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sisrahtak の変更点


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[[Lem>Lem]]
この作品は&color(red){暴力を伴う流血表現};を含みます。
そういった要素に耐性の無い方は御注意下さい。
* sisrahtak[#E5000B]

 誰しも秘密の一つや二つを持っている。
 大した事のない秘密から直隠しにしたい秘密。或いは頑なにそれを認められず、蓋をして記憶から消し去った秘密。
 どんな秘密であれそれを隠し続けるという行為は本人が思う以上に精神的なストレスを蝕み、呑み込んだ吐血は消化されずに澱として残り続ける。
 僕と兎の関係性はそういう柵で結ばれていた。

 今でこそ兎の所有権を持つ身ではあるが、元々の所有者は僕の元カノにして婚約者である。
 トレーナーとして最高峰に近い実力者であり、世間が羨むエリートの道を進み、順風満帆が約束された彼女が今や犯罪者として獄中に身を置いている。
 一方の僕は何でもない一般人で、何故彼女に見初められたのか今でも分からない。
 トレーナーとしての知識もなく、ただただ売れない絵を描き続けるだけの、路端に転がる石ころも同然な存在。
 そう、石ころを拾うついでに僕は彼女に拾われた。
 石ころは炎を乗せた弾丸に代わる剣であり、さしずめ僕は彼女を護る盾としてだったのかもしれない。
 彼女は孤独を酷く恐れていた。相棒の兎が居ても尚彼女は自らが抱える孤独感に精神を苛まれ、度々癇癪を起こしては物に当たり散らしていた。
 エリートとしての顔が彼女を縛り、本来の少女を見てくれる者は家族の中にも居なかった。
 誰にも言えない秘めた面だけを見てくれる者を彼女は求め、探していた。
 そういう観察眼に長けている者を彼女は傍に置きたがった。
 だからとどのつまりは条件さえ満たしていれば誰でも良かったはずだ。
 それこそ僕ではなく、彼女の持つコネクションを通してその道に聡い識者を招くのが最善手であっただろうにそうはしなかった。
 それすらも彼女にとって悪に中るものとして忌避される存在だったのだろう。
 そういう世界とは程遠い存在。路端に転がるただの石ころ。誰もが見向きもしない風景の一つ。
 そこに在る物を彼女は愛し、羨望したのかもしれなかった。
 然しながら人一人が知る世界という物はとても狭く、知識は歩んできた道の風景画に依って左右される。
 僕が彼女という世界を知らぬように、彼女もまた僕という世界を知らない。
 過度な期待は僕に重圧を与えるのに十分な理由足りえ、次第に僕は絵が描けなくなっていく。
 彼女は自分をモデルに絵画の糧になろうと度々協力的な態度を見せてくれるのだが、それが僕には辛かった。
 それを優しさと呼ぶには彼女はあまりにも濁り過ぎていた。
 淀んだ空気から逃げ出したくて、何時しか僕の目は彼女を遠ざけるために最も近しい物で覆い隠した。
 それが兎である。
 僕は彼女を兎に見立て、彼女の内面を兎に落とし込む事で自分を守ってきた。
 僕の内情等も知らない彼女にはそれが人馬一体に、この場合は人兎一体だろうか。
 兎も角そうした表現が彼女の琴線に触れた様で、彼女の内面を良く見てくれる人として評価を得ると同時にこれからも絵画に協力したい思いを吐露した。
 止めてくれとは当然言えるはずもなく、半年が過ぎ、彼女の活躍が軌道に乗るにつれて便乗する様に僕の名も徐々に世間に知られていった。
 個展を開かないかと話を持ち掛けられた事もあり、そこには初めて彼女を描いたあの絵画もあった。
 全てが順風満帆に進んでいく生活を羨望の眼差しと共に感想を煽てられても、未だに僕の心は昏い道端で転がる石ころのまま晴れない渦中の中に居た。
 そんな幸せも不幸せも長くは続かず、終わりの始まりは突然訪れる。
 彼女の相棒がリーグ戦中に事故に遭い、戦線離脱を余儀無くされた。その事件はマスメディアでも波乱を呼び、大々的に誇張されて世論を騒がせ、格好の的として取り沙汰にされていく。
 兎の怪我は直ぐに完治したものの復帰後の調整がうまく馴染まず、度々に前線から外されていた。
 後にイップス症候群と診断された兎は『折れた剣』『翔べない天使』等と言い様にして扱われ、マスメディアに消費されていく。
 彼女も相棒が叩かれる様を見ていられず、苦悩の末に彼女を手放す決断を下した時の無念の顔を今でも覚えている。
 通常手放すという行為は野生に返す事と同義に扱われるが、彼女はそれを拒み、僕に所有権を引き継がせて形だけのトレーナーとして眼下に置かせた。
 知らない他人に与えるよりは信用のおける知人の下で平穏を過ごして欲しいという親心だったのだろう。
 それすらも観客はお涙頂戴な話として好み、彼女の株を上げていく。拾われる前の僕でも恐らく同じ感想を抱いただろう。
 自由になれない鳥籠の中で外を眺める兎を石ころが見ている。
 拾われた時から顔を見合わせるだけの仲も生活環境が変われば距離感は狭まるもので、何時しか僕は本来の絵画よりも兎をスケッチする事にやりがいを見出だす様になっていた。
 一枚、十枚、百枚。
 そこに描かれる雑じり気の無い本来の兎が意気揚々に跳ね回る物語。
 一羽きりの観客の笑顔に僕もつられ、掛け替えの無い時間へと熟するのに手間は掛からなかった。
 だが外の観客は悲劇的な物語を甘露として欲しがった。
 そして引鉄を弾くべく弾丸を提供する。闘う事でしか生き残れない過酷な最中の修羅の下に。
 そして彼女の面は般若へと変じ、彼女を含めた僕らの全てを引き裂いた。
 弾丸は彼女の秘密を求めて潜入したパパラッチが隠し撮りした写真が数枚。何れも僕と兎が被写体で、並みならぬ関係を挑発する様な構図ばかりだった。
 彼女にはそれが何時かの自分が奏でる未来像だと盲信していた嫌いがあり、それを相棒に奪われた事で何かが切れてしまった。
 怒りはそれまでの積もりに積もった怨嗟を巻き込み、轟々として燃え盛りながら僕らを糾弾する。
 鳥籠の中で身を寄せ合う僕らの姿を見て彼女は疑念を確信に変えた。
 少し冷静になればそれ等が全てありふれた日常のコミュニケーションでスキンシップに過ぎないものと分かる。
 だが、彼女の心にはそうした日常の風景がなかった。
 世間で言う当前の娯楽を知らず、そして当の僕もまた彼女が何故そうまでして怒るのかを分からずにいた。
 謂れの無い糾弾に反論する余地さえ与えず、彼女は手始めに僕の膝元から兎を引き摺り離した。乱暴に掴まれた長耳からの痛みに喘ぐ兎が不憫で思わず制止の声を張り上げ、彼女の手を叩いてしまう。
 それが彼女に取って致命傷になる選択肢としても、咄嗟の行動にそんな余地があるはずもない。
 冷徹な微笑みは次に僕のスケッチブックを手に取る。
 ぶつぶつと呟く言葉は途切れて一部しか聞き取れなかったが、唯一聞き取れたのは次の一文だった。
 
『あの絵画も私ではなく、その子を見てたんだね』

 本心を見抜かれた瞬間だった。
 それが全てでは無いとしても余裕の無い僕を揺さぶるには十分であり、事実である以上口をつぐむしかない。
 是と見た彼女は次に額縁に飾られたあの絵へ視線を移す。流れる瞳は充血で血走り、泣けば血を流す勢いにも見て取れた。
 机上に置かれたスケッチブックに視線が戻る。渇いた笑いが木霊した。
 手近のバスケットから引き抜かれたブレッドナイフが空高く煌めく。
 殴打。殴打。殴打。
 一連の行動は空間に裂け目を形作るが如く繊維を引き千切り、全ての頁は形無き骸へと変えられ、ふらつきながら制止するも纏う鬼気は未だ頑として残り続けている事を察した僕は胸元の兎を深く抱き抱えた。
 彼女の次の目標が明確化された以上、僕が取るべき選択肢は一つだった。
 何度過去を振り返ってもあの時の僕に出来た事はそれだけだ。
 僕は僕という歴史を生け贄に捧げた。
 彼女の凶刃から兎を護る為に。
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 スプリング。
 飛び跳ね回る幼き俺を見て連想した言葉がそのまま名前になった。
 俺にとっては遊びの延長線上でしかないただの行動を主人は何かと『見込みがある』等と絶賛し、事ある毎に干渉しては過激な遊びを提供してきた。
 年端も行かぬ少女と共に成長する頃には互いに背丈が伸び、見る景色が並び立ってからは様々な物を共有した。
 そして俺の遊びはやがて血湧き肉躍る闘争の場へと昇華され、過激で過酷な日常へと変質していく。
 初めは勝利の喜びを互いに分かち合った間柄が場数をこなすにつれて淡白になり、勝って当然と認識が歪みだした彼女に俺は心の片隅で嫌気が差していた。
 極めつけはもう決着はついたも同然の相手に止めを強いられた瞬間だった。
 心の底から彼女が恐ろしくなり、命令に従わない俺に放った罵声が今でも忘れられない。
 何が彼女をそこまで駆り立てるのか。長いとは言えずとも彼女の事はそれなりに側で見てきたし、ある程度の事柄は理解しているつもりだった。
 だが舞台上に立つ彼女は俺の全く知らない他人が彼女を名乗っている。
 君は誰なんだ。どれが君なんだ。
 程無くして試合終了の鼓笛が鳴り、次の試合が始まるまで俺は自主的に彼女から距離を置いた。
 闘い疲れて傷心に浸る足で辺りを彷徨い、そして見つけた。俺の心を捉えて離さない、俺が本来還るべき場所を。
 無地のキャンバスを指先でなぞる男の手に目を奪われつつ男の情報を取り込んでいく。
 中肉中背。白髪が混じった黒髪。油汚れを気にしてか捲られた袖から覗く剥き出しの腕にはそれなりの筋肉が隆々としており、細身の体型にしては筋肉質な印象を受ける。無精髭の生えた横顔をそっと覗き込むと集中しているのかこちらには気づかず、細目の奥では鋭い眼光が一点を貫いていた。
 鈍く輝く切先が上下左右に動く度に景色が切り取られ、次々と彩色されていく風景は抗いがたい望郷の念を匂わせて心に訴える。
「こんにちはお嬢さん」
 唐突に端から話し掛けられ、男の方を見る。男の双眸には柔和な印象だけが残り、先程の鋭さは何処かへと飛び去ってしまっていた。
 返す言葉もなく黙していると男の背後から俺の名を呼ぶ声が響く。
「君の名かい? 良い名前だね」
 唐突に褒められたその感覚が久しぶりなのと褒められ慣れてないからか、突っ慳貪な態度を彼に返してしまう。
 それが俺と彼の邂逅で、同時に彼女と彼の邂逅でもあった。
 どういう訳か彼女は彼をいたく気に入り、数話を挟んだだけで同居を始める間柄になった。
 俺も彼の絵が気掛かりだったのでこの申し出には賛成ではあったが、心に残り続けるささくれは長い間疑念となって引っ掛かっていた。
 奇妙な共同生活を送るにつれ初めの頃の勢いはどうしたのか、彼は思う存分に世界を彩る事ができなくなった。
 心配した彼女が献身的に彼を慰めるが、事態は悪化するばかりでいまいち改善が見られない。
 俺にも何かできることがあればと思ったが、彼と彼女の間に入る隙間はどうにも狭く、握っているのか開いているのかも分からない綿毛の手を振りかざす。
 時を置いて彼女が絶賛の声を上げ、何事かと釣られて視線を共有する。
 やや大きめのキャンバス内には焔を纏う兎が暗闇の中で躍る姿が写し出され、一目見た時は自分の事かと思ったものの何かが違う印象を覚えて頸を傾げた。
 後に彼女が発した『人兎一体』の単語へ俺は内心ざわめきを覚えていた。それは明らかに拒絶の意思を伴った反応だった。
 ちらりと彼を見る。頬こけた顔には未だ焦燥感が色濃く貼り付いていた。
 それからの俺は満足に闘う事もできず、自慢であった脚力の翼も失墜し、闘いに破れ、逃げる様に聖地を離れた。
 復帰を望む彼女と周囲の声も最早届かず、ここじゃない何処かへ還りたいそんな思いで一杯だった。
 一番は彼女から離れる事。それが最大の望みだった。
 だが思いは叶わず俺は彼女の所有地に彼と供に縛り付けられている。
 無気力に浸る俺は何も信じられず、窓からの景色を眺め果てる時間を浪費していた。
 傍らで彼がそんな俺をスケッチしていたが、描きたいならば勝手にしてくれと無視を決め込むも、時間が経つにつれて彼の絵が再び気になる位には気持ちにも余裕が戻ってくる。
 集中している時の彼は相変わらず刀剣の如き鋭さを放つものの、不思議と恐怖に依る不快感は無い。
 初見の頃は触れるのを躊躇ったが暇を弄ぶ今となっては彼に触れる好奇心の方が勝っていた。
 彼に触れたいし、撫でられたい。そんな思いがいつの間にか芽生えていたのは俺も彼女と同じく孤独感から脱したかった思いがあったのだろうか。
 集中を妨害されても彼は気にせず、俺が望む物を与えてくれた。
 ずっとこうされたかったのに、どうして今日までそれはやってこなかったのか自分の不幸を呪いたくなる。
 太陽から月へ、月から太陽へ、再び月へと巡る時を俺は彼に全身を捧げた。
 ずっとこんな時が続けば良いのにと願わずにはいられない至福。
 それすらも彼女は許さなかった。赦せなかったのかもしれない。
 いざとなれば彼女を傷つけてでも彼を護ろう。そんな覚悟でいたはずなのに。
 どんなに嫌いでも俺にとって彼女は苦楽を供にしたパートナーだった。相容れなくても確かな絆は残存し、躊躇わせ、体も心も縛り付ける。
 恐怖が綯交ぜ、錯乱した状態が事を運べるはずもなく、俺を庇う彼は彼女に牙を貫かれた。
 彼に深く抱き抱えられた視界は彼以外に何も写さず、鋭敏化した聴力だけが音を拾い続ける。
 繊維が千切れる音。
 彼の鼓動が一際高く爆発する音。
 
 繊維。鼓動。繊維。鼓動。繊維。繊維。繊維。
 鼓動。

 ただならぬ物音から異変を察した使用人の悲鳴。
 逃げる様に部屋を後にする彼女の足音。
 鳴り響くサイレン。
 響き渡るノイズ。
 全てが急激に瓦解していく。
 何もかもが俺から離れていく中で俺にできた事は彼を絶対に離さない一心のみだった。
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 凄惨な事件後の経過速度と言うものは異様に早く、男が兎を連れて遠海を隔てた故郷へと戻ってから一年が過ぎようとしていた。
 季節は初春。されど気温はまだ寒く、寒冷地の辺境ともなれば山奥は雪が我が物顔で風景を埋め尽くす。
 年期の入ったロッジの中で暖炉をくべる男と、窓辺を覗く容れ物が小さく折り畳まれたブランケットの上に転がっている。
 兎はその中から外を見ていた。あれから兎は外に出ることを頑なに拒み、男も無理に開こうとはせず双方の距離を保ちながら時を過ごしてきた。
 兎が入っている容器はどういう仕組みなのか常に快適な空間が保たれ、空腹も緩やかになり、排泄の必要性すらも除去する夢とも呼ばれる様な機能が標準装備として付いている。
 それもこれも科学の力と言うものである。とは言え長く引きこもっていても空腹はやってくるのだが、兎は決して外には出ず、男が月に一度の通院を経て兎のメディカルチェックをこなす事で健康維持が保たれていた。
 大変なのは男の方で利き腕の損壊により絵を描く事は絶望にも等しい身でありながらも、残る隻腕で今を精一杯に生き続けている。
 その日は吹雪いており、外に出る事も叶わず各々が流れる時間に揺られながら微睡みの中にいた。
 だが家屋の中も決して安全では無い。こんな吹雪の中にこそ脅威は不意にやってくる。あの時の様に。
 揺らめく火を掻き消す風雪が轟音と共に窓辺を突き破り、室内が強烈な寒気で充たされた。
 吹雪が運ぶは雪だけではない。空高くより降る雨雲の雫が霰となり、雪を纏いて弾丸もとい砲弾と化す。
 その威力は路上駐車された車の外壁を撃ち貫き、再起不能にする程である。
 それを防ぐべく窓辺の外には板を柵状に取り付けて防護するのが雪国の鉄則なのだが、男はそれを疎かにしていた。否、したくとも出来なかったとも言えたのかもしれぬ。
 板を張れば当然窓よりの景色は塞がれ、兎が楽しみとする景色の観測も難しくなる。そして隻腕の身にはその作業も難が過ぎる。
 この事態を招いたのは双方の甘さに起因する物であった。嘆いても始まらぬ。
 男は早急に毛布を亀裂へと捩じ込み穴を塞ぐ。そうこうしている内にも亀裂は広がり続け、再び穴が開くだろう。
 男は次に手近にある棚、長机、木椅子、あらゆるものを手繰り寄せて急拵えの防波堤を作る。一通り形を成したものの男はそれだけで慢心はせず、全身を使ってベッドを引き摺り押し出して重石にする。
 そこまでして漸くひと心地をつくが、まだ課題は残っている。火を起こさねばならない。だが男は先の行動で既に体力を消耗し、更に肌を突き刺す寒気が男の自由を奪っていく。
 また隻腕の筋繊維も先の無理が祟って千切れかけており、急な運動と激痛による発汗が全てを裏目に変えていく。
 万策尽きた男が最後にとった選択肢は霞む視界の先で容器を、兎を見つける事のみだった。
 容器が球状だった事が幸いし、壁隅に目星をつけていたのもあって発見は早かった。
 暖炉の傍だった事も最期の幸運とも言えよう。
 震える手指に全力を込めてそれを掴み、胸元に抱き抱えて壁に背凭れると男は長い一息を吐いた。
 そして緩やかに目蓋を閉じ、眠りつく。
 安らかなる死が身近で添い寝をし、男を永遠へと連れ去ろうとしていた。
 二度と醒めることの無い旅が始まるはずだった。
 顔面から全身を包む温かさに気付いて男が目を醒ます。
 次いで触れる顔越しに耳を打つ鼓動。
 殻を破って外へと出てきた兎が男を抱き抱え、介抱に身を捧げている事に気付くと男は兎の名を呼んだ。
 呼ばれた兎は破顔した表情で男を見据え、鳴き声を漏らして再び組み付いた。
 背を撫で擦ってやりたいが、男の隻腕はまだダメージが残っており、大人しく抱かれる事で兎の気が済むままに身を任せる以外術が無かった。
 肩越しに見える暖炉の灯火が二人の影を伸ばしている。
 それも兎の貢献だろうと感謝を言葉に乗せる矢先で再び顔面を兎の胸元に塞がれた。
 聞き間違いで無ければ兎が男に「飲め」と命令した様にも見えた。
 一年弱を容器の中で過ごした彼女は通院の度に過剰気味な活力をその身に内包し、身体に変調の兆しを与えた。
 一年弱を容器の中で過ごした兎は通院の度に過剰気味な活力をその身に内包し、身体に変調の兆しを与えた。
 その結果、授乳が可能な身体になっていた兎を通して男に流れ出す生命力の流転は忘れていた記憶を、秘密を呼び起こした。
 隻腕の筋繊維の修復が異常な速度で回復していくばかりか、目の錯覚でなければ男の腕は獣のそれへと変容していくではないか。
 変容は徐々に肩、上半身、下腹部、両足へと広がり、宵闇に紛れる黒炭の毛皮を纏い出した。
 顔は既に変容の段階が進み、長耳に長鼻と骨格さえも作り替えられ、消炭色に隈取りにも似た紅が点していた。
 彼も兎と同じく起源を供にする者であり、人に化けていた狐であった。
 授乳から流れるそれは元を辿れば施設のそれであり、狐を急速に癒した効果も納得のいく結果である。
 一頻り吸い尽くすと完全に人間だった頃の面影は幻の如く霧散し、改めて双方が顔を見合わせた。
 無遠慮なのかやや遠慮しているのかどっちつかずな手探りで兎が狐の口先や頬を撫で図る。
 視線が交錯し、口端が葉擦れ、舌先を食み吸い、昂る発熱を吐息に乗せて互いの意思を擦り合わせる。
 正直な所確認すらも不要であった。そうさせるのはまだ人間だった頃の名残を各々が意識していたのかもしれない。
 隻腕が兎の腰に伸びた。それを縁として兎は三度狐を胸に抱き、腰を落とす。
 灯火が写す幻が織り成す手影遊びを床に転がる殻だけが見ていた。
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 吹雪の後は必ず晴れる。
 隙間から差す木漏れ日が両者の爪先に伸び、じんわり広がる心地好さに目を醒ますはずだった。それ以上の心地好さを密着した全身で感じ取る最中の獣達にはやや弱い温もりで、結局目覚めたのは大分陽が高くなる正午過ぎである。
 床に投げ出された林檎が転がり落ちているのをふたりで分け合い、喉の乾きを潤す。
 そろそろ離れても良さそうなものだが、そうしたくとも出来ない理由は狐の生態にして種族に基づく身体的構造が原因であり、加えて長年そういう機会の無かった牡に時が巡ればたった一夜程度で手放す等惜しくもなろうというものだ。
 これには兎も呆れ顔を隠せずとも不快感等の不純物は無く、逆に再燃焼の燃料に換わり、自ら抱かれに狐を挑発する。
 胸の柔肉は若干萎みはしたものの未だ張りを残し、牡を昂らせるには十分に足るたわわさを綿毛の手が包む。
 勿論狐も臨戦態勢はできているのだが、その前に話をしようと自前の赤髪を兎ごと巻き込んで視界に映える馳走を隠す。
 くすりと笑う兎を横目に狐は気恥ずかしさを振り切るべくさっさと本題に入る。
「いつから気付いていた」
「確信は無かったけど、疑惑を持ったのは彼方が俺を庇った時。ほんの少しだったけど俺と同じ臭いがした。逆に聞いていい? 何でずっと化けていたのさ」
「化けていたんじゃない。自分がそうだと分からなかったんだ。君を抱くその時までずっとそれを忘れていた。僕は過去から逃げ出したくてこの地から離れたんだ。でも結局は戻ってきて、今こうして君とここにいる……君は何で着いてきた?」
「……俺も同じ、逃げ出したかったから」
「恐ろしい主人だったな、あれは」
「昔はああじゃなかったよ。嫌な記憶ばかり思い出すけれど、それでも全てが最悪だった訳じゃない」
「すまんな。責めるつもりはなかった」
「良いよ。彼方こそどうしてあの時反撃しなかったの。それ以前に逃げ出すことだってできたはず」
「目の前の少女を捨て置く事が出来なかっただけだ」
「少女って柄じゃないんだけど」
「僕から見れば少女だよ。こう見えて50、いや60は過ぎたのか」
「……爺じゃん」
「すっかり歳を食ってしまった。気がつけば僕の主人以上に長く生きてしまった」
「彼方の主人は?」
「もう居ない。病死でね。ここは主人が生前使っていた名残だよ」
「さっきの過去から逃げたかったってのは……」
「恥ずかしながら死を認められなくてね。彼は絵画を生業に生きていたんだが、全く売れなくてね。あそこに立て掛けてある肖像画が見えるだろうか。あれが主人だ」
「えっ……若くないか」
「君の主人とほぼ変わらない歳かな。いや、もう少し上か……どうにも時間の感覚がズレていて正確に計算ができんな。長く彼に化けすぎた」
「化物じゃん……」
「それは僕には誉め言葉だな、ありがとう。だが僕なんてまだ可愛いものだ。君の主人こそ真の化物だと称するところだよ。恐らくだが彼女は僕の正体に薄々気付いていたんじゃないかと思うよ」
「流石にそれは」
「絶対に無いと言い切れるかね。思い出してみたまえよ。彼女は人間を酷く嫌っていた。それが実の親であれだ。だからこそ彼女は肉親を殺害せしめた。彼女は愛に餓えていた」
「……」
「そして僕も、君も均しく餓えていた。奇妙なことに餓えた獣同士がひとつ所に集まり、コロニーを形成した」
「もっと話し合えば分かり合えたのかな。お互いに全てを語り合えたら今頃違っていたのかな」
「酷だが過ぎた事を嘆いても結末は変わらん。僕がそれを証明している。それに語り合えたとしても恐らく彼女と僕はそうはならなかっただろう」
「どうして?」
「あの場で行われていた僕と彼女のそれは語り合いではなく『騙り合い』だった。僕が僕という正体を完全に忘れていなければ、僕も君と同じく彼女に支配されていたのだろうね」
「……彼方も俺を支配する?」
「しないと言えば嘘になる。僕ももう歳だ。長く生きすぎたし、独りで居るのも慣れてきて死を受け入れる準備ができたと思った。だがここにきて怖くなってしまった――君という番を欲してしまった」
「故郷を離れ、見知らぬ土地に放り出されて最期は独り寂しく死んでいく――そんな甲斐性なしの牡じゃなくて本当に良かったよ」
「僕と生きてくれるか、春」
「爺さんを放り出した挙げ句孤独死されても寝覚めが悪いしね……行くよ、ずっと傍に居る」
「ありがとう」
「それと、さっきの春って?」
「君の名だ。スプリングは僕の故郷の言葉では春と読む。これから訪れる季節も君と同じ名だ」
「春、はる、ハル……」
「嫌か?」
「ううん、とても気に入った。お腹の奥がポカポカして変な感じだけど、良い名前を貰ったんだって実感するよ……彼方は?」
「ん?」
「彼方の名前は無いの?」
「……忘れてしまったよ。でも僕の主人の名前は覚えている。彼は須能と呼ばれていた」
「すのう」
「君の土地の言葉に言い直すならスノーとも言う」
「スノー」
「そしてスノーはここでは雪と言う」
「ゆき」
「それを僕の名前にしよう。どうかな」
「雪、ゆき、ユキ……」
「嫌なら別の候補を考えるが」
「雪って解けたら最期には消えちゃうよ」
「そうだな。だが雪は二つの季節の間にしか存在しない。冬と春の傍に必ず寄り添い、最期は春を潤す清水に変わる。僕は『春を潤す雪』となろう」
「……長生きしてよ?」
「努力はする」
「じゃあ早速潤して貰おうかな。続き、しよ?」
「……努力する」

 ぱちりと暖炉の火が爆ぜる。
 足された火種は何を数えて爆ぜるのか。
 答えられるべくもなく。爆ぜる。
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 後書

 前回の短編小説大会の反省を活かして励み、3票頂きました。ありがとうございます。
 あれを書きたかったりこれを削らなくてはならないと言ったそういう部分について解説したい所ですが、長くなるのでそういうのはTwitterにツリーとしてぶらさげておく事にします。
 ここで解説として語るのは物語の構成に関する部分。
 気づいた人には分かる通り、書き方や見せ方は前回の物と殆ど変わりません。
 持論になりますが短編小説は起承転結という基本を書く練習としてはなかなかに最適なジャンルだと思います。
 一万文字という制限の中に起承転結の四部を分けて書くという意識をしてみると大体二千~三千文字で区切りをつける事ができます。
 そうなれば後は

 ・画家
 ・兎
 ・その後
 ・〆

 と言った具合で4つの語り部を構築してやるだけです。割とシンプルな見せ方になりますね。
 普段なら〆切ぎりぎりまで着手しないのがどういう訳かエントリーしてスタートしてから二日後には投稿してたので何故すらすら書けたのだろうと自己分析してみたのですが如何でしょうか。

 それでは恒例の最後の挨拶となります。
 主催者様、参加者の方々、読者の方々。お疲れ様でした。
 また次回もお会いしましょう。
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>画家の男と挫折したエースバーンの関係性を、それぞれの視点から情感ある文体で描写してからの、最後のヒネりに驚かされました。短編を読む楽しさが、しっかり詰まって読み甲斐ある一作でした。 (2020/07/17(金) 16:41)
 私なりの短編小説の見せ方にして魅せ方をお披露目できて満足です。一票ありがとうございました。

>視点を変えてそれぞれの関係に深みがでてて良かったです (2020/07/18(土) 12:03)
 さながら調味料のさしすせそ。一票ありがとうございました。

>春に添う雪、交わり融けていくふたり。固く結ばれた契りが続きますように。 (2020/07/18(土) 21:52)
 特定しました。一票ありがとうございました。
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