ポケモン小説wiki
愛のマヨヒガ の変更点


#include(第三回仮面小説大会情報窓・非エロ部門,notitle)
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主な登場人物紹介
ターキーさん:ズルズキン♂
 孤児院の院長先生。ちょっと失礼な発言が多い。

ソルベさん:グレイシア♀
 孤児院のシスターの一匹。切り盛り担当。院長先生のお目付け役。

バニラ:エモンガ♀
ソルト:ジャノビー♂
ピール:フタチマル♀
 孤児院の子供たち、問題児ABC


はじまりがき
 八月の半ば、十五日から十六日の間、孤児院の子供たちが失踪した。もともと辺鄙なところにあったぼろぼろの孤児院だったので、だれにも気にかけることはなかったが、孤児院の院長と経営を守っていたその他のポケモン達は眥を吊り上げて陰鬱な気分を飲み下していた。不審な明かりが見える、と第一報を入れたのはソルベだった。時間帯は午前三時を過ぎたところだっただろうか、机に突っ伏して泥のように眠っていたターキーは跳ねるように飛び起きた。
「どこだ」
「あちらの造林のあたりからです。北の山の上方」平静を装いながらも、ソルベの顔は暗雲が垂れこめているように曇った。気温、摂氏九・七度、実効湿度七十・八パーセント。風速毎秒十四・四メートル。折からの異常乾燥注意報など、とっくの昔に火災警報に切り替わってもおかしくはなかった。ラジオのチューニングを合わせながら、目を大きく見開いて、ターキーは不審な明かりを見据える。首筋から冷汗が伝うのを、静かに感じていた。
「まさか……」
 まさか、そんなはずはない、と思いたかった。ここ数年の間で、このあたりに火災警報が鳴り響いたことはない。ただ単にこの場所は海にも山にも面しているため、潮のせいで警報機が錆びついてしまっていると思ってしまえばそれだけだったが、二カ月ほど前に警報機は新しいのをたてたばかりで、急速に壊れるようなら不良品として返品したい気分だった。
 ぬるい風が室内に吹きつけて、二人の背中を舐めるように撫で上げた。ソルベに押されるように、硬直していた体を叩きだし、孤児院の出入り口を乱雑に蹴飛ばす。立てつけの悪かった木製の引き戸はけたたましい音をたてて前のめりに倒れこんだ。
「何壊してるんですか」修理代を慮ったソルベの悲痛な声に対して、ターキーは犬歯を打ち鳴らして大きく息をついた。「子供たちとドアの修理代と、どっちが大事だ」子供たちの方が大事だが、光が見えたからと言って子供たちだとは限らない。いや、とソルベは首を振った。あれが火災だったとしたら、異常乾燥しているこのあたり一帯はすぐに火の海に変わるだろう。結局、あれが何なのか確かめない限り、孤児院も無事で済むわけではなく、ソルベは眉を顰めた。
 孤児院の北には黒々とした山並みが横たわっている。昼間なら、晩夏の滑る空を背景に緑の山が連なるのが見えただろう。常緑樹の造林がゆっくりと盛り上がり、なだらかに折り重なる稜線、そこに点々と混じる鮮やかな季節の草花、遠目からでもはっきりとその光景が想起できるほど、ターキーにとっては見慣れた山だった。
 それは今、無数の光点を撒いた星空を切り取り、漆黒の影として横たわっている。満天の星のひとつが散り落ちたように、まばゆい光が見えていたが、それが常にそこにあるものかどうかまでは判然としなかった。
「ソルベちゃん、見えるか?」
「いえ、うっすらとしか」
 ターキーの言葉に相槌を打ちながら、ソルベは目を細めた。身を軋ませるほどの寒風が正面から押し寄せてきていた。それは山の上方から孤児院に向かって吹き下ろしている。およそ夏にはそぐわない様な背筋の走る風を身に受けながら、ターキーに目を合わせたまま体を少し震わせた。風も乾燥している、あの光が火の手なら、瞬く間に燃え広がるだろう。
「近くに行かないとわかりませんね、どうしますか?」問いかけに意味をもたなとわかっていても、問いかけてしまうのは相手の顔色を伺いながら対応を求める行為と似ているなと思った。「決まってるだろう、行くぞ」即決の言葉を受け取り、ソルベは頷く。問題はその「火災と思われる明かり」の発生している場所が、ぼんやりとしていてわかりづらいということだった。発生が遅れればそれだけひどい被害を蒙るということが分かっていても、ソルベにはあの仄かな明かりがどうも火災だとは思えなかった。
(でも)もし、という希望的観測が大変な事態を招くということはよくあることだった。(お願いだから、単なる明かりであってください)祈るように両手を弾いて、夜の闇を疾走する。心の中で祈るソルベの声が聞こえたように、ターキーが声を出した。
「山火事じゃなきゃ、いいんだけどな」
「山火事だったら、院長先生の取り付けた火災警報器が壊れているということの実証になりますよ」
 ソルベな頷きながら、そんな恐ろしい冗談を口にする。ターキーは苦笑いをしながら考える。もし火災だったら、火は乾ききった下生えを舐めて恐るべき速度で広がっていくだろう。広大な斜面が炎に包まれ、それは秒速十四メートルの風に煽られて、いくつもの尾根を駆け上がり、駆け下りながら北部の山々とそこに孤立するように立つ孤児院を飲み込むだろう。海辺に近く、水ポケモン達に協力を仰いだとしても、恐らく乾燥状態と風速からざっと目算して、水の勢いよりも、火の粉の舞いあがる量の方が上だと思った。いずれにしても、本当に火事だとしたら、一千ヘクタールにも及ぶ山林を巻き込んで、孤児院は消滅するだろう。
(頼む……)
 縋るような気持ちとともに、足をとにかく動かした。自分たちはまだいい。しかし身寄りのない子供たちはまだ孤児院にたくさんいる。この状態から火の手を見て戻っても、恐らく逃げ遅れるに違いない。誰かが犠牲になる、その考えはターキーの足を叩き動かすには十分すぎるほどの恐怖だった。
「見えました。あれは――最悪です……炎です!!」
 ソルベが弾けたような声を上げた。藍色の空の下を照らすのは、赤色と紫色の混じった不気味な火の手、ターキーはぎょっとしたように目を見開いた。大きな炎は雲すら飲み込まんという勢いで轟々と燃え盛り、そこに近づけさせないどころか、そこからさらに拡大するという意思を持った、怨念のような火だった。灼熱の炎が柱となり、火の粉が塊となり周りに伸びるまで、時間はかからないだろう。それはすぐそこまで来ているような気がした。開けた場所に見えたそれは――あまりにも大きな炎の塊で、しばらく呆然とする以外の行動を、わからなくさせるほどに。
(最悪だ――)
 ターキーは心中で呟いて、いまさら疲労を覚えたようにがくりと肩を落としてしまう。遠目からみてあれだけの光点があったのだから、これくらい燃え盛っているということは容易に想像できたというのに、心の中で明かりであってほしい、という希望を思い浮かべていたことに、ターキーは唇を噛んだ。孤児院の院長としてあるまじき判断に、自虐を含んだ笑い声が自然に漏れる。
(なんてことだ……)
 なぜ先にまだ眠っている孤児院の子供たちやシスターたちを先に起こさなかったのか、この状況になっていると最低限でも予想して、先導して避難をするべきではなかったのか。その思いは、失踪した三人の子供たちを見捨てられないということが引っ掛かり、一瞬の思考が生んだ行動だった。なぜすぐに決めたのだろう、なぜ躊躇しなかったのだろう。目の前の炎を見て、何もかもが間違っていると気がつくのには遅すぎた。
「院長先生……」
 ソルベの声に無意識に顔を向ける。意思のともった瞳がターキーの顔をとらえた。まだ諦めていないという気持ちが伝わる瞳も、ターキーには伝わることなく、地面の滑った土に視線をそらした。
「院長先生、早く退避を……まだ間に合います」
(無理だ)ソルベはまだ諦めていなかった。まだ生きている、体が動く限りは行動をしなければいけないという切迫した思いが彼女を突き動かしているのだろう。(何もかもが――遅い)ターキーは無意識に首を横に振る。ソルベが叱咤するような声をかけたが、それが聞こえているのかどうかは分からなかった。(遅いんだ、何もかもが……)最初に決断をしなければいけなかった、その決断は一つしかなく、ほかの決断をした瞬間に、もう終わりだということだけ、それが最初に分からずに、ターキーは違う行動を起こしてしまった。いや、とターキーは、目の前の燃える炎を見て思う。最初から逃げる以外の選択肢などなかったということ、そして、最初にソルベが明かりを見つけた瞬間から、この孤児院の近辺が焼け落ち、消滅していくという事実は、半ば確定してるのかも知れなかった。


その1


八月十四日午前六時二十五分三十秒。
その日、バニラはいつものように机に向かっていた。この孤児院を出たい。このくだらない木の塊から抜け出して、さっさと都会に行きたい。その気持ちが、彼女の心を一層強く突き動かしていた。くだらない孤児院、くだらない院長とシスター達、子供というだけでいろいろなことが規制されて、彼女は面白くもなんともない閉塞した生活に嫌気がさしていた。
(くだらない孤児院)
 親と呼べるものがなく、孤独な自分は不幸だ。とも思わない、親がいなければ、ほかの大人たちが親代わりになる。その現実を一年も見せつけられれば、嫌でも理解するだろう、親がいなければ親にとって代わる存在がいる、彼女は現実を見て、さらに深い息をついた。
(早く、都会に出てみたい)
 都会に出れば、閉塞したここでの暮らしよりも開放的な気分になれるだろう。そう思い、今は都会に出るために準備を進める。必要な知識を吸収し、一人で行動できるようになれば、誰も自分を縛るものはいなくなるだろう。そう確信していた。結局のところ、自分が束縛され、閉塞しているのは、自分がまだ子供として認識されているからに違いなかった。
(ふざけてる)
 バニラはぎり、と犬歯を噛み合わせて、口の中を刺す。軽い酩酊感と、口の中に鉄の味が広がる感覚。何度これをやったのかわからなかった。口の中に広がるぬるりとしたものを咀嚼するように舐めあげる、吐き気がしそうだったが、誰かを傷つけるよりはましだった。鉛筆をせわしなく動かし、数式を解いていく。文字を読み取り、数式を書き取り、頭の中に知識を吸収する行為はこの薄汚れた孤児院から抜け出すための「代価」だ。まだ抜け出せないのは、「代価」が足りないからだ、と彼女は軽く息をついた。
「んー、休憩するかな」
 彼女のことを孤児院の子供たちは奇異な目で見ていた。勉強をすることしか能がない子供、遊んでくれないつまらない子供、自慢をするわけでもなく、ただただ知識を吸収するだけの子供。ありきたりな誹謗中傷で、バニラはうんざりしていた。言うのは勝手だが、視線をこちらに移すという行為自体をやめてほしかった。夢のない子供だと思われている。
(夢がないのは、お前たちの方だ)
 この孤児院の子供たちは、自分たちは院長先生たちが養ってくれていると勘違いしている子供たちが多かった。そんなはずがないと彼女は憐れんだ瞳を子供たちに向けることが多く、それが一層彼女を孤独に引いて行く行為となってしまう。バニラはそれを気にすることはなかったが、シスターたちはなぜ仲良くできないのかと問いかける。誰と仲良くしようとも勝手だったし、そもそも一人が好きなバニラは仲良くする必要がないから、仲良くしないだけ、と冷めた返答をシスターに返すだけだった。それではいけない、誰かと友達になりなさい、とシスターは悲壮な顔をしてバニラをなだめるようにそう言い聞かせる。その姿は彼女にとって、とても滑稽なものにしか思えなかった。わけもない苛立ち、何に対してか自分でもわからない焦燥感、冷えて横たわった床に足をつけながら無言で窓の外に手を伸ばす。この手を伸ばし続けて、あと一歩、あと少しで、この閉塞した世界から逃れられる。彼女はその行く末を思う。山野を貫き、孤児院を置き去りにし、都会へと向かうだろうその道。彼女の伸ばした手の先にあるものが、賑やかな街に通じているのだと、知識としては了解していたものの、それは周囲の大人が語る彼女の「未来」のようにひどく現実味を欠いている。
 大人たちはざわめく、バニラはこのままだと明るい「未来」に進むことはできないのではないかと、このままで閉塞したまま大人になっていくのではないかと。バニラはそれを聞くたびに、わけもなく口の中を下顎の犬歯で刺す。自分の行為は、閉塞した「現在」から進み、自由な「未来」をつかみ取るための道。それ以外に思えるところなど何もない。しかし、大人たちはその気持ちがわからない、それが一層、バニラの憤りと苛立ちの種になる。
 時折、静寂を震わせながら都会の方へと鳥ポケモンが駆け抜け、彼女を置いて去っていくのを、どこか自重するような気分で見送る。いたたまれない朝。じりじりと身の置き所のない気分で、それでもその場を立ち去り難くて、東の山の端から日が昇るのを無為に待った。やがてほかにすることもなくて蟲ポケモン達の物憂い声に踏ん切りをつけ、いつものように後ろ髪をひかれる思いで窓から身を放す。ほんの少し、打ちのめされたような気分がして、同時に安堵もする、自分への不可思議。
 今朝もまた、心中に割り切れないものを見つめながら、放置していた数式の問題をひも解こうと再度机と向きあった。延長線上の同じ行為、辛いと思ったら、その時点でこの場所から「抜け出す」という行為を放棄することになる。けして思ってはいけないのだ。
「そう思っちゃダメだ、そうにきまってるから」
 誰にいうわけでもなく、彼女は呟いた。


八月十四日午前四時二十分三十八秒。
ソルトは緑の&ruby(そまみち){杣道};を息を整えながら規則的な動きで上り下りしている。最近運動不足と言われたのがショックだったのか、今でも心の中で引きずっている節があった。造林を抜け、開けた岩場で時間を計っていたピールに息を切らしながら駆け寄った。
「どうかな?」
時計を見ながら、ピールは少し首を傾げる。
「うーん、前回よりも二分くらい遅れてるね、やっぱり運動不足なのかな?」
「シスター達の話を真に受けないでほしいな」ソルトは苦笑する。「あのおばさんたちはああやって何かと僕をくさすんだから」でも、とピールは笑った。「案外真に受けて運動してるのかと思ったけど、違うの?」
「断じて違うってば、僕は最近運動してなかったから、ペースを保とうとしてさ」
 そんな風にいうソルトを見て、ピールは口の端を吊り上げた。シスターの言葉は子供たちにそのまま拡大して伝わる、そしてもちろん好奇心旺盛な子供たちは、同年代の子供たちに向かってその拡大を口にするのだろう。そんな光景を見て、ちょっとだけ面白いような気もした。
「シスターさんたちの話が、結構拡大したって感じかな?」
「ああ――そうだね。まったく、おかげで昨日は無駄話をしにくる仲間たちで千客万来だよ。いや、たぶん今日も、なんだろうね」平たい岩の上に身を置きながら、ソルトはやれやれと息を吐く。「誰かが僕の運動不足は最近バニラと一緒に遊んでるからだの、体に悪い病気ができただの、僕の部屋の前で鈴なりに好き勝手言ってるよ」
 ピールはなるほど、と苦笑した。
「僕が信じられないのは、その見物席を抜け出して、わざわざそのことを僕の部屋の窓際から知らせに来るやつが少なからずいるってことさ。見物したいなら、そのまま窓の外で僕が何かアクションでも起こすところを見てればいいんだ、なんだっていちいちやってきて、御注進に及ぶのかな?僕が何かを思いつめているとでも思っているのかね、連中は」
 ピールは特に何も言わなかった。ソルトも別段、返答を期待しているわけではないことを、ピールは幼いころからの付き合いで知っている。
「全く孤児院の仲間たちはどうかしている」
 ソルトは嘆くような仕草で天を仰いだ。
「僕の体調のことなんかに首を突っ込んでる場合かって思う。一週間前は&ruby(しゅうう){驟雨};のせいで孤児院の屋根が雨漏りして大騒ぎだったっていうのに、一週間後にはもう既に僕の体調について話題が鰻昇りだ。雨漏りの話はもうどうでもよくなったらしい」
「みんな他人事だと思ってるんだよ」
「そのとおりさ、噂なんて自分にとってはどうでもいい話題、刺激を求めるための薬みたいなものだから」
 言って、ソルトは息をついた。
「孤児院で変化があれば、祭りか何かのように騒ぐ。こっちがいくらただの食べすぎとか何とか説明しても、日ごろの運動不足がたたったとか、バニラとつるんでるから体のつくりがおろそかになったとか、挙句の果てには体調管理うんぬん以前に病魔に侵されてると嘯く始末だ。一大事だ一大事だと言って、さもこれが自分たちの運命を決定づける重大事のような顔をするわけだけど。その重大事はたった一軒、一週間くらい前に雨漏りだなんだのと騒いでたのと大して変わらない程度のものらしい」
 ピールは苦笑した。
「みんな退屈なんでしょう。変化は歓迎するところ、といったところじゃないかな。本人たちも分かっているんでしょう。これはなんでもないことなんだって。反対に、わかっているからこそ退屈しのぎの娯楽にはなるわけで」
 ご苦労なことだ、とソルトはため息をついた。もちろん。ピールが指摘したようなことは、ソルトだってわかっているのだ。
 実際問題、この孤児院では退屈という言葉に支配されるケースが多い。変化のない窮屈な暮らしの中では、野草を摘んだりすることも厳禁だった。そんな制限された世界で唯一できることと言えば、こうやって朝の早い時間に起きて、孤児院の近場で運動をするくらいが、自由な時間ということだろう。自由な時間が与えられたとしても、結局のところ変化を求めている子供たちは、何かがおこれば我先にと駆けつける。変化が起こった時にまるで珍獣のような目で見られるのをソルトは鬱陶しく思ってしまう。
「ほぼ毎日見るような顔ぶれを、変化が起こった瞬間に奇異の目で見るっていう行為自体がおかしい。そんなに珍しいものが見たかったら、杣道に生えてるキノコでも取ってくればいいのさ」ソルトはもう一度タイムを計るようにピールに促した。「僕たちには刺激が必要かもしれないけど、もっとほかのことで探してほしいなっ――」
 言い終わるのと同時に、浮遊感を抱えたまま、規則的な動きでソルトは駈け出した。残ったピールは、もう一度時計に目をやり、息をつく。虫のざわめきが聞こえる中、顔をあげて空を見上げる。日が昇るころには、もしかしたら猛暑日になるかもしれないという懸念が、頭の中に擡げていた。
「妙なアジテーションさえとられなければ、私はなんでもいいんだけどなー」
 言って、首まわりを拭う。突出した岩のそばには、木刀が立てかけられていた。ソルトが運動をしている間が暇なので、と自主的に始めた素振りだったが、これがなかなか楽しいものだと自覚する頃には、無意識に時間が推し量れるようになった。おもむろに木刀を握りこんで、素振りを再開する。木製の棒が空気を切る音が、周りの静寂にやけに大きく響く。
 退屈、変化を求める。悪いことではないが、それを身近に起こった変化に置き換えてやけに肥大させる子供たちのことを、ソルトは快く思ってない節があった。気にしなければいい、というわけにもいかず、人付き合いもそこそこにあるソルトは、孤児院の仲間内では頼れる兄貴分、という位置付けを押し付けられていた。それがいい方向へ行ったのか悪い方向へ行ったのか、何かとソルトにうじゃうじゃと纏わりつくようになった孤児院の子供たち、同じ孤児院に住んでいる分邪険に扱うこともできず、こうして二人の時だけにソルトは溜めている思いをピールに吐き出している。
 彼も分かっている。差し出すつもりのないものを、無理やりにもぎ取るのは搾取だ。ソルトは断じて、勝手に振られた役回りを演じる気などなかったが。この孤児院ではそれが当然のこととしてまかり通っているばかりではなく、だれも演じさせられているソルトに気づかずむしろそうやって相手の期待を演じることが美徳だと思われているのだった。子どもも大人も、恐らく同じような思考でソルトを見ているだろう。
(孤児院ぐるみの猿芝居……だね)
 孤児院の子供たちは勝手に仲間内での頼れる兄貴分という役回りを、ソルトに振った。だけどもそうしていながら、仲間たちは、ソルトの子分という役回りを演じているだけで、そこには上滑りな夢想しかありはしないのだった。それは切実な希求ではない。たんに頼れる兄貴分の子分たち、という役回りを演じて、自己満足に浸っているだけかも知れなかった。仲間たちは、みんながみんな、一事が万事そうだった。
 だけど――とピールは思った。そんな子供たちもたった一つ、退屈だ、変化がほしいという時だけは本当の顔をしていたような気がした。孤児院はつまらないといい、もっと遠くへ行ってみたいと言っていた。それに関しては本音に見えたし。ソルトも共感可能だったのかも知れない。
 しかし、子供たちは変化がほしい、退屈を払拭したい、などと口で言う割には、具体的なことを思案してないような気がした。大人になって孤児院を出ることができるなら、どれだけ楽しいだろうとピールにも思ったことはあった、しかしそれはまだ先の話で、あまりにも漠然としている。自分たちがいつ大人になるかなど、だれにもわかりはしないのだ。親を早期に亡くし、寄る辺を失った子供たちが集まるこの場所では、子供たちは親というもの間近に見ることなく、他人同士のまま育てられる。ピールもそうだし、ソルトもそうだろう。いくらシスターや院長先生が親代わりだと言っていても、結局のところ行きつく先は他人という壁が大きくそびえている。親身になることも、世話をすることも、他人という壁で一つ隔たりができる。血のつながった大人を見ないからこそ、孤児院の子供たちは大人というものがどのような境界を挟んで成長することなのかが分からない。
 そして子供たちは変化を求め、大人になり、早くいろんなものをみたいと言っている割には、そのための具体的な準備というものを何一つしていない。ただただ速くなりたいと思うだけで、自分たちの成長には無頓着だった。早く出ていきたいと思い準備をしているポケモンは、ピールが知る限り一人しか思い当たる節がない。バニラというエモンガは、この孤児院を一刻も早く出るために毎日下積みを重ねている。とにかくここを出て、都会の方に行くことさえできれば、あとはなんでも問わない、という気持ちがにじみ出ているような気がした。彼女はおそらく、この閉塞した空間から抜け出したい一心で己に知識や実績を積み重ねているのだろう。それはまっすぐでひたむきな気持ちだろう。だが、そんな彼女の姿を見て孤児院の子供たちはまるで奇異なものを見るような眼で、蔑むように後ろ指をさす。その行動が間違っていると言わんばかりに。
 実際のところ、バニラの行動にもおおよその未来性があると言えば、ほぼ無きに等しいが、それでも、と何もしないよりはという思いが伝わっている。それだけで十分、前に進んでいる気はしたし、それが原動力で日々を積み重ねているのなら、それは充実しているといえるような気がする。本当のところは、まだわかりそうにもないが、少なくともピールはそう思っていた。
 結局のところ子供たちは、抜け出したいという思いだけが強く、バニラのようにそれに対する下積みを全くしない人物が多すぎた。おそらく土壇場になれば何かと理由をつけて変節するのだろう。
(私も……あまり言えないけどね)
 ピールはそう言って息をつく。実際のところピールも考えるだけで、バニラのように抜け出したいという思いは持っていない。流れるまま、なるようになるだろうという思いが強かった。ゆえに、思っていて、あとで考えることは。自分もそうなのか、という思いが大きいだろう。
「ただいま、どうだった?」
「……四分遅れてるね」
 がっくりと肩を落とすソルトを迎えながら、木刀を地面に突き刺して、くすり、と微笑んだ。


 八月十四日午前八時五十三分三十秒
「院長先生」
 ターキーは自分が呼ばれたと認識し、その前に掃除を終わらせたいという思いが先行して、聞いて聞かぬふりをした。
「院長先生」ソルベは眥を吊り上げて、じっとターキーを見据えた。気迫に押されて根負けし、やれやれとゴミを吐いていた箒を立てかける。「なぁに、ソルベちゃん」
「雨漏りの修理が終わりましたので、支払い通知書が来ています」
 ごく作業的な手つきで、ソルベはくしゃくしゃの紙をターキーに手渡した。不審げに見据えると、そこにはとんでもない額がのっていた。
「おいおい、なんでこんなに多いんだ?これじゃあ修理というか、屋根の取りかえっていった方がいいんじゃないのか?」
「先生には教えてませんけど、私がお願いしたんです、ほかにも腐ってるところがあったら、取り換えておいてくださいと」
「&ruby(ばか){莫迦};野郎」ターキーは通知書を丸めて、軽くソルベの頭を叩く。「余計なことするな、出費がかさむ」
「ご心配なく、出費は院長先生のへそくりから出しておきましたから」
 さもあらんといったように悪びれる様子もなく、ソルベは口の端を吊り上げた。目を見開いて硬直したターキーを、彼女はなだめるような口調で諭すように話しかけた。
「院長先生、孤児院の者はみんなのもの、みんなのものは孤児院のものですよ」
「最悪だ……硝子を張り替えようと思ったのに」
「まだ硝子は大丈夫でしょう、おしゃれみたいに言わないでください」
 やれやれ、と言ってターキーは孤児院の壁にもたれかかる。
「硝子にもひびが入りそうなほど傷んでるところがあったからな」ターキーは&ruby(ふいご){鞴};の様な音を出して笑う。真新しい雑誌を取り出すと、ゆっくりと付箋が貼ってある項を開いて、読書の続きをするかのように掃除を放り出す。「掃除はいいんですか?」ソルベの言葉に対して、思い出したように慌てて雑誌を閉じ、いそいそとゴミを掃き取る。
「やれやれ、院長先生。今日はラムネの日ですから、もっと支出が嵩みますよ」
「ラムネはしょうがない、夏場の子供たちの必需品だからな」
 この孤児院の坂を行き来するのは主に、わざわざ子供たちのためにラムネとアイスを運んでくれる業者と、手紙を届ける鳥ポケモン達がほぼ毎日同じ顔触れで現れる。週に二回三回あるラムネやアイスの届けは、夏場限定の暑い時期に子供たちに配給するおやつのようなものだった。その姿がおおよそ夏にそぐわない格好をしていた時は、何か違うものを見るような目つきで、二人して顔を見合わせていたものだと、当初の思い出に少し浸り、笑う。
「あのラムネ売りはすごい格好をしていたな」
「何と言うか、暑そうっていう言葉を超越した感じですね。ただのきちがいか何かに見えました本当に」
 その発言はいかがなものか、とターキーは笑い崩れた。胡乱な格好をしているために、最初は追い払おうかと思ったのは、ターキーも一緒だったが、後ろに見えたラムネの台車を見て、違うと判断するのが早かった。
「まぁ君のいうことも一理あるがね。夏場にあの格好をしていたら首を捻りたくなるのも間違ってはいないしな」
「変、という感じがまさしく似合う。といった風情ですね」
 互いに顔を見合わせて、笑い合う。このシスターとはつくづく気があうと思いながら、経済面では気が合うどころか反り合っていると認識する自分がおかしくなり、さらに笑う。院長という肩書は持っているもの、力の趨勢はこのソルベというシスターに流れているような気がして、少しだけ身震いのようなものも感じる、このまま牛耳られてしまうのかと思っていたが、ソルベはそういう思考を働かせる人物ではない。
「子供は夏は冷たいものを与えると喜ぶものですからね」
 不意に言った言葉を耳がひろい、ターキーは赤いとさかのようなものを掻き、思案する。夏の宵が深くなれば、寝苦しくなる時も多くなり、生活は乱れる傾向が強くなるかもしれない。子どもたちに快適な環境を与えるというのは、この孤児院では限界があるだろう。今はまだ大丈夫だとしても、これから先がどうなるか、ということは考えたくはなかった。
「何とかしなければいけないのはわかっているが、いかんせん切り盛りで精一杯だな。何とかやっている状態だけでかつかつなのに、これ以上増長したら破産だ、破産」
「まぁほとんど破産しかけていますしね」
 ソルベの言葉がターキーの胸に突き刺さる。ほぼ善意で経営しているこの孤児院は、近くの村の一部に取り込まれているはずだったが、村からの仕送りがなければ切り盛りできない状態であり、今年に入ってから右下がりに金額が減る一方で、シスターやターキー自身が、暇を見つけては内職や出稼ぎに出て、何とか食いつないでいるという状態である。この状況を考えて、村から切り離されている、という懸念が頭をよぎる。ソルベの言葉でそれを思い直したわけではないが、今にも朽ちかけた木造の、造林に囲まれた孤児院などはもはや村の一部ではなく、過去の産物として隔離されてしまうのではないかと不安になる。
「嫌なことを言わないでくれ、君は本当に性格が悪いな」ターキーの言葉に、ソルベは眥をつりさげた。「事実を伝えただけですが?それが何か?」
 何かを言いたげに口を開閉させたが、何を思ったのか、ターキーはゆっくりと雑誌に目を移し、思い立ったように口を開く。
「ソルベちゃんは、確か七月の初めの生まれだったっけ?」
「そうですけど……」
「旧だっけ?新だっけ?」
「新です」
「生まれの時刻はわかる?」
「&ruby(すくよう){宿曜};ですか?たぶん明け方だったと思いますけど」
「ふーん、なるほどね」
「なんですかその反応。易者のまねごとなんかして何のつもりです?」
 なんでもない、とターキーは言いたかったが、絡みつくような視線がわけを話せと訴える。その視線に根負けしたように、諸手を挙げる。
「わかったわかった。いやなに、今日の雑誌に書いてあったんだ。易者によると性格は生まれた月と日数と宿曜でわかるらしい。七月の初めの明け方に生まれた女性は乱暴で粗雑な――」そこまで言いかけて、頭部に引っ張られるような痛みを感じる。にこりともせずにソルベは思い切りターキーのとさかのようなものをひっつかむと、あらん限りの力で引っ張る。「知ってますか?院長先生……私は易者の妄言に惑わされる人は嫌いなんです」布を引きちぎるように、とさかのようなものをつかんだ右手に一層力が籠るのを感じて、ターキーは自分の身の危険を感じ、思い切りソルベの手を振り払う。グレイシアの力はそう強くないのか、あっさりと振りほどかれて、ソルベは尻餅をついた。「私を殺す気か、君は」
「莫迦は死ななければ治らないといいますけど」
 ソルベの言葉に対して、ターキーはぞわりと胃の腑から湧きあがるものを感じた。力では優勢に立っているとは思うが、そんな気分になれない、心臓を鷲掴みにされるようなうすら寒さを感じながら、そそくさと自分の状態を整える。
「おっと、そろそろみんなに朝の挨拶をする時間だな、行ってくる」
 脱兎の様に逃げ出すターキーを後ろ側から見つめながら、ソルベは小さく悪態をついた。
「逃げた」


その2


屋根の上でラムネを飲みだしたのは、だれが最初かわからなかった。おそらく一人を好んでバニラが登り、そこにつられるような形でソルトとピールが登り、今のような形が長らく続いたのだとバニラは思う。誰と仲良くなってもいいと思ったし、だれにも好かれなくても別にいいと思っていたが。まさかこんなに親密な関係になるとは思わなかったという風情で、水滴の付いたラムネのビンを指先でなぞり、弄ぶ。
「今日も暑いね、この時間が一番涼しい時間帯かな」
 さあ、と素っ気ない返事を返して、ラムネ開けをゆっくりとビンの口につけて、力を加える。ラムネ玉が押し込まれて、カラン、と綺麗な音を出す。炭酸の気泡が上方へ上がり、少しだけ口から中身が漏れ、指先の汗と混じり合い、滑った光沢を放った。ソルトとピールも同じように力を加えて、やはり同じように少しだけ中身が漏れる。
「どれだけ押し込んでも、ちょっと漏れちゃうね」
「しょうがないと思うけどなぁ」
「いただきます」
 夕暮れ時の時間になっても暑さは体中に纏わりつくようだった。汗を拭いながら、ラムネを口の中に流し込む。口の中を滑って喉の奥までたどり着くときには、ラムネ玉が大量に流し込まれるのを堰き止めて、少しだけ苛立ちが鬱積する。
「このラムネ玉、ほんとに邪魔だな」
「これとったら、ラムネじゃない気がするけどね」
 バニラのそんな言葉に、ピールは苦笑して軽く瓶を揺らす。ラムネ玉がからからと鳴り、音を周りに響かせる。それに反応するように風が吹いて、三人の体を撫上げる。宵に近づいた少し涼しめの風は、夏の熱気で火照った体を冷やしてくれる。心地よい風はこういう高台に上った時あびると、とてもゆるりとした気分になれるとバニラは思う。今日は少し風が弱い日なので、少し強い風はありがたかった。屋根の上にいるということを誰かに&ruby(すいか){誰何};されるのも興醒めなので、バニラ達は見られないような死角の屋根で、遠くを眺めながらラムネをあおる。
(なんでこの二人と一緒にいるんだっけ)
 夕闇が少し暗くなったときに、少し考える。なぜこの二人と一緒にいることが多くなったのだろうか。孤児院に来たばかりの時は、とにかく抜け出したい一心で勉学に打ち込み、この閉塞した場所から大きく飛び立ちたいという思いを持っていた。その他の関心はほぼ無いに等しく、それゆえに周りから後ろ指を指されたような気がした。しかし、なぜか知らないうちにこの二人と一緒にいることが多くなった。
 勉強の合間に少しだけ二人につきあったり、こうやって自由な時間に三人で悪いことをするのが当たり前のようになってきていることに違和感を覚えない自分が、何だか恐ろしくも思えた。昔はこうではなかったはずだと思うことはないが、それでも自分で自分の性格で二人も友達ができるとは、と思うと不思議な気分だった。
 声をかけるのも憚られるほどつっけんどんな態度をとったという記憶もないが、他人が寄り集まるほど好意的な態度を見せた覚えもなかった。彼女はごく自然に、自分の思うように立ち振舞っていただけだった。その結果が、二人ほど集まっただけだった。
「最近どう?バニラは勉強頑張ってる?」
「んー……まぁ、ここをすぐにでも抜け出せるような状態にはなりつつあるんじゃないかな、多分」
 ピールはそう、と言ってラムネをのビンを軽くあおる。口の中ではじけるような味が広がり、すっきりしたように口元がつりあがる。
「なるほど、私たちと違って、バニラは夢があるものね」
「夢?」
 ここから出ていく、と言って、ソルトはにやりと笑う。
「もっと先の未来では変わるかもしれないけど、今のところの目標はそれだよね?……目標に向けて日々邁進できるなら、すごいよね、将来が見えてる」
 そう言われると、この二人となぜ一緒にいるのかを思い出した。この二人は、初めて話しかけてきたときに、なぜ毎日勉強をしているのか、という質問を投げかけられた。他の子供たちも同じように聞いて、勉強が好きだからと返答を返したら、ありふれた反応が返ってきたので、そんなものか、と思っていた。答えないというのは選択肢の中に入っていたが、それをする必要性がなかったので同じように、勉強が好きだから、とだけ言うと。なるほど、と二人は頷いたことを思い出す。他の孤児院の子供たちとは違う反応に、少しだけ興味を持った時だった。
――勉強をしてればいつかは自分のやりたいことが見つかるから、君は僕たちよりも未来に進んでいるね。
 確かそういった気がする。と指先でラムネの瓶を弾きながら、薄暗い雲がかかった空を見上げた。バニラは初めて、自分の行動を肯定し、理解してくれたという思いが大きくなり、二人のことが好きになったのかも知れないと思った。そうでなければ、恐らく今も一人で空しくラムネを飲んでいただろう。
「空を見て手を伸ばしてると、ほんとにここから抜け出せそうな気がするね」ピールの言葉に、バニラは頷いた。「うん、ここから抜け出せたら、きっと楽しいかもしれないね」きっと楽しい、という言葉は、抜け出すことができないから、仮説でしか成り立たないことへの強い憧れも含まれているような気がしてならなかった。「いっそのこと、今から本気で抜け出すか?」ソルトの大胆な発言に二人は苦笑する。
 実際、抜け出したいという思いはあったかもしれない。ばれないようにこっそりと抜け出して、造林の奥の方へ散策に出かけたい。いろいろなものを見て回り、満足したいという気持ちはあった。都会に出る道は閉塞されて抜けられないが、近場の冒険すら制限されたこの場所では。近場だけでも冒険する価値がある、と思わせるものところどころにあふれているだろう。
「抜け出すなら、もう今日は遅いよ。明日だね」
「ああ、もし抜け出すなら、またこの屋根の上に集まるか?」
「本当に抜け出すなら――ね」
 もちろん、ただの冗談だろうと思うし、たぶん明日になったらまた同じような行動をとると思っている。全員がそれを暗黙の了解の様に心得ているからこその、他愛のない脱出の計画。宵が深くなるにつれて、悪いものが跋扈する、などとシスター達には脅かされているが、実際そんなものこの近辺に出ることすらない、結局は、行動を規制するための口合わせの様なものだ。行動を制限されているから、そもそも確かめに行けようがない。空になったラムネの瓶を両手で弄びながら、バニラはぼそりと口にする。
「明日――ね」
 その言葉には誰も反応しなかったが、誰もが分かっているように、瓶を強く握りこんでいた。


 夜に明かりをつけて、同室で眠っている二人を起こさないようにバニラは数式に取り掛かる。すでに終わった勉強も、今日の時間で教わったことも、もう頭に叩き込んでしまったことばかりで、全く違う上の数式を解き明かすことに勤しみ、せわしなく鉛筆を動かす。
 (こんな孤児院、すぐに出て行ってやる)
 勉強を始めるといつものように思い浮かぶ、外への渇望と、閉塞への鬱屈、悪態をついて、下顎の犬歯で口内を刺す。じわりと広がる滑りと、軽い酩酊感がますます感情を高ぶらせた。数式を解きながら、口の中をゆっくりと舌が動きまわる。這いずるような感触に辟易しながら、それでも右腕はしっかりと動かし続ける。知識を吸収したくらいでは、おおよそここから出ていけるという大きな確信はない。脱出計画と呼ぶのも馬鹿らしいが、少なくとも持っていて悪いものではないことを、彼女は理解していた。同時に、理解していないにも関わらず、それを指摘する孤児院の仲間たちやシスター達を見ていてやはり苛立ちが鬱積する思いが駆け巡る。
(ほんとに、くだらない)
 勉強ばかりしていると、いい大人になれない。友達と遊んでばかりいても、いい大人になれない。どちらが正しくどちらが間違っているのかはっきりとせず曖昧模糊な返答を投げつける。理屈をこねくり回す子供は悪い子供で、屁理屈を垂れ流す大人は咎められない。不条理の塊がはびこるこの世界、大人は何をしてもよく、子供は何をするにしても制限され、檻のような場所に閉じ込められる。初めてきたときに、シスター達は親代わりだ、と院長は言った。そんなの嘘ばかりだった。シスターは親代わりなどではない、制限された日常、満足に動くこともできない狭い世界。孤児院という檻の中で、シスターという名の飼育係は言葉で惑わす、そう思わせるほどに、この孤児院という場所は他人に対しての壁を作り上げている、気がつかないものには絶対に気がつかないほどの、巧妙な壁がそびえている。そしてこの孤児院の子供たちは、まるで食用の家畜のように飼いならされた生活をして、それに疑問を抱くことなどない。少なからずの退屈はあるが、それだけだと思っている節があり、それがバニラには耐えられない。
 自分は違う、と思っても、結局は他の仲間たちと同じ、この檻から出られない。だからこそ、自分はだれよりも早く「抜け出す」のだ。と決意を固める。宵の深さに反比例して、心の中は熱く燃えている。白昼のかんかん照りを思わせるような意気込みとともに強く朱塗りの六角を握り直した時、窓の外からぬるりとした&ruby(ひ){緋};が見えた。ゆるゆると伸びて、窓の外からまるで見ているような揺らめきが、バニラの視界に入り込み、暗がりに光る金色と、滴るような緋が揺らめく。唆す様な焦れた緋の前に、彼女の感情は鈍麻した。
(なんだ、あれ――?)
 真っ先に思い浮かぶのは、生き物であるかどうか、こんなところまで悪所働きを行う人などいはしない。閉塞した場所は一部のものしか知らない、という認識を受けている。そもそも、なぜこの時間に明かりがともるのか、それを最初に考えなければいけなかったのではないか、薄闇に目が慣れて、ゆっくりと緋の全容が視界にぼんやりと映る。体が蝋のようなもので塗り固められたかのような印象を頭が拾ったが、蝋そのものと気がつくころには、その蝋はぎょろ、と瞳を動かして、造林の奥を見つめ、悲しそうな声を出した。
――お母さん。お父さん。
 声にならない声がしわがれた呻きとともにおし出る。固いものを叩きつけられるような感触が背中に襲い掛かり、それが椅子が倒れたのだと認識する頃には、後頭部に鈍い痛みが走った。けたたましい音を立てて、木製の椅子が高い音を夜の孤児院に響かせる。消灯時間を過ぎても起きていると怒られる、怖いわけではないが、自由が奪われるのは勘弁だ、と心の中で舌をうち、あわてて椅子を立て直すと、ゆっくりと椅子に座り、机に突っ伏し、規則的な呼吸を立てる。木の板がきしむ音、ランプの金属器が揺れる音、心臓が口から飛び出そうになる、動悸が高まり、頭に血が昇る。ゆっくりとドアが開けられる音を聞いて、いよいよ追い詰められたような気分になりながら、冷汗が体を伝う感触を感じた。
 見回りのシスターはきょろきょろとあたりを見回し、机に突っ伏しているバニラを見つけると、渋い顔を作った。「やれやれ、またお勉強のしすぎで机で寝ちゃってるわね」そういうと、何事もなかったかのようにドアを閉める。足音が消えるまで心臓はとび跳ねるように動き、体中を緊張が包んでいた。
(さっきのは――)
 慌てて顔をあげ、窓の外を見たが、もう姿は見えなかった。夜闇に映る造林が、嫌に恐ろしく思えた。宵に浮かぶ金色、滑った緋、およそこの世のものとは思えないようなものを見た気分になり、どっと疲れが増した気がした。息をついて額の汗を拭うと、後ろのベッドが少し軋む音がした。心臓を鷲掴みにされるような思いで体が硬直する。恐る恐る後ろを振り向くと、寝ぼけ眼のピールが、目をこすりながらこちらを見ていた。
「どうしたの?すごい音がしたけど」
「いや……」
 なんでもない、とはいえない。なんでもないなら、あんなけたたましい出来事は起こらない。背中にまだうすら寒いものが残っているのを確認して、息をつく。起こしてしまったことに対して、少しだけ頭を下げた。
「うん、大丈夫だよ。でも、バニラも勉強ばっかじゃなくて、少しは体を休めないとね」
「夜の方が捗るんだ」
 わかってる、と言って、ピールは大きな欠伸を一つする。もうとっぷりと宵が深くなる中で、まだ起きていたことに対して驚く様子もなく、にんまりと破顔する。
「夜は光が隠れるから暗いのか、それとも闇が立ち現れるから暗くなるのか、どっちだろうね」
「どちらがどうでも」高鳴る動悸を抑えながら、何とか返す。夜闇の中で、なぜ彼女がこんなことを言うのかわからず、無意味に心臓が締め付けられた。
「では、人の心はどちらだと思う?」
「またそんな理屈を」
「君には負けるさ」揶揄を含んだ口調で、くすりと笑む。うすら寒いものを感じながら、言葉に耳を傾ける。「ずっと不思議に思わないかな?昼夜の世界は、どちらが正しいのかなって。昼であるべきものを、闇が食い荒らして夜が来るのか、夜の闇を、地金が見ないくらいに塗り固めて昼が来るのか。どちらも正しいのか、昼と夜を繰り返すのが本当なのか」
「お月さまの満ち欠けと同義の問いだね、月はなぜ痩せるか、なぜ太るか、それと問うてどうなるって」そういうと、違いない、というように苦笑い。口元を指で押さえて、薄い線をなぞるようにつ、と動かした。「確かにそうだけれどね」いいながら、ゆっくりとベッドから身を下ろし。軽く息をつく。「繰り返しが正しいのなら、人の心はどうだろう。人の心は闇に堕ちても誰もそれを褒めてくれない。そして昼でいることが正しいようなたち振る舞いをする。繰り返しが正しいのなら、どうして闇も認めようとせず、昼ばかりでいようとするのかね」
「君は&ruby(りんき){悋気};や嫉妬を知らないのかい?」
「知っているとも、だけれども、それは心の中にある黄昏さ。闇というのは常に暗いもの、そして一見穏やかなものさ」
「そしてその底にあるものが、魍魎」
 そう、と言って、ピールは怪しい笑みを湛えた。答えを導かせるのに謎かけの様な言葉回しをするのは、彼女の癖のようなものなのか、今でもわからない。
「何か見ただろ?深い深い夜の世界で」
「別に……何も」声が上ずって、しゃっくりの様に裏返る。あわてて口元を押さえて、静かに視線を移す。くっくと、ピールは笑いを堪えているようにもみえた。月の明かりが窓から差し込んで、二人の輪郭をくっきりと写した。
「夜が深くなればなるほど、闇に魅入られやすくなる。上澄みでも滓でもない平坦な暗さが、逆に惹きつけるのかも知れないよ」
「夜語りなら、もう少し理屈を省いてくれないかな」
「たまには理屈も聞くものさ」そう言ってピールは腰についているホタチを片方とって、月明かりに照らす。「怖いものを見てもバニラなら大丈夫かもしれないね、だけれども、常闇の住人達は魍魎。闇に跋扈する。それが人であれ、物であれ、それは闇の住人、見てしまったのなら、あまり長く夜を感じない方がいいかもね」
「だから、違うってば」
 くす、ともう一度笑うと、ピールは小さく、おやすみ、といった。


その3


その日の夕方、バニラは屋根の上に登る。一日の行動がとても抑制されているような気がしてならなかった。何をするにも、昨日の緋とぎょろつく金色が頭の裏側に張り付いて、ゆっくりと焼きついたものが思い起こされる。闇の中で見えた、滴る緋、悲しそうな声でつぶやいた、言葉。何を意味するのかわからず、頭を抱えていると、屋根が軋む音が聞こえる。ゆっくりと後ろを振り向くと、同じような顔ぶれがそろっている。昨日今日で変わらないのも、変化のない日常だろうと、頭は認識した。
「や」
「登ってる姿を見たから、つい……な」
 そんな二人に苦笑いを浮かべながら、改めて遠くの造林を見る。何の変りばえもない、見慣れた常緑樹の数々、この閉ざされた場所から見える唯一の自由な視界も、今日に限ってなんだかぼやけて見えるようだった。瞳をこすりながら、バニラは考える。静謐な夜だったのにもかかわらず、恐ろしいほど現実味を欠いた揺らめきを見たとき、自分の思考はどこか別の方向へ連れ去られてしまったのかも知れなかった。何をしても揺らめく緋が消えない。その気持ちが、ますます思考の濁流を加速させた。あれが何だったのか、それだけが彼女の頭の中に色濃く残った。
「何か見たのかな?昨日の夜中」
「いや、別に何も見てない」
「視線が泳いでるよ、バニラ」
 二人に問いただされる様に口を開かれて、バニラはますます顔を鬱屈とさせた。干渉をしてほしいというわけではないが、顔に出してしまった以上思いは払拭した方がいいのか、少し決めあぐねた。たとえ話したところで、現実ばかりを見て、いきなりそんなものが見えたと言って通じるか、そもそもこんな笑い話にすらならない話をしても、しょうがないのではないか、という思いがある。閉塞した場所から抜け出したい、という思いで計画性のない行動を繰り返した自分がそんなことを言うのは、他人から見た自分自身の姿にそぐわないと思われるかもしれないと思い込んだ。
「……あの――いや、なんでも……」
 言いかけて、視線が合った。忘れるはずのない、昨日と同じ金色、滑り付く汗がしっとりと冷えて、腹の底からぞわりと湧き上がるものが口の中まで上りつめて、思い切り口内に下顎の犬歯を突き立てる。ぬめりと鉄の錆びついた味が、口の端から漏れて、心臓が高鳴る。隣にいた二人が驚愕したように眼を見開いた。
「バニラ」
「お前、何やってんの」
 二人の声が聞こえたが、そんなことは気にも留めなかった。屋根から落ちそうになるくらい身を乗り出して、ぐっと目を細める。ぎょろぎょろと金色の瞳を動かしながら、昨日と同じように、蝋燭は悲しげな声を出す。
――お母さん、お父さん。
 不快感がこみ上げた。なぜ両親のことを呼ぶのか、なぜそんな言葉をわざわざこちらに見せつけるのか、二人もその声に気がついたのか、あたりを探すように視線を動かしているが、見えていないのか、やはり首を傾げるだけだった。
 バニラは口の端を舐めあげて、ゆっくりと体を起こす。屋根が軋んで、びくついたように蝋燭がこちらを向いて、目を細めた。
「おい」声を変えると、びくり、と体を震わせた。蝋が少し飛び散り、揺らめく緋が風にさらされたように消え入りそうになった。そのまま体を動かして、造林の奥に逃げるように消えていく。「待てよ」声を大きく上げたが、待つ気配はない。動きを止めるどころか、もっと早く動き出す。日が落ち始め、造林にぽっかりと浮かぶ蝋燭は、遠目でもよく見える。悲しげな口から、また言葉が漏れる。
――お母さん、お父さん。
(ふざけるな)
 軽く舌をうち、勢いよく両手を広げる。エモンガの特性上、高い所から降りるときに、滑空すると速いのを重々理解している。向かい風が来ないことを祈りながら、思い切り飛び降りる。
「バニラ」
「ちょっと、どうしたんだよバニラ」
 後ろをちら、と見やる、驚愕しながらもバニラの後を追うように屋根を勢いよく飛び降りる、ピールは何か躊躇するような行動をとったが、結局そのまま屋根から落ちるように滑った。その顔には、何か狼狽したようなものさえ浮かぶような感じもした。速度を落とすことなく、大きく右に反る。木々の間をすり抜けて、小走りに動く蝋燭を視界にとらえる。おおよそ、生きているものの足の速度ではないことに、ますます背筋が寒くなった。
(こいつ、何なんだ)
 頭の中に浮かぶのは、異形の形、追い抜くこともできず、ただついていくことしかできないまま、木々の枝で高度を調整しながら、彼女の空色の瞳はひた走り続ける蝋燭を追い続けた。


 急に動き出した彼女を全速力で追い続けながら、大きく息を吸い込む。昨日の今朝よりも走りにくく、見慣れない杣道をおぼつかない足取りで進むのは、体がもつれるような気がした。
「いきなりなんで、走り出したんだ」
「わからないよ、だけど、いいのかな、私たち、造林を抜けちゃうよ」
 ピールは視界から小さくなる孤児院を名残惜しげに見つめながら、息を弾ませる。「そんなに気になるなら、ピールは戻ればいい。何の関係もないんだし」関係がないのは、ソルトも一緒のはずだ、なぜ仲間の輪から外したがるのだろう。そう思うと、妙に腹立たしかった。「嫌だ、絶対に戻らない」
 そう頑な言い放つと、ソルトはわかっているかのように頷いた。
「そう思ってるなら、黙って走った方がいい。空よりも地上の方が、周りに余計なものがあるんだから」
「先に話しだしたのは、ソルト」
 違いない、と苦笑してから、首周りの汗を拭う。走り続けているうちに、すっかりと日が落ちて、あたりには宵の気配が漂い出した。体中をうすら寒い風が撫でつけて、ゆっくりと闇に引きずるような感覚が脚先から頭の点までをすり抜ける。思わず身震いをして、ピールは大きく息を吸う。
――宵の深さは、闇の深さ。
 自分の言葉をいまさら反芻して、妙な心細さが付きまとった。体は熱を帯び、汗だくだというのに、心は底冷えするような冷風が吹きつける。夜というのはそういうものだと認識していたが、実際に味わうとなると、やはり何かおぞましいものが付きまとう様な気がしてならなかった。孤児院に戻り布団をかぶれば、これほど安らかなものはない、しかし、夜には百鬼魍魎が潜んでいる。それでいて菩薩の様な顔をして夜は過ぎていくものだから、安心という言葉は宙ぶらりんになって彷徨うのかも知れない。
 いた、とソルトが高く声を上げた。何刻を走ったのかわからないほど、あたりは静まり返り、蟲の声が茂みと揺れる音とともにざわつく。耳にこびり付く様な音を聞きながら、拾った声に視線を合わせると、バニラがいた。
「おい、お前、なんで僕を見てた」
「あの、僕、お母さんとお父さんを」
「こっちの質問に、答えろ」
 子供を脅しつけるような口調で、息を荒く顔を近づける。バニラの剣幕に押されている生き物を、ソルトは記憶していた。ヒトモシと呼ばれる、不思議なポケモンだ。
「バニラ」声をかけると、険しい顔をこちらに向けて、睨むように視線を移動させる。凄みに怯むように、息を整えながら少しだけ下がる。「おいおい、そんな剣幕をこっちに向けないでくれよ」
「こいつが質問に答えないんだ」
 指をさし、有無を言わさない口調で強く主張する彼女を見て、ソルトは眉根を寄せて、口から息を漏らして笑う。
「君は、いきなり知らない人に対してそんな行動とるのかい。ある意味ステップを大股で飛び越した過剰なスキンシップだね、孤児院のシスターが見たら泣いて喜ぶんじゃないかな?」
「ソルト――」何かを発しようとした口を、ソルトは言葉で塞いだ。「まず落ち着く、そして説明する。そうじゃないと、バニラ、傍目から見たらきちがいじみてるよ」辛辣な言葉を受けて、少しだけ口を尖らせた。「むむ、だけど」いい淀み、言葉の接ぎ穂を必死に探すように、口をもごもごと動かす。足元を見て、少し息を吐いた。結局思いつく言葉は頭の中で千々に乱れた。諦めるように息を吐いて、天を仰ぐように視線を空に移す。遮るものが何もなくて頭の天辺ばかりを見るのは奇妙な気分がした。「わかったよ、僕が、悪かった」
 慇懃無礼に頭を下げる仕草を見て、やれやれと息を吐く。まるで謝る気持ちがこもっていないが、それが彼女なんだと割り切る。他の人ならもしかしたら怒っているかもしれないが、このくらいのやり取りはもはやソルトたちにとっては日常茶飯事のようなものになりつつあった。
「でー、結局何があったの?」
「僕は、昨日こいつを見たんだ」
「このヒトモシを?」
「ヒトモシ?」
「勉強不足だね、種族名はヒトモシ、蝋燭のなりをしているけど立派なポケモンさ」
 勉強不足、という言葉には特に難色を示さなかったが、何か違うことに、驚愕しているような顔をしていた。ヒトモシとソルト達を見比べて、まるで見えているのが不思議なくらいだというような感じだった。
「ソルト、見えるんだ?」
「ん?何がだ?」
「いや、何でもないよ」
 そう、何でもない、という風情の顔をして、下を見下ろした。身長的にはこちらの方が高い部類に入るが、そう変わりはしないものの、見下ろすというのは気分的に軽蔑するような行為に見えて、少し暗澹としたものが垂れこめた。
「で、なんだってまた、ヒトモシなんて見たのさ?」
「見たっていうか、視界に入ったって感じだった」
 バニラはその時のことを思い出した。夜闇に浮かんだ白、ぼんやりとした金色の瞳に、滴るような緋が揺らめく。今見てみると、蝋燭の炎はゆるりとした紫をたたえていた。視界がぼやけていたのか、それとももともと記憶に入れていた色が違っていたのだろうか、それがわからないまま、バニラはもう一度ヒトモシと呼ばれた蝋燭を見据える。なぜ自分を見ていたのかが分からずに、そのまま話を続ける。
「昨日勉強してたらさ、こいつが視界に入って、なんか妙な怖さがこみ上げたんだ、なんだかよくわからないけど、今日一日は何にも集中できなかった。見つけたら何してたか聞きだそうとしたけど、こいつが逃げたから」
「おっかけたってか」
 頷くバニラとヒトモシを交互に見ながら、溜息をついた。
「君の名前は?」
 ピールが代わりにヒトモシに問いかけると、少しだけ畏怖するようにヒトモシは半歩下がる。「大丈夫、バニラみたいなことしないから」対象にされても特にバニラは何も言わなかった。顔は少しだけ顰めて、唇を尖らせている。「お前のせいだろ」苦笑いをしながら、ソルトはバニラを小突いた。
「ぼく……ペパーです」
 ペパーと名乗ったヒトモシは少しだけ恥ずかしそうに、おずおずと頭を下げる、蝋燭の火が少しだけこちらにより、夏の宵の暑さをさらに加速させるような印象を受けた。
「そう、ペパーはどうして私たちの孤児院の近くにいたの?」
「わからない」
「わからない?じゃあ、自分のお家は?」
「この先の、おうち、でも僕、入れない」
「なんで?」
「わからない」
 そこまで聞いて、思案するように首を捻った。こうわからないの一点張りでは、何を聞いてもおそらく答えられないだろう、どうしてそうなった経緯というのかが分からなければ、わからないだろう。
「じゃあ、何をしにこのあたりをうろうろしてたの?」
 質問を変えると、それには答えられるのか、はっきりとした声で、意思を示した。
「僕、お父さんとお母さんを探さないといけないの」
「迷子かな?お父さんとお母さんはどこにいるの?」
「おうちの中に、いる」
「でも君は入れないんじゃないの?」
 ペパーは頷く。何とも珍妙な話だった。入れないということに対して、それは自分が入ることを拒んでいるのか、それとも「家」が侵入することを快く思ってないのか、そのあたりの境界線は微妙だった。
「お父さんとお母さんに会いたい……僕、僕のことが分からない、お父さんとお母さんが、知ってるから、会いたい、でも、家にはいれない……家の中に、いるのに、入れない。大切なものを探したいのに」
「ふむ」思案顔をしていたピールの横から割り込むように、バニラが声を出した。「入れるかどうかは行って見ればわかる。もしかしたら閂が抜かれているかもしれないじゃないか」びくり、と体を震わせて、ペパーはピールの後ろに隠れて震える。「脅かさないの」いいながらも、バニラの意見には賛成の意思を見せる。「確かに、この刻限になればさすがにお家の門は空いてると思うよ。不審者じゃなければ大丈夫だよ。お母さんやお父さんも分かってくれると思うよ」
「ほんと?」
「ほんとほんと、私たちがついてあげるから、そのお家に案内してよ、ちゃんと門が空くまで、私たち見ててあげるから」
 しばらく考え込むように体をゆすり、やがてペパーはにこやかにほほ笑むと、嬉しそうに頷いた。
「うん、ありがとう、お姉ちゃん達」
「どういたしまして」
 ほほ笑むピールや、納得するまで付き合うというバニラとは裏腹に、ソルトは遠目で見ながらうすら寒いものを感じていた。
(何だろう、嫌な感じだ――)
 深い闇の中ではほとんど人眼をつかず、悪鬼悪霊が跋扈する。そう冗談めかして言っていたのは他ならないピールであり、それをまた同じように冗談めかして聞いていたソルトは、急にそれが冗談ではなくなりつつあることに違和感と、恐怖を感じていた。何か場違いな空気が周りに垂れこめているというのに、だれもその異常に気がつかない、喉元からこみ上げるものを何とか抑えて、唾と一緒に飲み下す。
 家に入れない、思い出せない、ということに対して奇妙な引っ掛かりを感じた。なぜ入れないのか、なぜ思い出せないのか、明確な理由がなければ、子供を放り出す親がいるという事実を、こうも簡単に受け入れられるはずがなかった。自分自身の曖昧な記憶を信じて、戻りたいということも引っかかる。何かが間違っている。どこかで修正しなければいけない。このまま流れていったら、きっと取り返しのつかないことになるに違いない。
 でも、とソルトは思った。結局思っただけで、何ができるというのだろうか。何かを思ったところで、自分一人ではどうしようもできない。非常に無力だと思いながらも、結局はついていくことしかできない自分に少しだけ辟易した。


 家、というよりは、その外観は洋館に近かった。豪勢な屋敷がそびえ、門扉にもしっかりと不思議な文様が施されている。ソルトはそれを見たときに、何か知っているような紋様だと思ったが、それが何かはわからなくて、どうでもいいことだと頭の隅に押しやった。
門扉を軽く押すと、まるで滑るように開いて、招き入れるかのように三人を通した。「なんだ、開くじゃないか」拍子抜けしたようにバニラは口から息をついた。もしかしたら、家の扉が開かないのかも知れない、という意識はそこで完全に途切れた。建物に続く白洲の道の両脇には&ruby(ガス){瓦斯};灯が点されていた。明るい道を歩きながら、何が不安になるのかわからず震えているペパーを見て、バニラは少し眉根を寄せた。
「さっきさ、両親のことを呼んだでしょ」
「う、うん」
「そんなに大事なの?」
「うん……」
 その言葉を少しだけ力強く、少しだけ嬉しそうに言うペパーを一瞥すると、そう、と言って、バニラはそれ以上の言葉を話すことはなかった。瓦斯灯の明かりだけを頼りに、長い道を進んでいく中で、少しだけ舌打ちをした。両親のことを呼ぶだけの愛情を、少なくともこのペパーという人物は受けていたのだろう。それがますます、気に入らなかった。
(ペパーは、自由だ)
 このポケモンは、少なくとも自分の意思を持ち、自分の思いのままに行動できる自由がある。それは親の愛情を受け、健やかに育った証拠なのかもしれない。ペパーほどの子供は、野山を駆け回るくらいがちょうどいいのだと、彼女は思っていた。ただ単に、自分が閉塞した世界にいるために、そのくらいがちょうどいいという認識を持っているだけなのかもしれないと頭の片隅に置いておく。
 だからこそ、院長やシスター達に自由を剥奪され、満足に動くこともままならないまま、孤児院の中で飼いならされる自分と、外に出て、自由に周りを歩き回り、そして刻限とともに家に帰る。迎えてくれる親がいて、温かい家庭が存在するその世界は、バニラが生きてきた場所とは世界が違う印象を受けて、ますます面白くない顔をした。恵まれているのに、迷子になって泣き出すとはどういうことだと憤慨さえした。
(わかってるさ)彼女は言い聞かせるように胸に手を当てる。夜の温風が頬を撫でつけて、少し気が安らいだ。(ペパーはペパー、僕は僕だ)それがわかっていながらも、ペパーに対してそういう態度をとるのは、やはり自由を諦めきれない自分の煮え切らない思いの表れなのか、それとも後ろ髪をひかれるような思いで手ぐすねを引いて自由を待ち続ける自分の哀れな行動に対しての嘲りなのか、それはわからなかった。
 ペパーは両親のことを大事だといった。はっきりとものを告げられるということは、その告げる対象に対する思いが強ければ強いほど、意思が反映されるだろう。ペパーの言う両親というのは、強い思いを残すほど、子供によい働きを齎したのだろう、それがますます、自分自身と比べて比較するような眼をしてしまい、鬱蒼と顔を曇らせた。親の愛情を知らないまま拾われ、檻のような場所で窮屈な愛を押し付けられるような形で受け続けてきたバニラは、ますます孤児院の場所と、ペパーの家を見比べて、「抜け出したい」という気持ちが強くなった。
「風が強くなってきたね」
 ピールは心細くひとりごちる。白洲の道は美しく、夜の世界には不釣り合いなほどの色をたたえる、それが逆に不気味に思えて、背中を丸め、寂しくソルトの後ろにつく。まるで乞食か物乞いのようなみすぼらしさが背中をかすめたが、怖いものは怖い、この屋敷の門扉を開けてから、自分の按配は右肩下がりに落ちているような感覚が胃の腑から流れていく。寒さに身を震わせるならまだ震えていてその気が紛れるかもしれないが、夏の夜は蒸し暑さが増すばかりで、気持ちの悪い汗がとめどなくあふれ、薄気味悪さを益々加速させた。
「どうやら、ついたようだ」
 大きく息を吐いて、ソルトは遠目からみた洋館の扉にたどりついた。左右を見渡すと、退魔像のように不思議なポケモンの像が左右に置いてある、それが何を意味するのかわからないが、妙な違和感を感じ取り、少しだけ踏み出すことを躊躇した。
「ここの扉が、開かないのか?」
 その言葉に対して、ペパーは首を横に振った。「さっきの扉が、開かなかったの」それを聞いた時、背筋が凍るような思いで慄然した。あかない扉があいたとき、閂が抜いてあるかと思った。しかし違う。もしかすると――
(この屋敷は……)
 昔の本か何か、風の噂だったかわからない話をソルトは思い出した。無人の屋敷に誘い込み、欲のあるものをとり殺す家、それは家内の怨念やら思念やらで塗り固めた。意思のある家。その意思が、家本体そのものか、それとも家内のものかはわからない。少なくとも、感じて安らぐということはまずない。
「戻ろう。もしかしたらこの屋敷は――」
 後ろでけたたましい音が鳴り響いた。微風しか吹いていないというのに、何の前触れもなく、出入り口の役割を果たしている門扉が、閉じた。ヒッ、とピールは声を上げる。バニラもぞわりと体に怖気が走るのを感じた。ソルトは、感じる前に全員に注意を促さなければならなかった。と後悔した。
 この家は――
「マヨヒガだ」
誰にいうわけでもなくひとりごちた。バニラは聞いていないようだったが、ピールは眉根を寄せて、その言葉をかみ砕いているようだった。
 マヨヒガに迷い込んでしまった以上、家の中に入り、家の思念をすべて浄化しなければ、出ることなどできはしない。それがわかっていながらも、思念がどんなものなのかわからずに、逃げることも、助けを求めることもできない状況に、何かの終焉を告げられているような気分になった。夜の蟲の声が、豪勢な屋敷に、やけに大きく響き渡っていた。


その4


 門扉が閉じ、家の閂が開く音がした。招き入れるような音を聞いて、肩をゆする。ピールは、何かがおかしい、と気がつくことなく、「異常」の中に入り込んでしまったと思った。
それがおかしいと感じる頃には、もう既にその「異常」にとり憑かれている。冗談とも思えない寒さが身に刺すように吹き上げ、足先から頭の天辺まで底冷えするような思いが駆け巡る。
「この家、僕たちに入れって促してるのかな……」
 深い恐怖の中で、だとしたら、とバニラは思案した。なぜペパーは入ることを拒まれたのだろうか、それが分かれば、この家に纏わりつく何かの本質が見えるかも知れない、と考えた。
「兎にも角にも、この家の中に入ってみないと、わからない」
「入るのか」ソルトが躊躇したようにバニラに肩を置いた。もちろん、と頷いた彼女を見て、やれやれと溜息をもらしたのを視界にとらえる。「どっちにしろ、門扉が閉じちゃったんだから、出ることはできないじゃないか。このまま進むことしか、僕達にはできないんだからね」そう言ったものの、ここが何なのか全く分からずに、うすら寒いものが駆け抜けて、少し体が震えた。
「お父さん、お母さん……」
 ペパーは信じられないといった風情で、あいた扉の暗闇を見つめた。自分は入れないのに、なぜ他人は入れるのか、そのことに悲しんでいるのか、それとも拒まれたのに、他人は受け入れるということに対しての愛情の移動に対して嘆いているのかはわからなかった。
「そんな顔をしたってしょうがないじゃないか、両親にあったら、ペパーが言ってやればいい、どうして入れないのか理由を聞いて、それで納得できなければ、喧嘩だってすればいいじゃないか」
「喧嘩?」聞きなれない言葉を聞いたかのように、首を傾げるペパーに、バニラは頷いた。「そう、自分の主張を相手に伝える一つの方法さ、口で言っても分かってもらえないなら、行動で分からせるしかないじゃないか。親と子供って、結構相容れないものが多いと思うよ。だから、ペパーが自分が間違ってないと思うなら、両親と喧嘩をするのも大いにありだと思うよ」
 聞きなれない言葉と、不思議な響きをしばらく吟味していたが、ペパーは意を決したように、軽く頷いた。
「う、うん。僕、喧嘩してみる」
「よし、いい心がけだ」
 そう言って笑う。両手でペパーを抱き上げて、前に持つ。ペパーは慣れない行動に一瞬戸惑ったものの、すぐにそれを受け入れて、居心地のよさそうな顔をした。
「なんだかんだいって、結構打ち解けてるみたいだね」
「うん、そうだね――ところでさ、ソルト、マヨヒガって、本当?」
「確証はないけど」ソルトは息を吐いた。家の外観を見渡しながら、きょろきょろしているペパーたちに聞こえないような声で、耳打ちをする。
「もしこの家の所持者の思念がマヨヒガになるために形成されたものだとしたら。ペパーはもうこの世にいない存在かもしれない」
「マヨヒガの伝説は知ってるけれども」耳打ちをしながら、聞いた伝承を思い起こした。迷い人が無人の家にたどり着いたとき、しばらく休ませてもらおうとし、家の家主に感謝をしながら一泊をした。家にはきちんと整備された庭、金目のものや豪華な食事、そして心身共に休める空間があった。が、旅人は食事をとり、ただ就寝しただけ、その次の朝、家を訪れた記念として、お椀を一つ持って帰ったという話。そのお椀で米をすくうと、いくらすくっても減らなかったという有名な物語だった。
「マヨヒガは無欲な者には益を齎し、欲望ある者には罰を齎す」
「それが嘘かほんとかは、入ってみなければわからないけれども、者には思いがこもるというのは、間違っていない気がするんだ。使い古したものが九十九の力を借りるのと同じで、家にも所持者の思いが込められる。それが強くなって、家は意思を持つのかも知れない。家の中に思いがこもるってことは、家の中にあるものすべてに、思い出や出来事が断片として入っていると考えてもいいかもしれない」
「うぅん」ピールは何かを訝しがるように口を引き結ぶ。「だとしても、なんでペパーがマヨヒガに戻りたがっているのか、そこがわからない」言葉は最初に口にしたソルトの言葉を追いかけるように、響いた。
「なんでペパーが死んでるかっていう言葉の意味なら、マヨヒガは「無人」の家であり続けるんだ。そこにあるのは人の思念であって、人そのものじゃあない。だから、ペパーがいること自体がおかしいってことにならないかな。マヨヒガに映るのは、その人の行いの残滓であって、人の行動が一秒毎に転写されるわけじゃない。同じことを繰り返す。蓄音機の音みたいに」
「それだったら、なんでペパーはマヨヒガの中で、残滓の一部に入らないのかな?わざわざ外に弾きだされてまで、私たちに見えるっていうのも、おかしな話じゃない?」
「僕たちっていうよりも、最初に見えてたのはバニラだ。それから、感染するように僕たちにも肉眼でとらえることができた」
 その言葉に対して、首を捻る。なぜバニラには最初に見えたのか。最初に見えたのは、昨日の夜だといった。視界にとらえた者のみが見えるのか、それとも見える、見えないの体質の問題なのか、そこがまだわからずに、呻くような声を出す。なぜバニラの所に行ったのか、そしてなぜ自分たちを選んだのか、選んだ、という言葉に語弊を感じて、ますます頭が絡まった。
「それを考えるのはあまりにもわからないことが多すぎる。僕たちは逃げられない。この事実はまだ動かないから、もう少し様子を見るしかなさそうだね」
 この事実は動かない、という言葉も、ピールは少しだけ思案したように首をもたげた。何かを言おうとしたが、結局言わなかった。今は何かを考えるよりも、ここから抜け出さなければ、という思いの方が強かった。耳打ちは終わりと言わんばかりに体を離して、ソルトは扉を開けようとするバニラに声をかける。
「バニラ」
「何?」
「気をつけよう」
 気をつける。という言葉に対して、バニラは眉根を寄せた。何を気をつけるのか、それとも気をつける、という言葉に対しての裏を探るかのように、視線をあちらこちらに泳がせて、まぁ、と気の抜けたような声でつぶやく様に言葉を吐き出す。
「気をつけるよ、うん」
 滴るほどの呑気を放出しているような気がして、大丈夫だろうか、とソルトは目を細めた。どうも彼女はこの珍妙珍奇な状態を楽しんでいるように見えて仕方がなかった。いくら外の自由に憧れているとはいえ、と思いながらも、ソルトは顔を顰めた。彼女の思考が分からずに、空っぽの思いが心を彷徨った。


 扉を開けると、カウンターのようなものが見えた。外観は洋風かも知れなかったが、中を見るとその意識は少し薄れていった。ほぼ完全な洋風、という風情が漂っている。ほぼというのは、様式は洋風でも、随所に和風の意匠が残っている。仏蘭西窓から見える庭は瓦斯灯の明かりこそあるものの、枯れた和風の庭園、欄間位置に当たる壁と天井には明らかに和の調による花鳥図が描かれている。部屋に供えられた椅子は古代裂の錦張り。小物にも和風の意匠が多くみられた。
「和洋が合体してるのか」
 ソルトは感心したように声を出した。いまどきどちらの趣も取り入れた館は珍しいと思ったのか、木造の孤児院以外の建物をそう見る機会がないからなのか、一目見て感嘆の息を漏らした。それと同時に、この場所は異質だという事実を忘れそうになり、割り切れない思いが漂った。もう少しここを見ていたい、という思い、そして、早く抜け出さなければ、という気持ち。不思議なものがせめぎ合い、少しやりきれなくなる。もう少しだけ見ていたいという気持ちをぐ、と飲み込んで。周りを見渡した。
 かけられたものや椅子の種類、さまざまな小物絡みとり、ここはだれかを招き入れる場所。それが誰なのかは、ソルトには想像がつかなかった。少なくとも、バニラが思っているような自由を謳歌している者たちが集まるのだろうということは容易に想像ができる。カウンターの上に置かれた上質の羽ペンと、名簿のようなものがそれを伺わせた。
(……宿泊施設かな?)
 たいそうな屋敷にしては、妙に他人に気を払うような作りであるような気がした。首を捻りながら、さらに周りに視線を移すと。大量にとりつけられたドア、木目をそって伸びていく室内の長い廊下、その先からは肉の焼けるいい匂いがして、食欲をそそった。
 何おかしなところがない、普通の宿場である。それがこんな辺鄙なところになぜ存在するのかが、最も怪しいところだとソルトは思った。風情もある、風格も品格も漂っているように見えるが、異様な違和感が拭えなかった。まるで生臭いものを包み隠して、表向きだけを取り繕ったような奇妙な感覚が背中に纏わりつく。
(考えすぎかな)
 マヨヒガだということだけはしっかりと頭に入れて置き、この家に宿る残滓は何が見えるのか、それだけを意識の隅に置くことにした。そうでなければ、本当につられて何か口の中に入れたりしてしまいそうな自分がいて、欲望が膨れ上がっていると自覚させてくれる。
「宿泊名簿に、大量のドア、奥は食堂かな、香草焼きの臭いがする。ペパー、何か思い出した?」
 バニラは自分の腕の中に持っているペパーに話しかけたが、ペパーは軽く首を横に振っただけだった。ふむ、とバニラは口を引き結んで、ペパーを抱いている自分の腕に力をこめた。見た目からみる印象よりも、何かのしこりのように、気味の悪いものがどこかに集まっている。それがどこなのかはわからないが、この場所のどこかだということは理解している。それを見つけたときに、もしかしたら何か嫌なことが起こるのかも知れないと、バニラは思った――その瞬間に、視線がカウンターに移動した。
 いつの間にいたのか、それとも今までいたという認識を頭が忘れていたのか、一匹、ポケモンが立っていた。言葉には表現しにくい何かぬるりとしたものに包まれた。不思議なポケモンだった。滑った液体がぷるぷると動くような、細胞を思わせるようなポケモンだった。
「っ……あっ……」
 バニラの呻いた声が二人の耳に届き、ピールとソルトは瞬時に声の方向へ視線を移した。今までいるはずのないそれが、そこに鎮座している違和感。見る者をぞわりと畏怖させるような、禍々しい何かのように見えた。ピールは苦いものがこみ上げて、吐き捨てたくなったが、それはべっとりと胸から口腔に張り付いたままとれなかった。
「なに……?」
「お母さん」
 は、と声を上げたのは、ほかでもない自分自身だと気がつくころには、カウンターに存在する異型の者が口を開いた。
「いらっしゃいませ、ご宿泊でしたら、こちらの名簿に名前を」
「いや、あの……」
「いらっしゃいませ、ご宿泊でしたら、こちらの名簿に名前を」
 残滓だ。と思う、まだ生きているのか、死んでいるのかはわからないが、少なくとも生きているのならいきなり現れはしない。唐突として現れたそれが何を意味するのかは、こちらの言葉によって左右されるのかも知れないと思った。
「私たちは、その、宿泊客ですけど……」
「いらっしゃいませ、ご宿泊でしたら、こちらの名簿に名前を」
 話しかけてみても、反応は同じだった。バニラとソルトが不審に思う中、ピールは軽く息をついて、指を指した羽ペンを軽くとる、羽のふわりとした感触よりも、ゴリゴリとした何かをつまんでしまったような、妙な不快感が伝わった。
 ゆっくりと名前を走らせる。バニラ、ソルト、ピール。自分たちの名前を書いた途端に、それは名簿からゆっくりと消えていった。黒が滲んで、そのまま吸い込まれるように名簿に溶け込む。一瞬何が起こったのかわからなかった。
「ご宿泊ありがとうございます。ごゆるりとおくつろぎ下さい」
 言葉と同時に、それははじけて消えた。ペパーが、お母さん、と名前を呼んだ。ピールはとんでもないものを目の当たりにしたように、数回瞬いた。その数回の間に、自分たちのいる場所が、何かひどく場違いな違和感が、すべてわかった。
 羽ペンに視線を移した。羽がすべて抜けおち、ゴリゴリとしたものだけが残っている。名簿に目を移すと、虫に食われた跡が残るだけで、あとはかすれた文字が少し書かれているだけ、ピールの書いた文字は、インクの付いていない羽ペンの先が文字の形をひっかいただけで、何も書かれてはいなかった。
「っ……」
 周りを見渡した。先ほど見た花鳥図は図がなんのものかわからないほどぼろぼろだった。小物は木製のものがすべて腐り、蛆がわいたように奇抜な音を立てる。いやな汗を拭いながら、さらに周りを見渡す。これ以上見ていられなかったが、見なければ何もかもわからないままだった。声を上げることもなく、嫌な感じがした。それと同時に、この屋敷が外観だけを取り繕ったものだということがわかった。隠していたものがあらわになった時、ソルトが大きく声を上げた。
「二人とも、閉じ込められたぞ」ぎょっとして振り向くと、ソルトが無言で首を横に振る。ソルトの横には、先ほど自分たちが入ってきた扉が見える、鍍金が剥がれたように、金属の立派な閂は錆びて、全く動かないといった風情だった。「冗談じゃない、先に出られるかどうか、壊してでも扉を開けないと」焦ったような口調で、バニラはペパーを安全な所に避難させると、思い切りでんきショックを試みた。電撃が尾を引いて、閂を光らせるが、それ以外に何かの反応を示すことはなかった。
「無駄だよ」
 すでに諦めたかのように、ゆっくりとソルトはバニラをなだめた。
「無駄って、やったのかい?」
「うん、やったんだ、僕も技を使えば壊れるかと思ったけど、だめだったんだ、蔓を近付けるだけで、妙な感じがして、弾かれる」
「妙な感じ」
「そう、何なのかはわからない、でもわかることは、僕たちは閉じ込められてしまった。二重の意味で」
 逃げることができないという気持ちよりも、抜け出せないということに対して、バニラは顔を顰めた。どこにいても閉塞する。この屋敷を抜け出せないということに対して苛立つ自分がいた。怪奇の恐ろしさよりも「閉塞」というものに対して苛立ちを感じる。自分にそんな無様な思いをさせるものが気に入らなかった。何もかもが憎い、――この空間も、あの孤児院も、本当に何もかもが。


 しらみつぶしに調べるしかないと、思案するのをやめて、バニラは動き出した。ペパーをもう一度抱きかかえると、重さと一緒に少しだけ安心感が増した。この家に出る方法がないのなら、どこか別の出口を探せばいいだけだと勝手に考える。この屋敷に籠っている怖気のようなものに、若干辟易のようなものを覚えて、軽く溜息を吐いた。
「ペパー」
「ん」
 なんとなしに声をかけて、ペパーは息を吐く様に口から言葉を漏らした。
「君がこの屋敷に住んでいた。そしてさっきのポケモンみたいなのを君はお母さんって呼んだね」
「うん」
「お母さんの姿を見て、何か思い出した?」
「……まだ、思い出せない」
 まだ、というのは、少しは思い出してきたということなのだろうか、と思った。他にも何か聞きだそうとしたが、寄る辺のなくなった記憶を他人を通して思い出すというのは、プライヴァシーの侵害に他ならないと思った。それを不快に思っているのなら、なおさら言葉を選ばなければ、ペパーは自分たちのことを忌むべき眼で見つめるだろう。今までそれに気がつかなかった自分自身が少しだけ嫌になり、バニラはばつの悪い顔をした。
「嫌なら言わなくてもいい、でも何か思い出したのなら、少しだけでいいから、教えてくれるかな」
 嫌なら、という言葉に対して、ペパーは何の興味も関心も示さなかった。特に自分のことを言うことに対しての嫌悪感や不快感はないらしい。それに少しだけ安心した。
「……僕、この家に住んでたんだ。お母さんと、お父さんと一緒に。だけど、僕は出て行った。この家から」
「……他には?」
「わからない」
 同じような返答が返ってきて、バニラは目を細めた。それ以上はわからない、ということなのだろうか、あまりにも情報がとぎれとぎれで、少しだけ歯がゆい思いがある。自分の性格なのだろうか、どうしても一気に情報は詰め込んでおきたいという思いがある。塵が積もるように遅々とした情報の蓄積は、むず痒い気がしてならなかった。
「わからなくても大丈夫さ、僕たちがついてるからね。そうだろ、ピール」
 精一杯言葉を重ねるようにソルトが口走るが、ピールは目を細めて俯いた。あくまで自分たちは案内役であり、中に入ればそのまま元の場所に戻っていける、と思ったからなのか、唐突に起きた出来事に頭が付いてこないような感覚だった。
「うん」ピールはかろうじてそう頷いたが、本当かどうかは怪しいところだった。視線をあげて、周りを観察する。ぼろぼろの洋館、閉じ込められた自分たち。この状況になることをだれが想像しただろうか、こうなってしまったときに、どうすればいいかなど、ピールは学んでこなかった。
 闇が深く纏わりつくこの場所で、自分たちが今すべきことは何なのか、それを思案するには、あまりにもこの場所は場違いで、粘りつくような恐怖が足元に侵食している。とてもではないが、考えるよりも先に精神が異常をきたしそうだと、ピールは身震いした。
「この状況だ、出口も見つからないし、一つ一つしらみつぶしに調べてみるしかないね」
 バニラの言葉に、全員が確認し合うように頷く。たった少し離れたような場所に感じても、隔絶したような雰囲気がこの場所にはあるような気がしてならなかった。このままこの洋館と一緒に切り離されないようにするには、まず自分たちが動くしかできないのだと、そう思わせるような場所。やはりここは、マヨヒガなのだろうかとピールは背筋を伸ばした。陰鬱な気分を吹き飛ばすために、ペパーに語りかける。
「ペパーの家に、ペパーの忘れていたことがあるかもしれないし、ペパーも一緒に探す?」
「うん」ペパーはバニラの腕の中で、頷くように体を動かした。そんな姿を見て、ピールはますます深く影を落として、気を引き締める。宵が深くなるにつれて、悪鬼もはびこる。この家の残滓が悪鬼でないことを、ピールは祈るしかなかった。


その5


 一つの部屋がもぬけの殻になっていたことに、いち早く気がついたのはソルベだった。ドアをノックしてみると、反応がないことは眠っていると解釈している彼女は、ドアをノックしながら、そのまま自分の部屋に戻った時に、違和感を感じた。一つの部屋に、寝息やベッドの軋みが聞こえない、風の音が強く打ち付けるだけで、そのほかの音が聞こえないということに気がついたのは、午前三時を回るか回らないかというところだった。
(まさか)
 腹の底に嫌なものがたまり始める。不安と焦りが悪い方向へと物事を運びそうになり、首を振る。足早に不自然な部屋の方へ行き、ゆっくりと扉に手をかけて、ドアを押した。
「……っ」
 室内の状態が視界に入り、思わず息をのんだ。誰もいない。半開きの窓が、風に叩かれて少し軋んだ音を出している。それ以外に、何も変わるところはなかった。子どもたちが三人いないことを除いて。
(そんな……)ソルベはひどく狼狽したように、一歩、二歩と体を後ずさらせる。(院長先生に)何かをしようとして、そのまま次にやらなければいけないことを思い浮かべる。それが優先順位の上に行っているのかどうかはわからない。(私は……報告を……)してどうなるというのだろうか、と自分で思ってしまう。頭の中で瘋癲した思考がぐるりと一周し、頭を押さえて、壁に背中をつける。
「……」
 静かな部屋には、まるでそこにいるはずの子供たちの残滓が、残っているような印象をソルベに与えた。乱れたベッド、開かれた紙の手帳、何もかもが、まるでいつもの日常に戻していくような印象。しかし、その日常の中になくてはならないものが、ない。
(なんてこと……)
 消えた子供たちの部屋番号を無意識に確かめる。なじみ深い孤児院の部屋の番号は、すべて覚えていた彼女は、部屋番号を見たときに、呻くような声を漏らした。いつも問題を起こして素知らぬ顔をするバニラ。面倒見はいいが時折孤立したように輪から外れるソルト、何を考えているのか、今一わからないピール。どれもこれもひと癖のある顔ぶれが浮かび上がり、ソルベは口の中にたまった唾を、こみ上がってくる苦いものと一緒に飲み下して、淀んだ息を吐き出す。
 子供たちの輪郭をなぞるように、闇の中にぽっかりと、その姿が映るような気がした。そんなことはあり得ないと思っていても、わだかまった闇の中に、彼らの姿を思い起こせば、その場所に色がつき、残滓が脳を通して視界に映写する。しかし姿を思い起こすほどに、ここにいないという理由がわかってしまうのがおかしくもあった。
 バニラは毎日勉強にかじりつき、この孤児院を嫌っているような節があった。ソルトは、何かを払うような気分に浸っている時があった。それはつまり、この場所から離れて思案に暮れたいという思いがあったのかも知れない。ピールもまた、一人になることに義務のようなものを感じていた、それは見ているだけでうっすらと、滲むような感覚で見えていた。誰がどうだったとしても、三人とも共通するように、この場所から遠ざかることをよしとするような印象を、彼女は持っていた。
「院長先生……連絡を……」
 何が言いたいのか整理がつかないまま、彼女はふらりと、ドアの向こう側へ逃げる。彼女がターキーに連絡を入れるまで、無為な闇が笑うように風が吹いた。


「おぅい、バニラ」
 入口近くの扉を開けようとしたバニラの足を止めたのは、ほかでもないソルトの声だった。ペパーを抱えたまま少しだけ足を止めて、ゆっくりとソルト達の方へ振りかえる。
「どうしたの?」
 バニラは不思議そうな顔をしてソルトを見つめる。――ちょっと待て、と言わんばかりのソルトの制止に、少しだけ難色を示しているような顔で、楽しんでいる行為を邪魔されたような雰囲気を伺わせた。荒廃した洋館がそこまで探究心を高めるのだろうか、と思いながら、ソルトは右手で入り口付近を示した。
 首を傾げながらそちらの方へ視線を寄せる。入口の近くに、何やら大きく書かれた図式がかけられてあったが、朽ちかけているのでよくは見えず、仕方なしに足をその方へと運ぶ、床が軋んで、埃が舞う。少し咳をしながら、ゆっくりと周りを見渡した。造林の奥にある、陽光に灼かれることのない古びた洋館。視線が戸外の風景を薙いだとしても、それは林に吸い込まれるだろう。たとえ昔は賑わっていたとしても、廃れていけばすべてが木々に包まれてしまう。死にかけた洋館は完全に死に絶え――木々に呑まれる。
(ここは、そういう場所なのかな)
 最初に見たこの場所は、栄えていた面影。何かのはずみで、すべてが朽ちた場所へと変わる。まるで夢でも見ているかのような光景を思い出し、この館はどういう場所なのだろうと思ってしまう。取り繕った外観、侵入者を世界から隔絶するような現象、まるで家が意思を持ち、人を閉じ込めるような――
(……マヨヒガ?)
 そこまで考えて、バニラは一つの伝承を思い出した。欲ある者を閉じ込める家、悪いものには罰を与えるという伝承があるが、それは伝承に過ぎず、本当のところは、マヨヒガは家内の者の思念や無念、怨念が詰まったものではないかという言葉がささやかれている。バニラも多少の話は耳に拾ったが、しょせんは架空の産物、ありもしない幻想だと切り捨てていたが、もしかしたら、と思い始めると、間違ってはいないような気すらした。
 バニラ達は特に欲望があったわけではない、だとしたら、バニラ達を閉じ込めているのはこの家の強い思いなのだろうか、まだはっきりとせず、マヨヒガ、ということすらも分からない。この洋館がただの家なのか、それとも異型のものなのかを確かめるには、と、視線を落として、抱きかかえたペパーを見据える。
(きっとペパーが教えてくれる)
 自分たちではまだこの場所はわからない、どういう場所なのか、何が起こるところなのか、それはすべて、ペパーの記憶を取り戻していけば、解けていくだろうと、根拠のない思いを頭に馳せた。それが間違っているのか正しいのか、それすらも分からない雲をつかむような思考、自分でもこんなことを考えているのにびっくりした。
 それでも、とバニラは首を振った。自分でもよくわからないが、ペパーを信じてみたい気になった。他人と共有する思いというよりは、親近感に近いものを感じながらも、ソルトの指定している場所までやってくると、目の前に張り付けられたものを見て、首を傾げた。
「これは」
「この洋館の見取り図、かな」
 見取り図ということはわかっていたが、所々がかすれていて読みづらいということもさながら、見取り図を見てどうしようというのだろうか、ということがあった。あの変なポケモンに話しかけたときに、この洋館はいきなり朽ち果てた。いきなり起こったことに動転してしまったが、あとで冷静になって考えて見れば、この場所が朽ち果てたということは、この場所にあった軌跡もすべて朽ち果てているということだろう。だから、今の場所を確認しようにも、朽ちてしまった見取り図ではどうしようもできない。
「そうだ、ペパー、これを見て、何か感じないかな」
 ソルトの言葉は、バニラではなく、バニラの腕の中で揺らめく、ペパーに向けられた。揺らめく紫が体を照らすように周りをぼやりと照らし、暗がりの中で、ペパーは思案にくれるように自分の体の上部を抑えて、ゆっくりと体を左右に揺らした。
「……感じる」
 その言葉を聞いたソルトは、一層語気を強めた。「どこだ」言葉を強くたたきつけられることに少し驚いたが、ペパーはバニラの腕の中から身を少し乗り出して、感じると思われる場所をゆっくりと指さした。指し示す場所はこの場所から奥に進んだ先にある、開けた場所。「食堂だね」ピールがかすれた文字を指ではじき、埃を落としながら目を細める。最初に行くべき場所は――
(食堂か)
 ソルトは上半身をゆっくりと後ろに向けると、広い受付の細い通路を見つめる。迷途に迷い込んだような感覚がずっと頭の中に残っていたが、ヒントをもらいながら進む分には何の問題もない。そのヒントが、ペパーの一つ一つの言動。それがこの洋館という名の迷途を抜けるための重大なこと。それはすべてペパーの記憶なのだと、今確信した。
「食堂に進もう。最初に進むべきは、食堂だ」
 全員に言い聞かせるように、ソルトは無意識に声を大きくした。ピールとバニラ、それにペパーはその声につられるようにして、足早に動き出したソルトの後を追う。
「なかなか気合が入ってるみたいだね、早く抜け出したいのかな」バニラの声に、ピールはそうかもしれない、と頷いた。「もしかしたら、怖がってるのかも知れませんね」冗談めかしたピールの言葉に、まさかだろ、とバニラは苦笑した。「彼なら見世物小屋のくだらない猥雑な物や因業物も大して興味関心を示さないような感じがするけどね」その言葉こそ、ピールは笑い崩れる。「うふふ、そういうのに興味関心を示さないのは、バニラの方じゃないのかな?」
 その言い方に少しだけ不服そうな顔をしたバニラを見て、ピールは日ごろの行いから推測したようなそぶりを見せる。まったくそれが的外れでもない分、バニラは少しむきになり言葉を重ねる。
「僕だって勉強以外に興味がないわけじゃない。都会の他愛ない大道芸も楽しそうだし、華やいだ&ruby(たかもの){興行};だって興味関心があるさ」
「だけど、そういうものはえてして理不尽な規制を受けて街路から消えていく」
 ピールの言葉に、少しだけバニラは体をこわばらせる。街路取締規則などというものが設置されてから、街路の見世物は減少の一途をたどるという噂も聞いた。鑑札制の導入、組合を組織させそこに取締係を置き、警察などの監視を受けること。自由な興行を禁じられ、路上や公園から追われて、彼らは行き場をなくしつつある。興行が大好きだったバニラにとって、それはとても理不尽なもののように感じられ、憤慨すら覚えた。それを知っているからこそ、ピールは彼女の憤りがよく感じられた。
「バニラは、大道芸好きだものね」
「あれが初めて見た、都会の見世物だった」
 彼女はそういうと軽く息をついた。一度だけ、都会の大道芸人たちがこの孤児院の付近まで芸を見せに来てくれたことを思い出し、ピールも感慨に浸るように顔をあげる。子どもたちはタネも仕掛けも分からない芸を見て、目を輝かせてどういう原理なのかを調べようと躍起になって目を見開いていた。その中でバニラだけは、ただ純粋に芸を見るということに楽しみを覚え、そしてこんなものがあるという都会の期待に大きく胸を膨らませた。「出ていきたい」という思いが一層強くなったのも、大道芸の面白さが拍車をかけていたのかも知れない。そう思うと、ピールは見世物が潰れていくというのは時代の流れを感じて、バニラだけではないピール自身も、少しだけ悲しい思いが巡る。
 屋敷内に入る不可解な風を受けて、少し言葉を切る。バニラは視線を下に向けて、ぽつりと言葉を落とした。
「規制されるのは当然かもしれない、それは僕も分かってる。天下の通りはだれのものでもないんだから。だけどやっぱり嫌なもんだね」
「やっぱり気にくわない?」
「僕はただ、猥雑で品のないものが好きだったのかも知れない。中には出鱈目なものもあるだろうし、&ruby(にせもの){贋物};だってあっただろうね。僕が見た芸や露商の物ももしかしたらそれだったのかもしれないし、詐欺まがいの物だってあっただろうね、でもそれも愉しみの一つなんじゃないかなぁって」
「なるほど、愉しみね」
「うん」と、バニラは下に落とした言葉を拾い集めるように俯いて歩く。「世にも恐ろしい人魂とか、タネも仕掛けもない不思議な生き物とか、そういう嘘くさいものも大量にあっただろうね。だけどそれでも人が集まるのは噓でも構いやしない、むしろ噓を見るために集まるんじゃないかなって思う。&ruby(ころび){露店};の古道具にしても、しかつめらしくおっさんが来歴を語ってみせる。それは噓かもしれないし本当かもしれない。買った品物は屑同然のがらくたかもしれないし、大層な値打ちのものかもしれない。その本当のような噓のような曖昧なところを、人は愉しんでいるんじゃァないかなぁ」
 ふむ、とピールは自分の髯を摘まんで撫でる。
「そうかもしれないね」
「世の中には本当のことと噓のことがある、どちらともとれず曖昧だからこそ面白い。本当と噓の白黒をつけてしまえば安全なかわりに何の面白みもなくなってしまう。ましてや噓を規制すれば、だれもが本当の顔をして噓をつく。噓が本当になる。本当になってまかり通ってしまうことと、二つが曖昧なこととは同じようでまるで意味が違うように思える気がするんだ」
「そうだね」ピールはそう言って、指先で髯を弾いた。「規制を受けて、芝居の演目まで許可が必要になっちゃって。お上は品のない出し物を規制するのだとそう言ってるけれども、本当のところは壮士芝居だの政府批判芝居だのそういったものを規制したい胎があるのかも知れないね。下品な出し物を規制すると言えば真っ当正しいように聞こえるけれど、胎を探れば噓が出る」
「そういう胎を探らなければいけない感じが、僕は好きじゃない」バニラはそう言って、自嘲めいた笑みを浮かべる。「噓でも本当でもいいから、無責任に楽しんでいたかったのかも知れない」
「そうだねェ」
「ごめん、話が脱線したかも」
「ううん、構わないよ」
 ピールは自分にも非があるように少しだけ頭を下げた。バニラの腕の中に抱えられたペパーは、二人の会話を聞いて、虚ろな瞳をぱちくりとさせている。話が難しすぎたか、と思った時、ソルトが声を上げる。
「ここが食堂に続く扉だ」
 声に気がついて、一斉に同じ方向を向く。ソルトが見ている扉は錆びついて、腐りかけていても、その先にあるものをしっかりと包み隠しているような印象を受けた。その場所だけが、まるでこの洋館とは違うものの印象を受けて、開けた時に何が別のものが見える、そんな感覚が全員に伝わる。
「当たり、かな……」
「開ければ、わかるんじゃないかな」
 バニラの言葉にソルトは頷く。何かを吹っ切るように首をひとつ振り、錆びついたドアノブに手をかける。外は宵が深くなっているかもしれないし、もしかしたら朝になっているのかも知れない。不思議な洋館の中で、ソルトは何かを警戒するように、ゆっくりと扉を開けた。


 食堂の椅子に座り、ゆっ足りとした仕草で周りを見渡す一人は沈黙の中で食事を続ける。静寂が支配する中、ランクルスの女将は料理を両手に運んで客の前に差し出す。何の変わりもない、宿屋の日常だった。
「おはようございます。お客様。よく眠れましたか?」
「ええ、とても」キリキザンはとても快活に笑って、口の中に焼き立てのパンを放り込む。「こんな辺鄙なところにこのよう場所があったことに私は驚いています。なぜこんなところに宿を構えたのですか?」
 その言葉に対して、ランクルスは自嘲気味の笑みを浮かべて、スープを運ぼうと後ろを向いた。振り向きざまにはなった言葉が、キリキザンの耳を掠めて、ゆっくりと言葉の信号を伝える。
「あまり大きなところには作りたくないのです。知られないところでやるというのが一番いいので」
「なるほど」
 キリキザンは特にその返答に難色を示すことはなかった。人には人のやり方がいくらでもある、それに反することなどしないだろう。秘密を持っているわけでもない、柔和な宿屋の奥方、という印象が彼の頭の中にはある。特にこんな辺鄙な場所で秘密にすることも、何かを包み隠す必要もない。ここはそういう場所だ。何かを隠す必要もないくらいの自然と、温かな宿がある。それがここであり、後ろめたいことなど何もない。キリキザンは道に迷ってしまったときに、この宿を見つけた。宵も深くなり、木々のざわめきがまるで第三者の喧騒に聞こえる中、温かな宿を見つけ、戸を叩いたところ、温和な夫婦が迎え入れ、温かい食事と、温かい寝床を提供してくれた。
「御馳走になりました」
「お粗末さまでした」
 丁寧に両手を合わせて、食事を平らげるのを確認して、ランクルスはスープを運び、スプーンを置いて、空になった皿をゆっくりと持ち上げる。
「食後の口直しです、少量ですのですぐに胃に入りますよ」
「申し訳ない」
 キリキザンは頭を下げて、スープをスプーンですくう。口に入れたときに、うっすらと、ほんのうっすらと、ランクルスは微笑んだ。それは真夏の朝の暑さを抜き取り、底冷えするような畏怖をこみ上げさせるような印象を受けた。考えすぎか、とキリキザンは自虐的に笑い、スープを再度口に運んだ。
「味のほうはいかがですか?」
「いえ、こんなに御馳走していただいて、味に文句をつけるのは――」
「宿ではお客様が満足していただけるように、日々精進しておりますので」ランクルスは頭を下げた。けして慇懃無礼というわけでもない、本当に客のことを思った発言に、キリキザンは本当にいいところを見つけたものだと、道に迷った昨日の自分に感謝すらした。スープを運びながら、キリキザンはふと思ったことを口にする。
「そういえば、こんな辺鄙な場所に――失礼、辺鄙と言ってはいけませんね」
「構いませんよ。辺鄙というのは否定しません」
 腕のような形をした右の細胞を口の近くに持ち、自嘲気味にほほ笑む。続きは、という様な顔をして、食事の皿を片づけた後に、掃除をする。
「申し訳ない。ええと、こういう場所に来ても、宿としては洋と和を貫いているんでしょうか、と思いまして」
「ああ、それは主人が洋と和の調和が好きなのです。ここに訪れる人は数こそ少ないですが、洋と和、どちらかに偏っている人の方が多いですからね、どちらも程よい調和を洋館に敷き詰めればどちらに偏っていても、お客様は居心地が悪いと感じることはなくなるだろうという気持ちを持っているらしいのです」
「なるほど、お客様のことを考えておられる主人なのですね」
「私は外観を取り繕うよりも、心をこめたおもてなしをした方がいいと思いますが」
 ランクルスの苦笑に、つられて笑う。外観ももてなしも最高級だというのに、この奥方はどうやらさらに上の者を目指すらしい、その向上心や奉仕の心意気に、先ほどの思いは完全に消え、溜飲が下がる。
「十分素晴らしいおもてなしをしているようにも思いますが」
「私はまだまだ上を目指せると思います。お客様がこの宿を後にする時、もう少し奉仕の心を込めればよかったと、何度も思うことはありますわ」
 今までのことを思い出し、少し後悔の念をよぎらせる彼女を見て、キリキザンは頭が上がらなかった。どこまでも自分を下にして、奉仕することにすべてを注ぐその姿勢に、上がる頭があるかどうかはわからなかったが、恐らくそんなものはないだろう。
「いや、立派な心がけ、頭が上がりませんな。ごちそうさまでした」
「はい、お粗末さまです。……本当にお客のことを思っているのかどうか、私にも甚だ疑問なんですよねぇ……主人はこんなわかりにくい場所に宿を構えると言ったときに、少し反対側にいた方が良かったのかも知れませんね」
 冗談めかした彼女の口調に、キリキザンは破顔した。「奥さん、先ほどと言ってることが違うのでは」もちろんそれに対してランクルスはくすくすと微笑む。「もちろん、わかってます、これでは単なる自虐と取られてもしょうがないと思いますが、辺鄙な場所に造るなら、せめてお客さんにわかりやすいようにしてほしいというのがあったかもしれません」
「ああ、そういうことですか」
 それを聞いてますます彼は笑い崩れた。こういう風に他愛のない会話で笑えることなど何年振りだろうと、少し頭に擡げた眠気を払いながらのんびりと思案した。
「わざわざ看板も立てずに、誰かが住んでいるような屋敷の外観を立てるなんて、看板も立てずに、わざわざ造林が一番交差しているところを選ぶなんてっ」
 ランクルスの少しむくれたような声を聞いて、くすくすと笑いを抑えて、キリキザンは項の辺りを掻いた。
「もう二年にもなりますけど、何とか商売になってるからありがたいです。越してきた当初は、夫に畑を作ってもらわないといけないかと思ってましたが、それなりに御贔屓にしてくれる人に恵まれていますので」
「ほう?」
「昼になると来てくれますが、最近はこちらやあちらの都合の問題か、夫が取り持ちをしてくれるんです、私は切り盛りや子供の世話で手いっぱいで」
「お子さんが?」
 ええ、とランクルスは幸せそうに微笑む。「夫についているのです。私にはあまり甘えてくれないのですが、恥ずかしがり屋かもしれません。わが子の成長が、今一番楽しみですね」
「いいですね」
 幸せそうな彼女を見て、キリキザンは笑みを浮かべる。頭の中の眠気が促進してきて、ゆっくりと瞳を閉じそうになった時、入り口のドアが開いて、風が入ってくる。シャンデラとヒトモシはゆっくりとランクルスに歩み寄ると、ただいま。とだけ告げた。言葉を放ったのはシャンデラだけで、ヒトモシはこそりとシャンデラの後ろに隠れてしまう。
「お帰りなさい」
「君はまたお客さんに長話をしてるのか?」
「久しぶりのお客様ですから、精いっぱいの奉仕をしたいだけですよ」
「どうだか」シャンデラは苦笑いを浮かべて、緩くヒトモシを撫上げる。「君のことだ、また自分のことや私のことで無為に足止めをしてしまったのではないかね」
 そんなことはありませんと首を振り、すぐにそういうことを言うんだとちょっとむくれる。彼女の夫もまた、ちゃめっけのある人だとキリキザンは穏やかな思考でそう思う。本当に危機意識を持つ必要がない、こういう場所に安らげる宿があるというのはある意味正解なのかもしれないと、彼は思った。この家族は本当に温かなものを持っていると思い、自分も早くそういう運命の人を見つければ、と急ぎ足になる気持ちも少し湧き上がる。
「ほら、ペパー、お客さまに挨拶を」
「あ、あの……こんにちは」
 ペパーと呼ばれたヒトモシはおずおずと前に出ると、申し訳ない程度に頭を下げて、すぐに父親の後ろに隠れた。人見知りも激しいのかも知れない、それとも、何かキリキザンを恐ろしいものと勘違いしているような印象を持っているのか。どちらにせよ、せせこましく動き回るような子供ではなく、少し引っ込み思案のおとなしそうな子供のような印象だった。
「全く、あいさつもちゃんとできないとは、お客様、申し訳ありませんでした」
「いえ、お気になさらずに――ひと眠りしたら、もう出発しなければ」
「おや、睡眠が足りませんでしたか?ベッドに何か違和感はございませんでしたか?」
「いえ、ただ単に私の睡眠時間がいつもより長いのかも知れません、誠申し訳ないが、割り振った部屋でもうひと眠りさせてもらえませんか」
 キリキザンは自分の体をゆっくりと舐めるように見るが、特に異常は感じられない、不慣れな土地での行動で、疲労困憊しているだけだろうと特に気にも留めなかった。そんな彼を見た夫婦は、どこか含みのある笑みを浮かべた。何をどう見ているのか、それがわからないまま、キリキザンは妙な違和感と背中のべた付いた怖気が拭えずに、少し身震いをした。
「本当に申し訳ない」
 キリキザンの言葉に、シャンデラとランクルスはとんでもない、と笑って首を横に振る。
「お父さん、僕も眠い」
「そうか、わかった、君はこの子を寝かしつけてあげてくれないか、私はお客様をベッドに連れていくよ」
「ええ、わかりました」
 二人のやり取りがまどろみのせいか、やけにぼやけて聞こえる。これほどの意識の混濁は体験したことがなく、それ以前になぜこのような状況に陥ってしまったのか、キリキザンには全く分からない。そもそも、そういう考え方自体がおかしいというのに、それがおかしくないと本能が言っているような気がしてならなかった。
(こんな辺鄙な場所で、平穏な宿で、何がおかしいというのだ)
 体を支えられて部屋に運ばれるまで、奇妙な違和感が纏わりついている。それは紛れもなく宿屋の主人から出ているもので、それが何なのかはわからず、結局ベッドの上に体を預けたときに睡魔に塗りつぶされて考えられなくなる。
「ごゆっくりと、お休みくださいませ」
 最後の最後まで、違和感の正体が拭えないままだったが、シャンデラの笑みを見て、この張り付いたような笑みが、違和感の正体だったと気がついたキリキザンは、なぜそんな笑みを客に向けるのか、なぜ獲物を狩るような目つきでこちらを見るのか、質問を山ほどしたかったが、口から言葉が出る前に、ゆっくりと意識が霧のように霧散していく。最後の最後まで違和感の正体がわからないまま、最後でわかるこのもどかしさ、目を覚ました時は、出る前に二、三質問をしようと、彼は思った。


「これは――なんだったんだ」
 意識が戻ったように、ソルトは周りを見渡した。ぼろぼろの洋館の食堂は、思った以上に朽ち果てていて、木の柱は腐りかけ、微生物が分解したような跡がいくつも残っている。煉瓦を積んだ窯のようなものは煤で真っ黒になっていて、ほとんど崩れかけている、風化したものは原形をとどめず、何が何だかわからないものが壁にかろうじて立てかけられている程度である、最初に見たものがおかしいかったせいか、さほど驚きはしなかったが、周りを見渡してほかにドアがないかを確認しても、やはりどこにもそれらしきものは見当たらなかった。
「ここは違うってことですかね」
「どうだろう」
 室内には外壁が貫通した跡があるのか、夜風が吹きこんで、ゆっくりと抱えたペパーの炎が揺れて、少し顔に近づいたバニラは驚いたように首を右に動かした。抱きかかえられたペパーは何も言うことなく、呆然と朽ち果てた食堂内での出来事を思い出すように、俯いた顔に紫の影を落とす。滴る蝋がバニラの腕に落ちて、熱を感じる前に冷えて固まる。ねっとりとした固形物の感触に身を震わせながら、バニラは問いかける。
「どう?何か、思い出した?」
「……」
 だんまりを決め込んでいるペパーを見て、バニラは何か腹の底にたまるような感覚がした。先ほどの回想のようなものは、この扉を開けた時に出てきたもの、それがペパーに何を影響するのか、こちらが見たときに何を及ぼすのか、それさえわかれば、と思う半面、思い出の様な回想を見たときに、それがまるで切り抜かれた世界ではなく、ペパーの視点から見た出来事のように思えた。ペパーは先ほど入り口で見たランクルスの息子であり、シャンデラの息子でもある。あの二匹は仲睦まじく、そしてこの宿を経営している反面、滅多なことで接点を持とうとしない。食材の買い出しや、掃除道具の買い替えなど、そう言って出て行く以外は、自宅に閉じこもったまま。
 そんな夫婦の息子。気おくれしたような感じがする、少しだけ引っ込み思案の息子。そんなペパーでも、両親からの愛は注がれていた。わが子の成長を楽しみにしている、それだけが彼にとってうれしい言葉だった。飾り立てることのない、賛美の言葉。それを聞くだけで、彼は生きているという実感がわいた。そのペパーの思いを、バニラは自分の心で感じた。彼と彼の両親を見比べてみると、似ても似つかない気性の持ち主だが、妻に選んだランクルスはまた不思議な感じがしており、それが彼女には奇異の目で見るというよりも、一時の母として、という枠を超えた一人の女性の像を脳裏に焼き付けられたような気がして、かぶりを振った。ほかの二人もこんな感覚で今の出来事を見ていたのだろうか、と不思議に思うくらい、それはまるで自分がその出来事の中にいたかのような感覚だった。
(ほかの二人も同じように、そう感じているのなら……)
 そう思う自分がいた。そうであってほしいと心から思う自分がいた。屋敷に来る前のペパーを見たときの感覚を思い出して、かぶりを振る。あの時自分だけが気が付いていたこと、ほかの二人は自分が気がついたときに、そこにいたかのように気がついた。自分だけが気がつく、ということに対して、何か特別なものでも感じている、というわけではなく、自分が見えた、と思ったときに、もしかしたら自分は二人に話さなければ、この家に自分一人だけ呼ばれていたのかも知れない。それは特別とはほど遠いもので、「憑かれて」いるというものに近かった。
(二人を巻き添えに、したかったのかな……)
 そう考えるだけで、自分は特別何かに惹かれたわけでもなく、「憑かれて」いることに対して、自分だけが巻き込まれたくなかったからという理由で誰かを巻き込む。という行動に出たのかも知れなかった。そう考えていると、胃の中に腐敗したような感情がたまって、知らないうちに渋顔を作っていた。
「すごい顔してるよ、大丈夫?」
「うん、全然大丈夫じゃない」
 正直に言葉を紡ぐと、ピールは苦笑した。
「何それ」
「わからないけど、大丈夫じゃないからしょうがないじゃないか」
 無責任に大丈夫という言葉は使いたくない。結局大丈夫かもしれないという言葉など、そうあってほしいという言葉と同義だ。希望的観測という言葉で繋がれて、結局自分が願っても変わることがない。バニラはそう思いながら、腕の中で沈黙しているペパーを軽く叩く。
「ペパー、思い出したことがあるかい?」
「……僕、お父さんとお母さんにいっぱい愛を受けて、育ってきたんだ」
 回想を思い出すようにペパーは体を少し震わせる。それが歓喜なのか、それとも畏怖なのかはわからない、あの回想を見た感じではおそらく前者かもしれない。どうやら先ほどの改装でペパーは何かを思い出したようだが、どうにも様子がおかしかった、何か、引っ掛かりを感じて、ソルトは眉根を寄せる。嫌なものが背中に走り、知らないうちに背筋を伸ばす。体が強張るのを感覚を通して伝わり、嫌な感じが伝わる。
 何か間違ったことを思い出すような、そんな感じがペパーからにじみ出ているような感じがして、どうにも暗澹とした気持ちが払拭できなかった。ソルトは自分の思いすぎであるということもあったが、ペパーの顔を見て、その可能性が限りなく低いということも重々自覚していた。
「だけど」ペパーは続く言葉を吐き出す。それは重く、とても沈んだ声だった。「どうして、あんなこと……」鬱積した言葉が絞られるような声が出たときに、ソルトはやはり、と瞳を歪ませる。
 息をひとつはいて、思案顔になった。ソルトはペパーのあんなこと、という言葉に何か重大なものを感じる思いを寄せていた。それは突飛的で靄のように曖昧だが、何か確信をつかむような事柄の様で、無為に切り捨てようにもなかなかできそうになかった。それはまだわからないが、少なくともこの屋敷に関係している、ということだけはわかるし、それを紐解くことが、何かこの不気味な空間から抜け出すことに対しての鍵のようなものに感じられた。
「ペパー、あんなことって?」
「わからない」
 同じような言葉を聞いて、溜息をついてソルトは落胆した。先ほどの回想ではまだまだ思い出せないということだろう。やはりここはマヨヒガではないのだろうかという思いが、強くなる。閉じ込められた家の子供、扉を開けて見える回想、それは残滓であり、家に残っている未練のようなもの、それをすべて解き明かせば、マヨヒガは消え去る。遠い昔の伝承は無欲ならば出られるらしいが、昔の話は基本的にあてにはならなかった。御伽噺のようだが、先ほどの回想と一致する部分が多く、あながち間違ってはいないと思った。
「わかった、じゃあ次だな。戻ろう。もうここに用はないからな」
 ソルトの言葉に全員が暗黙の了解の様に踵を返す。先ほどの見取り図の所に戻るまでに、全員の心に暗雲が垂れこめたように沈黙を保っていた。


 見取り図の前に来ると、少し安心したような気がした。広い空間に来ると、少しの寂しさを感じるが、隣に誰かがいる、というだけで妙な安心感があると思えるのだから、安い心だと思う。言葉では表しにくい安堵など、案外その辺の身近な出来事に紛れ込んでいるものだと認識した。
 体に伝う汗を拭う。抱えていたペパーをしっかりとつかんで、暑いのはたぶんペパーの蝋燭のせいだということはわかっていたが、どうしても離すことができなかった。話した時に、自分は両手で納まっているペパーを全て失くしてしまう、そんな気がして、どうにも手を動かして、地面に下ろすという行為に違和感を覚えてしまう。知らないうちに感情が高ぶっていたのか、口の中でぬるりとしたものが広がる。軽い酩酊感が襲いかかる。
「それ、やめた方がいいよ。口がぐずぐずになって腐るから」
 それに気がついたのか、ピールがバニラの癖を指摘した。もちろんそれはわかっているが、もうバニラは止められないところまで来ているのかも知れなかった。自分でそれを自覚していたとしても、どうにも止めることができない。日々鬱積する思いは、すべて彼女は自分自身の口の中でがりがりと砕く様に潰していた。その行為が口内に犬歯を刺す、という自傷行為だったとしても、他人を傷つける、物に当たる、そんなことをしなくてもいい方法が、自傷行為だっただけだった。
「大丈夫だよ」バニラは鬱陶しそうに首を横に振った。「大丈夫、っていう言葉が一番信用できないかな。特にバニラ、あなたは平気で嘯くもの」ピールの言葉に、少しだけバニラは苛立ちを覚えた。嘯くのは間違っていないが、いつもいつも偽りを塗りたくっているわけではない、それを彼女に分かってもらえないことに、少しだけ傷ついた。友達、という言葉を飾っても、結局は理解し合うことはほとんどできないのだろうということを分からされたような気がして、息を吐いた。「嘯くなんて失礼な奴だな。どうでもいいことを吹聴してまわる奴らよりはましだと思うね」ふい、とそっぽを向く彼女に、ピールは何とも言えない顔をして口の中にたまった唾を飲み下した。「みんな屈折したところがあるからね、ちょっと我儘なところとか、そういううわさに対して貪るような姿勢をとるのも分かる気がするけどね、ほら、孤児院のみんなって思い通りにいかないと気に入らない時があるじゃない」
「馬鹿か」
「そうかもね」
 ピールの苦笑に、バニラはますます顔を曇らせる。
「そうじゃなくて、ピールの言い分が馬鹿かってこと」
「あらら」
「屈折してるとか我儘とか、そんなの他人から見た通説でしょ。同じ環境に育ったら、必ずしも同じポケモンができるのかな。生き物には個性ってものがあるでしょ。それを適当に&ruby(つづ){約};めて本人無視して、イメージに振り回されるのが馬鹿くさいって言ってんの」
 あのねぇ、とピールは息を吐いた。
「私はあなたの肩を持ってあげてるのに、さりげなく孤児院の仲間たちをフォローしつつ、バニラを立ててあげてる。こういうのを気配りっていうんだよ」
「陰口の間違いでしょ。そういうセコイ味方なんて、私いらないよ」
「……バニラさぁ、そういう態度ばっかりとってると、いつか誰かに刺されちゃうよ?」
「刺すほどの度胸がある奴がいたら、受けて立ってあげる。別に自分が間違ったことなんて、言ってないしね」
 まったくとピールは呆れる。バニラの言い分が正しいかどうかはともかくも、こうやってあっさりと言って放つところはバニラらしいと言えばらしいかもしれない。彼女は陰口という行為自体好きそうではない性格をしている、恐らく真正面から罵詈雑言を叩きつけられる方がいいのだろう、そうすれば何の気兼ねもなく相手を払えるからだと、何かに後ろ指を指されることもなく言いたいことをすっぱ抜けるからかもしれない。
「でも、口の中を刺したり、他人の言葉が馬鹿くさいって思える子供の個性って、ある意味歪んでるよね」
 視線をペパーに移して、バニラは鼻を鳴らす。それがどうした、とでも言わんばかりの顔をして、バニラは言葉を紡いだ。「それは人の個性なんだからほっといてほしいって感じだけどね。他人がいちいち介入してきたらめんどくさくてしょうがない」悪びれる様子もなく、しれっとそんなことを言ってのける彼女は、神経が太いというよりも、他人に対してとことん介入しないんだと改めて思い知る。
(だったら)
 なぜ彼女はペパーを抱えているのだろう。それだけではなく、なぜペパーに付き合っているのだろう。彼女はペパーに何を見ているのだろう。自分たちに付き合うのもそうだが、彼女の人との関わる基準が分からずに、少し困惑した。
「ペパー、次は何を感じる?どこに行けばいい?」
「……ええと、ここに……」
 少し控え目に指をさす。朽ち果てた見取り図に移す視線と、ペパーの指定した場所を見やると、そこは二階の一つの客室を指している。ソルトはそれを確認すると、すぐに踵を返した。ここにはもう用がないといわんばかりに、埃だらけの階段に近づいていく。
「おうい、ソルト待ってってば」
 待てるか、と口早に紡ぎ、ソルトは足を動かした。誰かに急かされているというわけでもないのに、何かに急き立てられるように足を動かした。この場所にいるだけで、炙るような暑さだった外の気温とは真逆の底冷えするような恐ろしさが、足元から這って来るような感じだった。どんな些細なことにでも敏感に反応してしまう。この屋敷には、いるだけで常に注意を配らなければいけないと思わせるものが多数あるのだと、思うように首を振った。
 そんなソルトを遠巻きに見つめながら、呆然としていたが、あわてて思い出したように、ピールとバニラは後を追った。未知の恐怖が夜の帳を侵食するように、あたりの薄暗さがどんどん増しているような気がして背筋に力を入れる。体の重みが尋常ではないほど重く感じ、後を追う速度にも一抹の不安が付きまとう様な感覚。冗談でも何でもなく、鉛のように体が重くなるという体験をしたような気分だった。
「僕……」
 階段を一歩、また一歩と登るたびに、抱え込んだペパーが悲しそうな声を出したのを、バニラは訝しげに首を傾げた。どうした、とも言えずに、ただただ足を延ばして階段を上る彼女の腕の中で、急にペパーがもがいた。いきなりの行動に虚を突かれて、バニラは手の中からペパーが抜け出すのを止めることができずに、階段を登りきった時にもんどりを打って倒れた。鼻先を地面に打ち付けて、けたたましい音が鳴り響いた。
「いった」鼻面を抑えて体中にかかる埃を払い、何事かと後ろを振り向くと、申し訳なさそうな、しかしそれでも自分の行動が間違ってはいないと思う様なペパーの顔が、そこにはあった。「ご、ごめんなさい」何やら小さな声で謝られはしたが、小さすぎて何と言っているのか今一わからない節があった。「謝るのなら、いきなり抜け出さないでよ」
「僕、僕……その先に行きたくない」
 え、と口からの呟きが、彼女には信じられない言葉を聞いたように呆然とする。それはペパーが見せた反発のようなもので、到底そんなことをいうような人物像ではなかったために、余計に唖然とする。なんで、という前に、体を横に振って、ペパーは抵抗するような表情をした。
「行きたくない、嫌なんだ。僕、行きたくない」
 バニラはふむ、と思案した。拒否という行動に対して咎めることはしない、しかし、理由がはっきりしない拒絶にはなにやら不可解なものがあった。少し思案して、体に残ったほこりを完全にたたき落とす。
――どうして、あんなこと。
(あんなことっていうのは、ペパーにとって思い出したくないこと)
 ペパーの言葉を頭の中で反芻する。屋敷の暗さは外の明るさと比較すればするほど、かろうじて見えるほどの薄暗さ、暗闇に目が慣れさえすれば見えるが、それでも深い深層まで見ることはできはしない。それは人の心を表すようで、バニラはこの屋敷の暗さは、ペパーの見えない心の中と同じようだと思う。おそらくペパーは、ソルト達が開ける扉の先に、何か思い出したくないものでもあるのだろう。それはものか、それとも残滓かは、まだ知る由もなかった。
「ペパーは、知りたくないの?どうしてこの家が君を拒絶したのかを、僕たちが入れて、君が入れないとは、何とも理不尽な話じゃァないかな?」
「それは」ペパーは言葉に詰まったように、視線を泳がせる。意地の悪い笑みを浮かべて、バニラは言葉を続ける。「どうして入れないのか、それがわかれば君がこの家に対して持っていた思いというのもわかるんじゃないかな?」
 だけど、という言葉を口の中で持て余して、ペパーはしばらく躊躇したが、結局はバニラの腕の中にもう一度抱かれた。腕の中にある温かみと重みが帰ってきて、バニラは少し安堵した。
「思い出したくないもの、嫌なものっていうのは、思い出すのに勇気がいるんだ。ペパーは、自分がどうして帰れなかったかを知るために、勇気が必要なんだよ」
「勇気……」
「そう、難しいこと、わからないこと。怖くて思い出したくないこと、人に聞くのは恥ずかしかったり、嫌なことを思い起こしたりするときには勇気がいる。自分で調べるよりも、ほかの人に聞いた方が早い時もある。そういうときには、勇気がいるもんさ」
「……」
「大丈夫だよ、何も難しいことを言ってるわけじゃない。もし怖くなったら、僕がいる、だから安心して」
 何の根拠もない言葉だったが、ペパーは少し安堵したように笑う。つられたような笑みを浮かべたところで、先についていたピールとソルトを交互に見て、不審げに目を細めた。
「どうしたの?」
「開かない。ドアノブがないんだ」ソルトの言葉を一瞬疑ったが、視線を移すと、確かにドアノブというものは存在しなかった。代わりに、扉の前に木製の板が立てかけられている。腐りかけていて文字もかすれているが、黒い文字はまだ読めるようで、ソルトはそれをゆっくりと読み上げる。
「空のコップに、水は何滴入る」
 なるほど、とバニラは思う。見られたくないものには蓋をする。それと同じような感覚で、このドアの向こうにはおそらくペパーの言う見られたくないものいうものがあるのだろう。そして見られたくないものには、蓋をする。
「つまり、この変な問題を解いたら扉が開くとか、そういうこと?」
「わからないけどね、扉を思い切り蹴破るっていう方法があるけど」
「一回それをやってみる?」
 バニラの言葉にびっくりしたようにペパーがバタバタとしだす。そういうことを分かっているかのように、ゆっくりとドアのそばにペパーをおろして、下がらせる。ピールはホタチを構え、ソルトは蔓を伸ばす。電気袋が微弱に放電して、目の前の扉を見据えた。
 息を吐いて、三人同時に自分の持っている力を叩きこむ。電撃がとび、蔓が唸る。ホタチの抜き打ちが横薙ぎに一閃、扉にけたたましい音が響いて、埃が立ち上る。少しむせ返りながら、煙が晴れた扉を見つめる。壊れた様子も、扉が動いた様子も見られずに、ただそこにある様子は変わりようがなかった。ソルトは不審げに思いながら、ドアを軽く押してみたが、ぴくりとも動く気配はなかった。
「うーん、だめっぽいね」
「じゃあやっぱり、この問題を解かなきゃいけないってことかな?」
「空のコップねぇ……」
――空のコップに、水は何滴入る
「水は何滴入るって……満タンまでじゃないのか?」
「うーん、もしかしたら、ゼロかもしれないかもね」
 ピールとソルトはお互いを見あいながら、扉の問題に取り掛かる。バニラは離れていたペパーをもう一度抱きあげて、思案した。ペパーもバニラの腕の中で、バニラのような真似事をするように首を捻る。
「水が何滴入るかねぇ……確かに、たくさんとか、いっぱいとか……」
 バニラは考え込むように俯き、顔に薄い影を落とした。コップの大きさ、水の量、質量はどのくらいか、そもそも水が何滴という定義は、どこまでが何滴、という定義には当てはまるのか――頭をひねればひねるほど、この問題の答えが遠ざかるような気がしてならなかった。数学的な問題を解くのには得意だが、こういうなぞなぞの様な問いかけに対して回答をするのは、あまりにも発想が足りない。そんな自分が少し嫌になり、肩を落として息をつく。無意味な積み木重ねをしているような感覚に陥り、鬱蒼とした気分が心に生い茂る。
「あてずっぽうでいいなら適当に言うけど、何通りあるのやら……」
「……空のコップに、水が入ったら、空のコップじゃなくなるよね?」
 腕の中で何気なしに行ったペパーの言葉を、バニラは耳で拾い、一瞬だけ動きが止まる。(空のコップに)ぐずぐずになった頭の思考が、ゆっくりと回転を始めるような感覚がした。感情が高ぶり、意識が鮮明になる、暗がりの中で、自分だけが明るくなっているような感覚があり、知らないうちに口の中を犬歯で刺していた。(水は何滴入るか)口の中に広がる酩酊感、痛みとともにはっきりとする問題の意味、腕の中できょとんとしたペパーの顔を見て、口の端がゆっくりとつり上がる、けして何か含みのある笑みではない、ただ単純な、問題を解いたときの微笑み。一つ一つの曲解を全て崩して、ゆっくりと一つの答えにたどろうとする意識。思考が先にとんだような感覚になり、一つの答えが導きださせる。(空のコップは、何も入ってないから空のコップ)すべてが解けて、崩れる。思考が消えないうちに、息を大きく吸う。お互いに問答を繰り広げている二人の前に、割って入るような声を出す。(何かが入ったら、空のコップという概念は、消えてなくなるんだ)
「一滴だ」
 え、とピールが声を上げる。その言葉に、ソルトはバニラの光る瞳が、暗がりの中でよく映えているのを見て、何かを思いついたのだと確信するのと同時に、バニラの口から、矢継ぎ早に答えが飛び出した。
「空のコップに水は何滴入るか。ペパーのヒントでわかったんだ。空のコップはあくまで何も入ってないから空のコップ、何か入ったら、「空のコップ」という概念が消えてなくなる。水を一滴たらせば、もう既に空のコップじゃなくなる」
「だから」ピールが言葉を紡ぎ、それにこたえるようにソルトが続きを答える。「空のコップに水が一滴入れば、もう既にそれ以上入らない。だから一滴か」
 閂が抜けるような音がして、全員がそちらを振り向く。ドアに視線をやると、少し開いていた。力技でもどうにもならなかったものがいきなり開くというのは、若干の拍子抜けのようだと、ソルトは少し脱力した。ドアノブのない扉、確かに、見られたくないものには蓋をする。それは、気がつかれてしまえばこの家の全容の一つが漏れる残滓かもしれない。思念とは複雑怪奇に絡み合い、一つの謎を積み上げる、そこにほころびができれば、迷い込んだものはすぐに抜け出せてしまう。マヨヒガの典型的な伝承の一つだ。抜け出せないような細工が施される。無欲なものは抜け出せるが、自分たちにはおそらく「抜け出したい」という欲があるのだろうかと、少し顔を顰めさせる。まだまだ分からないので、この自問は頭の隅に押しやり、バニラとピールを交互に見る。
 ピールは中にある残滓どういうものなのか気になっているという風情だった。しきりに扉を見ては、髯を弄っている。この扉の先には何があるのか、それはおそらく全員が、先ほどのような残滓だと思っているだろう。それはペパーが何かを思い出すきっかけの一つであり、「あんなこと」という出来事の残滓かもしれない。本当にどうかはわからないが、大切な記憶のかけらであることは確かだった。
 バニラは何やら複雑な顔をして、ペパーと話している様子だった、特に密談をする内容でもないのか、言葉は大きく、こちらの耳にも届くほどだった。
「ペパー、君はいいのかい?」
「勇気を出してみることが大事だって教えてくれたのは、バニラお姉さんだもん。僕、勇気、出すよ。もし間違ってたら、お母さんとお父さんにあったら、喧嘩だってするよ」
「……わかった」
 ピールの方に意識を移していたせいか、聞こえた部分は最後の方のみだったが、何となく腹を決めたという印象を受けて、無意識に頷いていた。
「じゃあ、開けてみよう、何が出るかはお楽しみってやつだね」
 ソルトの冗談めかした言葉には、全員が全員、苦笑した。
「お楽しみも何もないさ、この空間から出られれば、それでいい」
「そうだね。私もそう思う」
「はい、僕、大丈夫です」
 全員の答えを聞き取り、ソルトはゆっくりと開きかけた扉を押しあける、空間が歪んだような感覚が視界に移り、扉の先の世界を見据える。切り離された残滓が、とどまって繰り返される。バニラは思考をその世界の中に溶け込ませた。


 焼け焦げたキリキザンの死体を見据えて、ふん、とシャンデラは鼻を鳴らした。よく眠っていることだとも思う。おそらく自分自身が死んだということにすら気がつかないだろう。ランクルスの作る睡眠薬は強烈な効果を持っていると改めて思う。
「どう?」
「大丈夫だ、こいつはかなり金目のものを持っているようだな」
「そう」ランクルスは素っ気ない返事をして、キリキザンの持ち物を物色する、益になりそうなものは剥ぐ、いらないものは死体と一緒に始末する。夫婦で同じような行動を何度も繰り返す。何度やった変わらないが、罪悪感などは一切なかった。それが必要だと感じているからこその、感じない感情。それが間違っていると思ったことも、懺悔も後悔も、二人に必要なものではなかった。
「あの子は大丈夫か?」
「ええ、よく眠っています」
 眠らせたの間違いではないかと思ったが、そんなことを詮索する気にはならなかった。見られなければそれでいいのだ。この光景を。そう思いながら、シャンデラは物色を再開した。ランクルスもそれを手伝うように、遺体の周りを片付け始める。
「このことを知ったら子供はどんな顔をするんだろうな」
「知られるはずがありません、私たちのこの行動は、一生知らないまま、あの子は「いい子」に育っていくんですよ……」
 違いない、と言って笑う。金品を物色し、残りはすべて遺体の上に置く。焦げてしまった遺体はすべて片付けて、庭の奥底に埋める。灰になってしまったとしても、庭の植物を育てる肥しくらいにはなりそうだった。口の端を歪ませて、くぐもった笑い声を漏らした。
「うふふ、素晴らしい、もっと必要ですね」
「ああ、次の客をまたなければな」
 次の客を待ち、金目のものを奪う。温厚で奉仕の心をつくす不思議な宿の後ろ側に隠された陰惨な部分を知るポケモンなどいはしない。骨になったとしても、地面を掘り起こすポケモンもいなければ、この場所に迷い込んで一拍の恩を受けるポケモン達は夫婦の手厚い歓迎を受け、緊張を解く。疑いはしない、疑いも疑念も持たないまま、灰になり、骨になり、この世から消えていく。その姿を何度も何度も、夫婦は見続けてきた。もちろんそれは、彼らが主犯だからだ。そしてそれに気がつくものは誰もいない、見た者もいなければ、出来事を記憶する者もいない、そういう類の者たちになる予定の者も、この夫婦は遺体にする。くぐもった笑い声、腐臭と焼け焦げた跡。ドアをひとつ挟んだ外と内では、全く異質な世界が築き上げられている。
 出入り口の戸を叩く、木製の軽い音が聞こえる。強盗殺人の容疑をかけられるという懸念も、見つかって咎められるという罪悪もよぎることなく、舌なめずりをして、次の客が来た。という思いを頭に膨らませる。彼らにとって、客は「肥し」であり「贄」である。それ以外の感情など、持つことはないだろう。表面で取り繕った顔を整えると、焼け焦げた死体を一瞥して、夫に話しかける。
「どうしますか?」
「扉に暗示でもかけておけばいい、開けられなければいいだけだ」
「そうですね、暗示をかけておきましょう」
 二人で確認し合うように頷き合う。扉をゆっくりと閉めると、体を発光させて、扉に複雑怪奇な余波を送る。死体が放置してある扉は、ただの扉から、どう開けるかもわからない複雑な錠がかけられた。
「申し訳ありませんでした。いらっしゃいませ、お客様」
 取り繕う顔を崩さないように、ゆっくりと扉を開け放つ。中肉中背の、身なりの整ったオノンドが、不思議そうな顔をして立っていた。
「ここは、宿屋ですか?」
「はい、勿論です」ランクルスは上品にほほ笑んだ。それにつられたようにシャンデラも口の端を吊り上げて笑う。勿論という言葉に安堵したように、オノンドはほっと胸をなでおろした。「よかった、何分道に迷ってしまい、進退窮まってしまったもので、一泊でいいので、止めてもらえないでしょうか?」
「このあたりは迷いやすいですからね。もちろん構いません。どうぞ、上がってください、外はお寒かったでしょう?すぐに暖をとりますので」
「ありがたい、申し訳ありません」謙ったような態度と声で感謝を示し、オノンドはいそいそと荷物を抱え、中に入る。入口で少したたらを踏んだのは、特に感情が憤りの方に向いていたわけでもなく、躊躇したように足を絡めて、もつれるような行為だった。「失礼、本当に寒かったので、少し足が悴んでしまって」
 明かりが見えて、本当に助かりました。とオノンドは何度も頭を下げる。瓦斯灯の光が客をここに誘う。そして扉が閉まれば、その客は家に閉じ込められる。不気味な思考が働いたことに苦笑しながら、シャンデラは自答の様に思う。
(その客を閉じ込めているのは、ほかでもない私たちなんだが)
 不気味に笑うシャンデラを、オノンドは不審げな目で見つめた。まだ扉が閉まりきっていないので、庭の瓦斯灯が強い明かりをはなっているせいで、残像が斑紋を描いているせいで、不気味さが加速するだけなのかもしれないと、考えを改めた。
 そうこうしているうちに、大きな風が一つ吹いて、勢いよく扉が閉まる。喧しい音が鳴り響いて、びくりと肩を震わせる。そんな様子を見たランクルスが、薪を暖炉に入れながら苦笑した。
「申し訳ありません、なにぶん入り口の建てつけが悪いのか、少しの風でもすぐにうるさい音が立つのです」
「あ、ああ、気にしません、こういうのは慣れっこですから」
 ひどく狼狽したように震えて、背筋の寒さを肌で感じる。しまった扉は少し開けて、風に吹かれながら微弱な開閉を繰り返す。視線をそこに移したオノンドは、なぜかその動きに目が離せなかった。もしかしたら、と思う自分、そんなことがあるはずがない、という自分。何かに急き立てられるように、どちらかに決断を委ねなければいけないような気がしてならなかった。迷うことなく、やはりいいです、などと言って扉から外に出てしまった方がいいのではないか、という自分の思考が一瞬だけ、ほんの一瞬だけよぎる。その考え方をしてしまうのは明らかに間違ってはいるし、相手に対しても失礼に値するかもしれないが、なぜかその思いが霞の様に浮かび上がる。
「申し訳ありません。早めに扉は直したいのですが」思考が鬩ぎあい、躊躇していると、シャンデラが音もなく扉に近づくと、ぴったりと閉め切り、閂をかけた。乾いた木製の音が響いて、喉を鳴らす。オノンドは、自分の行動がとんでもない間違いを犯しているような感覚から、しばらく抜け出せなかった。背筋に寒いものが張り付いて、喉の奥から苦いものがこみ上げてくる。いやな気分というのは、こういうときなのだろうと思った。
(考えすぎか)
 そう思い、息を吸って吐いた。悪い空気を逃がして、屋敷に満ちる平穏を吸い込む。自分の考えすぎだ。自分の考えていることがおかしいだけだ。なにも問題はない。この屋敷も、この夫婦も、ここに泊るということも何もかも。


 薄闇の中で下から聞こえる複数の会話を聞きながら、ペパーは震えた。見てはこそいないものの、聞いてしまった。急いで扉を開けようとしたが、不思議な力に阻まれて進めない、恐怖と焦りでたたらを踏んで、これは夢だと、悪い夢だと思いたくなる。
(お父さん、お母さん)
 嘘だと思う。そしてこれは夢だと思った。自分の眠りが浅いのは、しっかりとした生活ができてないのかという思いがある。些細なことでも目を覚ます。入口の戸を叩く音でも、小声で話すような音でも目覚めることがあったが、今夜の場合は、もっとあからさまに誰かに起こされた、という気がした。強烈なにおいを感じて、そちらの方へと興味が注がれた。余計な好奇心はもつものではないという言葉は、まさしくその時のためにあったようなものだった。自分の好奇心は、無意味なところで働き、無意味に事態を悪化させる気がしてならなかった。まだ見ていないから、という言葉は意味がないのと同じなのかも知れない。興味深げに覗こうとしたときに、二人の声が聞こえて後ずさった。異臭が顔を打つような感じがして、急に気分が悪くなる。
 ペパーは軽く息をつめて、耳を澄ませる。会話の内容は小声だったのか若干聞き取りにくいような印象を受けたので、何をしゃべっているのかは断片的にしか聞こえなかった。しかし、内容は断片的でも十分に察することができるほどで、そしてその内容がどんな意味をなしているのかも、幼い頭で十分に理解した。そして、理解してはいけなかったのだと、深く後悔をした。
 扉があけ放たれて、両親が出てきたときに、とっさに半開きの扉が開いた隣の部屋に入り込み、ドアを閉める。音が聞こえたような気もしたが、そんなことは気にすることができなかった。恐怖と疑惑、そして真実が頭の中で揺れた。こんなことがあるはずがないと願いながらも、それが現実だと認める自分がいて、どちらが正しいのかわからず、知らないうちに涙が流れた。
(誰かに……連絡しないと)
 そう思って、だれに、と次に思う。何を連絡するというのだろう、こんな辺鄙な山奥に、いったい誰が来るというのだろう。誰が自分の言葉を信じてくれるというのだろう。それすらも分からないが、とにかく、何かをしなくては、という思いに駆られた。もし、自分の預かり知らないところで両親がこんなことを何度もやっていたと思えば思うほど、止めたい、という衝動に駆られる。
 ドアがしまる音がして、空間が歪むような妙な音がする。かすかな駆動音の様なものと、シャンデラ特有の金属音。すべての音がやむまで、何も動けずにいた。体に瘧の様な震えが襲いかかり、すべての音が消えると、どっと圧し掛かる虚脱感。間違いなく、自分の体はおかしくなってきていると思った。闇の帳がゆっくりと下り、夜が押し広げたように伸びていく。そして、その闇の中に跋扈する魍魎たち。魍魎というのは、自分の父であり母であるのかも知れないと、彼は心臓の動悸を抑えながらごくりと唾を飲み下して、大きく息をつく。
(どうしよう、扉を――)
 あけなければ、中を見なければ、そう思い、扉を開けようと奮起する。力に阻まれて開けられない自分が悔しくて、中を見なくてはいけない、真実を知らなくてはいけない、そう思う自分がいて、その中で、やめてしまった方がいい、いつも通り何も知らないまま過ごした方がいいと思う自分がいて、鬩ぎあい、前者の思いが真実を追求するという心と共鳴した。開けて中を見て、もし話していた言葉が本当だったのなら、自分は問いたださなければいけないような気がした。
(開けないと――)
思考が焦りに満たされていき、扉を多少乱暴に押してはみるが、どんな暗示をかけたのか見ていなかったペパーには、その扉の先を見ることはできなかった。見れないことに焦燥を感じ、感づかれないうちに何とかしなければいけないという思いが喉の奥までこみ上がる。声に出したい気分になり、ぐっとこらえて扉を見据える。
――空のコップに、水は何滴入るか
(え?)扉の前に不自然に掘られたような言葉を見つめて、目を細める。これは単なるいたずらか、それとも扉の鍵か、宵の魔性か、わからないが、これがこの扉につながる大事な事柄であるのではないかと思い、少ない時間の中で、ペパーは頭を回転させる。(空のコップに水……)空のコップに入る水は水の量によって決まるし、コップの大きさによっても決まるかもしれない。しかしこの言葉には水の量もコップの大きさも何も指定されてはいない。発想が行きとどかずに、口から呻いた様な声を漏らした。喉元に蟠って掠れた声は、幸いしたのポケモン達に聞こえることはなかった。(コップに入る水の量)どれだけ頭を捻っても、これだという答えが浮かばない。あれでもない、これでもないと考えているうちに、ぎしり、と木製の階段が軋むような音がした。のぼってくる。その音だけが、心臓の動悸を無為に動かし、焦りと恐怖を増長させる。(見つかる)
 なぜ人は不意に見慣れた暗闇に背筋を粟立てることがあるのだろう。どうしていつもと変わりのない廊下の端の闇に意味もなく怯えてしまうのだろうか。そこに何かを嗅ぎ取るからではないのだろうか。だとしたら、その何かと同じようなものが、今ペパーの後ろから迫ってくるのではないだろうか。
(逃げないと)
 この家の主の子供である自分が何から逃げるのか、それがわからずに、軋む音が近づいてくる。この状況が向かっても戻っても、悪い方向になってしまうという思いが頭に圧し掛かる。迷う時間がなく、軋む音が近づく中、ペパーは一瞬だけ躊躇した後に、意を決したように扉を見上げる。自分の身長では扉のドアノブに手をかけることすらできない。無理やり開けようにも非力な自分ではどうしようもない。そう思った彼は、自分の体を少しとかして、どろりと蝋の垂れた手をドアに擦りつける。冷えて固まり始めるのと同時に、手を交互に上にのばして、ドアをよじ登る。ゆっくりと、しかし焦る心を抑えて早めにドアの鍵穴まで登る。階段から少し見えたのは、知らないポケモンの一部分。見られる、という思いより先に、鍵穴の向こう側の世界が視界に飛び込んだ。狭まった鍵穴から見えたのは、焼けた腐臭と、ベッドの上に横たわった焦げた遺体の一部。数瞬の瞬きで、ペパーの見た者はそれだけだった。たったそれだけでも、ペパーは力が抜けて、そのまま地面にゆっくりと落ちた。蝋が潰れる音がするのと、見知らぬポケモンと、それに付き添う両親達の視線が、自分に移っても、頭から確定した事実が離れなかった。信じたくない事実が、脳裏に張り付いて、取ることができなかった。
(お父さん、お母さん……嘘だよね)
 誰にいうわけでもない、頭の中で呟いて、ペパーは涙を流した。オノンドが不思議そうな顔をして、ペパーに近づく。
「どうしたんだい?」
「うあ……あの……」
「こら、お客様の前でみっともない。申し訳ありませんお客様。こちらは私たちの息子です」
「お父さん」ペパーは声を出した。焼けて死んだポケモンが、ベッドの上に横たわっているんだ。声に出そうとしたときに、それは喉の奥で理性という重しが留めた。言うな、わかっているだろう。本当は、そう思って、口を無意味に開閉させる。
「あらあら、怖い夢でも見たの?ほら、床にお入りなさい」
「お母さん」口から出た言葉は、全く違う言葉だった。ゆっくりとランクルスの腕に抱かれて、安らぎと一緒に、子守歌を口ずさむ母の姿。昔と何一つ変わっていないその姿が、今日だけは不気味に見えた。自分の親がやっていることは、とてもひどいことで、悪いことだと、理解していてもどうしてもそれを口に出して言えなかった。自分が見て見ぬふりをしているのはわかっている、しかしそれでも、見て見ぬふりをするしかない自分がいて、唇をかんだ。
(お父さんとお母さんは、悪いことしてる)心の中で反芻して、母の顔を見る。子どもをあやす、母親のそれであり、その顔には本当に心配そうにしている顔、そして愛情を込めるように、柔らかな歌を聴かせ続けて、階段を下りていく。確かにそこには、母として息子に与える愛情のようなものが存在した。(僕は……聞くのが怖い)ペパーはそんな母を見ながら、あふれる涙を抑えることができずにいた。そこにある確かな愛情すら。外見を取り繕うために作りだされた偽ものかもしれない、そう思えば思うほど、母親という存在が信じられなくて、泣いた。
「お母さん」
「どうしたの?」
「………なんでも……ないです」
「そう」ランクルスの声は小さく、そして静かに響いた。悲しくて泣いているわけではなく、怖くて泣いているのだと、母はわかるのだろうか。聞くことが怖く、先ほどの遺体が怖い。夜はいつから恐怖に彩られるようになったのだろうか。それがわからず、ただ泣いた。怖いだけではなく、心の奥底には、もし、先ほどの出来事を訪ねた時、この偽りの愛情が、ペパーの中から消えてしまうのではないかと、その思いが巡り、怖くて聞けなかった。それがどれだけ悪いことでも、ペパーにはそれをとがめる権利など、ありはしないのだから。


その6


 孤児院から離れた造林の中で、耳を劈くような音が響き。ターキーはそれにたたき起こされた。子どもたちの捜索願を出そうかと思ったが、この近辺のことを知り尽くしている自分たちが探した方が効率がいいと思い、それでも心配な自分がやはり人海戦術をした方がいいのかと決めあぐねて思案して――そのまま机に突っ伏して眠っている深夜の時間だった。
 音のした方へ視線を向けると、何やら小さな煙が上がっているようだった。雷でも落ちたのか、何が起こっているのか、天変地異の前触れか、いろいろな思いを巡らせながら、いの一番に院長室に駆け込んだソルベが息を切らせて矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
「院長先生」頭の中で回る言葉を一気に吐き出そうとするのを、ターキーは手で制した。「ソルベちゃんの言いたいことは分かってる」わかっているといい、立ち上がる。まだ夢から覚めない自分の顔を思い切り叩いて、気合を入れる。きつけが終わり、大きく息を吸う。眠気を払い、ゆっくりと息を吐く。「何が起こったかはここからじゃわからない。子どもたちは?」
「寝てます」
 好都合だ、とターキーは頷くと、勢いよく扉を開ける。彼のこの乱雑な扉の開け方はソルベはあまり好ましく思っていなかった。扉を乱雑にあけるせいで、どうにも建てつけは悪くなる一方だ。少し軽く押すだけでドアというものは閉まるのに、なぜターキーはわざわざ思い切り開けたり閉めたりするのだろうと甚だ疑問に思った。
「乱雑な扱いをしないでくださいね、また壊れてしまいますよ」
 釘を刺すような声を聞いて、右手を軽く上げる、わかっている、という合図のようなものだったが、それが本当に分かっているかどうかは疑問だった。
 孤児院の扉を開けて、夜の闇を見据える。造林がとなり合いの木々を揺らし、ざわめきが輪唱する。深い闇に吸い込まれるように、ソルベとターキーは隣り合わせに走り出す。運動をしている人としていない人を分けるように、ソルベが徐々にターキーとの距離を放していき、それを見たソルベは、溜息をついて、速度をターキーに合わせる。
「院長先生は、もう少し運動をした方がいいかもしれませんね」
「それを言わないでくれ、雑務で頭の運動しかしてないんだ」
「運動するような頭が御有りでしたか、それはすごいですね」
 ひねくったような厭みが耳から脳に伝わって、ターキーは肩を若干落とした。陰で努力をしていても、日用雑務をこなしている女性に体力や持久力で負けるというのは、どうにも情けない気持ちだった。後ろ風が背中を撫でて、妙な敗北感を一層強くさせる。
(今はそんなことを考えている場合じゃないな)
 夜の風を手で避けながら、ターキーは杣道を疾走する。夜半が近づくにつれて、視界が狭まるように感じた。夜の闇というのは、恐怖を増長させるものだと思っていたが、もしかしたら恐怖が増長するのは、夜に視界が狭まるせいなのかもしれないと、ふと思う。夜に恐怖が跋扈するのは、深い闇のせいではなく、人の視界の狭まりと、思いこみによるのかも知れないと思いなおす。
(闇の中に、子供たちは消えて行った)
 最初にいなくなった時間は、夜九時を超えた辺りだったかもしれない、もう少し早いか、それとももう少し後だったか、そのくらいの時間のように感じられた。夏は夜がとても遅く進行し、七時前後ならまだ薄闇より前の、黄昏が少し深くなるくらいの日差しが照っている。そのくらいの時間になれば、子供たちは皆孤児院に入り、夕食をとり、あとは外出を固く禁じ、就寝時間に交代で見回りをして、完全に夜の世界という意識を切り離したら、自分たちも床につく。――そこまで考えて、ターキーは首を捻った。
(子供たちの人数が少なくなっていることに、なぜ気がつかなかったんだ?)孤児院の院長という職業上、子供たちの人数は絶対に把握しておかなければならない。そもそも、食事のときに子供たちは全員集まる、その時に三人いなければ違和感を感じないはずがなかった。(まるで、三人の存在が初めからいなかったような――)そして、夜の帳がおり始めたとき、ソルベが孤児院の子供たちがいなくなったことに気がついた。それまでだれもが全く気がつかなかったということに、少なからずターキーは責任を感じた。自分が把握しておかなければならない事柄を、おざなりに抜かしてしまったことに自分の仕事の責任感の浅さや、他人に対する感情というものが欠如していることに気がついた。(だが、なぜ気がつかなかった……)気がついたときには三人の姿は影も形もなく。部屋は隠遁者の残滓を追う様な形で、乱れたまま残されていた。包み隠されたものが露呈するような感覚に陥り、今まで気がつかなかったのは、誰かにその事実を隠蔽されたような気がしてならなかった。(そもそも、あの三匹は――特にバニラは……自分を前に押し出そうとはしない)ターキーの頭を悩ませているのは、バニラが影のようにどこかに行ってしまうほど、自己主張も、自分のことも曝け出さないことだった。それどころか、孤児院を見上げ、蔑み、嫌悪しているような意識さえ見せていた。それはだれに対してでもない、孤児院という固定の場所に対しての、あからさまな嫌悪だった。それだけならまだいいが、他人との接触も最近はほとんど拒んでいる傾向が強くなり、自分たちの責任ではないかと危惧してしまう。
 最初に孤児院にやってきたとき、バニラは物珍しそうな瞳を輝かせていたが、時がたつにつれて、彼女の思考は陰鬱な方へと傾いていくような気がした。何にしても興味を示さず、ここから抜け出すという意識を持ち始めている。それは明確にはわからないが、毎度毎度都会へと続く道を眺めては、後ろ髪を引かれるような思いをはせていた、その姿を見ていると、言葉や思いが伝わらなくても、意識の向き方でそういうことは把握していた。ターキーはその姿を見るたびに、自分たちの思いや愛情が伝わっていないのかも知れないと思い、悲しい思いがよぎる。親代わりになれたらいいという思いが、他人という壁を隔てて、溝ができるのは仕方がないと思っているが、バニラの様にあからさまな拒絶や興味関心の対象をずらされるのを見ていると、自分たちのやっていることは、まるで愛憎劇の猿芝居の様にな感覚が頭を支配して、自分たちの行動が時たまに下らなく思えてしまう。子どもの反応を見るだけで、そんな思考が頭をよぎることが、自分たちの職業をすべて否定するようで、意味のない葛藤に頭を痛める。
 結局のところ、自分達の思いは彼女には伝わってはいないということが、一番ターキーを困らせた。自分達の行動が空回りして、彼女はそれに対して何かを言うわけでもなく、子供たちの輪にも入らずに好き勝手に立ち振舞っている。それを孤児院の子供たちは快く思っていない節があるし、ターキーもそれは重々承知していた。なんとか子供たちの輪に入ってほしいという思いがあるが、それを表しても彼女は鬱陶しそうに払いのけるだけだろう。彼女と付き合っているほかの二匹も、最近は彼女と一緒にいることが多くなった。ほぼ他人に無関心の彼女がほかの人に興味を持つことが珍しかったが、彼女が打ち解けているのはその二匹だけで、あとはやはり自分勝手に振舞い、周りを遠ざけるだけ。それだけ考えて、この疾走は、彼女の仕業ではないだろうかという思いが一瞬だけよぎる。
(そう考えること自体が間違っている)それはわかっているつもりだった。しかし、ほかの二匹は彼女とは違い、協調というもの知っているし、ほかの孤児院の子供たちよりも大人のたち振る舞いをしている、そんな二匹――ソルトとピールがむやみやたらと危険なことに片足を突っ込んで、闇の中に失踪するようなポケモンには見えない。(バニラが、ソルトとピールを引いたのか)あるいは、と考え直す。闇に三匹が引かれてしまったのか。そしてそれを覆い隠すように、記憶から抜き去ったのか――わかりかねて思案をしていると、音のした場所へたどり着いたのに気がつかず、ソルベの声で我にかえった。
「院長先生」
「……ああ、これは」
 一本の木が、ひどい攻撃を加えられて折れ曲がっていた。よく見た傷の後、なぞるような切り傷、燃えた跡ではなく、雷に打たれたような焦げ跡、そして固いもので叩きつけられたような跡。自然現象ではなく、あからさまな狂人の類による危害だった。ターキーとソルベはお互いに顔を見合せて、何やら見慣れたものを見るような顔をした。
「これは……まさか」
「ああ、恐らくな」
 明確にはどうだかわからないが、この近辺でこんな傷跡をつけられるのは、ターキーが知る限り三匹しかいない。なぜこんな傷跡が、こんな場所でつけられるのだろうか、三人がつけた悪戯か、それともただ単に偶然なのか、しかし偶然にしては出来すぎる。
「ソルベちゃん、俺は」ターキーは軽く絶句し、わずかに喘いだ。「俺は、何が何だかわからなくなってきた」
「どうなさいました」
 ソルベは周りの闇を見つめる。
「ソルベちゃん、俺は今日まで物の怪の類を信じなかった。闇に跋扈しているものなど存在しない。闇はあくまで闇の姿を映しているのだと。けれど今は宗旨替えをしたい気がする」
「院長先生」
「これは何だ?珍妙な見世物か何かか?こんな深い宵の中で、知らず知らずのうちに誰かがこんな傷をいきなりつけて、そして悪戯に姿をくらましたのか、馬鹿げている、そうさ、馬鹿げているとも」
 ターキーは眉を寄せた。
「近頃この夜はどうなってるんだ。いつから夜はこんなに危険なものになったんだろうな」
「落ち着いてください、院長先生」
 ターキーは頷いたが、背中にへばり付いた恐怖は拭えなかった。体が震えるのも、止まらなかった。
「瓦斯灯が作られて何百年たったんだ?文明開化はとっくに終わっているのではなかったのか?文字通り暗がりに明かりをくれたのではなかったのか。電灯やら瓦斯灯やら、明かりをともして闇を追い払ったのではなかったのか」
 だが、闇は世界の夜とい時間に依然として張り付く。そこに跋扈して、異様な恐怖をあおるものだ。
「俺は暗がりに怯えて泣きわめくほど子供じゃないが、化け物に怯えて手水を怖がる子供でもない。それでもな、ソルベちゃん、開花開化と言いながら夜が開かれないのはなんでだろう。良い時代が来るのではなかったんだろうか、古き忌みものが一掃されて四平平等の合理的な近代的な世界が来るんじゃなかったのだろうか。俺は少なくともお上がそう宣言したことは覚えているぞ」
 自身の中にたわめられたもの、恐らくそれはこれに対する恐怖ではないのかも知れないと、ターキーは我ながら思った。
「開花など、嘘だ。誰もが新しい時代が来たふりをしているだけなんだ。四民が平等ならなぜ華族がいるんだろう。華族院などというものがあるんだろう。文明国家の幕開けというのなら、どうして下長屋はあんなに貧しい。事あるごとに大火がおこって街が灰になるのはなぜだ。疫病やらなんやらで、人が将棋倒しに死んでいくのはなぜだろう」
「院長先生」
「何一つ開かれてはいないんだ。電灯や瓦斯灯なんてものも、その昔異人がこの大陸に持ち込んだ珍妙なものと何ら変わりはしない」
 文明は幻想であり、開花もまた幻想だ。問題は内外を問わず山積している。列強と軋轢、膨張する都市の最下層に汚濁のように淀んだもの。都会に行った時には感じなかった裏の腐臭の漂う得体のしれないものを、今なら感じ取れる気がした。
「化け物は、あれは過去の遺物だよ。堂々と国を、この世界を蝕んできたものの一つさ。文明がそれを駆逐できないのなら、どうしてほかの者も駆逐できるんだろう。新しい世などというものはきやしない。古い忌みものが形を変えて、そこに蠢いていることになりはしないだろうか。新しい良い世が来ないなら、何のための革新だろう。時代の力が革新を産まないのなら、人は何のために時代に巻き込まれていくんだろう。俺たちは時間か。生きて死ぬことで時間を埋める、それだけの値打ちしかありはしないことにならないかい」
「落ち着いてください、院長先生」
「俺はね、ソルベちゃん。怖いんだ。正直に言ってしまえば、夜が怖い。昔の夜というのは、それはそれは瓦斯灯なんてものがなく、底冷えするような恐怖が這ってくるんだろうと思った。俺は自分が生まれた時代に感謝したい。瓦斯灯はついて明るくなった世界は、少なくとも夜の恐怖を緩和してくれると思っていた。だがどうだろう、都会はこんな辺鄙な場所に瓦斯灯をつける余裕はなくても、くだらない建物を建てるだけの余裕があるんだ。平等じゃない。そう思ったとき、俺はわかったよ。夜の恐怖は、まだ続いている」
「時代は変わります。いい方向にも、悪い方向にも」
「そうだな、その通りだ、だが、変わっても変わらなくてもだ、今目の前の恐怖というものを見せつけられて、自分は安心して枕を高くして眠ることができるだろうか。そうじゃない、そうじゃないんだ。人は得体のしれない闇に恐怖するのではない、闇に跋扈する、得体のしれないものに恐怖するんだ」
「まだ、彼らが異形のものになったという確信はないです」
「だが、げんに失踪している。それも、俺たちは気がつかなかった」
 それは、とソルベは口を詰まらせた。言いあぐねて、口を固く引き結んで閉口する。
「あの子たちは――異形の者に魅入られたんだと思う」


その7


「なんだよこれ」
 複数の扉には同じような謎解きが施されており、それは念力の余波で糊付けしたような硬さで、やはり扉はその謎を解き明かさない限り解けはしないものなのだと、全員が理解した。謎を知恵を絞って溶きながら、扉を開ける、残滓を意識に溶け込ませて、バニラ達は家の中の回想を複数見た。見るたびに顔が歪み、ペパーは震える。ソルトはいたたまれない気分になり、ピールは嘔吐した。
「なんだよこれ」
 見取り図の前に戻ってくるまで、だれも口を開くことはなかった。バニラは第一声を口に出し、思い切り壁を殴りつける。何か嫌な感じがするとは思っていたが、ここまでとは分からずに、思い切り壁を蹴りいれた。少しだけ埃が舞いとび、乾いた音が無人の洋館に響き渡った。
「お父さん、お母さん、旅の人に悪いことばっかりして、殺しちゃったんだ……僕は、それを見てしまった」
 思い出し、思い起こすように、ペパーは悲しげに眼を瞑る。それは思い出したくても思い出したくなかったことかもしれない。そして、それをいくつも見てしまったバニラ達も、これは見せるべきではなかったのかも知れないと、見終わった後に後悔の念が頭をよぎる。
 キリキザンは焼け焦げて死んだ。オノンドは首がねじ切れて死んだ。少し身分の高そうなレパルダスも、同じように焼かれて死んだ。複数の扉の中で見た者は、種族さえ違えど、眠っているところを力を加えられて、散っていった命、そこからあさましい強欲な思考が割り込み、死体を漁る。夫婦で共謀した。旅人を殺害するこの行為。それを何度も何度も見せつけられて、バニラは頭がどうにかなってしまいそうだった。
 この屋敷の残滓を追い、ペパーの記憶を取り戻せば、この場所から抜け出せるかもしれない、そんな思いが鳴りをひそめた。これは思い起こしてはならない。忘れるべきものだと、そういう気がしてならなかった。
「ごめん、みだりに思い出した方がいいなんて」
 バニラは苦いものを噛み潰したように俯いて、抱きかかえていたペパーをゆっくりと地面に下ろした。手の中にある重みが消えて、代わりに心の中に重いものが溜まりこむ。手放してしまったという行為は、自分には彼を抱き上げる資格など、もうないと思ってしまったのかもしれない。呼び起こしたくないものを呼び起こし、思い出してはいけないものを思い出させてしまった。罪悪感と一緒に、べっとりとしたものが喉に張り付いて、うまく言葉が出なかった。かすれた声を漏らしたバニラを見て、ペパーの顔は悲しみにくれる。
(やめてくれ、そんな目で、僕を見ないでくれ)
 責めてもらった方がいくらか幸せだし、きっと詰られた方が気が楽になるだろう。陰口や陰湿な行為が気に入らない彼女は、同情めいた視線を向けられることも嫌だった。思い切り叩きつけるような言葉を言ってくれた方が、まだましだ。ソルトもピールも、何も言わなかった。それが帰って、バニラは心を抉られるような気分だった。
「バニラお姉さんは――悪くないよ」
「なんでそう言い切れるんだ」バニラは声を高く上げた。「僕のせいだ。君が嫌だと言ったときに、じゃあやめようかって、僕は言わなかった。自分の私利私欲にとらわれて、君に嫌なものを見せてしまったんだ。それだけじゃない、僕がこんなところに来てしまったのも、二人を巻き込んだのも、全部自分のせいなんだって、僕だけが迷えばよかったんだ、この家の中に、とらわれればよかったんだ」
「バニラ、やめろ」
 ソルトは首を横に振って、軽くバニラの頭に手を置いた。は、と我に返ったように、バニラは口を引き結んだ。誰もが悪いわけではない。わかってはいるが、どうしてもそう思う。自分を引き寄せたのは誰でもない、自分の欲望なのだと。わかっていても、どうしても割り切れないものがあった。
「バニラだけが悪いわけじゃないですよ。私たちも、出たいという思いが先行しすぎてしまったのは間違いないですから」
「僕も……僕も自分で大丈夫っていったから」
「でも、僕はここに来ることに、寂れた洋館を見て、好奇心の方が勝っていた」
 ペパーの言葉と、ピールの言葉が耳に入る。しかし、大本をたどれば自分の責任となる。どうにも煮え切らず、それでもバニラは言葉を口にした。
「僕は最初、ペパーのことを少しだけ羨ましく、妬ましく思ってしまった」ペパーはえ、と声を出した。その言葉を聞いた二人も、いつもとは違うバニラの姿に、少なからずの驚きのようなものを見せていた。眉根を寄せた三人を見比べて、ゆっくりと息をついた。「最初に見た時は、家の「ソト」と「ウチ」を自由に行き来できる自由な子供だと思ったんだ。それでいて家に入れない、決まった時間に戻ることなく、ただただ奔放できるなんて自由な子供なんだって。僕にはそれが本当に羨ましく思えて、ペパーを少しだけ恨んだ。他人は他人、自分は自分、置かれた状況はいつでも帰ることができる。それがわかっていても、やっぱり求めてしまうものだって、その時思ったよ」
 だけど違った、とバニラは息をついて、首を振る。
「ペパーの過去を見たときに、僕は間違っているとわかるには、人の過去を除くことでしか、自分の間違いに気がつくことができない奴だってわかった。家庭が恵まれていて、環境が恵まれているなんて、本当にわかるのは人の過去を残滓で垣間見たときだけだ。僕はペパーの言動だけで彼を裕福な家庭に生まれ育ち、親の愛情を受けて育ったと思った。けど違う。境遇がどうであれ、ペパーは束縛されていたんだ。何にも縛られない自由というものに束縛されて、そのせいで彼の両親のやっていることを、止めることができなかったという自責が、たまっていることが分からなかった」
「それはそうだ、バニラはペパーじゃない、ペパーの気持ちは本人にしかわからない」
「そう、だけど僕たちは、ペパーの家の残滓を見てしまった。――彼がなぜ家に入れなかったのだろうと、疑問に思ったのが、わかった気がする。僕たちが入れたのは、客だから――」
 バニラの言葉を聞いた時、ぴく、とピールの鬚が動いた。何かを分かったような顔をして、そして、それを分かりたくないような、わかってしまったことに対しての、何か間違えてしまったような、複雑な影を落として、口を開いた。
「なるほど、「ソト」を招き入れ、「ウチ」を追い出す。「ウチ」の中のやっかみ事を払って、「ソト」の幸運を招き入れる。屋敷の「ソト」からやってくる旅人っていうのは、この屋敷の夫婦にしてみれば、いいカモってことなんだね」
「ペパーが入れなかったのは「ウチ」の厄として扱われていたから。僕たちは「ソト」の福として――」
 いや、とソルトはあごに手をあてて、ふむ、と思案した。
「福として、というよりも、肥やしとして、って言った方がいいかもしれないね」
 それに対して、ペパーはびくりと体を震わせた。蝋が飛び散り、地面に数滴落ちて固まる。その言葉に対して何か恐ろしいものでも感じているのか、嫌なものを見るような眼で、バニラの後ろに隠れ、ソルトを睨みつける。ソルトはそれを真正面から受け止める。しばらく睨みあい、そしてペパーは悲壮な顔をして俯いた。
「僕……いらない子だったんだ……あの時、部屋の中を見ちゃったから、僕が見なかったら、ぼくはいい子で、ずっといい子で――いい子で……?」
「ペパー?」
 バニラはペパーの顔を覗き込んだ。きょとんとしたというよりも、何か視線の先に恐ろしいものでもいるような印象を受けた。夜に跋扈する妖怪は、まだこの屋敷に巣食っているということを、まるで再認識させるように、金色の瞳が何かをとらえたように入り口の一点を見つめる。その先にあるものをバニラは何とするのか、首をゆっくりとその視線の先に移動させ、瞳を細める。そこに今までなかったもの、そこにいきなり現れたもの、先ほどまで残滓で追っていた「ウチ」の中にある。悪意そのものの形が二つ、バニラの瞳に焼きついた。
「――ッ」声にならない声を出し、指を刺す。たったそれだけの行動が、ソルトとピールにも、見えなかったものを映し出す。「なんだ」ソルトが目を見開いて、視線の先に映ったものに対して顔を引きつらせる。ピールも何か間違ったものを見たような顔をして、何度も目を瞬かせる。こちらを見ているその影は、ゆっくりと姿を、形を変えて、一つのポケモンを形作る。
『あの子が出て行ってから、ずいぶん経ちましたね』
「おい、お前ら」バニラが歯を剥き出しランクルスに掴み掛ろうとしたが、す、と体をすり抜ける。面喰ったように振り向くと、その後ろにソルトとピールが見える。「ダメだよバニラ、これは残滓なんだ」ピールが首を横に振りながら、そういう。わかってはいたが、目の前に現れたそれをただ指を咥えてみるということが、バニラにはできなかった。「気持ちはわかるけど、これは家の中に残っている思いなんだ。少し落ち着いて様子を見よう」
 ソルトの諭すような口調に、バニラは釈然としないものを感じながらも、首を縦に頷かせる。彼女の心に落ち着く、という言葉は今は念頭にすら現れなかった。
『ああ、もう特に気兼ねをする必要はないな。あの子に感づかれる前に、自立してよかったと思ったよ』
『ばれてしまえば、あの子の心は歪んでしまいますものね』
 何気ない会話のような声だったが、そこにはまるで感情というものが籠っていない、死体同士の会話を聞いているようだ。残滓とはいえ、会話にすら感情をともせないほど、この二人の関係は深くなかったというのだろうか、それを知らぬうちに考えただけで、ぞ、と背中をうすら寒いものが走った。この二人はあくまで、共犯というもので繋がれていただけなのか。家族という言葉で、息子と親、そういうもので繋がれはしないのか、それを考えて、ぎり、と歯を軋ませる。
 まるでそこにいる二人は、黙して語るような姿を形どり、会話をしなくても特に苦にはならない――そういう自然な親しさのようなものを感じたが、それ以上に感じ取れるものは存在しないようにも思えた。それがますます不快感を誘い、バニラは警戒心をむき出しにして、注意深くその残滓の会話を耳で拾った。
『あの子には私たちの行動を知らなくていいのですね』
『当たり前だ、私たちの様になる必要はない。私たちは私たち、あの子はあの子だ』
『そうですね――それにしても、めっきり客が来なくなったじゃァありませんか』
『勘付かれたのかもしれないねェ……もっとも、こんな辺鄙な場所にある宿屋など、だれも勘付きはしないと思うがね』
『そうですね、死体など、すべて庭の肥やしになりますもの、世俗ではまぁそれはたいそうに失踪事件などと騒がれていますが』
『大した問題ではないさ。ここに来る客は皆、私たちの本質に気づきはしないのだから』
『気づいたとしても――』
『そうだ――その時にはもう終わっているとも』
 くぐもった笑い声が聞こえる。眉根を寄せて、バニラは口内を下顎の犬歯で思い切り突き刺した。勢いよく生暖かいものが噴出し、目の前の残滓を見据える。見下げ果てた畜生根性をまき散らす強盗殺人犯は、愉快に笑い、次の客を待つ。客が来たのならば、柔和で平和的な外面を取り繕い、ゆっくりと警戒を腐敗させていく――そして、仕留める。狡猾で残忍、そして人の情など一切籠っていない、自分たちの本能に貪欲な二人の化け物。静寂が支配する空間に、外側からのノックの音がした。
『夜分に申し訳ありません。道に迷ってしまいまして、開けてはもらえないでしょうか』
 来た、という思いを、二人は持った。何を持っているのか、身分はどのくらいか、そのあたりは今までに手にかけてきたポケモン達の外見や気品から察することができる。何が大事かは、そのポケモンが何を持っているかであり、ポケモンそのものに興味など微塵も無かった。どうせ、朽ち果てるのだからと、シャンデラはうっすらと笑みすら浮かべて、ゆっくりと戸をあける。
『いらっしゃいませ、こんな夜分まで道にお迷いなされて、さぞ大変だったでしょう』
『ええ』ドア越しのポケモンは、身なりのいいランプラーだった。同種族ということもあってか、妙な感覚を覚えたが、特に気にすることなどなかった。『宿があって助かりました。ここは宿で合っておられるのですね』
『ええ、辺鄙な場所ですが、宿屋であることに変わりはありません』
『申し訳ありません、誠に勝手ではありますが、一晩の床を恵んではいただけないでしょうか?』
『お客様がそれを遠慮したとしても、それを与えるのが私たちの仕事です。では、名簿に名前をお書きしますので、名前を教えていただけないでしょうか?』
『私は、ペパーと申します』
 羽ペンを握ったランクルスの動きが、止まった。ペンを置き、しげしげとランプラーを見つめる。『どうなされました、私の顔に、何か』ペパーの声を聞いて、ランクルスは首を横に振った。『いえ、息子と同じ名だったので』
『ああ、なるほど』
 ランプラーは両の手を叩いて、微笑む。
『息子さんがいらしたのですか、同じ名前は世界にたくさんありますから、そういうものを思い出してしまうというのは、仕方がないでしょう』
 そういうペパーという名のは何かを探りいれるような不思議な目線をランクルスに合わせて、もう一度微笑んだ。それが何か恐ろしいもののように見えて、ランクルスは少しだけ体を震わせた。まるでその視線から引き離すように、シャンデラはゆっくりと体をランクルスの前に動かして、うすら笑いを浮かべる。
『お客様、もうお時間が過ぎておられます。今後の行動はいかがいたしましょうか?』
『ええ、そうですね』ランクルスは少し思案をしたようにこつり、と自身の体を撫でた。き、と金属が発する不快な音が響いて、ランクルスは背筋を伸ばした。『こんな時間に飯を持ってこいというのもおかしいですし、私は眠らせてもらいます。本当にありがとうございます』
 そういうランプラーは、多少早口に言葉を吐き、その後は視線を忙しなく動かしていた。周りを見ている、というよりも、何かを懐かしみ、そして憐れんでいるようにもみえた。憐憫な視線をあちらこちらに向けているランプラーから少し離れ、低い声で二人は話をする。
『何か怪しい客だね、感づかれたのかも知れない』
『そんな……』ランクルスは不安そうな顔をする。今までやってきたことを考えれば、当然の結果と言えばそうだが、シャンデラはそれに対して何か後悔や疑念を持とうとはしなかった。舐めあげるように炎が揺らめき、暗がりに自分の姿をゆっくりと浮かび上がらせる。『勘付かれてしまったのなら仕方がない。明るみになる前に片づけてしまえばいいのさ』
『でも……』
 ランクルスは明らかに狼狽したように、ちら、とペパーと名乗ったランプラーを一瞥した。ランプラーはその視線に気がつくことはなかったが、ランクルスはその視線を成長した息子のようなものに重ね合わせて、そして何か躊躇するような意識が頭に入り込んでいる。そんな彼女を見て、シャンデラは乾いた笑い声を抑えた。
『君はおかしなことを言うんだね、彼の名前が本物かどうかも分からない、もしかしたら偽りかもしれないじゃないか、探りいれに来たのだとしたら、自分の本名をそう易々と明かしはしないさ、こちらの動揺を誘うようにしてあるのだとも』
 本当にそうだろうか、と首を傾げる。もしかしたら、自分たちはとんでもない勘違いをしているのではないのだろうか、と頭に浮かぶ思いすらも、シャンデラは笑い、ゆっくりと言葉で打ち消していく。
『あんな言葉に騙されるなんて君らしくないな。もし息子なら、この屋敷に戻ってくることなんてないのだからね、何、いつも通りにやればいいのさ、そう、いつも通りにね』
『え、ええ、そうですね』
 まだ躊躇が残っているようだが、意を決したようにランクルスは体を動かして、ランプラーの方に寄っていく。部屋にご案内します。という声、階段を上がる二人を見上げながら、口の端を吊り上げる。こちらの動向に気がついたところで、相手は何もできないだろう。何かをする前に、こちらが始末する。
『ごゆっくりお休みくださいませ、お客様』
 誰にいうわけでもなくひとり呟くシャンデラは、扉に入る二人を見送ると、ゆっくりと食堂の方へと消えていった。
「……あれは、あのランプラーは」
 君なのか、と言おうとして、ペパーの方を向いた。ペパーは何も言うことはなかった。ただただ、三匹のやり取りを目で追い、細い瞳が厭うように入った扉に向けられ、眉を顰めて、険しい眼の色をそのまま食堂に移す。
「あれは、僕……僕だ」口から吐き出した言葉に、ソルトとピールはぎょっとした。お互いに目を見合わせて、もう一度ペパーを見る。探り寄せるような瞳に気がついたのか、それとも刺すように凝視していたことにむず痒いものを感じていたのか、ペパーは薄い笑いを浮かべて、悲しそうに影を落とした。「僕は、大きくなってもお父さんとお母さんのことが忘れられなかった、二人はきっとまだああいうことをやっているんだって思ってたら、止めないといけない、そう思った。ううん、そう思ったんだと思う。わからない、まだわからない、でも大体思い出した」
 忘れていたものを思い出したように、ペパーは先ほど入っていった扉を見た。そこはまだ明けていない、まだ中を見ていない扉。最後の客室。そこは割合、飛ばしていたわけではないが、扉の向こうから伝わる何かが、大切なことを隠蔽するようにバニラ達を弾く様な邪気を放出していた。そしてその中に入っていったペパーと、ペパーの母。残滓だとしても、次にはいる場所はそこだ、と言っているような気がしてならなかった。
「……あそこには、入るべきか」
 ソルトは口に手をあてて、思案した。冷汗が伝い、体中に滑るような寒気が纏わりついた。あの先にある者を見ることができれば、記憶をなくしたペパーはおそらくすべての記憶を取り戻して――成仏するのかも知れない。あるいは、未練を残してまだこの家の中に、いや、家の外に自爆霊のように縛り付けられるのか。
 ソルトはペパーはもう死んでいる、という考えを予想から確信に変えた。頭の中にある引っ掛かりを解いて、確実のものとする。このヒトモシは幽霊だ、という確信が頭の中に擡げていた。
「ペパー」
「なぁに?」
「君は死んだポケモンだな」
 返答はない。ただ、ゆっくりと首を縦に頷かせた。バニラの体が一瞬だけ震える。ピールも、ぎゅ、と両肩を握り、力をこめた。
「うん、僕は、もう死んだポケモン。でも、どうして死んだんだろう?なんで家に入れなかったんだろう。わからないのは、きっとそれだけ――なんだと思う」
「ならここは、君の思い残りが作った、マヨヒガなのか……」
「マヨヒガ?」
「幽霊の思いや物のが形作った、残滓の塊みたいなものよ」
 ふぅん、とペパーは興味深げに話に聞き入った。バニラはその言葉を聞いて、頭の中で少しだけ思っていたことを思い起した。間違っていると思ったし、そんなことがあるはずがないと思っていたが、間違いなくソルトの口からは、マヨヒガ、と発せられた。
「わからないけど、きっと僕やお父さん、お母さんの思いがこの家の中にこもって、昔のことが思い起こされているのなら、マヨヒガ、じゃないのかな……」
 確信はないのか、少し声が低く、小さかった。おそらく魔術的な迷信や、土地の風習というのは疎いのだろう、自信がなさそうな声を聞いて、ソルトはなるほど、と頷いた。
「わからないならすまなかった。マヨヒガは、欲ある者は罰が当たる、守り家みたいなものなんだ。もちろん、すべてのマヨヒガがそうというわけじゃない。遠い国の童話にあったお菓子の家も、勝手に食べたから出られなくなった。一種のマヨヒガ、異国のお話に出てきた、ミーノータラウスの迷宮も、王の欲望が神の怒りに触れ、抜けられない迷宮を作り出した。一種のマヨヒガだ。だけど、この家は欲ある者が訪れるのではなく、家そのものが欲望に塗り固められていた。だったらこれはマヨヒガじゃないのか?とは思ったけれど、実質僕らは抜け出せない。だから、ここはマヨヒガなんだ。それもかなり特異な」
「それは、家の思いによって抜け出せないということになるのかな」
 ピールの言葉に、おそらく、とソルトは頷いた。旅人を招き入れ、そして永遠にソトに出すことはない。そして秘密を知った息子は、危険因子。ゆえにウチからソトへ出す。それは果たして危険だから外に出したのだろうか、といまさら曲解させる。だが、妙な部分は先ほどの会話を聞いて、少しあった。ペパーの名前に狼狽したランクルス、そして息子はここには来るはずがないと断言したシャンデラ。まるでこの家から自分たちの息子を遠ざけるのは、単に秘密を知ってしまったということを感づいているのではなく、初めから知っていた、というような思いを受け、それでいてウチからソトへ出す。という不思議な行動をしていたように思えた。
「……」
 静寂が支配して、無意識にバニラは先ほどの扉に視線を移した。それにつられたように、全員が扉に視線を移す。ここは何なのか、幽霊であるペパーはなぜウチに入れなかったのか、彼はなぜ死んだのか。すべての問いかけに答えるように、その扉はただ静かにそこに取り付けてある。
「ペパー……」
 バニラは何かを躊躇するような視線を、ペパーに向けた。その瞳にペパーは、何も言うことなく、笑って答えた。言葉よりも、その笑顔の方が、バニラは何かを決めたような顔に見えて、自分の心が締め付けられるような思いだった。自分たちが見てしまったものは、自分たちの記憶ではなく、他人の思い出。それを見ることで、ペパーの忘れていたものがすべて思い起こされる。しかし、それを本当にしていいのだろうか、と、怖気づいたような思いが心の中に擡げる。ペパーの記憶が呼び戻ることで、本当に自分たちはこの場所から抜け出すことができるのだろうか、という思いが頭に淀みのように漂い始める。
「ねえ――」
「大丈夫、バニラお姉さん。僕は絶対、後悔なんてしないから」
 やっぱりやめよう、ほかの方法を探そう、ここをしらみつぶしに探せば、出口だってきっとあると思う。そう言おうとした言葉を、ペコーはすべて取り上げてしまった。言おうとした言葉は口の中で弄ばれて、結局唾と一緒に胃の中に飲み下してしまった。両手で口を抑えて、ペパーを見やる。何もかもが分かっている、そういう思いが金色の瞳を通して、バニラの頭に流れてくる。
(ペパーは、僕が言おうとしたことをわかってて、それで)
 自分の言いたいことは、すべてペパーが遮ってしまった。ゆっくりと階段に近づいて、振り返る、滴るような紫が揺らぎ、ペパーの、邪のない頬笑みを闇の中に灯す。
「僕は、後悔しません。自分の記憶を取り戻して、このマヨヒガから、みなさんを出してあげます。出る方法がわからない、でも、今わかったような気がします。ここから出るには、僕がすべてを思い出す必要があるんだって。ピールお姉さんが一緒についていってくれると言ったとき、バニラお姉さんが喧嘩したらいいって教えてくれたとき、ソルトお兄さんがみんなを誘導して、この場所から抜け出そうって考えたとき、僕の家の思い出、一つ一つを思い出して、わかったんです。ここを抜けるには、僕がすべてを思い出すことが必要なんだって。それがどんな結果になったとしても、僕はきっと後悔しません。迷うことなく――逝けます」
 すべてを知り、そして自分の未練や後悔を残すことなく消えていく。ペパーの言葉は、静かな洋館に痛いほどに響き渡り、嫌が応にも、その言葉の意味を全員がわかるほどに、よく透き通って聞こえた。
「君は本当にそれでいいんだね」
 ソルトの問いかけに、勿論、と頷いた。ピールはバニラの方に視線を移した。バニラは、狼狽の色を見せ、何かを躊躇し、ソルトの声に制止をかけようとして、伸ばした手を引っ込め。自分の行動を恥じ入るように、耳をつかんで――口内を刺した。渋顔を作った彼女の顔は、いつも口の中を痛めつけた時。それがわかっているからこそ、何か靄のようなものを感じた。どうしてそこまで、彼女はペパーが何かを思い出すことを嫌がるのか、他人に干渉しないような性格の彼女は、どうしてペパーに対してはあのような態度を取るのか、ピールには少し理解ができなかった。ただ単に、ここで一緒に行動を共にしたからできた友情などというものとは違う様な気がした。もっと奥底で繋がっている、根強いものかもしれない。
 ペパーは、ゆっくりと階段を昇り始める。小さい体を大きく飛び上がらせて、一段一段を踏みしめるように登る。ソルト達はそれに続く様に、階段を昇り始める。先ほどの扉を視界にとらえながら、周りに視線を移動させる。さまざまな調度品は、恐らく自前のものから、人から強奪したもの、死体から漁り、手に入れたもの、そう考えれば、背筋がすっと寒くなる。この家は持て成しをするために小奇麗にしてはいるが、それはすべて本音を包み隠すもの。家の周囲を改めれば、恐らくその悪行の痕跡がすべて見つかるだろう。しかし、この家はもうすぐ消えてなくなる。なぜだかわからないが、そんな気がした。
「この扉の先に、ペパーのすべてを思い出す残滓が眠っている」
 バニラは誰にいうわけでもなく、たどり着いた扉の前でひとりごちる。扉は色が付いているのがわからないほど錆びつき、塗料がはげて落ちたような荒涼とした惨状だった。一つの扉を分け隔て、こちらと、あちらの出来事は切り離されている。扉を開け放てば、何が起こるかも容易に想像がつくかもしれない。それがバニラ達にとって良いことなのか、それとも悪いことなのか、それはわからず、果たしてわかるべきことなのか、その判断すら、曖昧模糊の混沌の中に放り出したい気分になった。自分たちのやっていることは正しいのか、間違っているのか、それとも、そのどちらでもないのか――
「大丈夫です、バニラさん、開けてください」
 ペパーの声が聞こえて、バニラは背筋を無意識に伸ばした。喉もとからせり上がるものが何なのかわからず、上ずったような嗚咽が漏れる。顔に冷汗をひとつ掻き、震える手をドアノブにかけた。体を目いっぱい前に押すと、埃がゆっくりと舞い上がり、扉は半分ほど開け放たれた。
「あいた」バニラは無意識に声を出す。あかなかった扉は開け放たれて、中の様子を少しだ伺わせる。「ああ、ここが最後の、この洋館の思い出なんだと思う」ソルトは、半分ほど空いた扉に手をつけると、一気に押し込んだ。埃が舞い散り、中の扉が完全に開く。視界に入り込んだものが、すべての真実を映し出すような――
――そんな気分だと、バニラは思った。


 静かに冷たくなった体を抱きかかえて、嘆く様な声が部屋中に響き渡る。大量の熱を浴び、ひしゃげた金属と、砕け散った硝子のかけらが周りに飛び散り。ランプラーはもの言わぬ肉体となり、それを抱きかかえたランクルスは、悲痛な叫びをあげる。
 いつものように眠ったポケモンに対して、手を下した、一瞬で命は散り、そして荷物を漁った時に、ランクルスは見つけてしまった。見つけてはいけないもの。写真立てに入っていた一つの写真。家族と映って笑っている人もし、隣り合わせで座り、柔和な笑みを浮かべて写真に映る、ランクルスとシャンデラの顔。その絵に偽りなどなく、ただの平和な情景を、一つ切り取り、そこに保存した、何の変哲もない写真。そこに映る姿は、間違いなく自分たちだった。
「ああ、私たちの子供が、そんな、うぅっ……」
 ランクルスは死体に縋りついて、泣き崩れた。悲鳴は嗚咽に変わり、嗚咽はまた悲鳴に変わる。シャンデラは茫然と、その姿を見ていた。ただただ、目の前にいるランプラーが、自分の息子だったと気がつかなかった自分が、あまりにも愚かで、そして自分がやってきたことが、あまりにも罪深いことだと思い起すには、時間がかかりすぎた。
「馬鹿な」シャンデラは呟いて、がくりと地に落ちた。燭台の炎が、床に燃えて広がる。自分自身の炎の力も制御できないほどに、精神が乱れる。体が瘧のように震えだし、瞳からあふれる温いものが頬を伝う。「馬鹿な」うわ言のように呟き、もう一度ランプラーの姿を見る。「私の息子を――私が?」
「ああ、お願い、目を開けて、こんな、こんな、なんて惨い」
 惨い、という言葉にはいささか語弊があるかも知れなかった。今まで散々惨いことを他者にやっておいて、などといまさらながらシャンデラは思った。そして自分の息子が同じ現実に直面したら、可哀そうだとか、惨いとか思ってしまう。これこそ罪を犯したあかしなのではないかと、無意識に思う。
「きっと、神様が私たちに、罰を与えたんだわ」
 罰と聞いて、泣き崩れて悲痛な声を上げるランクルスを見る、炎はすでに入り口を塞ぎ、部屋全体を燃え上がらせる。洋館は次々に火の手が上がり、宵の夜を明るく照らしあげる。自分の息子の亡骸を抱き、くずおれる。ランクルスの顔を見ると、悲壮と恐怖、懺悔と後悔の色が滲み出ていた。自分たちが何をしたのか、今まで何をやってきたのかを、ありありとわからせる顔だった。これは罰ではなく、当然の報いなのだと、彼は顔を歪めた。
「私たちの息子、ああ、こんな姿になって、気がつかなった母を、私を許して」
 許す、許さないの問題ではないのかもしれない。許すも何もない。初めから自分たちは許される存在ですらありはしない。今までの行為は、懺悔をしたところで清算されはしないのだ、心のどこかでそれがわかっていながらも自分たちの欲望にとらわれて、それを止めることができなかった。罪深き行為は、自分たちで実の息子とわからずに手にかけ、死体を漁った。その事実がせり上がり、吐き気がこみ上げてきた。喉の奥まで登ったそれを、何とか抑えて飲み下す。せき込み、いまさら思い出したように、感情が溢れた。
「おお……おおお……っ!なんと、何と言うことだ……」
 自分たちの行いがどれほどの結果をもたらしたのか、それを知った時には、すべてが遅すぎたのだと自覚した。その時に、これは終焉だ、と理解した。一つの年を跨ぎ、ずっと前からおこっていた、惨劇に終止符を打つ、終焉なのだと。終着点についた彼らは、今までの出来事を思い起こすだろう。そして、それがいかに人道からはなれた愚かな行為であったのかを悟るだろう。そして――
――そして、燃え広がる洋館が赤々とした炎を纏い。二人の夫婦と、その一人の息子と一緒に、焼け落ちる事実はすでに確定していた。
 燃え盛る炎に包まれて、泣き崩れる妻の姿も、もの言わぬ息子の姿も、そして自分達が間違っていると後悔し、くずおれる自分自身も、すべてがすべて、焼けて崩れる。繰り返されてきた一つの悪行が、炎に包まれて、今、幕を下ろそうとしていた。


「――全部、思い出しました。僕は、両親に殺されたんです」
 気がつけば、部屋全体が炎に包まれていた。それだけではない、火の粉が唸りをあげて、洋館全体が炎に包まれていた。これは先ほどの出来事の続きなのか、とソルトは思う。炎の熱は感じることなく、自分たちは炎に焙られても、熱いと感じることも、焦げるような痛みを感じることもない。これは、このマヨヒガの終わりを告げているのだと、静かに思った。幻の類だとわかっていたとしても、炎に焙られていると、体温が一気に上昇したような感覚に見舞われる。すべてを見て、洋館の謎を、思いをすべて解き明かした時に、幻の家は燃えて消える。人を閉じ込めるという欲望よりも、ソルト達のここから出ること、そして、ペパーの記憶を取り戻すこと。その思いが、家の欲望に打ちかったのかも知れなかった
「僕は、この屋敷に住んでいた」ペパーの姿は、ヒトモシのそれから、いつの間にかランプラーに変わっていた。幽霊体がすべてを思い出した時に、本当の姿が映し出された、ということだろうか、ピールは夢を見ているような気分で、瞬いた。「子供のころに見た、両親の犯罪行為。それを見た時から、その姿が忘れられなかった。死体を嬲るように漁り、下卑た笑みを浮かべた両親の姿、呵責のない行為を見ていて、自分はいつからか、彼らを止めたいと思った。だけど、成長した自分が戻ったところで、両親は自分の姿に気がつくこともなく、無情に行為を続けたんだとわかりました」
 その声は淡々としていた。それは自分が死んでしまったという事実よりも先に、自分が止められなかったということに対しての後悔が強かったのかもしれない。バニラは息をのんで、ペパーの姿を見ていた。
「このマヨヒガは、きっと僕の後悔が作り出したものだと思います。両親を止められなかった後悔、自分がもっと問いただしておけば、こんなことにならなかったという後悔、だけど、後悔するだけで、自分は未練を残してしまい、バニラさんたちをここに閉じ込めてしまった。彼らの行いを止めてほしいという思いで、旅人を招き入れ、自分を外に押し出した。それは、旅人をここに呼び込むため。茶番です」
 自嘲気味に笑う。その姿を見て、バニラはまた、口内を刺した。何か忘れていることはないのか、このまま消えてしまっていいはずがない。そう思っても、これ以上思うことなど、何があろうか、自分で自分に問いかける。もともと他人に対して無頓着だったのだ。いまさら何を思い起こす必要があるのだろうかと、自分に言い聞かせる。なぜこんなにも、ペパーのことに対して自分は感情を露わにするのか。それがわからずに、思考に暗澹としたものが垂れこめる。時間は過ぎていく、何か言わなければ、一生後悔することになる。おそらく、それはペパーも、自分もそうだろうと――
「もう迷いが切れました。皆さんをここに迷い込ませてしまったこと、両親の行為、すべてが燃えて、消えるでしょう。皆さんは元の場所に返します。本当にありがとう――」
「ペパー」
 バニラが呻くような声を出した。
「僕は――結局、両親に愛されてなどいなかった」ペパーの声は上ずり、今にも消えてしまいそうなほど、儚げだった。「愛されていたと、錯覚したかったのかもしれません。両親が注いでくれた愛情は、すべて幻、外見を取り繕うためのもの、良き母を演じ、良き父を演じるための、上っ面を覆い隠すための行動。自分はそれを、両親の愛なのだと、錯覚しただけでした。事実、私は死に、両親は私を殺して、初めてその存在に気がつきました。最後の最後まで、私は愛されることがなかったのかもしれません。最後に後悔をしてくれた両親を見て、少しは私も救われたのかもしれません」
「違う」
 バニラは声を張り上げた。今までなぜ、こんなにもペパーに対して自分が駆け回っていたのかが、理解できた。初めてペパーにあった時の夜、両親の名を叫んだ彼を見て、妙な苛立ちに包まれた。そして、彼は恵まれている存在だと思い込んだ。記憶を手繰り寄せるたびに、その気持ちは少しずつ薄れていった。そして今、はっきりとわかる。ペパーは、自分と同じなのだと。
 両親の愛に飢えるもの。愛と錯覚しなければ、自分ははなされてしまう。それが怖くて、何もできなかったペパー。それと対になるように、孤児院のシスター達の言葉を突き放し、子供たちの輪に入らず、自分を見るものだけを受け入れた自分。それは対局で、非常に似ている。まったく違うようではあるが、根は同じだ。結局、自分もペパーも、愛されることを望み、それを欲しがった小さな子供だと。違うとすれば、自分はシスター達の愛情に気がつくことなく、突き放していたこと、ペパーは、愛されることを望み、模造の愛だと思いながらも、それを受けていたこと。だが、ペパーは違うと、バニラは思った。
「違う?」ペパーは俯いた顔をあげる。涙が浮かんだ双眸を、バニラに合わせる。ソルトもピールも、バニラを見ていた。「君は愛されていたんだ。ペパー」
「愛されて……いた?」
「そうだよ、君は両親の愛を受けていたんだ。犯した罪に対する懺悔、恐怖、後悔、それがなくなれば、もうそれは人じゃない。君の両親は人じゃなかったかもしれない、間違っていたかもしれない。だけど、最後には懺悔した。後悔した、自分たちがやったことに対して恐怖した。それを取り戻したのは、君を殺めてしまったからだ」
 息を大きく吸って、バニラはあらん限りの力で、消え入りそうなペパーに向けて、言葉を叫ぶ。夜の空に響くほどの、大声で。
「君が愛されていないと思ったのなら、それは違うって何度でもいい返せる。両親は君を愛していたからこそ、自分たちの間違いに気がつくことができたんじゃないのか!?彼らは人だったんだ。人じゃなければ、君を殺しても何かを感じるわけがない、だから、人なんだ。ちょっと道を間違えてしまったけれども、自分たちの犯した罪に対しての懺悔、後悔、そして恐怖。それは君という愛する者を失って、初めて分かったことなんじゃないのか!?接する形は取り繕いだったかもしれない、模造かもしれない、だけど、君に注いだ愛は、取り繕いでも模造でも何でもない、本物の「愛」じゃないのか!?」
「……」
 わからないという様な顔をしたペパーを見て、バニラは燃える屋敷を見渡した。この屋敷が崩れ去る前に、ペパーに伝えたかった。先ほどの光景を見て、最後に後悔した父と母の姿、本当に人だとしたら、絶対にある、その確信を持って、長い廊下の先を見据える。
「ついてきて、ペパー」バニラはペパーの腕をつかむと、燃え盛る扉をくぐりぬけ、廊下を走りだす。ソルトとピールは突然のバニラの行動に面喰い、その場で騒然と立ち尽くした。バニラは確信を秘めたように、階段を降り、広間の周りを見渡した。最初に見た残滓は、食堂からあらわれた。そしてその近くにある扉――ペパーの部屋の扉の前まで、ペパーを引っ張りまわした。自分は愛されていないと思っているペパー、それは絶対に違うと、断言した自分の言葉を後押しするように、そこに立っている。
「ここは、僕の部屋」
「本当に愛がなければ、こんな部屋はないはずだ。開けよう。そこにあるんだ、確かにある、君への愛が」
 ペパーは、呆然と、しかしゆっくりと扉に手をかける。燃えて広がる屋敷の中では、もうすべてが消えてなくなる。遅々とした行動だったが、ペパーは確かにドアを開け、中の光景を見た。その先にあるものが、本当に何なのかはバニラにはわからない。ただ、そのさきにあるものが、彼の忘れかけていた思いを呼び起こすものだと、彼女はほぼ確信に近いものを感じていた。たとえその先に見えるものがただの部屋だったとしても、そこにはペパーが過ごした痕跡があり、思い出が残っている。崩れ落ちる前に、その思い出を拾うことができれば、彼は決して作られた愛情に包まれたのではなく、本当に愛されて育ったと認識することができるだろうと、間違っていたとしても、何かの反応はあるようにと、バニラはほぼ縋るような思いで、ペパーの後ろを後押しするように、扉の中に入っていった。


 そこに火の手は回っていなかった。木製の積み木が重なり、子供の心を刺激するような絵が壁にかけられている。丸い窓から差し込む陽光の光は、その空間だけが、一つの残滓として出来上がっていることを認識させる。シャンデラとランクルスが、生まれたばかりのヒトモシをあやしながら、穏やかな笑みを浮かべている。
『名前は何にしようかな?』
『ペパー、という名前はどうかしら?いい名前だと思うけど』
『ああ、とてもいい名前だ』
『あなたみたいに、思いやりのある子供に育ってほしいですね』
『おいおい、君の様に、だれにでも好かれる優しい人になってほしいものだよ』
『ふふ、あなたの方が優しいですよ』
 二人の顔はとても幸せに満ちていた。そこには人に対して何か後ろめたい思いを持つわけでも、自分たちの行動を疑問に思うこともない、ただただ、新しい命が生まれ、家族という愛の形が出来上がり、そしてその愛を受ける、小さな赤子の姿が見えるだけ。
 窓から入る風が、ゆっくりと三人を撫上げる。
『偉い人にならなくてもいいから、ただ人を思いやることができる優しい子になってほしいわ』
『そうだね、私達がそうなれなかったとしても、この子にそれを願うことは、悪いことじゃないさ』
『ええ、――本当に』
 それは何かを始めるきっかけの言葉だったのかもしれない、自分たちがどのような立場に置かれてしまったとしても、子供にだけはそのようなことが起きないことを願う、一種のお呪いのようなもの。決して間違えないでほしいという、懇願にも聞こえた。
『子供は奔放だ』シャンデラは自嘲気味に笑う。『自由な発想を持ち、白にも黒にも染まることができる。もちろん、自由奔放な子供は白に染まった方がいいに決まっているというのが、世間世俗での評判だろうがね、私は黒に染まることもけして悪いことじゃァないと思うんだ』
『ええ、そうですね。白に染まるか黒に染まるか、それは子供の心次第ではないかと、思います』
 それだけじゃないよ、とシャンデラは窓から見える景色を見、大仰に息をついた。それはただ単につかれているというよりも、何か大きな出来事を超えたことに対しての、安堵のようなものかもしれない。
『子供は無意識に、親の背中を見て育つ。親の行いで、白か黒かの分かれ道を進むかもしれないんだ。親の行動の是非を問うて、子供の行動を観察すれば、子供がどちらに進むのかわかるものさ』
 それは一種の極論に聞こえる。子どもの見た親という姿。それを真似るように、人との当たり方や、物の見方、自分の考え方は決まっていく。それが悪いことではないが、いいことでもないと、シャンデラは思った。
『子供の心は複雑だ、何にも染まってないからこそ、染まりやすい』
『何色に染まるのかは、親の心次第ですからね』
『私はこの子には、白よりの黒に染まってほしいものだと思っている』
 黒よりの白。それは良い部分を多く吸収し、少しの裏を覗き、それを理解するという心。子どもとしては、理想的な子供の成長だと思った。
『そうなってほしいものだと思います。私も』ランクルスは大きなことを終えた顔つきをした、シャンデラに寄り添い、肩を預けた。『大変なのはこれからですよ。あなた』
『わかっているさ、お前にも苦労をかけたくないからな。私は私なりに、お前やこの子に限りない愛情を注げればと思う。白や黒に染まる前に、思いやりがあり、正しいことと間違っていることがしっかりとわかる。優しい子になってほしい』
『さっき、私が言ったじゃァありませんか』ランクルスの苦笑に、シャンデラはつられて口の端を吊り上げる。『君の思いと私の思い。両方を込めるのはいけないことかな?』
 それに対しての返答はない、代わりに、穏やかに眠る我が子をゆっくりと撫上げ、静かにシャンデラを見やる。それがすべての返答だと言わんばかりに。
『こんな辺鄙な場所に、宿を作って』
『ああ、わかっているさ。ここが知られない場所だからこそ、意味があったと思った。きっと経営は苦しいだろう。いやなら、私を捨てても構わないよ』
『御冗談を』ランクルスはむっと、顔を顰める。『私は、あなただから、この場所に宿を作ることを、よしとしたのです』それは、自分に対する裏切りだ、と言わんばかりに憤慨した彼女を見て、シャンデラは怖気づいたように両手の様な燭台を上げた。『わかっているとも、君がそういうのも、だが、これは本当に大変なことなんだ――』
『たとえどれだけ大変だったとしても、この子がいて、あなたがいる。私はそれだけで、十分にやっていけますとも』
『君は苦労をかけるかもしれない、私のこんな思考に付き合ってくれているのだ、私はもう君がどんなにつらくなって、投げ出して逃げても、文句は言わないよ』
『いいえ、逃げませんとも、どれだけ辛くても、どれだけ苦しくなっても、私はあなたと、あなたとの間にできた。この子と一緒にずっと――』
『すまない』シャンデラは自分の言葉に恥言ったように顔を伏せると、ゆっくりと眠る我が子に影を落とした。『お前は自由に、そして思いやりのある子供に育っておくれ。ペパー、私たちの、愛する息子よ……』
 それは確かに、すべてが起こりうる前の、彼らの本当の愛情を注ぐ姿。父と母、親と息子、ほかの誰とも変わらない。本当に何も変わることのない。愛情がそこにあった。
 外から、小さく戸を叩く音が聞こえた。朝早くから、この杣道を迷った客かもしれない。そう思うと、俄然とやる気がわく。
『私が出てくる。その子を頼むよ』
『初めてのお客様ですね、しっかりして、父親らしい立派な姿を、この子に見せてあげて下さいね』
 任せてくれ、とシャンデラは笑う。景気が悪くなることもあるし、もしかしたら宿をたたむ危機に立たされてしまうかもしれない。しかし、どんなに困難があったとしても、やっていかなければいけない。愛する妻のため、そして愛する息子のため。その日から、シャンデラとランクルス、そしてその子供の――新しい日が始まる。家族という絆で結ばれた一つの、物語の幕が上がった時なのかも知れなかった。


「お父さん、お母さん」
 思いが駆け巡った時、ペパーは父を、母を呼んだ。バニラは全てを見たときに、思い至る。経営が苦しかったのかもしれない、もしかしたら、最初は間違っていると思ったのかもしれない、だが、やり続けることで、神経が鈍麻し、そして忘れていったのだろう――人を殺めること、金品を奪い取ること、それがどれだけ非人道的な行為か。
「ペパー」バニラは、まるで幻か、自分の思い描いた理想を見ているようなペパーに、強く言葉をかけた。「きっとペパーの両親は、早くに間違いを犯してしまっただけなんだよ。だから、その分は、君が取り戻せばいいんだ」
 取り戻す。その言葉の意味はわかっているのか、それともわからずに首を捻るのか、俯いたまま、涙を流したペパーは、ただただ、震える声を喉の奥から鳴らした。
「父は、母は、きっとわかっていた。でも、やるしかなかったんだと思いました。それがどれだけ愚かで、醜悪な行為だとしても、生きるために、そして何よりも、僕のために――どうして、どうしてもっと、二人の過ちに早く気が付けなかったんだろう。きっともっと早く気が付いていれば、それがいけないことだという意識を持たないまま、あんな行為を繰り返すことなんてなかったのに」
 嗚咽が漏れて、火の粉がさらに舞い上がる。扉は炎に包まれて、もう燃え尽きて、開けることができなくなった。朽ちる家、朽ちる扉の前で、バニラとペパーはお互いに向き合うように立っていた。
「僕は、こんなにも父に、母に愛されて、それでも、悪いことをする二人のことを、怖くて、拒絶するように――」
 それはひどく暗示的な言葉に聞こえた。彼は目に見えない亡霊のような、掴めないものを掴もうと必死になり、しかしそれ確かに、彼は既にもらっていたものだった。それを気がつかずに、偽りだと思いこんだ。そのことに対しての涙も、ペパーには含まれていたのかもしれない。
「君は、あれを見た後でも、愛されていないと思えるの?」
 ペパーは、静かに首を横に振った。偽りのない情愛を注がれて、両親の思うとおり、正しいことと間違っていること、それをはっきりとわかっていたからこそ、ペパーはここに戻ってきた。両親を、間違っている道を正すために。ただ、それをするには時間が遅すぎただけだったのだろうと、バニラはやり切れない思いが鬱積した。
(僕は、取り戻せるのだろうか)
 自分に言葉をかけてみる。孤児院に来た一年前の自分、すべてを下らなく思い、下に見ることに何か愉悦のようなものを感じていた自分。それは間違いであり、それに気がつかないまま一年が過ぎていった。取り戻せるのかどうかも分からない、孤児院で過ごした日々の記憶。
 ペパーはしばらく沈黙を保っていたが、家が崩れる様子を少し顔をあげて見つめると、憑きものが落ちたような顔を、バニラに向けた。柱が燃えて、すべてが灰になるその瞬間まで、バニラはペパーを見つめた。その顔は、本当にすべてを思い出した。そんな顔だった。
「バニラさん」
「うん」
「先ほど僕は言いました。自分はこれで迷いがなくなったと。ですが、おそらくあのまま消滅しても、この家はまた現れていたでしょう」
「うん、僕も、そう思う」
 それは直感のようなものだったが、ペパーは、自分の記憶を取り戻したくて、あの家の中に入りたかったのではない。おそらく、両親の――自分が忘れていた愛を、取り戻したかったのかもしれないと。しかし、自分ではどこにあるかわからないからこそ、それを探し、そしてわからせてくれる人を探していたのだと。
 それは甘えだ、自分で探すことをせずに、わからないとのたまうことは逃げだ。初めからわかろうともせずに投げだすことは、放棄だと。だが、バニラはペパーのそれを、避難することはできなかった。
「自分が本当に探したかったものは、記憶ではなく、この家に残された。両親が僕にくれた、愛を探したかったのです。僕は両親に愛されて育てられたこと、愛されていないと思わなくて、本当に良かった」
「これからだよ、ペパー」バニラは目尻に浮かぶものをぐっとこらえ、眥をあげる。もう間もなく、この洋館は燃え、完全に消えてなくなるだろう。背後から、ソルトとピールの声が聞こえる。燃える、消滅する。そんな声が聞こえ、ペパーとの今生の別れなのかも知れないと、そう思わせた。「君はこれから、大変なことをしに行かなくちゃいけない、両親との家族の絆を、間違ったことを正していくことを。後悔はいつでもできるけど、後悔するだけじゃいけないんだから。地獄の閻魔さまも、少しくらいなら待ってくれると思うから、ね」
「僕にできるでしょうか……父や母に、僕の思いを伝えられるでしょうか」
「できるさ、ペパーは、二人の愛情を受けて、正しいことと間違っていることをしっかりと認識できたんだ、君が二人の間違いを正す、ともし火になってあげればいいんだ」
「――はい、必ず」
 ペパーは笑う。バニラはその言葉に対して、肯定するように頷いた。
「僕も、自分が間違えたことを取り戻すよ。時間はかかるかもしれないし、ちょっとやそっとじゃ取り戻せないかもしれないけど、絶対に、取り戻すよ」
 それが何かとは、言わない。
「だから、それができたら――もう一度会えるかな」
 もう会えないという思いよりも、もう一度会いたいという思いが、バニラの心の中に詰まった。もう一度出会えるのなら、変わった自分を見てほしい、そう思えた。たとえ会えなくても、自分を見ていてほしい。似ているから、ではなく。純粋に、友達としての思いなのかも知れない。
「会えます、きっと」
「君が陰に還り、僕は日向に還る。だけど、絶対会えるから、さよならは言わない。また会おう、ペパー、その時はもう一度、抱きしめさせて」
「はい、必ず」
 洋館が不思議な炎に包まれる。あらゆる後悔、懺悔、失意の念。それらがすべて、炎とともに消えていく。周りが燃えるわけでもなく、ただただそれは、間違えてしまった思いを燃やして、洗い流しているようにみえた。幻のような家は燃え尽き、夜空の光点が散りばめられる。見慣れた常緑樹が視界に移り、意識が夢から現実に引き戻されるように、三人はぽっかりと空いた空洞のような場所に、何もなかったかのように立っていた。一つの木が不自然に折れ曲がり、焼けた跡を残す以外は、何一つ変わらない光景だった。


 ターキーとソルベは、夢を見ているような感覚だった。舞い上がる火の粉も、轟々と燃える炎も、その場にとどまり、収縮していく。飛び火すると思っていたが、まるでその炎が幻のように、木々や草花をすり抜け、霞んで消える。幻覚のようなものを見ている気分に陥ろうとしたときに、炎はすべて消え、あとは荒れて広がった空間に、三人の行方不明だった子供たちが立っているのを肉眼でとらえた。
「院長先生」ソルベが声を上げる。それに気がついたように、三人の子供たちと目線があった。狐に抓まれたような顔をした三人は、目を瞬かせて、周りを見渡しながら、もう一度、ターキーたちと目線を合わせた。「みんな……よく無事で……」
 院長先生、と声が上がった。もつれる足に鞭を打つように、バニラ達は、ターキーの胸に飛び込んだ。怖くはないのに、涙があふれ、縋るように泣いた。
「お前たち、勝手に外を出るなとあれほど言っただろう」
 ターキーは忿りに震えそうだった。怒鳴り出したい。しかし子供たちが無事だったということの安堵もあり、言葉に詰まる。何を言えばいいのだろう、こういうときに並べる言葉が見つからずに、口の中でぐるぐるとまわる。優柔不断な意思を持ったつもりはないが、無事だったことへの喜びと、勝手に抜け出したことへの忿り、その二つが鬩ぎあい、どんな言葉をかけるべきなのか、わからずにソルベを見た。
 縋るような視線を受けて、ソルベはため息をひとつついた。こういう時に子供のためを思い、一括するべきではないのだろうかと思ったが、ターキーにはどうしてもそれを躊躇するような節がある。こういうとき、言葉をかけるのはいつも自分だと、貧乏籤を引かされるような気分になるが、ソルベは別段構いはしなかった。毎回毎回、同じように問題を起こすのは、決まって一定の面子が関わっている。今日こそは、という気持ちで息を大きく吸い込んで、軽く三人の頭を叩いた。
「あなたたち、私たちがどれだけ心配したか、わからないでしょうね。わからないから、こんなところで二日間も三人一緒にくだらないことでたむろしていたでしょう」
「おいおい、ソルベちゃん」ターキーから子供たちを引き剥がしたソルベは、ぎ、とターキーをねめつけた。「院長先生は黙ってて下さい」ソルベの眥を吊り上げた視線に気圧されて、ターキーはぐっと体を後ずさらせる。本当の恐怖というのは、夜の帳でも何でもない、目の前にいるシスターなのだとターキーは苦い顔をした。
「あなたたち子供は気楽でいいかもしれませんけどね、私たちがあなたたちのその行動にどれだけ頭を悩ませているのか、理解できますか?理解できないからこそ、こんなところにいて、私たちの言いつけを守ることなく、こんな場所でわけのわからない冒険ごっこみたいなことをしてたんでしょうね。バニラ、ソルト、ピール。あなたたちは私たちを拒絶している節がありましたね。特にバニラ、あなたは重症です。子どもは子供らしく、大人の言うことを聞いて、大人に守られていればいいのです、なのに、理屈をこねくり回して、自分で勝手に出て行って。私達がどれだけ心配したのかも、きっとあなたたちにはわからないでしょうね」
 ソルベは仏頂面をはりつけながら、何度も何度も三人の頭を小突く。それをただただ黙って受け入れて、三人は涙を流し、押し黙る。
「ピール、ソルト、あなたたちもです。バニラと友達になってあげているのはとてもいいことですし、輪を増やすことは悪いことではなかったとしても、だれが一緒になって悪いことをしろいいましたか?今日やったことは悪いことです。バニラ、自分が他よりも勉強をしているのなら、これがいいことか悪いことかの判別くらいつくでしょう。孤児院から出たいという思いが強く、こういうことをしてしまうのはわかりますが。他人を巻き込むことが、いいことか悪いことかの判別がついていないようでは、まだまだあの孤児院から抜け出せるなど、到底思わないことです。知識は持つに越したことはありませんが、自分の頭で考えて、初めて知識というのは動き出すのですよ。頭は万能の計算機。そのくらいのことを頭で考えることができなければ、あなたの思い描く世界なんて、夢のまた夢です」
 何度も何度も頭を小突き、叩く力を一定にしたまま、ソルベは少し震えだす。ターキーはその様子を遠巻きに見つめながら、苦笑した。彼女もまた、子供が好きで、この仕事を選んだのだ、叱るだけでない、彼女の本心が、ソルベの心が表れているようで、いつもの無愛想なソルベとはまた違った一面が垣間見れたようで、ターキーはおかしくなって、笑い声を少し漏らした。
「あなたたちがいなくなって、私達がどれだけ心配したのか、わからないでしょうね、探し回って、連絡を取り合って、不安に押しつぶされそうになって、それでもきっと大丈夫だと信じて、祈り縋っている姿が、あなたたちに想像できますか?そんな考えに至ることもないでしょうね。バニラ、ソルト、ピール、あなたたちは、赤の他人の私たちの心配など、ないに等しいと考えていますから。親を亡くし、孤児になったあなたたちに、私たちを親と呼べなどと言えるわけがありません。あくまで親代わり、他人という壁は聳えて、埋まることのない溝を作ります。私達がどれだけあなたたちに愛情を注いだとしても結局それは他人の愛情、偽りの模造品と言われてしまえばそこでおしまいです。私たちも重々承知していますし、そう思われてもしょうがないでしょう。ですが、私たちは、あなたたちに贈る愛情を、偽りだとは絶対に思わないでしょう。たとえ他人からどう思われても、私たちは孤児院の子供たちを、本当の息子のように、娘のように、接しているのです。その感情が届こうが届くまいが、私たちは関係ありません。息子や娘を放置してほうっておく親がどこにいますか?あなたたちが思っているほど、あなたたちは安い存在ではないのです。自分たちのことは自分たちが一番よくわかってるみたいな顔をして、勝手気ままに行動して、私たちがどれだけ心配しても素知らぬ顔をして――本当に、勝手に――」
 言葉が続く前に、ソルベは三人を抱きしめた。冷たい感触から頬に伝わって、それが水滴を作り、子供たちに零れ落ちる。
「無事でよかった。本当に、本当に無事で、本当に良かった――」
 それ以上言葉が続かなかった。子どもたちと一緒にむせび泣くソルベの顔を見て、心の靄が晴れるような思いだった。ターキーは無数の光点が散りばめられた空を見て、息をひとつ吐く。熱気を逃がす夜は短く、日が稜線を炙る時間になるのは、もうじきだった。二日間の捜索は終わり、常闇がゆっくりとはがされて息。朝の日差しが常緑樹を照らす。杣道や孤児院が遠巻きにはっきりと映るほど、明るい夜明けがバニラ達を照らしているのだった。


その8


「ねえねえ、バニラ、もう一回だけヒントを頂戴」
 孤児院のキバゴが、縋るような瞳でバニラの肩にのしかかる、それを鬱陶しそうに、しかしまんざらでもなさそうに、バニラは意地悪い笑みを浮かべた。
「ダメ、ちゃんと考えて、もう一回よく考えてから、それでもわからなかったら僕に聞きに来なよ。わからないからすぐに楽をしたがるのは、悪い癖なんだ」
 キバゴが不遜な扱いだ、と嘆く前に、ターキーの声が聞こえた。バニラはそれに応えるように大きく声をあげて、自分の机の上に置いてある勉強道具を片付ける。
「え?もういっちゃうの?」
「院長先生に屋根の修理をやってほしいって言われてるんだ、僕が進んでやるって言ったから、ソルトとピールと一緒に、屋根の修理。また後で戻ってくるから、その時までにない頭を捻って考えなよ」
 バニラの揶揄を含んだ言葉に、キバゴは顔を紅潮させて憤慨した。
「なんだよ、自分がわかってるからって、そんな風に他人が必死になってわかろうとするのをそうやって嘲笑うみたいにさ、わかりやすいヒントをくれてもいいじゃないか、バニラの&ruby(りんしょく){吝嗇};、馬鹿」
 零から想像して、導きだした答えを照らし合わせるのが勉強だ。少なくとも自分は吝嗇家でもなければ、人を虐めて楽しんでいるわけでもないと、バニラは自嘲気味にそう思った。長い木製の廊下を一歩一歩踏みしめながら、思う。一か月前は、自分がこんなことをしているはずなんてなかったのだと、昔の自分を思い起こして、自虐の笑みがこぼれた。
(僕は、取り戻すのにはまだまだ時間がかかりそうだな)
 まだまだ時間がかかるというのは、、果たしてその思いに対してのものか、まだ先にある自分の姿を思い描いたものなのか、バニラは思いながら、孤児院の外に出る。屋根の上を見上げると、ソルトとピールが笑いながら手を振っていた。一ヶ月間引っ張りだこにされていた分、妙にはなれていったような感覚があった。
「バニラ、早く上がっておいでよ」
 バニラは頷き、ぐ、と足に力をこめた。エモンガという種族は、少し飛びたいと思い足に力を込めることで、案外高く跳べるものだと、バニラが知ったのは、ずいぶん後のことだった。それまで木々を跨いで飛んでいた自分が、何とも原始的な動きをしているのだと思った。
「やっほー」
「久しぶり、いや、姿は見てるし、部屋も同じだけど、こうして一緒になるのはずいぶん久しぶりな気がしたから、うん、久しぶりだ」
 ピールはのんびりと手を振り、ソルトが感慨深く頷く。三者三様の思いを乗せて、屋根の雨漏りの修理に取り掛かる。
「また雨漏りするなんて、ずさんな修理してたんだなぁ」
「さあね、僕たち修理することなんてしなかったから、たぶん一か月前、ううん、ずっと前の僕たちなら、修理することに興味関心なんて湧かなかったし、他人に無頓着だったし」
「おいおい」ソルトは苦笑気味に釘を打ちつけた。「勝手に複数形にしないでくれよ、僕たちはちゃんとみんなと接してたぞ」いった後に、そう言えばと思い返す。自分は朝の早い時間にピールと二人で体を動かして、言いたい放題言っていた覚えがあり、あまり否定的な意見を言える身ではないと思い返すが、黙っておいた。
「そりゃひどいな、自分たちは違うって言って逃げようとするのは、精神的に卑怯な人の考えじゃないのか?」
 バニラは苦笑して、まがった釘を叩いて直す。新しい釘を使うよりも、やすりで磨いて、まがった釘を使った用が経済的にも出費かかさむことがないとターキーは言った。本当にそうなのか疑わしいことがあったが、この孤児院が経済的に厳しいのは周知の事実であったし、それを否定することも無かったので、恐らく間違ってはいないのだと思った。
「バニラちょっと遅れてきたみたいだけど、何かやってたの?」
「んー」バニラは直した釘をピールに渡しながら、頭をポリポリと掻いた。「勉強教えてた。わからないって言う子、結構多いからさ、僕が勉強できるから、教えてあげた方がいいのかなって」
「ふぅん……バニラ、変わったね」
「うん、僕もそう思う」
 昔の自分ならば、他人に対して機嫌を伺ったり、何かを教えるなどということはしなかっただろう。それは孤児院に来た時、そしてずっと貫いてきたものがあったからかもしれない。それは「抜け出す」という思いが最も大きかったと、自覚していた。
「バニラは、今でもここから「抜け出したい」って思ってるんだっけ?」
 おっとりと笑って、ピールはソルトが打ち付けたところの反対側の個所に釘を打ち込む。「抜け出したい」という言葉を聞いて、バニラはばつの悪そうな顔をした。それは何か、自分に対して引け目を感じる時や、自分の言葉に恥じ入るような、そんな顔をしていた。
「変わるって約束したんだ。ペパーと約束した。だから僕は変わりたかった。僕、孤児院にいた時は考えもしなかったんだ、他人の想いとか、相手がどう考えてるとか、興味無かったし、多分、これから先も興味なんてないんだろうなって思った。閉塞した場所から抜け出そうって思ってて、ソルトとピールに夢があることだって言われて、ちょっと優越感に浸ってたのかも」
 ソルトは小さく咳をした。笑い声を隠すような、妙な音が夕暮れの空に響く。夏が終わりを告げるような、寂しい秋の風がさっと吹き抜けて、バニラ達をゆるりと撫上げる。屋根の上から景色を一望すれば、一歩、ほんの一歩踏み出すだけで、都会へ行けるものだと、思っていた。都会に行き、胡散臭い道具やらを見て笑い。大道芸を堪能し、夜にはラムネをあおり、華やいだ町から離れ、自分の長屋へ帰る。この孤児院からはなれたらということを毎回のように考えては、儚い希望だと諦めていた。それゆえに、「抜け出したい」という思いは強くなる一方だった。あの時の、窓から見える都会へ続く道へ手を伸ばす行為、後ろ髪を引かれ、何かもどかしいものを感じていた時の自分は、すでにきれいさっぱりとなくなっていた。
「僕は、ここで自分がやれることをやって。胸を張って「出ていける」用になりたい。僕――ううん、僕だけじゃない、ソルトも、ピールも、ほかの子供たちだって、そうなれるし、きっとなるんだろうなって思う」
「へぇ、バニラらしくないね、いい意味で、だけれど」
「うん、僕もそう思う」苦笑しながら直した釘をソルトに渡して、天を仰ぐ。「なんでだろうね、前はこんなこと思わなかった。自分がこんなところにいるのが非業の運命だって、因果律を呪ったりもした。でも孤児院にいるポケモン達は自分と同じだって思って、自分だけがこういう目にあってるんじゃないのなら、自分は自分の力でこの束縛から抜け出して見せると思って、自分のためにすべてを注いだ。ソルトとピールが友達になってくれたとき、ほんとは嬉しかったけど、でもそれでも自分を貫いた。ここから「抜け出せる」なら、友達の付き合いも、好きな人も、安い損害だって思ってた。ここから出ることさえできれば、またいくらでも補修できるからね、そんなもの」
 ぎ、と釘が曲がる音がした。ソルトは何か忌み言葉を聞いたように瞳を細め、そして曲げてしまった釘を見て、しまったと顔に手を当て、溜息をついた。バニラはそんなソルトを見て、自分の発言が問題だ、ということに気がつかないわけがなかった。バニラは静かに息を吸い、勿論、と付け足しながら話を続けた。
「それはずっと心の中で思ってたことで、いまさら否定することはない。こういう言葉を聞くと、二人とも嫌な思いをするけど、今だからこういうことを言えるんだと思う。僕はそう思ってたんだってこと、そう、ペコーに会うまでは」
「自分の考えを改めることができたのは、あの子に会えたから?」ピールは興味深そうに、俯き影を落としたバニラの顔を伺うように覗き込む、見れば、ほとんど修理は終わっていて、ソルトも先ほどの言葉の続きを待つように、直した屋根の上に座り込み、バニラを見据えていた。「そうだね、僕はペパーにあって、変わろうって思った。自分の屁理屈やくだらない思考よりも大切なものを、思い出させてくれたから」
「大切なもの?」
「うん、大切なもの」
 何の関係もなく、ただ朝靄のように漠然としていた自分が忘れていた大切なもの、踏ん切りをつけることができずに、後ろ髪を引かれるように進退極る状態の自分、そんな自分が忘れていたものを、ペパーはあの不思議な出来事の中で思い出させてくれた。
 思えば不思議だった。最初に見たあのときは、二人は眠っていたからわからなかったのかもしれないが、三人一緒にいるときに、最初に見えたのは自分だけだった。そして屋敷を散策する時も、ペパーが見たものを最初に見たのは自分であったし、それに尾を引くように二人にも視界で認識したような節があった。自分がなぜ最初に見えたのか、その謎はいまだにわからないが、何となくなぜか、という思いは頭に浮かんでいた。
「大切なものっていうのは――?」
 ソルトがその言葉を待つように、そわそわと体を動かした。何かを待つ時は、興味があるものを見るように体を余所余所しく動かす、それは言葉を待つ時も同じであると思い、バニラは苦笑した。
「愛だよ」
 ピールとソルトは、呆けたようにバニラを見つめて、思い出したように吹きだした。バニラはその反応をする二人を訝しげな瞳でねめつけて、ぷく、と頬を膨らませた。
「なんだよ、まじめに話してるのに」
「まじめに話すことじゃないよそれ」
 バニラはむっつりとした顔をして、打ち直した釘を渡したが、もう既に修理が終わっているということを思い出して、ますます羞恥心が増幅した。行き場のない視線を右往左往させて、結局視線は自分の手の中に納まる。しかし、思い直したように、ゆっくりと視線を森へ続く杣道に移し、そこからなぞっていく。自分達が進んでいった道を見据えると、若干の下り坂に、カーブを描いた道なり、そして道の先々に立ちふさがる造林が視野を遮っているような獣道。その先へ行くと、妙にぽっかりと開けた場所がある。視力のいいバニラは、目を細めると、そこにはソルベが見える。薄水色の彼女の体は、何かを調査するようにあたりをきょろきょろと見渡している。こちらが見ていることに気がついたのか、にこりと笑い、右前肢を大きく上げて、左右に振る。視力のいい者同士、お互いに小さく、そして大きく手を振りながら、言葉ではない挨拶を交わす。
「どうしたんだい?」
「何か見えるの?」
「ソルベさんが見えた。何かしてるみたいだったよ、あの屋敷があった周辺で」
 そう、と言って、ピールは目を細めてみるが、彼女は視力があまり良くないのか、何かを見ようと頑張っている姿が見えたが、結局数回瞬いただけで、何かをとらえることはできなかったようで、首をしきりに捻っていた。
「見えないなぁ、視力いいね、バニラ」
「うん、視力はいいよ。最近になってからますます上昇したみたい、結構遠くまでなら見渡せる」
 へえ、とソルトも感嘆の声を上げた、見ることができない者同士、お互いに驚愕しあいながら、ソルベが何をしていたのかを問いかける。
「ソルベさん何してたの?」
「わからないけど、なんか調査してたみたい。あの辺り――僕たちがいなくなって、現れたところだし。話を聞いたときに、僕立ち二日間もいなくなってたらしいじゃない。調べるのは当然じゃないかな」
 ペパーと一緒に消えてしまったマヨヒガ。そこに残ったものは、不自然に危害を加えられた一本の木。シスターや院長先生に秘密にしながら、もう一度三人で屋敷があった場所に行ってみると、その不自然な木を見つけた。それは鞭で叩かれ、鋭い切れ味のもので横に薙がれた後、電撃を浴びたような状態で残っていた。それを見たときに、あの屋敷の出来事は、夢でも幻でも何でもないことを認識した。
「僕たちは、確かにあそこにいたんだなぁ」
「私たち、ちゃんと無事にここに戻ってくることができたんだね」
 ソルトとピールは、まるで夢のような出来事のように思い起こしながら、修理した屋根から少し離れた場所へと座り直す。バニラもそれに続いて、座り直したところで、もう一度息を吸い、言葉を吐き出す。
「さっきの話の続きだけどさ――」
「なんだよ、愛情物語ならもう間に合ってるよー」茶化すように言って笑うピールに、バニラは淀んだ瞳を向けて、口を窄める。「まじめに聞いてほしい」
 そう言われて、彼女の目を見た。淀んでいるのは、自分たちがまじめに取り合おうとしないから、だと思っているが、ピールはまじめに取り合えば、何かまた、あの屋敷のことを聞くようで、頭がそれを拒絶しているような気がした。おそらくソルトもそう思っているのかもしれない。話の腰を折るのは、理性が押しとどめているから、間違っていると思っても、どうしてもあの屋敷のことを思い起こすことはしたくない、そんな気がした。だが、バニラの目は淀んで、焦点をつかめなかったが、それでも有無を言わさないような意志を強く持っていた。
「……わかったよ、聞くよ」
「――僕はさ、あの時、あの屋敷で二人を置いてきぼりにして、ペパーの愛を探した。自分のことよりも、先に他人のことを考えるなんて僕自身がびっくりした。ただ単に似ているからって、そんな単純な行動原理でもなかったような気がした。そして、彼に対して、彼の父母が注いだ愛情を見つけたとき、僕は彼を救ったんじゃなくて、自分も何か大切なことを思いだしたんだ。それは――素直になること。それ以上に、他人の思いに気がつくことだったのかもしれない」
 ピールとソルトは黙りこくる。朝早い時間に、子供たちは自分達に役回りを押し付けていると愚痴を溢した自分達、一人で素振りをしていた時に、自分たち以外の孤児院の子供たち、シスター達は、役回りを押し付け、猿芝居を演じている。そして、自分達はその蚊帳の外にいるのだと、勝手に思い込んだあの日。何かを恥じ入るように、無意識に俯いて、両手で顔を覆う。少し体が震えたのは、きっと寂しい後ろ風が、背中を撫でたからだと思う。
「マヨヒガから抜け出して、ソルベさんや院長先生が本気で心配してくれて、ほんとに怒ってくれて、僕はすごく悲しい気持ちと、凄く嬉しい気持ちでいっぱいだったんだと思う。こんなにも心配してくれて、あんなにもつっけんどんだったのに――って」
 覆った視界から、温いものが溢れているのに気がついて、ピールは息をついた。なぜこんな気持ちになるのだろうと、それは、自分たちもバニラと同じように、以前はこの孤児院やシスター達、院長先生に対して、何か侮るような、馬鹿にするような感情を持っていたんだと、そう思った。
――あのおばさんたちはああやって何かと僕をくさすんだから
――孤児院ぐるみの猿芝居……だね
 心の中で思い出すのは、自分たちの会話。内側で思ったこと。それらがすべて思い起こされて、重いものが圧し掛かる感覚に見舞われた。深く溜息をついて、ゆっくりと目をこすり、眥を下げ、唾を飲み下す。ソルトの方へ目を向けると、同じように、自分の行いに対して後悔するような、戻って修正をしたいような、そんな顔をしていた。根は同じように考えているのだろうと思い、ますます、自分たちは似たり寄ったりの仲間たちだと思い、苦笑が漏れる。
「本当に心配してくれている人がいるんだって、本当に大事に思っててくれたんだって、窮屈で閉塞な世界を与えられて、自分たちは檻みたいな場所に閉じ込められているんだって、だれもそう思ってないのを見て、皆は飼いならされているんだって、勘違いした。僕は、ソルベさんの思ってた通りに――子供だったんだ」
「子供」
 子供と大人の境界線は、個々で違いがある。他人がいう境界線と、自分が思う境界線、二つの意味は似ているようで、まるで違う、自分でこうだと思うことと、他人の言葉で考える境目。バニラ達は後者だ。自分たちで大人と子供の境界線を思っていた。バニラは自分のことはもう立派な大人だと勝手に思い込んでいた。自分は知識を持ち、こんな閉塞した場所で不満を垂れて、それでも何もしない孤児院の子供たちとは違うと――シスター達の心配や、愛にも気がつかずに、自分のしたいことをして、好き勝手に振舞っていた自分自身。それが「特別」だと思い込んで、迷惑など顧みもしなかった自分。間違っていると気がついたのは、ペパーを、ペパーの残滓を見て、両親を見たときだった。愛されているとわかったペパーは、本当に未練を残すことなく消えていったのだと、その時、自分は愛されていたのに、その愛をはねのけて、窮屈な場所に閉じ込める鬱陶しい存在程度に認識していた自分。取り戻せるのかどうかは、自分次第だった。
「僕は自分のことを大人だって勘違いしてた。でも違うんだ。子どもなんだ。精一杯背伸びをして大人ぶってる、理屈ばかりの子供なんだって。屁理屈をこねる大人は咎められない、理屈をこねまわす子供は悪い子供だって言われる、でも、どっちも正しくないんだ。感情よりも理性をぶつけても、何も進展しない、生意気だって思われても仕方がない、だけど屁理屈をこねる大人もいけないんだって。一か月、院長先生を見てて、やっぱりそういうのもいけないんだって思えたから」
 一ヶ月間院長やシスター達の手伝いを見ていて、バニラは他人と関わっていることは、大人も子供も関係なく、自分のことを素直に伝えられなければいけないのだと、知った。
「すごいよね、笑っちゃうよね、こんな簡単なことに気がつかなかったんだもの。僕、子供でよかった。こんな大人だったら、僕はきっとだれにも相手にされなかったんだろうなって、思ったよ」
「たぶん、僕も相手にされなかったと思う」
「私も、きっと相手にされないよ」
 三者三様、同じような思いを口にする。バニラの言葉を聞きたくなかったのは、恐らく自分たちが無意識に、そう思いたくないという気持ちが上澄みに残っていたのかもしれない。しかし、そんな思いは今は綺麗に消えていた。
「やっぱり僕たち、似た者同士だから友達になれたのかな?」
「違いないかもね」苦笑して、屋根から見える景色を、三人で同じ目線に合わせた。屋敷の残滓を追い、今までのことをありありと思いなおす。
「そう言えばさ、あの洋館の入り口の門扉、籠目紋様だったよね」
 ソルトが思い出したようにぽつりと、何気ない言葉を口にした。籠目紋様という不思議な言葉を聞いて、バニラとピールは顔を合わせて、首を傾げた。
「魔を払う紋様だよ。六芒星って知ってる?」
「ロクボウセイ?」バニラが首を傾げる。ピールはふむ、と思案顔になり、やがて何かを思い出したように、両手をポン、と叩いた。「ダビデの星?」
「異国の言葉ではそういうらしいね、ほら、ペパーが入れないって言ってたあの入口。あれはさ、門扉を閉じている時は籠目紋様になるような装飾が施されてたなぁって」
 そう言えば、とバニラは思い出した。門扉が通れないと言ったペパーは、あの時自分は家に入れないと言った。それはあの門扉が、魔を払う紋様を装飾した、退魔の門になっていたからなのか、と思った。自分たちは、生きている存在、そしてペパーは死んでしまった存在。だから退魔の文様を嫌い、家に入れなかったのだろう。
「……なんで退魔のダビデを紋様にしたんだろうね」
「――もしかしたら、それって両親の思いやりじゃないのかな」
 少し思案して、一つ思い起こすようにバニラが言葉を口にした。幽霊になってしまった彼の頭の中に強く焼き付いて、思いが形になったあのマヨヒガがその当時のものをそのまま投影したものなら、そう思える気がすると、バニラはひとりごちた。
「思いやり?」
「魔を払うことが、思いやりなのかな?」
 ほとんど独り言のような言葉だったが、二人とも耳に拾っていた。バニラは興味深げにその言葉の続きを聞きたがるような顔をした二人を見て、あくまで自分の思い込みだ、とだけ告げて、話を続けた。
「ペパーは自分の記憶がなくなって、自分が幽霊だってことに気がつかなかった。でも家のこと、両親ことだけは強く焼き付いた。それはその家に思い出があって、その家の中にいる両親に、愛情を受けて育てられたからこそ、その思いだけは忘れることがなかった。だけど、自分は外にいた。どうしてかわからずに、思い出の残る家に入ろうとしても、退魔の紋様が邪魔をして入れない、彼は魔術的なものに疎かったから、どうして入れないのかわからなかったんだ。おそらくあの洋館に裏口とか、そういうものがあったとしても同じように魔除けの紋様とかがつけられていたんだと思う。それはおそらく、両親が自分たちの行為をしてしまったときに、自分たちを封じ込めるため、そして、ペパーを家に近づけさせないために、あの紋様を急遽に作ったのかもしれない。いつか出ていく息子が、絶対に戻ってこないように、自分達の悪を分かっていながら、自分達ではもう止められないところまで来てしまったから、だから最後の頼みの綱として、退魔の文様を付けたんだと思う。愛する息子を――自分達という魔物から遠ざけるために」
「……だけど、結局は自分達の息子だと気がつかずに、手をかけてしまった」
「だから、もしペパーの強い思いが残って、また家を作り出してしまった時も、絶対に入らないようにかぁ……やっぱりペパーは、愛されてたんだね」
「だから、これは僕の思い込みだって。でも、もしほんとなら、本当に息子のことが好きなんだって思えるじゃない。死後の残滓からも遠ざけて守ろうとするなんて、愛されている証拠だって、思う」
 言ってから、開けた荒涼の大地を見据える、いつの間にかターキーがソルベの隣にいて、何かを話しこんでいるように見えたが、さすがに何を話しているかを聞こえるほど、耳は良くなかった。二人が立っている場所は、自分達が入り込んだ、不思議な不思議な家。おそらく、自分達にしか見えなかったのだろう。そして、その体質が最も近しいのが、バニラだっただけの話だ。あの洋館にあったものは、両親の息子に対する強い愛、そして自分達のしたことに対する、懺悔、後悔、そして息子を手にかけてしまったという悲しみ。さまざまなものが混ざり合い、あの洋館を、強い強い思いで残したのだろう。
「あのマヨヒガにあったのは、辛い想いと、愛する記憶だったんだね」
「辛い想いは確かに思い起こしたくないことだけど、間違えたことに対する後悔、懺悔、あらゆる思いを、愛した息子から受けて、父母は人に戻ることができた」
「家族の絆と、息子と両親の愛、やっぱり、一番色濃く残ったのは、それなんだね」
 それを見ることができなかったのが、ちょっと残念だ、と口溢して、何かを払拭したように、ピールはかぶりを振った。
「私――この孤児院が好き。窮屈でも、退屈でも、そんなの私たちで変えていけばいいって、そう思えなかったのが、知識の無さだよね」
「僕も好きだよ。他人だったとしても、隔たりがあっても、そんな他人に対して、本当の両親みたいに接してくれる、自分が今まで思ってたことが、凄く矮小な気持ちなんだって、わかった」
 ソルトとピールは、立ち上がり、大きく伸びをした。バニラは二人の言葉を聞いて、何かを吹っ切ったように、清々しい顔をした。
「僕も、大好きだ。シスターがいて、院長先生がいて、ソルトがいて、ピールがいて、孤児院の皆がいて、本当にいい場所なんだって、今なら思える。経済的に苦しくても、他人同士のくだらない猿芝居だと思われても、ここが僕たちの「家」なんだって。――僕は、やっぱり、立派に自立して「出ていける」用になりたい」
「うん、私もそうなりたいな」
「僕も、そうなれるように、努力したい」
 でも、とバニラはもう一度、最後に一瞬だけ、マヨヒガのあった場所に目を移す。数瞬の瞬きの後に、ゆっくりと視線を戻して、滑るように屋根から飛び降りた。ソルトとピールもそれに続く。
(僕は待ってる。君とまた会えることを)
 今生の別れだと思った。絶対に、もう会うことはないと思っていた。理性でそう思っていても、心のどこかで、また会えると思いたくて、最後の最後、本当に消えてなくなる瞬間まで、また会いたい、と言ったあの言葉に、偽りはなかった。彼女は、もう一度彼に会いたいと、心から思う。こんなにも変われたのは、君のおかげだと、君が教えてくれたんだと、あって、もう一度伝えるために。
 その思いを心のうちにしまい込み、シスター達の声が聞こえる中、宵が深くなる前に家路につこうと思った。闇の中には悪鬼が跋扈する。しかしけして、悪鬼だけではないのかもしれないと、彼女は思い、微笑んだ。


 周辺を捜索し、昔の出来事を村の図書館で調べて、もう一度現場を散策する。もう終わったことだというのに、妙な引っ掛かりを感じてしまい、ソルベにも煩わせるような行為をさせてしまったことを、何とも申し訳ない気分であたりを見回す。もう宵が深くなりつつあるのを確認しているが、まだ何か、調べることがありそうだった。それは頭で考えているわけではない、直感の類だった。
「院長先生。もう終わりにしませんか」ソルベが心配そうに声をかける。それがわかっていても、ターキーはもう少しだけ、と首を横に振る。「調べたことは確かに不気味でしたが、数百年前の出来事です、そんな昔の異形が、今この場所にあるなんて考えるのは、とてもじゃないですが正気の沙汰とは思えません」
 彼女の言い分もわかっているが、それでも、とターキーは目を細める。実際に、子供たちはいなくなっているのだ。それに気がつかなかったのも、その正気の沙汰とは思えない何かの超常現象によって引き起こされたものだとしたら、辻褄は合う。
「院長先生、少し休みませんと、お体に触ります。バニラ達が、悲しみますよ」
「……そうだな」
 ぐ、と縋るように足に食いついて、憂えた瞳を向けられて、まるで何かに憑かれたかのような動きをぴた、と止める。近くにあった切り株に腰をおろして、息をつくと、摩訶不思議な世界から一気に夏の夜の底冷えするような大地に放り出されたような感覚に戻った。
「ソルベちゃん、話をまとめよう」
「もう何度もまとめましたが、それでもまだまとめますか?」
「頼む」
 半ばあきれたような溜息を洩らして、わかりましたとソルベはたっぷりと黒い文字で埋め尽くされた紙の束を取り出した。ゆっくりと文字をなぞりながら、何度も何度も、先ほどから聞かれた言葉を反芻するように、ターキーに対して話しだす。
「この場所には、数百年前に一つの洋館が立っていました。おそらく宿泊施設として機能していたのだと、昔の文献には書いてありましたね。そして、その宿には不穏な噂が漂っていました。こんな辺鄙な場所に造られたにも関わらず、なぜか商売は繁盛し、とても豪勢な宿にどんどん変わっていったという不思議な現象。それは果たして、正規の儲けで改築したものなのか、それとも――強盗や詐欺まがいの方法で改築したものなのか」
 何度も聞いた言葉だったが、恐らく後者の方が正しいのだろうとターキーは思う。闇に跋扈する者は、何かの闇を抱えるものだと、直感がそう言っていた。
「さて、なぜそのような不当な噂が流れだしたのか、それは宿に泊まったものの家族からの声でした、息子が帰ってこない、娘が帰ってこない、その宿に文を送ってみても、ご家族は宿を出た、という答えしか返ってこなかったからですね。これはおかしいと思い始め、そして調査に踏み出そうと、警が動き出した時――その洋館は、突然燃えて、三人の遺体が見つかったそうです。シャンデラと、ランクルスと、ランプラー。宿屋の主人とその息子だという結果が出たときに、火災が起きたのは、無理心中だったのかもしれないということでカタがつきました。しかし警は納得しませんでした。不穏な噂が漂い始めたときに、急に燃えてなくなった洋館、調べて見れば何かが見つかる、そうに違いないと思いましたが、お上は終わった事だと、そしてもう掘り起こすことでは無いと。そういい伏せられて、警はそれ以上何かを物申すこともなく、この不気味な事件は一家の無理心中として葬られました。このあたりで起こった大きな事件は、これだけだったので、恐らくこれが一番今回の失踪に関わっている、でしたよね」
「ああ」
「本当にそうなんですかね……」
「なら君はどう説明するんだ?あの不思議な家事は、あの謎の木の裂傷は、自然現象と言い切るには、あまりにも不自然だと思わないか?」
「確かに……ですが、そんな昔の出来事が子供たちを引いたという話の方が、よほど信じられませんよ」
 ソルベは何度もそれを説明したが、ターキーは頑として思考を曲げようとはしなかった。意固地になってこんなことをしても、何の意味もないと思い、ソルベはどう説得しようかと思案に暮れていた。
(……だけれど)ソルベは思案顔をするターキーから視線をそらして、頭を回転させる。不審な宿屋の事件、子供たちの失踪。確かに何かがおかしいということは、ソルベ自身も気が付いていた。不審な炎も、バニラ達の失踪も、まるで一つの出来事を関連付けるかのような順序で起こっていた。そこまで考えて、ソルベは漆黒の虚空を見やる。(――マヨヒガ)遠くから古きに伝わる、不思議な伝承を思い起こす。家に残った思いが、家なき後も家を造る、そこに迷い込むものは、その家の思いに強く引かれるものだ。それはまるで、闇の中で跋扈するものが手招きをするように。(バニラ達は……この昔の出来事に引かれたということ)そう考えると妙に納得できるような気がした。謎の客の失踪や、なぜか繁盛した屋敷。おそらく後ろ暗い思いが積み重なり、宿は燃え尽きた後も、その場に残滓を残し、淀んだものを留まらせていたのかもしれない。そして、その積もったものが一つの家を作り、バニラ達はそこに招き入れられた。そう、「客」として――
 そこまで考えて、ぞっと背筋に寒いものが走る。あまりにも非科学的で、情緒が欠落したような考え方だったが、ターキーや自分が納得する考え方は、そのくらいしか浮かばなかった。
 そう考えると、バニラ達が戻ってこれたのは、奇跡なのかもしれない。マヨヒガに迷い込んだものは、多くがその欲望に取りつかれ、そして命を散らす。不幸なものが多いから、伝承になる。バニラ達が出ることができたのは、彼女達の思いが、マヨヒガの留まった淀みを払ったのだろうと、ソルベは推測した。
 しかし、こんな場所に来てしまったのは、彼女たちの責任でもあるが、自分達にも責任がないとは言い切れないと、ソルベは少し唇を噛みしめた。
「院長先生は、マヨヒガ――というものをご存じですか?」
「マヨヒガ?……ああ、知っているとも、昔の伝承に伝わる、無人の屋敷のことだろう?」
 その通りです。とソルベは告げると、自分の考えを話した。この屋敷の事件は後ろ暗いものが淀んで、この場所に家を作り出した。そして、そこにバニラ達は引かれていったという考え。そして、彼女たちはそこに迷い込んだからこそ、自分達に姿が見えることなく、その淀みの中を彷徨い、そして――抜け出せたのだということ。
「おそらくですが、私たちが気がつかなかったのは、その淀みが、彼女たちの存在を隠していたからなんだと思います」
「……確かに、それだと事件との関連性もある。だが、なぜバニラ達だったんだ」
「それは、私たちにも非があるのかもしれません」
 子供たちを危険な場所から遠ざけることは、一歩間違えれば安全な場所に閉じ込めるということになる、夜は危険だ。何が跋扈しているかわからない。その危険を孕んだ場所から子供たちを遠ざけること、そう意識して、守るという思いとともに、いろいろな行動を制限してきた。しかし、それはもしかしたら、子供たちにとって嫌な思いが鬱積するだけだったのかもしれないと、ソルベは思いなおす。
 事実、バニラ達はいなくなった。これは彼女達が言いつけを守らなかったということにも非があるかもしれないが、自分達の言葉が、行動が、知らず知らずのうちに嫌な思いを鬱積させてしまったのではないかと。
「俺達にも非があると……」
「子供は奔放です」ソルベは改めるように言葉を呟く。「自由で、白にも黒にも染まることができます。私たちは、そんな自由な子供たちから、知らず知らずのうちに、自由を奪っていったのかもしれません」
「しかし、危険から遠ざけるために――」
「そうです、危険から遠ざけるという言葉、間違ってはいませんが、私たちがついて、いろいろなものを見聞きさせることや、さまざまなものに触れさせて完成を刺激したりすれば、今回のような出来事は起こらなかったのかもしれません」
 ターキーは言葉に詰まった。危険から遠ざけること、そして守ること、大切なことだし、大好きな子供たちをそんな目にあわせられないという思い。しかし、実際はどうだろうか、バニラ達は失踪し、見つかったが、それは自分達が閉じ込めてきたせいで、彼女たちの心の中にため込んだものが爆発したのかもしれない。それに気がつくことができずに、遠く離れて行ってしまう子供たちの姿を思い、首を横に振る。
「危険から守ることと、閉じ込めることは、一歩違えば、隣り合わせなのかも知れないな」
「はい、私もそう思います」
 ソルベはいい、無言で両の前肢を合わせ、祈るように大地に膝をつく。まだ、もしこの場に淀みが残っているのなら、すべてが消えて、成仏するように。思い残しがなく、逝って欲しいと祈り縋る。ターキーも無言で、両手を合わせ、しばらく荒涼とした大地を見つめ、祈りをささげる。何のための黙祷かわからないが、こうした方がいい様な気がした。
「もう行きましょう。終わったことです。これから変えていければ、いいのですし」
「ああ、そうだな」
 結局のところ、彼女達が失踪した経緯はわからなかった、調べて見て、そういう憶測だと思うしかなかったが、この場に何かしらの淀みが残っているのならば、この場所に祈りを捧げ、子供たちを近付けないようにすることしか、今のターキーたちにはできることがそれくらいしかなかった。
 しばらくその場にとどまり、あたりを見渡す。宵が深くなる前に孤児院に戻ろうと踵を返した時、茂みが揺れた。揺れた、と思っただけかも知れない。もしかしたら、風で揺れたのかもしれないと思ったが、もう一度、揺れた。不審に思い、視線を移動させると、造林の間に生える下ばえの雑草が、規則的に動いている。そこから何かが草の根をかき分けて、この場所に出ようとしている印象を持ち、ターキーは静かに身構える。
「院長先生」
「大丈夫だ、後ろに隠れて」
 ターキーはゆっくりと、しかし確実に歩を進める。宵が深くなるころに現れるものは大概が何か恐ろしいものだ。瓦斯灯の明かりも届かないこの場所では夜闇に紛れて何をしたとしても、それを見る者は少ない。だからこそ、夜は恐ろしい。
「何者だ」ターキーの問いかけに、びくり、と体を震わせたのか、茂みが大きく揺れた。姿が見えないが、何やら不審な明かりのようなものが見えた。滴るような紫色、暗がりの中で、ぼうっと湧き上がるそれは、とてもよく映えていた。「……」茂みの向こうの主は、沈黙を保っていたが、やがて茂みから、すぅ、と姿を現した。す、と金色の双眸が細められる。歳の頃はわからない。あけどないほど若い様でもあり、意外に年嵩であるような気もした。その姿は、まるで蝋燭のそれであり、何か不思議なものを見つめる瞳が、ターキーとソルベを交互に見やる。煌々とした明かりは、頭の天辺から、唆すように燃えて揺れる。
「君は――何者だ」
「……僕、は、だぁれ?」
 院長先生、と声を出したのはソルベだった。こんな時間に夜歩きをするのは、よほどの理由でもなければあまり見ない光景だった。それ以前に、ブチブチと切れるように放った蝋燭の言葉が、記憶が欠如してしまったのだろうかと思わせるには十分すぎる言葉だった。
「先生、ヒトモシです」
「ヒトモシ?」
「蝋燭の姿をしたポケモンです、霊や思いのある場所によく集まる、ゴーストタイプのポケモンですね」
 ターキーは唾を飲み込んだ。淀みが残っているかもしれない場所に現れたポケモンとしては、あまりにも背筋が戦慄するような情報だった。
「ここは、どこ?お父さん、お母さん?僕を――ペパーを置いて、行かないで」
 こちらの様子に気が付いているのか、それとも気が付いていないのか、一人ごちるように呟き、金色の瞳から温いものが溢れて、周りを見渡す。ターキーとソルベは、お互いに顔を見合せて、警戒を少しだけ解いた。
「この――子供?……いや、子供だな」
「記憶をなくした、孤児、ですかね」
 お互いに思うところを吐露し、再度ペパーとつぶやいたヒトモシを見る。自分の名前や、両親のことは覚えているのだろうか、それでも、そこにいないものを掴むように、両親のことを口に出し、自分の手を無いものにのばす姿は、糸が切れた傀儡のようにぽっかりとして――虚無が巣食っていた。
「院長先生、どうします?」
「決まっているさ」
 ターキーはわかっているとばかりに頷いて、ペパーをやさしく抱き上げた。


おわりがき


 昨日と今日で非常に騒がしいのは、何か変化が起きているのだと、バニラは興味深げに子供たちの噂話を耳に拾う。
「どうしたの?」
「んー、噂話が聞こえるからさ」
 ピールの言葉に、バニラはくすりと微笑む。せせこましく動き回る子供たちが大量に集められて、ひらけたとこから日差しに炙られ、熱がこもって汗が自然にぬめりを帯びて、流れだす。何か大事なことがあると、ターキーは孤児院の外に子供たちを集める。夏の終わり、秋の始まりだというのに日差しは土を炙り、人を炙り、焼けるような思いを積もらせる。
「しかし暑いね、サウナみたい」
「いいじゃん、都会じゃお金払ってそういうところに行くんだって。お金もかからずに汗かけるよ」
「ばぁか」手で顔を仰ぎながら、バニラは苦笑する。「あっちじゃ生存競争厳しいんじゃない?こんな泥臭いサウナにお金掛けられないってば」
 うふふ、とピールが軽くバニラの頭を小突いた。そんな仕草を鬱陶しそうに払いながら、バニラはきょろきょろとあたりを見渡す。
「それより、聞いた?」
「うん?」バニラは首を傾げる。後ろから新しい声が割って入る。ソルトは手で汗を拭い、指先で顔に影を作る。「なんかさ、新しい孤児の子供がここに来たらしいよ。皆で歓迎しようって、そういうことじゃないかな」
「へェ」
 バニラは興味深げに瞳を細めた。いったいどんなポケモンだろうか、小さいのか、大きいのか、かわいいのか、かっこいいのか、妙な想像を膨らませながら、ソルトの言葉の続きを待った。
「よくわからないけど、噂話の種とか、ニュースの鮮度は高いからね」
「何言ってんだよ、そんなのありがたがって話す人いないでしょ。せいぜい一週間くらい噂になって、お仕舞いとかじゃない?」
 確かにと笑って、山の稜線を炙る太陽の熱気を影を作ったソルトの後ろに回りながら、ふう、と一息ついた。体中が汗みずくになっている自分を見て、おおよそ女性の立ち振る舞いのそれとは違うものだと笑う。女性は静謐で敬虔だなどと言われているが、もちろんそれは古臭い一般論にすぎない。最近の女性はよく笑ったり泣いたり、男性と何ら変わらないくらいぶっきらぼうな性格の人もいる。そのあたりも個性だと思いつつ、院長先生が表れるのを待って、顔を扇ぐ手の動きを若干速めた。
「おっそいなぁ、院長先生」
「待つこともまた、話題が増えることの楽しみ、なんて思えないかな?」
「こんなくそ暑い中つっ立たされたら、五分もたたないうちに日射病で病院に搬送だ」
 ピールは苦笑して、口から軽めの水をバニラに向けて発射した。突然の行動に避ける間もなく、バニラは水鉄砲の直撃を浴びて、体中が水浸しになった。
「気分はどう」あっけらかんと聞いてくるピールに、むっつりとした表情を張り付けたバニラは水でぬめった体を翻して、ばつの悪そうな顔をした。「微妙」
「おや、涼しくなりたそうな顔をしてたし、こんなふうに水をかけられても笑っていられるのが大人の余裕、ってやつじゃない?」
「いきなり水かけられて笑っていられるやつがいたら、そりゃ頭おかしい人だ。今度やったら殴るからね」
「冗談だよ。でも、ちょっとすっきりしたでしょ」
 多少はすっきりしたが、何やらねっとりとしたものが張り付いて、とれないような気分も頭に張り付く。微妙なもどかしさの中、大きめのタオルをピールが抛って渡した。
「ごめんね、水をいきなりかけたことは謝るよ。でも暑いって思ってたら、変化が楽しめないかなって思ってつい」
 そういうピールは、両手を合わせてへこへこと頭を何度も下げた。そんな風に謝る彼女が、なんだかおかしく見えた。頭の先から足の指の間まで、タオルを使って付着した水をふきとる。ずいぶんと体温低下したところで、ターキーが子供たちの前にやってきた。
「えー、孤児院のみんな。今日はお知らせがあります」
 ターキーは一呼吸おいて、ゆっくりと子供たちを見渡した。抜けている子供はいないか、それを調べるのが、癖になってしまった。仕方ないと言えば仕方ないが、半永久的に自分勝手な行動はしない方がいいと、バニラ達は心の中で反省した。俯いてあまり顔を上げないようにしているが、声はしっかりと聞こえる。あまり顔を合わせたくないのは、ほとんど自分達が関わって苦労を重ねたということに対しての、謝罪と申し訳ない気持ちの表れなのかもしれないと自問した。
「今日は皆に、新しい仲間ができます」
 来た。という感覚がした。新しい変化が、この孤児院にやってくる、それが何なのか、誰なのか、自分達が孤児院にやってきたことを思い出し、あの時の期待をゆっくりと膨らませる。体中が歓喜に震え、新しい仲間を一目見んと、全員が顔をやってくる仲間の方へと向ける中、バニラはソルトの肩によじ登る。
「莫迦、重い、視界が狭まるじゃないか」
「いいじゃないか見れないんだから、ちょっとはてつだ――って……」
 バニラは硬直した。何なんだと思いながら、呆けたように口をあけて、何か信じられないものを見たようなバニラの目線の先に顔を向けると――体が強張った。何か信じられないものを見たように、視界が細めれられ、瞬く。他の子供たちは新しい仲間を歓迎するように、にこやかに笑って声を上げる。ピールは不審に思い、二人の見る先に視線を移し――固まった。
「この子は自分の名前と両親のこと以外覚えていないそうだ」揺らめく紫は、昼間でもよく燃え盛り、彼と出会った夏の宵――その情景をありありと思い起こさせる。彼は最初、あの窓辺で悲しげな瞳を燻らせていた。「記憶喪失ということも相まって、まだまだ見たことのないものや、聞いたことのないものも多くあるだろう」彼と出会い、そして成り行きで冒険のような散策が始まった。最初のうちは好奇心と自分が外に出たということに対して、興奮していたような節があった。しかし、だんだんと真実を知るにつれて、自分の思いの愚かさを知った。それを教えてくれたのも、あの夏の出来事だった。「そういうことも含めて、皆、仲良くやってあげて欲しい」すべてを知って、彼の本当の思いを伝えて、もう一度会う約束をした。他人の空似とは思えないほどの、彼によく似たそのヒトモシは、少し恥ずかしそうに頬を紅潮させて、おずおずと頭を下げた。
「さ、自己紹介をしてくれ」
「あ、あの、はじめまして。僕――」
 気がついたら肩に乗っていた重みが消えたと思い、ソルトはバニラが子供たちの塊をかき分けて、ターキーと、その横にいるヒトモシの方へ向かっている、なんだと思う不審げな子供たちの声。院長先生が目を細めてバニラの方を見ている。しかし、彼女はそんな視線や不審な言葉など気にも留めずに、彼女が再会を約束した。彼の双眸を視界に捉える、驚いたような瞳が見開かれ、揺らめいた炎は少しだけ委縮した。
「ペパー」
 バニラはペパーに抱きついて、強く強く抱きしめた。あの屋敷の重みが、また腕の中に戻ってきた、再開ができたということに対して、涙が溢れた。
「あ、あの……どうして、僕の名前」
「よかった。また君と会えて、本当に良かった……」
 ただただ涙を流す彼女を見た孤児院の子供たちは、不思議なものを見たようにきょとんとした。ターキーも普段からは見られないような彼女の姿を見て、眥を吊り下げた。ソルトとペパーは、彼女の約束は無意味ではなかったんだと思い、苦笑交じりに拍手を送った。それはまるで、友達というよりも、恋人の再会のように見えた。
「君とまた会いたくて、君のおかげで変わることができて――僕は、僕はっ」
 最後は言葉にならなかった。こんなにも変わった自分を見せたかったのに、ただ泣き虫になった自分を見せてしまった。それでもあふれるものは止まらなかった。抱きついて、泣きつかれて、ペパーは困惑したように、それでもどこか何かを懐かしむようにはにかんだ。
「……よくわかりませんけど、僕も、また会えて嬉しいです。――そんな気がします」


 夕暮れの空を、屋根の上から見上げる。この日を最後に、ラムネはまた来年の夏まで姿を消すだろう。そう考えると一気に飲んでしまうのがもったいない気がして、四人はちびちびとラムネを煽る、すっきりするような炭酸が弾けて、口の中を潤し、今までのことを思い出させるような刺激を感じた。
「どう、一週間がたったけど、もう慣れたかな?」
「はい」ペパーはラムネを煽りながら、嬉しそうに微笑む。「わからないこともありましたけど、バニラさんたちが教えてくれたおかげです」
「バニラでいいよ」彼女は微笑むと、半分ほど飲んでしまったラムネを、遠くの大地に透かして、そこから覗き込む。あそこにあったものが、今の自分を作ってくれたのだと、不思議な気分になった。
「バニラさん」
「バニラでいいってば」
 そんなやり取りに、ピールとソルトがお互いに笑い合う。「いうこと聞いておいた方がいいよ。バニラお姉さんは怖いからね」それにつられるように、ピールも口にする。「まぁ、そこまで気にすることもないと思うけど、敬語を使うのが失礼だって時もあるから、ね」
 二人の言葉を聞いて、少しだけ顔を顰め、バニラはつん、とそっぽを向いてしまった。黄昏が山の稜線を照らし、夕暮れ時の物憂い雰囲気を一気に心に押し入れるような気分だった。
「ええと、じゃあ、バニラ。バニラはどうして、この屋根に上ると――同じ場所を見てるの?」
 それは純粋な興味の質問に聞こえたし、何やら探りいれるような言葉にも聞こえた。なんでだろうね、と軽い返しをして、夕焼けに赤く照らされた荒涼とした大地を見下ろす。そこにはかつて、自分がいて、ソルトがいて、ピールがいて――ペパーがいた。二日間だけの不思議な冒険だったが、その二日間で、自分は、自分達は変わることができた。変わろうと思えた。変わるきっかけをくれた人に会うことができた。今までのことを走馬灯のように思い出し。目尻から少しだけ、涙が溢れた。
「意地悪しないで、教えてよ」
「そんなに知りたい?」
「うん」すっかり中身が空になったラムネの瓶を振り回して、ペパーは嬉しそうにバニラの膝の上に座った。中に入ったラムネ玉がからからと寂しい音を立てて、夏が終わることを告げる。鳥ポケモン達の喧騒。蟲ポケモン達のさざめき。すべてを思い起こさせる音が、ラムネの瓶から奏でられる。
「そうだね、僕は、いや、僕たちは、あそこで不思議な出来事に出会ったんだ」
「ピールさんと、ソルトさんも?」
「ピールでいいですよ」
「ソルトでいいかなー」
 バニラの真似をするような二人を見て、ペパーはごめんなさい、とはにかんで、わかりました。と笑う。
「ピールも、ソルトも、バニラと同じことがあったの?」
「うん、そうだよ」ピールはそれを懐かしむように、残ったラムネを全てあおると、一息ついた。後ろから子供たちとシスター達の喧騒が聞こえてくる。恐らく孤児院で行われる祭りの、山車を作っているのだろう、持ちやすいように、ここは強く。そんな声が聞こえて、くすりと微笑んだ。「私たちも、バニラと同じ場所にいて、同じような思いを体験したの。ちょっと悲しくて、すっごく感動した、そんな体験だよ」
「ねえ、そのお話、聞かせてくれない?」
「聞きたいの?」
 ソルトが意地の悪い顔をした。
「聞きたい聞きたい。僕、もっともっといろんなことを知りたいから」
 バニラは苦笑した。彼とは似ても似つかないほど明るく、奔放で無邪気な、好奇心が旺盛の――彼の生まれ変わり。
 似ても似つかないが、雰囲気や顔つき、まるでその顔を切り取って張り付けたような、その姿は、他人というにはあまりにも似すぎていて、記憶をなくした本人ではないかと疑ってしまう。
(でも、もういいんだ、そんなこと考えなくても、変わった僕は――これからペパーにいっぱい、見てもらえるんだから)
「うん、わかった、じゃあ僕とピール、ソルトが順番に話すから、ちゃんと聞いててね、時間が遅くなったら、続きは明日。それでいい?」
「うん」
「じゃあ、まず僕が話そうかな。あれはね……一か月前の、夜の出来事だったかな」


 その家は、地底の泥の中から浮上したような印象を受けた。
 孤児院からはるかに離れた辺境、下り坂を降りた荒涼とした大地に残っていた。栄えた宿の残滓。侵食するものと堆積するものとの鬩ぎあいの中で緩やかに成長を続けてきた感覚がした。その家の中――水際、中の中枢に張り巡らされた、淀んだ思いと、策謀、そして惨劇。自然の摂理を裏切るように、家は爆発的な増長を始めた。
 家の中に渦巻いた。それは欲望。そして、悲しみ。陸地が肥大していく以上の速度で、その家の思いは泥が積み重なるように増長していった。それを止めるすべはなく、そしてそれがすべて積み重なった時――あっさりと崩れ落ちた。
 それはあらゆる後悔、懺悔、そして絶望。様々なものが綯い交ぜになり、堰を切ったように燃え上がる。ゆるゆると燃える様は、人の心の現れ。それはまるで泥の干潟が、果たして陸であるのか、海であるのか判然としない様に似ていた。欲望と悲しみの趨勢が確定せず、積み上がったものは、一つの終焉を迎えて跡形もなく消え去る運命だったのかもしれない。その終焉の中、最後に生まれたものは、限りのない愛だった。ある者が限りなく与えた、ある者が尽きることなく与えた。その渦中に、彼らはいた。
 その姿を見た時に、自分たちの姿を重ね合わせた。愛されていたことに気がつかずに、無意味な時間を過ごした自分達は、謳歌していたと錯覚し、恥言ったような気分になる。変わろうと思えるだろう方だろうか、変わることができただろうか。
――否、変化とは常にあらわれるもの。彼女たちは、その変化に気がつかなかっただけなのだ。そして、今はその変化を、しっかりと噛みしめて生きている。それを教えたのは、摩訶不思議な家――マヨヒガ。
 彼女達は、自分を変えてくれたきっかけを、意気揚々と話す。ある夏の出来事を――一つの宵の物語を――
――愛する家族の、悲しい物語を。
――自分達を変えてくれた。不思議な家の物語を。

終幕


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