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翡翠と松籟 の履歴(No.1)


 連作短篇集

2022年12月頒布作品

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作:朱烏


登場キャラクター

火群(ほむら):ヒスイバクフーン。雄。
斑葉(いさは):ヒスイジュナイパー。雄。
水門(みなと):ヒスイダイケンキ(第一話登場時はフタチマル)。雄。


目次

一 松籟(しょうらい)(『松籟に告ぐ』改題・改稿)
二 呪詛(じゅそ)
三 無明(むみょう)
四 祝福











松籟


 戸がかたりと閉じる音で目が覚める。
 薄明(はくめい)の刻、(ほの)暗い部屋には空になった布団。衣紋(えもん)掛けに(あるじ)の着物は掛かっていない。
 体が重い。臓腑に瀝青(れきせい)が詰め込まれたような倦怠感。夜半を過ぎてようやく寝付けたように思う。ここ数日、眠りは不足していた。
 漆喰(しっくい)の壁に預けていた背中を離し、立ち上がる。目を擦りながら、主の後を追った。

 芋蔓(イモヅル)亭と雑貨屋の間の道から延びる橋を渡る。足下の川のせせらぎが、いやに粘着質だった。
 平屋の人家が両側に建ち並ぶミオ通りの真ん中に、人影が三つ四つ。地面に転がっている何かを囲んで、話し込んでいる。
 ――(あるじ)、警備隊の人間、警備隊長、そして芋蔓亭の主人。異変が生じたことを容易に察せられる面子だった。
「こりゃ酷いね……」
 立派な体格の、赤髪の女警備隊長が顔を(しか)めた。
 主の後ろに立つ。気づいた主に声を掛けられたが、転がっているそれらの正体を認識した途端、俺の耳には急激に遠くなった。
 三つの黒い塊。丸焦げになって、煙が燻っている。鼻につく有機的な悪臭がなければ、それらが元々ポケモンであったことは判ぜられなかったかもしれない。
「ここまでしなくても……」
 警備隊員が、その惨さに口を押さえた。無理もない。たぶん、彼女の見知ったポケモンだ。そして、俺も。脈が狂うような不快感に、俺はその場を離れようと一歩後ずさる。

「ふうん、けったいなこともあるもんやねぇ」

 間延びした、せせら笑うような声。俺は貝太刀(ホタチ)に手を掛け振り向いた。
 ミオ橋の上で、ぱちりと小さく爆ぜた紫炎と、白い吐息。
 俺のうなじの毛が逆立つ。
 ――間違いなく、彼奴(あいつ)だった。


  ◇◇◇


 夜更けの始まりの浜は、がらんどうだった。掘っ立て小屋と荷車は、浜を彩るにはあまりにも無彩色が過ぎていて、ないも同然の希薄さだっだ。
 空気を支配しているのは、静かに寄せては返す波の音と、それを掻き消さんとする、ざらざらという耳障りな松籟(しょうらい)
 そして、がらんどうの中心――桟橋の尖端で、奴は俺を待ち受けるかのように佇んでいた。こちらに背を向け、冷たく(くら)い海を見つめている。
 奴の首回りから()ずる紫炎が夜陰に(ぼう)と揺らめいて、闇に溶け込む寸胴な輪郭が膨張した。
 俺が桟橋に足を掛けると、板木がぎしりと悲鳴を上げる。
「風に松がそよぐ。星々が雲間に輝く。……風流な夜やなぁ」
 奴は海に顔を向けたまま喋り始める。
「お月さんがもう沈んでしもたのが残念やけども」
 松籟がざらりと、一際強くなった。
「お前の仕業だな、火群(ほむら)……!」
 俺は吼えた。海岸に(こだま)した声は、波に溶け切るにはいささか刺々しい。辺りに身を潜める野良共がざわめいた。
「わいのことは『火群兄ちゃん』って呼んでくれぇ()うたやん。寂しいで兄ちゃんはァ」
 こちらに正対した奴は、猫撫で声で俺を(なだ)めすかそうとする。
「俺の問いに答えろ」
「はあ……どこで育て方間違うてしもたんやろ。斑葉(いさは)くんも『兄者』呼びで全然兄ちゃんって呼んでくれへんし。呼び捨てよりは幾らかましやけど」
「お前に育てられた覚えはない!」
 どん、と踏み込み、振り上げた太刀を奴の首筋に当てる。
「……五間(9m)はあったはずなんやけどなぁ、君との距離。縮地、いつの間に会得したん? 水門(みなと)くんはえらい頑張り屋さんやねぇ。その調子で進化も気張りやぁ」
 火群(ほむら)はへらへらと笑いながら両手を上げている。重たそうな瞼の奥にある深紅の瞳は、まだ最終進化に至れていない俺を見下すように歪んでいた。
「茶化すな」
 太刀を強く押し当てた。弾力のある首の皮に、太刀が食い込む。火群が一歩後ずさる。もう二歩で、海に落ちる。
「……怒りん()はモテへんで。それに」
 奴の一段低い声に呼応するように、紫炎が明滅した。
(……ッ、消えた?)
「こっちや」
 火群の姿は、桟橋のたもとにあった。俺と奴の位置は奇麗に入れ替わっている。
「こないな夜に貝太刀(ホタチ)振り回すンは雅やないなぁ」
 奴の首筋にしっかりと押し当てていたはずの俺の愛刀が、()られていた。
「しっかしこれ、研ぎ過ぎやない? 道理で痛いわけやわ。自分も怪我してまうで」
 火群が貝太刀の柄を摘まんで宙に掲げ、四方からまじろぎもせず観察している。
「返せ!」
 俺の愛刀が兄に品評される――屈辱極まりなかった。
「言われんでもすぐ返すわ。得物(えもの)振り回して戦うンはおもろそうやけど、わいの趣味ちゃうし。あ、そうそう、質問の答えやけど……

 ――ご明察通り、わいの仕業や」

 松籟と波濤(はとう)の不協和音が、一層大きくなった。
 奴に下手(したて)で投げ返された愛刀が、ひゅるると空気を切り裂いて、俺の足下にからんと転がる。
 俺はそれを注意深く拾い上げる。傷は――ついていない。愛刀を乱暴に扱われた怒りを抑えつつ、もう一度強く問う。
「何故だ」
「んー……せやなぁ。理由は色々あるんやけども、一つ挙げるなら……」
 火群(ほむら)があり得ない角度で首をぐりんと傾げた――ように見えた。
「斬り殺して草叢(くさむら)に隠したはずの死体が、突然村のど真ん中に焼けて転がり出れば、犯人はさぞ驚いて腰抜かすんちゃうかなぁ、って思うてなァ」
 火群の口角が吊り上がる。月の無い夜に、真っ赤な粘膜色の三日月擬きと鋭い牙が顔を出した。
「なあ、水門(みなと)クン? なんや心当たりあるんちゃうん?」
 心臓が怒濤のように拍動する。
 奴にはお見通しだった。
「……あいつらは泥棒だった。悪事を働く奴を殺して何が悪い」
 半月の夜。(さか)しくも、門番の死角で。決して肥沃とはいえない土地で、村の人間とポケモンが手塩に掛けて育てた作物が、丁度掘り返されているところだった。
 ――だから。
 呼吸がだんだんと荒く、浅くなっていく。
「水門クン、最近寝付きが悪いみたいやねぇ」
 火群が桟橋の尖端へ――俺のほうへとゆっくりと近づいてきた。
「懲らしめるにしては、随分と残忍な殺し方したんやない? 斬られた痕幾つあるか数えてみたんやけど、百超えた時点でやめてしもたわ」
 薄ら笑いを浮かべながら、火群はひたひたと音もなく歩いてくる。
「来るな……!」
「そないなこと言わんといてくれやぁ。お兄ちゃんはなぁ、水門クンに聞きたいことが(ぎょ)(さん)あるんやから……」
 脚の震えが、桟橋に伝わってぎしぎしと軋んでいる。
 ――俺や斑葉(いさは)に先んじてマグマラシに進化した頃から、火群が何を考えているのか徐々に解らなくなっていった。バクフーンとなってからは、その目は何も語らなくなった。
 不気味な笑みを湛えたまま宙空に視線を彷徨わせる火群に、いつしか俺は距離を取るようになっていた。
 近場の調査に赴く俺や斑葉と異なり、火群は主に伴って遠方の調査に従事することがほとんどだった。連日泊まり込むことも多く、必然的に火群と言葉を交わす機会はもとより失われていた。
「……!」
 俺より遙かに図体の大きな火群の腹が、俺の眼前まで迫った。桟橋は、俺の踵の三寸後方で途切れている。
「……っ」
 温い右手が俺の顎先を掴む。愛刀の柄を握り直そうとして、落としてしまう。
 火群が屈む。目線が合う。獲物を狩る目。
「えらい震えようやな。……誤解しとるようやけど、別にわいは君を咎める気はないねん。怖がり過ぎやで」
「……嘘だ」
 火群が両目を(すが)める。舌舐めずりの意味が、理解できない。
「そこはお兄ちゃんを信用してほしいわぁ、水門くぅん。わいが可愛い弟を虐めるわけないやん」
 ――虐められたことは一度としてなかった。だが、俺を虐める姿だけはどういうわけか容易に想像がつく。
「どうして」
 発した言葉の意味は、自分でも瞭然としない。どうして虐めないのか?
 ――いや、違う。
 火群は、俺の頭をぐいと抱き寄せて、耳打ちした。
「ぶっちゃけおもろかったやろ? 命を弄ぶンは」
「うわあああああ!!」
 俺は火群を突き飛ばす。
「おっと」
 蹌踉(よろ)めいて尻餅をついた火群に、俺は馬乗りになる。
 貝太刀(ホタチ)を振り上げるも、即座に右腕を掴まれる。応戦しようとした左手も万力のような握力に襲われ()す術がない。そのままひっくり返されて、押し倒された。
「離せ! 退()きやがれ!」
 暴れる俺を倍以上ある体重差で押さえ込みながら、火群(ほむら)はにやにやと気味の悪い笑顔で俺を見下ろす。
「……ははぁ、さては水門(みなと)くん、罰されたいんやろ。ちょっと盗み働いただけの幼子を(あや)めたンは流石にやり過ぎたって、自分でも思ってるんやな?」
 どうして、の後に続くはずだった言葉が、(つまび)らかにされる。両腕に込めていた力が一気に抜けた。
「判りやすいなあ、水門くんは」
 火群の挑発めいた誘いに乗った理由は――期待だ。人間はきっと、俺の犯した過ちに気づけない。他ならぬ自分の兄なら、俺を咎めてくれるだろうと無意識に考えていた。
 兄を嫌っているくせに、どうしようもなく兄を頼ろうとしている。
「哀れやなあ。そないな下らん人間(ヒト)(ことわり)に己の心を預けるから弱いのや、水門くんは。獣なら好き勝手振る舞ってナンボやろ」
 兄は、しかし、俺の期待する言葉の一切を吐かなかった。火群が操る言霊(ことだま)は、俺の獣性を剥き出しにしてやろうと意地悪くで幾重にも折り重なる。顔を近づけられ、甘ったるい吐息が吹きかかった。
「水門くんが盗獣(ぬすっと)斬ったンは、そら正義感もあるやろうけど、それ以上にただ研ぎに研いだ貝太刀の切れ味を試したかったから……やろ?」
「違う!」 
 火群を睨み上げても、返ってくるのは不愉快な微笑みだけ。
「ムキになって否定せんでもええよ。人間の下で育ったからといって、わいらがそれに従ごうことあらへん。己に(かせ)()めるなんちゅーのは阿呆のやることや。これからも気に入らん奴は自慢の太刀でぶっ殺していけばええやんけ」
「そんなの……許されるわけないだろう……!」
 火群が俺の両腕を解放し、馬乗りにしていた俺から降りる。
 しばしの間、俺は桟橋に仰向けになったままで、火群は俺を見下ろすように仁王立ちしていた。
「わいは許されとるで」
「……は?」
 狼狽する。火群は何を言っているのだ。
()うたやん。命を弄ぶンはおもろい。楽しい。至福。……君の百倍は軽ぅく手に掛けとる」
「お前……!」
 立ち上がる。桟橋が軋む。松籟(しょうらい)が浅ましく笑う。
「何いきり立っとるん? 君が怒る筋合いはないで」
 わざとらしくため息をつく火群の姿に、どうしようもなく腹が立った。
「だいたい、許されないって、誰からや? わいは主にも村の人間にも怒られたことあらへんけど」
 火群が背を向けて、砂浜へと歩きだした。
「それはお前の悪事を知らないからだろ!」
「せやったら、わいのこと全部見とるヒスイの神さんが、山のてっぺんで対峙したときに咎めとるはずやけどなあ。別になぁんも言われへんかったで」
 言い訳をつらつらと述べながら、火群は桟橋のたもとへと歩いていく。背中ががら空きだが、隙を感じない。
「神さんがええ()うとるのに、水門くんはわいを咎めるんか? まさか、自分の殺しは良くてわいの殺しはあかん言うつもりやないやろな?」
 言うつもりだ。俺は――悪を(ちゅう)しただけだ。気分の赴くまま、好き勝手に殺生したわけでは断じてない!
 だが――その言葉を口に出すことはついぞなかった。
「火群……昔のお前は、少なくともそんなことをする奴ではなかったはずだ」
 意外な言葉だったのか、火群は驚いたようにこちらを見て瞠目(どうもく)したが、寸秒の間を置いて、けたけたと笑いだした。
「あはは、おめでたいやっちゃなあ! わいがニャルマーよろしく猫被っとっただけやで!」
「……信じない」
「……ヒスイはなあ、薄暗ぁい闇が巣喰っとる土地や」
 ぴたりと火群の笑い声が止んだ。濤声(とうせい)と松籟が、ざん、と大きくなって、火群と俺の間にある空白を埋めんとする。
「闇……?」
「そうや。それがすぅっとわいの中に侵入(はい)ってきよる。……マグマラシに進化した頃から訳の解らんもんが見えるようになってしもて、今や寝ても覚めてもわいの目と頭を苛んできよってなぁ……彼岸から押し寄せる恨み辛み妬みが、其奴(そいつ)を殺れ、彼奴(あいつ)を殺れって囁いてくるんや……」
 (おぞ)ましいことを口走る火群の目は据わっていた。俺は怖気(おぞけ)立ったのを気取られぬよう、貝太刀(ホタチ)をぎゅっと握りしめる。
「わいは彼岸に足踏み入れてしもた。もう戻られへん。……別に後悔はしとらん。けど、やっぱ寂しいもんや」
 火群が天を仰いだ。白い息が、闇夜に溶ける。
「……せやから、嬉しかったで。無残に斬り刻まれた死骸見つけたときは。他でもないわいの弟が、彼岸(こっち)に来てくれるんやってな……!」
 にたりと嗤った火群の紫炎が、(ごう)と唸った。
水門(みなと)ォ! そないな場所に立ってへんで、もっとこっち来たれやァ!」
 ――知らぬうちに、火群は俺の知る火群ではなくなっていた。いや、火群の信じ難い言葉が真ならば、もうずっと前から兄は狂っていた。もはや、彼岸の獣を連れ返す術は存在しないように思われた。
 幼少期の(しば)れる冬の日に、主、火群(ほむら)斑葉(いさは)と共に囲炉裏を囲んだ夜。皆で同じ道を歩めると思っていた。
 貝太刀をもう一度強く握った。俺は、俺の正義に則らねばならない。たとえ、これが間違った道だとしても。
「今からお前を斬る」
 さざ波が鳴る溟海(めいかい)を背に、宣告する。
「その意気や、水門ォ!」
 化け物の()び声へ、ぐん、と右足を踏み込んだ。
(縮地!)
 火群の懐に一瞬で潜り込む。
 しかし、(かわ)される。奴はふわりと跳んだ。
(なんと身軽な……!)
 だが空中なら俺の一閃は避けられない。足に溜めを作り、天を見上げた。
「っ!?」
 一瞬、満天の星空と見紛った。星辰のごとく散りばめられていたのは、(おびただ)しい数の鬼火。百鬼夜行――火群の最も得意とする技。喰らえばその火はじりじりと皮膚を焼き続け、深い火傷を負わせる。一つたりとも当たるわけにはいかない。
「お手並み拝見といこか」
 上に跳ぶのを諦め、鬼火の弾幕を避けることに注力する。
 足の指一本一本に通う神経と、脹脛(ふくらはぎ)の筋肉を引き絞る。ぎりぎりのところで躱しながら、着地しようとする火群の姿を一瞥した。
(……見えたっ!)
 大量の鬼火たちの隙間を縫い、着地寸前の火群の背後を取れる最短距離の道程。左斜め前に三歩、そこから一直線。
 火群は俺の実力を知らないのだ。この程度、怯むに値しない。
 着地の瞬間、背後を取った。
「っぶ!?」
 火群の後ろ回し蹴りが頬に入る。
 吹き飛ばされ、砂浜を転がり、岩にぶつかった。受け身は辛うじて取るも、口の中を切る。
「すまんなぁ。接近戦もイケるクチやねん」
 口の端から垂れる血を拭った。
 火群が強いのは知っている。調査隊のポケモンで火群は唯一、主のもとを離れて行動することを許されている。
(弾幕の隙間は……罠か。まんまと誘い込まれた)
 二、三手のやりとりで思い知らされる彼我の差。
「もっと本気で来えへんと、わいの居る領域には届かへんで」
「……もとより行く気はない。彼岸など」
 俺は立ち上がり、貝太刀を構える。
「水門くん、自分がまだマトモだと信じとるん? ホンマおめでたいやっちゃな」
「なんとでも言え」
 火群が不服そうに目を細めた。
「ふぅん、どうしても彼岸(こっち)に来てくれへんっちゅーなら……」
 地鳴りがする。火群の口角が歪んだ。
「死んでもらうしかあらへんなァ」
 耳を(ろう)するような爆発音。火群が足を踏み込んだ音だった。真っ赤な炎塊が、まっしぐらに突っ込んできた。
(火炎車……!)
 横っ跳びで避ける。俺の背後にあった岩が砕け散る。
 転がって、体勢を立て直そうとするも、左足が痛んでわずかに遅れる。――技が(かす)っていたらしい。
 そして瞬く間に飛んできたスピードスターを、思い切り腹に喰らった。
「げほ……!」
 吐いた血が宙に舞う。火群の持つ技の中では比較的低威力のはずなのに、一つ一つが重かった。
(歯が立たない……!)
 横臥(おうが)した俺のそばに、化け物が近寄ってくる。
「こんなもんかァ。案外つまらんかったな」
「来るな!」
 息が詰まる。火群の目に、もう俺は映っていなかった。あれだけ俺に注いでいたはずの興味が、失われていた。
(まずい……!)
 殺される。殺されてしまう。
「ひっ……」
 這いつくばりながら逃げようとする俺を、火群が捕らえる。
 仰向けにさせ、両腕を押さえつけ、馬乗りになる。
 絶対に覆せない、絶望的状況。
「ま、あの世でも頑張りぃ」
 火群の口から灼熱の業火が漏れた。


  ◇


『水門くん、ちょっと頼みがあるんやけど』
『頼み? 兄貴が俺に?』
『うん。……もしな、お兄ちゃんが頭おかしくなって、どうしようもなくなってしもたら、引導を渡してほしいんや』
『は? 引導……って何? 兄ちゃん、どこか悪いのか?』
『……いや、なんでもあらへん。変なこと言うて悪かったな。調査行ってくるさかい、斑葉と留守番頼むわ』


  ◇


 火群が突如飛び退いた。奇跡か、必然か。いずれにせよ、難を逃れる。
 異変。俺は眩い光に包まれていた。己の細胞に備えられし、最後の力が発現する兆候。
 星々の冷たい光が冴え返る寒空に、新たな俺が見参する。
「……追い込まれてからが本番っちゅうわけやな。……美しいなァ。闇にも映える艶やかな漆黒の(かぶと)。……血ぃで染め抜いたような禍々(まがまが)しさやわ」
 火群は恍惚としていた。
 奴が見蕩(みと)れる(おの)が身体というものを、自分でもまじまじと観察する。
 鍛錬の日々は、決して裏切らぬ形で結実していた。隆々としつつも撓柔(しなやか)な筋肉が、肩、胸、腰、脚と均整に配置されている。目深に被った重い兜にも体幹がぐらつかないのは、首の筋肉が発達したからだろう。
 初めて進化したとき、突如高くなった目線と骨格の変わりように、脳が酷く混乱した。しかし今は――さらに骨柄(こつがら)の変遷が著しいというのに、進化酔いは皆無だ。脳もまた隅々まで冴え渡っていて、それによりもたらされた分析的な観察眼のために、地に四つ足がついている。
 先ほどまで抱いていた不安や(おそ)れは、光と共に発散してしまったようだった。
「……いざ参る」
 左前脚(うで)、右前脚(うで)それぞれの(さや)に収められた刀を抜く。
 歪んだ刀身に刻まれた稲妻のごとし緋色(あか)
「見せてみぃ……その肉体に宿る技が如何程(ナンボ)のモンか!」
 火群が吼え、空気が焦げついた。紫色の鬼火が夜空に散らばる。二度目でも慣れるものではない。圧巻の一言に尽きる。それでも。
(百余り八つ、か。先ほどまでは手数すら判らなかった)
 時の流れが遅い。次々と襲い来る燐火を薙ぎ払う。腰の捻転と必要最低限の足捌き。一切の砂埃を舞わせず、二振りの刀で止むことのない攻撃を斬り続けた。
 最後の火を斬る。闇がはらりと落ちてきた。
「……はは、魂消(たまげ)た。全部捌き切りよった」
 涼しい顔をしていたはずの火群の顔つきが変わる。
「秘剣――千重波(ちえなみ)!」
 足運びは縮地に用いる要領で。だが、一直線には詰めない。
 翻弄に翻弄を重ね、常に相手の死角から刀を振り続ける。
 火群は攻撃をいなし続ける。会心の一撃は当たらない。それでも、火群に少しずつ傷が増えていく。
 一瞬、距離を取る。次の一手に進むための空隙。
 火群の火炎放射が程なく飛んできた。
 属性有利といえど、喰らえば軽い損傷では済まない。
 頭を下げ、火炎の下に潜り込んで距離を詰めた。
 俺が死角を取ることを火群は読む。誘き寄せるための火炎だ。蹴りが飛んでくる。
 それを俺は見通していた。詰めたのは――火群の真横。
「ぐあ……!」
 横っ腹に一閃。紅が飛び散る。
 このまま、殺す。もう二撃で終わる。
「死ね、火群」
 振りかぶる。恨みがましい深紅の目。映るは、紫火に照らされた己の顔。
 ――高揚する。これが彼岸に足を踏み入れた心持ちというのなら。成程(なるほど)、存外悪いものではない。
(さらば……、!?)
 ――朽葉色の矢羽根。刀を持つ俺の右手に。痺れ。何故。――斑葉(いさは)
 さらに二本、矢羽根が刺さる。右足、そして左肩に。
 激痛が走る。刀を振り下ろせない。羽交い締めにされる。
「やれ、兄者」
「おーきに、斑葉」
 どういうことだ。ふざけるな。こんな終わりなど。俺は火群を殺さねばならないのに。
 二振りの漆黒の刀が、手から滑り落ちる。
「お前もかァ! 斑葉ァ!?」
 俺を締め上げる力が一段と強まった。骨が、軋む。
「……堪忍な、水門くん」
 火群の口が大きく開き――俺の右肩に噛みついた。




  ◇◇◇



「……ごちそーさん」

 俺は尻餅をついて、中空を見つめていた。
 永遠を逍遙(しょうよう)したような気分――実際には、一秒にも満たない時間だった。
 俺は、火群に何かを吸い取られた。
 火群は両手を合わせ、ぶつぶつと不明瞭な言葉を唱えた。拡げた手のひらには三つ、ささやかな光を放つ青紫色の珠が浮かんでいた。
 それらはゆっくりと、桟橋の向こうへとふわふわと飛んでいき、わずかの間だけ留まる素振りを見せたのち、(くら)い海原へと消えていった。

「さて」
 火群(ほむら)斑葉(いさは)が並び立ち、座り込んでいる俺を見下ろしている。火群は穏やかな顔で、斑葉は険のある顔をしていた。 
 火群の左腹には、深々とした切創から赤黒い血が溢れている。
「兄貴……!」
 火群が左手で俺を制する。
「ええからええから。それよか、どや、水門くん。気分悪ぅないか?」
「気分……?」
 当然、戦いで体中が傷だらけだった。にもかかわらず、五臓六腑が清浄な水で清められたかのごとく軽い。寝不足により霞がかっていた頭は、すっきりとしていた。
 まるで、憑き物がが落ちたかのように。
「この(うつ)け者めッ!」
 斑葉に突如として喝破され、俺は()け反った。紅葉色の笠から覗く金色の目はおどろおどろしく見開いており、俺は思わず伸びた体を屈めた。
「こらこら斑葉くん……水門くんに悪気はなかったんや。あんまり虐めんといて。な?」
「兄者も兄者だ。もっと他に良い方法はなかったのか? 弟にまた(しかばね)を作らせる気か! それも身内の!」
「そないなことにはならへんよぉ。本当に斑葉くんは心配性やなァ」
 斑葉はきっと火群を睨みつけるが、火群はまったく意に介さない。
「腹を斬られておいてよく言う。……残るぞ、その傷は」
「むしろ貫禄(ハク)がつくやろ。丁度ええわ」
 状況が上手く飲み込めていない。ただ、俺が大きな思い違いをしているということだけを、朧げながら理解する。
「……まだ何が起こったのか解らんっちゅー顔しとる。案外鈍いなあ、水門くんは」
 へらへらと笑いながらしゃがみ込む火群は、俺の兜にすっと右手を伸ばした。
(この手は……)
 在りし日、主に同行したいと駄々をこねた幼き俺を優しく諫めた前足()
「君、殺めてしもた奴らにずうーっと憑かれとったんやで?」
 火群は、俺の頭を撫でながら諭すように言った。
「そらちょっとばかし盗み働いたぐらいで、全身ずたずたに斬り裂かれて死んだんや。恨みは深いなんてもんやないわな……。見事悪霊と成り果てて、君に取り憑いたんや。君の骨髄にまで染み込んでしもたもんやから、引きずり出すンは流石のわいでも骨が折れたわ」
 俺は口をぱくぱくとさせながら、斑葉と火群を交互に見た。
「せやから、一芝居打たせてもらったというわけや。君に本気の殺意を向けさせれば、(やっこ)さんたちもわいのこと殺そ思うて出てきよるんやないかなァって」
「では、狂うとか、彼岸とか……火群の言っていた訳の解らないことは……」
「ぜぇーんぶ虚言(ウソ)や! はっはっは!」
 体の力がすべて抜け落ちて、後方に倒れ込んだ。俺はずっと火群の手のひらの上で転がされていたらしい。
「俺は……虚け者だ……」
「その通りだ、水門」
 険しい表情を一切崩さない斑葉は、言葉もまた手厳しいものだった。
「無闇な殺生は己が身を滅ぼすと知れ」
「……諒解した」
 俺は息を深く吐く。体調は良くなれども、心の内にはなおも(おり)が積もっていく。()し取るには、己を正面から見つめ直すほかないのだろう。
「それから、お前が命を奪った者たちを近々に荼毘(だび)に付す。不参は許さんぞ。兄者もだ」
 斑葉の刺すような視線が、俺から火群へと移る。
「荼毘? 要らんやろ。わいがさっき成仏させたさかい、そないな無駄な――」
「吾は手続きの話をしているッ! 壽村(コトブキムラ)、ひいてはヒスイに平穏を取り戻すためのッ!」
 わざとらしく大欠伸をした火群が大音声(だいおんじょう)に飛び上がり、「せ、せやな……」と怯んで俺に目配せをした。
「……兄貴、俺にもう気を遣うな。斑葉の言う通りにするし、罪も償う」
 ぎろりと睨めつけてくる斑葉の目を真っ直ぐに見返す。ややあって、黄金色の瞳に影が差した。
「吾にも……お前のことをしっかりと見てやれなかった責任がある。……無論、兄者にもな」

 斑葉は始まりの浜を辞し、俺と火群、ふたりだけが残された。
 火群の横顔を見る。戦っていたときとはまるで別人で、幾ら偽装(ウソ)だといえど、様変わりするにも程がある。――差し延べた手がどれだけ温くとも、やはり遠い存在なのだろう。
「……水門」
「なんだ、兄貴」
 火群は流し目で俺を捉える。瞳に映る俺は、随分と腑抜けた顔をしていた。
「ヒスイは、異世界から人間(さら)ってくる頭のイカれた神さんの御在(おわ)す土地や。神さんがおかしいんやから、わいらもちょっとぐらい狂ったり間違うたりしてもええと思うんや」
 浮かべた鬼火を手遊(てすさ)びながら、火群は独り言のように言う。
「道を誤ってしもても、また戻ってこられればええ。なんせここは、道に逸れてばかりのはぐれ者が、最後に居着く土地やからな」
 ほな、帰るで――と、火群は、まだ血の滴る脇腹を押さえながら、ゆっくりと歩いていった。
 そして俺は、火群の背を、幾つもの青白い鬼火がふらふらとついていくのを見た。


『引導を渡してほしいんや』


 全部虚言(ウソ)ということすら、狂言(ウソ)であるならば。
「……兄貴」
 やはり、『兄ちゃん』とは呼べそうになかった。









呪詛


 決して、主人が判断を誤ったわけではない。無論、俺もしくじったわけではない。水門(みなと)斑葉(いさは)に至っては、主人の命じた通り後ろに控えていただけで、何も悪いところはなかった。
 強いて言えば、運が悪かった。ヒスイに生きる上で、受け入れていくことしかできないものは幾つもあるが、その一つは天運かもしれなかった。

『火群、電光石火!』
 主人の指示は、非常に的確だった。相手の油断を誘ったり、隙を突いたりするのが抜群に上手い。俺の攻撃を受ける瞬間の驚愕の表情が、それを如実に物語っていた。それは、唄にぴったりと合いの手を差し入れるように小気味よく、俺は実力以上の力を発揮させられるような気分でいた。
 他の隊員ではこうはいかない。自分で判断して攻撃していたほうがまだましではないかと思うほどだった。
 相手は、しかし、粘り強かった。黒曜の原野で調査任務に当たっていた俺たちは、一匹のコリンクと対峙していた。
(とんでもない奴やな)
 十分に体力を減らしているはずだが、主人が投げたボールにはなかなか入らない。技のキレもまったく衰えていない。未進化体でこの潜在能力は、恐らく主人の目に魅力的に映った。
 倒しきってからの捕獲は、団則で禁じられている。瀕死の状態のポケモンにボールを当てると、ボールに吸い込まれたときの衝撃で命を落とすことがあるのだ。だから、コリンクにこれ以上の攻撃はぶつけることはできなかった。
 コリンクは蹌踉(よろ)めきつつ、なおもしっかりと四つ足で踏み留まり、歯を剥き出しにして唸り声を上げる。
(ヒスイは厳しい、か……)
 村の人間がたびたび口にする言葉だった。他の地方から入植してきた人々は、ヒスイの気候風土やポケモン、土着の人間の態度をそう評するきらいがある。
 あまり実感を伴う言葉ではなかったが、今を以ってそれは正しいと言わざるを得ない。このコリンクは、ヒスイの化身ともいうべき威風を備えている。
 主人がボールを投げる。コリンクがそれを容易く尻尾で弾く。彼がまとう雷はばちりばちりと空気を打ち鳴らして、黒曜の原野に棲む大人しい野良共が飛んで逃げていく。
 主人の腰のポーチをちらりと見やる。任務の前には大きく膨らんでいたそれは、今やほとんど潰れてしまっている。捕獲できようができまいが、ボールが無くなれば撤退を余儀なくされる。小さい斑葉と幼い水門は、ことの成り行きを主人の後ろで不安そうに見つめていた。
『火群、火の粉!』
 当てるつもりはない。コリンクに、攻撃するべき対象はボールを投げ続ける主人ではないことを知らしめるための威嚇射撃。こちらに向かってくれば、主人はコリンクの背中を取れる。
(……来ない?)
 即時に反撃に転じてくるだろうという予想が外れる。
 一瞬の間。不穏な静謐。――彼の牙に、電流が流れる。
神鳴(かみなり)の牙!?)
 今の今まで、そのような技は使ってこなかった。隠していた――否、この土壇場で習得したのだ。
 渾身の力を振り絞り、地面を蹴り来る彼はもはや(いかづち)そのもので、俺が完全に(かわ)しきる猶予はなかった。致命傷だけは避けねばと、体勢を低くしつつ半身(はんみ)でいなそうとする。
 しかし、雷の化身は、轟音とともに俺の横をすり抜けた。狙いは――俺の斜め後ろに構えていた主人。
「ちっ!」
 コリンクが跳ぶ。神鳴の牙で、主人に襲いかかる。俺は火の粉を吐く。
 間に合え。――跳躍が高い。それでは主人を飛び越えてしまう。
(まさか!?)
 狙いは主人ではなかった。コリンクが主人の頭上を通り過ぎた先に、俺の弟たちがいる。
 不意打ち。斑葉が、逃げ遅れていた。
 雷の牙が、(ふくろう)の翼を貫く。
「斑葉ァ!!」
 鮮血が、黒曜の原野のど真ん中で、悲痛な絶叫とともに舞い散った。


  ◇◇◇


 遡ること二ヶ月前。
浅葱村(アサギムラ)()って三週間……か)
 帆船で揺られて一週間、ヒスイの地に立ち二週間。浅葱村で生活していたことが、遠い昔のようだ。
『ここにいたのですか。危ないですよ』
 桟橋の尖端に立ち尽くす俺に、色黒の男が手を差し伸べる。
 触るな、と俺は背中から火を噴いた。あち、と情けない声で手を引っ込めた男は、とにかく落ちないでくださいね、と猫撫で声で去っていった。俺をここに連れてきた張本人のくせに。気安く話しかけられる筋合いはない。
(また浅葱村に戻れるんやろか。父さんも旦那も、何も教えてくれへんかった)
 父と兄弟、そして俺は炭焼きの家に飼われていた。旦那の炭焼きを朝から夕まで手伝い、飢えはしないが余裕があるわけでもない、慎ましい生活を送っていた。
(……口減らしなら、もう二度と戻られへんな)
 小さな炭焼き職人が、自分の家族に加えてバクフーン一匹とヒノアラシ四匹を養うのは、確かに無理があったのかもしれない。父ひとりで炭焼きの手伝いと山から時折下りてくる野良の露払いは事足りており、あとは父が死んだときに役目を継ぐ子が一匹いれば十分だ。
 他所の家に出されることは、よくある話だ。兄弟全員が、いつかばらばらになることを理解していた。
 だが――海の向こうとあっては、再会も望めない。
(なんで、俺が。出来は悪うなかったはずやのに)
 柄ではないと思いながらも、父さんの大きな背中を追うのは(やぶさ)かではなかった。怒ると吊り上がる鋭い目つきと、背中から噴き出す激しい炎に憧憬を抱いて過ごす日々は、満ち足りていた。
 兄弟も、お互い喧嘩ばかりしていたが、決して嫌いではなかった。父さんと旦那に褒められたい一心だったのは皆同じで、道を別つ日が来ると知っていても絆は確かにあった。
 それも、やはり仮初めだったのだろうか。俺を見送る兄弟の「俺やのうてよかった」という表情は、思い返せば思い返すほど忌々しい。父さんは――息子がひとりいなくなるというのに、表情一つ変えなかった。
 心に充ち満ちていたものが大きく欠けて無くなり、厭なものが侵入(はい)り込む。
(……恨めしい)
 誰でもいいから祟ってやりたいと、霊属性(ゴーストタイプ)さながらに思う。壽村(コトブキムラ)のみすぼらしい家々を焼いて回ってやろうかとも思う。
火群(ほむら)お兄ちゃん!」
「あ?」
 桟橋のたもとから、とてとてと走ってくる水色の小さな海獺(らっこ)。腹に張りつけた貝を後生大事そうに持っていた。ミジュマルという種で、名を水門(みなと)という。俺と同じ帆船に乗って、はるばるヒスイまでやってきたポケモンだった。
「はい、あげる」
 水門が差し出してきたのは、()り硝子のように清澄さを欠いた小さい玉。
「……飴玉?」
「うん。飴屋のおじちゃんがくれた」
「なんで俺に」
「だって、ずっと元気なかったから」
 俺はむっとする。同舟しただけの、付き合いの浅い奴に心配される謂れはなかった。
「……余計なお世話や。っちゅーか何やねん、火群お兄ちゃんって。俺がいつお前の兄貴になったんや。年もほとんど一緒やろ」
「でも博士が、俺たち三匹で兄弟だって」
 俺と水門のほかに、同じ船に乗ってきた斑葉(いさは)という梟がいる。年の頃は俺や水門とほぼ変わらない。いつものんべんだらりと日向ぼっこをしているか、寝ているかしている。
 俺はわざとらしく大きなため息をついた。
「あのなあ、あないな阿呆陀羅(あほんだら)()うことなんぞ真に受ける必要あれへん。君もええ迷惑やろ。だいたい、それやと俺が兄になる理由になってへんやん。君でも斑葉でもええやんか」
 水門が、貝を両手でぎゅっと握りしめる。そして、ぶるぶると身震いしたかと思うと――目に大粒の涙を浮かべ始めた。
「おまっ……おいおい泣くことないやろ! どないしたんやホンマに! そないに俺にお兄ちゃんになってほしいんか?」
「……うん」
 俺に執着する理由がまったく思い浮かばず困惑するが、水門の嗚咽が止むまでしばし待つ。程なくして、俺の弟志望は、涙を拭いながら訥々(とつとつ)と言葉を紡ぎ始めた。
「ヒスイの人たち……博士以外はなんだか冷たいし、全然仲良くしてくれない。村にいるポケモンも、よそよそしくて……俺、なんでここにいるんだろうって……いつも泣きそうになるんだ」
 水門の言う通り、ここの人間はあまり友好的ではない。人間の仕事を手伝いながら共に生活をするという、浅葱村にあった関係性をヒスイで築くのは、まるで想像がつかない。
「斑葉も、いつも夜になると部屋の隅っこで泣いてる。寂しがり屋なんだ」
「……あいつもなンか」
 あの怠惰そうな梟にもそのような面があったとは。あの覇気の欠如は、単純に元気がなかったからなのかもしれない。
「でも……火群だけは、泣き虫じゃない」
 嗚呼、と得心して空を仰いだ。
「寂しいし、辛いことばっかりだけど、火群が泣かずに踏ん張ってるから、俺も斑葉も頑張ろうって気になれるんだ」
 俺は、形容しがたい感情に心が支配されるのを感じた。水門も斑葉も、俺を誤解している。俺はお前たちが思うほど前向きな気持ちでは生きていない。一方的にヒスイに送り出された恨みつらみを支えに、俺はここに立っている。
 清廉(せいれん)すぎるのだ、水門も斑葉も。不可抗力で連れてこられたのなら、誰かや運命を恨むほうがずっと楽だろう。
(疎ましい。せやけど……羨ましい)
 癪に障る。こいつらが俺の上に立つぐらいだったら、俺が兄役を引き受けたほうが遙かにましだ。
「……ええで、お兄ちゃんやったっても」
 下らない兄弟ごっこに興じることでこいつらが鬱陶しい泣き言を零さなくなるのなら、別にそれでいい。
 水門は呆れるぐらいに喜んで、「斑葉に伝えてくる!」と、はしゃぎながら始まりの浜を去った。
(おめでたいやっちゃな……)
 俺に蔑まれていることに微塵も気づかない。愚かで、浅はかで、意気地がなく、放っておけばいつかヒスイの地に飲み込まれて(うしな)われるようなちっぽけな命。
 ――だからこそ、だったのかもしれない。ふたりは、どこまでも透き通る光で、純真そのものだった。
 所詮弟役でしかなかったふたりを、本当の弟のように思ってしまう日が来たのは、俺の心の隙が生み出した完全なる誤算だった。


  ◇◇◇


 地獄のような光景だった。コリンクが斑葉の翼に神鳴の牙で噛みつき、引き千切ろうとしている。コリンクが首を振るたびに、斑葉はおよそその小さな嘴から出てきたとは思えない悲鳴を上げ、血塗れになっていく。
 主人も水門も、恐ろしい形相のコリンクに手出しができず、立ち尽くす。それはわずか数秒の時間ではあったが、斑葉に致命的な損傷を与える逡巡であった。
 斑葉の顔が、蒼褪(あおざ)めていく。翼が、切断されそうになる。
(斑葉が、死ぬ)
 そう認識した途端、俺の体は、かつてないほどの熱を帯びた。怒り、それから、明確な殺意。
 地面を蹴る。
 跳びかかると同時に、肺が破裂しそうになるくらいに一瞬で息を吸う。炎袋が煮え滾った。
「俺の弟に触ンなやッ!!」
 黒曜の原野に、業火が轟いた。
 その炎は、ヒノアラシである俺が扱うにはあまりにも巨大で、高温だった。撃った俺自身が反動で炎に包まれてもおかしくなかった。
「ぎゃああああ!!」
 まさしく断末魔の叫びだった。コリンクの横っ面を、高温の火球が引っ(ぱた)く。斑葉の体を巻き込まなかったのは奇跡に近い。我を忘れた俺の照準が少しでもズレていたら、斑葉のほうが葬られていた。
 斑葉を離したコリンクは炎に包まれ、ふらついている。焼けゆく顔と、なお憤怒に戦慄(わなな)く眼光がこちらを向いた。絶叫しながら向かってくる。もはや悪鬼と化した獣に、俺は怯んだ。
『火群、電光石火!』
 主人の涙声の指示で、硬直した体が動いた。低い体勢から、相手の懐に体を激突させる。唸って吹き飛んだコリンクが仰向けに倒れたところに、さらに飛び込んだ。
「死にさらせ」
 炎袋で生成されたすべての熱を、瀕死のコリンクの顔面に撃った。
 俺が初めて、ポケモンを殺めた瞬間だった。

『斑葉、しっかりしてっ!』
 主人が涙を零しながら、気を失った斑葉の体を抱え込む。右の翼は根元から千切れかけ、見るも無残な有り様だった。
 水門は過呼吸を起こし、とても立っていられないような状態だったが、ベースキャンプへ走って行いく主人の後を泣きながらついていった。
「斑葉……」
 俺は駆けていく主人や水門を追わず、その場で茫然自失としていた。声を発することすらままない焼けた喉で、ずっと斑葉の名を呟き続けた。
「堪忍な……」
 俺がもっと機転を利かせていれば。油断は――したつもりは毛頭ないが、結局どこかに隙があったからこんなことになってしまった。
 すまない。すまない、斑葉。どうか、許してくれ。
〈呪ってやる〉
 息が止まる。体が、まるで純白の凍土に打ち棄てられたかのように冷たくなった。
 物言わぬ焼けた遺骸が、ぽっかりと空いた眼窩で俺を見上げている。そして――未だ燻っている動かないはずのそれは、俺に向かって言ったのだ。
「呪ってやる」
 俺は、ついに己の気が()れたのかと、思わず瞠目(どうもく)した。目を擦って、もう一度遺骸の顔を()っと見つめた。
 それは、やはり口を開いて、呪いの言葉を吐いた。
 俺は斑葉のように顔を蒼褪めさせ、逃げるようにその場を後にする。走っても走っても、背中に視線がじっとりとまとわりついてくるような気がした。
 その日を境に――俺の臓腑に、厭なものがいっそう堆積するようになった。








無明


 秋の壽村(コトブキムラ)の畑で、畑作隊の人間たちが汗水を垂らして土を掘り返している。その傍らで男児が三人、大人の仕事を手伝うこともなく、裸足で追いかけっこをしていた。彼らは兄弟だった。
(最後に三匹で転げ回ったのは、いつだっただろうか)
 兄と弟を想う。血の繋がりはない。ヒスイの地で、兄弟の契りを結んだ。火鼠(ひねずみ)が兄、海獺(らっこ)が弟、(ふくろう)の俺は真ん中ということになった。
 あれからどれほどの月日が流れただろうか。
 同じ一歩を踏み出してから今に至るまで、変わったもの、変わり過ぎたもの、そして変わらなかったもの。
 
 ある晴れた日、空から一人の人間が、文字通り青天の霹靂(へきれき)を伴って落ちてきた。紆余曲折を経て、その人が俺たち兄弟の主人となった。
 与えられた役割は、主人の調査任務に随行し、協力すること。主人の調査隊への加入は、結果がなかなか出せていなかった調査隊に一筋の光明を差し込んだ。
 それは同時に、姿形は異なれど歩く速さも選ぶ道も概して変わらなかった俺たちの歩みを、少しずつ(たが)えさせた。
 原因の一端が主人にあるのは明らかだった。愛情は平等だったが、厳しさは平等ではなかった。
 主人は俺たちと出会ったその瞬間から、神懸かった目で火群(ほむら)の才覚を見抜き、徹底的に鍛え上げた。俺と水門(みなと)が蔑ろにされたわけではない。兄弟まとめて稽古をつけてもらっても、水門は早々に脱落、俺も大して粘ることはできず、最後まで涼しい顔で耐え抜くの火群だけだった。主人が火群を優先する正当な理由を、これでもかというほど心に刻みつけられた。
 そして、思い返すのも(はばか)られるあの忌まわしき出来事。

 主人と兄弟で囲う囲炉裏(いろり)の火が、ちろちろと揺れている。火群の熾烈(しれつ)な火炎と比してなんと弱々しいことか。
 俺と水門に先んじてマグマラシに進化していた火群は、静かに芋餅(イモモチ)を頬張っている。水門は物思いに(ふけ)る俺とは対称的に、頭を空っぽにしたまま異常な速度で芋餅を飲み込んでいく。
「喉に詰まらすなよ」
 火群が咎めるも、ふぁい、と空返事の水門。主人が皿ごと芋餅を取り上げたことで、ようやく暴食が止まる。
斑葉(いさは)はそれだと足りひんやろ」
 火群が目を移した俺の皿には、小食だからと主人が気を遣って半分に切った芋餅が、一口だけ(ついば)まれた状態で放置されている。
「お腹が空かない」
 言い訳するように身を屈める。実際、腹は減っていない。主人と火群が黒曜の原野に調査に行っている間、俺は囲炉裏の前から一歩も動かなかったのだから。
 水門は留守番中、警備隊隊長に稽古をつけてもらっていた。俺は怠け者の(そし)りを免れ得ない。
 主人は勘が良い。俺が稽古をサボったことなど、隊長に()かずとも判るだろう。火群だってそうだ。にもかかわらず、俺を責めるようなことはしない。水門も、俺が稽古をすっぽかしても、いちいち告げ口しなかった。
 それが(かえ)って居心地悪い。あの事件以降、俺には誰も期待していないのだと痛感した。
 実際、調査任務に同行したところで、俺の存在が必要不可欠だったことだと一度たりともなかった。新しい成果を持って帰るのは決まって火群だったし、ごく稀に水門も活躍した。
 (ほの)明るい部屋で、主人と水門の「ご馳走様でした」が快活に響いた。

 灯りが消えた真っ暗な部屋の中、平べったい布団の安っぽい温もりを被って、俺はがたがたと震えてた。調査隊隊長が「タダ飯を食う輩など不要」と宣っていたが、人間のみを対象とした言葉ではないことは否が応でも解る。
(俺はいつか追い出される。絶対に)
 主人の寝息は静かだ。調査団として十二分に成果を上げており、少なくとも衣食住においては今後も心配することはない。奇天烈(きてれつ)な身の上でありながら、持ち前の才気と図太さで誰にも侵されない居場所を得ている。
「うぅ……」
 近い将来、俺はきっと野生に帰される。狩りもままならぬまま、弱きは即時に淘汰される厳しいヒスイの地に放たれる。
 怖い。持たざる者が迎える運命は(ろく)なものではない。
(今ここで、(くび)を折ってもらったほうがずっと楽になれる)
斑葉(いさは)、泣いとるん?」
 息を潜めた声に、俺は目を見開く。俺の丸い体を、兄は背中から包み込んでいた。
 いつの間に。恥ずかしい。ひっそりと外に出て泣くべきだった。
「辛いんか? それとも寂しい?」
「……痛い」
「どこが痛むんや」
「……体の真ん中。あと……右の翼」
 鬱屈した気分になると、いつも体の芯が痛んだ。中心で小さく脈動してる物が、ぎゅっと握り潰されているような耐え難い痛み。
 そして、半年前の忌まわしき日が、鮮明に想起される。千切れかけた翼。飛び散る血。取り乱す水門の叫び声。
(アローラなら、もっと平和に生きられたのだろうか)
「故郷に帰りたいんか?」
 体を強張らせる。どれだけ弱気になっても、涙を見せても、兄弟の前でそのような弱音を吐いたことはなかった。俺が比較的安全な任務を任される一方、兄は命が危険に曝されるような最前線で戦っている。
 そんな兄が、俺の心を完全に見透かしている。
 ――消えて無くなりたい。兄に守られている立場でありながら帰郷を望むなど、到底許されることではない。俺が兄の立場だったら、情けない弟に失望するところだ。
「俺も同じや」
「え……」
 思わず耳を疑った。
「俺もずぅーっと、浅葱(アサギ)に帰りたい思うとるんよ」
 初めて耳にする兄の本音に、俺は激しく動揺した。傷の残る翼がじくじくと痛んで、呼吸が浅くなった。
「野良はどいつもこいつも野蛮やし、(さぶ)ぅて堪らんし、芋餅はええ加減飽いてきたし……あかんな、帰りたい理由がなんぼでも思いついてまう」
 兄は自嘲気味に笑うが、俺はまったく笑えなかった。火群には親も兄弟もいた。天涯孤独だった俺と違って、故郷を想う気持ちはずっと強いだろう。
 視野が狭窄し、火群の事情など露ほども考えてこなかった自分を恥じる。
「せやけどな……最近はヒスイで頑張るのも案外悪ないなって思うようになったんや。……何でや思う?」
「……分からないよ」
「……ヒスイで大切な弟たちができたさかい、張り合いがあるんや」
 大切? 水門はともかく、俺のような出来損ないが?
「斑葉……お前は偉い。翼裂かれて死にかけて、ほんまに怖い思いをしたやろうに、任務にも復帰して、稽古もつけてもろて、泣き言一つ言わず踏ん張っとるやんか」
 俺を抱きすくめる前脚が、ぽかぽかと温かい。
「斑葉、俺はいつかお前と並んで戦う日を夢見とる。もちろん、水門も一緒に」
 息が詰まる。俺には無理だ。火群が期待するような姿にはなれない。言葉を継ごうとして、(くちばし)だけがぱくぱくと動いて、辛うじて掠れた声が出た。
「でも、今日、俺……」
「稽古すっぽかしたんやろ? まあ、そないな気分になる日もあるやろ。大したことあらへんよ」
 本当は、訓練場に行きたかった。だが、翼の痛みがぶり返して――翼を咬み千切った、コリンクの(おぞ)ましい顔が脳裏で強く明滅して、居室から動けなくなってしまった。
「……辛かったら泣けばええ」
 兄の柔らかな声かけが引き金となり、涙が止まらなくなっていた。
「ゆっくりでええんや、斑葉。なんも焦ることあらへん。歩く速度はみんなそれぞれや」
 兄の前足()は、どこまでも太陽のにおいがした。
「兄ちゃんは斑葉のこと、絶対に見捨てへん。いつか一緒に並んで戦おうな」


  ◇◇◇


 在りし日の記憶。
 俺が今まで踏ん張ってこられたのは、兄の言葉があったからだ。(しば)れる大地がどれほど我が身を痛めつけようと、兄の温もりを芯に抱けば、己を奮い立てるのは容易かった。
 ――その兄に、もう昔日(せきじつ)の面影は見いだせない。


  ◇◇◇


 始まりの浜の桟橋の尖端に立ち、鉛色の雲が重く立ち込めている空を見上げている。冷たく湿った風は羽根の隙間に這入り込んで、海がじきに時化(しけ)ることを予報した。
「危ないでぇ。そないなとこ立っとると」
 茶化すような、嘲るような、耳障りな調子の声が後方から聞こえてきた。
(われ)に何か用か、兄者」
 声音に含ませた棘を、火群は意に介す様子もない。
「用も何も、弟の最終進化を祝わん兄がどこにいるんや」
 火群の首回りから出ずる紫炎は、俺をおちょくるように揺らめいている。へらへらと嗤う火群は、(まか)り間違っても俺の進化を喜んでいるようには見えなかった。
「よう会わんうちに喋り方まで変わってしもて……。嫌かぁ? お兄ちゃんに祝われるンは」
 先日、水門がフタチマルに進化した際に、芋蔓亭の主人が祝いと称して味つけの凝った芋餅を振る舞った。はしゃぐ水門をしようのない奴だ、と俺は斜に構えて見ていたが、フクスローに進化したときに同様に騒いでいた自分を重ねずにはいられなかった。
 ――嬉しいに決まっているではないか。俺をずっと見守ってくれていた主人や壽村の人々を、これで少しは安心させられるのだから。
 本当は、紅蓮の湿地から帰ってきて、すぐにでも園生(ソノオ)通りを堂々と練り歩いてみせたかった。だが、今日は火群が非番のために壽村にいると知って、そんな気分は失せてしまった。
 火群だけには、祝われたくない。この姿になったのは、主人や水門、壽村の人々、そして自分自身のためであり、断じて火群のためなどではない。だから、火群を避けたくて始まりの浜で徒然としていたのに、目敏(めざと)く発見されてしまった。
「まァ、別にええけどな。わいと違って、斑葉くんは進化したところでなぁんも変わらんやろし」
 猛烈に血が沸騰し始める。火群の脳天目掛けて矢羽根を射った。
「危ないなァ」
 火群は避けなかった。矢羽根は、荒い軌跡を描いて、火群の眉間を音もなく通過する。
(すり抜けた……!?)
「喧嘩は御法度……主人の言いつけも碌に守れんようになってしもたみたいやなぁ?」
 兄の呆れた顔は、俺の自尊心をひどく傷つける。俺に格闘属性(タイプ)が付与されていることを、兄は俺が知るよりも先に知っていた。化け物じみた洞察力。
「話変わるけど、二週間後に純白の凍土に調査行くらしいで。斑葉くんはどうするん? 群青の海岸は飽きてきたんとちゃう?」
 火の玉をふわふわと手遊(てすさ)びながら兄は(たず)ねる。
(俺が行こうが行くまいがどうでもいいと思っているくせに……!) 
 火群の冷たい虚ろな目は、決して俺を捉えやしない。
「ま、今の練度やと主人の許可は下りんやろけどな。主人のお眼鏡に適うよう鍛錬しとき。ほな」
 もう用はないと言わんばかりに兄は踵を返す。その後ろ姿を呼び止めることもできず、俺は無性に自らの羽根を毟り取りたい衝動に駆られ、しかしそれもまた詮無いことだと思い直した。
(……見返してやる!)
 二週間などあっという間だ。休んでいる暇はなかった。


  ◇◇◇


『いい加減休め。やり過ぎは却って良くないぞ』
 警備隊隊長の号令で、俺は半ば強制的に鍛錬を終了させられた。
(流石に堪えるな……)
 朝から警備隊の面々の相棒たちと、訓練場でずっと乱取りをしていた。体力が尽きたら木の実を貪り食い、再び立ち上がって乱取りを再開するということを繰り返す。昼餉(ひるげ)の時間までと決めていたが、太陽はとうの昔にてっぺんを通り過ぎていた。
 訓練場のど真ん中で大の字になって倒れていると、太陽に見知った影が覆い被さってくる。
斑葉兄(いさはにい)、進化おめでとう」
水門(みなと)……帰ってきていたのか」
 水門は数日前から調査隊隊員に連れられて、黒曜の原野を泊まり込みで調査していた。
 弟に情けない姿は見せられまいと、俺はすっくと立ち上がる。昨日までは目線が同じ高さであったはずなのに、今や見下ろしているのは不思議な感覚だ。
(……火群は俺と目線の高さが(いつ)になったとき、このような感慨を抱いたのだろうか)
「斑葉兄?」
 はっとして、水門の目を見る。壽村を貫く川の水のように、穢れのない目をしている。
「すまない、少し考え事をしていた」
「疲れてるんだろ? はい、これ」
 水門に手渡された、半透明の小さなガラス玉のようなもの。太陽光をうっすらと吸収して、底が光っている。
「……飴?」
「飴屋のおじさんがくれた」
「相変わらず飴屋は水門に甘いな」
「……進化祝いだよ」
 しまったな、と頭を掻く。ありがとうと言いながら、むくれた水門の頭を撫でて誤魔化した。弟はミジュマルだった頃とは打って変わって落ち着いており、妙なところで気が利くようになった。
「調査隊の人が言ってたんだけど……斑葉兄、純白の凍土に行くのか?」
「その許可が下りるよう頑張っている。……草属性(タイプ)にはことさらに厳しい場所だからな」
「いいなあ。俺はまだ群青の海岸にすら行けない」
 うつむいた水門に、俺は膝を屈して目線を合わせた。
「水門、焦らなくていい。足並みはひとそれぞれだ。(われ)はいつまでも水門と肩を並べて調査に赴ける日を待っている」
 水門への激励は、火群が俺についぞ言うことのなくなった言葉。
 弟が再び瞼を持ち上げる。透き通った目が、朱い笠に隠れた俺の目を射通す。
「斑葉兄、なんか変わったね」
「……そうだろうか」
「うん。でも斑葉兄はやっぱり斑葉兄だなって思う」
 どういうことだと俺は首を傾げるも、水門はただにこやかに笑うだけだった。
(……俺が水門に先んじて進化すべきだったとは思わない)
 俺が兄弟順で二番目だったのは、優しい水門がその座を俺に譲ったからだ。決して水門が俺よりも劣っていたからではない。
 きっと水門は俺が手引きするまでもなく、すぐに隣に並び立つだろう。それは俺のくさくさとした心の内に灯る、希望の光だった。


  ◇◇◇


「……久方ぶりやな。相変わらず目の痛くなる白さやで」
 二日に渡る行軍の末に辿り着いた純白の凍土は、その名の通りどこまでも深い白を湛えていた。雪原と、それを囲う雪山。遠くでかすかに聞こえる滝の落ちる音。真っ青な空に、天籟(てんらい)がひゅるると鳴り響いた。
『早速準備しようか』
 主人が手を打ち鳴らし、ベースキャンプの設営が始まる。悠長に景色を思い巡らす時間はなかった。
(手足がかじかむ……)
 壽村のそれとはまるで違う空気の冷たさだった。少しでも体を動かして寒さを忘れようと、主人と二名の警備隊をあくせくと手伝う。一方の火群は、何もせずにぼうっと天空を見つめている。
「兄者、手伝わないのか」
「人手が多過ぎてもしゃーないやろ。時間かかるもんでもないし」
 にべもなく断る火群に苛立つも、主人が黙認しているのを見ると、これが普段の振る舞いなのだろう。俺がフクスローとなった頃にはすでに火群と同行することはなくなっており、兄である火群との距離感がもはや他人のそれに近似していたことを改めて思い知る。
(囲炉裏を皆で囲んだことも、兄弟同士で手合わせしたことも、遠い昔のことのようだ)
 兄弟の歩幅は最初から違っていたが、それでも火群がマグマラシに進化して数週間ほどは、なんとか互いの絆は千切れずに耐えていた。
 しかし、火群の中の温かな灯は、ヒスイの寒風に曝され続け、いつの間にか潰えていた。
(……思い出した。俺が兄からの祝福を喜べなかった理由)


 兄の最終進化は、群青の海岸に滞在していた主人から銀河(ギンガ)団本部に宛てられた伝書ムックルにより報された。喜ばしい内容だったのにもかかわらず一騒ぎになったのは、火群が行方知れずになったことが記されていたからだ。
 団長の一声によりすぐさま捜索隊が編成され、群青の海岸に向け出立した。だが捜索隊が到着した頃に、火群はひょっこりと姿を現したらしい。
 制御が利かないポケモンは、銀河団内では風当たりが厳しい。主人は厳重注意を受け、そして銀河団上層部は火群の処遇をどうするかで散々揉めた。しかし、火群の強さは団内でも十分に認知されており、調査隊に必要不可欠な戦力であることは疑いようがない。結局、主人以外に手懐けられる人間がいないことと、医療隊からの報告――火群の失踪は進化酔いにより一時的な心神喪失状態に陥ったことが原因であり、すでに落ち着きを取り戻している火群が再び同様の騒ぎを起こす可能性は極めて低い――により、火群は今まで通り調査隊として活動できることとなった。
 本部に預けられていた火群が自宅に帰ってきたとき、俺と水門で満面の笑顔で出迎えようとした。兄に降りかかった災難を労いたかったし、そして何よりも、ポケモンにとって最終進化を迎えることほどめでたいことはない。弟として、祝わずにはいられなかった。
 だが、叶わなかった。おめでとう、と言いかけたときに、火群の背中から禍々(まがまが)しい紫炎が噴き出し、深紅の双眸(そうぼう)がぎろりと俺たちを睨んだ。
「……くたびれた。わいは今から寝るさかい、起こさんといてや」
 そう言って火群は敷きっぱなしの布団に倒れ込み、俺たちからの接触を拒むかのように夢の世界へと落ちていった。
 兄は俺たち弟を置いて、どんどん先へ進んでいく。交わせる言葉が少なくなっていく。体も心のありようも変わっていく。
 その日は珍しく兄弟三匹が揃う日だった。だから、俺も水門も、兄と他愛ない会話ができるのを楽しみにしていたのだ。
「俺、火群兄ちゃんを怒らせちゃったのかな」
 泣きそうな声で呟いた水門を、俺は進化を経て少し大きくなった両翼で包み込んだ。
「たぶん、疲れてるんだ。そっとしておこう」
 水門を宥めながら、水門には俺という兄がいるのに、俺には同じことをしてくれる兄がもういなくなってしまったことを悟った。耐え難い喪失感だった。
 のちに、火群は通常のバクフーンとは異なった姿であることを博士から聞かされた。
 火群には本当の親兄弟がいた。まだヒノアラシだった時分に、一度だけそのような話をされた。思うところがあったのか、曇った表情を崩さなかったが、父親のような猛々しい姿への憧憬は隠しおおせていなかった。
(あの失踪事件は、進化酔いなどではなかった)
 兄は、本来なりたかった姿にはなれなかった。俺たちを睨んだ深紅の瞳には、絶望と憎悪が宿っていた。


『斑葉、岩砕き!』
 火群がオニゴーリの気を引き、こちらに背を向けた瞬間に飛び上がって踵落としを喰らわせる。(うめ)きながら地に墜ちるオニゴーリに、主人はハイパーボールを投げる。ごつんと音がして、オニゴーリはボールに吸収された。
『オニゴーリはこれで六匹目か。とりあえず目標達成かな』
 俺はほとんど肩で息をしていた。極寒の凍土と言えど、立て続けに三十匹ほど相手をさせられたゆえに、体は湯気が立つほどの熱を帯びていた。
 調査任務と並行して俺の経験値を上げるため、戦闘を行うのは常に俺で、火群は補助に徹した。
「ほーん、まあまあ戦えるやん。五、六匹で()ぇ上げるかと思ったわ」
「……うるさい、げほっ」
 肺に凍てつく空気が入り、むせ返る。今すぐにでも地べたに座り込んで休息したい。しかし、それを許してくれるほど主人は甘くない。火群に至っては、後方支援とはいえ長丁場をこなしたにもかかわらず大欠伸(おおあくび)をかます余裕ぶりで、俺だけが折れるわけにはいかなかった。
『もう少し先に行ってみようか』
 主人は肩から先を露出させているほど薄着だが、まるで寒さに堪えていない。気を抜けば体を震わせている俺とは大違いだ。
「元気やなあ、主人は」
 けらけらと笑いながら主人に追従する火群を、俺は後ろから睨みつける。
(どうしてこんなにも違うのだ……!)
 属性の関係上、寒さに体力を奪われやすいのだとしても、兄との差をまざまざと見せつけられているようで、心中穏やかではいられない。


 冷風吹きすさぶ極寒の荒地を、北東に突っ切る。めぼしいポケモンが見当たらないまま、積もった雪を蹴り歩く。
 背の低い椴松(とどまつ)の疎林に差しかかった頃、前を歩く主人と火群が足を止めた。
「あれは……」
 火群の視線の先。毛先の紅いざんばら髪が目立つ灰白色の獣がいた。数にして、およそ五、六匹。
 時折博士の図鑑を捲らせてもらえるが、あの獣は記録が十全ではなかったと記憶している。主人がまだ一匹しか捕獲していなかったため、博士の生態調査が進んでいないのだ。
(今回の遠征の成果になる!)
 蓄積した疲労を吹き飛ばすように、俺は体をいきり立たせた。調査隊のポケモンとして、そして主人のポケモンとして、ようやく大きな仕事ができる。
 だが、その思いは主人の驚くべき言葉とともに打ち砕かれた。
『……火群、斑葉。今日はもう終わりにしよう。ボールの数も心許(こころもと)なくなってきたし』
「なっ……」
 主人は――奇妙な嘘をついた。ポーチはまだぱんぱんで、捕獲用ボールの持ち合わせは十分にあるように思われた。
「……うん、撤退やな」
 火群も示し合わせたかのように、主人の言葉に従う。俺の(あずか)り知らぬ部分で連帯する兄と主人に、俺は強烈な不快感を覚えた。
「あの獣は捕獲数が足りていないだろう。日もまだまだ長いのに、なぜ撤退するのだ!」
 ふたりの前に立ちはだかり、哮(たけ)り立つ。主人は口を真一文字に結んで、何も言おうとしない。
「……主人に逆らうんか?」
 代わりに口を開いたのは兄だった。普段の兄ではあり得ない、どすの利いた声。
 俺は怯む。任務において、主人の命令は絶対だ。背くならば、銀河団追放をも覚悟しなければならない。
「正当な理由でなければ、吾は納得しかねる」
 断固として主張する。
 火群の深紅の瞳が、嗤った。
「たまには人の優しさに感謝せなあかんで、斑葉くん。……幾ら足手まといでも、死なれたら夢見が悪いからなァ」
 俺は、反射的に兄の胸ぐらの皮を掴んだ。
『斑葉っ!!』
 主人の怒号に、俺は()むなく手を離す。
『こんなところで喧嘩しないで。行くよ』
 ――悔しい。悔しい。悔しい。生まれて初めて、火群を殺してやりたいと思った。
 主人も主人だ。俺が頼りないならはっきりとそう言えばいいものを、嘘をついてまでいい顔をしようとする。
 強くなりたい。主人や兄が(かしず)くほどの、圧倒的な強さが欲しい。弱いから、俺はこんな惨めな思いばかりをする羽目になる。
 俺は、忸怩(じくじ)たる思いを抱えたまま、帰途についた。


  ◇◇◇


 雪原に山の影が落ちる。日が沈み始め、空は紫色に変遷し、星が瞬き始める。
 主人と火群、待機していた警備隊の二名、そして俺で焚き火を囲み、芋餅を食べる。主人は今日の戦果を報告していたが、俺は疲労困憊な上に、先の一件を思い返しては憤り、皆の会話などまるで耳に入らなかった。
(いや、こんなことで(いか)っている場合じゃない)
 滞在予定は三日間だ。今日は俺の経験値稼ぎに終始していたが、もともとは計百匹のポケモンを捕まえる計画だ。明日以降は今日以上に修羅道を歩まねばならない。
(……体力回復に全力で努めねば)
 俺はふらふらとした足取りで、テントに潜り込む。あと二日、この寒さと過酷さを耐え抜かなければならない。ようやく兄と同じく最終進化まで辿り着いたのだ。役立たずの烙印は、死んでも押されるわけにはいかない。
「なんやもう寝るんか」
「……ああ」
 虚弱体質ここに極まれり、とでも言いたげな兄の(あざけ)りに憤る気力は尽き果てて、俺は焚き火に当たる仲間たちに背を向けるように横になった。


  ◇◇◇


 目が覚める。(くら)い。何も見えない。――ここはテントの中か。まだ夜半だ。体に毛布が掛けられている。主人が掛けてくれたのか。主人は俺の横で寝息を立てている。
(火群の気配がない……?)
 体を起こす。主人の体を跨いで、テントの前幕を捲り上げ、外に這い出る。
(昼間とは桁違いに寒い)
 太陽を失った純白の凍土は、いよいよその牙を剥く。
 消えて久しい焚き火のそばに寄る。踏み固められほぼ氷と化している雪床に、鉤爪(かぎづめ)を食い込ませる。がたがたと震える体で北方を見渡そうとすると、存外に明るい空と、円かな太陰の輝きを受け仄白く光る雪原があった。
 ――火群の姿はどこにもない。
 あてもなく歩き始める。疲れは昨日より幾分かましになっていたが、筋は強張り、足取りは重い。まるで足首に訓練用の[rb:錘>おもり]]を巻かれているようだ。
(何をしているんだ、俺は)
 調査任務において、ポケモンは隊員の命令に従わなければならない。単独行動など(もっ)ての(ほか)だ。火群だけは調査任務での多大なる貢献が認められ、そして誰よりも主人に従順であることから特例で許可されているが、俺なんぞがこのようなことをしていたら銀河団団則による懲罰は免れない。
(……火群を連れ戻すためだ)
 たとえ特別扱いされている兄であろうと、休息するべき真夜中にテントを抜け出すことは承諾されていないはずだ。それに気づいたのなら、俺には連れ戻す義務がある、と誰に聞かれたわけでもないのに言い訳を垂れる。
 谷に突き当たる。主人が豪雪谷と呼んでいた、深い谷だ。雑念を振り払うべく猛然と走り、跳ぶ。翼を拡げて滑空し、向こう岸に着地する。白雪に紛れた野良の視線の幾つかを、ひしと感じる。
 戦っている暇はない。俺は未だ疲れの残る体に鞭打って、兄を捜すべく走り回る。
(どこだ、火群。どこにいる!)
 真夜中に雪原を疾駆する朱い鳥人は、端から見れば錯乱しているようにしか見えないだろう。俺自身も、なぜ団則を破ってまで必死に兄を捜そうとするのか、よく解っていなかった。兄が何を考えているのか知らないが、どうせ主人の目が覚める頃にはテントに戻っているに違いないのに。
(……ああ、そうか)
 走り回って邪念が(ほど)けるにつれ、中核にある己の真なる感情に触れる。
 俺はきっと、兄とふたりで話がしたいのだ。何歩も出遅れながら、曲がりなりにも兄の隣に立てた今ならば、兄はほんの少しでも腹の内を見せてくれるのではないかと思う。
 兄にあれだけ見下されながら、何を馬鹿なことをと思う自分がいる。手を伸ばすだけ無駄だと、俺を諭す俺もいる。だが、どれだけ浅はかでも、やはり俺は今でもあのときの言葉をまだ信じていた。
 兄はいつも遠くにいて、紫炎が(わび)しく揺れている。――どれだけ離れてしまっても俺たちは兄弟なのだから、俺は火群のほうへと一歩を踏み出さなければならない。水門も、火群に背を向けて久しいが、俺でも火群に並び立てると証明でいれば、きっと前を向けるはずだ。
(……っ! いた! 火群!)
 極寒の荒地を北東に抜ける。椴松(とどまつ)(まば)らに生え、夜はことさらに見通しが悪い。そのような闇の中でも、一際目立つ紫炎。昨日の夕方、主人に撤退を促された、灰白色のゾロアークたちが(たむろ)していた場所だ。
 火群はぼんやりと()ち尽くしている。――いったい何をしているというのか。一歩近づこうとして、体が(すく)み上がる。暗夜に浮かび上がる、恐ろしい光景。
「兄者……っ?」
 怖気が止まらない。火群の周囲に、黒く燻っている物体がごろごろと転がっていた。
「……斑葉?」
 俺に背を向けていた兄は、気怠そうに深紅の瞳でこちらを見やった。俺は構わずに、焼け焦げた物体のそばに駆け寄った。
(嗚呼、なんてことだ……)
 長く不気味な髪は焦げ縮れてしまって、屈められた体は灼熱の地獄を物語っていた。真っ黒になってしまっても、恐怖と怨恨で捩れた顔つきは瞭然としており、俺は窒息したような気分になる。
 明日の調査任務で、主人が捕獲しようとしていたポケモンは、もうこの世にいない。
「どうしてこんな(むご)いことを!」
 俺はずかずかと兄に歩み寄る。
「惨い?」
 兄はきょとんとした顔に、俺は泣きそうになった。兄は頭がおかしくなったのか? 善悪の区別も碌につけられなくなってしまったというのか。

「……ああ、まあ、ただの下見のつもりだったんやけどな。こないになってしもたんはちょいと誤算やったな」
「し、下見……?」
 火群は、狼狽(うろた)える俺とは対照的に、(はなは)だ落ち着き払っていた。
「せや。斑葉くんの()う通り、こいつらは調査対象。けどそこらの野良より断然強い。そんでもって徒党組んできよる連中や。主人がやっぱり捕まえたいとか言いよったら、わいひとりで相手できるか少しは試しとく必要があるやろ」
 昨日、足手まといと言われたことを思い出す。俺を戦力として計算していないために、わざわざこんな夜更けに相手の力量を測りにきたのだ。
 兄の思考は、俺が推し量れる類いのものではない。今まで、兄は兄なりのやり方で調査隊に貢献してきたはずで、俺が口を挟むべきことはない。
 それでも、その淡々とした口調は、俺の神経に障った。挙げ句の果てに、嗤いさえしている。
「ま、殺って正解やったわ。わいが目に入った瞬間、全員で襲ってき――」
「火群っ!!」
 兄の胸ぐらの毛を掴んで引き寄せた。首に灯っていた紫炎の珠が、音もなく消える。
「どうして嬉々としている!? 何がおかしい!?」
 命を奪うことがそんなに楽しいのか――。そう言いかけて、思わずたじろいだ。火群の口角は吊り上がっているのに、目は笑っていない。
 兄が、俺の翼を優しく下ろさせた。有無を言わさぬ迫力。深紅の虚ろな瞳が、俺の目を射貫くように見つめる。
「斑葉くんなら解るやろ? 命懸けで殺しに来る奴らの目ぇっちゅうもんを」
「……!」
 幼き日の失態の記憶が、鮮明に(よみがえ)る。忘れもしない、黒曜石の原野での忌まわしき思い出。
 コリンクに、翼を咬み裂かれた。己の肉体から千切れかけた翼と、返り血で染まった彼の顔。絶叫し、気を失う間際、兄の火炎が彼を引き離した。俺が辛うじて命を繋いだ代償として、兄はその前足()を血で汚すこととなった。
 そして俺はたった今、ある一つの可能性に思い当たる。
「おっそろしい目しよってからに。わいに人間のにおい染みついとるのが心底気に入らんかったんやろな……って、斑葉くん?」
 呼吸が乱れ、吐息が白く氷結して飛散する。ただでさえ凍える体が、急速に冷えていく。
(俺のせいで……)
 火群のかつての優しさがだんだんと失われていく理由は、任務の最前線でヒスイの厳しさに鞭打たれているからだろうと勝手に思い込んでいた。
 だが、俺が兄の(たが)を外したということが真実だったとしたら。俺の愚鈍さが、兄に手を血で染める選択肢を与えてしまったのだとしたら。
「さっきからどないしたんやほんまに。顔(あか)なったり(あお)なったり、(せわ)しないやっちゃな」
 ヒスイの地に生きれど、無闇な殺生は良しとされない。古くからヒスイに根づく金剛の民、真珠の民も、恨み合いの先に生まれるのはより深い恨みであると知り、互いに節度を持つことで和平が保たれている今の状況になったと聞く。
 それはきっと、獣の世界にも大なり小なり通底する理だろう。恨みだけで血を流し合う先に待ち受けるのは、互いの種の絶滅でしかない。
 だが、兄はその理を嗤いながら蹂躙していく。狂っていなければ、化け狐としての業のため方々から虐め抜かれた果てに、呪い狐へと転生した種にこんな凄惨なことはできまい。
 弟として、兄の所業を非難しなければならない。――けれども、できるはずがない。俺こそが、兄に厄介事を退ける最も簡単な方法を教えてしまった張本人なのだから。
「兄者……こんなことはもう()せ。いつか呪い殺されるぞ」
 火群の両肩を掴んで説得する。それはもはや、(すが)りついて祈っているようなものだった。
「……嬉しいなあ。お兄ちゃんのこと心配してくれるんか」
 絶句する。話が噛み合わない。いつも兄との隔絶を思い(わずら)っていた。ようやく、近づける機会が巡ってきたと思ったのに。
「もう二度としないでくれ。後生だから。俺のせいなら謝る。だから、頼む」
 氷床を、目から滴り落ちた雫が濡らす。それはすぐさま凍って、大いなる雪原の一部となる。
「……進化しても何も変わっとらんなぁ」
「っ!」
 血潮が沸騰する。冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んで、己が体を割らんばかりに怒鳴った。
「ふざけるな!! いつもいつも兄者は吾をそうやって見下して……っ」
 違うだろう。今俺が言うべきは、そんなことではないはずなのに。兄と対面すると、いつも抑えが利かなくなる。だから俺は兄に見くびられるし、(いと)われるのだ。
 物寂しい、さらさらとした音。薄く雪化粧した椴松(とどまつ)が、しんと静まり返る夜の冷風に奏でる松籟(しょうらい)
「斑葉」
 俺は息を呑む。兄は――優しく微笑んでいた。
「堪忍なぁ」
 (しば)れるヒスイに、かつて存在した俺の拠り所。兄の温もりと柔らかな声音。
 夜更け、それは蜃気楼のように顕現し、瞬く間に雲散した。
「……さ、帰るで」
「兄者っ!」
 兄は歩き出す。待ってくれ、と幾ら呼び止めても、その垂れた耳に届くことはなかった。


  ◇◇◇


 俺の罪科(つみとが)は、弱さだ。
 弱いから、己自身を守れない。弱いから、主人に気を遣わせる。弱いから、兄に血で手を染めさせる。弱いから、弟に道を誤らせる。
 しかし、どれだけ嘆こうとも、誰も俺を待ってはくれない。歩みを止めれば、ヒスイの大地に呑み込まれてしまうだけだ。
「……強くなりたい」
 始まりの浜の、桟橋の尖端に()つ。朝の潮風は、少し目に痛い。
「相変わらず早起きだな、斑葉(にい)
 凜とした声。桟橋のたもとで、漆黒に臙脂(えんじ)色を差した(かぶと)が、山から出ずる朝の光を艶々と反射していた。
「お(はよ)う、水門」
 俺は眩しさを遮るように、朱い笠を目深に被った。









祝福


 浅葱村(アサギムラ)()ったそのときから、(はら)の中はいつもぐつぐつと(いや)なものが煮えていた。俺はむせ返りそうになるのを、常に我慢していた。
 自分はこんなにも恨み深い性格だったのかと驚くも、そう生まれついたからには受け容れるほかなかった。
 類は友を以て集まると言うが、自分に似た性質の輩が寄り集まってくる道理もまた、己を苛んでいく。――あのコリンクは最たる例だ。
 斑葉が大怪我を負ったあの事件は、一日たりとも忘れたことはない。否、忘れられるはずがなかった。元凶が、今もまだ俺に取り憑いているのだから。
 ――ただの錯覚だ。自分と年端の変わらぬ()を殺めたという後悔の果てに、怨讐のようなものを勝手に知覚してしまっているだけだろう。そう思えば思うほど、あの未練がましい目が、昼も夜も自分をずっと見つめているように感じてしまう。
 その忌まわしき感覚は、マグマラシに進化してから、さらに悪化の一途を辿った。幻視に過ぎずとも、恨み辛みを執拗に向けられ、それが俺の中の怨嗟と混じり合って積もりゆくことは、耐え難い苦しみだった。
 炎と一緒に吐き出そうとしても、瀝青(れきせい)のように重たいそれはひたすら胃腸の内に留まり続ける。そして俺はいつしか、体がそれらで徐々に満たされていくことを諦めた。
『……しかたないよ。ごめんね、火群(ほむら)。厭だったでしょう』
 転がる丸焦げの(むくろ)。俺がその野良の虎の尾を踏んでしまったのか、それとも主人の態度が気に障ったのか、もはや知る由はないが。俺が殺らなければ、主人もろとも殺されていたであろう酷烈な戦い。
 ただ、相手に油断はあった。俺は体の小さなマグマラシで、向こうはこちらの何倍もの体躯を持つ巨大な蜻蛉(とんぼ)蟲。まさか外骨格まで容易く焼き尽くされるとは思わなかったのだろう。
  主人が、骸のそばに寄って手を合わせる。せめて黄泉(よみ)では安寧であるようにと祈りを捧げるときに、人間はああやって拝む。
(無意味や)
 祈りなんて届かない。俺の炎は、真っ先に相手の静心(しずごころ)()くのだろう。現に、焼けて無くなったはずの複眼が、恨みに囚われたままずっと俺を頭上から見下ろしている。
 よくも俺を殺してくれたな。よくも俺の外皮を焼いてくれたな。よくも人間に(くみ)したな。よくも。よくも。よくも。
 また――体に厭なものが溜まっていく。
『ベースキャンプに戻ろう』
 主人は、何事もなかったかのような足取りで歩き、俺もその後ろをついていく。
(……こいつも大概化け物やな)
 主人は、他の人間とは一線を画す。ポケモンの捕獲術と制御術の才は(たぐ)(まれ)で、並の外見からは想像もつかない強靱な精神と肉体を有している。先ほども、戦いの最中にあえて囮となり、俺に敵の背中を取らせるという肝の据わった作戦を敢行した。
(それを遂行できてしまう俺も大概や)
 主人は、命のやり取りを、恐ろしいほど割り切っている。死んだら終わりで、生き延びたら手を合わせてさっさと次に進む。斑葉(いさは)水門(みなと)には、とてもではないがついていけまい。
 事実、主人は弟たちを調査に同行させるとき、命の危険ができるだけ伴わないよう細心の注意を払っている。主人が弟たちを信用していないというわけではなく、弟たちをつまらないことで死なせないための最大限の配慮だ。なんせ、まだ主人も俺も未熟な頃に、そのつまらないことで斑葉を失いかけたのだから。
 本人たちはその配慮に勘づいているかどうかは定かではない。内心不満を募らせているのかもしれない。
 毎日のように、気を張って前線に立つ俺にだって、少しぐらいはそのような気遣いが欲しかった。だが、主人は俺の強さにとってそれは無用だと思っている。絶体絶命の危機というものは、主人の知恵と俺の力があれば乗り越えられる程度の壁でしかない――らしい。
 買い被り過ぎだ。体力や技量はまだしも、主人は俺の精神力を過大に見積もっている。
(目がついてきよる。後ろから、上から、右から、左から……)
 今しがた(あや)めた野良だけではない。俺に命を奪われた者たちが、代わる代わるに俺を凝視する。
『火群、具合悪い?』
 立ち止まって振り返り、手に膝をついて俺に顔を近づける主人。――澄んだ目をしている。
(きっついなァ)
 主人、俺はいつだって具合が悪い。誰も彼もが自分とは対称的であると感じる。その平気そうな綺麗な顔は、少しでも自らの手を汚せば歪むのか。命を奪ってなお平然を装う俺を、その目はどんなふうに映しているのだ。


  ◇◇◇


 群青の海岸。ヒスイの地の東部に位置し、ここ一ヶ月ほど主人が熱を上げて調査している。三度目の遠征も、泊まり込んで三日目になる。昼間の調査を早々に切り上げ休息に充てたのは、夜のお()(わら)の調査のためだ。
『ススキさんも連れていこうかな』
 あの臆病な男なんぞをお化け原に連れていったら、失神してそのままサマヨール共にあの世へ拉致されてしまいそうだ。
(……気分が悪い。吐きそうや)
 主人の冗談を笑う気分ではなかった。いつも俺を苛んでいるあの感触が、今日はいつにも増して強い。厭な視線が毛皮を這い廻って、隙あらば毛穴から侵入しようとしてくる。
『火群、大丈夫? 眠そうだけどちゃんと昼寝したの?』
 問題ないと唸って返事をする。嘆かわしいほどに痩せ我慢が染みついていた。
(なんか気分良うなること考えな……)
 夜はただでさえ陰鬱な気分になる。空が闇に覆われたら、俺たちは家に籠もり、囲炉裏を囲んで芋餅を食べて、さっさと布団に(くる)まるべきなのだ。
(晴れてるのは救いやな)
 エイパム山からは見下ろす静かな内海の閑寂(しじま)が、俺の荒れた精神を鎮めてくれる。冴え返る夜空に瞬く星々が、海面にきらきらと乱反射する。
(……風流やな。調査なんかやめてしもて、ずっと眺めていたい)
 俺の思いとは裏腹に、主人は夜を臆することなく闊歩する。ポーチは大量に(こしら)えたボールでぱんぱんに膨らんでおり、今晩でお化け原の図鑑をすべて埋めてしまわんという勢いだ。
 その後ろ姿を、俺は黙って追従する。
霊属性(ゴーストタイプ)、嫌いなんやけどな。他の奴と調査してくれればええのに)
 主人は俺や兄弟以外のポケモンも育てている。いかなる状況にも対応できるよう、いろいろなポケモンを育成すべきであることを、優秀な彼女はもちろん理解していた。霊属性を対象とする調査なら、ヤミカラスでも連れてくればよかった。
 けれども、結局主人は俺を偏執的なまでに重用してしまう。鬼才の掲げる理想論を一分の隙もなく実践できるのは、今のところ俺しかいなかった。
 嘆息する。霊属性は、どいつもこいつも俺につきまとってくる目と同じ目をしていて、相手をするのも億劫だった。
 博士曰く、この世に未練を残して死んだ者の思念体が転生し、霊属性のポケモンが生まれ出ずるという考え方があるという。
 ならば――俺が殺めた奴も一匹や二匹、いるのかもしれない。
(……厭なこと考えてしもた)
 ときどき立ち止まろうとしても、主人の足運びは(よど)みなかった。

『夜のお化け原は不気味だね』
 主人の呟きに、俺は唖然として眩暈を感じた。お化け原でなくても、夜というものはそもそもが不気味なのだ。だから壽村(コトブキムラ)の門は夜間に獣が入ってこないように(かんぬき)が掛かるし、室内に行灯(あんどん)を灯して魔が這入(はい)り込む隙を無くそうと努めるのだ。主人はそれをまるで解っていない。
 岩陰に身を潜める主人の後ろから、お化け原をじっくりと見渡す。ぽつぽつと生える木は白く枯れ、打ち棄てられた船にフワンテとヨマワルが大量に群がっていた。
 ススキでなくても、普通の人間ならすぐに立ち去りたくなるような光景だろう。サマヨールは虚ろな一つ目で彷徨っているが、何を目指すわけでもなくただ歩いているだけなのが薄気味悪い。フワライドはくるくると回りながら白木の枝に突き刺さり、萎んで地面にぺしゃりと墜ちるが、そのうちにゆっくりと膨らんで飄然(ひょうぜん)と漂い始める。
 ゴースやムウマのような手合いは目に生気があるから何となく相手にしやすいが、お化け原に跋扈(ばっこ)する奴らは霊属性の中でもとりわけ気持ちの悪い種族ばかりだった。
『フワンテ、ヨマワルは六匹ずつ捕獲。進化体は二匹ずつ捕獲。行くよ』
 普段ならさして負担に感じないノルマでも、夜間の霊属性相手では気重(きおも)だ。
 岩陰から主人が捕獲用のボールを放つ。低い放物線を描いたそれは、背を向けていたフワンテに当たり、抗う間もなく吸い込まれた。
『まずは一匹』
 順調な滑り出しかと思われたが、まわりのフワンテたちが忽然と仲間が消えたことにざわめきだす。うち一匹は、明らかにこちらを凝視していた。
(……こっちの位置がバレとるな)
 引っ込むか、前に出るか。正面突破するには、いささか数が多すぎる。
『最近さ、火群にあんまり鍛錬させられてないなって』
 主人が妙なことを言い出す。――まさか。
『少し頑張ってみようか』
(嘘やろ……?)
 正常な判断だとは思えなかった。お化け原の瘴気に当てられたか。
『火群、火炎車!』
 岩陰から右側に飛び出した主人に、野良共の視線が一斉に集まる。
「ああもう、無茶し過ぎや!」
 主人への注目を外すため、逆方向に飛び出した。即時に火炎を猛然と張り出して、フワンテの大群に突進する。ふわあ、と弱々しい悲鳴を上げて散り散りになる。
(相手さん軽すぎて当たった感触せえへん!)
 大立ち回りを演じたせいで、フワンテだけでなくヨマワルまで寄ってくる。
『火炎車を乱れ打て!!』
 ひたすら目立てという指示だった。今晩は俺が囮の役割らしい。
 俺が突進を繰り返す間、主人は野良共の視界外からボールを投げ続ける。二匹目、三匹目、四匹目と、次々と捕獲する主人の腕は鮮やかで調査隊の全隊員が手本とすべきだが、俺がそれに見惚(みと)れている暇はなかった。
 火炎車の残数(PP)が尽きかけ、いい加減目が回ってきた頃、ようやく主人から撤収の指示が出た。
『よし……いい感じだね』
 フワンテ、ヨマワルを計六匹ずつ捕獲したのを確認し、俺は主人とともに岩陰に引っ込む。
(息切れが……)
 野良共の技は掠りもしなかった。技の連発はこの程度なら大した負担ではないはずだが、霊属性を相手取っただけで体力がかなり削られたように感じる。
『はい、オボンの実』
 俺が肩で息をしているのを見かね、主人はポーチから木の実を取り出した。
『やっぱり疲れてるみたいだね。フワライドとサマヨール、二匹ずつで今回の遠征分は終わりだから。もう一息頑張ろ!』
 木の実にかぶりつく。
(なんや、これ……)
 味がしない。砂を食っているようだ。それに、どれだけ腹に入れても一向に体力が回復している気がしない。
『火群、来てる!』
 はっとする。岩陰の上から、フワライドが顔を出していた。岩陰から退いた主人の前に立つ。
「ひとが休んでるときに茶々入れんといてくれや」
「……シネ」
 フワライドがどこからともなく出現させた炎が円を描きながら、俺と主人に向かってくる。
「はっ、本職に炎技は舐め過ぎやろ!」
 ぐらつく視界を、大声で怒鳴って矯正する。己を鼓舞する意味合いもあった。
 目には目を。火炎には火炎を。主人の指示が飛んでくる前に目一杯空気を吸い込み、
『火群、火炎放射!!』
 発射合図で盛大にぶちかます。炎同士がぶつかり合い、空気が爆ぜる。
 轟と唸った陽炎(かげろう)が四散した。――フワライドがいない。勢い余って倒してしまっ――
(え……)
 目がたくさんある。一つ残らず俺を見ている。フワンテもヨマワルも大方捕まえたし、余計な手出しをされないよう余分な奴は戦闘不能にしておいた。なのに、まだこんなに残っていたのか? 十、二十、――いや、もっと。五十、百――。
 上下。左右。前後。どこを見ても目。目。目。
(なんやこれ……いつもの幻視か? それとも現実か?)
 激しい発作に、固まって動けない。どこを見たらいい。誰を攻撃すればいい。主人はどこだ。主人、指示を――
『火群! 目を見ちゃダメ!』
 俺の目の前にあった双眸(そうぼう)が、闇夜にそぐわぬ色に輝いた。
 フワライドの催眠術だと気がついたときにはもう遅かった。そして地面からぬらりとサマヨールが現れる。
『火群! しっかりして!』
 主人の呼び声が遠い。体ごとくずおれてしまいそうな眠気。
(……アホか俺は。超属性や霊属性との戦いで目ぇ合わへんようにすンのは基本やろが)
 自分を責める。だが、幻視した多量の目と霊属性たちの虚ろな目は、どうしたって区別のつけようがなかった。
 ――今晩は一段と具合が悪い。
 サマヨールの大きな手に首を掴まれ、後ろ足が地面から浮いた。
「ぐ……ぅ……」
 体に振り(ほど)くだけの力が込められない。サマヨールの膂力(りょりょく)に対し、気力だけで踏ん張るのは無理がある。
 別のサマヨールが、主人に襲いかかろうとしているのが見えた。
 どうすればいい。考えろ。今までもこんな窮地がなかったわけではない。
 炎袋を煮え滾らせる。己の体ごと、サマヨールを炎上させるのだ。進化して、俺の毛皮は耐火性がより増したのだから、恐れることはない。
「かはっ……」
 サマヨールに、強く締め上げられる。火が吐けない。息ができない。意識がかすむ。気持ち悪い。虫唾(むしず)がせり上がってくる。脳がぐわんぐわんと揺れる。
『火群、しっかりして!!』
 主人の声に、俺の体が光り始める。細胞一つ一つに刻まれていた生存欲求が反応した――らしい。
 流れ込んでくる。蝕まれる。己の体を構成していたものが、次々と別の何かに置き換わっていく。
(なんや、これ……。進化……? せやけど……マグマラシになったときは……こんなんやなかった……)
 目を閉じても開けても、お化け原とは異なる何百もの景色が瞬間的に切り替わって、七色に光り輝きながら頭上に降り注ぐ。
(あかん……吐きそう……)
 すべてが目まぐるしく明滅する。骨が軋む。肉体が急激に成長する。精神は、このまま放っておいたらばらばらに分裂する。心臓は信じられない速度で脈動し、勢い余って破裂しそうだ。
「おええっ……」
 先ほど口にした木の実が、溶解しきれずに胃から戻ってくる。喉がひゅうひゅうと厭な音を出し、俺は縋るように空を見上げる。
(は……?)
 写真機が切り取ったような情景が、空いっぱいに大きく映し出され、くるくると切り替わる。
(走馬灯……)
 ヒスイ行きの帆船の上。日向ぼっこする斑葉。海に飛び込もうとする水門。阻止しようと躍起になる博士。
 主人を迎えての、初めての夜。皆で囲炉裏を囲んで芋餅に舌鼓を打っている。
 訓練。泥だらけの斑葉。笑う水門。呆れる俺。
 初めての進化。喜んでくれた兄弟と主人。
 ――意識が途切れそうになる。心臓が、痛い。頭が割れる。
(……死ぬんか……俺は)
 こんなつまらないことで。
(いや……死ぬときなんて……結局こんなもんやろ)
 俺の手に掛かった奴らだって、そのときまでは自分が死ぬとは思っていなかったはずだ。
 今回は、たまたま俺の番だった。それだけのことだ。
 だが、未練があるとするならば――
「斑……葉……、水……門……」
 すまない。俺はもう――

〈 いいえ あなたは しにません 〉

 誰だ。

〈 みえるように してあげましょう 〉

 何を――。


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「げほっ、げほっ……」
 激しく咳き込んで、混濁した意識がはっきりとしてくる。
 辺りに、襲いかかってきた野良共が這い(つくば)っていた。主人に手を掛けようとしていたサマヨールも、地に伏したままこちらを見ている。あたかもそれは、俺に平伏(ひれふ)しているようであった
 進化の際に発する莫大なエネルギーが、周囲を吹き飛ばしたらしい。主人は岩陰に上手く隠れて回避したようだ。
『火群、あなた……バクフーンなの?』
 主人が、怪訝な顔で俺を見る。
 何を言っているのだ。マグマラシから進化するポケモンはバクフーン以外にあり得ないだろう。
 ――違和感。火山のような灼熱が、体内に感じられない。
 主人の目を見る。そこに映っている俺の姿は、火山の化身などではなかった。
「なん……や、これ……」
 首から出ずる炎は、勾玉のごとく。炎の色も、浅葱村の父の、あの赫々(かくかく)たる真っ赤な色ではなく、紫がかった(あや)しい色をしていていた。
 俺は本当にバクフーンになったのか? それとも、俺は何か別のものに――
「ぎゃはははは! ついに呪いが成就したぞ! ざまあみろ!!」
「っ!? 誰や!」
 何かがおかしい。誰の声だ。主人ではない。野良共でもない。
 ――怨霊。
「あ、ああ……」
 目の前に、怨霊共がぱっと狂い咲いた。はっきりと視える。俺をずっとつけ回していた、俺が手に掛けてきた者たち。
 錯覚ではなかった。幻でもなかった。本当に、()た。
「うわああああ!!」
『火群!! 落ち着い――』
 主人を置き去りにして、狂ったように走り出す。どうしてこんなことに。
 誰か、俺を助けてくれ。


  ◇◇◇


 走って、走って、ひた走った。エイパム山を抜け、銀杏(いちょう)の浜辺を突っ切り、風晒しの森も越える。
 振り切れ。怨霊共も、体の中の厭なものも、全部。
「はぁ……はぁ……」
 どれだけ走ったのか、分からない。夜は、まだ明けそうにない。
 俺は悪い夢を見ているのだ。朝が来れば、何もかもが元通りになる。
 きっと、そうだ。そうに違いない。そうであってくれ。
(誰も来られへんような場所へ……)
 眼前にそびえ立つ、小高い山。オオニューラの鉤爪(かぎづめ)に頼らなければならないほど切り立っている。
 手が傷だらけになることも厭わず、一心不乱に登攀(のぼ)る。痛みに構う余裕も、後ろを振り返る悠長さもない。
 無我夢中だった。自分の荒れた息遣いと、急勾配の地面を踏む音だけが聞こえる。滑り落ちたら絶命しかねない恐怖の中、必死の形相で登り切った。
 山のてっぺんだと思っていた場所は、予想外の様相を呈していた。
「なんや、ここは……」
 まるで、火山の火口だった。お椀にも似ている。凹部の中央には、泉があった。ほとりには洞穴の入り口があり、朽ちた白い柱が四本立っていた。何かを祀るための(ほこら)のようにも見受けられた。
 当然人の気配はないし、ポケモンもいない。ここなら、誰も来られまい。
 ほとりに降り立って、くずおれるようにへたり込んだ。
「堪忍してや、ほんま……」
 疲れ果てた。目をぎゅっと瞑って、耳を塞ぐ。
 生まれて初めて、天に祈った。ヒスイの霊峰に御在(おわ)す神よ、どうか俺を元に戻してください。
「哀れだなぁ、火群とやら!」
「ひっ」
 目を開けると広がる、絶望の光景。紛れもない現実が、俺の精神を深部まで蝕んでいく。
 怨嗟を抱えたまま成仏し損なった魑魅(すだま)共が俺を取り囲み、醜く騒ぎ立てる。
 涙が零れた。自分を支えていたものが、ぽっきりと折れていくような感覚。
 俺自身が亡霊と成り果ててゆくようだった。

「「「「「「お前が死んだら、次はお前の弟たちに憑くのも悪くない」」」」」」

 ――ゆらりと、立ち上がる。
「ふざけんな!」
 怒号が、泉を揺らす。こんな辺境に流され、重荷を背負わされ、望まぬ姿にされた。そんな哀れな俺から、まだ奪いたいというのか。
「……()らったる」
 囂然(ごうぜん)たる爆炎けたたましく、俺は唸りを上げた。
 猛然と襲い来る怨霊たち。以前なら実体なきそれを掴むことは叶わなかった。
 片手で、一つをむんずと鷲掴みにした。ぎゃあぎゃあと喚き始めたそれは、握り潰そうとするとなお激しく抗おうとする。
「うるさいなァ!」
 口の中に押し込む。喉の奥で咆哮するそれをごくりと呑み込み、腹に収める。
 胃のそばにある炎袋が煮える。霊峰天冠(テンガン)山から譲り受けた神気(しんき)を、炎と一緒に練り込む。
「……爆ぜろや」
 怨恨の塊が、俺の体内で燃えていく。叫び声が徐々に聞こえなくなる。
 魑魅共がどよめいた。俺の意外な反撃に、恐れを抱いているようだった。
「かかってこんかいッ! 全員まとめて啖らったるわ!!」
 怒鳴り散らして威嚇する。俺の気迫に怖じ気づいたのか何匹かが逃げ出したが、勇敢にも立ち向かってくる者もいた。
「その意気や! 呪えるもんなら呪ってみぃ!!」
 もはや怖いもの無しの俺は、精神が(たかぶ)っていた。もしかすると、俺は今まで必要以上に相手の怖さを過大に見積もっていたのかもしれない。
 怨霊共を啖らっていく。己の体の無事は微塵も考えなかった。ただ、目の前にある怨霊を貪って、体内で燃やしていく。
「待てやァ!」
 逃げ惑う怨霊共を、追いかけ回す。愉悦すら感じ始めていた。俺はもはや、バクフーンに似た怪物だった。
 あらかた啖らい尽くして、辺りは静かになった。風が立って、ほとりの松がさざめいた。
「……お前が最後か」
 洞窟の前に、異様な雰囲気をまとい(たたず)む怨霊がいた。
 見覚えのある目。忘れるはずのない、ヒスイで初めて手に掛けた命。今なら、正面切って向かい合える。
「せっかくここまで来れたのに……! よくも!」
 幼さに似つかわしくない目で、俺を睨む。
「貴様のせいで……! 貴様のせいでえぇ!! 俺はぁ!!」
 地団駄を踏む幼虎は、顔を真っ赤にして泣き喚いた。
「……お前は命の取り合いに負けたんや。俺を恨まんと潔く成仏するのが筋やろ。それをこないなところまでつきまとってからに……。しつこい雄は嫌われるで」
「うるさいうるさいうるさいっ!!」
 哀れだった。癇癪を起こしてずっとこの世に留まっても、もう何も成せないというのに。
 詫びたい気持ちがないわけではないが、しかたなかった。斑葉は生死を彷徨う重傷だったし、俺がやらなければ水門や主人も危うかった。
 だが、もし運命が少しでもズレていたら、大人しく主人に捕らえられ、一緒に調査の前線に立つ未来もあっただろうと思う。
「……悔しかったら、生まれ変わって出直してこいや」
 右手を天に向け、おいでおいでと挑発する。
「うがあああ!!」
 幼虎の怨霊は激昂する。怨敵を呪い殺さんと、俺に吠え立てながら襲いかかってくる。
 俺は紫炎を放とうと構える。その瞬間、幼虎は怯えの表情を見せた。
 あのときの、今際(いまわ)(きわ)の叫び声が鮮明に甦る。
「……そら炎は怖いでなぁ。悪かった」
 俺は炎を引っ込め、大人しくなった幼虎を掴み、取り込んだ。
「彼岸での安寧、心から祈っとる」
 その強さと諦めの悪さは、群れの頂点に立つべき器だった。生まれ変わって、またヒスイに降り立つようなことがあれば、再び相見(あいまみ)えよう。
 因縁の相手の無念を、体内で浄化する。長きに渡りヒスイの地に囚われていた彼の未練を、ゆっくりと時間をかけて(こそ)ぎ落とす。
 そうして、すっかり身軽になった霊魂を吐き出す。ぽうっと光るそれは、水平線に浮かぶ令月のごとく、清らかだった。
 彼が天冠(テンガン)山の方角へと消えてゆくのを、俺は長々と見つめていた。
 空がかすかに白む。朝の気配が忍び寄ってくる。
「終わった……うぷっ」
 視界がぐらりと揺れて、思わず前のめりになる。
「おえぇっ……まっず」
 無心で怨霊共を(はら)っていたから、気に留める余裕はなかったが、怨霊というのはとにかく不味い。まるで漢方薬をまぶしたような泥団子のような味だった。こんなものを口に入れていた自分は頭がどうかしている。
 俺は這いながら、泉のほとりに寄る。今はただ、喉を潤したかった。
(……!)
 静かな黒い水面に、己の姿が明瞭(はっきり)と映った。
「父さん……俺、こないな姿になってもうたわ……」
 重たそうな瞼。垂れた耳。荒々しくあるべき背中の炎は、人魂のような不気味な紫色。
 水鏡に映る俺の泣き笑い顔は、もう帰ることのない浅葱村に暮らす父には似ても似つかなかった。


  ◇◇◇



 群青の海岸での任務を放棄し、挙げ句の果てに主人のもとから脱走したことについて、俺には謹慎処分が下った。
 とは言え、主人や医療隊の口添えもあり、実際には謹慎という名目で博士の部屋に軟禁され、二、三日かけて体をくまなく調べられただけだった。実質的に暇をもらったようなものだ。
 案の定、俺の体には霊属性(ゴーストタイプ)が与えられていた。あれだけ嫌っていた生き物たちと同じものになってしまったのは、因果というほかない。
『失踪したと聞いたときは大変驚きましたが、無事でいてくれて本当に安心しましたよ』
 博士の呑気な言葉に、俺は閉口する。獣の気持ちを理解するなど、人間には所詮無理な話だ。

 帰宅許可が出ても、家に帰る気にはなれなかった。調査任務に明け暮れていたから、弟たちとはめっきり顔を合わせることもなくなっていた。そんな彼らが、進化した俺をどんなふうに出迎えるのか、怖くて堪らなかった。
 主人に促され、ようやく家の戸を開ける。薄暗がりの居室から、斑葉と水門が飛び出してくる。斑葉については最近フクスローに進化したと聞いていたが、実際に姿を見るのは初めてだった。
「火群兄ちゃん、おかえ――」
 俺の姿を見た弟たちが、言葉を失う。俺を見上げる瞳には、妖しい炎が映し出されていた。
(……この姿はそないにも恐ろしいんか)
 責めることはできない。俺自身でさえ受け容れられていないのだ。(いわ)んや弟たちにおいてをや。
「……くたびれた。わいは今から寝るさかい、起こさんといてや」
 こうなることはおおよそ分かっていた。拒絶されようと、悲しむことはない。
 この姿は、ヒスイの厳しさから自分を、そして何よりも弟を守るために天から与えられた(いびつ)な祝福だ。
 魔の手が迫るなら燃やせばいい。呪われるなら祓えばいい。
 斑葉、水門、お前たちは尊い。かけがえのない光だ。俺はきっと修羅の道を()くが、お前たちはどうか清廉なままでいてくれ。
(我が弟たちの歩く道に、あらん限りの、尋常(・・)な祝福が降り注がんことを)
 ――切に、祈っている。






 終






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