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火消し屋・上 の変更点


#include(第三回仮面小説大会情報窓・非エロ部門,notitle)
#contents

作者……[[とある人に2秒で正体がばれた仮面の意味がない人>リング]]
**火消し屋の初仕事 [#o20a99b9]

 5月8日

「誰も……居ないよな?」

 山奥の集落、知識の神と称される神に見守られた湖の畔の土地。時折濃霧を生み出す小さな湖の周りにはいくつかの集落が集まり、1000を僅かに超えるくらいの人口しかない集落群の中で、4日に誕生日を迎えたばかりのコナン=ヒトロエルは脱出の機会を伺っている。
「ごめんなさい、お父様、お母様……今まで育ててくれてありがとうございます……」
 彼は祈祷師・神官・呼び方こそ様々であるが、ともかく神の力を借りて罪人の記憶を消しさり、罪人を奴隷とする刑罰を与える&ruby(ゼム){記憶を消す者};の一族の傍流としてこの世に生を受け、生まれながらに天才の名をほしいままにした少年であった。
「それじゃ!!」
 けれども、如何に彼が天才であろうと彼は報われない事情があった。先述したように彼の血は傍流、宗家ではなく分家と称される血筋の子。如何に仕事でその才覚を発揮しようと、手柄も名誉も家督権も宗家のもの。それならそれで、街にでもでて適当な仕事に就くことを許されるならばいいのだが、少年はもし宗家の長男・次男と後継ぎが死んだ際に代わりとなるためにこの集落に留まらなければならない。
 一応、金も(そもそも殆ど必要ないが)食料も、暮らして行くに困らない程度には保証されているが、宗家に対する劣等感と不公平な扱いに対する不満は尽きない。いつか、抜け出してやろうと彼は企んでいた。
「さよなら……みんな」

 そのチャンスとして目をつけたのが、商人の到来であった。商人とはいっても、この村には金の概念なんて殆ど無く、多くの場合で物々交換がほとんどだから、一般的に想像される商売とは違うかもしれない。
 ともかく、商人は集落では毎年余る毛皮などと引き換えに、集落では決して手に入らない代物をもたらしてくれる。商人は集落への来客の中では一番の人気者で、集落を去る時にはまた来てくださいと手を振って送り返すのが通例だ。
 待ちに待った行商の到来は、春の季節であった。雪解け水になぞらえ、雪解け人と揶揄される行商人の季節であるが、この集落は場所が場所。数いる行商人の中でも、とりわけ崖崩れの恐怖と、断崖絶壁から落ちる恐怖に耐えられる精神力と、精神力ではどうにもならない運がある者。
 更に、一番重要なのは体力である。これなしでは知力や財力に武力、他の何があっても商品を引っ張って山を越えられはしない。

 そのすべてを備えている者の一角が、バッフロンとキュウコンの行商であった。キュウコンのシュレンは身軽で素早い上に直感も鋭く、バッフロンのドゴウを先導して地面が弱くなっていないか? 崖崩れの心配はないか?  と物色するのだ。
 そして、崖崩れは滅多に起こらないから良しとして、足場に不安そうな場所を見つけたら、彼は荷物の一つである板を仕掛け、神通力も駆使してどうぞお通りくださいと牛車を安全に送り届けるのだ。もちろん、安全な場所では一緒に引っ張って二人三脚でこの集落までたどり着く
 普段から一番近い街への買い物でさえ、彼らの荷物の1割ほどの量しか持ちえない集落の者達からすれば、ここに来る商人達は英雄に近い存在として半ば神格化されている。
 そしてこの英雄は、武勇伝代わりにこの集落の外にある様々な物について語ってくれる。天を突くような巨大な建造物、だだっ広い大海原、そして奴隷としてこき使われるポケモン達の様子、地平線を埋め尽くすような軍隊の戦争を山間から見下ろして観戦した事だってある。

 口の上手いドゴウがそれを語る傍ら、シュレンは毛皮の質を見る。
「こりゃ上質な毛皮だな……」
 今年この集落で取れた小さな獣の毛皮には、思わずシュレンも唾を飲んだ。よくなめされたそれは、非常につややかでしなやかでよく伸びる上質な皮。今年は暖かくエサが豊富であった証拠なのか、この集落の他でも軒並み得られた毛皮は良質で、高く売れそうな代物である。
 二人の商人は満足そうに笑いながら、街からもたらされた鉄器との交換を行う。鉄が採集できないこの山奥で、丈夫な道具である鉄器は重要だ。特にこの集落で人気があるのは刃物で、爪や手刀等で調理出来ないポケモンにとっては貴重な切断道具となる。
 その鉄器を求める者は、我先に我先にと良質な毛皮を送るのだが、今年の毛皮は湖に生きる知識の神様が毛繕いをしたかのよう。いつもは出し惜しみしたくなる刃物や農具も、大盤振る舞いの年である。送る鉄器が尽きてしまえば、もうやる事はないのでシュレンも一緒になって武勇伝と言う名の観光案内をするしかない。
 しかし、大盤振る舞いなのは毛皮だけじゃなく今年の武勇伝もであった。例えば、南にある巨大な湖で行われた数年に一度の祭りのお話。預言者としてメキメキと頭角を現し始めたツタージャのお話。まるで風景を切り取ったかのように美しい絵を描くフーディンの少女など。
 戦争の血なまぐさいお話も語ったが、暗い話よりも明るい話を優先的にする事で、集落の盛り上がり方には熱が入った。その熱さは滅多に見られない域に達している。コナンも、もう少しその盛り上がった雰囲気の中で熱に浮かされたいところだが、山の神と海の神がダブルで訪れたような幸運を逃すわけにはいかなかった。
 行商が出発の時まで武勇伝を語る間にコナンは希薄となった街の人の目から逃れて、山道へと繰り出した。
 思った以上の武勇伝と毛皮の出来のおかげで突然の旅立ちとなったが、コナンはこの日のためにきちんと用意する物は用意している。まずは手紙。家出する旨と、『育ててくれてありがとう』『突然旅立ってすみません』と言う旨を伝えた非常に簡単な手紙であるが、無いよりはましだろう。

 そして、旅の荷物もきちんと用意してある。山間の道の途中、崖に根付いた大木に仕掛けた一本のロープ。その下に、ちょくちょく訪れては物資をため込んだ木箱がある。中身は燻製の肉や、燕麦の&ruby(ほしいい){糒};((米などの雑穀を乾燥させた保存食のこと))など食料と水筒。街へ降りた時に最低限必要になるであろうお金を入れている。
 そして、それを入れるための革袋は非常に丈夫な物で、今年の物ほどではないが出来の良い革を一人秘密で縫いあわせたものだった。
 コナンの種族はオーベム。手にある三つの光点を用いたテレパシーで会話をする、茶色を基調とした頭でっかち、エメラルドブルーの目玉は左右が繋がり、キルリアやムウマージと同じくポケモンには貴重なパンチラ成分と特徴は多い。もう一つの特徴としては浮遊しながら移動すること。
 そのおかげで、ここまで足跡が残っていないのは好都合なことだ。
 もちろん、好都合なのはそれだけでない。V字谷の底、轟々と流れる水しぶきの中には角ばった岩が突き出ており、ここは例え水タイプであっても迂闊に泳げば怪我を免れない危険な場所。しかし、コナンは浮遊して移動する関係上、その場所を水タイプのポケモン以上に安全に通行できる。
 悠々とは歩いていられない。コナンはただひたすら、谷を抜けて下流にある街を目指した。

 轟々と流れる川を、走るような速度で降りるのは非常に疲れる作業であった。サイコパワーで浮かんでいるのは、普通のポケモンにとって地面に立っているのと変わらない感覚。浮遊しながら移動するのも走るのと変わらない感覚だからこそ走るのと同じように疲れてしまう。
 大丈夫、このへんの勝手は一応知っている。一応、去年一回だけ街に行った事があるから、このへんはよく覚えている。
 この崖の底にはあるはずなのだ。どうやってできたのかもわからないが、抉られたような小さな横穴が。横穴自体は断崖絶壁の細い道から見下ろせるが、横穴の奥の方は暗くて見えない。
 下見した限りでは、上手い具合にそこは砂利が敷き詰められているのみで、寝床を確保できるスペースはあった。すでに時刻は夜。度々村を抜けだしても夕暮れには帰っていたコナンが一向に戻ってこない事で、集落は今どうなっているのだろうか?
(盛り上がっていて、まだ気付かれていなければ幸いだが……)
 崖の上からは奥が見えない横穴の中で、コナンはぼんやりと考える。辛い瞑想の修行、辛い断食の修行、辛い入水の修行。それ自体は耐えられなくもないのだが、いつまでたっても報われないのがきつい。祭りで祭事を行うのはいつも宗家の血筋の長男であった。修行が報われるのなら、コナンも喜んで集落にいただろうに。しかし、どれだけ優れた力を持っても越えられない壁がある事に嫌気がさして、何度も何度もこんな集落は嫌だと思ったが――

「いざ、抜け出してみると不安だな……」
 そう、住み慣れた街を離れると言う事はとてつもなく不安で心細い。
 だが、不安だけれど、コナンには希望があった。行商が語ってくれた、魔女の存在。『どこの街』の『誰か』は言われなかったけれど、魔術師だか祈祷師だかと言う職業を生業に生きるものが居ると言う話を。
 普通に暮らしていれば、路銀も食料の蓄えもすぐに尽きるだろう。そんな時に諦めず食いつなぐためにも、コナンは自分の能力を最大にまで生かした職業をやるつもりであった。それが、世間的には魔術師と呼ばれ忌み嫌われていようとも。
 集落では特定の場合を除いて使う事を許されていないあの能力も、とある行商が自分の能力を必要としてくれたように。街でなら、きっと誰かが必要としてくれる。その人から金を貰って、なんとかやっていくんだとコナンは心に決めていた。

 旅路は意外なほどつつがなく行われた。河を下るルートは、水タイプのポケモンでさえ危険な上に、浮遊していないと足元の確保もままならないため、追手と言えるのは飛行タイプのポケモンくらい。
//親の名前はシモン。息子の名前はシゼル
 難なく追いつかれて、足爪で掴まれ連れ戻そうとされたが、そんなの返り討ちにしてやればいい。村一番の強者と言われ、まともに立ち会えば敵いっこないオニドリルの大男とその息子も、『集落で鉄器が手に入らなかったから抜け出して来てすみません』と土下座で謝り大人しく従えば、無理やり連れて行く事はしない。
 連れ戻される最中に、痺れ薬の吹き矢毒を、隙を見て突き刺して逃げるのも簡単であった。オニドリルが動けないうちに自身の能力を活用すれば、記憶を消された彼は麻痺から覚めた後も使命も忘れて集落に帰るしか選択肢はないのだ。
 そして、息子はコナンの親友。コナンの思惑を確認すると、なんだかんだで息子は彼を見逃してくれた。寂しくはあったが、それがお前の道ならば……と。
 V字谷の流れと川辺が緩やかになってからは、川縁に森が見えるようになってきた。本来街へ行くのならば、天を仰ぎながら森の獣道を抜ける((けもの道は一見道が無いように見えるが、木が生えていないので枝葉の間に隙間が見える))のだが、コナンは足取りをばらさないためにも、ひたすら川を下る道を選んだ。一番近い街にはたどり着けないが、水のある場所に人は集まるから、いつかはどこかの街にたどり着けるはず。
 彼は森の木を寝床に選び、虫に刺されないよう全身に泥を塗っての就寝だ。そうして、2日目は終了した。


 萌え始めた木の芽をそこらじゅうで採集しては食べながら、コナンは手持ちの食料を節約してずんずんと進む。自分の住んでいた集落は山々に囲まれた盆地にあって、湖もあるせいで湿気が強く暮らしにくかったが、今のここは随分と暮らしやすい印象だ。
 扇状に広がる土地の頂上部にたどり着いたコナンは、ここにきて初めて山越えの正規ルートの旅人に出会う事が出来た。一番近くの街ではないここの街は、コナンにとっては全く未知の領域だ。
 かわされている言葉に耳を傾ければ、理解できる言葉とほんの少ししか理解できない言葉が半々くらいで。行商の人が話していた、異国の言葉であると分かった。その街は、宿屋の多い町であった。行き交う人と人との流れはまるで河が左右から流れて、しかし全く押しあわずに素通りしていくような、祭りでもないのにこうなのだから不思議な光景だ。
 ぼさっとして、道の真ん中で突っ立っているのは、祭りの時でも非常に迷惑。祭りでなら無礼講でも、こういう所では仕事の物も多いのだからなおさら迷惑だろう。道の端によって、コナンは周りを見る。
 とりあえず宿を取らなければならないのだが、それを頼むにもコナンは酷く緊張した。宿の入り口、旅慣れているらしいゲンガーの商人の後に付いて、コナンはどのようにして宿を借りるのかを観察する。
 主人へ泊まる期間を告げ、朝食の有無を答えて、お金を用意して、アゼム=アクシェと偽名を書く。自分の偽名の綴りを頭の中で再生し、緊張しながらコナンは宿屋の主に告げた。この時から、コナンはアゼムと名乗ることに決め、心機一転アゼムとしての人生を歩む事となる。
「あ、あ、あの……ひ、一晩、泊めてもらいたいのですが……えと、その……」
 酷く震えた声と緊張した様子。アゼムが旅慣れていない事が一目瞭然だ。
「あ、あぁ、構わんよ。一人穴開き銀貨一枚だよ」
 そんな初々しい様子のアゼムを見上げ、エレキブルの主人は肩をすくめ訝しげに尋ねる。
「えと、一人なんですが、銅貨20枚で足りますよね?」
 銀貨もあるにはあったが、まず最初に財布を軽くしておきたかったアゼムは、そう訪ねてみる。
「あぁ、うん。今はそれで丁度だよ……ところで、君。旅は初めてかい?」
「は、はい……」
「ふぅん……だよな。だが、主人に宿屋をとるように頼まれた感じでもなさそうだし、なんなんだかなぁ……まぁいいさ。詮索はいらんね。」
 そう言って、主人は鍵を取り出しアゼムへ渡す。
「2階の7号室だよ。金庫の鍵も兼ねているから、荷物を置いてゆっくり休みな」
 さて、ここからどうするか? 金を稼がないといけない事は分かりつつも、どのようにすればいいのかが分からないアゼムは、途方に暮れていた。一族で代々受け継いできた能力は、他人の記憶を消すことだが、『記憶を消したい人はいますか?』なんてとち狂った事を言いながら聞いて回るわけにもいかない。
 夫婦の行商は記憶を消したそうにしていたが、そんな者なんて果たして何人もいるのかどうか? 後には引けないこんなところまで来ておいて、アゼムはいきなり不安になる。思慮が浅いと言うのに、後悔することだけは一人前だった。

 ともかく、アゼムは街に出てみた。何か自分の能力を役立てることを探して。
 『体を拭くから』『毛皮を梳きますから』お金を下さいと言う物乞い。香りのよい粉に多量の水を加えて溶いた物を焼き、クレープを作り肉を包んで売っている露店。どれもピピピとこない。あの人たちは幸せそうで、とても記憶を消してだなんて言いそうにない。
 アゼムはテレパシーの能力を持つオーベムである。そのため、個人の思考や記憶を覗き見ることに置いて他の追従を許さないが、こと困った感情を感じる能力についてはキルリアやルカリオなどの足元に及ぶべくもない。
 困った感情にだけ焦点を当てても難しいもので、アゼムは『街なら困っている人も簡単に見つかるだろう』という思惑が外れて溜め息をつく。テレパシーの練習なんて&ruby(ゼム){記憶を消す者};には必要なく、それゆえに退化してしまったのがもったいなく思える。
 深夜になり、すっかり人の流れも穏やかになってしまい、アゼムも段々と眠くなってしまう。と、そこでようやくアゼムは面白いトラブルをピピピと捉え、見つけてしまった。
 山越え用の食料を補給するためのお店の路地裏、というべきなのだろうか。酒臭いニドキングの男、と中々美しいワルビアルの娘。暴力的なトラブルには発展していないようだが、どうも女性は嫌がっている様子。そういった事が分かるのは、彼らオーベムの持つテレパシーの特性の賜物であるが、普通に見ていてもなんとなく雰囲気で分かるだろう。
 深紅の警戒色と目のふちの鋭い眼を演出する模様も相まって非常に凶暴な見た目の彼女の目が泳いでいたり退け腰になっていたりと、そう言う姿は何とも情けなく、しかし可愛らしい気もした。
「なあなあ、いいだろー? また賭けで負けちまってさー」
 ニドキングは慣れ慣れしくワルビアルの肩を抱き、酒臭い口を近付ける。
「いや、その……」
 なにか、トラブルの気配だ。アゼムには何かは分からないけれど、なんとなく。
「じゃー分かった。いつも金を貸してくれるお礼してあげるからさ」
 娘は部屋の中に連れ去られてしまった。いや、娘はこのお店で働いているのだろうから自分の家なのだろうが。アゼムの見立てでは、なんとなーく嫌な顔をしていたが、何処か期待も混じっていたような。お礼と言うのは一体何なのか。
 少し気になってアゼムは耳をそばだてる。マッサージにしては少々声が過激だ。一体何をやっているのだろうか? 同じ年齢でも勘が良いものや、性的に熟するのが早い農民の子供なら気づくだろうが、アゼムは生まれてこの方性交、要するにセックスの類を行った事はない。学問としては知っていたが、どのように交わり、行為の時はどんな声をかけるのか? という文化的、心情的なことは一切知らない。
 そういう事が、彼が手にできる書物に書いてあるはずもなく、ただ与えられた娘とまぐわるのが&ruby(ゼム){記憶を消す者};の使命であった彼には、家の中でかわされる言葉の意味が理解できず。
 しかし、一応何か気まずい気はしたのでアゼムはしばらくその場で待つことにした。


「じゃーなー。今日もありがとよ」
 濃厚な雄の匂いと雌の匂い。が、二人から漂ってきたのだろう。もしくは部屋から漂ってきたと言うべきか。ようやく、アゼムは部屋の中で行われていたことを理解した。
(性交をしていたのか……しかし、お礼に性交?)
 女性がどのような気持ちで性交に望むのか知らないアゼム。例え知っていたとしても、彼の周りでは快感第一なんて、そんな不埒な思考で性交に望むポケモンなどいないわけで。彼の職業は穢れを嫌うから、わざわざ冬でも冷たい湖に入って体を清めるほど。それぐらい清廉潔白なのがアゼムである。
 ともかく、ニドキングの方は金を手に。ワルビアルの方は、犯されたようである。自ら犯されることを望んだ節もあるようだが、それ以上に嫌がっている風なのが見て取れた。その表情の曇り具合を見るに、やらされているんだろうと言う事はなんとなくわかる。自分も何度か望まない言葉を宗家に向かって言わされたこともあり、気持ちがわかってしまう。
 矢も盾もたまらず、アゼムは接触を試みる。
「あの、お姉さん……」
「はい、何でしょう?」
 ニドキングが去ったところを見計らって、アゼムは家の裏口の扉をノック。
「……えーっと、失礼ですが、貴方はさっきの方とはどんな関係でしょうか」
「え? いや……あの、どうしてあなたにそんな事を話さなければいけないのでしょうか……」
 怪しまれた。無論、当然なのだが、アゼムはいきなり戸惑った。
「え、えーっと……その、何と言いますか。私は、山奥の集落から出て来たばかりのものでして……」
「で?」
 当然と言えば当然なのだが、ワルビアルはそっけない反応だ。
「い、いえ……その何と言いますか……あの人と縁を切りたそうな感じがしたと言いますかね……」
「そんなの、貴方には関係ないです!!」
 大きく顎を開き、大岩でさえ噛み砕きそうなその牙でアゼムを威嚇。
 バンッ!!
「あ……」
 勢いよく扉が閉められてしまった。
「……まぁ、仕方ないよな」
 この家は店だ。また明日、今度は客としてコンタクトをとればいいさ。


 翌日、アゼムは起きて朝一番でワルビアルの店へと向かう。


「お早うございます……」
「また……貴方! 一体何のつもりですか! これ以上付きまとうなら噛み砕きますよ!?」
 今日もまた、アゼムの顔を見るとワルビアルは不快感をあらわにする。客の目があるのか、口を開いて威嚇することこそしないものの、煙たがっている事は十分に理解できる形相だ。
「昨日の話の続きなのですが……あんまり大きな声では言えないのですが、私は記憶を消す力と言うのがありまして……」
「それがどうしたのよ? 記憶を消すとかどうとか――」
「わーわーわー!! 大声出さないでくださいよ!」
 酷く焦った様子でワルビアルの声をかき消し、アゼムは肩で息をする。
「そりゃ、信じられませんよね……でも、なんというべきか……分かりました。これを見てください」

 アゼムは大黄銅貨を差し出し、握りしめる。
「お金握りしめて何のつもりよ?」
「……今握りしめた硬貨は何ですか?」
「そんなの……そんなの……なんだっけ?」
 アゼムはにやりと笑う。
「もう一回やってみます? よく見てくださいよ……」
「う、うん……」
 そして、アゼムは同じ硬貨を握って見せ、10まで数えて再び訪ねた。
「さっき握りしめた硬貨は?」
「……えと」
 ワルビアルの娘は答えられなかった。

「もう一回やります?」
「え、あ……うん」
 計4回も能力を見せたのだが、そのすべてにワルビアルは答えられなかった。もちろん、これは彼女の記憶力が悪いわけではない。自分の記憶が怪しくなって取り乱した彼女に対し、アゼムは大丈夫だからと優しく諭して能力を使わないで同じテストをした。
 結果、もちろん全問正解である。一連のテストのおかげでワルビアルはすっかりアゼムの事を本物の魔術師だと信じるようになった。記憶を消す事が出来る、魔術師なのだと。
「あの人と出会ったのはその……母さんが私を産む時に死んでしまって、それ以降男手ひとつで私を育ててくれた父さんが死んで悲しみに暮れていた時なんです……その、泣いていた私に優しく語りかけてくれて……それで、あれよあれよと言う間に体を許してしまった事が原因で。
 数日して、彼が金の無心をしてきたんです……幸い、私が1人娘だっただけに育てるにもお金がかからず、貯蓄は結構あったので……ついつい貸してしまったのですが……あっちは一向に返す気配も無く」
「しかも、父親の遺してくれた体はあまり汚したくないのに……強引な誘い方にやられて、イオラさんはどうにもできないと?」
「……恥ずかしながら、そんな所です」
「暴力は一度も使われた事は……」
「ないのですけれど……その……断ると何かされそうで怖くって」
 そう言うと。イオラは俯いてしまった。
「どうやってあいつとは出会ったのでしょうか?」
「父親を失って悲しみに暮れたままやけ酒していた所を酒場で……あの、本当に記憶を消すことはできるんですか?」
「出来ますよ。私、集落では罪人の記憶を消して奴隷として使役する役目を負った役職だったんです。ただし、血縁の関係で宗家の物が死ななければ決して後継ぎになれない損な役回りでしたけれどね……しかも、自分の実力が低いのならばまだしも、私は当代一と呼ばれる程の才能を持っている……らしいのですが、結局は……日の眼を見ない能力になるでしょう。それで、嫌になって出てきちゃいました。
 ですから、貴方のお望みと報酬次第で……その、どれくらい記憶を消すかについても決められるかなぁ……と……」
「はぁ……では、どうしようかしら?」
 そう言って考え始めるイオラに、独り言のようにアゼムは言う。
「奴隷にされた時、恐ろしいのは自分の名前も家も、大切な者の顔さえも思い出せないように記憶を消されるんです……と、言うのも罪人は、現世の記憶さえ持つ事が許されないほどの罰と言う事で……。
 そういう状態にする事も出来ますが、単純に縁を切りたいだけなら貴方を忘れさせるだけでも大丈夫なはず。
 しかし、復讐したいとかお考えであれば……もっとえげつない記憶の消し方、記憶の改竄だって思いのままですよ」
「いえ、縁を切るだけで十分です……それで、お金の方ですが……」
「あ、はい……えーと……穴開き銀20……じゃなくって、大銀貨5枚くらいでどう……かな?」
 食費なども考えれば2週間ほど暮らせれば恩の字だろうか。アゼムはその程度の値段を提示するが、イオラは首を横に振った。
「あ、大銀貨でしたら15枚ほどで構いませんよ……あの人が金の無心に来る時、大体それくらいむしり取られますので……」
「大銀貨15枚って……それ、どれくらい暮らせるの?」
 呆れたように震えた声で、アゼムは尋ねる。
「1ヶ月とちょっと……」
「あぁ……そう」
 アゼムは呆れたように、ではなく呆れた。世の中、1ヶ月分の暮らしに仕えるお金をポンと貸し与えるなど不思議な事をする人がいる者だとアゼムは思う。それこそ、行商人のお話だけでは知りえないような事を今日知った。
「分かった……それだけの報酬をくれるなら喜んでやらせてもらうよ……」
「あ、ありがとうございます」
「いえいえ……それより、その……えーと、なんだっけ? こういうのは前金半分で成功報酬で残りって言うのが通例だから……」
 と、言うのは行商人から得た情報である。気の良い商人は追加報酬などをくれたりもするらしいが、基本に忠実ならばこれが定石らしい。
「はい……かしこまりました」
 そして、アゼムはその乾物屋を後にして、その日はもう遅いので宿に泊まる。

 ◇

 特定の感情を読むだけでも四苦八苦しているアゼムだが、これは彼が未熟だからというわけではない。テレパシーは心と心を繋ぐ力、道行く人との間に心を繋ぐことは難しい。心を繋ぐには切っ掛けが必要だが、それも簡単なこと。互いが互いを同時に意識するだけで心は簡単に繋がりを持たせることが出来る。
 接触するのは簡単だ。道端で肩をぶつける。それだけ。
「あぁ、すまんね」
「おい、気をつけろや」
 不機嫌そうなデインとの会話。互いが互いを意識した瞬間に心の中を覗きこむ隙が出来る。アゼムはその瞬間を見計らって、彼の心に入り込む道を作りだす。

 次は、記憶を消す段階だ。デインが食事のために定食屋に訪れた際に、アゼムはそれを始めた。心の中に入り込めるように作った道から、雲で作られた迷宮のような、ふわふわでもやもやな精神空間へ。その中に点在する水に波紋が広がるように穴が広がって開閉する扉をくぐれば、見えるのは記憶を写しだす泡のようにふわりと浮かぶ、カイスの実ほどの大きさの記憶の幻影。
 次はふわふわ浮かんだ映像の中から、デインにから見たイオラの記憶を探り当てなければならない。それを探り当てる腕前は、&ruby(ゼム){記憶を消す者};がどれだけ自然と一体化出来るかにかかっている。
 無心になり、心を空と為し、出来ることなら自分がデインに乗り移ったと錯覚するほど自己の存在感を忘れられれば記憶を探り当てるのも簡単だ。ただし、そこまでの領域まで達せる&ruby(ゼム){記憶を消す者};は、アゼムくらいのものである。
 そんなアゼムでも覗けないような閉ざされた記憶というのもあるが、この男の記憶はひたすら無防備だ。
 すでにデインの体の一部とすら言えるほど精神を解放しているアゼムには、デインの記憶を引き摺りだすことなど造作もない。そしてそれを破壊するために、精神世界の中でアゼムは記憶の象徴である球体を握り潰すイメージで念じ、そして記憶を崩壊させる。
 うたたねをしたように眼を瞑っていたアゼムは、記憶を覗いている状態から覚めて辺りを見回す。デインは食事の到着を待っていた、自分のテーブルにもまだ料理は来ていない。後は料理を待って、それから様子を見ればいい。きっと仕事は成功しているはずだ、


「そら、話しかけてみろ」
 さらに翌日、アゼムはイオラをデインの前に突き出した。口元をニヤつかせたアゼムは、自分の仕事に失敗など有り得ないとばかりに得意げだ。
「あ、あのすみません……このへんに私の財布落ちていませんでしたか?」
 おどおどとした様子でイオラはデインに話しかける。
「ああん、サイフ!? そんなもんがあったら拝ませてもらうっつーの」
 おどおどとするイオラの思惑など知る由もないデインは、まるで初対面のようにイオラに対して何の感情も抱かなかった。
「しかしどっかで見たような面だな……まぁ、いいか」
 そう言って、デインは苛立たしげに去ってゆく。ぽかんと口を開けて佇むイオラの肩を叩いてアゼムは笑う。
「どうだい? 俺は良い仕事してるだろう?」
 これが、後に火消し屋を名乗る魔術師アゼムの初仕事であった。

 当面の旅費を得たアゼムは、地図を買って街の場所を調べる。知識の神にしか祈った事のない彼は、他の場所に住む神に祈りをささげてみたいという好奇心を胸に山を下り、神の居る街へ。
 各地で御祈りがてら自分の実力を試そうと、アゼムは雲海の&ruby(なび){靡};く山を下り歩いた。


**子供の味方 [#f118b9a3]

 7月1日

 日差しがきつくなってきた。日増しに長くなる昼の時間は、否応なしに季節の移り変わりを感じさせ、旅ゆくアゼムのスタミナを奪う。オーベムと言う種族は、体毛の薄さゆえに肌の色で太陽光に対する耐性を作る。
 例えば、砂漠に暮らしているともなれば、周囲の岩石に擬態するような褐色を呈するが、旅に出る前は屋内での瞑想が多かったアゼムは黄色もしくは象牙色と言うが正しいか。しかしながら、夏の訪れに合わせて、彼の体毛は徐々に褐色を取り戻していた。
 無論、砂漠に住む同族のそれとは及びもつかないが、日焼けのおかげで文字通り一皮むけた風格を漂わせていた。旅にも慣れ、野宿から宿の取り方、料理のコツも覚えて、アゼムは旅が楽しくなった毎日を満喫している。
 仕事の方も順調な物で、初仕事を筆頭に縁切りや浮気の記憶を消すといった相談が多めである。他にも、握られた弱みの記憶を消してほしいとか、不条理な借金をなかったことにするとか、やはりすねに傷のある者達からの依頼が多い。
 しかしながら、そういう人たちの報酬は軒並み高いので、旅費は減ることを知らない。アゼムの財布はどんどん重くなり、果ては庶民には縁のない金貨を入れるに至っていた。

 その金で遊んだり、美味しいものを食べるのは乙なものだ。この街では、どんな食事が出来、そんな仕事を取れ、どんな事件があるのだろう? そんな思いを胸に秘めながら、アゼムは街を物色していく。城壁で囲まれた大きな街、掘りの水は近くを流れる河から引かれているようで、水も豊富な良い街だ。
 水は豊富なだけではなく、街の一部を除いて排水事情も良いらしく数日前にも大雨が降ったが、大きな被害は出なかったようだ。スラムの人たちの家は流されてしまった者も多いようだが、どうせ掘立小屋。殆どの家屋が廃材や芦を利用して一日で再建させられてしまったのだから、その生き様は何とも逞しいものである。

 アゼムはあての無い旅をするのもなんだと思い、各地にある神の社を訪ねて回る事とした。旅の安全や故郷に残した家族や兄弟の無事を祈るには、記憶を消す術しか学んでこなかった自分には難しい事だ。祈る事は出来ても、それが届く保証はない。
 ならば、と彼は手当たり次第に神に祈ることでその祈りの中継をお願いした。自分より能力に劣る&ruby(ゼム){記憶を消す者};の従兄弟達も、邪魔ではあるが恨んではいない。むしろ、好きだったくらいである。
 アゼムが&ruby(ゼム){記憶を消す者};の立場を捨てた今、その従兄弟達の事はすでに幸福を望むべき存在へと変わって、素直に幸福を祈られる事が彼には何だか嬉しかった。

 さて、この街と近くにある村との間には、ネコ馬車というレパルダスと馬車が一体化した不思議な乗り物が闊歩し、珠に&ruby(ガラクタ置き場){ジャンクヤード};の精霊と呼ばれる『ヘドロ』と名付けられたダストダスが訪れるのだとか。
 何百年も前からこの周辺諸国で幅を利かせている宗教において聖人とされているシオン=ヘドロと言う名のベトベトンと奇しくも同じ姓であり、しばし同一視されている存在として教会の信者からも受け入れられている。シオンは、聖人として神の使いに助けられた事もあるなど逸話も多く、&ruby(キリスト){救世主};と同じく姿を変えて後世に蘇る事もあるだろうとは教会の弁だ。
 子供の時にしか見えないとされるその存在は、子供を大切にすることでも知られている。危篤状態と告げられた母に会うために無謀にも村から飛び出した女の子を助けるためその女の子の姉に請われてネコ馬車を駆りだした等のエピソードがあるヘドロと姉妹の心温まる物語は、今でも『となりのヘドロ』と呼ばれ親しまれる民間伝承である。
 結局、姉妹は母親に会う事は出来なかったそうだが、母親は二人の祈りが届いたように無事生きながらえたという。
 自身らの集落で崇められている、知識の神ユクシーしか拝んだことの無いアゼムは、その『ヘドロ』とやらを祀る社にて初めて異国の神のために手を合わせた。祈った内容は、子供を守る存在と言う事で、10個下の4歳の妹の無事を祈り、どうか元気で暮らしていますように――と。

 そうしてお参りを済ませ、アゼムは街に訪れた。
「雨降り 馬車停 ずぶ濡れ汚物がいたら……♪ 貴方の 雨傘 差してあげましょ 森への通行証……魔法の扉、開きます♪」
 自分も何か子供の役に立てば祈りの一つでも届けてもらえるかなんて思いながら、アゼムは社の周り子供達が歌っていたわらべ歌を歌いながら街を散策する。旅を続けるうちに、カタコトであった異国の言葉もある程度は堪能になり、異国の言葉の歌詞であるわらべ歌を歌う口も良く回るし、それ以上に人々が話す言葉にも耳を傾けやすくなったのが嬉しい事だった。
 残念ながら街の中にはお得意のテレパシーでピピピと来るような依頼人の気配は感じる事が無かったが、その翌日に訪れた河縁のスラムでの話だ。隣のヘドロが好みそうな不衛生な状況となっているスラムの中で、一人黄昏ている中年女性。
 手には白く光る刃物が握られているが、どうやら血なまぐさい事情とは無縁のようで、河縁の石でそれを研いでいるようだ。
 彼女はこれまでの火消し屋としての経験からピピピとくる何かを持っていた。

 しかし、この女性はそれを持っている。何事なのかと、アゼムはその女性に接触を試みた。
「すみませんな、奥様」
 黄昏ているドレディアの女性に対して、アゼムはにこやかに話しかける。
「私は、色んな場所を旅しながら人々の悩みを解決しているって言う……そういう魔術師がこの街にいると聞いているのですが、何か知っている事はありませんかね? もし、知っている事があれば噂でも何でも、聞かせてほしいのですよ……」
「いや、知らないね……そんなのがいたら私が頼みたいくらいさ」
「……と、言いますと?」
「いや、あんたに話しても仕方がないし……」
 流石に、この段階ではあまり食いついてはくれないようだ。
「……そうなんですか。確か、その魔術師はですね、頼めば他人の記憶を消してくれたり、捜査してくれたりして、人間関係のトラブルなんかを解決してくれるそうなのですよ。場合によっては不当な借金を踏み倒させてくれることだってある」
「へぇ……そんな力が私にもあればねぇ」
 ドレディアの女性は溜め息と共に愚痴を吐きだした。
「そんなに言うなら、魔術師を見かけたら紹介いたしましょうか? 私の用はすぐに済みますので」
「悩みはあっても、それを相談するだけの金が無いよ」
「ん……お金、ですか……」
「酒を買う金我慢すればいいかもしれないけれど、それだけでなんとかなるお金ならともかくねぇ……」
 アゼムはハッとして思い出す。ここはスラム街であり、金があるのにこんなところに好き好んで来る者はいない。当然、報酬なんて期待できないのだ。
「事情を話せば、安くしてくれるかもしれませんよ。同情とかなんとかして。その魔術師、とても優しいって評判ですから……それに、なんなら私がお金を出したっていいですよ。私、金は余るほどあるんですよ」
「同情……ねぇ」
 ドレディアの女性はゆったりと溜め息をついた。

「分かった……話してみる事にする。でも、そんな腕の良い魔術師とやらが本当にいるのかい?」
「います。確実に……依頼人は種族と名前の記憶を消されているために、誰も思い出す事は出来ませんが……その魔術師に出会ったという人を知っているのです」
「……世の中、不思議な能力もあるもんだねぇ」
 ドレディアの女性は微笑んで身の上を語り始める。
「話せば何とも簡単な話さ……ここはね、見ての通り河縁だろ? 今、私が預かっている子供……ダンバルの男の子がね……先日、追い剥ぎに殺されて親を失っちまったんだよ。泣きながら街に来た時にはもう何も喋らずにただただ泣いているだけ……あの子、可哀想に。……自分の母親が死んじまったとこ、しっかり目に焼き付けちまってたんだ……親が殺されたのはメタグロスの母親が死体で見つかったから知った事なんだけれどね」
「なるほど……酷い話ですね。それで、そのお子さんは?」
「あんまりにも不憫だからさ、私が引き取ったんだけれど……母親が死ぬ悪夢を毎日のように見て、娘と一緒に遊ぼうともしないんだ。怖くって怖くって、外に出る事も出来やしない。毎日のように、夜に飛び起きるし、眠れないし、気絶するように眠ったら眠ったで&ruby(うな){魘};されている……見ちゃいらんないよ」
「そういう事ですか……」
 アゼムは、何度も浮気の記憶を消してくれと頼まれた事もあり、金には全く困っていなかった。
(まぁいい、ヘドロ様が見てる前で良いところを見せるのもいいだろう)
 そう思って、タダ同然でも良いからこんな仕事を受けるのも悪くないと、アゼムは考える事にした。ここでヘドロにいい所を見せれば、家族の安全にサービスの一つや二つしてくれるかもしれない。

「ところで、ですが……すみません。その魔術師って、私なんです」
 にんまりとした目で笑い、アゼムはしたり顔。
「あの、申し訳ないんだけれど、言っている意味が分からないんだがねぇ……」
「言葉通り、私がその魔術師と言う事ですよ……最初から、自分が魔術師だなんて言っても信じてもらえないと思いまして……まぁ、それは良いか」
「な、何が良いっていうんだい? 私からタカっても何も出ないよ?」
 訝しげにドレディアの女性は首を傾げる。
「言葉を並べたてるよりも、私の能力を直に見てもらった方が早いと思ってね、いつも同じようにやっているんだが……このコインを見てはくれないかな?」
「穴開き銀貨……いいねぇ、こんなの久しぶりに見たよ……」
「そうですか……さて、今それを手に包み込みました。10秒の間に貴方の記憶を消しますので、一緒に数えてください。1つ、2つ……10。
 さて、私が握っている硬貨は?」
「え……あれ?」
 ここから先はいつも通りだ。信用されるまで何度だってやって見せる。自分の記憶が疑わしくなるまで、アゼムはその動作を繰り返した。
「そろそろ、信じてくれましたか? 結構、疲れるんですよ……これ」
 5回目を終えたところで、アゼムは苦笑しながらドレディアに尋ねる。
「信じざるを得ないようだね……しかし、お金の方は……私達は見ての通りで……」
「タダって、いうのは流石に無理ですので……食事を出してはもらえませんかね……あ、いや……記憶を消すこと自体は一晩もいりませんが、その後……出来る限りその子の力になれるように頑張りますので、なんとか……」
「うーん……分かった。頼むよ。私は……その、お仕事に行って来るからさ、その間の世話役だって言って、ちょっと紹介してくる……多分、ジュン……ウチの娘は、その……例のダンバルの子で、ツムギって子の様子を見ていると思うから……」
「分かりました。じゃあ、奥さんの家の前まで着いてゆきますね」
「はい、お願いします……こっちに付いてきて下さい……」
 そう言って、ドレディアは布に包んだ刃物を片手に自分の家へと向かう。アゼムはふわふわと浮遊しながらその隣を歩いた。
 彼女の家は、どうやら河縁の中でも奥の方、河から離れた奥の方にあるらしい。その距離を会話無しで歩くのも手持無沙汰で、彼女は僅かに顔を斜めに向けてアゼムに話しかける。
「そういえば、私の自己紹介をしていなかったね。私の名前はヤスカって言うんだ……どうか、あの子をお願いします」
「アゼムです。よろしくお願いします……しかし、なんというべきでしょうか。今回ばかりは……記憶を消すだけじゃどうにもならないかもしれませんし、難しいかもしれません。
 考えてみればこういう依頼は初めてなので……」
 アゼムは考える。今回、記憶を消すと一口に言ったとしても、消すべき記憶は事件の記憶そのものではないだろう。目の前で母親が殺されたシーンの記憶だろう。
 しかし、その記憶を消すのは良いとして、他の所で矛盾が生じてはいけない。今までは浮気だとか縁切りだとか借金だとか、記憶を消してしまえば片付くような依頼ばっかりであったが、どうしたものか。
 場合によっては、記憶を消すだけでなく改編も行う必要があるが、それについては改編の内容によっては非常に時間がかかるために好ましくは無い。
「誰かが死んだ記憶を消す依頼は初めてなのかい?」
「まぁ、そういう事です。誰かが死んだのが悲しいからって、その人との思い出をすべて奪ってしまったら……色んな事に矛盾が出ると思いますので……消すだけなら簡単なんですがね。それだけじゃなく、思い出を奪ってしまうのはそれ自体かわいそうだと思いますから。
 自分の記憶を失ったら、子供の頃の自分は一体どんなだったのだろうと思う時が、いつか必ず来ますから」
「なるほどね……確かにそうよねぇ……うぅん、でもそれだと、どういう風に記憶を消すんだい?」
「状況によります……多分、母親が殺された光景の記憶は間違いなく消す事になると思いますが……そこから、どうするか」
 少しその先に詰まって、アゼムは深呼吸を挟む。
「ありがちではありますが……お母さんは、そのツムギ君を貴方に預けて遠くへお仕事に行ったとでも、伝えるべきでしょうか?」
「確かに、あの子のお母さんは……生きていた頃はどうも行商人だったみたいだし。う~ん……まぁ、それで様子を見るしかないかしらね」
 歩きながら二人は溜め息をついた。
「分かりました。とりあえず、その方向でやってみます。魔術師として、出来る限りの事を……」
「ありがとうございます……本当に何とお礼を言えばいいのやら……」
「まだいいですよ。お礼は、そのツムギって子が立ち直ったらでお願いします」
 お礼を言いかけたヤスカの口を止め、アゼムは力なく微笑んで見せる。
「私はまだ何もしていませんし、出来るかもわかりません。ですから、出来るまで……」
「分かった。お願いします……」
 そう言ったヤスカの目は、少し涙ぐんでいた。そんな涙を流されても、何が出来るかアゼムには分からないが、とにかくやってみるっきゃない。
「それでは、子供たちに事情を説明してきます……今日は、私が居ない間世話をしてくれる人が来てくれたと説明しますが……どうにか上手くやってもらえますか?」
「あぁ、それは構わないのですが……出来れば、ジュンちゃんでしたっけ? 奥様の娘さん?」
「え、えぇ……」
「その子には私の正体を正直に話しちゃってください。その方が、色々話もしやすいですし」
「分かりました。こっちも上手くやれるように頑張ります……」
 そう言って、ヤスカは小屋の中へと入って行った。

 小屋は、一日で再建したという話が真実である事を伺わせる粗末なものだ。ボロボロの板キレに、芦を束ねた柱と布切れ。ちょっとやそっとの風では吹き飛ばないように屋根に岩が置いてある。それだけ。
 冬は隙間風(などと言うレベルでは済まないだろうが)が吹いて寒いだろうとアゼムはなんとなく考えながら、ヤスカが出てくるのを待つ。
 成り行きかつ、お節介で同情した自業自得とは言え厄介な事を引きうけてしまった。教会は、&ruby(まじな){呪};いや他の神の存在を嫌っている。それでも、民間信仰と言うのはここのように各地で根強く残っているが、奇跡を起こし続ける自分が教会の神を信じていないともなれば、少々面倒な事になるだろう。
 それだけに、アゼムは魔術師として名を上げたい一方で、教会に目をつけられたくないので名を上げてはいけないという周辺諸国の空気を理解せざるを得なかった。
 名も上がらない、金も貰えない。何のために、自分はこんなことをやっているのだか、今更ながらに疑問である。こんなの(と、言ってしまうのは失礼だが)よりもかわいそうな子なんていくらでもいるのに、記憶を消すことで解決できる案件だからと特別視するべきだったのだろうかと。
「……となりのヘドロの御導きだと思って、今回は自己満足と割り切ろう」
 愚痴る相手のいない独り言の結論は、結局この地の民間伝承のせいにした。


「あの、一応紹介はすませましたので……まずは挨拶を……」
「あ、はい……」
 アゼムは手招きされるに任せて、新品の薄い布で区切られた屋内へと入る。まず迎えてくれたのは、真ん丸な目を光らせているチュリネの女の子。どういう紹介を受けたのか、ジュンの目元は興味深々と言うよりは助けをすがるような哀しそうな印象。揺れる瞳がまだ子供だというのに色気を感じさせてくれる。
「アゼムです。よろしくな、お嬢ちゃん」
 まず、アゼムはふわふわと浮くのを止め、地に足付けた状態から更に屈んでジュン向かって微笑んだ。
「ジュンです。えと、お兄さんもよろしくお願いします……」
 そう言って、彼女はチラチラと後ろを見る。その視線の先には、例のダンバルが。元々、目が一個しかないために何を考えているのか分かりにくい種族だというのに、その瞳がなにも写していない事はなんとなくわかった。
 いずれは他のダンバルと合体して、記憶を統合するのだろう。メタモンのパートナーでも見つかるという奇跡が起きなければ、メタグロスになる事で初めて子孫を残せるのだから。合体相手を見つけるその時にこんな塞ぎこんだ性格では問題も多かろう。そう言う意味を含めても、確かにこれはなんとかしなければならなそうだ。
「ツムギ君だったね、よろしくお願いします」
 彼は僅かにだが浮いているので、アゼムも浮かんで視線を合わせて見せる。ちらりと目を逸らしただけで、それっきり何の反応も無い。つまらない、と言えばそうだし、これはまずいというべきか。
「まぁ、ずっとこんな調子なんです。母親が……その」
 大きな声で言って、ヤスカは後悔しながら口を噤む。
「ですね。あまり……お母さんことを思い出させちゃうと、傷付いちゃうよ」
 アゼムが声を潜めて言うと、ヤスカはアゼムの肩を押して外へと出るように促した。
「ごめんなさい、ジュン。ちょっとアゼムさんとお話しをしてくるわ……」
「う、うん……ママ」
 不安な眼差しでジュンは頷く。同年代の子の様子が、どうにもならないというのはやはり相当不安であるらしい。それを治してくれるとでも思っているのか、僅かに期待もこもっているようなのだが、それ以上に疑いの眼差しをかけられているらしい。
 その疑いが、より一層不安を掻きたてていると言ったところか。『悪い魔法使いだったらどうしよう?』とでも思われているのかもしれない。
 とにもかくにも、アゼムはヤスカに連れられ外に出た。

「先程の続きですが、母親が死んでからなのか……あの通り誰とも話さなくなって……」
「ツムギ君が誰かの死を見るのは……少なくとも、親しい人の死はこれが初めてで?」
「いや、分かりません。分かりませんが、きっとそうでしょう……しかも最悪の形で」
「ふむ。兄妹も何もいないから、初めての死がそんなにショッキングだったのでしょうかね。こういうといい方は悪いのですが……せめて病気で死んでくれれば取り繕いようもあったと思うのですが……」
「ここにいた人たちは皆、無責任にツムギの母親……シェーナの事を『死んだ』、『死んだ』と強調するものですから……」
「ふむ、いきなりそれはきつかったかもしれませんね……いや、分かりました。記憶を消すだけじゃどうにもなりませんが、オーベムと言うのはそれ以外の能力もありますし、自分は一流の魔術師と自負しております。
 いくらか話をしながら考えさせてもらいますよ」
「本当に……お願いします。シェーナとは家族ぐるみの付き合いだったので……シェーナの残した子供を立派に育てきらないと、彼女に顔向けできませんので……」
「どうにもならなかったら、食費の分は返します。ですので、過度の期待は込める事無くお願いします」
「それでも、構わないよ……それじゃ、ちょっと早いですが、私はお仕事に行ってくるから……ツムギのこれまでの様子については、きちんと話すようにジュンに伝えているから、娘から聞いてくれるかな……」
 そう言って、ヤスカは会釈した。
「娘さんに聞く……ですね。ところで、今からお仕事ですか?」
「え、えぇ……行商の方からもたらされる商品の整理を行う仕事です。今日は昼から担当なので……」
「そうか……頑張って行って下さい。私も頑張るから」
「はい、行ってきます」
 儚げに笑いながら、二人は手を振りあう。ヤスカが前を向いて歩き始めたのを確認すると、アゼムは家の布をめくりあげた。

 ◇

「お兄さんって、本当に魔術師なの?」
 ジュンからの質問はお決まりの質問であった。早速アゼムは、手の中に握った硬貨を記憶出来なくすることで、記憶を消す能力の存在を証明する。母親と違って、子供は純粋と言う事か、彼女は親ほど疑り深くなく、2回目で信じてくれるにいたった。
「すごい……でも、こんな風にツムギの記憶も消しちゃうの?」
「うん、そうなる。でも、消すべき記憶は……母親が追い剥ぎに殺されて死んでしまった光景だけだ」
「……どうして?」
 首をかしげるジュンに対し、アゼムは諭すように微笑みかける。
「君は、死ぬって事がどういう事かわかるかい?」
「二度と会えなくなるってことは分かるけれど……」
「そう、そういう物だ……誰だって言葉では分かる。こういう言い方は失礼かもしれないけれど、でも実際にそれが自分の身に降りかかった時、それがいったいどういうモノなのか? それを理解するにはまだ……君達は子供すぎると思うんだ……『大人になれば分かる』ってさ、どんな状況でもいいんだけれど、何回かお母さんに言われた事はある?」
「うん……お母さん、大事なことをそう言ってはぐらかす所が嫌い……」
 ジュンはぶすっと口をとがらせる。
「気持ちは分かる。けれどそれは仕方がないことだと思うよ……大人になってもね、死ぬってことはよくわからない。そして、理解をしたくないものなんだ……お母さんと、二度と会えなくなるなんて嫌だよね?」
「そ、そりゃ……私は嫌」
 アゼムはジュンの頭に手をポンと置いた。
「そうだ。嫌な事は分かるけれど……でも、失ってみてわかるけれど、好きな人がいなくなるのは思った以上に嫌なものだ。言葉で思う以上に現実が大変な事なんていくらでもある。どんな覚悟があっても、覚悟が予想を上回ってしまうんだ……特に、人生経験の薄い子供はね……えてしてそう言う事が起こるものさ。
 でもそれは、君が馬鹿だって言っているわけじゃない。本当に、子供には分からない事や知ってはいけない事ってあるんだよ……
 例えばなんだけれど、君はもし母親と二度と会えないという事になったら……まぁ、悲しむ事は想像できただろうけれど、ツムギ君みたいに何も出来なくなってしまうのを想像したかい?」
「いや、お母さんが死んだだけでこんな事になるなんて思ってなかった……」
 子供らしい率直な意見をジュンは答える。
「そういう事だよ。予想を越えて、哀しい事なんだ……だからね、死んだ記憶を消して、二度と会えないんだって認識を改めさせようと思う……」
「え、で、でもぉ……」
 そう、ただ記憶を消しても、母親が死んでしまった事実は変える事は出来ない。でも、といいかけたジュンの考えは恐らくそれに付いて危惧しているのだろう。
「分かっている……お母さんの事を聞かれたら、なんと答えればいいのか分からない。そう言いたいんだよね?」
「う、うん……」
「嘘をつこう。騙しているのはいい気分じゃないかもしれないけれど……いつか、君もツムギ君も死ぬって事がどういう事なのかを理解出来るようになるまで……」
「でも、それは良い事なの?」
「分からないけれどね……多分、今よりはいい状況になると思うよ。ともかくね、あれだ……人を傷付けないための嘘だってあるんだよ……確かに、嘘をつくことの方が辛いかもしれないけれどね……でも、たまには嘘をつくのも必要な事だよ」
 そんな気がした。それは、ユクシーから知恵を貸してもらった結果の発言だったのか、それとも隣のヘドロが知恵を貸してくれたのか。咄嗟に行った言葉が、どうにも自分の言葉じゃないと思うくらいにすっきりとまとまった妙な違和感を感じた。
 この考えの出所は何なのか、少しアゼムは考える。少し考えて、その考えの出所はきっとあのドレディア、ヤスカのものなのだと理解する。彼女の言っている事がどこまで本当か、記憶を探る時に少し彼女の思いがテレパシーとして流れ込んできた。

 きっと、自分は彼女の心の奥底にある願望を無意識に代弁してしまっただけなんだろう。アゼムはそう理解する。
「友達のために、君は嘘をつき続けられる覚悟はあるかい?」
 アゼムはジュンの肩を掴み、覚悟を試すように問いかける。
「さっきも言った通りだ……幼い君には、きっと今まで想像だにしなかったような困難が降りかかる時がある。予想を上回る苦痛や苦難があるかもしれない……それでも、友達のために嘘をつき続けられる?」
 冷たい湖に入水して行う沐浴の儀式で、覚悟を遥かに上回った寒さを思い出し、アゼムは身ぶるいする。絶対に弱音を吐かないと誓ったあの日、すぐに湖から這い出ようとして、親戚一同にサイコキネシスで抑えつけられたのは今でも苦い思い出だ。そうして、何度も何度も嫌がる自分を強制的に湖に入れ、慣れるまでやらされた今では大抵の寒さには耐えられるが、今思えば酷いものだ。
 きっと、そういう事が彼女にも起こるだろう。しかも、肉体的なことではなく精神的な苦痛として。
「出来……ます」
「失敗すれば、ツムギがより強く苦しむ事になったとしても? それでもやれる?」
「……失敗しません」
「わかった、やるよ」
 アゼムはジュンの肩から手を離す。
「私は、この小屋の外で記憶を消すための力を送り続ける。夜には記憶が消えているはずさ……取り返しは付かないから、上手くやるんだよ」
 アゼムはそう言って励ますように笑いかけた。

 ◇

 日もすっかり暮れた夜のこと。ヤスカが帰って来た時に、アゼムは彼女を小屋から離れた所まで移動させ、自分の仕事の結果を報告する。
「……記憶を消すとともに、少し都合よく改編しておきました」
 如何に正しいことだと思い込んでも、記憶を消す事は取り返しがつかない。取り返しのつかない失敗を恐れながら語るアゼムの口調は文字通りの恐る恐る。
「都合よく……?」
「えぇ、その内容なんですけれどね……まず、追い剥ぎに殺されて死んだ記憶を覗き……あまりにひどかったので綺麗に消しておきました。打ち合わせ通り……それと、母親に夢の中で会ったくらいのおぼろげな記憶をですね……眠っている最中にですね、『長いお仕事に出かけてくる』……と言われたようなおぼろげな記憶を。
 あとは、一回も自己紹介していないお互いを……自己紹介し合った風に記憶を改ざんしておきました。ちょっとばかしやり過ぎちゃった気もしますが、こうでもしないと違和感が残ると思うので……
 そんな風に夢とでも、寝ぼけていたとでも解釈できるような本当におぼろげな記憶を埋め込んできました、ジュンにはもう説明してありますが……上手く本当のことを誤魔化すのはあなたたちの仕事です」
「それを上手く……出来るでしょうかね?」
「それは私の仕事ではないので……どうとも言えませんが。上手くやるしかないでしょう……そこは」
 ふぅ、と大きくため息をついてアゼムは力なく笑いかける。
「なんにせよ、子供は貴方の帰りを待っています。早く……顔を見せてあげましょう」
「そうですね」
 拭いきれない不安を抱えながらも、ヤスカは自分達の住処である小屋に戻る。外から中が見えないように下ろされたのれんを払って顔を見せると、飛び込んできた第一声はジュンの『おかえりなさい』。
「おかえりなさい……」
 弱々しくだが、追従してツムギの声が聞こえる。
「……た、ただいま」
 その変化にヤスカは戸惑った。しかし、なんとか唾を飲み込み挨拶を返して見せる。
「ヤスカおばさん……母さんはまだ帰ってこないの?」
 そして二言目には、純粋無垢な赤い瞳を向けてツムギはヤスカを見上げる。嘘を見抜く能力のような物がないダンバルならば、ヤスカの演技次第でいくらでも騙すことはできるだろう。いきなりだけれど、ここが正念場だ。
「うん、長い仕事だからね……でも、ツムギが大人になるころには……」
「……早く大人になりたいな」
 寂しそうにツムギは口にした。
「こんばんは。私も御一緒させてもらいますよっと……」
 ヤスカに続いて、アゼムも室内に入り込む。
「あ、アゼムさんこんばんは……」
「こんばんは」
 ツムギもきちんと挨拶したところで、アゼムはツムギと視線を合わせる。
「君は確かツムギ君だったかな?」
「え、あ……はい」
 記憶を改編してしまった者と顔を合わせるのは、非常に気まずい。何かボロが出てしまうんじゃないか? 自分はこの子を都合よく手籠めにしたいだけじゃないか? 損な自己嫌悪に包まれて、アゼムはやるせない。
 それが、どうしようもない悪人であればしょうがないのだが、こんな純粋無垢な子供の記憶を弄ったのだから、酷く忍びない。
「君のお母さんから頼まれたんだ……明日一日、お前と遊んでやれってさ」
「お母さんから!?」
 ツムギが大きく浮き上がる。一直線の体を磁力で浮遊させている彼の場合は体ごと身を乗り出したと言った方が正しいか。
 いきなり作り話をしてしまったアゼムは、後で説明しますから――とばかりにポチポチと腕の発光器官を光らせる。
「……一日だけだけれどね」
「そっかぁ……」
 寂しげな笑みを浮かべるアゼムと同じ声色で、ツムギは落ち込む。だが、このアゼムと言う謎の男の中に母親の欠片とでも言うべきものを感じ取ったのか。
「でも、母さんが」
 その後にポツリと出た彼の独り言はどこか嬉しそうであった。
「だから、明日はよろしく。一緒に遊びに行こう」
「うん、よろしくお願いします」
 寂しくて、壊れそうで、ガラスのように繊細そうなツムギの心。それを傷つけずにうまく嘘をつき通せたところで、第一関門は突破と言ったところだろうか。いつ嘘がばれるのかとどぎまぎしながら迎えた子供たちの就寝の時間が過ぎると、アゼムはヤスカを連れて外に出る。

「とりあえず、色々と勝手な行動すみません」
 アゼムは目をまともに見られない思いでヤスカに頭を下げる。
「いえ……なんだか、一日と経たずにこんな変化をして……もう、この時点でなんといってよいのやら……」
 ヤスカの眼からほろりと涙が滾り落ちる。
「魔術師、アゼムさんですか。貴方は私の記憶を消すことも出来るのでしょうが……一生忘れないようには出来るのでしょうか?」
「いや、それは記憶力に依ります。貴方が、一生覚えておきたいと思うのであれば……そうですね、何か病気か事故か、年でもない限りは」
「そうですか」
 ヤスカが安心したように笑顔を見せた。
「あ……」
 薄汚れた彼女の横顔が予想外に美しくて、アゼムは思わず声を上げた。
「どうしました?」
「いえ……蚊が一瞬貴方の顔に止まって……」
 一応は客である女性、しかも中年に見とれてしまったなんてアゼムは言えない。言えないから、適当にはぐらかした。
「ここは河辺ですからね、多いのですよ……匂いが無くなる前に、子供たちに虫除けの草を取ってくるように言わないと」
 適当に話題をはぐらかしてしまうと、話題が変わってしまった。どう話題を戻そうかを考えあぐねるアゼムに、ヤスカは無意識に助け船を出すのだ。
「明日からは、ツムギも草取りに参加できるでしょうか?」
 ふわりと、木綿が風に浮くようにゆったり振り向いたその顔は昼間の暗い顔とはうってかわって明るい顔だ。見上げているのは星、月は三日月程度でまだ頼りないのが残念だ。
「明日からは無理と言うことでお願いします」
 きっと、満月に照らされていれば美しそうだなんて、そう思うとこのままフラッシュで顔を照らしてみたかった。
 恐らく7か8ほど年上な彼女に対して、恋心とも下ごころともつかない感情を抱いてしまった事に赤面しながら、やっぱりアゼムは暗くてよかったと思い直す。
「そうですか……じゃあ、明後日からお仕事任せられるように、楽しませてあげてくださいね。勝手に決められちゃったけれど、貴方が遊んでくれるのなら……」
「まぁ、任せてくださいよ」
 結局、アゼムはただ働きを続けることになる。

 でも、儲けが無くたっていいじゃないか。隣のヘドロが見てくれるさ。
 異国の神のことだって決して馬鹿にしないアゼムは、祈ればどんな神にだって届くと、無邪気に信じて明日の予定を考える。何の事は無い、町はずれの社で御祈りをささげよう。
 もう会えない母親と、少しでもつながりを持たせるためにでも。

 午前中は、適当に遊んだ。元気を取り戻したことを証明するかのような鬼ごっこで、三人そろってくたくたになるまで遊びどおし、昼食は何故か奢る事になってしまった。もう、今回の仕事は赤字以外の何物でもない。
 ただ、故郷に置いてきた妹と遊べなくなって久しいアゼムは、金を払ってでもこの子達と遊べる一時には価値があったと考える。結局、隣のヘドロにいくら祈ってもホームシックだけはどうしようもなくて、その寂しさを癒せたのが唯一の黒字であった。
 昼食を食べ終えたアゼムは、朝に二人と約束した通り、隣のヘドロの祭られた社を訪れる。歩く最中はのんびりと歌でも歌いながら。子供の歌う歌らしく音程もリズムもめちゃくちゃで、一人上手く歌えている事が馬鹿らしくなる。だけれど、そんな子供らしさを取り戻してたことが嬉しくて、ジュンもアゼムも口には出さないが顔を見合わせてはにやにやと視線で会話をする。


 そうして、社にたどり着いた、
「さぁ、ツムギ。せっかく社に来たんだ……一つ祈ってみないか」
「うん……」
「一つだぞ?」
 アゼムが念を押すと、ツムギはおずおずと頷く。
「分かっているよ……」
 むすっとして、ツムギは溜め息をついた。そんなツムギの仕草を見て、ジュンの小さな手にアゼムの手が引っ張られる。それを感じて、アゼムは答える代わりに、軽く手の発光器官を光らせ微笑んで、ツムギの様子をひたすら見守る。
「隣のヘドロさん……えっと……」
 ツムギが少し考える。深呼吸を挟んで、発した言葉は――
「お母さんに、元気で居てくださいって伝えて欲しいです……」
「そっか」
 アゼムがツムギの背中を軽く叩く。
「届くよ、きっと。隣のヘドロはいつだって子供の味方さ」
 アゼムが笑顔でツムギに声をかける。
「うん……お母さん……早く会いたいな」
 記憶を消してしまったり勝手に改編してしまった事が、良かったのかどうかわからない。それでも、一晩でこうまで明るくなったのなら、多少の罪も許される気がした。
 ただ、許されるようにその後の人生を価値のあるものにするのは、家族と周りの人たちだ。周りの人たちに恵まれますように――と、改めていのっちゃアゼムは、自分が二つも願いごとをしてどうするのだと苦笑した。
 記憶を消す、改編する。その能力をどう使えばいいのか? 罪人の記憶を消して奴隷にするという、罰としての利用も確かに必要なことなのかもしれない。しかし、今まで仕事をしてきてアゼムは思う。こうやって、誰かを救う仕事に使えるのであればやはりこの能力はもっと有効利用するべきなのだと。
「私も祈るよ……ツムギ」
 母親が死んでいる事が分かっていても、きちんと空気を読みジュンはそう切り出した。
 嘘をつき続ける事がいつまで出来るだろうか、それは分からない。しかし、自分があげたチャンスを、この家族ならば活かしてくれる気がした。

 ◇

「さようなら、アゼム!!」
 大きく手を振られて、アゼムは手を振り返して手の発光器官を光らせる。
 一日限り遊んであげるという条件を、きちんと守り、アゼムは名残惜しい気持ちを抱えながらもけじめをつける。ツムギは少し駄々をこねていて、それよりも年上のジュンは、大人であることをアピールするように澄ました顔で目を逸らす。
 引き留めておきたいのがバレバレなその態度がおかしくて、アゼムは前を向くと同時に遠慮なく彼女を笑う。

 神のおぼしめしとして、ヘドロが子供に譲ったというでかい金の珠でもどこかに落ちていないかと地面を眺めるが結局そんなモノはあるはずもなく。この仕事はただ赤字だけを残して終わる。心配が次々と浮かび、まだそばにいてあげた方がいいのかどうかを考えながらの街の滞在は、まるでアゼムが悪い病気にでもかかっているかのようにそわそわしっぱなし。
 とりあえずは2週間ほどこの街に滞在するので、困った時はいつでも宿を訪ねて欲しいと言い残し、次会う時はどうか自分を恨まずにいて欲しいとアゼムは隣のヘドロに3つ目のお願いをする。
 他人へは一つしか願ってはいけないと言ったのに、自分は三つも願うだなんて贅沢ものだとアゼムは自嘲の笑みを浮かべたが、自分は親切したのだからこれくらいは許してくれよと神に頼み込んで、厚かましく願いを重ねるのはやめなかった。

「私も馬鹿だよな」
 今回は赤字だった。金は十分にあるけれど、一応暇だし金を稼がなければとその街で仕事を探している間、彼女たちの事がずっと心配で、頼まれてもいないのに様子を覗き見たいと何度も思う。しかし、街で偶然見かけたドレディアの横顔があまりにも美しかったので、結局彼はあの川縁には戻らないでもよいと判断する。

 あの家族が幸福に暮らしている姿を想像して、アゼムは次の街へと旅立った。


**忘れてしまえば楽になれる [#pef5af5e]


「どうした、食べないのか?」
「すみません……食欲がなくて」
 オドシシはやせ細っていた。美味しそうな野菜の数々が山のように積み重なっていて、草食のポケモンであればよだれが滾り落ちる光景であろう。しかし、空腹に慣れてしまった彼女の体は、満腹や腹が満たされた感覚こそ異常と思うほどに胃が病み、体はやつれ果て変貌し、毛並みも眼の色すらも醜くみすぼらしい。
 この食べ物を前にして、そんな見た目が存在するのが信じ難い。
「なぁ、君は偶像なんだ。偶像でありさえすればいいのに、それすらできなくなってしまってどうするんだ?」
「食べるのが面倒で……」
 目を伏せ、逸らしながらオドシシは言い訳をする。直後放たれるのは強烈な平手打ち。パシィンッと甲高い破裂音に、遅れてやってくる熱をともなう痛み。暴力を振るわれたのだと言うことを認識するまでに時間がかかった。
「なにが面倒な事か!! お前は私と何のために婚姻を結んだと思っているんだ……全部喰え。今度吐いたらお仕置きだからな」
 オドシシはビクリと体を震わせた。今の平手打ちよりも遥かに恐ろしいお仕置きは、全く動けない暗い部屋に長時間閉じ込められるといもの。怖くて、また吐き気がする……
 目の前のエンぺルトが睨んでいた。オドシシはまた吐き気がこみ上げた。
「私は仕事に向かう……吐くなよ」

 ◇

 9月22日

 二ヶ月かけて気ままに北へ向かったアゼムは、黒き雷神ゼクロムが祭られる街で食事をしていた。街の郊外にライムギ畑が広がるここは、豊穣の神が一柱である黒き神ゼクロムが祭られている。自在に大きさも形も帰るハンマーを片手に、それを時に鍬、時に鋤、時に鎌に変えて農耕をおこなう神で、バッフロンの引く牛車の音が雷のゴロゴロという音だと信仰されていた神である。
 神々の内でも最も力の強い神とされていた彼は、周囲に雨を降らせる力を持ち、日照りにもくじけず生き残った麦達を成長させているのだと。ライムギから作られるパンは黒く、ゼクロムを連想させる色。
 収穫の季節が来ると行商が南から黒蜜や黒ゴマを持ちより、黒パンに黒蜜と霊薬の黒ゴマを和えて食べる黒づくし料理が振る舞われる。香ばしい黒蜜に、香ばしい黒ゴマ、香ばしいパン。香ばしいづくめの香り高いその一品は、長く口の中に含んでいつまでも噛みしめて居たくなるような味だ。大酒のみのゼクロムは、それを肴にワインを樽ごとがぶ飲みする、豪快な神であるとも伝えられる。
 アゼムもご多分にもれず、それを食べた時はいつもよりも噛む回数が大幅に上がったものだ。口の中で、もごもごもごもご……ふやけたパンが口の中でドロドロになるまでやっていると、大した量でもないのに腹がいっぱいになる。食べ終えて椅子に深く腰掛けたアゼムは、満足そうに空を見上げてゲップした。

 その原料となるライ麦畑に流れる風の匂いは、甘く香ばしい草の香り。石像として街の広場に飾られたゼクロムの雄々しい姿は、威風堂々たる威厳が石像からも伝わってくる完成度。貧しい私の集落にも、日照りの時くらいは出張して雨を降らせてくだされば幸いです……と、祈りを込めたアゼムは、畑の端っこに座って残暑の過ぎた秋の風を堪能する。
 鼻に心地よいライ麦の香りの混じる風。そよ吹く風の前には、魂まで吹き飛ばされて空を舞うような心地よい浮遊感。夏の暑さが和らいだおかげで寒くも熱くもない今の気候は、冬へ備えるための準備期間。太るためにもこってりした油たっぷりの木の実や歯ごたえのあるパンを沢山食べなければいけない季節だ。夏バテも収まって来ると急に食欲もわいてくるもので、特に今の季節は黒尽くしパンの最盛期。
 収穫を終えて干されたライ麦畑に寝転り、突き抜けるほど高い空を見上げているだけで腹が減る。神、ユクシーの居ない場所でする事になってしまうが、冬の沐浴の修行をするために、今のうちから太っておこうかなどと、アゼムは腹に意識を向ける。
 まだ、腹は減っていないけれど、街の中心部の美味しいお店が集まるところを回っているうちに腹も減るだろう。そんな呑気な考えが出来るくらいには増えた蓄えを手に、よっこらせっとアゼムは立ち上がる。
 細く長くゆっくりと溜め息をついてゆっくり伸びをする。本当に気持ちい。
 こんな日は愉快な仕事でもうけられればいいなと、深呼吸してからアゼムは街の中心部へと向かう。どこかに助けを求めている、困っている者がいないか、ピピピとくる人物を探す事は忘れないが、仕事をする気分でもないからどちらかと言うと見つかって欲しくないなんて怠惰な欲求を持ちながらの散策。
 しばらくはゆっくりとしたい気分なのだ。

 しかし、出物腫れ物所嫌わずとはよく言ったもの。きっちりとピピピと反応してしまう彼のテレパシーが捉えたのは、庶民が利用するような手ごろな値段の食堂で大量の野菜を前にいやいやそれを口に運んでいる女性。草食のポケモンのことはよくわからないが、色鮮やかな野菜の数々は食欲をそそりそうなものだ。何よりも香りが良くて、こちらまで微かに漂ってくるそれは思わず鼻を動かしてしまうほど。
 香りの好みと言うのは誰でもあると思うから、苦手な香りだと言うのなら仕方がないが。
「それにしても大量だな……その割には痩せている。病気か……?」
 店の外から覗ける光景を見てアゼムはポツリと独り言。病的な見た目は、言うなれば骨と皮だけしかないようなみすぼらしさ。毛並みも、十年使い古した毛皮のコートのようである。加えてよくよく見てみれば、こんなお手頃値段のお店に来るような身なりではなく、首飾りなどは如何にも高価そうな代物だ。

 どうやら彼女は対面しているエンぺルトの男とトラブルらしきものを抱えているらしい。前方をチラチラと伺いながら食べる姿は、どうにも食事を楽しんでいる様子はかけらもない。
「少し気になるな……」
 なんだか不機嫌そうな二人を見ていると、トラブルに巻き込まれそうな気がしたが――いつものようにアゼムは話しかけてみようかと思う。大丈夫、どうせこの街は教会の影響が薄い。お偉いさんなら利用できる者は何でも利用できるだろう。
 とは言え、話しかけるタイミングが難しい。店を出てからにするか、それとも店の中で話しかけるべきか。そうやって考えているうちに、男の方が去ってくれた。
「お……都合がいい」
 トラブルを抱えているのはどちらかと言えば女性の方だ。なにがどうなっているのかよくわからないが、食べられないことが問題であのやせ細った体になっているのが気に食わない。だから大量に食えと強要している。アゼムに声は聞こえなかったが、喧嘩の風景を見た感じでは大体そんなモノだと解釈した。
 足早に退散(ぺたぺたと可愛らしい足取りでしかも遅いが)していたことから、エンぺルトは急いでいるのだろう、あの様子じゃ戻ってこないかもしれない。
「さて、と……」
 アゼムは店に入る。店の外で料理の値段を見る限りでは特に財布が寂しくなる心配もなさそうだ。彼女が食べるペースはゆっくりだから、話しかけるチャンスはいくらでもあるはずだ。
 とりあえず、定番の黒尽くしパンと、つけあわせのソラマメと鶏肉のスープを頼み終えると、アゼムは斜め向かいに座るオドシシの女性に話しかける。
「たくさん食べますね? 冬に備えての準備ですか?」
 アゼムはにこやかに。親しみやすいよう心掛けた声色で話しかけた。
「いえ、そう言うわけではないんですけれど……でも、太ろうとしているのは……確かですね」
 かろうじて社交辞令の笑みを浮かべながらオドシシは語る。
「でも、私食欲が全然なくって……それに無理して食べると吐いちゃうんです」
 もう彼女の顔に笑顔はなかった。意気消沈して溜め息をつく彼女の顔は死人か幽霊でも見ているかのよう。近くで見るとその酷さが際立つ。

「なるほど……」
 と、話しかけてみたはいい物の、食べられないなんて悩みをどうすればいいのやら。
「この体も、この頭も、もう食べる事が嫌になっちゃったみたいなんです……どうすればいいのでしょうかね」
 萎れた花のような声で彼女は愚痴をこぼす。
「体も、頭もですか……」
「ええ、最近は食べると胃の中に違和感がでて……それに、食べないと酷い目に会うって思うと、また食べられなくなっちゃうんです」
 そう言って語る彼女は虚ろな目をしていた。焦点があっていない。まるで、本当に死人のような何処を見ているかも分からない目だ。
「よかったら食べませんか? 旦那には内緒で……お口に合うかどうかはわからないのですが……」
「……それは構いませんが、自分が食べられるようになりたいとは思わないのですか?」
「なれるものなら。昔は出来ていたんですけれどね」
 自嘲気味にオドシシが笑う。
「……私なら、出来るかもしれません」
 真面目な顔をしてアゼムは硬貨を取り出す。そう、いつもと同じ記憶を消す能力の証明の儀式である。彼女は、自分の記憶力に相当自信がないのだろう(栄養不足のおかげでいつもぼーっとしているせいだろうか?)、そのためか10回やってようやく信じてくれた。
「私は、&ruby(ゼム){記憶を消すもの};。記憶を消す能力の持ち主なのです……その能力を使って、貴方の心の重みさえなくせば体はともかく、心の方は……」
「治せると……」
「忘れられると言った方が正しいです……が。しかし、具体的にお仕置きと言うのはどういう……」
「殴られます。あと、首を絞められます……」
「そりゃまた……」
 厳しいな、とアゼムは顔をしかめる。
「元々、一度食べた物を吐き戻すのは生理現象((反芻のこと。蹄の数が偶数のポケモンはそうである事が多い))なのですが……私の場合は、そのまま出しちゃうんです。……ダメな人ですよね」
「しかし、どうしてそんな風になってしまったので?」
「私、庶民の出なんですよ」

「はぁ……」
「でも、あのエンぺルトは私の事が美しくて見染めただなんだと言って……家族と共に小作人をしている私に求婚してきました。彼は、何人も従者がいるし、お金もあるから……家事も収入も私には求めていないのです……ただ、その美しさを自慢し、貪れればいいのでしょう……食事会の時も、私は部屋の隅で笑顔を振りまいていればいいって……」
「女の気持ちはわからんが……私だったらそんな男に尽くしたくは無いなぁ」
 アゼムは胸糞悪い気分で彼女の夫の態度を吐き捨てる。
「夫の結納金が……家族のためを思うとどうしても魅力的だったので。なので私は求婚を受け入れました。それで、礼儀作法やらなんやらを叩きこまれたのですが……反芻はするなって言われちゃって」
「はぁ!? 反芻って……アレだよな。角の生えた蹄のあるポケモンが胃袋にあった物を一度吐いて……」
 もう取り繕うこともできずにアゼムは驚きを口にする。
「えぇ……一度口の中に戻して、空気を含ませてまた飲みこむ……行為です」
「それがだめってー……つまりどういう事?」
「言葉通りです。美しくないからって……それで、食べるのが面倒になっちゃって」
「大変だなってレベルじゃないですよそれ……? そんなの、魚とかを丸飲みするエンぺルトによく噛んで食べなさいっていうような物じゃ……」
「今はもう、反芻も許してもらってます。でも、食べたくないって思い始めた体の方はどうしようもないようで……彼にとっては私、道具と同じなんだなって思うとやるせなくって……食べる気が起きないんです。反抗心なんでしょうかね?」
 自嘲気味にオドシシが口にすると、アゼムは言葉を失って黙りこむ。
「分かりました……しかし、貴方は食事を食べられるようになったらそれで満足なのですか?」
「家族が養えるなら」
「……そうですか。なんとか消す記憶を選んでみたいと思いますので、少し考える時間を下さい」
「構いませんよ……食べるのには時間がかかりますから」
「それと、私のこれは商売ですので、報酬のお話を……」
「金貨一枚と銀貨が少々持ち合わせておりますが……」
「いや、それで十分ですから」
 アゼムは苦笑して、消す記憶を選ぶべく彼女の記憶を探る。迷宮を探索する夢の中にいるような感覚、なんだか覗いてしまってはいけないものの一つや二つありそうな気がした。そう言う記憶は鍵付きのドアと言ったところか、開けるのが難しく、あまり表には出されない。
 彼女の心のドアにそっと触れる。ドアノブがあるわけでもないし、木枠や鉄枠なども存在しない。雲のような、泥のような、そんなふわふわのドア。ドアが開く時もパカッと開くものではなく、布に穴が広がるように開いて行く。
 そうして垣間見える記憶の断片。今、彼女が無防備に晒している記憶は、やはりお仕置きの内容。中にはとても口に出来ない性的虐待も含まれており、片手間に食べている料理を危うく吹き出してしまう所だった。アゼムは現実世界で顔が赤くなりそうになるのをこらえて、慌てて記憶の扉を閉め、気を取り直して他の記憶も探る。
 やっぱり扱いが酷い。だからと言って、あのエンぺルトと彼女を引き剥がし、彼女を救った気分になっても家族の問題があるだろう。
「食べさせる……だけが、彼女に対する仕事か」
 釈然としないが、とにかく食べてもらわなければそれ以上のことも考えられまい。反芻が醜いと言っていたらしいエンぺルトもすでにその部分は反省しているらしいし、精神的な面だけでも改善されればなんとかなるかもしれない。
 それで夫婦関係が上手くいくのかという問題はあったが、込み入った事情を考えれば勝手な真似は慎んだほうがよかろう。この子は、あの時のダンバルのような子供ではないから、込み入った事情が多すぎる。

 とりあえず、アゼムは何の宣言も無しにお仕置きとやらの記憶を抜き取った。すると、記憶を消しているうちに少しだけ変化があったような気がしないでもない。このまま、上手くいってくれればいいのだが。
 そのアゼムの心配をよそに、彼女は普通に全部食べきった。なんだ、簡単じゃないかと思う暇もあればこそ。
「どうですか?」
 アゼムが食事を終えたオドシシに声をかける、
「どうですか? と言うのは……?」
「貴方から、お仕置きとやらお記憶を消してみたのですが……これ、消してみた記憶の目次です。消した記憶の状況を詳しくメモしておいたので、忘れてはいけなそうなものがあるかもしれないのでそれが怖くなった時は御確認を……文字は読めますか?」

「え、えぇ……」
 アゼムが差し出したそのメモを手にとって、オドシシは考える。
「お仕置きの内容が……確かに、全然思いだせません。なんだか、ここに書いてある事が遠い世界のことのような心境で……」
 アゼムの書いたメモを読みながら、オドシシはわけがわからないと言った風に語る。
「そういえば、胸のつかえが少し無くなったような……以前よりもすらすらと食べていけたような気がします。ですが……なんかにわかには信じ難いですね……ありもしないことをでっちあげているだけのようにすら思えます」
「そ、そう言われると辛いなぁ……こっちだって商売なのに」
 そう言われると、記憶を消した証拠などというものは存在しないのが辛い所。この仕事は何回もやってきたが、本人の記憶を消すなんて事は初めてだから、それだけにいつもとは勝手が違うのだ。
「ふふ、分かっていますよ。お金を払わないなら……と、腹いせに私の大切な記憶まで消されたらたまったものじゃないですからね。持ち合わせだけですみませんが……」
 言いながら、彼女は念動力を駆使して財布を漁る。じゃらりという硬貨の擦れる音は、安っぽい軽い金属のそれではなく重い金属のそれ。やがて出て来たのは、ソラマメほどの金の塊。大銀貨20枚分が相場の、一枚で一ヶ月暮らせる庶民にはまず用の無い硬貨である。
「これで……」
「あ、あのー……これ、もらい過ぎです」
 ずっしりとした重みを受け止めて、アゼムは戸惑う
「それなら、それでちょうどいいです……いや、その……まだ、心配なんです。今は食べられたけれど……お仕置きを忘れられたけれど……彼の前で反芻した時の彼の反応が……メモで見る限りではすごく怖くって……
 私が、このまま食事を食べられるようになったとして……私はあの夫と上手くやっていけるのかどうか……その時は……その……いや、その時もきちんとお金を払いますけれど……」
「つまり……追加の仕事を頼むかもしれないと?」
「そう言う事です」
 曖昧な言葉しか浮かばないオドシシの言葉を先取りしたアゼムの言葉に、オドシシは相槌を打つ。
「分かりました……あの、では……その。いままで互いに名前を聞くことも無しに会話していましたので、自己紹介でもしあいませんか?」
「私の名前は、リシア……よろしくお願いします」
「私の名前はアゼム=アクシェと申します。よろしくお願いします」
「よろしく、魔術師さん」
 やせ細った顔に柔和な笑みを浮かべてリシアは言った。

 ◇

「それでは……私はこの宿にしばらく……2週間ほど滞在して居ますので……何かあったらここに言伝でも何でもお願いします」
 アゼムがそう告げて別れた1週間と3日後のことだ。

「あの、アゼムさん……よろしいでしょうか?」
 案の定、彼女は新たなトラブルを抱えていた。この1週間では無理だったのであろうか、リシアの毛並みも骨ばったあばら骨も何ら変わっていない。
「……何があったのですか?」
 アゼムは人目を気にして路地裏まで彼女を誘い、秘密の話を始める。
「今度は……一人でなら食べるようにはなれたのですが、夫と一緒に食事をしようとすると……吐いちゃって」
「それ、もう別れた方がいいんじゃないですか?」
「夫とその従者と親の十数人くらいの記憶を消すことくらいなら出来ますか……?」
「いや、それは……」
 自分は記憶を改編したり消したりすることは出来る。しかし、その能力には限界だってある。人数が多すぎるとどうにもならない。
「ですよね……それで思ったんです。私が吐いてしまう理由」
 虚ろな目をしたまま、リシアは語る。見染められる前の恋人はとても優しく自分を気遣ってくれたのだと。しかし、今の夫の性癖は、お仕置きを抜きにしても暴力的で嗜虐的。それを思い出すと、食べ物が喉を通らないのだと。
「だからといって、忘れてもまた思い出すようじゃどうあっても意味がないぞ? そんなの、無限連鎖だ……そりゃもう夫にその性癖をどうにかしてもらうしか……」
「そんなことしたら……私は捨てられて家族も路頭に迷いますっ!!」
 こんなのっぴきならない事情があるのだ。どうしようもないのか。
「ならば……その性癖に関すると言うか……もう性交に関する全ての記憶を奪ってしまおうか……」
「出来るのですか?」
 自問自答する前に尋ねられて、アゼムは考える。
「いや、済まない、無理だ……消す記憶が大きすぎると他の記憶も巻き込んで消しかねない。罪人の記憶を消す時はそれで十分なのだが、もしそれで一般人の記憶を消したら……その人の人格そのものが失われかねない。ゴマがたっぷり練り込まれたパンから、ゴマだけを抜き出す事なんて不可能なんだ。そんなことしたらパンの生地も、他の具もごっそりと抜き取ってしまう。
 その性癖がごく最近身についたものだと言うのならともかくとして……何年も前からの記憶であったら……無理なんだ。別に、&ruby(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ){対象がどうなっても良いような存在};ならば、それでも構わないのだけれど……
 例え愛して居なくとも、夫がそんな変な状態になったら大問題だろ?」
 アゼムの問いかけに、リシアはおずおずと頷いた。
「なら……」
「なんだ?」
 沈黙。
「いや、なんだ……どうしたんだ?」
「私は、多分別れた恋人の事があるからダメなんだと思います……だから、私の記憶を消せば……」
「さっきの説明聞いてませんでしたか? その、見染められる前に付き合っていたって言うキリンリキとどれだけの期間付き合っていたのですか? 貴方の大切な者の記憶ですよ? 忘れてしまったら寂しい云々どころの騒ぎじゃない……最悪、貴方という人格そのものが死んでしまいます」
「だって、夫くらいの酷さの性癖の人なんて世の中にあふれているっていいますし……それなのに、私だけがここまで食事を受け付けなくなるって変じゃないですか……私が、きっといけないのです」
「その性癖が世の中にあふれているって……そんなの誰が言うんだ……」
「私の夫が……」
「貴方の夫がですか? それはちょっと……信憑性にかけるんじゃないか?」
 アゼムの問いに、リシアは答えられなかった。
「恋人を忘れられれば吐かなくなるのですか? 果たして……それで済む話なのですか?」
「わかり……ません」
「じゃあ、何か方法を見つけるべきだ……もっと考えるべきです」
 必死で諭した。アゼムは必死で諭そうとしたのだが――
「私には、貴方しか頼れる者が……」
 そんなの、友人か何かに相談した方がいいこともあるだろうと、今更ながらにアゼムは思う。
「でも……そんなのダメだ。私はこんな形で頼って欲しくない……」
「夫は、私を動く人形程度の認識しかしてません……だから私に見張りや護衛の一つもつけないのです……でも、それでも私が食事を食べて美しかった頃に戻れば……それで私の家族の生活が保証できるのなら……」
「あの……違約金込みでお金は返します。ですから、もう少し冷静にお考えなってください……私も、ちょっと頭を冷やしますので……記憶を消すにしても、もう少し慎重に……」
「そんなの待てません!!」
 アゼムは歯を食いしばる。どう考えても正常な思考が出来ていない彼女には、もう何を言っても無駄なのだろう。もうアゼムもやけくそになって声を張り上げる。
「知らないぞ、私は!! 私はあと三日でこの街を去る。その後、なにがあっても知らないからな!!」
 そう言ってアゼムはリシアを突き放した。そして、見染められる前に付き合っていたキリンリキの記憶を消し去り、&ruby(ゼム){記憶を消す者};の記憶を全うすると、今度は自分の種族の記憶を改編した。
 今、彼女の記憶の中では魔術師の名前はシゼル。その種族は、オーベムではなくトロピウス。こんな北の方にはめったに訪れない熱帯のポケモンだ。よもや名も知らないトロピウスが間違って話しかけられる事もないだろう。


 アゼムは嘘をついて更に一週間その宿屋を予約した。本来旅立つ日であった三日目に彼女は宿屋に訪れて、トロピウスを探していた。記憶を改編された彼女はアゼムには気づくことが出来ず、彼女は絶望していた。
「もう知らないと言ったのに……やっぱりあの子はまた来ちゃうのか」
 結局、アゼムは彼女を救う事は出来なかったし、しなかった。もしかしたら、彼女も救われる気がなかったのかもしれない。旅立つと宣言した日から三日が過ぎても、もしかしたらアゼムがいるんじゃないかと、彼女はその宿屋の周りを探している。そんな彼女の姿を見ながら、その街で最後に食べた黒尽くしパンは、味が全く分からなかった。

[[火消し屋・下]]



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