・この拙作は、同じく拙作の[[泡沫のガールフレンド]]についての直接的な続編です。前作で描写したものに関しては意図的に省いている部分があります。
・年齢制限を設けるほどの描写は含まれておりませんが、何をお読みになっても楽しめる方向けのものです。
・2021年9月30日、加筆修正。
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「ごめんなさい……遅れました……」
私たちジムトレーナーを含むジム関係者の全員が着席している横を、このジムのユニフォームである大気圧潜水服を模したバトル衣装ではなく、私服の黒のパーカーとフレアスカートを着たサラナさんが足早に奥へと進む。その様子を私たちジムトレーナーは、ある者は振り返りながら見つめ、ある者は優しい言葉と微笑みを投げ掛けている。
サラナさんは礼儀正しく、めったに時間を破る事がない。しかし、今日はこの定例ミーティングの三十分前に遅刻すると連絡があった。
ここに集う誰もがサラナさんには隠しているが、その理由がたった数十秒前までの議題であった。サラナさんの身の上は、このコンペキジムの誰もが知っている。
ジムリーダーとして挑戦者の前に立つ際は頭から足まで潜水服で隠し、変声機で地声を加工しているが、限られた者にだけ見せるサラナさんは女性的な外見と男性的な先天の性別と声を持つトランスジェンダーだ。
社会が多様性を認め始め、サラナさんも腕が良いストリートトレーナーからジムリーダーへと地位を得たが、私のような&ruby(シスジェンダー・ヘテロセクシャル){先天的心身性別合致・異性愛者};には分からない苦労があるのだろう。それに加えて、サラナさん自身は隠しているが、サラナさんの切り札であるアシレーヌの「ヒメ」との関係も気がかりだ。
ヒメは、ガラル地方においてサラナさんと同じく水タイプのジムリーダーであるルリナさんから、サラナさんへジムリーダー就任祝いとして贈られたポケモンだ。今ではネット上にアップロードされている動画の中にあるのみだが、ルリナさんとヒメの相性は傍目から見ても名コンビと表現する他がないものだった。そのアシレーヌを、ルリナさんはサラナさんの為に手放したのだ。
サラナさんの下においてもヒメは切り札を務めている。挑戦者にとっては、ヒメの攻略とコンペキジムの攻略はほぼ同義だ。しかし、サラナさんとヒメの関係は怪しい。サラナさんの身に原因不明の怪我や傷が見受けられた事は、一度や二度ではない。
私たちは伊達にジムトレーナーを、このミクス地方のリーグ委員会から認められたポケモントレーナーをしていない。サラナさんにとってそれがジムリーダーとしての試練であるから過干渉は控えているが、私たちがヒメを止める時が来るかもしれない。「サラナさんの状態を確認できる」という意味でも、この定例ミーティングは重要だ。
水色の内装と調度品で統一されたミーティングルームの天井は、バトルフィールドであるプールの底だ。この部屋の大きさのみプールの底がガラス張りになっており、ジムバトルの際は閉開式の覆いが動く仕掛けだ。
不気味な実験施設を想起させる機械的なバトルフィールドと異なり、ミーティングルームはこの部屋そのものの他にプールの中に設けられた照明が水の壁を通って照らしている幻想的な空間だ。元々は狭い立地を縦に活かす理由で採用されたが、心地よい話し合いを促す事に一役買っている。
そのミーティングルームの中央に陣取る縦長のテーブルの一番奥、短辺のそこに佇む水色に染められたエグゼクティブチェアへとサラナさんは品良く腰を下ろした。
「本当に遅れてごめんなさい……それで……バトル教室ですか……?」
「そうそう! サラナちゃんもそういうやってもいいと思うの!」
ミーティングの口火を切ったサラナさんに、私と同じジムトレーナーであるナヌムさんが、金色のまとめ髪が彩る顔の横で人差し指を立てた。ナヌムさんはジムトレーナーでありながらリーグ優勝候補常連だ。私を含む他のジムトレーナーと異なり、サラナさんと同じく個人として企業とスポンサー契約を交わしている。
近しい間柄以外には隠しているサラナさんとは対照的に、バイセクシャルである自身のセクシャリティを公言しているナヌムさんは「昔の私を見ているようで放っておけない」と、一回りも歳が低いサラナさんの下でジムトレーナーを務めている。そして、控えめな性格のサラナさんにとっての&ruby(メンター){精神的助言者};でもある。口には出さないが、サラナさんにとって本当に重要な存在はヒメよりもナヌムさんなのかもしれないと、私は日頃から感じている。
「それ、昨日届いた資料のコピー」
ナヌムさんが片手に掲げたそれを軽く振る。サラナさんは黒い横髪を耳に掛けながら、自身の席へ既に用意されていたものへ視線を落とす。嘘か真か判断できないが、昨日は体調不良を理由にサラナさんはジムに顔を出さなかった。私たちジム関係者は既に目を通している。
サラナさんとナヌムさんのスポンサーである、とある腕時計ブランドが若年層のトレーナーに向けたバトル教室を提案してきたのだ。その提案の中では、対象はジムバッジ未所持かつ高校に通うより低い年齢の子ども及びその親子、場所はコンペキジム、費用のほぼ全てを企業が受け持ち、スポンサー契約金額より劣るがジムの関係者全員へ報酬も約束されている。
私個人から見ても全くもって悪くない提案であり、これには企業側にも利益がある。その腕時計ブランドは潜水時計を主とした実用的な性能を売りにしており、フラグシップモデルは並みの中古車が買えるほどの高級志向である。コンペキジムに在籍する有力トレーナーが参加するイベントを主催するとなれば、一般家庭層への良いアピールになる。参加対象に「親子」と含まれているのもそれが理由だろう。資料の中では、コンペキシティの一角に構える時計店でのフェア企画の予定も記載されている。
そして、サラナさん個人へのメリットもある。公私共に社会福祉イベントへ足繁く顔を出すナヌムさんと違って、公の場では全身に甲冑のような潜水服を纏うサラナさんは「コンペキの海の亡霊」の通り名一辺倒のトレーナーだ。バトル衣装姿のサラナさんしか知らないジムリーダーの中にも、サラナさんを苦手としている者がいる。そのイメージを見込んで契約を持ちかけるスポンサーがいる利得もあるが、これではサラナさんの成長に繋がらない。ジムリーダーが席を外している時にナヌムさんがよく喋っている、「サラナちゃんに足りないものは積極性と根性」だと。
「サラナちゃんは、子供は好き?」
「嫌いではないですが……」
テーブルに置かれた資料を見つめている振りをして、サラナさんの目は泳いでいた。サラナさん以外の全員が顔を見合わせる。
その瞬間に私たちの意思は、昨日に引き続き改めて一つの方向に固まった。コンペキジムの意向を決めるのはサラナさんだ。それはナヌムさんでも覆せない。つまり、ジムリーダーが断ればこのイベントは行われない。今のサラナさんは間違いなく非の理由を探している。私たちのジムリーダーにとっては荒治療かもしれないが、現状を最良とは考えていない。私たちの為にも、そしてサラナさんの為にも、このバトル教室は行われなければならない。
「ジムリーダー、やりましょう! この街そのものの為にもなります!」
数週間前にコンペキジムへ研修として赴任してきた若い男性の、リーグ本部所属のジムトレーナーの声がミーティングルームに響いた。彼の言葉に偽りはなく、このような催しは活気が豊かな港街であるコンペキシティをさらに盛り上げる。それこそ定期的なイベントとなれば、この街の新たな観光資源になる。
それと同時に、コンペキジムの印象を変える機会にもなる。コンペキジムはリーグ公認の施設である事は周知の事実だが、外装もバトルフィールドも廃棄された実験施設のようであり、潜水服を着込んだ私たちは水タイプのトレーナーであるが亡霊さながらだ。「日の光が降り注ぐ港街には、あまり似つかわしくない」として、嫌悪感を抱く住人が少なからず存在する噂は耳にしている。その印象が好転すれば、このジムのコンセプトを考えたサラナさんの心境にも変化が訪れるかもしれない。
「私も賛成です。むしろ、反対する理由が見当たりません」
事の成り行きに合わせて口を挟むつもりであったが、私も続いて発言した。サラナさんは資料から顔を上げない。私はそのジムリーダーから視線を移してナヌムさんを見る。「よく言った」と言わんばかりに、無言で笑みを浮かべるナヌムさんが私に向けて握り拳を作った。
「たまには、こういう事もいいと思います」
「サラナさんの事は、俺たちでサポートしますから」
新人さんと私の発言を皮切りに、他のジムトレーナーたちからも賛同の声が上がる。サラナさんの心の支えであるナヌムさんは未だ明言を口にしていないが、これはサラナさんの否定的な返答に備えている為だろう。
サラナさんが不在だった昨日の内に、全てのジム関係者はこの企画に乗るつもりで団結している。サラナさんの性格を考えると心苦しいが、この場においてジムリーダーに賛成する者は皆無だ。
「あ……あのっ……私も……こういうイベントはいいと思います……ですが……」
サラナさんが俯きながら言葉を発し始める。その時だった。
「ジムリーダー! 反対する理由がどこにありますか!?」
「ちょっと待って待って。サラナちゃんの話をちゃんと最後まで聞こうよ」
サラナさんの発言を遮るように叫んだ新人さんを、ナヌムさんが穏やかな声色で窘める。熟練トレーナーのその態度に、彼は己の態度が己が慕うジムリーダーにとって良くないものと察したようだ。
ナヌムさんが席から立ち上がりサラナさんの元へ近づく。一同が見つめるサラナさんは、両目から溢れた雫で資料を濡らしていた。
「申し訳ありません……ジムリーダー……!」
「分かってくれたなら大丈夫。ね、サラナちゃん?」
そう言いながら、ナヌムさんはサラナさんの肩へ後ろから手を置いた。そして、自らの顔をジムリーダーのそれに並べる。
「みんなね、サラナちゃんと同じでコンペキジムを良くしたいと思ってるから、だからちょっと力んじゃっただけ。サラナちゃんを頭ごなしに否定したいわけじゃないよ。あ、ありがとう。顔を拭いたら、みんなを見れるかな?」
私が立ち上がってミーティングルームの隅にある小さなテーブルからボックスティッシュを持ってくると、ナヌムさんが笑顔で受け取った。サラナさんがそれで目や鼻を拭きながら、「ごめんなさい……」と何度も呟く。
新人さんはその様子をばつが悪い顔つきで見守っており、彼の隣に座る二ヶ月早い先輩に当たる若い女性の技術スタッフが彼の脇腹を肘で小突いた。
時間で表現すると、数分だろうか。目を赤くしたサラナさんがゆっくりと顔を上げた。開館日と異なり、今日のジムリーダーはアイメイクを施していないのが幸いだった。ナヌムさんが席に戻ると、サラナさんはもう一度「本当に……何度もごめんなさい……」と一同に詫びた。
サラナさんの性格を、ジム関係者は知っている。性に多様性があるように性格にも幅があり、異を唱えるとしてもそれに合わせた態度を心がけるべきだろう。しかも、相手は目上であるジムリーダーだ。
「ごめんなさい……私もすごく……いいイベントだと思います……ですが……その為にジムバトルを休むのは……どうなんでしょう……開館日には毎日挑戦者が来ます……別の場所でナヌムさんと最小限のスタッフだけ……というのは……?」
その言葉の真意に、サラナさん個人の否定的で回避を目的としたものも含まれているだろう。しかし、ジムリーダーの言葉には一理ある。そして、私たちは既にその答えを用意している。
「ジムリーダー、少しいいですか?」
サラナさんから見て最も遠い場所に座る、コンペキジム専属である初老のリーグ審判が静かに立ち上がった。サラナさんがそうするのに合わせて、私も彼に視線を向ける。
「たしかにジムリーダーが仰るのも尤もです。バトル教室を開催すれば、準備や後片付けも含めて数日はジムバトルをできないでしょう。その解決策として、このイベント開催前から告知を出すのはどうでしょう?」
「それで……大丈夫でしょうか……?」
眉尻を下げた表情で問いを返すサラナさんに、審判は続ける。
「ジムバトルの挑戦者は中長期の旅をしながら各地を回るトレーナーが多い。彼らにとって、数日程度の空白はさほど大きなものではないでしょう。リーグやこのジムのホームページにも予め数週間前から記載しておけば、混乱は避けられるかと。リーグ公式アプリから通知を流す手もあります」
サラナさんのか細い返答が消えた。そのままの表情で、審判を見つめている。
誰もジムリーダーに言及しないが、昨日の欠勤も休館と同義だ。ナヌムさんや、私のような中堅ジムトレーナーが挑戦者を阻めたから事なきを得たが、仮にジムリーダー戦まで駒を進めた挑戦者が現れていたら、休館日の今日を経て明日までそれを待たせていたかもしれない。
それをサラナさんも自覚しているだろう。審判は上手いところを突いた。そして続ける。
「この資料には記載されていませんが、参加対象以外のトレーナーなどにはジムの観客席でイベントを見学できるようにする事を打診してみるのはいかがでしょう? ジムリーダーも気づいていると思いますが、企業にとってこれは宣伝です。それを受ける人間が増える事を拒むはずはないでしょう。参加対象以外のトレーナー、つまりはジムの挑戦者にとってですが、彼らにはジム攻略の予習になります。リーグ規定に、『これからジムに挑戦する者が、そのジムリーダー戦の観戦をしてはならない』というものはないですから、こちらはジム挑戦臨時休止の届け出のみで問題ないでしょう」
「なるほど! ご尤もです!」
リーグ審判が言い終わると、新人さんがすぐさま声高らかに相槌を打った。審判が座ると、テーブルを囲む面々から「たしかに、企業の言いなりになる必要はないな」や「みんなで盛り上がりたいね」という声が次々と上がる。この議題に最終的な判断を下す権利を持つサラナさんは、ジム関係者とは対照的に再びテーブルへと顔を向けて俯いた。
審判の言葉に非の打ちどころがないのは、サラナさんの耳から聞いても同じだろう。反論と否決の理由があるとしたら、ジムリーダー個人の心境に他ならない。サラナさんの表情を暗くしたものは、その葛藤だろう。
先ほどの一件があった手前、サラナさんへ強引に返答を求める者は誰もいない。しかし、私を含めた一同はサラナさんのそれを静かに待っている。その時だった。
「サラナちゃん」
ここまで話し合い自体には直接的に加わらなかったナヌムさんが、灰色のセーターを着た背中を椅子の背もたれに預け、両手の指を軽く組みながら言った。
「サラナちゃんはどうしたい? ここのジムリーダーはサラナちゃんだから、サラナちゃんが決めていいんだよ」
「…………」
サラナさんは黙ったままだ。それでもナヌムさんは笑みを絶やす事がない。
「私たちの事は考えなくていいよ。それから、リーグやスポンサーや子供たちの事も。だけど私の考えを言うと、少しでもサラナちゃんがやってみたいと思うなら、今のサラナちゃんから少しでも変わりたいと思うなら、絶対良い経験になるよ」
それはナヌムさんの本心そのものだろう。ナヌムさんには、「サラナさんの事を思って」という理由以外に、サラナさんをこの企画へ促すメリットがない。
サラナさんが断れば間違いなく企業は、既に構想を練っているであろう次の案へ、ジムリーダーと同じく契約を結んでいるナヌムさんを主体としたものへと鞍替えするはずだ。実のところ、企業にとってサラナさんが参加するか否かはさほど重要ではなく、そこに注目しているのは私たちだ。
サラナさんに、自分から最初の一歩を踏み出してほしい。サラナさんが変わるきっかけを、自分から掴んでほしい。ここに集う誰もが、それに伴う苦労を厭わないだろう。それは私たち自身の成長に繋がり、サラナさんを慕うが故の願いだ。
しばらく、沈黙が続いた。その間、私たちはおろかナヌムさんも一言も投げ掛ける事なくサラナさんを見守った。時間にすればわずか数分だったのかもしれない。しかし、私はとても長い月日に感じられ、そして期待を込めて沈黙を貫いた。
「……私も……やりたいです……」
サラナさんは俯いたままだったが、その言葉はミーティングを囲む全員の耳に届いた。
「よく頑張ったね、サラナちゃん。じゃあ、企業の方にこっちから要望する事をまとめようか」
「それと、当日のスケジュールや準備期間の大まかな流れも決めておきましょう。ジムでの開催ですから会場費はゼロですが、バトル教室をするならその為の、あちらに請求する設備費や時間がかかりますから」
「僕は来てくれた人やポケモンみんなが楽しめるものにしたいです!」
「そうそう、そんな感じ。サラナちゃんは何か考えある?」
待っていたと言わんばかりにジムトレーナーたちから議題を進める声が上がる。発言する者も見守る者も、その顔色は明るい。私が横目で窺うサラナさんも、先ほどより曇りが晴れた顔つきを一同に向けて上げた。
&size(20){敵意の水面に虹を架ける・前編};
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コンペキジムのバトルフィールドと観客席は、端っこにある非常階段みたいなジグザグの金属製のそれで繋がってる。そこをふたりの子どもがカンカンと足音を立てて降りてきた。ひとりはリズムよく軽やかに、ひとりは一歩ずつゆっくりと。
今日のジムは元々あるプールの中のもの以外に、壁に付けた追加の照明があるから、ホラー映画みたいな寂しい雰囲気になってない。それに、スピーカーからはマイクからの声の他に明るいポップ曲を、人の声を邪魔しないくらいの音量で流し続けてる。
活発そうな女の子は、茶色のショートボブの髪に、長袖で紫色のワンピースを着た子。控えめそうな女の子は、赤茶毛のポニーテールで、紺色のデニムジャケットと黒スキニーを着た子。本当に女の子なのかな。私が生まれた時の性別と見た目が違うから、どうしても目に見える形を疑っちゃう。
そのふたりが、バトルフィールドのプールに背中を向けた私とナヌムさんの間に立つ。すると、もう一度観客席からは拍手が沸き起こった。引っ込み事案な女の子が私のパートナーに選ばれる理由を作ったその子の父親は、周りのお客さんよりも大きく手を振って応援している。
ワンピースの子はみんなに手を振り返しているけど、デニムジャケットの子は少し離れて隣に立つ私を見てオドオドしてる。なんだか、私とナヌムさんを人の目から見てるみたいに思えちゃう。といっても、今の私は体の全部を潜水服のバトル衣装で隠した「本番モード」だけど。
「落ち着いて、ゆっくり息を吸って吐けば、少しは気持ちが楽になります」
ヘルメットの内側にある、瞳の動きを感知する操作でジムのスピーカーとの無線接続を切って、衣装そのものに付いているそれに繋ぎ直してから私は控えめそうな子に話しかけた。だけど、その子は自分を見下ろす私に余計怯えちゃったみたいで、胸の前で腕を縮こませて俯いちゃった。
「ごめんね」って謝りたいけど、今の私は「コンペキの海の亡霊」だからそれができない。プールショーみたいな華やかで楽しいバトル講座が終わって、「ジムリーダー・サラナやジムトレーナー・ナヌムとの共同バトル」に入ったから、小さな子どもやそのお父さんお母さん以外にもお客さんが入ってきた。模擬戦の後に予定されているクイズ大会の景品がほしいお客さんや、私やナヌムさんの応援グッズを持ったファンの人もいる。だから私は、「ジムリーダーのサラナ」を演じなきゃいけない。
とはいえ、これじゃあ模擬戦はやる前から結果が分かっちゃう。ナヌムさんとパートナーを組む子は、私と違って他のジムトレーナーと同じでヘルメットの代わりに小型のヘッドセットを付けたナヌムさんと小さなダンスをしてる。私の方は、私の所為で自己紹介さえできてない。
こういう時、ナヌムさんだったらどうするのかな。そう思ってヘルメット越しにナヌムさんを見ると、腰をかがめて女の子とハイタッチをしてるナヌムさんは一瞬だけ穏やかな顔で私を見た。
ナヌムさんは期待してる。ううん、ナヌムさんだけじゃなく、ジムのみんなが私にそう思ってる。
知らない子と一緒にバトルするなんてすごく怖いけど、ここまで来たんだから最後までやるしかない。やるのは「ジムリーダーのサラナ」だけど、「私」自身の成長になると思う。
私は小さな女の子に近づいてく。一歩踏み出したら女の子は私に背中を向けて、ガチャガチャと私が歩くごとにどんどん背中が丸まっていった。ナヌムさんたちから見て、私はこう見えるのかな。なんだか不思議な気分だし、結構恥ずかしい。
私が女の子の後ろで片方の膝を床に着けてしゃがむ頃には、女の子は前かがみになって体を少し震わせてた。その肩に、私は鋼のグローブをした両手を置く。女の子は払いのける事はしなかったけど、ビクンと大きく驚いた。鋼の潜水服を着ていたから大丈夫だったけど、それで私もすごい驚いちゃった。
このままタマザラシみたいにまん丸になっていきそうな女の子に向かって、私はさっきよりスピーカーの音量を下げて言った。
「怖がらないで、私の小さなパートナー。あなたの力が必要です」
ちょっとカッコつけすぎだったかな。それは分からないけど、女の子が顔だけは私におそるおそる向けてきた。つむってしまいそうなくらい目を細くしてあんまり私を見ないようにする女の子は、やっぱり私が怖いんだと思う。特にヘルメットは小さな窓がいくつも並んでいて、自分でデザインしたくせに自分でもちょっと不気味に思っちゃうし。だから、私の態度とか言葉でどうにかしなきゃ。
「私はサラナ。あなたが知っている通り、コンペキジムのジムリーダーです。そして、これからあなたのパートナーになります」
頭は動かさないで目だけを動かして、私はヘルメットの内側の映像を移動させたりズームする。ナヌムさんとパートナーの女の子も、今日のイベントの司会をしてくれているリーグからこのジムに研修で来た新人さんも、みんな私を待ってくれてる。何度も何度も謝りたくなるけど、「ジムリーダーのサラナ」が許してくれない。
そして、私は私のパートナーを待ってる。女の子は口をモゴモゴさせて私を見てる。たぶん何か言いたいんだと思う。
「どうしました、パートナー?」
「あ……あの……ね……」
そう、がんばって。もう少し。他の指と違って一本だけで動く私の親指は、この子の目に溜まってきた涙を拭いてあげたいけど、じっと我慢する。
「あのね……ジムリーダーさんって……本当にゆうれいなの……?」
私はとっさにスピーカーの接続を切った。がんばって私に話しかけてくれたこの子には悪いけど、ヘルメットの下の私の顔は自分でも分かるくらいおかしくて笑ちゃった。そうだよね、こんな姿じゃそう思っちゃうよね。
『サラナさん、大丈夫ですか?』
「はい……どうやら私……本物の幽霊だと思われてたみたいです……」
『自己申告が確かなら、十歳にもなっていませんから無理もないです。こちらから進行を促しますか?』
「いえ……私でやってみます……」
「ジムリーダーさん……どうしたの……?」
別の部屋でイベントの裏方をしてるジムトレーナーやスタッフと通信してる間に、私が何も返してなかったから女の子の両目からはついに涙が流れちゃった。
私はゆっくりした動きで、左手を自分の胸へ当てながら、右手で女の子の片方のほっぺを拭ってあげる。ちょっとまた驚いたけど、女の子は嫌がらなかった。そうしながら、スピーカーの接続を直す。
「私は幽霊ではありません。鉄の服を着ていますが、あなたと同じ人間です」
「……そうなの?」
「ええ。さっきはたくさんの水ポケモンを見ましたよね? ポケモンと同じように、人間にもたくさんの種類があります。人間同士、そしてポケモンと人間が一緒になれば素晴らしい事ができると、あなたに教えたいのです」
私は女の子の前で立ち上がる。私自身の心の傷と、ヒメちゃんに一昨日の夜に押し倒された時に痛めた腰を隠しながら。こんな事を言っちゃったけど、私自身はまだまだ未熟。だけど、この子には関係なくて、しっかりしなきゃ。
まだ胸の前で腕を構えてるけど、女の子の背筋が伸びた。それで、少しどよめいてた観客席ももう一度盛り上がった。ナヌムさんを見ると、ナヌムさんも私を見てて、パートナーと手を繋いでいない右手を私に向けて握り拳を作った。私、がんばったかな、ナヌムさん。
「それではおふたりとも、このマイクを付けて自己紹介をお願いできるかな? うん、機械の方はポケットに入れるか、手に持ってね」
私と私のパートナーを待っていた新人さんがすかさず女の子たちふたりに駆け寄ってきて、グローブをしていない手で小型のピンマイクを渡した。新人さんは今日のイベントでずっと司会を担当してる。若い情熱だけじゃなく、こういう才能もあったみたい。新人さんより歳下で、引っ込み思案な私が褒めれる事じゃないかもしれないけど。でも、この事は後でリーグ本部へ出す評価シートにちゃんと書かないと。
「そうそう、そんな感じ。似合うじゃ〜ん」
「その黒い機械は、服のポケットに入れましょうか」
私とナヌムさんは、それぞれのパートナーがマイクを付ける手助けをする。私は遠隔操作でマイクの電源を入れた。設定が済んだものをふたりに渡していて、電源を入れるだけでジムのスピーカーと繋がる仕組みになってる。
「あっ、わっ!! すごい!! こえが大きくなった!!」
マイクを付けたナヌムさんのパートナーの女の子が、スピーカーから出る自分の声に驚いた。
「パパー!! ママー!!」
たったそれだけでマイクに慣れたみたいで、ナヌムさんの相棒ちゃんはマイクを使って叫びながら観客席のお父さんとお母さんに手を振る。
「あー……あー……あー……」
私の相棒ちゃんは片手でマイクをつまみながら、少しずつ大きな声を出してる。こういうのって、やっぱり性格が出るなあ。もしも初めてだったら、私も私のパートナーと同じ反応をしてたと思う。
「大丈夫ですか?」
「うん……」
私も自分のヘルメットに付いてる機械をジムのスピーカーに接続させてから、私の相棒ちゃんとそんな受け答えをする。新人さんが子どもたちの前で膝を着いてしゃがんだ。
「それでは、あらためて、お名前は?」
「あたし、ペルディータ! みんなから『ペルディ』ってよばれてるの!」
「僕もペルディちゃんって呼んでいいかな?」
「もちろんいいよ!」
「ありがとう。ペルディちゃんは何歳かな?」
「ことしで6さい!」
「ペルディちゃんはポケモンが好きかな?」
「もちろん大すき!!」
私が六歳の頃って、どうだったかな。嫌な事を思い出しそうになって、私は逃げるようにペルディちゃんから私のパートナーを見た。
「ありがとう、ペルディちゃん。それでは、もうひとりのお友達にも自己紹介して頂きましょう。お名前は?」
「…………」
「自分のお名前、言えるかな?」
「あの……私……メリナ……」
「よく言えました。メリナちゃんは何歳かな?」
「今年で……七さい……」
「メリナちゃんもポケモンが好きかな?」
「うん……」
「それはよかった。それでは皆さん、当ジムのトレーナーと小さなチャレンジャーはこれから作戦タイムに入ります!」
事前に決めていた予定通り、新人さんが作戦タイムの宣言を叫んだ。もう一度観客席が盛り上がり、キョロキョロして状況が飲みこめていないメリナちゃんの横で私は膝をつけてしゃがんだ。
「心配しないでください、メリナ。これから、バトルの作戦を話し合います」
「そうなんだ……ジムリーダーさんがたたかうの……?」
「私とメリナ、ナヌムとペルディがチームとなって、それぞれポケモンを一体ずつ出し合ってバトルします」
「私も……?」
「はい、力を貸してください」
「私……できるかな……」
「大丈夫です、私が手伝います」
そもそもメリナちゃんは、今から何をするかも分かっていなかったみたい。子どもとの話し方ってすごく難しいけど、なんだかそれが上達してくような気がする。これだったらヒメちゃんとも、もっといいコミュニケーションができるようになるのかな。
ナヌムさんの方もペルディちゃんの隣でしゃがんだ。「これからなにするの!?」ってはしゃぐペルディちゃんに、笑顔のナヌムさんは何も言わないで右の手の平で口を隠した。そうすると、ペルディちゃんも大急ぎで口を押さえた。本当にナヌムさんは上手だなあ。
ペルディちゃんとその隣で膝をついた潜水服姿のナヌムさんは、お姫様とボディーガードの騎士みたい。ナヌムさんは女性としてもトレーナーとしてもカッコイイからなあ。ヒメちゃんとしかキスした事がない私と違って、ナヌムさんは何回も、男の人とも女の人とも付き合った事があるって言ってたし。私たちの方はどうかな。もしかしたら、いたいけな女の子をさらいに来た本物の亡霊に見えちゃってるのかも。
「ジムリーダー、これを」
「感謝します」
「ジムリーダー・サラナとジムトレーナー・ナヌムには八枚のカードが配られました! 皆さんには、モニターに映っているものと同じです!」
新人さんから八枚のカードを、扇のように広げた状態でそれぞれの手に四枚ずつ受け取る。これもあらかじめ決めてた事。こうしないと潜水服の手でカードが掴めないし、カードを使って目に見える形にしないと小さな子にポケモン選出の戦術を教えるのが難しいから。ナヌムさんの方も私と同じように受け取って、ペルディちゃんに見せている。
頭を動かさず瞳の動きだけでヘルメット越しの視界を動かすと、新人さんの言葉通り、いつもはジムバトルの演出のためにノイズ混じりの大型スコアボードホログラムモニターに、今日ははっきりとした画質で八体のポケモンが表示されてる。
「メリナ、このカードのポケモンたちが分かりますか?」
「あたし、しってるよ! 青いカードがオトスパス、ガブリアス、キングドラ、エンペルト! 赤いカードがブルンゲル、ドラミドロ、ダダリン、アシレーヌ!」
私たちの声はスピーカーでジムの中に響くから、私の質問にペルディちゃんが答える。これも想定通り。だから、選出を決める時になったら忘れずマイクの電源を操作しないと。
「私も知ってた……」
「ペルディちゃんもメリナちゃんもすごいね〜!」
「ねえねえ、ナヌムさん! ほんとにすごい!?」
「本当だよ〜!」
「やった〜!!」
「……私もすごい?」
「ええ、素晴らしいです。メリナとなら、きっと良いバトルができるでしょう。では、これからの事を話しますから、ふたりともちゃんと聞いてくださいね」
「は〜い!」
「……うん」
メリナちゃんとペルディちゃんに分かるような言葉で、私はふたりに共同バトルのルールを教え始めた。それと、コンペキジムのバトルフィールドの簡単な特徴も。その様子を、ナヌムさんは静かな笑顔で見守ってる。
ルールは簡単なワンオンワン。ジムトレーナー同士の軽い練習でも使われてるバトル形式。いつものそれと違うのは、私はメリナちゃんが一緒で、ナヌムさんはペルディちゃんが一緒の、トレーナーはふたり同士という変則ルール。そして、ポケモンへの指示はメリナちゃんやペルディちゃんが主体になって出してもらう事になってる。私やナヌムさんはあくまでサポートという形。
このバトルの目的は、「ポケモントレーナーになる前の十歳未満の子に、ポケモンバトルを体験してもらいたい」というもの。本当はメリナちゃんやペルディちゃんだけじゃなく、お客さんとして来てる子どもたちみんなにバトルを体験してもらいたい。だけど、それだと時間がいくらあっても足りないから、手を上げたお客さんの中から司会の新人さんがふたりだけ選んで、それがペルディちゃんとメリナちゃんのお父さんだった。このバトル教室に、次はあるのかな。それは私次第なんだろうなあ。私は、こういうのは、ああ、でも、「ジムリーダーのサラナ」になっててもちょっと恥ずかしい。
私とナヌムさんが持つ八枚のカードはそれぞれ四枚ずつ、赤や青の背景にポケモンの姿があって、それが私の手持ちとナヌムさんの手持ちを表してる。ペルディちゃんが言った通り、ブルンゲル、ドラミドロ、ダダリン、アシレーヌが私のポケモンで、オトスパス、ガブリアス、キングドラ、エンペルトがナヌムさんのポケモン。本当はヒメちゃんのカードは隠しておきたいけど、それはヒメちゃんに失礼だから選択肢に加えてる。
ホログラムモニターの画面も同じで、それぞれのポケモンの下には覚えてる技が書いてある。私とナヌムさんはもう練習や公式バトルで何百回もバトルしてるから、こうやって公開しなくても暗記してる。だからこれはメリナちゃんやペルディちゃん、お客さんの子どもたちの為。
といっても、ナヌムさんはカードやモニターに書かれていない部分は、例えばどこを鍛えてるかとかは変えてるかもしれない。そもそも最後にバトル教室の予行練習した三日前から技が少し変わってるし、去年の決勝トーナメントではたった数時間の空き時間の間にガブリアスの「スラッシュ」くんをゲットしてきたナヌムさんに負けたし。私のあだ名は「コンペキの海の亡霊」だけど、ナヌムさんは「掟破りのナヌム」だもんなあ。ナヌムさんがペルディちゃんの耳に何かを囁くなら警戒しないと。
「メリナ、ブルンゲルのタイプは分かりますか?」
「水と……わかんない……」
「あたし、しってる! 水とゴースト!」
またペルディちゃんが答えて、メリナちゃんの目にはまた涙が溜まってきた。私はカードを持ったままの手で、メリナちゃんの頭を優しく撫でてあげる。
「いいんですよ、今覚えてくれれば。その為のバトルですから」
「うん……」
「その意気です。メリナ、オトスパスのタイプは分かりますか?」
そうやってメリナちゃんにポケモンのタイプを教えていく。ナヌムさんはナヌムさんで、ペルディちゃんに「この中で一番速いのはどの子だと思う?」って質問から始めていく。
これはバトル教室だから、ポケモンのタイプや技やそれらの特徴みたいな基礎的な知識から教えていく。私たちの声はスピーカーで大きくなってるからお客さんにも聞こえて、観客席から子どもの「そうなんだ!」や「知らなかった!」って声が聞こえてきて、その度に新人さんの簡単な解説が入る。
ピンマイクを着ける時にも思ったけど、メリナちゃんは飲み込みが早い。知らない事は一回で覚えて、タイプ相性を考える時からは私が何も言わなくても自分で考えこんだ。子どもだって侮ってた私を私が見下す。もしかしたら、本当にいいトレーナーになるかもしれない。
「ここでメリナちゃんとペルディちゃんのマイクが切れます。ふたりがどのポケモンを選ぶかは、観客席の皆さんも想像してみてください!」
新人さんがそう言ったから、私はふたりのマイクの接続を切った。ペルディちゃんは「どうやってマイクきったの!?」ってナヌムさんに質問してて、メリナちゃんは私が持つカードと睨めっこをしてる。
「メリナ、バトルに出すポケモンは決まりましたか? 声に出さないで、指でそのカードを私に教えてください」
「うん……この子はどうかな……?」
そう言ってメリナちゃんは私が右手に持つカードの一つを指差して、ヘルメットをつけた私の顔に振り向いた。私のパートナーが選んだポケモンは、ニックネームは「ギルティ」ちゃん。私は少し驚いちゃった。まさかこの子を選ぶなんて。そして私は、ヒメちゃんが選ばれなくてホッとしちゃった。
ギルティちゃんは打たれ強さを主体にして育てたポケモン。だけど種族としての攻撃力も高い。ナヌムさんと戦うとなったら作戦が必要になるけど、メリナちゃんにそれはあるのかな。ただ単に選んだわけじゃなさそうだし、本当に面白いバトルになりそう。
「だめ……かな……?」
「ポケモンバトルに駄目はありません。それがメリナの考えなら、私はメリナのサポートをします。逆に、ペルディは誰を選ぶと思いますか?」
「ペルディちゃん……?」
「はい」
「たぶん……この子じゃないかな?」
やっぱりメリナちゃんはすごい。さっきからのナヌムさんとペルディちゃんの会話から、ペルディちゃんが「ブルーム」ちゃんを選ぶ可能性はなくはない。プロトレーナーとしての勘と、ポケモントレーナーになった事さえない子の考えが同じなんて。
ナヌムさんが私に内緒でブルームちゃんの鍛え直しをしてなければ、ブルームちゃんは素早さと攻撃を高めてるままのはず。打たれ強さと素早さのバトル。私とナヌムさんでも、ギルティちゃんとブルームちゃんのバトルは久しぶりだし、ふたりやお客さんも楽しいはず。
「私もそう思います。メリナ、良い考えです」
「うん……ありがとう……」
「ナヌム、私たちは決まりました。そちらはどうですか?」
「ペルディちゃん! いいじゃんいいじゃん! あ、こっちも決まったよ!」
「両チームとも作戦が決まったようです! それでは、持ち場に着いてください!
いよいよバトルが始まります!」
新人さんの声で、観客席からまた大声が起こった。子どもたちやその親御さんの他に、私やナヌムさんが描いてあるグッズやメッセージボードを持ち上げるファンの人もいる。私はまた、メリナちゃんとペルディちゃんのマイクをオンにした。
「それじゃ、ペルディちゃん! 頑張ろうね!」
「うん! ぜったいかとうね!」
「勿論だよ!」
そう言ってナヌムさんとペルディちゃんは手を繋ぎながら、観客席から見て左側の持ち場へ歩いてく。もうあんなに仲がいい。
私が頭を動かさず隣を見下ろすと、その様子をメリナちゃんがジッと見つめてた。たぶん、こうするのが正解なんだと思う。
「メリナ、私たちも行きましょう。あなたの勝利の為に」
私はそう言いながら、ナヌムさんと同じように片手にカードを集めて、もう片方の手をメリナちゃんに差し出した。メリナちゃんは無言で私の顔を見上げた後、静かに自分の手で私のそれを握った。
「ジムリーダーさんといっしょなら……かてるよね……?」
「ええ、勿論です。あなたなら、そして私たちなら負けません」
「うん……」
メリナちゃんの頷きに、私も頷いて返す。そして、メリナちゃんと手を繋いだまま、私はナヌムさんたちとは反対の持ち場に向かって歩き出す。観客席に手を振るペルディちゃんと違って、メリナちゃんは私の隣を歩きながらまだ考えこんでる。たぶん、本気でこのバトルを勝ちたいって思ってる。
プレッシャーに強いのはペルディちゃん、考え深いのはメリナちゃん。プロトレーナーとしての私はこの対戦カードをすごく面白いと思うし、お客さんだけじゃなくジムのみんなにも新しい発見があるかもしれない。勿論、私にも。
『全て予定通りです。照明、落とします』
「はい、お願いします……」
その通信の後にすぐ、観客席より上の壁に取り付けられてる仮設照明が消えた。明かりはプールの中のものと、観客席の柵に付けられた遠隔操作の小型スポットライト、それにホログラムモニターだけになった。いつものジムバトルには仮設の照明やスポットライトはないし、モニターも切っちゃうんだけど、今回はバトル教室だからモニターはそのまま。マイクとスピーカー接続の設定をし直す。
「ひっ」
「大丈夫ですよ、明かりが少なくなっただけです」
照明が消えるとメリナちゃんが小さな悲鳴を上げたけど、すぐに落ち着いた。私は目の動きでヘルメットの中の映像を操作して、ジムの中を見渡す。
最初にこのバトル教室の話題が出た定例ミーティングから今日まで、たった三週間とちょっとだけの準備期間だった。お金を出してくれる企業がコンペキのとある時計店でのフェア企画と同時開催にしたかったからなんだけど、短い時間の中でこれだけすごいバトル教室を開けた。
私もジムリーダーとしてできる限りの事はやったつもりだけど、私よりもジムのみんなががんばってくれた。企業やリーグとの連絡や、ウェブサイトの編集や告知、ジムチャレンジが終わった夜中に仮設照明を付けてくれた人やポケモンたちもいるし、この模擬戦の前のバトル講座に出てたジムトレーナーたち、今だって表舞台に立つナヌムさんや新人さん、裏でイベントの進行を管理してるスタッフもいる。
忘れたつもりはないけど私はあらためて、自分がジムリーダーをやっていられるのは、たくさんの人やポケモンに支えられてるからだと再認識した。このコンペキジムの誰もがこのバトル教室の成功を願ってて、私のがんばりを期待してる。
私はもっとがんばらなくちゃ。今までの方法じゃなく、もっと、人としてジムリーダーとしてよりいい方法で。たぶんそれができたら、ヒメちゃんも私の事を今よりも好きになってくれると思う。ヒメちゃんが私を傷つけるのは、ヒメちゃんなりの応援だと思う。今日は出番がなくてごめんなさいだけど、ボールの中から見ててね、ヒメちゃん。
私たちとナヌムさんたちは、それぞれバトルフィールドのはじっこの持ち場に着いた。腰に手を当てて堂々と立ってこっちを見つめるナヌムさんと、それを真似っこするペルディちゃん。ナヌムさんは当たり前だし、ポケモンをゲットした事がないペルディちゃんもサマになってるなあ。
「ジムリーダー・サラナとジムトレーナー・ナヌムの実力はほぼ互角! 普段はライバルとしてバトルの練習をしています! それにペルディちゃんとメリナちゃんが加わると、どんなバトルになるでしょうか! 期待しましょう!」
そう言って場を盛り上げてくれてる新人さんとは別に、私に近づいてきたジムトレーナーにさっきのカードを渡した。ナヌムさんの方も同じ。
私はメリナちゃんと手を繋いだまま、腰についたボールホルスターからダイブボールを一つ手に取る。勿論、この中にはギルティちゃんがいる。私は手に持ったギルティちゃんのボールをヘルメットの前まで持ち上げてから、今度は少し腰をかがめてメリナちゃんの目の前に掲げた。不思議そうな顔をして、メリナちゃんが私を見上げた。メリナちゃんのマイク接続を切って、私のマイクは衣装のスピーカーに繋げ直して音量をしぼる。
「この中に、メリナが選んだドラミドロがいます。ニックネームはギルティです」
「これが……ドラミドロのボール……」
メリナちゃんは片手を上げて、ギルティちゃんのボールを優しく撫でた。本当に、トレーナーになるのが楽しみな子だなあ。その時まで私は、いい意味でメリナちゃんが打ち破らなきゃいけない壁としてジムリーダーを続けていたい。
「ギルティに祈ってあげてください、バトルに勝てるように。私も、メリナとギルティが勝てるようにサポートします」
「うん……がんばってね……ギルティ……」
メリナちゃんが両手の指を組んで、それから目をつむってお祈りしてくれた。バトル前のお祈りは、私なりの流儀。体を張ってバトルしてくれるのはトレーナーじゃなくてポケモンだから、その感謝と尊敬をこめて。
「ありがとう、メリナ。一緒に頑張りましょう」
「うん……がんばろう……!」
「準備はいいかなー! ふたりともー!」
「いいかなー!」
スピーカーを通して、ナヌムさんとナヌムさんの真似っこをするペルディちゃんが叫んだ。私たちのマイクをジムのスピーカーに繋げ直す。そして私は腰を伸ばして、ナヌムさんたちの方をヘルメットごしに睨んだ。目の動きだけでメリナちゃんの顔をチラッと覗くと、メリナちゃんも鋭い顔つきでナヌムさんとペルディちゃんを見てた。最初はあんなにビクビク怯えてたのが嘘みたい。
「ええ、できました。メリナもいいですね?」
「うん……!」
「模擬戦とはいえ、手加減はしないからねー!」
「しないからねー!」
「こちらもそのつもりです。私とメリナから、安々と勝ちを奪えると思わないでください」
本当は、前もってバトルの流れを決めておいた方がアクシデントを防げるんだけど、子どもたちが初めて見るかもしれない生のプロトレーナー同士のバトルが八百長なんて私もナヌムさんもプライドが許せないから、シナリオなしの本物に限りなく近いバトル。
『防護バリア、展開します』
「はい、お願いします」
だけど、私もナヌムさんもトレーナーになった時に覚悟を教えられたけど、メリナちゃんやペルディちゃんはまだトレーナーじゃないから、ポケモンへ間近で指示を出してる時に怪我をしないように、プールのふちを囲むように設置した仮設の非対称性透過バリア装置を起動してもらう。
またスピーカーの接続を切り替える。これで本当に準備は全部できた。
二つの鉄橋がかけられたバトルフィールドのプールの先。そこには、ナヌムさんは足を前と後ろに開いたサイドスローの構えでボールを持って、隣でペルディちゃんがこれも真似っこしてる。私はメリナちゃんの手を握ったまま、ヘルメットの顔の横でバックハンドの構えを作る。
「じゃあ、行くよ! 頑張ろうね、ペルディちゃん!」
「うん! ぜったいまけない!」
「メリナ、あなたの才能を見せつける時です」
「よくわかんないけど……がんばる……!」
「それではこれより各チーム二名と一体ずつによる共同バトルを始めます! 両チーム、ポケモンを出してください!」
私たちから見てプールの左のふちの真ん中に立つ、クレーンみたいな形の審判椅子からこのジム専属のリーグ審判がそう宣言して、私とナヌムさんはフィールドへボールを投げながら叫んだ。
「出番だ、ギルティ!」
「ゴー! マイプレシャス、ブルーム!」
やっぱりだ、メリナちゃんの予想が当たった。ボールを投げた瞬間、ナヌムさんの顔がニヤリと笑った。あっちも予想してたのかな。それは分からないけど、将来有望なメリナちゃんとジムリーダーの私、そしてギルティちゃんとで迎え撃つだけ。
お互いが投げたボールが空中で割れて、光が飛び出す。私やナヌムさんが付けたニックネームを知ってる新人さんが、光が消えてポケモンが見える一瞬前から叫んだ。
「ジムリーダー・サラナとメリナちゃん、選んだポケモンはドラミドロのギルティ! ジムトレーナー・ナヌムとペルディちゃん、選んだポケモンはキングドラのブルーム! プロトレーナーと子どもの共同バトルは、両者とも水に住むドラゴンポケモンを選びました!!」
続
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・この続きは[[敵意の水面に虹を架ける・後編]]へどうぞ。
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