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紅い硝子玉は輝かない の変更点


written by [[朱烏]]
writer: [[朱烏]]


注意:この作品は&color(Red,red){人×ポケモン};を扱っています。また、&color(Red,red){暴力描写};や&color(Red,red){死の描写};、それに準じた描写が含まれる可能性があります


''&size(22){&color(#d7003a){紅};い硝子玉は輝かない};''
#contents


**光の届かない深海へ [#b1871f1b]


 デスクワークは、いつも以上に捗っていた。それで、時間が過ぎるのを忘れていたのかもしれない。
昼休みに買ってきたビーフジャーキーは、とうの昔に腹の中に収められていた。空になったビニル容器は、ノートパソコンの横に積み重なっている書類の上に置かれていた。
 僕はその容器を手に取って丸めると、足元に置いてある黒い小さなゴミ箱に放り込んだ。これが、僕の仕事の終了の合図だ。
「お疲れ様でした」
 僕はノートパソコンを素早く鞄へ仕舞い込み、まだ仕事をしている人たちに適当な挨拶をしながら帰宅の準備をする。
「お前帰るの?」
「あ、はい」
 隣のデスクから&ruby(ひょうきん){剽軽};な声が聞こえる。
「じゃあ――」
「わかってます。だから早く準備してください」
 彼は僕の先輩だ。僕より五歳年上だが、先輩として尊敬できるところは一つも見当たらない。
 そもそも、僕に出社帰宅の送り迎えをさせてもらっている時点で、先輩としての威厳はないに等しい。僕の車に乗せて欲しいという申し出も、彼の家が僕の帰宅ルートになかったら一言の下に断っていたはずだ。
 会社から出て、駐車場に向かう。後ろから先輩が何か言いながら走ってくるが、気に留めない。
 白い軽自動車の運転席のドアを開け、エンジンをかける。僕が乗り込んで数秒後に、先輩は助手席に座った。
「エアコンつけようぜ」
「駄目です。窓開けてください」
 いい加減に自重というものを知ってほしいと、僕はため息をついた。
 駐車場を出て、国道に乗る。珍しく、車が込み合っていることはなく、比較的スムーズに車を走らせることが出来た。
「なあ、ユーリ」
 先輩が僕を名前で呼ぶときは、何か僕に大事な(あくまでも先輩にとって、ということであり、僕にとっては大して重要ではない)話をするときだ。
「なんです?」
「七時から飲み会があるんだけど」
「お断りします」
 定型文を彼の前に提示するのは、これで何度目だろう。入社して四年目、先輩とはそれ以来の関係であり、一日三回は「お断りします」を言っている。一月の出社日数を二十日とすると、延べ三千回以上は言っただろうか。
「なんで?」
「僕、そういうの嫌いなんです。前も言ったでしょう。それに……」
 彼女のことが、頭をよぎる。一瞬、アクセルペダルから足が離れた。
「それに?」
「家で待っている奴がいるんです」
「あー、成程ね……。モンスターボールにいれて会社に持ってくる、っていう選択肢は?」
「ありません。彼女はボールに入るのを極端に嫌うので。僕も彼女を狭い空間に閉じ込めるようなことはしたくないんです」
 だから、胸が苦しい。いっそのこと、会社を辞めて、彼女と一緒に樹海に入り結ばれようと考えたこともあった。しかし、やめた。彼女の顔が二度と見られなくなってしまう恐れがあったからだ。
 国道から細い路地に入って、先輩を降ろすと、僕は法定速度を無視して路地を突っ切った。
 現在五時四十三分。家を出てから十時間が経過しようとしていた。


 アパート付属の駐車場には、車が疎らに停まっていた。僕は部屋番号202の指定位置に車を前から突っ込ませた。我ながら乱暴な運転だと思う。
 アパート二階への階段を走って上る。前に住んでいたボロアパートと違って頑丈なつくりをしていたから、足音は響かなかった。
 鞄から鍵を取り出そうとしている間に、いろいろなことを考えた。彼女は今日何をして過ごしたんだろうか。具合を悪くしていないだろうか。淋しがって泣いたりしていないだろうか。
 鍵を鍵穴に挿し込んで捻る。ドアを開くと、そこには暗い世界が広がっていた。奥の寝室のカーテンは閉め切られている。
 カーテンを開けてから出ていったはずだが、彼女は今日も僕の所作を徒労に終わらせた。
「ただいま」
 帰宅を知らせるも、返事はない。
 靴を脱いで部屋に上がる。僕は寝室へ直行し、カーテンを開けた。緩い西日が、寝室を淡く照らす。
 彼女はベッドの上で寝ていた。紺色の背中は西日を弱々しく反射し、毛の一本一本が青く艶やかに光っている。僕はその背中を優しく撫でて、手を淡黄色の腹へと滑らせた。
 そこで彼女は起きた。目を&ruby(しばた){瞬};かせ、僕の姿を確認しようとしている。しかし、彼女の目に僕の姿は映らない。
「おはよう」
 僕は静かな声で彼女に話しかけた。
「……夢、見てた」
 彼女は、ゆっくりと、消え入りそうな声で言う。
「どんな?」
「……ユーリと一緒にビルから飛び降りる夢」
「痛そうだな」
「わからない。地面にぶつかる前に気を失っちゃったみたいだから」
 彼女は欠伸をした。寝足りないのか、寝過ぎたのか、判断がつかなかった。
 僕は彼女の前肢の付け根を掴んで、そっと抱き上げた。彼女の美しい顔が、僕の眼前に現れる。
「綺麗な眼だね」
 僕は、彼女の顔の中でも、特に眼を気に入っていた。深紅の輝き、ルビーのような瞳は、僕の心をくすぐる。
「こんなの、ただの硝子玉だよ……。取り去ってしまいたいくらい……」
「それは駄目だ。君の眼は、君の数ある魅力のうちの一つなんだから」
 彼女にとって、その硝子玉はあってもなくても大して変わらないものだ。しかし、僕にとっては代え難いものなのだ。
「ユーリの顔、もう一度見たいな」
 その願いを叶えてあげることが出来るなら、僕はこの身を投げ出すことも厭わないだろう。
「ルビー……」
 それが出来ないから、今僕にできるのは、彼女の名前を呼び、抱きしめてあげることだけだった。


**深海を泳ぐ [#sd4c4280]


 彼女との出会いは、十年前に遡る。小学校六年生だった僕は、手持ちのカイロスを連れて、友達二人で野山を探検していた。新しいポケモンをゲットするためである。
 夏休み中、僕は友達と何か思い出を作ろうと必死になっていた記憶がある。汗が止まらぬ炎天下、水の入ったペットボトルを片手に僕たちは歩き回った。
 そうして出会ったのは一匹のヒノアラシだった。
 僕はすかさず勝負を仕掛けた。ヒノアラシも僕が何をしようとしていたのかを理解したようで、彼女は(この時はまだ彼女が雄雌どちらであるのかは知らない)戦闘態勢に入った。
 かなり苦戦した覚えがある。ヒノアラシは、僕が今まで見てきたどのポケモンよりも好戦的だった。僕は彼女の繰り出す技に一層惚れ込んだ。
 勝ったのは僕たちだった。カイロスも、長年生きてきた自負と、父さんの下で何度も戦ってきたという矜持があったのだろう。タイプ相性が悪いのにもかかわらず頑張ってくれた。
 僕は用意したモンスターボールをヒノアラシに投げつけた。そのときの彼女は、何らの抵抗もしなかった。彼女は、そのまま僕の手持ちポケモンとなった。
 やがて、カイロスは老齢のために引退し、祖父母宅へ預けられることとなった。祖父母は家族が増えたと喜んでいたが、カイロスは何を考えていたのだろうか。今となっては、知る術はない。
 僕はヒノアラシにルビーと名付けた。名付けるまではずっとヒノアラシと呼んでいたが、いつか、彼女の閉じているようにしか見えない瞼の奥に、宝石と見紛えるほどに美しい、紅い瞳が隠されていることを知ったのだ。彼女もその名前を気に入ってくれたようだった。
 ルビーと出会ってから、僕と彼女はいつも一緒だった。学校、夕食、風呂、睡眠……彼女と離れていた時間があったかどうかさえ怪しい。そんな姿を見て、母さんは「まるで恋人同士ね」と言った。彼女にそんな感情は抱いていなかったが、あながち間違ってはいないと思った。
 ルビーはとにかくバトルが好きだった。だから、僕も彼女に相応しいトレーナーになれるように努力を重ねた。彼女はそんな僕を信頼してくれたし、僕もまた、彼女を信頼していた。
 毎日バトルに明け暮れていたかいがあって、僕が中学生の時、ルビーはマグマラシに進化した。もっとも、僕が彼女をゲットしたときには、彼女のレベルはある程度あったと思う。それでも、目の前でポケモンが進化するというのは、驚きであり、喜びであり、感慨であった。
 ルビーはヒノアラシの時の幼さを残しつつも、容貌は大人のそれに近くなった。その綺麗な立ち姿に、僕は感極まって号泣した。
 それからますます、僕はルビーのために何ができるのかを考えるようになった。この時の彼女は人の言葉をほぼ不自由なく使いこなせるようになっていて、僕と彼女のこれからについても話し合うようになった。
 高校生になって、僕は部活動に勤しむようになる。ポケモンバトル部という、ルビーのための部活に入った。学校で一番の人気を誇る部活であり、部員数は生徒全体の四分の一である。僕とルビーは、毎日のように異なる人とバトルをして鍛えた。
 ルビーの成長は著しいものがあった。僕も、トレーナーとしては優秀な部類だと言われるようになった。やがて、僕とルビーは部活の中でもトップクラスのペアになった。通算勝率も七割を超えた。まさしく、絶頂期であった。


 しかし、事件は唐突に起こる。
 高校三年生になりたての、良く晴れた日、外のバトル場でとある部員のサイドンと戦っていたときのことだった。
 僕の指示のミスだったのか、ルビーの気が緩んでいたのかは憶えていない。一瞬の隙を突かれて、彼女はサイドンのアームハンマーを背中から喰らってしまった。彼女は吹き飛ばされ、バトル場から弾き出された。そして、校庭照明の太いコンクリートの柱に、体を強く打ちつけた。
 ポケモンバトルでは珍しい光景ではなかったが、心配になった僕はすぐに彼女に駆け寄った。しかし、彼女はすぐに立ち上がってバトルの続行を希望した。好戦的で、不屈の精神力を持っていることは、昔から全く変わっていなかった。
 そのバトルは何とか持ち直して勝利したものの、僕はポケモンセンターに行き、彼女の体力回復にいつもより時間をかけた。
 家に帰り、いつも通りルビーを膝に座らせて家族と食事し、一緒に風呂に入って体を洗ってあげた。何も、変わらなかった。
 僕は、先生から出された課題を終わらせるために部屋にこもった。当然、部屋にはルビーもいる。彼女は、僕が勉強するときには滅多に話しかけなかった。たぶん、僕の邪魔をしたくないという心掛けからくるものだったのだろう。
 しかし、この日はどういうわけか、彼女が話しかけてきた。
「ねえ、ユーリ。なんだか目が霞んで見えずらい……」
 僕は机から離れて、ベッドに寝転がっているルビーの目を調べた。彼女の下瞼を下げたり、瞳を覗き込んだりしてみたが、異常らしきものは見当たらなかった。
「疲れたんじゃないかな。今日はもう早めに寝ようか」
 僕は課題作業を途中で打ち切って、彼女と一緒にベッドに入った。電気の消えた部屋で、彼女の温もりに触れる。
「ユーリの体ってひんやりしてるね」
 体温の高いルビーからすれば、僕の体は少し冷たく感じる。僕は彼女の首を撫でてみた。彼女は「くすぐったい」と言いながら、僕にひしと抱きついてきた。
 夜の帳は降りきって、僕とルビーは深い眠りについた。
 
 明くる日、僕はいつもより少し早く起きた。陽は顔を出したばかりだった。僕はまだ完了していない課題を終わらせようと、僕は机に向かった。だが、作業はすぐに中断した。後ろのベッドから声が聞こえてきたからである。
「ユーリ……どこにいるの?」
 僕が起きたのを察して、ルビーも起きてしまったようだ。
「ここにいるよ」
「見えないよ。どこにいるの?」
 寝ぼけているんだろうと思い、僕は彼女をそのまま放っておいた。しかし、がたん、と派手な音がして、僕は振り向いた。そこには、ベッドから落ちて横たわっているルビーがいた。
「だ、大丈夫か?」
「ユーリ……」
 何だか様子がおかしい。僕の方を見ようとしているようだが、視点は僕の顔に合っていない。
「ユーリ……私、ユーリが見えないよ……真っ暗で何も見えない……」
 まるで背中をナイフで突き立てられたような衝撃。心臓が不規則に脈打つ。
 僕は朝ごはんも食べずに、父さんを叩き起こし、病院へ向かった。車を運転する父さんを、僕は急かした。病院に急患の連絡を入れたが、動揺してまともに言葉を発せなかった。僕の腕の中で、ルビーは虚空を見つめていた。

 ポケモンを専門に扱う病院は、ポケモンセンターを更に拡大したような、とても大きな建物だった。朝方ということもあり、病院の周りに人影はほとんどなかった。
 僕は学校を休んで、一日中病院の中にいた。医者には話せることをすべて話した。そのあとはずっと待合室で、雑誌も読まず、テレビも見ず、ただただぼうっとしていた。
 その日を以って、ルビーは失明した。外傷的なショックで、視神経線維に傷がついているらしいという診断だった。つまり、サイドンからアームハンマーを喰らって、コンクリートの柱に体をぶつけたことが原因である。
 ポケモンがそのように視力を失うのは珍しいことだった。医師も、ルビーのような患者に会うのはおそらく今日が最初で最後だろうと言った。
 ポケモンは普通の動物や人間よりも体が強靭に作られていて、ちょっとやそっとで体が壊れてしまうようなことはない。激しく戦うことを前提に、遺伝子が体を設計しているからだ。
 視力を元に戻すのは難しいという。眼球を損傷したのならまだ治る見込みはあるが、視神経を治すのは今の医学では無理らしい。運が悪かった、それしか言いようのない出来事だった。
 病院ではなんとか平静を保っていた。しかし、帰りの車の中で、僕はルビーを抱きしめながら泣きじゃくった。自分の身に降りかかった悲劇を受け入れられないのはルビーのはずなのに、僕は彼女以上に取り乱していた。
 泣き疲れた僕は、家に着いたあとに、ルビーを連れてすぐにベッドに直行した。僕と替わるように泣いているルビーを慰めながら頭を撫でていたら、朝になった。もちろん、ルビーの視力は戻らない。
 一週間、部屋の中に引きこもった。食事は母さんが運んできてくれたが、ほとんど手につけなかった。文字通り、食事が喉を通らなかったのである。ずっとルビーを腕の中に置いて過ごした。
 傍目から見れば、ルビーは何も変わっていない。失明したといっても、眼がなくなったわけではないのだから。
 しかし、生活はがらりと変わってしまった。僕は、ルビーを学校に連れていかなくなった。彼女が学校に行きたくないと言ったからだ。
 僕にとって学校は勉強する場所でも、ルビーにとっては、学校はバトルする場所だ。それが出来ないのならば、彼女は学校に行く意味を見出せない。考えてみれば当たり前だった。
 学校での勉強はまったく手につかなくなった。ノートをとっていても、弁当を食べていても、頭に浮かぶのはルビーのことばかり。それなりに良かった成績も、あっという間に地に落ちた。友達とも疎遠になった。
 不登校にこそならなかったが、学校にいる時間以外は、部屋にこもってルビーと一緒にいることが多くなった。ルビーも、それまで以上に僕に懐いた。
 その頃から、僕とルビーの関係は変化し始めた。僕は、彼女を異性という存在として捉え始めた。彼女がバトルをしないということは、好戦的な性格がそっくりそのまま抜け落ちてしまうということだ。彼女はとても雌らしくなった。
 彼女も僕の挙動が少しおかしいことを薄々感じている風だったが、それでもなお僕に甘えてきた。
 ある日、風邪を引いたと言って、僕は学校をサボった。両親は仕事で忙しく、昼間の家の中は僕とルビー以外にはいなかった。
 僕は、部屋のベッドに座り、腕にルビーを抱き、体を撫でた。ルビーは「学校に行かないの?」と聞いてきた。僕は「ルビーと一緒にいたいから」と答え、ルビーの唇を奪った。決して長い口づけではなかったが、まるで時間が止まったようだった。口づけが終わると、ルビーは目を泳がせた。
 僕はルビーを強く抱きしめて、「嫌だった?」と聞いた。後戻りは出来ない。築いてきた関係が破綻するかもしれない。そう思うと、心臓の鼓動が速くなった。しかし、ルビーの答えは単純だった。
「嫌じゃないよ。私、ユーリのことが好きだから」
 ルビーの眼は蕩けていた。僕が見えないはずなのに、ちゃんと僕の顔を見ていた。
 僕は、ルビーをゆっくりとベッドに押し倒した。彼女は、綺麗だった。淡黄色の体毛は健康的で美しく、下地にある、ほどよい筋肉と脂肪がそれを支えている。背中から顔の上部にかけて広がる紺の毛色の中に、大きな深紅の瞳が輝く。
 ルビーの体のラインは、とても煽情的だった。特に、肉付きの良い腰は愛でがいがあった。
 僕はついに、ルビーと交わった。禁忌を犯したつもりはない。書物にも、昔は人間とポケモンが結婚することが可能だったと記されている。
 けれども、そのような事実があったとしても、目の前で小さく喘ぐルビーに僕は罪悪感を覚えた。ルビーに人間である僕を愛させることが幸せなのだろうかと考える。しかし、突き上げる腰の動きは止まらず、結局僕は彼女の中で果てた。
 至福の時だった。ベットの中で、僕とルビーはふたりで抱き合いながら眠った。

 大学には進学する気になれなかった。勉強もやる気が起きず、このまま受験を迎えても結果は明白だ。僕は一生懸命に働いて、愛するひとを自力で養うことに決めた。
 運よく就職もできた。給料はよくないが、僕とルビーが食べていくだけのお金は手にすることが出来る。
 そして、今もルビーとのふたり暮らしは、ひっそりと、穏やかに続いている。僕が仕事から帰れば、儚いオレンジ色の西日とルビーが迎えてくれる。僕はそんな場所で、深い海の底で緩やかに流れるような時間の中で、小さな幸せを噛みしめるのだ。


**水底に揺れる [#s6a0fb76]


 床に置いてあった目覚まし時計の鐘が細かく震えて、僕はベッドから身を乗り出しそれを止める。カーテンの隙間から、まだ群青に染まっている空の色が見えた。
 ルビーはまだ僕の隣で眠っている。静かな寝息を立てている彼女は、どんな夢を見ているのだろうか。それを知りたくて彼女の首元をくすぐってみたが、何の反応もなかった。
 薄暗い部屋の中で、クローゼットから適当に引っ張ってきた服に着替える。新しい生活を始めてからずっと着続けているそれは、何の見栄えもしないが、これが一番僕らしい。
 目覚まし時計を改めて見やる。時刻は午前四時二十五分。日の出の前に起きるのは久しいが、目覚めは比較的すっきりとしている。
「ルビー、起きて」
 ルビーに声をかけると、彼女は瞼をゆっくりと上げた。目覚まし時計の音ではまったく目を覚まさないというのに、僕の小さな声で起きるのがなんだかいじらしい。
 目をこすりながら再び眠りに墜ちようとするルビーを抱き上げ、玄関にある小さな靴箱の上に置いてあった車の鍵と家の鍵を取る。玄関に無造作に放置されているスニーカーの中に足を滑り込ませて、ドアノブをひねる。
「寒い……」
 流れ込んでくる外界の空気に触れたルビーは、開口一番そう言った。朝の空気は氷のように冷たい。彼女は僕の腕にしがみついた。
 家の鍵をかけ、階段を下りる。まだ体が眠ったままのルビーの体を揺らさないように、ゆるゆるとした動きで。
 朝の空色が映らない駐車場に、人影は見えない。休日だから、皆遅くまで夢心地を堪能するのだろう。僕はルビーを薄汚れた軽自動車の助手席に乗せる。シートベルトは彼女の腹だけに回した。
 僕は財布と免許証、という必要最低限の物だけを確認して、運転席に乗り込んだ。念のために彼女のモンスターボールを持つことも忘れない。
 エンジンを始動させ、駐車場から車を出して、路地を走る。少し走るとすぐに国道に出た。
「今日は晴れてるね」
 ルビーはパワーウィンドウの外を向いて言った。
「ああ」
 僕は彼女の言葉に気を取られすぎないよう、運転に集中する。
 ルビーは失明しているとはいえ、多少の明るさは感知できる。この時間帯、東の空は少しづつ白んでくる。彼女はそのわずかな変化を機敏に感じ取るのだ。
 平日、ルビーはいつも部屋に引きこもっている。カーテンも開けず、することといえば僕の帰りをベッドの上で待つことだ。不健康な生活であることは明白である。
 だから、休日は出来るだけルビーを外に連れ出すことにしている。ルビーもそれをわかっているから、朝早くに起こされようと文句は言うようなことはない。そもそも、彼女の睡眠時間は平日の昼寝で足りている。
「今日はどこに行くの?」
「あー……」
 ルビーに問われて、僕はしばし考えた。毎週末の行事であるから、多少のマンネリ化は仕方ないとはいえ、行き先は簡単には思いつかない。
 とりあえずコンビニで朝ご飯を調達することにした。目に入ったコンビニの駐車場に車を停める。他に、黒い車が一台だけ停まっていた。何も問題はなさそうだったので、ルビーを車に置き、鍵はかけなかった。
 コンビニは欲しいものが手に入らないことが少ないので助かる。紙パック入りのお茶と、おにぎり数個、それからポケモンフーズをひったくり、素早くレジで支払いを済ませた。
 車に戻り、まずはお茶を飲む。
「フーズとおにぎりどっちがいい?」
「どっちも」
「……あ、そう」
 ルビーは良い意味でも悪い意味でも人間くさかった。ポケモンの味覚がどうなっているのかは知らないが、おにぎりを好んで食べるポケモンなど、ルビー以外には知らない。
 僕はおにぎりと開封したポケモンフーズを手渡して、車を出した。左手でハンドルを握り、右手でルビーの毛嫌いしそうな梅入りのおにぎりを持って齧りついた。
 行き先を再考する。わざわざ車を出しているのだから、どこか遠い場所がいい。
「海……行ってみるか」
 ルビーは思案するような表情をした。おにぎりを食べ終わり、前足先についたご飯粒を舐め取っているところだった。
「うん、そうする」
 前方に車が全く走っていないことを確認して、アクセルを踏み込む。陽が出始めたころだった。


 廃れて管理されなくなった海水浴場は、近所の子供の遊び場になっている。去年の夏に来たときは、青年とリーフィアが海水に浸かりながら格闘していた。微笑ましいとは言い難い状況だったが、随分楽しそうだった。
 アスファルトが割れ放題になっている駐車場に車を無造作に停めて、外に出る。潮風が強く吹きつけていた。この季節、早朝の海辺は冷たさが肌に滲みる。
 ルビーは車から出ると、早速寒さで震えていた。その場から動きたくない、彼女の身振りはそう言っていた。しかし、時には突き放すことも重要だ。
「こっちだよ」
 僕はルビーについてくるように促し、海辺へと歩きだした。普段家にこもっている分、彼女には歩くことで運動不足を解消してもらいたい。彼女がバトルが出来なくなってから、それにかなり気を使うようになった。
 彼女はおずおずと、僕の足音を辿る。慣れというのは恐ろしいもので、彼女は目が見えなくなっても、辺りを確認しながら自由に歩ける。もっとも週末にわざわざ外へ連れ出すようなことをしなければ、ここまで進歩することもなかったかもしれないが。
 防砂林の隙間に敷かれた小道を、ルビーを置き去りにしない程度の速さで歩く。途中で立ち止まっては、ルビーの方を振り返った。彼女が立ち止ると、僕は小さく足踏みをして乾いた音を鳴らした。そして彼女は再び歩み始める。
 それを何度か繰り返して、僕たちは砂浜に着いた。駐車場での防砂林を通した潮風とは違い、こちらの風は断然強かった。
「やっぱり四月の下旬じゃなあ……」
 今更ながら、海に来るという選択は間違っていたのではないかと思った。しかしここまでくれば後の祭りだ。
「……寒いから体動かしてくる」
 ルビーはそう言い残して、砂浜を駆け回り始めた。本人も運動不足で溜まっていたものがあったのか、さっきまで寝ぼけ眼でいたことが嘘のような動きをしている。砂浜のような広い場所なら、彼女の危なっかしさを心配する必要もない。
「やっぱり嬉しそうだな……」
 動き回るルビーを見て、僕は独り言を呟く。
 もう何度考えたかわからない。もしあの時、違う指示を出していたら。バトルフィールドが屋外ではなく室内だったら。相手がサイドンではなかったら。ルビーに不幸が降りかかることはなかったし、僕は大学でバトル三昧の日々を送っていただろう。
 今のルビーとの関係も、おそらくなかった。それが幸か不幸かはわからない。しかし、ここに流れてくる現実は、素直に抱き留められるものだということには感謝したい。少なくとも、今だけは。
 気温が低いと、こうも冷めたことを考えられるのかと苦笑した。

 ルビーが軽い運動を終えたのを確認して、僕は彼女を波打ち際に近いところへ連れて行った。ふたりでそこに座り、水平線の向こうから完全に顔を出している太陽を眺めた。
 ルビーは明るさを感じていても、それを眩しがるような仕草はしなかった。やはり、光の強さを以前ほど感じることはないのだろう。
「ルビーには太陽がどんな風に見えるんだ?」
「……ただの赤い丸」
 赤い丸。それ以上でもそれ以下でもなく、風情は感じられないが、それがルビーにしか見えない世界なのだから仕方ない。
「でも、きっと綺麗なんだろうね。海が太陽を映して、オレンジ色か金色に光っているんじゃないかな」
 ルビーは、海がどんなものか知らなかった。彼女の眼が正常だったときに、一度でも海に連れてくればよかったと思う。彼女が失明する前にさせてあげたかったと後悔することは幾らでもあるが、海を見せることもそのうちの一つだった。
 だから、彼女は想像する。過去の経験と、海は果てしなく広がる、深い水溜まりだと云う僕の言葉から。
「ああ、とっても綺麗だ……」
 薄い青色の中に浮かぶ太陽は、日中見えるそれよりも神秘的だ。そんな景色にふたりだけで溶け込んでゆけるのは、数少ない『よいこと』だった。


 帰宅したのは午前六時半だった。海に一時間近く居て、車での往復にも一時間費やしたことになる。旅にしては短すぎるが、あまりに寒いので早く帰って来てしまった。
 僕が外出用の衣服を脱いでいる間に、ルビーはベッドに横たわった。また眠るつもりなのかと僕は呆れ、その横で室内着であるジャージを身にまとおうとした。が、
「服、着ちゃ駄目だよ?」
 と、ルビーが言葉でそれを阻止してきた。そういえば今日は土曜日だったと、今更ながら認識する。平日は疲れていることが多いから、ルビーとの情事は基本的に週末に行うことが多い。
 しかし、まさかこんなに朝早くから求められるとは思ってもみなかった。事に及ぶのは、だいたい夜であることが多い。
「夜じゃ駄目なのか?」
「駄目」
 今日の彼女は幾分かせっかちな気がした。はやる気持ちを抑えきれていないというのが正しいか。
 どうせ今日は何をするでもないし、彼女の気持ちを無碍にしてしまう理由もない。僕は腹を括り、身に着けているものをすべて脱いだ。開けっ放しにしていたカーテンを閉める。遮光カーテンではないため、閉めきっても完全には暗くならなかった。
 ベッドに腰掛け、横になっているルビーを抱き寄せた。彼女を膝の上に座らせ、背中側から両腕で包んだ。朝っぱらから何をやっているのだろうという考えを排し、彼女の胸部や腹部をまさぐる。
 呼吸と共に動くルビーのおなかの温度を感じながら、ふわふわとした体毛の奥にあるいくつかの突起を優しく愛撫する。彼女はすでに気分が高揚しているのか、まだ大した刺激もないはずなのに呼吸が速くなっていた。
 僕自身も高まってくる気分を抑えられず、股ぐらにあるものが硬く屹立する。それがルビーの臀部に当たって、何度も経験しているはずなのにもかかわらず気恥ずかしさが込み上げてくる。
「おおきくなったね」
「……ああ」
 いちいち口に出されると、余計に恥ずかしい。気を紛らわせるために、左手で彼女の乳頭を少し乱暴に弄りつつ、右手を彼女の秘所に伸ばした。
 彼女の秘所は、思いのほか濡れていた。興奮しているせいもあるのだろうが、彼女の性欲の強さのせいもあるだろう。以前の彼女は性に関しての知識がほとんど無いに等しかったというのに、失明してからは興味のベクトルがおかしな方向へ向くようになっていた。
 恥丘の膨らみをそっとなぞって、筋を探り当てると、僕は躊躇なく中指を入れた。彼女の膣を傷つけないように爪はしっかりと手入れしてある。
「んっ……」
 閉じた彼女の口から小さく声が漏れる。高まる気持ちを抑え、僕は黙ったまま行為を続行した。
 暗い寝室で、淫靡な水音とルビーの嬌声が混ざり合う。ルビーが気持ちよくなっているのは、確認するまでもなかった。僕の右手の指は彼女の愛液でかなり湿っている。
 そろそろ頃合いだろうと、僕はルビーの脇を持って、彼女をベッドに寝かせた。彼女は期待を込めた表情で、僕がいると知覚している方向を見つめていた。
「我慢しなくていいよ」
「もちろん……」
 ルビーは準備万端と言わんばかりに股を開き、濡れててらてらと光る秘所を僕に見せつけた。ルビーの綺麗な肢体と相まって、僕の興奮は最高潮に達した。
 僕はルビーに覆いかぶさり、己のものを彼女の秘所に宛がう。愛液という十分な潤滑液のおかげで、僕のものはすんなりと入った。
 そのまま腰を深く沈みこませ、根元までしっかりと入れる。彼女が一切苦しまない様子を見ると、彼女の局部は僕にすっかり順応してしまっているようだった。
 僕はルビーの口に舌を滑り込ませた。彼女は少し驚いたような顔をしたが、すぐに舌を僕の口内に侵入させた。僕は彼女の匂いを感じながら、腰を動かした。
「ふぁ……」
 ルビーを喘がせないつもりで彼女の口の中を蹂躙すると、僕の口の中で彼女の甘い声が響いた。右腕を彼女の頭の後ろから回して、&ruby(うなじ){項};を愛撫し、腰を振るスピードを加速させた。
「や、ユーリっ……はげし……あっ」
 ルビーの体がピクッと震える。どうやら果てたようだ。腰を動かすことを止めないまま、彼女の体を強く抱きしめる。壊したいほどに愛しい。僕の動きはさらに激しさを増す。
「ユーリぃ……もっとぉ……」
 彼女の切ない声が、匂いが、表情が、僕の頭の中を真っ白にする。僕の臨界点もすぐそこまで来ていた。
「ルビー……!」
「ユー……ぁ」
 ルビーの膣の締めつけを合図に、僕は勢いよく精を彼女の中に出した。息が乱れ、汗が彼女の体に落ちる。彼女の体を潰してしまわないように、僕は彼女を抱いたまま横になった。
「ユーリ……」
 はあはあと息を乱しているルビーを尻目に、僕のものはまだ精を吐き出し続けていた。一週間溜め込まれたものが、彼女の中を満たしていく。
 ルビーが震えながら、僕の胸に顔をうずめる。まだ果てた時の感覚が残っているらしかった。僕は彼女を宥めるように、頭を優しく撫でた。柔らかい毛並は、彼女を抱いているという実感を湧かせた。
「なんだか早く終わっちゃったな……」
 この分だと、夜に再び相手をしなければいけないと、ぼうっとした頭で考えた。いつもより快感が強く、彼女を労わらずに乱暴にしてしまったことを少し後悔した。
 僕とルビーは、互いに言葉も交わさぬまま、昼過ぎまで温もりを感じながら眠った。彼女の震える意味も理解できずに。


**闇の中の珊瑚礁 [#g9fe29f7]


 月曜日。毎週繰り返される、私とユーリが離れ離れになる初めの日。
「行ってくる」
 ユーリは私にそう告げて、アパートから出ていった。あと五分でも長くここにいて欲しい、などという我儘は言わない。そんなものを押し付けても、私とユーリの間には何も生まれない。
 ユーリは居間にポケモンフーズとおにぎりを用意していた。私より一時間も早く起きて、自分自身の朝食、更に私の分を用意するのだ。変わった味覚を持つ私のために、わざわざおにぎりまで握らせるのは申し訳なかったが、ユーリはそれを苦に感じないらしい。
 私のためならユーリは何でもしてくれる。それは私がユーリと一緒に暮らし始めてから、ずっと変わっていないことだった。
 ゆっくりとベッドから降りて、居間に向かう。鼻がお米の匂いを敏感に察知した。椅子に上り、ダイニングテーブルに向かい合った。手探りでフーズとおにぎりの置いてある場所を探り当てると、私は行儀を気にせずおにぎりに齧りついた。
 ユーリの作ったおにぎりを齧っているとき、私は言いようのない幸福感に包まれる。家にユーリがいないときに彼自身を感じることが出来るのは、彼の匂いが染みついたベッドにもぐっているときと、彼の握ったおにぎりを食べているときだけだ。
 具のないおにぎりを平らげたあと、フーズにも手を伸ばした。こちらは少し湿気っているせいか、私の好きな味付けが施されている割にはあまり美味しいと感じられなかった。
 寝室に戻る。部屋の中は少しばかり明るかった。それが酷く目障りに感じる。どうせ何も見えないのに、目の前に広がる闇がうっすらと赤みがかるのが鬱陶しいのだ。
 この部屋にある物は、身長がユーリの半分しかない私でも扱えるようにすべて低い位置にあった。西向きの窓にも、ユーリは窓のサイズに全く合わない、床に届くほど長いカーテンを取り付けた。私がカーテンの開け閉めに苦労しないようにするためだ。
 カーテンを閉めると、部屋は忽ち暗くなった。私は闇に取り残される。
 ベッドによじ登り、寝転がり、仰向けになった。目の前に広がる黒い天球を隅々まで見つめて、何も変わりないことに安堵し、一抹の不安を覚える。いつも通りの、矛盾した感情だった。

 ――いつまでこんな生活が続くのだろう。

 ユーリは私を養うために自立した。しかしそれはユーリの言であり、大義名分でしかない。置物同然の私が、いったいユーリの親にどれだけ迷惑をかけるというのか。
 ただ、ふたりだけで愛し合える空間が欲しかったから。ユーリはそのためだけに大学に行くことを諦めた。嬉しさよりも、複雑さのほうが数倍大きかった。私のためにユーリの大切な未来を潰してしまったように感じられたからだ。
 私がそのことについて口に出さないのは、最低限の優しさだ。ユーリは高校時代、私を連れて家出し、樹海へと足を運んだ前科がある。そんなユーリの脆い心を少しでも揺らすような真似をどうしてできよう。
 一見すると、何層にも塗り固められたアスファルト舗装の道を歩いているようだ。しかし実際は、薄氷を踏み歩くような恋の道。踏み抜いてしまったら最後、二度と戻れない。
 ユーリが親元を離れて三年以上経ったが、状況は依然変わらず。安定しているように見えるのは、私が多く求めるのを我慢しているからだ。
 ユーリが仕事のために家を空けている十時間を完全に埋める術を、私は未だに見つけられない。どうせ見つからないという諦めがそうさせているのかもしれないが。

 毛布を被る。ベッドに潜り込んで、ユーリの匂いを探す。
 いい匂いだった。少なくとも、寂しさを紛らわすだけの存在感があった。
「ユーリぃ……」
 股に前足が伸びてしまうのはいつもと変わらなかった。一抹の至福の時間が始まる。
 私の前足は、ユーリの指のように秘所に深々と入れられるようなつくりにはなっていないから、物足りなさは感じる。
 でも、ユーリのことを想うだけで、物理的に足りていない部分は十分に補えた。優しく擦るにつれ、股ぐらはじわりじわりと濡れてゆく。
 土曜日曜と、計五回ものユーリとの情事を思い出す。それだけで息が荒くなり、切ない嬌声が閉じている口から漏れる。ユーリは私を乱暴に扱うことはしないから、普段とは違う、即ち、彼が狂ったように私の奥を突き上げる様を想像した。
「もっと……」
 自慰は加速する。シーツが愛液で汚れてしまうことをユーリに怒られるかもしれないと思ったが、抑えることは出来なかった。より強く、ユーリを想って秘所を擦った。もっとユーリに愛してほしい。それだけしか考えられず、喘ぐ声は部屋の中にこだまする。
 行為の勢いが増し、限界が来た。
「あぅっ……!」
 脳天を突き抜けるような快感に、私は達した。蜜が溢れ、ベッドの中は独特の匂いで満たされる。ユーリの匂いと私の匂いが混ざって、たとえ彼と離れていても一つになれた気がした――



 意識が戻り、自慰の後処理もしないまま眠ってしまったことに気づいた。シーツをどうにかして片付けようと思ったが、急に馬鹿馬鹿しく感じたので止めた。
 ユーリがずっとそばにいてくれれば、こんな淋しい気持ちにならずに済んだのに。ユーリの仕事場についていくわけにはいかないし、ボールの中に入れられるのはもっと御免だ。目が見えなくなってからというもの、ボールの中ほど怖い場所はない。
 どんなに自制しても、不満なものは不満だった。それもこれも、あの事故のせいだ。目が見えていたら、人間であるユーリに恋愛感情を向けることもなかっただろう。誰にも壊せないような依存関係が続いたから、私とユーリは恋仲となったのだ。
「はぁ……」
 ふと、考えてしまう。私の存在意義とは何なのか。精神的な意味を除けば、ユーリは私がいなくても生きていけるだろう。でも、私はユーリがいなかったら生きてなどいけない。
 たまに、ユーリがどれだけ私を必要としているのかがわからなくなって混乱する。これは一時的な発作のようなもので、頭の中ではユーリが私のことをちゃんと愛してくれていることはわかっている。
 でも、ユーリのいない時間、心にぽっかりと穴が開いてしまうのはどうしようもない事実だった。
「また……頼らなくちゃいけないのかな」
 ユーリがこの場にいないのをいいことに、ある意味ではとても乱暴な独り言を宙に放った。許されざる咎。隠したとして、一生消えない罪。
 ユーリは、自分が仕事に精を出している間に、私が外へ出歩くことなどないと信じて疑わない。だから週末に私を外へ連れ出すわけだが、もし私が自力でドアの鍵を開け、階段を下りていると知ったらどんな反応を示すだろうか。発狂して私を殺すかもしれない。
 ユーリが犯した致命的な失敗は、わざわざ街から遠く離れた場所に部屋を借りたことだ。私を喧騒から隔離するための配慮だが、奇しくもそれは私が鳥籠から脱走する一助になった。
 荒れたベッドを背に、矛盾が充満した息苦しい寝室を出る。居間のダイニングテーブルを横切って、玄関へと辿り、私は立ち止まった。今なら戻れる。だから行くな。そう私の心が語りかける。
 しかし、今更何を……という思いが、結局私の後ろ足を動かすのだ。ユーリを不安にさせることは絶対にしてはいけないはずなのに、そびえ立つ壁を軽々と越えてしまえる自分が怖かった。
「トラ君……」
 彼と出会った去年の春先を思い出す。途切れそうで途切れない彼との関係はもう一年も続いていた。私とユーリの関係を脅かす要因だが、私の心に開いた穴を塞ぐ栓でもあった。
 ドアを開ける。それだけのことに、酷い吐き気を覚える。大丈夫、私が一番愛しているのはユーリだ。そんな自分勝手なルールを頭に押しこんで、私は鳥籠を飛び立った。
  

**飛魚空を舞う [#ud4dd930]


 一年前。私は今日と同じように、思い切って玄関のドアを開けた。鍵を掛けないまま留守にしたら泥棒が入ってくるんじゃないだろうか、とか、迷って帰ってこられなくなってしまうんじゃないだろうか、とか、ありきたりな不安を抱えながら階段を下りたのを今でもはっきりと覚えている。
 当時の私は目が見えない割に注意力が散漫で、石垣や電信柱によくぶつかった。それでも歩き続けたのは、ユーリの力を借りずに自分の行きたいところへ行くことに浮かれていたから、それだけにすぎない。
 来た道をにおいや触覚で覚えるふりをして、あてどなく彷徨った。早く歩くことなどできないから、ゆっくりと、探り探り歩を進めた。結果、私は人の気配があまりない里山に行きつくこととなった。思い返してみても、よく辿り着けたものだと自分に呆れざるを得ない。
 その里山は懐かしいにおいがした。野生で暮らしていたときに、よく駆け回っていた丘に近いにおい。私がユーリと住んでいる場所は、殆ど人工的なにおいしかさせていなかった。だから、一、二時間ゆっくりと歩いただけでこんなにも自然溢れる場所に辿りつけるなんて思いもしなかった。
 湿った地面に、かすかな雪解けのにおいが薫る。踏み歩いてゆく度に、地面の感触は変わった。植わっている木のそばに行き、その幹を触ってみると、腐っている柔らかい樹皮がぽろぽろと崩れ落ちた。
 視力を失ってからというもの、乾いた心を潤す方法はユーリのそばにいることくらいだった。しかし、思い切って外を出歩いてみれば、忘れていた感覚が甦って、ほんの少しだけ心に瑞々しさを取り戻せることを知った。
「暗い所に引きこもり続けるのは、やっぱりよくないよね……」
 当たり前のことを、初めてしっかりと自認した。いつまでも過去のことを引きずっていいわけがないのは重々承知しているはずだったが、前に進むきっかけを見つけることはなかなかできないでいた。
 もう少しこの辺りを散策してみようと、私は再び歩き出した。そのとき、予期せぬ事態が起こった。
「きゃ!」
 突然、重厚な地面の感触が消えた。
(落ちる!?)
 私は反射的に体を丸めた。体は沈下した地面に衝突したが、それほど痛みは感じなかった。しかし、何が起こったのか把握できなくて、頭の中は混乱していた。
「いきなり何なの……あ!」
 ゆっくりと立ちあがろうとして、右後肢に鈍い痛みが走った。落ちた瞬間には気づかなかったが、どうやら足をひねってしまったようだ。とんだ災難だった。
 自分が置かれている状況を知るために、前足で周りを探る。土の感触が四方を囲んでいた。どうやら穴に落ちてしまったようだった。
「ついてないなあ、もう」
 自分の軽率な行動に対する不満と、地面にわざとらしい大穴を開けた何者かを責める気持ち。誰にも届かない、生産性のない独り言だった。
 いつまでもこうしてはいられないと、私は柔らかい壁に前足をかけた。土壁を壊さないように慎重によじ登る。ひねった後ろ足をほとんど使わずに穴から這い出るのは苦労した。
 しかし不幸中の幸い、穴はそれほど深くなく、脱出するのに時間はかからなかった。私は穴から出て、すぐにその場にへたり込んだ。
「はぁ……」
 せっかく気分が上向いてきたのにと、そのときは自分の運のなさを呪った。これ以上散策する気にはなれないから早くアパートに帰りたい、そんなことを思った。
 立ち上がろうと後ろ足に力を込めようとしたが、うまく力が入らなかった。痛みは思いのほか大きく、歩けそうにない。昔のように鍛えていれば、こんな怪我なんてしなかったのに。やるせない気持ちは心を曇らせた。
 このまま部屋に帰れなかったらどうなるんだろうか。ベッドの上に私がいないことに、ユーリが酷くパニックしている様がありありと浮かんだ。冷静に考えれば、この状況はかなり危険だった。
 けれども、足の痛みは消えず、帰る方法を見出せずに私は独り途方に暮れていた。
 しかし、そこに彼は現れた。何度想起してみても、やはり出来すぎた偶然だと思う。神様はある意味で悪戯好きだ。彼は藪から棒に、私に話しかけてきた。
「なあ」
「ふぇ!?」
 私は何とも間抜けな声で返事をした。耳元で聞いたこともない声が突然聞こえてきたのだ。誰かが近づいてきた気配なんて微塵も感じなかった。
 多分そのときの私は取り乱しつつも、すぐに逃げよう、と考えていたはずだ。どこに逃げるかはともかく、足を初めて踏み入れた土地で、得体の知れない何かに話しかけられて身の危険を意識しないわけがなかった。
 しかし、足は私の意思に反してすくんで動かなかったし、痛みも余計に増すばかりだった。
「大丈夫か? さっき君が落とし穴に落ちたのを見たんだが」
 私が狼狽えるのを尻目に、低く、威圧的な声の発信源は私の前にやってくる。人語ではない独特の響き、つまりポケモンだ。
「人間の子供がたまに遊びで掘るんだよなあ。まったく、迷惑ったらありゃしねえ。いっぺん落ちて怪我してみろってんだ」
「えっと……」
 どんなふうに話しかければいいのか全く分からず、私は困惑した。部屋に籠っているときには経験できない様々なことが立て続けに起こって、私は少しばかり憔悴していた。
「うん? 君、俺の顔見えてるか?」
「あ……いや……」
 ユーリ以外の誰にも、目が見えないことは知られたくなかった。失明してからも何度かユーリの通う学校についていったが、そのときほど周りの人間やポケモンの目が煩わしかったことはなく、一種のトラウマになってしまっていた。
 それを思い出し、泣きそうになる。しかし、素性の知れない相手の前で涙を流すことだけは絶対に出来ないと必死で堪えた。それが相手の目にどう映ったかはわからないが、何かを察して話しかけてきた。
「そうか、目、見えないのか。じゃあ俺がどんなポケモンかわからないよな」
「……うん」
 だったら何だというのか。
「じゃあ触って確かめてみろよ。俺が何のポケモンなのか当ててみな」
「え?」
 私は戸惑いを隠せなかった。いったいこのポケモンはどういうつもりなのか。
「ほら」
 声のする位置が低くなった。彼は座るか伏せるかして、私が触れやすくなるようにしようとしているのだろう。願わくば私のそばから離れて欲しいのだけれど、この妙に粘着質なポケモンにそんなことを言えば変なことをされてしまうかもしれない。
 そんな恐怖感も相まって、私は彼の言うとおりにしようと決めた。おそるおそる前足を伸ばす。柔らかい空気がいやに張りつめるのを感じる。そして、触れた。
 私の持つ短めの毛とは違い、長く豊かな毛。珍しい感触だった。
「これ……頭?」
「そうだ」
 後方に流れるような毛並みが四方向に散らばっている。真っ黒なキャンバスに、威風堂々とした&ruby(たてがみ){鬣};が描かれた。驚くほど鮮やかな像が、目の前に広がった。不思議としか言いようのない感覚だった。
「……もっと触っていい?」
「ああ」
 あれほど相手に対して神経を尖らせていたのに、警戒心はどこへやら。いつの間にか私は彼の正体を探るのに夢中になっていた。
 前足を下に滑らせると、突き出している鼻に触ることが出来た。温く静かな鼻息が肉球に伝わってくる。
 今度は耳に触れてみた。口に出せば怒られてしまいそうだったが、丸く可愛らしい耳だった。前足にも触ってみた。筋肉質で締まっている、強そうな足だった。
「尻尾、ある?」
「あるぜ」
「触りたい」
「いや、尻尾はなあ……まあいいか」
 彼が何のポケモンなのかは既に気づいていたが、このゲームを長引かせようと企むあざとい自分がいた。彼は後ろを向いて、私に尻尾を向けた。
 尻尾を持つポケモンは、ほぼ例外なくそれを触れられることを嫌がる。しかし私は尻尾の付け根から尻尾の先を推察して、遠慮なく思い切り掴んだ。
「いっ……おい、もっと優しく掴んでくれ」
「ごめん」
 彼のもっともな説教を耳から流して、私は尻尾をこねくり回した。尻尾の先には、やはり四芒星形の飾りがついていた。キャンバスには、ほとんど完璧に彼の容貌が映し出されていた。
「レントラー……であってるかな」
「正解」
 尻尾が私の両前足から離れた。彼は腰を上げて、再び顔を私に近づけて、私の頭を撫でた。
「よくわかったなあ。間違えてくれれば面白かったのに」
 彼は笑っていた。見えなくても、空気の表情でわかる。私もつられて顔が綻んだ。

 彼は、他のポケモンを簡単に絆してしまうような雰囲気を持っていた。私の警戒心が霧散してしまったのも、それでしか説明がつかなかった。
 彼との他愛のない話は弾んだ。しかし、時間は刻々と過ぎ、ここにいられる時間も少なくなっていく。
「私、そろそろ帰らなきゃ」
「……帰るってどこに?」
「アパート。私、人と一緒に住んでるから」
「そ、そうだったのか……」
 彼の声が微かに暗くなった。
「まだ言ってなかったね。ごめんなさい」
 会話の内容は、彼が共感しやすいように野生時代の話題を選んでいた。だから、ユーリと一緒に過ごした時間のことは喋らなかったし、失明した原因も口に出すことはしなかった。
「いや、いいんだ……ただちょっとびっくりしただけだ」
「そう……あ」
 立ち上がろうとして、忘れ去っていた痛みが思い出したようにやってきた。
「そういや足を怪我したんだよな?」
「うん……落とし穴にはまったときにひねっちゃったみたいで……」
「帰るのが難しそうだな。そのアパートはここからどれくらい離れているんだ」
「そんなに遠くないと思う……」
「なるほど。……じゃあの背中に乗れよ。送ってやるから」
「……本当に?」
「俺が連れて行かなかったら君はどうやって帰るつもりなんだ」
 正論だった。私がアパートに帰るには、&ruby(・){目};の前にいる彼に頼るのが手っ取り早いし、それ以外の方法は検討もつかない。
「でも、あなたみたいな野生のポケモンが人家の込み入った場所に入るのはあんまり……」
「安心しろって。俺は何度か人里に降りてるから、そこら辺のポケモンよりは慣れてる。アパートって人間が沢山押し込められてるでかい建物のことだろ? それならこの辺りには数えるくらいしかないし、君の目が見えていなくてもなんとか辿りつけるだろうよ」
 早口でまくし立てる彼に、私は気圧されるまま頷いた。
「時間ないんだろ。早く乗れよ」
 彼は屈んで、私を急かす。私は言われるまま彼の背中に登った。大きくて、頼りがいのある背中だった。

 私は彼の背中に揺られながら、アパートを目指した。里山に向かう途中、ずっと太陽の熱を後背部で感じていた。だから、彼にはまっすぐ南へ進んでほしいと伝えた。
「言われなくても南に向かってる。人間が住んでる場所はその方向にしかないからな」
 彼は私を振り落としてしまわない程度に速く歩いた。顔に当たる風が気持ちよかった。
 やがて周りに民家が疎らに建っている道に入ったようで、彼の足取りは少しだけ遅くなった。
「なあ、君の住んでいるアパートってどんな感じの建物なんだ? それがわかれば探すのが楽なんだが」
 私はアパートをこの目で見たことがない。だから、聞いたり触れたりしたことのある情報を伝えた。それが、アパートが二階建てであることと、割に合わない大きな駐車場を持っているということだった。
「駐車場? あの変な形の箱型の生き物がよくいる場所のことか?」
「……生き物?」
「え、あれって生き物じゃないのか?」
「車のこと?」
「車?」
 野生暮らしの彼と、人間の下で暮らしてきた私では、話が噛み合わないことがままあった。私は彼に車がどんなものであるかを彼の頭の上から説明した。
「はあ……人間は本当におかしなもんを作るんだなあ。何のために足がついているんだ」
 彼は呆れてため息をついた後に、それが人間というものなのかもしれないなあ、と感慨深げに言った。
 しばらくして路地に入り込み、アパート見つけるために歩き回った。ニ、三台ほどの車とすれ違う度、エンジン音に体が硬直した。彼の導きに頼っていても、目が見えない分だけ恐怖感が増す。
「うーん、確かにありゃ生き物じゃねえな」
 人里に立ち入っても彼は暢気だった。私は彼の背中にしがみつく力を更に強くした。
 鴉が鳴き始める。空はもう&ruby(にいろ){丹色};に染まっているのだろう。私のスクリーンからも赤みがかった明るさは消えていた。
「そろそろユーリが帰ってきちゃう……」
「ユーリ? ……ああ、人間のことか。二階建てで、大きな駐車場があるアパートは……あれだな。もうすぐだ」
 何とかユーリの帰宅時間に間に合いそうで、私はほっと胸をなでおろした。やがてアパートに敷地に入り込んで、私はアパートの二階へ続く階段の下に降ろしてもらった。
「ここからは何とか自力で戻るから……私のためにここまでしてくれてありがとう」
「い、いや……俺も暇だったし。怪我した奴をほっとくわけにもいかないからな」
 彼の声が上ずっているような気がした。
「ありがとう。……そういえば、まだ名前を聞いてなかったよね」
「名前? 一応仲間にはトラって呼ばれてるよ。名前なんて大したもんじゃねえけどな……」
「ううん、良い名前だと思う。私の名前はルビー」
「へえ、なんだか洒落た名前だな」
「そうかもしれないね。……ふふっ、もう会わないかもしれない相手に名前を教え合うって、変な話だよね」
「あ……」
 彼が、一瞬だけ狼狽を見せた。
「どうしたの?」
「いや、はは、そうだな。変な話だな。俺、暗くなる前に帰るよ。じゃあな」
 彼の気配が、私の目の前から消えてしまった。一瞬の出来事で、返事をする暇もなかった。

 なんとか階段を上り、部屋に入ってベッドにうずくまる。その三十分後にユーリは帰ってきた。足の裏が少し汚れていることを指摘されたが、この部屋が埃っぽいから体が汚れるのも当然だ、と突っ返した。
 その日はユーリの腕の中で眠った。そして、そこが自分のいるべき場所で、安心できる場所なのだと思った。久々に満たされた心で眠ることが出来た夜だった。
 私の心の持ちようは、多少ではあるが変化した。ただそれはユーリですらも気づいているか怪しく、表面的には何も変わらない日々が続いた。私の振る舞いも普段通りだった。
 澱はこびりついていて、そうやすやすとは取れない。
 そして悲しいかな、生活も心も元の状態に戻ってしまった。寂しさを紛らわすために自慰に耽ることも珍しくなくなった。
 そんなある日、ユーリからあることを聞かされる。
「最近野生のポケモンがこの辺をうろついているみたいなんだ。ないとは思うけれど、間違っても外に出たりはするなよ。危ないからな」
 しばらく考え込んだあと、それは多分トラ君のことを指しているのだと思った。明白な根拠はなくとも、それ以外には考えられなかった。

 翌日、ユーリが仕事に行ったあと、私はすぐに家を出た。気が&ruby(はや){逸};っているわけではないと思い込んではみたものの、やはり心のどこかでは彼のことが気になって仕方なかった。
 外の階段を下りきったときに、私の鼻が何かを捉えた。トラ君のにおいだった。アスファルトや家屋のような人工的なにおいに混じったそれは、アパートの外壁にこすりつけられていた。
 地面、電信柱、石垣に、点々と続くにおい。トラ君のつけた道標を、私はゆっくりと追った。これはトラ君が私に残してくれたメッセージなのだと思うと、途端に気分が高揚した。
 においはある場所で途切れた。人家の気配が薄れた、アパートから少しばかり離れた所だった。ここが終着点であるのか、ただ単にぶつ切りになっていたのかわからない。
「ルビー」
 唐突に声がした。紛れもなくトラ君のものだった。彼は柔らかい足音をさせながら私に近寄ってきた。
「来てくれたんだな」
「人里をうろついている野生のポケモンってトラ君のことしか思い浮かばなかったから」
「……ルビー。俺の背中に乗ってくれ」
「なんで?」
 トラ君は答えなかった。怪我はとっくに治っていたが、私は仕方なしにトラ君の背中に乗った。相も変わらず大きい背中だった。
 トラ君は私が想像もできないような速さで走った。以前私に気を遣ってゆっくりと歩いてくれていたときとは大違いだった。私は振り落とされないように必死で彼の背中にしがみつくしかなかった。
 風を切るとはこのことなのだろう。そのときのトラ君と私は、文字通り一つになっていた。

 彼が私を降ろした場所は、あの懐かしいにおいのした里山の中だった。随分と長い間走っていた気がしたのは錯覚だったようだ。
 生温い風が吹きつけて、私は思わず目を閉じた。風が体の毛を&ruby(す){梳};く感触に、トラ君が私の項を撫でる感触が重ねられた。
「……トラ君?」
「ルビー、俺……」
 一瞬の沈黙の間に、私は静かに押し倒されていた。抵抗出来るだけの余地はあった。だが、なぜだかできなかった。
「俺、ルビーのことが好きだ」
「……え」
 突然の告白、しかも私を大胆に押し倒しながらという状況に動揺しないわけがなかった。トラ君に対して仰向けでいることの羞恥心はすぐに頭に昇ってきて、私はトラ君の顔があるであろう場所から目を逸らした。
「一目惚れだったんだ。運命なんて言葉信じてなかったけど、こんな巡り合わせもあるんだって素直に感動した」
 私は返事が出来なかった。それでもトラ君はお構いなしに喋り続ける。
「この前別れたとき、もう二度と会えないと思った。けれど、どうしても諦めきれなくてあのアパートに毎日通ってたんだ。そうしたら、ルビーが来てくれた。死んでしまってもいいって思えるくらい嬉しかった」
 次々とトラ君の口から吐き出される私への想いは大きすぎて、うまく受け止められない。どれだけ拾い集めても、全てを私の胸の中に仕舞い込むことができなかった。
「君の前で照れていたの、ずっと隠してたんだぜ。俺……ずっと苦しかったんだ。どこにいても、何をしていてもルビーのことが頭から離れなかった。それくらいルビーのことが好きなんだ。俺の気持ち、受け取ってくれ」
 トラ君の吐息に、意識がまどろんだ。揺れる想いが幾重にも重なって、まともな返答が出来そうになかった。それでもどうにか絞り出すように、私は言葉を連ねた。
「う、嬉しいけど……だめだよ……。私には……ユーリがいるから……」
「……そうだな、人間の下で暮らしている君と野生の俺じゃ、釣り合わないところ都合の悪い部分もあるかもしれない。でも――」
「違うの……」
「……何が?」
「そうじゃないの。私……ユーリと恋人なの……」
 嫌われると思った。人間と恋するポケモンなんて、野生のポケモンには信じられないことだっただろうから。
 否、私は、私の上に覆いかぶさっているポケモンを無意識に警戒して、嫌われようとしたのかもしれない。
「嘘だろ?」
「本当だよ……」
 再び頭の中が混乱し始めて、私は涙声になった。長い沈黙は苦痛にしか感じられなかった。それは最後の良心の砦であり、守るべきものだった。
「相手は人間だぜ……? そんなこと……」
 ああ、だめだ。涙腺の決壊は時間の問題だ。責めないでほしい。理解できなくてもいいから、触れないでほしい。
「だから……私……」
 こめかみを一筋の涙が伝った。気が動転しそうだった。しかし、トラ君の言葉が私の気持ちを上手に&ruby(すく){掬};った
「いや……それでも! ……それでも俺はルビーのことが好きだ。それは変わらないんだ」
 私の中で何かが切れかけた。脳髄が蕩かされて、妙に息が荒くなった。
「君は人間さえも虜にしてしまうってことだろ。そんなポケモンに、どうして俺が惹かれないことがあるんだ」
 ユーリの名前を出しておきながら、この時の私は既に『ユーリを裏切る』などということは考えられなくなっていた。それほどに私はトラ君の魔力に囚われ、絆されてしまっていた。
「君の眼、まるで魔法みたいだ。紅くて綺麗で……。ルビーのすべてを俺のものにしたい、そんな気にさせるんだ……君の瞳は」
 ユーリと初めて交わったあの日、ユーリは私の眼をしきりに褒めていた。その理由が、そのときに初めてわかった。魔法を使ったのは、トラ君だけではなかったのだ。
 それから私たちは、惹かれるようにお互いの体を貪りあった。愛欲に溺れながら、名前を呼びあう。私の中は、トラ君一色に塗り潰された。
 糸引くように流れる時間は、幸福で満たされていた。

 お互いの体の味と愛を知った私たちは、それをきっかけに密やかな逢瀬を幾度となく繰り返した。
 車とすれ違うたびに生まれる危険も、アスファルトにこびりついた不快なタイヤの臭いも、全てはトラ君へと続く羅針盤。
 ユーリに対する罪悪感は日に日に募る。しかし、それに比例するようにトラ君を求める思いも強くなっていく。寂しさの埋め合わせとしては度が過ぎた行為。
 わかっていながらもやめることができない。いろいろなものに挟まれ、苛まれながら、私は今日もゆっくりと階段を下り、トラ君のにおいを追うのだ。


**深層回遊魚 [#i5020a70]


 五時四十分。残業を見越して購入した二袋目のビーフジャーキーはまだ残っている。しかし、今日の分の仕事は片付いてしまった。
 不要な書類をシュレッダーにかけ、机を整理する。
「帰んの?」
「ええ」
 隣にいる先輩の問いに生返事をしながら、ノートパソコンをケースに仕舞い込んだ。
「お疲れ。俺はもうちょっとだけ残るわ」
「……お疲れ様でした」
 てっきり今日も僕の車に乗り込んでくるものだと思い、拍子抜けした。先輩の頭のねじが外れているのではないかと思った。
 周りの人間にも軽く挨拶して、職場を出た。先輩がついてこないというだけで、空気が清々しく感じる。しかし本来であればこれが普通の状態であるのだと考えると、素直には喜べなかった。
 駐車場から出るときも、あの馬鹿らしい調子のいい声が聞こえず、自分の車ではないように思えてしまう。慣れというのは悲しいものだ。

 国道を真っ直ぐ進む。煩わしい話し相手がいない分、景色を眺めながら運転することができる。夕焼けはもう消えかかって、月がその姿をはっきりと現していた。
 信号に止められている間は、ずっとルビーのことを考えていた。今日は何をしていたんだろうか、辛くなかっただろうか、ちゃんとご飯は食べたのだろうか。愛する者に対する、ささやかで、他愛のない思案。
 そして、不意に襲ってくる不安。僕はどれだけルビーのために尽くせているのだろうか、僕の想いはどれだけ伝わっているのだろうか、ルビーはそれを感じ取れるだけの余裕があるのか。
 どう足掻いても堂々巡りになってしまうのは百も承知。しかし思索せずにはいられない。思索から逃れようとしてはいけない。逃れたら、僕はルビーに意味づけられることのない、あやふやな存在になってしまう。
 存在意義だとか、生きる意味だとか、あってないようなものを求めることをしなくても、人は生きていける。わざわざ難解な哲学をしなくても、寝食の間に否応なしに訪れる喜びや悲しみがあれば、それだけで生きていけるし、生きているということになる。
 普通の人間ならばそれでいい。
 でも僕はそうじゃない。意味が必要だ。生きる意味が、存在意義が、僕には必要だ。
 僕が浮世離れしているわけではない。僕自身がそう思っていないだけなのかもしれないが、少なくとも周りの人間には多少意思疎通に難のある人間であるとしか思われていないだろう。
 ……仮にルビーが死んでしまえば、僕が真っ先にとる行動は死を選ぶことだ。なぜなら、ルビーが僕の生きる意味であるから。
 歪んだ心だとは思う。だがこの程度の歪みは、許容されるものであるはずだ。この程度の歪みは世界中に散在していて、みんなも少なからず持っているはずだ。
 ……みんなって誰だろう。普通の人? 普通の人は何も考えなくたって生きてゆけて……。
 僕は異端者? 僕は普通だ。じゃあ普通とは何だ?
 嗚呼、また矛盾する。僕の心情は成文化することもできなければ、正確に心に思い描くこともできない。
 歯痒い。堂々巡り。
 信号が青になる。アクセルペダルを踏み込んで、僕は現実に戻った。

 駐車場に車を入れる。アパートの表側に幾つか並んでいる窓から光が漏れてくるのが、フロントガラス越しに見えた。
 鞄を手に取って車を降りた。ここまでは幾度となく繰り返された日常だった。
「アカミネさん?」
 僕の名字が呼ばれた。駐車場の出入り口の方からだ。振り返ると中年の女性が一人、こちらに近づいてきていているのが目に入った。見覚えはないが、多分このアパートの住人だろう。どこで僕の名前を覚えたのだろうか。
「104号室のカリヤですけど」
 彼女の名前には興味が湧かなかった。ただ、ぶっきらぼうな口調だと思った。
「あなた、ポケモンと一緒に暮らしているのかしら?」
 このアパートは体長や体重などの基準を満たしているポケモンであれば、人間と一緒に入居することは可能な規定になっている。わざわざ人に伝えるようなことではないのだが。
 僕は、ええ、と当たり障りのない返事をした。彼女が僕の顔を凝視するので、居心地が悪かった。
「それってマグマラシ?」
 だからなんだ、と言おうとしたのだが、僕は口をつぐんだ。なぜ彼女が僕のポケモンがマグマラシであることを知っているのだろう。
 ルビーを連れ出すのはほとんど人目につかないような時間帯だ。たまたまそのときに彼女が僕らを見ていたとしたら何ら問題はない。
 けれども、拭い去り難い胸騒ぎがした。
「ポケモン飼うのは勝手だけど、あまり放し飼いはしない方がいいわよ?」
 胸に凶器を突き立てられた気分だった。飼う、などという時代錯誤的な物言いに苛立ちながらも、努めて冷静になろうとする。 しかし、問題の本質はそこではなかった。『放し』飼い……?
「仰る意味が解らないのですが」
 彼女は怪訝そうな顔をした。
「あなたの部屋からマグマラシが出てくるのを見たのよ。そのままふらふらとどこかに行っちゃって。鍵も掛けてないようだし、不用心じゃない?」
 どこかに行った?
 ルビーが?
「あ……る、るび……」
「どうしたの?」
 ルビー。
 どこかに。
 ルビーが。
 ルビー。


 


 消えた?
「うわああああああああああ!!」
 無我夢中で階段を上った。女性の声が遠くに響く。
 なんてことだ。こんなこと。あってたまるか。
 ポケットから鍵を取りだす。乱暴に鍵穴に挿して回した。
 違う。鍵は開いてるはずだ。ルビーは外に出たんだから。
 でも。わからない。混乱する。
 とにかくがちゃがちゃと鍵を弄る。
 開かない。何回やっても開かない。開け! 開け!
 どうすれば。開いてくれ。お願いだから。
 開け!!


 かちゃり。


 ――開いた。


「ルビー!!」
 ドアを開け、大声でルビーの名前を呼ぶ。近所迷惑なんて考えもつかなかった。何かの間違いであってくれと必死に祈った。
 靴も脱がぬまま玄関の上り口を上った。電光石火の勢いでリビングに入る。
「ユーリ……どうしたの? うるさいとアパートの人たちに怒られるよ?」
 居た。寝室のドアの奥に、ルビーが立っている。
 力が抜けて、膝から崩れ落ちる。ああ、よかった。ちゃんといるじゃないか。出て行ったなんてこと、そんなことありえない。酷い嘘だ。
 ルビーのところまで這っていった。足に力が入らなくて、そうするしかなかった。ルビーの名前を小さく、ひたすらに唱えながら。
「ルビー」
 立ち尽くしているルビーを抱き寄せる。柔らかい毛並みと匂い。紛れもなくルビーだ。
「痛い……」
 はっとして抱く力を弱める。自然と腕に力が入ってしまったようだった。
「ごめん。でも……」
 ルビーが外に出たっていうのを見たっていう人がいたから、そう言った。
「だけど嘘だったみたいで安心した。変な人だよな、そんな嘘つくなんて。ずっと部屋の中にいたんだろ?」
 暫しの沈黙。ルビーは僕の質問に答える気配を一向に見せない。
「ルビー?」
 どうしたんだ。なぜ答えない?
「私……」
 背中が痒い。悪寒にも似た感覚だが、違う。どんなふうに違うのか、うまく説明できない。一つ言えるのは、不快な感覚だった。
「外……出たのか?」
「……出てないよ」
 なぜだろう。壁を殴りたくなるような衝動に駆られる。悲しいような、悔しいような。
 ルビーの体が不自然に揺れる。いや、震えている。



 ……ああ、そうか。僕は今、嘘をつかれたんだ。


「ルビー、もう一度聞く。外に出たのか?」
「……出てない」
 また嘘を。
 ルビーの呼吸音が乱れている。
「ルビー、僕は君を心配しているんだ。だから正直に答えろ。本当は外に出たんだろう?」
「私そんなこと」
「言い訳するな!」
 ルビーの呼吸が、一瞬、微かに止まった。驚きか、怯えか。多分、どちらもだ。
「……た」
「何?」
「私……外に出た」
「そうか……なぜ?」
 時間の空白。後付けの理由を考えているのだろうか。いや、どうせ元から大した理由ではないだろう。
「ひとりで……外に出てみたかったから」
「それだけ?」
「うん」
 彼女を疑う。しかし、その思いはすぐに立ち消えた。
「……ならいい」
 不思議には思わない。外出はいつも僕と一緒だった。ひとりだけで外に行きたい、そう願うことは決しておかしいことではない。
「でも、君は目が見えていないんだ。外に出たってなにも面白くないだろ。それに……」
「面白いよ」
 ルビーが僕の言葉を強く否定した。語気を荒げているわけでもないのに、なぜか興奮しているように見えた。
「……わかった。確かに面白いかもしれない。でも、何かあっても僕は対処できない。何かあってからじゃ遅いんだ」
「……うん」
 今度は素直だった。
「……いきなり怒鳴ってごめんな。けれど、僕は君を失ってしまうことが怖いんだ。わかるね? 君がいなくなったら……」
 そこまで言って、僕は喋ることを止めた。たとえ言ったところで、ルビーは驚きもしなければ怖がりもしないだろう。わかりきっていることだから。
「……ご飯作るよ」
 また、現実に戻る。日常に戻る。
 ルビーを解放して、キッチンに向かった。晩ご飯を作るとは言ったものの、具体的なメニューは決めていない。
 ふとダイニングテーブルの上を見ると、ルビーの昼食のために僕が作ったおにぎりが残されていることに気づいた。珍しいことではない。味が気に入らなかったのなら僕のせいだ。
 おにぎりを食器棚の隣にあるごみ箱に捨てたあと、冷蔵庫の中を漁った。まともな材料が残されていない。とりあえず人参とジャガイモを手にとった。
「ねえ、ユーリ」
 ルビーが話しかけてくる。彼女はまだ寝室の入り口に棒立ちしていた。てっきりベッドの上に不貞寝しに行ったのかと思っていたが。
「なんだ?」
 持っている野菜を左手に移し変え、右手で水切り籠の中にあるまな板を取ろうとする。
「ユーリにとって、私って何なの?」
 僕は動くのを止めた。
「何だって?」
「……ユーリにとって、私の存在意義って何?」
 信号に引っかかった帰り道を思い出す。僕も彼女を同じようなことを考えていた。意味なんてなかったけれど。
「……そんな難しいことを訊くのか。ルビーはルビーだよ。何ものにも代えられない」
 答えになっていないし、白々しいと自分でも思った。けれども、間違いではない。そう思っていることは事実だ。
 ルビーはどんな答えを期待しているんだろう。大切な恋人とでも言ってほしいのか。
「私はユーリがいなくなったら死ぬと思う」
 ルビーが唐突に話し出した。
「だって、私は目が見えないから。野生で暮らしていかなきゃならなくなったらすぐに死ぬ。人との暮らしも長いし。でも」
 彼女は一度そこで話を切った。
「ユーリは違うよね。私が死んだり、いなくなったりしても自力で生きていける。……物理的な意味じゃないよ? 実際、私がいなくなったらユーリは自殺すると思うし」
 僕は狼狽するでもなく、黙って話を聞いていた。ただ――ルビーにしてはやけに小難しい話をするなと思った。
「……変なこと言ってごめん」
 ルビーは身を翻し、寝室に戻った。
 ルビーにしては。
 きっと、そう思うのは間違いだ。僕が勝手にルビーを型にはめて、「ルビーとはこういうものである」と決めつけていたんだろう。
 棚から皮むき器を出して、人参の皮を削りながら考える。彼女は僕の与り知らぬところでいろいろなことを考えている。それが無意味なものに帰するとしてもだ。
 手が止まる。
「……何だかな」
 根拠は果てしなく薄いが、彼女は言いたいことを一割も言っていないのではないかと思った。言う言わないは彼女の勝手だし、僕がどうこうできる問題ではないが、腑に落ちるといえばそれは嘘だ。
 存在意義。あってないようなものだというのは、彼女もわかっているだろう。愛もあるし、無意味にまぐわっているわけでもない。一緒にベッドに寝ているときの彼女の顔はとても幸せそうだし、僕も同じだ。
「なら、何で……」
 僕は彼女がなぜそんなことを訊いたのかわからぬまま、黙々と調理を続けた。


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[[2へ続く>紅い硝子玉は輝かない 2]]
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IP:219.173.58.226 TIME:"2012-12-12 (水) 06:35:13" REFERER:"http://pokestory.rejec.net/main/index.php?cmd=edit&page=%E7%B4%85%E3%81%84%E7%A1%9D%E5%AD%90%E7%8E%89%E3%81%AF%E8%BC%9D%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%84" USER_AGENT:"Mozilla/5.0 (Windows NT 6.1; WOW64; rv:17.0) Gecko/20100101 Firefox/17.0"

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