#include(第十六回短編小説大会情報窓,notitle) 立てておけば、ぼくの身体に迫る大きさの本。ありふれた大きさの本。ページが半ばまで外れ、抜け落ちそうになっていた本。 そのページを付け根から引き剥がして片手に取ったまま、本を足元、眼前に置く。大きく開いて、ページの付いていた接合部を目視する。――目立った傷はない。 糊をもう片方の手に取って開ける。小さな刷毛に握り替え、毛先に糊をなじませる。片手に握るページと、もう片手に握る刷毛をそれぞれ寄せる。ページの縁に刷毛を沿わせ、ゆっくりとなぞる。糊を乗せていく。 慣れた補修作業だった。 入り口、受付のほうで声が聞こえる。たどたどしく、控えめな感じを受ける声、通りの悪い声。児童だろうか。 それに対応するように、続いて通りのいい声がこちらまで聞こえてくる。テトラの声。受付でテトラが館内の説明を行っている。――相手は初めて利用するかたのようだ。好ましい。 ぼくは刷毛を置いて、開いた本の接合部へと指を乗せる。軽く押し広げて隙間を作る。抜き出したページをその接合部に寄せて、糊の乗った縁を添わせる。皺にならないよう、慎重に差し込む。 上から下まで接合部に合わせられたところで、ページを片手で支え持ったまま身を引き、もう片手で踏み台を引き寄せる。身を台に乗り上げさせて本を俯瞰する。ずれてはいない。 本を閉じ、重石を乗せて安置する。――夜に再確認して、うまく接着していれば書架に戻そう。 気を緩め、身体から力を抜いて、読書コーナーのほうへと視線を向ける。こぢんまりと椅子に座って小説を読む児童ふたりと、テーブルに歴史書と持ち込んだ資料を並べて考え込んでいる学者さんが見える。いずれも見慣れた姿。利用頻度の高いかたがた。 そんな光景の端に、見慣れないかたがひとり。受付のほうから歩み出てきていた。その姿に、視線を引き寄せられた。 さっきテトラから説明を受けていたかただろう。総評するに、綺麗なかただった。 周辺の椅子や棚を目安に見る限り、体高はぼくの姿に近い。ただ全体的には、曲線的な膨らみが多く、その姿のほうが一回りほど大きいか。 同族、ではない。質感がまるで異なる。歩みや、視線を配る仕草一つ一つに合わせて、その身体が波打つように揺れている。流体をそのまま半固形化させたかのような姿。その身体は、薄黄色を基調とし、胴体下部や頭頂部などに近付くにつれて桃色のグラデーションを作っている。螺旋状の模様は、流体として活動した痕跡のようにも見える。さながら、お菓子作りに使われるクリームを捻り出してそのまま命を吹き込んだかのような、そんな姿。 見た目通りのあの全身が、そのまま実際の肉体なのだろうか。少なからず、あの顔、頭が偽頭なんてことはないだろう。その目は透き通っている。橙色の瞳は射光を纏って、艶やかに煌めいている。――強いて言うなら、頭部上方についている花飾り、瞳と同じ橙色の花飾り二つは――あれは恐らく本物の花ではないだろう。柔らかな動きからは不自然なくらい揺らがない。硬質なものだろうし、偽物、と言うよりは装飾品のように感じられる。――そう思うなら、受付のほうで上げていた、控えめで通りが悪いと感じた声も、それとなく納得がいく。声帯までが外見と同じように軟質ならば、喉の奥で作った声を、通りよく集束させることは難しいだろう。児童でもなんでもなく、種族内ではありふれた声なのだろう。 首元から反対側の腰……のような膨らみへと紐が伸びている。バッグを下げ、対外的に見えやすいであろう位置に一つのバッジが付けられている。所属を表すもの。――どこの所属だろうか。見覚えはない、判断はつかない。だけれど、どこかしらの探検隊ギルドに属しているらしい。 見初めた。そんな思考がよぎった。 ――どうして、こうもじっくり観察しているのだ。――じっくりと観察しているぼくがいた。そんなぼく自身の様子に、ぼくはすぐに気付いてしまった。 そのかたは、明確に、本を探していた。 一度は歴史書の書架を見上げ、そばの踏み台へと視線をやり、抱えて書架の前へと置き、乗り上げて、一冊を引き出している。 声を掛けに行くべきだろうか。――なんと声を掛ければよいのだ。 〝何かお困りでしょうか?〟と問うほど困難を感じている様子はない。書架の高所へも当然のように手を伸ばしそうだった。 求められてもいないのに宣言しに行くのは不要な節介だ。その本分は――制御不能な児童だったり、不審な動きをしているかただったりの、正気を窺い知るために掛ける声だ。 ぼくは、その姿に不審な様子を感じているとでも言うのか? そんなわけないだろう? そう、やめておくべき。正気を欠いているのは、他でもない、ぼくだ。 視線の先のその姿は、すぐ隣の本も引き出し、一緒に抱えて踏み台を降りていた。踏み台を元の場所に戻し、受付のほうへと歩みを進めていた。 長居はしないのだろうか。去って行くなら、せめてその姿を見送りたい。――どうして、また、ぼくはそう思うのだ。 意識を強め、視線を逸らそうとする。精神力をひどく削がれるような、強い困難を感じる。だいじょうぶ、何のことはない。 ――ああ、そうだ。作業をしよう。再開しよう。先日マリーさんから寄贈して頂いた本が、まだ何冊か、未仕分けのまま残っている。それを中断して行っていた補修作業は終わったのだ。気を取り戻さないと。 取り戻さないと。 どうにも身体に力が入らなかった。偽頭の重みに首が折れている。立て直す気も起きない。 引き戻されるような感覚のままに視線が動く。その先に、視線を止めてくれる何かは存在しなかった。 児童ふたりがそれぞれ帰宅していくのを見送った後、ぼくの身体は受付へと向かう。 「ああ、お疲れ様です」 「お疲れ様です」 テトラと軽く挨拶を交わしつつ、飛び上がって受付台の上に乗る。テトラの手元にある紙へと視線を向ける。貸出記録。 小説本の貸出が二つ。あのふたりが借りていった。――違う、それの、前。 歴史書二冊に対して、用途に遺跡調査と書かれ、知らないギルドの名、ほんの数日の返却期限が記され、それから、当事者の種族と名前が続いている。 マホイップのマリー。 マリー、さん。 「――〝マリーさん〟と同じ名前ですか」 「そうみたいですよ、あのかた。奇遇ですよねぇ」 珍しい名前ではない。何度だって耳にする機会のある、ありふれた名前。物語のキャラクターとしては定番と言ってもいい名前だし、そうでなくともその名を持つかたはいくらでもいらっしゃる。特に――しばしば当館に本を寄贈してくださったりするマリーさん――古物商であり鑑定士でもあるマリーさんなんかは、一同共に馴染み深い。 そうあるだけに、もう忘れようもないだろう。――同じ名前を何度となく聞いてきたし、これからも何度となく聞くだろう。 想起するのは、柔らかく綺麗なあの姿。見初めた。――見初めてしまったのだろうか? ぼくは、本当に? 「――そうですね、奇遇です」 いや、一過性ののろいだろう。あまりにも行使していないと、時々ぼく自身へと呪縛が逆流してくる――そう体感するようになったのも最近のことだが、とにかくも、きっとこの根元はぼく自身の力だ、少し休めば回復する。きっと、きっと。 ---- 騙り手ただ一つの生花 ---- 今日は読み聞かせの日で、ぼくの本分だ。日が真上に昇る頃になれば、いくらかの児童や学童たちが館内に集う。 かつては愛想のいいテトラが行っていたのだが、声質の違いから、より適任である、らしい。曰く、ぼくの声は魂に直接響くかのようで美しい、とか、声帯で作る音には限界がある、だとか。敢えて否定する理由もなく、流されるように試し始めて、それ以降ずっと任されている。ぼく自身としても、児童書と定められるものを広く読み込むきっかけにもなって、悪い気はしていない。 一冊の本を引き出す。協会から再発行してもらったばかりの真新しい絵本。擦り傷の一つさえ目立ったものがない本。 奔放なお姫様が城を抜け出し、湖に吸い込まれて鏡の世界で悪戯を行う寓話。どちらかというと、児童より、子へ読み聞かせる親に対してのほうが、意味のある教訓をもたらしそうな本ではある。 この物語の大前提として、鏡面に映っているものは、単純な反射光などではなくもう一つの世界である、ということ。二つの世界は同じ流れの下、鏡面を通して互いの世界を覗き見ているのだが、お姫様が鏡を割ることで違う流れが生まれるのだ。しかしその一方で、鏡の中のもう一つの世界は、元の世界を文字通り映す鏡であって、そちらで起きない事象は鏡の中でも起こり得ない、のに、物を動かせたりはするという少々都合のいい背景もある。 理解不可能な恐怖の一方で、自身が心配されているとは露ほども思わずに城の関係者各位を慌ただしくさせる――そういったお姫様の奔放さとの大きな差異を表すのが、難しい、と、よく言われる。 しかし、今になって憂い事が一つある。物語の主人公であるお姫様、その姿かたちを思い描くことに困難を感じる。その種族としての姿はよく分かっているのだが――どうにも、先日の姿に引きずられている。 ドレディアと言う種族の、マリーと言う名のお姫様。絵本版では名前が出てくることはないけれども――ああ、バルーンスカートのような胴体は、その輪郭は似ているだろうか。やや短く感じられる手なんかも。歩く姿なんかは深く想像したことはなかったが、案外、似ていたりするのだろうか。お姫様は、ぼくたちの感覚で言う、飛び跳ねるような歩き方だと思っているから、きっと違うのだろう。 ――ああもう。 あのかた、マホイップと言う種族らしいそれは、何も関係ない。名前が同じ、なんて、ありふれた出来事。だのに、全く――しっかりと平静の中で語れるのだろうか、と、その一点に関して、不安が潰えない。 気にしても仕方ないのだ。準備しよう。 受付のほうで、児童たちの相手をしている声する。 程なくして、三つの姿が騒ぎながら、我先にと飛び入ってくる。その後には他の児童たちが、走ったり歩いたりしながら続く。見慣れた姿から、初めて見る姿まで。数えきれないほどではないが、様々なかたが並んで座る。 ぼくの姿を物珍しげに見ている姿もある。手を出して軽く振って見せると、その姿は、まるでお化けでも見たかのように驚いてくれた。怖がってはおらず、純粋な好奇心を向けてくれている。 好都合だ。期待に沿わないと。 ぼくは片手を目前に沿え、偽頭を下げる。一礼の後、本を取る。大きく開いて、よく見えるように児童たちのほうへと向けた。 「――むかしむかし、ちいさなおしろに、かわいらしいおひめさまがいました。そのおひめさまは、やんちゃで、いつもしかられてばかりでした」 「あるひは、こっそりつまみぐいしようとして、いわれます」 「『おひめさま、それはいけません』」 「ぜんぶ、じぶんのためにしかってくれている。それはわかっているのですが、おちこむばかりのくらいまいにちをおくっていました」 「そして、またあるひには、おしろのなかでいちばんおおきなかがみをわってしまいます。おかあさまがたいせつにしていたものでした」 「これがばれたら、とてもひどくしかられることでしょう」 「おひめさまは、それがこわいとかんじました。だれにもみられていないうちに、おひめさまはおしろをぬけだすことにします」 「さいわい、おしろのなかのことはたくさんしっています。みはりのへいしがいないばしょをとおって、すぐにそとへとでることができました」 ページをめくりつつ、声を響かせていく。 キャラクターとして幼さの残るこのお姫様は、児童のかたがたにとっても感情移入しやすいものとされている。うまく引き込ませてさしあげよう。 「――おしろのすぐそばにあるもりへとはいると、きれいなはながさいています。あっちにも、こっちにも」 「ちかくにいって、じっくりとみます。さっきのことはわすれて、それらをながめるのにむちゅうになりました」 「そして、たくさんのはなをひとつずつみているうちに、おおきなみずうみのあるばしょへときていました」 「おひめさまがみずうみをのぞきこむと、そのなかには、おなじすがたをした、もうひとりのおひめさまがいます」 「『こんにちは』」 「おひめさまはあいさつをされました。じぶんはなにもいっていません。みずうみのなかにいるおひめさまが、こえをかけてきたのです」 「『きょうもまた、しかられそうだよね』」 「『うん』」 「いったい、このもうひとりのおひめさまはなにをしっているのでしょう」 「もちろん、それはもうひとりのじぶんです。おひめさまのしることは、すべてしっています」 「『こっちにこない?』」 「もうひとりのおひめさまは、てをのばしました。それはみずうみのなかからうかびあがってきて、おひめさまのまえにさしだされました」 「おひめさまは、そのてをとってしまいます。そのしゅんかん、おひめさまはみずうみのなかへとひきずりこまれてしまいました――」 水場には魔物が潜んでいる、特に力のない児童ほど恐ろしい場所。 ――そんな教訓を与えたいほどではないにしても、雰囲気としてはそうあるように、おどろおどろしく声を響かせる。 一間を置く瞬間に児童のかたがたを伺いみると、いくつかの姿が凍り付いたように身を固めている。感性豊かでよいことだ。 「――きがつくと、おひめさまはみずうみのそばにいました」 「もうひとりのおひめさまに、みずうみのなかへとひきこまれたようなきがします。でも、きっときのせいなのでしょう」 「そらをみれば、ゆうがたのあかいひかりがいちめんをおおっています」 「よるのもりは、こわいかいぶつがたくさんいる、こわーいばしょだときいています。ここにいても、まっくらなよるのもりにとりのこされるだけです」 「おひめさまにとって、しかられるのはこわいですが、それいじょうに、よるのもりにとりのこされたくはありません」 「かえって、『ごめんなさい』といおう、と、けっしんするのでした――」 よく絵本を読んでいるかたなら、このまま物語の終わりに向かう、と、そう思うのだろうか。あるいは、まだもうひと悶着あることに気付いているだろうか。 一瞬だけ、児童のかたがたの表情を窺ってみるが、さすがに、そんな機微までは分からない。 「――おしろにもどってきたおひめさまは、みはりのへいしにきづかれないよう、ふたたびだれもいないはずのばしょをとおろうとします」 「そこは、おひめさまのきおくとはちがうつうろでした。うっかりひとりのへいしとはちあわせ、あわててかくれようとしますが、みられてしまった、とふあんをかんじます」 「しかし、どうしたことでしょう。そのへいしは、まるでおひめさまがみえなかったかのように、とおりすぎていきました」 「ふしぎにおもったおひめさまは、ひろまにあるいていって、ちかくのへいしにこえをかけてみます。すると、だれも、おひめさまにへんじをしません。おひめさまをみることさえありません」 「おひめさまは、いくつもいわかんをかんじていました。おしろのみぎとひだりが、はんたいなのです。それがなぜなのか、おひめさまにはわかりました」 「ここはかがみのせかい。かがみのまえにいないおひめさまが、かがみにうつることがないように、もとのせかいにいないおひめさまが、このせかいのみんなにみえるはずがないのです――」 ページへめくろうとしたところで、児童のひとかたが俯いているのが見える。声は我慢しつつも、泣いている様子。小さな雫を落としている。 怖がらせ過ぎただろうか。声を掛けるべきだろうか。 ぼくは手を止め、数瞬悩んだものの、テトラがその児童の横について、頭から背中にかけてを撫でる。あやしはじめる。 テトラはぼくへと軽く目配せして、そして、頷いた。大丈夫、続けて、と。 「――おしろのなかでは、おひめさまがいなくなった、と、おおさわぎになっていました」 「たくさんのへいしがかけまわっています。おとうさまやおかあさまがかなしみ、なみだをながしています」 「おひめさまは、そんなおしろのようすを、だれにもきづかれることなく、ただみつめていました」 「『ごめんなさい』と、こえをだしても、そのてをにぎりしめても、きづかれることはありませんでした」 「どうすればよいでしょう。おひめさまは、おしろのなかでいちばんおおきな、あのかがみのところへとむかいます」 「せめてじぶんがいなくても、わってしまったかがみをなおせれば、みんながかなしむことはなくなるかもしれません――」 「――かがみのそばには、はへんのひとつものこっていません。なおすことはできそうにありません」 「しかし、なにもないかがみのおくには、ひとつのすがたがありました。もうひとりのおひめさまです」 「おひめさまがもうひとりのおひめさまをみると、もうひとりのおひめさまもおなじようにおひめさまをみます」 「『ねえ、もとのせかいにもどして。わたし、みんなにあやまりたいの』」 「『おひめさまは、またしかられたいの? こわーいみんなに、まいにち、しかられたいの?』」 「とうぜん、しかられたくはありません。そして、このせかいにいれば、しかられることはありません」 「しかし、このせかいでは、おひめさまはだれともはなすことができません。ひとりっきりです」 「それは、しかられることよりも、よるのもりよりも、もっと、こわいことでした」 「『しかられたくないけど、それでも、あやまりたいの!』」 「おひめさまは、もうひとりのおひめさまにむけて、てをのばしました。それは、このせかいにつれてきてくれた、もうひとりじぶんじしんをうらぎることでした」 「『そうなんだ。わかったよ』」 「ですが、おひめさまはきめました。もうひとりのおひめさまも、わかってくれるとしんじていました」 「ふたりのおひめさまが、われたかがみのなかでてをとります。おひめさまは、そのまま、なにもないはずのかがみのなかへとひきずりこまれてしまいました」 「『がんばってね、おひめさま』」 「と、もうひとりのおひめさまは、さいごにそういいました――」 物語の終わりが迫る中、児童のかたがたの姿を、改めて見捉える。皆、静かにこちらへと視線を向けてくれている。概ね聞き入ってもらえた感じだろうか。 泣いていたかたも、もう平気そうにしている。よかった。 「――おひめさまは、われたかがみのまえにいました」 「おしろのみぎとひだりはもとにもどっています。もとのせかいにかえってきたのです」 「おしろのへいしひとりが、すぐそばにいます。おひめさまをみつけました」 「『おひめさま、おけがはありませんか? いままでどちらに? ああ、ごぶじでなによりです』」 「『だいじょうぶです。わたし、おとうさまとおかあさまにあいたい』」 「『はい、おとうさまとおかあさまにほうこくしてきます』」 「そういって、おしろのへいしははしっていきます。そしてすぐに、ほかのあしおとといっしょにもどってきました。おとうさまとおかあさまをつれてきていました」 「おひめさまは、すぐにあやまりました」 「『ごめんなさい、わたし、おかあさまのたいせつなかがみをわってしまいました』」 「そういったおひめさまを、おかあさまはすぐにだきしめます」 「『うん、うん、いいのよ。あなたがぶじでほんとうによかった』」 「おとうさまもこえをかけます」 「『だいじょうぶ? どこもけがしてないかい?』」 「『だいじょうぶ、けがしてないよ』」 「ふしぎと、おひめさまがしかられることはありませんでした」 「しかしおひめさまは、ただ、おとうさまやおかあさまとふたたびふれあってはなしあえることが、うれしかったのでした――」 「――めでたしめでたし」 二つほど間を置いてから、絵本を閉じる。児童のかたがたの拍手に身を震わせられながら一礼する。楽しんで頂けたならなにより、と。 そんな中、視界の端に目を惹く姿があった。背丈はぼくや児童のかたがたと同じくらいの、しかし落ち着いていて綺麗な姿。薄黄色を基調とし、桃色のグラデーションがかかった姿。橙色の瞳が鮮やかな姿。マホイップの、マリーさん。マリーさんが、小さく軟質な手で、殆ど音のない拍手を送ってくれていた。笑顔で、ぼくへと。 ――いつから居らっしゃった? 一瞬、思考が止まった。 ぼくは児童のかたがた――と、マリーさんから視線を引き戻し、絵本を抱える。小走りで裏手へと身を隠す。 後のことは、テトラを始め他の皆がやってくれる。ぼくよりももっと愛想のいいかたがただし、最初からそういう取り決めだ。任せてよいのだ。ぼくは本を片付け、一足先に通常業務に戻るだけ。 しかし、まるで逃げるかのようなぼくが居た。もっとおくびょうなぼくが居た。そんな気がした。 マリーさんは――楽しんでくれただろうか。きっと、楽しんでくれた。 テトラたちの声が聞こえる。児童のかたがたと話をしている。マリーさんの声もする。通りが悪くここからではもう言葉を聞き取れさえしないもの。それでもあのかたの声が聞こえる。 やめて、ぼくは、 本を置き、纏い布を内側から握って、ただ縮こまった。 ――表が静まった頃、ぼくは受付へと向かう。一通りのかたは既に帰り、暇を得たテトラが、身体ごと両腕を上へと伸ばし筋肉をほぐす動作を行っていた。 「ん、どうしました?」 「ちょっと、貸出記録を――」 完全に私的な、業務外のこと。 「ああ、こんな感じでしたよ」 テトラがこちらへと差し出すそれに、ぼくはすぐ目を通した。何の項を見るかは決まっていて、すぐ見つかった。 貸出記録には、先日の本二冊の返却完了と共に、新しく三冊の貸出がついている。いずれも近い分野の歴史書で、返却予定日はもう少し先。 そう、目的があってここにいらっしゃった。別に読み聞かせを目当てに来ていたわけではない。居合わせたのは偶然なのだろう。奇遇なことに。 ――ああ。 一方的に目で追えれば、それでよかったのだ。なのに。あのかたに、マリーさんに、認識されてしまった。 いや、あのかたにとって、ぼくという存在は、どこにでもいる司書のひとりに過ぎない。記憶に残りもしない。しないだろう。 だいたい、ぼく自身だって、これまで出会ってきたかたがたの種族に、姿かたちに、あるいは名前まで、どれほど意識したことがあるというのだ。一期一会に留まらない馴染みのかたまで含めても、果たして、どれほどその個を認識できているというのだ。マリーさんだって同じなのではなかろうか? そうであってくれ。そのようにあってください――。 ---- 業務を終え、扉を開いて部屋に入る。日中でさえ一片の光も差すことがない、心地のいい暗所。ぼくの私室。 ぼくは、偽尾を引き抜く。纏い布を脱いで壁に掛け、ただ寝床へと崩れ落ちる。 肉付いた身体を持つ種族なら、一息つくような状態だろう。ただ疲労感があった。 姿がちらついて思考から離れない。ひどく、魅力的。 もしかしたら、あの姿を――纏ってみたいのだろうか。 ぼくは紙の前に付き、ペンを取る。軽く線を引く。記憶の限りからその輪郭を描き込み、そこから展開図を作っていく。 本来の裾は絞られているが、ぼくが纏う分には広げるべきだろうか。歩くのに不便を感じるかもしれない。そうする場合、下部へ向かうほど広くなる。胴体は台形に切り出して――横で縫うべきだろうか。螺旋状の模様に沿うよう斜めに縫ってもいいかもしれない。 一方で、頭部は難しい。パーツを含めると胴体より二回りくらいは大きな頭となるだろう、とはぼんやりと思っているが、そもそも、どのような細部があったかを正確に思い出せない。 頭頂部は、それこそ絞り出されたばかりのクリームのように、重力に逆らって上へと伸びていたはず。この辺りは半円状に大きく切り出すことになるだろうか。円錐状とも言えない、独特の曲線もあったはずだ。――それから、橙色の、花飾りのような――恐らく花飾りであろうものは、耳の付け根……がありそうな場所の正面で、短く突き出た角が先端で蕾を開いたかのようだった、か。その根元はまた、クリームがデコレーションされているかのような小さな膨らみがあって。あったような気がする。 ――偽頭は、ぼくを覆う胴体よりずっと大事なもののはずなのに、これではいけない。図鑑なりで種族としての姿を確認したほうがよいだろう。しっかり調べないと。 ペンを置き、紙から離れて、まだ型紙としては使えなさそうなそれを俯瞰する。 ――ぼくは、これを何のために作ろうと? あのかたにのろいを掛けたいとでも? 暗に、そういうことではないだろうか。 支配できるなら、してみたい。 できるかできないかで言えば、できる。特に、あのかたがぼくを認識できてしまっているのなら、あのかたを模した纏い布を媒体に、掛けられる。 性質が悪いのは、ぼく自身無意識のうちに、掛けてしまうことがある、ということ。過去に、何度かあった。 せめて、不幸ののろいではなく、幸運のおまじないを掛けられればいいのだが、それは媒体を通さなかったとしても、できた試しがなかった。あのかたの探検の成功を願ったとしても、のろいになってしまいかねない。ぼくの適性はそういうものだ。 絶妙にモチーフから外した、凡庸な纏い布しか作らないのはなぜだ? 気の滅入る思考ばかりが巡っていた。 ああ、疲れているのだろう。休むべきだ。 ぼくは再び、寝床へと崩れ落ちた。 ---- あれから何日も、数週間も経った日だった。 児童ふたりが、それぞれ新しく小説本を借りていく。貸出記録への記入を済ませ、館外へと去って行く後ろ姿を見送る。 一時期は、ある姿が思考の片隅にちらつき続けていたものの、鳴りを潜めた気はする。一過性ののろいだったのだろう。 テトラは町に出て、本の受け取りなどを行っている。それに代わり、ぼくが受付業務を行っていた。 自他ともに認める不愛想な司書だし、時折、ぼくを生き物だと認識できない新規利用者のかたが目の前で困り果てたりすることもあるが、それでも業務上最低限のことはできる。 図書館へと入ってくる次の姿に視線を向ける。初めて見るかた。探検隊ギルドのものと思しきバッジが煌めいている。――その視線は、しっかりとぼくを見据えてくれた。 「ごめんください」 「はい、どうなさいましたか?」 「本の返却です。ええと、仲間がこちらで借りた本なのですけれど、当事者が不在でして……こういうのって、代理でも受理していただけますか?」 その姿はそう言いながら、三冊の本をバッグから取り出し、こちらへと差し出した。 「はい、受理できますよ」 返却期限が近い本だった。記憶の片隅に残っている。――歴史書。これは、確か。 ぼくにとっては大きなその本へと、手を伸ばし、受け取る。すぐ横に置いて、ペンと貸出記録に手を伸ばす。 「――マホイップのマリーさんがお借りになられた本ですね」 言葉を先に述べ、記録をめくり――数瞬遅れて該当項目を見つけ、指し示した。 「ではこちらのほうにご記入をお願いします」 そのままペンを渡し、視線を逸らす。受け取った本たちへと視線を向ける。直視されていては書きづらい、というかたは結構いらっしゃる。 この本たちは、後で軽く状態をチェックして、それから書架に戻そう、と。思案の中で順序を立てる。 ――しかし、あのかた、出払っていらっしゃるのか。――なにせ、探検家だ。様々な場所に出向いてこそだろうし、一度出たら中々帰ってこれないこともあるだろう。 「これで大丈夫ですか?」 声に反応して、視線を戻す。必要な項目に記入がなされていることを視認する。 「はい、大丈夫です。――ぜひまた当館をご利用ください」 「ありがとうございました」 互いに一礼し、後は、帰るのを見届けて、 「――ところで、マリーさんは元気にしていらっしゃります?」 不意に、ぼくの声が浮かび上がった。思考の一端がそのまま声になったかのようだった。――何を聞いているのだ。 「あー、それが、帰ってこないんですよ。あいつ」 問いに答えてもらえたのは幸いだった。いや、聞き流されてもよかった。 「あら……それはまた、どのようなことに?」 帰ってこない、というのは、端的に、何かがあった、と。そういうこと。 「少し前に、ひとりで洞窟探検に出たっきり、行方知れずです。みんなも心配してますし、あいつの捜索にも行きたいんですが、うちのギルドは全員出払ってることも珍しくなくて――私も何日も空けるわけにはいかなくて。手が足りてないんです」 ぼくも心配だった。何か、大切なものが欠落しようとしているかのような、そんな感覚があった。 一抹の不安。 せめて、ぼくにできることは、何かないだろうか。例えば――、 「――で、引き受けた、と? 救助依頼を? ただの司書が? バカじゃないんですか?」 「ぼくはバカです」 帰ってきたテトラに事を言うなり、叱責を浴びる。言い返せることはない。 少なからずぼくひとりでは難しいだろう。最も理解を示してくれそうなかたは、実際にマリーさんを見ていて、何ならぼくの様子もそれとなく観察する機会のあったテトラだろう――協力してもらえるかというと微妙なところだが。 「はいはい。で、つまり、付き合って欲しい、ってことですよね」 「はい。お願いできますか?」 テトラが大きく息を吐いた。溜め息と呼ばれるもの。呆れられているのだろう、仕方ない。 「ま、いいですよ。付き合います。今回限りの司書団という感じで、たまには悪くないでしょう」 「ありがとうございます……我儘言ってしまって申し訳ありません」 テトラは片耳を持ち上げ、ねんりきで小物を前へと出す。図書館協会への所属を表すバッジ。 「――久しぶりにこれを用いるかもしれないんですね」 「あー、そうですね」 館内では繊細な作業をすることが多く、邪魔になりがちで、ぼくは殆ど付けていない。ぼくのものは埃をかぶっていそうだ。 ――そんなものでも、一応は、探検隊ギルドなどのバッジと同様に、様々な場所から町へと帰還させる救助者用の力は込められている。これを用いて、町の外での活動を主とする司書はまた珍しいものであるが、居ないわけでもない。 「……とりあえず、明日で構いませんか?」 「はい」 「じゃ、今夜は軽く準備しましょう」 「そうですね、準備しましょう」 今すぐ行きませんか、とは、さすがに言えない。 テトラは、ちょっとエスパーが使える以外は、ありふれた生身の種族だ。精神に余裕があっても、肉体が疲弊しているだけで動けなくなる。――だから、休息が必要。 逸る気持ちを抑えつつ、どういった準備が必要になるか、なども話し合うこととするのだった。 ---- 町外れの洞窟。そんなに遠く離れた場所ではないし、さほど危険な噂を聞く場所でもない。それでも気を引き締めなければならない。普段使わないタイプの気を張り巡らせるわけで、想像より遥かに苦労することだろう。 テトラの持つカンテラに火を吹き込み、洞窟内へと入っていく。少し進むだけで、他に何の光もない、真っ暗な道へと変わっていく。 ここに住まうポケモンたちは、刺激しなければ皆おとなしいものだ。目を付けられ、いかくされることもあれど、身を引けば追ってはこない。閉所で鉢合わせてしまったかたには、えだを振って穏当に引いて頂いたりもしたが、そのくらいである。ぼくのように光に弱い種族も多いだろうに、カンテラの明かりを気にする様子もない。ある程度交戦する前提で準備を行っていたために当惑はあるが、本の虫上がりで戦闘慣れしていない司書ふたりにとっては都合の良さが勝る。 強いて言うならば、足場のほうがずっと厄介だった。入ってすぐの浅層は、大きな崖がそびえたっていたり、小さな川が横切るように流れていたりと、足場が悪く道さえ多岐に渡る、天然洞、といった様相であった。しかし深層までくると、整備されたかのように広く平坦な道が――全面が岩であることは変わりなく、ただ〝部屋と通路〟が続いている。 「この辺りって、昔誰かが居たのでしょうかねぇ?」 「それっぽいですよね」 居住区と言うには広く感じる、図書館の一室と同じかそれよりも大きな部屋。今もなお誰かが生活していそうな様子は見られないものの、明らかに文明の手が入った遺跡。大きな地底河川が道の横に、まるで水路のように流れていたりもして、快適な空間だったのだろう。マリーさんが必要としていた歴史書は、この場所と関わりがあったりするのだろうか。もしそうなら、この辺りにマリーさんが居たという痕跡でも――あるといいのだが。 部屋の中央で、テトラがカンテラをかざす。周囲を一緒に見渡す。床は全面に薄く砂ぼこりが積もっていて、ぼんやりとした光を返してくる。ちらほらと小石が落ちていたりはするものの、他に目ぼしいものはない。 そんな簡単に見当たりはしない――と思いつつも、次の部屋も同じように見ると、綺麗に光を反射する場所がある。 「――あそこ……」 近寄って手を出し、床を撫でてみる。砂ぼこりが付かない。まるで何かが這って進んだかのように、拭き取られた痕跡がある。部屋から通路へと、そして次の部屋へと伸びている。 「如何にもそれらしいですね。あのかたが歩いた跡かのような」 そう、マリーさんの歩き方なら、丁度、こうなる、だろうか? 「追ってみましょうか」 「ええ、そうですね」 通路を抜け、部屋を、一つ、二つ。砂ぼこりの拭き取られた痕跡は、まっすぐ伸びておらず、次の部屋へと入るたび、その中を見て回ったかのように、ぐるりと円を描いている。 この痕跡の主は何かを探しているのだろうか? ――図書館に入ってきて周囲へと視線を配っていたあの姿のように。 しかし、ある部屋の入り口で、その痕跡がなくなった。 「あら?」 「ない……ですかね? ここで脱出なさった?」 引き返したなら、この痕跡は後ろへと戻るように伸びて――全く同じ道筋を歩かない限りは二本の痕跡としてここまでの部屋に残ってると思うのだけれど、そうではない。となると脱出したのだろうか。痕跡の主がマリーさんだとして、行き違いになったのかもしれない。 しかしよく見ると、この部屋はそもそも他の部屋より砂ぼこりが多く積もっているような、それでいて幾つかの足が砂ぼこりを押し固めているかのような、そんな跡が見られる。複数の異なる種族によるもののような。 ――これは、いや、 「ここって、」 テトラが両耳を持ち上げた。ねんりきが煌めき、すぐ前の何もない空間をえぐった。 何もないはずだった。弾き飛ばされる姿が一つ。 続くように周囲、部屋じゅうに、幾つもの姿が現れる。まるで天井から落ちてきたかのよう。 ぼくは一瞬遅れて身を引く。背後に手をやって、えだを握る。 巣を踏み荒らされたかたがたが、こちらへと怒りを向けてきていた。 ――モンスターハウス、の、入り口、ここで、痕跡が途絶えているのは、まさか、 余計なことを考える間もなく、複数の姿が飛びかかってくる。 身構えこそしたものの、交戦する利はない。 ないが、ここで下がるなら、ここまで来た意味は何だっていうのだ。 テトラが自らのバッグからふしぎだまを取り出す。その中へとねんりきを通す。ふしぎだまが弾け、周囲へと力の波が広がり、溶けていく。 急に、周囲の動きが遅くなったように感じた。どんそくだま。逃げる際に割る予定だったもの。撤退しよう、という意思表示。 「――退けません」 「でしょうね」 しかしテトラも下がる様子はなく、ねんりきで更に一体を弾き飛ばしていた。 緩やかに、しかし正確に迫る爪と牙を避け、至近距離からえだを振り付ける。一つの姿へと入り込み、そばにいる他の姿を巻き込みながら消える。別の場所へと飛ばされる。 ひとまずこの場を切り抜けさえすれば、何か見つかるかも、 「はいそこ、退いて、下がって、いいから」 緩やかに敵意を向けてくる複数の姿の、その奥から、言葉が飛んできた。聞いたことのある声、軟質な声帯から作られるであろう――そう判断した、あの音色。カンテラの明かりに浮かび上がる姿は、マホイップの、何度となく思い浮かべた姿、それそのもの。 その姿は、片手を長く伸ばし、飛び上がって身を捩る。身体ごと手を振り回して、 ――ぼくは咄嗟に通路へと退き、テトラも同じように退いた。 直後、すぐ正面を、伸びた手が鋭く通り抜けた。この巣の居住者たちを薙いだ。一瞬の間が空いて、時間が急に流れだしたかのように、あるかたは弾き飛ばされ、またあるかたはその場で倒れ込む。 身構えたまま、ぼくはそのマホイップの姿を見た。マリーさん、間違いなくそのかた。マリーさんのほうも身構えたままぼくたちへと視線を向けて、しかし、すぐに周囲へと視線を逸らした。 この巣の居住者たちへと睨みを利かせながら――まるでぼくたちを護るかのように、その姿たちとの間に入ってきた。 そのまま、動きのない数瞬を経て、意識の残る居住者のかたがたが、部屋の外へと逃げ去って行くのを見届けた。 「奇遇ですね、図書館協会の司書さんがた。こんなところで出会うなんて」 落ち着いた頃、マリーさんはぼくたちへと言葉を向け、遅れて、その身を揺らしながら視線を合わせてくる。 「――ありがとうございます、助けて頂いて」 「あ、ありがとうございました」 「ん、どういたしまして」 カンテラの明かりに照らされるのは、バッグを下げ、その一端に所属を表すバッジが付けられている姿。砂ぼこりが染み込んで、半固形の肌が艶もなくくすんでいる姿。直前には、ぼくたちへと敵意を向けて来たかたがたを一撃で伸して、それでもなお明るく微笑む姿。 したたかな探検家の魅力溢れる姿が、そこにあった。 ---- 「――それで、実は私たち、マリーさんの救助依頼を受けてきました」 「……んぇ?」 テトラが救助依頼の写しを取り出し、渡す。マリーさんは片手でそれを受け取り、もう片方の手に光球を浮かべて目を通す。 「あー……空け過ぎたかなぁ」 マリーさんは、ぼんやりと、誰に向けるでもない独り言をぼやきつつ、写しをすぐにテトラへと返す。 「はい。おふたかたはこの場にて、確かに、私、マリーの救助に成功しました。ここまで救助に来てくださってありがとうございました」 「いえ、救助しに来たはずですのに、逆にお手を煩わせてしまって、申し訳ありません」 「お気になさらないでください。救助対象者が平気そうにしてるのって、結構、よくあることですから」 笑みを崩さずそう言ってくれるのが救いか。 しかし――何をしていたのかは知らないにしても、ぼくたちが来なければ、もう少し、ゆっくりしていられたのではないだろうか。本当にこの救助依頼はマリーさんのためになったのだろうか。――無事ではないかもしれない、という心配が杞憂で済んだなら、それでいいのだろうか。 「――マリーさんは、その、特に困ってはなかったんですよね?」 ぼくは視線を持ち上げ、マリーさんのその目を見る。光源の限られる暗い中、土ぼこりに塗れていても、その綺麗な瞳は、変わらず橙色に煌めいている。 「まぁ……私は今のところ困ってはいませんでしたけれど、ギルドのほうが困っていますもの」 マリーさんはそう返答しつつ、ぼくへと視線を向けてきた。柔らかい笑みと共にぼくを見下ろしてくる。偽頭に向かってではなく、ぼくの顔へと視線を向けてくれている。 「〝ミミッキュ〟さん、握手しましょ?」 「え?」 突然だった。 後ろから押されるような感覚があった。ねんりきによるもの。――マリーさんが引き寄せようとしているわけではなく、テトラが片耳を持ち上げ、ねんりきを行使していた。ぼくを後押ししていた。 一瞬の躊躇いが、ぼくの身を強張らせる。意図が見えない。マリーさんも、テトラも、何がしたいのか――見えないけど、別に拒絶する理由もない、か。 テトラはだましうちに興じるような性分ではないし、マリーさんも、そんな一面があるようには思えない。即座に信用できなかった自分を心の中で嘲った。ぼくが疑り深いのは、何かと騙ることの多い種族柄みたいなもので、つまり相対的に、他の種族の皆はもっと素直なのだ。 ――それに、ぼくだって、触れたくないか、というと、そういうわけでもないし、ただ、これはもっと、自分でも理解しきれてないものだし。 ぼくは布の下から片手を伸ばし、持ち上げ、マリーさんのその手へと差し向ける。 握手か。誰かと行ったことはあっただろうか。手でさえ、露出させることには消極的で、そういう機会はなかったかもしれない。 触れる寸前で手を止め、僅かに様子を窺おうとした。マリーさんは何の躊躇いもなくぼくの手を取った。 ――その直後、マリーさんの手が溶けだした。ぼくの手を巻き込んで、感覚を、引き込まれた。 ぼくでない何か別のもの。温かいものがぼくへと入り込んでくる。ぼくからも、何かが流れ出していく。 不定形の手同士が混ざり合って、その中をただ思念が通っていた。感情が繋がっていた。 感謝の色が伝わってくる。救助される、というその一端には残念そうな暗い色も僅かにあって、きっと、この辺りの探検を純粋に楽しんでいたのだろう、とは感じるが、既に次を見据えているかのようにその先には明るい色が続く。 満更でもない、か。 「……あら」 マリーさんが、ぼくの感情の一つに触れて。意外そうな色味を表した。直後に喜色へと移り変わっていく。 マリーさんへの強い関心に、触れられた後かのような温もりが連なっていた。引き出されて――そして、拒絶されなかった。ぼく自身、それが何なのか正確には分かっていないもの。 「……あ、あの、」 恥ずかしさが込み上げてきて、思わず手を引こうとする。互いの手は混ざっていて、すぐには離れない。安穏の色味がぼくを宥めるように強まって、同時に、心配するようなものも入り込んでくる。 錯乱した様子が自分でもよく分かって、一方でそれを観測できるぼく自身がいる。――マリーさんに感情の拠り所を分け与えられている? 手を圧する感覚があった。強く握られているかのようなもの。溶けて混ざっていた手が離れる。元に戻って、繋がりが絶たれる。 「――心配して下さったのは、ギルドのみんなだけではなかったのですね」 ぼくは何も言えず、ぼんやりとその姿を見上げたまま。 「――さ、帰りましょ」 マリーさんは、改めてぼくへと視線を向けてくれた。その問いと共に、微笑みを投げ掛けてくれる。半固形の身体が小さく波打つ。 〝ギルドの皆が心配してくれているのなら、一端顔を見せに戻らなきゃ。ここに戻ってくる道は、もう大体は分かってるから、皆と一緒に来てもいいし、究明も急ぐことじゃない。〟 そういうことだとは分かっていた。――どうして、ぼくはそんなことが分かるのだ? 「――そうですね、きっと皆さんも、無事なあなたの姿を見て安心なさりますよ」 漠然とした、しかし妙な確信と共に、言葉を紡いだ。 「おふたかたとも――まるでエスパーみたいな会話してますね?」 横からテトラが口を挟んでくる。 「――まさか。ぼくたちは、ただのフェアリーですよ」 感情の機微を正確に捉えたり、あるいは会話中に思考を直接覗き見たり、といったことを行える一部の種族は、簡略化された会話でも十分らしい、とは聞くけれど、少なくともぼくにそんな力はない。 ただ、テトラのほうがよっぽど分かっているのではないだろうか。ぼくとマリーさんの、僅かな繋がりの中で何があったのか。 「本物のエスパーさんに言われるなんて、光栄です」 テトラもマリーさんも、ぼくも、くすりと笑いながら、それぞれ、自らのバッジを手繰り寄せた。 ---- ――先日の救助劇は何だったのだろう。 テトラと、対象者であるマリーさんと共に依頼完了の報告に上がって、報酬を受け取った。それ以上は、ぼくたちに出る幕はない。協会とギルドの間で軽いやり取りは行われるかもしれないが、口出しできるようなことはない。 一同共に、刊行本の一覧を見て、協会から取り寄せる本を見定める。寄贈された本の仔細と合わせて、どちらも協会へと送る。 乱れた書架の本を並べ直しつつ、次に取り寄せられる本たちを入れる空間を見積もっておく。書架を増やす必要があるだろうか。 一日が過ぎ、二日が過ぎ、取り留めのない日常へと戻ってくるのだった。 ただ、マリーさんの姿をしばしば思い浮かべては、その幻を館内に設置してみたりするのは変わらない。書架の高所に置かれた本に対して、その気になれば跳躍して取るくらいは、きっとできるのだろう。本はどのようにして読むのだろうか。テーブルの上に本を置き、椅子に座って読む普遍的な姿があるのだろうか。その種族に概略に関しては図鑑で学んだ。だけれど、実際の個としては何も分からないまま。 ――考えても仕方がないのだけれど。 「司書さん、こんにちは」 受付台の上で静かに鎮座していると、一つ、声がかけられる。 「こんにちは――何かお探しでしょうか?」 入り口から向けられた声は、その姿は、忘れようもないもの。 「いえ、今日はただ、羽を休めに」 おはなアメざいくのルビーミックス。薄黄色を基調とし、末端へと桃色のグラデーションがかかっている姿。橙色の瞳に引き込まれそうになる、小綺麗なマホイップ。その姿。 「そうですか。ぜひ、ご自由にご利用ください」 「はい、ぜひ。ありがとうございます」 彼女は受付から離れ、若者向けの書架へと向かっていく。児童書、あの辺りは絵本の並ぶ一角。暫く書架を見上げながら、すぐそばの一冊に手を伸ばし、取り出す。彼女の体躯からはやや大きなそれを抱え、読書コーナーへと歩いていく。 意外と可愛らしい一面もあるものだな、と、そう思いつつ、よくよく目を凝らすと、あの本には直近に見覚えがある。そう、少し前にぼくが読み聞かせていたお姫様の絵本――、 そう思っていると、彼女がぼくのほうへと視線を向けて来た。――ぼくの視線に気付いた。 何か言うべきだろうか、と、数瞬硬直する。そう、何か、気の利いたことでも――、 彼女はただ微笑みを表して、読書コーナーの椅子に飛び上がる。テーブルに本を置いて、開く。 ――読むうえで、ずっと視線を向けていては邪魔になるだろう。 ぼくは軽く頭を、偽頭ごと下げる。視線を逸らし、正面、受付から見える外へと視線を向ける。 日の光が強く、あまり快適とは言えなさそうな、晴れ晴れとした日中の屋外。それでも穏やかな風が流れていて、きっと多くのかたにとっては心地のいいであろう気候。平穏無事にある今日日とは、きっととても素敵なことなのだろう。 ぼくは意識を引き戻し、次の来訪者に備えて、偽頭をしっかりと立て直すのだった。 ---- #pcomment()