*望郷の鎖 [#woFGgN5] writer――――[[カゲフミ]] &color(lavender){なあ。}; &color(lavender){私がいなくなっても、お前は思い出に縛られるなよ。}; &color(lavender){これは、私の最初で最後の命令だ。例外は――――認めんぞ。}; ―1― 「ねえ、ほんとにこの道で合ってるの?」 「んー地図を見る限りは一本道だしこっちじゃない?」 森の中に作られた遊歩道、と言うには些か草が茂りすぎている。中には雑木と表現しても差支えがないくらい太いものが道の真ん中から伸びている箇所もあった。 いあいぎり、が使えるポケモンがいれば多少は歩きやすかったのかもしれない。残念ながらここで刃物と呼べそうなものは、エルツがリュックの中に持っている小さな剪定鋏だけだった。 刺のついた植物が邪魔になった時用のもので、雑木を切るのは想定外。道の真ん中に木が生えていても通りづらいだけで通れなくはないから、問題はない。 エルツは枝をかき分けながらかつて道だったであろう場所を進んでいく。目的地はこの道を抜けた先にあるはずの古城だった。 観光ガイドによると、推定百年程前に栄えていた城だそう。何らかの原因で国が廃れてしまい、今やその名残が人里離れた森の中に佇むだけとなっている。 年季の入った石造りの門の写真がガイドの地図に載せられていた。良い。非常に良い。大きな城という厳かな人工物が自然に飲み込まれていく様は実に良い。 今まで知らなかったことが悔やまれるくらいだ。と、言うのも今目指している古城はそこまでメジャーな観光地というわけでもないようなのだ。 普通有名な観光地ともなれば廃墟であろうときちんと整備がされていて、案内人がいてその分入場料を取られたりするもの。今回の目的地にはそれがない。 なんでも、建物の老朽化が酷い箇所があって観光客の安全を確保しきれないからとかで、観光名所にするのは諦めたとかそういう話を聞いたことがある。 ガイドの最後の項にも訪れる際は自己責任でお願いしますと大きく注意書きがされていた。もちろんこんな事実を伝えてしまうとリーネが付いてきてくれなくなるので黙っている。 数々の廃墟や廃屋を訪れてきたエルツもやっぱり一人では心細い。彼女の後ろから渋い顔つきで枝を避けながら来ているのは頼もしい相棒のデンリュウ、リーネだ。 いや、割と臆病なところがあるので頼もしいと言い切ってしまうと些か語弊が生まれてしまうかもしれない。 うっかりしがちなエルツをサポートしてくれる良きパートナーではある。ただ、気負いすぎて空回りしてしまうことも少なくなかったり。 そんな失敗も見ていて微笑ましいのでエルツは笑って許すことが多い。笑って許していれば自分が失敗した時もリーネは大目に見てくれるかも知れないという甘い考えがちょっとだけ。 整備されてはいなくとも道は道。僅かに人が通った形跡はある。それは足跡だったり、草の倒れた跡だったり、折れた枝だったりと様々な形で。 それらを見落とさなければ迷う心配はない。渋々後ろから来てくれているリーネと距離が開きすぎないように時々後ろを確認しながら。エルツは落ち葉を踏みしめていった。 ◇ 森の奥。道の終わりにそれは突如現れた。かつての栄光は確かにそこにあった。人工物であるはずなのにもう何年も間、誰の手入れも受けることなくただひっそりと。 入口らしき城門はガイドに載っていた写真よりもずっと大きい。石を積み上げられて出来た壁には青々とした蔦がびっしりと這っていた。 とにかく想像以上の迫力だった。何だかここにいるだけで圧倒されてしまいそうで、エルツもリーネも最初の一歩が踏み出せずただただ門を見上げているだけ。 「これは……すごい」 「う、うん」 何の制限もない観光地ならば本来エルツは喜々としてずかずかと奥へ進んでいくのだが、ここにはそれを躊躇わせる何かがあるように思えて。 しばらくの間、リーネと一緒にぼんやりと城門を眺めていた。森の中の静けさに、時折木々の騒めく音が入り混じる。聞こえてくる音はそれくらいだ。 これだけ豊かな森ならば野生ポケモンの一匹や二匹、顔を出してもおかしくないというのに。まるでこの城そのものが静寂に包まれているかのようだった。 「ねえ……エルツ。本当にここ入るの?」 「今更何言ってるのよ。そのために来たんだから」 リーネに声を掛けられて、ふっと我に返るエルツ。いそいそとリュックからカメラを取り出す。せっかくの素晴らしい風景、ぜひ写真に収めておかねば。 大きすぎて城門全ては入りきらない。出来るだけ全体が写るように数歩下がって一枚撮っておいた。訪れた場所を忘れないように。 まあ、これだけ印象に残る廃墟ならば忘れてしまうことはないと思うけど、念のため。後から写真を眺めて思い出すのも楽しいし。 「大丈夫よ、私がついてるでしょ?」 「うーん、だから余計に心配なんだけど」 片手を自分の頬の辺りに当てて、じっと見上げてくるリーネ。発言に遠慮がない。無理もないか、事実だし。エルツも自分のことを頼れるトレーナーだと認識してはいなかった。 これまでもエルツのおかげで、というよりもエルツのせいで、という場面の方が数え切れないくらい多い。リーネが閉口してしまうのも仕方のないこと。 「手厳しいわね」 「度々振り回されてれば嫌でも思っちゃう」 「まあそう仰らずに」 エルツはぽんぽんと優しくリーネの背中を叩く。彼女の言動に何色を示しつつも、何だかんだ言いながらも最終的には来てくれるはず。 やはりトレーナーに頼られているという事実がリーネの背中を押しているのではないかと思う。もし何かあった時にエルツを守れるのはリーネしかいない。 当のリーネのそんな意気込みがあるかどうかはともかく、それくらいの心意気をどこかに持っていてくれたらとても嬉しいなというエルツの願望。 何か言いたげにしているリーネを尻目に、城門を潜るエルツ。少し遅れて背後からリーネの足音。来てくれないかもしれないという不安は多少なりともあったので一安心。 ふむ、老朽化と言われていた割には案外しっかりとした形で残っているような気がする。見るからに崩れてしまいそうな箇所は今のところなさそうだ。 普通に歩いて通っても大丈夫だろう。エルツはリーネと共に城内へと進んでいく。ここではどんな素晴らしい景色が待っているんだろうと、期待に胸を躍らせながら。 入ってすぐにあったのは、両側に石柱の立っている石畳の道。柱も石畳も昔は等間隔で敷き詰められ整然とされていたはずのもの。 今では所々ひび割れたり倒れたりと、雑多としている。建物の造形に気を取られていると危うく躓いてしまいそう。 石畳の隙間からは草が伸び石柱にはこれまた蔦がしっかりと巻きついていて、植物の生命力の強さを感じずにはいられなかった。 いまは立っている柱もやがては蔦に巻き込まれて朽ち果ててしまうのだろうか。そんな物悲しさに浸りながら、エルツは再びシャッターを切る。 この調子だと良い写真が何枚も撮れそうだ。それにしても、こんなに広くて隠れられる物陰もたくさんあるというのに野生ポケモンの気配が感じられない。 森の道を歩いている時には辺りの草むらが忙しげに揺れることが多々あったというのに、この城に着いた途端ぱったりと止んでしまった。 リーネも落ち着かないのかそわそわとした様子で周囲を見回している。もっともこれは廃墟を訪れたときのいつもどおりのリーネだから違和感に気づいているかどうかは怪しい。 何か野生のポケモンが寄り付かない理由があるのだろうか。危険に関わることでないならば別に構わないが、それでもちょっと気にはなる。 とはいえ、マイナーでも雑誌に載るくらいの観光地。訪れて無事に戻ってきた人はいるのだ。本当に危ない場所なら紹介すらされないはず。大丈夫。たぶん。 エルツにとっては徹底された安全より、目の前の遺物の方が魅力的だった。石畳の道を抜けると大きく開けた場所に出た。おそらくここは中庭だった場所。 石畳は途切れ、剥き出しの地面から背の低い草がぼうぼうと茂っている。中央に見える半壊した瓦礫は噴水の跡だろうか。公園にあるようなものとはまるで違う。 この距離からでも大掛かりな造りだったであろうことが見て取れた。広場の奥にある建物までは結構な距離があるし、城の内部を拝めるのは少し先のことになりそうだ。 一抹の不安も次から次へと飛び込んでくる刺激には打ち消されてしまい何処へやら。いつの間にか彼女の心配はカメラの容量が足りるかどうかになってしまっている。 これまでの廃墟とは比べ物にならないくらいの規模。古城はエルツを長く楽しませてくれそうだった。 &color(lavender){もう少しだけ。}; &color(lavender){もう少しだけ、私と一緒に見ていてくれないか?}; &color(lavender){私が愛しすぎてしまった、この場所を――――。}; ―2― 城の中でも外でも足元が草と戯れてしまうのは変わりがなかった。こんなに乾いて硬そうな地面でも生えてくる草はある。逞しい。 中央にあった崩れ掛けの噴水。おそらく二段構成となっていて、上段で吹き出した水が下段へと流れ込む仕組みになっていたものと思われる。 現代でもなかなかお目にかかれそうにない珍しい造り。ちゃんと機能していた頃はさぞかし綺麗だったろうに、こんな状態しか見られなくて残念だった。 「それにしても広いわね、奥の建物があんなに遠い」 「……暗くなる前には帰れるよね?」 「あら、黄昏時の古城ってのも雰囲気があっていいじゃない」 夕焼けに染まる廃墟。城壁の白や灰色を主とした無機質な背景に、オレンジ色の夕空はよく映えそうだ。 頭の中で思い描くだけでもなんと素晴らしい景色だろうと思う。できることならばそれも写真に収めてみたい。 だが、リーネは首を縦には振らなかった。最終進化した今でも暗いところがちょっと苦手ときたもんだ。それがリーネの可愛いところでもあるとエルツは思っている。 それを知りながらリーネに薄暗い廃墟の懐中電灯の役割を度々頼んでいる自分は酷いトレーナーなのかもしれない。 一応普通の懐中電灯も持ってきてはいるが、電気タイプの放つ明かりには到底敵わない。部屋の隅々までくっきりと照らし出してくれるのはリーネのフラッシュだった。 まあ、本気でリーネが嫌がってるなら無理にとは言わない。嫌だなあという顔をしながらも渋々引き受けてくれることがほとんどだし。 頼りにされると少々苦手なことでも張り切ってしまうタイプなのだ。今回もおそらくお願いすることになるだろう。 「確かにあんまり暗くなっちゃうと帰りが大変ね。中庭はこのくらいにして奥へ行きましょうか」 古城の外観の素晴らしさに呑まれて忘れそうになっていたけど、森の中の草むらに近いような道を歩いてここまでたどり着いたんだった。 結構距離があったし一本道とはいえ昼と夜、行きと帰りとでは雰囲気が変わる。一度通った道だからと油断していると遭難してしまうパターンだ。 リーネのフラッシュに頼りきりというのも申し訳ないし、日が沈みきってしまう前には城を出るようにしよう。探索し足りないのならまた来ればいい。 私の提案に、リーネも今度は首を縦に振ってくれた。太陽がやや西へ傾きかけたくらいの時間だから、そんなにせかせかとしなくてもまだ余裕はある。 噴水を越えて中庭の先にある建物を目指す。いよいよ城内へ入れるわけだ。一応地図替わりに持ってきた観光ガイドにも城の大まかな見取り図はあった。 しかしそれには建物の大体の位置が記されているだけで、どこに何の施設があったかなど詳しいことの記入がない。マイナーな観光地故の情報不足といったところか。 完全にこの城を制覇したら情報提供してあげてもいいかもしれないな、などと考えながら歩いていたエルツ。前方がちゃんと見えておらず、異変に気付かなかった。 先に気づいたのはリーネ。呼び止められて慌ててエルツは振り返った。城に入った時よりもさらに落ち着きがないように思える。どうしたというのだろう。 「エルツ……あれって」 「ん?」 視線の先。エルツの立ち位置と前方の建物の入口とのちょうど中間くらいの場所に不自然な物体があった。いや、居たと表現すべきか。 白と灰色と緑の風景の中に突如現れた異彩を放つ黒。そして藍色と赤紫が所々に混じっているように見えた。 かなり遠いのでうっすらとしか確認できなかったが姿には見覚えがある。あれは……あのポケモンは、何だったっけ。 「サザンドラ、だよね……」 「そうそれ」 リーネの方が視力が良いらしく察するのが早い。何度も目を凝らしてみてエルツはようやく姿を掴むことができた。地面に伏せるようにして眠っている。 こんなところにトレーナーはいないはずだから、おそらくは野生のポケモンだろう。野生のサザンドラなんてかなり珍しい存在だ。エルツも実物を見るのは初めてだった。 凶暴ポケモンと呼ばれている割には随分と穏やかそうに眠りについているではないか。もちろん、起きた途端に暴れだしたりする可能性は否定できないけれど。 もしかすると他のポケモンの気配がなかったのはあの子がいたからなのかもしれない。迫力あるポケモンだから、皆が怖がって近づかないのも有り得る。 ぽつりと一匹で広場に佇む様子は古城の主、なんて肩書きが似合いそうだった。でもあんなに目立つポケモンがいるなら一言くらい書いてくれていてもいいのに。 と、持っていたガイドに再び目を落として気が付く。この古城の説明はもう一ページ分あったことに。ページが一枚目に張り付いていて完全に見落としてしまっていた。 ざっくりと流し読みした限りでは、どうやらあのサザンドラは時折ここに姿を現すポケモンらしい。人と出会うとすぐどこかへ飛び去ってしまうのだとか。 いつからここにいるのか、何故ここにいるのかも不明。謎の多いポケモンであると記述されている。古城のちょっとした名物ポケモンとして扱われているようだ。 ぱっと見は恐ろしげでも実害はないということか。せっかく寝ているところを邪魔するのは悪い気はしたが、中庭を通らなければ奥の建物へ入れない。 ちょっと横を通らせてもらうくらいなら問題ないか。エルツはそれほど気にする様子もなく、普段通りの足取りで奥へ進んでいく。ひどく気にしたのはもちろんリーネの方。 「ま、待ってエルツ。サザンドラがいるんだよ?」 「そうね……でも襲われたとかそういう話はないみたいよ。ほら」 ぎゅっと掴まれた腕をやんわりと解いてリーネに観光ガイドのページを見せてみる。その情報はエルツもついさっき知ったばっかりだというのはもちろん秘密。 じっくりとページに目を通していくリーネ。内容を飲み込むうちに先程より多少は怯えた表情が和らいだように思える。それでもやはり気は進まないらしく浮かない顔だ。 「やっぱり行くの?」 「行かなきゃここまで来た意味がないでしょ」 そもそも行かないという選択肢が存在しないかのようなエルツの受け答えに、小さくため息をつくリーネ。 廃墟を前に湧き出した好奇心で突っ走り始めたエルツが止まらないし、止められないのはよく知っている。嫌というほどに。 今回もエルツが行くと言うなら行くしかないんだろう。リーネが行かないと意固地になれば、そのままエルツが一人で奥へ行ってしまいかねない。 もしエルツが城の中へ行ったまま戻ってこなかったらと思うと、どうしてもついていかねばならない使命感に駆られるのだ。 エルツは自分の心配なんてほとんどしていなくても、リーネは時々とても心配している。あくまで時々なので、エルツ自身にはあまり伝わっていないようだが。 確かにサザンドラは怖そうなポケモンではあるけれども、今のところ大人しく眠っているみたいだし下手に刺激しなければ大丈夫かもしれない。 「分かった。でも、そっと行こう、ね?」 「うん、出来るだけ音を立てないようにするわ」 足元の草の擦れる音は仕方ないとしても、普通に歩くのと気を配りながら慎重に歩くのとでは大分変わってくる。 変に寝ているところを起こしてしまって睨まれるのも嫌だし、ここはリーネの言う通りにしよう。 サザンドラが寝ているのはちょうど噴水を過ぎた中庭の真ん中辺り。中庭の区画はどうやら白い塀で仕切られているようだ。 所々壁が崩れたり倒れたりして途切れてしまっているところもあるが、大まかな区切りの判断は付く。 その塀の縁ぎりぎりの箇所を通ることでサザンドラと距離を取りながら移動し、奥の建物へしれっと駆け込んでしまおうという作戦だった。 エルツ達は遠回りをして中庭の仕切りの塀のすぐ傍まで足を運ぶ。手を伸ばせば壁に手が届いてしまいそうな距離だ。 いっそのこと壁の外側を通ってしまえばいいのではと一瞬思いついたが、あまりにも蔦や雑木が生い茂っていて仕方なく断念した。 中庭の真ん中で寝ているサザンドラに注意しつつ慎重に奥の建物を目指す。壁沿いはどうにも歩きづらくて困りもの。 歩みを進めていくうちにサザンドラとの距離が縮まって、想像していたよりも大きいことに気が付く。起き上がったらどれくらいの高さなのか、気になる。 もっと近くまで行けたら記念に写真でも一枚撮っておきたいくらい。さすがにそんなことをしたら起きてしまうだろうから残念だ。 などと呑気に考えているエルツとは対照的に、リーネはがちがちに緊張した面持ちで歩みを進めていく。関節から錆び付いた音が聞こえてきそうなくらいのぎこちなさ。 きっと夢にも思っていなかったはず。ただでさえ静かな古城の中でまさか物音に神経を尖らせることになるなんて。 &color(lavender){沈みゆく船に乗り続ける義理はない、か。そう言われてもな。}; &color(lavender){私にとっては乗りかかった船。もう、後戻りは出来そうにない。}; &color(lavender){どうやら私は、己の愚かさに気がつくのが遅すぎたようだ。}; ―3― 塀の縁を歩き始めて半分くらい、あと半分歩けば奥の建物にたどり着くくらいの位置だった。エルツもリーネもこれといって物音を立てたつもりはなかったのだけれども。 ふいにサザンドラが顔を上げたのだ。上げたのは真ん中の頭だけで、両腕の頭は地面に伏せったまま。ここからでは遠くて目を覚ましたのかどうかは分からない。 ただ寝ぼけているだけならいいのだが、エルツとリーネの間にただならぬ緊張が走る。この時本当に緊張していたのはリーネだけかもしれないが。 下手に声も出せないから、お互いにどうしようかという相談すらできない。エルツは一旦足を止めて、じっとサザンドラの方に視線を送る。 不用意に動かず相手の出方を窺ってみることに。観光ガイドの情報が正しければ、自分たちの姿に気がついてすぐどこかへ飛び去ってくれるはずだ。 サザンドラの頭がこちらを向いているように感じられる。これは完全にエルツたちの存在を察している動きだ。それでもなかなか次の行動に移ろうとしない。 早くどこかへ行ってくれないかな。自分はともかく後ろのリーネの気力が持たなくなってしまう。ずっと石のように硬直しっぱなしではかわいそうだ。 やがて寝そべっていた両腕の頭も地面から離すと、黒い翼を広げてサザンドラはふわりと浮かび上がる。やはり翼が広がると大きい。体が突然二倍に膨らんだかのよう。 きっとそのまま飛び去ってくれるのだろうと信じて疑っていなかった。それなのに。あろう事かサザンドラは突然こちらへ向かってきたのだ。 エルツとリーネの方へ、ぐんぐんと距離は縮まっていく。巨体に似合わず素早い動き。あっという間に手を伸ばせば届いてしまいそうな場所まで迫ってきて。 あまりにも突然の出来事で、エルツは呆気にとられて声すら上げられずにいた。ぽかんと口を開けてただただ目の前の恐怖を見上げているだけ。 サザンドラの目にはひどく間抜けな表情が映っていたことだろう。咄嗟に後ずさりしてみても、すぐに塀に背中がぶつかってしまう。 古びた石壁の感触が温度以上に冷たく感じられた。これはどうやら逃げられそうにない。おかしいな。どうしてこんな状況になっているんだろう。 ガイドの情報ではサザンドラと遭遇するのはまれなことで、出会ってもすぐにどこかへ飛んでいってしまう害のないポケモンだと記されていた。 偶然出会っただけならまだしも、壁際に追い込まれている現状は納得がいかない。全然話が違う。ひょっとして今回もまた不確定な情報を楽観視しすぎてしまったのか。 これまでも下調べが不十分だったり、ろくな準備もせずに目的地へ特攻したりしたせいで、何度か危ない目に遭ったことはある。 そんな時でもリーネと一緒にあれこれ打開策を考えて何とかなっていたのだ。だから今日もまた不足の事態が起こっても、切り抜けられるという油断があったのかもしれない。 目の前のサザンドラは黙ったままじっとエルツを見据えている。両腕も含めて六つの赤い光。やっぱり近くで見ると迫力が半端ないなとか呑気なことを考えている場合ではない。 「あわ、わ、わ……え、エルツっ……!」 エルツの腕を両手でぎゅっと掴んで、がたがたと震えているリーネ。今にもわっと泣き出してしまいそうなくらい、まん丸で黒いつぶらな瞳には涙が浮かんでいた。 自分がもっとしっかりしていればこんな怖い思いをさせずに済んだのだろうか。リーネの言ったとおり、噴水のところで引き返しておけば。 などと今更後悔したところでどうにもならない。エルツはリーネの体をぎゅっと抱き寄せ、せめてサザンドラから目を逸らさずにいることしか出来なかった。 相変わらずサザンドラの視線はエルツに一点集中している。襲ってはこないが離れてもくれない。手を出せばすぐに届く距離だというのにかえって不気味だった。 そういえば睨みつけているというよりは、見慣れないものを見つけて興味本位で眺めているのに近いような気もする。 すると、サザンドラの赤い瞳が微かに揺れはじめた。口を開いて何度もぱちぱちと瞬きをして、明らかに動揺しているようだ。 「エリーシャ……!?」 「えっ?」 突如、サザンドラの口から出てきた名前。エルツに向けて発せられた言葉。おそらくはエルツをエリーシャという人物と勘違いしての発言だ。 エリーシャ。何だか聞き覚えがあるようなないような名前だ。サザンドラはいったい誰のことを言っているんだろう。 やがてサザンドラは目を閉じて俯くと、真ん中の頭を小さく左右に振る。己が思い描いていた事柄をひどく否定するかのように。 「驚かせてすまない、人違いだった。……貴女が私のよく知っていた人物にとても似ていたものでな」 深く低く響く声だった。暗闇の底をゆっくりと進んでいくような。どうやらこのサザンドラは雄であることが推察できた。 サザンドラは片腕の頭を胸に当てて小さく会釈をする。お詫びのつもりなのだろうか。言葉遣いからしても荒々しい外見にそぐわない妙な礼儀正しさだった。 ここですぐに判断してしまうのは短絡的すぎるかもしれない。でも、このサザンドラは思っていたより恐ろしいポケモンではなさそうな気がした。 少なくともエルツやリーネに危害を加える意思はないように思えてきた。そんなチャンスはいくらでもあったし、現に今もすぐに手や頭が届く距離に居るのだから。 「貴女達も観光目的で来たのだろう。建物の老朽化が激しい箇所もあるから、気をつけてな……」 サザンドラはそのまま元いた場所へ戻ろうと、くるりと背中を向ける。去り際に見ず知らずの観光客の心配までしてくれるだなんて、やっぱりいい奴なのではないか。 何だか落胆しているようで寂しげな後ろ姿だった。あんなに大きく思えていた彼が随分と小さく見えてしまう。 エルツがエリーシャという女性ではなかったことが随分と残念だったように思える。しかし、エリーシャとはいったい誰なのかはっきりしない。 どうもエルツの身に覚えがないわけではなさそうなのだ。どこかで聞いたことがあるようなないような、エルツの中で中途半端な位置でもやもやとしている。 せっかく魅力的な廃墟を見つけたのに、柵の外からしか観光できないようなもどかしさ。エリーシャ、エリーシャ、誰なんだ。エルツは必死で頭を巡らせる。 「待って!」 振り返るサザンドラ。隣のリーネが引きつった形相で見上げてくる。なんでわざわざ呼び止めたりするの、とでも言いたげな視線が突き刺さった。 そんな顔をしないで。見た目が怖いからって勝手な先入観で避けたりするのは良くないこと。おそらくだけど、あのサザンドラは悪いポケモンではないはず。 「思い出したの。エリーシャって、私のひいおばあちゃんの名前よ。あなた……何か知ってるの?」 こんなに頭の隅の記憶を絞り出したのは初めてかもしれない。それくらい考えに考えて、ようやくひとつの答えにたどり着いた。 母や祖母から曾祖母の話は何度か聞いたことがある。少し変わった人だったらしく、曾祖母に対して母も祖母もあまり良い感情を持っていないようだった。 エルツも彼女について知っているのはエリーシャという名前と、城に仕えていたという断片的なものだけ。曾祖母に関する情報はそれ以外何も持ち合わせていなかった。 「そうか、貴女はエリーシャの子孫か。なるほど……道理で生前の彼女によく似ている」 エルツの元へ引き返してきたサザンドラは再び彼女の姿をじっくりと見返す。幾つもの瞳で舐め回すように見つめられても、もう恐怖や不安は感じなかった。 後ろのリーネはやっぱりそわそわしていたけれど、エルツにぎゅっと身を寄せていた体が徐々に離れていきつつある。少しずつ警戒を解いている証拠だ。 「ねえ。あなたは私のひいおばあちゃんのこと、何か知ってるの?」 「エリーシャはかつての私の主人だ。この城が栄えていた頃、彼女と私は城を守る兵士だった」 平和な今の時代からは想像もつかないけれど、昔はあちこちで戦があって国同士のぶつかり合いが何度も起こっていたとか。 実際に見たことも体験したこともないエルツにしてみれば、どうも実感が湧きにくい事柄。しかしその時代を知る者から直接聞かされれば、随分と現実味を帯びてくる。 よく見るとサザンドラの体にはあちこちに傷の跡がある。特に右腕の頭にある傷は深く、赤紫と黒の飾り毛の一部分が丸々欠けてしまっていた。 頭の部分にも深々と切り裂かれた跡が痛々しく残っており、当時の戦の激しさを物語っている。いざ目の当たりにするとひどく生々しいものがあった。 「ねえ、せっかくならこの城のこと案内してくれない?」 「私が……か?」 「うん。あなたならお城のことも、昔のこともよく知ってるでしょ。それに、ひいおばあちゃんの話も聞かせてほしいな」 突拍子もないエルツの提案に、サザンドラの真ん中の頭には驚きと呆れとが入り混じっている。リーネももう驚いてはいない。またか、と言葉も出ない様子だ。 エルツの計画性のなさや予想の斜め上の行動は何も今に始まったことではない。彼女の言動に一喜一憂していては身が持たなくなってしまう。 しかしサザンドラは口を閉じて黙ったまま。突然のエルツの提案に戸惑っているようだが、どうするべきかを考えているようにも捉えられる。 やがてエルツとリーネに再び背を向けた。そのまま奥の建物の方へと離れていく。やっぱり初対面で案内を頼むなんて、唐突すぎて受け入れてもらえなかったのだろうか。 「……ついてくるがいい」 何が彼の心に働きかけたかは定かではない。エルツ達の方を振り返りこそしなかったものの、サザンドラから聞こえてきた返事は承諾の意思を示すものだったのだ。 &color(lavender){勝利を収めた王国は、以前よりもずっと賑わっている。}; &color(lavender){何もかも順風満帆なはずなのに、何だろうな。この胸騒ぎは。}; &color(lavender){口にしてしまうとそれが現実になってしまいそうで、怖いんだ。}; ―4― ふわふわと浮かびながら移動するサザンドラの後ろをエルツとリーネが続く。向かっているのは最初にエルツが目指していた奥の大きな建物。 当初の目的地は変わらずとも、地の利がある者がいるのといないのとでは違ってくる。少なくとも城の中で迷子になってしまう心配はしなくていい。 「ちょっと待って。そういえばあなた、名前は何て言うの?」 やや早歩きでサザンドラの隣に並び、エルツは真ん中の顔を見上げる。サザンドラの言った通りにただついて行くだけでは案内とは呼べない。 エルツのイメージしている案内は、所々に会話や質問を交えつつ行われるもの。それをこのサザンドラに求めてしまうのはちょっと図々しすぎるだろうか。 言っては悪いが彼はあまり社交的とかそういう雰囲気ではなさそうだ。まあ、にこにこしながら誰にでも分け隔てなく接するサザンドラというのも想像がつきにくい。 「……ラフィンだ」 ぼそりと呟くように名乗るサザンドラ。ここは静かだから聞き取れたけど、人通りがあって喧騒とした街中ならば聞き返していただろう。体は大きいのに声は小さいな。 「そう。私はエルツよ。この子はリーネ。よろしくね、ラフィン」 互いに名前も知らないままではやりにくいだろうからと思ってのこと。エルツに深い意図はなかった。それなのに。 自己紹介をしたのがとても奇妙なことのようにラフィンは訝しげにこちらを見つめてくる。初対面の相手に名を告げるのはそんなにおかしなことだっただろうか。 彼はエルツとリーネの顔を交互に眺めていたが、やがてそのままくるりと振り返り奥の建物へと向かっていった。赤い瞳の奥で何を考えていたのかは分からない。 ただ、自分たちに何かを言いたそうにしていたことくらいは推し量ることができた。少し気にはなったが、それよりも今はラフィンの案内について行く方を優先させたい。 エルツやリーネのように口数は多くはなさそうだが、ラフィンもこちらから何か話しかければ返事くらいはしてくれそうだ。 「私たちここに観光で来たんだ。あなたも知ってるでしょ、ここがちょっとしたスポットになってること」 「確かに最近は来客が多いな。騒がしいときは他所へ移るようにしていたが」 やや間があってからラフィンの返答。話の糸口をぷつりと切るように言い放つ。ここから何か聞き返して話を広げてくれたら、と彼に求めるのは酷な話か。 やはりエルツと会話を続けようという意思はあまり感じられなかった。でも、無視されていないならいくらでもやりようはある。 この古城のこと、曾祖母のこと、そしてラフィンのこと。エルツが聞いてみたいことはまだまだ山のようにあるのだ。 一気にまくし立てるように質問攻めしては彼もうんざりしてしまうだろうから、一つ一つ順番に聞いていけたら良いと思う。 「ここが広間への入口だ」 そうこうしているうちにたどり着いた建物の前。錆び付いて半開きのまま動かなくなった扉の隙間から差し込んだ光がうっすらと城内を照らし出している。 中に入ってからも相当な奥行があるらしく、奥の方は真っ暗になっていて何も見えない状態だ。外から見ても分かる建物の壮大さは伊達ではないようだ。 薄気味悪さを感じているリーネは何だか浮かない顔。いつものことだからエルツはあまり気にしない。 退廃的な雰囲気。人の気配が全く感じられない静寂さ。床を踏みしめた時に響く乾いた足音。そう、やはり廃墟はこうでなくては。 今までにないくらい壮大な構造物に自然と薄笑いが溢れてくる。おっといけない、忘れるところだった。ここもしっかり抑えておかないと。 エルツはいそいそとリュックからカメラを取り出して何度かシャッターを切る。傾いた扉と建物の壁が映るように。写真に風景の全てを収めることは難しいが、留めておくことはできる。 「……なんだ、それは?」 「ん、これはカメラって言ってね。景色を記録できるんだ、ほら」 撮ってきた写真のデータを見せるとラフィンは不思議そうに目を丸くする。こんな小さな箱の中に鮮明な画像が映し出される技術。エルツも仕組みは良く分かっていない。 そういえばリーネも初めてカメラを見たときは同じような反応をしていたっけ。ラフィンが古城でずっと暮らしてたのなら最近の文明に触れる機会もなかったはず。 「ラフィンも記念に一枚、どう?」 唐突に言われても反応のしようがなかったようで、返ってきたのは沈黙だった。せっかくだし珍しいサザンドラの姿も写真に収めておきたいな。 でも大きな扉の前にラフィンだけだと何だか寂しいから、ここはリーネに協力してもらおう。エルツはリーネの背中をぽんぽんと軽く叩く。 何だかとても嫌な予感を察したらしく、エルツを見上げたリーネは渋い顔をしていた。そんな顔しないでよとエルツは笑いながら扉を指差した。 「ほら、リーネも隣に並んで並んで」 「え、ええっ……」 扉の前でラフィンとリーネを一緒に記念撮影してしまおうというのがエルツの魂胆だった。当然まだ完全に彼に対する恐怖心が消え去っていないらしく、抵抗の意を見せるリーネ。 とは言えこれまでのやり取りでラフィンがそこまで怖いポケモンでないと解りつつもあったため、リーネも複雑な心持ちだったようだ。 ちらりとラフィンの顔を見上げると、彼もまたリーネの方に視線を送っていた。何も言わず、まるで彼女の意思を試すように。 恐ろしげな外見のサザンドラである以上、初対面の相手に怖がられたり逃げられたりしたことは少なくないはず。最初エルツ達がそうであったように。 「わ、分かったよぅ」 もしリーネが拒んだとしてもラフィンはそこまで気を悪くしたりはしないように思えるが、彼に気を遣ったのかリーネは渋々扉の横へ足を進める。 動きは少々ぎこちなかったけどやるじゃない、リーネ。扉の外枠と建物の壁の様子、そしてラフィンとリーネの体全体がちゃんと映り込むようにしてエルツはシャッターを押した。 「写真、見てみる?」 「……ああ」 記録されたデータを覗き込んでくるラフィン。感情の起伏は乏しくても新しいもの興味がないわけではなさそうだ。こう見えて割と好奇心が強いのかもしれない。 彼の後ろからそれとなくカメラの画面を眺めるリーネ。彼に歩み寄るにはもう一歩勇気が足りないようだった。写真でもラフィンとは微妙に距離を取っていて表情も硬い。 ラフィンはラフィンで笑っているのか怒っているのか判断しかねる仏頂面。カメラは初めてだっただろうし、和やかな感じで映るものという概念がなかったのだろう。 記念写真としては被写体の顔つきがいまいちではあったが、初めて古城に来たときの忘れられない思い出にはなりそうだ。 「妙なものだな。今の景色が残るというのは」 カメラから顔を遠ざけるとラフィンはぽつりと言う。それ以上言及はしてこなかった。この素晴らしい技術に驚いたり感動したりはしてくれなかったようだ。 ラフィンのそういった反応を少なからず期待していたエルツとしては少々残念ではある。もっとも、感情が表に出にくそうな彼のこと。もしかしたら内心は驚いてくれているのかも。 「ねえ、ラフィンはずっとこのお城にいたの?」 「ああ」 「お城に人がいなくなってからもずっと?」 「……そうだ」 ラフィンが答えるまでに一瞬間があった。これ以上を追求することを拒む空気。何気ない問いかけのつもりでも、触れて欲しくない部分はきっとあるはずだ。もちろん彼のことはもっと知りたい。 けれども、何も知らないことを免罪符にしてラフィンの領域に土足で踏み荒らすようなことはしたくなかった。話したくないなら無理には切り込まずに話題を切り替えればいいのだ。 「そっか。じゃあ案内は完璧だよね。頼りにしてるよ、ラフィン」 話題の転換も兼ねて、エルツはさっきリーネにしたのと同じ勢いでラフィンの首筋に軽く触れる。 さすがに馴れ馴れしく感じたのかラフィンは微妙に眉をひそめたが、そのまま扉を潜って城内へと進んでいった。 ラフィンのことを聞くのは、彼の様子を見ながらすることに決めた。徐々に会話していくうちに彼の方から色々と話す気分になってくれる可能性だってある。 そんなに焦らずとも、古城の案内はまだ始まったばかりなのだから。 &color(lavender){今更疑いはしないさ。私はお前を信じている。}; &color(lavender){必ず勝って、お互い生きて城に戻ろう。}; &color(lavender){頼りにしているぞ――――相棒。}; ―5― 「いくよっ、目を閉じて」 瞼を隔てていても目映い光が一気に広がったことが分かるくらいの発光。リーネのフラッシュが薄暗い大広間を一気に照らしだした。 先程まではお互いの輪郭がかろうじて分かる程度。足元が見えない中進むのは危なっかしくて仕方がない。そこで頼りになるのがフラッシュというわけだった。 一時的なものではあるが、暗闇を照らし出す技。建物の奥行がどこまであるかはっきりわかるくらいまでは明るくなった。さすがはリーネ。 「ありがとう、助かるわ」 「どういたしまして」 ふふんと胸を張るリーネは誇らしげだった。廃墟に観光に来た際、彼女の力が一番発揮されるのがこの場面であることは間違いない。 やたらとリーネが意気込むのは、もともと暗がりが苦手なので出来るだけ薄暗い屋内は積極的に照らしたいという気持ちも含まれていると思う。 「やるじゃないか」 ふいにラフィンに声を掛けられてびくりと体を強ばらせるリーネ。思いがけず飛んできた賞賛の言葉に、振り返りはしたもののただ目を丸くするばかり。 他のポケモンの技の様子が物珍しかったからだろうか。彼がこんなところでリーネに話しかけるなんて、と内心エルツも驚いていた。 「あ……ありがとう」 ぎこちなさを残しつつではあったが、リーネは感謝の意をラフィンに伝えた。考えてみればこれがリーネとラフィンの初めての会話なんじゃないかな。 いきなりは無理でも徐々に打ち解けられていけば、観光もより楽しいものになるはず。もちろんそれはエルツも同じ考えだった。 「こっちだ」 ラフィンの後を追うように、フラッシュで照らされた広間を奥へ奥へと進んでいく。心なしか外を移動していたときよりも速さが緩やかになっているような気がする。 一応、彼も気を遣ってくれているのかもしれない。お城のポケモンだったせいか妙に礼儀正しいところもあったし、細かい気配りも得意だったりするのか。 何だかラフィンのことを知れば知るほどその外見とのギャップが大きくなっていきそう。やはりポケモンを見た目で判断してはいけないな。 エルツ達が足を進めていくうちに次々と飛び込んでくる過去の遺物。外は外で素晴らしかったが、中も中で相当なもの。目の前の情報量に頭が追いついていないような感覚だ。 天井や壁は表面に施された塗装がほとんど剥がれかけていて、大きく亀裂が入っている箇所もある。崩れた天井から差し込んだ光で、床から草が伸びている所も見受けられた。 こんなところでも自然の生命力を見せ付けられるとは。遠い将来、この城は緑に飲み込まれて森の一部となってしまうのかもしれない。 と、きょろきょろと周りの状況ばかりを見ていたせいか、エルツは足元の確認が不十分だった。床の一部がひび割れて出来ていた段差に足を取られて。 エルツ自身が気がついたときには、バランスを崩して前方へ倒れ掛かっていた。ああ、やってしまったと感じても時既に遅し。咄嗟に床に手を付けるほど運動神経は良くない。 きっと床に体を打ち付けて、と痛みを覚悟していたのに。エルツに伝わってきたのはふわりとした柔らかさと、仄かな暖かさ。 いつの間にやらラフィンが身を翻し、片腕で彼女の体を抱き留めてくれていたのだ。突然の出来事にエルツも何も言葉が出てこなかった。 ラフィンは自分の前方を黙々と進んでいたように認識していたのだが、どのタイミングでこちらに向かってきて支えてくれたのか見当もつかない。リーネは見ていたんだろうか。 「……足元には気をつけてくれ」 注意力散漫なエルツに苦言を呈するわけでもなく、そっと彼女の体を離して再び前に進み始める。無駄のない動きと立ち回り。洗練されているような気さえしてくる。 「あ、ありがと……ラフィン」 助けてもらったのにお礼を言うのが遅れてしまった。ラフィンは一瞬ちらりとこちらを振り返りそのまま何も言わずに先へと進んでいく。男は背中で語るもの、なんだろうか。 ラフィンが前にいるだけで謎の安心感がある。ただ彼が体の大きいサザンドラだからとか、そういった単純な理由ではなく。もっと別の何か。 「大丈夫?」 「う、うん」 「私だけだったら、エルツ怪我してたよ」 転びかけたエルツを上手に支えるだけの瞬発力はリーネにはない。それを自覚しての彼女の言葉。エルツには耳が痛かった。 「そうね……気をつけるわ」 とにかく足元だけは気を配るようにしよう。構造物が気になって仕方がないときは、一旦立ち止まってから見ればいい。何度もラフィンに助けてもらうのは申し訳ないし。 こうやって立ち止まっている間にも距離が離れつつあったラフィンの後を、エルツは足早に追いかけた。 細長い廊下を抜けて出た先の広間は、これまで通ってきた箇所とは雰囲気が違っていた。ちょうど中央の部分に通路を示すかのような装飾の跡が残っている。 所々に散らばっている赤黒い布切れはひょっとして絨毯だったものだろうか。その装飾をずっと辿っていった先にあったものは、小さな瓦礫の山。 埋もれてしまっていて元は何があったのか分からない。でも、こんな絨毯や装飾の痕跡があるのだからただの場所ではない、何か特別な理由があるはず。ひょっとすると。 「ねえ、ここってもしかして」 「ああ。玉座があったところだ」 今では見る影もないが、とラフィンは苦笑いする。完全に瓦礫の下。玉座がどんな形だったのかも、どこにあったのかすらも怪しい。 奥の壁か、あるいは天井が崩れてきて今のような形になってしまったと推測できる。壁や天井も元の形を想像できないくらいに、玉座の周辺は損傷が激しかった。 ただ、かつては一人の王がここに腰掛けてこの城を治めていたことは紛れもない事実。その周りにはきっと王妃がいて、大臣がいて、彼らに遣える兵士もいて。 曾祖母が若かったころだろうから、もう百年近く前のことにはなるだろうけど。ラフィンは王の近くにいた人達を覚えているんだろうか。 「どうして……この国はこんなことに。他の国が攻めてきたの?」 「いや。この国の軍事力は他国よりも遥かに優れていた。大陸最強だったと言っても過言ではない」 「じゃあ、どうして?」 つい、好奇心が先走って。エルツはラフィンの反応を伺う前に聞いてしまった。気を悪くしたかなと一瞬不安が過ぎったが、考えてみれば割と彼に対しては最初から遠慮のない態度を取ってきている。変に気を遣いすぎるのも不自然か。ラフィンが俯いたりしたら、話題を変えるまで。 「私も良くは知らんが……ただ、エリーシャから聞いた話では、王位継承問題のいざござが大きくなって内乱が勃発したと聞いている」 「ということは、同じ国同士で?」 ラフィンは何も答えず、ゆっくりと頭を縦に振った。エルツも国の政治のことは良くは分からない。ただ、本来味方であるべきもの同士が傷つけ合ってその結果国が滅びてしまったのだとしたら。何だかとても居た堪れない気持ちにさせられる。散らばった瓦礫の前。胸に片手を当てて拳をぎゅっと握り締めて。エルツはしばらくの間、言葉を紡げずにいた。 「皮肉なものさ。ずっと信じて共に戦ってきた同胞達が、気が付けば己が牙を向ける相手になっていたんだからな」 くく、とラフィンは乾いた笑い声を零す。初めて聞いた彼の笑う声。だけど目は全く笑っておらず、とても悲しい光を宿していた。 仕えていた国が徐々に崩落していった様子を見てきた分だけ、ラフィンのやるせなさは計り知れない。今日初めて聞いたエルツでさえ、胸が締め付けられるような思いだったのだから。 当時のことを何も知らない自分たちが何か言える立場ではないようにも感じられて。俯いたままのラフィンに、エルツもリーネもどう声を掛ければ良いか分からなかった。 「……すまない、辛気臭い話で。私はこんな話しか出来んがな」 今、城であったことを話す様子を見て、彼のことが少しだけ分かったような気がした。不気味に光る赤い瞳の奥には、底知れぬ悲しみが渦巻いていることも。 何か力になれれば、なんて観光目的でふらりとやってきた自分たちが思うのはおこがましいかも知れない。ただ、誰かに話すだけでも気持ちが楽になることだってある。 孤独を抱えながら廃墟の中でじっとしているよりは、ずっと。聞き手になるくらいなら、エルツやリーネでも役割が持てるはず。 「ううん、それでもいい。もっと、ラフィンが知ってること聞かせて」 「……分かった。では、次の場所へ行こう」 くるりと踵を返した瞬間に垣間見えたラフィンの表情が、微かに和らいで見えたのはエルツの気のせいだったのだろうか。 &color(lavender){その、なんだ。今日は……随分と助けられたな。}; &color(lavender){お前が庇ってくれなければ、今頃私はここに戻ってこられなかった。}; &color(lavender){せめて礼を言わせてくれ。ありがとう――――。}; ―6― 大広間の東側。廊下を抜けた先には別の建物に通じていた。廊下といっても既に原型を止めていない箇所もあったため、進む時は慎重に成らざるを得ない。 短い間隔で二度も躓いていてはさすがのラフィンにも呆れられてしまうだろうし何より恥ずかしい。壁や床が崩れて段差になっているところは特に注意を払う必要がある。 そんなに長い距離を歩いていたわけでもないというのに、思ったよりも時間を取られてしまった。エルツは少し埃っぽくなった服やリュックを叩いて、新たな建物を一瞥する。 「ここは?」 「城の食堂だった場所だ。今となってはテーブルと厨房の跡くらいしか証明するものがないが……」 足元を見てみると、白くて細長い板のような物がいくつも床に散乱している。これがラフィンの言うテーブルの残骸なのだろう。 妙な形をした木の枠組みだと思っていたのは、ひょっとすると椅子なのか。かつては美しい装飾がされていたであろうテーブルも椅子も、今となっては見る影もない。 それでも微かに残る独特な模様で特別にあしらわれたものばかりなのだと推察できた。おそらくは城に住む者たちが全員が集まって食事ができるくらいの広さはあったのではなかろうか。 玉座の間に負けず劣らずここも相当な広さがあり、リーネのフラッシュの明かりでも向かい側の壁まで届いていなかった。 「あっちの方まで見せてもらってもいい?」 「ああ。付いてきてくれ」 足元に散らばる椅子と机の残骸をものともせず、ラフィンは優雅に奥へと進んでいく。あんなふうに宙を移動できたら転んでしまう心配はなさそうなのに。 まあ、それだけ足元に気をつけていけばいいのだけど。椅子や机の足に引っかからないように注意しつつ、エルツとリーネはゆっくりと彼の後を追いかける。 さっきの広間よりも心なしか食堂は暗いように思える。天井が抜けているような箇所がどこにも見当たらないからか。リーネのフラッシュがなければまともに歩けたものではない。 ぴたりと進むのを止めたラフィンの視線の先にあったもの。これは何だろうか。煤けた煉瓦のようなもので組まれたこれは、かまどなのではないかと判断できた。 当時はもちろん電気も通ってなかっただろうし、真っ黒に焦げたような跡はここで火を焚いて料理をしていたその名残か。 丈夫な煉瓦で組み込まれていたため、月日が経っても形を崩さずに残り続けていたのだろう。他にも厨房ならば流し台とかもあっても良さそうなのだが、残念ながらそれらしきものは見当たらなかった。 「ねえ、ラフィン。お城の料理ってどうだったの。豪華だった?」 「私やエリーシャは兵士だったからな。食事は質素なものだったぞ」 「そっか。お城での食事ってどんなものか気になったんだけど、残念」 ラフィンの言うとおり王族ならともかく、城に使えている一兵士に毎回豪勢な食事を振舞っていたのではあっという間に国の財政が回らなくなってしまう。 戦をしていた時代ならば相当な兵士の数がいただろうし、彼らの食事は必要最低限のものだったと考えるのが妥当だった。 豪華なテーブルで見たこともないような種類の料理が所狭しと並んでいる。王宮の食事にエルツが抱いていたイメージは脆くも崩れ去ってしまった。 「ただ……一度だけ。この国が他国に勝利を収めた日だ。そのときは兵士も兵士に遣えるポケモンも皆でこの食堂に集まって、様々な料理が振舞われた」 「へえー。そのときの料理、覚えてる?」 「正直毎日質素な食事ばかりだったから、豪華な料理は口に合わないものが多かったな」 ラフィンは苦笑する。エルツもリーネも庶民的な味しか知らない。月に一回くらい足を運ぶ普段よりちょっとだけ高めのランチやカフェが何よりのご馳走だった。 もしもエルツやリーネが同じ料理を食べることができたとしても、ラフィンと同じような感想になってしまう可能性は多いにある。 高級食材や珍しい食材を使っているからといって、それが万人に受け入れられる味をしているとは限らないのだ。 「そうだな。一つだけ、何の木の実かは忘れたが……珍しい木の実を蒸して味付けした料理があって、それだけはとても美味しかったのを覚えているよ」 目を閉じてしみじみと語るラフィン。種類も分からない木の実でさらには王宮の料理人が作ったとなれば、おそらくもう二度と味わうことはできないだろう。 きっとその木の実を蒸した料理が、この場所での一番の彼の思い出なのだ。 勝利で賑わう食堂と、見たこともない豪華な料理。そこで味わった初めての味をラフィンは頭の中でじっくりと反芻していたのかもしれない。 「あ、そうだ。食事といえば……」 エルツはリュックをごそごそと掻き回す。あまり順番は考えずに適当に詰め込んだからな。どこへ行ったのやら――――あ、あったあった。 取り出したプラスチックのケースの蓋を開けると、ふわふわとした黄色いスポンジケーキが詰め込まれていた。 他の荷物の重みで若干形が変わってしまっているものもあるが、味には影響はないだろうから気にしないでもらえると嬉しい。 「これ、ポフレっていうお菓子なんだ。電気タイプのリーネ用に作ったやつだから、口に合うかどうかは分からないけど。食べてみる?」 「…………」 エルツから一つ、差し出されたポフレをラフィンは訝しげに眺めていた。見たことのない色合いと匂いの食べ物を少し警戒しているようだ。 こんな人里離れた古城にずっといたのならば、トレーナーの間で流行っているポケモン用の食べ物など見たこともないはずだった。 何度かくんくんと匂いを嗅いで、食べても問題ないものだと判断してくれたらしくラフィンの口が近づいてきたかと思うと、そのまま一口でぱくり。 ポフレにありつけなかった彼の両腕の頭がちょっと残念そうにしているのがなんだか可愛かった。 喋ったりものを考えたりはできなさそうだけど、食欲はあるらしい。サザンドラの体の構造は謎が多いな。 「どうかな?」 「……食べたことのない味だ。だが、なかなか悪くない」 もぐもぐと口を動かしてポフレを飲み込んだ後、ラフィンは納得したかのように頷いてくれた。 「そっか、よかった」 「割と失敗するもんね。エルツのポフレ」 ちゃっかりとケースからポフレをつまんで頬張りながら、リーネの一言が突き刺さる。自分も食べておきながらその言い草はないでしょうに。 まあ、確かにこのポフレはかなり上手くいったほう。割と自信があったからこそラフィンにも勧めてみたのだ。 焼き加減を間違えて焦げたり、分量を間違えて妙な味になったりと、作ってはみたものの残念な出来になったポフレは数知れず。 今回こそは大丈夫だからと根拠のない自信を押し通してリーネに食べてもらい、その結果渋い表情をされたことも少なくなかった。 「あ、別にラフィンに毒見してもらったとかそういうのじゃないからね。家で作って試食して大丈夫だったやつだから!」 何やら物言いたげなラフィンの視線を感じたので、エルツは慌てて弁解する。まったくもう、リーネが余計なことを言うからだ。 これは失敗作のポフレを何度も味わわされた、彼女のちょっとした仕返しのように思えてならなかった。 「久しぶりだよ。木の実以外のものを食べたのは。それに、誰かと食事をするのもな」 どこかほっとしたようにラフィンは小さく息をつく。ひどく穏やかな表情で、見方によっては微笑んでいると受け取れなくもなかった。 ずっと無表情でいることが多くてもちゃんと笑うことがあるんだな、とエルツもラフィンの笑った顔をみて何となく安心したのだ。 「一人で食事するよりも、誰かと一緒の方が楽しいでしょ?」 「そうだな……もう二つ、構わないか?」 エルツの前に差し出されたラフィンの両腕の頭が、とても物欲しそうに口をぱくぱくとさせている。ちゃんと彼らにも味わわせてあげるつもりらしい。 なんだかんだでラフィンが自分の作ったポフレを気に入ってくれたようで嬉しい。多めに作ってきてよかった。 エルツは小さく笑いながら今度は両方の手のひらにポフレを乗せて、二つの頭の前へ持っていったのだった。 &color(lavender){どうした、まださっきのことが心残りなのか。}; &color(lavender){気にするな。戦場ではお互い助け合うのが当たり前だ。}; &color(lavender){なあ……もう少し私を信頼してくれても、いいんだぞ?}; ―7― 玉座のあった大広間、大広間から廊下を隔てて繋がっていた食堂をあとにしたエルツ達。外に出るといつの間にやら太陽も傾き始めている。 光のほとんど届かない屋内だったので時間の感覚が曖昧だ。辺りが暗くなってからリーネの明かりを頼りに森の中を戻るのは得策とは言えない。 古城はまだまだ広い。隅々まで見て回るには相当な時間を要する。名残惜しくはあったが、今回の探索で回るとしてもせいぜい一箇所か二箇所が限度だろう。 あちこちに転がっていた瓦礫の間を縫うようにして、ラフィンに連れられて来たのは城の中でも外れの方にひっそりと佇んでいた建物。 老朽化しているとはいえ、中央に建ち並んでいたものと比べると何だか質素で頼りない造りになっているような気がする。 それが原因なのか劣化が酷く、建物の手前側半分は全壊してしまっていて原型を止めていない。辛うじて残っている奥側でようやく元の形を推測できる程度だった。 「随分痛んでるみたいだけど、ここは何だったの?」 「ここは兵士の宿舎と訓練所を兼ねていた場所だ。私もエリーシャもここを拠点として生活していた」 なるほど。お城の兵士達が普段から鍛錬を重ねていた場所だというのなら、簡素な佇まいになっているのも納得がいく。 いくら城に仕えている兵士でも、王族と同じ扱いはできなかっただろうし。ここが中央から離れた位置に建てられているのも仕方のないことのように思えた。 「人間同士の訓練はもちろん、ポケモン同士でも訓練は行っていたからな。技と技とのぶつかり合いで壁や床に穴が開くのは日常茶飯事だったよ」 「それ、お城の人に怒られなかったの?」 質素とはいえ城の建造物ということに変わりはない。訓練中なら壊れるのが当然とでも言いたげなラフィンに、少々呆れ気味に尋ねるリーネ。 「もちろん直せる範囲ならば自分たちで修理していたさ。まあ、確かに城の連中からはいい顔はされなかったな」 ラフィンの表情に苦笑いが混じる。ポケモン同士、しかも城を守る兵士達の訓練ならばさぞかし気合が入って激しいものだったはず。 人間よりも遥かに大きな力を持ったポケモンならば、一つ間違えばこんな建物など簡単に吹き飛んでしまいかねない。 バトルに慣れていないリーネの電撃でさえ、その威力にエルツは目を見張ることがあるのだ。戦いに慣れていた兵士のポケモン達ならば尚更のこと。 「……あまり近づきすぎない方がいい。王宮と違って、いつ倒壊してもおかしくない」 「そ、そう……」 もっと近くで、とエルツが何歩か足を踏み出したところにラフィンから声が掛かる。城にずっと居た彼が言うのだから危険なのは間違いない。 最初エルツが足を進めた時には何も言わなかったから、おそらくここがラフィンが確実に安全と判断できるぎりぎりの場所。 奥の建物が気にはなる。気にはなるけど忠告を無視して進んだりしたら、さすがにラフィンも黙ってはいないだろうな。迷いはしたものの、エルツは足を止めた。 激しい訓練の跡とか朽ち果てかけた壁の様子とかを間近で拝んでおきたかったのだが、残念。遠目に見えるあれはポケモン同士を戦わせるバトルフィールドの名残か。 形や作りは今とそれほど変わりがないように思える。長方形の線を引き長辺を半分に区切って、線の外側からトレーナーが指示をするというもの。 地面には亀裂が入り草が所々に伸びてきてしまっているが、元の形はそれとなく残っていた。ラフィンもあそこで他の兵士のポケモンと訓練していたのだろうか。 「ねえ、ラフィンも特訓してたんでしょ。何か凄い技とか使えたりするの?」 「……良く使っていた技ならあるが、凄いかどうかは判断しかねるぞ」 「いいからいいから。見せてほしいな」 そんなことを言いながらも実際は凄いものだとエルツは勝手に決めつつあった。サザンドラという珍しいポケモンだからきっとあるはず、という根拠のない期待も含めて。 いったい何がいいからなのか、少々困ったように肩を竦めるラフィン。しかし実際は目を閉じて右腕を胸の前へかざしてみたり、小さく深呼吸したりしている。 技を出す準備か、あるいは簡易な精神統一か。最初はそこまで乗り気ではなかったにせよ、いざ期待されると頑張ってみようかという気になったのかもしれない。 はたしてどんな技が飛び出してくるのか、期待に胸膨らませてエルツは動向を見守っている。エルツほどでないにせよ、リーネも何だかわくわくしているような素振りが見て取れた。 「分かった。久々だが、やれそうだ」 目を開いたラフィンの顔つきがさっきとは違って見えた。何だろう、これまで穏やかに会話を交わしてきた彼とはまた別の空気を纏っているような。 上手く言葉では言い表せそうになかったけど、リーネも同じような違和感を覚えていたらしい。彼の姿を捉えていた瞳が何だか不安げに揺れていた。 「建物の左側にある、枯木を狙う」 見ると、残っていた建物の横に高さ三メートル程の手頃な大きさの枯木があった。建物を的にするわけにはいかないだろうし、技の試し打ちにはちょうど良さそうな感じだ。 「久々なんでしょ、ちゃんと命中させられる?」 「さあな。まあ、見ているがいい」 もちろん、と答えはしなかったもののラフィンの表情は自信に満ちていた。技を外してしまう未来など最初から想定していないような不敵なもの。うっすらと笑みすら浮かんでいるようにも見えた。 大きく息を吸い込んだラフィンの口元に、何やらエネルギーが集中し始める。リーネの電撃の光ともともまた違う、独特の不思議な輝きだった。 その輝きは次第に大きくなっていきラフィンの頭と同じくらいの球体を形作る。まだ太陽は沈んでいないというのに、ラフィンを光源としてエルツたちの影が背後に長く伸びていた。 やがてラフィンは頭を一瞬仰け反らせそのまま一気に前に突き出す。直後、彼の口元から枯れ木に向かって一直線に光が走っていった。 赤色とも青色とも付かない目映い光はぐんぐんと枯れ木に迫っていき、見事に命中した。瞬間、激しい破裂音とともに木は粉々に砕け散る。 「ひゃっ」 想像以上の鮮烈さに思わずリーネは悲鳴を上げる。声こそ上げなかったとはいえ、エルツも呆然と立ち尽くしていた。きっとひどく間の抜けた表情をしていたと思う。 そりゃラフィンの技だからすごいものだと期待していたけれど、まさかこれほどとは。枯れ木まではかなりの距離があったのに、自分のすぐ近くまで破片が転がってきていた。 拾い上げた破片はだいたい十五センチくらいの大きさ。まだ僅かに熱を持っている。もしこれが枯れ木でなく、人間やポケモンに命中していたとしたら。 「久しぶりだったが、悪くないな」 技を使ったのが久々ということは、城を守っていたころはもっととんでもなかったということなのだろうか。リーネも電気技は使えるけど、当然あそこまでの威力はない。 こちらを振り返ったラフィンに、少しだけどきりとしてしまったかもしれない。今まで古城を親切丁寧に案内してくれた穏やかな彼の印象しかなかったものだから。 他国との戦争があった時代に城の兵士だったのだから、ラフィンも戦えて当然のはずなんだけど。どこかでその事実を受け入れてしまいたくない自分がいたのだ。 「すごい。うん、すごい……」 素晴らしく中身のない受け答えになってしまったけど、自分が想定していた事柄を遥かに上回る出来事が目の前で起きると言葉が出てこなくなるみたいだ。 まだエルツの頭の中ではさっきの光がちらついている。枯れ木がまるで風船のように簡単に弾け飛んでしまった光景が目に焼き付いて離れなかった。 「私のことが怖くなったか?」 「いや、そんなことは。……うん、ちょっとだけ」 ラフィンはお見通しのようだった。これは彼と最初に出会った時に感じた外見的な怖さとは違う。ラフィンの中に秘められた計り知れない力への恐ろしさ、自分がこれまで見聞きしてきた事象を覆すような未知の領域に対する恐怖と言ってもいい。 気を遣って首を横に振ろうとしたエルツだったが、彼の方から聞いてきたくらいなのだ。きっと完全に顔に出てしまっている。ここは素直に肯定しておいた。 リーネの方は言うまでもなさそうだ。腰を抜かさなかった分だけ可愛いもの。ラフィンを見上げる表情が完全に固まってしまっていたのだから。 「それでいいさ」 落胆するわけでもなく、腹を立てたりするわけでもなく。最初からエルツ達の反応を予測していたかのように、ラフィンは目を閉じて少しうつむきながら寂しげに笑った。 「ねえ、ラフィン」 「どうした?」 「ラフィンは――――」 しばしの沈黙。言いかけてふと思いとどまるエルツ。もしラフィンが凶暴で乱暴で粗暴なサザンドラの持つイメージ通りのポケモンだったら、こんなことを聞こうとはしなかったはずだ。 今の彼だからこそ気になって、口に出しかけてしまったのだ。でもこれを聞くのはこのタイミングでなくてもいい。あるかどうかは分からないけれど、またどこかで機会があれば。 「ううん、ありがとね。技、見せてくれて」 紡ぎかけた言葉を飲み下すとエルツは別の言葉で取り繕った。不自然なのは承知の上。彼がこの城で生きてきた時間を全て知ろうとするのは、まだ早すぎる。そんな気がしたのだ。 &color(lavender){戦場では突出してゆけばいいというものではない。}; &color(lavender){まずは二人で息を合わせて戦うのが現在の課題だな。}; &color(lavender){なあに、やり方はいくらでもある。焦らずにじっくり考えていけばいいさ。}; ―8― 兵舎を後にして最初にラフィンと出会った広場まで戻ってきた。辺りはもう夕暮れ時と言っても差し支えない。見上げた空も夕焼け色に徐々に染まりつつある。 こんな光源のない森の奥では暗くなるのはあっという間。リーネがいるので明かりの方は問題はないが、できれば周りに目が届く明るさのうちに戻っておきたいところだ。 「今日はどうもありがとう。あなたのおかげでお城のことがよく分かったわ」 「……ありがとう」 まださっきのことを引きずっているのか、リーネの挨拶は少しだけぎこちない。無理もないか。ラフィンの一撃はあまりにも衝撃が大きすぎたのだから。 せっかく打ち解けられて来たというのに、水を差すような真似をしてしまった。でも、エルツとしてはとても興味深い事柄ではあったのは事実。 とはいえ、こちらから見せてほしいと頼んでおきながら、いざ目の当たりにした後は言葉を無くしてしまうなんて自分勝手も良いところ。 せめてお別れの言葉くらいは差し支えなくスムーズに伝えておきたかった。 「お役に立てたのならなによりだ」 エルツたちの反応を気にしている素振りもなく、あくまで礼儀正しく軽く会釈をするラフィン。随所に見て取れる彼の洗練された立ち振る舞いは、城の兵士として徹底的に教育されてきた賜物というよりは、彼の性格が影響している部分が大きいような気がする。お城という定められた枠の中でどんなに新しい仕草を叩き込もうとしても、根本的な部分はどこかで見え隠れするもの。兵士という立場にありながらも、普段のラフィンは物静かで穏やかなサザンドラだったのだろう。 「それじゃ」 軽く片手を上げてのさよならの合図。リーネは小さく頭を下げる。そのままくるりとラフィンに背を向けたエルツ達。 とても良い廃墟だった、帰ったら写真をちゃんと確認してみようなどとエルツが考え始める前に。歩き始めて間もなく背後から声がかかった。 思わず振り返る。振り返った先の声の主はたった一人だけ。どうしたんだろう。ラフィンの方から自分たちを呼び止めるだなんて。エルツは思わずリーネと顔を見合わせていた。 「最後にもう一箇所だけ、見て欲しい場所がある。無理にとは言わないが……そこが良い場所だという保証はする」 これまでの落ち着き払っていたラフィンらしからぬ、どこか焦りを含んだ物言いだった。真ん中の頭はちゃんとエルツの方を向いているが、両腕の頭は時折視線が泳いでいてせわしない。なるほど、サザンドラの心情はこんなところにも見え隠れするものなのか。 と、冷静に分析するような状況でもなさそうだ。ずっとこの城で過ごしてきたラフィンが自分で言うくらいなのだから、相当なまでに素晴らしい場所なのだろう。 帰り道が暗くなってしまうのを覚悟してでも、案内してもらうだけの価値はある。リーネには少々悪いけど、後で頑張ってもらわなければならない。 そして何よりも妙に必死な感じのラフィンも気になるし、行かないという選択肢はエルツの中に最初から存在していなかったのだ。 おそらく早く帰りたかったであろうリーネも、何となくラフィンのただならぬ雰囲気を察してくれたらしく渋々ながらも頷いてくれた。 「じゃあ、ラフィンのとっておきの場所、案内してくれる?」 「……ああ。ついてきてくれ」 夕暮れ時の薄暗さのせいではっきりとは判断しかねたが、エルツの承諾を受けたラフィンの顔つきが僅かながら明るくなったように見えた。 ラフィンに連れられて辿り着いた場所は、さっき見た兵舎よりもやや南にある建物。兵舎ほどではなくともここも老朽化が進んでおり、入口と思しき箇所は瓦礫が折り重なって通れなくなってしまっている。 「ここの屋上からの景色を見てもらいたい」 ラフィンは片腕で上を指し示す。この建物は広さの割に妙に縦に長くて高さがあり、見上げなければ屋上を捉えることが出来なかった。きっとここは見張り台の役割を担っていたのだろう。 「眺めは良さそうだけど……どうやって行くの?」 「空から行く。私の背に乗ってくれ」 「えっ、いいの?」 「一度には無理だが、一人ずつなら行けるさ」 そう言うとラフィンは両腕と腹、尻尾までもを地面に密着させて低い姿勢を取る。背中に乗れということなのか。 確かにこれくらいの高さならば、ラフィンの体をよじ登らなくても楽に乗り降りが行えそうではある、が。 リーネに目をやると小刻みに首を横に振っている。うーん、やっぱりそうなるよね。察したエルツはリュックから彼女のモンスターボールを取り出して、中へ戻した。 せっかく空を飛べるというとても珍しい体験ができるのに、勿体無い。もちろん本人が怖くて無理なのだから仕方のないことなのだけれど。 「あ、見るの初めてだよね。最近はこのボールの中にポケモンを収納できるんだ。出し入れ自由。便利でしょ」 エルツの手に握られたモンスターボールにラフィンは目を丸くしている。百年くらい前となればさすがにモンスターボールは開発されていなかったはずだ。 今のものよりも一回りか二回り大きいタイプが最初に発明されて、だんだんと改良を重ねコンパクトになって現在の形に落ち着いたという話を聞いたことがある。 仕組みはどうなっているのかエルツもよく分かっていないが、とにかく便利だからあまり気にしていないのだ。 「……ここへ訪れた他の人間が使っているのを見たことはある。だが、間近で見ると奇妙なものだ」 「でしょ。じゃ、いいかな。遠慮なく乗せてもらっちゃうけど」 「ああ、あまり時間もないからな」 ラフィンは真ん中の頭も地面へ近づけて、より低い姿勢になる。まさかラフィンに乗って空を飛べるだなんて。何だか夢のようだった。 古城を案内してもらっている間も、身体が大きいし翼もあるから人を乗せて飛べたりしないのかなあと考えてはいたのだ。よもや実現するとは。 家に上がり込むわけではないにしても土足で失礼して、と。ラフィンの背中に足を掛け、エルツは六枚の翼の間に寝そべるような姿勢を取る。 隣を歩いているときはやや離れていたにも関わらず、迫力があるなとは感じていた。いざ体を密着させるとラフィンの体躯の大きさがありありと伝わってくる。 黒くてふさふさした毛並みは身を寄せていると随分心地よい。まるでふかふかのベッドに寝そべっているかのようだった。 野生で暮らしているポケモンだからいい匂いとは言い難かったけれど、野性味あふれる独特の匂いもラフィンがすぐ近くにいることを実感できた。 「しっかり掴まっていてくれよ」 「分かった!」 エルツは首元に両手を回して、彼の体毛をぎゅっと握り締めた。腕を回しても手が届かないくらいラフィンの首の付け根は太くてしっかりしている。 ちょっと掴みかたが乱暴かも知れないけど、そんなにやわなラフィンではないはずだ。彼の丈夫さを信じてエルツは身を委ねた。 やがて、ラフィンの六枚の翼が徐々に羽ばたきを始めた。城内を案内してくれていたときのようにふわふわと空中を漂うのとは全く別の本腰を入れた飛翔。 翼により巻き起こった風がエルツの頬を、首元を、背中を、走り抜けていく。ラフィンの体はだんだんと上昇していき、少しずつ視界が広がっていくのを感じていた。 自分の体が上へ上へと上がっていく。エレベーターやエスカレーターに乗っているのとはまるで違う。空気抵抗などお構いなしにぐいぐいと上へ引っ張られていく。 全身を通り抜けていく風が随分と騒がしい。空を飛んでいる鳥ポケモンたちはいつもこれを身に纏っているのだろうか。 周辺に鬱蒼と茂っていた森も、半日かけてぐるぐると歩き回っていた古城も、空から見ればどこまで続いているのか分かってしまう。壮大だと思っていた広がりが自分の視野の中に収まってしまうのだ。ただラフィンの背中に乗せてもらっているだけだというのに、何だか自身がとても大きな存在になったような気がして。これまでに覚えたことのない高揚感に自然と笑顔が、笑い声があふれてくる。 「すごい……すごいよ、ラフィン!」 「ふふ、なかなか肝が据わっているな。そろそろ着地する」 エルツが物怖じしなかったのが意外だったらしく、感心したようなラフィンの声。現在の高度からやや下がり気味に、建物の屋上目掛けて真っ直ぐに滑空しながら進んでいく。 足場の不安定さや日常では考えられない高さ、滑空の速さなどへの不安は全く感じていなかった。きっとこの瞬間、エルツはラフィンと一緒に空の一部になっていたのだ。 続く &color(lavender){私が今日からお前と組むことになった者だ。}; &color(lavender){おいおい。そう畏まらないでくれ。堅苦しい挨拶はなしにしよう。}; &color(lavender){名は、エリーシャだ。短い間になるかもしれないが、よろしく頼むよ。}; ―9― 屋上手前でやや減速しラフィンはふわりと降り立つ。極力衝撃がないように気を遣ってくれているようにも感じられた。彼はそのまま首を床に近づけて姿勢を低くする。ここで降りるといい、ということなのだろう。颯爽とラフィンの背中から屋上へ舞い降りる、なんて機敏な動きは出来そうもない。彼の背から滑り落ちるようにして床へ着地する。飛翔の余韻が残っているらしくまだ全身がふわふわとしていた。 建物の入口は老朽化が酷くとても入れたものではなかったが、屋上は案外ちゃんとした形で残っている。落ちないための外周の柵は所々崩れたり曲がったりしていたものの、極端な危険を感じるほどではない。それにエルツは高いところは嫌いではなかったのだ。 ラフィンの言うとおりここからなら城全体が見渡せる。リーネと方向を確認しながら抜けてきた森、その森へ至るまでの街、さらには向こうの海まで。普段眺めている景色とは比べ物にならないくらい壮大、これは確かに絶景だった。おっと、せっかくだしリーネにもこの景色を見せてあげよう。エルツはモンスターボールのスイッチを押す。 「……う、うわっ」 「どう、いい眺めじゃない?」 遥か遠くの海を指差してみたけど、リーネはそれどころではなさそうだった。自分の立っている場所を確認するや否や、ぎゅっと目を閉じて座り込んでしまった。 「え……エルツ、ごめん無理っ」 あらら。何となく予想はしていたけど。やっぱり足場の安定しない高いところはダメだったか。せっかくいい景色なのに勿体無い。でも無理強いも出来ないからね。エルツは再びリーネをボールへ戻した。 時刻はちょうど夕暮れどき。水平線の果てへ沈みゆく太陽が空と海を淡いオレンジ色に照らし出している。ラフィンと出会った中庭も、最初に足を踏み入れた大広間の建物も、壁が半分以上無くなってしまった訓練所も、夕焼け色に染まっていた。文句なしの素晴らしい風景。この城のベストスポットと言っても過言ではないくらい。ラフィンのとっておきの場所という言葉に間違いはなかった。 「素敵な景色ね。でも……どうして私をここに?」 わざわざ帰ろうとしていたのを引き止めて、さらには自分の背中に乗せてまで案内してくれたのだ。きっとラフィンにとって何か大事な理由があるはず。 柵の縁に立っていたエルツの隣。ラフィンは夕焼けを見つめたまま何も答えない。彼の沈黙に不思議と疑問は抱かなかった。ここまで連れてきてくれたのだから、きっと教えてくれる。根拠はないけれどエルツはそんな気がしていた。 「ここは、エリーシャが一番好きだった場所だ」 「そっか、ひいおばあちゃんが……」 思い入れのある場所ならば、ラフィンもひいおばあちゃんと一緒に何度もここを訪れているはず。きっとこの屋上は彼にとっての思い出の場所でもあるのだ。 「なあ、エルツ」 「えっ?」 思わずラフィンの方を振り返っていた。聞き間違いじゃない、彼が自分の名前を呼んでくれた。エリーシャという名は何度も口にしていたけど、エルツの名前を口にしたのは間違いなく今が初めてだった。 「私がおかしなことを言っているようだったら聞き流してくれても構わない。エリーシャに瓜二つな貴女とここに来れば一瞬でも昔に戻れるような、そんな気がしたんだ」 「そうだったの……。でも私は」 「ああ。分かっていた、分かってはいたさ。貴女は貴女だ、エリーシャではない。一緒にいればいるほど、それを痛感させられて……余計にやるせなくてな」 やはりラフィンは何度もエルツの姿をエリーシャと重ねて見ていたのだろう。もちろんエルツは彼女のことを知らないし、いくら血が繋がっていて姿が似ていても性格や振る舞いは別人だ。ラフィンはエルツの中に、かつての主人を追いかけていたのだ。それは追いかけても追いかけても、決して追いつくことのない儚い望み。 「ねえ、あなたがずっとこの城に居続けたのは、ひいおばあちゃんの命令だったから?」 彼の性格を考えると、トレーナーの指示には忠実に従いそうな雰囲気がする。頑なに命令を守り続けて今に至ったのだとすれば何だかとても申し訳なくなるんだけれど、どうやら違っていたようで。ラフィンはゆっくりと首を横に振った。 「違う。今では廃墟になってしまったこの城も、私が目を閉じればかつての栄光が浮かんでくる。賑わっていた過去の様子がありありと浮かび上がってくるんだ。私とエリーシャで掴み取った過去の栄光を知っている分だけ、それを捨て去ってここを去ることがどうしてもできなかった」 胸の奥の一つ一つを搾り出すようにラフィンは続ける。彼の目には今でも王族や兵士たち。そして彼らのポケモンで活気に満ち溢れていた当時の城が映っているのだ。いくら頭の中で思い描いても、かつての仲間や主人に思いを馳せても、それらは二度と戻ってくることはないというのに。 「ふふ……結局私は現実から逃げているだけ、なのかもしれないな」 自虐的な笑みを浮かべてラフィンは項垂れた。どう言葉を掛けたら良いものか判断しかねたエルツは、彼の首の飾り毛にそっと手を当てる。頭の中には何も浮かんでいなかったけれど、何もしないで黙って聞いているのは心苦しくて。ゆっくりと顔を上げてこちらを見たラフィンの瞳には誰の姿が映っているのだろう。 「そうね。ここは素敵な場所だとは思うけど、私にとってはやっぱり廃墟にしか映らないわ」 退廃的な雰囲気と趣があって、エルツをはじめその手の趣味の者には魅力的な場所ではあるが。やはり廃墟という事実は変えようがなかった。 ラフィンが見ている景色と、エルツが見ている景色。同じものを見ていても捉え方は違う。栄えある城と崩れかけた古城。過去と現在。隔たりは大きかった。 「あのさ、ラフィン。あなたがずっとここにいても何も変わらないと思う。戦争で生き残れたのは幸運だったんでしょ? だったらせっかくの生きてる時間をもっと楽しまないと」 「楽しむ……?」 ずっと古城に閉じこもっていたラフィンに具体的に何を提案したらいいのか、エルツには分からなかった。ただ、いずれは朽ちゆくであろう廃墟に心を囚われたままでいるのは良くないと思ったから。ちょっとしたきっかけがあればいい。何か背中を押すものがあればそれは変化への足取りになる。エルツが彼に差し伸べられるもの、それは。 「ものは相談なんだけどさ、私と一緒に来てみない?」 「……貴女と?」 さすがに突拍子もない提案だったからか、ラフィンも目を丸くしている。両腕の頭の目の大きさは変わっていなかったけど。これまでと違う環境で過ごせば何か変わるものがあるかもしれない。新しいものを見て、新しい人やポケモンと出会って。きっとそれがラフィンの財産になる。守る相手のいない古城を見張り続ける必要は、もうないのだ。 「何もかもが新鮮な毎日ってのは無理だけど、今よりはずっと有意義な時間を過ごせると思うよ。いつまでも思い出に縛られないで……」 瞬間、まるで体中に電撃が走ったかのように身を竦ませて、かっと目を見開くラフィン。そして天を仰ぎ、今度はゆっくりと目を閉じてエルツの言葉を反芻する。 彼の周りだけ時間が止まっていると錯覚してしまいそうなくらい、身動き一つ取らなかった。エルツの言葉はラフィンの全身を、深く深く駆け巡る。 「思い出に縛られるな……か」 「ど、どうしたの?」 突如肩を震わせて笑いだしたラフィンに戸惑うエルツ。これまで平静を貫いていた彼がこんなにも感情をあらわにするだなんて。何かおかしなことを言ってしまったのだろうか。 「エリーシャにも、同じ言葉を言われたことがある。彼女の子孫である貴女を通して、再び聞くことになるとはな。……これはここから巣立っていけという彼女のメッセージなのかもしれない」 空を見上げていた頭を下ろしてラフィンはエルツと目を合わせる。今まで見てきた陰りのある顔つきではない。何かが吹っ切れて悟ったような、そんな表情をしていた。 「きっとそう。ひいおばあちゃんも私と同じことを思ってるのよ」 「……いいだろう。今日から私は貴女に忠誠を誓おう」 右腕を胸に当てて仰々しく会釈をするラフィンにエルツは思わず笑ってしまう。お城での正式な挨拶はそうだったのかもしれないけど、今は時代も様式も違う。仲間になるのにこんな格式張った挨拶は必要ないのだ。 「そんなに堅苦しくしないで。今日からよろしく、これでいいのよ。私のことは気軽にエルツって呼んで」 「む……分かった。き、今日からよろしくな、エルツ」 砕けた感じの挨拶には慣れていないのかラフィンの言葉は少々ぎこちなかったけれど、何しろ今日が初めてなのだ。だんだんと慣れていってくれればいい。何よりも、ラフィンが自分の提案を受け入れてくれたことが嬉しかった。 「そうそう。こちらこそよろしくね、ラフィン」 どうかよろしく、の握手もサザンドラの腕の形態では難しい。エルツは軽く握りこぶしを作ってラフィンの前に差し出した。最初は何のことか分からず腑に落ちない様子だったラフィンも、やがてエルツの意図を察してくれたらしい。片腕の頭をゆっくりと前に出し、鼻先で彼女の手の甲にそっと、触れたのだ。 おしまい ---- ・次の更新は9月中の予定です。 -あとがき ネタばれを含むので物語をすべて読んでから見ることをおすすめします。 ・この話について 昔夢で見た、古城に静かに佇むサザンドラの姿。その断片的な構図に肉付けして生まれたのが今回のお話です。 昔仕えた主人と瓜二つな子孫がその城を訪れてきた、という物語の流れを思いつきました。永い時を生きるであろうドラゴンポケモンには退廃的な雰囲気も似合います。 ・エルツについて 主人公を女性にしたのは、華奢な女性といかついドラゴンタイプのポケモンの組み合わせが好きだったからです。 廃墟好きの女性で危険な場所へ頻繁に足を踏み入れる割には注意力が足りなくてちょっと頼りない。どちらかというと周りを振り回すタイプ。 曾祖母にあたるエリーシャと外見こそそっくりですが、性格はまったくもって別人。とはいえ変なところで肝が据わっているのはきっとエリーシャ譲りです。 ・リーネについて デンリュウの雌。廃墟でフラッシュ要員が必要なので一緒に連れて歩きやすく、今まで登場させてないポケモンを選びました。 廃墟の暗がりは怖いけどエルツに頼られると頑張ってしまうタイプ。エルツよりも臆病なところがあるので気苦労が絶えないようです。 ラフィンがうちに来るようになったと聞かされて目をまんまるにする彼女の様子が目に浮かびます。 ・ラフィンについて 戦のあった時代から城に仕えていたサザンドラ。物語の中で描写はしませんでしたが、凶暴ポケモンには血なまぐさい背景があっても良いかなと。 龍の波動を放つシーンや、エルツを乗せて飛翔するシーンは書いていてとても楽しかったです。 ラフィンは可愛いあの仔は悪タイプ、に続いて二体目のサザンドラになります。サザンドラの魅力はひとつの物語では語りきれませんね。 最後まで読んでくださった方々、ありがとうございました。 【原稿用紙(20×20行)】98.6(枚) 【総文字数】32505(字) 【行数】660(行) 【台詞:地の文】13:86(%)|4287:28218(字) 【漢字:かな:カナ:他】34:62:6:-3(%)|11102:20159:2255:-1011(字) ---- 何かあればお気軽にどうぞ #pcomment(望郷のコメントログ,10,)