来、来、来―― それが、げきりんの湖の不協和音であった。 頭の中に鳴り止まぬその音を知ってからというもの、ギャラドスの生涯は以前よりつまらなくなった。ギャラドスは泣いていた。理性なきギャラドスは涙を流さない。しかし少なくとも、破壊衝動を垂れ流しながら、ギャラドスはうぉうぉと声をあげていた。 最低の日々であった。 考えてみれば、楽しかった思い出などギャラドスは思い浮かばない。強いて言えば、惨めったらしいコオリッポを見ることは楽しかった。ギャラドスがそんなことを言えば、コオリッポはたちまち冷気の渦を巻き起こしたものだったが。 ――もっと楽しいことを考えて生きた方がいいんじゃない。 コオリッポが言い、ギャラドスは言った。 ――だったらいい考えがある。おまえ、おれと一緒にそこらじゅうをぜんぶ氷漬けにして回るんだよ。 ――氷漬けって、じゃあきみは何をするのさ? ――おれはおれのムカつくことをぜんぶ思い出しておまえにぶちまける。 ――最低。 概算された日々は、いつの時も雪だった。白く染まるワイルドエリア。染みつき、消えることのない美しき冬。 足りず、枯れず、鳴り止まぬ過去。 それが、げきりんの湖の不協和音であった。 来、来、来―― 大それた理性のないギャラドスは、己の凶暴さに仕えることに率直であった。 ギャラドスがまだコイキングだった頃、塵芥の如く存在を軽んじられたのは力がなかったためである。力なき命。湖の隅へこそこそと逃げ隠れるより他がなかった。 しかし現実は突如として手のひらを返す。ギャラドスがギャラドスとして誕生して知ったのは暴力への衝動であり、それは全てを解決した。小賢しい口を塞ぎ、嗅ぎ回る鼻面を砕く。それは自分を中心に世界を回すための、あまりに全的な力であった。 従って、力に対するギャラドスの執着は尋常ではなく、その単純明快さに忠実であり続けた。強者の傲慢を許すのは、弱者の力の足りなさである。現実が弱者を考慮しないことを、コイキングであったギャラドスは理解していた。そうして生きた末に獲得した力を、ギャラドスは縦横無尽に行使する。少なくとも、げきりんの湖で生きる限り誰もギャラドスの傲慢に枷を嵌めなかった――コオリッポと出会うまでは。 湖のほとりでぼんやりとしていたコオリッポは、ギャラドスの目にはいかにも隙だらけと見えてた。頭でっかちでのろまそうなその姿。格好の獲物を見逃すギャラドスではない。この湖で、このおれの縄張りで不用心な態度でいる方が悪いのだ。 ざばと湖から浮上する。暴力を信仰するギャラドスが、頭を食いちぎってやろうと考えるのに疑念の一つもない。 しかし実際にギャラドスが噛み砕いたのは、コオリッポの頭ではなく、その頭を守る氷塊の方であった。頑丈な顎に挟まれて軋んだ氷塊が、がしゃと透明な音をたてて砕けた瞬間、コオリッポは目を剥いて驚きながらも、ひ弱そうな体つきからは想像もつかぬ敏捷さでギャラドスから逃れた。 ギャラドスはそれだけで十分に驚いた。一撃で事足りると思っていた獲物を――それも完全な無警戒である――仕留め損なった。おれの顎はコオリッポの頭蓋を完璧に捉えていた。それをまともに受けて、なぜ無事でいられるのか…… ギャラドスの警戒はここでようやく始まった。しかし命の奪い合いにおいて、それは最も愚かな油断だった。間合いを取ったコオリッポを中心に周囲の冷気が急激に強まったかと思えば、ギャラドスの全身は瞬く間に凍えた。きらきら輝く銀色の世界。それを寒さと呼ぶには苛烈すぎた。全身の血まで凝固したような極寒がギャラドスを襲っていた。 何をされたのか理解できぬまま、水辺にどさりと墜落する。 コオリッポの技は冷気だった。水中に生きるギャラドスは冷気には並程度の耐性がある。冷気はさして有効ではないはず。またそれは、ギャラドスのように巨大なポケモンを倒すほどの大技とも思われなかった。 「フリーズドライ」、「アイスフェイス」――コオリッポの力が己と最悪の相性であったことなど、ギャラドスは知らない。 一撃のもとに倒れたギャラドスは、なす術なく地にのたうった。その無様といったら、かつてコイキングであった頃の無力をギャラドスに思い起こさせる。ギャラドスがギャラドスとして生きてきた中で、それが掛け値なしに初めての敗北であった。 ギャラドスは己の至らなさを恥じた。コオリッポは確かに不用心だったが、ギャラドスの側にも同量程度の油断があった。正体の知れぬ相手を弱者と決め込んで襲いかかり、玉砕する。そのような愚か者の末路は決まっている。弱肉強食の失敗に次はない。ギャラドスは死を覚悟した。 しかし、もはや抗うこともできぬギャラドスの傍らで、コオリッポはうずくまって動かない。ギャラドスになど、ほとんど見向きもしない。それは、とどめを刺されない幸運よりも、無様を晒してなお放置される屈辱であった。 「おい……何、してんだよ」 「何って?」 「殺すなら、早くしろ」 「殺す?」 はらはらと降りかかる雪が、横たわるギャラドスに積もってゆく。負かされた体に雪が降るのは、死んでしまいたくなるような寒さだ。雪がこんなにも冷たいことを、ギャラドスは初めて知った。 早く楽になりたい。 「おまえが勝ったんだぞ」 「どうでもいいよ、そんなこと」 &ruby(丶){ど};&ruby(丶){う};&ruby(丶){で};&ruby(丶){も};&ruby(丶){い};&ruby(丶){い};? 憤怒が込み上げる。どうでもいいだと? ポケモンにとって、相手より強いこと以上の何がある? この湖で、このおれを打ち負かした――そのことに興味も持たないとは、何様のつもりだ! しかし、瀕死寸前のギャラドスには怒りを撒き散らす力も残っていない。ギャラドスが気付いたのはそのせいだ。コオリッポは泣いているようだったのだ。湖の水面を見つめるコオリッポは、泣くほんの間際、ぎりぎりという顔をしていた。 「何を泣いてる」 おれに勝っておいて泣くようなことがあるか。ギャラドスは死にかけながらもまた腹が立った。 「ぼくは泣かないよ」 悩ましげな目に、それが光る。コオリッポは呟いた。 「泣けないんだ。泣こうと思っても、すぐに涙が凍っちゃう。だから、ぼく、泣き方なんて一生知れないよ!」 ギャラドスは凍えて震える体をくねらせ、尾びれで触れる。コオリッポの目の下に生まれた、小さな氷の粒に。 なぜ、ギャラドスは触れるのか。正確なところはギャラドスにも分からない。なんとも惹かれる光性。それは、かつてコイキングであった頃の本能の名残り……なにかきらきらしたものには触れてみたくなるというだけのことかもしれない。 ギャラドスの尾びれに残った水滴は、コオリッポの顔を濡らし、粒を溶かす。ギャラドスの尾びれの下で、コオリッポは泣いていた。やがて溶け出した涙はつるりとしたコオリッポの顔の表面を伝い、地面に水滴を落とした。 そのようにして、げきりんの湖で二匹は出会った。 ギャラドスが何度襲いかかろうとも撃退される日々だった。 単純な力こそを至上とするギャラドスに策と呼べるほどの智慧はない。顎と牙で噛みつくか、体や尾をぶっつけるかの違い程度に過ぎない。膂力に物を言わせた力任せは、コオリッポの「アイスフェイス」にことごとくを防がれた。そうして「フリーズドライ」で倒される。次こそは、次こそはと思いながらギャラドスがやったのは、実際には単なる繰り返しであった。なぜならば、それで全てを解決してきたギャラドスであった。 自分を中心に世界を回す、絶対の強さ。それでよかった。何の不自由もなかった。それがコオリッポに通じない。力で倒せない相手。それはいかにもギャラドスの根幹を揺るがす存在と見えた。これまではそれだけでよかったことを覆せるほど、ギャラドスは柔軟ではない。 己に比べれば、コオリッポは大した力もなさそうな小さなポケモンだとギャラドスは思っている。そんなやつがおれの湖でおれより強いとは、我慢がならない。コオリッポがげきりんの湖へやってくる限り、ギャラドスの挑戦は終わらなかった。 そう、コオリッポはやってくる。何度襲いかかろうと、その度に不思議なやり方でギャラドスを倒す。それを勝ち誇るでもなく、寂しげに水辺に佇むだけであった。 あまりにも同じことが繰り返されたために、いつからかコオリッポはギャラドスが挑みかかっても驚きさえしなくなった。ある日など、コオリッポは負けたギャラドスが凍えてのたうつ傍ら、きのみなんぞをつついていた。氷塊が砕けて現れたちんまりとした頭を前後に律動させ、凍りかけの果肉を小ぶりな嘴でちくちくとついばむ。 「なんなんだよ、おまえは」 ギャラドスから見れば、コオリッポは完璧な攻撃と防御を具えたポケモンであった。コオリッポの体躯といい、態度といい、とてもそのようには見えないことが、殊更、癪に障る。「今度は倒せるかもしれない」とつい思わされるのだ。それだけ強いのならばいかにも傍若無人でいればいいものを、湖を訪れるコオリッポはどこか所在なく、頼りなかった。心細そうでさえあった。 「くそう、なんでいつも勝てねえんだ……」 「知らないよ、ぼくは」 「それ、おれにも食わせろ……」 「やだ」 「一口でいいから。水に戻りてえんだ」 「もぐもぐ」 「頼む」 「もぐもぐ」 「おめえとはもう一生話さねえ!」 コオリッポが湖に来るのは、いつも雪が降る時だ。寒さで活動するポケモンなのかもしれない。ただでさえ雪が降るほどに寒いが、コオリッポを中心にどんどん寒くなってゆくようにギャラドスは感じる。 「きみこそ、なんでいつもぼくと戦うの? 熱狂してるのかな。ぼくにさ」 「そうだが。わりいかよ」 へえ、という顔でコオリッポは少し笑った。「ぼくって大罪だね」 コオリッポが笑うことに、ギャラドスは怒りではなく優越を覚えた。ほら見ろ。おれはおまえを笑わせることだってできる。退屈な……弱いポケモンじゃねえ。 「サンタがいないことを知ったのは、一つ前の冬だった」 戦いの後で、突然そんな話が始まる。 「ぼくの仲間が、人間のことを少し知ってた。そいつが言うんだよ。サンタの正体は大人の人間なんだって。そのせいで、この冬は前よりつまらない」 「別にそいつがそのサンタクロースとかいうのを消したわけじゃねえだろ。そんなもん、ずっといなかったんだよ。おまえが知らなかっただけで」 ギャラドスの言葉は、人間を知っているからではない。単なる腹いせ、コオリッポへの意地悪であった。 「そう、ぼくは知らなかったんだ。信じてた。幸せだったんだよ。プレゼントなんか一度ももらったことないけど、冬には楽しみにして、いい子にしてた」 「いい子なら、おれにきのみを寄越せ。心がけが足りねえんだよ、おまえは」 「冬なんて最低」 「そんなに冬が嫌いなら巣にこもってろ」 「でも、ここにいないと待つこともできないよ」 コオリッポが語るのは、冬と春の間の思い出のことであった。 その頃のコオリッポは冷気の扱いが今よりもずっと下手だった。頭に上手く氷を作れずに弱っていたコオリッポを、人間の親子が助けた。寒さが和らいだワイルドエリアへキャンプに来ていたその親子と、コオリッポは仲良くなった。げきりんの湖のほとりで共に数日を過ごしたコオリッポを、家へ連れて帰りたい、と子どもがねだった。しかしコオリッポは寒い場所でしか生きてゆけない。親に滔々と言い聞かせられた子どもは、こう言い返した。「だったらポケモントレーナーになる。モンスターボールがあればコオリッポと一緒にいられるんだから」…… 絶対に迎えにくると、子どもは何度も言った。コオリッポに約束を残し、親子は街へ帰っていった。 「サンタにモンスターボールをお願いするって言ってた。ねえ、きみ、サンタを見たことある?」 「そんなもんいねえんだよ。存在しねえ。おめえの知ってるとおり」 「うるさいな。保険だよ、保険。意味わかる? もしサンタが来たらぼくを呼んで」 「来たとしてどうすんだよ」 「氷漬けにしてやる! おまえのせいで、この冬はぼくに最低だって」 「じゃあおれは……寒さに強くなるきのみでも頼むか」 「きっといいきのみをくれるよ。きみには食べられないやつを」 「なんでサンタはそんなことするんだよ」 「性根が終わってるから!」 実のところギャラドスは、話を聞く素振りで気を引きながら、尾を伸ばしてコオリッポのきのみを奪おうとしていた。ぐったりと倒れているだけでも、雪が体に積もってかじかむ。持ち上げる尾が重い。髭まで凍りついているようだ。 「ねえ」 ギャラドスの尾びれが触れそうになったところで、コオリッポは顔を引いた。 「なんだ」 「触れないで……」 「どうして」 「熱くなるから。頭の中に、熱いのがのぼってくる……」 「そうしたら、いけないのか?」 「だめだったら! これ以上したら……」 「したら?」 「溶けちゃう……」 そうしてコオリッポは溶けてしまったのだ。コオリッポの頭の中、その記憶はたちまちのうちに溶けてゆく。 それらが融解してしまった後のコオリッポのことが、ギャラドスには少しだけ賢く思われた。 「あの子と会った次の冬は、大きな氷のクリスマスツリーをつくった。もちろん、想像のでっちあげ。その次の冬は、アーマーガアに乗ってクリスマスの街を空から眺めた。その次は仲間とサンタクロースごっこをやった。その次は……」 コオリッポは、思い出を凍結させるのだという。頭の中のその部分を凍らせておいて、保存するのだ。 「溶けたら、劣化しちゃうんだよ」 「でも凍ったままじゃ、おめえの全部じゃねえだろうが。本気で戦え、おれと」 凍結した記憶は、いつまでも新鮮なままで残るとコオリッポは言う。ただ、思い出すことはできなくなる。それでもコオリッポは思い出を凍結する。人間の親子との思い出だけではない。大切な日の全てを。ギャラドスと初めて会った時のことも、全て。 そのせいで、コオリッポの脳は少しずつ小さくなっていた。思い出を重ねる度、コオリッポは莫迦になる。 「忘れたくないんだよ。忘れっぽいのは昔からだから、大切な思い出は失くさないようにとっておきたいよ」 「忘れてもいいだろ。クリスマスとかいうのも人間だけの話だ。おれたちにはいつもと同じだよ」 「ぼくは、記念日とかは大事にしたいタイプだよ」 「おまえって、頭ぜんぶ使ってる時の方が莫迦っぽいぜ」 「なんだと」 コオリッポが冷気を吹きつけて、ギャラドスは悲鳴をあげた。寒い、寒い、死んじまう! それこそコイキングのように地面を跳ねてコオリッポから逃げた。 「くそ、くそ! おまえなんか、どうせ自分で大事に思ってるだけで、ガキの方はぜんぜんそうじゃねえんだよ!」 「そんなことない! そんなの、悲しいよ……泣くかも」 「自分だけじゃ涙も流せねえくせにな」 憎まれ口を叩くだけ叩き、ギャラドスはなんとか湖に滑り込んだ。冬の水は冷えるが外気に比べれば極楽であった。水中には色がない。コオリッポの言う、クリスマスツリーだの電飾だの、そんなものはここにはない。それがなんだというのか? ギャラドスがむしゃくしゃするのは、コオリッポの思い出に対する態度だ。大方、コオリッポはこの日のことも巣に帰って寝て、忘れる――いや、&ruby(丶){保};&ruby(丶){存};するのだ。コオリッポも夢くらいは見るらしい。ギャラドスのことも、時々は夢に見るという。現実では忘れるくせに、夢の中ではギャラドスと思い出を描くのだ。ギャラドスは、そのようなコオリッポの夢の中の自分が忌々しくてたまらない。大事にとっておいて、どうするというのだ。 ある、ということが大切だとコオリッポは言う。しかしギャラドスが知る限り、コオリッポに楽しい思い出などない。コオリッポにはいつも自信が欠けていた。だからあんなふうに湖でしょげ返っているのだ。果たされるかどうかも知れぬ約束に絡め取られ、待つこと以外に何も考えられない。どれほど辛く、寂しくとも、コオリッポは待ち続けるしかないのだ。 特段、コオリッポが思い出をどうしようがギャラドスはどうでもいい。しかしその考えをコオリッポがよい考えだと思っていることは気に入らない。なんとも莫迦莫迦しいことである。 だのに、この湖を、世界に空いた昏い穴のように感じるのは、どうしたことか。釈然としない苛立ちの正体に、ギャラドスは気付かない。 その日を境に、コオリッポはげきりんの湖に現れなくなった。 それがそのまま、ギャラドスが最低の日々を過ごさねばならぬ理由となった。 来、来、来―― 花々が芽吹く春の匂いも、コオリッポを連れてこなかった。命が盛りを迎える夏などは、コオリッポの最も苦手とする季節だろう。雨降りの日はいくらかマシだと思っていたら、陽の短い秋を感じる。古い鱗も剥がれ、髭も伸びるはずである。 そうして冬の訪れには、頭の中を満たす音がいっとう煩わしい。 コオリッポが消えたのは、微かな漂わせもなく、突然であった。ギャラドスの知るコオリッポは一日と欠かさずげきりんの湖を訪れていた。おそらくギャラドスがコイキングであった頃から、コオリッポはこの湖で約束が果たされるのを待っていた。 そのコオリッポが湖に来なくなるのは、どういう訳か。 ついに、約束の子どもと再会できたのだろうか。 そうであればいい。どこかで取って食われるより、別の人間に捕まるより、その方がずっといい。 嬉しかったか。仲良くやっているか。つまらない冬ばかりを与えられたおまえは、どんなにか報われただろうか…… ギャラドスはついに、コオリッポを負かすことが一度として叶わなかった。より強い力をつけ、コオリッポを打ち負かして鼻を明かす……自分こそが湖の王者であると、その事実をあのしゃらっとした顔に叩きつける……その機会は永遠に失われた。 認めることはきわめて癪であった。なぜ、おれがあいつの幸福を祈らねばならない? 勝ち逃げは、何よりも忌々しいことだ。なぜおれが、あいつの平穏無事などを願うのか。 ギャラドスはコオリッポへ言ってやりたいことがあった。しかし言葉は遅れてやってきた。コオリッポのいない今、それは誰へ向けるべくもない空転するばかりの言葉であった。 捨てちまえ、全部。 思い出が大切すぎて、凍らせてまでとっておきたくなるなら、ぜんぶ楽しくねえ思い出に変えちまえばいい。 誰にも向けられない言葉は、ギャラドス自身に向いた。それからのギャラドスは、その通りに生きた。 おれが、あいつの日々を最低に変えてやらなくてはならなかった。しかしそのためには、おれはあまりにも弱すぎた…… 湖を飛び出し、空を泳ぎ、遠く砂塵の窪地などへ繰り出してゆき、そこにいるポケモンに戦いを挑む日々であった。イノムーやバンギラスやゴルーグ。げきりんの湖では見もしない、体の大きい強そうな相手を選び、戦うための戦いに明け暮れた。砂嵐の吹きつける不得意な場での戦い。這々の体で湖へ戻る頃には、ギャラドスの体はからからに干からびて、砂と傷にまみれていた。そのことが苦痛ではない。暴力に仕える生き様こそギャラドスの性に合う。 この命が始まった瞬間から、ギャラドスには力が全てであった。力がない故に虐げられ、力がある故に生きてこられた。強さである。より強い力で何もかもをぶちのめすことが、絶対の正義であった。おれは正義を執行している。なのになぜだ。ギャラドスの頭の中には一つの音がいつの時も鳴り止まない。それは、暴力では解決できないことだ。 おれは一体、どうすればいい。 ワイルドエリアは、美しさから彼方のように遠い。生存競争の生き続ける場所。それが晴天であろうと砂嵐であろうと、色のない水底に比べれば余計なものに塗れた薄汚い眺めに過ぎない。しかしギャラドスはそんなワイルドエリアに美しさを感じたことがあった。雪の降り積もる美しき白い冬。ギャラドスに彩りをもたらした挑戦の毎日…… 足りず、枯れず、鳴り止まぬ過去。 &ruby(丶){思};&ruby(丶){い};&ruby(丶){出};だと? そんなもの、おれはいらないのに。おれは満たされたいだけなのに。現れないコオリッポを待つ日々が、こんなにもつまらない。 げきりんの湖を離れれば、ギャラドスを打ち負かす相手がいなくはなかった。無謀な戦いに身をやつし、ギャラドスは百の敗北を経験した。敗北という意味において、もはやコオリッポは特別ではない。従って正確には、ギャラドスは敗北を許せない訳ではない。許せないのは、コオリッポとの最初の戦い……弱者と見下し、油断して返り討ちにあった、あの時の自分であった。 もう一度……もう一度だけ、あいつと戦いたい。数多の戦いを経験し、ギャラドスはさらなる力を得た。暴力に奢った愚か者がどれほど強くなったか、思い知らせてやりたい。その一心でワイルドエリアを暴れまわった。いつか、今度こそ、あいつに勝ちたい。ねじ伏せて振り向かせたい。おれの敗北を、&ruby(丶){ど};&ruby(丶){う};&ruby(丶){で};&ruby(丶){も};&ruby(丶){い};&ruby(丶){い};と言ったことを後悔させてやりたい。それが叶うものならば、何も望まない。他にいくらでも負けていい。おれは今、ただ暴力をひけらすのではない。あいつにこそ、勝ちたいのだ。 この狂おしい気持ちを、あいつも抱えていたのだろうか。それがいつの日もこの湖へあいつを導いたのか。 また冬が来た。なあ、実はおれもクリスマスってのを見てきたんだぜ。どいつもこいつも、何をあんなに笑ってやがるんだ。何がおもしれえんだ。誰も彼もこんなに幸せそうな夜に、おれは寒い中、どうしてわざわざ空を飛んで人間なんか眺めなきゃいけねえんだよ。やっぱりおれたちは、一緒にそこらじゅうを氷漬けにして回るべきだった。おまえが凍らせて、おれはその日のことを覚えておくのだ。なあ、いい考えだろ? コオリッポが子どもを待ったように、ギャラドスはコオリッポを待った。しかしギャラドスの場合は約束でさえない。いつかまた戦えるという、見当違いな願いでしかない。そして幾度も季節が巡るうちに、ギャラドスはもはやコオリッポの正確な姿形さえ心もとなくなっていた。焦がれ、待ち続けているはずの絆が確実に薄らいでゆく。その絶望を、ギャラドスは暴力に淫することで希釈するしかなかった。 ギャラドスとは、そのような生物であった。優しさを知らず、暴力でしか世界を理解できないギャラドスには、コオリッポとの間に絆を感じること、またそれを信じることは、ほとんど不可能であった。コオリッポと過ごした冬のある短い期間、その日々の美しさは、ギャラドスの本質とは相容れない。 ギャラドスの荒い息は、冬の外気にとっては白色であった。水生生物の低温の息であってもだ。しかしコオリッポの方は常に透明であった。 ――きみ、ぼくの傍で寒くないわけ。 ――さみいよ。でも冬はいいんだ。 ――冬? 夏にぼくがいると助かるって言われることはあるけど。 ――夏は暑いのが夏なんだから暑くていい。冬は寒いのが冬なんだよ。寄り合って温め合うのなんか、てんで駄目だな。季節を味わってねえんだ。でもおめえがいて寒いのは構わねえ。どれだけ寒くても、おまえはおれが倒してやる。 ――ふふ、変なの。 コオリッポが透明な溜め息をつくと、大気は少し凍り、雪の中でさらに小さな雪が降った。コオリッポに涙を与えるように、ギャラドスは時々、笑い方も与えていた。 足りず、枯れず、鳴り止まぬ過去。 それが、げきりんの湖の不協和音であった。 頭の中に鳴り止まぬ音を知ってからというもの、ギャラドスの生涯は以前よりつまらなくなった。ギャラドスは泣いていた。理性なきギャラドスは涙を流さない。しかし少なくとも、破壊衝動を垂れ流しながら、ギャラドスはうぉうぉと声をあげていた。 月日を重ねるごとに思い出は消えてゆく。おれには、それを凍らせてとっておくこともできないのだ! 湖の空、夕焼けに染まる赤い雲がゆっくりと逃げてゆく。そんなものは少しも美しさではない。この薄汚い空に、力以外の何を願えばいい? 思い出だけを頼りにして、おれはこの先の未来をどうすればいい…… 頭の奥を掴んで揺さぶり続けるのは、孤独の音であった。悲しくも美しき白い冬。降り積もる過去はいつの時もこんこんと雪。 来、来、来―― 来(ライ) - この次の、という意味の連体詞。また、時期を表す語について現在まで続いていることを表す接尾辞。 来(ライ) - この次の、という意味の連体詞。また、時期を表す語について現在まで続いていることを表す接尾辞。 浮舟(うきふね) - 水面に浮かんでいる小舟。頼りないことにたとえることが多い。 #comment()