#include(第十一回仮面小説大会情報窓・非官能部門,notitle) 作者:[[ユキザサ]] ---- 「おばけぇ?」 ここにオバケが出る。そんなうわさ話をスイミングスクールの子供達から聞いたのは初めてだった。 「まぁ水場は良く出るって言うしなぁ」 「怖い事言わないでよ!」 「でも、僕も同じ場所で見たよ」 そんな冗談を言いながら子供たちの話を聞いていたが、子供達の表情的にも悪戯や悪ふざけで言っているようには聞こえなかったし、後から何人も僕も見たと報告があった。 「分かった分かった。調べとくから詳しく教えてくれ」 「あそこのドアの向こうににょろにょろしたのが見えたんだよ!」 「俺はなんかおっきい影だった!」 「用具室だぁ?」 あーだこーだという子供たちをなだめつつちらりと用具室の扉を横目で見る。事前の用意で入る時には特に何もいなかったと思うけどな。 「オッケー。ちゃんと調べとくからとりあえず今日はお疲れ」 「本当に頼んだよコーチ!」 「はいはい」 ひらひらと手を振って子供達と別れる。恐らくは何かしらのポケモンが迷い込んでいるんだろう。田舎のスイミングスクールにはよくあることだし。 言った後だが少し面倒くさいなと考えながら持っていたファイルを事務所に提出すると奥から校長が手で俺を呼んでいるのに気づき奥に向かう。 「ちょうど良かった、今探しに行くところだったよ」 「はぁ」 「実はね……」 そう言うと校長は机の上に置いてあったチラシを俺に見せてくる。 「スクール対抗試合……?」 「隣町のスクールとね。その中でコーチ同士のエキシビションみたいなのをやりたいって向こうに言われてね。ミツキ君にお願いしたくてね」 「あぁー、なるほど」 「久々にどうだい?真剣勝負は」 「そうですね……」 そう言いながら俺は左手で右肩を摩る。もう問題はないはずなのにこういう話題を振られると少しだけ疼いてしまう。そんな俺の姿を見て校長も優しい笑みを浮かべながら椅子から立ち上がって俺の肩に手を置いた。 「やれって言ってるわけじゃないよ。もし本当にやりたくなければ断って貰って構わないよ。時間はまだあるし、やりたくなったら声をかけてくれればいい」 「はい」 少しのふがいなさを感じながら小さくそう呟いて俺は摩っていた左手を下げた。 「あぁ、そういえば話変わるんですけど。校長、用具室に何かいるの見ましたか?」 「用具室?」 俺が見ていなくても他の大人が見てる可能性がある。少なくとも一人くらいは見ている人間がいてもおかしくないと思って聞いてみたが校長をはじめとする職員の皆は誰もオバケの話題をかろうじて知っていたくらいだった。 ---- 夜になって他の職員も少しずつ帰り始める時間に俺は懐中電灯を持って用具室の前に立っていた。警備員もいない田舎のスイミングスクールでこんな話題がでてくると結局見回りをするのはスタッフの俺達になる。まぁ今日は結局話を聞いた俺が見回りになった訳だが。 「よっこいせ」 若干サビついているドアをギギッと音をたてながら開く。持っている懐中電灯で辺りを照らしてもそこにあるのはいつも通りのビート版やフィン、掃除用具が置いてある。 ガタン 「な、なんだ!」 音に驚いてそっちに振り返るとモップが倒れていた。なんだとため息を吐いてそれを戻そうとそっちに近づいた瞬間、何かの気配を背中に感じた。 「誰だ!」 もう一度振り返って懐中電灯を照らす。何もいないが、開けていたドアが少し開いていた。急いでプールサイドに戻ると、突然身体に浮遊感を感じて次に気付いた時にはプールの中に俺は落とされていた。 「初めまして。人間さん」 突如俺をプールに帆折込、クスクスと笑いながら一歩ずつ近づいてくるこいつは、スイミングスクールなんていう普通過ぎる場所には本来いるはずのない存在だった。 「スイ……クン……?」 プールサイドの窓から差し込む僅かな月の光に照らされるその姿はどこか妖艶で俺は見惚れてしまっていた。ひらりひらり紫の飾り毛を揺らしながら近づいてくるそいつを俺はただただ静かに眺めていた。 「そう。ボクはスイクン」 懲りずにクスクス笑いながらそいつは俺の落ちた位置までくるとひらひらとした尻尾を俺に差し出してきた。 「手荒な真似してごめんね?でもこうでもしないとちゃんと話聞いて貰えないと思ったからさ」 差し出されたその尻尾を掴むと俺の身体は不思議な力で浮いてプールサイドまで戻された。 「じゃあ改めて自己紹介。ボクはスイクン」 「俺はミツキだ……ってなんで悠長に自己紹介してんだ!」 飛び込み台の上に座り、落とされたときに水を吸ったTシャツを絞りながら目の前でお座りの体勢のスイクンを俺は見つめる。 「まぁそこはいいじゃん。じゃあ本題」 少し威圧的な顔つきになったスイクンに一瞬びくりとなったがその表情もすぐにさっきまでの飄々とした表情に戻った。 「ボクとしては居心地良いから目をつぶってほしいんだけど。特に迷惑かけたつもりもないんだけど」 「目をつぶってくれって、そもそも俺は幽霊騒ぎを確認しに来たんだよ」 幽霊?と首を傾げたスイクンにこれまでの経緯を伝えるとため息を吐きながらやれやれと首を振った。 「北風の化身を幽霊だなんて失礼だなぁ」 「俺だってお前みたいなやつがいるとは思わなかったよ……」 「じゃあおとなしくしてたらここから出ていかなくても平気……」 「それとこれとは話が違うだろ」 そう言うとスイクンはケチと一言言うとブーブーと口をとがらせながらまた俺の周りをくるくると歩きまわり始めた。 「あ、そうだ!」 そうしているうちに何か考えついてのか、意地悪い笑顔を浮かべながらこっちを向いた。 「じゃあ僕と勝負しようよ。それでお兄さんが勝ったらお兄さんの言う事聞いてここから出ていくよ」 「勝負って……俺はポケモンなんて持ってないぞ?」 「まさかそんな事したらボクが勝っちゃうもん。するのはミツキたちがやってるこれだよ」 しれっと呼び捨てにされていることにツッコミを入れようと思いながらも前足でスイクンが指してるプールを見る。 「子供たちに教えてるくらいだし得意なんでしょ」 そう言いながらスイクンは一つ隣のレーンに移動して。その尻尾を上に上げて前方を向き体勢を整えた。 「それじゃ始めよう」 「ちょ、ちょっと待て!」 「はい!よーいドンッ!」 俺の言葉を無視してスイクンは上げていた尻尾を下に下げると同時に掛け声を上げた。咄嗟のその掛け声に反射的に体が反応してしまって、一番近いレーンにそのまま飛び込む。さっき吸い込んだ水が少し抜けたはずなのに、再び来ていた服が水を吸い込む。その重さに耐えながらも少しずつ進んでちらりと横を見ると…… 隣のスイクンは涼しい顔でプールの水面を走っていた・ 「な、なんじゃそりゃぁ!」 その声に気付いた校長がプールエリアまで来てしまい結局このインチキ犬の存在が俺以外の人間にもバレたのは言うまでもない。 それからというものスクールの子供達から幽霊の話題が出る事は無くなった。それはそうだ。その幽霊が何喰わぬ顔でプールサイドで今も欠伸をしているくらいである。 「はい。今日もお疲れさん」 「ありがとうございましたー!」 そんな挨拶をしてると欠伸をしていたあいつが伸びをしてからこっちに近づいてくる。 「終わったなら準備準備!」 「分かってるよ……」 あの夜校長にバレた後開き直ったこいつは実際特に悪さをしていた訳でもないからか校長に二つ返事で受け入れられた。ただし、最初の発見者の俺がこうしてお目付け役になっているが。 それだけなら別に構わないが、あの夜以来こいつは俺と対決することを日々の退屈しのぎにしている節がある。それも、あの日と同じ水面を走るというインチキ技で。 「またコーチの負けー」 「またって言うな!」 「また僕の勝ちー」 「水面を走るのは反則だろ……」 そう言うとあの時のようにこいつは尻尾で俺の上陸を助けてくれる素振りを見せた。その厚意に甘えてその尻尾を掴むとニヤリと笑った後にその尻尾はシュルリと俺の手を抜けて俺はまたプールの中に逆戻りで落ちる羽目になった。 「イエーイ!」 子供達とスイクンがげらげら笑っているのが水中で聞きながら俺は底を蹴って水面に出た。 「くっそぉ!」 心からの怒号がプールにこだました。 「あー、最後のミツキの顔面白かった!」 「そうですか」 思い出し笑いをしているのか未だにクスクスと笑うスイクンを横目に俺は自販機で飲み物を二本買った。出てきた一本目を横のスイクンに渡すと、これまたこいつは上手に尻尾で缶を受け取り傾けて飲んでいく。プールサイドにいる時によく子供達と喋ってるこいつが最近勝負に賭けを持ち込んできたのは、きっとその子供達が原因だと思っている。そして今日も今日とてこの通りミックスオレを奢らされたわけで、このままだと日々余計な出費がかさんでいく。 「最近楽しそうだね」 俺も買ったミックスオレを傾けていると、校長がニコニコした顔で手を振りながらこっちに歩いて来た。 「お陰で退屈はしてませんよ」 苦笑い気味に隣のこいつを睨みつけるとスイクンは舌を出してこっちを見てくる。 「あぁそうそう受付の人が探してましたよ」 「え?あ、分かりました」 そう言って俺は急いで受付に走った。 「それ嘘でしょ?」 「うーん半分正解ってところでしょうか」 受付に戻って行ったミツキを見送るとボクはこの初老の人間にそう声をかけた。頭を掻きながら彼は笑顔でボクを見つめてくる。 「少しそういうのには敏感だから。分かっちゃうんだ」 そうですかと小さく言った彼は続けてボクに喋りかけてくる。 「理由は少し貴方とお話がしたかったのと、お礼を言いたかったからですよ。ミツキ君がいると少し話辛い事もありますし」 「お礼?」 「少し彼の昔話をしましょうか」 その後彼はアイツの過去を少しずつ話し始めた。すごく泳ぎが速かった事、選手になった事や怪我をしてそれをあきらめた事。それだけじゃなくてアイツが子供の時の話なんかもしてくれた。 「ミツキ君ここに戻ってきた時にはひどく落ち込んでいましたから。でも最近は心からの笑顔が増えた気がしてね。それはきっとあなたのおかげでしょう?」 そう言ってこの人間は小さくありがとうと言って。お辞儀をした。 「ボクはアイツの過去なんて知らなかったし、ただ自由にしてただけだよ」 「それで良いんですよ」 「優しいんだね」 にこやかに笑う彼にそんな言葉を返しながら、ボクは少し考える。ボクはアイツの事を当たり前だけど全然知らない。笑顔にしてるなんてそんな大それたこと本当にしてるのか……そんな事をぼんやりと考えていた。そんな所でミツキは戻ってきた。 「すみませんそいつ任せちゃって」 「何だよその言い方ぁ」 そんな気持ちを察されないようにいつもみたいにおどけてふざけて見せる。特に疑問も無くうるさいとミツキが返したことに安心していると、彼がまたボクの方を見てにっこり笑う。 「いえいえ、お話に付き合ってもらっていたので」 彼はそれではと言って手を振りながら戻って行った。 「あっ、そういえば」 と思いきや途中でその身を翻してから信じられない言葉を言った。 「今日メンテの人たちが来るのでミツキ君スイクンさんの事匿ってあげてくださいね?」 「「え?」」 ボクとミツキの少し間抜けな声が零れた。 「へぇ結構広いじゃん」 「元々は爺さんが住んでた家だしな」 結局あの後いい代案も見つからず、こいつは今日一日俺の家で過ごす事になった。こいつから断るかと思ったら、まぁ他にないならと案外早くこいつの方から折れた。 そうして家に帰ってわけだがこいつは遠慮なく家の中をぶらぶらと歩きまわりながら丁度良い位置を見つけて座布団が敷いてあるところに伏せた。 「なかなかいい場所だね!」 「なんでお前が先にくつろぎ始めてるんだよ……」 「せっかくなら楽しまなきゃ損じゃん?」 「そうですか……」 とりあえず荷物を置き、いつも通り仏壇に向かおうとすると。くつろいでいたはずのスイクンも立ち上がり一緒について来た。 「なんでついてくるんだよ」 「案内してくれるんじゃないの?」 「違う」 そんな問答を繰り返している内に仏壇の前に着く。 「ただいま」 手前に敷いてある座布団に座って、爺さんの写真が置いてある仏壇に向かって手を合わせる。 「お爺さんは?」 「一年前ぽっくり逝っちゃったよ。まぁ老衰だったけどな」 「優しそうな人だね」 写真の爺さんを見てスイクンがそう言った。確かにのほほんとした爺さんだったけどな。やっちゃいけない事やった時とかは厳しかったけどな。 「後笑った時の顔が似てるかも……」 突然そう言うとハッとした顔になってスイクンは急ぎ足でさっきまで居た居間に戻って行った。一体何だったんだ? 「そういえばお前飯ってどうしてたんだ?」 「え?あぁ、外になってた木の実とか食べてたよ?」 あの後スイクンの後を追って今に戻り、食事にしようと台所に立って素朴な疑問が脳裏をよぎった。答えを聞いてよくよく考えてみると外の木の実が減っていた気がするなぁと思いながら冷蔵庫の中から食材を取り出していると、後ろでくつろいでいたスイクンが近づいて来た。 「へぇ、料理するんだ」 「何だ手伝ってくれるのか?」 「食器運ぶくらいならね。一応今日はお世話になるんだし、これくらいは手伝うよ」 「へぇ」 「なに」 「いや、珍しいこともあるもんだなって」 そう言った瞬間こいつは俺の脛に思い切り前足で蹴りを入れてきた。 「ご馳走様。なかなか美味しかったよ!」 「口にあったようで良かった」 「あのさ」 食後ゆったりとした雰囲気になってる中寝ころんでいた俺の顔を突然こいつが神妙な顔で見つめてきた。 「なんだ、突然」 結構近い距離にスイクンの顔があるため起き上がることが出来ない。 「あのおじさんから聞いたんだけどまだ痛むの?」 「あー、あの時かぁ」 本当に校長はお人よしだと感じながら俺は少し右肩を摩る。またやった。そう思ってすぐにその手を肩から離した。 「いや……医者からももうだいぶ前に平気って言われてるよ。ただまだ少し怖いだけかな?」 「もしかしてボク迷惑かけてる?」 いつになく不安そうな、まるで悪戯がバレた時の子供みたいな表情で俺を見てるスイクンが何だか面白くて俺は手を伸ばして笑いながらスイクンの頭を撫でた。 「いやぁ、最初はずうずうしい奴だって思ったけど何だかんだ俺も楽しんでるよ。教えるだけだったから最近は試合方式のレースなんてやってなかったしな」 「本当に……?」 「本当」 「じゃあ、そこに座って肩出して」 「は?」 そう言うと覗き込んでたスイクンは一歩下がって俺が起き上がれるようにしてくれた。何だと思いながらもとりあえず言われた通りに肩を出して座布団に座りなおす。すると突然スイクンは右前足で出した俺の肩に触る。触った個所からじんわりと温かい感覚が広がっていく。 「何も考えてなかったボクからのお詫びと今日のお礼」 「な、何したんだ?」 「水を浄化する力の応用で血行とかよく出来るから」 「……本当に今日はらしくないな」 「な、なんだよ!ボクなりに心配してやったのに」 若干恥ずかしいのか顔を逸らしながらブー垂れるスイクンを見て自然に笑いがこぼれて、さっきみたいに頭を撫でてやった。 「さっきも言ったけど俺は別にお前に迷惑かけられてるなんて思ってないって。でもありがとな」 「う、うん」 「なぁ、俺からも一つ聞いて良いか?」 「何?」 「なんでお前あんなところに居たんだ?」 これは純粋な疑問。伝説のポケモンであるこいつがどうしてこんな田舎のスイミングスクールなんかに居たのか。 「単純な話だよ。人間から逃げて偶々隠れるのに良かったからかな」 「逃げてた?」 「そう。つまらない人間に追い回されててね。結構な距離逃げてここまでたどり着いたわけ」 やれやれといったような顔で首を振りながら。ポツリポツリと喋り始めた。 「お前でもそれって俺達の前に現れたのって危険だったんじゃないのか?」 「だから最初にミツキに会った時その人間だったり、そんな人間だったりしたらそのまま逃げるつもりだったんだよ。あそこで隠れてる間で子供達がミツキに教えられながら楽しそうに泳いでるのを見て少し興味が出たんだ」 「興味ねぇ……それでチラチラ見てたら子供にバレてこうなったと」 「そ、そうだけど!結局ここにはその人間もこないし、少しなら出ても良いかなって。それに逃げ隠れするのも疲れちゃったし……」 「何ともまぁ自由なこった」 「その通りだよ。ボクは自由が好き」 少しムッとしてからすぐにキラキラとした目でそう言ったスイクンを苦笑いで見ながら俺は肩を回した。 「じゃあそんな自由が好きな奴を勝たせ続けて、いつまでも拘束するのは悪いな」 「え?」 「また明日勝負しようか。本気でやってやるよ」 久々にこんな気持ちに、純粋にこいつを負かしてやりたいと強く思った。少し驚いたような顔をした後にスイクンはニヤリと笑って言葉を返してくる。 「へぇ、今まで本気じゃなかったんだ」 「そりゃあお前には言ってなかったかもしれないけどな、俺の本職はいつもお前とやってる50じゃないんだよ」 「ルールを変えるってこと?」 「そういう事。それにせっかく北風の化身様に古傷見て貰った訳だしな」 そう言って俺は息を大きく吸い込んで、スイクンを指差した。 「今度は負けない」 ---- いつも通りスクールが終わった後に何人かのギャラリーの歓声に包まれながら俺とスイクンはそれぞれ準備運動を行う。と言っても横のスイクンは伸びをしているだけだが。 『on your mark』 静寂の中で突如聞こえる機械音声。校長に本気でやりますって言ったら、なぜか喜んでこんな大げさなものになった。そして、その声に合わせて俺は飛び込み台の上でフォームを組む。隣のこいつもいつもの飄々とした姿が嘘のように凛々しくその姿勢を低くした。 『ピッ!』 破裂音と共にこのレースは幕を開けた。飛び込み台を強く蹴り俺はプールの中へと飛び込む。手の先に伝わった水の柔らかな感触はすぐに俺の全身へとその範囲を広げる。ゴーグル越しに見えるのは海や川みたいな自然に満ちた世界じゃない。人工的で一見無機質に見える水の世界。いつからだっただろう、この世界がひどく恐ろしいものに見えるようになったのは。諦めてしまったのは。でも、少し離れた隣のコースを走るこいつのおかげで思い出した。 あぁ、俺は今もこの世界が好きだったんだ。 気づいた瞬間ゴーグル越しに見える世界が少しずつ明るくなって、それにつられるように身体が軽くなった。実際には変わっていないだろうが、気持ちの問題というのはここまで顕著だったらしい。 ちらりと横のコースを文字通り走っているあいつを見る。僅かに俺の先を走るそいつを見て、久しぶりに負けたくない、絶対に勝ってやるという気持ちが胸の内側でさらに強くなっていく。 もうすぐこのレースも折り返す。近づいてくる壁との距離を測りながらターンへの覚悟を決める。水面を走るインチキなあいつに唯一勝てるポイントは折り返しのタイミング。負けを認めるようで癪だが、直線の勝負なら間違いなく俺はこいつに勝てない。だが、水中で折り返しが出来る俺と違い。水面を全速力で走るあいつが同コースで折り返すためには、スピードを落として姿勢を整える必要がある。自分の中の感覚と壁との距離を測りながらクルリと水中で俺は身体を回転させる。触れた足で壁を強く蹴り、加速する。もうあいつの姿を目で追って確認するなんて余裕はない。後はひたすら自分の勝利を信じてゴールを目指して、持ってる力の限り水中を進んでいく。一掻きするたびにゴーグル越しにゴールが近づいてくるのが分かる。息継ぎの度に酸素を取り込んでさらに力強く水を掻く。 タンッ! 最後の力を振り絞って俺はプールの壁へと力強く手を伸ばす。そして、ついにその掌が壁に触れた。我を忘れて水面から顔を出し、息を整えるために強く空気を吸い込みながら隣のコースへと目を向ける。 「ウォォォォォ!」 「コーチすげぇぇ!」 湧き上がったのは子供達の歓声。酸素が回って少しずつ鮮明になる景色。そこには…… 水面で立ち尽くすスイクンの姿があった。その前足は僅かにゴールに届かなかったのか少しの隙間を空けてプラプラと前足を揺らしていた。 「ついに負けちゃったか」 「か、勝ったのか……?」 そう言うとこいつはにっこりと笑っておめでとう。そう一言呟いた。 レース後外のベンチで俺は座りながらミックスオレを飲んでいた。いつもの癖で二本買ってしまってその一本は負けたはずのスイクンが飲んでいる。 「そういえば俺が勝った時の賭けまだ決めてなかったな」 「やっぱり忘れてなかったかぁ」 苦笑いをしながらスイクンが飲み干した缶をゴミ箱に入れて戻ってくる。最初は勝った時の事なんて考えてなかったから何にしようか決めあぐねてたけど、ようやく決まった。元からここから出てけなんていうつもりはもう無かったし。正直断られる気満々だが、折角の出会いを俺は無駄にしたくない。 「お前俺のパートナーにならないか?」 そう言って俺はボールを見せる。今朝校長に今日の試合を伝えた時に校長から受け取ったものだけど今これを見せたのは俺の本心で昨日のこいつの話を聞いた上で考えた事だ。ポカンと口を開けていたスイクンも少しずついつもの表情に戻っていく。 「なんて言うか折角出会えたわけだし、お前が誰かに捕まえられて自由じゃなくなるくらいならと思ってさ、嫌なら断ってくれて構わない」 「まぁ、確かにここは楽しいし、ミツキのポケモンになったら他の人間から逃げる必要はなくなるね」 わざとらしくこいつは理由を連ねていく。くるりと後ろを向いてからスイクンは笑顔でこっちに振り返る。 「それは勝負に勝った命令?それとも友達としての提案?」 「俺的には後者だけど、どう考えるかはお前に任せるよ」 「ふーん」 ニヤニヤと笑いながら俺の顔を覗き込んでくる。 「一つ条件」 「何だ?」 「ミツキの本気の泳ぎまた見せてよ」 まさかそんな条件が来るなんて思ってなくて俺は少し笑ってしまった。どうせ、この後校長に言いに行く予定だったことだったから。変わらず俺を真っすぐ見つめてくるスイクンに俺も真っ直ぐに言葉を返す。 「近いうちにすぐに見れるよ」 「そっか。まぁ、敗者に口なしだね」 そう言うとスイクンは俺の近くまで戻ってきて、俺の手に握られていたボールに鼻をこつんとつけた。そのままスイクンはボールの中に吸い込まれて、数回ボールが揺れる。そして揺れが収まるとすぐにスイクンはそのボールの中から出てきてさっきまでと同じように俺の横に座る。 「初めてのポケモンがまさか伝説のポケモンとはな」 「そんな事あまり思ってないでしょ?」 「バレたか」 「まぁボクもミツキにそんな風に思われるのは嫌だけどね」 お互いにそんなくだらない話をしながら事務所に向かおうと、歩き始める。少し歩いたところでそういえば出会い方が特殊だったからか言えていないことがあったと思い立ち止まって俺はスイクンの方を向く。 「これからもよろしくな」 「うん!よろしく」 そんな短い一言を交わして俺達は手を握り合った。 ---- **水溜りに見惚れてく [#HEclevj] 突然昨日言われた本気での勝負。横のミツキはいつにも増して入念に準備運動をしてる。その空気に押されてボクも自然に体を伸ばすために前足に力を込める。 周りの子供達がざわざわし始めていつもみたいにボクとミツキはそれぞれのコースに立つ。今日は変な機械まで用意されててボクの方も変に緊張してしまう。最初に教えてもらったからどのタイミングで始まるかは分かるから、あとはそれに合わせるだけ。 『on your mark』 変な機械から流れる無機質な声。フォームを組んだミツキを見てボクも姿勢を低くしてタイミングを伺う。 『ピッ!』 来た。その合図と同時に水の中に飛び込むミツキと水面を走り出すボク。ボクの足に触れた瞬間水は地面のようにボクを持ち上げる。そしてそのままいつも通り走り抜ける。 (大丈夫まだ勝ってる) いつになく不安だった。だってあんな真剣なミツキの顔を今までに見たことがなかったから。だからこそボクも手加減はしないししたら昨日のミツキの覚悟が無駄になる気がして。 走りながら少しだけちらりとミツキのコースを見る。大丈夫、いつもよりは間隔は近いけど巻き返せる。そう思って前を見た瞬間折り返しのことを思い出し、少しだけスピードを緩める。ミツキを気にしすぎて少しだけブレーキが間に合わなくて、プールの水が淵からかなり飛沫をあげた。その時にミツキとの間隔がゼロになってミツキはくるりと水中でターンをしていた。なんとかブレーキが間に合って後ろ足で壁を触って前を見る。まだ追いつける。いや、追い越せる。そう思ってたボクの目に映ったのはミツキの泳ぐ姿。 (今までボクが先だったから気づかなかった......) その泳ぎに魅入ってしまってボクは足に入れる力が少し弱くなってしまって、さっきの小さな差が広がってしまった。 いつまでも魅入ってられない。首を振って勝負の続きをする。足に力を入れて水面を駆け出す。 (間に合え......間に合え......!) もう周りも見えてない、そんな中ゴールが近づいてくる。それを実感した瞬間パンッと小さな破裂音がして同時に子供達の歓声。 その音で即座に理解した。急いでブレーキをかける。ゴールに届かなくて浮いた前足をプラプラと振った。 「ついに負けちゃったか」 「か、勝ったのか......?」 嘘だろって周りを見渡してるミツキを見て少し笑いが溢れたけど。 「おめでとう」 ボクは笑顔でそう告げた。 ---- **後書き [#aHXnoGO] 僕だよ。(知ってた) 現実の事情がえげつないくらい訳わからないことになってたのでとてつもなく焦りに焦っておりまして、票が入る入らないとか考える余裕もなく間に合ってよかったと胸をなでおろしていました。(なおクオリティ) 挫折を味わった人間と少し図々しいスイクンの物語でした。ミツキが動かしにくいったらなんの(考えたのはお前だ)そしてスイクンの性別ですが読み手に任せます。どっちでも美味しいし ついでにはなりますが今回の作品とあるアニメのOPとEDの影響バチバチに受けております。「アンノウンワールド」、「君のとなり わたしの場所」もしお時間あれば聴いてみてください。 トラウマ克服おめでとうございます。自然とこうなろうと思うのが素晴らしいです。 (2019/12/13(金) 12:23) 彼もスイクンがいなければトラウマを克服することは出来なかったかもしれません。スイクンの裏のない優しさのおかげかもしれないですね。投票ありがとうございました! スイクンとかって普段森に住んでたりするじゃないですか。そんな伝説ポケがしれっと街中に存在する小気味良さ、みたいなの、すごいうまい設定だなって思います。それだけで愛着湧いちゃいますもん。競技者人生をリタイアしてコーチとなった主人公が、またいちど本気で100mを泳ぎ切る。シンプルなストーリーながらスイクンの浄水能力や水面走りなんかを使ってうまく仕立て上がっていました。必死こいて泳ぐ彼のそばを水面スイーって走るスイクン、想像するとなかなか愉快ですね。さいご主人公さんスイクンに勝ちましたが、これきっとスイクンさんほんのすこし加減してくれていたんだろうなあ。ターンで人間のが素早く切り返せるといえど、水面走るのに勝てる気しないですし。手持ちに加わるラストシーンめちゃんこ爽やかでした。冬到来みたいな時期に読んでいるのにそのときだけ自分の周りが夏! って感じでした。 (2019/12/14(土) 18:10) 伝説が日常にいるシーン大好きマンなのです。あの時のスイクンとミツキが一体どんな気持ちでレースをしていたのか。もしかしたら小話書くかもしれません。投票ありがとうございました! 最終勝負のシーン主人公の勝ちたいという気持ちが率直に伝わってきました!もしかして経験者の方でしょうか? (2019/12/14(土) 20:26) 本当に辛うじて経験してたくらいです。最後の場面は今回で一番筆が乗った所でしたので気に入っていただけたなら幸いでございます! **何かございましたら [#gYVezoO] #pcomment()