*融和-とけなごみ つながりの諧調 ―― Link the Heart [#jef7480d] はじめに: [[初心>初心-ういごころ-]]の続編です。世界観と登場人物の状態を引き継いでおりますので、お暇があればお読みくださいませ。 作者注: &color(red){生々しい表現が含まれます。グロ注意。}; 作者の不純な妄想が含まれます。この一文で不快感を催された方はブラウザバックをおすすめします。 オッケーな方はどうぞお進みください。 RIGHT:Writer: [[水鏡 &size(11){@glace1surf};>https://twitter.com/i/moments/816142087070445568]] RIGHT:Writer: [[水鏡 &size(11){@GlaceonJ};>https://twitter.com/glaceonj]] ---- |CENTER:[[&size(9){<前}; 初心-ういごころ->初心-ういごころ-]]|CENTER:融和-とけなごみ-&br;[[AfterStory 心機-きっかけ->心機-きっかけ-]]| -融和-とけなごみ- --[[Day 0x>#sec00]] --[[Day 01>#sec01]] --[[Day 02>#sec02]] --[[Day 03>#sec03]] ---- **Day 0x&color(white,white){30}; [#sec00] 机の上に電灯が見える。暗い室内には、まとめられた書類がそこかしこに山を作る。壁際には本棚が所狭しと並べられ、それぞれに紙を綴じたバインダが詰まっている。 そこは、資料室だった。幾匹もの種族、名前、トレーナーの情報が一箇所にまとめられた場所。 出入り口が開く。男性が入ってきて、明かりをつける。もう一人、若い女性が続く。 「PPなし、だ」 男性の声が聞こえる。 「ええ」 女性の小さな声が相槌を打った。 「この子をどう考えるか。この発見は、歴史に名を残すぞ」 「でも院長、他の街との連絡は、控えたほうがいいのでは……」 「私もそう思っていたところだ」 紙をめくる音。院長と呼ばれた男性が、一枚のカルテを手に取った。 そう、ここはポケモンセンター。怪我や病気など、医療関係のサービスを受け持つ。そしてその資料室となれば、これまで診療した膨大な記録が残されている。 照明に照らされたカルテの文字が光る。“ユウ/エーフィ・性別: 牝”。 「かつての常識を根本的に覆す事象だ。ポケモンは、本当にまだ謎が多い」 「技の定義を、もう一度見直す必要がありそうですね」 「うむ……いや、もしくは、別の場所で存在しているのか」 「&ruby(P){パワー};&ruby(P){ポイント};の定義も見直すべきですか?」 「ああ、そのようだ」 男性が別の冊子を拾いあげる。 静かになった室内に、ページを送る乾いた音が響いた。 「これだ」 一箇所の部分を指差す。女性が覗き込んだ先の一文には、“ポケモンが持つエネルギーの概念”と書かれていた。 「とりわけ、技を繰り出す際に消費する、生命の活動エネルギーと似たような……?」 首を傾げる女性に、男性が割って入る。 「私たちは食事を摂ることで活動している。糖や脂肪など形はさまざまだ」 「はあ」 「ポケモンの体内にも、技を出すときに消費されるエネルギーが見つかったのだよ。もっとも、&ruby(タイプ){属性};によって物質が違うのだがね」 「&ruby(エスパー){超};属性に分類されるはずのユウちゃんには……」 「そう、あるべきものが見つからない」 技は出ないし、増減も測れない、と男性は続ける。 「集中したときに、精神をある程度の興奮状態に持っていけば、不思議な現象が起こりうる、というのが定説だ。が、しかし……困ったものだ」 「その状態で生み出されたものが『技』、その際に消費されたエネルギー量が『パワーポイント』……ですか」 「そう。あの子に足りないとは思えない」 「ユウちゃんは、そのエネルギーとやらを使わずに技を出している、ということでしょうか」 「このメモに従うと、その通り。まさか集中力まで足りないことはないだろう」 「……本当かなあ」 女性の小さなぼやきは聞こえなかったのだろうか。男性は、そのまま冊子を閉じた。もう一度カルテに目が移る。 「一度だけ、見せてもらおうとしたことがあるが……力の入りすぎで、目眩を起こしていたな」 「でも、いつまで経っても技が出せませんでしたよね」 「ああ。そのあと私が、力を込めないでやってみよう、と言ったかなあ」 男性が白髪の目立つ頭に手を添えた。 「実に不思議だ」 「私にとっても、初めての患者さんです」 重いため息を最後に、しばしの静寂が辺りを包む。表、裏、と紙を返す音が非常に大きく聞こえる。 「院長」 沈黙を破ったのは、女性の声だった。 「何だね」 「集中していないと、どうなりますか?」 「意識が向いていないことと同じだ」 「それって、ぼやぼや考えることと同じですよね」 「ああ。ぼおっとすると、君も眠くなるだろう」 「夢が見られる、無意識の世界ですからね」 たちどころに、男性の目が輝いた。 「無意識……? そうか、無意識か」 「集中しない、ってことですから」 「いや、君は凄い。その観点には感服だ」 「院長?」 「可能性はいくらでもある」 おもむろに、冊子とカルテが片付けられる。男性は満足した表情だった。 「何かひらめいたんですか?」 「うむ。君も見てみたいと思わないかね、孵化の瞬間を」 「……は?」 女性の体が、一瞬だけ凍りつく。男性の鋭い眼差しに動揺したのは明らかだった。 「さて、今日はもう遅いから、眠ったほうがいい」 「ま、待ってください、院長」 明かりが消された。男性が部屋を出たあとに、女性が急いでついて行く。 再び静けさを取り戻した室内。そこには、何の音もなかった。 **Day 01 [#sec01] 「話し合いといこうか」 一つのテーブルを挟んで、一人の人間と桃色の毛をもつポケモンが向かい合っていた。 「ユウ」 いつになく真剣な眼差しの人間は、ユウと呼ばれたポケモンから目を離さない。しかし、一方のユウは毛づくろいを始めており、興味がないようだ。 「……なんてやってもお前からはなんにも分かんないよなー」 頭を掻いて、大の字に寝転がってしまった。 彼、名前はヒロキ。自分のポケモン、ユウについて分からないことが多すぎるため、なんとか情報を引き出してみようとするのだが。 「当人は喋らないし、ポケモンセンターまで行っても『分からない』の一点張り」 はぁあ、と溜息をつくばかりである。 ヒロキは頭を巡らせる。気のいいセンター長のことだし、嘘をついているような素振りはない。三年の付き合い、これまで全く不自由したことはない。 技が出せたおかげかどうか。二週間に一度、月曜日に定期検査をやってもらっていたが、今後は月一回で良いそうだ。これまでどおり検査費は無料だ。 検査が無料。 そうだ。確かに、検査費を払った覚えがない。 病気をこじらせばいざ知らず、病気かどうか判定するにもお金がかかるものとばかり思っていた。 今まで意識せずに過ごしてきたせいか、気にする機会が少なくなった。 「……検査費無料、か」 街の一角にポスターで張り出してありそうな謳い文句を呟きながら、ヒロキは上体を起こした。 「なんで健診って呼ばないんだろうな」 テーブルを挟んで、ユウは瑠璃色の目を眠そうに細めている。 技の練習をしなくなったからと言って、家の中でごろごろと寛ぐのは体に悪いかもしれないな。 これ以上考えを進めるとユウに悪い気がすると思ったヒロキは、居間の中をぐるりと見渡す。 南を向いた大きな窓に、夏の日差しが照りつけている。この時期だけすだれを立てかけ、ツル科の植物を育てるのだが、日光を完全に防ぐには至っていない。標高が低くない立地条件に、冬の寒さを考慮しているのだとか。夏はけっこう暑い……この光量だと、外に出るのは気が引けるか。 北側の台所とこの部屋を隔てる扉はなく、開放的なつくりになっている。 ふと、東の壁にかかっている時計が目に留まる。ヒロキはお昼が近いことを知った。 「昼飯でも作ろうか」 ヒロキが立ち上がると、それを見たユウが彼の足にまとわりつく。 「おーし、待ってろよ」 日差しが降り注ぐ窓に、薄暗い陰が目立つ。ユウを取り巻くそれはゆっくりと、しかし確実に動き出していた。 ◇◆◇ 新しい仕事もなかなか慣れることに時間がかかる。フリーランスで請け負う成果型の案件を、ヒロキは着実にこなしていた。ノートパソコン一台あれば事足りるのだが、肩こりや精神的な疲れが気になるところだ。 時刻が午後五時を過ぎた頃、ヒロキは唐突に自覚する。そういえば、今日は検査日だった。 二週間のサイクルから変わってしまったことで、調子が狂っているのかもしれない。先月と同じくすっぽかすところだった。 「ユウ、センターに行くぞ」 ヒロキはユウと目を合わせた。一瞬の間があいた後、彼女はそっぽを向く。 それもそうだ。ユウがセンターに行く理由は無くなったも同然なのだ。 全身くまなく診られて、きちんとした結果を報告されているならまだしも。実は結果は嘘ハッタリで、必要もないのに『次回も来てください』と言われているのではなかろうか。 彼女は、ヒロキを、センターを疑っていた。 「先生との約束だからな」 しかしヒロキは譲らない。 彼は知りたかった。ユウが生まれたときから一緒に過ごしてきた彼は、『ユウに迫る不安は残らず振り払う』と心に決めていた。そのためには、原因を特定しなければならない。 素人の目で、分かる範囲では書物や文献をあさった。だが、専門家でさえも決定打が出せていない状況、うかつに動くことはできまい。 彼は、時間が解決してくれると踏んでいた。 「ユウ?」 ユウは相変わらずそっぽを向いたままだった。 「暑さで元気が削がれるのは分かるが……お前の体に何が起きているか、まだ把握できてないんだ」 ユウはヒロキへと横目を向ける。その仕草に、センター嫌いは変わらないな、とヒロキは苦笑した。 ヒロキは立ち上がって支度を始める。すると、むくれた様子で、しぶしぶとユウがついて来た。 「いい子だ」 ユウの頭を撫でたヒロキは、財布をポケットに入れて玄関へと進む。 扉を開けると、傾いた太陽が山の木々に遮られている。それでもまだ暑いことには変わりなかった。アスファルトは少なからず熱を持っているだろう。 日差しを避けながら歩くことに決めた。 ポケモンセンターの自動ドアをくぐると、ヒロキはジョーイに目線で射抜かれた気がした。 「ヒロキさん」 というのはただの比喩で、ヒロキを見つけたジョーイが、開口一番彼の名前を呼んだからだ。 「ゆ、ユウちゃんについて、ちょっとお話がありまして」 「あの、落ち着いて」 ジョーイは受付から飛び出すようにヒロキの元へやってきた。慌てた様子が目に余るヒロキは、なだめるように声をかける。 この時間帯は、センターに居座るお客さんも少ないようだ。壁の時計は五時一〇分を過ぎていた。 「ユウのお話、ですか?」 「ええ。ここではちょっと……奥に行きましょう」 「は、はあ」 受付は大丈夫なんですか? とヒロキは聞く。ジョーイは、大丈夫、と一言だけ返した。早足だったから、ヒロキもユウも急いでついて行く。 「おお」 すると、向かっている方向から聞き慣れた声が響く。男性のものだ。途端、ジョーイは受付のほうに戻って行った。 おや、と思って声をかける間もなく、ヒロキはジョーイを見送った。 白髪が目立つ、白衣姿の男性が歩いてきていた。このセンターの院長だ。 「ヒロキくんにユウちゃん、来ていたのかね」 「お久しぶりです」 ヒロキは、ジョーイの行動を一旦忘れて、院長に笑みを向けた。 「うちの受付担当と、ずいぶん仲良しじゃないか」 そんなやましいことは一切ない。ヒロキは咳払いをして言葉を紡ぐ。 「お世話になってます」 「いや、こちらこそ。今日は診察日だったかな」 最近物忘れが多くなって苦労するよ、と付け加えた院長は、白髪の混じる頭に右手を載せた。 「いえ、俺も忘れかけてましたし。診察日を変えるかたちになりましたから」 「そうかそうか。まあ、処置室においでなさい」 そう言い残すと、院長は奥へと向かって行く。 「ユウ、行こう」 ヒロキは院長の後を追った。 処置室には、窓際に一台のデスクと、ファイルが敷き詰められた本棚がある。 ユウは中央の診療台の上に居た。院長が一枚の紙を手にして診療台に近づいていく。入口の長椅子に座っていたヒロキも立ち上がり、ユウに近寄る。 「相変わらずだなあ。何が悪いのか」 院長から告げられた検査結果は、案の定というべきか、いつも通りだった。 「ヒロキくん、ユウちゃんを入院させてみないかね」 そして今度は、ヒロキにとって思いもよらない発言が聞こえてきた。 「はあ」 突飛な提案に、どう返答していいか分からない。ヒロキは目を丸くさせていた。 「大丈夫、お代はいただかないよ」 金銭面では優遇されていると思う。だが、そこが一番の疑問であった。ヒロキは今まで聞きたかったことを、院長にぶつけてみることにした。 「先生、お言葉ですが、聞きたいことが二つあります」 「ほう、何だね」 深呼吸して、言葉と心の整理をする。 「どうして、無料検査なんですか? 有料健診ではないんですか」 院長は、そんなことか、とでも言いたげな優しい顔をしていた。 「それには、私たちが『パワーポイント』と呼んでいるものの説明も交えるが、構わないかね?」 「手短に」 「パワーポイントとは、栄養みたいなものだ。怪我をしたとき、しっかり食べてゆっくり休むと治りが早くなるように、パワーポイントも同じく摂取することによって回復する」 院長が曰く、血液検査で栄養摂取量やそれぞれの臓器の状態が分かるように、ポケモンの場合は技を出すときに必要な要素も分かるらしい。時間が少なく済み、経費もゼロに近いのだそうだ。 完璧にゼロではなく、ゼロに近いと表現されたことに、ヒロキはさらなる疑問を抱く。 「そんなに安く済むのですか」 「うむ。人間の血液検査より、ポケモンの体液検査のほうが簡単なのだよ」 院長は、待っていなさい、と言い残し、窓際の本棚へ歩く。 戻ってきた右手には、一つのバインダが握られていた。おそらく、これまでの診療記録を残しているものに違いない。 「私はお代をいただかない主義なのでね」 あまり他人には見せられないが、と言ってバインダを開き、ページの一つを取り外す。どうやら領収書控えの一部のようだ。 ヒロキが目にした内訳には“初診料”や“処置料”、“投薬料”などなど。しかし、合計点数には“〇点”の文字が印字されていた。 名前欄は、院長の手で隠れて見えなかった。 「薬を処方しても……?」 「まあ、ポケモンに対してはこんなものだ。人間の診療は話が違うがね」 今度はどうしてポケモンだけ簡単なのか、という疑問が浮かんでくるが、ヒロキの口からは出てこなかった。 「それで、聞きたいことはもう一つあるのかね」 バインダを本棚に戻してきた院長が、ヒロキに質問を促す。 「えっと……そうだ、なぜ通院の期間を長くしておいて、今になって入院の提案なんですか? 週に一度、なんて対策でなく」 「うむ、気分だ」 え、と声を漏らしたヒロキに、院長は片目をつぶってみせる。 「気分?」 「もしかしたら、と思っただけだよ。二日ほど泊まり込んで辛抱すれば、何か分かるかもしれん。まあ、冗談だ」 なんだそりゃ、とヒロキは頭を抱える。 院長は、笑っていた。 「まあ、急ぐこともないだろう。だが、このまま何も進展が無ければ、君たちには申し訳が立たない」 申し訳が立たない、と言っている割に、院長の目は笑っていた。 「……何も、分かりそうにないんですか」 「そうだね、パワーポイントを持たないのに技が出せる新しいポケモン、ということが分かったよ」 結局何も分かってないのか、とヒロキは内心で毒づく。 「また来月、お願いします」 「うむ、ではそのように」 院長は、お大事にと一言ねぎらったあと、受付へと促す。 ヒロキは、歩きながら考えごとをしていた。専門家に頼ってみると決めていても、ここまで時間を費やして、それでも何も分からないのは不思議だ。 ユウは、今まで技が出せなかった。それももう二ヶ月も前のこと。 今では扉の開け閉めも、のどが渇いた時の水汲みも。さらには、あろうことか玄関の鍵が知らぬ間に開いていたこともある。いつの間に覚えたんだよとツッコミを入れてやりたいくらいに、器用な子だ。現場に居合わせたら、『それはだめ』と怒らずに『よくできた』と褒めてやりたいほど。 そろそろ何か、手がかりの一つくらい掴めても良い頃合いではないだろうか。 押して駄目なら引いてみるの精神で、手詰まりの時には、道のりを振り返って修正していく方法が良いだろう。ありきたりだが、八方塞がりな今、そうする他に道がない。 受付に顔を出すと、ジョーイは少し困ったような顔をしていた。例によって、ジョーイがヒロキを見つけると、急いで駆け寄ってきた。 「あの、さっきは――」 ヒロキが口を開きかけると、ジョーイは“静かに”の仕草をした。そして、三枚ほどの折りたたまれた紙を差し出した。 恐らく黙って受け取れ、ということなのだろうと思ったヒロキは、目配せをしてそれをポケットにしまう。 「ありがとうございました」 事務的な挨拶だった。 「お……お世話になりました」 こちらのやり取りを不思議そうに見ているおじいさんの横を通り過ぎ、センターをあとにした。帰ったらとりあえず、この手紙を読んでみよう、とヒロキは思う。 このとき、センターで何が起きているか、ヒロキには見当がつかなかった。 ◇◆◇ 手紙は、かなり急いで書いたのだろう、ジョーイの走り書きが記されていた。それでも判読に難はない。ところどころ言葉がおかしな部分はあったが、それを正しく当てはめると、こんなことが書いてあった。 単刀直入に要件を書きます。 院長を止めてください。 止めるべき行為の幾つかを、この紙に記しました。 センターは平屋建てですが、地下室があり、 そこには培養液に満たされたカプセルがあります。 室内の広さは二十坪くらい、カプセルは四つ、 規模はあまり大きくありません。 それぞれに一つのポケモンが入れられています。彼らは、 ユウちゃんの分身です。 「なんじゃこりゃ」 ヒロキが声を上げると、近くに居たユウが何事かと反応する。 そろそろ本格的な夕焼けになってくる時間帯だった。時刻は午後六時半だった。 手紙の内容が不思議すぎて、ヒロキは混乱してくる。 一枚目はこれで終わっていた。とりあえず、二枚目を読むことにする。 院長は、実験をおこなっています。 もう一匹のユウちゃんを誕生させようと目論んでいます。 これまで何匹も試され、何匹も失敗し、孵らないタマゴも―― ダイレクトに想像してしまったヒロキは、一度目を離す。 “実験”なんてレベルを超えている。ただの虐待じゃないか。 深呼吸して心を落ち着かせ、もう一度手紙に戻る。 孵らないタマゴも数えられないほどできてしまっています。 院長を止めてください。 これ以上、犠牲を増やすのは、やめさせてください。 私も精一杯援護します。 ただし、院長だけならともかく、培養槽の中に居る ポケモンたちは、私たちを襲わないとは約束できません。 ヒロキさんの力を借りたいのです。 まさか、あの院長が、そんな莫迦な。ヒロキには否定したい気持ちが渦巻いていたが、この手紙のとおりだと、命を投げ捨てるような実験がおこなわれている、ということだ。 しかも、直々にヒロキをご指名だ。と表現するより、今回の当事者はユウではないか。二匹目のユウ、なんて、想像するだけで食費がかさむ。それには勘弁願いたい。 三枚目を開けてみる。どうやら簡単な見取り図のようだった。 一枚の中に“1F”と“BF”の文字が書かれ、四角い枠で囲まれている。 いつも案内される処置室の反対側に、受付を挟んでもう一つ通路があり、その途中に階段らしき表記がある。“BFへ”と書かれていた。 &ref(センター見取り図.png); 「これで攻め込んでどうにかしてください、ってことか」 センターは午前六時頃から、夜は午後一一時まで開いていたはずだ。深夜は緊急外来の受付だけに限られる。 ユウが、ヒロキの傍に寄ってくる。考え込んでいる姿を心配されたようだ。 「知らない間に家族が増えてるってよ」 ユウの背中を撫でながら、院長を思い返す。 献身的な対応は丁寧で、逆に驚かされていた。&ruby(ただ){無料};ほど高いものはない、とはよく言ったものだが、院長に対して少し盲目になっていたか。 手紙の通りだと仮定すれば、ジョーイは犠牲を増やすことをやめさせてほしいと訴えている。倫理に反する行為を阻止するのだ。 だが、相手は今までお世話になってきたセンター長だ。簡単に『はいそうですか』と拳を作ることには違和感を覚える。 そして、手紙に書かれている“ユウの分身”。入院を勧められたのは今日が初めてだが、ユウが子を産むなんて考えたことはない。 ――子を産む、なんて莫迦莫迦しい。そんな目的で他のポケモンに接触させたことはない。我ながら変な方向に思考を働かせてしまった。たとえばユウのあられもない姿を想像してしまうとか、そんな妄想のかけらを掴んだことは断じて否定する。 浮ついた考えを沈めて、手紙の内容に戻ってみると、一つ不可解なことがある。 どうやってユウの分身を発生させるか。ただカプセルを用意しただけで新しい命が生まれるなんて、そんな甘いことはないだろう。 一般教養をこなしたヒロキでも、子に対して親となる遺伝子が二つ必要なことくらい分かる。 だが、どうやって。 そもそも、もう一匹のユウを誕生させることに何の意味があるのだろうか。 「……分かんねえや」 ひと通り頭を巡らせてみたが、必死に阻止すべきだという衝動に駆られるわけでもない。その前に、院長の目指す目的が分からない、といったところだろうか。 一つだけ確かなのは、倫理に反していることだ。望まれない命は増やすべきではない。 ふと気づいてみれば、ユウは玄関のほうに歩いて行っている。何やら警戒しているらしく、大きな耳をピンとそばだたせている。 ◇◆◇ 誰かが居る。ユウはこの家の周りをうろついているであろう存在を察知していた。ときおり爪で土を掻く音が聞こえる。 ヒロキが『分かんねえや』と呟いているのを聞き流し、玄関へ足を運ぶ。 忍び足で偵察するのだから、相手に気づかれないうちに目的を達成したいはずだ。 静かな足音は、行ったり来たりを繰り返している。玄関を挟んで右に左に。 ある瞬間から、音が止んだ。玄関の目の前だ。当りをつけたのだろうか。 空気の流れが動いたことが分かった。ヒロキは隣に来ている。 「何か居るのか?」 耳打ちにも満たない小さな声で、ヒロキが聞く。確かめるべく、ユウは玄関扉に向けて念じる。 取っ手を捻り、押す。 そろりと開いていく扉の先には、やはり“何か”が居た。葉っぱの形をした耳に、栗色の目――。 「誰だ」 ヒロキの声がいやに大きく響いたから、ユウは少しばかり身を縮める。びっくりした、というのが本音だ。 「何しに来た」 ヒロキと居ると、話ができない。そう思ったユウは、玄関の外へと出ることに決めた。 「おい、ユウ」 どこへ行くんだ、とでも聞こえてきそうだった。 ユウはヒロキに振り返って、その目を見つめる。抜け駆けしようなんて少しも思っていない。 短い一瞬に大きな思いを馳せた後、玄関をくぐって、外に出た。 ヒロキは何も言わなかった。 ∵∴∵ 「あなたは?」 ユウは初めて見る生物に興味が湧いていた。 不思議なことに、額と両耳に緑の葉っぱを身につけている。いや、体の一部が葉っぱだった。前脚の付け根にも生えているし、なんだか奇妙だった。茂みに隠れられたら見逃してしまうかもしれない。不思議なのは、相手の呼吸が妙に長く、深い。 夕焼けが遠のいて暗くなりかけた空に、月が浮かんでいた。 「追いかけて、きた」 ユウは首を傾げた。聞きたいことと違う。 「ええと……なんて呼べばいい?」 「そ、それより、君は、ユウ……」 相手はユウの名を呼び、倒れた。 「ちょっと……っ!」 見ると、腹部から血が滲んでいる。焼けただれた痕跡もあり、炎に炙られたようだ。傷の面積は広い。 ユウは彼の下にもぐり込み、念を操って背中に載せ、急いで家の中へと戻った。 予想以上に軽かったのは、気のせいではなかった。 ◇◆◇ 「傷は深い……かなり手痛い牙をもらったみたいだな」 動脈は貫かれていないと診るべきだ。出血は少なくないだろうが、もし大事となると、無事では済まない。 残るは内臓、骨格への影響だ。臓器の機能不全が起こらなければいいのだが。 幸いにも、炎をまとった攻撃だったのか、膿はない。だが、毛が焼け落ちて皮膚が覗き、水ぶくれを起こしている。ただれた部分は元に戻るだろうか。ヒロキは壊死してしまった皮膚をピンセットで取り除き、その上から炎症止めを期待して、チーゴとオボン、ヨモギの粉末を塗る。 「ユウ、風呂桶に水を入れて、氷と一緒に持ってきてくれ。なるべく多く頼む」 あとは冷やすだけで充分だろう。この痩せ方から、倒れた原因は空腹とこの火傷のダメージと見て取れる。少なくとも五日は食べれていないはずだ。 心配そうにヒロキの処置を見ていたユウだが、冷凍庫の前まで進み、大きな氷を引っ張り出してきてくれた。 その間に、ヒロキはラップに消毒を施し、患部に貼り付ける。 ユウが風呂場から戻ってくると、なみなみと水が注がれた風呂桶を浮かせて持ってきてくれた。 「ありがとう。よくできたな」 タオルを水に浸し、絞る。ラップを敷いた患部の上から、そのタオルを押し当てた。 「何かと思えば……とんだ行き倒れが居たもんだな。ユウ、このタオルを優しく押さえててくれ」 土埃にまみれ、その体は痛々しいほどの傷を負い、さらに痩せ細っている。過酷な環境だったのだろう。 ヒロキはユウに治療を任せ、タオルを追加することにした。洗面台に行けば、五、六枚は用意できる。 あとは氷の使い方だ。風呂桶は一つしかない。火傷には流水が一番だと聞くが、氷そのものを押し当てるのはまずいだろう、とヒロキは思案する。 居間に戻り、風呂桶を持って台所へ。その水を少量捨てる。これで氷が入っても溢れない。ついでに持ってきたタオルも全部放り込む。 「サンキュ、ユウ」 準備は整った。タオルを交代させながら患部を冷やすだけで問題はないはずだ。ヒロキができることは……残りは食事を作ることだけである。できれば瀕死から帰還させてやりたい。 ヒロキは手を貸してもらっているユウのもとへと戻る。控えのタオルを絞り、おそらく念力を使って押さえていたのだろうユウのタオルを掴み、交換する。 「いいぞ、ユウ。やり方はわかるか?」 ヒロキの問いかけは、タオルを絞って交換すること、そのタイミングは温まってきたら、という二つが目標だ。しかし、ユウは首を傾げている。 「タオルを触ってみろ」 ユウは右前肢で、患部のタオルと風呂桶のタオルを触る。もちろん冷たいのは後者だ。 「これで、ここを冷ますんだ。温まってきたら交換するんだ。絞るのを忘れないようにな」 ユウは頷いた。物分りがよくて本当に助かる。 「じゃ、やってみ」 ヒロキの合図で、風呂桶のタオルが一枚浮かび、絞られる。ユウが患部のタオルを右前肢で触れたあと、二枚は交換された。 「ナイス、ユウ。俺は晩飯の支度をしてくるからな」 ユウの頭を撫で、ヒロキは台所に向かう。 ◇◆◇ 時刻は午後九時を回った。 ヒロキとユウは交代で夕食を食べ、付きっきりで治療に専念した。 その治療が功を奏したのかはわからないが、彼がとうとう目を覚ましたのだ。 「ここは……うっ」 「動かないで。主人に言わせると、あなた、かなり痛い思いをしたみたいだから」 警戒するような目つきで、しかし弱々しくユウを見つめてくる視線に、ユウは微笑みで返した。 「あんた……ユウ」 「よく知ってるわね」 ユウはヒロキに向かって一声鳴いたあと、台所の冷凍庫へ向かって歩き出す。確かオレンの実を粉砕して、それを丸めて作った飴を保管していたはずだ。作ったのはもちろんヒロキだが。 ユウの鳴き声にヒロキも気づいたのか、彼へと近寄っている。 「や、やめて、来ないで」 悲痛な声が聞こえた。彼のものだ。 飴状の丸っこいものが入ったトレーを取り出し、冷凍庫の扉を急いで閉める。ユウはヒロキと彼の間に割って入った。トレーは彼の傍に置いておこう。 「どうしたの、私の主人が何かした?」 「い、いや……人間、嫌い」 ヒロキは今すぐにでもセンターへ行ったほうがいいと言う。しかし、それを聞いた彼の顔は恐怖に歪んだ。 「嫌だ」 ヒロキと言葉を交わせないことに、これほどまで苦悩したことが今まであっただろうか。ユウはヒロキの足に尻尾を巻きつけ、台所へと誘導した。 ∵∴∵ 「どうしたんだよ、ユウ」 彼の口調から察するに、恐怖の対象は人間とセンターだ。 ヒロキを近づけなくすることで、人間から遠ざけることができる。センターへの強行阻止も、同時に達成できるはずだ。ユウが治療に専念していれば、ヒロキも自ずと気づいてくれるだろう。 ユウはヒロキを睨みつけて、居間へ居る彼へと戻ろうとした。 「ちょっと、ユウ」 空気が動いた。ヒロキはこちらに来ようとしている。 ユウは小さな念波を帯状に飛ばした。 「うわっ」 尻餅をついたヒロキを、ユウはもう一度睨みつける。 「わかったよ……でも、センターに連れて行かなきゃ、ちゃんとした治療は受けられないぞ」 ユウは首を横に振る。彼は望んでいないのだ。 「まったく、センター嫌いもここまでくると……待て」 何かに気づいたのだろうか、ヒロキははっとした表情を見せる。 「あいつ、センターが嫌だって?」 ユウは頷く。わかってもらえてよかった。 ヒロキは、ユウともう一方を交互に見ている。視線の先には、おそらく彼が居るであろうことが窺えた。 「……まさか、な」 ヒロキが何を言おうとしているのか、ユウにはわからなかった。 「そんな不思議そうな顔をするな。大丈夫だ。あいつに飴をなめさせるんだろ?」 ユウは言われて思い出した。飴を持って行っただけで、彼には何もしていない。 急いで居間へと戻った。 ∵∴∵ 「……ユウ」 彼は今にも消え入りそうな声をしていた。 「それ、口に入れて」 不思議な顔をしてトレーを見つめる彼の腹部を、ユウはもう一度冷やし始めた。風呂桶の氷は、もうほとんど姿がない。 「な、何するの」 「黙って食べなさい。&ruby(て){前肢};が届かないの?」 ユウは飴玉を一つ取り出して、彼の口の前へと運ぶ。明るい橙色の飴玉は、空気中の湿度を結露させながら、冷気をまとっている。彼は訝しげな表情をしたけれど、そのまま食べてくれた。 こんなとき、念を操ることができるようになったのは本当に便利だと痛感する。 「オレンの味だ……冷たくておいしい。すぐ溶けちゃうね。中は……固い、氷? でも溶けると柔らかい」 「木の実があればお腹も膨れるでしょうけど、今はそれしかないの」 はい、とユウはもう一度飴玉を彼の口元に運ぶ。 飴玉みたいな形をしているが、中身は粉で、飴の層は薄い。ヒロキが曰く、木の実が四つ、五つくらいでやっと飴玉一つになるそうだ。だからといって飴玉一つでそれだけの効力があるかと言うと、そうではないらしい。ユウにはよくわからないが。 でも、木の実はすぐ腐り始めてしまう。果汁を抜いて、繊維を粉砕して粉にしておけば、数日しか保たない木の実を数カ月保存することができるとヒロキは言う。果汁に砂糖を加え、飴状に煮詰めて薄く伸ばし、その中に片栗粉と実の粉末と湯を混ぜたものを入れ、丸めるそうだ。 人間の知恵はよくわからない。たとえユウの主人であっても、なんでもできてしまうような気がしてならない。 「もう一個ちょうだい」 心なしか、彼の声音も元気になってきたような気がする。ユウは温かくなったタオルを交換しながら、彼の口に飴玉を運んだ。 「お腹、冷たくない?」 口に含む前に、彼は答えた。 「お腹の感覚、もう無いんだ。周りはひりひりする……でも、冷たくて気持ちいい」 火傷はチーゴの実を食べてりゃ治る、というのは古い考え方だ、とヒロキは言っていた。結局、治すのは自分自身、人間もポケモンも変わりない。確かにチーゴには解熱、炎症止めの効果があるらしいが、生物本来の能力を高めるだけだそうだ。 ただれていた部分のことだろうか、彼は感覚が無いと言った。よほどひどい傷であろうことが察するに有り余る。ひりひりしなくなるまで、冷やす作業は続けなければならない。 「ユウ? もう一個」 彼の声に、ユウは一つの疑問を抱く。飴を取り出しながら、彼に尋ねてみることにした。 「私の名前を?」 「知ってるよ。世にも不思議なエーフィ、とは君のこと」 「なにそれ。意味わかんない」 持っていこうとした飴玉を、宙に浮かせて静止させる。動いた彼の左前肢が届きそうだったから、離してやった。彼の前肢は宙を掻く。 「あぅぅ」 物欲しそうな目をして、飴玉とユウを交互に見る彼。可愛い。 「どういうこと? 私の何を知ってるの?」 「……おなかすいた」 「はいはい」 仕方がないので、お預けにしておいた飴玉を食べさせた。 綻ぶ頬が可愛らしい。彼は少しの間咀嚼して、飲み込んだ。 「僕は、センターから逃げてきたんだ」 なるほど、あれほどセンターを嫌がることに、ユウは納得がいった。 「それで?」 「見かけた君たちを追いかけてる途中に、ヘルガーにやられて……なんとか助かったみたい」 ありがとう、と照れながら言う彼。やはり可愛い。 「それはどうも。主人にもお礼を言って」 「あ、あの人間?」 「人間ね。でも主人にはちゃんと、ヒロキって名前があるから」 「……僕のこと、助けてくれたんだ」 人間もセンターも、両方嫌いとなると、彼がこの先無事で居られるかどうか、ユウは不安に思う。 ユウは患部のタオルを交換する。温まる時間間隔はだいぶ長くなってきた。 彼は遠い目をしていた。 「で、私の何を知ってるの?」 「全部だよ」 彼の言いたいことがわからず、ユウは彼を見つめて固まった。 「……え?」 「ユウは技が出せない。それはもう過去のこと。週一回、センターに通院して検査を受けるも進展せず、その後会った一匹のポケモンをきっかけに……」 次々と紡ぎ出されるユウの過去。しかし、言葉の途中で彼は暗い顔をした。 彼の話す内容はすべて間違いがない。少しだけの驚きを覚えながら、ユウは口を開いた。 「全部合ってる」 「でしょ。院長の言葉を盗み聞きしたんだ」 「続きは?」 「……悲しくなるから言わない」 あれだけ明るくなり始めた彼の表情が、みるみるうちに悲しげなものに変わっていく。 「そう」 ユウは聞いているこちらが申し訳なく思い始めて、会話を止めた。お詫びの印とまではいかないが、彼にもう一個、オレンの飴を与える。在庫はあと三個だ。 「おいしい」 「よかった」 「話ふっ飛ばして要件だけ言うとね、もうセンターに行っちゃいけない」 「はぁ?」 今までの内容が嘘のように、彼の口から思いがけない一言が出たから、ユウは素っ頓狂な声を上げてしまった。当てていたタオルに神経が回らなくなり、絨毯に落ちてしまう。 「どういうこと?」 「僕は……ううん、僕たちは、ユウを目指して作られた個体。ポケモンという仮面をかぶった実験体」 次々と彼の口から出てくる単語の数々が信じられず、ユウは空いた口が塞がらなかった。 「センターは、僕とユウを探してる。この家だって安全じゃないかもしれない」 ふう、と彼が一息をついた。何を言い出すのかと思えば、この半身植物、ユウを恐怖に誘い込もうとしているのか。 「わ、私に何をしろと?」 「逃げて。できるだけ遠くへ」 彼の目がいっそう真剣なものになった。 「信じる証拠は?」 「センターの地下一階」 ユウは彼を見ていられなくなり、視線を外す。知らぬ間に呼吸が早くなってしまっていたようだ。 一度深呼吸をして、ユウは言葉を選ぶ。 「……な、何が起こってるの?」 彼も一つため息をつき、口を開いた。 「センターの地下一階には、カプセルが四つある。それぞれ、僕たちが入れそうな、そこそこ大きなものだ」 彼が曰く、要点はたった二つ。一つは、他の三匹を救い出したいこと。残るは、センターの実験を阻止すること、もしくは設備を破壊すること。 一方、注意すべきは、ユウも彼も、センターから狙われていることだ。追いかけ回された結果、彼は傷を負ってしまった。 これだけ言われて、ユウの頭の中は混乱してしまった。情報の処理が追いつかない。先ほど彼は、逃げてほしいとは言っていなかったか。 「わかった、わかったわ。ちょっと、落ち着きましょう」 ユウは少しの間目をつぶって、心を鎮める。視線を落とすと、絨毯にタオルが落ちていた。 タオルを交換して、再び彼の患部へと押し当てる。 「目標が、センターなのはわかったわ。私も怪しく思ってた」 ユウは自分に言い聞かせるようにつぶやき、彼と視線を合わせる。 「でもどうして? どうして、そんな実験が?」 「言ったでしょ。君は世にも不思議なエーフィだって」 彼の言葉に、ユウは目を見開く。 「まさか……私が変な体質持ってたから、あなたが、実験が」 「そうかもね。だからって、ユウが居なけりゃよかったってことはないさ」 今度こそ開いた口が塞がらず、ユウは何か言おうと思うのだが、言葉にまとまらない。ユウのせいだ。ユウのせいで、彼はこんな傷を負って。 ふつふつと湧き上がる自責の念に、彼から視線をそらさずにはいられなかった。目の前が真っ暗になるとは、まさにこのことか。 「生きててよかったって思えたんだ。外の空気を吸って、自然の恵に触れて、僕は進化できたんだ」 彼の声は生き生きとしていた。それがユウにとっての、唯一の救いだった。 「それに、ユウも、君の主人も、いい人だってわかった。ユウ、君の恩は絶対に忘れない」 辛うじて見ることができた彼の瞳は、燦然と輝いていた。 「……ありがとう」 ユウはこの一言を引っ張り出すことが精一杯だった。涙声になっていたかもしれない。 「泣かないでよ。ユウは笑ってる顔が似合ってるよ」 彼は、優しい笑みを見せてくれた。 せっかく打ち解けても、彼の名前を知らないのはいただけない。ユウは彼の名前を呼ぼうとして、まだ尋ねていなかったことを思い出した。 「あなた、名前は?」 「僕に名前はないよ。みんなからはリーフィアって呼ばれてる」 「そう……ありがとう、リーフィア」 「喋るとお腹減っちゃうね。もう一個ほしいな」 喜んで。ユウは彼に答えたあと、飴玉を運ぶ。在庫は残り二個になった。 「主人、呼んでくるわね」 彼は何も答えない。 ユウは、今知ってしまった事実をどのようにヒロキに伝えるか、頭を抱えていた。 時刻は午後一〇時を大きく過ぎていた。 ◇◆◇ ヒロキは台所で夜食を作っていた。もしかしたら、行き倒れを夜通し治療することになるかもしれない。あの様子から、固形物はうまく消化できないだろうと考えた。飲み込みやすく、かつ糖分と水分を摂取できるものが良いだろう。片栗粉と黒糖、牛乳を混ぜ、ゼリーよりも柔らかい雰囲気を目指して固めている最中だ。残念ながら、持ち合わせている薬効を期待できる植物はヨモギの粉末だけだ。 その時、ヒロキの足にユウの頭がぶつかった。 「おっと……ユウか」 ヒロキはコンロの火を止めて、床に座った。ユウと視線が合う。 「治療は大丈夫か?」 ユウは頷く。どうやら峠は超えたと見ていいだろう。 「よく頑張ってくれた。付きっきりで夜通しになるかと思ったが……俺たちの夜食は要らなかったか」 ユウは振り返って、彼を一瞥した。 ヒロキには一つ、思うところがあった。ユウと彼を見ていると、なんとなく似ているな、と感じる。体つきは四足歩行型のそれで、タレ目とは少し違う優しい眼差し、特徴的な大きめの耳、鼻先の長さから口元の形まで。 「そういえば、あいつ……」 ユウがヒロキに振り向く。ヒロキは、ジョーイの手紙が思い出されて、そのことばかりに集中力を削がれていた。 「センターの地下一階から、逃げてきたのか?」 ヒロキの言葉に、ユウは目を見開き、口が半開きになっている。なぜそれを、とでも言いたいのだろうか。 図星に間違いない。手がかりは少なかったが、確証が得られただけでも大きな一歩だ。だが、当たってほしくなかった予想だった。 「センターに行きたくないのも納得できるが……まさか、だったな」 ユウはうつむき、耳を伏せた。普段なら何に対しても冷静で真っ直ぐな彼女が、後ろ向きになるとは。だいたい、そんなときはセンターが関わっていることがほとんどだが。 「どうした? ユウ。そんなに深刻そうな顔して」 ユウは首を横に振る。おそらく、気にするなとの意思表示だろうが、そうは問屋が卸さない。 「大丈夫だって。なんとかしてやるさ。あんなひっどい火傷負わせるやつなんて、殴り込んでぶっ飛ばしてやりたいくらいだ」 ユウはヒロキを見据えた。ヒロキも、内心穏やかではない。生命倫理を疑う実験でさえ怒りを覚えるが、そのせっかくの生命を蔑ろにするなど言語道断である。 「センターの地下一階だ。ユウもついてきてくれるよな?」 ユウは大きく頷いた。ふたりの意思が一致した瞬間でもあった。 ヒロキは立ち上がり、用意していた氷水にフライパンを浮かべる。粗熱をとったあと、夜食を皿に移す。 居間に寝転んでいる痩せ細った彼を見ると、心なしか胸が痛んだ。 ヒロキが居間に戻ると、彼はこちらを警戒しながら見つめていた。 「いい目をしてるな」 先ほどの拒否感は、彼からは感じ取れない。おそらくユウが説得してくれたのだろう。 「俺はお前と仲良くしたい。長い間、食事ができなかったんだろ」 ヒロキはゼリーもどきのぷるぷるした夜食を彼の目の前に置く。黒糖の甘さとヨモギの苦さが苦手なら食べにくいかもしれないが、空腹は最高の調味料とも言う。 彼は皿に鼻を近づけ、匂いを窺っているようだが、一舐め、また一舐めして食べてくれた。 「それだけ食欲があれば、治りは早いだろう。その火傷だが……短く見積もっても二週間はかかりそうだな」 ラップで覆われた傷を、ヒロキは苦い顔で見つめる。見える範囲の壊死した皮膚は取り除いたが、毎日水で洗い流す方法が得策かもしれない。 聞きかじったり、書物に書いてあったり、ネットを通じたりして得た情報を元にしているが、所詮は素人判断だ。センターに頼れないことは大きな痛手だろう。 「そういえば、名前はなんて言うんだ?」 これに答えたのはユウだった。彼女は首を横に振る。そもそも、イエスかノーでしか答えられないのに、この質問は失敗だった、とヒロキは気づいた。 「ああそうか、あったとしてもわからないな……」 葉のような耳と尻尾が、彼を特徴づける。ヒロキは陰暦の呼び名の一つである、『葉月』が思い浮かんだ。文字で書くと分かりやすい。 「ハヅキ。ハヅキ、なんてどうだ?」 すると食事をやめて、ハヅキはヒロキを見る。瞬きを数回して、頬が綻んだことがわかった。 「よろしくな、ハヅキ」 ハヅキは一声鳴いた。その姿に似つかわしい、草の音色を奏でるような優しい声だった。 **Day 02 [#sec02] ハヅキが眠気を訴えてきたことは覚えている。それにつられて、ユウにも睡魔が襲ってきた。緊張の糸が切れたのだろう。 ユウが目を開くと、絨毯で寝息を立てるハヅキと、ソファに座りながら目をこするヒロキが見えた……あら、主人は起きているようだ。 昨晩は本当に色々あった。 急所である腹部に手痛い一撃を受けて、空腹を我慢しながら、それでもここまで歩いてきた。そんなハヅキは、ユウを元にした実験とやらの産物であるのだ。そして、普通なら恨まれても仕方ないユウのことを、認めてくれた。 一晩を眠った今でも信じられないが、できることなら、ハヅキの力になってやりたい。 ユウはあくびを一つつく。体を起こして、前肢で顔を洗った。 「ユウ。おはよう」 ヒロキの声が沈んでいた。意識せずとも彼のほうへと首が向く。きっと寝不足が原因だ。 「ハヅキを診てやってくれ。俺は夕方まで寝たい」 そう言うと、ヒロキは台所へと向かう。おそらく朝食の準備だろうと察したユウだが、ハヅキを任されると台所には行かれない。 ユウはヒロキを目で追いながら、ハヅキの傍へ近寄る。 ハヅキの寝顔を見つめると、安らかで、幸せそうだ。今まで充分な食料を得られなかったことを考えると、睡眠でさえ満足にできなかったに違いない。 そもそも、ハヅキが生み出された原因が、ユウ自身が存在していることにも……いや、やめよう。また自己嫌悪の悪循環に陥ってしまう。 すだれの隙間から差し込む朝の日差しが、彼を照らし出す。患部を見てみると、痛々しいただれはほとんどが塞がり、水ぶくれも治まっていた。赤い面積が小さくなり、浸出液は出てきていない。さらに、肌の色が見え始めている。 ヒロキは確か、二週間はかかると言っていたはずだ。この勢いだと、明日や明後日にでも完治が見えてくる。ヒロキの見積もり違いだろうか、それとも彼の回復力が凄まじいのか。どちらにしても、良いことには変わりない。 ユウがハヅキを見つめてしばらく経つと、ハヅキも目を覚ます。驚いて周りを見回しているが、ユウを見つけると落ち着いたようだ。 ∵∴∵ 「おはよう」 ハヅキはあくびを一つついて、ユウを見た。まだ寝ぼけ眼なのが見て取れ、ユウは無性にも、愛くるしいと思ってしまった。 「よく眠れた? ハヅキ」 「おかげさまで……まだ、その名前、慣れないな」 ユウの言葉に、ハヅキは照れくさそうに話す。 「じゃあもっと呼んであげる。ハヅキ、ハヅキ」 「うるさいな」 ハヅキも可愛い顔ができるではないか。ユウはおもしろ半分にハヅキをからかった。満更でもなさそうな彼の顔が、余計に悪戯心をくすぐる。 「何笑ってるのさ」 ハヅキの言葉に、ユウは自分の頬に右前肢を添える。知らない間に頬が緩んでいたようだ。それならいっそ、にやりと笑って言い返してやればいい。 「ふふん。可愛いな、ハヅキは」 「……ユウのバカ」 照れ隠しのようなハヅキの表情は、しかしどこか寂しげに見えた。 「それより、傷の具合はどう?」 「もう、動いても大丈夫じゃないかな。ヒロキ……だっけ。君の主人にもお礼を言わなきゃ」 「無理しちゃ駄目よ?」 「わかってるよそのくらい」 膨れ面を見せながら、ハヅキは起き上がる。前肢、後肢と筋を伸ばし、軽いステップを踏んだ。 台所からは、調理をするいい匂いが漂ってきていた。 ◇◆◇ 「いやしかし、驚いたな」 ヒロキはハヅキを見ながら感嘆の声を上げた。 水ぶくれができるほどの深い火傷なら、新陳代謝の関係で二週間の安静を見積もっていたが、ここまでの回復を見せられるとは思っていなかった。これならもうガーゼを当てているだけで治ってしまいそうだ。さすがはポケモン、不思議な生物だ。 ユウとハヅキの野菜炒めを調理しながら、ヒロキはハヅキの頭を撫でる。昨日の警戒心も嘘のように、解き放たれていた。 「よく頑張った。生還おめでとう。ユウも手伝ってくれてありがとうな」 二匹のにこやかな笑みを眺めていると、ヒロキの心も安らいでくる。昨晩はよく眠れなかったが、この二匹が居れば、しばらくは安心できるだろう。 もしハヅキを襲った何者かに追跡されていて、建物を特定されていたなら、家宅捜索待ったなし、なんて悪夢が現実になるかと思った。そういう意味では、この夜中に何も起きなかったのは幸いだった。 ヒロキは全員の朝食を皿に盛り、二匹のものは新聞を広げた絨毯へ、自分のものは居間のテーブルへと準備する。今朝はハムエッグとパンを選んだ。レタスがそろそろ無くなりそうだ。 「さあ、食べて」 ヒロキの言葉を皮切りに、二匹は口をつけた。ハヅキの食欲も上々だ。固形物が食べられるなら、手放しで完全快復を喜べる。 ヒロキの眠気はすぐそこまで迫ってきていた。朝食を摂ったあと、仮眠を取ることになるだろう。起きるのは夕方になりそうだ。 二匹を尻目に、ヒロキもパンを口に運んだ。 ◇◆◇ まず異変を感じたのはユウだった。 「ハヅキ?」 朝食を食べたあとのこと。ヒロキは『夕方まで寝る』と言って居間のソファに寝転び、起きる様子を見せない。 そんな中、ハヅキが表情を強張らせ、体を丸めているのだ。 「どうしたの、ハヅキ」 ユウが近寄ると、彼の呼吸は早く、体が震えていることが分かる。目が大きく開き、耳は伏せて、何かに怯えているように見えた。 「来ないで……」 「ハヅキ、私よ」 ユウは彼を落ち着かせようと、体をくっつけて頬を寄せる。二股の尻尾を囲ませれば、安心感を与えてあげられると思った。 「やだ、やだ……」 怯えの対象になっているものはわからない。ユウは黙って、彼の傍に居ることしかできなかった。 数分ほど経っただろうか。彼の呼吸はだんだんと落ち着いてきた。 「大丈夫?」 「きっと……」 震えが解け、こわばった表情は和らいできた。隣で見ていたユウ自身も不安に駆られそうになったが、安定してきたのでこれで大丈夫だろうという結論に至る。 「その……あ、ありがと、ユウ」 ハヅキが恥ずかしそうに話す姿に、ユウの悪戯心がまた刺激された。 「任せなさい。可愛いハヅキちゃんのためなら」 「ユウってば……」 ハヅキは、もはや怒る気力すら湧いてこない様子で、四肢を崩してリラックスするように投げ出した。 「ところで、さっきのは、どうしたの?」 「……怖いんだ。自分のことが」 ハヅキは神妙な顔つきになった。 「僕は、普通のポケモンじゃ、ないから」 ユウの心に、怒りと同時にやるせなさが湧いてくる。やっぱり技が出せない理由の通院という事実は名目上でしかなかったのだ。そして、ハヅキが生み出されてしまった。 再び、自己嫌悪の芽が出てくる。 「……ごめんね、ハヅキ」 謝るだけでは済まされないと思っても、ユウにできることはこれだけだった。 「ユウは悪くないさ。気にしないで。でも、さっきみたいな発作も起こることがあるから、何かあったときは……また、ユウに、よ、寄り添ってほしいな」 恥ずかしさとともに、憂いを湛えた眼差し。彼は、自分の境遇を理解しながらも、ユウを頼ろうとしているのだ。 ユウはハヅキの頬に擦り寄り、尻尾を一段と強く囲ませた。 「ねえユウ、君の主人って、どんな人?」 珍しくハヅキから言い出され、ユウは期待に答える気持ちが湧いた。 「そうね、周りにはよく振り回されるけど、芯は強く持つ、私に尽くしてくれた優しい人。『無茶だけはするな』てよく言われてきたわ」 ユウがヒロキを意識するようになったのは、まだ進化前のイーブイだった頃である。ヒロキが買ってきたわざマシンをきっかけにして、ユウの技の特訓が始まった。 わざマシン三〇、シャドーボール。属性が&ruby(ゴースト){霊};に分類される特殊攻撃技である。しかし、覚えたての技が発動されることはなかった。 木の実をターゲットにして技を出そうとするのだが、力が入る気配がない。いや、力を込めても、その要素が集まってこない、と表現すべきか。 「そしてとうとう、むしゃくしゃして尻尾で殴ったのよ。一番はじめは……モモンの実だったかな。それから、尻尾で打つのが癖になっちゃって。間合いもわかるようになったわ」 「そっか。でも痛くない? 僕の尻尾は鋭い刃になるけど」 「オレンの実は硬かった。めっちゃ痛かったのを覚えてる。でも慣れちゃって。地面を殴っても大丈夫よ。痛いけど」 「なんというか……慣れって怖いね」 「ふふっ……その様子なら、主人にも慣れた?」 「完璧ってわけじゃないけど、信用できる相手かな。恩人だし」 他愛もない話で、二匹の時間は過ぎていく。ユウはハヅキが過ごしてきた過去を知りたいとも思ったが、彼の言う『発作』が頭によぎり、切り出せなかった。 ◇◆◇ 時刻は午後二時を指していた。 「ねえユウ、お腹空かない?」 「空くけど、一食抜いても動けるし、私は気にしないかな。おっと……ハヅキは、そうよね。もっと食べたいわよね」 ハヅキに寄り添いながら、ユウは居間で寛いでいた。会話がなくなっても、傍に居るだけで心持ちが上向いてくる。不思議なこともあるものだ。 そんな彼は、一日経った今でこそ元気に振る舞っているが、痩せていることには変わりない。せめて肋骨くらいは目立たなくなるような肉付きでないと、耐久力なんて薄っぺらいものだろう。 「力が入らなくって」 ユウがソファを見やると、安らかな寝息を立てているヒロキが居る。 「うーん、そうね。なんなら、主人を起こしてご飯作ってもらう? それとも、外に出て、木の実を採る?」 ハヅキは考え込む様子を見せた。しかし、答えはすぐに出てきた。 「ユウと一緒なら、外に出よう」 「そう。じゃあ出発ね」 傷は大丈夫? と、ユウはもう一度問いかける。その言葉に、ハヅキは不機嫌になって、早口でまくし立てた。 「大丈夫じゃなかったらこんなこと言わないさ」 「わかった、わかった」 ほら、行こうと誘うハヅキ。言い出しっぺのユウは苦笑いを抑えきれないまま、玄関の扉を開けた。 ハヅキが昨晩に襲われたことを、ユウは完全に失念していた。 「暑い」 外に出た印象はまさしくこの一言に尽きる。ユウは刺すような日差しの応酬に怯んだ。 部屋の中は外気温と等しく、高地のこの場所は若干涼しく感じるのだが、日光だけはどうにもならない。 「ほら、ユウ早く行こう」 一方のハヅキは、太陽の恵みを浴びて生き生きとして見える。 ユウも日差しは嫌いではないが、朝に差し込む柔らかい陽のほうが好みである。 「はいはい」 家の目の前は芝生だが、すぐ傍のアスファルトを横切らなければならない。ユウはハヅキに、火傷しないよう一言添える。 だが、その忠告に含んだ笑みで返したハヅキ。ユウは不審に思った。 「見てて」 ハヅキは対岸の芝を見つめ、目をつぶる。すると、ひときわ太い蔓が地面から伸び、ハヅキの体を捕らえた。 「ハヅキ!?」 ユウが驚き、声を上げるが、ハヅキはその蔓でアスファルトを渡っていた。蔓はするすると地面に埋まり、見る影もなくなってしまった。 「すごいでしょ」 ぽかんと口を開けたユウは、言葉を失ってしまった。さすがは草の化身、蔓を操るのも自由自在、ということか。 「ほらユウ、早く行こう」 瞬きを数回。ユウは数歩後ろに下がり、助走をつけて踏み切る。 後ろ足の調子も問題ない。踏み切るタイミングには余裕があったが、いつもの脚力なら飛び越えられる幅だ。 とん、とハヅキの隣に着地する。我ながら悪くない跳躍だ。 歩き始めたハヅキについて行くユウ。このあたりの地理はユウも詳しいのだが、彼は行く宛があるのだろうか。 先ほどの不機嫌さを思い出すと、軽口は叩けないなとユウは苦笑いした。 森の小道には背の高い草が生い茂り、行く手を阻んできた。掻き分けられる動きを見失えば、ハヅキは完全に背景に溶け込んでしまう。 「ハヅキ、速いよ」 しかし、彼は歩を緩めようとはしない。幸い、広場までの一本道、両脇は急な傾斜がそびえているため、迷うことはないだろう、と高をくくっていた。 道が開け、日陰がなくなった。広場に出てきた。 広場には、目立って背の高い草は生えていないようだ。ぐるりと周りが見渡せる。 「ハヅキ……?」 ところが、彼の姿はない。広場を一周見渡しても、あるのは草と木、そして技の練習に使っていた切り株と、大きなオレンの木だけだ。 まさか、あの短時間にはぐれてしまうとは。ユウが小道へと振り返った、その時。 「ばあ」 声に驚いて、ユウの心臓は縮み上がりそうだった。そして、喉元に衝撃が走る。 それまで見えていた茂みや木々が目の端に。その代わり、青空を背景に、彼の顔が視界いっぱいに映った。 きゅぅ、と声にならない声で、ユウは体への異変を訴える。 「捕まえたっ」 喉を圧迫されると、鳴くことはおろか、呼吸すらもままならない。前後に振るユウの前肢は、しかし空を切るばかりだった。 すると、彼の前肢が地面に置かれる。ユウの息が始まると、焦りと驚きでずいぶんと早くなっていた。 「けほっ、けほっ、ハ、ハヅキってば」 「一本取ったもんねー。えへへ……こうやって、ユウともっと遊びたかったな」 今こうして遊んでいるではないか。主にユウを驚かして。 不安や恐怖、得体の知れないおぞましさに耐性がないというのに、彼は悪戯が過ぎる。息を整えながら、ユウは一矢報いようと口を開いた。 「驚かさないでよ……びっくりしたじゃない」 「じゃあ僕のこと可愛いとか言うなし。ユウだって悪戯してるじゃないの」 「あんたが可愛いのは周知の事実でしょ? それをどうしてぅぐ」 言葉を途中で遮られたのは、彼がユウの口に前肢を載せたからである。 「可愛いって……言わないで」 その一言は、静かで、怒気が込められていた。そして、それ以上にハヅキの表情が歪んだ。ユウには思いもよらないほど、彼は悲しそうな顔をした。 なぜ、と声をかける間もなく、ハヅキはユウに覆いかぶさってきた。 「ユウ……」 近い。近すぎる。耳の近くに、彼の口がある。 緊張しすぎて、ユウの頬は熱くなっていた。 「僕は、あんたのことが大好きで」 「えっ」 彼が体を起こす。表情なんて見れたものではないが、ユウから見た彼は、泣きそうになっていた。 泣きそうに……? 「大っ嫌いだから」 彼の目尻から、大粒の涙が溢れ、ユウの胸に落ちてきた。 「ハヅキ……」 大好きなのに大嫌いとは、複雑すぎてわからない。もっとも『大好き』と言われた瞬間から、ユウは頭が回っておらず、ただ頬をすり寄せることしかできなかった。 「もっと、泣いていいのよ」 すると彼は、ユウの胸に顔を埋めて、静かに涙を流した。ユウは彼の頬に前肢を添え、泣き止む時間を待った。 十数分は経っただろうか。ハヅキの涙で、ユウの胸元の毛がぱさついてしまったが、これはこれで嬉しい気もする。 鼻をすするハヅキが体を起こし、ユウを見つめる。対するユウも、ハヅキに向かって微笑んだ。 「落ち着いた?」 「……うん」 返事の歯切れは悪かったけれど、泣いていたのだから仕方ない、とユウは納得した。 「ほら、オレンが実ってるかもよ」 「……ん」 ハヅキに退いてほしいユウだったが、簡単にはいかない。ハヅキがユウの腹部に乗り、身動きが取れないのだ。オレンの木への誘いも見事にスルーされた。 「どうしたの? ハヅキ」 「ユウ、あったかい」 不意を突かれる一言が、ユウの体温を上げる。どこか恥ずかしいような、こそばゆいような響きだった。 一方、彼はそんなに気にしていないのか、泣き止んで曇った顔をユウに向けていた。 「あ、あの……降りてほしいんだけど」 ユウがハヅキに気づかせた。彼は一瞬目を開いて、そのまま地面に降りてくれた。 まさか無自覚でずっと泣いていたのか。あり得ないことではない、よほど動揺していたのだろう。周囲にひけらかすことができる体勢ではなかったけれど。 ユウが体を起こすと、見覚えのある切り株が目に映った。これまでずっと、ヒロキと一緒に、技の練習をやってきたのだ。ヒロキの一言が甦る。『ほら、やってみな』。 そして、彼と初めて出会った場所もここだった。実戦形式のバトルを申し込まれて。ヒロキの家で一緒に過ごして。 ……彼は今、元気にしているだろうか。 「見てユウ、いっぱい実ってるよ」 ハヅキの声に、ユウはオレンの木に視線を向けた。 円形をした広場の中でひときわ目立つそれは、入り口から見て左側にある。ユウはその木まで移動しながら、木陰が涼しいことを改めて実感した。 「本当」 驚くことに、枝いっぱいにオレンの実が見える。確認できるだけで十個。大きな収穫が期待できる。木の実を見ていたら、ユウのお腹も空いてきた。 細い糸状の念を操り、ユウは一番近くにあったオレンに触れる。ヘタを千切らなくても、簡単に落ちてきた。ユウは落下点で口を開け、優しく受け止める。 「よく熟れてるみたいだね」 ハヅキの言葉に、ユウも頷いてみせる。咥えたオレンをハヅキに差し出したが、ハヅキはそっぽを向いて、オレンの木に前肢で触れた。 ハヅキが目をつぶること数秒。強い風が吹き抜けたと思うほど木の枝が揺れ、一つ、また一つとオレンの実が落ちてきた。吹いたと思った風はユウの勘違いで、ただ木が揺れただけだった。 本当に不思議なことをやってのける。まるで木と会話しているような草の申し子。ハヅキを緑地のフィールドで怒らせないように気をつけようと、ユウは心に決めた。 「……な、なんでもできるのね」 「なんでもじゃないよ、できることだけ。でも、褒め言葉として受け取っとくから」 ユウはしばらく唖然としていたが、自分が喋っていることに気がついて、視線を落とした。オレンの実は、いつの間にか口から滑り落ちていたらしい。 「おなかすいた。ユウ、食べよう」 ハヅキの言葉に、ユウは微笑み返した。足元の実を拾い、かじりつく。とてつもなく硬い実だが、噛み切れない硬さではない。太陽の恵みをたくさん浴びた、甘さ控えめのオレンの味が、口いっぱいに広がる。 しゃくしゃくと小気味よい音が、広場の中に響いた。 「おいしかったぁ」 熟れた実も、まだ若かった実も、ほとんどを採り尽くして、ハヅキが食べてしまった。 しばらくは実をつける時間が必要だろう。見上げたオレンの木は、枝葉が日光を遮って、青々と茂っている。そろそろ太陽が山の木々に隠れそうだ。ユウは、ヒロキに断りもせず外出したことを思い出した。 夕方まで寝ると言っていたが、ヒロキを心配させるわけにもいかない。 「ハヅキ、そろそろ帰りましょ」 「僕、お腹いっぱい……眠たい」 そう言って、ハヅキは伏せの状態であくびをついている。 仕方がない、ここはユウが一肌脱いでやるしかない。 「仕方ないわね……背中に乗って」 しかしハヅキは、ユウの言葉に反射的に立ち上がった。 「誰も載せてほしいって言ってない」 「眠いんじゃなかったの?」 「ユウが起こした。ユウのせい」 さすがのユウも、ハヅキの反論には苦笑いをこらえきれなかった。結果的には、彼が歩いてくれるのだし、重さを気にすることはなくなった。でも可愛い。 「何笑ってるのさ」 今朝とまったく同じ文句に、ユウは微笑んだ。 「なんでも――」 突然、背後から奇妙な違和感を覚える。ユウは振り返った。 「……どうしたの」 ハヅキはまだ不機嫌そうな口調だったが、ユウの耳には届いていない。 陽が傾きかけた広場は影の割合が多い。オレンの木は円周に沿うかたちで生えている。 広場の中心に向かって神経を尖らせるが、ユウには違和感の正体が掴めない。 「なにかある」 念のために、ユウは重心を低くして、臨戦態勢をとった。 すると、空気が動くと同時に、隅の草むらが揺れて、姿が現れた。 「フェル……!」 相手は四肢を持っていた。黒が基調の体毛は短めだ。夜に周りを歩かれても、視覚だけでは追い切れないだろう。 頭に見える二つの白い角は後ろ向きに曲がっている。鋭い尻尾は先が三角の形、突き刺さったら抜くのは難しそうだ。 ハヅキは威嚇するように、ユウの隣で姿勢を低くした。 「よお、坊主。俺の熱ーい接吻を与えてやったってのに、匂いまで消して逃げるのはいい度胸じゃねえか。しかもぴんぴんしてるなあ」 「なに、ハヅキ。知り合い?」 「ああ、知り合いさ。悪い意味の、ね」 ユウの質問に含み笑いを添えて答えたハヅキは、声を張り上げた。 「悪いけど、フェル、あんたに捕まってやるつもりはない。僕はあんたに殺されかけた……覚悟しろ」 ハヅキの深い心が、ユウの感情をも揺さぶる。怒り、怯え、そして恨み。狂おしいほどの復讐の念が、ハヅキと共鳴し、ユウの周りを逆巻いた。 彼らの会話から察するに、ハヅキに重症を与えたのは、目の前の白い巻きヅノ、フェルと呼ばれた彼だろう。 「言うようになったじゃねえか。逃げ回っていたお前とは思えねえな」 「ふん、あんたもユウの優しさに触れてみろ。気が変わるよ」 「とすると、隣のエーフィの嬢ちゃんは、ユウで間違いないな。まあこの辺じゃ珍しい顔だが」 彼らだけで会話を進められるのは性に合わない。ユウは口を挟んだ。 「知りもしない相手から、馴れ馴れしく呼ばれる筋合いはないわ。誰よ、あんた」 「紹介が遅れたな。俺はセンター直属の斬り込み隊長、フェルってんだ。と言っても、ただ単に院長のお供してるだけだがな」 そう言うと、フェルは口の端をにやりと歪めて、言葉を続けた。 「で、お前らを迎えに来たってわけだ。まさかユウと接触してるとは思わなかったが……ちょうどいい!」 相手はこちらに向かってきた。しかし、ハヅキが最初の一手を打った。 「来るな!」 地面を踏み、蔓の塔が天に向かって伸びる。その先端をフェルの顎に直撃させ、きれいなアッパーカットが決まった。よく見てみると、蔓だと思っていた草の鞭は、芝や茎といった草の一部を無数に絡ませている、大きな編み物のようだ。一瞬でこんな量を結び合わせるとは、ハヅキもなかなかやるではないか。 蔓が地面に埋まると、フェルの姿は見えない。ユウはさらに、左右からの動きを捉えた。 「ハヅキ、右!」 彼を右へと誘導させ、ユウは左に意識を向ける。左からこちらへと向かってくる姿は、灰色の体毛に黒いたてがみを持つもの……これにはユウにも心当たりがあった。確かグラエナといった気がする。センターで見かけたことがある。 口を開けた鋭い牙が見え、ユウの首を狙っていることがわかる。だが、そうやすやすと咬まれていては楽しくない。ユウは口が閉じる瞬間に合わせ、バックステップで避ける。 相手は追撃を仕掛けるようだ。後ろ足を思いっきり蹴り、ユウに突進する。ユウはこれを好機と見た。 身を翻し、突進の軌道外に出る。全身で攻めに転じているのに、今更防御は間に合わない。ユウはハヅキを守る固い意思を尻尾に込め、相手の背中を上から殴りつけた。背骨の硬い感触が尻尾を伝って感じ取れるが、痛みはなかった。驚くべきは、相手が腹を打ち付け、地面が芝生であるにも関わらずバウンドして浮き上がったことだ。 追撃に、自慢の脚力で相手の横っ腹を二段蹴りする。前肢を支えに体を回転させ、後ろ足で蹴っ飛ばすのだ。 相手は受け身をとったが、もう遅い。ユウはとどめに念弾を密集させ、放射状に飛ばす。直撃し、放物線を描いたグラエナは、少し離れたところで身を横たえた。前肢に力を込めようとしているが、ユウを睨みつけるだけで、そのまま起き上がることはなかった。 「つ、強い……けほっ」 「技の特訓成果は伊達じゃないわよ」 ハヅキに目を向けると、あちらは赤と黄の二色が炎のような模様をしている、二本足で立つポケモンを相手にしていた。草の壁で炎を防いではいるが、防戦一方である。 ユウは自身の周りの守りを固め、火炎の中に入り込んだ。守るを発動してはいるものの、さすがに熱さは防げない。気温とも相まって、さらに熱い。蒸し焼きにされるのは時間の問題か。ユウはなるべく呼吸をしないように気をつけた。 「ユウ!?」 「心配しないで。私が引きつける」 ハヅキの声に不安が混じっているように聞こたから、ユウは一言添えておいた。彼はその言葉を信じたのだろう、その場から移動を始めた。 火炎が止み、相手の姿が目に入る。相手は突如現れたユウに驚いているようだ。炎は地面の芝生をも焦がしている。 「俺の炎で焦げ目一つ付いてないだと!?」 それだけ言うと、右前肢に炎をまとってユウに向かってきた。 「芝生に優しくない」 ユウが挙げた左前肢は、相手の炎ごと相殺する。立て続けに驚いている相手に、ユウは念弾を集め、ゼロ距離で放射させる。頭を狙った攻撃は相手を怯ませ、少しの間行動不能にさせた。 「ハヅキが受けた痛み、味わってもらおうじゃない」 ハヅキは相手の死角に周り込んでいた。鋭い目つきは凛としていて牡らしい。前転をしたり、横回りに一回転したりと、尻尾の振り抜きを確かめているようだ。集中力を高め、気合を入れているように感じる。 「でやぁあっ!」 咆哮と呼ぶにふさわしい雄叫びだった。駆け出して飛びついたハヅキの爪が相手の背中を捕らえ、離さない。直後、宙返りをし、尻尾の刃が一閃する。裂けた傷口から炎が噴き出し、相手は白目を剥いてうつ伏せに倒れた。遅れて血液が溢れてくる。 「熱っ、あいつあっつい」 そんなハヅキは、尻尾を芝生に叩きつけながら、その辺を駆け回っている。おそらく、また火傷でもしたのだろう。 「手のかかること……まったく」 「派手にやってくれたじゃねえか、お二匹さん」 どこから現れたのか、フェルが入り口に立っていた。その隣には、うつむいて咳をしているグラエナも居る。 「フェル……だからあたしは、ユウとは、戦いたく、なかったって、げほっ」 「莫迦者、院長の指示に逆らえるか、クレア。だが……ここまで戦力差が出るとはな。ユウ、俺たちは降参する。そのブーバーを回収させてくれ」 相手はこちらににじり寄ってきている。このまま逃がしてしまうのも癪だと思ったユウは、一つ質問を投げかけた。 「一つ聞かせて。なぜ私たちを?」 「わからん。それは院長に聞いてくれ。もういいだろ? そいつが手遅れになる前に」 命が失われることは、ユウは望んでいない。満足できる回答ではなかったが、ユウはその場から三歩、後ろに下がった。 「また会おう」 フェルがブーバーを背に載せ、一言だけ残したあと、クレアと呼ばれたグラエナとともに去って行った。 「……ハヅキ」 「は、はい」 ユウの語気には威圧感が渦巻いていたようだ。さすがのハヅキも、ユウの表情を見てたじろいでいる。 「私が責任、取るから」 生まれてしまった命を絶やさないため、そしてハヅキのような境遇の命を、もう二度と増やさないため。 ユウの決意が、改めて固まった。 ◇◆◇ 時刻は午後五時になろうとしていた。 「ユウ、外に出るのはいいが、ハヅキに怪我させちゃ駄目だろ。まだ万全じゃないんだし」 うるさく説教を垂れるヒロキに、ユウは睨み返した。ハヅキが襲われたことを考慮しなかったのはユウが悪いのだが、ハヅキに昼食を食べさせなかったヒロキにも責任があるはずだ。それを棚に上げて、ユウだけ怒ることには腹が立つ。 そんなヒロキは、ハヅキの尻尾に白いクリーム状のものを塗っている。確か軟膏と言って、傷口に雑菌が入り込むのを防いでくれる働きがあるはず。ざっくり言うと炎症止めだ。 「まあしかし、起きてみれば、お前ら二匹とも居なくなってたからびっくりしたよ。デートは楽しかったか?」 ヒロキが放った一言に、ユウは得も言われぬ恥ずかしさが込み上げてくる。別にそんなつもりは無いし、今までそういう気持ちになったことも……いや、無いことはないかもしれない。 ユウは首を振る。ヒロキの挑発に乗ってはいけない。何を考えているんだと、ユウは自分に言い聞かせた。 ユウの視線がハヅキに向くと、彼もユウを見ていた。しかし、彼は首を傾げている。 「仲が良いことは悪いことじゃないぞ、ハヅキ。だが、それだけじゃないってことも覚えておくんだ」 ヒロキはハヅキの頭を撫でている。目を細めて気持ち良さそうだ。純情な彼は、まだ知らなくても良いこともあるだろう。そもそも気づいていない可能性も……考えてくると、ユウはどこか虚しくなった。 「だが……怪我するってことは、何かあったな」 珍しく鋭い考察に、ユウはヒロキを見据える。ハヅキもさすがに黙っていられないようで、目つきが厳しくなった。 「二匹で訓練したのか? 実戦形式のバトルとか」 それに近いようなものだったが、実はそうではない。ユウは首を横に振った。 「……なるほどな」 ヒロキの目も穏やかではない。静かな怒りを煮えたぎらせるように、顔にこそ出てきてはいないが、目が本気だ。 「軟膏塗ってるとわかるんだが、ハヅキ、火傷したんだろ。おそらく、お前の腹を火傷させた奴と同じだ」 あながち間違いではないため、ユウは頷く。その仕草に合わせ、ハヅキはヒロキの顔を見上げた。 「お前がセンターから逃げてきたなら、向こうも執拗に狙ってくるはずだ。お世辞にも良いとは言えない実験だし、口封じのために、な」 この言葉にはユウも驚きを隠せない。まさか、ユウたちの会話をヒロキが理解できるとは思えない。いつ実験のことを知ったのか。 ハヅキも驚いた表情を見せ、ユウに向いた。ユウは瞬きをし、首を傾げてみせた。 「ハヅキが完治するまで待っておきたかったが……さすがに黙ってられん。行くぞ」 ヒロキはハヅキに、痛むなら無理しなくていい、と声をかけるが、ハヅキは首を横に振った。ハヅキも当事者なのだ、歯噛みしながら待っているのは気に食わないのだろう。 ヒロキが入念に戸締まりをした後、全員で外に繰り出す。薄い雲が日光を遮って、長く伸びる影は今にも消え入ろうとしていた。 ◇◆◇ ポケモンセンターの自動ドアをくぐると、ジョーイの姿は見当たらず、三人のトレーナーと思しき人たちが長椅子に腰掛けていた。 「あんたもセンターに用かいな?」 一人の男性が、ヒロキへと話しかける。 「ええ。受付の方は?」 「俺が来たときにはもう居なくて、かれこれ三十分くらいだかな。どこにおるのやら」 「妙ですね……」 ヒロキに嫌な予感が浮き出てくる。ジョーイの手紙には、“精一杯援護する”と書かれていたはずだ。もしヒロキを待ちきれず、先走って返り討ちに遭ったなら。 「ユウ、ハヅキ、準備しておけよ」 ヒロキはまず、見慣れた処置室から探索することにした。 「ちょっとあんた、どこに行くのさ」 「俺はこのセンターの常連でして。おおよそ把握できているので、探してみます」 「そうかいな」 ◇◆◇ 処置室に院長は居なかった。バインダの詰まった本棚に、整頓された机がある。診療台の上には、特に目立つものは何もない。 処置室を一周見て回ったヒロキが、机の上に目を向ける。受領書の控えが置いてあるようだが、金額のゼロの多さに目を引かれてしまった。 「助成金、六千万円……研究対象は、新種のポケモンの可能性……?」 クリップで書類がまとめられ、その一番上に受領書が見えているようだ。ヒロキは興味本位で、その受領書をめくってみた。しかし、世の中には知らぬが仏という言葉も存在する。 「ユウ!?」 まとめられていたのは、ユウの診療記録だった。四年前からの概略が記載され、最近技が出せるようになった旨もある。締めくくりの考察には、“パワーポイント不要の可能性”と綴られていた。 「誰か、火を使えるやつ居ないか?」 ヒロキは二匹に顔を向けるが、ユウもハヅキも首を横に振った。 この書類は院長に直接突き詰めてみるしかない。今すぐにでも燃やしてしまいたいところだが、揺さぶる材料にはなるはずだ。 ヒロキは書類を片手に、処置室をあとにした。 ◇◆◇ 処置室の反対側に、受付を挟んでもう一つ通路がある。その先は医療ベッドが二つあり、点滴が可能なように整備されているようだった。だが、この部屋から収穫はなかった。ジョーイも見当たらなかった。 いよいよ地下へと踏み込む。階段を一段一段踏んでいくと、それに従って周りも薄暗くなる。 ヒロキは地下への入り口の扉を手探りで見つけると、勢い良く開けた。 果たしてその場所は、名状しがたい不気味な様相をしていた。 黄色い培養液に満たされたカプセルが四つ、間隔を取らず、横一列に並べられている。そしてそれらを制御するパネルだろうか、少し離れたところに、ケーブルで繋がれている機械が見えた。 パネルの向こう側に、院長が居た。 「先生……」 「おや、遅かったじゃないか」 院長は白衣姿で、ヒロキのほうへと振り向いた。 「ヒロキ君、それにユウちゃん、そして……試作第一号。追手を撒くとは大した度胸だな」 院長の言葉は耳を疑う。おそらくハヅキのことだろうが、生命を機械みたいに表現する言い方はさすがに怒りを覚える。 「あんたは……ポケモンを、道具みたいに言って」 「何が悪い? これは実験の一環なのだよ、ヒロキ君。所詮はタマゴから孵る一匹の生命体、遺伝子操作を行えば普通ではなくなる。多少の犠牲も仕方がないのだ」 「普通ではなくなったとして、生まれるべき命を、生き延びるべき命を、好き勝手弄るのはいただけない。あんたは生きる権利を踏みにじってる」 「踏みにじるとは心外だな、ヒロキ君。彼らはちゃんと生きているよ」 そう言うと、院長はボールを三つ取り出し、投げる。 それぞれから出てきたのは、赤と白のふさふさな毛をした一匹、ヒレのような襟と魚のような尻尾の青い一匹、つんつんしていそうな黄色い一匹だ。どれにも親近感が湧く。ユウとハヅキの顔つきにそっくりなのだ。 「だが、実験は未だ成功していない。パワーポイントを使わず技が出せるユウちゃんには、一歩も近づけないのだよ」 「それができて何になるんだ? 院長先生よ。多額の助成金まで手に入れて、あんたは何を目指してる?」 ヒロキが突きつけた書類に、院長は目を丸くしたが、すぐ苦笑いを浮かべた。 「勝手に盗むとは……まあいい、説明しよう。ユウちゃん、きみは神の申し子だ」 院長は両手を広げ、口の端を釣り上げた。 「なんだって?」 「気づかないかね、ヒロキ君。きみも神話に登場する神々を知っているだろう。不意に現れては天候をコロッと変えてしまう大きな鳥、そしてどんな技も覚えてしまう、変幻自在のポケモン」 「カントー地方にまつわる……でも、それがどうして」 「一例に過ぎないが、奴らがどんな&ruby(のうりょく){種族値};を持っているにしても、あまりに現実離れしているとは思わないかね?」 腰に手を当て、笑みが抑えきれていない院長は、そのまま言葉を続けた。 「どんな技を使っても、個体が費やした&ruby(パワーポイント){エネルギー};、技自体の特性や威力、その個体の種族や&ruby(タイプ){属性};による増幅が、発現するものを特定する。私たちの世界では、この論理は変えられない。だがね、ユウちゃんだけは型破りなのだよ」 「ああそうかい、だからって“パワーポイント不要の可能性”とまで言い切るのか」 ヒロキの反論に、院長は初めて表情を崩し、舌打ちをした。 「ゼロをいくら掛け算しても、今まではゼロだった。だがねヒロキ君、ゼロのはずなのに一以上が出てくることは、あり得ると思うかい?」 なるほど、技が出せたのにパワーポイントがゼロのままだ、ということをダシにして、こんな研究を続けていたのか。 ここまで冷静に交渉ができたことを、ヒロキは自分自身でも驚いていた。だが、今すぐにでも暴れられる怒りは煮えたぎっているのだ。 「あいにくだが、お偉い学者さんの言いたいことはよくわかんねえんだ。なにが神だ? そんな存在を誕生させて何になる? 先生、あんたがやってることは、他でもない」 ヒロキはここで大きく深呼吸をし、しっかりと院長の瞳を見つめた。 「倫理観を無視した、動物実験だ。俺はあんたの野望をぶち壊す」 しかし、院長はくつくつと不気味に笑った。 「いやあ、見上げたものだよ、ヒロキ君。きみの置かれている立場はわかっているのかね」 すると、目の前の三匹がヒロキたちへと距離を詰める。 「この女も、余計なことを吹き込んでいたらしいからな」 院長が手にした縄を引っ張り上げると、そこには見慣れた顔があった。両手を体と一緒に縛り上げられ、口にガムテープを貼られていた。表情は動いているから、まだ意識はある。 「ジョーイさん!」 「さあヒロキ君、きみは真相に近づきすぎてしまった。そんな者がたどる末路は……もうわかっているだろう」 院長の言葉で、火蓋は切られた。三匹が向かってくる。ある者は炎を、ある者は水鉄砲を、ある者は電撃を。 「邪魔」 だが、それらがヒロキに届くことはなかった。ユウが立ち塞がり、守りの光を放っていた。しかも、少女のような、可愛らしい声も聞こえた。 「ユウ?」 ユウはヒロキに振り向いて、頷いてみせた。 「許さない」 たしかに、ユウの口が動いた瞬間、その声が聞こえた。喋られないと思っていたのはヒロキの勘違いだろうか。 そんなユウは、相手の攻撃が止んだ瞬間を見計らって、力を溜める素振りを見せた。額の宝石が輝いたとたん、ものすごいスピードで紫の光線が絶え間なく放たれる。まるでレーザービームを見ているかのようだった。 横薙ぎで払われると、三匹は揃って吹っ飛ぶ。中央に居た青色は制御盤に背中を打ち付け、残る二匹は院長の両隣に横たわった。 「なんと」 それでも、三匹は立ち上がる。これを見たハヅキが、ユウの前に躍り出た。 ∵∴∵ 「もうやめて、もうやめてよ!」 「ハヅキ、どきなさい。相手はまだやる気よ」 ユウは再び、念弾の準備に入る。だが、ハヅキはユウのほうを向いて、制止させようとしているのだ。 「痛ってえ……畜生!」 起き上がった青色の彼が、ハヅキへと迫る。しかしハヅキは、水をまとった尻尾の殴打を甘んじて食らった。 「ぐぅっ!」 「ハヅキ!」 さらに彼は体当たりを仕掛け、ハヅキを横に飛ばす。受け身をとったハヅキは、やはりユウと彼との間に割って入った。 「もうやめて」 ハヅキは莫迦の一つ覚えのように、その言葉しか繰り返さない。三匹はハヅキの制止に、攻撃の手を緩めた。 「邪魔をするな、俺たちはユウに用があるんだ。いくら憎んでも足りないくらいにな」 「どうして憎むのさ。ユウは優しい。こんな狭いところで熱くなってないで、外の空気でも吸ってみなよ」 ハヅキの言葉に、三匹は顔を見合わせる。 「はあ? お前……たしかハヅキって呼ばれてたよな。名前をもらうってことは……あの人間に世話になったのか? 脱走までしてご苦労なもんだぜ。俺たちを裏切るってんなら、容赦はしないぜ」 「裏切る? 何をだよ。得たものは大きかったさ。ユウに会えたし、生きてるってすごいことなんだよ」 三匹は揃って呆れた顔をした。 「俺たちはな、ユウさえ居なけりゃ、寂れた毎日を送らなくて済んだんだよ」 ユウは耳が痛かった。たしかに、こんな事態を招いてしまったのはユウのせいなのだ。 「だからってユウを痛めつけるのか? 恨みか、妬みか?」 「うるせえ、知ったこっちゃねえよ。俺らが生まれた原因はユウだ!」 再び、青色の彼が攻撃を仕掛けようとする。それを、ハヅキは尻尾で捌き、受け流した。 「違う、絶対に違う。僕だって、もう二度とこんな場所はごめんだ」 「じゃあ悪の根源を断つのが先決だろうがよ」 「悪の根源はユウ? 自信を持ってそう言える?」 「当ったり前だ! そこをどけ!」 もう見ていられなかった。ユウはハヅキの横に並ぶ。 「私はここよ。逃げも隠れもしないわ。好きなだけ殴ればいい」 「ユウ待って。僕はね、一つだけ思ったんだ。これだけは、聞いてほしい」 しんみりとしたハヅキの口調に、ユウを含め、周りのポケモンたちがハヅキを見つめた。それでも、三匹は臨戦態勢をとっている。 「僕たちは、生まれる場所も、境遇も選べない。でも、どうやって生きていくかは選ぶことができる」 不思議なことに、あれほどまで熱くなっていた三匹が、じっと耳を傾けている。 「ユウさえ居なければ。たしかに僕もそう思った。でも、ユウが居なければ、僕たちもここに居ないんだよ」 ハヅキの言葉に、三匹は各々の反応を見せる。目を見開いたり、息を呑んだり。ユウは、意思の方向が一カ所から別のほうへと向き始めていることを感じていた。 「たしかに、僕らが生まれた原因はユウかもしれない。けど、そんなこと恨んで、憎しみ合ってどうするのさ。笑い合って、支え合って過ごすほうが有意義だよ」 そして、ハヅキはユウに向き直り、衝撃的な言葉を発したのだった。 「ね……母さん」 ユウは驚きを隠せない。ハヅキは今何と言ったか。ユウに向かって『母さん』だなんて。 「ユウ、きみは、僕たちに血を分けてくれた、母親なんだよ。そんなきみが悪の根源だなんて、絶対に認めてなるもんか」 それだけ言って、ハヅキは笑ってみせた。三匹の表情には、迷いが浮かんでいた。 「じゃあ……どうするんだよ?」 「決まってる。もう僕たちのような命を生み出さないため、ここを……潰す!」 そう叫んだハヅキの額から、無数の葉っぱが舞う。それらはヒロキの脇を通り、黄色い液体で満たされたカプセルへと飛んでいった。 ∵∴∵ ハヅキの攻撃は見事に命中し、四つの培養槽を的確に破壊した。黄色い液体が漏れ出してくる。 「なっ……くっ、攻撃だ! 蹴散らしてしまえ!」 院長の怒号が響き渡るが、ヒロキを目の前に、三匹は動こうとしない。それよりも、今まで剥き出しだった戦意が明らかに低下していることが、ヒロキには感じ取れた。 ユウが制御盤の上に飛び乗る。額の宝石が光ったあと、制御盤から火花が散り、白煙を上げる。衝撃はケーブルを伝い、培養槽の残骸へと飛び火した。ガスが漏れる音がした直後、どん、と爆発が起きる。火災警報器が作動するまで、そんなに時間はかからなかった。 「のぉわっ」 院長に飛びかかったユウが、彼を押し倒す。おそらく、念力か何かで拘束するつもりだろう。 見とれていないで、ヒロキも行動を起こす。院長の隣に倒れているジョーイへと向かった。まずガムテープをゆっくりと剥がす。 「ひ、ヒロキさん」 ジョーイの声は震えていた。 「今解きますね」 口に出して、ヒロキは刃物の類を持っていないことに気づく。縄は固く結ばれており、解くことは困難だろう。 ヒロキはハヅキを呼び、彼の鋭い爪を使って縄に亀裂を入れる。裂けた瞬間、するすると緩んでいき、ジョーイは自由になった。 「ごめんなさい、こんなことになって」 「話はあとです、逃げましょう」 「なんだなんだ、どうなってんだ!?」 聞き覚えのある声が、出入り口から響いてきた。ロビーに居たトレーナーだろう。 「ジョーイさんはここに居ます。消防に通報を。それと警察にも」 「何が起こってるんだ?」 「監禁の現場で火災発生、とでも伝えてください。容疑者は取り押さえてます」 ヒロキの指示に、彼はその場から立ち去った。 「立てますか? 肩なら貸しますよ」 「いえ、大丈夫」 ヒロキはジョーイの背中に手を回しながら、出入り口を目指す。 「ユウ、院長を引っ張り上げられるか?」 ユウは答える代わりに、院長を浮かせたまま階段を昇っていった。相変わらず仕事が早い。それに続いて、ハヅキと、残りの三匹が続いた。 煙が充満し、視界が悪い。ヒロキはジョーイを気遣いながら、ロビーへの階段を確実に踏んで行った。 ◇◆◇ その後、ヒロキは取り調べの対象にされてしまったが、被害者の一人であるジョーイがすべてを話し、“ユウを提供したことによる生命倫理を問われるような実験の幇助”という容疑は無事に晴れた。院長は、助成金の不正取得をはじめとして、あって然るべき罪に問われることになるだろう。 ヒロキはトレーナーライセンスはおろか、保護者ライセンスも所持しておらず、自治体にもユウの存在を届け出ていなかったため、あのままセンターに通い続けていると、ユウはセンターでの保護、という名目でヒロキの手から離れてしまう可能性があったらしい。院長には『センターで手続きをしておく』と言われたはずなのだが、どうやら手続きの方向性が間違っていたようだ。 取り調べは日付が変わる前までに、無事に終わった。 センターから救出した三匹は、持ち手の登録がされていなかったため、とりあえずヒロキの家で保護、という形になった。院長が所有者になっていたポケモンたちは、他の街のセンターで保護されたらしい。 必然的に、五匹分の食事を作ってやることになってしまったのは、頼れるセンターが近くになかったためなのだ、とヒロキは自分に言い聞かせ、コンロに火をつけたのだった。 ◇◆◇ 家に帰ると、ユウは何とも言えない安堵感に包まれた。ヒロキは全員分の夕食を用意してくれたし、彼らも喜んで食べてくれたし。 だが、ユウにとって冗談では済まされない問題が、まだ一つ、残っていた。 「ハヅキ!」 「ふぇ?」 居間の絨毯の上で寝転んでいるハヅキの首元を、ユウは思いっきり縛り上げた。 「ちょ、待っ、ぐぇ」 「なんで今まで私が母親だっての黙ってたわけ?」 「い、痛いから、ユウ、きみの、その、ね、念力」 「ねえ?」 「あぐぅ」 ハヅキが充分に喋られないことは構わず、ユウは苛立ちを抑えきれなかった。ハヅキは涙目になりながら、前肢をばたばたと掻いている。 「まあまあ、ユウ、とりあえずは落ち着いてくれって。俺たちだって、ハヅキが外を知らなかったら、あんたと真っ向勝負してボロ負けしてただろうし」 そう話すのは、センターで一番の喧嘩腰だった、青色の彼だ。 「そ。ユウの主人っていい人よね。それにしてもユウ、あんた強いわね」 立て続けにユウへと向いてくるのは、もふもふの赤い彼女だ。 「半分諦めてたけどな。あそこで一生過ごすのかって……なあユウ、そろそろハヅキを放してやれよ」 その場を諌めようとしたのは、とげとげした体毛の黄色い彼。 このままハヅキをいじめていても仕方がないから、ユウは首元の念の糸を解いてやった。 「くぁっ、けほっ、けほっ……し、死ぬかと思った……」 「なによ、もう。私のこと『大好きだ』『大嫌いだ』なんて言いたい放題。他人のふりして『実はあなたが母親です』って? ふざけるのもいい加減にしなさいよ。あなたたちを産んだ覚えはない」 ユウの言葉に反論したのは、赤い彼女だった。 「ハヅキはふざけてなんかない。あなたには、あたしたちの気持ちはわかんないだろうけど、あたしたちは感謝してるの。あなたが母親だってことは本当よ」 ユウがどれだけ見つめても、まったくの同年代の容姿にしか見えない。彼らが息子や娘だなんて、ユウにはまったく実感が湧かない。 「じゃあ父親は誰?」 ユウが放った何気ない質問に、一同は顔を曇らせた。 「それが……院長が言うには『お前たちはユウの分身なのだ』だけで、父親のことは何も知らないんだ」 「それなら余計に信じることなんてできないわ。たとえ私が本当の母親だとしても、あなたたちの面倒を見るつもりはない」 彼らを突き放してしまうような一言だが、ユウは腹を割って話し合おうと、彼らの目をしっかりと見て口を開く。 「でも……一緒に居るなとも言わない。あなたたちは、自由よ。好きなように生きて」 すると、皆は顔を合わせ、頬を緩ませる。ユウへと向く笑顔が眩しかった。 「そんじゃ、世話になるぜ。あんたにも、あんたの主人にも付いていく」 「あたしもよ。ハヅキにだけ良い思いなんてさせないんだから」 「僕、さっき首絞められたの見てないの……?」 「俺もいいかな。信頼できる人間が居るから、ハヅキが助かったんだろ。あんたの主人はいい人だよ」 予想していた回答だったが、こうも潔いと、ユウまで苦笑いになってしまう。 「ほんとにもう……誰に似たのかしらね」 「あぁん? おいユウ、自分のこと母親扱いするなって言っときながら、俺らを子ども扱いかよ?」 突っかかってきたのは、相変わらず血の気の多い青色の彼である。 「文句ある? なんなら軽ーく捻って差し上げるけど?」 「くっ……じょ、上等じゃねえか。でも今日は眠いから、明日、覚悟しとけよな」 「その言葉、そっくりそのまま返してあげるわよ」 家族が増えることは、こんなにも楽しいことであろうか。周りで苦笑している皆を眺めながら、ユウは自責の念が小さくなっていくことを感じていた。 **Day 03 [#sec03] 取り調べをされた隣町の警察署からヒロキへと連絡があったのは、一夜を明かした後だった。ライセンスカードを発行してもらうと、今後このような事態に巻き込まれる可能性が少なくなるという。隣町と言っても、徒歩で一時間以上かかる場所なのだが。昨日は車で強制連行されたが、やはり徒歩という手段は時間がかかるものである。 「で……お前らいつまで付いてくる気なんだ?」 警察署まで一緒に歩いてきた挙句、その待合室に、ユウとハヅキ、そしてセンターに居た三匹のポケモンたち――調べると、赤色はブースター、青色はシャワーズ、黄色はサンダースと言う種族らしい――の合計五匹が、ヒロキの周りを囲んでいた。 「主人」 すると、ユウが話しかけてくる。あの一件以来、人の言葉を操ることができるようになりかけているらしい。 しかし、ヒロキには気に食わないことが一つだけある。 「あのなあユウ、俺はお前のご主人サマでもなければ、お前が俺の言いなりになれなんて絶対にないからな、そんなこと。だから『主人』って呼ぶのはやめてくれ」 だが、ユウはヒロキの言葉に首を傾げた。 「いまさら」 それ以上言葉を続けようとするのだが、どうやらまだ単語が浮かばないらしい。 「もうそう呼ぶ癖がついた、か? まあ……いいや。好きに呼んでくれ」 ユウは頬を綻ばせた。 ヒロキが周りを見ると、四匹からは羨望と期待の眼差しが向かってきていた。 「まったく……とんだ物好きたちに好かれたもんだ」 ヒロキが額に手を当てる。 「ユウ、ごめんな。院長にもっと早く気づいてれば、こんなことにならなかったのにな」 そのまま頭に手を乗せて、ヒロキは掻きむしった。いまさら後悔をしても遅いが、どこかでヒロキが踏みとどまっていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。 「ううん、主人、悪くない」 だが、ユウはヒロキを責めなかった。ユウの言葉に、ハヅキを含めた四匹が頷く。 「みんな、ありがとう……そうだ、名前も決めてやらないとな」 全員の頭を撫でてやると、受付から声がかかる。ヒロキはユウに、待っておいてくれ、とひと声かけたあと、受付へと向かう。珍しく男性が出迎えてくれた。 「ヒロキ君、かな」 「はい、そうです」 「あのリーフィア、ハヅキ君、と言ったかな。あの子、ひどい怪我をしていたらしいが、センターに頼らずきみの手で治したというのは本当かい?」 おそらく火傷の治療だろう、と思い当たったヒロキは、ハヅキの腹部を一瞥した。見るも無惨だった皮膚は跡形もなく、新しい毛が生え変わってきている。一安心だ。 「ええ、ユウにも手伝ってもらいました」 「具体的には?」 「チーゴとオボン、ヨモギをそれぞれ粉末状にして、患部へ塗りました。炎症止めです。それから患部を冷やして、オレンの飴をなめさせて、あんな感じです」 「ふうむ、なるほど……もう少しお待ちを」 困ったような返答をした男性は、手元の書類を持って奥へと行く。書類には、“ライセンス筆記テスト”の文字がわずかに見えた。 しばらく誰かと話し合い、受話器まで使って確認をとっていたようだが、再び受付へと戻ってきた。 「お待たせしたね。署長がお会いしたいと申している。こちらへ」 「しょ、署長さんがですか?」 驚くヒロキを気にせず、受付の男性は通路へと案内した。角を曲がり、“署長室”のラベルが貼られた扉をノックした。 「渡瀬です。&ruby(あかいし){赤石}; &ruby(ひろき){弘樹};さんがお見えです」 中から、入ってくれ、と声が聞こえた。渡瀬と名乗った受付の男性が、署長室の扉を開けたあと、ヒロキを中へと促す。ヒロキは恐る恐る、失礼します、と一言添えた。 「いやあ、ヒロキくん。昨日は驚かされたよ。ほとんど君の手柄だったんだってね。おっと失礼、私はサザメタウン署長の&ruby(ときみや){時宮}; &ruby(おさむ){治};だ」 署長らしからぬ、気さくな初老の男性だと思った。 「はじめまして、赤石 弘樹です。被害に遭われたジョーイさんも、こちらを味方してくださいましたので、俺一人の成果じゃないですよ」 「いやいやそれでも、かのヤブ医者の逮捕に繋がったのだから、大したものだ。奴は他の街でも悪事を働いていた余罪があるから、今頃こってり絞られているだろう。ジョーイさんはしばらく職場には復帰できないかもしれないが……私が口添えをしておいた。安心してくれたまえ」 そこでだ、と言った署長は、デスクに置いてあった大きな紙を両手で持った。 「君へのプレゼントだ」 見るとそこには、大きく“感謝状”の文字と一緒に、ヒロキの名前が書かれていた。 「俺に、ですか」 「署内で満場一致だった。受け取ってほしい」 ありがとうございます、とヒロキが一礼して、震える手を抑えながら、感謝状を受け取った。 後ろに居る渡瀬だろうか、ヒロキの耳に、拍手をする音が聞こえてきた。 「もう一つあるぞ」 今度は小さいサイズ、といってもハガキくらいの大きさのものを手渡された。 「ブリーダー、免許証、ですか?」 「ああ。君ほどの医術の心得があれば、もしかしたらポケモン看護士の資格も、と思ったけれどね、国家愛護資格のブリーダーが適任だと推薦した次第だ。すると、見事に通過、警察庁公認だ。発行手数料もこちらが負担させてもらった」 見てみなさい、と促されたヒロキは、免許証に目を通す。ハガキサイズの台紙に貼り付けられているそれは、“トレーナーカード”の文字が光り、金色の背景色に“ポケモンブリーダー資格”の文字が映える。そして、警察庁の割印がされていた。取り調べのときに撮られた写真だろうか、少し不満気な表情をしているヒロキの顔写真が印刷されている。右端の下方には、サザメタウンのシンボルマークであるヒメリの花の隣に、星型を包むように羽が生えているような、盾のシンボルが見てとれた。 「各地のポケモンセンターをトレーナー同様に使えるし、引き取り手の居ないポケモンを保護する名目でも使える。トレーナーズスクールで教鞭を執ることも可能だよ。さすがにセンターでは働けないが、コネを作ることはできるだろう」 署長の言葉に、ヒロキは、え、と声を漏らしたあと、頭が真っ白になった。何を言おうと思ったか忘れてしまった。 「はっはは、そんなに驚いた顔をしなくてもいい。君の大切なパートナーたちと、大手を振って歩けるんだ。だが……世の中には、視線が合うだけで勝負を仕掛けてくるマナーの悪いトレーナーも居るから、気をつけるんだよ」 「あ、ありがとうございます。気をつけます」 「私からの贈り物は、以上だ。今回は本当にありがとう、感謝しているよ」 笑顔を添えても、署長は引き締まった表情を崩さない。 彼と握手をする中、ヒロキは、ここの職員はとても良い上司の元で働けているのかな、と上の空で考えていた。 「客人がお帰りだ、渡瀬くん」 渡瀬が署長に返事を返したあと、ヒロキを呼ぶ。ヒロキは署長室を出る前に、失礼します、と一言添えておいた。 「緊張したかい?」 「それはもう。でも、とても気さくな署長さんですね」 「あの人の情熱には敵わなくてね。人一倍、悪事に対しての執念が強いんだ。けれど、それと同じくらい、慈善に対して褒め称えてくれる」 「いい人なんですね」 そんな会話を渡瀬と交わしながら、ヒロキたちは通路を横切り、受付へと戻った。 「僕からも、お礼を言わせてほしい。ヒロキ君、今回の件はきみのおかげだ、ありがとう」 「そんなにあらたまらなくても。俺はできることをやったまでです」 「きみのような優しい人に育てられるポケモンたちも、見ていて安心だ」 渡瀬は、待合室で待っている五匹を迎えてあげるように促した。 「こんな田舎だと、五匹を連れて歩いても問題は無いだろうけれど、郊外や都会に行くときは、ボールを持つことをおすすめするよ」 「わかりました。肝に銘じておきます」 渡瀬はヒロキに笑顔で返したあと、持ち場へと戻って行った。 「遅い」 待合室に戻ると、膨れ面のユウが、開口一番、ヒロキに不満をぶつけた。 「悪かったな、ユウ、みんな」 しかし、不満気だったのはユウだけで、ハヅキを含めた四匹は、笑顔だったり、苦笑したりしていた。 その様子に、ヒロキはもう一度ユウを見る。視線が合ったユウは、そっぽを向いた。 「照れ隠しは、もうちょっと上手くなろうな」 「ち、違う」 もともと言葉がしどろもどろなのに、それ以上に動揺すると、聞き取りづらくなる。ヒロキはユウの頭を撫でた。 「心配してくれてたんだろ。ありがとうな」 すると、ユウは眉をひそめたものの、尻尾は揺れている。満更でもなさそうだ。 「さあて、帰るぞ。また長い道のりだ」 ヒロキを先頭に、ユウが続き、四匹がついて行く。警察署の出入り口をくぐると、太陽はもう少しで南中しようとする頃だった。 『融和-とけなごみ-』 ―了― ---- **あとがき [#btPfUGH] 長 か っ た 4年かかりました。1,000行書いては『気に入らない!』と破り捨て、また1,000行書いては『これは違う!』と破り捨て。一人称にするか三人称にするかまで延々悩み、かれこれ8回目の書き直しにおいて、ようやっと形になりました。難産だった。いえ、ただの言い訳です。 もしもお待ちいただいていた読者の皆様がいらっしゃれば、長らくお待たせしてしまったことを深くお詫び申し上げます。 さて、心境の変化が見られたユウですが、読者の皆様の目にはどのように映られましたでしょうか。 作者の私としては、1.孵化作業を倫理観に照らすこと、2.木の実ってすぐ腐っちゃうor傷んじゃうんじゃないの説、3.ユウを取り巻く周囲の目、という3大要素を作中に取り入れることができ、満足のできる作品に仕上がりました。和むってほんとにステキ。 今後の予定はありません。が、作者のアイデアとやる気が復活すれば、もしや……? と続編、もとい日常編などなどを示唆しておきます。4年かかるかもですが。 兎にも角にも、ここまで拝読賜りましたことを恐悦至極に存じます。 今度から連載方式にシフトチェンジしようかなあ……でもそうすると全消しできないからなあ……。 ---- |CENTER:[[&size(9){<前}; 初心-ういごころ->初心-ういごころ-]]|CENTER:融和-とけなごみ-&br;[[AfterStory 心機-きっかけ->心機-きっかけ-]]| ---- お気軽にどうぞ #pcomment(below)