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紅き夜の黒き闇の中で 惨 の変更点


*&color(purple){紅き夜の黒き闇の中で}; &color(red,black){惨}; [#b0794514]

&color(red){※この作品には過激な表現(流血、グロテスク等)が多々含まれます。少しでも苦手だという意識を持たれる方にはあまりお勧め出来る内容にはなっておりません。万が一体調を崩されるような事があったとしても、一切の責任は取れません故、閲覧の際はよく考えてからご覧下さい。};退出の際は下からお帰り下さい。

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[[まとめ>紅き夜の黒き闇の中で]]

前作:[[紅き夜の黒き闇の中で 弐]]

作者:[[トランス]]

★前回登場ポケモン☆

※主要キャラはお手数ですが前章の初めに簡単な説明がありますのでそちらから。またはまとめにある紹介ページをご覧下さい。

・ルレング(ゾロアーク♂)=裏組織の集団『暗黒の翳』の&ruby(king){帝王};。レナ達に怨まれつつ、自身も彼女達に関する何かに憎しみを抱いている。
・エルス(レパルダス♀)=『暗黒の翳』の&ruby(queen){女帝};。ミステリアスな雰囲気を醸し出していて、仲間達でさえ彼女の素性を知るものはいない。ワルツに何故か反応を示している。
・アーザン(ヤジロン)=『イテツキ』という会社のサーチロボ。性能は非常に良い。ワルツの付き添いとして行動するが、敵の攻撃を受け身体自体は破壊されてしまった。
・リオス&フラックス(ルカリオ♂&メタモンたぶん♂)=&ruby(ポケモン){携帯獣};警察のポケモンで、『暗黒の翳』の調査をしていた。星である集団のメンバーを捕らえる為ハウンド達に協力する。
・アーチェ&バリダ(バルジーナ♂&キリキザン♂)=『暗黒の翳』の&ruby(bishop){僧正};と&ruby(knight){騎士};。ハウンド達と交戦する。

目次↓

#contents

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**1 [#f56543ca]

紅みを帯びる月が夜の漆黒の空を支配している。その下に広がる山々では秋も近い為か、日が落ちた静けさに紛れ発情した雄蟲達が思い思いに美しい音色を奏でている。実態は子孫を残すべく必死になり、聴いている此方が恥ずかしくなってしまう程濃厚な口説き文句だが、その美声と的確なリズムで詠われるそれは非常に心地良いものだ。日が落ちれば既に凍てつく様な寒さが拡がっている、それでも先へ連なる山々はそれに負けない熱気に包まれていた。しかし、この世の全ての山がそうとは限らない。身体の弱い蟲が、獣界山に取り憑いた呪いのような力に抗う事は難しい。その為、初秋にも関わらずその山の一帯は静まり返っていた。
その静寂は、唐突に破られる。大気を揺るがす低い轟音と共に、丁度獣界山と無命山の境の辺りに勢い良く煙が立ち上った。空に向け真っ直ぐに伸びるそれは&ruby(さなが){宛};ら地下深くから噴き出してきた間欠泉の様だ。隣山を十分に見渡す事が出来る崖の上にいた黒い猫と白い獣は、その異常にすぐに気が付く。そして天高く伸びた煙、まるで柱の様なその根元の場所を見た黒猫、レナの顔からさっと血の気が引く。隣に座る白獣、シクルも事の重大さを視角のみならず自身の角からも感じ取り腰を上げた。
「…奴らと接触したのかな」
今だ灰色に包まれる其処に目を向けながら、シクルは呟く。下見に行ったまま中々帰らない仲間を心配しているようだ。シクルの発言に、レナは目を大きく見開き、シクルの横顔へ視線を移した。その赤い瞳は不安の色を湛えている。今は命に関してひどく敏感になっている彼女には、そんな一言でも感情が揺れ動いてしまったのだろう。
「…確かめなきゃ判んないわ、行ってみるわよ!」
不安を感じながらも、それを振り払うように言葉を吐き出しながらレナは素早く立ち上がる。そのまま崖の縁に爪を掛け身体を岩壁に下ろすと、片方の腕と脚の爪を引っ掛けたままにして崖を滑り降りてゆく。降りながら崖の上を見上げたレナは速く速くとシクルを急かす。その行動力の速さに、彼女と長い付き合いであるシクルは昔と変わらないな、と呆れ気味に笑うと、彼もすぐに様行動に移行した。腰を低くし身構えた彼の全身から白く輝く力の粒が湧き出し、それは風となって彼を包み込む。風はそのまま崖下へ飛び出した彼の身体を支え飛距離を伸ばす。
少しずつ近付いてくる地面に出来るだけ脚を垂直にしながら、シクルは煙が立ち込める場所から1km程離れた所に着地する。彼を包んでいた風は、勢いよく飛んできた彼に負担が掛からないようにと、着地の瞬間に上昇気流へと変化し、その衝撃を最小限に抑えてくれた。冷たい土の上に降り立ったシクルは、側に茂っていた草の中に隠れつつ辺りを見回し警戒する。静まり返った山の林の中には、既に焦げ臭い臭いが充満していた。
木の葉が風に煽られ音を立てているが、それ以外にはなにも聴こえない。人の気配も全く持って感じられない。取り敢えずこの辺りは安全だろうと確認したシクルはほっと息をつく。そこへ丁度追い付いてきたレナは生え揃った木々を蹴ってそのままシクルを追い抜いていってしまった。
「ちょっ、もう少し慎重に行った方が…」
慌てて後を追い掛け、シクルは彼女の横へと付くと大胆な彼女の移動を注意する。何が起こったかも解らない状況、迂闊に動き回るのは危険である。翳の者達という可能性もあれば、違う者である可能性も十分にあるのだ。得体のしれない相手の前に出てしまえばどうなるか解らない、シクルはそれを酷く警戒していたのだった。しかし、どうやらレナは焦る気持ちを抑えられないらしい。
「うるさいわねっ!遅れて行って2人が死んだりしたらどうすんのよ!」
自分の方へと首を捻って語り掛ける彼を見向きもせず、レナは忙しなく脚を動かし続けながら吐き捨てるように言い放つ。それだけに留まらず、完全にハウンド達が巻き込まれていると思い込んでいるようだ。心中で無惨な姿になった2人を想像してしまったのか、不安感で更に加速した。流石に本気で走るレナには追い付く事が出来ない。しかしこの状況で単独行動は自殺行為に等しい。シクルは出来る限りレナを視界に収めながら林を駆け抜け続けた。

臭いはどんどん強さを増す。霧散した煙により視界も徐々に白んできており、比例するように林を駆ける2人の緊張も大きなものへと変わってゆく。山の境界地点に近付いた為か草木の量も大幅に減り、視界が開けてくると流石にレナも警戒し始めたようだ。素早く動く脚の動きを少しばかり遅め、後に続いていたシクルと肩を並べた。2人は互いに目を合わせて意志を伝え合うと、それを確認するかのように頷き合う。煙の立ち込めた場所まで後もう少し。もう少し。
「──!」
只でさえ木々が少ないが、その中でも広場の様に開けた場所に差し掛かると、強い何かの気配を感じ取ったレナは直ぐ様脚を止める。シクルも素早く対応し、地に爪を立て停止した。鉱物を多く含んだ土が妙に嫌な音を立てて少しだけ削れる。
林の中は相変わらずの静寂に包まれている。しかし、其処に漂う空気は先程の道で感じていた冷たく乾いた秋を思わせるものとはうって変わり、酷く重苦しい、気味の悪いものだった。視界に映る景色に一頻り目を走らせたレナは黙って両掌を合わせると、その間に1つ氷の礫を形成し、正面に投げつけるように放つ。風を切る音と共に飛んだ鋭利な氷の刃は一直線に突き進み、目の前に拡がる沢山の木々の間を過ぎようとする。
その瞬間だった。木々の真横に差し掛かった氷の礫に、まるで銃弾を連続で放ったかのような凄まじい音と共に、上から何か小さな物が大量に降り注ぐ。氷は瞬く間にそれらにより砕かれ、跡形もなく消し飛ばされてしまった。更に、小さな物は真下の土を抉りその爪痕を残している。鉱物を多く含んでいる為に非常に硬い土は、ちょっとやそっとで抉れるものではない。氷を砕き尚且その土をを抉り埋まる破壊力。2人の顔から冷や汗が滴り落ちた…。あのまま進んでいたら即死だったろう。敵の強大さを見せ付けられ、ほんの少しだが決心が揺らぎそうになる。が、怖じ気付いている訳にはいかない。押し寄せる不安と緊張を胸の奥にしまい込みながら、一歩前に進み出たレナは大きく息を吸い込む。そして、それを吐き出すと共に声帯を揺らし、少しばかり声を張り上げ奥に潜んでいるであろう者達へと言葉を投げ掛けた。
「出てきなさいよ。私達を殺しに来たんでしょ?そんなこそこそ隠れて攻撃したって、私達はそう簡単には殺れないわよっ!」
林の中に響くレナの声。その顔は少し焦りを含んではいたが、迷いはない。レナの決意は大分堅い様だ。…鋭く尖った眼に宿された瞳には、『今日で蹴りをつける』という彼女の思いがはっきりと見えた。それを見たシクルも、気合を入れなおす。しかし、そんな思いを踏みにじるような残酷で冷淡な高い笑いが突如として林へと響き渡った。
「キャハッ♪見付かっちゃうなんてけーさんがいっ。ま、すぐ殺しちまうより、じっくり時間をかけてなぶり殺しにした方が断然…」
言葉が途切れ、風を切るような音が鳴り響く。木の葉が切り裂かれ、一気に宙を舞う。風に煽られながらひらひらと舞い落ち擦れ合う木の葉が、激しく音を立てた。
「楽しいけどねっ♪」
2人が険しい顔で見上げるのに対し、太い枝の上に立っている者は満面の笑みで2人を見下ろしていた。ひどく残酷な事を平気でべらべらと綴る彼女は、口が裂けてしまうのではないかと思う程に口角を吊り上げ、見くだすように2人を睨む。小さく笑い声さえ漏らしているのに、笑顔の裏側からは凄まじい殺気を此方に向けてくる異質な存在に、レナは思わず後退る。灰色の身体を包むように生えた、本来ならば美しい純白の体毛は、所々に紅い色素を含んで汚れている。一生伸び続けるその毛は手入れも疎かにされているのか、乱れてはいないが伸び過ぎた先を紫色のリボンで留められていた。くりくりとしたチャーミングな瞳を殺意に染めるそのチラチーノの姿は、まさに天使の外見をした悪魔のようだった。彼女の姿を一頻り見ていたレナは小さく微笑む。「あんたはしたっぱどものリーダーだったわね。確か名前は…」
「セイン。あたしは暗黒の翳の&ruby(pawn){歩兵};の長、&ruby(pawn core){歩兵核};のセイン。死に土産にちゃぁんと憶えといてよ、ねぇ?」
レナが彼女の名を思い出すよりも先に自ら名乗った彼女…セインはまたしても高い声を上げて笑い、首を傾げてみせる。彼女は木の本体に寄りかかると、リボンで留められた毛の先を指で弄くりながら横目で2人を交互に見つめる。その研ぎ澄まされた様に鋭い殺気に少しばかり怯みながらも、怖じ気付きそうになる心を奮い起たせ、2人はセインを睨み返した。
「さっきの、驚いたでしょっ?あたしの可愛いー可愛いー部下ちゃん達、この時の為にしっかり育てておいてあげたんだから、感謝しなさいよ〜?」
セインが言うと同時に、目の前に続く暗がりに無数の目が浮かび上がる。それは一斉にレナ達の前に姿を現し、瞬く間に2人の周りを取り囲んだ。チラチーノの進化前形態で、あの白い毛が無い代わりに綿のはたきの様に非常に柔らかな尻尾を持ち合わせているポケモン、チラーミィ。1人1人の身体には何処かしらに『翳』の文字が刻まれている。それも、鋭利な物によって傷をつけて書かれたらしく、線の輪郭は赤黒く変色していた。それだけでも酷いものだが、チラーミィ自身の様子も異常だ。チラーミィ達の眼は虚ろで、此方を向いているのだろうが実際何処を見ているのか分からない。大して動いてもいないのに息を荒らげ脚をふらつかせている様は、明らかにおかしかった。
殺気そのものを飛ばしながらじりじりと迫ってくる“それら”に順番に目を向けていき、最後に流れるように視線を上に向け楽しそうに笑うセインをきっと睨みつける。
「…コイツらに何をしたんだよ?」
「クフフフッ、さぁ?その子達に直接聞いてみたら〜?」
シクルの脅すような声にも全く動じず、セインは馬鹿にするようにクスクスと笑い言葉を返す。同時に彼女が片腕を天に向けると、チラーミィ達が一斉に姿勢を低くし、戦闘態勢に入った。何時でも飛びかかれる体勢だ。終始笑ってばかりでおちゃらけているように見えるセインだが、部下達を動かし『無駄口を叩くな』と警告しているところを見ると、敵同士としての自覚はあるのだろう。振り上げた手の指を楽しそうに動かしているのは、抵抗すれば何時でも殺れる、とでも言っているのだろうか。囲まれている2人も互いに背を合わせて鉤爪と角を構える。
「でもまぁたいした事じゃないから、種明かししてあげちゃうっ♪あたしは昔っから“&ruby(テクニシャン){技巧家};”って言われててね、弱い技ほど強く、鋭い攻撃が出来るのっ♪ま、特性が特性だからって事もあるけど、あたし自身がそう呼ばれてるのはね…技の威力を自在にコントロール出来るからなの」
「技の威力を…?」
得意げに話すセインは、鸚鵡返しの様に呟き、驚き唖然とするレナの顔を見てまた嘲るように微笑む。
「あたし達の種族の特性は本来、効果がある技は限られてる。けどね、あたしは技の威力を最弱に調節する事で色々な技の威力を極限まで高める事が出来るのよ〜。元々強い技でも、テクニシャンの影響で極限まで高められた方が攻撃の鋭さもスピードも上。弱い攻撃もかなり強化される。どう?凄いでしょ??」
セインはニタニタとした笑みを顔面に張り付け、試しにともう片方の腕を振り上げると──
「「ッ──!!」」
空気の流れの変化に、レナとシクルは反射的にその場から後へ下がる。すると次の瞬間には先程まで2人がいた位置に、巨大な岩の塊が落下した。異常な速度を持ってして落下してきたそれは、先程の種マシンガンと同じ様に地面を抉り、突き刺さっていた。岩の大きさは、通常のロックブラストなら三回は積まなければならない程のもの。それが一度目に、更には電光石火並の速度で落下してきたのだ。それが何を意味するか解らない程、2人は馬鹿ではない。驚愕する2人の表情を面白そうに見下ろしながら、セインは静かに言葉を繋ぐ。
「あたしだけの特権。けどね、あたしはまだちゃんと&ruby(king){王様};に恩返し出来てないのよっ。だから、みぃちゃん達にこの特権をきっちり教え込ませておいたの、アンタ達を始末する為にね。死体を持ってけばさぞやお喜びになってくれるハズだから…」
そこまで言うと、初めに現れた時の様な狂喜の笑みを浮かべると、ペロリと舌舐めずりをする。
「だからぁ、悪いけどアンタ達にはあたしを認めてくれた王様へのお礼代わりに、死んでもらっちゃうわよ♪キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
セインは狂ったように笑う。つぶらな瞳を濁らせて。口の端を吊り上げて。その姿は、やはり異常だった。レナもシクルも、何時に無く狂気っぷりを見せ付けてくるセインに上手く言葉を返すことが出来ずにいた。特にレナの方は、漸く説得すべき相手と対面出来たというのに、どう話を持ち出すかに早速悩まされていた。彼女の目を見つめ必死に訴えようにも、狂気に満ち溢れてしまっている彼女にそんな事だけで伝わる筈もなく。堪らず視線が地に落ちたレナはの心は、もどかしさで一杯になっていた。
しかし同時にやはり、という思いも生まれていた。殺意を込めた瞳で此方を睨み、狂ったように笑っていても。酷い悲しみや苦しみが、やはりその裏に隠れているのが見てとれたからだ。人の苦しむ顔を幾つも見ていく内に自らの罪に気付かされたレナには、セインが酷く辛い過去を歩み、人を怨むようになってしまったのが僅かではあるが読み取る事ができたのだった。彼女は感情という、“こころ”にも届く深い傷を負っているのかもしれない。ただこころを護っている壁が薄いのかもしれないけれど、傷がある事は変わらない。あの傷の痛みを知っているのなら…味わった過去は違えど、同じ境遇の者としてまだ解り合える可能性はある。
レナは怖じ気付きそうになる感情を、頬を掌で軽く叩き元気付ける。このまま睨み合っていても埒が明かない。私の目的は、彼女達を救う事。それを今実行せずに何時するというのか。そう自分に言い聞かせると、一度目を閉じ大きく深呼吸をする。静寂の中の冷ややかな空気を感じて、今から感情の明かし合いをするこの場所に、&ruby(愛を紡ぎ合う蟲達){他の生き物};がいない事に改めて感謝した。自分達とは無関係の者達の夜を汚すわけにはいかないからだ。
瞼を持ち上げ目を開く。視界に捉えたセインは、やはり笑っていた。意を決したレナは、肺に取り込んだ空気の一部を声に転換し、話を切り出そうとした。しかし──

「お前は何で、人を傷付けるようになったんだ?」
よく聞き覚えのある声が、すぐ隣から聞こえてきた。驚いたレナがそちらを向けば、其所にいるのはやはり──
「シクル…」
思わず彼の名がついて出た。彼は真っ直ぐにセインを見上げるのみで、此方を向いてはくれなかった。唐突に掛けられた問いにセインの方も困惑しているらしく、顔から笑みが消え怪訝な表情に成り変わる。
レナはシクルが一体何をしようとしているのかすぐに理解する事が出来なかった。否、彼がセインの過去を聞き出そうとしているのは解ったが、何故そんな事をするのか全く解らなかった。彼はまだ人を怨む事に取り憑かれてしまっている、説得なんてする筈がない。レナはそう思っていたからだ。崖の上で話を持ちかけた時も、まだ解ってはくれないだろうという考えが少なからず心の何処かにあった。それなのに…彼のこの言動は明らかに説得に繋がるものだった。レナにはそれが不思議でならない。
「…ッハァ?」
漸く反応を示したセインも、強張っていた口元を僅かに緩めて息を漏らす程度。首が斜めに傾き、全く意味が解らない様子だ。おかしくなってしまったのかと、彼を見下ろす目も哀れみの色を湛えている。しかし、シクルは構わず一切表情を変える事もせず、また声を張った。
「お前は、本当はそんな事するような奴じゃないんだろ?何か理由がある筈だろ?」
「ッ…?」
セインの表情が、また強張った。大きく見開かれた目の中で、漆黒の瞳が小さく揺れる。笑っていた口元からは力が抜け、口はぽかんと半開きに。セインは明らかに動揺の色を示していた。レナはシクルの二度目の言葉にまたも驚かされたが、動揺するセインを見て、やはりまだ間に合うかもしれないという希望を抱く。そして、レナはシクルが少しは自分の話を理解してくれていたという事にも気が付いた。あの時は自分も思っていた通り完全には認めてはもらえなかった。けれど今こうしてシクルがセインを説得しようとしている。シクルも本当は…解ってくれていた。その事実がレナには嬉しくて、こんな状況だという事も忘れて思わず表情が綻んだ。シクルにばかり任せている訳にはいかない…と、レナも一度気を引き締めなおすと、虚空を見据え考え込んでいるセインに再度向き直った。
「私もそう思う。あんたの目、殺すのが楽しくて殺しをしてる様な、狂った奴の目じゃないわ。…あんたにも何か、人を殺してしまいたくなる程、辛い事があったんでしょ?」
セインは視界の中にレナの姿を捉え、またすぐに逸らす。恐ろしい事でも思い出してしまったのか、両の手を胸の前で組んで枝の上でしゃがみ込み、怯えた様にぶつぶつとうわ言を呟き始めた。その声は小さくて、何を言っているのか解らなかったが、これでは少なくとも話せる状況ではない。まず落ち着かせて、話し合える状態にしなければ…。
レナの希望は少しずつ膨らみ始める。このまま彼女を説得できたら、上手くいけば他のメンバーの説得がやり易くなるかもしれない。先が少しだけ見えてきて、レナの拳には自然と力が入った。しかし、ここで焦り過ぎてはいけない。逆に言えば、下手をすればそれだけ説得にも労力を要する事になるのも事実なのだ。事を上手く運ぶ為にも、今は神経質になっている彼女を刺激しすぎないよう、慎重に言葉を選ばなくてはならない。ふとシクルの方を向くと、どうやらシクルも同じ事を考えていたらしく、丁度目が合った。こうもしっかりと目が合うことは久しぶりだったからか、レナは気恥ずかしさを覚えシクルを見据えたまま苦笑した。対するシクルは小さな出来事なのだがこの状況での突然の事だったからか、気になっている雌の顔を前に頬を真っ赤にして目を逸らしてしまった。こんな事では全く進展しないだろうが、幼げが残っている彼故の素直な感情の表れなのだろうから仕方がない。

しかしそんな和やかな空気は、すぐに消え去ることになる。
「…今更、何言ってんの?アンタ達は今まで散々あたしを、みぃちゃん達を傷付けてきたくせに…」
普段の彼女からは考えられない程に低いトーンの、静かな声。意識が別の方に行き掛けていた2人はその声に驚き、びくりと身体が跳ねてしまう。セインは相変わらず枝の上でしゃがみ込んだまま、違うのは両手で顔を覆い俯いているだけだった。しかし──彼女から醸し出されるその“気”が、先程とは比べ物にならないほどどす黒く、重いものになっている事くらい、解らないレナ達ではなかった。
枝を思い切り踏みつけると共に立ち上がったセインは、憎悪の血相をしていた。本来の愛らしい顔からは想像もつかないような。別の生き物のような。それほどにまで、彼女の顔は恐ろしく思えた。立ち上がった彼女は間髪いれずに息をめいっぱいに吸い込む。カッと見開かれた血走った目でレナとシクルを睨みつけ、口を限界まで開いて歯を思い切り打ち鳴らす。

「じょーだんじゃねーんだよッッ!!自分が殺りたいと思った時は誰彼構わず傷付けておいて…!気が変わったからやめにしてくれ、だァ!!?何様のつもりだ!?あたし達はお前らのオモチャじゃねぇんだよッッ!!」

吸い込んだ息を全て言葉に変えたかのような怒号が、夜の静けさを引き裂いた。
2人にはどういうことだかよく解らない。彼女の言っている事は一理あるといえばあるのだが、何だか少しだけずれている気がするのだった。何より、話を持ちかけただけで何故ここまで怒りを露にするのかが不思議でならなかった。更に、そのせいで対処が遅れ、レナはすぐに後悔させられることになる。
「憎しみの強さを解った気でいるようだけどッ、憎しみってのはホイホイ消せるもんじゃないってコトも解ってねぇじゃねぇかよッッ!!そこの白いのはよく解ってんだろ!?なぁ!!?一見隣の猫と同じ考え装ってるようだけどな、あたしの目は誤魔化せないんだよッ!」
憎しみに染まった瞳は、呆気にとられているシクルへと向けられた。当のシクルは彼女の言葉に動揺してしまったのか、全く言葉を返す事が出来ない。レナは嫌な予感がして、慌てて口を挟もうとしたが、セインはそれを許さない。彼女は突然、最初に対面した時のそれと同じ様に口を吊り上げると、面白いものでも見るかのように彼を見下ろした。
「憎しみの強さがどれ程のものか、解るわよねぇ?…そういえば、さっき&ruby(queen){王妃};から作戦を聞いた時に、アンタに耳寄りな話を聞いちゃったのよ〜?あんたの敵の&ruby(rook){城塞};が、あの黒岩の所に待機してるんだってぇ。ねぇ?まぁあたしには関係のない事なんだけどさっ♪」
「──!!」
レナがまずいと思った時には、もう遅かった。シクルはその言葉を聞いた途端に表情を変えた。初めは目を皿のように大きく見開いて、徐々に赤い目を血走らせて。レナが彼の名を呼んだが、彼の耳にはもう聞こえていなかった。

呼び起こされる過去の記憶。血溜まりの中で倒れている「彼女」と、そのすぐ側で下品な笑い声を上げている、バケモノ。許せない。許せない。殺してやる。殺してやる!!

歯を無意識の内に食い縛っていた。全身の体毛が逆立っている事にも、後になってから気が付いた。けれど、もう彼にはそんな事はどうでもよかった。張り詰めていたものが弾けるように、凍り付いていた四肢に瞬時に力が宿り、林の奥へ駆け込もうと強く地を蹴る。またレナの声が聞こえた気がしたけれど。シクルにはもうどうにも感情を抑える事は出来なかった。暫く会っていなかった分、居場所が分かった事で感情を抑制していたものが外れてしまったのだろう。『先へ行かせるな』と命令されているのか、セインが指示を出していないにも関わらずチラーミィ達が彼の前に立ちはだかる。光の無い死人のような瞳が彼を捉え、一斉に襲い掛かる。しかし──数人の内の1人が尻尾を振るい、彼を攻撃しようとした瞬間。

「…え?」
視界に入ってきた、何やら紅いもの。そして、遅れて目の前を通り過ぎてゆく、大半がその紅いものに染まった、灰色の何か。


レナは一瞬、思考が停止してしまった。
飛んで来たものが何か理解するのに掛かった時間は、そう長いものではなかったけれど。
ただただ辺りに飛び散ったそれに、ショックを受けてしまっていた。

角の大半を、チラーミィの尻尾から噴出した大量の血で真っ赤に染め上げたシクルは、更に飛び掛ってきた1人を振り上げた前脚で思い切り踏みつける。ぐちゃっ、というを立て、一瞬の内に赤い地図がその場に広がる。美しい純白の体毛は、既に真っ赤に染まっていた。
血眼の眼がぎょろぎょろと辺りを見渡す。仲間が殺されたというのに気に留める様子は一切無く、チラーミィ達は意志の無い人形の様に、次から次へと飛び掛ってゆく。それをなぎ払う白い&ruby(ケダモノ){獣};は、物凄い血相で天を睨めつけると、耳を劈くような声で咆哮した。

「邪魔するなああああぁぁぁぁぁッッッッ!!!」


一瞬の内に、目の前が真っ赤に染まる。何が起きたかもはっきりと解らないまま、シクルのような獣は林の中に消えて行ってしまった…。シクルのような。アレがシクルだなどと、レナは信じたくなかった。
目の前には、灰色の毛皮が沢山浮いた赤い池が出来ていた。毛皮に混じって、赤黒い色をした固形物も幾つか、血溜りの中に浸かっている。
頭上で、場違いな高い笑い声が聞こえた。
「キャハハハハハハハハ!!!ほーら!!アンタらは結局!!都合が悪くなると簡単に人を殺すんだ!!そんなヤツラに、あたしのッ、王様の憎しみが解ってたまるかってんだよッッ!!」
狂ったように笑い転げ、セインは残されたレナを見下ろす。先程までは部下達を気遣っていたが、完全におかしくなってしまったのか殺された仲間達の事を気に掛ける様子もない。飛び散った血に汚れたレナは、目の前の惨劇に言葉を失っていた。腰が抜けてしまい、知らぬ間に地にへたり込んでいた彼女の身体は、ガタガタと震えている。凄まじい臭気。胃の中の物が逆流しそうになる。あまりのショックに、気を失いそうにまでなってくる。
そんな時だった。薄れゆくレナの頭の中で、懐かしい声が、響き渡った。

──お前は、お前がやるべき事をやればいい。やりたい事があるのなら、それがどんなに大変な事だって、簡単に諦めてはだめだ。やりたいと決めたのはお前自身なのだからな──


「──違う」
「あぁ…?」
俯いたレナが、小さく呟く。荒々しい口調で反応するセインを、レナは顔を上げると真っ向から見据えた。
「絶対に、違う!私はっ…もう人を殺さない!!」
叫ぶ声と一緒に、レナは氷の礫をセインに向けて放つ。上の枝へと飛び移り回避したセインだったが、不意討ちだった為に一瞬反応が遅れ礫の1つが頬を掠めた。赤い線が上から下へと頬に引かれる。セインは傷口を手で抑えながら此方に飛び掛かってくるレナを見て微笑する。
「傷を付けるなら同じようなものよ。アンタみたいな奴の事なんか信じられるかよっ!」
平行に並んだ木を交互に蹴り上げジグザグと登ってきたレナに、両掌に纏わせた+と−の電気を手を叩く事でぶつかり合わせ電撃を飛ばす。レナが飛び移る先へと狙いを定めた電撃は大きくうねりを帯びながら樹木本体と枝の付け根に命中する。折れた枝へと飛び移ったレナはバランスを崩し掛けるも、素早く別の枝へと飛び移る。その際、どういった訳かシャドーボールをセインの方へと投げ付けた。
「キャハハッ、アンタとうとうイカレちゃった?」
炎タイプやエスパータイプの様に、1つの能力に強い力を持たない代わりに、幅広い力を扱える事と、霊力を一切無効にする事の出来るといわれるノーマルタイプ。これは今や人間の世界の間でも常識と言われている知識であり、シャドーボールはノーマルタイプであるチラチーノには効果がないという事を知らない者はそうそういない。況してや、幼い内から復讐に燃え闘いにのめりこんでいたレナが、こんな当たり前の事を間違える筈がなかった。セインも思わぬ行動に僅かに気を抜いた。しかし、だんだんと迫るそれはセインではなく、セインのすぐ後ろの木にぶつかり爆発を起こした。
「っ…」
気を抜いていたセインは爆風で飛ばされそうになるが、尻尾である白い体毛を枝に巻き付け耐える。しかし辺りに立ち込める爆煙が、彼女の視界を遮った。真っ黒い煙の中、セインは視角より聴覚に頼ろうと耳を立てて音を聞き逃さんとする。
木を蹴る音が、背後から聴こえた。セインはすかさず、振り返り様に毛の束を鞭のように振るって攻撃を仕掛けた。相手は視界が塞がれているから攻撃出来ないだろうと踏んでいる、これなら意表をつけるとセインは思っていた。しかし。
「えっ…!?」
レナは素早く体勢を転換すると、振るわれた毛束を両腕で抑え込んだのだ。予想外の動きに、セインは驚き思わず声を上げた。そんな、目を丸くするセインを至近距離で睨みながら。レナは毛束を掴む腕に力を入れた。
「私は、あんたと話をしようとしているだけ。なのに、あんたはまともに話そうとしない…だから私は、話し合えるようになるようにするだけよ。」
「くっ…!」
レナの言葉が気に食わなかったらしく、ぎりっと歯軋りをしてセインは腕を強く振るいレナを振り払う。
「上等よ…今すぐアンタをぶち殺してあげるわっ!」
感情を弄ばれたような感覚がして、苛立ちを覚えたセインは声を上げた。セインが吼えるのを合図に、新たな者達が紅い月夜の下に激しくぶつかり合った──

**2 [#kb9a1d7c]

ぼんやりと赤みを帯びる月に照された獣道。不気味に光るその道を、1人の獣が歩いている。艶やかな体毛が紅い光を反射し、更なる輝きを放つ。道の端には大気の温度が低下し始めるこの季節でも、葉を落とす事の無い針葉樹がぼちぼち生えており、落葉樹の木々がずらりと並ぶ林の中よりもその道は薄暗かった。静まり返った道に、自らの足音だけが木霊する。
…ふと、その獣は足を止める。静寂が辺りを支配し、紅い月だけが不気味に光り輝く。
空気の擦れるような音。痺れを切らしたように、自分の存在を主張するかのような“音”が、背後から聞こえてきた。
獣は溜め息を吐き。後ろを振り返る。後には不気味な暗闇が続いているばかりで、生き物の気配も全くしない。しかしそれだけでは“辺りに生き物は存在しない”とは言い切れない。“気配を消す”事が異常なまでに得意な者ならば、潜んでいたとしても気付かれはしないのである。
「随分と速いじゃないの。お楽しみはまだまだこれからよ。そこらを彷徨かれて感付かれでもしたら困るのよぉ。」
獣は呆れた様子で、暗闇の林へ語り掛ける。辺りの空気はしんと張り詰めていて、とてもではないが他に何者かがいるようには思えない。蚊帳の外の者から見れば、この獣はおかしいと思うだろう。しかし──
「ははっスミマセンねぇ、久々のオシゴトで、どうにも血が騒いぢまいましてねぇ。そんで来てみれば嬢の匂いを嗅ぎ付けたんで、後をつけてきたんでさぁ。」
静寂を破る野太い声。姿は見えないが、声が辺りに拡がるのと比例するかのように、1人の生き物の気配が現れる。じゃり、と、地面に散らばる小石を擦るような音がした。首だけを捻り後ろを振り返っていた獣は相手が敵ではない事を確認したのか、身体ごとそちらに向き直る。その上、交わしている言葉からしてどうやら知り合い同士らしい。
「仕方無いわね…まぁいいわぁ。取り合えず、作戦通り動いてくれれば構わない。…って言うことくらい、アナタなら解るわよね?」
「さっすが嬢でさぁ。よぉく解ってるんですねぇ。」
茂みの向こうへと言葉を放りにやりと微笑んだ獣。その言葉に、大袈裟なまでに野太い声が反応を示す。双方共に薄笑いを浮かべ話す姿は、一見他愛もない会話をしているようにも見える。が、実際の話の内容は影がかかったように何やら重苦しいものだった。その場に腰を下ろした獣は、長い尻尾を左右に降りながら茂みの奥へと目を向ける。僅かだが、2つの赤い目が光を反射して、此方を舐めるように見つめていた。否、睨めつけている、といった方がいいだろう。
「それで、あたしに何を頼みに来たのかしら?用件次第なら聞いてあげてもいいわよ??」
獣は前肢の先をペロペロと舐め、流し目で闇に潜む者の目を見詰める。彼女の言葉を逆に捉えると、内容によって首を縦には振れないということを主張しているようだが、どうやらそれは口先だけらしい。&ruby(エメラルド){翡翠};のような瞳は、相手の言葉に対する期待の色を湛えていた。相手もそれを理解しているのか、下品な笑い声を立てる。
「いやねぇ…、仕事も少ねぇですけど、最近は派手に殺ってねぇんすよねぇ。張り合ってくる奴ぁわんさかいやがるんですが、どいつもこいつも面白味のない屑ばかりで。退屈で仕方ねぇんでさぁ。」
投げやるように言い放たれる言葉。笑いを含んでいても、そのうんざりとした意識は此方へと伝わってくる。獣はそれに同情する事もなく、続きが気になるとばかりに耳を小刻みに動かして見せる。更には首を相手の方に傾け「それで?」というジェスチャーをして見せた。彼女の動きがツボなのか、ただ単に笑いやすいのか解らないが、その者は先程のように大きな声でカッカと笑った。
「…だから、ターゲット以外の雑魚どもは、オレに任して下さいませんかねぇ?雑魚といえど奴らはオレ達と同じ穴の&ruby(オオタチ){狢};。オレんなかじゃ、同族を一匹なぶり殺すのは雑魚ども100匹を皆殺しにすんのと同じくらいの価値があるんでさぁ。」
じゅるり、と唾液を啜る音が辺りに響く。
「すぐに、とは言いません。オレもそこまでバカじゃあ無いですからねぇ。奴らが用済みになった時に…ねぇ?ダメですかねぇ?」
暗闇の中で光る2つの眼が 歪む。顔は見えないが、恐らくはニタリと張り付くような笑みを浮かべている事だろう。話を静かに聞いていた獣もその2つの瞳を見て苦笑する、しかし話の内容は気に入ったらしく、前肢を下ろしその眼を真っ直ぐに見据えた。
「そのくらいなら別に構わないわよぉ?雑魚どもはただの付属品だし、使えなくなったらどうするとかも無いからね。アンタの好きにしなさい。…アイツがいれば更に好都合だしね。」
「へっへ、物分かりがよくて助かりますぜ。…ふぅぅ、早速興奮して来ちまった…!」
2つの眼が消え、茂みの草かが激しく音を立てる。お許しが下った事に喜びを感じて、小躍りしているのだろう。余程嬉しいのか、その者は先程より一層汚ならしい水音を立て興奮を露にする。その様子を見届けた獣は、話はついたとばかりに腰を上げ踵を返す。
「精々、上手くやることね。あたしが言うことはそれだけよ」
最後にそう呟くと、締まりのない返事を返し消えていく者とは反対へ、元の夜道へと歩き出した。
「フフッ、今度こそ思い知らせてやるわよ…」
ぽつりと呟かれた彼女の言葉は誰に届くこともなく、赤紫色に染まった空へと消えていった…







口の中に異物感がある。爆風によって舞い上がった砂を吸い込んでしまったらしい。おまけに、真っ黒い爆煙も肺に沢山溜まってしまっている。不快感と苦しさに忙しく咳き込みながら、ハウンドは辺りを見回した。しかし、未だに煙は晴れる気配がない。夜目が利くと言えど、流石に煙の中では何も見えないのだ。頼みの綱の鼻も、草木の焦げる臭いが辺りに充満していて全く効かない。
不意を突かれ怯んだところに放たれた破壊光線。深手を負うのは確実だろうと焦っていたハウンドだったが、爆音と爆風を感じたのみで身体には何の衝撃も無かったのだ。目を閉じてしまっていた為に、数秒前に何が起こったかは把握できない。しかし今のハウンドにはそんな事はどうでもよかった。他の者達がどうなってしまったのか、それだけが気がかりで仕方がない。全身の神経を研ぎ澄まし、必死になって辺りを見回す。漸く煙が晴れてきた事もあり、彼の視界に百群色の背が映る。
「ワルツ!」
「ハウンド、無事だったのか…」
呼び掛けられたワルツは首を捻って振り返ると、安堵したように小さく溜め息を吐く。口調は落ち着いたものだったが、彼も仲間の事を酷く心配していたようだ。仲間の無事を確認したハウンドも思わず顔が綻ぶ。落ち着きを取り戻した事で忘れていた疑問が脳裏に蘇る。避けることも防ぐことも出来なかったにも関わらず、何故自分達は無傷でいるのだろうか。確かに、何かが勢いよくぶつかるような音は聴こえたし、その数秒後に強い風が身体を掠めてゆく感覚があった。しかし、それだけだったのだ。あれ程力を溜め込んだ破壊光線を防御も無しに受け、これだけで済むことは絶対にありえない。あの時一体何があったのか…ハウンドは眉間に皺を寄せた。
ふと、視界の隅に尻餅をついているストライクの姿が映った。そこで、条件を付けられたとはいえ自分達に協力すると申し出た警官2人の事を思い出す。腰を打ってはいるが…ストライクに変身しているメタモンの方はどうやら無事のようだ。しかし、彼の上司であるルカリオの姿が見えない。自分にとって敵である警察と言えど、安否を心配したハウンドは大分靄も晴れてきた中で再度辺りを見回す。すると、ハウンド達3人の前で両の腕を正面へ向け立っているルカリオの後ろ姿を見付けた。彼の両掌からは自身を含んで4人全員を護るようにドーム状に半透明の緑色の壁が広がっていた。
「成程…特性か。また助けられてしまったな」
彼の姿を見たワルツが思わず感嘆の声を漏らす。それと共に、ハウンドの中で渦巻いていた疑問も消え去った。そう、ルカリオの特性は『精神力』と『不屈の&ruby(こころ){志};』。どちらの特性を持つにせよ、彼だけはバークアウトを受けても動く事が可能だったのである。

腕を下ろしたルカリオ…リオスは深紅の瞳で直線上に立つキリキザンをきっと睨み付ける。対するキリキザン、バリダは無表情のまま静かに後ろに跳び退ると、片膝を折って休みの体勢を取る。破壊光線の反動故流石のバリダも息を切らしており、此処で無理に攻め込んで危険を背負うより一旦退いて仲間に任せるべきだろうと冷静に判断したようだ。同時に彼の考えを見透かしたかのように、アーチェがバリダの前へと立ちはだかる。その顔は未だ怒りに満ちているが、やはり仲間であるバリダの事はしっかりと意識を持っているようで手出しはさせまいとばかりに翼を拡げリオス達の視界からバリダを隠してみせた。そんなアーチェの行動に、ハウンドは「まだ彼には良心が残っている」とはっきり感じ取り、まだ説得出来る可能性があるのだと己の心に言い聞かせ、すかさず前へと進み出る。
「落ち着けアーチェ。お前にはまだ、そうして仲間を思う気持ちがあるじゃないか。それだけあればお前は!お前達はまだ間に合うんだ!もう馬鹿な事はやめろ!」
「黙れぇ…ッ!そんなものだけで堅気に戻れる筈があるまいッ!!」
「そんなこと──!」
しかし、幾ら声を張り上げたところで既に怒りに囚われてしまったアーチェには届かない。更に説得を続けようとしたハウンドだが、聞く気はないとばかりに悪の波動が放たれ言葉は途切れてしまう。兎に角、まずはアーチェの頭を冷やさなければどうにもならないだろうと考え直したハウンドは真っ直ぐに向かってきた攻撃を横に飛びのく事で避け、その過程の中で口元に火炎を溜めると脚が地についた瞬間に一気に解き放った。威力が凝縮された火球はそのまままっすぐにアーチェへと向かう。バルジーナであるアーチェには空中へ容易く回避出来る攻撃。しかし、今は後ろに動けないバリダがいる。身動きが取れない訳ではないが疲労で動きの鈍った彼が完全に攻撃を避けられるという確証はない。その上炎に弱い為、掠っただけでも痛みは大きくなるだろう。ここは譲れないと、アーチェは脚を地に突っ張らせ翼で身体を覆い受け止める体勢を取った。幾ら仲間の為とはいえ身を挺すとは考えていなかったハウンド達は、そんな彼の行動に驚くばかりであった。
「ぬぅ…っ」
翼に痛みを感じる程の高熱を受け、アーチェは顔を顰め呻き声を漏らす。火花が音を立てて其処ら中に飛び散り、暗い林を照らし出す。彼の翼に焼き付いた炎は、その焦茶の羽根を更に焦がしてゆく。黒く燻った羽根は煙を上げながら冷たい地面へはらはらと落ちた。このままでは羽根が燃え尽きてしまうかもしれない。にも関わらず…アーチェは苦痛に嘴を噛み締めながらハウンド達を睨んだ。そして燃え盛る翼を開くと、数歩助走をつける此方へ低空飛行で突っ込んできた。彼の視線の先には…頼りない顔つきをしている蟷螂。
「う、うひゃああっ」
彼の目には炎への恐怖のせいか、アーチェの姿がバルジーナではなく、ファイヤーだと錯覚していた。文字通りファイヤーのような鋭い視線に射抜かれ、尻餅をついたまま腰を抜かしてしまったらしく動けなくなってしまう。只でさえ空からの攻撃に弱い今の彼が、炎を纏った翼に打たれればひとたまりもないだろう。見兼ねたハウンドとワルツはそちらへ駆け出すが少し距離がある為に間に合いそうにない。何とか止めようと2人は火炎と冷気を各々打ち出したが、冷気は燃える翼に防がれ、炎は受け止められて更に燃え上がらせる羽目になってしまう。正しく火に油を注いでしまった。2人よりも比較的フラックスと距離の近いリオスも咄嗟に脚に力を込めたのだが、調子を取り戻したバリダが腕を振るい唐突に思念で出来た刃を飛ばしてきた。死角からの思わぬ反撃に対応出来ず、駆け出した彼の太腿が切り裂かれる。
「くッ…!!」
鋭い痛みにバランスを崩したリオスはその場に倒れ込んでしまう。彼の太腿には斜めに赤い線が引かれており、真っ赤な血が下へと流れ出していた。
まずい、そうハウンドが感じた時には既にアーチェはフラックスの目と鼻の先にまで接近していた。翼は鋼の如く硬化し、完全に燃え上がったそれは本当にファイヤーを連想させる。間近で睨まれ、命の危機にフラックスは恐怖のあまりに目をぎゅっと瞑り両腕で顔を覆った。
高速で突っ込んできたアーチェは狙い通り擦れ違い様にフラックスの顔を目掛けて燃え盛る翼を叩き付ける。フラックスは腕――ストライクである為に鋭い鎌へと変化している――で頭を護っていた為、翼は頭ではなく鎌へと思い切りぶつかった。金属同士がぶつかり合うような高い音が鳴り響き、強い力にフラックスは後方へ押されてゆく。流石に吹っ飛ばされるのは嫌だったのか、慌てて地に脚の爪を立てた。しかし、硬い土に無理矢理爪を立てた為に摩擦力に負けた爪は剥がれ落ち、緑色をした蟲の血が地面に真っ直ぐと跡を残した。しかし、傷を負ったのはフラックスだけではない。鋼のように硬化していたとはいえ、炎を纏っていた翼の硬さは確実に衰えていたようだ。フラックスが脚を踏ん張らせると同時に、鎌の刃が触れた部分が少しばかり翼の肉を抉っていった。吹き出る血は炎で一瞬にして蒸発し傷口は焼かれて止血されたが、痛みの感覚はかき消される事はない。アーチェは嘴を食い縛っていた。
「いでで…っあ、あちちち!」
脚の痛みに呻き声を上げていたフラックス。しかしそれも自分の身体に炎が燃え移って来ると悲鳴へと変わっていった。火花が薄い羽根へと飛び、赤く火を上げ始める。フラックスは腕を滅茶苦茶に振り回して暴れるが、火は消える処か勢いを増し始めた。これ以上切り裂かれないようにと、アーチェは腕の届かない所まで後ろへ下がる。
熱さに耐え兼ねたのか、ストライクを象っていたフラックスの身体は&ruby(しゅんどう){蠢動};を始める。蠢いている部分は濃い桃色に変わり、それは徐々に新しい形を作り始めた。細く形の整った身体は、風船を膨らましたように膨れ上がり、鎌状の腕は三本の指の生えた太くがっちりとしたものに変わる。身体の様々な部位に特徴的なコブが浮かび上がり、鋭い目は鋭さを残して深紅に染まった。もっともそれは優秀なメタモンの変身時のみで、フラックスの変身したガマゲロゲの目には全く迫力が無いのだが。ガマゲロゲに変身したフラックスは直ぐ様空を仰いで噴水のように水を吐き、自身を包む炎を鎮火させる。しゅうしゅうと音をたて、身体中から白っぽい煙が上がる。凄まじい熱から漸く解放されたフラックスは息を切らしながらも大きく溜め息を吐いた。しかし、それは大きな隙となる。
水タイプに変身したフラックスの姿を見たアーチェは退くのをやめると、大きな隙を晒しているフラックスへ再度突進した。当然、無防備状態だったフラックスは避けられる筈もなく、振るわれた翼は土手っ腹へと命中する。腹部を強く圧された事により、体内に溜まっている水が彼の口から呻き声と共に吐き出された。それは未だ炎に包まれるアーチェへ直撃し、その熱を漸く鎮める。フラックスの炎が消された時とは違う、じゅっとした音をたて、真っ黒に焦げてしまった翼から黒い煙が立ち上る。アーチェは安堵する様子も見せず、叩き付けた翼をそのまま振り抜くようにして踵を返すと、まるで&ruby(トンボ){蜻蛉};のように一気にバリダのいる場所にまで引き返した。
「ぐえぇ…っぎもぢわるい゛だす…」
衝撃が強かったのか、腹を抑えて前屈みになるフラックス。彼の呻き声にハウンドとワルツが気を取られた内に、アーチェは十分に距離を取ってしまった。ボロボロになってしまった翼を見て、バリダは彼を労る。しかしアーチェは痛みに顔を顰めながらも心配するバリダに無事を伝えると、先程と変わらない殺気立った視線をハウンドに向けた。傷を負った2人を護るように前に進み出たハウンドも同じ様にアーチェを睨む。喉を鳴らして威嚇をするが、アーチェはまだまだ余裕そうにそれを鼻で笑っていた。
ハウンドの後ろでは、ワルツが敵の動きに気を配りつつリオスへ駆け寄り、大丈夫かと声を掛けている。スピードの全てを担う脚に傷を負ったリオスは、油断してしまった自分が情けなく、地面に座り込んだまま歯をぎりりと噛み締めていた。彼の頭を冷やすように、ワルツは一声掛けると傷口に息を吹き掛ける。凍てつく息は温度調節が巧妙に成されているらしく、傷の部分だけを綺麗に凍らせ、流れ出る彼の血液を固めてゆく。黙ってその様子を見ていたリオスは、彼の技の繊細さに驚いていた。しかし、同時に違和感を覚える。ワルツから放たれている冷気は正真正銘本当の冷気だと感じる事が出来るのだが、ワルツ自身から感じられる波動は、自棄に無機質なもののように感じたのだ。生き物から感じ取ることが出来る波動は、例えそれが氷の力を宿した者であろうと温もりを感じるもの。その者の心の温かさにも影響されるが、“魂”を宿す生き物の波動には僅かであっても必ず温かさがある筈なのだ。それが、今のワルツには全く感じられないような気がしたのである。疑問に感じたリオスは怪訝な表情で彼の顔を見上げたが、既に傷の治療を終えていたワルツは敵の方へと視線を向けていた。改めてその姿を見たとしても、怪しいところはない。蟠りが残っているリオスだったが、こんな状況で別のことを考えるのは命取りになるため、気のせいだろうと割り切ることにした。
当のワルツは敵の様子を再度窺ってから、今度は蹲ったフラックスへと視線を移す。外見上はそこまでの痛手を負っているようには見えないが、今までの攻防の様子から見ても体力は大分減っているのが窺えた。考え込む様な仕草をしたワルツだったがその時間は長くは無く、いい案を見つけたのか1人頷くと座ったまま休んでいるリオスへ再度視線を落とした。
「なぁあんた。癒しの波動は覚えているか?」
「…え?あ、あぁ、それなら出来ますけど…」
ワルツの顔を見上げようとしたまま思いを紡がせていたために、リオスはワルツが見下ろした瞬間彼と目が合い、その瞳をぼーっと見つめてしまい、声を掛けられていることにすぐに気付く事が出来なかった。少々頼りなさそうな声で返してきたリオスの言葉に、対照的にワルツは微笑を浮かべ自信よく頷いてみせる。
「それなら回復してやった方がいい。あんたのお仲間、今までの攻撃の命中数や相性から換算しても、大分疲労しているだろうからな」
「は、はい…解りました…」
伝えるべき事を伝えるとハウンドの方へ歩いていこうとするワルツに、リオスは慌てて治療に対して礼を告げる。振り返ったワルツは「お安い御用だ」と言葉を残してそのまま離れてゆく。そこでリオスは、ワルツの言われるがままに返事をしている自分に気付いてはっとする。今は協力しているとはいえ、彼も元犯罪者であるハウンドに手を貸している同伴者。そんな彼と仲良く会話をしてしまっていた事実に、リオスはまたしても自分の未熟さに苛立ちを抱いた。もっとも、先程の会話が“仲のいい会話”かどうかは解らないが。リオスはワルツから目には見えない覇気のようなものを感じさせられており、その不可思議な力によって逆らう事が出来ないのかもしれない、とも思い立った。
しかし、やはり何かが違うような気がしてならなかった。“ワルツ”という者の情報からしても、今の台詞は何処かおかしいところがある。彼は大らかな性格をしていると聞いていたし、実際に合ってみてもその印象は間違いではない。だとすれば難しい言い回しは彼にとっては難しく、嫌うものの筈。攻撃の命中数や相性の関係を気にすることは仮にあったとしても、それを計算してダメージの程度を出すとは考え難い。それだけではない。先程見た彼の眼も何処か妙だった。無表情だったのは確かなのだが、生き物がするような無表情とは何かが違っている。まさに無機質で、機械的な印象を受けたのだ。リオスは大きな疑問を抱きながらも、今はまず事件を解決させることが先決。離れていくワルツの背中を黙って見送ると、ゆっくりと立ち上がり言われたとおりフラックスの元へと向かった。

睨み合うハウンドとアーチェ。深手を負ったアーチェは翼を地に拡げたまま羽根休めを行っているが、その瞳には未だ憎悪の炎が燃えていた。そんな彼の横には同じくハウンドを見据えているバリダ。心配はいらないと言われたものの、やはり忠誠を誓う者の安否が心配なのか、アーチェより一歩手前で何時でも彼を護れるよう身構えている。ハウンドの横へと戻ってきたワルツも含め、2対2で向き合う形となった。
暫しの沈黙。アーチェの怒りはまだ収まっていないようだが、まだ動けるほどに傷を回復していない。バリダの方もワルツの氷技を恐れてか、彼の横を離れようとはしない。彼の性質上1人で突っ込んでアーチェが傷つくことだけは避けたいのだろう。ハウンドはワルツと目を合わせる。ワルツは黙って頷く。ハウンド達も彼らが動かない以上は攻撃する義理はない。元々闘いに来たわけではなく説得に来たのだから尚更だ。アーチェが動けない今、説得するには絶好のチャンスである。ハウンドは注意深く前へ進み出ると、此方を睨みつけている2人を交互に見据えて口を開いた。
「…もう一度言う。俺はお前らと争うつもりはない。俺はただ、その手を血に染め、辛い思いをしているお前らを助けてやりたいんだ」
「フン。何をわけの解らん事をッ。私達は殺人集団。殺人こそが我らの正義であり快感の対象なのだ。苦に感じることなどある筈もなかろう!」
ハウンドの静かな声にすかさずアーチェが反応する。傷を負ったことで少々冷静さを取り戻しているようだがやはりその気持ちは揺るがない。ハウンドを見据える瞳は憎悪の一色で染まっている。しかしハウンドは知っていた。アーチェは本当の気持ちを隠す為に感情を高ぶらせるところがあるのだと。共に過ごした時は短いものだったが、彼の癖や性格などはちゃんと把握していた。それに、本当に殺人を正義とする殺人者ならば、今の台詞をさも当たり前のように言い放つ筈だろう。そういう輩にはまず「心」が、「感情」というものがないのだから。こうして怒りを燃やし、仲間を心配するように「感情」を見せている2人は、まだ堅気としての心が残っている証拠である。ハウンドはそこを敢えて刺激するように再度言葉を紡ぐ。
「だったら、どうして俺がお前らの気持ちを解らない事に対して怒っているんだ?どうして互いを心配し合っているんだ?殺人だけが正義なら、隣にいる相手を平気な顔をして殺す筈じゃないのか?」
質問に継ぐ質問。畳み掛けるようなハウンドの言葉に、アーチェは言い返す言葉を見付けられないようだった。悔しそうに表情を険しくさせるだけである。バリダの方は無表情で、何を考えているのか解らないが、その目は時折動揺に揺れているかのようにも見えた。そこで、今度は同じく2人の様子を見ていたワルツが口を開いた。
「殺人は憎しみしか生み出さない。憎しみはまた憎しみを呼び、その憎しみが殺人に変わればまた憎しみが増えてゆく。その上、憎しみから人を殺したとしても、何も報われはしない。…人殺しほど悪循環を生む、本当に無意味なことはないのだぞ。」
ワルツの深く響くような声がその場に響く。彼から放たれる威厳のようなものは、アーチェ達にもその効果を示しているようだった。彼の噛み締めるような一言が、2人の胸をちくりちくりとつつき、大きな動揺を招く。今まで静かに話を聞いていたバリダも、少々表情を歪ませたのが解った。だが、それ以上に感情を揺らがせたのはアーチェであった。彼は既に動揺を隠し切れなくなっているようで、それに対して更に苛立ちを募らせているらしい。頭の中で響くハウンドとワルツの言葉をかき消すように、アーチェは勢いよく立ち上がり声を張り上げる。
「黙れ黙れ!!たとえ無意味であっても!!私達にはもうこの道しか残されていないのだ!!貴様らの甘い考えで道を変えられるほど、私達の中にあるものは小さなものではない!!王のために、その私達の思いの為に、貴様らは死ねばいいだけだッ!!!」
言うが早いか、アーチェはまだ傷が完全に治っていない状態でハウンド達へと飛び掛る。今度は空中からだが、怒りのままにぶつかってきた為にその攻撃は直線的なもの。ハウンドは素早く飛び上がると、目にも留まらぬ速さでアーチェの懐へ飛び込んだ。頭突きをするようにアーチェを突き飛ばすと、反動を利用して元の位置へと瞬時に舞い戻る。不意打ちというには疑問の残る攻撃法だが、ハウンドの攻撃は確実に命中したことは確かである。短い呻き声と共に後方へ飛ばされたアーチェ。その身体は運悪く地から突き出した大きな岩の上へと落下し、後頭部を強かに打ちつけた。
「アーチェ様!!」
その光景を見たバリダが大きく目を見開きすぐさまアーチェの元へと駆け寄る。ぐったりとしたアーチェは完全に気を失ってしまっており、バリダの不安は更に大きなものへとなってゆく。動かなくなってしまったアーチェを見て、ハウンドもしまったと焦りを見せる。ここまでの傷を負わせる気はさらさらなかった為に動揺は大きく、大丈夫かと声を掛けようとする。

…しかし、次の瞬間には目の前にバリダが迫っており、その鋭い腕の刃を振り下ろしてきていた。
「くっ!!」
咄嗟に飛びのくハウンドだったが、刃は右前脚を掠め傷口から血を迸らせる。突然のことでワルツも呆気に取られており、反撃に移ることは出来なかった。
俯いていたバリダの顔が上げられる。その顔は、先程のアーチェのような憎悪で満たされていた。最早アーチェを崇拝しているバリダは、アーチェを傷付けられた事で怒りに駆られてしまったのだ。
「…殺す」
ポツリとバリダが呟く。静かで短い一言だというのに、その殺意のこもり方は尋常ではない。ハウンドもワルツも、既に話は通じないという事を瞬時に把握し、互いに顔を見合わせ、身構えた。

…そんな光景を、紅い月は嘲笑うように天より見下ろしているだけであった。







月は既に四割が姿を隠し、裏から漏れる紅き光は更に色濃くなってきた。
無命山のとある崖下に聳え立つ漆黒の結晶。その一帯は強い力によって地面が抉り取られ、崩れた土砂の上に枯れ果て圧し折られた木々が散乱している。煙を上げる荒地と化したその場所に、六つの翼を動かし浮かぶ者が1人。漆黒の体毛が首から胸部を包み、両腕の先には手の変わりに二つの頭がある。龍の顔をした二つの頭は退屈そうに口をパクパクと動かし、本体である頭はつまらなそうではあるが期待した表情で林の先を見据えていた。
もう彼是一時間は経つ。罠を仕掛けて作戦通りに進むよう仕向けたとはいえ、流石に不安になってくる。幾ら仲間が呼び寄せるといっても奴らと接触していなければ元も子もないし、万に一つだが仲間が別の奴にやられてしまえばそれこそ意味を成さない。確認に行きたいが、この場の護りを任されておきながら自らの贅沢まで聞き入れてもらったのだ、離れる気にはなれなかった。
三首龍はまだ期待の感情があるようだが、やはり待たされて随分と経つ為に辺りをうろうろと飛び回ったり、両腕の頭同士でじゃれあったりと気を紛らわそうとしていた。しかしそれももう飽きてしまったようで、苛立たしげに表情を曇らせながら龍は大きな口を開けて欠伸をした。その時…。

林の奥で光る赤い瞳。それは確実に龍の方へと近付いてきていた。欠伸の最中にそれを見つけた龍は片目でそれを追う。葉の無い木々の間を駆けて来ている為に、徐々にその姿が見え隠れするようになる。と、赤い瞳の少し上の辺りで何かが白い光りを放っているのに気付き、龍は眼を細める。光は迫る者の動きに合わせて上下に揺れ、暗い林の中をを照らしてはいるが、その者の姿まではよく分からない。まるで深海を照らすランターンのようにも見えるそれは突然横へと消え失せたかと思うと、空気の&ruby(やいば){刃};と化して林の木々を切り飛ばしながら三首龍へ迫る。三首龍は視界に迫る刃を見詰めながら、しかし避けようとはせずに口元に笑みを浮かべた。その眼も閉じてしまい、完全に無防備な状態になる。そうしている間にも空気の刃はどんどん龍に迫り、あと少しでその首をを切り落とすといったところまで接近する。
その瞬間、龍は閉じていた眼をカッと見開くと、瞬時に翼を動かし身を反らせ空気の刃を回避した。その表情は先程とは打って変わり狂喜に満ち溢れていて、その容姿という事もあって恐ろしく見える。狙いを外した刃はそのまままっすぐと突き進み、漆黒の結晶へ命中。しかしかなりの硬度があるのか、傷が付いただけで終わった。
三首龍──サザンドラは現れた白い獣を見て嬉しそうに舌なめずりをする。相当嬉しいのか、本体の顔の口からは涎が伝い落ち、両腕の頭はばくばくと激しく口を動かしていた。サザンドラは現れたアブソルを見下ろしながら、気さくに声を掛ける。
「よぉー、随分と元気な御挨拶ありがとよぉ。しっかし随分とおそかったなぁ。退屈で周りぶっこわしちまったぜ?」
現れたアブソル──シクルはその艶やかな純白の体毛の一部を朱色に染めながら、凄まじい憎しみを剥き出しにした表情でサザンドラを見上げている。周りの様子にも全く気にかける様子は無い。ただただ、サザンドラに鋭い殺気を向けるだけで何も語ろうとはしない。そんなシクルの姿を見てサザンドラは満足げに笑う。下劣な笑い声が荒地に響き渡る。
「イイ目してんじゃねーか。嬉しいねぇ、やっとその目を絶望に塗り竦めてぶっ壊せる時が来たぜ」
サザンドラは彼を挑発するように言葉を吐き出す。それでもシクルはただ身構えるのみ。僅かな隙でも飛び掛れるように。だが、サザンドラは陽気に会話をしていながら、一瞬たりとも気を抜く事はなかった。更にシクルから目を離し自ら破壊しつくした周囲に目を向ける。それでも意識はしっかりとシクルに向けており、シクルはそれがもどかしいのか、目つきを鋭くするばかりだ。
「周りぶっ壊して正解だったなぁ。これなら存分に殺りあえるだろ?」
感謝しろよ、といってサザンドラは笑う。げらげらと喧しい笑い声を立て続けるサザンドラを見て、シクルもとうとう呆れてしまったのか大きな溜息を吐くと、鎌状の角に付着していた血を頭を振るって払い落し、サザンドラに負けないほどの邪悪な笑みを浮かべて彼を見上げた。レナといた先程までのシクルとは、まるで別人だ。
「…相変わらずよく喋る口だねぇ。ま、十分に殺りあえるのはいいけどね。その減らず口がみぃんな命乞いになるまで追い込んで、お前をじっくり葬ってあげられるからさ。」
シクルは実に嬉しそうに微笑み、続ける。
「これでやっと終わらせられるんだね…最期なんだから、イイ声で啼いて散れよ?できれば…僕の心も満たしてくれると嬉しいな…」
口調すらも変わるほどの狂気。異常なまでに膨れた殺意。既にシクルの意識は狂いだしてしまっていたのだった。そんなシクルを見て興奮したのか、サザンドラも息を荒くさせ見開いた目でシクルを見据える。赤い瞳にはシクルが映り、その姿を逃さんとしていた。獲物を捕らえる怪物の目だ。
三つの口から滴り落ちた涎が、荒れ果てた大地に染み込んでゆく。涎が途切れると同時に、サザンドラは唐突に両腕を振り上げそのままシクルに向けて振り下ろした。しかし不意とは言えど攻撃の動作は大きかった為にシクルは後に飛びのき難なく避ける。ただそれはシクルを引き離すのが目的だったようで、シクルが退くと同時にサザンドラは踵を返しあの結晶の方へと飛んでゆく。シクルも慌てて駆け出すが、何をするつもりか把握できない為一定の距離を保ってそれを追いかけた。岩の前に辿り着いたサザンドラはそのままシクルの方を振り返る事も無く地震の要領で両腕を結晶に叩き落した。その瞬間、結晶の上半分が砕け散り、残された半分には大きな亀裂が何本も走った。シクルの鎌鼬ではびくともしなかったそれを粉砕する破壊力、やはり相当の実力者であることが窺えた。
飛び散った大小の破片は彼に続いていたシクルの方にも降りかかり、細かくも目を潰せるだけの硬度のある粉を浴びて顔を顰める。サザンドラは静かに地面に転がった破片の中から手頃な大きさの破片をそれぞれ両腕の口で拾い上げる。シクルは脚を止めると黙って様子を窺った。彼が握る漆黒の石は、無理矢理割られただけに先端が鋭くなっている。彼はそれを見せ付けるように此方に突き出すと、再び不気味な笑みを浮かべた。
「てめえに相応しい死に様を用意してやろうって、&ruby(king){王};が検討してくれてなぁ。コイツは闇の結晶、つまりは馬鹿デカイ闇の石ってワケだ。てめえみてぇなでけぇ&ruby(ヤミ){復讐};の塊は…」
そこまで言ったところで、サザンドラは両腕を交差させる。すると、彼が持っている闇の石が怪しく光を灯し、悪の波動を纏いだす。それは先端の鋭い刃の部分を保ったまま伸びてゆき、波動によって形成された二振りの刀と化した。呆気にとられるシクルを見据えながら、交差させた腕を振り抜く。悪の力を纏う&ruby(つるぎ){剣};が空を切り裂き、高い音を立てる。
「それに相応しいモンでブッ壊してやろうってなァ…!」
サザンドラはゆっくりと剣を構え、シクルを見下すようににやりと笑う。呆気に取られていたシクルも、その言葉と表情で我に返ると、静かに闘いの構えを取った。出来れば今すぐにでもその首を叩き切ってやりたいところだが、剣から伝わってくるおぞましい邪気をその身に感じ迂闊に動く訳にはいかないと冷静に考え、静かに相手の動きを待った。が、サザンドラの方も苛立たしい笑みを浮かべているだけで自分から動く気は全くないといった感じだ。荒地に緊迫した空気が張り詰め、静寂が辺りを包む。
しかし。

静寂は一瞬で壊される事になった──

「…そういやぁ、俺様の名前覚えてるかぁ?ククッ忘れてんだったら冥土の土産に教えてやるぜ?あの化物女と同じ様になぁ…?」
その言葉を聞いた途端に、シクルの中で何かが渦巻きだす。
脳内に再生される記憶。血溜りの中で倒れている彼女。すでに彼女は…彼女の意識はそこには無くなっていた。にも関わらず、彼女の亡骸をバラバラに引き裂いてゆく者。倒れ付した自分の前で、ソイツは──笑っていた。
腹の底から何かがせり上がってくる。怒り、悲しみ、悔しさ、恨み、憎しみ、殺意。殺意。殺意。サツイ。

なぜだろうからだのじゆうがきかないいしきははっきりしているのにからだはいしになったかのようにうごかないけれどめのまえにうつっているものをみているとどういうわけかおちつかないへんなのかなぼくはおかしいのかな。
ただ、ひとつわかることは。


ぼくは、そいつをころしたい。

それだけ


「ラグスウゥゥウウうううううッ!!!!!!!!!!」

彼は飛び掛る。ただ感情に任せ、目の前の者を殺す為に。

**3 [#t1592a63]

此方へと飛び掛かる白き獣を、ラグスは両腕の口にくわえた闇の&ruby(つるぎ){剣};を交差させ迎え撃つ。振るわれた漆黒の角はその剣へとぶつかり、耳に残る高い音を立てて受け止められた。それでも勢いづいた一撃は、宙に浮くラグスの腕に力を込めさせ、後方へと下がらせる。それでも何とか受けきったラグスは得意気に笑うと、両腕に力を込め直すと獣を押し返す。
「へッ、少しは強くなったみてーだが、そんなんじゃ俺様には勝てやしねーぜ?」
乾いた音と共に弾かれた獣は、素早く四肢を拡げて着地する。硬い土を爪が抉る不快な音を聞き、獣は顔を歪めたが、次の瞬間には再びラグスへと視線を向けていた。
彼の瞳に宿るのは、まさに狂気そのもの。怒りや悲しみ、憎しみ感情が入り雑じり、彼の頭は目の前のその者を「殺す」ことしか考えられなくなっていた。心の奥底に芽生え始めていたレナと同じ「助けたい」という思いも、今は心の奥深くに沈んでしまっている。そこにいるのは最早シクルではない。狂気に囚われた&ruby(ケダモノ){獣};だ。
「ラグスウゥゥ…ッ!」
獣は獲物である目の前の者の名を憎々しげに呟く。それは既に唸り声と化していた。
身を屈めたかと思うと、獣はラグスに向け再度突進する。その単調な動きにはラグスも呆れ振るわれる角が当たる寸前防がずに身を左に反らして攻撃を回避する。そして隙だらけな獣に向け容赦なく右腕の剣を振るった。今の獣は宙に浮くラグスに攻撃を放った為、両足が地を離れている状態だ。只でさえ回避困難であろう状況下で、攻撃の体勢をしたままの彼が回避する事は不可能に近かった。それはラグス自身も確信しており、数秒後に感じるであろう肉を裂く感覚を想像し、思わず笑みを浮かべた。

しかし、ラグスにとって思いもよらない事が起こった。
「なにぃ!?」
獣は避けられない事を悟ると、自分が持つ本来の力とは別の、内なる力を放った。瞬時に彼の身体から無数に溢れた光の弾は弾けると同時に風となり、彼の身体を浮き上がらせた。咄嗟の対処であまり力は無かったが、攻撃を回避するには十分な高さを得られていた。獣の前方から迫っていた剣はそのまま獣の下を通り過ぎる形になる。しかし、それで終わりではなかった。獣は大きく首を上から下へ振るい重心を前へ移動させる事で前方に素早く降下した。ピンと伸ばした前肢の先には、振るわれている剣。彼はその剣脊((剣の平らとなってる場所、もしくは山状になっている部位))に前肢を乗せたのだ。ラグスは彼の体重などものともせず剣はそのまま真っ直ぐに突き進む。前肢だけを乗せた獣の身体は剣に引っ張られ左へ回転する。そして、回転の勢いに身を任せ獣は鋼の輝きを放つ尾をラグス目掛けて振るったのだ。
攻撃が当たると過信するあまり、力を込めて剣を振っていたラグスは手応えなさに体勢を崩しかけており隙が出来ていた。咄嗟に身を引き深手を負う事は避けられたが、突き出したままだった右腕にはしっかりと赤い線が引かれていた。龍である彼の皮膚は堅くちょっとやそっとでは傷付くことは無いが、自分の力まで利用された攻撃の前には意味を成さなかったらしい。傷口からは真っ赤な血の飛沫が上がり、後に残った旋風に流されてゆく。ラグスは顔を歪め左腕で傷口を抑える。猪口才な方法で傷をもらう結果になってしまったラグスは苛立ちを覚え、本体の口で歯をぎりりと噛み締める。しかし、傷口から伝わってくる脈打つような痛みを受け取り、流れ出る真っ赤な血を眺めている内に、獣と化しているシクルの予想以上に大きな憎悪を強く感じ、この憎しみを絶望に染めながら壊す瞬間を思い描き興奮し鼻から息を吹き出した。
やがて獣が地面に降り立ち唸る声を聞くと、ラグスはゆっくりと振り返る。その顔には、不気味なまでの笑みが張り付いていた…
「ックク、随分と大胆な行動に出るじゃねぇか。こりゃあ期待させてくれそうだなァ…ッキヒヒヒ」
発狂している状態であるシクルも、彼の表情に警戒心を剥き出しにし更に激しく唸る。しかしその次の瞬間には、既にラグスは動き出していた。六つの翼を羽ばたかせたかと思えば彼は疾風の如く速さで獣へ接近していたのだ。彼は下劣な笑い声を上げながら鈍く輝く剣を滅茶苦茶に振り回す。四足のポケモンは飛び退くことでしか距離を確保することが難しい。獣は角で剣から繰り出される斬撃を一つ一つ弾く事しか出来ない。攻撃に転じようにも、相手は二方向から攻撃してくる。一方向からでしか攻撃出来ない獣には、攻撃を防ぐだけで精一杯だった。更に暴走しているとはいえ、ここまで全力で駆けてきたのであろう。獣には確かな疲労が見え始めていた。その場で待ち構えていただけのラグスと比べれば一目瞭然だ。だんだんと動きが鈍り防ぎきる事が出来なくなったシクルの身体には徐々に細かい傷が出来始める。赤茶に汚れた彼の体毛は傷口から流れる血によって更に汚れていった。
狂ったように剣を振るうラグスは肉を切り裂く感触に悦びを感じ、真っ赤な血飛沫が上がる度に興奮を覚えていた。その感情は収まることなく更に膨張してゆく。もっと、もっと感じたい。そればかりが彼の頭の中で渦を巻き、支配していた。破壊衝動にかられ、感情の制御が難しくなってしまったようだ。
「さっきまでの勢いはどーしたァ!?動きが鈍ってやがるぜぇ!?」
「ッ…!」
挑発的な言葉に苛立ちを覚えたのか獣は苦し紛れに連続切りを発動させるが、やはり攻撃に転じるまでにはいかない。が、連続切りは放つ度に威力が上がる技。それを知らない程馬鹿ではないラグスはさっさと片をつけてしまおうと動きを変える。左に握る剣を右の剣を突き出すと同時に獣に投げつける。攻撃を防ぐ事に躍起になり、集中力を欠いていた獣は攻撃の変化にすぐに気付く事が出来なかった。右の剣を角で受け止め前脚で投げられた剣を弾こうとしたが、ラグスの腕から離れた途端に悪の波動は消え、刃の部分を弾こうとしていた獣の脚は宙をかいた。投げ付けられた闇の石は彼の脚を切り裂き、右肩に突き刺さる。飛び散る血はラグスの顔を汚し、突然走った激痛に獣は怯んでしまう。六つの目がその隙を見逃す筈はなく、石を手放した事で自由になった左腕で手早く獣の脇腹を咥えて持ち上げ、獣が抵抗を始める前に自分の前に投げやった。獣は痛みに歯を食い縛りつつ、視界を確保する為に何とか閉じていた目を開く。しかし──
「ッッ…!?」
突然、視界が真っ白になった。意識が自棄に遠くに感じる。何が起こったかも判らないまま、全身の力が抜けてしまいふわりと宙を舞う。焦点の定まらない瞳は自分の身に危険が迫っている事に気付く事すら出来なかった…。
ラグスはニヤリと意地の悪い笑みを浮かべると、さっと左腕を伸ばし肩に突き刺さったままの石を掴み思い切り引き抜いた。再度走った痛みに獣は漸く意識をはっきりさせられたが、まだ視界はぐらぐらと揺れるばかりで状況を読み取る事は難しかった。ラグスは更に本体の口を大きく開く。涎を垂れ流すそれは両腕の口と違い鋭い牙がずらりと並んでいる。その牙が青白い光りを放ち、バチバチという弾ける音を立て始めるのを確認するとラグスは無防備な獣に襲い掛かった。丁度頭を振って何とか視界を取り戻した獣の目に映ったのは、大きく開かれたラグスの口だった。
「グァッ…!」
電気を放つ鋭い牙が、獣の脇腹に食い込む。呻き声を漏らした獣は抵抗する事も出来ずにぐったりと脱力してしまった。ラグスは彼を咥えたまま満足げに口の端を吊り上げる。ラグスはゆっくりと彼の身体を持ち上げると、左側の翼のみを羽ばたかせ素早く向きを変える。そして、先程積み上げておいた木々の山に向けて思い切り投げ付けた。へし折られた木々の山に頭から突っ込んだ獣は、ぶつかった拍子に上から木が降り注ぎ一分も立たない内に姿が見えなくなってしまった。
「へッ、所詮いきがってもこの程度だったのか?拍子抜けだなぁ。こんなんじゃ殺る気失せるんだがなァ?」
ラグスは頬に付着したシクルの血を細長い舌でぺろりと舐め、満足げに微笑む。同時に呆気なく攻撃を喰らったシクルに少々物足りなさを感じ、地に唾を吐き捨てながら不満そうな言葉を漏らした。しかしその言葉は、木々に埋もれてしまった彼には聞こえる筈もなかった…。


木々に埋もれた獣の身体には落下してきた大木をぶつけたのか所々に色濃い痣が浮かび上がっている。脇腹や全身に付けられた傷からは未だに血が流れ、チラーミィ達の返り血の痕の上を更に汚してゆく。美しい純白だった体毛は赤茶の斑に染まり見るも無残な状態になっていた。幸い骨や筋肉に大きな損傷はなく、機動性に問題が生じなかっただけマシだろう。
が、身体を起こそうにも何本もの樹木が重なり合い引っ掛かってしまっている為に起き上がる事が出来ない。想像以上の痛手で技を使う気力すら彼には失われていた。

このまま何も出来ずに死んでゆくのか。朦朧とした意識の中で獣の…否、シクルの頭にそんな言葉が響いた。その言葉を合図にするかのように、燻っていた怒りの感情が徐々に冷めてゆく。先程の攻撃で頭部に強い衝撃を受けた上、全身を駆け巡る電撃を喰らった。本来電気信号で動きを示している中枢神経が刺激され、シクルに僅かながら冷静さを取り戻させたのだろう。本来の意識を取り戻すと同時に大きな苦痛と疲労を味わう羽目にはなったが、無闇に突っ込もうとする意識はこれで抑える事が出来そうだ。

シクルは硬く閉じられていた瞼を薄く開く。木々に埋もれている為周囲は薄暗く、重なり合う巨木同士の隙間から差し込んでくる紅い月明かりだけが、唯一の灯りだった。

自分は何をやっているのだろう。次に彼の頭に浮かんだのはその言葉だった。レナにはああ言ってしまったけれど本当はシクル自身、彼らとの殺し合いにはもう嫌気が差し始めていた。復讐など、本当は彼女が望んでいない事も分かっている。それなのに何故こんな事をしているのか、シクル自身にも解らなかった。否…理解はしているのだ。結局自分は自己満足の為に復讐をしようとしているだけだという事も、その先にあるのが虚しさだけだという事も。しかし、それでも復讐をを止めようとしない自分がいる。そして、力を抑えられないばかりに、幾度となく同じ過ちを繰り返してしまう。更にその衝動は月日の経つごとに次第に強いものへと変わってゆく。ついには復讐に一切関係の無い者にまで矛先を向けるようになってしまった。彼は形振り構わず人を殺める自分が恐ろしくて堪らなかった。ただ、その“現実”を認めたくないだけなのだ。
僅かだが神経系が回復してきたらしく、彼の鼻では鉄臭い血の臭いや枯れ果てた碧の臭い、耳では木々の隙間から吹き込む風の音を感じ取る事が出来るようになった。

『あの日』を境に生まれてしまった、自分の内なる陰の存在…彼はそんな陰の自分を抑える事が出来ない。普段は未だしもいざ仇を目前にすると、初めの内は平気でも何れ自分の感情を抑えられなくなってしまう。今の状況が、その事実をはっきりと証明していた。

自分は何の為にここまで来たのか。シクルは歯を食い縛る。レナを護るべき状況下にあったにも拘らず彼女をあんな発狂鼠と二人きりにした挙句、仇に感情任せに飛び掛った結果がこれだ。
(…何も、出来てないじゃないか)
シクルは顎の力を抜き、口角を吊り上げ自嘲する。同時に目頭も熱くなってくる。自分が情けなさ過ぎて、悔しさばかりが込み上げる。自分の勘定もコントロール出来ずして、どうして人の心を動かすというのだろう。“自分”の始末も自分で出来ずに他人の問題に首を突っ込むなど、狂人の沙汰である。結局自分は1人狂っていただけなのだとはっきり突きつけられた様な気分になり、シクルはただただ悔恨と罪悪からくる涙を流していた。

ふいに、彼の耳が声を捉える。先程から意識の外側で聞いていた声だ。
「…オイオイ、マジでこの程度だったってのかぁ?チッ、見損なったぜ。こんな事ならあんとき女と一緒に殺しとけばよかったぜ…」
シクルは全く動かずに思考を廻らせ続けていた為、痺れを切らしたようにラグスが声を上げたのだった。どうやらシクルは気を失ったと判断したらしい。まさかあの程度の攻撃で倒れる程ではないと思っていたのか(実際に意識はあるが)、苛立たしげに愚痴を漏らし表情にも落胆の色を露にしていた。彼の表情を窺うことの出来ないシクルも、その野太い声に力が籠っていないのを感じる事は可能だった。が、当のシクルも意識こそあれど既に満身創痍の状態。ラグスにとっては『あの程度』で済まされる攻撃であっても、シクルにとっては深手を負う程に強力な攻撃なのだ。そう簡単に動けないのは確かだった。
「…まぁいい。雑魚は消し飛ばすだけだしな。雑魚と分かりゃぁ生かしとくギリもねぇしよぉ」
己の無力さに歯噛みしている間にも、ラグスの声は淡々と響いてくる。おまけに言葉が途切れると、木々の隙間から淡い光が入り込んできた。風が渦を巻く音も聴こえてくる。強大な力の放流。どうやら相手は本気で自分に止めを刺すつもりらしい。シクルは勿論そう察したが、身体は言う事をきかない。
両手にくわえていた獲物を手放し、その3つの口を大きく開くラグスは容赦する気は無いのか先程までの狂喜の様は何処へやら、自棄に真剣な表情をしていた。呆れているものとは明らかに違う顔。その顔も口内で渦巻く波動の輝きが強くなると、光の中に隠れ見えなくなる。

左腕の口で燃え盛る火球は彼自身の内なるもう1つの力により、更に火力が強まってゆく。結構な距離があるというのに、シクルを下敷きにしている枯木の表面が熱で燻り始めるほどだ。
右腕の口で輝く&ruby(おうに){黄丹};色((黄赤色。昇る朝日の色を写したとされる鮮やかな色))の弾は、彼の士気を具現化した闘球。彼は勿論、シクルのような悪族にとっては天敵とも言える力の塊である。物理的攻撃よりも遠距離からの特殊的な攻撃を得意とするサザンドラのそれは、不定の力であっても侮れない。況して瀕死の傷を背負ったシクルの息の根を止めるには十分すぎる力量が見て取れた。
そして本体の一際大きな口には、己が持つ龍の波動を凝縮し最大にまで高めた球が渦を巻いている。遠く離れた都会の地イッシュ地方では、伝説に称される三神龍を除けば最強とも言われる龍族である彼の波動は、薄荷の様な明るい色をしているが辺りに放出されている波紋の力は相当なもので、彼の付近の地が砕け宙にふわふわと浮き上がっている。
「まったく情けねぇ。あの化物女も、まさかこんなに簡単にブチる((ぶっちする。約束を破るという意味。))とは思ってなかっただろうなぁ」
ラグスは両腕をしっかりと構え直すとやはり少々名残惜しそうに目を細めた。今まで散々殺そうとしてきたというのに、何故そこまで残念がるのか…シクルは気に掛かったが、「ブチる」という言葉を聞いた途端、不思議な感覚に包まれた。

彼女との約束。そんな憶えなどシクルにはなかった。ないと思っていた。しかしそれは思い違いだったのだ。彼女の仇を…ラグスを怨み、殺意を抱くあまりその「言葉」が、彼女との「約束」が、彼の中で隅に押しやられてしまっていたのだ。それが改めて指摘された事により呼び覚まされたのである。
頭の中に冷たい風が入り込み渦巻いているかのような、記憶が呼び覚まされるという経験した事のない感覚に戸惑うシクル。薄く開いていた眼を大きく開き、全身をびくりと振るわせる。靄の掛かっていた彼の意識は徐々に鮮明になり脳裏には1つの光景が浮かび上がってきていた…。


深い、深い森。生い茂る葉が光を遮る森は月も雲に隠れた夜では暗闇に包まれていた。そんな暗い森の一角で何者かが倒れている。シクルと同じアブソル種の中でも、比較的長い純白の美しい体毛。その大半を、赤黒く染めながら…。
そして、それを護る様に前に立ち、返り血を浴び狂喜に満ちた笑い声を上げる龍に対峙しているかつてのシクルの姿。既にボロ雑巾のようになっている己の姿に、シクルはますます当時の無力さを呪った。
突然TVのノイズ音に似た音が脳裏を掠め、光景が切り替わった。飛んだ、というべきか。声を上げながら龍に飛び掛るかつてのシクル。しかし龍は嘲笑すると両腕に咥えた獲物を交差させ強く振るった。それは現在の戦闘でも使用している闇の石。咄嗟に角で防御するも圧倒的な力の差により弾き飛ばされ、後方に聳えていた大木に叩き付けられてしまった。それだけでは収まらず、防御した角には二筋の傷が出来ていた。圧倒的力量の差の前に戦闘不能に陥った過去の己を見て、シクルはただただ悔しさに歯噛みしていた。
またしても光景が切り替わる。しかし今度は龍の姿も、過去のシクルの姿も見えない。心臓を打ち抜かれ、四肢を切り落とされた彼女の姿だけが、脳裏にはっきりと映し出されていた。彼女の上に雫が落ち、震えた謝罪の頭に響いていることから、どうやら当時のシクル自身が見ていた光景なのだろう。
シクルは悲惨では済まないほど酷い姿の彼女を見て、胸が締め付けられる思いだった。自分が無力なばかりに、夭逝した彼女の姿はこんなに酷くなっていたのだと思うとますます自分の無力さが恨めしい。

自分がもっと強ければ。心からそう思った。

雫の冷たさを感じて眼を開く彼女。これほどの傷を負っていながらまだ命を繋いでいる姿は逆に痛々しい。まるで無理矢理生かされているかのようにも見えた。否…実際に、彼女は生かされていたのだとシクルは思い出す。
かつての己の声が聞こえる。必ず仇は討つと。自分の声ながらその響きには決意染みたものが感じられた。同時に彼女の頬に大粒の雫が幾つも幾つも降り注ぐ。しかし、彼女は首を横に振ったのだ。これには現代のシクルも当時のシクルも驚くばかりであった。それだけではない。どうして、という言葉が響くと共に彼女は心から安堵したように笑ったのだ。ここまで惨たらしい姿にされたというのに、何故笑っているのか。シクルには皆目検討がつかなかった。
彼女は何かを呟いた。しかしまたしてもノイズ音が鼓膜を揺らし、小さな囁きは彼の耳に届かなかった。
そのノイズ音を合図に、脳裏に映し出される光景も靄が掛かり始めた。言い切ると同時に一筋の涙を流した血濡れの顔が歪み、薄れてゆく。
シクルは心中で必死に叫んだ。まだ約束が何なのか解っていない。せめて、彼女の声だけでも、もう一度。

彼女の口が動く。懐かしい声。いとおしい響き。そして、彼女の言葉。

──。


「もう関係ねぇか…あばよ」
ラグスの三つの口から攻撃が一斉に放たれる。シクルを殺す事を惜しみ少しばかり挑発を続けていたラグスだったが、やはり反応を示さないシクルに諦めたらしい。それぞれ膨大な力を秘めた攻撃弾は、カーブするような軌道を描き枯木の山へと飛んでゆく。あまりの強大な力に弾と平行の関係にある地面が大きく抉れていく程である。絶妙な距離感を保っている為普通に回避するだけでも困難であろう。深手を負ったシクルが回避することなど出来るはずがない。ラグスはシクルの死を確信しもう勝負はついたとばかりに背を向けた。
直後、凄まじい爆発音が辺りに鳴り響いた。衝撃が地面どころか大気を揺らし、強烈な爆風が雲を吹き飛ばす。爆炎は紅く輝く月に届きそうなほどに吹き上がり、枯れた山で敵を待つ狐にも異変を知らしめた。
バクオングが咆哮したかのような轟音に顔を顰めつつ、ラグスはちらりと振り返った。枯木は火球により一瞬の内に焼き尽くされ、灰は弾けた波動の残留に吹き飛ばされ、地面は闘球によりクレーターと化していた。が、ラグスは更に顔を顰めた。幾ら爆炎が高く上がったとはいえ、まだ煙が晴れるには早すぎる。こうも状況の把握が出来る筈がない…そう感じた、刹那。

「ッ──!?」
一筋の風が、身体を掠めた。ただらぬ感覚に思わず身構えたラグスだったが、風は彼の身体を撫でるようにしながら過ぎ去っていった。
一瞬の沈黙の後、龍は驚きで僅かに開いていた口を笑みの形に歪めた。両腕の口も喜びからかパクパクと開閉をし始める。否。
「前言撤回だ。少しはマシになったみてぇだな」
それは、士気から来るものだった。
ラグスは実に嬉しそうに言葉を放つと翼を羽ばたかせゆっくりと振り返る。後方に佇んでいた白き獣の姿をその眼で捉えると、フッと息を漏らして両腕を開閉した。周囲を風が渦巻いている事から察するに、己の内なる力を全力で駆使し、加速したのだろう。薄汚れた体毛が風に靡き、鈍い輝きを放っていた。ラグスは気合を高めるように鼻息を吹きだし、両腕の口を地面に伸ばすと地に突き刺さっていた闇の石を拾い上げる。見せ付けるように頭の上に振り上げた石は、月明かりを浴び怪しげな光を放っていた。
「その様子じゃあ、頭は冷えたみてぇだが…どうして俺様を斬らなかった?」
ラグスは彼の瞳を見て、&ruby(ケダモノ){獣};のそれとは違う色に変わっている事に気が付いた。冷静さを取り戻した彼の強さは仇として長年闘ってきたラグスはよく分かっている。だからこそ、確実に攻撃できる状況にあったにも関わらず反撃してこなかった事が疑問だった。
彼…シクルはリラックスした様子でその場に座り込み、じっとラグスの姿を見つめていた。ニヤつきながら獲物を構え、どこか楽しげに左右に揺れながら浮いている。その様は完全に今の状況を楽しんでいた。
それでも。

──最初から平気で人を殺せる者などいる筈がないのだ。

「…何があったんだ」
「あん?」
「…昔。何があったんだ」
シクルは静かに問い質した。ラグスの問いに答える事も無く、ただ静かにラグスを見つめていた。先程とはまるで違う、決意を新たにした様子のシクルの姿と強い言葉にラグスは少々驚いていたが、すぐにニヤついた表情へと戻った。
「なにが言いたい?」
嘲笑を含んだ馬鹿にするような声を漏らしシクルを睨み返す。そんな事よりも早く戦闘を再開したいのか、ラグスはそのまま翼を僅かに羽ばたかせゆっくりとシクルに近付いてゆく。そんな舐めるような視線を向けられてもなおシクルは眉ひとつ動かすことなく真っ向からラグスを睨んだ。そして、大きく深呼吸を1つすると相手にしっかり聞こえるよう、はっきり、ゆっくりと言葉を発した。
「僕は、もうお前を殺すつもりはない。和解しに来た」
その言葉を聞いた途端、ラグスの顔から笑みが消えた。動きも止め驚愕に眼を見開いている。ここまで長年に渡り互いの命を狙ってきたというのに、何の前触れも無く終止符を付けようと提案されたのだから当然だろう。そんなラグスを無視し、シクルは更に続けた。
「さっきお前に…君に攻撃しなかったのも、もう殺す気はないからだよ…。それに、僕は約束を破りはしない」
シクルは出来る限り相手を刺激過ぎないよう言葉を選び、静かに語りかける。そこまで言い切ったところで片前脚をゆっくり持ち上げ角に付けられた十字の傷を擦る。眼を瞑り今まで薄れてしまっていた彼女との思い出を呼び覚ますように、何度も何度も擦ってゆく。先程1つだけ思い出した、彼女の言葉を。彼女との、その約束を。
しかし──思い出に浸る時間を与えてくれるほど、相手は気の長いものではなかった。
「てめぇ…調子に乗ってんじゃねぇぞッ!!和解だァ!?頭でも逝ったかァッ!!」
ラグスは獣じみた怒号…咆哮をあげると、本体の口から鉄の粒子を大量に含んだ光線…ラスターカノンを放つ。不意打ちに近い形で放たれた光線はシクルへと向かうが、怒りに任せられた攻撃だった為に直線的な軌道を描いていた。当然、冷静に状況を把握したシクルは右へ高く跳躍し光線を回避した。地面が大きく抉れる。
ラグスが怒るのも無理はない。彼はシクルがレナの話を聞き動揺していた事や、過去の記憶が呼び覚まされた事など知る芳もないのだ。シクルが心変わりした意図など解る筈も無く、彼からしてみればシクルの言葉は全て、己を見下されているようにしか感じる事が出来なかった訳だ。シクルも彼の挙動によりその事に気が付いたらしい。ラグスが二撃目を放ってこない事を確認すると、シクルは再度その場に座り込み息を荒らげる彼の姿を瞳に映した。
「僕はもう正気だよ…。これは、彼女が望んでいること。だから僕は、彼女の望みを叶える。約束を、護るんだ」
シクルは自分に言い聞かせるように言葉を紡いでゆく。それでもやはりラグスには理解できないようで、既に怒りで般若の様な顔つきをした彼は今にも飛び掛ってきそうだ。しかしそうしないのは、僅かながらシクルの言葉に興味を抱いているからでもあった。
「だったらッ、なんで俺様の過去なんざ聞こうってんだ!?」
ラグスの怒鳴り声が荒地に木霊する。シクルは彼の怒りに満ちた表情を見詰め暫し考えを巡らせていたが、やがて深く溜息を吐き口を開いた。

「今まで命を狙い合ってきた君の事を理解しないで話をつけるだなんて、それこそ不可能な話だから。だから君が…人を殺すようになったきっかけを、教えてほしいんだ」

直後、空気を切り裂く音が鳴り響きシクルの白毛の先を切り裂いた。ラグスの動きを予測していたのか、シクルは二振りの刃をギリギリのところでかわしている。そのまま地から離した四肢の内の左前脚で目の前の黒い体毛に覆われた胸を軽く蹴り素早く離れる。対して剣を振るい奇襲を掛けた龍は一時の間だけ攻撃後の体勢を保ったまま停止していたが、やがてゆっくりと顔を上げると、初めに見せたような憎たらしい笑みを顔面に張り付けてシクルを睨んでいた。
「どーやら、マジでぶっ壊れちまったみてーだなァ…。こりゃあ、もう使い物にゃならねぇか…」
軽い口調で淡々と話すラグスは、その笑みからは想像もつかない程におぞましく、膨大な殺気を全身から醸し出していた。シクルの言葉に、怒りを通り越して開き直ったらしい。両腕の剣を構え直し何時でも飛び掛れるよう身構え、改めてシクルを見据えると口角を更に吊り上げ一言言い放った。
「殺すっきゃねぇな」

たった一言呟かれただけだというのに、相当な重みの感じられる響きが辺りに拡がってゆく。彼から距離を取り彼を睨み返していたシクルも、流石にその言葉の覇気には苦笑せざるを得なかった。正直なところ勝てる訳がないと自覚してしまう程の凄まじさをシクルは感じ取っていた。逃げ出そうとしても、無理だということも感覚で理解した。ならば。
シクルは目を閉じ深呼吸をすると、ゆっくりと四肢を開き四本の脚でしっかりと大地を踏みしめる。気合を高めるように頭を振るい、鎌状の角を月明かりに当てるとその目を開いた。
その瞳は戦士そのものだった。
「こうなる事は大体分かってたさ…。君が抵抗するなら僕は話が出来るよう、君を止めるまでだよ」
「へッ、上等だ」

両者は互いに言葉を交わし笑い合うと、ほぼ同時に地を蹴った。どちらも目的は同じ。因縁の闘いに終止符を打つため。それがどのような形で収まるのかは、まだ2人にも分からなかった。

ただ。シクルの瞳に映る月には、もう雲は掛かっていなかった…

**4 [#d7bb8931]

漆黒の空に輝く月。その月が見下ろす大地も、海も、何もかもがその光を浴びて輝いている。しかしその色は普段からは想像もつかない、不気味な緋色を湛えており、世界を包む紅い光は何か災いを予言しているかのようにも見える。そんな異質な夜だからか、植物さえも枯れ果て、誰もが寄り付かなくなったその場所はより一層不穏な空気が漂っていた。
が、不穏な空気が漂う理由はそれだけではないらしい。風が吹いても揺れる葉すら残っていないその山に、立て続けに轟音が響いていた。

無命山の麓の林…否、林だったその場所で、灰色の鼠は顔に苛立ちを露にしながら枝を蹴り上げ、“標的”めがけ両掌から星型の弾を飛ばしてゆく。流星群の如く放たれたそれはそれぞれが軌道を変え、“標的”の周りを包み込むように広がり逃がさんとする。しかし命を宿したその的は黙って矢を受け入れようとはしなかった。殺意を持つ星の包囲網の僅かな隙間を見つけ、そこに目掛けて枝を蹴る。暗い林の中を風のように跳んだ黒い猫は、狙い通り攻撃の間をすり抜け、そのまま正面の樹木にしがみつく。が、膨大な殺意を受け継いだ星達も負けてはいない。そのまま強引にも標的のいた樹木を貫き蜂の巣にすると、再度軌道を大きく反らし猫へと真っ直ぐに向かっていった。先程と違い真っ向からの攻撃は避けやすいものだが、当事者の凄まじい殺気の込められた星の形をした矢から発せられる威圧感は、1つでもそれはそれは凄まじい。それが幾つも向かってくる光景を見たら、並みの度胸の持ち主ならば射られる前から射竦められて動く事すら出来なくなってしまうだろう。
が、彼女…レナは冷静だった。豪速で迫るそれらをしっかりと目で捉え、素早く別の木へと跳び移る。当然瞬時に軌道を切り替えることは出来ない凶器はまたしても樹木を貫き、根が支えきれなくなった上の部分を切り離してしまった。巨木が地面に落ち、もう何度目かは分からない轟音が山中に木霊した。
そんなことは気にも留めず、星型弾を操る鼠は怒りのあまり奇声を放ちながら両腕を滅茶苦茶に振り回し始めた。その意志に忠実に反応した星達は、土砂降りの雨粒のように、撃ち出されるマシンガンの弾のように、文字通り「メチャクチャ」に林の中を乱れ飛ぶ。何を狙うわけでもなくただ動き回るそれらは、苛立ちを発散するように木々を貫き、地面を削り、空を裂くように破壊を繰り返した。そんな軌道の読めない攻撃に対しても、レナは自分を必死に落ち着かせ、最初にそうしたように隙だけを見て木を蹴ってゆく。時には枝の上で、迫る星を踊るように切り裂き、蹴り落とし、氷の礫で相殺しながら“防御”に徹した。そんな彼女の姿を見て、狂気の色に染まるセインは血が出そうなほどに唇を噛む。
「ちっ…!ちょこまかと、うざったいわねェ…!!」
最早怒号にすら聞こえるように声を上げると同時に、枝を折れんばかりの力で蹴り今度は自らレナへと突っ込んでゆく。攻撃は最大の防御と言わんばかりに動き続けるレナは逆に言えば動くに動けず、隙を突かれればはなすすべも無いだろう。背後から迫る今までとは違う大きな殺気を感じ、レナは咄嗟に振り向きながら枝の根本の方へと跳び退る。防御を止めた事で迫っていた星が飛びのく彼女の身体を切り裂き傷付けた。ここで危機を回避出来るならば、多少の傷はどうってことないだろう、と踏んでの行動なのだろう。
瞬間、彼女が立っていた場所にセインの白く、しかし紅く汚れた体毛が叩き付けられた。衝撃で樹木全体が大きく揺れ、根本に寄りかかるようにしていたレナも体勢を崩しそうになる。長く伸びた体毛を留めていた紫のリボンが解けて宙に舞う。本来ならば相手の持っている武器などを隙を突いて払い落とす技なのだが、“&ruby(テクニシャン){技巧家};”の特性を持つセインの力は凄まじく、枝を根本から圧し折ってしまった。突然の強い浮遊感と、後に重心を向けていたことで、一度目は踏みとどまったレナも一瞬よろける。枯れ果てた脆い枝は強烈な力の為すがままに、垂直の角度で一気に落下してゆく。
「っと。説得する相手は…あんただけじゃないから、ねッ!」
ふらつきながらも、回避に成功したレナは一度体勢を立て直すために枝に爪を立て、そのままクラウチングスタートの要領で一気に短い枝の上を駆ける。セインは怒りで力み過ぎていたせいかすぐに体勢を立て直せずにいた。闘いの原動力である脚に狙いを定め、レナはその鋭い鉤爪を構える。加えて冷気を纏わせることで、そのまま脚を凍りつかせ拘束も考える。
「悪いけど…すぐに終わらせてもらうわよッ!!」
憎憎しげに横目で見上げてくるセインの目を見て、やはりもう人を傷付けたくないという思いが彼女の頭をよぎるが、そんな思いを消し飛ばすように声を上げると走る勢いそのままに右の爪を振り下ろす!その瞬間セインはニタリと不敵に笑うと、体勢を少しだけ横にずらす。が、横にずらしただけではどの道傷を負うだけだ。

しかし、事態は思わぬ方向に動く事になる。
それだけの筈だったにもかかわらず…レナの爪はセインの白い体毛を掠め、その毛の一本を切り落とすことなく彼女の横を滑るだけに終わった。
「なっ…!?」
予想外の事態に思わず声を漏らすレナ。真っ直ぐに突っ込む形で攻撃を繰り出したレナは動揺したことで反応が鈍り、そのまま前のめりに倒れそうになる。その一瞬の内に体勢を整えたセインは狙いすましたように右腕を引き、自分の方へ倒れてくるレナの懐へ潜り込む。危険を感じたレナは咄嗟に左手で対応しようとしたが、レナが腕を伸ばすのと、セインの掌が彼女の胸を打ったのは同時だった。
「うっ…ぐっ…!?」
鋭い痛みを感じて、レナは大きく目を見開く。肺から空気を叩き出された衝撃で、一瞬呼吸が止まり瞳孔がきゅっと収縮する。歯を喰い縛りながら痛みを堪えるレナは、自分の身体に違和感を覚えた。先程まで圧倒的な力を見せ付けていたにも関わらず、物理的に受けた痛みはそれなりのものだった。隙を突かれたことは確かだったが、先程までの力で今の攻撃を受ければ、肺から空気を叩き出されるだけでは到底済まない。それだけでもおかしな話なのだが、それ以上の確かな違和感が、彼女を支配していた。

数秒が経過すると、2人を乗せた枝は轟音を立てて地面に落下する。レナはセインの腕を払い除けると、巻き起こった鉄臭い砂埃に紛れるようにしながら後ろへと飛び退き、地へと脚を付ける。ひやりとした冷たさを足裏に感じたが、レナはそれより何より身体に酷い寒気を感じていた。
思わず身体を抱くように腕を回した途端、視界がぼやけ斜めに傾く。悪酔いした時のような強い目眩に、レナはよろよろとふらつき、一本の巨木に寄り掛かってしまった。身体は勝手に震えてしまう程に寒いのに、頭の中は煮えきるように熱い。それ程激しく動いてもいないのに呼吸は荒く、粘度の高い脂汗が身体中から噴き出してくる。視界を覆っても感じる重い目眩によって、レナはどちらが上か下かも、自分が立っているのか寝ているのかも解らなくなっていた。
「アハッ、随分逞しい体つきなのねぇッ?なーんか、物足りないなぁ〜?」
「ハァ…ハァ…うる、さい…あんたには…言われたく、ないわ…」
漸く砂埃の中から姿を現したセインが狂喜の表情を顔に張り付けながら甲高い声で話す。レナは彼女の姿を捉えようと腕を離したが、視界はぐるぐると回り何も見ることは出来ず、吐き気を催すばかりだった。彼女の言葉に苛立ちを覚えて言い返す声も、普段の威勢が全くない弱々しいもの。そんなレナの姿を見て、セインはしてやったりといった表情をする。
「どうしたの〜?随分ツラそうじゃない。ま、無理もないか、あたしの毒をモロ喰らっちゃったんだもんねぇ?」
「ど、毒…?」
セインの、頭がキリキリするような声を聞いてレナははっとする。そう、攻撃を受けた直後に感じたあの違和感。そして今全身に起こっている異常な感覚。それらに繋がる鍵を、彼女が口にしたからだ。
「キャッハハハハッ!なんてツラしてんのよぉ?ダァッサァッ!!ハハハハハハ!!」
充血した目を見開いて驚き、だらしな口を半開きにしたレナの顔を見て、セインは大きな笑い声を上げた。レナが表情を歪めるのも全く構わず、また話し始める。
「フフフフ、さっきアンタの胸板打った時にそのまま流し込んであげたのよっ。まさかあんな風に毒をもらうだなんて思ってみなかったでしょッ?」
毒ゞ。形振り構わず攻めてばかりのセインが、こんな変則的な技で攻めてくるとは思いもしていなかった。それも、セインの言う通りまさか物理的な打撃で毒を流し込まれるなど考えたことすらなかったのだ。
違和感の正体を知った為か、余計に容態が悪化する。最早立っている事すら辛くなってきたレナは木を背にしてその場にしゃがみ込んでしまう。息をするのも段々と苦しくなってきていた。次第に症状が重くなる猛毒は本当に&ruby(タチ){性質};が悪い。レナは一気に勝負をつけなくてはいけない状況に持ち込まれてしまった。
「ぐっ、げほっ、げほっ…」
腹の奥から何か熱いものがせり上がってくるのを感じて、レナは顔を顰めて咳き込む。口を抑えた掌に違和感を覚えてゆっくりと視線を落とすと、白い掌全体に赤黒いぬめりが付着していた。少しだけ粘り気のある、生温かい感覚。不快でしかないその感覚を振り払うように、レナは歯をぎりっと鳴らしながら掌を巨木に擦り付ける。そのまま木を支えるようにしながらゆっくりと立ち上がろうとする。ここで立ち止まる訳にはいかない、レナは必死にそう自分に言い聞かせていた。今までずっとこんな道を進んでいいのかと悩んで、悩んで、悩みぬいて、漸く辿り着いた正しい道。もうこの道しかないんだと、仲間達にまで協力を煽って此処まで来た。それなのに、初めの一歩から躓いている自分が、レナには情けなくて仕方がなかった。だからこそそんな弱い自分も、セインも叩き潰さなくてはならない。レナはそう自分に言い聞かせ続け、震える膝を無理矢理立たせた。
「へぇ、まだ動けるのねぇ?でも、その方が殺し甲斐があるもんねぇッ?キャハハハッ」
苦しそうにしながらも何とか立ち上がったレナを見て、セインは少しだけ驚いたようだ。それでも大分最初の調子を取り戻したようで、余裕そうな表情は少しも崩れない。リボンが外れボサボサになってしまった白い体毛を手で梳きながら、耳障りな笑い声をたてながらレナを横目で睨んでいた。レナは未だに続く目眩のせいで上手くセインを捉えられずにいたが、彼女が髪の様なその体毛を弄っているのを見てはっと思い出す。

あの時。確かにレナの攻撃は命中していた。セインが身体をずらしたことで狙いは外れたものの、それでも手傷を負わせるには十分な立ち位置だった。にも関わらず…レナの攻撃はあの白い体毛に触れた瞬間、軌道が大きくずれたのだ。加えてセインは全くの無傷。その後すぐに反撃された為に深く考えていなかったが、今思えば不思議でしかない。ただの体毛にしか見えないというのに、一体何故…?
漸く目眩が治まってきたレナは、何とか手掛かりを探ろうとセインの体毛を凝視する。セインは暫く指先で毛を梳いていたが、レナが見ているのに気が付くと手を下ろしニヤリと意地の悪い笑みを浮かべ、しかし呆れたような視線をレナに向けた。
「はぁ〜、拍子抜け。アンタの力ってこんなものだったの?今までも何度かやり合ってきた筈だけど、まっさかこんなに弱っちいヤツだとは思わなかったわ!その程度であたしの考えを変えようとでも?キャハッ、笑わせんなッ!」
セインはレナを馬鹿にするようにそういった。が、レナはセインの表情に引っかかるものを感じていた。傍から見れば一方的に貶されているだけにしか見えないだろうが、セインの表情には失望の色が見て取れた気がしたのだ。その瞳はただ馬鹿にしている訳ではなく…まるで、結局何も変えられないのではないか、と訴えているかのようなそんな失意の色を湛えているような気がしてならない。そんな彼女の様子を見てレナは少しばかり安堵した。“やはり彼女は、ただの殺戮者ではない”。その可能性がまだ残されていたからだ。その思いのお蔭か、毒にやられ少々焦りを抱いてしまっていたレナは僅かではあるが冷静さを取り戻す。更に自分を落ち着かせるため、一度大きく深呼吸をする。身体の奥底がずきりと痛んだ気がしたが、レナはなるべく気にしないように普通に接する事を心がける。
「…そうよ。私はまだまだ弱い。だから、仲間に頼らなきゃ目的を達成するなんてきっと無理だろうし、1人であんたを止めることですら、難しいかもしれない。でも、だからって何時までも怖気づいて逃げているのはもう嫌。最初から変えられないって決め付けてたって何も変わりはしない!」
レナの叫びにも似た思いが、静まり返った林の中に木霊する。セインはその気迫に少し気押されしたように一歩脚を引き、顔からは彼女の言葉を聞いて笑みが消えた。大声を出した為に痛みが強まったのかそこまで言って咳き込んだレナだが、その目からは強い意志が溢れているのが分かる。口元に付着した血を拭うと、再度口を開く。
「私はあんた達を助ける!それが、私がやるべきこと。今の私に出来る最大限の償いなのよ!」
レナは木に寄り掛からせていた身体を自分の脚でしっかりと支えて地を踏みしめる。毒なんて関係ない。自分は自分のやるべき事をやり通せばいい。どんなに傷つく事があろうと、やり通せばいいのだ。それこそが、自分の本当にやるべき事なのだから。レナは自分の胸に何度も何度も言い聞かせ、真っ直ぐにセインを見据えた。しかし対するセインは、レナを見てはいなかった。先程そうしていたように、頭を抱えてぶつぶつと何かを呟いている。先程は距離があって見えなかった表情も、僅かだが窺う事が出来た。そこでレナは更に確信を強める。セインの表情が、苦痛に染まっていたからだ。ただ殺戮を楽しむだけの相手ならば、幾らレナが思いを口にしたところで馬鹿にしたように笑うなどして気にも留めない筈だ。しかしセインは、二度も動揺した様子をこんなにも激しく示している。それは、まだ彼女の中に良心が残っているという確実な証拠といえるからだ。苦痛に満ちた表情をしているのも、心の中に残った良心を刺激されて、それが人殺しとしての思いとぶつかり合い混乱しているからなのだろう。更に大きな希望が見えてきたことで、レナは微笑を浮かべた。毒のせいで顔色は悪かったが、今のレナはとても弱っているようには見えない。
「何…何訳の解んないことほざいてんだよッ!!あたしを助ける!?何から!?あたしは誰にも、何にも囚われてなんかない!!あたし達はただの人殺し!!お前はその対象の1つに過ぎないのッ!!消えろ!あたしの前から消えろおぉぉぉおおッ!!」
自分の良心が表に出てこようとしているのが余程嫌なのか、セインはその思いをかき消すように金切り声を上げながら両掌に怒りを具現化させたような黄丹色の弾を瞬時に形成し、レナに向けて投げ付けた。突然の行為に驚いたレナだが、咄嗟に地を蹴り上げその場を離れる。一直線に放たれた闘弾はそのまま彼女が寄り掛かっていた木に激突し、そのままへし折ってしまった。その威力に冷や汗を流しつつ、宙に飛び出したレナは大きく息を吸い込み、隙を晒しているセインに向けて左斜め上の方向から冷気で出来た光線を放つ。いきなり動いた為に毒が回りまたしても目眩に襲われたが、何とかセインに向けて打ち出す事に成功した。しかしセインは憎憎しげに迫る攻撃を睨むだけで動こうとはせず、無言でその白い体毛を掴む。そしてその体毛で冷気で出来ている光線を弾き飛ばしてしまった。やはり普通に攻めても攻撃を受け流されてしまう。レナはあの体毛をどうにかしなければ、と考えるが、着地と同時にセインが此方に迫ってきていた。
「アンタの攻撃じゃあたしに傷を付けることなんて出来ないわよッ!!」
セインは両方の体毛を掴んだまま一気に間合いを詰めてきていた。スピードの出難い体制であるにも拘らず、そのすばしっこさは猿((チラチーノの素早さはほぼエテボースと同じ))にも劣らない。レナは両腕を上げ迷わず迎え撃つ構えを取る。焦る気持ちを押さえつけ、相手をしっかり捉えることだけを考える。
セインが右の腕を思い切り横に振るう。白い体毛が鞭のように撓りレナの頬を目掛けて右へと突き進む。レナはその動きを冷静に捉え、タイミングを合わせてその場にしゃがみこむ事でこれを回避した。しゃがみこんだことで、レナの前にはセインの身体がある。そこで目についたのは、彼女の首を包むように巻かれた白い体毛。スカーフポケモンという名の通り、首を包む体毛は一層厚みがあった。レナは一か八か、その体毛目掛けて手を伸ばす。爪が触れた途端に滑って角度が少しずれたが、体毛を掴む事に成功した。
「なっ…」
更に運のいいことに、厚みがある分爪が上手く引っ掛かりすぐに離れてしまうことはない。セインの驚愕の声を聞きながら、レナは一気にセインの身体を持ち上げ、そのまま勢いを付けてセインを地面に叩きつける。
「ぐっ…!?」
背中を強かに打ちつけたセインは痛みに目を瞑り呻き声を漏らす。瞬く間に攻撃を受けたセインはすぐに自分が攻撃を受けたことを理解するのに時間が掛かり、無防備に隙を晒す結果になる。その隙を見逃さず、レナは両脚でセインの腕を踏みつけ身動きを取れないようにすると、すぐさま硬化させた爪を振り下ろす。毒による苦痛も無視できなってきた。ここで決めなければならない、レナはその思いからすぐさま攻撃に移ることが出来た。動けないセインの左の太腿の辺りに、レナの鋭い鉤爪が突き刺さる。
「くぁっ!?ぅ、ぁ、ああああああああああああッ!!!」
鋭い痛みにセインは目を見開いて絶叫する。手荒な真似はしたくないのがレナの本心であったが、今のセインを止めるにはこれくらいする必要があると考えたのだろう。念入りに、突き刺した爪を捻り筋肉を破壊する。その度にセインは絞り出したような呻き声を上げた。傷口から溢れた血がセインの脚を汚し、飛び散った血がレナの顔を汚す。
十分に傷を負わせたと判断したレナは傷口から爪を引き抜く。しかしそれで終わりではない。べっとりと付着した血を払い飛ばすと今度は右の太腿に爪を突き立てようと構える。幾ら傷を負ったとはいえセインはただのチラチーノではない。翳の一味は、元より悪しき心、つまりは憎しみや妬みの感情が強い悪タイプだけで構成された集団らしいと、レナはハウンドから聞いていた。ハウンドが何故そんなことを知っていたのかはよく解らないが、悪タイプには偏見があったり、外見だけで差別を受ける種族が少なくないことは確かだった。その分抱かれる負の感情はやはり計り知れないものがあるのだろう。そんな集団に、悪の力を持たずして入団しているセインはそれ程の力を持っているということだ。油断してまたしても攻撃を受けることになれば今度こそ闘いが厳しくなることは明白である。これ以上痛々しい悲鳴を聞きたくはないが、レナはここは確実に動きを封じるべきだと判断した。
が、セインもただされるがままと言うわけではなかった。
「くうぅッ…このぉっ!!」
「かはっ…!?」
痛みに呻き声を漏らし、次いで悔しげに声を発したセインは地面に力なく横たわっていた尻尾を瞬間的に硬化させ、思いきり振り上げた。体格の差により、完全に馬乗り状態になっていたレナはその僅かな動きの変化に気付くことが出来ず、強く振り上げられた尻尾が彼女の脇腹を打ち据える。衝撃で掠れた声と共に息を吐き出しながら、レナの身体は打たれた方とは反対側に吹き飛ばされる。息を吐き出した拍子に口内に残っていた血が宙を舞い、セインの顔に付着する。しかしそんな事は気にも止めずにセインはその尻尾を支えにしながら身体を起き上がらせると、横倒しに倒れているレナを睨み付けた。それも最早殺気そのものを向けているかような鋭い視線。不意打ちで痛手を受けたレナは脇腹を抑えて咳き込み、痛みに堪えるだけで精一杯でその視線にはまだ気付いていない。
「いいわ…アンタがその気なら、あたしも本気でアンタを殺す!!」
彼女がそう叫び終えると同時に、ザァッと波が押し寄せたような音がレナの耳に響く。何事かと顔を上げたレナは、周りの景色を見て驚愕する。
右も左も、砂、砂、砂。立ち並ぶ枯れ木さえも完全に遮る程濃度の濃い砂が、レナの周りを完全に包囲していた。ただでさえ薄暗い林の中、完全に外の光を遮断されたことによって内側はほぼ暗闇に包まれてしまう。しかも、その渦は高く高く続いており、上を見上げても見えるのは不気味な紅い月だけだった。紅い月明かりを頼りに、レナはその砂の渦を注意深く観察する。
本来チラチーノは砂をとばし相手の視界を奪うことは得意としているが、砂嵐を発動させる程の力は持ち合わせていない。よく見るとその渦のあちこちが時折明滅しており、外側から自身の内に隠された超自然の力をぶつけることで砂を操っているのが予想できる。元々砂を扱う事自体は慣れているであろう種族柄故、これ程の砂を一度に操ることが出来るのも容易に想像がついた。
そうして様子を窺っていたレナだったが、ふと自分の腕に痛みを感じてそちらに視線を落とす。そこには小さな切り傷が出来ており、その側にも次々に傷が開いてゆく。その様子に焦燥を抱くレナを嘲笑うかのように、遠くの方でセインの声が響く。
「此処の砂は硬いから、人を殺すには打ってつけなのよッ。そのままどんどん傷を増やしなッ!!キャハハッ♪」
その言葉を聞いて、凶器が砂だと分かるとレナは直ぐ様自分の周りに壁を作った。両掌から放ち出した、冷気にも似た特殊な力により、目には見えない壁が形成される。それは物理的な攻撃を半減させる力を持つ為、殺傷能力が高いとはいえ、ただの砂はその壁に弾かれ入ってはこれないようになった。レナ自身、防御らしい防御はあまり好まないのだが、覚えて損はないということで覚えていたリフレクターがこんな所で役に立つとは思ってもみなかった。改めて、ワルツのバリアーを参考にして覚えておいて良かったと実感する。しかし砂の渦の勢いは凄まじく、まだ完璧に使いこなせていないリフレクターでは完全に防ぎきることが出来ない。透明な壁には幾筋もの傷が出来ていく。
壁が使い物にならなく前にここから脱出しなくてはと、レナは思い立つとすぐに冷気の光線を吹き出す。一直線に伸びる冷気は何かに阻まれることなくその砂壁に命中する。砂は高速で回転しているため、冷気が当たっている所から横へと凍り付いた砂の塊が流れていくのが見える。確かに効果はあるようだが…それでも反対側の景色は全く見えない。セインは、レナの想像以上の量の砂を操っていたのだった。ならば、とレナは土をしっかりと踏み締めてから一度大きく深呼吸し地を強かに蹴り上げると、風に負けない速さで砂に突っ込み冷気を纏わせた拳を強く握りタイミングを合わせて打ち付ける。これならば纏わせた冷気が一気に広がり、砂を凍り付かせられるかもしれないとレナは考えた。
が、砂壁は打ち込んだ拳を真っ直ぐに受け止めることはなく、レナの拳に弾かれ普通の砂のように外側に飛び散ってしまった。腕だけは出すことが出来たレナだが、身体ごとぶつかるように飛び込んだ彼女の身体は文字通り砂の渦に激突し、しかし拳ほどの勢いを持たなかった身体は外へと飛び出ずに渦に巻き込まれそうになる。すぐ様砂を蹴って離れた為被害は少なかったが、これでは脱出が出来ない。更に思い出したような重々しい毒の痛みが全身に響き、目眩も相まってふらついたレナはその場で片膝を付いてしまった。セインはそんなレナを嘲笑うように観察しつつ((外側からは内側の様子が見える設定))、非情にも攻撃を仕掛けた。いつの間に登ったのか高い樹木の枝に座り、指先を砂嵐の中のレナに向ける。直後、小さな種子の弾丸が幾つも撃ち出された。
咄嗟に音を聞き取ったレナは自分の第六感を頼りに見えない位置から飛んでくる弾を1つ1つ避けてゆく。本当ならば弾き落とすことも出来るのだが、毒の回りを警戒してなるべく最低限の動きを心掛けようとする。しかし撃ち込まれる弾丸は次々降り注いで来るために、彼女自身の体力は既に追い詰められていた。まさに弾丸のような速度で撃ち込まれる攻撃の前に、未完成で傷付いた防御壁はないに等しく徐々に避けきれずに傷が増えてゆく。それでも何とか避け続けたレナだったが、またしても強い目眩に襲われる。自分の意識とは関係無く襲ってくる目眩にはどうすることも出来ず、反応が鈍った彼女の左肩を弾丸が貫く。
「痛ッ…!」
鋭い痛みに顔を苦痛に滲ませるレナ。右腕で傷口を抑えようと手を伸ばし、そのままもんどりうって尻餅をついてしまう。まずい、と思いながらもすぐに起き上がることは不可能であり、レナは傷を負うことを覚悟しつつ、両腕で急所に当たる部位のみを覆う。
しかし予想していた攻撃はくることはなかった。無数に撃ち出されていた銃撃はレナに攻撃が命中した途端にぴたりと止んだ。相変わらず砂の壁は晴れないが、取り敢えず致命傷を避けられたことに安堵する。しかし何故突然止めたのかが気掛かりだった。レナからすれば、先程畳み掛けられていたらただでは済まなかったかもしれないのだ。逆に言えばセインからすれば好機だったことは明白である。そんなレナの疑問を感じ取ったのか、セイン自らがケラケラと笑いながらその理由を打ち明けた。
「クフフッ、アンタはただの獲物とは違う、&ruby(king){王様};に差し出す御馳走だからね。簡単に死んでもらっちゃ面白くないわよッ。王様に聞こえるくらいの断末魔上げて、見るのも惨たらしい姿に成り果てるまでは、生きててもらわなくっちゃっ…♪キャハハハッ」
つまりはそういうことだ。セインからしてみれば、レナという存在は既に憎悪の対象でしかなくなった。しかしレナは自分が慕う者の獲物。その獲物を始末するとなれば、王様を十分に満足させる必要があるのだ。加えて、セイン自身の性格上目を付けた獲物を甚振り殺すのは不思議ではない。どの道、レナはセインに弄ばれているという現実を突きつけられ、歯噛みするばかりだった。このままでは説得はおろか、話し合いに漕ぎ着ける事すら出来ずに命を散らす事になりかねない。そんな状況に置かれていながらも、レナは中々打開策が見付けられずにいた。そんなレナを見ていたセインは突然普段のはしゃいだ様子からは考えられない、本気で相手を見下すような視線でレナを見下ろし、静かな嘲笑を浮かべながら言葉を発した。
「…あたしは今まで、血の滲むような努力をしてきた。その努力の上であたしは今此処に立ってる。そんなあたしを、アンタみたいな軽々しい考えで動くようなヤツに、倒す事は不可能よ。」
レナには砂壁に阻まれてその表情まで窺う事は出来なかったが、その嘲笑を含んだ深く響くような声を聞くだけでも強い苦しみの感情を感じ取る事は容易なことだった。心の内側を揺さぶられたような感覚に、レナはもう一度説得を試みようと口を開こうとしたが、下手に刺激してこれ以上暴れられたりしたら今までの傷を背負いながら凌げる自信はあまりない。今のレナには、砂の壁を挟んで此方を見下ろしているであろうセインの姿を思い浮かべ、睨みを利かせる事しか出来なかった。肩の傷口から溢れた血が腕にも流れ始め、レナの身体はどんどん朱に染まっていく。
その時、突然視界が暗くなるのを感じて天を仰ぐと、唯一の明りである紅い月に雲が掛かっていた。それも、完全に月を隠すほど濃い訳ではなく、かといって薄すぎる訳ではない。あくまで網を架けたように僅かな明るさだけを奪い、その紅い光を反射させより一層不気味さを引き立たせていた。風はある程度吹いているにも関わらずその場に停滞し続けていることから、セインが雨乞いの応用で雲を作り出したのだと理解できた。しかしそれだけで終わりではなく、砂の壁がとうとう天井にも張り巡らされた。その部分だけは薄く細かい砂が渦巻いているだけなので完全に暗闇に閉じ込められる事はなかったが、もう殆ど何も見えない。ただ紅い光に包まれた空間がそこに広がっているだけにも見えた。

セインの声が何処からか聞こえた。

「せめて死ぬ前に、あたしがアンタの忘れた憎しみってものを思い出させてあげる。そうして憎しみに囚われて何も出来ないまま消してあげる。&ruby(まんげ){万華};の中で1人寂しく散り…&ruby(さじん){砂塵};の渦の中で舞う。この幻の嵐の元で、葬ってあげるわ」

…そんな気がした。

彼女が言い終えたその時には、レナの意識は既にそこにはなかった。

──雲に遮られた紅き満月は、夜を統べるバケモノの眼のように怪しく輝いていた。

…運命の夜は、まだまだ続く。

[[紅き夜の黒き闇の中で 死]]に続く

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黒猫(レナ)「ふー、やっと三章も完結ね。全く、何ヶ月掛かってんのよ…」
黒豆(ハウンド)「そ、それよりなんだ、次章の題名は!明らかに“4”の“し”の字が違うだろ!」
白獣(シクル)「見ての通り、今までより表現が過激になるとか何とか言ってたような気がするよ?」
氷河(ワルツ)「これまで以上に過激とは、この作品は本当に大丈夫なのか…?」
白獣「まあ平気かどうかは兎も角として、過激な表現が増える事は確かだから読むときは十分注意してね。」
黒猫「とりあえず、ここまで付き合ってくれてありがとね。続きも期待してなさい」
黒豆「…俺の黒豆につっこんでくれる奴はいないのか(ガックリ)というか、この設定特に何の意味もn(ry

えー、まず投稿期間を指定しておきながら思い切り過ぎてしまって本当に申し訳ありませんでした。恐らくこれからも不定期更新になると思いますが、どうかご了承下さいorz
作品の話に移行しますと、漸く三章も完結。漸く中間点を越えたというところですかね(まだ中間かよ)それにしても、リメイク当初予定していたものよりかなり長くなってしまった感が凄まじい…(汗)しかし漸くまとも(?)な作品になってきた気はしてきたので、私自身少々安心しております。このまま取り合えず本編“は”上手く収束させられればなぁ…(苦笑)まぁ“は”と言っても何もないかもしれないですが(笑)
そして、今回の更新分ですが多分キャッキャキャッキャとチンチラさんが結構うるさかったかもしれません。しかし、それで「セインうぜぇ」と感じてくれれば此方としては幸いです。セインは基本喧しくて鬱陶しがられるキャラの設定をしています故(ビンタ …チラチーノのビンタはご褒美と聞きますが、セインにやられたら首の骨が折れそうですね(ビンタ
また、最後の砂嵐云々はオリジナル技です。とうとう厨ニ表現まで出てきたよ、やったね!(蹴 まぁチンチラの生態を調べていたら、砂浴びの事が沢山書かれていたのでつい妙な妄想が(汗)詳しい事は後書きの下に書き出しておきます。若干ネタバレがありますが、大したことではないので(汗)
それから、私は続きを書く度に設定が変わっていってしまう事が多いので、もし矛盾した点があれば指摘して頂けると助かります。勿論私自身でも確認していくつもりですが、見落として訳が分からなくなっては皆様に迷惑が掛かってしまいますからね(既に訳が解りませんが)
次章は上で話しているように、これまでより一層残酷な表現などが増える予定です。題名から判断しても、どのような事が増えるのかは…解るかもしれませんが(汗)その為、万が一気分が悪くなったとしても、責任は取る事が出来ませんので、予めご了承頂ければと思います。それでは長くなりましたが、此処まで閲覧して頂き誠に有難う御座いました!これからも宜しくお願い致しますorz

・&ruby(まんげさじんげんらん){万華砂塵幻嵐};
砂掛けと目覚めるパワー超の合わせ技。鍛え抜かれた超自然の力により強力な砂嵐を発生する事が出来る。本来の砂嵐と違い超自然の力で渦を発生させている為、砂に力が宿り続けている間は消えることはない。また、自然にあるものの光((月や太陽など))の光を利用する事で、万華鏡が模様を映し出すように相手に幻を見せる事も出来る。

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**コメント [#id96d779]

苦情や質問、誤字脱字の報告、コメントなど何かありましたら此方にお願いします。本当に描写下手なのでアドバイスをして下さると助かります。どうか宜しくお願いします。


#pcomment(コメント/紅黒 惨,,above);

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IP:125.192.34.95 TIME:"2014-10-07 (火) 03:54:58" REFERER:"http://pokestory.dip.jp/main/index.php?cmd=edit&page=%E7%B4%85%E3%81%8D%E5%A4%9C%E3%81%AE%E9%BB%92%E3%81%8D%E9%97%87%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%A7%E3%80%80%E6%83%A8" USER_AGENT:"Mozilla/5.0 (Linux; U; Android 4.2.2; ja-jp; F-04E Build/V10R41A) AppleWebKit/534.30 (KHTML, like Gecko) Version/4.0 Mobile Safari/534.30"

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