[[てるてる]] '''&size(19){ルイス・ホーカー(5)};''' '''&size(19){ルイス・ホーカー .5};''' ---- ・[[前回の更新分へ戻る>LH4]] ・登場人物の紹介は[[''こちら''>ルイス・ホーカーの登場人物、世界観などの紹介]] ---- &aname(eve); 風に吹かれて、はらりと木片が落ちてくるのが見えた。 手に取ってみると、さきほどルイスに引っかき回されて節くれ立った屋根板の一部だということがわかった。 バーテンダーのドクロッグはしばらく手の中でそれを弄んでいたが、風化した木片はすぐに粉々になり、彼の指の間から風に乗ってすり抜けていった。 渦を巻いて通り過ぎる木くずと赤土を目で追っていると、何の前触れもなくスイングドアが開いた。 「マスター、そんなとこでなにしてるんです?」 先ほど見送った青年と同じサンダースであるイヴの声に振り返ると、片方だけ開けられたドアの陰から顔だけを覗かせているイヴを見つけた。 「いいや、風が気持ちいいなと思ってね」 大げさに両手を広げて言ったのに、イヴは怪訝そうに眉根を寄せる。 「はあ、そうですか。ところでマスター」 店内に戻ったドクロッグに問うた。 「ルイス……じゃなかった、ホーカーさんはどちらへ?」 「首に縄を巻かれて帰ってったよ」 「そうなんですか、よかった。ところでその首に縄って?」 「言葉のあやってやつだ。気にせんでくれ」 首をかしげるイヴを追い抜いてカウンターの裏の定位置についたドクロッグが、そうだ、とあからさまな柏手と共に口を開いたのは、イヴがカウンターの上に置き去りにされたグラスを片付けようとしたときだった。 声につられて顔を上げたイヴは、意味ありげに口元を歪めるバーテンダーに瞬かせる。 「どうかしましたか?」 「あの若造に頼まれてたことがあったんだ。お前さんに伝えて欲しいらしい」 それに対して、へえ、と素っ気ない態度で答えてそっぽを向いたイヴだったが、態度に反してその耳は確かにバーテンダーのほうに向いていた。 「大したことじゃないさ。また会いに来るってことと、それと……」 ドクロッグはそこで一旦言葉を切り、目の前のウエイトレスの反応を伺った。 さっきと大して変わらず、じっと明後日の方向に顔を向けて椅子に腰を下ろしていたが、ドクロッグの抱いていた疑問を核心に変えさせるだけの仕草の変化は現れていた。 相変わらずバーテンダーのほうを向いたままの耳、そこにちらちらと片目を伺わせて続きを催促するような仕草を改めて見て取り、ドクロッグは満足げに心内に頷いた。 イヴはルイスに心を寄せている。 間違いないと言い切れるだけの根拠はすでにある。 先ほどルイスと隣り合っていた彼女の見せていた笑顔は決して営業用のものでなく、イヴ自身から発せられていた。 ルイスのほうも、初対面にも関わらずうち解けているように見えた。 心を開き合った男女の行き着く先なんて、わかりきったことだ。 再度そのことを思念に横切らせたとき、ドクロッグはバーテンダーとしての自身を思い出した。 カウンターの向こうで繰り広げられる人間関係を第三者として介入することのできるのは、第一にバーテンダーだろう。 ならば、この惹かれ合う二人の手伝いをしてやっても構わないだろう。 そうと決まれば、とカウンターの上に片手を乗せてイヴのほうに身を乗り出す。 「今度二人きりで食事でもしないかって」 言い終わるよりも先に振り返ったイヴの両目は驚きに見開かれていた。 背中を中心としてみるみる内に逆立っていく体毛は、彼女がそれだけ動揺していることを表していた。 「ほ、本当ですか? そ、その……二つ目の話」 もじもじと椅子の上で腰を浮かしながらの言葉は、酷く落ち着きを失っていた。 「本当だとも、お前さんにうそを言ってどうするんだ。それでおれに益があるか?」 背中を丸めて肩を震わせるサンダースにたたみ掛けると、とうとう口を動かすこともままならなくなったのか、イヴは小刻みに首を振った。 その様子に、ドクロッグは少なくとも自分がルイスに、勝手なことをしやがって、と殴られることは無くなっただろうと安堵した。 そんなドクロッグの様子に、驚きと喜びに混乱したイヴが気づけるはずがなかった。 そもそもイヴは恋愛というのをしたことがなかった。 異性との付き合いは友人としてしかなく、友人と恋人の区別もよくわからない。 友人とおしゃべりをしたり顔を合わせるなかで、恋愛なんてこんなもので友情と大差ない、と納得していたふしがあった。 ただしそれはルイスに出会うまでの話だ。 ルイスの目鼻立ちのはっきりした顔つきと無駄なく引き締まった身体は、イヴの心を惹き付けるのに十分だった。 床に伏した母の看病のため町に来て以来、同世代の者と会う機会を失っていたため、ルイスの快活な表情と声は新鮮だった。 比較的高齢の者が幅を占めるこの山峡でウエイトレスとして働いているうちに、いつのまにか見失っていた若者らしさの代名詞を見つけたような、軽い高揚感を伴った嬉しさ。 もっといっしょにいたい、もっと話をしたい。 女性としての自分を思い出させてくれた魅力的な男性に対しての願いは、わがままなほどに身勝手で、それでいて不必要なことまでも思い出させてくれる。 ルイスが時折見せていた、あの表情を。 思い詰めたようにグラスを見つめていた彼の姿を思い出したイヴは、ふと顔を上げて目の前に置かれたグラスを見た。 空になったグラスに映るのは薄暗い店内を背景にしたイヴの姿のみで、そのときのルイスはどこにもなかった。 にも関わらず、イヴは記憶は鮮明にルイスを捉えていた。 明朗闊達としたルイスの表情が、前触れらしい前触れも見せずに暗澹へと落ち込んでいった瞬間を、意識に残さないほうが難しい。 重々しくうなだれ、茫然自失とただ一点に視線を投じていたルイス。 丸められた背は、見えない重圧に怯えているような気配を伺わせていた。 言葉を打ち切ってまでルイスを悩ます要因はなんなのだろうか、なんとかそれを解消してあげる方法はないのだろうか。 イヴは視線をグラスから外して、ちらりとドクロッグを見上げる。 いつまで経っても顔を上げないイヴに退屈したのか、背を向けたバーテンダーは酒瓶の並んだ棚をいじっている。 ルイスと古くから付き合いのあるドクロッグなら、何かわかるのではないか。 あの、と問いかけたイヴは、振り返ったドクロッグの表情に言葉を失った。 「どうしたダウニー。なにか悩み事かい?」 薄く笑みを浮かべてイヴを見返すドクロッグ。 その態度に、少しもルイスのことを気にかけているふうでないことをイヴは即座に知った。 「あ、いいえ……その、なんでもありません」 短い言葉を発するのにまず、信じられないという思いを無理矢理に飲み込む必要があった。 その苦しい言い訳に、バーテンダーは笑みをしまい込んで眉根を寄せる。 「なんでもないようには見えんがねえ」 顎下の赤い毒袋をなで回しながらぐっと顔を近づけてきたのに、イヴは視線を泳がせる。 なので、偶然視界に入ったグラスを何の考えもなしにドクロッグに突きつけたのはさして深い意味を持ってはいなかったし、それをドクロッグが受け取ってくれたというのも意図して出来たことではなかった。 「ああ、なるほどね」 手中のグラスとイヴとを交互に見ながらドクロッグは言うと、グラスを受け取って棚に振り返った。 鼻歌を口ずさみながら一列一列を吟味するバーテンダーの背を、イヴは複雑な心境のもとに眺めていた。 ルイスの様子は、無視できるほど些細なことではなかったはずだ、現にドクロッグはルイスが押し黙ったとき、イヴと同様の不安を共有していた。 ならどうしてこうも意識に留めていないのか、何事もなかったように上機嫌でいられるのか。 深く考え込もうにも、音程の外れた鼻歌に阻まれては空すべりを繰り返す。 やはり聞くしかないのだろうか。 ドクロッグの後頭部を見つめながら、イヴは思う。 思う気持ちはあっても、イヴはそれを行動に移せないでいた。 聞いてしまえば、変な回り道をすることもなく真相を確かめることが出来るが、同時に全てを知ることになってしまうからだ。 イヴの知るところによるルイスの姿は、店を訪れてから帰るまでのごく一部でしかなく、ゆえに今のイヴにとってそれがルイスを表す全てである。 そこに新しい情報が介入すれば、当然全体に変質をもたらす。 良い方にも悪い方にも変化する、全てを知ってもルイスを好きでいられるのだろうか。 深いため息と共にカウンターに突っ伏したイヴは、ちびた木目のかすれたにおいとひんやりとした感覚が頬を撫でるのに目をつぶる。 どうしたら良いのだろうか、誰に問いかけるでもない問いは、再びため息となって口から漏れ出たのだった。 先ほどのルイスを彷彿させるイヴの体勢に、なみなみとウイスキーの入ったグラスを掲げて振り返ったドクロッグは思わず首をかしげた。 先ほどイヴにグラスを突きつけられたのを、デートの景気づけのために酒を要求された、と勘違いしているドクロッグに、解を導くことは到底不可能なことであった。 &aname(louis); 吹きすさぶ赤土に目を眇めながら、サンダースのルイスははるか下に横たわる通りを見下ろす。 いくらルイスの才たけた身軽さをもってしても、八階建ての屋上から飛び降りて無事で済むわけがない。 なんとか降りる方法は無いだろうかと壁沿いに張り付いた室外機や外付けダクトを眺めていると、遠く道の向こうからかすかなエンジン音がするのに気付いた。 &ruby(ろくろく){轆轆};の響きを携えて博物館を目指す車が、ふらふらと危なっかしい蛇行運転を繰り広げていることから運転手が相当無理な姿勢を強いられていることが見て取れる。 あのままにしておいたら、ぶつかるのは目に見えている。 フロントバンパーからボンネットまでを引き裂かれ、見るも無惨なスクラップにされた愛車の姿を念頭から払い落とすと、建物の側面をまなじりを見開いて見つめ、下へ降りるための道筋を頭に描き込む。 描き込んでから一番近い室外機にルイスが飛び降りるまで、ものの数秒と時間は掛からなかった。 黒く変色した油にまみれた室外機が音を立てて傾くのも気にせず、その横を伸びるダクトに飛び移ると、隣りの建物に設置された非常階段へと助走を付けて跳躍する。 階段を伝い降りて地上までたどり着くと、両手足に付いた異臭を放つ油を赤土に擦り付けながら、道路の真ん中に飛び出す。 すぐ手前まで来ていた車は、突然現れたルイスに急ハンドルを切った。 地を掴み損ねたタイヤが赤い粉塵を巻き上げる。 車体を立て直そうとしてるのか、悪あがきにも取れるくらいにステアリングが右へ左へと振れる。 コントロールを失った車が完全に停止するまでにはしばらくの時間を要した。 急激な動きにエンジンストールを起こしたらしく、排気口から咳き込むような音が聞えたきり静かになった。 漂う赤土に覆われた車に目を凝らしてみると、フロントガラスの向こうに驚きに肩で息をするマグマラシのゾルタンの姿が見えた。 彼の見開かれた目にうっすらと涙が浮かんでいるのに、ルイスは心内で快哉を叫ぶと、運転席側のドアを乱暴に引き開けた。 「よおゾルタン」 片手をゾルタンの首根に回して脅しつけるような声を浴びせる。 車体に叩き付ける砂の音を切り裂くだみ声に、放心しきっていたゾルタンははっとしたように頭を振る。 なに、と問いたげな視線を向けてきたゾルタンに、ルイスは首に添えた手に力を込める。 「言うことは? あるだろ」 「危ないじゃないですか、いきなり飛び出してくるなんて」 ぎこちなく口を開いたゾルタンの発した第一声はそれだけだった。 これが惜しげながらも謝ってくれたならルイスの溜飲も下がっただろう。 一層濃くなった憤懣が突き動かす勢いに任せて、ゾルタンの背中を助手席にはり倒した。 「さっきはなめた真似してくれたじゃないか、このキャベツ野郎」 「待ってください」 うなり声を噛んだ物言いに気圧されたゾルタンがすがるような声を上げた。 「あの時、酒場の中でホーカーさんはわたしに絶対に動かないとおっしゃられましたよね」 「ああ言ったさ、それがどうした。おまえが車を持ち逃げにしたこととどう関係がある?」 言って、にじり寄ってきたルイスに近づかれた分だけ後じさりするゾルタンだったが、すぐにドアに阻まれた。 マグマラシの身体の構造上後ろ手にドアを開けることは出来ない、かといって今のルイスに背中を向けることは危険だと本能的に察知しているらしく、ゾルタンは顔をルイスに向けたまま目だけを泳がせている。 「ホーカーさんを博物館に戻らせるのに有効な手段は、あなたの車を動かすことだと結論したからです」 「ならなぜおれが車に飛びついたとき、おまえはブレーキじゃなくアクセルを選択した? おれが店を出てきた時点で帰る気があったのは明白だろ」 それは、と一瞬口ごもるゾルタン。 「もしあのまま車を止めていたら、あなたはわたしからキーを取り上げて酒場に戻られたのでは?」 問いかけてきたゾルタンの口ぶりは、いかにも言いづらいふうだった。 その意見に、ほう、と納得したように頷いたルイスだったが、内心ではちっとも納得なんかしていなかった。 あくまで自分を正当化しようとしているゾルタンの態度は、至極腹立たしい。 普段のゾルタンなら、こんな他人の怒りを買うようなおろかなまねはしないだろう。 なにをそんなに急ぐ必要があるんだ、と思ったことを口にしようとしたルイスの脳裏に、ふとトニーのことがよぎったことである種の納得をすることが出来た。 浮浪児であったルイスを保護し、救ってくれたトニー・チーチ。 なぜあの時、見返りのない慈愛の手を差し伸べてくれたのか、この瞬間にルイスは何となくだが理解したような気がした。 トニーがルイジアナという名前でルイスを自分から突き放そうとする理由、博物館の仕事という義務を盾にしてルイスを自分の近くに縛り付けようとする理由。 その一見して何の接点のないこの二つの理由は、たった今はじき出された解によって紡ぐことができる。 離れすぎず近づき過ぎず、一定の距離を置くことによってルイスの全てを支配するため。 たかが弟子という世間に裏打ちされた鉄格子の向こうにルイスを置き去りにするため。 たとえルイスが英雄的な偉業を成したとしても、それは世間にとってそれは単なる弟子の実績であり、弟子の実績はすべて師匠に吸収される。 それがトニーの思惑なんだ。思惑であり、ルイスに差し伸べた慈愛の正体。 ルイスから何もかもを奪い取り、都合の良い傀儡として操る。 どれだけルイスが周りに認められようと努力したところで世間の目という武器をつかって帳消しにしてくれる。 ルイスに科せられた境遇と立場を支配する幾十にも重ねられた桎梏、その手綱を握っているのはトニーのような気がしてならない。 思いこみが呼び寄せた思いこみ、それは当事者に勘違いと真実との相違を見えなくしてしまう。 無論ルイスはそのことをわかっているつもりであった。 トニーは決してそんなことをしない、する理由がない。 しかし、それを納得するための理由も存在しないのだ。 否定にも肯定にも存在しないあいまいな理由、それはどこまでも平行する黒と白の混じり合った境界線のただ中のグレーゾーンに位置している。 グレーは黒でもなければ白でもない、どちらにでも傾ける色。 普段のルイスなら、良識のもと白へと比重をかけることができるが、先の酒場でよぎった酸鼻の念がそれをままならなくしていた。 トニーさえいなければ。 少数者であるルイスをトニーが多数者の中に引きずり込んだりしなければ、少なからず彼は自分を認めてくれる社会を持てたのに。 酔いが覚めた今、暗く陰鬱とした気分を振り払えるものはなにもない。 臓腑に絡み付いた情念に視線を落としたきり黙り込んだルイスを、ゾルタンがいぶかしげに首を捻る。 「ホーカーさん?」 友人の急な態度の変化に彼は、逃げ道を確保しておこう、という考えを失念していた。 「顔色が悪いようですが、大丈夫ですか?」 ルイスは顔を上げて、心配げに覗き込んでくるゾルタンに手を振った。 「なんでもない、ただ……」 ただトニーを悲観していただけ、と言いいかけたのを首を振って誤魔化す。 トニーを慕ってやってきたこのマグマラシにそのようなことを言えば、傷つくことは明らかだ。 友人に失望の目で見られることは、さすがのルイスも避けたかった。 「ただ……なんです?」 問いただしたゾルタンは、時間を気にしているらしくしきりに首から提げた懐中時計に目をやっている。 別の話題を見つけ出そうと頭を抱えそうになっていたルイスは、その様子を見てふとゾルタンが自分を博物館に連れ戻すために車を持ち逃げしたことを思い出した。 ルイスは自分がトニーに失望の念を抱いていたことを誤魔化すのに、それを利用しない手はないことをすぐさま理解し、実行に移した。 「いやなに、おまえもおもしろいこと言うなって」 おもしろいこと、と反芻するように口にしたゾルタンにルイスににやりと口端を曲げる。 そのあと、びくっとゾルタンが身体を飛び上がらせたのは、彼の怪しい笑みに恐れを感じたからだった。 「そんなことを言うからには、おれから電撃を浴びせられるはめになることは覚悟の上なんだろう?」 背中をぴったりとウインドウに貼り付けたゾルタンは、それを聞いて小刻みに首を振った。 助手席の上の後ろ足を何度も組み直している。 「や、やめてください。それだけは」 片手をルイスのほうに突き出しての震え声、開いた瞳孔に両耳を後ろに倒しているのは本当に恐怖を感じているからだ。 マグマラシの身体は、得てして電撃に弱いわけではない。 ゾルタンを真の意味で怖がらせているのは、電撃ではなくルイスの態度だった。 先ほどまで怒っていると思えば、急に内に籠もったように消沈として、また怒る。 法則性のない不安定な心の起伏が、ルイスの感情を読めなくさせていた。 だからゾルタンには、これが悪ふざけによるものなのか本気によるものなのか判別しようがなかった。 もしかしたら全身黒こげの荼毘にされるかも知れない。 脳裏によぎった悲惨な末路に短く悲鳴を上げると車外に逃げだそうとルイスにくるりと背中を向けた。 車から降りて近くの路地に逃げ込めば助かるかも知れない、追い込まれたゾルタンの憶測はルイスのサンダースとしての俊敏さを忘れていたからこそ出たものだった。 そのため、首根を噛みつかれて仰向けに引き倒され、シートの上に押しつけられたときもゾルタンはまだ逃げようともがいている。 起き上がろうと辺りを引っかき回すゾルタンが身動き出来ぬよう、ルイスは彼の下腹にのし掛かった。 「悪あがきはよせ」 言って、なおも抵抗を続けるゾルタンの両手を座席に押しつける。 そこでやっとゾルタンは自分が腹を無防備に晒していることに気付いたらしく、おとなしくなった。 口を半開きにして胸を上下させるゾルタンの呼吸が車内に木霊する。 「大丈夫、死ぬまでにはやめるから」 涙ぐんだ瞳をまっすぐルイスに向けているゾルタンは、その言葉を聞いて激しく首を振った。 進退きわまるところまで追い込まれてもなおルイスに手を出してこないのは、彼が友人に手荒な振る舞いが出来るような性分ではないからであろう、とルイスは時折自分のほうを向く口腔を見ながら思う、火炎放射の射程内に入っている自身を意識しながら。 ルイスも好んで他人に暴力を振るえるほど人でなしではない。 だが、ここでやめればこの誤魔化しが無駄になってしまう。 すまん、と胸の中で謝ったルイスは電撃を放つため身体に力を入れた。 同僚を痛めつけることに腹を決めたルイスが、その固い決心を崩したのはその時だった。 何の前兆もないままゾルタンの上に出来た人影、目で追ってみると、ルイスが廃空港から酒場に向かうときに出会ったオオタチが車の中を覗き込んでいた。 その時と同じように、長い尻尾をオタチのようにつかっている老人はルイスと目が合った途端気まずそうに顔を逸らした。 また小言を言われると内心うんざりしていたルイスは、思いも寄らない行動に首をひねるはめになった。 ルイスもゾルタンも気付いていなかったが、二人の体勢はあらぬ誤解を招きかねないものだったのだ。 息を荒げ、頬を薄く上気させて仰向けに寝転がった濡るる顔のマグマラシと、そのマグマラシの下腹に馬乗りになっているサンダース。 行程を知らない者がそれを見て想像するものは、あまり気持ちの良いものではない。 顔を見合わせたルイスとゾルタンがこのオオタチにどう思われているかを理解したのは、オオタチが意味ありげな笑みを浮かべて車から去っていくその時だった。 「おいおいおい待ってくれ、違うんだ! 誤解だ誤解!」 ゾルタンを踏みつけ、半ば体当たりでドアを押し開けたルイスは去っていく後ろ姿に叫んだ。 呼び止められた老人はぎくしゃくと振り返り、先ほどとは打って変わって屈託のない笑顔を、ぎこちない動作を携えて若者に向けた。 早くこの場を離れたいのか、振り返った後も足だけは後ろを目指している。 「おれはなんにも見てない、だから誰にも言わないから。趣味と性癖は人それぞれだもんな」 言下に駆け出したオオタチに、違う、と否定する間もなく老人は路地のほうへ消えていった。 荒涼を抱え込んだ通りをただ呆然と見つめるルイス。 頑是無く騒ぎ立てる砂の音が一人残されたルイスを覆う。 四肢の爪先に張り付いた影は、鏡に映したようにがっくりと肩を落としたサンダースの姿を的確に赤土の上にかたどっている。 今まで幾度となく老人どもの暇つぶしのやり玉に上げられてきたルイスだったが、こればっかりは堪えた。 きっと明日の夕方までには町全体にこの醜聞が広まっているだろう、それもオオタチの口から飛び出した尾ひれだらけのゴシップとなってだ。 「……最高のくそったれだ」 目一杯のから元気を駆使してつぶやくと、自嘲気味に口元を歪める。 変に見られるのはいつものことだが、トニーまでも巻き込んでしまったと思うと救われない。 普段はルイスとトニーを別々に見ることによってルイスだけに的を絞って責め立てる年寄りどもだったが、ルイスが取り返しの付かない失態を犯したときのみ例外である。 説教の対象はルイスからトニーへと移行するのだ。 しつけが成ってない、保護者としての責任はどうした、親としての自覚はあるのか。 散々トニーに文句を言う傍ら、老人たちはルイスを罪悪感に浸らせて楽しんでいるのだ。 遠方の街をねぐらとしていた浮浪児が山に囲まれた田舎町に地縁があるはずがない。 この地域の共同体に入れないでいるルイスが縋れる唯一の存在、それは彼を連れてきたトニーだけだ。 ルイスはトニーが好きだった。 生きる道筋を曙光のように照らし続けてくれるトニーを尊敬もしていた、たとえ訝りがあったとしたも。 年寄りどもはそのことを十分理解している。 理解した上でトニーに言いつけるのだ。 陸の孤島と言っても相違ないほどに孤立したルイスを、さらに孤独に追いやるために。 くそったれ、いらいらと前肢で地面を蹴りつける。 あいつらどこまで性根が腐ってるんだ。 向ける者のいない憤りは、いつまでもルイスの中で屈折を繰り返す。 そんなときに声をかけてきたゾルタンは、知らない内にルイスの怒りの矛先を定める手助けをしてしまったのだ。 「あの、ホーカーさん?」 助手席側のドアから顔だけ出したゾルタンに、ルイスは振り返る。 無表情にルイスを見つめる赤い瞳に、彼が感じたのは苛立ちのみだった。 もとあと言えば最初に車を持ち逃げしたゾルタンに責任があるのだ。 車さえ持って行かなければ、オオタチに変な誤解を招くこともなかった。 ルイスの行き場を失った怒りはとうに喫水線を越えていた。 そんな彼の感情を表すかのように、首の白いむく毛が火花を立てて逆立つのに刺激されて、ルイスはゾルタンめがけて飛び出した。 「この野郎、全部おまえのせいだ!」 吠えたててから残りのドアを引き開けて、このマグマラシの首もとに噛みついて引きずり降ろすため首を伸ばしたところで、ゾルタンの否定の声を聞いてふとその動きを止めた。 「ホーカーさん。あれ、あれを見てください」 ルイスの鋭い視線に怯え半分の態度でボンネットの向こうを指さした。 「なんだ?」 不機嫌に鼻を鳴らしながらゾルタンの指さす方向を見定めると、先ほどオオタチが入っていった路地に人影が見えた。 吹き付ける赤土に視界を削られながらも、人影が二つあることと、一方の人影がオオタチであることはわかった。 オオタチは自分の見たことの確証を得るために友人を連れてきていたのだった。 遠く憔悴しきった赤レンガの陰から見つめる二人の老人に気付いたルイスは、途端にゾルタンに対する興味を失った。 ゾルタンへの怒りよりも、老人に対する辟易が勝ったからだ。 「あいつら、相当ひまなんだろうな」 すっかりおとなしくなったルイスの語調に、ゾルタンは安堵の息をついた。 「とりあえず、この続きは博物館にしませんか?」 「そいつは名案だ」 ため息混じりに言って車へ乗り込んだルイスは運転席に身を置いてマスターキーをひねる。 息を吹き返したエンジンの轟音に責め立てられるように、タイヤは前へと滑り出す。 ステアリングを切って博物館の方向へ進路を修正しながら、ハンドルの上に残ったゾルタンのにおいにうんざりと首を振った。 ゾルタンのにおいをかき消すためにルイスがそこに頬をすり寄せるのに、ゾルタンはばつが悪そうに視線を窓の外にやった。 「すみません」 「別に気にしてないさ」 ウインドウの赤いとばり越しに詫びを入れてくるのに、ルイスはにべもなく言ったきり二人は無言になった。 それから二人が会話を始めるきっかけとなってくれたのは、老人たちの無愛想な視線を感じる路地がリアバンパーの向こうへ霧散したころに、誰に言うともなく口を開いたルイスだった。 「トニーはなんでおれを呼びつけたんだろうか」 問いかけに近い声音につられたゾルタンは振り返ってはみたものの、自分に質問されているわけではないそれに、応答すべきか否か踏ん切りを付けられないでいた。 そのあいだにも、ルイスは呼び出された理由について考えていた。 先ほどルイスを縛り付けておくためのトニーの思惑だと結論づけはしたものの、やはりルイスはトニーが本気でそうしているとは思えなかった。 どんなにトニーを悪だと決めつけたくとも、心のどこかではトニーを信じているからだ。 しかし、トニーの見返りのない慈愛の理由をルイスの経験から導くには、どうしてもトニーを悪にするしかないのだ。 悪にするといっても、所詮はルイスの想像の中であり、事実ではない。 けれども錯雑とした観念に歪んだ想像越しに真実を予想しても、間違った見解しか見いだせないであろう。 早急にそれらを打破するもっとも的確な手段は、ルイスが直接トニーに問い尋ねることだ。 ――トニーに聞く。 意図せず背筋から全身にかけて体毛が粟立つのを、ルイスは感じて激しくかぶりを振った。 それにつられてステアリングが右へ左へ振れ、ゾルタンの悲鳴が危ういところで壁にぶつからずにすんだことを教えてくれた。 トニーに真相を尋ねたところで、ルイスの希望する返答が帰ってくるかどうかはわからない。 だからこそ、否定してくれる保証のないこの疑念を聞くのが怖かった。 もしトニーに聞いたとして、それをトニーが認めてしまえば、ルイスはどうしてよいかわからなくなってしまう。 「……くそったれ」 くだらないことにうじうじと悩み続ける自身に向けて悪態を放つと、乱暴にギアチェンジをする。 大型エンジンが叫び立てると同時に急加速する車。 押しつけられる背中にうめき声を上げるゾルタン。 漆黒のボンネットを過ぎ去っていく建物の影に、ルイスはついでに自分の中にとぐろを巻いている煩悶も置いていけないだろうかと思った。 「あの、よろしければ運転変わりますが」 遠慮がちに話しかけてきたゾルタンを、ルイスは横目で睨んだ。 「車どろぼうに渡すハンドルはない」 そうですか、と肩を落としたゾルタンはルイスが正面に向き直るよりも先に再び口を開いた。 「チーチ館長はどうしてわたしたちを呼びつけたんでしょうね」 「おれに聞かれても知らん。どうせまた倉庫の整理か、もしくは……」 不自然に途切れた言葉に、ゾルタンが疑問を口にするよりも先にルイスは続きを接ぐんだ。 「……わたし“たち”だって? おまえも呼ばれてるのか?」 「はい。わたしとあなた、それからビアスさんの三人」 「リリアンもか。三人も集めてトニーはパーティでも始めようってのか」 軽やかな言い回しを受けて、ゾルタンは片手を首筋にやる。 「一つ思い当たることがありますが」 ばりばりと掻きむしりながら言ったその自信なさげな口調にルイスは耳を向ける。 「アル・ドドという方に関係あることのようです」 突如ロックされたタイヤに車体が大きく前のめりに傾いでから停止したのは、ルイスが驚愕のあまり無意識にブレーキを降ろしたからだった。 ハンドルという身の支えを持たないゾルタンはつんのめった身体に対処するひまもなく、フロントガラスに額をしたたかにぶつけた。 「アルだって?」 額を押さえてうめき声を上げながら助手席に崩れ落ちたゾルタンに同情の念を抱くよりも先に尋ねた。 「おまえ今アルと言ったな、本当か?」 「ご存じで?」 受け流しきれない痛みに額をシートに擦りつけて誤魔化すゾルタンが食いしばった歯の隙間から漏らしたのに、ああ、とルイスは生返事を返して彼を引き起こした。 座り直したゾルタンが、冷たいドアウインドウに顔をくっつけて痛みを逃そうとしているのを横目に捉えつつ、車を発進させる。 「トニーに負けず劣らずの考古馬鹿のヘルガー。そのヘルガーがアルさ」 「ヘルガーですか」 電話で聞いた低いだみ声の理由に納得して頷くゾルタンを、しかしルイスはすでに見ていなかった。 考古博物館で働く者のうち、アルと面識があるのはトニーを除いてルイスだけだった。 トニーが浮浪児だったルイスを保護したとき、いっしょにいたのがアルだったのだ。 何から何まで世話を焼くトニーと違って、アルはある程度奔放とした態度で接してくれた。 幼かったルイスの目に、そんな二人の姿は父と兄のように見えた、それは持ち得ることの出来なかった家族の要素をどこかで埋め合わせようと無意識がさせたものなのかもしれない。 トニーが足に障害を抱え込んでしまって以来、アルと会うことはなくなってしまったが、暇つぶしに聞いていたトニーの冒険のエピソードの中に度々出てきたので、今になってもはっきりと覚えていた。 トレジャーハンターとして世界を駆けずり回るアル。 そのアルが関係しているとなると、ルイスたちの呼びつけられた理由は明白である。 「冒険か……」 ステアリングの上に乗せた前肢に力が籠もる。 あまりにも小さな声だったため、隣で懐中時計を眺めていたゾルタンが振り向くことはなかった。 もし振り向いていたとしたら、その打ち沈んだ面持ちと発した言葉について問うたことだろう。 無言の車内、フロントガラス越しに遠くを見つめるルイスにエンジンの駆動音はひときわ大きく感じられた。 これもトニーの思惑なのでは、という疑いの思念が頭にまとわりついて離れない。 それは同時に、そんなことはない、というささやきにも似た希望も存在していたからだ。 互いに打ち消し合う疑心と希望、決着がつかない理由はどちらにも確固とした裏付けが存在しないからだ。 真意の掴めない疑いは、どこまでも膨らみつづける。 そして当人に歪んだ真実を見せてしまう。 ルイスはこれ以上、疑いに一人歩きさせる気はさらさらなかった。 想像の中にいるトニーにいつも鬱憤を募らせている自分自身と決着をつけたかった。 真実を知りたい、知った先にある不透明な現実に真っ向から望む決心はついていないものの、これを逃せば、もう二度と聞きたいなんて思わないだろう。 これが自分で自分の臍を噛むような愚かな真似だとしても、現状からの打破を計れるであれば構わない気がした。 気持ちが変わらないうちにトニーに会って聞かなくては。 そしてこんな罰当たりな妄想をしていることを否定してもらうためにも。 自身を鼓舞するように唇をかみしめて頷くと、ルイスは博物館へと車を走らせる。 正面玄関前の小さな広場に進入した車を、砂に浸食された孤独の大地と共に睥睨するのは、煙雨に撹拌されたようにくすんだ太陽と蔓延する赤が創り出した血の色をした日差しのみだった。 ---- ''[[次へ>LH6]]'' ---- なかがき まず個人的事情のため、別々に分けての投稿および更新となりましたことを謝罪します。 わたしが言うのも何ですが、ルイスくんはお酒を飲んだせいでかなり悲観的になっているご様子です。 サンダースだったら自分の&ruby(へそ){臍};は噛めるような気がする。 #pcomment IP:125.202.217.100 TIME:"2011-12-21 (水) 01:34:40" REFERER:"http://pokestory.rejec.net/main/index.php?cmd=edit&page=LH5" USER_AGENT:"Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 8.0; Windows NT 5.1; Trident/4.0; YTB730; GTB7.2; .NET CLR 2.0.50727; .NET CLR 3.0.4506.2152; .NET CLR 3.5.30729)"