*CRIME [#hc0eb8d6] #counter written by [[マグロ]] 「いよーう!」 黒犬の大きな声が病室内にこだまする。隣に立っていた人間が、その時と場所をかえりみない振舞いを窘めるが、既にこんなやり取りは数え切れないほど繰り返されてきたということを彼は知っている。病室のベッドを埋めているのが彼だけであることは幸いだった。 「元気かねぶらっきーくーん」 「お前の顔見たら食欲が減退した。さあ帰れ」 無意味に明るい笑顔を見せてくるヘルガーの顔面に、思いっきり蹴りを入れてやりたいとブラッキーは心の底から思った。えー冷たいなー連れないなーと実に楽しそうな様子を見て、深く深く溜息を吐く。 トレーナーはそんな二匹の様子を見て苦笑していたが、遠くにブラッキーの担当医を見かけたようで、慌てて廊下へと駆けて行った。『病院内で走ってはいけない』という常識をつい忘れているあたり、このヘルガーの非常識っぷりはトレーナーに似たのだろう。 「で、今日はバトルは休みなのか。こんな昼間から見舞いに来るなんて」 「そりゃーおっまえ、我らがエースブラッキー様が骨折で入院してる状態でバトルなんてできるわけねーだろー。心配で心配で」 無意味に明るい笑顔を見せてくるヘルガーの顔面に、埋り込むほど蹴りを入れてやりたいと深く深く思った。実際にパーティの中でエースを張っているのはヘルガーだという事実が、余計に眉間のシワを深くさせる。 「いやまあ、今日は普通にお休みだ。お前も入院して丁度一週間になるし、どんな様子かって、な」 まるで子供をあやすように、ヘルガーが前足でブラッキーの頭を軽く撫でる。その不機嫌さを見透かしているようだ。この場合、その憮然とした表情から明らかなのかもしれないが。 「そんで。……どんな調子よ」 少し真剣な面持ちに戻ったヘルガーに聞かれ、ブラッキーは自分の両前足を見上げた。これでもかと言わんばかりにギプスが巻かれ、天井から吊られてしまっている。重くて仕方が無いのだが、折れてしまっているのだから文句の言い様が無い。もしこれで変な風にくっついてしまえば泣くに泣けない。 過信だった、とブラッキーは思う。自分の耐久力を過信して、相手の攻撃を受け続けて、そして最後の予想外の一撃に、見事に吹っ飛ばされてしまった。今思い出すだけでも、悔しさから顎に力が篭ってしまった。 「痛みはもう無いけど。でもきちんとくっつくにはもう少し時間が必要だってさ。足、下ろしてもらえれば大分楽なんだろうけど……まだ駄目って言われる」 「ふむ。んじゃ復帰はもう少し先かあ」 ブラッキーのギプスを見つめながら、ヘルガーが小さく唸った。ベッドの上に前足を組んで、その上に顎を乗せている。しばし何かを考えているようだったが、恐らくこの先暫くのバトルについてだろう。少なくともブラッキーはそう思ったし、そうであって欲しいとも思った。自分の抜けた穴は少なからず大きくあってほしいと、心のどこかで思ってしまうのだ。 「それで、調子は?」 暫く経ってから再びヘルガーに聞かれ、ブラッキーは思わず生返事をした。 「それで……って、それだけだ。他に何かあるか?」 「そりゃーおっまえ」 心外だ、とでも言いそうなヘルガーの表情に、ブラッキーはますます首を傾げる。 「オトコノコとして生まれた以上、嫌でも付き纏う責務を果たしておりますか、って聞いているんだ」 「…………」 無意味に明るい笑顔を見せてくるヘルガーの顔面に、整形が必要なほど蹴りを入れてやりたいとブラッキーは海溝よりも深く深く思った。残念なことに、両前足を吊られているおかげで勢いを付けられそうにない。真に残念であるが。 「つーかそういえばトイレとかどうしてんの」 「これから毎晩お前の不幸を願うことにする。今なら神だって本気で信じれそうだ」 ヘルガーがくつくつと喉の奥で笑った。絶対に分かって言っている。 そんなもの、尿瓶に決まっていた。初日こそ恥ずかしさで顔から火炎放射が撃てるかと思ったが、今ではもう慣れた。すいませんトイレしたいです、ああ分かりましたちょっとだけ我慢してくださいね、はいどうぞー。入院前の生活では考えられないことだったが、今ではブラッキーの日常ルーチンの一部となっていた。 「……まさか、お前」 「ん?」 ふと思いついて、ブラッキーが尋ねる。 「さっき言った『復帰』ってのは」 おおそうそう、とヘルガーが前足を合わせ、嬉々とした表情になる。先ほどの真剣さが嘘のようだ。ずずいと顔を寄せてくるが、暑苦しいことこの上ない。 「いやそれがさ、この前マスターにそういうトコに連れてってもらったわけ。それがンもーマジ良いのよ。可愛い仔ばっかりだしみんな超上手いし」 「…………」 バールのようなものを操れたら良いのに、とブラッキーは心から願う。ギプスを巻かれて吊られている前足が今は心底恨めしい。 真横でニヤニヤ笑っているヘルガーの顔をきつく一発睨みつけたところで、廊下から近づく足音が二匹の耳を叩いた。 「お待たせ。ごめんね」 扉が開き、トレーナーが病室に戻ってきた。夜伽の話を中断して、ヘルガーがトレーナーの元へ向かう。従順な黒犬が、まさか病室でこんな下品な話をしていたとは思うまい。ブラッキーは心の中でまた一つ溜息を吐いた。 「マスター、お医者さんとのお話は終わったのかー?」 尻尾を振るヘルガーに小さなおやつを与えつつ、そのトレーナーは頷いた。病室の一番奥、ブラッキーのベッドへと歩み寄る。早歩きだ。ということは、やはり廊下で怒られでもしたのだろう。 「ブラッキー、元気そうだね。良かったよ」 大分良くなってるらしいね、と頭を撫でられると、ブラッキーは黙って小さく頷いた。いつも一緒に居たのにいきなり引き離されれば、誰だって主は恋しくなる。無表情を装っているものの、小さく揺れている尻尾がその証拠だ。ヘルガーにはバレているようで、意地悪な笑みが見て取れるが、それはこの際無視することにした。 「おやつ、あげたいんだけど……駄目なんだよね」 そう苦笑して、残念そうに頭を掻く。ブラッキーはそんな姿を見上げながら、おやつは良いからもう少しだけ頭を撫でて欲しいと素直に言えず、大丈夫と小声で言うしかなかった。しかしトレーナーは小さく笑って――心を透かし読んだわけではないだろうが――ブラッキーの喉元を軽くくすぐってくれる。 「みんな、戻ってくるの待ってるよ。早く良くなって、また一緒に訓練してバトルしようね」 ブラッキーはまた小さく頷いた。 そうしてこの一週間の、取り留めも無い話が始まった。どこで買ったお菓子はみんなに好評だったとか、普段聞いていればすぐに飽きてしまいそうな話ばかりだ。だがしかし、丸一日中病室内に閉じ込められているブラッキーにとって、主のそんな話は真っ白い天井を見ているよりは遥かに面白い。 トレーナーが日常の話をして、ブラッキーが嬉しそうに相槌を打って、ヘルガーが茶化して、そしてブラッキーがうるさい黙れと言う。そんなやり取りをして過ごす時間は、天井や外の代わり映えしない風景を見て過ごす時間よりもずっと早く過ぎてしまった。 「それで……ああ、いけない。もう面会時間終わっちゃうね」 トレーナーが壁の時計を見て、残念そうにそう言った。時計の針は夕方の四時を示しており、面会時間の終わりを告げている。 たまには時計もサボれば良いのに、とブラッキーは思った。 「またすぐに来るよ。ブラッキーが居ないんじゃバトルにならないから、最近少し回数減らしたんだ」 「おう、早く帰って来いよー。看護士さんに相談しとけ……っと、じゃあなっ」 軽く首を傾げながら、トレーナーはヘルガーをボールに戻した。ヘルガーの言わんとしていることは狙い通りにブラッキーだけに伝わって、そして彼にそのボールを破壊したくなる衝動を沸き起こさせる。トレーナーの方は、相変わらず不思議そうな表情のままだ。 だが、ヘルガーを入れたボールを軽く叩き、ホルダーにしまいながら、 「……何だかんだ言ってるけどね、一番君のこと心配してるの、ヘルガーなんだよ」 「え?」 面白そうにトレーナーが言って、またブラッキーは生返事をするしかない。 「今日お見舞いに行くって言ったとき、いの一番に同伴を名乗り出たんだ」 「……そ、そっか。でもそれ」 ブラッキーは言葉に詰まって顔を背けた。それは心配しているというより、入院している自分に対する自慢をしたいだけなのだ。そう訴えたかったが、何だか卑屈になっているようで躊躇われたのだ。 例えヘルガーでも、このつまらない入院生活に刺激を与えてくれたのは事実だ。軽口の言い合いも、実は物凄く楽しんでいたから。 「それじゃブラッキー、早く良くなってね」 少しだけ自己嫌悪に陥りそうだったが、トレーナーがもう一度頭を撫でてくれたので、別に良いやと思うことができて――それで面会時間も終わり、主の姿を見送って、そしてまた代わり映えのしない入院生活に引き戻されることになった。 ~ ~ ~ ~ ~ 「秋」 葉が落ちる 落ちる 遠くからのように 大空の遠い園が枯れるように 葉はものを否定する身振りで落ちる 夜々には この大地が あらゆる星の群れから 寂寥へと落ちる われわれはすべて落ちる この手も落ちる 他をごらん すべてが落ちていく けれども ただひとり この落下を かぎりなくやさしく その両手で支えている者が…… ――R.M.リルケ #contents *プロローグ [#s695144a] いつのころからだろう? 僕は両親から愛されてないと思うようになったのは。 こういう言い方をするといろいろと誤解を受けるかもしれないが、父さんも母さんも僕に対してなにも虐待をしているということではないし、ほとんどいないかのように扱うというような冷たい仕打ちを受けたこともない。 そしていきなり矛盾したことを言うことになるが、自分は両親からとびっきりかわいがってもらっている。比べたことはないがそこらの家庭の比べ物にならないくらい。 でも、やっぱり自分は愛されてないような気がする。誕生日を祝うときの両親の笑顔も、学校ですごくいい成績を取ったときの褒め顔も、なにか確信はもてないのだが、どこか悲しそうな……そんな表情が目に映るのだ。 気のせいといわれればそうかもしれないし、両親に対して邪険なものの見方をしているとも言えるかもしれない。 そう自分に言い聞かせても、やっぱり何かがおかしい。 そしていつしか考えるようになった。 自分は何か両親を心の底から悲しませるような何かをしてしまったのではないかと…… *第一章「邂逅」 [#k6b0fa04] **-1- [#v0074e2e] 夜景。それは人間の手で作り出された絶景。 人々の様々な思い、希望、欲望、喜び、諍い、灯る光の一つ一つはそのようなものを伝えているようだ。 まるで巨人のようにあちこちに腰を据えている高層ビル、それらの陰に隠れた小さな建物、蛍光灯や街頭、ネオンなど。夜景を作り出す光の種類は実に幅広い。 人間の欲望が具現化されたもの。 夜景の美しさはそこにあるのかもしれない。 クラナポリスのある路地の裏。表通りの喧騒から少し離れ、ゴミや汚物がちらばって少々鼻につくその場所に彼は壁にもたれて立っていた。 彼は右手首につけている腕時計で現在の時刻を確認した。長針と短針がそれぞれ「XI」と「IX」のわずか下の部分を指している。 午後九時五十五分。 そろそろかと思い、彼は路地を更に奥に進み、比較的広い十字路へと差し掛かった。スナックの消えかかっているネオン看板が目に入ったが、あたりには誰も居ない。 彼は着用している黒のジャンパーのポケットから赤と白によるツートンカラーのボールを一つ取り出した。それを取り出し、ひょいと宙へ軽く投げる。 持ち主の手から離れたボールは一、ニ秒ほど宙を泳いだ後、破裂音とともにちょうど赤と白の境目で割れ、中から白い光が放たれたと思うと、数秒後にはその場所に高さ二メートル半ほどにも届く大きな獣の姿があった。犬に近い姿をしており、真っ赤な燃え上がるような赤毛を地に縞のように黒いラインが入っている。顔や胸には白い毛も混ざり、まるで威厳を示すかのようにその場でおとなしく座っていた。 「行こうか、ラグ」 ラグと呼ばれたその獣は低く重い声でうなると、前足を低くして前傾姿勢をとった。彼はそのようなラグの配慮に甘んじて、獣の足を段差にして、背中へと飛び乗った。 そして彼はラグの上で体勢を整え、良い塩梅になると再び腕時計を目にした。長針が「XII」、短針が「IX」の部分をぴったり指していた。 午後十時。 「行くぞ!」 彼は叫んだ。そしてラグは前脚と後足に力を込め、軽く常識を外れるような見事な大ジャンプをした。 ぐんぐん地上が遠ざかっていき、まるで洞窟から脱出するかのように、ビルとビルの間から空が迫ってくる。 だが、それだけでは足りないようで、勢いが少し弱まってくる。そこでラグは目の前にある壁を強く蹴り、再び勢いをつける。 真夜中の都会の空が開けた。ラグは雑居ビルの屋上へと降り立ち、駆け出したかと思ったら、ビルからビルへとジャンプして渡った。 都会の空には星は無く、今日はおりしも満月で、まるで真っ暗な空にぽっかり穴が開いたかのように青白く輝いていた。 だがその輝きも都会の明りを前にしては、ただの数ある街頭の一つに過ぎないかのように、寂しくたたずんでいるようだった。 彼はあるビルの屋上でラグを止めた。夏が近づいていることを暗示するような湿気をはらんだ風が頬をなでる。 そこに遠くから、暴走族の群れが押し寄せてくる音が聞こえてきた。マフラーをはずしたことによって出るまるで何かの叫び声のような破裂音。音とスピードが見合っていないのに何が楽しいのかと彼はいつか思ったことがあった。 彼はその音のする方向を向き、口元にわずかに笑みをみせると、再びラグの上に乗った。 そしてラグは主人が考えていることを既に知っているかのように、空に向かって雄たけびを上げ、再び今度は道路に向かってジャンプした。 無機質に舗装されたアスファルトがせまる。道路は片方三車線の広い主要道で、中央分離帯にとってつけたように生垣と並木が植えてある。 ラグは背に載せている主人への衝撃が出来るだけ和らぐようにうまく着地した。その瞬間、「わあ!」という叫び声とともに、例の暴走族のフロントを走っていたバイクがラグに驚いたらしく、ハンドル操作を誤って金属を引きずる耳につく音をたてながら豪快に転倒した。 そして続くバイクの一群が次々と彼とラグを前にしてバイクを止める。 「なんだぁ!? ウインディ?!」 最初、暴走族の一群は目の前のウインディであるラグの存在に驚いていた。犬にしてはあまりに大きすぎる図体に、時折見える鋭い牙。またウインディ自体非常に珍しい種類である。驚くのも無理もない。 そうして、族の中でも小心者の一行はその場で一目散にバイクがあるにもかかわらず、わざわざ降りて逃げ出すのであった。 そして度胸のある群れが残る。 「こんにゃろ、っざけやがってぇ!」 ヘルメットを被ったある一人がそう叫んで、バイクを急発進させる。そのバイクはかなり大きなもので、相当改造も施されている。重量があるだけに突進するつもりなのだろう。 彼はラグに何事かを話しかけた。 そしてバイクがラグのわき腹あたりに突進しようとした瞬間、獣は一瞬にしてその場から消え、またも大きくジャンプしたのだ。 バイクの乗り手はその状況がつかめず、思わず天を仰いだ。それが間違いだったと悟ったときには時すでに遅し。 頭全体に重い衝撃が加わったと思うと、ヘルメットの前面部分が砕け、「彼」の足が目の上にのしかかってきた。乗り手はそのまま後ろに倒れこむ。 そしてバイクの男が地面に叩きつけられ、転がると同時に「彼」もラグも着地し、彼は再びラグの背に乗りこんだ。 「さて、仕上げをしようか」 彼はそう言い、残っている暴走族の連中と持ち主の去ったバイクの方に向き直った。 そしてよく響く音で指をパチンと鳴らす。 その瞬間、獣は口からまるで警告するかのように炎を見え隠れさせた後に、勢いよくバイクに向かって炎を浴びせた。 そして彼はそのあとどうなったかを確認もせずにまたラグに指示をし、その場から消えた。 いくつかのビルを越えた後、後方より何かが爆発する音を耳にしたが、振り返ることは無かった。 **-2- [#p36d5bc7] 「ナンバー43の状況はどうだ?」 不気味なほど白くきれいに掃除され、塵一つ落ちていない廊下を何人かの助手の研究員を連れてアルファーノ氏はそう訊いた。 「体形成の方は安定していますが、いまだ目覚めてはいません」 助手の一人が持っているバインダーにとめてある書類に目を通しながら返す。 「カプセル32-Aの投与。それと二号パイプにパターンEの電気信号を送るんだ」 「了解しました」 そのほかにもアルファーノ氏は部下に次々と的確な指示を与え、そのたびに助手は感嘆の声をあげながら、すぐさま各々の場所へと向かっていった。 「ほんとに今更だけど、所長ってかっこいいわぁ」 目の前を通り過ぎて行ったアルファーノ氏の後姿をうっとりと眺めながら、女性研究員の二人のうち、一人がもう一方に言葉を投げかける。 「あんなに美形なのにもう今年で三十七なんて信じられないわよ」 もう一方の女性研究員が同意を込めて返した。 「ほんとねえ。あれで十五になるお子さんがいるんだからねえ」 「あんた、それどこで調べたのよ! ……でもほんとあの人の奥さんになれる人なんて羨ましいわ」 そのように女性の何気ない会話のなかで、憧れの存在と謳われるにふさわしく、アルファーノ氏は実年齢からは考えられないほどの美形であった。 カラスの羽のような黒髪に、顔立ちは堀が深く、目尻は少々垂れているが、それを補うキリリと己の自身を表しているかのような眉。体型も痩せ型で身長は百八十をゆうに越えていた。これだけでも羨む者がたくさんいるであろうにもかかわらず、天は人にニ物を与えずという言葉をまるで無視して、天才的な頭脳を持ち合わせていた。謂わば男性版才色兼備というわけだ。 「でもね聞いた話では奥さんは二年前に交通事故で亡くなったらしいって」 「ええ? 本当に」 このあとこの二人の女性研究員は他の上司から会話の世界から無理矢理連れ戻されることとなった。 アルファーノ氏は助手からの最後の報告とそれに対する指示を与えると、「B-LABO」と書かれている扉をくぐろうとした。 「所長!」 まだどこか幼さが残るような顔立ちの若い女性が狼狽したような様子で走ってきた。この建物の中にいる者はほとんどが白衣を着ているが、この女性は女性向けのスーツを着用していた。 「なにごとだね?」 そして女性は、持っていたファイルを氏の耳元に当てて、周りに聞こえないような声でささやいた。 「ご家庭のほうから連絡です。お子様が家出された……と」 ~ ~ ~ どこからか消防車のサイレンの音が聞こえてくる。おそらく先ほど燃やしたバイクの炎を消すために通報されたのだろう。同時に救急車のサイレンも響いてきた。少しやりすぎたかなと彼は少しだけ後悔した。 彼は人気(ひとけ)のない廃ビルを選んでそこの屋上で小休止していた。落下防止の柵に背を持たせかけて座り、ラグもまた下から見えないように屋上の真ん中を選んで座り込んでいた。 ずっと遠くにクラナポリス中心部の超高層ビル群が聳え立っている。平均高度百五十メートルのビル群。それはさながら地上を絶大な圧力を以って支配している巨人のようだった。そして街中に張り巡らされた高速道路は大蛇のようである。 彼はふと空を見上げた。街の明りのせいで星はほとんど見えない。というより彼は生まれてこの方満天の星空というのを一度も見たことが無かった。星の明りはこの街ではほとんど街明りにかき消されて、どうかすれば生涯一度も満天の星空を見ることなく朽ちていく者さえいる。 湿った風が吹き抜けていく。 彼は深呼吸すると勢いよく立ち上がった。それに呼応してラグも寝かせていた顔を上げて、大きく伸びをする。 そして彼は再びラグの上に乗ると、このウインディに行き先を告げた。 「中心部に行こう」 再びラグは両足に力を込め、道路を挟んで向かい側のビルに向かって大きくジャンプした。夏の近づく湿気た空気が通り抜けていく。今は晴れてはいるが近いうちに雨が降るかもしれないと彼は思った。 三分ほど移動したところで彼はある場所でラグをとめた。例によって見られないように屋上に着地する。 「税制の改悪を撤回せよ!」 「われわれの生活はもう限界だ!」 そのような叫び声が始終飛び交っている。 貧困労働者のデモ隊が主要道の車線全てを使って大掛かりなデモを起こしているのだ。 その列はかなり長く、目視だけでもこのデモ隊の参加者がかなりの人数、小さな町や村の人口に値するほどの人々がこのデモに参列していた。ある一団は「シェルツ大統領の横暴を許すな!」「大統領は即刻退任せよ!」と大きく書かれた横断幕を広げながら闊歩している。 そしてデモ隊の脇にはいつこのデモが暴動に発展してもすぐに食い止めることが出来るように、警察の機動隊の装甲車両などが何台も連なって始終くっついて回っていた。そして歩道と車線の間には重装備をした機動隊の列が固唾を呑んでデモの様子を伺っていた。 そして主要道同士が交わる大きな交差点にある大型の液晶のついているビルは、おりしもニュースでこのデモの有様を報道しているところだった。 「学生と市民団体によって構成されたデモ隊は、現在着々と国会のある連邦ビルへ向かっており、警官隊と今まさに一触即発の状態となっています」 テレビに大きく写った女性アナウンサーがまるで他人事のように、現状を語っていた。 「見ろよラグ。ここからの眺めは壮観だな」 彼は柵に身を乗り出してデモ隊の様子を眺めた。 そのときだった。ガシャンという機械の音とともに、二人にいきなり太陽が現れたのかとおもうようなまぶしい光が当てられた。彼は思わず軽くうなって左腕で両目を覆い、何事かと徐々に光源の方に目をやった。 「貴様! そこで何をしている!」 それは警官隊のスポットライトだった。警官隊は道路だけでなく、いくつかのビルの屋上にも設置されていたのだ。おそらくこのデモに乗じて不審なことをする輩がいないかの警備を担当していた者だろう。 彼はまさしくこの「不審なことをする輩」と認識されたらしい。 「うかつだった。ラグ、ちょっくら驚かそうじゃないか」 すぐに彼はラグに飛び乗った。ラグは一声おおきく咆哮すると、ビルから飛び降りちょうどデモ隊と警官隊の間の人のいない場所に降り立った。 「うわあ化け物!」 「違う、あれはウインディって奴だ確か」 全く予期しない出来事に驚いたデモ隊から声が上がった。 彼はにやりと笑みを浮かべた。 ラグは次の瞬間、目にも留まらぬスピードで道路を走り出した。そして交差点に差し掛かる。驚いたデモ隊のある一群が将棋倒しになる。 交差点で二人はさらにデモ隊の先頭へと向かう。正面に中心街の超高層ビル群の中でもひときわ大きく、まるで権威の象徴のごとく聳え立つビルがある。 連邦ビル。そしてその連邦ビルの正面から数十メートルかのところにデモ隊の先頭群が見えた。 ラグはまるで三段跳びの如く、跳躍を繰り返しながらさらに進む。 鉄の塊がひしゃげる音とともに、警官隊の装甲車両を一台潰してしまった。 人々の叫び声が聞こえる。 そして彼は先頭集団に到達する直前になってラグに脇のビルを伝って離れるように指示した。 ラグは勢いに乗って大きく飛び上がり再び屋上伝いに連邦ビルから遠ざかった。 そしてデモ隊はパニックに陥り、あれよあれよという間に暴動へと発展した。 「一体何が起こったんでしょう!? 今までこう着状態だったデモ隊が一変して暴動へと発展しています」 そしてテレビカメラは、デモ隊が走り回ったり、火炎瓶を使用しての攻撃行動、警官隊の放水や催涙ガスの使用などの様子を克明に写しあげた。 彼は笑いながら騒動の中心から離れていった。 と、そのときラグが突如叫び声を挙げて、両足をもがいて着地点の軌道を必死にずらそうとした。 「どうした!?」 彼は前を見ると、ラグが今まさに着地しようとしているビルの屋上に誰か人間がいるのだ。ラグはそれに気づかずにジャンプをし、着地間際になってそれに気づいて驚いているのだった。 「わあ!」 ラグとその人間は接触はしなかったが、かわりに獣は着地に失敗してそこで転倒した。上に乗っていた彼は投げ出され、落下防止の柵に強く叩きつけられることとなった。 「痛って~。柵がなかったらまっさかさまだったな」 彼は立ち上がり打った背中をさすりながら、柵から下を見下ろして、その高さに内心ぞっとした。 ラグは起き上がって首を振って意識を戻すしぐさをする。 そして彼は向き直って、ラグが転倒する原因となった人影に目をやった。 その人影はあまりに突然の出来事に動くことも出来ずに、その場でたたずんでいた。 「おい! お前!」 彼はそう叫んだ。その声にやっとわれに返ったのか人影は驚いたように方をビクリと上下させて声の主の方へと向き直った。 人影の正体は一人の少年であった。背は彼よりも低く、歳もニ、三ほど下と見受けられた。柔らかで整った顔立ちで、夜の街のそれもビルの屋上なんかにいるその少年は、この場にはあまりに場違いのように思われた。 少年は肩にブラウンの小さなバッグをかけており、なによりも目に付くのは両腕を使って持っている不思議な赤い布の包みだった。 「こんなところで何を……!? っとまあ俺もとてもじゃないが人の事いえないがな」 彼は自嘲まじりにそう言った。 「夜のこの街うろついたってろくな事ねえぞ。さっさと帰れ」 彼はまるで蝿を追い払うようなしぐさで、少年を追い立てた。しかし少年は何かを言おうと口をパクパクさせている。 それに気づいた彼は何事かと聞き取ろうとした。 「え? なんだって、聞こえねえよ」 「……あの、怪我は?」 驚いたことに少年は彼が柵に叩きつけられたことによって怪我をしていないかの心配をしていたのだ。 彼はそのことが妙におかしくなって、その場でカラカラと笑い飛ばした。 「なあに、このくらいすぐ治るさ」 そのことに安心したのか少年は、逃げるように走り出し、ビルの中へと通じる扉の向こうに消えた。 「変な奴だなあ。……ん? なんか落としていったな」 彼はさきほどまで少年が立っていた場所になにか厚い紙が落ちているのに気づいた。 拾い上げるとそれは写真だった。三人の人物が並んで写っており、中央には明らかにさきほどの少年のもっと幼かった頃と見受けられる人物が笑ってたっており、両脇には両親と見られる男女がそれぞれ少年の肩を支えて写っていた。 さきほどの少年はどうやら母親似らくしく、父親の方も整った顔立ちをしていたが、少年のそれとは全く違うタイプであった。 「おーい! といっても聞こえないか。ラグ、下まで行って降りてくるのを待とう」 **-3- [#v1674db7] 少年は人目を避けてビルの裏口から出てしまったことを酷く後悔していた。 裏口の扉を開いた瞬間、ゴンと何か硬いものにぶつかる音がして戸の動きが妨げられた。ブロックか何かにぶつかったのかと思ったが、その直後その認識が間違いであるとともに、酷い地雷を踏んでしまったのだと思い知らされることとなった。 そこにはいかにも絵に描いたような不良が三人ほどたむろしており、そのうち一人にいたってはビニール袋をもって、その中から何かを吸引しているようだった。 更に悪いことに少年がそれに気づいたのは扉から出て、閉めたあとだった。 そんなわけで、少年は三人の悪漢から絡まれている。 「おう、かわいいぼっちゃんがこんな時間に何をしてるのかなァ?」 ジーンズに黒のタンクトップで暗くてよく分からないが、何かの刺青を二の腕に彫ってある男が猫なで声で話しかける。 「おい、やめとけって。怖がってるじゃねえか」 もう一人がケタケタと笑いながら言ったが、話し振りからは止めようとしている要素など何一つ感じられない。 少年は逃げようと足を動かそうとしたが、すでに全身が震えて思うように動かせない。さらに少年の目にまた別のものが目に飛び込んできた。一台のバイク。不自然な改造が施されていることからこの悪漢たちの誰かのものであることは間違いがなかった。例え逃げたとしてもバイクで追われたらすぐに追いつかれてしまうのは目に見えている。 「なんだぁ、この布は」 三人目の男が少年が先ほどから抱いていた赤い包みに手をかけた。 「……やめて!」 思わずそう叫ぶも、男は強引に少年から包みを引き剥がした。 男たち三人が感嘆の声をあげたり、「なんだこりゃ?」と首をかしげたりする。 赤い包みが引き剥がされて出てきたものは、一匹のある生き物だった。 手足らしきものはなく、蛇のような体型だが、蛇にしては明らかに太すぎる体。全体的に水面のような明るい蒼に染まり、首から腹にかけて白い部分が見える。頭の両脇には楓の葉のような形の角らしきものがある。 その生き物は突然自分を覆っていたものが無くなり、また今おかれている状況に恐怖するように震えて、少年の腕の中に顔をうずめた。 「気味わりいな。オイ」 「でも、珍しいよな。マニアとかに持っていったら高く売れんじゃねえの?」 男の一人がその生き物に手を触れようとした。そのときだった。 空気を切り裂くような破裂音と破壊音とともに、触ろうとした男のこめかみにガラスの瓶が直撃し、粉々になった。飛び散る破片に少年は目を覆う。ガラス瓶の直撃を受けた男は、驚愕を仮面にして貼り付けたかのような表情のままかたまり、そのまま横に崩れかかって力なくぐったりと倒れた。少年はもちろんのこと男たちも何が起きたのか一瞬分かりかねて、ギリギリまで張り詰めた細糸のような沈黙がその場を覆った。 「ったく、なんで正面から出てくれないかな? おかげでまた面倒なことさせやがって」 その声が沈黙を破る。 そこには、先ほど少年がビルの屋上で遭遇したウインディ使いの黒ずくめだった。 ほどなくして、残り二人の悪漢が興奮の声をあげてすぐさま対象を少年から彼に変えてあれこれ叫び始めた。そしてほどなく男の一人がおそらく日常的に持ち歩いているのだろう、刃渡り十センチ強ほどのナイフを取り出し、黒ずくめに襲い掛かった。 男がナイフをふりかざし、切りかかろうとするところに黒ずくめはそれを避け、同時にそれによって出来た隙を彼は見逃さず、空を泳ぐ男の腕に彼は掴みかかった。 ゴキンと鈍い音が少年の耳にもはっきり聞こえた。直後に響いてくる男の怪我を負った犬のごとき叫び声。そして男はすぐに倒れこんで、右腕をおさえて悶絶する姿を見せた。 「野郎!」 もう一人の男が、そばに止めてあったバイクに乗り込み、エンジンをかけると温まるのも待たずに黒ずくめへと突進していった。その間黒ずくめの彼は男がエンジンをかけるまで結構な時間が空いていたにもかかわらず、あえて全く手を出さないでいた。 彼の前にバイクが迫る。しかし彼は全く避けるそぶりも見せない。 刹那、彼はいきなりジャンプしたかと思ったら、目の前に迫っているバイクの前輪の泥除けに左足をかけ、それでさらに二段目のジャンプしたと思ったら、男の顔面に彼は右足のかかとを思いっきりぶつけた。そのままバイクの男は顔に受けた衝撃で意識が遠のき、バランスを崩して路地のダッシュボックスにバイクごと衝突すると、見事ゴミの中に倒れこみそのまま気を失った。 「まったく。お前とんだ常識知らずだな。こんな治安が悪い中を夜に一人だったり、あげくに路地の方に入ったりとな。狭いからラグも入らねえから面倒だったよ」 悪漢三人が倒れている場所を離れて表通りに少年を連れてきた彼は、まず最初にそう言った。表通りと入っても、このあたりは夜になるとすっかり人影は姿を消すので、実際には二人のほかはほとんど誰もいなかったが、路地にいるよりはマシではあった。 少年が抱いていたあの不思議な生き物には再び男たちから剥がされた赤い布を被せている。少年は何も言わずに目線を落としていた。 「ああ、それとこれさっき屋上に落としていったやつだ」 そういうと、彼はさきほど少年が屋上で落としていったあの家族で写ったと思われる写真を渡した。 「え? ……これ」 物が物だけにやはり少年は落としていたことに気づいてなかったらしく、渡された写真を前にして最初目を丸くした。 「これ落としてなかったら今頃奴らになにされてたかな」 彼はいじわるそう響きを含めた声で笑う。 「まあお前が何でミニリュウなんて持ってんのか興味はあるが、聞かないことにするよ。お互いさまだしな。気をつけて帰れよ」 そして彼は背を向けようとした。 「待って!」 少年のまだ声変わりが完全に終わってない幼さと大人びたものが混ざったような声が響いた。 彼はぴたりと動作を止め、再び少年へと視線を向ける。 「今夜だけでいいから、どこか泊めてくれないかな?」 少年は言いにくいことを吐き出すように一気に言葉にした。彼は一瞬少年が何を言っているのか理解できなかったようで、数秒の間が流れた。 そして再び思考が戻ると彼はすぐに合点がいった。つまりこの少年は家出をしていて、少なくとも今夜は家には帰れないから、どこか泊まり場所を探しているのだろう。 どこにも泊まる宛てが無いにもかかわらずこの少年は家出をしたということに彼はあきれ果てる。 「やめとけよ。お前にはきちんとした親がいるんだろう? 何があったか知らねえが……」 と、そこまで言いかけたところで彼の言葉は少年の声に横槍を入れられた。 「お願い。今夜だけでいいんだ。明日になったら帰る。約束するよ!」 少年は彼の両目を見据えて哀願した。 一体少年と親との間になにがあるのか彼には分かりかねたが、少なくともただの親への反抗心で家出をしたわけではないのだと悟った。 彼はため息をついてしばらく空を仰いであれこれ考えた後、また少年の方へと目を向ける。 「ったく。つくづく面倒な奴だな。言っておくが、ラグに乗るから振り落とされんなよ」 そうして彼は再びあの赤と白のボールを取り出した。 「あ、……ありがとう」 思わず顔を伏せながら少年はそう述べた。 「お前、名前は?」 「リアン=アルファーノ」 少年は反射的に答える。 「そうか、俺はクレフってんだ」 **-4- [#xe7d449d] 女は本皮仕様のリクライニングチェアに深く座り、備え付けられている簡易テーブルの上のコーヒーカップを手に取り、一口それを口の中へと注ぎ込んだ。 耳につけているイヤーフォンから甘美で底なしの美しさを湛えたピアノの音色が流れてくる。彼女は瞑想するように目をつむり、そのメロディーに酔いしれていた。 ピアノは超絶技巧的なパッセージを謳いながらも、どこか素朴な情感を見え隠れさせ、低音の響きも重なり合い次第に高揚を見せてくる。 そしてその高揚感が頂点に達したとき、曲はにわかにまるで山を下るかのように不完全終始の形を築き、張り詰めるようなゲネラルパウゼ(音楽において曲の途中における完全に無音の部分。楽譜にはG.Pと記載される)が余韻を残しながらも強大な緊張感を漂わせる。 そのときまるで天啓を受けたかのような伴奏の無い一つのメロディーが始まる。メロディーは静かに歌い始めると、同じメロディーが最初のものより五度上から始まり、次第に重なっていく。 「ロワ様」 女はその低い男の声で現実に連れ戻されたかのように、ぎろりと瞼を開ける。 リクライニングチェアをいっぱいに倒していたので、最初に視界に入ってきたのは白い天井とそこに備え付けられている電球の淡い橙色の光だった。すぐに彼女は椅子の横に初老の髪もひげも大分白くなっている男性がいることに気づいた。 女は何もいわず、男の目に視線を注いだ。「なんの用?」。彼女は目でそう言う。 「ただいま連絡が入りまして、『種』がなくなったと」 「いい加減くだらない暗号で呼ぶのはやめにしない? どうせここでは聞かれちゃいけない人間なんていないんだから」 女は尊大ぶった圧力をかけるような声で返す。 「で、あなたたちは彼が家出していたこのチャンスをみすみす逃したと?」 彼女の口調は決して激しくないものではあるが、その声の裏に男のことを強く追及する高圧的な念が感じられた。 一歩引き下がり、謝罪の言葉を述べると深々と頭を下げた。まだ少しだけ黒いものが残る髪の毛は少しも垂れるそぶりを見せない。 「それが、途中三人組の悪漢どもに襲われていたのを目撃したのですが、こちら側が介入する直前に妙な少年が乱入しまして」 「それで?」 「少年は悪党どもを蹴散らした後、どうやって入手したのかウインディを持っていて、それに彼を乗せてどこかへと去ったのです。追跡は試みましたが、いかんせんあちらはビルからビルへと越える移動方法ですぐに見失ったとのことです」 男が報告を終えた後、しばらくの間ロワと呼ばれた女は黙っていた。イヤーフォンから流れてくる音楽のほうに集中しているのか、椅子を倒したまま再び目を瞑っていた。男の方は女が何を思っているのか察しかねていたが、そのまま彼女の方から何か動きがあるまでじっとその場からまるで石像になったかのように動かなかった。 やがてロワはイヤーフォンから流れる音楽が終わったのか、まるで目を覚ましたかのように瞼をカッと開く。そしてすぐに今まで倒していた椅子を起こし、イヤーフォンをはずした。デスクの上で今までひたすらパイプのようなものが伸びていくスクリーンセーバーを描いていた一台のノートパソコンに触れた。するとロワは手馴れた動きでパソコンを操作し何かのデータを引き出した。 「ウインディ。十年くらい前にガーディからの進化開発で生み出された種ね。でも実質的に開発が完了したのが七年前……ね」 「それまでは進化させても体形成が安定せずに奇形ばかり生まれてたと聞きます」 ロワは男の言葉などまるで聞こえていなかったかのように更にパソコンを操作する。カタカタというキーボードを打つ無機質な動作音が響く。 「なるほどね。ティエル、これを御覧なさい」 ティエルと呼ばれたその初老の男は、しゃがみこんでロワほどにまで目の高さを落とし、パソコンの画面を覗き込んだ。 そこにはある新聞社のニュースが書き込まれている。 内容はウインディに乗った男がここ数ヶ月に渡って、暴走族、ギャングなど、悪党のグループを狙って破壊行為を行っているという記事内容だった。被害を受けた者たちは重傷を負ったものも少なくないが、まだ死人は一人として出てはいないようだった。また、巷では「天罰」と称して逆にそのウインディの男を応援する声も存在するとのこと。 「最近、デモや暴動ばかりが大きく記事になってたおかげで、あんまり目立たなかったようだけど、きっとこの犯人ね」 「なるほど。しかしこれだけでもまだ分かりませんね」 「でも、大丈夫なんじゃない?」 ロワはノートパソコンを閉じ、再びコーヒーカップを口に運びながらそう言った。目玉だけがティエルの方へと注がれる。 「と、言いますと?」 「この犯人の標的は暴走族やギャングなど、反社会的な人間に向けられているわ。あの子がこの犯人に何かされるとは考えにくいわね。事実、むしろこの犯人はあの子を助けてるんだから。きっと何を思ったのかリアンくんの方から頼み込んだんでしょう」 ロワはついに「リアン」という、標的の名をはっきりと口に出した。それに対してティエルの方はなにやら訝しげな表情をしたが、ロワはそんな彼を全く無視していた。 彼女は一息ついて、再びリクライニングチェアを少しだけ倒す。「テレビを」と言うと、ティエルは何も言わず、部屋の隅にある大画面のテレビに電源を入れる。 最初に写った画面は、何か新型の自動車のCMだった。安全かつハイスペックなエンジン性能を謳い、車はわざとらしく思う存分スピードが出せるような道を走っている光景が繰り広げられた。今時分このように存分に何の気兼ねも無くスピードを出せるような道など、数えるほどにもありはしないというのに。 一度チャンネルを回すと報道番組が連邦ビル前の暴動の様子の状況を刻々と映し出していた。複数の機動隊に囲まれる学生や市民団体の姿が写る。さらに警察が催涙ガス弾を発射し、さらにデモ隊に向けて放水をしている。次々と人々を連行していく警官たちや、テレビカメラに向かって護送車に連れ込まれるギリギリまで自分たちの権利を訴える者たち。 「いつからこの街はこんな体たらくになったんでしょうね」 ロワはデモ隊の様子のVTRからスタジオへとカメラが戻ったテレビを細めた目で眺めながらポツリと呟いた。 「せっかく先の大戦から復興したっていうのに、権力者にしろ一般市民にしろ自分たちの義務には目をそむけて権利権利って」 「そのためにも、彼の力が必要なんですよ」 ティエルはなだめるようにロワにささやきながらテレビの電源をオフにした。ロワも既にテレビ画面には興味を失っていたらしく、切られたところで瞼をピクリともさせなかった。 「まあこちらとしても、ああして一般市民がデモとか起こしてくれるから行動がしやすいんだけどね。全くとんだ皮肉ね」 彼女はさらにリクライニングチェアを倒し、ほとんど横になっている体勢にまでなった。そして下から見上げた形に立っているティエルの姿が目に映る。彼はロワとは目を合わせず、そのかわり穏やかな表情でその場で彼女の指示が来るのを待っていた。 「そうね。念のため警察のデータバンクに侵入してクラナポリスで過去五年のうちに起きた少年犯罪のデータを調べておいて」 命令を下すときの彼女の声は凛としていて張りが感じられた。ティエルも「ハッ!」と了解の返事を返すと、入ってきたときのようにまた彼女に向かって一礼をし、マントをつけていたら必ず翻る姿を拝めたであろうほどの勢いで背を向けると、ツカツカと部屋を出て行った。 一人になった部屋で、ロワは再びイヤーフォンを耳につけて音楽を聴き始めた。 **-5- [#a8e0cbde] クレフとリアンの二人を載せたウインディのラグはしばらく建物の上を越えながら進んだのち、やがて街の中心から少し離れた廃ビルの目立つ通りへと行き着いた。 比較的になかなか広い道路が中心を走っているにもかかわらず、行きかう車はほとんどなく、アスファルトにはゴミが数多く落ちていており、そもそも普段から車が通ること自体が珍しいと見受けられた。 夜道を照らす役割を担っているはずの街頭も、そのほとんどが電球が切れてしまっていたり、割られてしまっている。いくつかかろうじて残っているものがあるものの、それらもまた大半が鈍いスパーク音をたてながら点いたり消えたりを繰り返していた。 人の気配がない。それは決して夜だからと言うにはあまりに人の痕跡が残されてなかった。かつての繁華街というべきだろうか。だが、このあたりの建物はほとんど人々から放棄されており、ある建物にいたっては崩れかけのまま放置されていた。 まずクレフからラグから降りて、その次にミニリュウを抱いているリアンが恐る恐る、一気に落ちることのないようにそっと降り立つ。 「着いたよ。ラグ、ご苦労さん」 クレフはラグのふさふさの毛に覆われた大きな顔をなでると、再びあの赤と白のツートンカラーに塗られたボールを取り出した。彼はそれをラグにかざす。ボールから白い光が飛び出し、それがラグに当たるとラグもまたその白い光と同じ色に発光し始めたかと思うと、吸い込まれるようにボールへと消えた。 リアンはその様子を目を丸くして見守っていた。その様子に気がついたクレフが話しかける。 「なんだ? お前、これのこと知ってるのか?」 クレフがつい今しがた、ラグが吸い込まれていったボールをかざす。リアンは少し考えたのちに呟くように言った。 「いや、ただ珍しかったから」 「まあそうだよな。お前も持ってたらそのミニリュウを連れやすく出来るのにな」 「アーク」 「へ?」 唐突にリアンの口から出されたその言葉にクレフは思わず聞き返した。 相手の方はというと、抱いているミニリュウの頭を優しくなでている。 「この子の名前だよ」 ミニリュウは包まれている赤い布から顔だけ出して、物問いたげに二人の顔を交互に見回す。アークと呼ばれたそのミニリュウは最初、見慣れぬクレフに対して驚き少々怯えるようなそぶりを見せたがをしたが、目の前にいる己の主であるリアンがなだめるように微笑んだため次第に緊張をといていった。 「へえ。いい名だな」 それからクレフは薄暗い通にある、ほとんど見捨てられた建物のうち、ほとんど唯一といって良いあかりの灯っている建物へと近づいた。これもまた随分と古ぼけた体裁のあるビルで壁は元々白かったのだろうが、汚らしく黒ずんでいるということが夜でもわかってしまう。 「Bar LUNE」と白いアクリル製の白い電球カバーに文字を印刷しただけの看板が、無機質に鈍く光っている。クレフはその店と思われる建物へと歩いた。 「汚いところだが、勘弁しろよ」 「うん。元々僕が無理言ってるんだから」 「分かってるならいいよ」 そしてクレフはLUNEという店の扉を開いた。よくみたら扉が斜めに歪んでいる。ちょっと乱暴に開いたらそのまま外れてしまうのではないかとリアンは少し顔をゆがめた。中は薄暗いオレンジ色の電灯が並んでおり、埃っぽい空気が漂っている。二人がけや四人がけのテーブルが並んでいるその奥に、カウンターがあった。そしてそのカウンターの中で一人のかっぷくの良い中年女性が洗った皿を拭いているところだった。少し茶色がかった長い髪をカールに加工させて、濃い化粧をのせた顔がこちらを向く。 「あらクレフおかえりなさい」 いかにもヘビースモーカーと思われるような低いハスキーな、しかし快活な声で女性は言った。 「おばさん。悪いけど、空き部屋一つ貸してくんない?」 「いいけど、どうしてかしら?」 それからクレフは無言で女性の方を向いたまま、親指で後ろをついてきたリアンを指した。 「あら、かわいいぼうやじゃない。どうしたの?」 「んまあちょっとした事故で会ってね」 そしてクレフはリアンと出会った経緯を説明した。彼が家出をし、今夜だけは家には帰りたくないと言うにもかかわらず、今夜泊まるあてがないと言って放っておくわけにもいかずに仕方なく連れてきたのだと。 女性は「ふーん」と鼻を鳴らして、リアンの姿をつま先から頭のてっぺんの髪の毛まで舐めるように見回す。リアンは少し気恥ずかしそうに一歩身を引いた。それから女性はリアンが抱いているミニリュウに目をやった。 「おや。この子も持ってるのね。でもクレフのとは全然違うわね」 「大丈夫だよ。危険はないさ」 女性は彼の抱いているミニリュウのことがどうにも気になるらしかったが、やがてため息をつきながら、「まあクレフが言うんだから大丈夫でしょうね」と呟いた。 「ごめんなさいね。クレフの持ってるラグちゃんに何度か店を燃やされかけたことがあったから、つい気になっちゃってね」 それから女性は天井のある一転を指した。天井には白い壁紙が貼られていたが、女性が指したその一転だけ黒ずんで焦げた跡がある。そして女性は豪快な笑い声をあたりに響かせた。どうやらこの女性はリアンが持ってるミニリュウを不思議な生き物として怪しんでいるのではなく、ただ店を燃やされやしないだろうかと不安に感じているだけだったらしい。つられてクレフも笑う。リアンはこの状況でどうすればいいのか分からず所在無げにあたりを見回したが、やがて彼も思わず笑みをこぼした。 「ああ、そうだった。空き部屋ね。三階の一番奥の部屋を使って」 彼女はカウンターの下に屈んで少しばかりごそごそとなにかを探るような音をたてた後、黒い猫のキーホルダーがついた鍵をいきなりリアンに投げた。突然のことで彼は慌てて飛んでくる鍵に向かって手をかざした。しばらく鍵が彼の手の上で暴れたあとなんとか掌の中に落ち着く。 「ありがとうございます」 彼は女性に向かって頭を下げた。 「礼儀正しい子だね。名前は?」 「リアン=アルファーノです」 「そう。あたしはマルトっていうのさ」 そして二人は店の奥にある階段を上った。上りきったところに細い回廊が続いており、壁にはいくつか扉があったがクレフはそのどれも無視して、突き当たりにある扉へと向かう。そして突き当たりの扉を開くと外に出るようになっていた。そして扉を出てすぐ見下ろしたところにはさきほど歩いていた道路が広がっていた。 そこにはまた階段があり、どうやらこの階段が三階へと上るためのものらしい。カンカンという鉄の棒や板などを組み合わせた階段特有の乾いた響きが、一段一段上がるたびに鳴り渡る。ふとリアンはビルの向こうに広がる空に目を移した。積雲がポツポツとうかび、それが地上からの光で薄く照らされている。 「ここだ」 到着した部屋はさきほどマルトが言っていた通り、三階の回廊を一番奥まで進んだところにあった。リアンはさきほど渡された黒猫のキーホルダーのついた鍵を鍵穴に差し込む。カチャリと鍵の外れる音が鳴り、少し埃の被っているドアノブを大儀そうに回した。 「まあしばらく誰も使ってなかったから埃だらけだががまんしてくれよな」 クレフの言ったとおり、その部屋の扉を開けるとともに、明らかに淀んだ閉じ込められていた空気がリアンに触れた。 「何かあったら、俺は隣の部屋にいるからな。ま、あんまり迷惑かけないでくれよ」 彼は冗談の混じった笑いを浮かべて、言ったとおり隣の扉を開き、そそくさと中へと入って行った。 一人になったリアンはとりあえずこの暗がりをどうにかしようと、手探りで灯りの電源を探した。やがて壁に設置されているスイッチに手が触れ、パチっという音ともに玄関の蛍光灯が白い光を放つ。部屋はよくあるワンルームマンションという体裁を取っていた。小さな台所におそらくユニットバスがあるかと思われる扉、そして居間。 クレフの言っていた通り、やはり長い間使われていなかったらしく、どこもかしこも埃っぽかった。部屋へと上がり、とりあえず居間に落ち着くと彼はずっと抱きっぱなしだったミニリュウのアークをフローリングの床に下ろしてあげた。アークはようやく安全な空間へと放たれ、蛇のような体を丸めて安堵するかのように眠り始めた。 リアンはそんなアークを頭を優しく撫でながらフッとため息をつく。そして窓を通して外へ見やる。ずっと遠くにクラナポリスの中心街が見ることができた。巨人のような超高層ビル群、その中で他のビルより更に群を抜く大きさを誇る連邦ビル。 彼はふと、マルトとクレフのことについて考えた。先ほどのやり取りからマルトはクレフの親というわけではないようだと彼は感じる。二人とも親子と呼ぶにはあまりに似てはいなかったし、何よりクレフは彼女のことを「おばさん」と呼んでいたからだ。 クレフの方はというとどうやらこの隣の部屋で一人暮らしをしているとすぐに予想がついた。この部屋はどうみても家族で、少なくとも複数の人数で暮らすことを想定した造りにはなっていなかった。一体クレフとマルトはどういう関係で、そしてクレフの親はどうしているのだろうかと彼は気になったが、家でしてしかも泊めてもらっている身でそこまで探るのは失礼にもほどがあると考え、そのことをなるべく気にしないように努めることにした。 そのとき彼に軽い頭痛が襲った。ピリピリとまるで電気が流れるような軽い痛み。今から一月ほど前から毎日のように起こるものだった。体調を崩してしまうほどのものでもなかったが、やはり気にならないわけにはいかないものである。彼は思わず痛む部分を手でさする。 主のそんな状況を察したのか、眠っていたアークが目を覚まし、彼を慮るような目で見つめた。 「大丈夫だよアーク」 その夜、彼は夢を見た。 どこかの公園と思われる場所で、彼は泣いていた。 初めて親に内緒で一人で遊びに行った。その行き先の公園で何人かの同じ年代の子どもからいじめられた。なぜいじめられたのかは記憶にない。都合がいいようにその部分はカットされる。 ずっと昔の記憶。 そしていじめっ子たちも去り、彼は一人で泣いていた。 彼はふと目線をあげる。ずっと遠くから誰かが見ているような気がした。 そこで夢は途切れ、リアンは目を覚ました。 *第二章「兆し」 [#p535fc9f] **-6- [#da50a7ce] ずっしりと重い雲が灰色の街の上に覆いかぶさり、雨を降らしていた。街へと降り注ぐ雨の一粒一粒は人々の計算によって決められた順路を整然とたどり、地面から水路へ、水路から川へと段階を経て流れて行く。それでもその街の仕組みから零れ落ちた雨粒は地面のあちこちで水溜りをつくり、ほとんど土のしみこむことなく、そこでただ蒸発するときを待つ。 リアンは眠りから覚めると、静かな水の音のする窓の外へと目を向けた。色を失った街がぼんやりと浮かび上がる。ビルの一棟一棟がまるで倒れずに絶命した巨人のようにズシリと地面に腰を据えているようだった。 「雨か……」 彼はポツリと呟く。昨夜の時点ではまだ晴れていたのにと彼は思い、湿度が高かったとはいえ改めて夏の天候の変わりやすさを実感する。 それから彼は昨夜から今にかけて自分がやってしまっていることに思いをはせる。 そして彼はまだ赤い布に包まって眠っているアークを見やり、一息ため息をついた後に自嘲気味に小さな笑いをこぼす。 家出をするにはあまりに準備不足だった自分に対しての笑いである。家を出ようにも落ち着き先の宛てもなければ、所持金の方も高が知れていた。今から考えると昨夜のクレフへの懇願はあまりに身勝手で、また無茶苦茶なやりかたであったと、今更ながら小恥ずかしく思え、彼は苦笑を浮かべる。 ふと彼は少し黒ずんだ染みがポツポツと見受けられる壁にかかっているものに目を向けた。それは日めくりカレンダーだった。そのカレンダーは今年の一月二十一日を指したまま、そのまま誰にもめくられることなく放置されているようだった。つまりその日まではこの部屋には誰かが居たという事になる。とはいえ、ここに住んでいたもののことなどリアンにとってはどうでもいいことである。彼は何となくそのカレンダーがまだ一月二十一日を指していることが気になり、ついに腰を上げるとカレンダーを掴んで、放置されていたほぼ半年分を数回にわたってごっそり破り取った。 七月二十六日。 彼はカレンダーがようやく止まっていた時を動かせるようになったことに満足して、わずかに微笑む。 「行こうか」 まだ眠っているアークを起こさないように優しく抱き上げると、玄関へと向かった。部屋の扉を開けると、いよいよ雨音が鮮明なものとなって耳へと届けられる。雨雲にさえぎられながらも、地上へと降り注ぐ光によって照らされる街の輪郭は、雨粒によってノイズ懸っていた。 彼は落下防止柵から灰色の地上を見下ろす。三階という高さなのでそこまで高いものではなかった。 ――帰らなくちゃ 口にこそ出さなくとも、彼は心の中でそう呟いた。だが、その一方で彼の心に『帰りたくない』と呟く自分も存在している。家のほうからの連絡が来るのを避けるために、携帯電話はわざと置いてきた。 「おう、起きたか」 下へと続く階段から姿を現したクレフが声をかけた。そのときリアンは昨晩会った時と、今とで彼の印象が大分違っているような感覚を覚えた。それは最初に会ったときには既に夜であまり彼の顔などが良く見ることが出来なかったためであろう。彼のぼさぼさな髪の毛は夜のうちでは墨を垂らしたように黒く見えていたのが、明るくなるとわずかに茶色がかっていることが分かる。服装は昨晩は全身黒尽くめのつなぎだったのだが、今はジーンズに赤いTシャツ、そして黒い半袖のジャケットを羽織っていた。 「眠れたか?」 そのクレフからの問いにリアンは小さく返事をして首を縦に振る。 それから彼ら二人は下へと降り『Bar LUNE』へと入った。 バーの中に入ると昨日はしなかった煙草の匂いが鼻をつく。マルトがカウンターの中で新聞を広げながら煙草をふかしているところだった。そして同じくカウンターの上に置かれているラジオが朝のニュースを流している。 昨晩は薄暗く怪しげな雰囲気をかもし出していたバーも、今は窓から雨で曇っているとはいえ、日の光が入り幾分爽やかな感じをかもし出していた。 「あら、おはようさん」 階段を下りて中へと入ってきたリアンにマルトが持ち前のハスキー声で挨拶した。彼のほうも思わず笑みをこぼしながら「おはようございます」と返す。 『昨夜の連邦ビル前で起こったデモについてのニュースです。市民団体側の発表によると参加者は全員で二千人にものぼり……』 ラジオが部分部分にノイズを混ぜながら、報道内容を伝えていた。 クレフがカウンターに座り、うるさいと思ったのかラジオの電源を消した。とたんに今まで次々と言葉を発していたラジオが黙り込む。 「昨晩は眠れたかい?」 マルトが先ほどのクレフと同じことをきく。 「ええ、おかげさまで」 「そりゃあよかった。まあお座りな」 そして彼は今、暗い病室で溜息を吐いている。 ブラッキーにとって夜は長い。元々夜行性である上に、日中はすることも無くベッドの上で寝転がっているだけである。今日は面会があったからマシな方だが、それでも眠気など微塵も感じられず、ただぼんやり暗い天井と明るい月を交互に眺めるしか無かった。 昼間のヘルガーとの会話を思い返し、また深く溜息を吐く。 図星だと認めないわけにはいかない。普段なら、我慢できなくなくなれば自分で処理ができたのだが、今はこの状態である。両前足が使えなければ、最終手段で自分の口で……というのもできなくはない。しかし前足を吊られている状態では体を折り曲げるのが非常に辛く、それどころではないのだ。体勢的にはどちらかというと筋トレに近い。……きっと常勤には雌ポケモンが多いのだと思う。ポケモンセンターの雇用形態を憂うのは生まれてこの方初めてだが、恨めしいことこの上ない。 溜まっている、というのはブラッキー自ら感じていることだ。ここ数日、下腹部の妙な感覚が絶えず、廊下から流れてくる雌の匂いだけで変な気を起こしてしまいそうになる。こうなってくると怖いのは自分の夢だ。淫夢でも見て発射してしまえば、最早自分で処理しきれない惨状となるだろう。そうして次の朝に痴態を晒すことになる。そんな不安が眠りを妨げ、彼の夜をより一層長いものにしていた。 彼は今日もナースコールの紐を口に咥えている。 骨折したポケモン用に、口で紐を引くと反応するタイプのものだ。コールが掛かれば、その時間にセンターで勤務している看護士のポケモンと連絡を取れる。実はここ数日、毎晩のようにコールを掛けては無言で返し、慌てて駆けつけてきた看護士に対して狸寝入りを決め込む、ということを彼は繰り返していた。 傍から見ればイタズラ以外の何者でも無い。実際に毎晩駆けつけてくる看護士も、ベッドを囲むカーテンの中を覗きはするが、異常が無いことを確認するとすぐに立ち去ってしまう。 「……はあ」 ブラッキーは深く溜息を吐く。幸せはどれだけ逃げただろう。 別にイタズラをして気を紛らわそうとしているわけではない。気づいて欲しいのだ。真っ当で健康な雄なら、そういう生理的な欲求がある――排泄と同じように――ということに。そんな、当たり前に思っていた事実がここでは常識として通用しない。尿瓶とは訳が違う。性別という名の壁は果てしなく高く、そして分厚かった。 軽く首を動かして紐を引くと、天井に備え付けられたランプが赤く点滅し、ベッド脇のマイクにスイッチが入る。 『はい、どうしましたか?』 その流れるような声に、しかしブラッキーは何も答えない。多分ラッキーかな、とそんなことを考えるばかりで、もう一度異常を尋ねる声にも沈黙を返した。 プツっとマイクのスイッチが切れる音が聞こえる。またいつも通りの猿芝居が始まるのだ。 暫く待っていると、引き戸の扉がゆっくり開くのが聞こえた。恐らく点滅するランプを目印にしているのだろう、とブラッキーは思っている。廊下の明かりが逆光となって、ラッキーらしき影がカーテンのスクリーンに映った。 それを確認してからブラッキーは目を閉じる。天井のランプは未だ点滅したままで、瞼の裏に赤い影を残していた。 「…………」 カーテンを開ける音が聞こえた。きっとラッキーは不思議そうな顔をして、首を傾けているのだろう。 数十秒ほどだろうか。ゆっくり浅い呼吸を繰り返していると、やはりいつもと同じように耳元でカーテンを閉める音がした。そのままベッドから遠ざかる足音が聞こえて、そして遠くで扉を閉める音が響く。 残ったのは、変わり映えしない視界だけ。 「……はあ」 ブラッキーは深く溜息を吐く。時刻を確認すれば、もう午前の三時を回っていた。 あと何回、こんな夜を過ごせば良いんだろう。そう憂いながら、そろそろ眠ろうかと目を閉じたときだった。 「……?」 病室の扉を開く、微かな音が再びブラッキーの耳に届いた。見回りにしては時間が早いと思う。何より不審なのは、扉をすぐに閉めていることだ。普通の看護士なら、そんな面倒なことはしない。 忍ぶような足音が、まっすぐブラッキーのベッドへと向かってくる。一瞬迷ったが、先ほどと同じように狸寝入りを決め込むことにした。どちらにしろまともに動けないのだ。面倒なことは回避するのが得策だ。 ……暫くすると足音が消えて、静寂が落ちた。確かに扉を開ける音と足音は聞こえたのに、それが嘘のように物音一つさえ聞こえない。様々な憶測がブラッキーの頭の中を飛び交った。患者でも迷い込んできたか、あるいは――幽霊? などとと思ったときだった。 「ねえ」 驚くほど間近から声が聞こえて、思わず飛び上がりそうになる。カーテンを開けた音がしなかったということは、上か下か、どちらかから潜り込んだのだろう。足音がした、ということは後者が濃厚だ。 「ここ最近、毎晩ナースコールでイタズラしてるのって、キミかな?」 はいその通りですと言うわけにもいかない。ブラッキーは何も答えずに寝たフリを続けている。 その何者かは立ち去ろうともせずに、小さく溜息を吐いた。 「起きてるんでしょ? バレバレだから、目開けなさい」 「…………」 そこまで言われて、ブラッキーはやっと目を開いた。自然と眉間にシワを寄せて眠たげな表情を作ってしまうのは、自分のプライドの最後の抵抗なのだと思う。 ブラッキーの目の前にいたのは、頭に看護帽をかぶったブースターだった。幼げな顔立ちで、ともすれば彼と同い年くらいに見える。 可愛い、とブラッキーは思ってしまった。 マズイと思ったときには既に遅かった。すぐに顔を背けるが、どうしても彼女の匂いを意識してしまって、その存在を頭の中から排除しきれない。 ブースターは不思議そうな表情でその様子を見下ろして、それから彼のギプスに目を留めた。 「……ああ、これじゃ駄目だね」 何の遠慮もなくベッドの上によじ登って、吊られているギプスを軽く叩く。とんでもない看護士だ、とブラッキーは思ったが、ブースターは全く気にした風もなく、更に続けた。 「これじゃ男の子は辛いでしょ。結構こういうところに疎いんだよね、みんな」 『男の子』という部分にアクセントを置いたその言い方に、自分の顔が赤くなっていくのをブラッキーは感じていた。気づいてくれることを願っていたけど、まさか本当に気づかれるとは思ってもいなかった。 焦って困惑の表情を浮かべている内に、その変化に感づいたようにブースターが微笑んでみせる。 「……別に変なことじゃないよ? キミくらいの男の子なら、普通のことなんだから」 「ち、ちがっ……」 そう言って、遠慮なく、本当に何の遠慮もなく、ブースターがブラッキーの股間へと目を移す。炎タイプって視線にも熱を持ってたっけ、とブラッキーは考えずにはいられなかった。軽く体を捩るものの、その視線から隠すには至らない。 「あれ、もしかして何回もナースコール引いてたのって……」 そのブースターの笑みに、イタズラっぽい色が混じり始めた。その視線がブラッキーの股間を捉えているのは明らかで、そういう意識が一層彼の理性を狂わせてしまう。耳の先まで赤くなるのを感じながら、ブラッキーは自身を反応させてしまっていた。慌ててそれを隠そうとするものの、前足は不自由で、辛うじて後脚を閉じることしかできない。 「ふふ、別に隠すことないじゃない」 「――な、なっ……!?」 驚くべきことに、そのブースターは前足を内股に這わせ始めた。ベッドの上、ブラッキーの脇に座り、彼の後脚をゆっくり開くようにして。必死にその力に逆らおうとするものの、後脚だけの力で敵うはずがない。あっさりと開脚させられて、すっかり欲情しきったペニスを外気に晒す羽目になってしまった。 「なにすんっ……!」 「しー……っ」 何するんだ、と抗議の声を上げようとしたが、ブースターの窘めるような小声に言葉を詰まらせてしまった。 「……声、出しちゃ駄目だよ? 私だって、こんなとこ誰にも見られたくないもの」 イタズラっぽくブースターが笑う。その柔らかく温かい体に圧し掛かられながら、どんな罠だ、とブラッキーは思った。濃い雌の香りが一瞬で脳髄を貫いて、肢体を絡ませてくるのブースターの感触以外、何も感じられなくなってしまう。 呼吸が荒くなっているのを、認めないわけにはいかなかった。 「ふふ、可愛い顔してるね。……このままお預けなんて、嫌でしょ?」 顔同士が衝突しそうな距離でそう聞かれ、首を横に振れる奴がこの世に一体どれだけいるだろう。 リアンは素直に言葉に甘えて、クレフと一つ席を隔てた位置にあるイスに腰掛けた。 「さてと、俺はちょっと準備してくるよ」 さきほどイスに座ったばかりだというのに、クレフはまた席を立って自分の部屋を目指して階段を上っていった。この場にいる人間はマルトとリアンだけになる。 そのとき赤い布にくるまってリアンの腕の中で眠っていたミニリュウのアークがようやく目を覚ました。アークはひょっこりと顔を上げて辺りを見回す。どうやら今自分がどこにいるのかを探っているようだ。そして上を見上げて見慣れたリアンの顔を確認すると安心したように欠伸を一つした。マルトが「あらかわいい」とにこりと笑いながら、葉巻を一つ取り出して火をつける。 ふと彼は店の中を改めて見回してみた。昨晩はあまりに突然な出来事の連続であったため、ここに来たときは緊張してほとんど店内を見回す余裕などなかったのだ。 店内は少々(ほとんどマルトのものだと思われるが)煙草の匂いが染み付いてはいるが、よく掃除はされているようだった。今彼が座っている木製のカウンターにしても長く使っているせいでかなり色がはげてはいたが、汚れそのものはほとんど見受けられない。 「この店はいつごろからやってるんですか?」 「この店はアタシが来る前から主人がやってたからねえ。もう二十年以上続いているんじゃないかしら?」 「そんなに?」 リアンは思わず目を丸くする。二十年という自分の年齢をはるかに超える年数に彼は思いをはせた。 「先の大戦が始まる前からやってるからねえ」 「先の大戦……」 彼は幼い頃から頻繁にその言葉を耳にしていた。そしてその言葉の意味することによってあちこちが崩壊したクラナポリスの街を。学校の歴史の授業でも詳しいことを習ったし、教師あるいは経験者からは大戦中の経験談と「二度とこのようなことが起こらないようにしなければならない」という言葉を耳に胼胝が出来るほど聞かされた。だが、それでも彼はたとえ終戦した直後に自分が生まれたというのに、この戦争についてほとんど何の現実感も持つことが出来なかった。体験談などはまるでフィクションのストーリーを聞いているような感覚であった。 小さくベッドが軋む。ブースターがブラッキーの体を抱き寄せるとともに鳴ったその音は、彼の喘ぎを代弁したのかもしれない。 「本当は声も聞きたいけど……仕方ないもんね」 そのままブースターは無邪気に笑いながら口先を寄せ、彼の頬に舌で線を描いた。 「……でも、目は開けて欲しいな」 言われるまま、躊躇いつつもブラッキーは堅く閉じていた瞼を開く。息も掛かるような距離に、どんぐりのように丸い瞳が二つ。その中に自分の表情まで伺うことまでできてしまった。口周りが無駄に緊張してしまっている表情が滑稽で、ひたすらに情けない。 「キミはもう準備万端って感じだけど、ちょっとだけ私に準備させて、ね?」 その直球な物言いに、思わず言葉に詰まってしまう。事実であるからして何も言い返せない。 鼻先同士をくっつけてから、ブースターは更に腰を押し付けてきた。きし、と更にベッドが軋む音が聞こえて、それと同時にブラッキーは雌の柔らかさを嫌というほど堪能させられることになった。 体が燃えるように、熱い。 「ん……、く」 閉じた口から小さく漏れた声は、体同士が擦れ合う音に掻き消されてしまいそうだった。 ブースターが、その体の中で最も柔らかく繊細な部分を、今自分の体の中で一番緊張している部分に擦り付けてくる。その滑らかな花びらに挟み込まれ、それだけで心臓まで蕩けてしまいそうなのに、その感触はゆっくり先端に向かって這い上がってくるのだ。 「ゆっくりするから、我慢……してね?」 呼吸まで震えてしまっているブラッキーに、ブースターが再び囁いた。 余裕を搾り出すようにして何とか頷くものの、体全体が緊張してしまって息を吐くことすらままならない。食むようにして先端を撫でられると、遂に体が小さく跳ねてしまった。 こんな拷問は受けたことが無い、とブラッキーは思う。いっそ自分から腰を動かして全てを終わらせてしまいたい衝動に駆られるが、それは雄としての最後のプライドが許さない。 ブースターは気遣うように、そこで何度か呼吸を置いてから、ゆっくり腰を下ろすようにして根元の方へと戻っていく。同時にその柔らかい感触も熱を残しながら這っていった。 「よっぽど我慢してたんだね。……炎タイプみたい」 このやろ、と思ったブラッキーの瞳に、相変わらず愉しそうに笑うブースターの表情が映った。そもそも野郎ではなかった。その愛くるしい表情を再確認してしまうと、口を閉じたまま視線を枕元へ逸らすことしかできない。逸らすのだが、そんなものは気休め以外の何物でもなく、相変わらず彼女の性器は敏感な雄に密着し、快感の奔流を送り込んでくる。 「……ん、な」 その快感に気を取られている隙を突くように、ブースターが鼻先を寄せて――気がついたときには、ブースターの小さな口がこちらの口に柔らかく正面衝突していた。丁寧にブラッキーの頬に前足まで添えて、その感触から逃げられないように。 「んぐ、ぅ……」 思わずくぐもった声を上げてしまうが、それも彼女の口の中に吸い込まれるように消えてしまう。更にその柔らかい感触の中から熱いぬめりが割り込んでくると、最早抗議の声さえ上げることを許されない。 炎タイプ独特の熱い舌を深く差し込まれ、同時に性器をじっとりと嬲られている自身の状況に、まるで犯されているようだ、とブラッキーは思った。その恥辱に頬が熱くなるが、ギプスを巻かれて吊られている前足は、手錠か何かで拘束されているのに何ら変わりはない。目の前の無邪気そうなブースターがとても恨めしく感じてしまうが、胸元から、お腹から、そして性器同士から伝わる熱に、自身の理性が少しずつ溶かされているのもどこかで感じている。そもそも状況が異常過ぎるのだ。暗い病室の中で、聞こえてくるのは衣擦れの音とベッドが軋む音と、目の前の看護士が美味しそうに自分の口の中を弄んでいる水音だけだなんて。声も上げられず、逃げることも許されず、ただ可愛い雌に慰められるしかないだなんて―― 再びブースターが腰を押し付けたとき、まるで押し出されるようにして小さな雫が先端から溢れ出るのをブラッキーは認めた。彼女の下腹部から粘るような熱い感覚が少しずつ広がっていくのも同時に感じる。……これが終わった後どうやって汚れた体やシーツを処理すれば良いんだろう。伏せって頭を抱えたくなってしまうが、この体の熱は後戻りを許してくれそうにもない。 「ん、んぁ……っ」 頭の中で思考が渦巻いている内、ブースターの舌は更に深く入り込んで……更にブラッキーの口を割り、彼の舌を吸い出すようにして自身の口の中へと捕らえてしまった。途端に舌先が灼熱の中に放り込まれたような感覚に包まれる。反射的に体を捩らせようとするものの、腰はブースターの後脚にしっかり挟み込まれ、もがくことさえ叶わなかった。 元々猫舌で――食物連鎖ってこういうことなのかな、などとブラッキーは頭のどこかで思った。溢れ出した温かいものが自分の内股を伝っていく感覚が、何かを諦めさせる。 「んく……、んふぁ、ぁっ」 その子羊のような獲物を、ブースターは熱い熱い口の中に捕らえたまま、くすぐるように舌を合わせ、唾液を搾るように吸い上げ、存分に愛おしむように舐めしゃぶってくる。擦り付けられるような熱のおかげで舌はすっかり蕩けてしまったようで、もう殆ど感覚が無い。下半身の、強張りに絡みつくような感覚も更に深くなって、今自分は二箇所を同時に食われているんだろうな、とブラッキーは思った。 「ん、ふぅ……。えへへ」 そのままブースターがゆっくり口を離すと、ブラッキーの舌は口の外に引き出されたまま、彼女とを繋ぐ糸を紡ぐことになってしまう。外気に晒されたその細い糸は、彼女が小さく笑うとともに、窓の外の月の光を映してすぐに切れた。深く呼吸をすると、病室内の空気が信じられないほど冷たく感じられる。一体どれほどの熱を叩き込まれたのか――ゆっくり吐いた息は、微かな白い湯気となる。 少しだけ呼吸を落ち着けてから、確かめるように自由になった舌で自分の鼻先を舐めてみようと試みる。と、ちゃんと鼻先に当たる感覚があったので少し安心した。本当に溶かされてしまったわけではないらしい。 だが、ブースターはその様子を見て声を殺すように笑っている。 「……溶けちゃうとでも、思った?」 ブラッキーは、自分の顔が更に紅潮するのを感じずにはいられなかった。 「ごめんごめん。でも、あんまり可愛かったから、つい、ね」 複雑な表情で顔を逸らすブラッキーに、ブースターが全くフォローになってない言葉を掛ける。むしろ追撃だ。そのまま軽く腰が離れると、今まで密着していた性器同士も離れ……互いの粘液の香りが沸き立つように立ち込める。 そのまま半ば強引に顔を正面に向けようとするブースターに、ブラッキーは頑なに抵抗する。だが、拗ねないの、という囁きとともに耳元に息を吹きかけられると、一撃で悶絶したように体から力が抜けてしまった。 こういう技がバトルにあったら一体どうすれば良いんだろう、と蕩けそうな頭の中で思いながら、ブースターがゆっくりと腰の位置を整えているのをぼんやりと見ていることしかできなかった。 「じゃあ、本当に溶かしてあげるね?」 雄槍の穂先を花弁の隙間に押し当てながら、そう無邪気に笑う姿は本当に小悪魔のものとしか思えない。今からでも遅くないから、一旦イーブイに退化してブラッキーに進化しなおせ、と言ってやりたかった。 「……う、ん」 しかしその口から出てきたのは、情けない一言の返事のみ。仕方が無いのだとブラッキーは思う。自身の一番敏感なところが、妖しく蠢く肉のベッドに寝かされているのだ。これは正しく親……というか息子を人質に取られているに等しいのだから。 返事を確認してから、ブースターはゆっくりと腰を降ろし始めた。ずぷり、と強張りの先端が花びらごと内側へ埋り込み、その花びらを左右に押し広げるようにして奥へと突き進んで行く。 「ん、んっ……、ぁあ、あっ」 熱い感覚が先端から広がっていくとともに、ブラッキーは微かに搾り出すような声を上げてしまった。きつい圧迫感を感じるのに、絡みつくような粘液のおかげで穂先は驚くほどスムーズに滑り込んでいく。そのまま根元まできっちり情熱に包み込まれ、完全な一体感を得るのに長い時間は掛からなかった。 「……うん、ぜんぶ……はいっちゃったね」 言わずとも感覚で分かるというのに、ブースターは恍惚の表情を浮かべながら言ってくれる。ブラッキーは最早決壊を堪えることに必死で、それに頷く余裕さえなかった。 「可愛いなあ……。大丈夫? そんなに我慢しなくても、いいんだよ?」 ブースターが心配そうにブラッキーの虚ろな赤い瞳を覗き込んだ。 正直なところ、全くもって大丈夫ではなかった。が、とりあえず深い呼吸を何度も繰り返し、何とか荒い息を整えることで返事の代わりとしておいた。ブースターは嬉しそうに微笑むと、更に密着感を得ようと前足で抱きついてくる。その微かな動きでさえ致命傷に成りかねないというのに。 「っあ、……あ、つい……」 ブースターの中に納まった逸物は、深く折り畳まれた襞にぎっちりと抱え込まれている。彼女が呼吸するたびに上下する横隔膜の動きが、膣内の圧力に変化を与え、腰を動かさずとも焦らすような快感を送り続けてくるのだ。 「キミのも、いいよ……、っ」 ブースターが一旦腰を押し付けて、ゆっくりと引き始める。 「……っか、……っ!」 熱く濡れそぼった口の中で無数の舌に舐められるような感覚に、一瞬意識が遠くなってしまった。声が出なかったのは幸いだ。しかし股間のみならず下半身全体が異常なほどに強張ってしまい、後脚は攣りそうなほどに突っ張ってしまっている。尻尾などはまるで醜い鍵爪のように曲がりくねってしまっていた。 「は、あ……っ、はぁっ……」 思い出したように荒く息を吐いて、肺に空気を取り入れる。先ほど声がまともに出なかったのは、呼吸を忘れていたからだと今更ながら気がついた。 そのままブースターがお尻を突き出すような体勢になると、互いを繋ぎ留めるのはブラッキーの先端だけになってしまう。竿の部分が外気に晒されたおかげで、余計に先端を包む彼女の熱さが際立ち―― 「もいっかい、いくよぅ……?」 そしてまた、その熱い蜜壺の中へと取り込まれていく。コイキングのように口をぱくぱくさせるブラッキーを間近に見下ろしながら、ブースターは淫らに腰を振り始めた。雄槍を根元まで深く咥えるたびに無数の襞が押し寄せ、愛でるようにブラッキーのそれを撫で上げていく。声を抑えるということがこれほど辛いとは知らなかった。雄の体で一番敏感なところを余すところなく蹂躙され、決壊を堪えるだけで精一杯なのに、更に声まで押し殺さなければならないなんて。 そのまま何度も何度も肉棒を擦り上げられ、もう無理だと集中の糸が途切れかけたとき。 ――――。 小さく響く水音に混じり、廊下から響く足音がブラッキーの耳を叩き、完全に失われかけていた理性を取り戻させる。 誰だ、と思うと同時に浮かんだ一つの単語。 「……み、見回…り、が……」 間違いないと思った。時計を確認する余裕も無いが、大体いつもこの時間になると看護士が一部屋一部屋を見回ってくる。担当は毎日違うようで、適当にドアを開けて病室内を確認するだけの看護士もいれば、ご丁寧にカーテンの中まで覗いてくるのまで居た。 「お、いっ……!」 はっきり言ったはずなのに、しかしブースターはその腰の動きを止めようとしない。良く見ればその表情も相変わらず小悪魔のように笑ったままで、焦りの欠片さえ見受けられないのだ。足音は真っ直ぐこの部屋に近づいてくる。このまま動き続けたら、間違いなくこの行為が公になるだろう。 一体どうするつもりだ、と言おうとしたところで、 「んっ……」 ブースターが強く腰を押し付け、今まで以上に深い結合感と密着感を与えてきた。思わず見上げると、その口からは小さな舌がイタズラっぽく覗いている。そのままぐしゅっと押し潰すような一撃を蜜壺が見舞うと、限界まで張り詰めた肉棒は熱く淫らな襞の中に握られたまま、遂に決壊してしまった。 「んっ、ぁ……!」 そのブラッキーの絶頂と同時、病室のドアがゆっくり開き、更にブースターがブラッキーの顔を胸元に強く抱き込む。ふわりと柔らかい飾り毛の感触と、甘い甘い雌の匂いが頭の隅々まで染み渡り、全身が蕩けてしまいそうな恍惚感に襲われながら、溜まりに溜まった欲望をブースターの中に放っていった。 「……っ、……っ!」 鼻先を無理矢理押し付けられるように抱き込まれているので、喘ぎ声は漏らさずに済んだ。だが、その代わりに呼吸がままならない。口が開けないので鼻から息を吸うのだが、彼女の毛皮に密着しながらの鼻呼吸は確実に思考能力を破壊していく。頭の中が真っ白に塗り潰される感覚を味わいながら、彼女が脈打つ肉棒から精液をゆっくり搾っていく感覚に晒されるしかなかった。 病室の入り口から、ゆっくりと足音が近づいてくる。耳に響く鼓動の音は焦る自分の心臓の音か、それとも結合部からの音なのか、それすら判断できない頭の中で――ああ、これはもう駄目だなと思った。 目の前で、少しだけ火照った顔で、相変わらず無邪気に笑っているブースターの顔をぼんやり見つめて……もう一回だけこのやろ、と思ってから、意識を闇の中に沈ませていく。どこか遠くで何かが割れたような音がした気がしたが、それが一体何なのか、なぜ足音は駆けるように遠ざかっていくのか、そのときにはもう何もかも溶けきってしまっていて、考えることさえできなかった。 「お大事になさってくださいね」 ありがとうございました、とトレーナーが頭を下げる。それにつられるようにブラッキーも小さく頭を下げた。 待ちに待った――とはトレーナーの言であるが――退院の日である。天気も快晴で、ブラッキーを連れ歩くトレーナーの足取りも軽い。普段なら家まで歩いて三十分ほど掛かるのに、この調子なら二十分で着いてしまいそうだった。嬉しそうに大股で歩くトレーナーに着いていけず、ブラッキーは時折小走りに追いかけなければならない。 入院生活で体も鈍っているようだが、どうもそれだけではないようだ。 「……あれ、どうしたの?」 ふと気がついたようにトレーナーが振り返る。少し遅れて着いて歩くブラッキーの表情は曇り気味で、退院という祝うべき日にはそぐわない。 「もしかして、まだどこか調子悪い?」 目の前に腰を降ろし、視線の高さを近づけながらトレーナーが聞いた。ブラッキーは少しだけ狼狽したような表情を見せてから、遠慮がちに前足を差し出す。 「ああ、なるほど」 トレーナーは小さく笑ってからその前足を握って、ブラッキーの体を抱っこしてやった。 「相変わらずだなあ」 再びトレーナーは足取り軽く歩き出す。胸元に抱いたままではさすがに重いので、肩に背負うように抱え直した。その言葉に、揶揄する響きは全く感じられないのがありがたい。 ブラッキーは自分の顔が主人の視界から外れたのを確認してから、安心したように溜息を吐く。 「…………」 トレーナーの腕に抱かれながら、ブラッキーはぼんやりとあの夜のことを思い起こしていた。 結局あの後気絶してしまったようで、朝起きたときには彼女の姿は影も形も見当たらなかった。それどころかご丁寧にも体を拭いてくれて、更にシーツの処理までしてくれたらしい。あの夜の痕跡は何も残っておらず、おかげで誰にも気づかれなかったようだ。 あまりにも現実感が無かったので、あれこそ淫夢だったのだろうかとも思った。が、あの思い起こすことができるほどのリアルな感覚が、ただの夢であるはずがない。 ブラッキーはあの後もナースコールの紐を毎晩引いた。もしかしたらもう一度会えるのではないだろうかと思っていたのだが、やってくるのは見慣れたラッキーばかりで、たまに違う看護士がやってきたと思ったらルージュラだったりした。ご丁寧に顔まで覗きこんでいきやがって、思わず呼吸まで止めてしまいそうだったが、マウストゥマウスという一撃必殺の地雷であるということに気づいて咄嗟に止めたのも良い思い出だ。 もしかしたらあのブースターは普段は日中に働いていて、あの夜だけたまたま夜勤だったのだろうか、とも思った。しかし、ギプスが外れてからセンター内をうろついてみたものの、結局姿を見かけることは一度も無く、退院の日を迎えてしまったのだ。 「……ふう」 あの無邪気そうな笑顔を思い出して、深く溜息を吐く。幸せが逃げているのではないだろう。 忘れるしかないか――などと思っている内に、トレーナーの家が見えてきた。 「いよーう!」 黒犬の大きな声が玄関内にこだまする。隣に立っていたトレーナーが、苦笑しながら肩に背負っていたブラッキーを下ろした。 「元気かねぶらっきーくーん」 「お前の顔見たら食欲が減退した。センターに帰りたくなる」 無意味に明るい笑顔を見せてくるヘルガーの顔面に、思いっきり蹴りを入れてやりたいとブラッキーは心の底から思った。えー冷たいなー連れないなーと実に楽しそうな様子を見て、深く深く溜息を吐く。 トレーナーはそんな二匹の様子を見て苦笑していたが、お昼ご飯作ってくるねと台所に向かって行った。その後姿を見送ってから、ブラッキーとヘルガーもポケモン用の大部屋へと移る。 少しごちゃごちゃした内装で、各々の寝床が宛がわれた部屋だ。ぐるりと首を巡らせて、頭の中に思い描いていた光景と見比べてみる。 「んー……。懐かしいなー」 久しぶりに入った『自室』の中で、ブラッキーは大きく伸びをした。毎日同じ光景とはいっても、病室の天井とこうも印象が違うのはなぜだろう、と思う。 「二週間くらいだっけ。そりゃ懐かしくもなるか」 ヘルガーがくつくつと笑いながらゆったり床に寝そべった。昼食までここでのんびりくつろぐつもりなのか、小さくあくびが漏れている。 今はブラッキーとヘルガーしか部屋の中には居ない。自分の寝床の確認をするブラッキーの背に、やる気の無さそうな声でヘルガーが尋ねた。 「んで」 「うん?」 「調子はどうよ」 「…………」 毛布を敷く前足を止めて、ブラッキーがヘルガーの方を向いた。 「……脚の調子ならバッチリだな。性欲とかのことを聞いてるのなら、それは余計なお世話だ。その煩悩ごと蹴り飛ばすぞ」 それを聞いて、喉の奥で笑うような、実に悪タイプらしい笑みをヘルガーが見せる。それが気に入らず、ブラッキーは更に顔を顰めた。 「……何だよ。また訳の分からん自慢でもするつもりか? 言っておくが俺は」 「いやいや。別にそういうつもりじゃないが」 ブラッキーの声を遮るようにして、ヘルガーが続ける。 「マルトさんは、やっぱり経験者なんですね」 「……あのブースター、どうだった?」 その言葉には目的語が抜け落ちていたが、それだけで彼女には十分に何のことか理解できた。だが、言った後で彼は後悔する。いくら気さくに話しかけているとはいえ、会って二度目でこんな話を振るのはいくらなんでも失礼ではないかと思ったのだ。 マルトの方は何も言わずにいつのまにか淹れたのかコーヒーをいっぱい彼の前に差し出した。それから少し考えるようなそぶりを見せて彼女はようやく口を開いた。 そのヘルガーの言葉が一体何を意味するのか、ブラッキーはすぐに理解できなかった。一瞬で頭の中が真っ白になったような感覚に陥る。 「ふふふふふ、可愛かっただろー。アレは間違いなくイチ押し。キュウコンもめちゃくちゃ綺麗だったけど」 が、目の前の黒犬の性格の悪そうな笑みを見て、一気に頬に血が上っていくのが分かった。脳内のキャンバスに、あの夜の情事が鮮明に映し出される。 「……な、なんで、お前」 「あとはえーっと、グラエナもちょっとアヤシイ感じで独特だったな。マッスグマとかも意外におねーさんで」 実に頭の悪そうな顔でヘルガーがベラベラ喋り続ける。一体その頭の中で何を考えているのか、口を挟む余地さえ見当たらない。 「アブソルの冷たそうな笑顔もかなり……って、あー。でもどっちかっつーとアレだろ。お前はおねーさんよりは幼」 「死ね。そして地獄に堕ちろ」 一気に頭が冷えた。 前足を口元に添えて、きゃーあいかわらずこわーいそんなこといわないでよーとクネクネ動く姿が非常に気持ち悪い。生理的に虫唾が走るのだが、冷えた頭を働かせ、なるべくゆっくり言葉を選んで口を開いた。 「……何で、あのこと、お前が知ってるんだよ」 下から睨むような目線になってしまうのはどうしようもない。ヘルガーは待ってましたとばかりに背を反らし、実に偉そうに語る。 「ふふん。それはだな、この世界一超優しいナイスガイなヘルガー様が、オカズも無く前足も不自由な状態で入院生活を強いられているぶらっきーくんにちょっとしたお楽しみを与えてやろうと」 そこでヘルガーが一旦言葉を切った。目を瞑り天井を仰ぎ、自分の演説に心地良い恍惚感でも得ているようだ。 「――仲良くなったコにお願いして、センターで悶々してるぶらっきーくんを気持ち良くさせてくれるように手配してもらった、というわけだ」 ヘルガーが細く長い息を吐く。仰いでいた顔を軽く俯かせ、決まった、とでも思っているのかもしれないが、ブラッキーは口を引き攣らさざるを得ない。 「……仲良くって、どこで」 「ンなもん決まってるだろうが。この前見舞いに行ったとき言っただろ。マスターに『そういうトコ』に連れてってもらったって。良いかぁ、俺はお前がどんだけ性欲の捌け口に困っているか粛々と語ってやってだな」 頭の中で何かの緒が容赦なくぶち切れた気がした。口の端が更に攣り上がる。耳の根元まで裂けてしまいそうだった。 「……なるほど」 色々納得がいった気がした。看護士のくせに妙に堂々として手馴れていると思ったら――とんでもない。プロだったというわけか。あの夜最後に聞こえた何かが割れる音は、廊下で待機していた仲間が見回りを引き付けるために花瓶でも落とした……と、そんなところだろう。 「というわけで感謝しやがれ。俺様のカビゴンより大きい優しさに惚れろ。何なら今日の昼飯を少し分けてくれても――って、あれ? 何か顔怖くないですか? あれ?」 今更気づいたようにヘルガーが立ち上がって後ずさった。が、どうにもこの表情は隠し切れそうに無い。中々ホラーな顔をしているのだと思う。正面のヘルガーの表情にも焦りが見えていた。 「……どうした、ヘルガー? 昼飯までもうちょっと時間はあるぞ?」 「いやいや。あの、ブラッキー? 何か、その、とっても暴力的な気配を感じるのは気のせいかな?」 「ああ、ちょっと」ブラッキーは後脚をぶらぶらさせる。ぐっぐっと前足で床を踏んで、治りたての脚の調子を確認しつつ、「……誰かを蹴りたくてたまらない気分でな。昼飯前の丁度良い運動にもなるだろうし」 「いやいやいやいや。こう、何だ。我々はその辺の野生のポケモン達とは一線を画していてだな、トレーナーの元で働く理性溢れるポケモンとして欲求を抑えて行動するのが一般的に求められるというか。うん、えーと。……おーいグラちゃーん、ニューラ、ちょっと助けてくれないか」 「グラエナはいつもこの時間昼寝してるだろ。庭で。ニューラもいつも通りマスターのお手伝いだ」 今度はヘルガーが口を引き攣らせる番だった。 「も、盲点……! 中々鋭いじゃないかワトソン君!」 「うるせえアホームズ。地獄の底まで叩き落とす」 ブラッキーがニコっと壮絶な笑顔を見せながら、ヘルガーの方へ一歩近づく。 「ほらほらそんなナチュラルに悪の波動出さない。な? いやほら、お前があんまりにも辛そうだったからさ、ここは俺が一肌脱いで助けてやろうと」 「地獄の底まで 叩 き 落 と す」 「そ、そんな。……あー。ブラッキー、待て。落ち着け。今度マスターに一緒に店に連れてってくれるようにお願いするから。駄目か。いやいや落ち着こう理性を保とうここはゆっくり深呼きゅ――うおおおおおお影分身!」 「黒い眼差しいいい!!」 「酷い戦争だったね。本土決戦までは至らなかったけど、このクラナポリスも何度も空爆に襲われてね。今から考えればこの店がなくならずに残ったのが不思議なくらいさ。戦争が起こった理由も何がなんだか分からないままうやむやになった」 ぎゃああああああああああああああああああああというヘルガーの断末魔を聞いて、トレーナーは台所で苦笑した。ニューラから木の実を受け取って、まな板の上に置く。 痛い痛い痛いちょっと待て顔の形変わるうるせえ黙れ俺が美容整形してやるひぎゃああああオラさっさと店の名前教えやがれと大部屋から声が響いているが、いつものことなのでトレーナーもニューラも気にせずに作業を続ける。包丁がまな板を叩く音と冷蔵庫の中を漁る音が、日常の喧騒の中に混じっていった。 マルトが指に挟んでいた火の点いた葉巻を今一度口へと運び、たっぷり吸い込んでから大きくふかした。薄い灰色の煙がその独特の匂いを残しながら消えていく。 今日も平和な一日である。 了 「この子、確かミニリュウって呼ばれているわね」 彼女はリアンの腕に抱かれているアークを指差す。 「はい」 「この子やクレフのラグちゃんたち――正式な呼び名は知らないんだけど、世間では“モンスター”って呼ばれてるわね――この子たちのことはどれくらい知ってるかしら?」 「はい」 二度目のその声には幾分か憂いの色が浮かんでいた。 「知ってます。三十年くらい前に人間が生み出した人工生命体」 「そうね、この子たちが生み出されてから色々な人が助かったわ。そしてあの戦争でもね」 マルトは最後の言葉を言うときに目を険しく細める。マルトがどのような意味でその言葉を口にしたのかは、すぐに彼は理解した。もちろん戦争中でも生活の助けあるいは人々の心の支えにもなりえたという意味もあるだろう。しかしもう一つの意味は…… 「まあ大戦のあともいろいろあって、夫も死んでアタシはこの店を続けてるけどね。あ、ちなみに夫が死んだのは五年前だから大戦で戦死したんじゃないわよ」 マルトは手を伸ばして、リアンの腕でくるまっているアークの頭を幾分か皺のよっているガサガサな手で撫でた。最初アークはいきなり今まで見知らぬものから頭を撫でられたことに驚いて思わず顔を引っ込めたが、そのうち気持ちのよさそうに目を細めて一声鳴いた。 「良い子ね。大切にしなさいよ。ラグちゃんも良い子だけど、……えっとこの子の名前は?」 「アークです」 「そう、アークちゃんはおとなしくてほんとに良い子ね。ラグちゃんなんかは来たばっかりのときは店の材料は食うわ、昨日も言ったけど店は燃やしかけるわで大変だったね」 マルトはそのときのことを思い出したらしく、笑いを交えながら語った。リアンも天井の焦げ後を今一度一瞥した。それから彼もまたそのときどんなことが起きたのかも想像をめぐらした。ラグは今でこそウインディだが以前は当然ガーディだったはず。クレフとラグがどのような出会い方をしたのかは知らないし、今それをマルトに訊ねてみようとは思わなかったが、話し振りからしてラグは相当なやんちゃ者であったことは確かだろう。そして何にも見境無く炎を吐いてついに店まで燃やしかける。それを必死に止めるマルトやクレフ。リアンはその様子を想像すると決して笑い事ではないのだが、どうしても笑いがこぼれた。 ふと、そのときリアンはあることが気になって急に、まるで水をかけられた炎のようにピタリと笑むのを止めた。アークがそのリアンの変化をすぐに嗅ぎ沸け、心配そうな目で見つめてくる。 「どうしたんだい?」 マルトもその様子に気づいたらしく話しかけてくる。 「気にならないですか?」 「なにがさ?」 「どうして……」 そのときクレフが駆け足で階段を降りてきた。 「準備できたよ。行くか?」 降りてきたクレフは何か黒い鞄を肩にかけていた。 「行くってどこに?」 「昨日お前が言ったろうが。今日には帰るって。だけどお前ココどこからどうやって帰るか知らねえだろうから送ってやるんだよ」 #pcomment(CRIMEコメログ,10,) IP:218.41.33.117 TIME:"2014-03-03 (月) 22:04:01" REFERER:"http://pokestory.rejec.net/main/index.php?guid=ON" USER_AGENT:"Mozilla/5.0 (Windows NT 6.3; WOW64) AppleWebKit/537.36 (KHTML, like Gecko) Chrome/33.0.1750.117 Safari/537.36"