作[[呂蒙]] 序章 どうせなら今の内に 今年は夏になってからというものの、気温が低い日が多く、どうも夏らしくない。8月になってから、気温は上がったものの、突発的な雨が降ることが多い。どうやら、今年の太陽は元気がよくないようだ。 結城の部屋も、湿気が多く、除湿機はほぼ不眠不休の労働を強いられている。高温多湿の日本だから、ある程度はやむを得ないが、天候不順で、洗濯物を部屋の中に干す必要があるため、それに拍車をかける。あまり除湿機をつけておくと、電気代が勿体ない気もするのだが、結城もジメジメした環境は苦手であるし、それ以上に砂漠原産のナイルは、湿気というものが大の苦手、結城が止めておいても、勝手にスイッチを入れ、除湿機を強制労働刑に処している。 「なあなあ、ナイル」 「何、ご主人?」 「フライゴンっていう種族は砂漠原産なんだろ? だったら、そんな色じゃない方が目立たなくていいと思うんだけど……?」 「な、何が言いたいの?」 「本当は、熱帯雨林原産じゃないのか? 赤とか、緑とかなんだから、砂漠よりも熱帯雨林の方が絶対目立たないと思うんだよな。なんかこう、非合理的っていうかさ……。どうしてそんなカラーなんだ?」 「そんなこと言われても分からないよ! 昔っから、こうなんだから!」 「え~? 分からない~? 自分の体くらい責任持てよ、無責任ドラゴン」 「聞こえなかったなぁ~? もう一度頼むよ?」 声の調子で、まずいと思ったのか、結城は話題を変えた。年初めに旅行に行ったが、また、学校が始まる前にどこかへ行こうというのだ。 「え? 夏に旅行? 珍しいね、ご主人」 ナイルは言う。結城は、夏に旅行をしない。暑い時に動きまわりたくないというのが最大の理由だが、他にも理由がある。まず、どこへ行ってもそれなりに混んでいるということである。かつては、お盆休みに一部の業種を除いて一斉に休むのが普通だったが、近年は、交代で休む業種も多くなってきている。だから、お盆を避ければ、すいているのかというと、必ずしもそうではない。同じ値段で同じサービスを受けるのであれば、すいている方がいい、それが結城の考え方であった。それと比べて、大学の長期休みである2月から3月は卒業旅行で多少は混むものの、夏の最繁忙期に比べれば、すいているし、何よりも、料金も閑散期のため、夏と比べると、安い場合もある。 「消費税が今度上がるだろ? 次は『新しい判断』はなさそうだし、どうせなら料金が上がる前に、と思ってな」 「なるほど、それで、旅先は国内? それとも外国?」 「国内だな、予算がちょっと乏しいし、それに、国際線の飛行機のチケットってのは、非課税なんだ。今、行く必要もないだろ」 旅行に行くとなれば、事前に情報を集めなければならない。結城は早速、近所の大型書店に出かけたのだが、今回の旅行先が、あまりにマイナーだったのか、そこを扱ったガイドブックの類が一切、なかった。 (無駄足だったな……) 無いのであれば仕方がない。自分で情報を収集するしかない。結城は何も買わずに書店を出て、湿気で不快極まりないどんよりとした夏空の下を歩いた。実に不快だ。歩き始めて数分で、汗でシャツが湿ってしまう。エアコンの効いた家に戻ると、そこはまさに天国。パソコンを使って、旅先の情報を集める。長崎と違い、それほど多くの情報は集められないだろう、ひとまず、東京からのアクセスの方法がわかりさえすればよいのだ。 (とりあえず、最低限の情報は集めたし、あとは切符とホテルの手配だな……) 第1章 雨天出発 結城が夏に旅行をしない理由は他にもあった。基本的に夏は台風のシーズンである。予めチケットを買っておいて、後は、旅行開始の日を待つだけ……という段になって、台風がやってきて、旅行をキャンセルというのでは話にならない。台風が来なくとも、ここ数年は降り続いた大雨が大水害を引き起こすことも、決して珍しいこととは言えなくなってきた。ひとたび、大水害が起きれば、交通網は寸断され、家屋にも甚大な被害が出る。そうなれば、余所者を受け入れる余裕などなくなってしまう。 8月の上旬に、台風が日本列島に襲来し、その他の日もぐずついた天気の日が多かった。 「ご主人、雨が降ったら、旅行は取りやめ?」 「う、うん、どうしようか……」 結城の返事はどうもはっきりしない。台風や大雨が予想されるのであれば、スッパリ取りやめるつもりでいたが、問題は交通機関への影響がない程度の雨の場合だ。傘をさしてあちこち歩くのも億劫だが、キャンセルするのも、もったいないように思えたからだ。 数日が経過し、週間天気予報で、旅行開始日の天気を見ることができるようになったが、予報は雨。しかも全国的に雨だという。だが、幸いなことに、台風がやってくることはなさそうだったので、多少天気が悪くとも行ってしまうことにした。 そして、旅行当日。天気予報では、雨だったが、結城の住んでいるところはちょうど雲の切れ間にあるためなのか、雨は降っていなかった。だが、駅にたどり着くまでに雨が降り出すかもしれないので、一応傘は持っていくことにした。断続的に降り続く雨のせいで、ムシムシするなんとも不快な空気。連日の熱帯夜で、朝まで熟睡できる日はほとんどなく、いつも、夜中に1回は目が覚めてしまう。今回は、空路を使わず、陸路のみの行程である。途中で寝てしまい、車窓を楽しめなくなるなんてことがないように、昨晩の10時過ぎには床に就いた……のだが、寝苦しくて、夜中の2時に目が覚めてしまった。本当はもう少し寝ているつもりだったのだが、二度寝して寝坊などということになったら、洒落にならないので、起きていることにした。 旅の支度を済ませ、ナイルを叩き起こして、家を出る。まだ、外は暗かった。夏至の時と比べると、陽が短くなっていることを実感する。朝一番の4時35分の電車に乗って、東京駅に向かう。 「よし、無事に電車に乗ることができたから……寝る」 「ぼくも寝る……」 結城たちは、電車に乗って、椅子に座ると、いつものように揃って寝てしまった。結城は朝が苦手で、できることなら早起きなどしたくないのだが、時間を無駄にしたくないという思いの方が強かった。 目を覚ますと、あと15分ほどで東京駅のところまで来ていた。空はどんよりと厚い雲に覆われていたが、幸い雨は降っていなかった。 (幸先は、そこそこいいかな?) 結城は、そんな淡い期待を抱き始めた。晴れていなくてもいいから、せめて、傘を差さなくとも済むようになってほしいものだ。 終着駅で電車を降り、ここで新幹線に乗り換える。 「えーっと、次に乗るのが『ひかり501号』新大阪行きだな」 広い駅構内を歩く。考えてみれば、新幹線に乗るのは、久しぶりな気もした。少なくとも1年くらいは乗っていないような気がする。価格破壊で、飛行機のチケットが値崩れを起こした結果、遠距離を短い時間で移動できる飛行機を使うことが多くなり、新幹線は使う機会が減っていた。 「なあ、ナイル……。最近、新幹線に乗った記憶がないな……」 結城が、急にそんなことを言った。 「そうかもねぇ、記憶にないもんね……」 「東海道新幹線の乗り場ってどこだったっけ……?」 「え!?」 乗り場は16番ホームであることは分かっているのだが、肝心の乗り場がどこなのか……。結城も最近、新幹線に乗っていなかったために、ホームがどこにあるのか忘れてしまったのだ。 しばらく、結城とナイルは東京駅の構内をうろうろ。 「あ、ああ、こっちだこっち」 何とか案内表示を見つけ、16番ホームに辿り着いた。幸い、乗り継ぎの時間には余裕を持たせていたので、ホームに辿り着いたときには、まだ新幹線は入線していなかった。ホームには、仕事客と思しき人、遊びに行く人と思しき人たちが、新幹線の入線を待っている。まだ、朝の6時前なのだが……。さすがは首都・東京といったところだろうか。 「朝なのに、結構、人多いね」 「そりゃあ、日本の大動脈だからな。オレたちみたいに、遊びに行くのもいれば、仕事の人もいるだろうな」 「ご主人が、こういう時は、ちゃんと身なりに気を遣うから、ぼくもそこは嬉しいかな」 「ん?」 「ほら、見てよ。皆、いい身なりをしてるよ」 ポケモンを連れている人々は、皆、小ざっぱりした格好をしている。ナイルが言うには、結城がみすぼらしい格好だったら、恥ずかしくてたまったもんじゃない、とのこと。結城は、身に付けているものが特別高価なもの、というわけではない。むしろ安物だが、靴はきちんと洗ってきれいにしたものを履いているし、服もきれいに洗濯されたものを身に付けている。 「お前が全裸なんだから、俺がちゃんとした格好をしないとな」 「確かに服は着ないけど……『全裸』って言い方はやめてよ」 退屈なので、ついつい、人間の連れにポケモンに目が行ってしまう。結城はそこまで興味がなかったが、ナイルはどうしても、横にいる主人と比べてしまう。 「あ、サーナイトがいる」 「ナイル、あんまりじろじろ見るんじゃない」 向かいのホームにビジネスマンと思しき男性とサーナイトがいた。サーナイトとナイルを比べて、結城が一言。 「お前、ちょっと太りすぎじゃないのか?」 「サーナイト比べたら、そう見えるかもね。これでも、標準体型だから」 「標準ねぇ……。まあ、でも、ナイルがあんなだったら、痩せすぎで健康に悪いかも……」 つい、ぼそっと口に出してしまった結城。しまった、聞こえたんじゃないか? 思っていることを読まれた? と、ドキドキしながら、サーナイトのほうをちらりと見たが、聞こえてはいないようだった。 朝6時に、博多行の「のぞみ1号」が出た後、その16分後に次の博多行の「のぞみ3号」が出る。そして、そのわずか4分後には臨時の新幹線が出る。と、このようにひっきりなしに新幹線が西へ向かって、発車していく。だが、これでも、需要に対し、供給は十分ではないのだという。 発車の5分ほど前になると、新幹線がゆるゆると、ホームに入ってきた。結城たちは12号車に乗る。ひかり号は16両編成なので、真ん中よりも少し後ろの車両ということになる。先ほどの臨時の新幹線が出たわずか6分後には、西に向かう。 結城たちの乗った列車「ひかり501号」新大阪行きも、定刻通りの発車だった。これで、名古屋駅まで向かう。名古屋まで2時間弱の旅である。 「それじゃあ、無事に列車に乗ることができたし、今回の旅先について予習しておくか」 今回の旅先は、越前・一乗谷(いちじょうだに)である。北陸なので、長崎と比べると、随分近い(とはいえ、数百キロは移動することになるのだが……)。大まかにいえば、越前は現在の福井県の北半分である。都が置かれた平城京や平安京から、程よい距離にあり、土地が肥えて豊かであったため、古くから重要視され、その近隣にある近江とともに争奪の対象となった。 一乗谷は、県庁がおかれている福井市の中心地から、南東方面に10キロほど川をさかのぼったところにある。現在は、その街並みが発掘され「一乗谷朝倉氏遺跡」として公開されているが、知名度が低いせいか、取り扱うガイドブックはなく、観光地化されているとは言い難い。もっとも、来訪者が少ない方が、遺跡の保存やさらなる発掘調査を行うにあたっては都合が良いのだが。 朝倉というのは、越前を5代にわたって支配した戦国大名である。 時は15世紀後半。関東地方では、知名度は低いものの既に関東一円を巻き込んだ大規模な合戦の真っ最中であった。世に言う享徳の乱(1455~83)である。この30年近い日本史上まれにみる長期戦の中で、大活躍をしたのが、関東地方の実力者・上杉家の分家である扇谷(おうぎがやつ)上杉家に仕えていた太田道灌(1432~86)である。現在の皇居の前身である江戸城の築城や、軍略と和歌に精通した文武両道の武将として知られている。 一方京都でも、将軍後継者問題に端を発する戦乱が勃発した。これが応仁の乱(1467~78)である。この戦も10年以上続いた長期戦となった。主戦場は京都だったものの、後継者問題や利害の対立から、各地で東軍方・西軍方に分かれて合戦が行われた。戦国時代の到来である。 京都で発生した騒乱は越前にも飛び火した。越前は斯波という武家の中でも足利将軍家に次ぐ格式の高い家で、畠山や細川と並ぶ名門(三管領家)が治めていた。今回の旅の目的地を中心に越前を支配したのが、斯波家に仕えていた朝倉孝景(あさくら たかかげ 1428~81)である。同名の曾孫がいるため、区別するために、法名で「英林」と号したことから「英林孝景」と呼ばれている。 越前は、支配者である斯波家の中で東軍と西軍に分かれて内紛が起きていた。英林孝景は、初めは西軍側にいた。英林孝景本人が戦上手なことに加え、率いる軍隊も精強だった。各地を転戦し、大活躍をしたのだが……。東軍の総帥・細川勝元(1430~73)は、正攻法で勝つのは難しいと判断したのか、調略を仕掛けた。餌をぶら下げて、寝返りを誘ったのである。英林孝景は「自分を越前の守護とすること」を条件として提示した。勝元はその条件を飲み、東軍への寝返りを成功させた。勝元や将軍・足利義政(1436~90)のお墨付きをもらった英林孝景。もう怖いものなしである。持ち前の軍略で、勢力圏を拡大し、遂には越前を実効支配し下克上を成し遂げた。 6時26分、結城たちの乗った「ひかり501号」新大阪行きは、定刻通りに発車した。車内は2~3割ほどしか席が埋まっていなかったが、どうせこの次の品川と、その次の新横浜で結構乗ってくるだろうな、と結城は予想した。外は天気予報が外れたのだろうか、曇ってはいたものの、雨は降っていなかった。傘は持ってきたが、雨は降っていないに越したことはない。だが、ほどなく多摩川を超えて神奈川県に入ると、パラパラと雨が降ってきた。やはり、この時代、天気予報は正確なようである。アテにならない天気予報というのも困るが、この時ばかりは外れてほしかったな、と結城は思った。 「あーあ、降ってきちゃったね」 「そうだな……」 「もし、あっちが大雨だったらどうするの?」 「近隣の三国や芦原に温泉があるようだから、温泉を楽しむのも悪くないかな……」 結城はそう答えたが、やはりそれは本意ではない、という顔をしていた。結城の予想通り、新横浜駅を出た時点で、座席の6~7割ほどが埋まった。のぞみ号は、新横浜を出ると、次は名古屋まで止まらないのだが、ひかり号は、列車によって停車駅は異なるが、名古屋までいくつかの駅に停車する。この列車は、新横浜の次の小田原と、愛知県に入って最初の駅である豊橋に停車する。その分、時間がかかるからということなのか、のぞみ号と比べると、若干特急料金が安くなっている。 日本の大都市同士を短時間で結ぶという性格が強い路線のためなのか、勤め人と思しき人の姿が多いが、行楽客と思われる人々の姿もあった。お盆は過ぎたとはいえ、8月なので、まだまだ繁忙期ということなのだろう。在来線とは異なり、新幹線は神奈川県の内陸を通って、西へと進む。新横浜の次の停車駅は小田原である。神奈川県の西の端っこまで40分足らずで来てしまったわけである。やはり速い。 「この次の駅から静岡県だぞ」 と、結城が説明をする。といっても、静岡県内の駅はすべて通過し、8時前には愛知県に入って最初の駅である豊橋に到着する。 「それにしても、御主人、結構混んできたね……」 「ああ、そうだな」 ここで、8~9割ほどの席が埋まる。 ここ小田原は、戦国大名の1つである小田原北条氏の本拠地であり、駅前には北条早雲(1432/56~1519)の銅像がある。北条氏の祖であるが、彼自身は「北条早雲」と名乗ったことはなく「伊勢新九郎」あるいは「伊勢盛時」と名乗り、出家後「宗瑞」と号した。北条の名字を用いるのは、彼の子供・氏綱(1487~1541)の代になってからである。また、伊勢盛時の代には、小田原は支配領域に入っていたものの、本拠地ではなかった。本拠地は、伊豆半島の韮山というところで、幕末に建造され、世界遺産にも指定されている反射炉があるところとして知られている。 伊勢盛時に関しては研究の途上であり、実像がはっきり定まっているとは言い難い。生年は長らく永享4(1432)年とされていたが康正2(1456)年生まれとする説が出現したり、出自も一介の素浪人というどこの馬の骨とも分からない人物とされてきたが、近年発見された歴史的な物証から、身分の低い人間ではなく、室町幕府に代々仕える高級官僚の家に生まれた御曹司であったとされている。 「素浪人と御曹司じゃ、人物像がかなり変わってくるな。まあ、全然違うのはナイルと一緒かな」 「へ?」 「だから、砂漠地帯原産とか言われているけど、本当は熱帯……」 「ち・が・うって言ってるでしょ!」 後続の「のぞみ号」の通過待ちをした後、列車はするすると動き出し、ほどなく関東地方を抜けた。熱海駅を通過すると、新丹那トンネルに入る。8キロ弱ある長いトンネルだが、高速で走っているため、抜けるのにそこまで時間はかからない。 伊勢盛時のことである。出自不明の素浪人とされていたが、実は室町幕府に仕えていた高級官僚であることが確実視されている。その盛時には姉なのか、それとも妹なのかははっきりしないが姉妹がおり、当時の駿河守護・今川義忠(1436~76)に嫁いでいた。本名は不明だが「北川殿」として、後世に知られている。その義忠が隣国・遠江における合戦で戦死した際に、後継者を誰にするかで内紛が起きた。義忠と北川殿の間には龍王丸(1473~1526・後の今川氏親)という子供がおり、後を継ぐこと自体は不自然なことではなかったが、いかんせんまだ幼少だった。 このことを知った、近隣に勢力圏を持つ扇谷上杉家は、自らの縁者でもあり、今川の血を引く人物を当主に据えようと画策し、太田道灌が軍を率いて、駿河までやってきてしまった。道灌は文武両道の名将であり、そう簡単に退けられる相手ではない。そんな時、駿河にやってきたのが盛時であった。幕府に仕えていたことからすると、一旗揚げるためではなく、幕府の命令でやってきたのだろう。ただ、今川や盛時にとって幸運だったのは、関東は長期に及ぶ合戦の真っ最中であり、主力である道灌は長い間関東を離れていることが難しいという事情があった。 とりあえず、龍王丸が成人するまで、扇谷上杉の推す今川の血を引く人物とやらが、当主の代わりを務めるということで話をまとめた。話がまとまると、道灌は相模へ帰っていき、当面の危機は去った。 三島駅を通過し、列車はかつて「駿河」と呼ばれた領域に入っていたが、新富士駅を通過するころになると、いよいよ雨が激しくなった。新幹線の窓を大量の雨水が流れ、車窓を楽しむことなど不可能になってしまった。 「ご主人、この雨だよ、どうするの……」 「う、うん……」 結城もどうしようもないなという諦めモードになっていた。止んでくれれば一番いいのだが、とても止みそうにない。やはり、今年の夏は太陽の元気が良くないようだ。もし、現地が大雨で、遺跡見物が不可能なら、ご当地のグルメでも楽しもうという話になっていた。ナイルは名物のカニが食べたいと言い出すが……。 「越前ガニの旬は冬だぞ。今行っても、多分ないぞ」 「他にも何かあるでしょ?」 「う~ん、越前……。エチゼンクラゲ?」 「エチゼンクラゲって、名物? そもそも食べられるの?」 「多分、食べらんない」 「それじゃ、ダメじゃん」 「あ、そうだ。そういえば蕎麦が名物だったな。食べ方がちょっと変わっているらしいぞ」 福井には「越前蕎麦」という名物があり、つけ汁に、大根おろしと出汁を加えていただく独特のもの、らしいのだ。結城もちょっと調べただけなので、詳しいことは分からないのだが、越前で蕎麦を食すようになった歴史自体は古く、先ほどの英林孝景が非常食用として蕎麦の栽培を奨励したことに始まるという。 列車は静岡駅を通過し、大井川を越え、かつては遠江と呼ばれている地域に入った。駿河においては今川という守護大名がいた。遠江の守護大名は英林孝景が仕えていた斯波であった。しかし、応仁の乱により斯波の支配力は著しく低下し、現地に勢力を持っていた者たち(のちに徳川家に仕える井伊家など)による群雄割拠状態となっていた。 長享元(1487)年、遠江で戦死した、駿河守護・今川義忠と正室・北川殿との間に生まれた龍王丸は、14歳になった。現代で14歳というとまだ中学生だが、当時はもう成人してもおかしくない年齢になっていた。ところが、扇谷上杉の推す当主代行の人物は約束を反故にし、龍王丸を滅ぼそうと画策した。龍王丸は生母の兄弟である伊勢盛時に助けを求めた。話し合いでの解決は不可能とみた盛時は同志を集め、現在の駿府城付近にあったとされる今川館を襲撃し、当主代行の人物を討ち取り、龍王丸を当主の座に据えた。龍王丸は成人して今川氏親(いまがわ うじちか)と名乗った。盛時はこの功績で現在の沼津市付近にあったとされる興国寺(こうこくじ)城を与えられている。 成長した氏親は、領内の開発を進める一方で、西へ西へと勢力を拡大し、父親の代からの因縁の地であった遠江を支配下に置いたのだが、これと同じ時期に、お膝元の駿河の隣にある、甲斐守護・武田信虎(1494~1574)とたびたび合戦に及んでおり、氏親に安息の時はなかった。 列車は、静岡県の西端部まで来た。浜松駅を通過した後、浜名湖に出る。日本有数の汽水湖で、進行方向左手には太平洋が見える。東海道新幹線の中でも、なかなか景色の良いところ……なのだが、大雨で、視界が悪く、景色を十分に楽しむことができない。何とももったいないことである。 ほどなくして「ひかり501号」は、愛知県に入って、最初の駅である豊橋に到着した。ここから、名古屋駅までは20分足らずで着く。豊橋と名古屋の間には三河安城という駅があるのだが、ここは通過する。愛知県に入って、雨は多少弱まったものの、まだ、降り方は強く、外をあちこち歩くのは難儀である。 静岡駅があるところはかつては駿河と呼ばれ、浜松駅のあるところは遠江、豊橋駅のあるところは、三河と呼ばれていた。氏親の代に、今川は大きく勢力を伸ばし、駿河、遠江と三河の一部が支配領域となっていた。現代の地図で見ても、伊豆半島を除く静岡県と愛知県の一部にあたり、まだ勢力を維持していた上杉や細川にはさすがに及ばないものの、かなりの広さを持つ領国であることが分かる。この勢いのまま、三河を手中に収めようとしたが、安祥城主・松平長親(1472~1544)に退けられてしまう。結局、氏親の存命中は、三河全域を支配下に置くことはできなかった。 『柳営秘鑑』(りゅうえいひかん)や『徳川実紀』(とくがわじっき)『三河物語』といった書物に、長親が氏親と盛時が率いる軍勢を退けた記述がある。それによると永正3(1506)年に、1万余りの軍を率いて西三河に侵攻した今川軍に対し、長親は500余りの手勢で迎撃し、現在の岡崎市付近で合戦となった。圧倒的に不利かと思われた松平軍は、決死の戦いぶりで、今川の部隊を次々と破り、夜を迎え、その日は矢作川を前に陣を敷いた。一方で、盛時と氏親は圧倒的な兵力でありながら、思わぬ被害が出たため、夜の内に撤退した。ただ、結城からしてみると、ちょっと眉唾な気もする。三河兵、特に松平の配下の武将や兵は勇猛なことで知られている。勿論、兵が多ければいいというものではない。いくら兵が多くても、率いる武将が無能ならば、たちまち蹴散らされてしまうだろう。軍隊とはそういうものである。だが、氏親や盛時は、周辺諸国の強豪と鎬を削る猛者であり、武将としての力量は確かなものであった。氏親はこの1度だけではなく、何度も長親に攻撃を仕掛けているが、その都度退けられている。だから、長親の武将としての力量も確かなものであろうが……。 「ただな、肝心の記録が、江戸幕府の公式な記録だったり、松平に古くから仕える大久保家の人間が書いた物だから、ひょっとすると、江戸幕府を開いた徳川家康のご先祖の功績をより高めるために、数字は少なくしてあるかもしれないな。信用していいのか、疑問だわな」 結城は、500対1万ではなく、本当は5000対1万だったのではないかと考えた。根拠があるわけではないが、それだけ兵力差があれば、包囲されたうえで攻撃されればおしまいだし、1人で5、6人は倒さなければ、撤退を考えさせるほどの被害を与えることができない。いくら猛者ぞろいの三河兵でも、そのようなことが、本当にできるのだろうか? ただ、長親のほうが動員力に乏しく何とか人員をかき集めて5000だったとしても、名将である氏親、盛時が率いる軍隊に、数で言えば不利な戦いを挑み、退けることに成功しているのだ。たとえ、5000対1万だったとしても、長親が武将として優れていたということを否定することはできないだろう。 長親の孫、清康(1511~35)の代には積極的な軍事行動で、三河一帯を平定した。若年であるにもかかわらず、たった十数年で三河一国をほぼ掌握した名将・清康が長く健在ならば、江戸幕府を開いた徳川家康の幼少期も、今川に人質として護送される途中に織田信秀(1510~51・信長の父)に売り飛ばされるなどという惨めな生活をしなくても済んだことだろう。 結局、雨は上がらないまま「ひかり501号」は、定刻通りに名古屋駅に着いた。豊橋とは同じ愛知県ではあるが、旧国名で言えば、豊橋は三河だが、名古屋は尾張になる。次に乗るのは、金沢行きの特急「しらさぎ3号」である。30分ほどの乗り継ぎ時間がある。 それにしても尾張(おわり)とは、いささか語呂が悪い気がするが、実際に今川や松平にとっては、この地に関わってしまったがために散々な目に遭っている。 天文4(1535)年、松平清康は尾張・守山の地に出陣していたが、ある時、清康の本陣で馬が暴れるという騒ぎが起き、この騒ぎの最中、家臣・阿部弥七郎に惨殺された。弥七郎の父、阿部定吉(1505~49)には「織田信秀と密かに手を結んで、謀反を起こそうとしている」という噂があり、馬が暴れた騒ぎを父が誅殺されたものと勘違いして、この凶行に及んだといわれている。これが世に言う「守山崩れ」である。清康という強力なリーダーの突然の死により、松平は急速に弱体化し、御家滅亡は避けられたものの、今川に従属を余儀なくされてしまう。 この翌年、今川でも内紛が発生した。この時、氏親はすでに亡く、嫡男である氏輝(1513~36)が当主となっていたが、若年であることに加えて、病弱であったといい、20代前半で病死してしまう。氏輝には子供がいなかったが、幸い弟がたくさんいたため、すぐ下の弟が後を継げばよさそうな気もするが、なぜか、この人物も氏輝と同じ日に病死。 最初は話し合いでの解決が試みられたが、決裂したため、合戦(世に言う『花倉の乱』である)となり、国内外の支援を多く取り付けた、氏親の5男・梅岳承芳(ばいがく しょうほう 1519~60)なる人物が勝利をおさめ、当主となった。承芳はこの後、今川義元と名乗った。義元は跡取りではなく、あくまでも「氏親の子供の1人」という扱いで、寺に預けられていたのである。歴史にもしもはないが、氏輝が長生きしていれば当主になる見込みは薄く「公家かぶれ」や「やられ役」という烙印は押されずに済んだかもしれない。 義元は「海道一の弓取り」とも言われ、現在の伊豆半島を除く静岡県と、愛知県の東半分を勢力圏としていた。「今川仮名目録(いまがわかなもくろく)」という今川家の掟に追加の条項を付け加えるなど、きちんと領国の経営もしていたのだが……。最期は、永禄3(1560)年、尾張・桶狭間の地で2万5千の大軍(義元の本陣付近にいる兵の数は6000ほどだったといわれている)に対し織田信長率いる2000の部隊による奇襲攻撃に遭い絶命する。このたった1回の負け(とはいえ、いくら負けたといっても、総大将が合戦で首を取られたという例は極めて少ない)で、名将であったはずの義元は「信長のやられ役」あるいは「踏み台」という烙印を押されてしまう。今川義元という絶対的権力者の死が領国に与えた衝撃は大きく、まずこの混乱に乗じて従属していた松平元康(後の徳川家康)は岡崎で独立し、せっかく支配下に置いた遠江も「遠州錯乱」と言われるほどの大混乱に陥り、支配が及ばなくなってしまった。 「というわけだ。尾張の地で終わりを迎えたわけだな」 「……それで、うまく言ったつもり?」 この後の今川は、義元の子である氏真(1538~1615)が後を継いだのだが、父や祖父には遠く及ばなかった。結局、御家を滅ぼしてしまいボンクラの代名詞的な人物として知られることになってしまった。江戸時代後期、徳川家の一族でもある松平定信(1758~1829)は、娯楽に没頭し、家を潰した良くない見本であると書き残している。 (氏親も可哀想だよな……) 苦労して当主となり、御家の発展の土台を築き上げたにもかかわらず、子供はやられ役として、孫は御家を潰してしまったボンクラの代表格として後世に知られることになってしまった氏親は、草葉の陰でどう思っているのだろうかと思わずにはいられなかった。 お盆が過ぎた平日ということに加えて、ここは、東海地方最大の都市・名古屋。さすがに人が多い。東海道本線のホームも多くの人が列車を待っていた。乗り場は4番ホームなのだが、まだ列車は入線していなかった。特にすることもないので、ボケっと隣のホームを見ていると、浜松行きの新快速列車がやってきて、多くのお客を下ろすと、それと同じくらいのお客を積み込み、慌ただしく発車していった。 それにしても蒸し暑い。もしかすると、東京以上に蒸し暑い場所なのではないか、と結城は思った。東京にいた時は、まだ夜が明けてからさほど時間が経っていなかったのに対し、今はもう日の出から結構時間が経っている。単純に比較していいものか疑問だが、やはり蒸し暑いものは蒸し暑いのだ。 「ねえねえ、ご主人」 「どうした?」 「お腹すいたから、あれ食べたい」 「『あれ』?」 ナイルの視線の先には、立ち食い蕎麦ならぬ立ち食いきしめんのお店があった。お店の中ではおばちゃんがかいがいしく働いている。 「ええ?『あれ』じゃ分かんないな、中で働いているおばちゃんのことか? おばちゃんは食べもんじゃないぞ」 などと結城は言う。そんなバクバク食ったら太るではないか……。何とか食わせないようにしようとする結城だったが、無駄なあがきだった。 「何で、そうやって意味不明な解釈をするわけ?」 「だって『あれ』じゃ、分かんないし」 「じゃあ、ちゃんと言うよ『きしめん』」 「新幹線の中で、朝御飯食べただろ?」 「足りなかった」 結城に食事を抜くという習慣はなかったが、普段から朝食はあまり食べない方だった。新幹線の中で食事はとったが、その食事というのも、旅の前日に近所のスーパーで買ってきたパンとミルクというごく簡単なものだった。 「ああ~、きしめんなら近所のスーパーでも売っているだろ? 東京に帰ったら、家で茹でてやるよ」 「あれあれ?『ご当地グルメは、その場所まで出向いて食べるべき』とか何とか言っていなかったっけ?」 結城にとって、痛いところを突かれた。確かに、結城は本物の讃岐うどんが食べたいのなら香川まで出向いて食べるべきという考えの持ち主である。 「まあ、確かに、それはそうだ……」 「でしょ? だから、お財布貸して」 「嫌だよ。金なら自分で何とかしろよ」 などと、結城は無茶苦茶なことを言い出す。あまりにも低レベルなやり取りはまだ続いた。 「じゃあ、力ずくで財布を奪うけど……それでもいい?」 「おっと、名古屋駅で騒ぎを起こす気か? 今日まで黙ってきたけど、お前には苦情がたくさん来てるんだ。被害届が出てる。また、オレに恥をかかす気か?」 「んで? 何かの流れで『暴力は振るわれました』とか言うんじゃないんだろうね?」 考えを読まれてしまい、反撃ができない結城。結局、ナイルのためにきしめんを注文する羽目になってしまった。 ここで、ナイルの腹を満たしておかないと、また、何か食べさせろと要求をしてくるかもしれない。毎度のことだが、観光のため、あちこち歩くと、いつ食事にありつけるか分からないのである。都市部ならまだいいが、そうでないと飲食店を探すのにも一苦労で、そうこうするうちに昼食を食べ損なってしまうかもしれない。 やがて、かき揚げの乗ったきしめんが出てきた。ナイルは「おいしそうだね」といったが、お腹がすいていない結城は無言だった。結城は器を持つと 「ほらほら、流し込んでやるから、口をあーんだ」 などと、無茶を言う。ナイルが「そんなことしたら、どうなるか分かってるんだろうね?」とすごんだため、結城は悪ふざけをやめ、ナイルがきしめんを食べ終わるのを、おとなしく待っていた。 (このクソ暑いのに、よくそんな熱いものが食えるよな……) 尾張(おわり)というあまり語呂が良くないところだが、織田信長や豊臣秀吉という天下人にとっては、その第一歩を踏み出す始まりの地であった。信長はまず、名古屋を拠点とし、その後、清州、小牧山、岐阜と拠点を変えている。 それにしても、なかなか特急列車が入線して来ない。車庫から直接やってくるわけではなく、大垣からホームライナーという快速扱いの列車として名古屋駅に到着し、お客を下ろす。そして、大急ぎで車内清掃を終わらせた後に、ようやく乗車できるわけだ。つまり、乗車できるのは発車時間ギリギリになってからなのである。それは、分かっているのだが、じとっとする不快な空気が支配する場で待たされるのは、暑がりの結城にとっては、たまったものではない。早く乗車できないかと時計を見るが、こういう時に限って時間の進みが妙に遅く感じる。 8時40分過ぎになって、ようやく列車が入線してきたが、車内清掃があるため、掃除が終わるまで乗ることができない。ちなみにこの列車、大垣から44分かけて名古屋までやってくるのだが、すぐ後の新快速が42分で同区間を結んでいる。取り立てて足が速いというわけでもないのに、きっちり座席料金は取る。何のために走っているのか今一つ分からない列車だったりする。 「確実に座りたい人のためでしょ?」 「うん、まあ、そうだな……」 ようやく乗ることができた時には、もう発車の5分前だった。特急なので、それ相応の乗り心地は保証されてはいるが……。 「なんか、暑い」 と、文句を言った。ナイルは「そうかなぁ?」と言うが、結城にとってはエアコンの効きが弱いように感じられた。平日だというのに、早くも座席のほとんどが埋まってしまっている。 列車は木曽川を越えて、岐阜県に入る。「特急しらさぎ3号」の2つ目の停車駅が岐阜駅である。この辺りはかつて美濃と呼ばれていた。交通の要衝であったため、周辺の領地を持つ実力者たちの争奪の対象であった。結城は喉が渇くのか、持参したミネラルウォーターをごくごくと飲んでいる。相変わらず、外は雨模様である。 美濃と呼ばれる国は土岐という守護大名が治めていたのだが、時は戦国時代。油売りから身を起こして、最初は土岐に取り入り、最終的にこれを追放して美濃一国を掌握した人物がいた。「美濃のマムシ」こと斎藤道三(1494~1556)である。 信長の父・信秀と道三は敵対関係にあったが、周囲に敵を抱えた信秀は、信長と道三の娘である帰蝶との間で婚姻を結ぶという条件で和睦した。これが天文17(1548)年のことである。 それから5年後のこと、道三は「娘婿は一体どんな人物なのか。大層なうつけと聞くが、ともかく一度会っておきたい」と思うようになった。尾張と美濃の国境付近にある正徳寺にて会見の場が設けられることになった。道三は早めに来て、街道近くに建っている掘立小屋から信長の一行を観察することにした。が、やってきた信長は、だらしない格好でまさにうつけそのものであった。 (やはり、噂通りであったか……) ところが、会見に臨むと、現れたのは正装姿の信長であった。この時、道三は自分の娘婿をどう見たのだろうか。今となっては知る術がないが……。 「織田上総介にござる」 (尾張の大うつけ……だと? いや、違う……) 「信長公記(しんちょうこうき)」という書物によれば、道三は「わしの子や孫は、あのうつけの門前に馬を繋ぐことになるぞ」という言葉を残したという。「門前に馬を繋ぐ」とは、家来になるという意味である。ちなみに本当に道三の子供や孫が、信長の家来になったかというと……。道三の末子に利治(1541~82)という人物がいた。後に道三は、長男・義龍(1527~61)が起こした叛乱により討ち取られるのだが、利治は追っ手を振り切って、尾張に逃れ、信長に仕えたという。信長からしてみれば義理の弟であり、一門衆ということになるが、ただの七光りではなく、北陸経略で活躍した優秀な人物であった。ともあれ、道三の予感は的中したことになる。 雨の中、列車は西へと進み、発車してから30分後の9時20分に大垣駅に着いた。かつては東京駅から大垣駅まで夜行電車が走っていた。400キロを超える長い行程だが、快速電車なので安く移動することができた……のだが、人件費や高速バスの価格破壊に対抗しきれなくなったという事情もあるのだろう、今は繁忙期に細々と運行される臨時列車に格下げになってしまった。お盆を過ぎたとはいえ、まだ8月なので繁忙期のはずなのだが、この日は運行されていなかった。 もともと、朝が苦手な結城のことである。大垣駅に着くころには、うとうとして今にも意識が飛んでしまいそうだった。何度も乗ったことのある区間なら寝ていてもいいのだが、東海道を在来線で移動するというのは、考えてみると、これまでなかった。そんなところの景色を寝てしまったがために、見ることができなかったというのは、なんとも惜しいではないか、というのが結城の考え方であった。 「ご主人、眠いんでしょ? 無理しないで寝れば?」 「景色を見られないのはもったいないから起きている」 「じゃあ、ぼくが子守唄を歌ってあげるよ」 と、ナイルがイジワルを言うと 「やってみろ、大垣から家まで宅急便で送り返してやるからな」 などと言って応戦する。 「面白い、やって見せてよ」 と、あまりにも幼稚なやり取りをしていると、列車は大垣駅を発車してしまった。 「あーあ、発車しちゃったね」 と、ナイルが挑発するようなことを言ったので 「じゃあ、面倒だから琵琶湖に沈めて魚の餌にしてやる」 と、やり返す。何とも、幼稚な応酬である。 大垣を発った列車は、この後、関ケ原を通って、滋賀県に入り、東海道と北陸を結ぶ要衝・米原駅に停車する。米原の到着予定時刻は9時48分である。 「ねえねえ、御主人」 「どうしたナイル?」 地図を眺めていたナイルが言うには、鉄道よりも、車のほうが近道なのではないかという。 「う、う~ん……。どうかなあ?」 福井県は、岐阜県と接してはいるが国境には険しい白山連峰があるため、鉄道で直接行き来することはできない。しかし、道路は通じており、高速道路と国道158号を使うことで、福井県に抜けることができる。鉄道でも、直接行き来できるようにするという計画があったそうなのだが、実現には至らず、今に至っている。 (あまり変わらない気もするが……。次に来ることがあれば、車も検討してみようか?) 関ケ原辺りで、眠さのあまり意識が飛んでしまい、気付くと、あと数分で米原駅であった。横を見ると、ナイルも寝てしまっていたので、顔をぴしゃぴしゃと叩いて起こす。 「おい、起きろ」 「え? 降りるの?」 「いや、降りはしないけど……」 米原で、進行方向が変わるので、座席の向きを変えなくてはならない。ちょっと面倒である。ちなみにここで新たに3両を連結して9両編成となる。その作業があるためなのかここで8分停車する。 ところが、時間になっても列車は発車しなかった。理由は聞き洩らしてしまったが、とにかく遅れているらしい。多少の遅れなら、走っている間に元に戻ることも珍しくないのだが……。列車が動き出したのは10時になってからだった。 「まずい……。予定が狂うかもしれん……」 「ぼくはいいよ」 「え?」 「そしたら、ご当地グルメを食べよう。せっかく遠路はるばる来たんだから……」 「あ、ああ……」 琵琶湖を遠目に臨みながら、列車は北へ進む。次の停車駅は長浜駅である。 「なんか、お城があるね」 「ああ、長浜城かな」 駅からほど近い場所に、長浜城の復元天守があり、博物館となっている。近隣に姉川の古戦場などがあり、滋賀県内では観光客が多いところだという。 長浜から4つ北に行ったところに木ノ本という駅がある。この近隣に賤ケ岳古戦場がある。羽柴秀吉(1537~98)と柴田勝家(1522~83)が雌雄を決した場所として後世に知られている。 羽柴秀吉、後に朝廷から豊臣の姓を賜り豊臣秀吉を名乗る。一介の農民から、松下之綱(まつした ゆきつな)という人物に仕えたのち、織田信長に仕え、持ち前の知略と人望で出世街道を駆け上っていった。 信長と敵対した浅井家を滅ぼした後、これまでの働きを認められ、長浜の地を与えられた。草履取りから一国一城の主への大出世を果たしたわけである。 一方で、柴田勝家。織田家の幹部(最終的に筆頭家老となる)で、武勇に優れ「甕割り柴田」の逸話でも知られている。元々は、信長の弟に仕えていたのだが、その人物が信長に対して2度目の謀反を企てた時、謀反を企てていると密告し、信長側に鞍替えした。もっとも、資料の少なさから、勝家も前半生については不明な点が多い。 本能寺の変で、主君・信長とその長男・信忠(1557~82)の死により、天下の行方は分からなくなっていった。秀吉と勝家はそれぞれの持ち場にいたため、すぐに京都へ戻ることができる状況ではなかった。京都に一番近い位置にいたのは、織田家の宿老の一人である丹羽長秀(1535~85)であったが、手元にいる兵が少なく、単独で明智光秀(1528~82)に対抗することができなかったため、動くことができなかった。恐らく、謀反を起こした光秀も「他の武将もすぐには動けまい」という目論見があったのかもしれない。ただ、これだけの知名度の高い事件でありながら、何故、光秀が突如謀反を起こしたのか、様々な説があるものの、明確な理由はわかっていない。「光秀は、綿密に計画を立ててから行動を起こすタイプなのに、周囲に根回しもせずに、突発的な行動に出るのは解せない。光秀の背後に黒幕がいるのではないか?」「鞆公方(足利義昭)が光秀を扇動したのではないか?」といったことが現代ではささやかれているが、真相は闇の中である。 その後、本能寺における変事を知った秀吉は、信長の死を伏せたうえで、敵対関係にあった毛利に和睦を持ち掛け、成立すると、電撃的な速さで、畿内に引き返してきた。これが有名な「中国大返し」である。光秀は現在の京都府と大阪府の県境付近にある山崎で迎え撃つも敗れ、居城があった近江坂本に逃れる途中に落命した。落ち武者狩りに遭ったとも、落ち武者狩りの襲撃により、深手を負い、自刃したとも伝わっている。 その後、本能寺における変事を知った秀吉は、信長の死を伏せたうえで、敵対関係にあった毛利に和睦を持ち掛け、成立すると、電撃的な速さで、畿内に引き返してきた。これが有名な「中国大返し」である。光秀は現在の京都府と大阪府の県境付近にある山崎で迎え撃つも敗れ、居城があった近江坂本に逃れる途中に落命した。落ち武者狩りで討ち取られたとも、落ち武者狩りの襲撃により、深手を負い、自刃したとも伝わっている。 明智光秀を討ち果たしたことで、急速に発言力を強めた秀吉だったが、当然のことながらそのことを快く思わないものもいる。勝家や滝川一益(1525~86)、信長の3男、織田信孝(1558~83)らである。 (やれやれ、勝家は仕方ないにしても、わしも嫌われたもんじゃのう……) 秀吉は「反秀吉勢力」との戦いを繰り広げることになる。もっとも、織田家は超のつく競争社会であったから「あいつさえいなければ」「何であいつが」という感情はつきものなのかもしれない。 列車は敦賀駅を過ぎ、北陸地方に入った。敦賀は畿内への出入り口として重要視され、また近世には北前船の寄港地としても栄えた。交通の要衝であるため、越前を支配していた朝倉も「敦賀郡司」という役職を設け、その任には朝倉宗滴(1477~1555)という一門衆筆頭ともいえる人物がついていた。 朝倉宗滴、英林孝景の末子として生まれ、50年以上にわたり、軍事の最前線に立った人物である。「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」という言葉を残したことでも知られている。現代風にいうと「武士は犬畜生と言われようと、勝つことがすべてである」といったところだろうか? また、この名将は死に際して「あと三年生きて、織田上総介の行く末を見たかった」と言い残したとも伝わっている。道三同様、信長の将器を見抜いていたのかもしれない。 特急「しらさぎ3号」は福井県内に入ったものの、遅れは相変わらずであった。目的地の予習も終わり、話すことがなくなり、風景の変化も乏しくなったこともあって、うとうととしていた結城は眠ってしまった。目を覚ますと、列車はちょうど武生駅に到着したところであった。20分ほど居眠りをしていたことになる。次の次が、下車駅である福井駅ということになる。結局、福井駅には12分遅れで到着した。 「やっと、着いたね」 「うん……そうだな」 福井もこの日は強い降り方ではなかったものの、雨が降っていた。ムシムシとした空気に結城はまたもうんざりさせられた。本来なら、11時20分に福井駅を出るバスに乗る予定だったのだが、あと8分しか時間がなく、このバスに乗ることは断念した。トイレに行ったり、コインロッカーに荷物を預けたりするので、そのくらいの時間は経ってしまうからだ。荷物を持ったまま、遺跡歩きというのはさすがに難儀である。 「やっぱり、予定が狂ったわ……。12時ちょうどにバスがあるから、それに乗ろう」 「12時だと、まだちょっと時間あるね」 ナイルの言う通り、バスの発車までまだ40分ほど時間がある。 「待っているのも、退屈だし、近所に柴田神社があるから行ってみようか」 傘をさして、小雨が降る中、駅前の道を歩くこと数分。住宅街の一角にぽっかりと開けた土地があり、そこが柴田神社であった。その名の通り柴田勝家を祭神とした神社である。元々は、ここに勝家の居城であった北庄城の本丸があったのだという。境内には槍(もしくは薙刀?)を右手に持ち、床机に腰を掛ける勝家の像がある。いかつい顔で、鎧を身に着け、いかにも武辺者といった印象を与える。 「見た感じ、随分強そう……だけど、なんかこう、要領が良いというか、狡賢そうな感じはしないよね」 「ナイルは、そう思うか。まあ、秀吉や家康と比べると要領が良いというか、狡賢い人間ではないよな」 そんな勝家ではあるが、部下思いなところもあった。 元亀元(1570)年5月、近江の南半分を治めていたのは六角氏だった。決して弱小勢力というわけではなかったが、勢力伸長著しい信長との合戦に敗れ、隣国の伊賀に逃亡していた。ところが、そこで兵を集め、近江を奪回しようと攻め込んできた。勝家が守る城も包囲されたが、そこは武勇に長ける勝家。部下とともに防戦し、攻め手の被害は増えるばかりであった。六角側は力攻めは無理だと判断し、城の水の手を断ち、籠城側を弱らせる作戦に出た。 六角側から、降伏勧告の使者が送り込まれてきたものの、勝家は降伏を拒否した。水の手を断たれ、城内は渇きに苦しんでいるかと思いきや、城内では、水に困っている様子はなかった。使者は困惑しながらも、帰っていった。だが、実際にはもう水の蓄えはほとんどなく、勝家が水に困っていないように装っただけであった。夜になって勝家は部下を集めて、こう言った。 「これより、城から打って出て、討ち死にしようと思う。しかし、幼子や老いた父母がいる者まで巻き込むのは忍びない故、城を出て落ち延びるがよい」 勝家はそう言ったが、誰も城から退去する者はいなかった。勝家は、皆に水を飲ませ、水の入った甕を3つ庭に置くと、かち割ってしまった。もう水の蓄えはない。渇きから解放されたければ、包囲を打ち破る他にない。勝家と家来たちは城から打って出ると、決死の突撃を行い、散々に六角勢を破った。この武功により、勝家は世人から「甕割り柴田」として知られることになった。 武勇に優れる勝家だが、槍働きしかできない人物ではなかった。詳しくは、後述するが、朝倉の滅亡後、越前は混迷の極みにあった。合戦が合戦を呼び、もう滅茶苦茶。そこへ赴任してきたのが勝家だった。越前の統治を進めるのと並行して、隣国加賀にも侵攻し、百年近く一向一揆に占拠されていた加賀を制圧していることからすると、決して猪武者などではなかった。 「統治者としても優秀だったわけだな。まあ、そもそも無能なら、完全実力社会の織田家でここまで出世できないだろうしな」 「そうだよね」 ただ、最後の最後で戦った相手が悪かった、そういうことなのであろう。境内には、勝家の像の他に、戦国の世に翻弄された市姫(1548~83)と、北近江の大名・浅井長政(1545~73)に嫁いでいる時に生まれた3人の娘の像があった。 「まあ、女性にとっては、戦国時代は生きづらい時代だったかもな。政略結婚がほとんどで、恋愛結婚なんてほとんどないし、嫁ぎ先の家に尽くす一方で、実家にも情報をこっそりと流したり、両家の間を取り持つ必要とかもあっただろうし」 つまりは、スパイや外交官としての一面もあったということだ。政略結婚が主だったため、夫婦の仲が良かったとしても、実家と嫁ぎ先の中が険悪になれば、強制的に離婚ということもあった。結城は「政略結婚がほとんど」とは言ったものの、例外もあり、秀吉と正室の高台院(つまりは、ねね)は当時としては珍しい恋愛結婚であったと伝わる。 一通り見て回ったので、結城たちは神社を後にした。幸い雨は上がったのだが、灰色の雲がどんよりと立ち込め、いつまた雨が降ってきてもおかしくない状況であった。また、こういう天気であったから、蒸し暑さが容赦なく襲い掛かってくる。福井駅とそう距離があるわけでもないのだが、その距離も歩くだけでも、汗が噴き出し、シャツが湿ってしまう。 駅に戻ったものの、バスの発車時刻までは、10分少々あった。持ってきた飲み物を全部飲んでしまったので、飲み物を買うために駅の改札近くにあるコンビニで何か買うことにした。 「ご主人、蕎麦以外に何か名物とかないのかな?」 ナイルの旅における興味は、もっぱら食にあった。普段から食いしん坊というわけではないのだが(それでも、結城よりはさすがに食べるが……)遠出すると、どういうわけだが、いつも以上によく食べる。 「えー……だから、エチゼンクラゲ」 食に対する興味ないわけではないのだが、結城にとっては二の次、三の次であるので、面倒くさそうに適当なことを言う。 「あんな、ブキミな生き物、食べらんないでしょ?」 (お前も、十分不気味な生き物だと思うが……) 「ご主人、今、すごく失礼なこと、言わなかった?」 どきりとしなかったといえばウソになる。今までの暑さが、ウソのように消えていった。 「い、いや、何も言ってないだろ?」 結城は麦茶でも買おうと思っていたのだが、あいにく置いていなかった。この暑さで売り切れてしまったのか、それとも、あまり売れ行きが良くないので、そもそも取り扱っていないのかは分からなかった。やむなく、ミネラルウォーターを買おうと思った時「越前茶」という聞きなれないお茶が置いてあるのが目についた。 「なあ、ナイル。これも名物と言えるんじゃないか?」 「これって、お茶……だよね?」 「手ごろな値段だし、もし仮に、まずくても諦めがつくから、買っていこうか」 1本100円ほどのお茶を4本買い、コンビニを後にした。 事前のリサーチによると、福井駅の北口にある5番のバス乗り場から、遺跡の最寄りバス停を通るバスが出るとのことであった。発車の3分ほど前になって、バスが乗り場にやってきた。が、なんだか、随分小振りなバスである。 「さあ、乗るぞ」 結城が、ナイルの背中をぐいぐい押すようにしてバスに乗り込み、一番後ろの座席に腰を下ろした。 「ご主人、随分、小さいバスが来たけど、本当にこれで合ってるの?」 「行き先は合ってたし、バスが小さいのも、ローカル線で、大型車を使うほど需要がないからだろ?」 結城の言う通り、バスには結城たちを含めて、10人も乗らなかった。元々それほど利用客が多くない路線なのかもしれないし、加えて、平日の真昼間であったこともあるだろう。だが、後で、小型のバスを使う理由を知ることとなる。 バスは北陸本線の高架をくぐって、駅の反対側に出る。しばらくは市街地を走るのだが、新幹線が開通したお隣の県庁所在地である金沢と比べると、寂れているというか、街の規模が小さいという印象は否めなかった。 市街地が途切れ、バスは足羽(あすわ)川に沿って、内陸へと入っていく。近隣には国道158号線が通っており、こちらは道も広いのだろうが、このバスが通っているのはその裏通りにあたる狭い県道である。遺跡を通ってはいるものの、観光路線ではなく、れっきとした生活路線なのである。バスに乗ってしばらくすると、雨が降り出し、遺跡見物には向かない天気に。 「あーあ、降ってきちゃったね」 「まあ、これなら人も大していないだろ?」 雨の中、遺跡見物というのも難儀だが、大勢の人でごった返しているのも、それはそれで良くない。それに今更、引き返すわけにもいかない。結城に言わせれば、静かな環境で遺跡見物に集中できればそれでいいのだ。 それにしても、道が狭い。全部が全部というわけではないが、狭いところは本当に狭い。何だか、大きめのあぜ道をそのまま舗装したような道路である。だから、このサイズのバスを使っているのか、と納得した。結城が窓の外を見ると、田んぼすれすれ。ガードレールなどというものはないので、ハンドル操作を誤れば、そのまま田んぼへ転落である。そういう道路であっても、一方通行ではないので、対向車両がやってくるが、うまい具合にすれ違っている。大型バスなら、おそらくはすれ違うことはできなかっただろう。 途中「あさくら水の駅」という道の駅があった。ご当地ジンジャーエールがあるそうなので、どのようなものか気になったが、ここでは降りなかった。目的地まではそう離れているわけではないのだが、それでも、結局歩かなくてはならない。福井駅から30分ほどで、目的地の「一乗谷朝倉氏遺跡資料館」に到着した。 ここには、一乗谷の遺跡から発掘されたものが展示されている。入館料100円を払って中に入る。平日の昼間ということもあり、中はすいていた。 中には発掘された陶磁器や陶磁器のかけらなどが展示されていた。陶磁器の中には割れてしまったものをくっつけたためなのか、修復の痕跡があるものもあったが、保存状態は良好と言えた。釉をつけて焼いた青磁の壺や、暖を取るための火鉢、明かりの灯すために使用した土器(素焼きの小皿?)などが展示されている。 「ご主人、これ、ここ作られたものなのかな?」 「どうかな、中国からの輸入品も多いと思うぞ」 一乗谷自体は内陸にあるのだが、近くに川があるため、海まで出ることは可能だし、近隣の三国湊を利用して、遠隔地と交易もしていたようである。 資料館でトイレを済ませ、遺跡まで2キロほどの道のりを歩く。資料館を出ると、周りには野山があるのみで、後は何もない。都市部に住んでいて、あまり緑を目にすることのない結城にとっては、山の深緑色が新鮮だった。 くどいようだが、何もない。歴史の知識があったとしても、ここが、かつて越前統治の中心だったとはとても思えない。まさに「兵どもが夢のあと」である。 「ナイル、お前、すごく自然だな。風景に溶け込んでいるぞ。やっぱ緑色だからかな」 「何が言いたいの?」 「やっぱり、原産地は……」 「しつこいよ! もう、飽きたよ、それ」 おふざけもほどほどに、地図を頼りに、遺跡まで、2キロほどの道のりを歩く。相変わらず、湿気が体にまとわりつき、何とも不快だが、道を歩いていると、途中で雨が上がったので、そこだけは良かった。といっても、相変わらずの曇り空で、いつまた降ってくるかもわからないが。 県道31号線から18号線に入り、しばらく歩く。この分かれ道のところで、一乗谷川が、本流の足羽川に合流している。一乗谷川に沿う形で、道を歩く。途中で道路工事に出くわしたり、道路脇の田んぼで作業中のお年寄りに出くわしたりする。遺跡というよりも山村である。ここにかつての城下町があったといっても、どうにも想像がつかない。知識で知っていても、やはり想像がつかないのである。それだけ、何もないところなのである。 道を歩いていると、道路わきにプレートが置いてある。何でもここに朝倉景鏡(1525?~74)の屋敷があったところなのだそうだ。名前が読みにくいが「あさくら かげあきら」と読むらしい。 「名前が読みにくいね……」 「まあ、人名漢字はしょうがないわな」 朝倉景鏡は、その名字の通り、朝倉の一門衆の一人である。朝倉の滅亡に深く関わった人物であるが、詳しくは後述する。 一乗谷。文字通り、真ん中を一乗谷川が流れ、両脇は山になっている。先ほどの県道の分かれ道が、谷の入り口(下城戸)ということになる。だから、その入り口に柵や土塁を築けば、少ない人数で守ることができる。この谷の中から、朝倉家5代目当主・朝倉義景(1533~73)の住居(朝倉館跡)が発掘されている。今回は時間の都合で行かなかったが、館から少し離れた場所に一乗山という山があり、その頂上に城が築かれている。地形を最大限に利用した守りの堅い典型的な山城であるが、あまりにも不便な場所である。おそらく、普段は館で生活をし、合戦になった際には城へ避難するという使われた方をしていたのであろう。 朝倉景鏡の屋敷跡を過ぎて、しばらく歩くと、右手に「平面復原地区」と呼ばれるエリアがある。住居があったであろう区画や井戸の痕跡、さらには、当時使われていたトイレなどが発掘されている。割れた甕のようなものがところどころにあるが、これはかつて、染物屋があった場所なのだという。他にも刀鍛冶や鋳物職人などの住居跡がある。恐らく、この辺りには職人たちの作業場兼住居が集まっていたエリアなのかもしれない。 「そういえば、刀で思い出したけどな……」 結城が言うには、この一乗谷の遺跡のさらに奥には滝があるのだが、なんでもこの地で、佐々木小次郎(?~1612)が「燕返し」の奥義を会得した場所なのだという。佐々木小次郎は、宮本武蔵(1584~1645)との巌流島の決闘(慶長17年・1612年にあったとされる)で知名度が高い剣豪ではあるが、武蔵以上に経歴には不明な点が多い。生年や出身地、誰から剣術を学んだのか、そして巌流島の決闘で武蔵に敗れたことは確からしいが、その決闘がどのようなものであったのかもよく分かっていない。1対1の純粋な決闘だった、決闘の途中で武蔵の弟子が加勢に入り、集団で小次郎をボコボコにしたといったような話が今日に伝わっているが、どれが実像だったのかは不明である。 「それってさ、実在しなかったってことなんじゃ……?」 「まあ、そうかもしれないな……」 もう少し奥へ入っていくと、復原街並というエリアがあり、県道を挟んで、朝倉館跡がある。まず先に、復原街並の方を見ておくことにした。 復原街並は、先ほどのエリアと同じく、きちんと区画で、土地が仕切られており、そこに武家屋敷や、職人たちの住居が並んでいる。さすがにその当時のままというわけではないが、復原の際に、出土した石垣や、建物の基礎部分はそのまま使用としているという。身分の高い武家の屋敷は塀で囲まれ、土間と畳の居住スペースが別々になっていた。畳敷きの方は、来客をもてなしたり、日頃の政務をとったりするのにも使われたのであろう。英林孝景の曾孫である、宗淳孝景(1493~1548)の代には、全盛期を迎え、一乗谷は裕福で朝廷に献金をするだけの財力があった。また、一向一揆という懸念材料はあったものの、この頃はまだ、軍事を担っていた一門衆の長老・宗滴が存命だったことから、越前国内は比較的平穏だった。そのため、多くの公家が教養人でもある宗淳孝景を頼って、越前に下向してきたという。と、いうのも、この頃は戦国時代真っ只中。都である京都でも例外ではなく、合戦が合戦を呼び、もう滅茶苦茶な状態であったからだ。公家を受け入れる側にしても、ここで恩を売っておけば、公家社会や朝廷とつながりができるので、悪い話ではなかった。 時間がなかったため、今回は行かなかったが、一乗谷には剣豪・富田勢源の道場跡が発掘されている。宗淳孝景は、文芸・文化の愛好者だったが、同時に、兵法の研究や剣術も奨励していた。刀鍛冶職人の住居があったのも、それだけ、需要があり、また刀を作るだけの技術を持った集団がいたことが伺える。守りが堅い軍事要塞的な性格の強い、一乗谷だが一方では高い文化水準を持つ町でもあったということだ。 「富田勢源は、佐々木小次郎の師匠なんじゃないか? と言われている人だぞ」 「ふーん、でも『なんじゃないか?』なんだよね」 「いかんせん、佐々木小次郎は武蔵以上に謎が多い人物だからな……」 勢源の生没年は不明だが、弟の景政が大永4(1524)年生まれだそうなので、それよりは前に生まれていることになる。それで、もし小次郎が勢源から直接教えを受けたというのであれば、巌流島の決闘の時はいい歳をしたおじさん、もしくはおじいさんということになってしまう。少なくとも若くはない。 復原街並から道路を隔てた区画は、朝倉の館跡が発掘された場所になっている。道路を何台か車が走っていく。どこへ行くのかと、結城が見ていると、近くの駐車場に入っていった。 遺跡を訪れる見物客の中には、結城のようにポケモン連れている人もちらほら見かける。車から降りてくるのを見ると 「いいなぁ、ぼくも車が良かったな」 と、ナイルが言い出す。結城は車の免許を持っているので、運転すること自体は何でもない。車もレンタカーを手配すればいいだけのことだ。今では、インターネットで事前に予約することもできる。しかし、レンタル料を安くするためにコンパクトカーや軽自動車を借りようとすると、ナイルが、狭いだの天井が低いから嫌だなどと言い出すのだ。5分くらいケンカになり、話が先に進まなくなるのが面倒なのである。 もし、名古屋方面から車で来た場合、国道158号線を通れば、一乗谷に来る前に、越前大野に立ち寄ることができる。この越前大野も、なかなか見どころが多いところで、何とかして立ち寄ることができないかと思ったのだが、今回の旅は時間の制約が厳しく断念せざるを得なかった。 (福井に来るまでに時間をかけすぎたな、これは、反省点だな……。それに、ナイルがうるさいけど、今回は車のほうがよかったかもしれないな……ん?) 「おっ、ナイル。あれなんかいいんじゃないか? 『ポケモン専用オープンカー』」 「何、それ?」 「だから、あれだよ」 結城とナイルの前に横たわる県道を、一台の軽トラックが走ってゆく。運転しているのはおっちゃんだった。観光客には全然見えないので、おそらくは地元の人なのだろう。 「オレが運転して、ナイルは荷台。広いから、いいだろ?」 「それ、本気で言ってる?」 「やっぱ、ダメか? レンタル料を抑えられると思ったんだけどなぁ、格好悪いもんなあ、周りが小ぎれいな乗用車で、一台だけ軽トラっていうのも」 車だと、時間に縛られないという利点はあるが、東京からレンタカーで来るにしろ、名古屋や小松空港、福井といったレンタカーが手配できそうなところで車を借りるにしろ、あちこち歩いた後で、返却場所まで燃料を満タンにしたうえで車を持っていかなければならない。疲れている時にそれをするのが、結城には億劫に思え、車という選択肢を取ることにどうしてもためらいがあった。ちなみに予定では、遺跡見物を終えた後は、福井駅に向かうバスに乗る予定だ。だから、目的地までは寝ていたとしても何の問題もない。 「それじゃあ、まずは復元された『唐門』から見ていくか」 県道を挟んだところに、朝倉義景が政務をとっていたといわれる邸宅が発掘されている。その邸宅の入り口にあるのが唐門である。入り口には「特別史跡 一乗谷朝倉氏遺跡」と書かれた石柱が建っている。門としては立派ではあるが頑丈な鉄城門ではなく、木造であった。周りは塀で囲われてはいたが、敵の侵入を撃退するための鉄砲狭間のような細工も見られなかった。 「なんか、もっとゴツいものかと思ったけど違うね」 「今でいうところの『門扉』以上の役割はなかったんだろうな、きっと」 敵の侵入を防ぐのなら、谷の入り口を塞いでしまえば済む話だし、背後の山の上には守りの堅い城があるので、この屋敷そのものにはそこまでの防御機能は必要なかったのであろう。 敷地の広さの広さは約6500㎡である。中には、四季を楽しむために作られた庭園の跡地も発掘されている。敷地内から花壇が発掘された。この遺跡発掘で得られた花粉の分析の結果、季節ごとに植物が植え替えられていたことが判明した。 「……と、いうことは、だ。ナイル。このことから分かることは?」 「それだけ、平和だったんでしょ、少なくともこの辺りは」 「正解」 恐らくは、当主・義景もこの屋敷で戦国の世とは思えぬ平和を享受していたのかもしれない。 戦国大名朝倉家5代当主・義景。「天下に最も近い大名」とまで言われながらも、巡ってきたチャンスを悉くものにできず、足利義昭の扇動に応じて、信長打倒の包囲網の一角を担うが滅亡に追い込まれる。軍事行動では目立った成果が上げられず、部下に愛想をつかされる。内においては側室である小少将を寵愛して政務をそっちのけにし、やはり部下に愛想をつかされる……というのが、今日の義景像である。ハッキリ言ってしまえば、戦国大名・武将としては無能という評価を下されている。 その義景の墓所というのが、この屋敷の敷地内にある。 「ただ、補足しておくと、義景はこの一乗谷では死んでいないんだよな」 「じゃあ、どうしてお墓があるわけ?」 「多分、義景の没後に移築されたんじゃないかな?」 結城は「無能だの、優柔不断だのマイナス評価だけして帰るのも可哀想だから」という理由で、墓の前に置いてあった賽銭箱に10円だけ入れて手を合わせた。その義景の最期についてである。ここで、一乗谷の入り口の方にあった「朝倉景鏡」が出てくるわけである。 朝倉の全盛時代を築いた宗淳孝景の没後、若年の義景(このとき15歳)が当主となったが、越前という裕福な国とこの時まだ存命だった、宗滴という一門衆のおかげで朝倉の越前支配が揺らぐことはなかった。しかし、宗滴も老齢で、やがて病に倒れ天文24(1555)年に78歳で世を去った。宗滴が亡くなると、彼に匹敵するだけの用兵術を持つ後継者が現れなかったこともあり、朝倉の最大の懸念材料である一向一揆に対して優位を保つことが難しくなってきた。加えて、景鏡と景紀(1505~72・宗滴の養子)やその息子たちとの不仲は深刻なものであった。ある時、戦の陣中で総大将の座を巡って景鏡と景垙(景紀の長男)が激しい口論となり、最終的に総大将は景鏡ということになったのだが、このことをこの上もなく恥じた景垙は、陣中で自ら命を絶ってしまった。この知らせは父である景紀のもとにも届いた。激怒した景紀は孫を連れて自分の領地に引きこもり、本家への協力を渋るようになった。このようなことから、隣国・若狭への勢力圏拡大などそこそこの軍事的な成果はあるものの、軍事の中核である一門衆が機能しなくなっていった。 この遺跡にあった説明では、義景は「文武両道の武将」という説明がされていたが、本当にそうだったのか、それとも、地元の武将を悪く言うのは忍びないので、そのような説明をしているのかは、結城には分りかねた。ただ、一門衆同士の対立を収められなかったことからすると、やはり統率力には欠けるところがあったのかもしれない。 足利義昭の扇動に応じて、信長打倒の包囲網の一角を担うものの、度重なる失策で部下も愛想をつかし、適当な理由をつけて出兵をボイコットしたり、織田方に鞍替えする者も出始める有様であった。天正元(1573)年の刀根坂の戦いで朝倉軍は壊滅的な打撃をこうむり、命からがら一乗谷へ逃げ帰った。今のままでは、織田の大軍を防ぎきれないと判断した義景は一乗谷を放棄し、景鏡のいる大野に逃れる決断をした。大野は盆地のため地形的に守りやすく、また、同地を支配する景鏡は平泉寺(現在の平泉寺白山神社)という天台宗の寺と親しい関係にあった。この寺は、寺でありながら、自らの領地と強大な兵力(武装した僧侶)を持っていたため、何とかなるであろうと考えたのかもしれない、が、これが死の選択となった。 景鏡は、義景を迎え入れ賢松寺という寺を宿舎として提供した。だが、その翌朝(天正元年8月20日)のこと、景鏡の手勢が賢松寺を取り囲んだ。 (よもや、景鏡が信長と通じていようとは……。これまでのようだな、生け捕られて辱めを受けるのであれば……わしも武士の端くれ、潔く自決しようぞ……) ・ 七転八倒 四十年中 無他無自 四大本空 ・ かねて身の かかるべしとも 思はずば 今の命の 惜しくもあるらむ という2首の辞世の句を遺し、自害して果てた。時に、40歳。また、義景の血縁者も悉く捕縛され、処刑されたという。ここに、戦国大名・朝倉家は滅びたのである。天正元(1573)年、8月20日のことである。 「命は惜しくない」と言っておきながら、義景の中では、やはりどこかで「あの時、ああしておけば……」という後悔はあったのかもしれない。「40年もがき苦しんだけど、自分も他もなく、空しいものだった」という何ら得るものがなかったという無念さが伺える。今となっては本心を知る術はないが……。 「で、だな。ナイル。ちょっと補足説明をしないといけないな」 朝倉の滅亡で、越前が信長の支配下に入ったかと言うと、厳密に言えば違うのである。 朝倉滅亡後、守護として越前の支配を任されたのは桂田長俊(かつらだ ながとし・1524~74)なる人物であった。早々に朝倉を見限り、信長方に鞍替えした人物である。ところが、長俊という人物は朝倉に仕えていた時、それほど功績があるわけではなかった。越前の守護になったということは、言ってみれば平社員かそれに毛が生えた程度の人物が、いきなり取締役になったようなものである。当然、同じように朝倉を見限って、信長についた人々からは「なんで、あんな何もしていない奴が」となる。長俊を良く思わないものは多くいた。しかも、突然の大出世のためか、長俊は専横な振る舞いが多くなり、悪政を敷くようになった。 長俊を良く思わない人物の中に富田長繁(とだ ながしげ・1551~74)という人物がいた。長繁も信長から越前国内に領地をもらったのだが、長俊との待遇には差があった。加えて、両者の中は険悪だった。長繁は長俊を排除するため、仲間を募った。幸い、長俊は悪政を敷いていたことで不満を持っているものが多くいたのである。天正2(1574)年1月19日、長繁は挙兵し、3万3千という大軍を率いて、一乗谷に攻め込んだ。長俊は大軍になす術がなく、長俊とその家族は殺害された。 じゃあ、長繁が、越前の支配者になったかというとそういうわけでもなかった。隣国・加賀の一向一揆を指揮する本願寺は、越前に住まう門徒たちを扇動して蜂起させ、長繁を倒そうとしたのである。このことで、越前国内は大混乱に陥った。一向一揆が自分の領地である越前府中(現:武生付近)に迫っていることを知った長繁も兵をかき集めたものの、集まったのは700ほどだった。一方で、一向一揆は十数万という大軍だった。絶望的な兵力差だったが、長繁は一揆勢に対し、強襲をかけることを決断した。近くに布陣していた一向一揆勢2万に突撃をかけ、浮足立ち逃げる一揆勢を執拗に追撃し、2~3000の首を挙げたという。 この勝利で、6500ほどに兵力を増やした長繁は、北上して鯖江を落とし、現在の福井市付近で一向一揆勢との会戦に及んだ。兵力だけで言えば、一向一揆勢が圧倒的に勝っていたが、またも突撃を行い、一揆勢の先鋒を撃破した。突撃しては敵を葬り去る、まさに狂犬である。一揆勢は恐れをなして潰走し、長繁は再び勝利を収めた。 その後も、越前国内を暴れまわり、狂犬ぶりを発揮した長繁だったが、碌な休息もなしに、毎度毎度突撃させられたのでは、従軍している配下もたまったものではない。遂に裏切り者が出てしまう。2月18日のこと、いつものように突撃の命令を下した長繁は、後ろから家来に鉄砲で撃ち殺されるという最期を遂げた。 その後、大混乱に陥った越前や隣国・加賀を平定したのが、柴田勝家である。勝家は、越前支配の拠点を北ノ庄と定め、その後の越前の支配者も同じところを拠点にした。北ノ庄が福井と改められてからもそれは変わらなかった。こうして、一乗谷は忘れ去られ、歴史の表舞台から姿を消すのである。 ただ、忘れ去られたことによって、むやみに踏み荒らされることもなくなったことが幸いして、保存状態が良好な遺跡として、今日に再び知られることになるのである。 相変わらず、空はどんよりと厚い雲が垂れ込め、いつまた雨が降ってきてもおかしくはなかった。結城が身に付けていた肌着は汗でぐっしょりである。猛暑日というわけではないのだが、湿気のせいもあって、気温以上に暑く感じる。喉も乾いたので、先ほど購入した越前茶なるものを飲んでみることにした。 「せっかくだから、さっき買ったやつ飲んでみるか」 「そうだね。それにしても、飲み物を買っておいてよかったね。自動販売機とか見当たらなかったもんね」 「いや、遺跡に自動販売機なんていう文明の利器があったら、どうよ? 景観を損ねまくりだろうが」 「そりゃあ、まあ、そうだね」 遺跡というのは決して、観光地でもなければ、テーマパークではないのだ。発掘作業や出土した器物の保存には金がかかる。言うまでもなく、行政の予算で賄えればいいのだが、なかなか難しいので他所から人を呼び込み、銭を落としてもらうことになる。しかし、いくら人を呼び込むといっても、遺跡が踏み荒らされては意味がない。だから、便利さは二の次、三の次でよいのだ……というのが結城の考え方であった。 蓋を開けて、お茶を喉の奥へと流し込む。喉が渇いていたこともあり、たちまち、一本を飲み切ってしまった。 「これは……飲み慣れない味だけど、これはこれでありだな、飲みやすいな」 後で調べてみたのだが、越前茶というのは、大豆と炒った茶葉をブレンドしたほうじ茶なのだという。何故そんなことをするのかというと、越前は一年を通じて湿気が多く、茶の味がすぐに変わってしまう。茶の風味を損ねないようにしながらも、飲みやすい味にするために生まれた知恵なのだという。ミネラルが豊富なので、夏場には嬉しい飲み物である。 関東地方に縁があるお茶と言えば「狭山茶」だが、渋みの強い狭山茶とは違い、丸みのある味わいで結城には飲みやすいように思えた。逆に言えば、お茶の渋みを味わうだとか、眠気覚ましに飲む場合には向かないかもしれない。 「観光客に媚びない見どころというのもいいじゃないか。エジプトのピラミッドなんか入場制限があるらしいぞ」 「ピラミッドねぇ……。今度、砂漠地帯に行こうよ。こんなジメジメムシムシしたところじゃなくてさ」 「蒸し暑いのは平気だろ、お前は。だって……」 「し・つ・こ・い・よ!」 (あとは、庭園跡地があるようだから、それも見ておくかな) 出土した庭園跡が復元されており、それらは「一乗谷朝倉氏庭園」として特別名勝に指定されている。「諏訪館跡庭園」「湯殿跡庭園」「南陽寺跡庭園」という3つの庭園跡地があるという。 「なんか、侍の家っていうよりも公家のお屋敷だよね」 「まあ、そうかもな、間違ってはいないと思うぞ」 それゆえに「公家かぶれ」という評価をされる義景だが、戦国時代においての公家趣味は自らの格の高さを示すものであり、言ってみれば一種のステータスであった。 どの庭園も、山の斜面をそのまま利用しているものの、石組と水路、木々が武骨さをかなり和らげている。今日には伝わっていないが「南陽寺跡庭園」は桜の名所だったらしく、義景がこの地に滞在していた足利義昭を招いて、花見の宴を催したと言われている。 少し歩いて「瓜割清水(うりわりしょうず)」を見ておくことにした。何でも、瓜を冷やすためにこの水に入れたところ、冷たさのあまり瓜が割れてしまい、このような名がついたのだという。朝倉が滅び、一乗谷が忘れられた後も、きれいな水が滾滾と湧き出している。絶えることなく水が湧き出しているのは、霊的な力によるもの、だとでもいうのだろうか。泉の真ん中には祠があり、お地蔵さんが祭られていた。 「……なんかちょっと不気味だね」 ナイルがそんなことを言う。 「まあ、この『泉に対し無礼なことをしたら、仏罰が下る』とまあ、そういうことなんだろうな」 遺跡見物を終えた結城たちは、福井駅へ向かうバスが出るバス停に移動した。福井駅行きのバスは14時55分とのこと。 (まだ、10分ちょっと時間があるな……) バスを待っている間、何台か車がやってきて、バス停のすぐそばにある駐車場へ入っていった。 「ねえ、ご主人。なんかさ、この遺跡には自家用車で来る人のほうが多いんじゃないの?」 「まあ、恐らくそうだろうな」 「あっ……」 「ん? どうした?」 「あれ、リーフィアだ」 「なんだ、そりゃ? お菓子か?」 「違うよ、あれだよ」 「ほう? クリーム色と葉っぱ?」 駐車場に止まった車から降りてきたのは、クリーム色の毛並みと植物を思わせる耳や尻尾が特徴のポケモン・リーフィアである。その可愛らしい外見から巷ではとても人気が高いポケモンの1つである。ポケモンの知識に乏しい結城も「よく分かんないけど、かわいい」と素直な感想を述べた。 あまり、じろじろ見るのも失礼なので、横目でちらちら眺めている。 (結構、いい車だな……) (そっち?) 結城の視線には、セダンタイプの黒い車が止まっている。田園風景が広がる一乗谷においては、いかにも外からやってきましたという感じでかなり目立つ。リーフィアは毛並みの維持に結構お金と手間がかかる……らしい。主というのも、きっとお金持ちなのだろう。 (やっぱ、草タイプだから、水分がないとダメなんだろ? カラッとしているよりも、こういうジメジメしているほうがいいのか?) (まあ、どうだろうね? 無いよりは有ったほうがいいのは確かだけど) 時間になり、福井駅に戻るバスがやってきた。行きとは違い、前から後ろまで10メートルある大型の路線バスである。20分ほどで福井駅に着くそうなので、行きよりも時間はかからずに済む。午後3時前だが、昼食はまだとっていなかった。 「到着は15時15分だそうだ。福井駅に戻ったら、どこかで店を見つけて、お待ちかねのご当地グルメだ」 「あ、ちゃんと覚えていたんだ。よかったよかった」 バスは国道に入ると、エンジン音をうならせながら、爆走とまではいかないが、それなりのスピードで市街地を進む。雲行きが怪しかったが、バスに乗ると、ほどなく雨が降り出し、街は雨に濡れている。結城は窓から外を眺めていたが、やはりお隣の金沢と比べると、寂れているという印象は否めない。 (やっぱり、金沢と比べると、寂れているよな……) 江戸幕府の成立後、越前75万石を治めたのは徳川の一門であった。藩主・松平忠直(家康の孫・1595~1650)は大坂夏の陣で真田幸村を討ち取るなどの活躍を見せたが、戦後、活躍に見合う恩賞が下されないことに不満を募らせ、乱行が目立つようになった。この積み重ねにより28歳で隠居させられ、豊後府内(現・大分市)に預りとなった。つまりは、事実上の流刑である。その後も、福井藩はゴタゴタが続き、なかなか安定した統治が行われなかった。 一方、近隣の大大名と言えば加賀百万石の前田氏である。大坂の陣の時の藩主は、前田利常(利家の4男・1594~1658)であった。かなり変わり者ではあったが、それと同じくらい優秀であった。利常の治世中、城下町が大火に見舞われたり、利常本人に謀反の濡れ衣が着せられるなどの苦境に陥ったこともあったが、嫌疑を晴らすことに成功し、前田家は取り潰しを免れた。利常とその孫の・綱紀(1643~1724)という2人の英主のおかげもあってか、金沢は順調に発展していった。ひょっとすると、新たに新幹線が開通したのとは、関係なしにこの時すでに差がついていたのかもしれない。 バスは定刻通りに、福井駅に到着した。結構飛ばしていたような気もするが、時間通りの到着だったので、この位飛ばさないと、時間通りに到着できないダイヤだったのかもしれない。バスを時間通り運転するのも大変だなと結城は思った。 第2章 もう終電 遺跡見物を終えて、福井駅に戻ってきた結城たち。もう午後3時過ぎだったが、昼食をとっていなかったので、食事を取ることにした。 「ナイル、何か食べたいものあるか?」 「『なんか食べたいもの』って、蕎麦を食べるとかって言っていなかった?」 「え? あ、そうだったな。お待ちかねのご当地グルメだな」 駅のすぐ近くに越前蕎麦の店があったので、そこに入る。時間帯が時間帯なので、さすがに店内はガラガラだった。「越前おろしそば」なるものを注文する。 「さすがに、ちょっと腹減ったな、もう3時過ぎだからな……。大盛りにするか」 「それじゃ、ぼくも」 やがて、税抜800円の大盛りの蕎麦が運ばれてきた。夏には嬉しい、冷たい蕎麦である。盛られた冷たい蕎麦の上には、鰹節と、ネギが添えられているというよりも、どかっと乗せられている。ちなみに二八蕎麦ではなく、おいしく作るには技術が求められる十割蕎麦とのこと。 大根おろしが入ったつけ汁に付けていただく。 (う……ん。味は最高。だけど、ちょっと辛いな……) つけ汁にワサビが入ったかのような鼻にツンと来る辛さ。ワサビは入れていないとのことだが、大根おろしが効いているため、それに近い辛さが出るとのこと。ただ、辛いは辛いのだが、味は言うまでもない。本場の四川料理のように、舌が痺れるのとはまた違った辛さである。 空腹だったのか、それとも、辛さが何ともなかったのか、ナイルはさっさと食べ終えてしまい、結城に「ご主人、食べるの遅いね」と言っていた。 蕎麦を完食し、店を出た。とりあえず、遺跡見物という最低限やりたいことはやった。後はホテルでのんびりしてもいいのだが、それでは、せっかく遠くまで来たのにもったいない。越前大野を見物できなかったので、その埋め合わせをしようと思ったのである。 福井駅の改札で切符(1170円)を買い、ホームの中へ。結城が乗るつもりの列車は16時50分に福井駅を出て、18時26分に終点の九頭竜湖駅に着く。福井駅には3つの路線が乗り入れている。北陸本線、えちぜん鉄道、越美北線である。今から乗る越美北線は、県庁所在地である福井と福井県内陸の城下町・大野を経て、九頭竜湖駅を結ぶ全長約55キロの路線なのだが、とんでもなく本数が少ない。終点まで行くのは、たったの、4本。越前大野までなら、もう少し本数があるのだが、それでも9本である。 「これに乗らないと、終点で折り返すことができないからな」 終点の九頭竜湖に到着するのが18時26分で、折り返しの福井行きの発車時刻が33分だから、滞在時間はたったの7分である。しかし、この列車が福井へ戻る終電なのである。そのため、これ以上遅い列車に乗る、という選択肢はない。越美北線は福井駅から伸びる1本道の路線なので、他のルートで福井まで戻るというのもできない。身も蓋もない言い方をすれば「行って返ってくるだけ」である。 しかし、とんでもなく本数が少ないからと言って、列車がガラガラかというと、そういうわけではない。乗り場は2番乗り場になるのだが、発車時刻まで10分少々あるのに、すでに乗車口には列ができていた。結城は驚いたが、東京とは違い、1本行ってしまっても、10分待てば次の電車が来るという世界ではなく、1本逃すと少なくとも1時間は来ない。そういう世界なのだ、だから、早めに来て絶対に乗り遅れることのないようにするというのは、当たり前のことなのかもしれなかった。 発車時刻の5分前になって列車がホームに入ってきたが、なんとたったの1両編成。客が多い時間帯には、2両編成で越前大野で切り離しや連結の作業をする列車もある……らしいのだが、この列車は1両きりだった。朱色の塗装で「結いの里 越前おおの」と書かれたヘッドマークをつけていた。なぜか「おおの」が漢字ではなく、ひらがなだったが、結城はこの時は気付かず、後日撮った写真を見返していた時に気付いた。 どうにかこうにか座ることはできた。自宅に戻るであろう学生たちを満載にした列車は、定刻通りに福井駅を発車した。強い雨のため、外の景色を楽しむのは難しそうだ。 次の越前花堂駅を出ると、大きく左へカーブし、並行していた北陸本線の線路があっという間に見えなくなった。新学期早々に試験でもあるのだろうか。ちらりと左を見ると、隣に座っていた高校生と思しき子は、三角関数の問題を解いているところであった。 (理系なのか、それとも国公立志望か? 随分、懐かしいものをやっているな……) あの時は嫌で嫌で仕方がなかったが、終わって数年経つと、もっとちゃんとやっておけばよかったな、もう一度勉強してセンター試験でどのくらい点が、取れるか試してみたい気もする。 (そう思うなら、ちゃんとやっておけばよかったものを……。本当に困ったもんだわ) 思わず、苦笑が漏れそうになった。ちゃんとやらないで後悔するのはわかっている。だが、その時はそこまで、やる気にならないのである。これは、一体全体どうしたものだろうか? 外は田園風景が広がり、人家はまばらである。鉄道が石炭で走っていた時代、つまり蒸気機関車の時代は煙や騒音を避けるために、町はずれに駅を作ることも珍しくなく、街の中心部と駅が離れていること自体はさほど珍しいことではない。だが、越美北線が全線開通したのは昭和47(1972)年であり、北陸本線と比べると、ずっと新しい。もう、その時代は蒸気機関車の時代ではなくなっていた。遠くに街のようなものが見えるか、といえばそんなことはなく、田んぼのあぜ道の上にレールを敷設したといわれても、疑うことなどしないだろう。そういう路線であった。 駅に止まるたびに、学生が何人かずつ降りていく。 (需要があるにはある……。だが、この学生たちが高校を出て、大学に進学するとなって、県外に出ていったら、誰がこの路線を使うんだ?) 結城はそう思わずにはいられなかった。学生がいるということは、定期的な利用者がいるということだが、もちろんずっと学生のままでいるわけではない。進学なり、就職なりで県外へ出ていったら、もうこの路線は使うことなどないかもしれない。地方の鉄道の前途は厳しい。 この越美北線には、国道158号線が並行しているが、車の数も少なかった。福井市と大野市との間の人間の移動が無いとは考えにくい。悪天候だから、出控えているのだろうか? と思っていたのだが、後日、調べたところ、近年福井市と大野市との間にバイパス線が開通したとのこと。おそらく、そちらに車が流れてしまい、この国道は使われなくなってしまった、ということではないのだろうか? 人家もまばらな区間をたった1両の気動車は南東方向に向かって進んでいく。気動車特有のエンジン音が、雨が降りしきる夕暮れ時の田園風景の中に溶け込んでいく。 ようやく人家が多くなり、どこかの街に入ったのかな、と思うと、ここが越前大野駅であった。到着が17時51分だったので、福井駅から1時間ほどかかったことになる。福井から乗ってきた学生の多くはここで降りた。 2分止まって、列車は越前のさらに奥地へと分け入ってゆく。越前大野で客の大半が降り、車内には結城たちを含めて5、6人しかいなかった。 結城は、ふうと深呼吸をして、昼間の遺跡見物の時のことを考えていた。 「なあなあ、ナイル」 「どうしたの?」 「ナイルは、何かをするとき、まずやってみる方か? それとも、よく考えてから行動に移す方か?」 「それは、何? ご主人の好きないやらしい話?」 「そんな話するかよ、こんなところで。しかも、お前、人のこと言えるのかよ」 「ええ、時と場合によるかな……。どっちかって言うと、まずやってみる方かな」 「ふ~ん、そうか」 「ご主人も、どっちかって言うと、まずやってみる方だよね」 「かもな」 朝倉義景のことである。先にも述べたとおり、天下に最も近いと言われながら、悉く好機を逃し、最終的に一族に裏切られて、自害に追い込まれる。信長のやられ役の一人である。家督を継いだ時は朝倉の全盛時代で越前一国を掌握していた。越前は豊かな国であり、都も近い。尾張一国すらものにできておらず、楯突く勢力との争いに忙殺されていた信長や、同じく一国を掌握していたものの、周りは山ばかりで、何をするにしても行動に制限がかかる武田晴信と比べれば、ずっと恵まれた環境にあった。 だが、当主として真価が問われるのは、泰平の時ではなく、戦国乱世であるのかもしれない。室町幕府の現職の将軍が弑逆されるという大事件が発生(世に言う『永禄の変』である)すると、その将軍の弟が、援助を求めて越前にやってきてしまう。この人物こそが、足利義昭である。歓待した義景だったが、本心はどうだったのだろう。 (面倒なお方がやってきたものよ。しかし、追い返すわけにもいかぬし、とりあえずもてなして、畿内のほうは様子見だな……) といった感じなのではなかったのだろうか。 (今、畿内は乱れに乱れておる。都の周りでは、松永や三好三人衆、筒井らが死闘を繰り広げているというではないか。義昭様を押し立てて上洛するとなれば、その者らとの合戦は避けられぬ……) 義景からしてみれば、畿内の混乱に巻き込まれるなど、まっぴらごめんだったが、義昭は早く上洛しろと催促をしてくる。 「若狭や加賀のこともありますゆえ、今しばらくお待ちを……」 「一向一揆のことなら、わしが間を取り持ってやろう」 (ふん、将軍家の血を引くというだけで、何の役職にもついていない者の言うことなど聞くものか。宗滴様にさんざん痛めつけられた者たちが当家との和平に応じるとは思えぬな) 結局しびれを切らして、義昭は信長がいる美濃へと旅立っていった。その後、信長は瞬く間に上洛を果たし、義昭を将軍の座に付けた。 だが、やがて義昭は信長の権勢を危険視するようになり、再び義景に接近するようになる。だが、この時点で、信長と義昭の関係は決裂していたとはいえ、信長が義昭を擁立したという事実は、信長に「自分は幕府の守護者である」という大義名分を与えることになった。義昭を助ければ、当然信長と敵対することになるし、義昭の要請を突っぱたら突っぱねたで「朝倉は公方に非協力的だ」として、信長に義景に戦を仕掛ける口実を与えることになってしまう。どちらにしても手詰まりである。家の存続を最優先にして、信長に頭を下げれば、家の滅亡という最悪の事態は避けられたかもしれないが、それもしなかった。 その後、義昭の扇動に応じて、信長を倒すための包囲網に参加するが、出兵したかと思えば、義景本人は出陣しなかったり、肝心な時に兵を越前に戻してしまうなど、なんとも煮え切らない行動に終始した。 「つまるところ、やってみるのは悪いことじゃないけど、やり方が中途半端だと最悪の事態を招くってことだわな。だったら、何もしないほうがよかったわけだ。やるのかやらないのか、やるんだったら、目標を決めて徹底的に、ということだな」 「結局、義景はどうすればよかったんだろうね?」 「義昭が来ても、追い返せばよかったんだよ……と思ったけど、そんなことしたら、後で絶対に報復されるだろうしな。う~ん、難しいな……。結論『義昭は疫病神』」 「何その、乱暴な結論」 列車は漆黒の闇の中を越前の奥地へと分け入ってゆく。ガタンガタンと、レールの継ぎ目を拾う音が列車の中に響く。集落などなさそうなところでも、降りる客はいる。暗いだけで、本当は集落があるのだろうか? それ以上に驚きだったのが、おばあさんが1人途中駅で乗ってきて、2つほどで降りていったことだ。乗った駅も降りた駅も無人駅。列車も上り下りともに、越前大野と九頭竜湖の間を走る区間運転も含めて5本しかない超閑散路線である。 (あのばあさんは、何者なんだ……?) やがて、客は結城たちだけになった。 「なあ、ナイル。野生のポケモンを捕まえたい場合は、こういう深山幽谷に分け入って捕獲するわけか?」 「うーん、それも一つの手だろうね」 「やっぱりそうか。住宅街にいるわけないもんな」 勝原駅までやってきた。少々読みが特殊で「かどはら」と読む。終点まであと2つだが、ここからは長いトンネルが続く。 カタンカタンとレールの継ぎ目を拾う音が、車内に響く。18時26分、列車は終点に定刻通りに到着した。レールは、駅の先で途切れている。山を越えて、岐阜県側の路線とつなぐ予定があったらしいのだが、実現することなく、今に至っている。列車は、7分後に折り返すわけだが、ここで困ったことが一つある。 「切符どうするか……?」 「ええ!? 買っていなかったの?」 ローカル線は、無人駅で乗り降りする客もいるので、乗車する駅によっては、切符を買って乗ることができない。そのために、バスのように整理券を取って、降りるときに運転席の脇にある運賃箱に代金と整理券を入れるというシステムが採用されている。整理券さえあれば、どこから乗ったか証明できるので、福井駅の改札で代金を清算することもできそうな気はするが、説明するのが面倒なように思えた。 どうしようかと思っていると、なんと改札の前に切符売り場があった。ここで、福井までの切符を買い求める。この切符売り場は、JRが外部に切符の販売を委託しているのだという。聞けば、18時30分に売り場を閉めてしまうという。 (ギリギリだったな……) 何枚か写真を撮ったのち、18時33分発福井行きの最終列車に乗り込んだ。客は結城たちだけだった。 「ぼくらだけだね」 「越前大野から、何人か乗るんじゃないか?」 結城たちの乗った列車は、定刻通りに九頭竜湖駅を発車した。駅舎の明かりが照らす範囲内を除けば、辺りは漆黒の闇の中である。街頭や、住宅の明かりのようなものは一切ない。人気もなく、何だが、夜遅い時間のようにも思えてしまう。結城はちらりと腕時計を見るが、まだ夜の6時30分を少し過ぎたばかりである。 先ほどよりも雨が強くなったように感じる。福井へ戻る1両きりの列車の窓ガラスに大粒の雨が打ち付けている。もと来た道を折り返し、30分ほどで越前大野駅に着いた。 「ナイル、ここで、15分停まるぞ」 「随分、停まるんだね」 到着は19時03分なのだが、発車は18分である。反対方面からやってくる列車とのすれ違いのためや、あるいは運転手や乗客のためのトイレ休憩も兼ねた長時間停車なのかもしれない。1両きりの列車ではあるが、トイレはついていた。しかし、壊れて使えなくなった時もあるかもしれない。そういう時の備えということなのだろうか? 乗ってくる客はいたものの、数人で、車内は変わらず、ガラガラだった。16分に福井方面からの列車がやってきた。そちらからは、多くの乗客が降りてきた。学生だけではなく、勤め人の姿もある。閑散としていたホームが賑やかになったが、それも一瞬のことで、降りてきた客は足早にホームの外へ去っていった。 途中駅で客の入れ替わりがなかったわけではないが、それでも、終点の福井駅まで車内がガラガラであることは変わりなかった。定刻の20時11分に列車は福井駅に到着した。福井駅では、多くの客が折り返し列車の到着を待っており、扉の前には長蛇の列ができていた。 (曲がりなりにも、都市と都市とを結んではいるから、廃線にするほど需要がないわけではない……のかな? 黒字路線ではなさそうだが) ロッカーに預けた荷物を引き取り、駅前に出てみると、やはり雨。 「ナイル、夕飯はなんか適当に買って済ませるけど、いいよな?」 「別にいいよ」 ホテルに行く前に、牛丼屋によって、テイクアウトで本日の夕飯を購入した。店内で食べてしまってもよかったのだが、カバンを置けそうな場所がなかったのである。 午後8時30分過ぎにホテルにチェックインした。ホテルそのものは、駅のすぐ近くなので、もし仮に明日雨だったとしても、駅までの移動はさほど苦ではないだろう。 最終章 結局、最後まで雨だった ホテルの部屋に落ち着くと、先ほど買ってきた夕飯を食べ始めた。ホテルはビジネスホテルなので、特に変わった設備があるわけではない。ダブルベッドに書きもの机、湯沸かし器や、テレビ、電話機などが置かれていた。トイレとお風呂は一つの部屋にコンパクトにまとめられていた。 「そういえば、ナイル。このホテルは大浴場があるそうだぞ。オレは明日の朝に入るけど、お前はどうする?」 「じゃあ、ぼくも明日でいいや」 書きもの机の上には、ホテルの案内や、火事の時の避難経路を記したものが置かれている。さらに、ペイチャンネルの案内までおかれている。 (ふ~ん、映画かあ。え……) 「何だよ、ナイル。見たいのかよ、それ」 夕飯を食べながら、結城が言葉をぶつける。 「えろドラゴンめ。まあ、いいや、見たきゃ見ろよ。その代わり音量は下げてくれよ」 ペイチャンネルとは、ビジネスホテルによくある退屈しのぎの有料コンテンツである。通常は、販売機でカードを買ってみることになる。2つ折りになっていて、外は普通の映画の案内だが、中はお子様には刺激が強すぎる性的な番組のお知らせであることも珍しくない。 「エレベーターホールのところに販売機があったろ? 千円札、置いておくから、見たきゃ見ていいぞ。オレは興味ないから」 ナイルが見ていたお知らせには「むちむちポケモン特集」という何ともいやらしい文言が並んでいる。ラプラス、ヌメルゴン、オンバーンその他「むちむち」としていそうな外見のポケモンたちがご奉仕してくれる、という番組らしい。確かにナイルにとっては気になるのかもしれない。 結城は夕飯を食べ終わると、持参した缶ビールと、つまみで晩酌をしていた。アルコールを摂取することで寝付きやすくするのだという。 「じゃあ、ナイル。オレはもう寝るから」 結城は晩酌を済ませると、寝床に入り、モーニングコールをセットした。 「あ、うん、おやすみ」 「千円札、置いといたからな、見るなら見ていいぞ、えろ番組。その時は音量は下げてな」 「あー、はいはい。分かったよ」 結城は眠ってしまった。 翌朝、モーニングコールで結城は目を覚ます。 「う~ん……うるさいなぁ……」 続いて、もぞもぞとナイルが起き上がった。 「おはよう、ナイル。なんかシーツ濡れてないか?」 「えっ、ええ? 寝汗じゃないの?」 「まあ、そうか?」 だが、机の上を見ると、例の千円札がなくなっている。結城は「あ、さては見たな」と思ったが、あえて何も言わないことにした。 実際、ポケモンと同居していると、楽しいのだけれども、面倒なことも出てくる。性欲をどう処理してやるかというのも、場合よっては直面する問題である。強制的にご奉仕させられるくらいなら、こういうので解消してもらった方が結城としては助かるのである。 「ナイル、大浴場に行ってこようか」 「そうしようか」 朝早いこともあってか、大浴場には誰もいなかった。体を洗って、昨日の汚れを落としたのち、湯につかる。風呂に入っているだけ、といえばそれまでなのだが、足を延ばしても、湯船に足がつかない大きな浴槽で湯につかるというのは、何とも贅沢な気分にさせてくれる。 朝風呂を済ませると、次は、お待ちかねの食事タイムである。と、いってもいつものビジネスホテルの朝食で、食べ放題という以外には特に変わったものでもない。 (ふ~ん、福井県産のお米を使った御飯か……) お米以外にも、豊かな漁場である日本海に面しているからだろうか、地元産の海産物を使ったメニューもある。結城は、朝はパンを食べることが多いのだが、今日はご飯にした。 御飯に納豆、味噌汁に焼き魚を取ると、席に着いた。食堂に設置されているテレビでは、朝のニュースが流されている。この夏は、とにかく天候不順で雨が多かった。九州では、大雨に町中が浸水するという被害に見舞われている。 続いて、福井県を含めた北陸のローカルニュースである。やはり、と思っていたが、時間を割いて放送されたのは雨のことである。 「県内各地に大雨警報が出ています……」 なんと、福井県全域とお隣の岐阜県の飛騨高山で大雨警報が出ているという。 「ねえ、ご主人。今日の新幹線で帰るんでしょ?」 「ああ」 結城たちは、今日の昼の新幹線で、今度は金沢から出ている北陸新幹線で東京に戻る予定であった。 「無事に新幹線が動いてくれるかな……」 「そればっかりは、何とも言えないな……。今の段階では、運休するようなことはないようだけど……。別に明日予定があるわけではないし、2時間以上遅れたら、特急料金は帰ってくるからな」 味噌汁を飲み、横目で外を見ると、大粒の雨が降っている。やはり、今日も雨、なのだ。 おわり <あとがき> 随分、また完成に時間がかかりました。5ヶ月くらいかかったかな。ちゃんと毎日毎日ちょっとずつでも進めていれば、3ヶ月くらいで書き終わったかと思うのですが……。 今回は、図らずも(?)敗者にスポットを当てた旅となりました。まあ、Wikiでもバトルや戦闘モノという作品はありますけど、どうしても勝者に目が行きがちですよね? そういう意味では書いていくうえで勉強になりました。 と、いうのも、敗者といっても、勝家にしろ、義景にしろ、ただのかませ犬や三下ではなかったわけですから、どのような扱いといいますか、ただ「負けてしまいました」だけで終わらせない書き方をしなければなかったわけです、はい。 それでは、皆様、縁があればまたどこかでお会いしましょう。 2020年2月18日 呂蒙 子明 #pcomment