[[Farewell, My Child of Nature]] - 開口一番に失礼ながら、自分はこの手の文章が、まあ嫌いです。理由は単純で、何言ってんのかマジわかんねえからです。己の浅学の棚上げであるとは重々承知のうえで、それでも現代語で書けることをわざわざ古い言葉でわかりにくくしてるだけじゃん、と思うわけです。読むのがしんどい。そのしんどさもまたよしというのなら、じゃあもう日本語でさえないエスペラント語とかで書いてくれたらいい。難しさが素晴らしさに直結するならそうなります。そんな言語で書かれた本なんて、自分なら読みませんが。 しかしそこはヒスイ地方、こういった表現形式がきわめて相応しいのも仕方ない。このジャンルにも時代物が持て囃される時が来たのだなあと、諦め半分、群々さんの新作だからなと思い、読みました。古い言葉で物語が書けるのも、それはそれでたいへんな技術です。群々さんという方は、この手の文章表現が非常に多彩ですから、おそらくは性にも合っているのでしょう。古さには古さにしかない趣きと、それによってしか表現できないものがあります。それを認めつつ、自分はその手の懐古主義的思想は反吐が出るほど大嫌いなので、その部分で加点する気は一切ありません。好きな人は好きなんでしょうし、それだけで有り難がって読む人もいるでしょう。それで手放しの高評価になろうものなら、おめでとうございます。あなたの思惑通りです。その手の評価は、その方々にお任せします。 さて。 野生の過酷さを通して培われたイダイトウの残酷さが、たいへん具体的なのがまずいい。自侭に増長した過去があるからこそ、それを振り返り、踏みにじってきたものを尊ぶ健気さに心を打たれます。今さら石など積み上げて何になろうかと理解しながら、それでも死後の安らかなことだけを願うのは、邪悪に生きてきたイダイトウの善の顕れでした。罪を滅ぼすつもりもない。どのような罰を受けてもいい。受けるべきである。不器用に石を積んで死者へ祈るのは無償の行為、聖なる行為でした。この作品の一番の魅力です。 ながら、本来の性格が変わったわけではない。命を救ってくれたやんごとなき最愛のキングには、ひ弱なガーディはいかにも不相応で、イダイトウは意地の悪さを再び見せます。悪辣を働くことはやめましたが、このイダイトウは別段、根がいいやつというのでもなく、本質的には邪悪なのです。命の恩人、最愛のキングの遺言があってさえ、軟弱者に対してやさしい気持ちになどなれないのです。それは当然でしょう。何者の庇護も得られず、死と隣合わせの荒波を泳いできたイダイトウにとって、ぬくぬくと、のうのうと、おめおめと生きているだけの命に価値など見いだせません。その惰弱者が勇気を振り絞ったとき、最愛のキングと見紛うばかりに美しいということなど、イダイトウに想像できるわけもないのです。愛するお方の遺言も忘れ、俺は一体なにをしてたんだと思ってももう遅い。愛するウインディはこの世にはいないのです。イダイトウは最後まで健気ながらも、愛するキングへの信奉と死者の安寧を祈り一心で、他のことなぞ目に映らない愚か者でした。弱者を省みない性格で、きっちりと二の轍を踏むイダイトウの懊悩はとても切なくて愛おしい。 狂言回し的なヒスイバクフーンも、魂の導き手として、物語のエッセンスとして抜群の魅力と存在感を放っていました。イダイトウの後悔と愛を知る存在。イダイトウとウインディを永遠に完成させる存在。愛を遂げられず、地獄に堕ちるのみと思われたイダイトウを救済します。 とてつもない慈悲と祝福に満ちた物語です。そのように感じますし、そのように演出されてもいます。でもどうしても納得しかねる点がありました。 ウインディはイダイトウを愛していました。 この点が、ひどいと思います。 ウインディはちゃっかり子どもを作りながら、本当にその気があったのはイダイトウなのです。死して霊魂になってなおウインディが共にあろうとするのは、番のメスでも子でもなく、イダイトウです。 では、なぜウインディはイダイトウを愛したのか? 大きな要因としては、好みの味のきのみをもらったことがあるように思えますが、どうやらウインディはけっこう最初からイダイトウに一目置いているようなのです。 イダイトウは、ウインディとの出会いをきっかけに悪辣を断ちます。でもそれまでのイダイトウは、本当にしょうもないポケモンでした。ウインディはイダイトウに何を見ていたのか? 妻や子をさしおいてでもイダイトウに魂を捧げるほどの、何があったのか? 心を許せるポケモンがイダイトウだけだった? そんなことはないでしょう。キングを慕うポケモンなどいくらでもいるはずですし、なんとなればイダイトウこそ平身低頭でウインディに頭が上がりません。心安い間柄であったとは思えません。 インオウ様の祝福を受けた者同士だから? それってそんなに重要なんでしょうか。英雄をダシにして好き勝手していたイダイトウを、何もかも免罪して愛したくなるほど、祝福が心にはたらきかけるものって、いったいなに? 今作にはそういうことが書かれていません。このウインディ、イダイトウにとってあまりにも都合がいい。群々さんの作品では、しばしばそのような細部がおざなりに扱われます。一見ではたいへん上質な文章で、なんだかそれらしい雰囲気でそれなりのなりゆきへ話が運ばれるのですが、文章の上手さに騙されて、不備を黙認してはいけないと思うのです。 友情であるのならば、まだよかった。死者を悼むことに残りの生涯を費やすばかりの哀れなイダイトウに、祝福の同志として最後に赦しを与えたい……という感じなら腑に落ちます。しかし違います。イダイトウはウインディの「背子」なのです。 なんでなん? これってカップリングありきの情動じゃない? 遺言を守る気さえなかったイダイトウに何も思わなかったのか? 身分違いの恋模様を描くのであれば、「なぜあのお方が俺などを愛してくれたのか」は、外してはならないと思います。ウインディがいかに美しいか、イダイトウにとってウインディがいかに尊いか、それをいかに古めかしく表現するか……そんなことにかまけるより、ウインディの愛を掘り下げるべきだと思うのです。それがなくてはもう、単に好きピにデレデレしてる切ない恋慕中のイダイトウを書きたいだけです。好かれるに値することをしていないのに、なぜか愛される邪悪って、それもう伊藤誠と変わらないじゃん…… 不慮の死を遂げたウインディに、想いを伝えられなかったイダイトウの狂おしさ。そのロマンスが、なんかよくわかんないけど報われる。死してなお現世に魂が留まるほどの未練を、作中のウインディがイダイトウに対して抱いているとは、思えないのです。 自分はアマウォの時から度々申しておりますが、雰囲気と文章力のゴリ押しはいけません。グゥとスゥ、ジャランゴとルガルガン、コイキングとヒンバス、ゼクスとバシャーモ……群々さんは心震える愛をいくつも書いている方です。ですから「こんなもんでええやろ」で物語を書かれては、ファンとして非常に残念に思うのです。 「書きたいこと」と「書くべきこと」は両立されるべきです。今作は明らかに「書きたいこと」にウインディが引きずられています。悪質な詐言を弄したアーマーガアに、怒りも悲しみもせず、挙句の果てに理解不能な愛さえ抱くウォーグル。今作のイダイトウとウインディは、あの二羽と同じ構図ではないでしょうか。 ポケモンの技でいうならひのこでよい かえんほうしゃはやりすぎ かえんほうしゃ並の熱量で愛を描くなら、何がその炎を燃やしたのかは描かれねばなりません。ひのこ程度の燃料しか存在しないはずなのに、文字の見た目だけで温度感を高められても、興醒めしてしまうのです。 すばらしい着想のもと、どのキャラクターも生き生きと描かれていて、本当にそうであったらいいなと思わされる、素晴らしい二次創作でした。群々さんの個性も、遺憾なく発揮されていることでしょう。でも肝心のウインディが…… -- [[仁王立ちクララ]] &epoch{1652250905,comment_date}; -うーわごめんなさい、コメントする場所を間違えました! 「哭壁に還る」に対するコメントです! 本当に申し訳ない…… -- [[仁王立ちクララ]] &epoch{1652251022,comment_date};