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溺愛 の変更点


注意:この小説には流血・暴力的表現が含まれます。

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Writer:[[赤猫もよよ]]

『溺愛』


 ザングースが目を覚ました時、最初に感じたのは下半身に蠢く鈍痛だった。
 ぼやけていた視界が、体を這い回る重い寒気と痛みによって一気に覚醒する。閉じていた口が無意識の内に微かに開き、口腔内から銀色の泡が漏れ出した。
 ――水中だ。 
 見渡す限りの暗澹。上方から仄かに差し込む月光の柱と牙を剥く鋭利な岩群の他に、目につくものは存在しない。ただ、打ち捨てられた寂しさと揺蕩う冷たさだけが、そこらじゅうに転がっていた。
 ――どうしてぼくが、ここに。
 投げ出された現状は、いまだに信じられるものではない。背の低い木がある丘で暮らしていた筈の自分が、どうして深い海の底で目を覚ましたのだろうか。
 疑問符は浮かび続ける。だが何かを思い出そうとする度に、背筋に氷刃を突き刺されたような悪寒がして、結局実になるものはなかった。“思い出してはいけない”と警告されているようで薄気味が悪い。
 覚醒したばかりの頭は重く、まだ意識は覚束なかった。故に、ザングースが反射的に口を手で覆えたのは幸運だっただろう。もし水を飲んでしまっていたら、その先に待ち受けるのは酸欠による死だけになっていた筈だ。一瞬脳裏を過ぎった想像に、四肢から血の気が引いていくのがはっきりと感じられる。体が凍るような感触は、ただ単に水温の冷たさだけが影響している訳ではないようだ。
 死と隣り合わせの水中。当然、陸に住むザングースが生命を維持できるはずはなく、このままではやがて息絶えてしまうだろうと直感が告げる。今までに感じた事のない“死の恐怖”に、心臓が怯えに似た色の早鐘を打ちつつあった。
 ごろごろと唸る水音はもう、死地に投げ出された哀れな獣を嘲笑う怪物の鳴動のようにしか聞こえない。
 透き通った群青色の世界はもう、かつて飲み込まれかけた大蛇の体内としか思えない。
 早くも、小さな猫鼬の心は折れかけていた。
 叫ぼうにも、冷水が口を塞いでいた。泣こうにも、恐怖が心を締め付けていた。

 しかし、絶頂に達した恐怖の中で、ザングースはある事実を思い出した。
 自分が、少しだけ水を得意としていたことだ。
 勿論、水に住み水と生きることを本業とする、所謂みずタイプの面々には叶わない。
 しかし、幼い頃から水と触れ合ってきた彼は、他の同種族と比べ何倍もの肺活量を誇っているし、泳法にもそれなりに長けている。先程は突然投げ出された状況に反応が追い付かず溺れかけてしまったが、落ち着いてさえいれば大体の事態には対処出来る程度の経験値は持っていた。
 試しに腕を突き出して、水を掻いてみる。緩やかな加速感に似た感触のあと、体が少し浮き上がった。鈍痛が邪魔して足を動かすことは出来なかったのが少しばかり残念ではあったが、確かに泳ぐことができたのだ。
 心に巣食っていた絶望の暗雲に、ほんの少しだけ光が射し込む。水面まではまだ遠かったが、それでも確かに近づいていたのだ。抗うことができたのだ。
 ザングースは喜んだ。少しだけ息苦しいけれど、息の限界までにはまだ余裕がある。このまま上手くいけば、死んでしまう前に水面に上がれるのではないかと考えた。このまま何事もなければ、自分は助かるのだと。
 なるべく泡が漏れない様に気を付けながら、ザングースは愚直に手を動かし続ける。いつもは頼れる己の鋭爪は、今日に限っては邪魔だった。水流を掻き回し、体を揺さぶってしまうからだ。平衡感覚が乱れ、胸を圧迫する息苦しさも相まって、何度か嘔吐しそうにもなった。体内に留まる酸素が薄れたからか、激しい頭痛が集中力を乱そうと襲いかかってきたりもした。
 並行して、下半身に走る鈍痛も鳴りを増していく。我慢の限界は瞬く間に訪れ、遂にザングースは動きを止めた。
 左足を、細く尖った氷針が貫通していたのだ。骨折程度だと思っていたのに、予想以上の現象に驚愕の息を漏らしてしまう。氷の冷たさが痛覚を麻痺させていたから、今まで気付けなかったのだ。
 産まれてきたのは、憤りの感情。この氷針は間違いなく“技”であり、それは即ち、自分をこの状況に追い込んだ何者かがいるということなのだった。
 ――ふざけるな。
 屈辱だった。突然投げ出された世界に怯え、死の恐怖に屈するのも、それをどこかで嘲笑う存在がいることも、全部。
 怒り。固く食いしばる歯の隙間から、一つまた一つと銀の雫が漏れ出していく。呼気の減少が目に見える形で告げられるというのは、己の限界までをまざまざと見せつけられているようで辛いものがあった。憔悴と窒息の恐怖に、苦しい胸が再び早鐘を刻み始めてしまう。意思に反して体が怯えきっていたのが、悔しくてたまらなかった。
 さっきより少しだけ明るくなった世界は、相変わらずよそ者に冷たい。動くもの、生き物は一切おらず、ただ静寂の合間を縫って轟く水音だけが脳裏に響き渡るのみ。
 何度も泣きそうになった。
 何度も投げ出しそうになった。
 それでも、ザングースは挫けない。自分をこの状況に追い込んだ黒幕に爪を浴びせなければ、死んでも死にきれないと思ったのだ。同族より少しだけ柔らかい双眸に、漆黒の決意の炎が宿り始める。
 しかし、覚醒から決断までの短い時間の中でも、冷水は刻一刻とザングースの身体を蝕み始めていた。白銀の毛並は水を吸ったことで重くなり、足が使えない今唯一の推進力である両腕から体力を奪っていく。ふくよかな身体は、長い時間冷水に浸かっていることで氷のように固まり始めている。指の先端や耳の先などは、もう既に感覚が失われていた。
 それから、少し時間が経った。狭まった視界に映る世界の色は、静かな群青から鮮やかな水色に変わっている。泣き叫び発狂しそうになる気持ちを抑えながら、ザングースは気だるさと疲労を感じつつある両腕で水を掻き続けていた。既に顔からは感情が消え去り、螺子の狂った人形のように同じ動作を繰り返すのみとなっていた。じりじりと冷気が骨の髄まで染み込んできて、確かな決意を持ったザングースの意識を遠のかせていく。抗いがたい睡眠欲求が、体の動きを鈍らせていた。
 幾度となく舌を噛むも、口内が血まみれになるだけで大した効果は得られなかった。痛みすらも睡眠欲に飲まれ、意識が薄ら白く染まっていく。もはや自分のことすら見えていない。手は動いているのか。それとも止まっているのか。自分は水面に向かえているのか。上は、下は、空は、ぼくの帰る場所は、どこに。


 ――ふと、歌が聞こえた。
 意識が途絶える刹那、白く膨張していく脳に楽しげな音階が刻まれる。鈴の実の音色を繋ぎ合わせたものよりずっと美しく冷たく、耳に透き通る心地よさはまるで、気力と活力に満ちた行進曲のようでも、追悼の涙を滑らせる鎮魂歌のようでもある。 その歌は、確かに聴き覚えがあった。どこで聴いたのか、いつ聴いたのかは思い出せないが、この旋律の流れはしっかりと覚えている。
 意識を仄暗い海中に引きずり込もうとする手を振り払い、張り詰めた記憶の糸をたどっていく。どこだ、どこで聴いたんだ。誰がこの唄を唄っていたんだ。くそう、思い出せ、早く、早く、意識が消えてしまう前に!
 逸る気持ちに比例して、漏れ出した酸素の真珠は遥か彼方へ吸い込まれていく。水泡の色に染まっていく視界の中に、艶々しい水色の獣の影が映る。
 ラプラス。
 そうだ、確かそういう名前だったはずだ。どれ位前に出会ったのかも分からないほど、遠い日からの友だちの名前。姿も形も住むところも違ったけれど、はみ出し者の変人同士波長が合って、何だかんだでいつも一緒にいたあいつの顔がどうして今浮かぶんだ。どうして。どうして――
 そしてザングースは、怖くなった。今ここで死んでしまったら、もうあいつに会えない。あいつと泳ぐことも歌うことも、笑うことも出来ない。ぼくが居なくなったら、あいつは独りぼっちになってしまう。
 そんなのいやだ。生きるんだ。こんな冷たい水の中で、諦めてたまるもんか――!
 決意。消えかけていた漆黒の炎が、再び御旗を上げ始める。赤黒く染まった左足に突き刺さる氷針を握り締めて、思い切り引き抜いた。
「―――――――ッ!!!」
 傷口からどす黒い血が吹き出し、麻痺していた頭が一気に冴える。
 極冷水に浸かっている筈なのに、体中のありとあらゆるところが焼けるように痛い。神経細胞の一つ一つを焼けた針で突き潰されているのではと錯覚するほどの激痛に、息を漏らすまいと噛み締めた歯ががちがちと震えだす。
 指先が痺れ、加速の臨界点を超えた心臓が刺すような痛みに襲われた。脱力、弛緩した四肢から冷たい海へと生温い液体が広がっていく。始めて感じた微かな温もりに少しだけ惨めな気持ちになりながら、はっきりと冴えた意識を身体の中に押し込んだ。
 ――まだ行ける。
 ザングースの心はもう砕けない。足からの出血は止まらず、刻む心音は酷く弱弱しく成り果てていたが、ただ一心不乱に、何かに憑りつかれたかのように黙々と冷水を掻き進む手は止まらない。血走った瞳には殺意に似た強い感情が宿り、醜くも美しい生への渇望はそのまま全て力へと変わる。肉体も精神も思考も本能すらも最早、今を生き抜くことしか考えていない。もうそれしか考えられない。
 段々と近くなっていく水面。いつの間にか世界は朝焼けを迎え、上方から煌々と差し込む柔い光の柱がザングースの弱り切った身体を暖める。どこからかさざめく波の音は、絶望の淵より這い上がってきた獣を祝福する音色のようで、自然と指先に力が籠った。
 そしてついに、掻き進む手が水面に触れる。最後の力を振り絞って水泡を吐き絞り、這い上がるように体を持ち上げた!
 浮上一番。餓えた獣は空一杯に広がる酸素に貪りついた。口の端から涎が垂れるのも気にせずに、知性を感じさせない醜悪な面持ちでただひたすらに喘ぎ続ける。急に機能し始めた心臓が忙しなく動き回り、その度に締め付けられるような痛みに襲われても、なお貪欲に空気を食み続けた。
 ぼくは、生きてる。胸一杯の感動を抱きしめるように、明け方の空を仰いで大きく息を吸い、吐いた。冷たくて暖かい風が肺の中に吹き込まれ、湧き上がるのは歓喜の奔流。ああ、とうとうぼくは成し遂げたんだ!

 しかし、無垢な獣の顔は直ぐに曇り始める。辺りを見回しても、近くにはおろか水平線上にさえ陸地は見えない。ただ、穏やかな海面がどこまでも広がっていた。
 どう考えても、ここは沖だ。仮に進む方向が陸地に向かっていたとしても、今のぼくに残された力では到底泳ぎ切ることなんて出来ないだろう。増してや、その道が正解かどうかすらも分からないのに進むのは、土台無理な話だ。
 胸に広がっていくどす黒い絶望に呼応して、麻痺していた左足がまた痛み始める。
 いや、左足だけではない。水に浸かっている箇所が無造作に痛む。咬まれた時のような、肉に食い込んでくる疼痛が、雷撃のように体中を走り回った。
 ――まさか、血の匂いに。
 いくつもの小さな力に引っ張られ、ザングースの身体は息を吸う暇もなく海中へと堕ちていく。やはり血の匂いに釣られて来たのか、数匹の小さなキバニアが肢体に牙を食い込ませていた。
 慌てて爪を振るい体を捩るも、キバニアの群れは離れる素振りすら見せない。暴れた事で突き立てられた鋭牙がさらに深く食い込み、氷針に穿たれた左足のことすら忘れてしまうほどの激痛に一瞬意識が遠くなってはまた引き戻される。この不条理なサイクルは、自分が息絶えるその瞬間まで永遠に繰り返されるのだろう。
 大暴れしたことでさらに多量の酸素を失い、急激に酸欠状態に陥った。鳴りを潜めてい心臓が急に酸素を求め始め、ドクドクと刻まれる鼓動が脳裏を憔悴の色に染め上げていく。ほんの少しでも体を持ち上げられたならこの苦しさから解放されるのに、体内に埋め込まれた牙によって磔にされた身体は指一本動かない。冷たい色の絶望と恐怖に、頭の奥がほんのりと熱くなったが不思議と涙は出ない。低体温とおびただしい量の出血で、体組織はほとんど活動を停止していたのだ。意識が途絶えるのも時間の問題だろう。それを嬉しく思ってしまうのが、少しだけ辛かった。
 水面に浮かぶ友だちの顔が、寂しそうに綻ぶ。多分もう二度と会えないだろう友だちは、もしかして最期のお別れに来てくれたのかもしれない。冷たい音色の鎮魂歌が静かに響き渡ったから、ぐちゃぐちゃに凝り固まった感情の中、段々どんな顔をすればいいのか分からなくなって、じゃあ、とりあえず、笑うことにしてみようかなんて思ったりもした。

 その瞬間、幻影の裂帛。ぐわりと開かれた口から無数の細い氷針が放たれキバニアの胴体を的確に貫いていく。雨のように降り注ぐ氷の刃は綺麗にザングースの身体を避け、いつしかキバニアは忽然と姿を消していた。
 千切れそうになる意識を食い止め、ザングースは必死に手を伸ばす。沢山の牙穴が開いた肉体は傍から見ても痛々しく、どう考えても意識を保っていられるとは思えない。今のザングースを操っていたのは、小さな意地と大切な友人の存在のみだった。
 飴玉を転がしたような音色と共に、ラプラスがゆっくりとこちらへ迫ってくる。徐々にホワイトアウトしていく世界。しかし、ザングースに恐怖はない。あるのは安堵だけだ。何度も何度も絶望へ呑み込もうとしてきたこの感触は、今はとても心地よいもの。
 痛みと苦しみ、そして暖かな希望。そんなすべてが、白になる瞬間――



 ――&ruby(ラプラス){友だち};が笑った、ような気がした。

■

 水平面上に広がる海を、水色の箱舟は緩やかに進んでいく。背中に乗るザングースは衰弱しきっていたが、恐らく陸地に上げて介抱してやれば死にはしないだろう。死ぬ間際の絶望しきった顔も見てみたかったが、まだ見ていない表情ばかり、コレクションを埋めるまでは殺しはしないだろう。勿体なくて出来やしない。
 しかし。とラプラスは思いを馳せる。脳裏に焼き付いたザングースの様々な表情は、どれを取っても素晴らしいものだった。
 突然水中に投げ出された時の困惑。
 水中で命の危機を感じた時の恐怖。
 何者かに沈められたと気付いた時の憤怒。
 失禁という事実への羞恥。
 獣のように息を貪る醜さ。
 再び水中に飲まれた時の絶望。
 そして、自分が助けに来た時の安堵。
 
 その全てが愛おしくて、堪らなかった。歪で醜悪な溺愛の形だと知っていてもラプラスは気にしない。愚直に自分を友だと信じ続けるザングースを、殺したいぐらいに愛していて、ザングースも自分を盲目的に愛していると解っていたのだから。
 ――次はどうしてあげようか。
 ――そうだ、水に突き落としたのが私だと気付いたら、どんな顔になるだろう。

 背中で眠るザングースに優しい笑みを投げかけて、ラプラスは陸地へと進んでいく。この子が目を覚ました時、最初に感じるのはどんな感情なのだろう。




 静寂の海に響き渡る、溺れるほどに深い愛の音色。

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