#include(第十二回仮面小説大会情報窓・非官能部門,notitle) 1 【新旧チャンピオン激突!】 オオエ・ミドリ選手(54)=イッシュ地方ヒウンシティ出身=と、オオサト・アカネ選手(17)=ナナカラ地方ロクロタウン出身=の夢の対決が行われることになった。 オオエ選手は12歳にポケモントレーナーとしてデビューし、史上三番目の速さで同地方のチャンピオンロードを踏破。〇〇年にカントートーナメントでオーキド・ユキナリを破ってベスト8。翌年はキクコを決勝で破り優勝した 以後はナナカラ地方に活動拠点を変更し、チャンピオン争いに絡む。〇〇年で17歳の若さにてチャンピオンの座を獲得し、強豪地方のナナカラで七連覇の偉業を達成した。その後もトップを走り続け、通算二十三期もチャンピオンの座に就いた。昨年のシーズンは休場していた。エース・ゴウカザルを軸とした立ち回りと強気な踏み込みで多くのファンを魅了した。通算成績は671勝341敗。 オオサト選手は10歳でトレーナーデビュー。12歳でナナカラのジムを全制覇した。その後はカントーに二年間留学して戦闘理論を学ぶ。そして国際試合にてシンオウのオーバ選手を破るなどの活躍をみせる。その後、ナナカラに戻ると15歳の若さでチャンピオンの座について三連覇を達成している。エースであるエーフィを攻撃の要にした幅の広い戦い方で観客を沸かせる。通算成績は203勝19敗。 エキシビションマッチは七月十三日にキシベタウンにて行われる。(文責 タカダ・ツネカズ) 「エキシビションマッチをやるんですか」 ぺらりとサトルは『週刊 ナナカラ』の記事をめくりながら興味がなさそうに呟く。新旧チャンピオンの激突、そのように銘打ってはいるが、どのみち勝敗は最初から見えているではないか。サトルはそんなことをぼんやりと考えながら麺を勢いよく啜った。 「おい、汁をこぼすなよ」 記事を書いた記者――ツネカズが肘でサトルの腹を軽く小突いてくる。すみません、とサトルはレンゲに入ったスープを飲み干してまた記事とにらめっこして今度は慎重に麺をすする。魚介系の出汁が効いているこのスープはカントーにない美味しさだ。惜しむべくは記事の内容を頭に叩き込むためにこのラーメンをゆっくりと味わう暇もないことか。ツネカズは逆に胡椒をばっさばっさと大振りにかける。そして、繊細な味が失われたラーメンを飲み物かのように豪快に飲み干すと、懐からタバコを取り出して咥えた。 ――まだこっちは食べている途中だっての。 記者に特有の喫煙という悪癖にサトルは心中で顔をしかめる。さすがはナナカラ、分煙という文化から程遠いところにいるようだ。そんなサトルをまるで気にしていないかのように、店主は灰皿を出す。イライラを押し隠しながら、サトルはどんどんと麺を啜っていく。その横でツネカズはまずそうにタバコをくゆらせた。 「記者ならちょっとはニュースぐらい見ておけ。大騒ぎになっているぞ」 「……はあ」 所詮はナナカラのニュースだ。加えて言うなら公式戦には勝ち負けがつかないエキシビションマッチだけどな。そんな言葉を胸の奥に押しとどめるべく、水を飲み干す。ツネカズはそんなサトルの様子に気がついていないのか、おぼつかない手つきでツネカズはスマホロトムを操る。フリック入力ができないのか、一回一回タップしているのを見てよけいムカついてきた。すると、これだこれだといいながらツネカズは画面を見せる。 「これがオオサト・アカネだ」 画面に映っているのは端正な顔に燃えるような赤髪の少女だ。顔にはまだ幼さはのこっているが、きりりと結ばれている口元と目からは年を感じさせないような落ち着き払ったものを感じさせる。 「で、こっちがオオエ・ミドリの写真だ」 「綺麗ですね」 ツネカズが渡してきたスマホロトムの画面を見て素朴にサトルは呟く。気の強そうな目に整った顔立ち。髪には白髪が混じっているが、年を感じさせるどころかむしろ威厳すらある。ツネカズは画面をとんとんと人差し指で叩く。 「オオエ・ミドリは昨シーズンずっと休場していた。だけどその理由は関係者に取材しても口を割らねえ」 その話は小耳に挟んでいた。ミドリは数年前から戦術に冴えがなくなり、チャンピオン争いにも絡めなくなっていた。そして歳のせいか、新たにポケモンを育て上げる体力もなくなったと聞く。しかしそれはあくまで噂の範疇に過ぎない。ミドリは記者に何を聞かれてもその理由を答えなかったのだ。 「だからお前はオオエの自宅に押しかけてなんかネタを抜いてこい」 「僕一人で、ですか?」 「当たり前だろ。まさかトロッコが先輩の後ろついてのんびり取材できるだけの身分と思っていないだろうな」 ツネカズの高飛車な口調で命じてくる。トロッコ、つまりは新米記者という意味だ。サトルは短気な上司にばれないようこっそりとため息をつく。 「……はあ。わかりましたよ」 今度のため息は聞こえるように声に出してやった。そしてツネカズに怒鳴られたりしないようにさっさと席を立つ。 まあ、単独で動けることは別に悪くはない。さっさと特ダネを抜いて実力を認めさせよう。そして、こんなつまらない地方から早く抜け出す。それだけだ。 2 サトルはウインディの背中にもたれかかりため息をつく。もともときついと言われている記者職に就いた自分が悪いが、まさか新人が一人で放り出されるとは思っていなかった。朝駆け夜討ちと言われる肉体的にも精神的にも苦しいサツ回りに行かされなかっただけ良かったと言うべきか。 おまけにミドリが住んでいる家は都心部から遠く離れている。そして会社は「歩け」と言って空飛ぶタクシーの経費を落としてくれるどころか、移動用のポケモンすら貸してくれない。大方、自分がすぐに転職すると思っているからこその嫌がらせであろう。 (……ま、それはそうなんだけどな) どうせ手持ちのウインディに乗っていればいい。頭ではそうわかっていたが、やっぱり胃の中に滞留するもやもやを飲み下す事はできなかった。 ナナカラ地方が強かった時代なんてここ五、六年でもう終わっている。財政の縮小からどんどん進歩していく科学技術についていけず、ポケモンの育成や孵化も未だに人の手に頼っているのだ。おまけにメガシンカやレイドバトルも利権団体の反対が根強く、公式には認めていない。そんな保守的で遅れている街が、どんどんと進歩していくカントーやホウエンに勝てるわけがないだろう。それなのに、メディアはこの国の遅れっぷりを喧伝しようとはせずに、必死に自国のスターを見つけ出しナショナリズムを煽り立てていたのだ。国際試合ではナナカラ勢は通用しなかったので最終的には出すネタに事欠き、ミドリ流ボールの投げ方を特集するなどと呆れたものであった。ミドリがいかに美しく右手を捌き、狙った位置にモンスターボールを落としたなんていったい何の意味があろうか! どうせならカントーに交換留学をしていたオオサト・アカネの方を取材したかったと思いながらスマホロトムを乱暴にタップして彼女の実績が書いてある記事を読む。こんな田舎の地方から出てきて国際大会でまさかの優勝という結果を残したのだ。アカネは留学先でちゃんと対戦理論を学び、それを自分の戦術に昇華していた。さらに、どんな対戦相手であろうと一切油断をせず、SNSから週刊誌までしっかりと目を通して対策を練る。しかも単なる頭でっかちではなく、その場で機転を利かせて戦うこともできる。この若さで気持ち悪いくらいの完成度であった。 「まあ、どうせ伸び悩むだろ」 ごろりとウインディの背中に寝っ転がり呟く。かわいそうなものだ。今は法整備が進んで昔のように簡単に他地方へ行ってそこのチャンピオン戦に参加することはできなくなった。つまり、アカネはこれから先、このレベルが低い地方で戦わなければいけない。ここで腐っていたらどんな宝石だって醜く濁っていくだろう。 今後はこの地方から宝石が生まれることはない。悪あがきのようにぽつぽつと小石を吐き出すだけだろう。その小石を無責任に持て囃し、磨けば小粒でも光り輝けていただろうに、過度な期待をかけて壊れていくのだ。 「ウインディ、止まってくれ」 ぽんぽんと背中を叩いて呼びかけると、ぐるると鳴いてウインディはその場に立ち止まる。サトルはするっと手慣れた様子でウインディの背中からするりと降りると、自動販売機を見て顔をしかめる。ずいぶんと古ぼけているうえに、飲み物であるサイコソーダも一昔前のラベルだ。おまけに電子決済すら対応していない。これだから田舎はと舌打ちすると、小銭を突っ込んでサイコソーダとおいしい水を買う。飲むか? と隣に突き出してみると、炭酸が嫌いなウインディはぷいと顔を背けた。冗談だよ、と軽く笑うと今度はおいしい水のプルタブを開けて容器の中にとぽとぽと注ぐ。ウインディは体から力を抜き、ぺちゃぺちゃと水を舐め始めた。 ここらで休憩するのも悪くないだろう。サトルはモンスターボールを取り出すと、とんとんとボタンを撫でるように押した。 「みんな、休憩するぞ」 サトルが呼びかけるとメタグロスとサザンドラ、そしてラルトスがボールから解き放たれる。メタグロスはさっそくウインディにちょっかいをかけると、ウインディは何をとばかりにじゃれあって遊ぶ。サザンドラはそんな彼らとは距離を置きつつ悠然と空を眺めていた。ラルトスは強大なポケモンたちを見て怯えたかのようによたよたとサトルの足元に走ってきてひしっと足を抱きしめた。 これくらいのポケモンを連れ歩くが限界だと思いつつサトルはラルトスの頭を撫でた。トレーナーとしてバリバリに現役を張っていた頃はもちろん六体操ってはいた。しかし、記者になってからは手持ちの一部を預けていた。記者稼業というストレスのかかる仕事の中で、全てのポケモンに目をかけるのは負荷がかかる。 だから手持ちはタイプ相性をほとんど考えず、ずっと連れて慣れ親しんでいるポケモンたちだけで固めた。それでもナナカラならば、そこらのエリートトレーナー相手でもあくびをしながら勝てるだろう。 (……なんでこんなところに配属されたんだよ) 配属地を伝えられたときのショックがまたも頭によぎる。そもそも、サトルは記者になりたかったわけではない。チャンピオンになれないから記者という別の道を渋々選んだだけなのだ。しかし、どうせ記者になったならカロスかアローラ、せめてカントーに行きたかったのだ。そこならばバトルのレベルも高く、記者稼業も少しは楽しいものになっただろう。だが、こんなナナカラという小さな地方に飛ばされたうえに優秀という噂は聞くが性格の悪いツネカズと組まされることになったのだ。これが災難と言わずして何が災難であろうか。もしも研修で自分の成績が悪かったからと言われたらまだ納得がつく。しかし、自分は同期の中でも成績は一つ抜けていたし、なんなら一人で取材に行くこともあったのだ。それなのに、自分は絶対に行きたくないと公言していたナナカラに配属されてしまった。 ぐしゃっと乱暴にサイコソーダの空き缶を握りつぶす。人事は学ぶこともあると言ったが、こんな田舎に学ぶべきことなどなにもない。自分はこんなところに配属されるべきでなかった。一刻も早く、ここから抜け出したかった。モヤモヤはおさまらない。そもそも、自分はチャンピオンになりたかったのに、どうして二番目の道でこうも我慢しなければいけなかったのか。 横から小さな鳴き声が聞こえてくる。サトルははっと冷静さを取り戻した。 「ごめんな、ラルトス」 不安そうにこちらを見上げてくるラルトスのあごを撫でる。するとラルトスはくすぐったそうにきゃっきゃと笑った。サトルもその様子を見て微笑む。ラルトスというポケモンは敏感にトレーナーの気持ちを読み取ってくる。あまりに気持ちが荒れていると、体調不良すら起こすくらいなのだ。ただでさえラルトスはここ数年で捕まえたポケモンで、まだレベルも十分に上がっていない。 さて、そろそろ行くか。サザンドラにちょっかいを出しているジバコイルと、泰然としたオーラを保とうとしながらも口元がひくひく笑っているサザンドラにボールを向けて戻す。 そしてラルトスもボールに戻そうとボールを向けたそのときだ。 「あれ、もしかしてナカガワさんか?」 突如背後から声をかけられた。ぴくっとして振り向くと、コートに両手を入れた男が突っ立っていた。 「タイガ、さん」 「覚えていたのか?」 「ええ、まあ」 忘れるわけがないだろう、とサトルは心の中で呟いた。だって数年前のポケモンリーグでサトルを破った相手がこのタイガなのだから。勝った方は相手をしっかり覚えていないが、負けた方はいつまでも覚えている。そんなものだった。さらに言えばタイガもそのあとのトーナメントであっさりとフウロに敗れている。それもまた、そんなものだった。 「どうしてこんなところにいるんですか?」 「それはこっちが聞きたいくらいだ。どうしてこんなところに?」 タイガもまた訝しげに眉をひそめた。 「記者に……」 記者になったからです、そう答えようとして。 「チャンピオンになれなかったからです」 声が震えそうになるのを我慢してサトルは辛うじて答える。だが、そうとしか言えなかった。 「それよりタイガさんはどうしてここに?」 何か聞かれる前にとサトルは食い気味に質問した。タイガはああ、と頭をかいた。 「実はミドリさんに調整試合の相手を頼まれたからな。ちょっと家まで行って戦ってきたというわけだよ」 「調整試合?」 「ああ。四天王でもジムリーダーでもミドリさんなら呼べるのに、よりによってオレだぜ。変な話だろ?」 タイガは不思議そうに首を傾げてみせた。確かにそれはおかしいと心の中でサトルも頷いた。決してタイガは弱いトレーナーではない。むしろかなり強い部類ではあるが、ジムリーダーや四天王と比べたらその実力は遥かに劣る。調整試合をするにしても不十分な相手なのではないか。何かがおかしい。わずかに芽生えた記者の嗅覚がそう告げていた。 「タイガさん。なんでもいいんです。なんでもいいですから違和感を感じませんでしたか?」 「違和感か」 サトルの質問にタイガは腕を組み、うーんと悩んで見せる。そこでふと上を向いた。 「そういえば、バトルのときは少し変だったな」 「変?」 「ああ」 タイガはこれまでにない真剣な表情で口元に手を当てていた。だが、すぐにその手を解いた。 「……ん、いや。忘れてくれ」 「違和感というのは」 「見間違いだったかもしれない。悪いな」 ひらひらと手を振るとタイガは元の穏やかな表情に戻る。 「なんか掴んだら教えてくれ。頼んだぞ」 タイガはぱんぱんとサトルの肩を何度か叩くと踵を返して歩き始めた。その背中が米粒のように小さくなった後、サトルは足にひしっと抱きついているラルトスを見る。 「ラルトス、あいつの言っていたことは正しかったか?」 らるぅという鳴き声と一緒にラルトスはこくこくと頷く。そして何かを訴えかけるかのようにぱたぱたと手を動かした。サトルはにっこりとラルトスに微笑みかける。 「よくやった。いい子だ」 ラルトスを抱き上げると、サトルはウインディの背中の上に乗る。ラルトスはサトルの腕の中できらきらとした目で周囲を見渡す。ウインディは「自分は凛々しい大人ですよ」という顔をしてきりっと表情を結んでいる。 ――ガーディのときはもっと暴れていたのにな。 苦笑しつつサトルはその艶やかな毛並みを柔らかく撫でた。 「ウインディ、全力で頼むぞ」 3 「……ふー、しんど」 ぐだっとウインディの背中で伸びる。腕の中ではラルトスがきゃっきゃと笑っていた。人見知りなのになぜかスピード狂であるラルトスはウインディに乗ることが大好きだ。しかし、別にそこまでスピード狂ではないサトルにとってこの速度で突っ走るのはかなりしんどい。ウインディも主人の頼みとはいえ、全力で走ることはしんどい。故に一人と一匹はぐでーっと疲れて倒れ込んでいた。ここでようやく状況を把握したラルトスは、どうしようどうしようとおろおろしていた。そんなラルトスの背中をとんとんと叩いて落ち着かせると、目的地であるその和風な屋敷を眺めた。オオエ・ミドリは休場している間、ずっとこの屋敷に閉じこもっていたそうだ。現に毎日しつこい記者が迫っては、ミドリ自身に追い返されていたと聞く。そんな相手にどうやって話を聞けというのだ。 ダメとは知りつつも、とりあえず正面から話を聞いてみよう。ウインディとラルトスをボールに戻すと、豪勢な門の片隅についているインターホンを押す。 「はーい」 若い女性の声がインターホン越しに聞こえる。きっとオオエ・ミドリと同居している姪であるオオエ・スイであろう。何でもまだ若いのにミドリに惚れ込んでマネージャーをやっているとか。頭の中で情報を整理しながらもごめんください、とインターホンに微笑みかける。 「『週刊 ナナカラ』の者です」 「……取材、ですか」 急に応対の声が硬くなる。まあそれは当たり前であろう。記者にずっと追い回されることがストレスにならない人間はいない。一瞬は追い返されるかもしれないと覚悟していたが、どうぞという音と一緒に門がゆっくりと開いていく。頭をかいて門をくぐると、予想していた通り厳しい表情を浮かべた女性が立っている。 「オオエ・スイさんですか」 「そうです。あなたは……」 「『週刊 ナナカラ』の記者、ナカガワ・サトルと申します」 礼儀正しく一礼すると名刺を取り出して渡す。ピカチュウの形に切られた名刺を見てスイは一瞬表情をふっと和らげるが、すぐに厳しい目でサトルを睨みつける。 「すみません。叔母は疲れているので後日に……」 「おや、随分と若い記者じゃないか」 ひょいとスイの後ろから背の低い女性が現れる。前にテレビで見たときより白髪が増え、背も低くなったように思えるが間違いない。オオエ・ミドリだ。 「こんな辺鄙なところへようこそ」 ミドリはにこやかに笑って左手を差し出す。戸惑いつつも、それを顔に出さないように手をとって代わりに笑顔を浮かべた。 「お会いできて光栄です。ミドリさん」 サトルも右腕を差し出しミドリの手を取る。その手は思っていたよりもずっと細かった。 「なに、今はしがない老婆だよ」 ミドリは苦笑すると後ろの困惑している少女に声をかけた。 「スイ、後ろに下がっていな」 「おばさま、でも」 「いい、いい。平気だ」 ひらひらとミドリは左手を振り、そのままとんとんとスイの肩に手を置いた。 「お茶を用意してくれ」 スイは一瞬不満そうな表情を浮かべた。だがミドリの表情を見て諦めたように首を振ると、家の奥に消えていく。 「すまないねえ。悪い子じゃあないいだけど、どうも最近ピリピリしているみたいでねえ」 「いえ。突然訪問した方が悪いですから」 サトルは丁寧に腰を折って謝った。そうかい、とミドリは軽く微笑んだ。 「まあわざわざこんなところまで来たんだ。ゆっくりしていってくれ」 そういうとミドリはくるりと振り返って玄関へと入っていく。サトルは失礼します、と頭を下げてそのあとに続いた。 これまでに取材で芸能人の高級マンションに訪れることはあった。だが、これだけ巨大な屋敷に入ることは初めてであった。頭ではいけないと知りながらついきょろきょろと周囲を見渡してしまう。高級な和紙が貼られている障子に、丁寧に飾り付けられている生け花。そして外には壮麗な池があり、その中ではコイキングたちがばちゃばちゃと泳いでいた。 だが、それほどに広い屋敷であるのにも拘らずお手伝いさんらしき人は見当たらない。その割に屋敷にはチリ一つ落ちていないのだ。手持ちのポケモンに片付けさせているのだろうか。そして、それよりも気になるのは屋敷中を貫く薬草のような香りであった。鼻が敏感なポケモンならばそのまま倒れてしまいかねないくらいに強烈な匂いだ。 そんなことを考えていると、やがて客間である和室に通された。そして促されるままに座布団に座り、その向かいにミドリが座った。 「さてと、記者さん。なにか飲むかい?」 「あ、えーと」 「たしか貰い物のほうじ茶がまだあったと思うんだけどねえ」 サトルが返答する前によっこらせとミドリは立ち上がった。そのとき、襖がすすすと開いた。 「お茶を用意しました」 静かな声で入ってきたスイがお茶と菓子を机の上にのせる。サトルはちらとスイの表情を伺ったが相変わらず無表情であった。それを驚いたような表情でミドリが見つめる。 「おや、気が利くね」 「おばさま」 咎めるようにスイが言葉を飛ばす。ああ、そうだったねとばかりにミドリは頭を掻いた。 「すまないねえ、年のせいか頼んだことを忘れていたみたいだよ」 ミドリはそのままお茶を持とうと右手を出す。右腕はかつりと茶碗にぶつかり中に入っていたお茶がこぼれた。 「おっとっと……これは失礼」 即座に左手で茶碗を起こす。そして、何事もなかったかのように口へと運んだ。 「そういえばツネカズさんは元気かね?」 「ええ。デスクに昇進して現場に行けないと嘆いています」 「そうかい。あいつも出世したもんだねえ。昔はよく誤報を飛ばして殴られていたのに」 昔を思い出すような口調でミドリは言う。そしてサトルの方へ視線を向けた。 「さて、せっかく来てもらって悪いけど特に言えることはないよ」 穏やかな口調でミドリは言う。しかし、その穏やかさの裏には一歩も引かないという頑とした態度が透けて見えた。 「僕もいきなり話を聞こうとなんて思っていないですよ。ただ最近の世間話をするくらいです」 「記者はみんなそう言うけどねえ」 ミドリはそう言うとまたお茶へと左手を伸ばす。今度はお茶を零しはしなかった。 「本当に大したことじゃないです。ここら一年を取材して載せるだけですよ。アルセウスに誓って」 「記者やら政治家やらに誓われたらアルセウスもなかなか困るだろうねえ」 皮肉っぽくミドリは混ぜ返してきた。正面突破はやはり無理かと心中でため息をつく。取材対象に信頼してもらうには数カ月の時が必要である。それこそ朝のジョギングから同行し、飲み会のセッティングを請け負うくらいやるのだ。必要とあらばポケモンセンターに買い出しに行く。そこまでしてようやく一言二言のメッセージを得ることができる。そして今回はそんな時間がない。ならばプランBだ。 「失礼、お手洗いを借りても」 「どうぞ。正面に入って右側にあるよ。……ああ、迷うかもしれないからゴウカザルに案内させよう」 おもむろにミドリはボールを取り出すと放り投げた。しかし、ボールは少し外れたところへと落ち、出てきたゴウカザルは頭を柱にぶつけて顔をしかめた。 「すまないね、ゴウカザル。お客さんにお手洗いまで案内してあげて」 ぐる、とゴウカザルは同意の合図を出すように吠える。そしてぴったりとサトルの横についた。 「やあ、これはどうも」 作り笑いを浮かべてみたが、ゴウカザルはふんと鼻を鳴らしただけであった。大方、こっそり家を探られるのが嫌だったのだろう。ゴウカザルの目を盗んでラルトスに調べてもらうなどできるわけがない。さすがは元チャンピオンの操るポケモンだ。一年間実戦に出ていないと言うのに立ち振る舞いにまるで隙がない。いくらナナカラ弱しと言えども、さすがに自分ではチャンピオンには勝てないだろう。もし手持ちのポケモンを全て使っても届きはしないのだ。 そんな現実を振り払うように廊下を歩く。燦々と夏の日差しが差し込み、思わず目を閉じる。きょろきょろと辺りを見渡してみるが、特におかしなものは————。 (あれ?) ふとサトルは視線を窓の方へ移す。季節に合わせて選り取り見取りの花が咲いていた。イトケやロゼルの花が自らの華を主張している。だが、そんななかにおかしなものがあった。それは、一見すれば他の花に紛れ込んでしまうものかもしれない。薄紫や赤の花びらに子供の背丈くらいある緑色の茎、どこかで見覚えがある花だった。 こんこんとゴウカザルに背中を叩かれる。早くトイレに行けとばかりに睨んでいた。サトルははいはいと肩をすくめ、言われるがままに歩く。だが、頭の中では推論を必死にまとめていた。 4 「随分と長いトイレだったじゃないか」 何気ない口調でミドリは問いかけてくる。おそらく、自分が何か見たのかどうかを探っているのだろう。 「お願いがあります」 短期決戦でこの取材は決めてしまいたかった。下手に長引かせるとうまくかわされてしまうだろう。じっと挑むようにミドリの目を見る。 「なんだね」 「ラルトスを使ってもいいですか?」 「あなたねえ」 スイが横から睨みつけてきた。今にも怒鳴りそうなくらいの剣幕である。それをサトルはなだめたりはしない。ただミドリの方を見つめていた。ミドリの表情は読み取れない。怒っているようにも喜んでいるようにも見えない。 やがてミドリは肩をすくめる。そして足を崩した。 「馬鹿正直なのは嫌いじゃないよ。ラルトスでもなんでも出しな」 「では遠慮なく」 即座に答えるとボールをぽんと放った。中からは怖気付いた様子のラルトスが現れる。右を見てゴウカザルにびくりと震え、左を見てミドリの並ならぬ雰囲気に震える。そしてとたたとサトルの方に走り寄ってひっしと腕にしがみついた。 「ラルトス、いつものを頼めるか?」 背中をぽんぽんと叩きながらサトルが優しく言うと、怯えた様子ながらこくこくとラルトスは頷く。そして集中するかのように目を閉じた。 「その若さでラルトス・メソッドを使えるんだねえ」 ミドリは感心したように呟く。ラルトス・メソッドとは新聞業界で数年前から使われるようになった方法である。微細な噓にも目敏く気がつくラルトスは、取材対象が嘘を言っているか本当のことを言っているか見破ることができる。しかし、この技術は記者ならば誰でもできるわけではない。人に懐きづらく、臆病なラルトスをそこまで仕込むことができるくらいに腕の立つトレーナーでなければできない。サトルはそれが新人の頃からできる数少ない記者の一人であった。 「では早速質問をさせていただきます」 「何なりと。まあ、答えるかどうかはわからないけどね」 つまり都合が悪ければ答えないと言うことだ。しかし、それもまた一つの答えになりうる。 「まず、右腕はどうしたんですか?」 「どうしたって?」 「とぼけないでくださいよ。今日のあなたはずっと左腕を使っていた。あなたは右利きなのに」 思えば挙動の一つ一つがおかしかった。まず家を訪れたときも、握手に使ったのは左手であった。そしてお茶を飲むときも右手で茶碗を取ろうとして零し、左手で持ち直したのだ。 ボールを投げる時だってそうだ。あれだけ正確にボールを投げることで有名だったミドリがわざわざ利き手でない左手でボールを投げるなど不自然極まりない。 「ちょっと突き指を……」 ミドリが答えるが早いか、ラルトスは小さな声で鳴き、それが嘘であることを告げる。サトルはラルトスの頭を軽く撫でて咳払いする。 「それにまだ聞きたいことはあります。アツミの実の花がどうしてあるんですか?」 「……!」 その言葉に反応したのはスイの方だった。やはり、とサトルは確信を深めて話を再開する。 「アツミの実は一見ただの赤い花です。しかし、その実は鎮痛剤になります。……人間専用の、ね」 昔、雑誌で読んだ記事を思い出す。アツミの実はポケモンに毒であるが、人間にはかなりよく聞く鎮痛剤になる。服用方法を間違えれば麻薬になる程だ。それがあるということは、つまり。 「右腕の怪我に効かせるためにその薬を塗っていた。この館に漂う薬草のような匂いはアツミの実、そうじゃないですか?」 鋭い声でミドリへと推論を突きつける。ミドリは無表情だ。だが、その右腕は小刻みに震えていた。 「まだありますよ。僕はここに来る途中、タイガさんに会いました」 「タイガに?」 「ええ。調整のための試合と言っていましたが、どうもおかしな話です。ミドリさんならナナカラの四天王やチャンピオンも呼べたでしょう。他地方のトレーナーだって失礼ながらタイガさんより強くてミドリさんと親交があるトレーナーはいます。でも、わざわざタイガさんを呼んだ。それはなぜか?」 ここで一回言葉を切った。そして挑むような上目遣いでミドリを見つめる。 「タイガさんは普段ずっと人がいない修行の岩屋にいる。だからもし秘密を見抜かれたとしても、タイガさんが他のトレーナーに言いふらすことはまずない。仮にバレたとしてもイッシュという他地方の噂で終わる。そうじゃないですか?」 論理の太刀を突きつけた。突きつけられたミドリは相変わらず何も答えようとしない。サトルも何も言わなかった。ただ、ミドリが白状するのを待った。 どれだけの沈黙が流れただろうか。やがてミドリはふうとため息をついた。 「スイ、その人に知っていることを洗いざらい教えてあげな」 「おば、さま」 「賭けはあんたの勝ちだ。このエキシビションマッチを最後にあたしは引退するよ」 まるで茶でも飲むかのように気楽な口調でさらりとミドリは言った。がたっという音がする。それは自分が立ち上がった音だと気がつくまでにしばし時間がかかった。それはラルトスの表情を確かめるまでもない。紛れもなくオオエ・ミドリの本音であった。 「ちょいと疲れた。奥で休ませてもらおう」 ミドリは疲れた表情でそういうと、よろよろと壁に手をかけながら歩いていく。その姿は数年前までチャンピオンだったとは思えない。そこらにいる老婆となんら違いがないように思えた。 5 「どこから話せばいいんでしょうか」 スイはほうじ茶が入ったマグカップを手にして誰ともなく呟く。サトルは茶碗に手を出さず、ぴんと背筋を伸ばしてただ言葉を待っていた。今、この部屋にいるのはサトルにスイ、そしてお茶菓子をもらって無邪気に喜びくるくると踊るラルトスだけであった。 「一昨年、イッシュの遠征から帰ってきた叔母は右腕をずっとおさえていました。症状について詳しくは教えてもらえませんでしたが、私に隠れてこっそりと医者を呼んでいたのです」 形のいいほおに手を当て、スイは静かに語り始める。サトルはこくりと頷き、それを言葉の代わりとした。 「最初は大したことじゃない、すぐに治ると言っていました。ですが、私生活ではずっと右腕を使わないように庇っていました。ほとんど叔母は寝たきりで一言も喋らない日すらありました。そして極端に不機嫌になり私がいくら話しかけても無視することすらありました。さらにアツミの実まで取り寄せて栽培してくれと言ったのです。……幾ら何でも、すぐに気がつきました。私だけじゃなくって、叔母と直接はあまり関わらない他の方々もそのうち気がついたでしょう」 そこまで言ってスイは苦しそうに唇を噛む。 「ひょっとしてこの広い屋敷にお手伝いさんがいなかった理由は……」 「ええ、それを隠すためです。叔母は体の不調を誰にも知られたくはなかったのですから。そして、もちろんそれはライバルにも知られたくなかった。叔母はまだプロとしてやっていくつもりでしたから」 「それは」 何かを言おうとして、サトルは口を閉ざした。それに対してサトルはなんら言葉をもっていなかった。 「……それだけじゃありません。物忘れもだんだんと激しくなってきました」 マグカップを握るその両手は震えていた。いや、それだけでなく声も震えていた。 「最初は大したことじゃないと思っていたんです。年のせいだからありえない話じゃないと思っていました。でも」 ここでスイは大きく深呼吸して息を整える。その目の端にはきらりと光るものがあった。 「つい数日前は深夜徘徊しようとしている叔母に会いました。腰のホルスターにはモンスターボールをつけて、どこかに行こうとしていたんですよ。笑っちゃいますよね」 無理にスイは片頬を上げて笑ってみせた。ただ痛々しくて哀しい、そんな笑顔を。 「ミドリさんには、その」 「ええ、叔母も気がついています。でも叔母はまだ戦い続けたいと言ったんです。だから、私は一つお願いをしました」 「お願い?」 「ええ。もし誰かに体の不調を見抜かれたらいさぎよく引退してって。そして、叔母はそれを引き受けました。……見事に、見抜かれちゃいましたね」 スイは軽く肩をすくめた。何を言うべきかサトルが迷っているとスイは席を立って伸びをした。 「私から話せることは以上です。何かありましたらまた連絡をください」 スイは疲れたように笑った。しかし、まるで何かから解放されたかのようにもサトルには見えた。 6 夜、サトルは息を切りながら、ツネカズと待ち合わせをしたバーに駆け込む。そして、何かを注文するより早く、ツネカズに原稿を渡した。 「へえ、抜いたのか」 驚いたようにツネカズはサトルが書いた原稿に目を走らせる。ツネカズとの待ち合わせにまで書き終えるようにしたせいか、ところどころに誤字や脱字がある。普段は丁寧に直すのだが、今回は興奮が先走って一切手をつけていない。タイトルも【オオエ・ミドリ氏引退を発表】という捻りのかけらもないものだ。だが、そこに書かれている内容はスリリングなものだ。実はオオエ・ミドリは一年間、病と怪我を隠していたのだから。 どくどくと胸中から麻薬のような快感が全身を流れていた。これはカントー行きの切符だ。これだけの特ダネ、自分以外に抜いている記者はいなかっただろう。現に記者クラブを覗いたとき、誰も特ダネに沸き立っている様子はなかったのだ。 ツネカズは一度、そして二度と原稿を舐め回すようにして読む。いつもならば誤字・脱字にやたらうるさいが、今回は何も言わなかった。 やがてツネカズはぽんと机の上に原稿を放り出し、おもむろにタバコを咥えた。 「なんで話したんだろうな」 ぽつりとツネカズは呟いた。ライターを取り出し、タバコに火をつけるとまずそうに煙を吐く。 「一年間ずっと取材を追い返していた女だぜ。病気を隠したいのなら、なんで今更白状するような真似をしたんだ?」 「隠すのがしんどくなったからじゃないですか?」 サトルは想定外な反応に首を傾げながらも反論する。そうかもな、とツネカズは釈然としない声でそれに答えた。またもツネカズはざっと記事に目を通す。そして、ふうと煙で大きな輪っかを作って見せた。 「まだ気になるところはあるぜ。どうしてオオエ・ミドリは自分でインタビューを答えなかったんだ? そして、なんでお前を自宅にあげて取材させたんだ? カフェでも行けば嗅ぎ回られなかっただろう」 「体調が悪いからじゃないですか? 事実、顔色も優れていませんでした。それにカフェは近くにありませんでした」 「おいおい、チャンピオンに何度もなったやつがいくらブランクあろうと体壊すわけねーだろ。あいつはそんなタマじゃねーぜ」 「それは感情論ですよ。そもそもラルトス・メソッドを使ったんです。裏はちゃんと取れています」 「そのラルトス・メソッドを許したのがどうも怪しいんだよ。あれを嫌うやつは多いだろ。」 カタカタと椅子を苛立たしげに揺らしながらツネカズは反論した。事実、取材対象も事実を曲解されることが嫌でラルトスの同席を断ることが多いのだ。そして仮にラルトスを同席させることができても、曖昧な言葉を連発してラルトスを惑わせる人も多くいる。さらにそもそもラルトス・メソッドは人権に反するとして国内外でも反発が大きいのだ。 ツネカズはどっかと椅子に座りなおした。そしてまだ長いタバコを灰皿にぐいっと押し付けてもみ消し、また新しくポケットから取り出して咥えた。 「お前、さ」 「はい」 「そのロングインタビューはお前の名前を載せるな」 「……は?」 一瞬頭がついてこなかった。それだけツネカズの言葉は衝撃的であった。 「どうして、ですか?」 「その記事が信頼できないからだ。飛ばしかもしれねえ」 飛ばし、つまり偽の情報かもしれないということだ。しかしそんなわけないとサトルは作り笑いを浮かべる。 「飛ばしって……そんなわけないでしょう」 仮にオオエ・スイが嘘を言っていたのなら、ラルトスがそれに目ざとく気がついてくれるであろう。気がつけば拳がぎゅっと握られ小刻みに震えていた。 「飛ばしだったらどう落とし前をつける気なんだ。ええ?」 ヤニ臭い息を吐きながらぐいとツネカズが睨みつけてくる。それをサトルは苛立たしげに睨み返した。 「裏が取れている記事を載せられなかったら何も書けないですよ。まさか真っ白で記事を出せと言うのですか?」 気がつけば声も震えていた。自分の中にある衝動を抑えるので精一杯であった。この男は自分が特ダネを抜いたことに嫉妬している、そうとしか思えなかった。 「本当はこんな記事を載せたくないくらいだ。トロッコの信頼できない記事なんざ載せたらうちの沽券にかかわるぜ」 「てめえっ!」 手が勝手に出てツネカズの襟首をつかむ。ツネカズは冷たい目でこれ見よがしにタバコの煙を吐いてみせた。 「もし今回の記事が飛ばしじゃなかったら、俺が上に土下座してお前をカントーでも一種でもどこにでも行けるようにしてやらあ。だから今回ばっかりは名前を載せるんじゃねえ」 ぷつんと何かが切れた音がした。サトルはツネカズを突き飛ばすと、コップを引っ掴んで顔に投げつけた。ばしゃっという水がかかる音とコップが割れる音が聞こえる。店から悲鳴とどよめきがあがった。だが、ツネカズはそうなっても何も言わない。髪から雫が滴るのも無視してじっとサトルの目を見つめていた。 サトルは憤懣たるや仕方ないという様子で椅子を蹴飛ばすと、自分のバッグだけひっつかんで店の外へ出た。 「……お客様、大丈夫でしょうか」 恐る恐るといった様子でボーイがおしぼりを渡してくる。悪いな、とツネカズは微笑んでそれを受け取った。 びしょぬれの髪をおしぼりで拭くと、ツネカズは気を取り直すようにタバコを取り出した。しかし残るタバコも湿気っていて何度ライターの火を近づけても着火しない。 「クソガキが」 一言呟き、ぐしゃっとタバコを握り潰す。しかしどうしてか、ツネカズは嬉しそうに微笑んでいた。 7 『お待たせしました! エキシビションマッチの開幕です!』 定刻きっかりに、舞台へと上がった司会者が声を張る。わああという歓声が客席から響いた。いつもは好カードでも人が少ないのに、今日はカントーやホウエンの訛りで喋る観客も多くいた。その中には知る人ぞ知る往年の名トレーナーや、期待のホープと誉れ高いトレーナーもいる。彼らは皆、オオサト・アカネという新たなライバルのなりうるだろう相手を観察しにきたのだ。司会者もそのことをわかっているのか、大きく声を張り上げて片方の扉を指した。 『まずはナナカラの新しきチャンピオン、オオサト・アカネ!』 雷のような歓声がわあっと広がった。赤い紙吹雪と観客の期待を背中に受け、アカネは舞台へとゆっくり歩く。その無表情な目には何も写していない。ただいつもと同じように、ぶすっとした表情でただ舞台へと上がった。 『そして帰ってきた斬り込みクイーン、オオエ・ミドリ!』 またも爆発するような歓声が沸き起こる。アカネのときよりも多少そのボリュームは落ちるが、さすがは第一線を走り続けてきた選手というべきか。いまだにその人気は色褪せない。だが、歓声に混じって「大丈夫?」や「怪我していたんじゃないの?」という声もぽつぽつと耳に挟んだ。 しかし、ミドリはそれが聞こえていたかのように笑った。そして高々と左腕を掲げる。 たったそれだけの挙動、しかしより一層大きな拍手と歓声が鳴り響いた。まるで今日の主役はアカネだけでない、自分もまたそうだと示すかのように。 やがて、両者が向かい合う。視線は一瞬交錯し、同時にお互いボールを持った。 ぼそりとアカネは何かを呟きモンスターボールを無造作に放った。ぱかんとボールが割れたかと思えば中からはどこか神的なオーラを携えたポケモン−−−−エーフィがすとんと地面に着地する。エーフィという種族はきらびやかで美しい。そんなイメージが人口に膾炙しているがアカネのエーフィに至ってはそんなことない。まるで肉食の獣のようにミドリの右手に握られたモンスターボールを睨みつけている。 「いっておいで、ゴウカザル」 そんなエーフィの挑発をどこ吹く風で受け流し、ミドリもまた無造作にボールを放った。すると赤い獣が咆哮を上げながら飛び出してエーフィを睨み返す。落ち着きな、と言わんばかりにミドリはそのポケモン————ゴウカザルの背中をとんとんと叩いた。するとゴウカザルは興奮を押し隠すようにぐるると押し殺した声を出して地面を軽く蹴った。 観客の間からおおというどよめきが聞こえる。ミドリはゴウカザル、アカネはエーフィというお互いが信頼するエース級のポケモンが睨み合っているのだ。 その様相に多くのファンは熱い声援を送っていたが、サトルは冷たい視線を送っていた。そもそもミドリのパーティーにはエスパータイプのポケモンが突き刺さっている。だから初手でアカネがエーフィを出すことなどわかりきっていただろう。ならば、せめて相性の不利を取られないポケモンくらい出せばいいのにと考えていた。いや、昔のミドリならばそんなことくらい言われるまでもなくやっていた。むしろミドリのパーティに対してメタ構築で挑めば逆に手痛いしっぺ返しをくらっていたのだ。だが、今はどうか。冴えない采配にエースに固執する姿。あれが往年の名トレーナーと少しバトルをかじったことがあるトレーナーなら口に出したくなかった。 「ゴウカザル」 ミドリの静かな声が歓声のなかで一際高く通る。ゴウカザルは負けじと吠え返し、視線を主人と同様にまっすぐ前へと向ける。たったそれだけの挙動で、歓声はわずか数秒止んだように思えた。まるで一流の落語家が外套を脱いだ時のように。 そのとき、サトルは小さくあっという声を上げた。動かないはずのミドリの右腕が微かに動いたかのように見えた。途端に、違和感がもやもやっと広がっていく。何か、どこかおかしいということに。 「あくのはどう!」 動かないはずの右腕をびしっと前へ突きつける。刹那、ゴウカザルは出せないはずの黒い光線が真っ直ぐエーフィに突き刺さった。 8 ミドリが己の限界に気がついたのはいつからであっただろうか。毎年のように絡んでいたチャンピオン争いから後退したときであっただろうか。それとも、新しい戦術についていけなくなった時であっただろうか。 そのどちらも正しいとミドリは朝刊を睨みつけながら思う。一面にはチャンピオン二連覇という華々しい記事と、ぶすっとした表情を浮かべる少女が載っている。この年、ミドリは挑戦者決定トーナメントの三回戦であっさりと敗退してしまった。 一度の負けならば不運もあるだろう。どれだけ強いトレーナーでも格下に負けることは往々にしてあるのだから。それに、ミドリが負けた相手は気鋭の若手と誉れ高いトレーナーだ。その負けは不思議ではない。 だが、挑戦者になったそのトレーナーはオオサト・アカネの前に手も足も出なかった。チャンピオン決定戦は七番勝負になっていて、四本取ったほうがチャンピオンになれる。オオサト・アカネはただの一試合も負けることなく、格の違いを叩き込んだのだ。 そして、名実ともに現役最強トレーナーと呼ばれるようになった。メディアも新たな英雄に喝采を浴びせている。 それは、時の流れからすれば当たり前の話だ。いつの時代だって、前時代の最強は塗り替えられる。理性ではそうわかっていた。 だが、それはミドリが耐えられる事実ではなかった。数十年もの間、ナナカラにチャンピオンとして君臨してきた。しかし、その間には一度もアカネに勝っていない。そして、これから先はおそらく正攻法で勝てるわけがないこともわかった。いや、それどころかこのままならチャンピオンに挑戦することすらできないであろう。だからこそ、エキシビションマッチという場に全てを賭けた。 まずやったのはゴウカザルを見せるという行為である。大体の試合でゴウカザルを先発させ、自分がエースに固執しているように見せかける。そうすれば、アカネはきっとエースであるエーフィを先発させるだろう。 アカネのパーティの骨子はエーフィにあるとミドリは睨んでいた。彼女が古くから連れているポケモンであり、その実力は言わずもがな高い。愛玩用のポケモンとは思えないくらいの鍛えっぷりであった。事実、たかがエーフィと舐めていたトレーナーはことごとく返り討ちにあっているのだから。 自分のパーティではエーフィと互角に戦えるポケモンはせいぜいゴウカザルだけであろう。だが、ゴウカザルもタイプ相性の差でまともに戦えば蹂躙されるだけだ。 そこで重要になってくるのがゾロアークというポケモンである。イリュージョンという他のポケモンに化けられる唯一の特性を持っているのだ。これだ、とミドリは確信する。ゾロアークは所謂“一発屋”のポケモンであるため、プロトレーナーの間では採用率が著しく低い。仮に一度はそれで有利をとれたとしても、次の試合からは対策されてしまう。だからゾロアークを手塩にかけて育てようがコスパは悪い————それがプロ界隈の常識であった。 だが、ミドリはどのみち二度、三度と対戦の場に立つつもりはなかった。一回、ただ一回だけアカネに勝てればいいのだ。ミドリは適当な理由をつけてイッシュへと遠征し、ゾロアークを二匹確保した。 あと必要なのはオオサト・アカネに対する対策である。これには随分と悩まされた。アカネはどんな相手であろうが非公式戦であろうが一切油断しない。事前にこっちの情報を集め、分析してくるのだ。万が一こっちの戦略がバレてしまえば意味はない。 だからこそ、徹底して情報が漏れないように留意した。マスコミは適当に追い返し、屋敷に閉じこもって自分が何をしているかわからないようにする。これは、マスコミだけではない。姪っ子かつマネージャーであるスイすら騙さねばならなかった。人の口に戸は立てられぬと言う。スイは人にペラペラと秘密を喋るようなタイプではなかったが、僅かなりともアカネに怪しまれる可能性を残したくなかった。 だからポケモンの訓練は真夜中にこっそり行った。住んでいる場所が田舎ということもあり、近隣住人に気がつかれる恐れはない。あとはスイを騙しきることであったが、ここで二匹捕まえたゾロアークが活きてくる。一匹は自分に化けさせて夜通しベッドに入ってもらった。言葉こそ喋ることはできないが、夜半に騙すのには十分であった。 正直、綱渡りもいいところの戦略である。毎日毎日苦しい思いをしながら週刊誌を読んだ。だが、幸いにもどこの雑誌にもバレてはいない。幸いというべきか、大衆の興味は一線を退いた自分ではなく新たに現れたチャンピオンの方に向いていた。だからこそ、ゾロアークをこっそりと十分なレベルまでしごくことができた。 しかしここで面倒なことが起こる。エキシビションマッチがあるということでにわかにメディアの注目がこっちに集まっていた。そしてアカネもこっちの情報をそろそろ探ってくるであろう。あまりにも自分の動向が少なければ、逆にアカネは怪しんでくるのではないか————そんな不安が鎌首をもたげた。 メディアを利用しよう、ミドリが出した結論はそれであった。ここ一年間、自分はずっと病気と怪我で臥せっていた、だから今回の試合を最後に引退する。そんなストーリーを作ればいいだろう。あとはその撒き餌を記者に食わせ、記事にしてもらうだけだ。だが、ここで問題になってくるのは大体の記者が連れているラルトスというポケモンである。かの種族は声の調子や仕草からこちらの嘘を見破ってくる。だから、絶対に嘘をついてはならない。なんとなくはぐらかし、曖昧な返答で嘘とバレないように答える。そして自分の代わりとしてスイに記者の対応をさせればいい。 はたしてその願いは叶えられた。週刊誌に自分が怪我と病気を苦に引退するという記事が大々的に打ち立てられた。 あとやることは簡単だ。仮病がばれないようにマスコミを徹底して追い返せばいい。ずっと騙すことは無理であるが、必要な時間はたった数日である。 さて、舞台は全て整えられた。一年間、ずっと自分は刃をずっと磨き続けていた。嘘、そして伏兵という二つの刃を。だから、あとはそれを存分に振るうだけであった。現チャンピオンにして、打倒すべき目標であるオオサト・アカネの背中にそっと剣を当てて。 9 幻影から解き放たれたゾロアークはエーフィーを見て卑しく笑う。エーフィはそれをきっと睨み返すが、その表情に覇気はなく苦しそうだ。 今、会場はエーフィの苦しげな声すら聞こえるぐらいに静まりかえっている。解説ですら言葉を失っていた。サトルもまた例外ではない。 このエキシビションマッチは引退試合のように始まったのだ。だが、今は会場全体が異様な空気に包まれている。あれほど表情が変わらないアカネですら呆然とした表情を浮かべている。そんな中で、ただミドリだけが冷静な表情を保っていた。 「ゾロアーク、もう一回あくのはどう」 「……エーフィ、ひかりのかべ!」 ミドリに遅れること一秒、アカネが気をとりなおして指示を下す。エーフィもさすがの反射神経で壁を展開し、あくのはどうを受け止めた。 「走ってかき回せ!」 アカネが右手をびしっと振るうと、ゾロアークはエーフィへと婉曲的に迫る。エーフィも対応しようとするが、技をくらった衝撃からかうまくいかない。いや、それどころか一発を貰わないことで精一杯だった。 「戻れ、エーフィ……」 「おいうち!」 アカネがボールを掲げて一旦緊急脱出させようとする前に、ゾロアークの爪がエーフィに叩き込まれる。そのままエーフィはぐったりと倒れ、審判が戦闘不能を告げた。 『な、なんとミドリ選手! アカネ選手のエースであるエーフィに何もさせなかった!』 ようやく気をとりなおした解説が大声で叫ぶ。だが、その言葉は事実であるのにどこかふわふわとして現実感がない。まるで蜃気楼かのように頭から抜けそうになった。 今やナナカラ最強と謳われている少女がロートルのトレーナー相手に苦戦している。それも、エース格であるエーフィにほとんど何もさせてもらえず叩きのめされたのだ。いや、それだけではない。ここ一年全く動けていなかったはずのオオエ・ミドリがゾロアークを持っている。 「もう始まっていたのか」 ふとサトルの横に誰かが座った。そっちの方を見なくても、ツネカズだということくらいすぐにわかった。数日前に暴力を振るった相手だ、とサトルは露骨に目を逸らした。ツネカズがやったことは許していない。しかし、まだ殴りたいと思うほどには子供でもないし、何事もなかったかのように流せるほど大人でもなかった。 「試合はどうなっている?」 「……オオエ・ミドリが最初に一本取りました」 「ならこのまま押し切れるのか?」 「いや、まだ難しいです」 アカネが出した二体目はグライオンである。ゾロアーク相手に相性が悪いわけでもないが、かといってよいわけでもない。それでもここで耐久型のポケモンを出したということは、おそらく時間を稼いで体勢を立て直すため。グライオンのゲームメイクに託したというわけであろう。ミドリがゾロアークを戻してトドゼルガを繰り出せば、グライオンはさっと身代わりを生み出す。この交換はグライオンの方が得をした。おそらくグライオンはどくどくだまを持っている。体力を回復しつつ守りを固めたらとんでもない要塞になるだろう。 ここまで分析してふうと足を投げ出した。いまさら、自分がこんなものに執着してどうするのか。一方でツネカズは楽しそうにその試合を眺める。 「どっちが勝つと思う?」 「それを僕に聞きます?」 「お前だってジムバッジ集めてチャンピオントーナメントに出たんだろ」 「出ただけですよ」 ぶっきらぼうな声であると知りながら、修正せずにそのまま答えた。 「僕の試合なんておもちゃみたいなものです。チャンピオンじゃなければジムバッジ一つ持っていない赤ん坊と同じです」 戦術が遅れているナナカラですら、チャンピオンたちは自分よりも遥か上をいく。悔しくも、それはまぎれもない真実であった。 「おもちゃ、ね」 手慰みにツネカズはタバコを咥えようとする。しかし、館内禁煙の表示を見つけてかわりに飴を放り込んだ。 「疲れないのか、そんな考え方?」 「負けるよりずっとマシですよ」 ため息をつきながら答えた。ミドリはようやくグライオンを突破したが、トドゼルガは毒によってじわじわと嬲り倒されていた。おまけにステルスロックを撒かれ、アカネに有利な場が作られていた。アカネはエーフィを失ったが、試合の流れを持って行かれないようにグライオンの粘りで叩き切った。グライオンも隙あらばハサミギロチンを見せ、踏み込み上手のミドリを封じ込めていた。これを言葉にすることはかなり簡単だ。しかし、実際にやるとなったらかなりの力量が必要であろう。 続けてミドリはトゲキッス、アカネはファイアローを繰り出した。お互いに空を飛ぶポケモンの選出であるが、見知らぬポケモンと戦い慣れていないミドリには若干分が悪い。そして、アカネは試合の流れをこのまま引き込むつもりだ。 「で、どっちが勝つと思う?」 最初の質問に戻った。サトルは試合をちらと見て一つ頷く。 「アカネの勝ちですね」 「わかるのか」 「わかりますよ」 あまりにも物が違うのだ。アカネの攻撃は正確で一切の無駄がない。大技から指先の挙動まで全てが理想的だ。それに対してミドリの行動にはムラがある。ポケモンもまたそうだ。現場レベルでの判断はアカネのポケモンが格上である。ミドリは弱くない。一年間のブランクを感じさせないほどその戦いぶりは凄まじい。そして彼女が従えるポケモンもかなりの練度を誇る。ナナカラは遅れていると言った自分がバカだと思えるくらいに。 だが、そんな努力など無駄とあざ笑うばかりにアカネは強かった。表情もほとんど変えないのに一つ一つの動きからは徹底して無駄が排除されている。まるで生まれつき戦うことを命じられてきたかのように。 「才能ですよ」 吐き捨てるようにサトルは言った。どれほどに努力し、戦い、諦めずとも、そこには厳然として才能の差がある。トッププロでもまたそうなのだ。自分がどう戦えようか。 ミドリのトゲキッスが地面へと落とされた。対するファイアローはほとんど傷ついていない。再び戦場にはゾロアークが出てきたが、その体にいやらしくステルスロックが食い込む。おそらく、ファイアローにあと二体ほど持っていかれるであろう。 そうか、とツネカズはつぶやいた。そしてぽりぽりと頭をかいた。 「俺は根っからの記者でポケモンなんてわかんないけどよ。お前はまだ戦いたいんじゃねえか?」 「戦いたい?」 「ああ。じゃなきゃこんな稼業やんねえぜ」 口が寂しいのか、またツネカズは飴を放り込んだ。そのころ、ゾロアークはわずか一撃の反撃を見せただけであっけなくファイアローに倒されていた。 「給料は安いわ田舎に飛ばされるわ。おまけに上層部は頭が硬いわ。正気でこの仕事をやれるわけねえぜ」 サトルは答えなかった。それをツネカズは肯定と捉えたのか話し続ける。 「俺は記者くらいしかできないから記者をやった。でもお前は違うんじゃねえか?」 「どうしてですか?」 「だってオオエ・ミドリに騙されたのに怒ることもなく試合に没頭している。それは勝負師の証左ってやつじゃねえのか?」 はっとサトルはそこで気がつく。確かに自分はミドリに騙された。しかし、騙されたときに沸くはずの苛立ちはどこにもない。 二人は誰に言われたわけでもなく、同時に黙り込んで試合を見る。ミドリのフーディンがファイアローをサイコキネシスで方向感覚を狂わせ、地面へとうまく叩きつけていた。観客もなぜか遠慮するようなため息をつきながらその試合を見守る。 ナナカラを代表する二人の乱舞は続いた。アカネのドリュウズへとフーディンが突っ込み、今度は地中に潜るポケモンとサイキックを操るポケモンの激闘が見せられる。そのあともマホイップが出たかと思えばカイリューがそれを受け止め、カイリューが出てきたかと思えばミミッキュが出て場をどよめかせた。 そして、どんな乱舞にも終わりがある。切り札であるミドリのゴウカザルがミミッキュの前にゆっくりと膝から崩れ落ちていく。新旧の激突は今、決着がつこうとしていた。 10 『新旧チャンピオンのエキシビションマッチを制したのは、オオサト・アカネ!』 ぐっと拳を突き上げて司会者が叫び、会場が轟音に包まれた。非公式戦とは思えないくらいの白熱した戦いであった。いや、むしろ公式戦でもこれほどの名勝負はなかなかないだろう。しかし、それは客観的に見たら大敗であった。オオサト・アカネはここナナカラでほとんど相手に何もさせずに完封してきたのだ。しかし、ミドリは最後の一体まで引きずり出して見せたのだ。 『勝ったアカネ選手! 試合を振り返ってどうだったでしょうか』 司会は興奮のままにアカネへとマイクを向けた。だが、勝ったアカネは何も答えずに口を真一文字にしていたのだ。 「で、ではミドリ選手。惜しくも負けてしまったわけですが。この試合を振り返ってどうでしたか」 司会者は動揺しながらもミドリへとマイクを向ける。しかしそのマイクをミドリは冷たく払った。 「負けた。それ以外に何か必要か?」 「な、何かとは……」 「負け犬に言葉はいらない」 冷たく刺々しい言葉はミドリ自身に向けられていた。今、ここにいるのはまるで存在価値のない蛆虫であるかのように。そして、その刃はサトルの心も切り裂いた。 敗者の無様な傷であった。どれだけ馬鹿にされようといい。どれだけ卑怯となじられようが構わない。それでもミドリは欲しがったのだ。汚れきってほとんど黒星と見分けがつかない白星を。 それがわかった。わかってしまった。どんな御託も勝ち星の前に全てが濁る。意味のある負けはあるかもしれない。だが、それは勝負という土台から外れた正論に過ぎないのだ。負けて良ければ全ての戦いが無意味である。 ざわざわとどよめきが広がっていく。そんな不穏な空気の中でミドリは何も言わずに退場していく。最後まで誰にも何も答えようとはしない厳しい表情で。しかし目元には涙が浮かんでいるのを見逃さなかった。 「ナナカラいちの駄々っ子だな」 ツネカズは小さな声で呟いた。 11 「退職届」 そう書かれた封筒をツネカズに渡した。ん、とツネカズはでそれを受け取るとポケットに突っ込み、一気に麺を啜った。サトルも何も言わずにラーメンをゆっくりと啜った。この美味しいラーメンも食べ納めになる。そう考えたら少し悲しい気持ちにもなった。 「随分と早いな。もう半年くらい続けると思っていたが」 「ええ、まあ」 曖昧な返事をしてまたずぞぞと麺を啜る。このラーメン屋も今日が最後だと思って注文した餃子はほとんど手を付けていなかった。どうもここはラーメン以外美味しくない店だったようだ。最後の最後まで地雷に引っかかるもんだと自嘲した。 しばらく沈黙が流れる。ツネカズはまるで何もなかったかのようにラーメンをすすり、炒飯を食べていた。そっちの方が美味しそうだった。 「やめたあとはどうするつもりなんだ」 「またチャンピオントーナメントに挑戦しようかなと思っています」 はっきりとした声でサトルは答える。今度こそ、挫折するつもりは一切なかった。届かないとしても遥か空の果てを望む。黒星を意味のないものと切り捨て、ただ勝つために努力する。それ以外に心の休まる時は必要ない。そんな姿勢を自分は忘れていたのだ。 「そうか」 それを肯定するでもなく否定するでもなく、ただそのように答えた。きっと自分がそう答えることを予測していたのだろう。 ツネカズはスマホロトムに視線を落とした。アプリもほとんど入っていないそのスマホを懸命にタップするが、指が乾燥しているせいかなかなか反応しない。やがてスマホをいじるのを諦め、ポケットの中にスマホを突っ込むと、天井を見上げた。 「今回の記事さ」 「俺が飛ばしたと上に伝えておいた」 「……は?」 耳を疑うような言葉がぽんと飛んできた。それを気にしていないかのようにツネカズは淡々と言葉を続ける。 「だからお前の経歴に傷はついてないぜ。うまく特ダネを抜いたらカントーやアローラへの道も拓けるはずだ」 「どうしてそんなことを」 「トロッコの尻拭くのが上の仕事だ、バーロー」 ツネカズはサトルの表情を見ないで麺を啜る。座っている古い木の椅子がギイと鳴った。 「まっ、うちが誤報を飛ばしたオオエ・ミドリが脚光を浴びているんだ。全く無駄な誤報じゃあなかった。あんまりお叱りはきつくなかったぜ」 だるそうに足を組んで、わざと気にしていなさそうな様相を振る舞った。だが、サトルの表情はまだ固い。特に今回は特ダネとして外に出した以上、批判は避けることができない。ツネカズがデスクとなってカントーなどの都会に戻れるようになるまでかなりの時間がかかるだろう。いや、それどころか一生ここでデスク兼記者という業務をこなさなければいけないのだ。そんなサトルの気持ちを読み取ったのか、ツネカズも真面目な表情になった。 「もーちょい続けろ」 いつのまにかツネカズは食べ終わっていた。よれよれのズボンからライターを取り出し、タバコを咥える。 「記者って稼業もバカになんねえぞ。天才だろうが犯罪者だろうが取材できる。当然、強いトレーナーだって取材できるし、そいつらの考えることだって知れる。人間の奥深さってのはオーキド博士ですら知らないだろうよ」 ツネカズは淡々と言葉を続けた。サトルは両手を膝に置いて行儀よくそれを聞いている。 「それにナナカラだって捨てたもんじゃないさ」 こんこんと机を叩き、にやっとツネカズは笑う。 「何よりラーメンが美味い。カントーでもジョウトでも食べられねえぜ」 「……ええ、それはそうですね」 サトルは苦笑すると、魚介系の旨味を味わった。今度は炒飯を食べてみようか。いや、あえてチャーシュー丼といったメニューに挑戦してみるのもいいかもしれない、そう考えながら。 カウンターの向こうでは客がほとんど来ないために暇を持て余した無愛想な親父がふんと鼻を鳴らす。そして、むさくるしい男の空気を逃がそうと窓を開けた。 キシベタウンに特有のツンと鼻につくような潮風が舞い込んだ。親父は顔をしかめてすぐに窓を閉じたが、風の残滓が調理台に置いてある『週刊 ナナカラ』のページを捲れ上げた。 【オオサト・アカネが逆転勝利】 オオサト・アカネ選手(17)=ナナカラ地方ロクロタウン出身=が、オオエ・ミドリ選手を相手に見事な逆転勝利を収めた。 アカネ選手は序盤にエース級であるエーフィが完封されるなどの苦戦をしたものの、咄嗟の機転とチャンピオンらしい堂々たる戦い振りで突き放した。 なお、オオエ・ミドリ選手はこの戦いを最後に引退すると関係者の取材で語った。通算成績は671勝342敗。 (文責:ナカガワ・サトル)