ポケモン小説wiki
LH3 の変更点


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・登場人物の紹介は[[''こちら''>ルイス・ホーカーの登場人物、世界観などの紹介]]
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 町の最南端にはほとんど住宅が無く、空港への道はまさに木々の緑を二分していた。
赤いとばりは、垂れ幕のような分厚さで周囲に赤を蔓延させている。
節くれ立ったアスファルトをかき分けて息吹く草は、駆け抜ける車を置いて後ろへ過ぎ去っていく。
フロントガラスの向こうで渦を描く赤土をワイパー振り落としながらサンダースは手元のアクセルレバーを動かす。
四足歩行ポケモンの身体に合わせて設計されたこの車は、通常足下にある装置は全て手元に移動している。
そのため、彼のような骨格のポケモンにも無理なく操作ができるようになっている。
永遠に続くかと思われるくらいに途切れりない木々の隙間に建物が見えだしたのをきっかけに、彼はアクセル戻し、軽くブレーキを引いた。
南の端に位置する廃空港の駐車場に一台の車が進入してきた。
フロントバンパーに大きな金属板がはめ込まれた黒塗りの見るからに高級そうな車は、誰もいない駐車場を大きく横切って建物の前にスキール音を響かせながら停まった。
甲高い風音に対抗するようにうなるエンジンの音は、サンダースがキーをひねったことによってぴたりと止んだ。
彼はドアを開け、吹きすさぶ赤土から目をかばうようにして車から降りた。
おぼろげな白線を上にのせたいびつにゆがんだアスファルトもまた、道路と同様に裂け目より緑が顔を出して、それらはサンダースのひじとひざ辺りの高さまで伸びている。
駐車場と滑走路とを隔てる金網はすでに錆びおち、敷石の上の赤黒い線のみがその存在をあいまいに伝えている。
足下の雑草を踏みしめながら、彼は人のいなくなった場所はすぐに朽ち果てるという言葉を身に染みて感じ取った。
キーは刺しっぱなしだったが、ここで車を盗むような輩はいない。
彼は大きく息を吐きながら、座りっぱなしで凝り固まった背中を反らした。
風にたなびく無秩序に伸びた黄色と白の二色の体毛は、もともとの荒々しい格好と相まってさらに厳めしい雰囲気を纏わりつかせている。
両手にはめられたゴム製の静電気防止リストバンドは、体色と同じためかほとんど目立っていない。
自己主張するのは、両耳の数カ所にうがたれたピアスの青と、首から掛かったネックレスの銀くらいだった。
漆黒に濡れる瞳に湛えるのは、力強い意志に裏打ちされた確固たる若い熱意だ。
容赦なくたたきつけられる砂は、常に静電気を帯びている彼の伸び放題の体毛をなびかせながらすぐに張り付いた。
それを無視して、サンダースはのろのろと顔を上げ、目の前の三階建ての建物に目をやった。
赤くくすませせた壁に縦樋が縦横に走る横で、遠慮がちに雨よけが張り付いている。
採掘された鉱石を輸送するためだけの空港に、乗客のための豪華なロビーやアクセスカウンターは必要ない。
最低限の倉庫とそれに類似したものがあれば良い。
この建物も例外ではなく、無機質なそれは事務的な印象を伺わせている。
そのどれもが赤く染まり、そしてぼろぼろになっている。
長い年月は、人のいないことを良いことに老朽化を加速している。
正面扉はさび付いて開きそうにない。
サンダースにとって、仕事を怠けて酒を飲む前にここに立ち寄ることは半ば習慣となっていた。
町よりも幾分か高い場所に位置するこの空港の屋上から、いつも自分が住んでいる町を眺める。
考えただけでも、彼の表情に小さく笑みが浮かんだ。
町を眺めるのも好きだが、それ以上に彼は高い場所が好きだった。
彼は背負っているパニエ型のバッグに煙草が入っているかどうか確認すると、建物に向かって一気に駆けだして、一番低い位置にある雨よけに飛び乗った。
ぎしりと音を立てる接合部分に内心不安を感じたが、それきりなにも起らなかった。
続いて窓枠に掴まり、懸垂の要領で自らの身体をたぐりよせる。
下を見下ろせばすでに自分が地面よりかなり高い位置に来ていることがわかった。
三階まで伸びる縦樋に飛び移り、身軽によじ登りながら彼は自身の体が少々憎らしく感じた。
垂直の壁を、つかみ所さえあれば登ることの出来るこの能力は、欲しくて手に入れたわけではなかった。
彼はあまり自慢できる“育ち”ではなかった。
顔も知らない両親に捨てられ、浮浪児となった彼は毎日を盗みを働くことで生き延びてきた。
同じような境遇の浮浪児集団に混ざり、時には強盗まがいのこともしてきた。
彼は周りの役に立てることが嬉しかったし、周りもまた彼を慕ってくれたが、怪我をしたり、病気になったりしたときに抱きつき、頬をすり寄せられる母親に変われる存在ではないことには違いなかった。
飢えを凌ぐために集団で行動し、危険が迫れば見捨てていくという、彼らは敵でもあり味方でもあった。
友情と隣り合わせの敵意は、小さな彼にはとても苦痛だった。
嫌われないため、見捨てられないため、集団から追い出されないため、半ば脅迫概念のようにそれらは彼を責め、彼は自分を鍛え上げることでそれらを回避しようとした。
縦樋から壁を蹴ってとなりの縦樋に飛び移りながらサンダースは思った。
今の自分は、仲間の死を土台にしている、と。
飛び移るのに誤って建物から落ちていく仲間の悲鳴を聞いてそれを自身の教訓にする。
まさに狂気の沙汰だ。
そう考えられるのは今の自分だからで、昔の自分はそれが当たり前だと思っていた。

「――くそったれ」

 彼は屋上のふちに掴まりながら、自分自身に悪態をこぼした。
自分がもっとも得意とする技術は、突き詰めれば仲間を殺して得たも同然なのだ。
堂々巡りの思考は、必然的な怒りにたどり着いたが、それだけだった。
一足飛びに感じる怒り、彼は自分の力に怒りは感じても、憎悪は感じなかった。
サンダースは屋上の上に立って辺りを見回し、その事に気がついて自嘲気味に首を振る。
どんなに怒りを感じても、その途中過程である憎悪が抜け落ちているのは、現在において彼がその能力を一番必要としていることに加え、必要としている者がいるからだ。
幼少のころの彼を拾い、親代わりとなってくれたトニー・チーチ。
事故で大怪我をして以来、まともに歩くことが出来なくなった彼の代わりに務まるためだった。
恩返しをしたいという思いもあるのかも知れない、と心の中で付け加えると、彼はバッグの中から取りだして口に咥えた紙巻き煙草に静電気で火を付ける。
身体の中で重く立ちこめる苦々しく鬱屈した気分が、青白い煙となって体外に出ていくのを目で追う。
静かに空気へととけ込み、消えていく煙の向こう側に、今し方車で辿ってきた道路が見えた。
分かれ道のない一本筋のそれは地形に沿って曲がりくねり、はるか下方で風呂敷を広げるようにして拓かれた町に繋がっている。
サンダースの位置からでは、町はほとんど赤土の分厚い霞編みを通しているため、森の青に浮かんでいるように見えた。
古びた赤にかすんだ古びた町。
それはゆっくりと、目に映らないほどの足取りで朽ち果てていた。
彼が知らないほど昔に誇っていた隆盛にすがりついた町はじれったいほどに無自覚だった。
鉱石という生命線の途絶えた町は、心臓が停止したも同然だ。
停止した心臓は、当然血液を送らなくなる。
感心を失った事業は撤退し、細胞が壊死するように労働者もここを離れていった。
それでもなおしつこくしがみついた者は、無意識に現実に背を向けて、砂に飲み込まれようとする町と運命を共にしようとしている。
思わず知らずに進行する廃れとたどり着くであろう最期を、サンダースはこの場所からずっと見てきた。
無様なもんだ。
フィルターをかみつぶしながら、彼はつぶやいた。
いつかくる終焉に向けて、無くなるためだけに毎日に存在する町。
ばからしい以外の何者でもない。
サンダースはこの町が大嫌いだった。
何に対しても無気力で生気のないここから、何度も逃げだしたいと思った。
それができないのも承知の上で、何度もトニーに交渉を持ちかけてはにべもなく突っぱねられてきた。
住めば都だ、と怪我で博物館に幽閉されたも同然の彼は、あきらめにも取れるその言葉でいつも最後を締めくくっていた。
ならばせめて自分だけでもと、目立とうとすれば目ざとい老人に繰り言めいた退屈な説教を浴びせかけられる。
サンダースは首から下がった首飾りを手に取った。
銀に輝く十字のペンダントトップに、サンダースの苦々しくしかめられた表情とともに伏せられた両耳のピアスが映り込む。
なんだって彼らはこれが気に食わないのだろうか。
嫌なら嫌で無視するという選択肢を期待する方がおろかなのかもしれない。
根本まで吸い尽くした煙草をこぼしたため息で押し出す。
赤土にまみれたコンクリートの上に転がるフィルターを前肢で押しつけるようにして踏みつけ、軽く電撃を浴びせる。
燃え切れなかった葉の爆ぜるような音を伴って、黒ずみのみが残った。
彼は足の裏に張り付いた煤を屋上のへりでぬぐい取ると、縦樋を掴んで元来た順に辿りはじめた。
登りと違って重力を利用できる分、すぐに駐車場へと降り立てた。
途中二階部分の雨よけから飛び降りたために着地の際に吸収しきれなかった衝撃からくる痛みを歩を進めることで誤魔化しながら車に乗り込む。
エンジンキーをひねりながら、バックミラーに映った自身の赤土に染まった姿に苦笑する。
ギアをローに入れてアクセルレバーをゆっくり倒す。
フロントガラスも赤土に覆われているものの、ここに来るまでに使用したワイパーのおかげで半円形の二つの山形に向こう側が見えた。
大きく弧を描いて道路へ出た車は、町の方へと加速した。
高速で回転するタイヤに巻き上げられた土ぼこりが後方で大きなとぐろを巻いている。
彼がここに来るのは、あくまで酒を飲むついでである。
砂を飲み込んだようにじゃりじゃりと音を立てる胸のつかえをアルコールで洗い流す。
酒くらいで上下する溜飲ではないが、一時的に忘却へ誘うことはできる。
町のことも、老人のことも、彼の境遇もすべて。
道の先に立ちはだかるように身を乗り出す木々の壁は、カーブを数本またいだ先で唐突に終わった。
同時に視界の先が青から赤へと変化した。
生い茂る緑の生命を感じさせる色は、迫り来る砂に対してあまりにも無力ではありながらもそこにあるという実感が持てるが、町の風景にそんなものは瞠視をすみずみにかけても見あたらない。
家々の砂の染みこんだ壁は凄惨の言葉以外に表せないほどに哀れだ。
憔悴しきった土地に生えるものは、せいぜい名前もわからないような植物くらいで、貧相に沈んだ地面を一層哀れに醸している。
舗装された道路は少なく、彼の走っている通り以外はいまだに地面に直接わだちの跡が残っている。
サンダースの車は町で唯一の郵便所の前を横切った。
“次の配達は七月三〇日に、職員一同より”と手書きで書かれたふだの掛かった鳥ポケモン用の止まり木は、すでに長いこと放置されているようで、赤土がうずたかい層をなしている。
その奥では、同じように赤土に覆われた建物と、照明の落とされた窓が内側より黒いとばりをおろしているのが見える。
このような僻地で職員を常時勤務させるのは大変に困難なことであるに加え、非効率的だ。
普段は無人で、定期的に職員が配達物の受け渡しを行うという方式になるのは当然といえばその通りだ。
無くて当たり前のこの土地で、少しばかりの益を最大限に活用するためにはそうする必要がある。
それは彼にとって、ここは人の住めるような場所ではないということを無言のままに教示しているように感じられた。
やがて全部砂の中に埋まってしまうのだろうか。
遅かれ早かれ、そうなる運命だ。
独りごち、小さくなっていくサイドミラーの中の郵便所に一瞥をくれ、酒場へ向かうために路地を曲がった。
無舗装の砂利道に車体が跳ね上がる。
良好とは言い難い視界の中、何があっても車を停止できるよう速度計にちらちらと気を配る。
こんな荒れ放題の町を出歩く者がいないとは限らない。
フロントガラスに小さく人影が映った。
道の中央に立ちはだかるように構えたオオタチが、真っ直ぐにサンダースを睨んでいる。
サンダースは口から出そうになった悪態を飲み込むと、車を停止させた。
車両一台が通るのにぎりぎりの幅しかないこの道で前進を阻まれれば、後進しかできない。
乱暴にギアチェンジをして車を後ろに進めようとサイドミラーを見ようと横を向いたとき、いつのまにかすぐ近くまで来ていたオオタチと目があった。
窓を開けオオタチに声をかけるサンダースの声音は、いかにも面倒臭そうだったかもしれない。

「なにか用で?」

 茶系の体毛に白混じりの男は、開けられた窓の枠に手をかけて思い切り鼻面をサンダースに近づけた。

「ホーカー。仕事はどうした?」

老人ならではのしわがれた声にホーカーと呼ばれたサンダースはとぼけるように肩をすくめた。
それがこのオオタチには気にくわなかったようだ。

「博物館の仕事はどうしたって聞いてるんだ。誤魔化すんじゃないよ、おれにゃわかるんだ。またさぼってるね」

語気荒げに問いただす老人に、ルイスは苦々しく言った。

「そう、その通り。で、まさかそれを言いにここで案山子みたいに突っ立ってたのか。ご苦労さんなこって」

「おれはあのチーチ館長に頼まれてるのさ。お前さんがさぼらないよう見張っといてくれとな。今朝博物館の前を散歩してたら、車が出て行くのを見かけてね。どうせあの廃空港の屋根の上で馬鹿みたい突っ立って格好つけてただろうから、その帰り道で待ち伏せしてたんだ。そしたら案の定さ」

言って男はルイスに指を突きつけた。

「さあ、早く博物館に戻るんだ」

突きつけられた指とオオタチの表情を交互に見たあと、ルイスはおどけたような笑いを漏らした。

「博物館に? そんなに人が来るわけでも無いし、おれがいなくても十分やっていけるって」

ほう、と言下につぶやいた老人は指をそのままに、揶揄を含んだ目つきでルイス・ホーカーを耳先から尻尾の先まで舐めるように視線を動かした。

「ちゃらちゃらしてるのは格好だけではなかったか」

ルイスの反論を許すよりも先に、オオタチの乾燥してひび割れた手が彼の胸元のネックレスの十字架を掴んでいた。
物珍しそうに手の中で弄んだあと、嫌悪感に目をすがめるルイスの前に見せびらかすように振った。

「なんだこれは、十字架? お前みたいな悪ガキに背負うような苦労はないだろう」

ほっといてくれ、と突き放した物言いと共にトップをひったくると、まだ何か言おうとしているオオタチをウィンドウを閉めることで無理矢理車外に追い出した。
老人の怒声が薄いウィンドウ越しに捲し立てられる。
耳を寝かせてそれを無視すると、ルイスはブレーキを入れてタイヤが動かないようにするとアクセルを一気に降ろした。
咆哮のごとく打ち鳴らされたエンジン音にオオタチがひるみ、後じさったのを確認してブレーキを解除する。
後輪を砂に横滑りさせながら発進した車は、オオタチに赤土を浴びせかけながら速度を上げる。
サイドミラーに片手を振り上げて何かを叫ぶ老人の姿が見えたが、それもすぐに赤い靄の中に消えた。
再び周囲にいやがらせのような砂の音のみが広がるのに、彼は内心でほっと息を吐いた。
どうしてああも口うるさく人の個人の領域に堂々と進入してくるのだろうか。
ルイスはにはその辺りがどうしても理解しがたかった。
オオタチの言っていた、トニーに彼を見張るように頼まれたというのも気になった。
トニーが無関係の人を使うなんてありえない。
まして部下への叱責を他人に任せるような性格ではないことは誰よりも知っているつもりだ。
イーブイだったころからルイスは彼と共に生きているのだ。
つまりそれだけ付き合いは長い。
おおかたあの老人が勝手にでっち上げたことだろう。
そうまでしてなぜルイスを虚仮にする。
腹立たしげに彼は鼻を鳴らした。
トニー・チーチの名を借りてルイス・ホーカーを蔑ろにする。
それだけなら彼も柳に風と受け流すだけの余裕はある。
だがそれだけではないからこそ彼は憤慨しているのだ。
名を借りると言うことは、借りられた者に責任をなすりつけることである。
ルイスを馬鹿にするということは同時にトニーを馬鹿にするのと同じことだ。
トニーまでが、あんな年寄りどもと一緒くたにされてしまうのは我慢ならない。
しかし、彼はそのことを直接言うでなく、逃げ出してきたのだ。
こういうところに、やはりこれ以上嫌われてはいけないという危機感を感じているのかも知れない。
なにせ狭い町だ。
内側にばかり笑顔な内向的なここで嫌われることは、換言すれば彼らの背中の外へ追いやられてしまうのと同等の意を持つ。
いや、そもそももう追いやられてるか。
彼は車内の密室特有の静けさの中に辟易しきったため息を漏らす。
外界から隔絶されたここで、それはエンジン音にかき消された。
ふと、ルイスは胸元に手をやり、十字のペンダントトップをなぞる。
あいつらにファッションというものをわからせる方が馬鹿なのかもしれない。
ルイスはそれを握り、目の前にかざした。

「神よどうかわたしをお救い下さい。でなきゃあのくそったれなじいさんの腐った性根と反感を隠さない、あの目と心臓を焼いてくれ」










全てが砂に飲み込まれるがままになる中、一つだけそうではなかった。
町の外縁に位置する酒場の脇の小道に車を乗り入れたルイスは、真っ直ぐ酒場へは向かわずに、一旦店の正面の通りに出た。
酒場全体が見通せるくらいまで後ろに下がる。
使用する者のいない水桶が、並んだ樽と直接打ち付けたような板張りの壁とに平行して据えられている。
なんの工具も使わずに開けられたようないびつな入り口には、取って付けたようなスイングドアが風で揺れる。
さながら西部劇に出てくる――実際そうなるよう意識されている――、荒くれ者が巣窟にするような酒場の様相である。
その独特の雰囲気は、赤土にまみれたこの町にとてもよく合致していた。
とけ込んでいるといった表現が正しいかも知れない。
異物が徐々に変化していくのではなく、最初から変化が完了している。
最初見たときからそんな印象を受けていたが、改めて見るとよりいっそうそれが強く感じられた。
油の切れたぼろぼろのスイングドアを押し開ける。
酒とかびの入り交じったつんとしたにおいは、ルイスの顔に薄く笑みを浮かばせる。
照明の灯っていない店内の暗闇に目をしばたたかせていると、ドクロッグがカウンターの奥で背中を向けてラジオをいじっているのが見えた。
いつになく掃除された店内に足を踏み入れると、さらにその向こうの棚に陳列された酒瓶に、男が黄色い双眼のあいだにしわを寄せているのが映っている。
耳をつんざくラジオの奇声にそうとう往生しているらしく、ルイスが身体についた赤土を振り払いながらカウンターに沿って並べられた椅子のひとつに飛び乗ったのにも気付かない。
床から離された座面のおかげで、立ったままのドクロッグと同じ目線の高さになった。
外見同様店内は簡素そのもので、落とされた照明が闇を抱きかかえて腰を下ろしている。
壁際にある手垢と煙草のやににまみれた展示ケースの中には転がり草が飾られていた。

「くそっ。このぼろラジオめ」

と、ドクロッグは悪態と共にラジオを床に投げ捨てた。
叩き付けられた衝撃にスピーカーからの雑音がぴたりと止んだ。
やれやれといったふうにため息を漏らしながら顔を上げた男は、酒瓶越しにカウンターに座ったルイスの姿を見つけて振り返った。

「よおルイジアナ」

片手を振り上げて軽快に声を弾ませる男に、ルイスは目をすがめた。

「ルイスだ。その名前で呼ぶのはよせ」

「なんで、良い名前じゃないか」

どこが、と吐き捨てるように言ったルイスはドクロッグから顔を逸らした。
ルイスにはもともと名前がなかった。
物心付くか否かに捨てられた彼は親に対しての記憶がほとんどなく、唯一覚えていたホーカーという姓を自分の名前として名乗っていた。
トニー・チーチに拾われたとき、初めて貰った名前がルイジアナだった。
聞いたこともないような太古の昔に存在していた地方の呼び名に由来するそれを彼はあまり好いてはいなかった。
古くさい、カビの生えた化石じみた名前だと彼が文句を言って変えさせようとしたが、トニーは頑固としてそれ以外に変更しなかった。
結局のところ、最終的にはホーカーが折れて、ルイジアナの略称であるルイスと名乗ることで妥協した。
妥協はしたものの、彼の名前はあくまでルイスであり、ルイジアナではない。
実際の生活ではほとんどルイジアナと呼ばれることはないが、酒場の店主などある程度仲の良い者はあえてルイスと呼ばず、呼ばれた本人の不愉快そうに歪む表情を見て楽しんでいる。

「どこがってか。それはおれに対する質問か?」

言ってドクロッグは歯を見せると、ルイスの尻尾の先から鼻先までを順に見ていった。
緑がかった青の体色が、薄明かりにつやを出す。

「そうだな。しいて言うなら……歴史を感じさせる名前だってことかな。博物館の、それも考古博物館に勤めてるお前さんにはぴったりってことだ」

「おれはまだあんなカビにまみれてねえよ」

うんざりした物言いで相手の言い分をはねのけたルイスに、ドクロッグは困ったように顔を渋らせた。
新しい話題に移るきっかけを探そうと男の視線が揺れるのに、ルイスは気がついた。

「おいおい、バーテンダーは話し上手でないといけないんだろ」

「あにいくおれは口べたなもんでね」

ふざけたようなドクロッグの言い回しに、吹き出したルイス。
それがよほどおかしかったのか、ドクロッグは破顔させて笑った。
歯の隙間から押し通したような笑い声が、入り口のスイングドアが風に揺られてきーきーと音を立てているのに混じった。
このドクロッグは、ルイスが覚えている限りずっとこの場所でバーテンダーをしていた。
職に当てが少ないこの町で、転職するほうが難しいかもしれない。
飲んべえの相手をするのは退屈だと常日頃こぼしてはいたが、ルイスが見る限りまんざらでもなさそうだった。
実際、そういう不満を口にするときも嘆くような感じではなく、口癖のといったふうであった。

「そういえばなんでお前さんがここに? さては、また仕事を抜け出してきたんだな」

片眉をつり上げてカウンターに腕を乗せて問うたバーテンダーに、ルイスは肩を竦めた。

「もちろん。あんなとこにいたんじゃ歳を取るのが早くなっちまう」

「いけないねえ。またあの年寄りどもに嫌みを言われてもおれは知らんぞ」

もう言われたよ、とルイスは自嘲を含んでつぶやくと、棚に並べられた酒瓶のほうに目を向けた。
色とりどりの瓶が薄暗い中で鈍く光沢を放っている。
張られたラベルにはそれぞれ細かい字で酒の名称や種類などが記されているが、どれもがみな魅力的なことに変わりはない。

「口の中が砂でじゃりじゃりするんだ。一杯頼む」

グラスに見立てた片手を口元にやりながら言った彼に、ドクロッグはぶっきらぼうに返事をすると棚の横の扉の中へ消えていった。
酒の並んだ棚を素通りしたことを問おうと口を開きかけたが、それよりも先に閉められた扉の向こうで何かが崩れ落ちる音がした。
それきりしんと静まりかえった扉は、返ってルイスに不安を覚えさせる。
心配げに見つめる中、唐突に開け放たれた扉、同時に流れ出したちりが宙へと舞い上がる。

「何をしてたんだ?」

身体中をほこりまみれにしたドクロッグに質問するルイスに、肩をすくめるバーテンダーの両手には何か機械のようなものが抱えられている。

「久しぶりなもんでな。ちと壊れてるかもしれん」

言って、カウンターに放り出された機械。
ほこりに塗れた物体をまじまじと見つめるルイス。
少なくともウイスキーやブランデーに関わるものでないことはたしかに思われた。

「待て。あんた一体これでなにをしようとしてるんだ?」

戸棚から布袋を取り出してきたドクロッグは、問われて袋とルイスを交互に見る。
「何ってコーヒーを淹れるんだ。一杯飲むんだろ?」
コーヒーだと、目を剥いて思わず聞き返したルイスは男から袋をかすめ取った。
染みだらけの袋の口を解いて中身をカウンターの上にばらまいた彼は次の言葉を失った。
いつから放っておかれたのかわからないそれは長いこと湿気に晒され、大量のカビを生やしている。
ひび割れ、無秩序に割れ散らかったそれらに当然脂分はない。
外界に突然引っ張り出された虫たちが驚いたようにのたうち回り、木目の上を這うのに彼は顔をしかめた。
この酒場で出されるコーヒーが、ドクロッグの表情に準じてまずいのは有名だ。
昔、ルイスが興味本位で飲んだことがあったが、事前に飲んでいた酒で舌が麻痺していたのにもかかわらず、その場で吐き出しそうになったのを覚えている。
黒い色をした、ただ苦いだけの水、ほんのり漂うカビのすえたにおいが最悪だった。
その直後にコーヒーに不満を持つ客を味方にしてドクロッグを責め立てて以来、カウンターの端からコーヒーメーカーが消えた。
おそらく、この豆はその時からずっと戸棚の中で過ごしていたのだろう。
正しい茶色の上に苔のように乗った赤や黄や緑は、まぶたを閉じても鮮明に思い出せるほどに強烈だ。

「古かったかな。まあいいや安心しろ、どうせ濾すんだ」

ルイスが穴が開くほどにバーテンダーの眉間を睨め付けたのに、男は肩を竦めて言った。
コーヒーメーカーをたぐり寄せようとするその手をルイスがぴしゃりと叩いた。

「どうしてここまで来てコーヒーを、それも腐ったコーヒーを飲まされなきゃならないんだ。そもそもおれが飲みたいのは酒だ、酒」

「酒だって? だってお前さん車だろ」

入り口を振り返りながらドクロッグは言った。

「飲酒運転は違法だぞ」

「加減するさ」

にやりと笑うルイスに、バーデンダーはため息混じりに首を振ると棚のほうを仰いだ。

「何にするかい? ワインやカクテルなんて洒落たもんは期待するな」

砂や手垢で汚れた瓶を見れば、そんなことは言われなくともわかる。
そうだな、と一列づつ視線を走らせながら眉間にしわを寄せて考えあぐねるような格好をするルイスだったが、そうまでしないと選べないほど種類が豊富というわけではない。
棚に並んだほとんどは空瓶に水を詰めていたりする見せかけだけのものだ。
そもそもこの店にウイスキー以外のものがあるかどうかすら定かではない。
単純に、酒ならどれでも良いという味音痴に見られたくないのがわざわざ選ぶ振る舞いに時間をとる理由だ。

「ウイスキー、あとは適当」

はいはい、とそんなルイスの心境を知って知らずかに苦笑いを含んで返事をしてドクロッグは手前の抽斗からガラス製の口が皿のように広いグラスを取り出した。
カウンターの上に放置されたコーヒー豆の残骸を軽く払い、グラスを置く。
四肢を地に付けて歩くサンダースなどの種は、基本的に前肢を器用に使うことが出来ない。
まして、滑り止めのない物を掴んで持ち上げ、それを自分の口の位置まで持ち上げることは取っ手が付いていても難しい。
そんな彼らが物を食べるには、どうしても口を直接つけて食事せざるを得ない。
お世辞にもあまり上品と言えないそれを禁止している店も多々あるが、少なくともこのドクロッグの店だけはそんな気はなさそうだ。
誰でも利用できるようにと門前にこれ見よがしに掲げられた理由以外に、客を選ぶほどの余裕がないことも伺わせる。
銘柄の霞んだ瓶を傾けてグラスに酒を注ぐドクロッグ。
渦を巻きながらかさを増していくウイスキーの、容器と同様に黄色がかった透明な色合いが何とも美しい。

「水はどうする」

半分ほど注いだところでドクロッグが問うてきたのに、

「そのままで頼む」

と答えたルイスは目を閉じ、なみなみと注がれる酒の甘い音色に意識を傾ける。
吹き上げる砂の大気を叩く音よりは、遙かに心地よい。
そっと漂ってきたウイスキーの香ばしいかおりに思わず滴りそうになったよだれを慌てて拭う彼に、ドクロッグは瓶に栓をしながら笑いかけた。

「お前さんが酒で身体を壊すのか、車で事故を起こすのか、どっちが先だろうな」

嫌みたらしく言う彼に、ルイスはほっとけというふうに手を振る。
やっぱり、と切り込んできたのはドクロッグだった。

「やっぱり、こんな老いぼれの淹れたコーヒーなんかより、お前さんにとってうまいのは彼女の淹れたコーヒーなんだろうな」

片手で豆の残骸を弄りながらつぶやく彼の口ぶりは、決してもの悲しそうなものではなく、どちらかというとふざけた感じてあった。
気付いたルイスが、ため息混じりに視線をグラスからバーテンダーへ移す。

「いつの話だよそれ」

彼は言った。

「たしかに、あいつの淹れたコーヒーはうまかったさ。でもなあ」

そこまで言って、感慨深げに宙を見上げる。
天井と壁の境界に張られた蜘蛛の巣が黙ったまま二人を見下ろしていた。
ほこりだらけのそれに、当然家主はいない。
蜘蛛の巣と蜘蛛、どんなに良い組み合わせに見えても、合わなければそれまでだ。
数年前まで、彼は付き合っていた女性がいた。
同じ博物館に勤めているリリアン・ビアスがその人だ。
リリアンは性格もさることながら、容貌を美しかった。
ルイスがもともとは浮浪児だということを知っても、いつもと変わらず接してくれた。
なので、彼女と付き合いだしても、友情からそのままくら替えされた恋愛だったためにほとんど実感がなかった。
いつもどおり寝て起き、いつもどおり働く。
そこには当然リリアンと、付き合い出す前からのつながりも含まれている。
最初こそそれでお互い満足していたが、だんだんと友情と恋愛の相違点がないことに疑問を抱き始め、ふと気が付けばまた普段通りの生活に戻っていたのだ。
別れた、という実感は無いにしろ。
それほど深い関係まで到達していなかったのが救いだった。
彼女と別れて最初の一年は、その話題が登るたびに気まずい思いをしていたが、今となっては単なる笑い話だ。
ルイスもリリアンも、未成年にありがちな若気の至りだったと一笑している。
ぼうっと天井のただ一点を見つめるルイスに、ドクロックは気味悪さを感じたのか、わざとらしいほどに軽快に言葉を紡いだ。

「それはそうと、だ。どんな感じなんだい? 別れた女といっしょに仕事をするってのは」

「別に何も。ただいっしょに働いて、会話するだけ。もともとこういう関係だったのさ、おれとあいつは」

それに、と最後に付け加えてルイスは笑った。

「今あいつを狙ってるのは、おれじゃない」

カウンターに身を乗り出して、グラスに手を添える。
波紋が弧を描いて無秩序に乱れ走るのをしばし見つめたのち、香りをぎりぎりまで楽しんでからゆっくりとすすった。
痺れるような感覚のあとに来る、ひりひりとした痛みが鼻孔から食道にかけてを覆うのに、彼はむせた。
咳き込みながら顔を上げれば、ドクロッグが「いわんこっちゃない」と目をすがめているのに気付いた。

「やっぱりきついな」

呼吸を正常に近づけようと胸に手を押し当てるルイスが、涙まじりにそう発した。
粘膜を焼かれたような苦痛が快感に変わることを信じて再びグラスに顔を近づける。
一度目ほどではないにしろ、衝撃に怖じけ付いた彼は直接口を付けるのは止め、代わりに舌を出し入れして酒を腹に入れる。
ぴちゃぴちゃと水音がする店内に、先ほどドクロッグが入った扉とは別の扉が開く音が鳴り響いた。

「ねえマスター」

遅れて聞えてきた女性の声に、男二人は振り返ってそのほうを見る。
転がり草の入ったガラスケースの側の扉から入ってきたのは、ルイスと同種のサンダースだった。
彼より一回りも小さくはないが小柄な彼女は、背中に麻袋を乗せたままルイスに会釈した。
酒場の荒々しい雰囲気とは割に合わない清楚な雰囲気は、間近でなくとも知覚できた。
つられるように頭を下げるルイス。
それを見て笑うドクロッグ。

「裏の物置の整理終わりました。ところでラジオは直りましたか?」

カビっぽい店内を切り分けるようにカウンターのほうへ歩いてくるサンダースに、ルイスはどうして良いかわからず、とりあえず背筋を伸ばして姿勢よく椅子に座り直した。
問われたドクロッグは彼女から目を逸らして、やり場のない視線を天井へ向ける。

「それがな。どうもおれは機械に好かれないようでな」

言葉尻を濁しながら答えた彼は、床に転がった壊れたラジオを指さした。

「買い換えないと」

「壊しちゃったの? まだ直るかもしれないのに、かわいそう」

背中の麻袋を落とし、ラジオに駆け寄った彼女が落胆したような声を上げた。
不自然に歪んだそれは、修理するほうが難しそうだ。

「そう思っていじってたらこの様だ」

言い訳じみた彼の言葉は、がっくりと垂れ下がった彼女の耳には届かなかったようだ。
苦汁を舐めたような表情のドクロッグをルイスは手招きする。

「なあ、あのサンダースは誰なんだ?」

小声で問いかけると、彼もまた辺りをはばかる声で答えた。

「お前さんは知らなかったか。あの子はこのあいだからうちで働いて貰ってるウェイトレスさ」

「給仕? こんな一日に一〇人も客が来ないような店にそんなの必要か?」

「客寄せに、と思ったんだがな。この通りさ」

言って、ドクロッグはがらんとした店内を見回す。
人いきれなんて言葉は無縁の店内に、居るのは三人。
店の者を除けばルイス一人だ。

「思惑通りにはいかなかったが、良い子だよ。病気の母親の看病に都会からはるばる来たしっかり者でね、へべれけになった年寄りの相手もしてくれる」

たしかに、とルイスはこちらに背を向けた彼女を見て思った。
さっきちらりと見せた黒色の大きな瞳や、おとなしく器量のある態度はそれなりに常連客を呼び寄せそうな気がする。
客の入りが悪いのは、この店の立地条件が悪いからだろう。
そうとしか考えられなかった。
すらりとした体躯にとけ込んだような黄と白の体毛から与えられるのは、決して猛々しい印象ではない。
大人に対する美人という言葉も、子供に対するかわいいという言葉も当てはまらない、その中間にあるもの。
それをどう表現すれば良いかルイスにはわからなかった。
ひくひくと無意識に動く鼻が、カビとほこりの入り交じったにおいの向こうの女性のかぐわしい香りを受け止めている。
残念そうに手でラジオを押して転がす彼女を、ぼんやりと見守るルイスの肩に手を置いたドクロッグは、にやりと口元をゆがめて見せた。

「なあダウニー、ちょっとこっち来てくれないか」

ダウニーと呼ばれて振り返ったサンダースに、彼は手招きを加える。
壊れたラジオを口にくわえ、小走りにルイスの隣の席へ飛び乗った。
近くだとより一層強く感じられる身体の線に、視線を貼り付けたまま顔だけ正面に向けるルイスに、ダウニーが小首をかしげて微笑んだ。
口の端から覗く小さな白い犬歯が愛らしい。
混じりけのない朗らかな態度のそれにルイスは曖昧に返事をする。
身体をじろじろと見られたにもかかわらず険を露わにしないのは、性の悪い老人らと付き合わされてるだけのことだろうか。
ゆるんだ頬に伴われて自然とにやけてくる表情を何とか揉みほぐそうとする彼を、含み笑いで見守るドクロッグ。

「何のようですか?」

カウンターにラジオを置いた彼女が、呼びつけたドクロッグに問うた。
鈴が鳴るように響く可憐なその声質に聞き耳を立てるルイスは、気がつかないうちに身体をやや彼女のほうへ傾けている。

「いいや、用ってほどのもじゃない。ただちょっとこの客がきみを呼んでくれとね」

ことさらルイスにも聞えるよう、明瞭とした発音のドクロッグが彼を指し示す。
きっとバーテンダーをにらみ付けても時既に遅し、意地悪く微笑んだバーテンダーに顎でダウニーを示されたのみだ。

「あの……お客さんですよね?」

萎縮したようにか細く問いかけてきたダウニーに、ルイスはさっと表情を和らげて向き直る。
同種とはいえ、少なからずの身長差のせいで彼女はなにがしかルイスを見上げる形だ。

「そうだよ。でもなぜそんなことを」

「あ、いえ、こんな時間にお客さんなんて珍しいから、その、つい」

言葉尻をあやふやに、肩を竦めて誤魔化すダウニーにドクロッグは半分まで減ったグラスの酒を足しながら思った。
 通常、酒場というものは夜に店を開くものだ。
昼間も客が居ることは確かだが、晩方と比べられるほどの比ではない。
利益と効率を考えれば、朝から店を開くのはあまり賢いとは言えない。
あえてその選択をドクロッグが取る理由は実に単純なもので、老人とあまり折り合いが良くないルイスを気遣ってのことだった。
本人にその気は無いにしろ、やはりその派手な外見はお世辞にも好感が持てるものではない。
たとえ中身がどうであれ、それほど付き合いのないものは気付くはずが無く、まして彼を目の敵にしている老人は鼻からルイスを悪と決めつけているからなおのことだった。
何度かそれとはなしに耳と首のアクセサリを外すよう注意してきたが、彼はいつも曖昧に了承の返事を返すのみで一向に言うことを聞かない。
わざわざ咎められる理由を作り、老人たちとの間を間遠にしていく。
それがルイスの望みであり最終的に目指す所見ならば、ドクロッグがそれを修正してやれる身分ではない。
客と店主の関係はそういうものでしかない。
棚にほとんど無くなってしまった酒瓶を戻しながら、ドクロッグはため息を吐いた。
並んだ色違いの瓶に、ルイスとダウニーが映る。
同い年であるにも関わらず、実際に肩を並ばせて比べてみると身長差は歴然だった。
サンダースの頭一つ分とはいかないものの、誰かに説明を求められたとすればそう言うのが適当だろう。
あやふやに終わらせた会話に、うまく言葉を紡ぐことが出来ずにカウンターの木目を見つめるダウニーにルイスは取り繕うように笑顔をつくった。

「まあ、こんな時間に来るやつはおれくらいだろうな。ところで、きみの名前は?」

ええ、と困惑したような声を浮つかせながら顔を上げたダウニーは、ダウニー、と小声で言ったのに、ルイスは首をふる。

「違う違う、そうじゃない。ダウニーは姓だろ? 名前だよ、教えてくれないかな」

「名前ですか、イヴです」

「へえ、イヴ・ダウニーか」

何回か口の中でその名をかみしめると、彼は軽快に笑った。

「良い名前だね」

イヴ・ダウニーは照れたように顔をほんのり赤らめる。

「ありがとうごさいます。あなたの名前は?」

ルイスは、おどけたように自分を指さした。

「おれの? そうだなあ、ジョン・スミスだったかな、それともジョン・ドウだったっけ」

考え込むように頭を抱えてうつむいたルイスが出した答えに、笑いを堪えきれなかったイヴが口元を押さえて肩を震わせる。
必死で笑い声を押さえ込もうとしている彼女に、ルイスとドクロッグが顔を見合わせて微笑した。
ルイス・ホーカーの出した二つの名前は、本名が不明の人を指して使われる偽名だ。
真面目に沈思黙考した結果に出されたふざけた返答は、一人の女性を笑わせるには十分だった。

「もう、やめてくださいったら」

目元の涙を拭いながら彼女は言った。

「本当の名前はなんて言うんですか」

「どうしてそこまで聞きたがる?」

「名前がわかった方がいろいろと便利ですもの」

ほう、とルイスは納得したのかとぼけたのかわからない思わせぶりな声を一つ上げ、グラスに舌を付けた。
澄んだウイスキーの黄に、ドクロッグの顔が映る。

「女性を待たすもんじゃないぞ」

湖面と頭上の両方から呼びかけた彼は、それでも顔を上げないルイスをダウニーに示した。

「ダウニー、こいつだよ。おれがさっき言った、命知らずの冒険家の弟子ってのは」

ええっ、とイヴが胸を衝かれたような声を上げてルイスを振り返った。
彼女の好奇心にきらきらと輝く瞳を認めた彼はのろのろと背筋を伸ばして、改めて会釈をする。
またか。
内心でそう思う。

「ホーカーだ。よろしく」

言って、手を差し出す。

「それって……てことは、あなたがルイジアナ・ホーカーなの? トニー・チーチのお弟子さんの」

早口に駆け込んできた問いに、ああ、と辟易しきった声音でルイスが頷いてみると、イヴはずいと顔を近づけた。

「マスターから聞いています。何でもとっても凄い方なんですってね、お酒おごりますからいろいろあなたのお話を聞かせてください」

「おれの? トニーのじゃなくて?」

「ええ、あなたのです」

興奮気味に捲す彼女、ピンと立った耳は何事も聞き逃すまいとするかのようだった。
それに仰天させられたルイスは、真っ先に我が耳を疑った。
まさか自分のことを聞かれるなんて思っていなかったからだ。
考古品を追って世界中を旅してきた男、トニー・チーチ。
時に盗賊をも敵に回して過去の遺物を守り抜いてきた彼を英雄視し、たっとぶ者は多い。
面識のない者にルイスがトニーの下で働いていると知られるや否や、大概はルイスではなくトニーについて矢継ぎ早に質問が飛び込んでくる。
ルイスはいつもそれを不満に思っていた。
たしかにトニーにはそれだけの名声もあるし、魅力も兼ね備えている。
そのことは心身ともに了解しているつもりであったが、思考の片隅には、常に満たされない気分に不平を言う自分がいた。
命をかけて冒険をしたのは、何もトニーだけではない。
彼が崩落した遺跡に足をつぶされて以来、彼の代わりに動いているのは他ならぬルイスだ。
深いジャングルや谷の底、幾度となく肌に直接的な死を感じてきた。
にもかかわらず、それは全く評価されていないように思えた。
少なくとも、今までルイスに質問をした者は皆そうだ。
――たかが弟子に興味はない。トニー・チーチについて言え。
この類の言葉を、これまで何度も聞いてきた。
その時以上に彼が自分の立場を思い知らされることはない。
所詮、ルイスは単なる職員の一人だ。
どんなに活躍して目立とうとあがいても、結局はトニーの功績を前にしてくすんでしまって見えなくなる。
トニーさえいなければ。
衝動的に湧き起こる悪感情は、決して気持ちの良いものではない。
自らの命を救ってくれた恩人に対してだとすればなおさらだ。
自己嫌悪は後々まで尾を引いてルイスにからみつく。
だが、今回は違った。
突然スポットライトに照らされたような、そんな感覚にルイスの表情は自然と明るくなった。
彼は目を動かしてイヴに視線を下に移動するよう促す。
それでやっと差し出された手に気がついたイヴは、あいまいに言葉を濁しながら握手をした。

「え……あの……その、すいません。変に舞い上がっちゃいまして」

言って、ばつが悪そうに彼女は目線を下に逸らした。

「そんなことより、なんでおれの話なんか聞きたいんだ?」

ルイスは視線に割り込むようにかがみ込み、尋ねた。
質問の意味を良く理解していないのか首をかしげるイヴ。

「いやなに、大概はおれじゃなくトニーのことを聞きたがるもんだから」

彼の付け足しに、ああ、と納得の声を上げた彼女はカウンターの向こうのドクロッグを示した。

「たかが弟子、されど弟子、ルイジアナ・ホーカーもトニー・チーチも冒険者であることに変わりはないとマスターが言っていたもので。それに――」

度胸を蓄え直すかのように区切った彼女は、うつむき加減に頬を紅にする。

「聞いていたよりも格好良い方だなあって」

イヴの消え入りそうな言葉尻をつぐむように、ドクロッグが自慢げな咳払いと共に胸を張った。
不敵に笑う彼をルイスはちらりと見やる。

「あんたがおれを良い風に言ってくれるなんて珍しいな」

「勘違いするな、おれはただ本当のことを言ったまでさ。だろ、ルイジアナ」

ドクロッグの、名前の部分を強調した物言いにルイスはまたも不快感を覚えた。
指摘しようと口を開きかけた彼は、ふとイヴもルイスのことをルイジアナと呼んでいることを思い出した。

「なあ、さっきからきみの言ってるおれの名前――ルイジアナと言うのは疎んじられた――は、もしかしてこいつから聞いたのか」

ドクロッグのほうを指し示しながらイヴに問う。

「はいそうです。マスターが言うには、あなたはルイジアナと呼んで欲しがってるとか」

予想通りの解答に、ルイスは不機嫌を露わに鼻を鳴らした。
憤然と顔をしかめる彼に、イヴはおろおろとうろたえる。

「あの、お気に障りましたか。いや、でもマスターはそう呼べと、そうですよね」

最後の言葉はドクロッグに向けたものだ。
すがるような視線と共に投げかけられた同意を求めるそれに、彼は先ほどまでの自慢げな態度を失っていた。
ばつが悪そうに一方の手で自らの後頭部をさすりながらドクロッグは口を開いた。

「本名を教えるべきだろう。違うか?」

悪びれた様子のないそれに、ルイスは嫌気を感じて首を振る。

「おれの名前はルイスだ。ルイス・ホーカー、それ以外に名前はない」

「しかし――」

まだ何か言おうとしているドクロッグに、中指を突き立てて沈黙させたルイス((映画でありがちなこと))。
悪ふざけも度が過ぎれば単なる不快感をもよおす要因でしかない。
無言を編み込んだ裳裾が、風に弄ばれる砂のしおから声を際立たせる。

「あの、なぜルイスでないといけないんですか」

最初に裾を振り払ったイヴは、ドクロッグに横目で睨んでいるルイスに半ば恐れ入りつつ質問した。
不機嫌そうに喉を鳴らしながら振り返った彼に、彼女はさらに小さくなった。

「ど、どちらも良い名前じゃないかな、なんて」

「ルイジアナのどこが良いって言うんだ。原始時代のカビ臭い丸太みたいな名前じゃないか」

上目遣いに申し訳なさそうな視線を送るイヴに、持って行き場のない鬱屈した心事を小出しにする。
たとえ彼にそんなことをする気が毛ほどにないとしても、壊れたレコードのように毎日を退屈に繰り返す中で出会ったイヴという刺激は、少々ながらも彼を高ぶらせていた。

「大昔にあったどっかの地方だとか、どこそこの王様の名だとか、いくら由来がご立派でも古くさいことには変わ
りゃしない。トニーに言ってやりたいよ、名付け親ならしっかりしろ、後々悔いが残るような名前をつけるなってね。まあ言ったって聞きゃしないだろう、だって彼は……」

ルイスは捲し立てながら、ほとんど無意識に口から飛び出していく言葉の波に小さな気持ちの揺れを見つけた。
だって彼は……なんだ?
続きを言おうにも、乾いた喉からは何も出てこない。
しかも、喉の渇きを潤そうにも目の前のウイスキーにすら興味が湧かない。
一度引っかかったそれは瞬く間に心にしがみついた。
普段は無意識の奥で、普遍的な生活に残滓ほどの小さな残り香すらもかき消されている不安。
かき消されているというよりは見て見ぬふりをしているのに近いかも知れない。
トニー・チーチが付けてくれた名前――ルイジアナの由来を考えると、必ず一つの終着点にたどり着く。
知識や技能を磨いてくれた、親のような存在であるトニーが自分を引き離そうとしているのではないか。
太古の昔に存在していたそれを名前としてつけることで、トニーは自分とルイスのあいだに隔たりを生み出そうとしているのでは。
トニーの職業を考えれば、過去に惹かれる性分だとしても仕方がないこととはいえ、どうしても不安を握りつぶせないでいた。
そんなことはないと心身には言い聞かせられても、改めて名前について考えたときに無意識から訪れるささやきはそう素直ではない。
何度かそのことをトニーに尋ねようとしたが、どうしても言い出せないままにルイスは毎日を横切っている。
答えを貰えば、それがなんであろうと納得という形で忘却することができる。
あえてそれをしないでいるのは、彼はトニーが好きだからだろう。
尊敬もしているし、人生の指標だと思っているトニーにそれを聞くというのは、彼を傷つけるかも知れない。
それ以上にトニーが認めるということは、疑惑が真実に変貌するのを許すということだ。
彼が真っ向から真贋を見つめることをしないのは、“ルイジアナ”の向こう側に今のところおぼろげでいる真実を知ることが怖いからだ。
トニーに聞かない――それは彼の名誉を守るという虚飾と上面に誤魔化されたルイスの自分自身の信念を保護するためと、くだらない理由だった。

「……なんでもない」

まどろこしくイヴからグラスへと首をもたげたルイスは、水面に波紋すらできないくらいのか細いうめきにも似つく声を発した。
実体を伴ってへなのように凝り固まった暗澹は、うなだれた彼の背から全身に塗りたくられる。
注がれたウイスキーに逆さまに映ったドクロッグは、イヴと同様に不安げにルイスを見つめている。

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ルイスの名前の由来? それはもちろんインデ……げ、ゲフンゲフン。さあてなんのことやら
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