#include(第十三回短編小説大会情報窓,notitle) 湖は今日も霧の朝で、一面薄靄の中に包まれながら目覚めを拒むように微睡んでいる。それは太陽が背の高い木の上へと躍り出た後も変わらずに、ほとりの集落は未だ霧のゆりかごに抱かれてしんと静まり返っていた。 水面は手入れの行き届いた鏡面のように霧越しの空を映し、辺りの木々も槍の穂先を天へと揃えた衛兵のごとく微動だにしない。旅人がこの情景を目にしたのなら歌のひとつでも読んだのかも知れないが、今朝の湖には生き物の影がふたつ重なりあって見えるだけだった。 鋏が布を裁つように、すうと湖面を&ruby(すべ){辷};る姿がある。竜と見まがう長い首に淑女を思わせる凛とした黒い瞳と、渦巻きに似たふたつの耳、海の色をした体。 ひとはその獣をラプラスと呼んだ。青い獣はまるで歌うように言葉を紡ぐ。 「ほら、今日も平穏そのものですよ」 どこか適当に投げられたのではない。背中の上、長い袖をひらめかせたような両腕と、しなやかな体躯の獣がひとり。「本当だねえ」と呑気に笑ったのはそのコジョンドだった。 まるで波濤に砕かれた岩のようにごつごつとした背に乗って、コジョンドは鼻歌を歌っている。妖精のささやきのような鼻歌を聴きながら、ラプラスも霧の屋根を突き上げるように高く高く鳴いた。 ――――るううううう……うう……ぅぅぅ…………。 しろがねの横笛を吹き奏でたようなその声は、風もないのに遠くへ遠くへと渡り、やがて霧のかなたへ飲み込まれていった。しんと静寂が帰ってきて、ときどきちゃぷんと水を跳ね上げる音だけが構ってほしそうにふたりを呼ぶ。 「よおく響く声だよね、本当に」 コジョンドが背中越しに笑うと「これがわたしの取柄ですから」とラプラスも笑った。 「リルの声、みんなが褒めてるよ。おかげで霧の中でも迷わない、そのうえ小さな音楽会に招かれた気持ちになる、って」 ラプラスのリルの歌声は霧の中を導く笛の音だ。真っ平らな大地を流れる川を下って、あるいは遡ってこの湖畔にやってくる者が迷わぬよう、リルは毎日≪笛≫を奏でた。湖畔から森へと上がれば少し行ったところに集落がある。陸を歩ける者ならば温かい食事にも、寝床にさえもありつける。いつしか川を行き来しこの地を訪れる者の中で語られるようになった謂れがある。「霧の中を呼ぶ笛のほうへゆけ。そうすればそこにひとの営みの&ruby(あか){灯};りがある」と。 「わたしが凄いんじゃないですよ」 「そうかな。よそから来た人だってみんな言ってるよ」 「それでもですよ。だって、わたしはこうすることなんて思いつかなかったから」背中のほうへと首を向けながらリルは微笑んだ。 「わたしに霧の笛のことを教えてくれたのは、フラン、あなただもの」 コジョンドのフランは湖のほとりの里の娘だ。リルの背中から見る景色は季節を経てもごくゆっくりとしか移ろわないけれど、何にも代えがたいことを知っている。リルの声が遠くまで響くことだってよく知っていた。フランが里の中で畑仕事をしていても、リルがどこかでるうるうと鳴けばまるで隣で歌っているかのように聞こえてきたから。フランは海辺の街で、霧の日に船が迷わぬよう海へと吹き奏でられる笛があるのも知っていた。それでフランは言ったのだ。リルが歌えば霧の中だってどこまでも届く、その声は必ずひとを導く灯りになると。 「何をして生きていくのか分からなかったわたしに、フランが灯りをくれたの。だからこの笛は、等しくフランの笛でもあるのよ」 「そっか」と照れくさそうにフランは笑う。 「でもねえ、あたしの夢だって、リルが照らしてくれてるんだよ」 「あたしね、夢があるんだ。この森で誰にも負けないひとになる。それが叶ったら森を飛び出して、今度は世界で一等強くなってやるんだ!」 「毎日リルの背中で笛を聴いているうちに、あたしも思ったの。リルが霧の笛を歌うように、あたしの名を世界に響かせてやるんだって。世界のだれもがあたしの名前を呼ぶように」 リルの背中がぐらりと揺らぐ。フランが立ち上がったのは感触で分かったけれど、リルは何も言わなかった。 「いつか世界のあちこちで、みんながフランの名前を口ずさむようになりますよ」 「えへへ、そうかな」 「いつもフランを背中に乗せているわたしが言うんです、間違いありません」 「そうだといいな。そうなれる気がしてきた」 「でもその日には、フランもこの湖を離れてしまうんでしょう」 朗々と歌うように話していた声が、長雨の降りはじめに似たしゅんとした色をする。 「そんな顔しないでよ。あたしはまだどこにも行かないよ」 「ローブシンのポゴルじいさんっているでしょ。あの人が強くてさあ。結構歳は食ってるんだけど、何度やってもひねられちゃってねえ。昨日なんてあたしを仰向けにひっくり返して、『お前さんがわしを越えるのと、川向うから迎えが来るのと、どちらが先かのう』だって」 お手上げだとも言いたげに両腕をひらひらさせて、フランは笑った。はあ、と息をついて空を見上げると、霧のヴェールの向こうに太陽のシルエットが淡く浮かんだ。 「だからさ。もうしばらくはあたしにも聞かせてよ。霧を渡る竜の笛」 背中から身を乗り出して、リルの首筋を撫でる。リルはくすぐったそうな声を上げながら、湖のかなたを見つめたまま嘯いた。 「鑑賞会のきっぷは高いですよ。なんてったって、フランのためだけの特等席なんですから」 「ふふん、二倍にも三倍にもして出世払いしてあげるから待ってなさい!」 得意げな顔が振り向くと、得意げな顔と目が合った。それでふたりはひとしきりくすくす笑った。 いつしか朝風も吹きはじめたらしい、森も水面もひそひそと、あるいはやいのやいのと茶化すように音を立てている。 どちらからともなく笑い声が途切れると、リルはふうと息を吐いた。 「わたしは、みんなが思うほど立派に生きることはできないと思うけど」 「もう少し、この生き方を続けてみようと思います。フランが喜んでくれたら、どんなことよりもうれしいから」 きりりとした瞳が見えなくなるほど目を細めて、リルはにっかりと笑った。負けないくらいフランも笑って鼻歌を歌いだすと、青い竜も胸いっぱいに息を吸み、歌いだした。 ――――るううううう……うう……ぅぅぅ…………。 竜の紡ぐ笛の音は朝霧のかなたへと渡っていく。 ---- あとがき: ここまでご覧くださりありがとうございます。 紆余曲折ありましたが、最後はこうした小説になりました。 悩みもしましたが、いろんなお声を頂いて、諦めて放り投げなくてよかったなと心から思います。 &color(#4169e1){>お互いに思いあえる友がいるっていいですよね (2018/11/30(金) 07:23)}; &color(#4169e1){>言葉回しが素敵。朝霧にけぶる湖の情景がありありと浮かんでくるようでした。リルとフランの掛け合いもとても微笑ましく、心が温かくなるような作品だと感じました。 (2018/12/02(日) 20:44)}; お二方ともありがとうございます。 お友達のラプラスの歌をその背中で聞くお友達が思い浮かんだのです。なかよし、思いあう感じが届けられてなによりです。 言葉回しはこれからも磨いていきたいと思っている点なので、褒めていただけて励みになりました。もっと伸ばします! ---- #pcomment()