満月が昇る夜の次の昼、それがいつも約束の日。
ここに訪れるといつも、心に溜まっている蟠りが潮風に洗い流されるような気がする。
そう感じるのは私が普段、鬱蒼と生い茂る木々の中で蠢いているからなのかもしれない。
空は晴天。
降り注ぐ陽光が、寄せては返す波も、寄せられては返される砂浜も、地上の万物を照らし出している。
晴れてよかった。
雨天に見舞われると、「だって乗り気じゃなかったから」と約束を違えられる時がある。
森の雨は恵みだが、海の雨は往々にして嵐を運んでくる。
私と彼女では生きる世界が違う故に、考える価値観も差異が生じるのかもしれない。
だとしたら、その境界線はこの砂浜だろうか。
森の緑でも海の青でもない、二者を繋ぐ白。
彼女が私との待ち合わせにここを選ぶのは、そんな理由を含んでいる。
はずはないだろう。
彼女の歌声は甘美の極みだが、彼女の性格は詩書き肌ではない。
悪く言えば不躾、良く言えば素直。
よく笑い、よく怒り、よく歌う。
だからこそ、私は。
波と浜の静かな押し問答を横目に歩み進んでいくと、茸のような傘が見えてきた。
私が拵えた目印だ、ナッシー達から貰い受けた葉で作った。
彼女のために、延いては私が彼女と会うために。
日の光を遮る緑の傘、その日陰で。
彼女は、歌っていた。
自らの内なる世界を向き合っているのか、玉石のような双眸は閉じられていた。
しかし、顎は上げて背筋は伸ばして。
歌うたいの手本を示しているかのような姿勢。
彼女の種族は、昔から海に住まう者の耳を歌声で魅了してきた者たち。
そして、伝承者でもある。
親から子へ、その子が親になった時には、儲けた子へと。
海に浮かんでは消える泡沫のような、どこか切なさを感じる叙情の歌をうたい伝えてきた。
昔、私が意を決して述べた。
「そんな歌、似合ってないよ。あなたには明るい歌が似合う」と。
昔、彼女が驚愕の表情を浮かべた後、満面の笑みを浮かべた。
「初めて言われた。自分でもそう思ってたのに、誰も言ってくれなかった。ありがとう」と。
彼女はいつも自分で創った歌をうたう。
海に生まれた喜びを、多くの恵みを授けてくれる海神への感謝を、きらめく水面を泳ぐ楽しさを、その目で見たことはないが多くの緑に溢れているという森の情緒を。
彼女は詩書き肌ではないから、どの詩も伝承歌のそれより稚拙に感じる粗がある。
しかし、彼女がうたう彼女の歌は、伝承歌よりも彼女に似合っている。
そして、私はそんな歌うたいの彼女が。
「今日もとても楽しそうだね。空も海も、その歌声で一段と澄んで見えるよ」
「そんな言葉がスラスラ出てくるなら、もっと綺麗な詩が書けるんだろうけど」
彼女が自嘲の笑みを浮かべる。
「そ、そんなつもりで言ったわけじゃ・・・私は本当に・・・」
「すぐに動揺しないでよ。今度あなたが詩を書いてよ。ちゃんと私がうたうから」
今度と言っているが、これは普段より彼女が私に請うていることだ。
そして、普段より私が彼女に断っていること。
「私が詩なんて・・・」
「だからさ、もっと自分に自信持ってよ。なんで私の髪を切るのは進んで買って出るのに、いつまで経っても私に詩一つ書いてくれないの?」
「それは・・・」
自分でも不思議に思う。
既に私は腕代わりの蔦で抱えていた、フシギバナの葉で包んだ仕事道具を、解いて広げたそれの上に並べていた。
イノムーの毛で作った刷子。
進化して脱皮したチョボマキの抜け殻から削り出した櫛。
メガニウムの宿り木の種から絞った油が入った小瓶。
ヨノワールの生地をハハコモリが仕立ててくれた短合羽。
肝心の鋏はそこにはない。
自らの葉がその代わりで、それは私の挟持。
結局のところ私は、自らの領分から外れた事には極端に臆病になる小心者なのかもしれない。
私が彼女に惹かれる理由の一つに、自らが持ち合わせていない軽快な心意気があると、感じているのは確かだ。
「じゃあインスピレーションをちょうだいよ。あなたが住んでいる森の様子とか、あなたから見たこの砂浜とか、あなたが想像する海底の色とか」
「インスピレーション・・・」
彼女が私に背を向けながら、鰭の腕で髪を持ち上げた。
私がその細首に短合羽を巻きつける。
「下ろすよ?」
「もういいよ」
私は自らの尾を眼前まで掲げる。
私の尾先に生える葉は、私が念じればその鋭さを増す。
この状態でも、小石くらいなら造作もなく簡単に切り刻める。
ニンゲンはこれを「リーフブレード」と呼ぶらしい。
「待って待って。始める前にさっきのことに答えてよ。私の髪を切ってる時はいつも真剣になって無口になるんだから」
半分は本当。
本音を言えば、半分は楽しんでいるのだ。
彼女の髪からほのかに香る、私の鼻を撫でる可愛らしい潮の匂いを。
自身から伸びる蔦を操って、彼女の髪を束ねている真珠の髪飾りを解く。
「森の様子は・・・普通の森・・・かな・・・?」
「私にはその『普通』がなんなのか分からないから想像でうたうしかないんだけどぉ?」
振り返った彼女は、眉間に皺を寄せていた。
「ご、ごめん・・・」
「じゃあ他のことには答えてよ。この海はあなたにはどう見える?この海から何を感じる?あなたならこの海をどんな詩で表す?」
そこに若干の音程が乗っていたのは、歌うたいの性だろうか。
しかし、それよりも。
「・・・」
「・・・ねえ?」
この海と空と砂浜と潮風と、私の胸の内の中心にはいつも彼女がいた。
彼女は私の前で笑って、怒って、悲しんで、楽しんで。
そんな彼女の隣、私はいた。
何を感じるか、どんな言葉で表すか。
本当はもう答えが出ている、どんな言葉を彼女に届けたいか、いつも喉から飛び出しそうになる。
偶然の重なりから海の歌姫専属の散髪師に選ばれたが、私の彼女に対する想いは偶然ではなく共に過ごした日々の中で生まれた確信だ。
しかし、たった一言の「それ」を言えないのは、彼女の私に対する思いの強さが分からないから。
私のそれは単なる髪切りとその客を、友人を、同性同士を、既に超えた激情にも感じるほどふ膨れ上がったものだ。
それ故に、怖いのだ。
私と同じものを彼女が私に抱いているという自信がない。
「ねえ?聞いてる?」
本当は聞いてほしい。
伝承歌よりあなたの詩より拙いけど、私の本当のこの思い。
「ねぇえ〜?」
「グランドブルー」
「え?」
「グランドブルー。海と青と空の青の狭間で優雅にうたう歌姫。うたかたのような儚げな表情と裏腹に、美しくも力強い歌声はその青のどこまでも響き渡り、聞く者に波と風が運ぶ海の喜びを想起させる」
ふい、と潮風が一瞬強く吹いた。
透き通った水のような色の彼女の髪と、つい吐き出してしまった言葉で羞恥の火照りを帯びた私の頬を撫でる。
「・・・ははははははは!!!!何それ!!!!最っ高っ!!!!!!」
もう一度振り返った彼女が大声で笑う。
その様子がさらに私の恥ずかしさを焚き増す。
「ご、ごめん・・・。つい・・・本当にごめんなさい・・・」
笑いながらも、消え入りそうな私の謝罪は届いたようで。
「ごめんごめん!!!でも本当に最高なんだって!!!!私をそんな言葉で表してくれたポケモンはいなかったから!!!!」
彼女の爆笑はしばらく続いて、その間に私はどんな表情を浮かべるべきなのか見失っていた。
ようやく、すうと一息ついた彼女が三度目に振り返った。
先ほどとは違う、穏やかな笑みを浮かべて。
やっぱり私はどんな表情がふさわしいのか判断付かないでいた。
それでも彼女は続く。
「本当にありがとうね。本当に最高のインスピレーションだったよ。それで、今日は新曲を引き下げてきたんだよ。髪切るのの邪魔になっちゃうから、今ちょっと聞いてほしい」
「うん・・・わかった・・・」
後方よりジャローダが見つめる中、アシレーヌは一度大きく深呼吸した。
「それでは聞いてください、『私の大好きなジャローダ』」
了
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