐぢゅ、ぐぢゅ。
親分は生かされている。はらわたに頭を深く突っ込まれながらもまだ死んでない。
親分の虚ろな目が僕と合っている。殺してくれと、こっちまで来て自分を殺してくれと懇願している目。
ぶちゅ、ぶちゅ、ぶぢぃっ。
ソレは思い切り顔を持ち上げた。血が吹き出した。千切れた長い腸が勢い良く空へと跳ねた。
親分の口がぱくぱくとだけ動いて、でもまだ生きてしまっている。親分の命はまだ消されていない。
くちゅ、くちゅ。くちゅ、くちゅ。
ソレははらわたを盛大に音を立てて噛み千切りながら親分の顔の前に顔を近付けて。
ごきゅ。
馳走を食べるかのように飲み込んだ。更にソレは親分の顔に口を近付けて、何かをしたかと思えば。
親分の目玉が片方抜けていて。ソレの口の中で何かが潰れる音がした。
「ァ、ァ……」
僕のお股から生温かいものが流れる。風が吹いた。ソレが不快そうに鼻をひくひくとさせて、僕の方を振り返った。
真っ赤な顔。邪魔をしてくれたなと怒るその顔。
「ァ、ァァ……」
歩いて来る。前脚から親分をずっぱりと切り裂いたその刃を取り出して、ゆっくりと歩いて来る。
「ア、アア、アアア、アアアア」
体が動かない。動かない。ヒレも腕もがくがく震えるだけで、がくがく震えるだけで。
「ア゛ーーーーーーーーーーーー!!!!」
ざくっ。
一度目は大きく避けた。
二度目は避け幅が少なくなった。
三度目は避けながら距離を詰めてきた。
ズドンッ!
四度目は……完全に見切られて真っ二つに切り裂かれた。
二つに裂かれた岩石砲の一つは地面を転がる内に砕け散り、もう一つは大幅に軌道を逸らした上で岩肌にぶつかって粉々になった。
ふん、と鼻息を吐くその外敵は、最早この俺に恐れを抱いていない。
一つ当たればあの銅鐸であろうと穴を開けてみせるこの砲弾が、避けられるどころか切り飛ばされるなど、想像した事さえなかった。体が、震えている。
近付けさせてはいけない! あの刃は俺の装甲さえ容易く切り裂いてしまう、そんなあり得ないはずの予感がぞくぞくとする。咄嗟に近場の岩を砕き、尖ったそれを礫として打ち飛ばす……が、外敵はもう一本の刃を抜き出すと、その場で舞うようにその二本の刃を振るう。
カカカッ!
舞った後。岩の破片はどの一つもその身に届いていない。終わりか? というように悠々と歩いてくるその外敵。
気付いたら、足が後ろに引いている。
ひたり、ひたり。
刃を構えながら歩いてくる外敵に、どれも通じる気がしない。そこらにあった岩を体が勝手に腕に詰めている。その最中に視界から消えた、と思った時には、外敵は俺の懐にまで潜り込んで刃を切り上げ。
ガギィッ!!
俺の装甲は、耐えていた。
「グッ!?」
「ッ、ガアアッ!!」
この距離で切り飛ばせるか! 喰らえっ! …………え? なんで……なんで、俺の右腕が目の前に落ちているんだ? や、やめっ。
ざぐっ。ぼどっ。
お、俺の、腕が、腕がっ!? ひっ、あっ!? やっ、やめっ、くっ、来るな! 来るな来るな来るな来るなあああああああああ!!!!
どずっ。
「ガッ」
ぐっ、ぐぐっ、ぐぐぐっ。
「アガアアアアアア」
ざしゅっ。
「カッ…………」
どしゃっ。
ずる、ずる……。
お、お前か。今度は何を持ってきたんだ?
あー、こいつか。俺がガキの頃見た事ある奴だ。
ん? いや、別に。親しくもなかったしな。それに岩石砲に頼って威張ってるだけの奴だったし、里帰りでもする事があれば殺すリストに入ってた程度だ。
……んー。そうだな、中々お前も食い甲斐がある風貌になって来たじゃねえの。殺しの味を忘れられなくなった目をしている。
別に交わってやってもいいぜ? 子供が出来るか知らんがよ、俺が抱いても良いって思える程度の女にはなった。
だがな? お前はそれで満足するのか、ってところだ。お前が今求めるものをじっくりお前の胸にその前足を当てて考えてみろよ。お前の胸の疼きは何をしたいんだ? 俺とただ交わりたいのか? そんなつまんねえ女じゃねえだろ、お前は。
そうだろ、その目だ。ぞくぞくしてくる。
お前は俺を打ち負かして、その上で一方的に俺から搾り取りたいんだろう? その上でその刃を俺の胸にでも突き刺してその血で全身を塗りたくりたいだろう。
俺だってそうだ。お前がここまで成ってくれたんなら、そんなお前の自信をべきべきにへし折って、ぐちゃぐちゃになるまで犯した後に、そんなお前の首を食い千切りてえ。
……ん? そうだな。途中からお前もとっくに分かってただろう。俺達はもう戻れねえんだよ。生物の命が潰える瞬間にこそ最大の悦びを覚えるようになった俺達は、愛せる相手にすらそれを求めるようになった俺とお前は、もう生物としてぶっ壊れてるんだよ。
否定なんてするなよ? お前はそう成ったんだ。成れたんだよ、お前は。そうじゃなかったら、共にしている人間も放ってこんな事しねえだろうがよ。
……じゃあ、戦ろうぜ? 俺もウズウズしてんだ。おっ勃っちまいそうな程にもう、お前のその刃もへし折って、お前の雌に俺の槍を容赦なく突き立てて、泣き叫ばさせた上でお前の首を食い千切りてえ。
応よ、やってみろ!
一つ一つの所作が必殺級。敢えてこの寒い場所に身を置く彼の皮膚は、普通よりも何倍も分厚く、硬い。体を擦らせただけでも人の使う鑢のように肌をボロボロにしてしまう。
ぞくぞくする。私が彼に負けたら、そんな皮膚を擦り合わされながらその、この翡翠の地で最も凶悪であろう雄を突き立てられながら殺されるのだ。
彼の供物になる事に、私は光栄だとまで思う。けれど、そんな彼が私などに敗北するはずがない。幾ら私が鍛えようとも、彼は私の遥か上に居るはずなのだ。
そう思うと同時に、しかし私は彼のいう通り、その首を掻っ切りたい欲望に囚われている。
跪いた彼のその太い首に、私の脚刀を振り下ろして一刀の元に切り捨てたい。そうする時もきっと彼は、いつも通りの顔で私の一閃を迎えてくれるはずだ。
その体躯であの炎馬と同等以上の速さで四方八方を駆け巡る。多量の雪を巻き上げ、不明瞭な視界の中からその側頭の触覚で私の位置を正確に見極めて死角から突撃してくる。
息を吹く。目を閉じる。岩石砲を切り飛ばした時もそうだ。私は目だけで獲物を追っていた訳じゃない。殺意、それを私は感じ取れるはずだ。
ずっ。
雪を強く踏み締めた音。振り返る、脚刀を振るう。一度目、空振り。跳んで躱し、私の後ろに着地した彼に、刀を持ち替え背中越しに突く。
ガヅゥ!!
激しい衝撃、手から刀が離れた。鉤爪で横から叩かれた? 二本目を引き抜いて振るうももうそこには居ない。
巻き上げた吹雪の中に再び隠れている。弾かれた脚刀も蹴り飛ばされたのか、どこにもない。
これは獲物を一方的に仕留める戦い方じゃない。強者を確実に仕留める戦い方だ。
ずずっ!
再び死角から雪を踏み締める音。……違う、もっと感じろ。本当の殺意は、私を仕留めに掛かるその冷たい意志は。
……上。
ざぐっ!
「ガアッ!」
咄嗟に腕で受け止められた、が確かな感触ッ!? 角を、噛まれてっ!?
べぎぃっ!!
「グアッ!!」
振る刃を避けて、彼が距離を取る。私からへし折った角を吐き捨て、切り裂かれたヒレの血をべろぉと舐める。
若干落ち着いた吹雪の中から見つかった脚刀を拾い上げる。
「……」
「…………」
舐めても一向に止まらない血を見て、彼はもう雪に隠れる事はせず、正面から突っ込んでくる構えを見せた。
風下。彼の類稀な強者としての濃い血の匂いが私に届いてくる。
思わず涎の出そうな匂いだった。
彼がぐ、と脚に力を込めて。岩石砲に劣らない速さで突っ込んできた。しかしそれは、岩石砲とは似ても似つかない。躱せない。かといって正面から切り捨てられたところでその巨体がまともにぶつかればそれも死だ。私は身を翻す。二刀を手に持ち舞った。
切り裂いた、確かな感触。同時に受け流せるはずもない衝撃が、私を襲った。
目が回る。上も下も分からない。それでも脚刀だけは離さない。体が雪の上に崩れ落ちたのだけが分かった。視界の片隅に、顔から血をぼだぼだと垂れ流しながらも微塵も戦意を失わない彼が見えた。
私は、起き上がれなかった。全身がバラバラになってしまったように体が動かなかった。
私はこれから死ぬのだろうか? 彼の供物になって? 悪くない。……でも、良くもない。
まだ生きたいだとかそんな理由じゃない。私にそんな願いなど許されるはずもない。
私の刃は届いている。意識があるなら、まだ抗える。なら、私を供物にするには早過ぎる!
体を捩った。今出来る私のたった一つの悪足掻き、でも予感はあった。彼の片目と、そして片方の触覚は、私の刃で切り裂かれている。彼の方向感覚は、今、狂っているはずだった。
ズオッッ!!
私のすぐ側を彼が通り過ぎていった。それだけでまた吹き飛ばされる。けれど、それだけだ。私の体は五体満足なままだ。予想が当たった。雪に転がる、脚刀を地面に突き刺して、どうにか立ち上がる。
そこで気付いた。脚刀も切先が砕けていた。二本とも。
でも、切れる。短くなっただけだ。突き刺せなくなっただけだ。体はまだがくがくと震えている。私の体は未だ、私の意思に従わない。
けれど今度こそ、仕留めようと彼が駆けて距離を詰めてきていた。死角から安全に攻め立てるのでもなく、突進でバラバラにするのでもなく、そのヒレで直接私をへし折ろうと、牙で直接私を食い破ろうとしてきていた。
私の目の前で切り裂かれたヒレが振られた。血飛沫が私の目に浴びせられた。けれど。私の所作はもう決まっていた。彼は無傷なヒレを後ろに隠して切り上げようとしていた。
それに脚刀を合わせた。
「ィギィァアアッ!?」
……快刀乱麻。
怯んだ彼に対し、私は脚刀を一度仕舞う。
「秘剣・千重波」
自然と、声に出ていた。彼を殺す事への悦びからか、彼に別れを告げるその僅かな悲しみからか。
何であれ、幾度となく繰り返してきたその所作は、体に私の意志が十分に伝わらなくとも十全に動いた。
そして、斬撃と共に粉々に砕け散った脚刀が彼の全身を幾重にも切り裂いた。
崩れ落ちようとする彼の上体を支えようとして、親分としてのその重みに私の既に軋んでいる肉体が悲鳴を上げる。切り裂いた肉体から熱い程の血が私に浴びせかけられる。熱い程の私の散らした脚刀の破片が私にも突き刺さり、ぶつ、と血が流れていく。けれど、どうにかして横にした。
鼻から目、そして触覚まで深く切り裂かれた彼の顔。縦に深く裂けたヒレと、横に両断されたヒレ。
一太刀にて幾重にも切り裂かれたその胴体。
私が切り裂いた、その何よりも立派な肉体。
「……まさか、本当に上回って、くる、とはな……」
今にも消え入りそうな声で、彼が言った。
……正直、私が勝つとは私自身余り思っていなかった。けれど、彼と初めて会った時に比べて、全く敵わないと思う程でもなかったのも確かだった。
けれど、そんな事は今、どうでも良い。
後僅かな時間で、彼は死ぬ。彼はもう体も動かせない。でも、だからか、彼の股間からそれが飛び出していた。
命を潰えようとする時、子を残そうとしてか雄を猛らせる生き物は偶に居る。彼もそのようだった。
私は彼の命の灯火がまだある内に鋭く、太く、猛々しいそれを受け入れる。
とても熱い。私の体を揺らす程に震えていて、今にも精を吹き出しそうだった。
そしてそれは、私も同じだった。既に私の中は濡れに濡れていて、彼の雄を私の中に入れた瞬間に体が快楽に打ち震えていた。
「私、一生忘れないと思う」
「……そりゃ、そう、だ」
血をどくどくと流す彼に抱きついて、僅かばかりに体を動かす。それだけで彼の精は飛び出してしまう。それだけで私は絶頂に至ってしまう。けれど、それに不満はない。後悔もない。
一つ一つの鼓動の度に弱まっていく彼の心の根とは別に、彼の雄は力強く跳ねる。残りの力を全て股間へと集中させているような感覚。
二度、三度。……そして、四度目にはもう、その力強さを失い始めた。それでも、私の胎の中にずっしりとした重さを残す程の、強い精。子が出来ないとしても、確と私の身体に、心に刻まれるその精。
「……ほら、死なねえ……内に、やれ、よ」
「……そうする」
脚刀は二本とも砕けてしまった。でも、一つだけ。私は彼の雄から離れて、軋む全身を堪えながら走り、彼に折られた角を手に取る。彼の牙の食い込んだ痕がくっきりと残っていた。
そして戻る。
彼は、僅かに笑って。
「…………じゃあな」
「……さようなら」
私は、その首に角を突き刺した。
ずっ。
「う、うあああああああ!!」
刃のないそれに力を込めて、それでも首を引き裂く。
ぶづ、ぶづ、と血管が断ち切れ、皮膚が引き千切れて外へと飛び出す。
飛び出した血は、もう既に血まみれだった私を更に赤黒く染めて。
彼の体は微塵も動かなくなった。
「…………」
風の音だけが私に届く中、ずっと私はそこに立ち尽くしていた。
腕自慢をしてはいけないよ。
翡翠の鬼がその味見をしにやってくるからね。
無駄に争ってはいけないよ。
翡翠の鬼が興味を示してしまうからね。
獣の争いを見たら逃げるんだよ。
翡翠の鬼が来るからね。
仲良くしようね。
すれば翡翠の鬼は来ないからね。
でも、もし……もし、何にも縋れなくて、どうしようもなくなったら、これを持った上で***に行きなさい。
きっと、力になってくれるから。
翡翠の誰からも聞いた事のない昔話。
深掘りしようとしても母も、誰もが口を噤むばかりだった。